古代豪族
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はじめに
 つい先日(2/21/05)テレビ、新聞などで大きく報じられた「5世紀の大豪族・葛城氏の王宮か、奈良で巨大建物跡発見」(極楽寺ヒビキ遺跡)のニュースは,
我々古代史ファンにとっては、画期的な発見だと受け止めた。
朝日新聞もトップ記事として扱った。同時に発掘考古学の威力を見せつけたものであった。
大豪族「葛城氏」は,古事記、日本書紀(記紀)にも詳しく事績が記されているが、戦後の進歩的?歴史学者らの記紀批判の対象にもされ、その実存性さえもが疑問視されてきた氏族の一つである。
謎の氏族扱いを受けてきた訳である。その系図もかなり詳しいものが記紀には記載されており、8代孝元天皇から21代雄略天皇までに関与してくるものである。
記紀によれば1神武天皇ー2綏靖天皇ー3安寧天皇ー4懿徳天皇ー5孝昭天皇ー6孝安天皇ー7孝霊天皇ー8孝元天皇ー9開化天皇ー10崇神天皇ーーー15応神天皇ー16仁徳天皇ーー21雄略天皇ーー26継体天皇と総ての天皇は,同一血族として系譜が記されている。
これに対して現在の日本史の学会の主流は、2−9代は欠史8代と言われ現在も実在性は疑問とされている。
また初代と10代は同一人物視されているらしい。即ち崇神天皇の頃(3世紀末ー4世紀初め頃?)大和地方を統治する王の中の王(大王)が初めて現れたとする説が有力。
10代ー25代は、はっきりはしないが大和を統治した大王と呼ばれた人物が,何人か実在したことは認められている。
また誰だか特定し難いが中国の文献に出てくる「倭の五王」と呼ばれた人物の実在は認めるらしい。
記紀で言えば応神天皇ー雄略天皇までの5人の天皇でその最後の大王は雄略天皇であると比定されてはいるようだが。勿論万世一系なんてとんでもないこととされている。
我々現在の古代史ファンの多くは、記紀の記述を鵜呑みにしている人は、先ずいないと思われる。しかし、記紀が嘘で固められた無意味、無価値な歴史書とも思ってない。
文字記録の無かった時代の6世紀初め頃までが不確かなことは致し方ないことである。しかし、あの膨大なしかも複雑に絡み合った系図の類が総て虚偽とは思えない。
そこに記されてある事績の数々も,何かそれに相当する事柄が,年代は多少ヅレがあったかもしれぬが、語り継がれてきた本当にあった事象の幾つかを反映しているのではないかと信じたい。
他国の歴史書の記載事項は信じるに足るが、自国の歴史書の記載事項は、意図的改竄がされており信じられない,とするのはおかしいし、日本国民として悲しいことである。
これを解明していく手段として発掘考古学が,近年脚光をあびている。過去に葛城氏の首長のものと思われる幾つかの古墳も見つかっている。この度その王宮跡とも思える遺跡が発見され、これでほぼその実在が確認されたことになる。
しかも,記紀に記載された雄略天皇の時、屋敷を総て焼き払われて滅んだとされている記述を裏付けるような柱などの焼け跡らしき痕跡も発見された。
年代が一寸ずれるとの学者のコメントも述べられているが今後さらに科学のメスが入り、その年代も確定されるであろう。
多くの人に余り知られてないことだが、この発掘考古学を影で支えているのが最先端の画像工学であり、写真技術である。
高松塚古墳、キトラ古墳などの発掘でも大いに活躍している技術である。
私の所属する「日本写真学会」でもその成果の一部が過去に報告されてきた。今回の葛城王朝の遺跡調査の結果の報告にも写真技術、画像工学技術が大いにその威力を発揮しているものと思う。
私は古代史ファンであり、同時に写真マニアであり、写真技術者である。本文をもって自己紹介とさせて頂きました。
1.古代豪族入門
1)はじめに
筆者は,子供の頃から何かしら「神社」「お祭り」に惹かれるものがあった。
学生時代は京都にいたので,京都や奈良近辺の古い神社仏閣などを、友人と、また一人でよく見て回った。
寺には仏像や壁画、堂塔伽藍など色々興味をそそるものが多数あるが,神社には総じて何もない。
ところが由緒書などを見ると,読み難い名前の神さんが、沢山書いてある。
 戦後教育を受けてきたせいかも知れないが、この神々の名前・その言われなどさっぱり分からなかった。
でもなんでこんな神様を祀ってあるんやろ,と素朴な疑問があった。
 筆者の田舎にも「天神さん」「八幡さん」「お稲荷さん」「荒神さん」など諸々の神社があり、それぞれお祭りがあった。
学問の神さん菅原道真公をお祀りしてある「天神さん」以外は、少なくとも高校までの教育では登場しなかった。
そうそう「伊勢神宮」は中学の時の修学旅行で行ったし、日光東照宮は、高校の時の修学旅行で行って、徳川家康を祀ってあることを知った。
伊勢神宮は「天照大御神」を祀ってあり、日本国の守護神の総元締めの神さんである,てなことは聞かされていた。せいぜいその程度である。
その後も実生活の中で、神社や神様とのお付き合い?は、色々の時点で結構あったような気がする。
困った時の神頼みではないが、田舎では毎年暮れになると我が町の鎮守に当たる「八幡さん」のお札が各家に配られ、いくばくかのお金を奉納させられた。母親は岡山の吉備津神社の信者で会員だったせいもあり、我が家の神棚にはいつも八幡様のお札と吉備津様(きびっつアま)のお札が同居しておられた。
勿論吉備津神社にはよくお参りした。でもどんな神様かは知らなかった。
結婚式は神前で行ったが何の神様だったかは、さっぱり覚えていない。
初詣には、八坂神社、上賀茂神社、石清水八幡宮、等にもお参りしたが、その祭神などは知らないし、なんで色々あるんやろ、程度の疑問があったくらいで、深くは考えなかった。
ところが10年ほど前位から、「日本人は、西欧諸国から見て、及び国際社会の中で、非常に特異な価値観、行動パターンをするアジア人と思われている。
礼儀正しい、勤勉、伝統を重んじる、エコノミックアニマル、兎小屋、島国根性、契約社会ではなく信用社会、印鑑至上主義、裁判を嫌う、しかし異常なまでの競争を好む、異常にまで横並び思考が強い、建前と本音を使い分ける、狩猟民族的行動を毛嫌いする、などなど、最終的には、非常に理解し難い,信用し難い,
嫌だが、付き合わざるをえない、無視できない力と国民性を持った国である、と思われている。」
一体何故だろう、と疑問を持ちだした。言葉問題は除外しても、日本人のある一面をついている。
勿論良い悪いは、別である。筆者も海外の人々とも多くはないが、色々この種の話をした経験がある。
なかでも一番痛感したのは、我々は、「契約」という西欧人にとっては、社会生活の根幹にある事項に関して、基本的理解とその重要性の意味が余りに分かっていないことである。
何故だろう。それは長い長い日本の歴史の中で育まれた、価値観の違いであり、国民性の違いであることに違いない。
それとは全く異なる次元の話であるが、「自分が産まれ育った日本という国は、一体いつ頃からあり、どんな歴史があったんやろうか。日本人はどこから来たんやろうか。我々のご先祖さんは、誰なんやろうか。テレビやなんかで日本人のルーツについて、ゴチャゴチャ言っているが、遺伝子的に調査すれば、簡単にアジアのこの付近の人種が中心である、とか分かるはずなのに。」
なんて類のまるで現実離れした素朴な疑問にも興味を覚え出した。
これらの素朴な疑問に少しでも解答を出してくれるのは、日本史それも古代史から勉強するのがよかろうと一人合点した。
本屋に足繁く通い出した。ところがである、なんとそれまで全く目もくれなかった本屋の日本古代史のコーナーに、新刊本がずらりとあるではないか。
難しくて読む気にもならないような類から、筆者の疑問に即応えてくれそうな題を付けた本など、専門書から古代史入門、小説、謎解きの類、邪馬台国などに至ってはベストセラー本まである。
本心、驚いた。神話、神様解説本の類もわんさかあるではないか。
ということは、この類の本を購入する人が如何に多いかである。
古本屋の片隅で埃をかぶって、めったに人の手に触れられない類の分野のことだとばかり思っていた。
戦後云十年も経って、日本人は、それも専門家ではない人々が、やっともう一度日本人の原点を知りたいという欲求に駆られだしたのである。
本屋の人にお聞きすると「日本古代史に関する本は、ここんとこ、いつも着実に売れている。静かなるブームですよ。結構高価な本なのにね。有り難いことです。」でした。
筆者は、手始めにと思い、日本書紀、古事記に関する本から購入勉強を開始したが、さっぱり理解出来なかった。
その原因は、神様、神話の類の基礎知識の欠如にあることが分かった。
高校時代に西洋の小説の類を読んでも肝心なところで、聖書やギリシャ神話、ローマ神話の人物の名前が出てきて、我々日本人には何の事やらさっぱり意味が通じないことがあった。
時間に余裕のできた大学時代にギリシャ神話、ローマ神話を読みあさった経験があったが正に同じ類であった。
西洋の神々にも詳細な系図があった。驚いたことに日本の神々にも実に詳細な系図があった。
この系図を理解しないと、日本の古代史は理解出来ないことが分かった。
即ち記紀(特に日本書紀)の最大の目的の一つが、この神々の系図と天皇家を中心にすえた各豪族各氏族の系図を公的に確立し、認知させることにあった。と筆者は看破した。
そのことが、天皇家が如何に他の豪族等とは異なった出身であり、犯すべからざる特別なる血統の持ち主であるかを天下万民、中国、朝鮮の国々にも認知させる最高の権威ある史料とすることにあった。のである。(記紀に記された日本史は、総て天皇家中心の歴史であることを痛感した)
この系図に関する事項は、古来から文献史学の分野の重要な課題の一つであった。
ところが、第2次大戦後、明治から興った所謂「皇国史観」「軍国主義」の反動で、記紀に記された多くの記事は、真実の日本の歴史にあらず。として抹殺された。
我々戦後教育を受けた者は、幸か不幸か全くといって良いほど、日本の古代史に関しては教えられていないし、記紀に何が記されていたかも教えてもらえなかった。
よって筆者のような素朴な疑問を持つ人々が、わんさかと発生したことと思う。
世界中の国々で、自国の歴史教育は重要なものとして取り扱われている。
但し、時の政府の思想信条でころころ変わるのは、真の歴史教育ではない。
科学的な手段も用いながら、過去の真実に迫るのが、歴史学の根本であろう。日本には記紀に匹敵する文字で記された日本の歴史を知る古い史料は、現存してない。
これに何が書かれていたかを知ることは、非常に重要である。その上に立って、本当はどうなのかを論ずべきであろう。
現在「発掘考古学」の分野が脚光を浴びている。筆者も応援している者の一人である。
しかし、当然ではあるが、発掘だけでは系図は描けないのである。しょせん大昔のこと、総てを解き明かすことは無理である。
しかし、日本古代史を解明する最低のことの一つは、重要人物、氏族の系図をはっきりさすことだと思っている。
かわらけだけの歴史では、駄目である。人間の歴史こそが重要である。
これには中国・朝鮮の古典も重要だが、記紀の重要性は昔も今も変わらぬ、いや現在ではその重要度は増していると、思っている。
心あるプロの歴史学者も同じだと思う。
筆者は記紀の中の神話・神世の意味するところも重要であると信じている。
単なる辻褄合わせの作り話とする方々も多いようだが、捨てがたい歴史の真実が語られているのではなかろうか。
 話が変な方向にそれたが、筆者はそれなりにその分野の権威?あるとされる学者の神話・神世から始まり、弥生時代、古墳時代、邪馬台国、倭の五王、継体天皇までにいたる人物の紹介を記した書物も多数読み、色々な解釈も勉強させてもらった。
実に面白く千変万化している。非常に慎重な見解から、突拍子もない(筆者からみて)見解まで多彩である。
少なくとも古墳時代から継体天皇までの日本の歴史は発掘調査の結果でドンドンこれからも塗り替えられること間違いない。
でもその間の人間の動き、何処の誰が何をしたかを知る手だては、記紀しかないのである。ということがよく分かった。

2)日本書紀・古事記の内容について
 記紀では、大雑把にいって、記事及び年代は総て天皇の即位順により記載されている。
日本書紀は漢文編年体という書式。古事記は和文(漢字だけの)である。
 先ず初めに神世の時代(神話の時代:神代紀)がある。
神武天皇が即位されるまでに日本(大和)の国にはどんな神々がおられたか。大きく分けて天孫系・天神系の神々(天照大御神に関係する神々)と出雲系の神々(素戔嗚尊に関係する神々)である。
この時代は年代感覚は不明である。しかし、各神々の系図は記紀で一部異なるもののほぼ完全に示されている。即ち体系化されているのである。
この点に関しても戦後色々議論されてきた。(体系化出来ぬものを無理にした。)
現世の時代は、神武天皇が九州から東遷して、大和(現在の奈良県)の地に入ってからの時代である。
ところがこの記紀に示された初代神武天皇から例えば推古天皇位までの各天皇の在位期間等から計算すると、西暦に直して紀元前7世紀(紀元前660年)に神武天皇が即位したことになる訳である。
欠史八代と言われている中の天皇になると、なんと150才も生きたことになる天皇もおり、常識的にありえないことが記されてあるわけである。
現在の科学的解析によると、紀元前5世紀頃からやっと弥生時代に入ったかどうかの時代である。
統一国家なんてとんでもない時代であった訳である。
古事記が完成したのは、712年であり、日本書紀は720年に完成されている。この時期は現在ほぼ間違いないとされている。日本書記は、天武天皇の命を受けて国家事業として、日本として最初の国史編纂事業であったとされている。
記紀ともに貫かれて考え方は、天皇家は万世一系であること。
天皇家は氏(うじ)、姓(かばね)(苗字)を有してない。ということである。
記紀を編纂するに当たり当時の豪族の首長家(18氏)に対してその家譜の提出を求めた。その家譜と天皇家に残されていた各種記録、言い伝え稗田阿礼などの語部などが暗唱して語り継いできた話などを整合性をとって、多数の有能な学者が、約40年もかかって編纂したのが、日本書記である。(古事記は1−2年で完成させている。)とされている。
これ以前に欽明天皇の時「帝記」「旧辞」が編纂され、推古天皇の時代に聖徳太子と蘇我氏とが「国記」「天皇記」の2種類の歴史書を作成されたとされている。記紀はこれの一部を参考にしているらしい。(上記の歴史書は現存してない)
 先ず天皇家の系図が整理された。各豪族の系図は、この天皇家の系図と整合をとる形で改められたはずである。
事実、それ以後に作成されたであろう各種の系図の類いは総て記紀の系図を参考にして作成されたと思われる。
さて、上記したように現実の歴史と記紀の歴史との間にズレが発覚している。
また、神武天皇が、いや初代の日本統治者?が大和の地に出現するのは、現在では、早くても精々3世紀末から4世紀初め頃とされている。
これは「魏志倭人伝」の「卑弥呼」に関する記事の年代がはっきりしているからである。
この時「邪馬台国」が大和の地にあったか九州にあったかは別として、この時代(3世紀中頃)に日本(大和)を統一する神武天皇に相当する人物、そういう氏族は、存在しなかったわけであるから、これ以降に本当の初代の天皇(大王)と呼べる人物、氏族が大和の国の中に興ったと考えるのが妥当とされている。
この辺りのことを大雑把に西暦年代で表示すると下記のようになる。併せて日本書紀に従った各天皇の即位年代を入れた。
年表
紀元前660年 神武天皇即位(日本書紀)
紀元前3−5世紀ー西暦100年代は日本は弥生時代。
紀元前221年 秦始皇帝中国統一
前202年   漢王朝始まる
前57年?   新羅国建国   (諸説あり)
前42年?   金官伽耶建国  (同上)
前37年?   高句麗国建国  (同上)
前18年?   百済国建国    (同上)
前97年崇神天皇即位(日本書紀)
57年     漢倭奴国王の金印(「後漢書」東夷伝)
西暦200年代 古墳時代前期に入る。
239年邪馬台国卑弥呼を親魏倭王に任じる(「魏志倭人伝」)
248年    卑弥呼没
265年    西晋王朝起こる。
266年倭王(卑弥呼の系統?)西晋武王に使者。(魏志倭人伝)
270年    応神天皇即位(神功皇后)(日本書紀)
300年代 古墳時代前期   大和王権成立か???
313年    仁徳天皇即位(日本書紀)
340年頃   百済新羅建国
369年 百済王が倭国との友好の印として「七支刀」(現存)を贈ってくる。(372年説もある)統一王的存在が窺える
400年代   「倭の五王」の時代 この時代には間違いなく大王は存在していた。
456年    雄略天皇即位(日本書紀)
478年    倭王「武」(雄略天皇)の記事(宋書)
500年代 かなりはっきりしてくる。
507年継体天皇即位(日本書紀)
507年    継体天皇出現
600年代   聖徳太子時代
700年代   大宝律令、
710年    平城京遷都
712年    古事記完成
720年    日本書紀完成
800年代   平安時代
266年から372年の間約100年間が空白の時代と言われている。
中国・朝鮮との交流記録が中国・朝鮮側に全く残されていないかららしい。
この間に大和の統一政権が誕生したらしい。(現在の主流的見解)
6世紀の継体天皇以降の記紀の記録は、年代的にもほぼ間違いないとされている。
記紀では、継体天皇以前の約200年間位の事が約1000年位前にまで引き伸ばして記述してある。と言われている。
勿論天皇家の系図上でも歪さが起こるし、それに引き連れ各氏族の系図にも無理が生じている。
よって、この間のことは、系図の類も記事の類も総て信用出来ない、眉唾ものであるとされている訳である。
但しそれ以外の説もある。主な説を挙げると、
・神武天皇と崇神天皇は同一人物で、その事績は神武紀と崇神紀併せたものである。即位したのは、紀元3世紀末から4世紀初めとする説。後は継体天皇まで若干非現実の天皇がいたまも知れないが、ほぼ記紀通りの天皇がいたとする説。ーーー継体天皇は26代の天皇であり、崇神天皇は10代なので、約200年で17人の天皇がいたことになり、これは親子相続だけでなく兄弟相続もあったので、その後の天皇家の後継状態から計算してみてもそんなに不合理なことではない。(筆者注)
・応神天皇の即位は、紀では西暦270年となっており、ここが初代ではないか。それ以前の系図は架空のものである。とする説。ーーー応神天皇は15代である。継体天皇までに12人の天皇が存在していたとすれば、約200年で12人は不可能ではない。しかし、倭の五王の記事との整合性が気になる。(筆者注)
両説とも大王墳と言われている大規模な前方後円墳の築造年代との整合性が今後明らかになればはっきりするであろう。
などなどである。

3)「古代豪族」について
 ところで、継体天皇時代以降多くの豪族が、大和を中心に存在していたことは事実である。
彼等は常に時の天皇に対して重要な影響力を持っていた。
例えば「物部氏」「大伴氏」「蘇我氏」「中臣氏」「阿部氏」「三輪氏」などなどである。これらの氏族にも天皇家と変わらぬ過去がある訳である。
 話は一寸後世のことになるが、平安時代になって、「新撰姓氏録」なる官撰の公式な各氏族(1182氏)の出自についての記録文書が編纂された。
これが総て正しい訳ではないが、当時の日本の各氏族に対する基本的な考え方が窺える。
これによると
・皇別氏族:天皇家から分かれた氏族
・神別氏族:記紀に記された神話系図の天神系又は出雲系(地祇系)の神から分かれた氏族
・諸蕃・未定雑姓:渡来系(中国、朝鮮半島などから日本に渡来してきたことがはっきりしている氏族)の先祖から別れた氏族。及び出自不明の氏族。
に大別されている。
さて、継体天皇以後の皇別氏族は、かなりはっきりしている。
しかし、崇神天皇ー継体天皇直前までの皇別氏族は、スッキリしない。
一番問題なのは、欠史八代に出自を持つ皇別氏族である。例えば、古代史上重要な役割を演じた葛城氏、蘇我氏、紀氏、平群氏などである。
さらに神別となると訳が分からない。例えば「大伴氏」「中臣氏」「物部氏」「尾張氏」「賀茂氏」などは天神系とされ、三輪氏などは「地祇系」神別とされている。
 ところで日本書紀は、完成以後づっと時の朝廷内では、エリート達への正式教育の一環として、歴史教育の原本として用いられてきたとされる。
勿論天皇家以外の豪族の子弟も多数いたであろう。大和王権の成立は、その時からみて事実は、僅か過去300年ー400年前の話である。
自分等の家にもそれなりの言い伝えがあったはずである。記紀に記された各氏族の事績にはある程度の妥当性があったからこそ、彼等にも受け入れられたのではないか。
問題は大和王権の成立の時期の著しい虚構である。
これについても彼等は気付き、そんなに昔のことではないくらい、当然過ぎるほど知っていたものと考えざるをえない。
当時、既に中国の古書、例えば「魏志倭人伝」「宋書倭国伝」など、朝鮮半島の古書(三国史記・三国遺事など)の類も日本に入っており、少なくとも記紀の編纂者等は明らかにそれらを読み、各種の記事の参考にしていることが、分かっている。
神功皇后を「卑弥呼」に見立てているともいわれている。
上記年表でも分かるように応神天皇の即位年代は、西暦270年としており、その母神功皇后を卑弥呼にすれば魏志倭人伝の卑弥呼記事と年代的には、ピッタリ合う。
ーーー記紀が、年代を極端に引き伸ばしたことは、当時の有識者には馬鹿馬鹿しいほど、分かり切ったことなのであろう。それによって自分の氏族の系図に不都合が発生していたことは、認知していた。同時に日本国としての別の意図?のあることをも理解していた。
よって、彼等は、割り切って過去のことは記紀に従うことにした。自分等の現在及び将来の大勢には悪影響ないと判断したのである、と推定する。(あくまで筆者の想像)

4)「古代豪族」とその「系図」の重要性
 現在の我々には想像さえし難いことであるが、支配者層にとって、氏姓制度が最重要視された時代では、その氏族の出自、系譜の類は最も重要な物だったようである。
即ち、系図は、大和朝廷への任官、大和政権内での自分(自分の属する氏族)の地位、生活の基盤、何等かの権力を握る根源的証拠物件であったらしい。
逆にこれが無いと、全くチャンスさえ与えてもらえなかった訳である。
各氏族には、氏の首長がおりその支配下でしか生活は成りたたなかった。
その氏長と血族であるかそうでないかでもその立場は大きく変わる。
日本全国の末端までの住民が、どれかの氏族の配下にいたと考えても過言ではない時代が間違いなく過去にはあったのである。
その氏族の頂点に立った首長氏族が、いわゆる「古代豪族」と呼ばれた氏族である。
どこまでを豪族と呼ぶべきか筆者も定かではないが、少なくとも記紀に登場し、大和王権の中又は地方において、その時代時代で中心的な役割を演じたと思われる氏族は、そうであろう。
途中で滅びたものも多数ある。記紀には今では全く知られてない氏族についても系図上での記録が示されている。
当時としては、非常に重要だったからこそ、この国家的事業の重要部分に記録として、残したのである。
各氏族もその作成・保存・次世代への継承を必死で行った。
これを総て意味のない創作にすぎないとすることは、逆に日本の歴史を歪めることになるんではないか。
総てが正しい訳ではない。(意図的な人物の積み上げ・創作の類はあるに違いない)当時から系図の類には、偽物が横行していたとされる。
だから官撰の正確な系図を作成する目的も記紀の編纂の狙いとしてあったとされている。
記紀に記された系図は、積み上げた部分と、根っこの部分がある。積み上げ部分をそぎ取り、根っこの部分だけを探り当てる研究をされている方々もいる。マニアである。
 奈良時代まで続いた氏族、平安時代まで続いたものも幾つかある。しかし、その大多数は、藤原氏の台頭により、日本史の舞台から消え去ったのである。
最後に残ったのは、天皇家(その末裔を含む)と藤原氏だけといっても過言ではない。
そうなるように仕組んだ張本人こそ、記紀編纂に重要な影響力を及ぼし、過去の歴史を天皇家、藤原氏に都合の良い形に旨く改竄した人物、即ち「藤原不比等」である。という説が現在根強い。
即ち記紀編纂こそ、結果的にその後の日本の体制造りの根本となったとの説である。
その根本は、神話系図を含めた天皇家の系図であり、各氏族の系図なのである。
この系図の問題はその後江戸時代まで、支配階級(武士・貴族など)の心のよりどころであり、生活基盤、権力基盤の根底にあった重要事項となっていくのである。
それ程重要視した系図だからこそ、古代史の研究、古代豪族の研究には欠かせない史料となる。

5)おわりに
 今回の古代豪族のシリーズでは、日本の昔々我々の祖先が日本を創成した極初期において、どんな活躍をし、どんな血脈で歴史的人物を輩出してきたか、お互いにどんな関係にあったかを出来るだけ、過去の文献に則り、また新たな発掘調査の結果も参考にして、謎解きをしてみようと思う試みである。
歴史的人物は、当時の時代背景から判断すると、ある日突然産まれたわけではない。
少なくともその人物の過去数代の系図、父系・母系の関係を知ってこそ理解できるのである。
筆者の調査では、特に母系の様子を知ることが重要と判断した。
通常は歴史は父系で説明されている。しかし、記紀を初め「旧事本紀」などの古い系図には、母系の系図も非常に詳しく記されてある。「古代史」の謎を解く鍵は、古代豪族にある。その謎を解く鍵は、各人物の母親の系図を知ることにある。
これを多いに参考にして、誰も今まで筆者に教えてくれなかった、大昔に生きた人間の記録を少しでもあぶり出せたらと思っている。
 正に謎解きの推理小説を書くみたいな気分である。日本人気質?の原点探しである。
参考にした文献の類は、列挙すればきりがないほどあるが、これはプロの論文などではないので、一つ一つ明示出来ないことお許し願いたい。
特にインターネットのHPに開示されている、貴重な個人の研究成果の発表文献は、その殆どが個人名が不明なため、ご了解をえることが出来ません。この無礼、平にご容赦下さい。

(参考文献)
別冊歴史読本12 新視点「古代豪族の研究」新人物往来社(2002年6月発行)
参考系図 神代神々系図(記紀合体:筆者作成) 
主な古代豪族リスト  (新撰姓氏録参考)
分類 氏族名 歴史上人物
1) 皇別氏族  (335氏) 1  蘇我氏 馬子、蝦夷、入鹿など多数
2  多治比氏 桓武天皇妃「真宗」葛原親王母
息長氏  継体天皇以降朝廷を裏から支えた氏族
県犬養氏
橘氏  諸兄、奈良麻呂など多数
吉備氏 真備
紀氏  (紀国造、朝臣系)朝臣系から多くの大臣を輩出
 葛城氏  襲津彦
巨勢氏 継体天皇以降に台頭。大臣輩出
10 平群氏  雄略ー武烈朝に大臣輩出。没落?
真鳥、鮪
11 多(大、太)氏  最も古い皇別氏族。謎多し。
12 毛野氏 崇神天皇の裔。関東北部配。
13 阿部氏 比羅夫、軍事氏族。
14 和邇氏  后妃輩出
15 春日氏 后妃輩出
16 膳氏  朝廷内食事を司る氏族。阿部氏同族
17 和気氏 清麿、垂仁天皇、鐸石別命
18 越智氏 瀬戸内海の豪族、孝霊天皇
2)神別氏族
 (404氏)
中臣氏 鎌足 大中臣氏、祭祀氏族。
大伴氏 家持、天皇家歴代の連姓
雄略天皇時大連、室屋
佐伯氏  大伴氏の分流  空海の出自
物部氏 守屋、最も古い豪族の一つ。連姓
雄略天皇時大連、
宇佐氏   宇佐八幡宮
阿刀氏 物部氏流。空海の母親出自
尾張氏 物部氏と同族?
倭氏、大倭氏 初代倭国国造、市磯長尾市宿禰
出自諸説:椎根津彦説
出雲氏 出雲大社社家
10 忌部氏 祭祀を司る。
11 土師氏  出雲系
12 穂積氏  物部氏と同族。
13 三輪氏 三輪神社社家
14 賀茂氏 複雑。賀茂神社社家
3)諸蕃
(443氏)
東漢氏(坂上氏) 田村麻呂
秦氏   聖徳太子、桓武天皇などに貢献
百済氏 百済王家
4)不明 磯城氏 幻の豪族、欠史八代の后妃を輩出
十市氏  幻の豪族、同上。