TOPへ    戻る
32.宇佐氏考(含 辛島氏・宇佐大神氏)
1)はじめに
 筆者の一番古い記憶は、祖父に連れられて私の故郷の町の氏神さんである八幡さまにお詣りした時のことである。犬に吠えられて逃げ回った記憶である。母に後年になって尋ねたら、恐らく七五三のお詣りの時であろうとのことであった。
数えで5才の時のことである。今から60年以上も前の記憶である。
その時の神主さんの息子さんが、私の中学校の時の社会科の先生で同じ八幡さんの神主をされていた。この八幡さんの分社が私の邑にもあり毎年秋にはお祭りがあった。そして毎年年末には邑役の人が、八幡さんのお札を持って家々を回ってきた。時にはお伊勢さんのお札も一緒に持ってきた。我が家の神棚には八幡さんのお札とお伊勢さんのお札が並んで祀られてあった。もう一方の神棚には母が信じていた吉備津神社のお札が祀られてあった。仏壇にはご先祖さまが祀られてあった。私の家の隣近所、皆似たような状態であった。
勿論この当時、八幡さんがどういういわれの神さんかは全く知らなかった。
本稿ではこの八幡さんの原点である宇佐八幡宮に直接関係する古代豪族「宇佐氏」について述べたい。
現在も八幡神社は全国津々浦々にある。その数は2万社とも4万社ともいわれており、稲荷神社(お稲荷さん)に次いで2番目に多い日本を代表する神社である。ちなみに3番目は天満宮(天神さん)である。いつ頃からこんなに人気のある神社になったのかは定かではないが、明治以降の軍国主義の台頭とも関係していることも間違いないであろう。その理由は八幡神社の祭神である応神天皇・神功皇后が軍神として崇められたからだとされている。私が現在住んでいる長岡京市の川向こうには石清水八幡宮がある。本年も家族揃って初詣に行った。大変な賑わいであった。現在このお宮は「厄除けの神」として、近隣の善男善女の尊崇を得ている。
ところで八幡神社と古代豪族宇佐氏がどう関係し、何故宇佐八幡宮が全国にある八幡神社の総元締めなのか、そもそも八幡神とはどんないわれがあるのか等については現在の我々には殆ど分からないことである。これ程身近にあり生活に密着してきた神様のことを我々日本人は知らないのである。ましてや「宇佐氏」なんて九州の人ならある程度はお分かりかも知れないが、それ以外の所では知名度は限りなく零に近い名前である。
本稿ではこの天皇家に匹敵する古い歴史を有すると言われている宇佐氏にスポットをあてて、日本の古代史を考えてみたい。併せて八幡神社誕生に関し非常に強く関与したとされる辛島(からしま)氏・大神(おおが)氏についても述べてみたい。
 
2)宇佐氏人物列伝
宇佐氏系図は非常に沢山ある。説明の関係上宇佐家系図に基づいて筆者創作系図を参考にして親子関係と思われる人物中心に人物列伝を作成した。
 
・高皇産霊尊(別名:高魂尊)
(・天活玉)
 
・天三降(あめのみくだり)
@父:母:
A子供:菟狭津彦
B旧事紀・天神本紀:宇佐国造祖。
C天孫日向に天降ります時、供奉。勅に依りて菟狭川上に住み宇佐明神を斎き奉る。
D日本書紀神代:即ち日神の生まれまする三の女神を以ては、葦原中国の宇佐嶋*に降り
居さしむ。今海の北の道の中に存す。号けて道主貴と白す。(宗像三女神のこと)
*豊前国宇佐郷にある御許(おもと)山(647m)であるとされている。異説もある。宇佐氏の墳墓の地であり、宇佐明神、比売大神を祀ってあるとされる。頂上には3柱の巨石の磐座があり禁足地とされている。
 
参考)宗像三女神
 
2−1)菟狭津彦
@父:天三降、伊吹戸主命(異説多し)母:市杵島姫(異説あり)
A妻:菟狭津姫(異説あり)妹:菟狭津姫(異説あり)子供:常津彦・菟狭津姫(異説有)
B古事記:神武天皇東征伝:神武が日向より筑紫に出発して豊前の宇佐に着いた。この時
その土の人、名は宇沙都比古・宇沙都比売の二人が一足謄宮(あしひとつあがりのみや)を造って御饗(みやえ)を献じた。
C日本書紀:神武が甲寅年10月東征に出発。はじめ、早吸之門(はやすいのと)に到り一人の漁夫にあった。珍彦(うずひこ)という国神であると名乗り、天皇を導かんことを申し出た。天皇は彼に椎根津彦の名を賜れた。倭直部らの祖である。その後、筑紫国の菟狭に着いた。菟狭国造祖である菟狭津彦・菟狭津媛が、菟狭の川上に一柱謄宮(あしひとつあがりのみや)を造り饗を奉った。天皇はこれを喜び、菟狭津媛を侍臣の天種子命に賜妻した。この天種子命は中臣氏の祖である。
D国造本紀:宇佐国造。神武朝、高魂尊の孫宇佐都彦命を国造と定め賜う。
E川部高森古墳群(風土記の丘):3末−6世紀中頃までの前方後円墳が6基ある(銅鏡も出土)。九州最古の前方後円墳である赤塚古墳(58m)などは発掘調査の結果この地方の首長墓と考えられ宇佐国造一族のものと推定されている。これ以降大型古墳が無い。宇佐氏の衰退と関係か。
F老上丘古墳群
 
・菟狭津媛
@父:天三降、伊吹戸主命(異説多し)・菟狭津彦 母:市杵島姫(異説あり)
A夫:菟狭津彦(異説あり)神武天皇(宇佐口伝)天種子命(記紀)
子供:宇佐都臣命・宇佐稚屋(口伝)・御諸別命(口伝)
B記紀:上記菟狭津彦と同じ。
C宇佐氏口伝(宇佐公康著):神武東征の時夫菟狭津彦が神武に自分の妻である菟狭津媛を妃として差し出した。この間に産まれたのが宇佐都臣命である。神武はその後媛を連れて安芸国の厳島に行き、ここで御諸別命が産まれた。媛も神武も厳島で没した。
墓所は厳島の弥山である。
 
2−2)常津彦耳
@父:菟狭津彦 神武天皇(口伝)母:不明
A子供:稚屋 妻:阿蘇津媛(阿蘇氏女)   別名:常津彦
B宇佐氏口伝:実は神武天皇が日向時代に生んだ子供で神武に随行してきて宇佐に留まり
菟狭津彦の一種の養子となり宇佐国造を嗣いだ。
 
2−3)稚屋
@父:常津彦耳 神武天皇(口伝)母:菟狭津媛(口伝)
A子供:押人 別名:宇佐都臣命(口伝)
妻:越智宿禰女常世織姫(口伝)
B宇佐氏口伝:記紀では中臣氏祖の天種子命の子供とされている宇佐都臣命が宇佐系図の稚屋と同一人物である。越智氏の娘を略奪して妻とした。その子供押人が後の真の応神天皇である。
仲哀天皇と神功皇后の間に産まれた誉田別皇子は応神天皇であるといわれているがこの皇子は4才で亡くなっている。しかもこの皇子は仲哀天皇の子供ではなく、武内宿禰と神功皇后の間に産まれた不義の子供であったというのが真相である。
 
2−4)押人
@父:稚屋 母:越智宿禰女常世織姫(口伝)
A子供:珠敷      別名:応神天皇(口伝)
B宇佐氏口伝:宇佐系図で押人となっている人物が大和に入り応神天皇となった人物である。神武天皇の兄が景行天皇である。景行天皇が神武天皇の遺志を継ぎ東征をする。
子供は成務天皇である。成務には子供がなく景行天皇の子供であるヤマトタケルの子供である仲哀天皇がその後を嗣ぐが筑紫で没す。仲哀と大中津媛との間に産まれていた香坂王・忍熊王が皇位は自分らにあることを主張して乱を起こした。これを平定したのは御諸別
である。そして仲哀の後の天皇として押人即ち真の応神天皇が即位したのである。
宇佐氏はこの押人の宇佐での子供珠敷の子孫がこれを嗣いだ。
 
2−5)珠敷
@父:押人 母:不明
A子供:布敷
 
2−6)布敷
@父:珠敷 母:不明
A子供:御春豊玉(宇佐系図)井尻彦(一般系図)
 
 これ以降数代系図によって異なる
・井尻彦     塩見公まで宇佐家系図には無い。
・真咋
・五十狩公
・五百手公
・多摩田公
・塩見公
 
2−7)御春豊玉
@父:布敷(宇佐系図)塩見公(一般系図) 母:不明
A子供:小船
B仁賢天皇元年(488年?)御春姓を賜った。という説あり。宇佐系図。
C宇佐公康はこの人物が初代池守と推定している。
 
2−8)小船
@父:御春豊玉 母:不明
A子供:安山
 
2−9)安山
@父:小船 母:不明
A子供:宇佐宜坂
 
2−10)宇佐宜坂
@父:安山 母:不明
A子供:長野
 
2−11)長野
@父:宜坂 母:不明
A子供:古辺
 
2−12)古辺
@父:長野 母:不明
A子供:武雄
 
2−13)武雄
@父:古辺 母:不明
A子供:貞野・豊雄
B白鳳7年(667年)宇佐公姓を賜る。天武朱雀元年・朱烏元年(686年)に宇佐公姓賜姓説もある。
C宇佐公康著ではこの人物が宇佐公池守の初代。
 
参考)
・法蓮(?−?)
@武雄の別名説・武雄の孫説などある。渡来人説もある。
A秦氏の信仰拠点であった「香春岳」で修行。新羅系仏教学ぶ。
B太宰府から飛鳥に派遣される。
C660年以降に唐から帰国した飛鳥の元興寺の道昭に師事。法相宗の弥勒信仰を学び官僧になる。
D宇佐に帰国後、683−700年頃に虚空蔵寺を開く(託宣集)。法隆寺式伽藍配置
彦山中心に豊前・豊後・筑前に49院の弥勒菩薩霊場を開く。
E大宝3年(703)仏教の普及と医術による貢献により朝廷から豊前国の野40町賜る。(続紀)
F養老5年(722)沙門法蓮の三等親以上の者に宇佐君姓を賜る。(続紀)
G宇佐宮弥勒寺初代別当(託宣集)。
H8世紀初頭の宇佐八幡宮の有力な豊前の巫僧。
I国東六郷満山の仏教開発者。
J鎮西彦山縁起:彦山修験の中興の祖。彦山は魏国僧「善正」がけいたい5年に開き、忍辱が後を継いだ。その後荒れた。その後法蓮が忍辱の教えを復興し衆徒千人となった。
金剛般若経を三所権現と八幡大神に祈願。
八幡大神と小倉山の地主神「北辰」との話
八幡大神:自分はここに住んであなたと一緒に人々の利益をはかりたいがどうであろう。
北辰:西方に山があってその山の彦山権現は岩窟に玉を埋め一方の金剛童子に守護させている。その玉を求めてきて人々を窮乏から救いなさい。
K秦氏・辛島氏・大神氏・宇佐氏の紛争の調停役となり、大神比義と一緒になって712年の官社設立に貢献したとの説あり。
虚空蔵寺跡の調査
大分県宇佐市山本。1954年日本考古学協会による塔跡・金堂跡調査。昭和46年大分県による寺跡確認調査。昭和52年宇佐市調査。
白鳳時代(645−710)創立と推定された。小田富士雄「虚空蔵寺と法鏡寺址」大分県文化財調査報告
宇佐氏:虚空蔵寺 大神氏:法鏡寺 辛島氏:久全寺(小倉廃寺)
 
参考)
・道昭(629−700)
@出自:河内国丹比郡 船連出身 父:恵釈(尺)
A653年遣唐使。法相宗。660年帰朝。法興寺住。
B師:玄奘(三蔵法師)
C日本法相教祖。
D宇治橋建立説。
 
参考)
・行教(?−?)
@出自:父は山城守 紀魚弼 仁和寺益信は兄弟。石清水八幡宮別当紀安宗の叔父。
A大安寺の僧。859年宇佐八幡宮から3神を分霊し、石清水八幡宮を創建。
B師:行表
 
参考)大安寺関係
<歴史>
@聖徳太子時代に「熊凝寺」*を創建。622年聖徳太子は死に臨みこれを大寺とすることを田村皇子に頼んだ。  *聖徳太子建立46寺の一つ。621年建立。
A639年百済大寺を創建。日本初の官立寺。
B677年高市大寺を大官大寺と改める。
C716年大官大寺を平城京に移す。
D729年道慈が大安寺の造営に関与。
E745年大官大寺を大安寺に改名。南都七大寺の一つ。
F829年空海が別当となる。
G859年八幡宮が勧請される。
 
2−14)貞野
@父:武雄 母:不明
A子供:佐野    別名:真野
B麻生氏祖。
 
2−15)佐野
@父:貞野 母:不明
A子供:手人
B佐野氏祖。
 
2−16)手人
@父:佐野 母:不明
A子供:池守 異説:乙麿・大瀧     別名:牛人
B754年大神氏による厭魅事件により宇佐宮の祭祀権が大神氏から宇佐公手人・池守父子に移ったとされる。(宇佐公康著)
C769年道鏡事件で和気清麻呂が宇佐宮に参向した時大宮司であった。(宇佐公康著)
女禰宜は辛島興曽女であった。
 
・乙麿
・豊嗣
異説:池守の父。乙麿の子供。
 
2−17)池守
@父:手人   母:不明
A子供:式佐・宮雄・夏泉など
B宇佐家系図:始めて大宮司に任ぜらる。弘仁中(821年か)大宮司。押領使。正8位下。野中郷(現大分県中津市大貞)に常住し神誓により三角霊池を守護し奉る。故に池守の名を得、欽明天皇の御宇(539−571)、池上において神詠を奉る。その後大神比義と諸共に八幡大神を顕し奉る。神護景雲中(767−769)、大尾社を造立す。寿三百余才神人也。(宇佐公康著書より抜粋)
・三角池のマコモを刈り取って枕をつくり、これをご神体として社殿を造営して始めて大宮司となって奉仕。伝承。
D東大寺要録:天平18年(746)従七位下宇佐公池守を宇佐八幡神宮司となす。
E774年小宮司 和気清麻呂が豊前国司となり大神氏:大宮司、辛島氏:禰宜と決めた。
F託宣集:宝亀4年(773)宇佐宮司外8位下。
G古代人名辞典:この人物については明らかでないと記してある。
H佐知翁屋敷に池守を祀ってある。
I相原廃寺・塔隈廃寺建立?
 
2−18)式佐
(2−18)−(2−22)までは宇佐家系図に従うが親子相続とは限らないものと思われる。2−23以降は概略系図に従う。
@池守の跡を継いだ。池守の子供?
A権大宮司
 
2−19)豊川
@式佐の子供。
A権大宮司。大初位上。仁寿中(851−853年)若宮殿を造立。
B宇佐公康著ではこの人物まで宇佐公池守と呼ばれていたと記されている。
 
2−20)文世
@豊川の子供。
A権大宮司。
 
2−21)佐雄
@文世の子供。
A天安元年(857)大宮司。初見とされている。
 
2−22)宮雄
@池守の子供?佐雄の子供?
A権大宮司。
 
2−23)夏泉
@父:池守???宮雄の子供?  母:不明
A子供:春穎・秋穎
B延喜年代(901−923)に宿禰姓を賜る。902年大宮司。
C延喜式・927年に大神・宇佐二氏を八幡神宮司に補すと決定。
 
2−24)春穎
@父:夏泉 母:不明
A子供:春海・芙利・是憲
B大宮司。
 
・春海
@春穎の子供。
A権大宮司。御薦(まこも)社司。池永氏祖。
 
・英利
@春穎の子供と思われる。
A別名:芙利か。
B大宮司。
 
2−25)是憲
@父:春穎  母:不明
A子供:持節・守節・貞節
B天慶元年(938)外従5位下。大宮司。  
 
・持節
@是憲の子供。
A天暦2年(948)大宮司。
 
・守節
@是憲の子供。
A応和2年(962)権大宮司。
B弟:諸守:権大宮司・大根川社司。
 
2−26)貞節
@父:是憲  母:不明
A子供:相規
B天延2年(974年)従4位 大宮司。
 
2−27)相規
@父:貞節  母:不明
A子供:相忠・定源・公忠
B治安4年(1024)従5位下。大宮司。
C1009年大宮司就任説もある。この時勾金庄が宇佐領となった。
参考)僧元命
石清水八幡宮の社家「紀氏」を排除し、別当となった。外孫宇佐相方を大宮司にして藤原道長をバックにして宇佐ー石清水連合を構築した。
 
・相方
@定源の子供。
A長元2年(1029)大宮司。
 
2−28)公忠
@父:相規  母:不明
A子供:公則
B長元8年(1035)大宮司。
 
2−29)公則
@父:公忠 母:不明
A子供:公相
B天喜元年(1053)大宮司。
C1053年以降大宮司は宇佐氏が独占。
D公則ー公通時代が宇佐氏全盛時代とされている。
 
2−30)公相
@父:公則 母:不明
A子供:公順・公康
B承暦4年(1080)補大宮司
 
2−31)公順
@父:公相 母:
A子供:公基など多数。
B応徳2年(1085)補大宮司。
 
2−32)公基
@父:公順 母:不明
A子供:公通
B保安4年(1123)補大宮司。
 
2−33)宇佐朝臣公通
@父:公基 母:不明
A子供:公房  妻:平清盛女
B天養元年(1144)大宮司。治承4年正三位。太宰大弐。
C源平合戦では平氏方についた。屋島合戦で敗走する総大将平宗盛・安徳天皇らを宇佐に匿った。豊後の緒方惟義が源氏方についたため庇護しきれなくなった。
平安末期隆盛期と衰退期を同時に経験した人物である。
 
2−34)公房
@父:公通 母:不明
A子供:公仲
B保元2年(1157)従4位下大宮司。
 
2−35)公仲
@父:公通 母:不明
A子供:公高・公成(安心院氏祖)・公政(岩根氏祖)
@建保2年(1214)5位下大宮司。
 
・岩根公政
大宮司。
 
・安心院公泰
公成の子。大宮司。
 
2−36)公高
@父:公仲  母:不明
A子供:公有
B寛元2年(1244)大宮司。
 
2−37)公有
@父:公高 母:不明
A子供:公世
B従5位下。大宮司。
C建治元年記事。
 
2−38)公世(?−喜暦2年)
@父:公有 母:不明
A子供:公敦・公連・吉松公浦(1347年北朝大宮司)    別名:公正
B正安元年(1299)従5位下大宮司。対馬守。
C蒙古来襲時に加持祈祷。中興の祖。
 
・公連
@鎌倉倒幕で懐良親王擁立に参加。
A到津(いとうづ)氏祖。
B1333年南朝大宮司。
C宇佐公康氏はこの流れか?
 
2−39)公敦
@父:公世 母:不明
A子供:公将・公右・公居・出光公和
B宮成氏祖。
C公敦・公連は大宮司職を巡って抗争を繰り広げた。
 
・公将
大宮司になれなかった。
 
・公右
大宮司、子供なし。
 
・公居
子なし。
 
・出光公和
1337年北朝大宮司。
 
鎌倉時代以降、宇佐庶家がご家人となり幕府に接近、大宮司職に就くことが多くなった。嫡流家としては到津氏・宮成氏が抗争した。庶家大宮司は武家なので神事は執行しなかったとされている。
宇佐庶家:岩根・横代・平田・安心院・出光・益永・永弘・小山田など。
 
3)宇佐大神(おおが)氏人物列伝
宇佐国を中心に栄えた三輪氏出身と言われている大神比義の人物列伝。小山田系図に準拠。
・太田田根子
・三輪君身狭
 
3−1)大神比義
@父:三輪君身狭? 母:不明
A子供:波知?春麻呂    別名:比岐
B高宮系図:欽明29年菱形山に八幡神宮奉斎。
C筑前の神功応神信仰を宇佐に持ち込んだとされる人物。辛島氏と組んで712年官社八幡宮を成立させた。
D扶桑略記:欽明32年宇佐八幡神が筑紫に現れた。豊前国宇佐郡厩峯菱潟池の間に鍛冶翁あり、甚だ奇異であるので比義は3年穀をたち籠居し御幣を捧げ、汝神ならば我前に現わるべしといったところ、3才の小児が現れ託宣して、われは第16代誉田天皇広幡八幡麻呂であるといったという。
E東大寺要録所引弘仁12年官符:欽明朝に豊前国宇佐郡馬城嶺に八幡大菩薩が始めて現れ比義は鷹居瀬をたて孫の多字を祝に奉りさらに菱形小椋山社に移し建ててその祝に供した。とある。
F性別不明。宇佐古伝では女性シャーマン説。
G新編姓氏家系辞書:大神(おおが)氏は大三輪即ち大神(おおみわ)氏の後裔であり、敏達天皇(572−585)の時代に大神比義なるものがあった。宇佐廟祝の始祖で三輪氏曲部の末孫であった。その子孫は豊後国速見郡大神郷(大分県速見郡日出町大神)に居住して栄えた。
H薬師報恩寺創建。
 
・波知
・竹葉子
・路麻呂
・諸上
・路足
 
3−2)春麻呂
@父:路足?(大神系図では比義となっている) 母:不明
A子供:諸男・胤守・宅女・乙足
B716年小山田社に移座。
 
・宅女
@父:春麻呂 母:不明
A兄弟:諸男
B八幡大神祝部
C天平20年(748)従8位上より外従5位下。(続紀)
 
・大神杜女(もりめ)
@父:胤守 母:不明
A子供:
B749年宇佐大神の上京に際し自ら乗輿に乗り東大寺を拝した。この時禰宜尼とある。天皇・太上天皇・皇太后も同時に行幸した。この日従4位下を授けられた。
B749年大神朝臣賜姓。八幡宮禰宜。外従5位下。
C754年薬師寺僧行信らの厭魅(呪術などにより皇位継承などの国家政治を動かそうとする行為)に坐して大神田麻呂とともに除名処分を受ける。日向国に配される。
D天平神護2年(766)元に復す。
 
3−3)諸男
@父:春麻呂 母:不明
A次男。子供:大神田麿・田人
B720年御験を調進。御輿大隅へ。(隼人の反乱)
 
3−4)大神田麿
@父:諸男 母:不明   
A長男 子供:国足
B749年朝臣姓賜姓。始めて主神司・禰宜に任じられた。これから以降は祝・大宮司・
禰宜は大神氏が就任することが多くなった。902年以降は祝・禰宜は辛島氏を排除し大神氏が独占したとされる。但し、1053年以降大神氏は衰退し豊後国に移動したとの説あり。豊後速見大神氏は比義と同族とされている。豊後大野の大神朝臣氏とは別流。
由原宮・石仏文化。
C766年外従五位下を授けられ豊後員外掾となる。
D774年大宮司。豊前国司解。
D天平3年の記事。
 
3−5)国足
@父:大神田麿 母:不明
A子供:種麿
 
3−6)種麿
@父:国足 母:不明
A子供:家弘
B託宣集:757年下宮創建の記事。実際に創建されたのは810年。
 
参考)
・神吽(1231−1314)
@大神比義末裔 若宮少宮司 大神諸平の3男
A託宣集の編纂者。
 
4)辛島氏人物伝
辛島氏には辛嶋勝姓系図・漆嶋宿禰樋田系図などがあるがいずれも不確かであるので宇佐氏と関連する人物の部分だけ人物伝として記す。
 
・素戔嗚尊
・五十猛命
 
・辛島勝乙目
@欽明朝大神比義と共に八幡宮の祝となる。
A宇佐縁起和銅元年記事
B和銅5年(712)鷹居社を造る。
C承和縁起:家主上祖。敏達朝(572−585)の時から祝職。
D欽明朝から和銅まで5代同名のシャーマン。
F太政官符弘仁5(814)宇佐八幡宮:
欽明天皇の御代辛島郷の西北角の地に初めて八幡神が現れ、泉水を掘り出し、口・手・足を洗われた。豊前の神崇光津比唐ェ酒を奉じたので酒井泉社と称した。後に瀬社に移り、さらに鷹居社に移った。崇峻天皇の御代、八幡神が鷹に成り化し、人を殺すので辛島勝乙目は五穀を断ち3年間祈祷し、宮柱を立てて斎敬奉った。よって鷹居社と名付け乙目を祝と為し、意布売を禰宜となした。
G宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起(844年)(辛島氏が作ったものとされている):
辛島氏の神が香春(かわら)岳を経て、欽明天皇の御代に八幡神は宇佐郡辛国宇豆高島*に天降る。荒城湖辺・酒井神社・宇佐河渡社(瀬社)崇峻天皇朝(588−592)に鷹居社に移り、鷹となり辛島勝乙目が3年間奉仕して社殿を建てた。乙目が祝。意布売が禰宜。天智朝(662−671)に鷹居社から小山田社に移り、波豆米が禰宜となった。その後宇佐氏の小倉山に移り宇佐氏と共に北辰社を建てた。
*比定地:稲積山(406m)。この山麓に6神社あり。神宮寺であった久全寺は辛島氏の氏寺か。(中野)
H託宣集(1313):
天童が現れて云う。「辛国城に始めて八流の幡を天降りして吾は日本の神となる。」
 
・黒比売
乙目の妹。采女。瀬社禰宜。
 
・意布売
祝職。鷹居社禰宜。和銅5年(712年)官社に認定され始めて任官。
 
・勝波豆米
@別名:代豆米
A宇佐宮禰宜。
B扶桑略記:養老4年(720)大隅・日向両国乱逆により朝廷は宇佐宮に祈請したが禰宜代豆米は神軍を率いて彼国を征しその敵を打ち平らげた。
C725年波豆米の託宣により八幡宮を小山田社から小倉山へ遷座する。
 
・古津米
推古5年(597年)祝職。
 
・志津米
古津米の子。648年酒井神社禰宜。
 
・志奈布米
@755年禰宜。
A765年大尾社に大神宮遷座。
 
・興曽米
@763年禰宜。龍麻呂と共に妙法堂建立。15年間禰宜。道鏡事件・和気清麻呂事件に関与。
A東大寺要録:天平8年(736)宇佐宮禰宜。正6位下。
B769年道鏡事件発生。和気清麻呂が再度の神託を聞きに参った時の女禰宜。
「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」と神託した。とされている。
C774年豊前国司和気清麻呂の裁定で改めて禰宜職となる。
 
・龍麻呂
宇佐宮祝。宝亀4年豊前国司解
 
・阿古米
@772年禰宜。773年以降は大神氏が禰宜職となる。
A宇佐宮忌子。(宝亀年間豊前国司解。)
 
・豊比売
@阿古米の子。
A宇佐宮忌子。(宝亀年間豊前国司解。)
 
・辛島勝娑婆
663年の白村江の戦いに辛島氏から倭軍として参戦し、唐の捕虜となった。(承和縁起)
 
・乙日氏
 
・赤蜂
豊比売の子。平安時代惣検校職となる。
 
・頼厳
12世紀以降宇佐惣検校職と酒井神社司職を護った。
 
・漆嶋登与売
瀬社祝部は漆嶋系が代々世襲したとされている。
 
登与売ー並高ー並末
この並末の流れが樋田氏であり樋田系図が残されている。
 
・漆嶋並高
・並末(樋田八郎)

5)宇佐八幡宮関連神社
5−1)宇佐神宮(大分県宇佐市大字南宇佐2859)
・名称:宇佐八幡・宇佐八幡宮・宇佐宮・
・社格:式内社・旧官幣大社・名神大社・豊前国一宮・勅祭社*
・祭神:応神天皇・多岐津姫命・市杵嶋姫命・多紀理姫命・神功皇后
・延喜式:八幡大菩薩宇佐宮・比売大神・大帯姫廟神社 三座 名神大社。
・由緒書(本文):当神宮は全国に4万社あまりある八幡宮の総本宮であります。神代に比売大神が馬城の峰(大元山)に御降臨になった。宇佐の地に欽明天皇32年(571)応神天皇の御神霊が始めて八幡大神としてあらわれ、宇佐の各地を御臨幸ののち神亀2年(725)に亀山の一之御殿に御鎮座になりました。
また天平3年(731)比売大神を二之御殿にお迎えし、のち弘仁14年(823)神託により神功皇后が三之御殿に御鎮祭されました。
皇室は我が国鎮護の大社として御崇敬篤く特に八幡大神が東大寺大仏建立援助のため神輿にて上洛されたこと、また和気清麻呂公が天皇即位にかかわる神託を授かった故事などは有名であり、伊勢の神宮に次ぐ宗廟、我が朝の太祖として勅祭社に列せられております。
*祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる神社。現在は宇佐神宮など16社である。
 
5−2)薦(こも)八幡宮(大分県中津市大貞9−1)
・別名:大貞薦神社・
・祭神:応神天皇・神功皇后・三女神
・行幸会:辛島一族の神事。三角池に生えている真薦で枕を作りこれを神験として宇佐宮に納めること。
・宇佐の祖宮・元宮。宇佐氏本貫地。
・創建:834−848年
・720年隼人反乱の時辛島波豆米はこの三角池に自生する真薦を刈って作った枕形の御験、薦枕をご神体に、神輿を奉じて日向まで行幸し、乱を鎮めた。という故事にちなんで
辛島一族が行幸会を伝承してきた。
・池守が三角池霊地の守護。(古伝)
・神職:池永氏
 
5−3)矢幡八幡宮(福岡県築上郡椎田町)
・別名:金宮神社  ・湊八幡・絹富八幡・金富八幡
・神職:矢幡氏
・旧地名:豊前国綾幡郷
・原始八幡神顕現の霊地。
・八幡宮元宮。
 
関連)奈多八幡宮(大分県杵築市大字奈多)
・祭神:比売大神・応神天皇・神功皇后
・創建:729年
・比売大神発祥の地
・託宣集:八幡神は伊予国と行き来していた時豊後国安岐郷奈多浜辺の海中三机石に着いたーーーとある。
 
5−4)大己貴神社(旧:大三輪神社)(福岡県朝倉郡筑前町大字弥永697−3)
・旧地名:筑前国夜須郡三輪郷
・祭神:大国主
・延喜式:於保奈牟智神社
・日本書紀:仲哀9年記事:神功皇后は諸国に令して船舶を集め兵を募ったが集まりが悪かった。皇后は「これは神のお心だ」と考え大三輪に神社を建て刀・矛を奉った。すると軍兵が自然に集まった。
・筑前国続風土記・太宰管内志にも関連記事あり。
・一説では日本最古の神社とも言われている。元々の三輪神社はこちらが大和のものより早く出来たのであるという説。邪馬台国九州説の一つ。
 
5−5)八幡古表神社(福岡県築上郡吉富町大字小犬丸353−1)
・祭神:神功皇后・虚空津比売(神功皇后の妹)
・鎮座時期:545年
・由緒:545年に「吾は息長帯姫なり。むかし、三韓征伐のおり軍卒集まり難しにより諸国を歴視し、このところに来たりて海辺の石の上にて神々を祭る。よって軍卒多く集まり船をも調達、険浪を渡り三韓を伐つ。しかるに後世これを知るものなし。今よりこの良き地に住みて永遠に国家国民を守護せんとす。汝この処に社を建て吾を祭れ。」との託宣が玉手翁にあった。これにより社殿を建てて祀ったのが始まり。
・古要神社と姉妹関係で共に宇佐宮の末社。放生会に奉納。
関連) 古要神社(中津市大字伊藤田)
祭神:神功皇后・虚空津比売(神功皇后の妹)
鎮座時期:不明 奈良時代?
・宇佐宮の放生会に奉納する傀儡子(くぐつ)舞で有名。宇佐八幡宮の末社。
 
5−6)妻垣神社(大分県宇佐郡安心院町妻垣)
・祭神:比売神・三女神(妻垣山縁起)  玉依姫(都麻垣略記)
・旧跡「一柱謄宮」跡伝承地。宇佐八幡宮「呉橋」伝承地の一つ。
・古伝:宇佐津彦の墳墓の地で神妻として小椋山から比売大神はここに遷座された。
 
5−7)香椎宮(福岡市東区香椎4−16−1)
・祭神:仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・住吉大神
・社格:官幣大社・勅祭社
・神功宮創建:724年
・歴史:仲哀天皇・神功皇后が自ら祠を建て仲哀天皇の神霊を祀ったことが起源。
・723年神功皇后の神託により朝廷が社殿を造営。724年竣工。
 
5−8)手向山八幡宮(奈良市雑司町434)
・祭神:応神天皇・姫大神・仲哀天皇・神功皇后・仁徳天皇
・社格:県社
・創建:749年
・由緒:749年東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺の守護神として勧請された。分社第1号である。その後色々変遷があった。1250年北条時頼が現在地に再建。
 
5−9)石清水八幡宮(京都府八幡市八高坊30)
・祭神:八幡大神  応神天皇・比淘蜷_・神功皇后
・社格:官幣大社・22社・勅祭社
・創建:860年
・由緒:859年空海の弟子大安寺の僧行教が宇佐八幡宮に参詣した折に「われ都近く男山の峰に移座し国家を鎮護せん」との神託を受けた。860年清和天皇の命により社殿を建立した。石清水の社名はもともと男山に鎮座していた石清水社に由来する。
・歴史:当社の御神前で7歳で元服して「八幡太郎」と称した源義家の父の頼義が、河内源氏の氏神とした壺井八幡宮は、石清水八幡宮を源氏の本拠地河内国石川郡壺井に勧請したもの。鎌倉の鶴岡八幡宮は、頼義が石清水八幡宮(あるいは壺井八幡宮)を勧請した鶴岡若宮にあり、源頼朝が幕府を開く際、現在地に移し、改めて石清水八幡宮を勧請したことに始まる。
 
5−10)離宮八幡宮(京都府乙訓郡大山崎町大山崎西谷21−1)
・祭神:応神天皇・神功皇后・酒解大神・比売三神
・社格:府社
・創建:859年 本宮が石清水八幡宮としている。
・由緒:石清水八幡宮の元社大安寺の僧行教が宇佐神宮に参詣した折に「われ都の近くに移座し国家を鎮護せん」と神託し、嵯峨天皇の離宮跡であるこの地にきた時、霊光を見て掘ってみると岩間から湧き水が出たという。
・製油発祥地・油座の総元締めとして繁栄した。
 
5−11)筥崎宮(福岡市東区箱崎1−22−1)
・別名:筥崎八幡宮
・祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫
・社格:式内社・名神大社・官幣大社・筑前国一宮
・創建:921年
・歴史:921年に託宣により筑前国穂波郡の大分宮を移し、923年に現在地に遷座。
・伝承:神功皇后が三韓征伐より帰国後、福岡の蚊田で誉田別を産む。その胎児を包む膜と胎盤・胞衣(えな)を筥に入れて祀ったのがこの宮である。
 
5−12)鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下2−1−31)
・祭神:応神天皇・比売神・神功皇后
・社格:国幣中社・別表神社
・創建:1063年
・由緒:1063年河内国の源頼義が石清水八幡宮あるいは壺井八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡(現:材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まり。1180年源頼朝が宮を現在地に遷した。1191年社殿焼失。改めて石清水八幡宮護国寺を勧請した。
 
5−13)壺井八幡宮(大阪府羽曳野市壺井605−2)
・祭神:応神天皇・仲哀天皇・神功皇后
・創建:1064年
・社家:源義家6男義時の末裔高木氏
・由緒(抄録):当地は1020年に源頼信が河内国国司に任じられて以降頼信、頼義、義家の3代にわたって河内源氏の本拠地として居住したところである。1064年「前九年の役」に勝利した頼義が私邸の側に河内源氏の氏神である石清水八幡宮を勧請したのが始まり。以後武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神とした。名付けて「壺井八幡宮」とした。以後鎌倉の鶴岡八幡宮が頼朝の時に総氏神となり当社は石川源氏の氏神となった。
 
(辛島氏関係)
5−14)筑紫神社(福岡県筑紫野市大字原田2550)
・祭神:五十猛命(白日別神・筑紫大明神)
・社格:名神大社
・由緒:筑紫の国魂を祀る名神大社。朝鮮系の神か。辛島勝氏系図参照。
 
5−15)古宮八幡宮(福岡県田川郡香春町大字採銅所2611)
・別名:豊比梼ミ
・祭神:豊比刀E神功皇后・応神天皇
・神職:長光氏
・由緒:香春岳で産出する銅を宇佐神宮のご神体(銅鏡)として奉納していたことが縁となり宇佐宮の祭神であった応神・神功皇后の神霊を勧請したことに始まる。
・香春神社の元宮。
・香春神社古縁起:採銅所の阿曽隈の社を信じ和銅2年新宮を勧請し奉る。
 
5−16)香春神社(福岡県田川郡香春町733)
・延喜式:辛国息長大姫大目命神社
・祭神:豊比刀E辛国息長大姫大目・忍骨(天忍穂耳)
・神職:赤染氏・鶴賀氏
・元々の祭祀者は辛島氏(承和縁起)
・709年創始。
・三代実録:豊比売命を辛国息長大姫大目としている。
・三所権現:一ノ岳:辛国息長大姫大目命(正体不明)新羅国から豊前国香春に渡来してきた秦氏集団が故国で祀っていた神を香春で再祭祀したとの説。
神代に唐土の経営に渡り崇神朝に帰座し、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一岳に鎮まった。
二ノ岳:天忍骨命(本当は新羅の御子説)
三ノ岳:豊比刀i本当は新羅の母神説)ーー>山麓採銅村へ遷座。
神武天皇の外祖母、住吉大明神の母。
・豊前風土記:昔新羅国の神が渡ってきて、この河原に住む。名付けて香春の神と申す。・香春神社縁起:嵯峨天皇朝に最澄が七堂伽藍を香春岳山麓に建立。賀春山神宮院とした。・宇佐八幡宮の元宮・古宮説。
・新羅からの渡来人鉱山技術者が信奉した金属精錬の神説。
・由緒:辛島勝姓系図
辛島氏は素戔嗚尊を祖とし、その子五十猛を奉載し、新羅を経由し、筑前国筑紫神社に五十猛を祀り次ぎに香春岳で新羅の神を祀り、さらに宇佐郡に入り、小椋山に北辰社を祀った。
 
5−17)鷹居(たかい)社(宇佐市上田字1435)
・祭神:仲哀天皇・神功皇后・応神天皇
・社格:旧県社
・創建:和銅5年(712) 諸説あり。
・由緒:八幡大神の御社を最初に奉建した霊地。
・辛島氏伝承:八幡神は欽明天皇の御代、宇佐郡辛国宇豆高島に天降り、大和国の膽吹嶺に移り紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現れ、乙梼ミ・泉社・瀬社・当社鷹居社・小山田社、現社地へと移った。
 
5−18)北辰社
・宇佐八幡宮第2之御殿摂社
・託宣集:北辰神は天空から降りた神で小椋山の地主神。
八幡大神は、小椋山にいた先住の地主神である北辰神に一緒に住んで法界衆生利益の願を発っそうと持ちかけたところ北辰神は、彦山に権現がいて一切衆生を済度していると言った。香春大明神も八幡大神に向かって同じようなことを言った。
・谷川健一:北極星を神格化した北辰神を妙見菩薩と言って鉱山に関係がある。北極星信仰は元々道教から出発したもので渡来人が持ち込んだもの。香春には妙見金鉱山がある。この近くには比盗_が祀られてある。香春では北辰信仰と比盗_信仰は一対である。
この北辰神と比盗_を宇佐の小椋山に祭祀したのは辛島氏である。
・天智朝後に宇佐氏・辛島氏が共同して小椋山に創建したとされている。(原始八幡神)
 
5−19)韓国宇豆峯神社(鹿児島県国分市上井898)
・祭神:五十猛命
・続日本紀:714年大隅国設置の翌年豊前国から約5,000人の民を隼人を教導するために移住させた。この時に彼等が奉斎する韓国神を遷座させて建立。
・宇佐記:571年豊前国宇佐郡菱形池の上の小椋山に祀られたのを当地宇豆峯の山頂に遷座され、さらに国司の進言により1504年現在地に奉遷した。
・別説:714年に韓国神だけでなく鹿児島神宮の八幡神も豊国から遷され国府のある国分平野の東西に配置された。
・旧曽於郡。
 
5−20)鹿児島神宮(鹿児島県霧島市隼人町内2496)
・旧名:大隅正八幡社
・祭神:天津日高彦穂穂出見尊・豊玉比売・仲哀天皇・神功皇后・応神天皇・中比売
・社格:式内大社・官幣大社・大隅国一宮
・創建:708年説
・祭祀者:辛島氏流漆嶋氏・酒井氏説。  桑幡氏
・由緒:あまりに古くて不明。後になって隼人族の地主神と秦・辛島氏が豊国から移ってきて八幡神との合祀が行われたとされる。
・境内に隼人の聖地石体宮の跡。彦穂穂出見尊宮跡。
・桑原郡
・大隅正八幡社こそ八幡宮の正統な元祖であると主張したことがある。(平安時代?)
(その他関連)
 
5−21)桜井神社(堺市南区片蔵645)
・旧名:上神谷八幡宮
・祭神:仲哀天皇・応神天皇・神功皇后
・創建:597年 本当はさらに古い神社であるがこの時旧神と八幡神を合祀したとされる。
 
5−22)平岡八幡宮(京都市右京区梅ケ畑宮の口町23)
・祭神:応神天皇
・創建:809年空海が神護寺守護神として宇佐八幡宮より勧請。
山城国最古の八幡宮。
・現在は椿の庭園が有名。
 
5−23)柞原八幡宮(大分市大字八幡987)
・旧名:由原宮・由原八幡宮
・祭神:仲哀天皇・応神天皇・神功皇后
・社格:旧国幣小社・豊後国一宮
・創建:827年延暦寺僧金亀が宇佐八幡宮より勧請して創建。
 
5−24)御調八幡宮(三原市八幡町宮田)
・祭神:応神天皇
・創建:769年和気清麻呂の姉広虫の配流地。ここに宇佐八幡宮から八幡神を勧請した。
社殿は877年藤原百川が造営したとされている。
 
 
6)宇佐氏関連系図
・宇佐氏概略系図(姓氏類別大観準拠 筆者創作系図)
・宇佐家系図
・異系図1・2・3(ホツマ伝)
・参考系図 宇佐公康著「古伝が語る古代史」参考
・(参考)天皇家詳細系図(10崇神天皇ー25武烈天皇)記紀系図参考
・(参考)天皇家詳細系図(26継体天皇ー50桓武天皇)記紀系図及び公知系図参考
・宇佐古伝系図 宇佐公康著「古伝が語る古代史」参考
・釈日本紀:中臣氏元祖系図
・大神比義系図(三輪叢書など参考 筆者創作系図)
・(参考) 宇佐大神氏系図(小山田家系図)
・(参考) 辛島氏系図
・(参考) 法然上人系図
・(参考系図)紀氏概略系図(筆者創作系図)
 
7)宇佐氏関連年表
 諸々の資料を参考にして筆者作成。信憑性は解析しないで伝承記事も併せ掲載した。
出典の項で空白の箇所は公的記録あるものが主であるが、一部出典不明のものもある。
<宇佐氏関係年表>
年代 記事 出典
神代 三女神宇佐嶋に降る
宇佐国造祖天三降命天孫降臨に供奉し日向に天降り
菟狭川上に住み宇佐明神を奉る。
日本書紀
宇佐系図?
神武時代 神武東征の時、宇佐津彦・宇佐津媛が一柱謄宮で
神武らを饗す。
・宇佐津彦を宇佐国造とする。
記紀
記紀・国造本紀
仲哀9年 神功皇后が三韓征伐勝利祈願のため筑後に大三輪社
を勧請。
日本書紀
488年? 御春豊玉が御春姓を賜る。
・この人物が初代「池守」と推定。
宇佐系図
宇佐公康著
雄略天皇時代 雄略天皇病気治癒のため豊国の奇巫が召される。 新撰姓氏録研究
526年 猛覚魔ト仙が求菩提山開く。 求菩提山縁起
507年 継体天皇即位。
527ー28年 筑紫君磐井の乱  記紀
531年 善正が彦山を開く。  彦山縁起
538年(552年) 仏教伝来
539年 欽明天皇即位
545年 八幡古表神社創建 神社縁起
539−571 突如神功・応神信仰が筑前海岸に起こった。
・辛島郷の西北角の地に初めて八幡神出現。酒井泉社
古風土記
官符弘仁5年
571年 八幡神が宇佐の地に現れる。大神比義らが祀る。
・大神比義と宇佐公池守が大神を祀る。
扶桑略記・他
宇佐系図
572年 敏達天皇即位
585年 用明天皇即位
587年 用明天皇の病で豊国法師らが内裏にあがる。 日本書紀
588−592年 辛島乙目が鷹居社を造り八幡神を祀る。 承和縁起
592年 推古天皇即位
596年 飛鳥寺(法興寺)完成
597年 和泉国に上神谷八幡宮が出来る。 櫻井神社縁起
604年 17条憲法制定。
645年 大化の改新
662−672年 辛島氏は鷹居社から八幡神を小山田社に移す。 承和縁起
663年 白村江の戦い。辛嶋氏倭軍として新羅と戦う。 承和縁起?
667年 武雄が宇佐公姓を賜る。
この人物が宇佐公池守の初代。
宇佐系図
宇佐系図
天智朝後? 宇佐氏・辛島氏で小倉山に北辰社を造る。 辛島系図
683年 豊国が豊前・豊後に分かれる。
この頃虚空蔵寺・法鏡寺が創建される。

託宣集
699年 日向国に稲積城築く。
700年 隼人反乱始まる。
701年 大宝律令制定。
703年 法蓮が豊前国の野40町を朝廷より賜る。 続紀
708年 大隅正八幡宮創建。
709年 辛島勝意布売が鷹居社禰宜となる。
710年 平城京遷都
712年 大神比義が辛島氏と組んで鷹居社を官社八幡宮
として成立させた.

・古事記編纂
託宣集
扶桑略記など
714年 豊前国の民200戸を大隅国に移す。 続紀
716年 (八幡大神を小山田社に移す。)  託宣集
720年 始めての勅使が隼人征伐祈願。大伴家持将軍。
・大隅・日向の隼人征伐。辛島波豆米の活躍。
・中津薦神社記事。
・八幡宮放生会の始まり。
・日本書紀編纂

扶桑略記
721年 法蓮の家族に宇佐君姓を賜る。 続紀
724年 聖武天皇即位
725年 小倉山(現在地)に一之殿を建て八幡大神を遷座。
薬師勝恩寺建立。
託宣集
733年 二之殿を建て比売大神を祀る。
・弥勒禅院創建。
託宣集
737年 朝廷が新羅の無礼を八幡宮に告げた。 続紀
738年 弥勒禅院・薬師勝恩寺を八幡宮内に合併移転。
弥勒寺と改称(我が国初の宮寺)
740年 藤原広嗣の乱で八幡宮貢献。
741年 八幡神宮に改称?
742年 橘諸兄が勅使として宇佐宮に参詣。
743年 聖武天皇大仏造営を発願。 続紀
744年 本格的放生会始まる。
746年 聖武天皇より八幡大神に三位が与えられる。
(・宇佐公池守八幡宮宮司になる。) 

東大寺要録
747年 聖武大仏造立を祈願。
・八幡宮神託。
748年 ・聖武金不足で唐からの輸入のため海上安全祈願。
託宣「輸入の必要なし。国内から供給可能」
749年 東大寺大仏建立に必要な黄金出土。
・八幡神神輿で東大寺へ。
・大神宅女・杜女氏に外従五位上授与。
・大神杜女・田麻呂に朝臣姓賜る。八幡神入京。
・手向山八幡宮創建。

・孝謙天皇即位
続紀
752年 大仏開眼。
754年 薬師寺僧行信らの厭魅に大神氏連座。大神氏配流。
併せて八幡宮の所領没収。
・これにより祭祀権を宇佐氏が独占。

続紀
弘仁官符
758年 淳仁天皇即位
763年 辛島与曽女が禰宜となる。
764年 称徳天皇即位
・道鏡が大臣禅師となる。
続紀
765年 宇佐公池守は大尾山に八幡宮を遷座する。 託宣集?
766年 大神田麻呂 復権
765ー767年 宇佐公池守馬城峰に中津尾寺(比売神宮寺)建立。 託宣集?
769年 道鏡事件。和気清麻呂が八幡宮(大尾山)に参向。
辛島興曽米が神託をした。
大宮司:宇佐公手人。
・和気清麻呂が大隅国に配流。

宇佐公康著
770年 称徳天皇崩御。光仁天皇即位。
771年 和気清麻呂帰京。
774年 和気清麻呂豊前国司となり大宮司:大神田麻呂
小宮司:宇佐池守 禰宜:辛島与曽女に決めた。
781年 桓武天皇即位
・ 八幡大神に大菩薩号を賜る。
・全国の寺の守護神として八幡神が勧請される。
782年 八幡宮は小倉山へ還座する。
784年 長岡京遷都
794年 平安京遷都
804年 最澄・空海が遣唐使派遣の途中に八幡宮参詣。
806年 平城天皇即位
809年 嵯峨天皇即位
810年 宇佐八幡宮下宮創建。
821年 大神氏・宇佐氏二氏を宮司に任じることになる。
宇佐公池守大宮司に就任?

宇佐系図
823年
八幡宮に三之御殿創建。神功皇后を筑紫香椎宮から分祀。
・空海が東寺に八幡神を勧請。
・淳和天皇即位
829年 空海が大安寺の別当になる。
833年 仁明天皇即位
844年 宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起(承和縁起)編纂。
850年 文徳天皇即位
857年 宇佐公佐雄 大宮司就任。
858年 清和天皇即位
859年 僧行教が山城国男山に八幡神勧請。
・離宮八幡宮創建。
・同時に奈良大安寺にも八幡宮が勧請される。
860年 石清水八幡宮創建
897年 醍醐天皇即位
901−923年 宇佐公姓は宿禰姓になる。
902年
宇佐公夏泉 大宮司就任。
・これ以降祝・禰宜職から辛島氏排除。大神氏が独占
921−3年 筑前国に箱崎宮造立。
938年 宇佐是憲 大宮司就任。 宇佐系図
948年 宇佐持節 大宮司就任。 同上
962年 宇佐守節 権大宮司就任。 同上
972年 宇佐貞節 大宮司就任。 同上
1024年 宇佐相規 大宮司就任。 同上
1029年 宇佐相方 大宮司就任。  同上
1035年 宇佐公忠 大宮司就任。 同上
1053年 宇佐公則 大宮司就任。これ以降大宮司職は宇佐氏
独占となる。
・これ以降大神氏衰退。豊後国に移動。
同上
1063年 鎌倉へ鶴岡八幡宮勧請。
1064年 壺井八幡宮勧請。
1080年 公相 大宮司  宇佐系図
1085年 公順 大宮司 同上
1123年 公基 大宮司 同上
1144年 公通 大宮司 同上
1157年  公房 大宮司 同上
1183年 平氏が安徳天皇を奉じて宇佐宮に詣る。 同上
1184年 緒方惟栄が宇佐宮を焼き打ち。 同上
1192年 鎌倉幕府開始
1214年 公仲 大宮司 同上
1221年 承久の変
1244年 公高ー公有  大宮司  同上
1299年 公世  大宮司  同上
1313年 「神吽」が八幡宮宇佐御託宣集編纂。 託宣集
1601−15年 細川忠興が宇佐宮を支援する。
8)宇佐氏関連系図解説・論考
8−1)宇佐氏関連
本稿は、前述の人物列伝・宇佐氏関連系図・宇佐八幡宮関連神社・宇佐氏関連年表を参照してもらいたい。
 古代豪族「宇佐氏」といっても多くの方々がピンとこないのが普通である。
しかし、宇佐八幡宮を知らない人は少ない。全国にある八幡宮の総元締めの神社である。ところがこの八幡宮がどんな経緯で九州豊前国宇佐の地に誕生したのかというと、未だにその真相は謎の部分が多いのである。この謎に近代的な感覚でメスを入れ非常な努力をして挑戦した地元の学者「中野幡能」という人物がいる。非常に多くの論文・著書を出し、我々アマチュアにも分かりやすい八幡信仰・宇佐八幡宮誕生の解明をしたのである。筆者はその総てを読んだ訳でもなく、理解した訳ではない。しかし、筆者が素朴に疑問を感じていた幾つかに応えてくれることになった。現在の八幡さんに関する通説になっていることの多くは、この中野幡能氏の貢献が非常に大だっと信じる。本稿にも多いに参考にさせてもらった。一方この中野とは異なる視点から「宇佐氏」にスポットを当てた形で注目を集めている人物がいる。宇佐八幡宮の大宮司家の嫡流筋にあたる「宇佐公康」である。神社伝承学という程ではないが、八幡宮の大宮司家に代々口伝の形で伝えられてきた宇佐氏古伝を、今自分が公にしておかなければ日本の歴史の真実が見失われてしまうという気概で、必死の思いで書き残した著書「古伝が語る古代史・同続編」がある。
筆者はこの本は、随分前に読んだことがある。
「本間かいな」と思いながら一気に正・続編2冊を読んだ。非常に興味ある内容であった。但し、古代史の専門家には受け入れ難い内容であろうな、と感じた。現在この大宮司家の末裔に言い伝えられた数々の、かつては他言を憚れた神社伝承は、どのように評価されているのであろうか。内容は非常に多岐にわたった古代史を背景に難解な今までに誰にも(上記の中野氏にも)知らせなかった宇佐氏古伝を数々述べている。本稿ではこの宇佐公康氏の古伝も多いに参考にさせてもらった。
さて、宇佐氏系図に関するところから解説していきたい。筆者創作系図である宇佐氏概略系図は、ごく一般的に知られている宇佐氏系図に関連公知系図を繋ぎ合わせたものである。
宇佐は菟狭・宇沙とも記す。
宇佐氏を語る時、総ての系図に出てくる重要人物は宇佐津彦・宇佐津媛である。この人物は記紀の神武東征伝に登場する人物で、宇佐国の国造祖となっている。ところがこれ以降の宇佐氏系図上の人物は、記紀には全く記事が出てこないのである。これは何を物語っているのであろうか。その最大の原因は九州の豊前国に限定された地方豪族であったことにあるだろう。宇佐氏は系図上からいえば天皇家と同じく現在にまで続く古い氏族である。
宇佐津彦の出自はどうなっているのかについても異系図1−4に記したように色々ある。一般的には、高皇産霊尊(高魂尊)系の天神系神別氏族と考えられている。
ところが宇佐古伝の中で宇佐公康は宇佐氏の始祖神は「高魂尊」であり、氏神は「月読尊」であると記している。ホツマ伝も似たような系図が記されている。一般的には月読尊には子孫はないとされている。現在も月読尊を祭神とする月読神社が、数は少ないが日本各地にある。宇佐氏と月読尊は普通の関係ではない。謎である。一般的に月神と月読尊は区別されているので注意がいる。
もう一つ筆者が疑問に思っていることがある。宇佐氏と宗像三女神の関係である。ホツマ伝及び宇佐古伝には宇佐津彦の母系祖先として三女神が関係している。
日本書紀の神代の記事の中に三女神が「宇佐嶋」に天降ったというのがある。この三女神とは素戔嗚尊の娘とされている市杵嶋姫・湍津姫・田霧姫である。この宇佐嶋に関しては古来色々議論があったらしい。ここでは豊前国宇佐郷にある御許(おもと)山(大元山・馬城峰)に比定する説を採用したい。標高647mで、頂上には3柱の巨石があり磐座として古来宇佐氏の聖地とされてきたところである。ここには宇佐明神・比売大神が祀られてあるとされている。
一方宇佐氏の祖は、高魂尊(たかたまのみこと)の子供とも孫ともされる天三降尊であるという説もある。
宇佐家系図では、この天三降尊と三女神を同一神視している。
ところで上記「宇佐明神」とは誰のことか。通常の文献ではどこにも記されていない。ところが前述の宇佐古伝には次ぎのように記してある。
憧賢木厳之御魂(ツキサカキイヅノミタマ)こそ宇佐明神だと。この神は天之御中主神直属の原始太陽神だとしてある。この御魂は天疎向津比売命(アマザカルムカツヒメ)または天照大日霊?貴命(アマテラスオオヒルメムチ)天照大御神の荒魂である。としている。
さらに
ーーー宇佐氏は歴史に登場しないはるか昔より(縄文時代よりもさらに前から)この日本列島に住んでいた菟狭族の末裔である。出雲族と対比の関係であった。それが西日本各地を転々と移り、最後に豊国宇佐郷に落ち着き宇佐津彦の登場となった。宇佐津彦は菟狭族の首長の名前で何代も同じ名前が使われた。その初代宇佐津彦が「思兼神」であり「月読神」である。この初代の宇佐津彦の妃が三女神(市杵島姫)である。その何代目か続いた宇佐津彦の最後宇佐津彦が神武東征伝に出てくる人物である。(宇佐公康説を筆者なりに要約)この三女神も宇佐氏の聖地御許山の宇佐明神を祀っていたとしている。この話は後述の宇佐八幡宮の第2殿の祭神に関係するので初めに記したのである。
 
さて宇佐氏の系図の話に戻る。一般系図も宇佐家系図(参考系図の宇佐津彦流の部分)も「布敷」までは一致している。ところが一般系図の井尻彦ー塩見公まで6代は宇佐家系図には無い。それ以降「御春豊玉」から「池守」まではほぼ一致している。それ以降はかなり異なる系図になっている。
この原因は、この「池守」という人物にある。宇佐古伝によると宇佐池守という呼称は特定の人物をさす固有名詞ではないようである。宇佐公康は御春豊玉が宇佐池守の初代で、以後宇佐公を賜った「武雄」の前まで宇佐氏の首長は宇佐池守とよばれていた。武雄以降は宇佐公池守と呼ばれ、武雄が初代「宇佐公池守」であり最後の宇佐公池守は「豊川」であったとしている。
このことが一般系図と宇佐家系図の不一致の原因と考える。筆者人物列伝は宇佐家系図に基づいて記した。父子関係が一部異なるかも知れないが、池守問題を古伝の説を支持すれば多くの疑問も解消するので、そのようにした。
宇佐家系図によると御春豊玉は仁賢天皇時代(488年?)の人物である。宇佐公武雄は白鳳時代(667年)の人物とされている。この間の宇佐氏の首長は代々池守と呼ばれていた。宇佐家系図の池守の記事の「−−−欽明天皇の御宇(539−571)(池守は )池上において神詠を奉る。その後大神比義と諸共に八幡大神を顕し奉る。云々。」の池守は武雄より約100年前の人物と考えられる。道鏡事件の時も手人・池守父子の記事(769年記事)があるが、この池守は系図に記された池守と判断する。さらに821年頃大宮司になった池守がいる。これは宇佐公池守の最後の人物とされている「豊川?」と判断する。
要するに宇佐家系図の池守の所に記されている記事は、前後300年位の総称池守の記事で大変混乱している。「古代人名辞典」でもこの人物は明らかでない。としている。古伝に従えば大凡上記のように解される。
東大寺要録に記された(746年記事)池守は、系図に記された池守のことと判断する。八幡宮宇佐御託宣集(以後託宣集と記す)などの765年大尾山に八幡宮移転。766年頃の中津尾寺の建立記事の池守もそうであろう。
要するに公的な記録に宇佐氏の人物が登場するのは宇佐津彦・姫以降は池守まで誰もいないのである。どこまでの人物が宇佐国造だったのか宇佐家系図でもはっきりしない。
527年に「筑紫君磐井の乱」に宇佐国造も磐井方として参戦し敗北し、国造職を解任されたとの説がある。(異説もある)
宇佐国造の姓は「君」であったと中野幡能は推定している。
宇佐古伝では754年に、それまで宇佐八幡宮の実権を握っていた大神(おおが)氏が厭魅事件に連座して公的な地位を追われ、替わって宇佐公手人・池守父子がその実権を握り769年の道鏡事件の際、宇佐宮の大宮司は宇佐公手人であったと記されている。
宇佐氏としての大宮司の初見は857年の宇佐公佐雄からである。延喜年代(901−922)に宇佐公夏泉が宿禰姓を賜り大宮司に任じられている。1053年宇佐宿禰公則以降大宮司職は宇佐氏が独占することになる。1144年に大宮司となった宇佐宿禰公通は朝臣姓を賜った。
さらに治承4年(1180)には正三位になった。平清盛の娘を妻に迎え太宰大弐の職に就いた。最盛期の宇佐氏の姿である。
この頃宇佐神宮の領地荘園の規模は西日本第一と言われるくらいだとされる。
源平合戦の時は平家方につき、敗走する平家・安徳天皇などを匿ったが、豊後の緒方惟義が源氏方につき宇佐八幡宮の焼き打ちに遇った。公則から公通までが宇佐氏の全盛時代といわれているが公通は同時に衰退のきっかけとなった。
これ以降鎌倉・室町と宇佐氏にとっては大変な時代となり南北朝時代は他の多くの神社と同じく同族が南朝・北朝方へと分裂して内争が続いた。最終的には宮成家と到津家に分かれ交替で大宮司職についた。その後多くの武将とも関わってきたが1601−15年中津藩の藩主になった「細川忠興」の支援を受けたことは八幡宮の歴史にも残されている。この細川忠興こそ、我が長岡京市にあった勝竜寺城で1578年に明智光秀の娘お玉(後の細川ガラシャ)と婚礼を挙げた人物である。中津藩付近には細川氏の色々な記録が現在も残されている。さらに調査してみたいが本稿では割愛した。
明治に入って両大宮司家とも男爵になった。宇佐公康氏は到津家の流れ。
宇佐氏系図の概略解説は以上である。ところが上記宇佐公康の著書で非常に奇異な祖先伝承が秘伝として伝わってきたとして記されている。これは宇佐八幡宮の専門家である中野幡能の著書にも無いものである。これをそのまま信じるだけの証拠は全くないし、示されてもない。これが神社伝承の凄さであり、摩訶不思議の話である。これに関する専門家のコメントは現在まで筆者は目にしていない。筆者の参考系図はそれを筆者なりに解釈して図にしたものである。
これは他の人物が、何の証拠もなく公開しても一笑に付されるかもしれない。ところが応神天皇を主祭神とする宇佐八幡宮の大宮司家の嫡男・宇佐公康氏(この人は大宮司ではない)が真面目に自分に古伝として伝わってきたことを敢えて公開したことに意味があるのである。しかも宇佐八幡宮の自己弁護・PRのために公開したものではなく、どちらかと言えば八幡宮にとっては、とんでもない誹謗中傷に当たる可能性が高い誤解を生じさす恐れのある内容である。しかし、日本の古代史解明にとっては由々しきことが書かれているのである。戦前でしたら大問題になったこと間違いない内容である。荒唐無稽な無意味な話と切り捨ててしまえばそれまでである。しかし、筆者はこの説をこのままで指示するつもりはないが一考の価値ありと判断して、下記に筆者なりに理解した範囲で概略を記す。詳しくは原本を読まれることを薦める。
@神武天皇の東遷の時、記紀に記述通り、神武一行は宇佐国に寄った。この時宇佐津彦・宇佐津姫夫婦は一行を歓待した。
Aこの時宇佐津彦は自分の妻を神武天皇に服従と忠節の証として差し出した。
B宇佐の地で神武と宇佐津姫の間に産まれたのが記紀で宇佐津姫と中臣氏祖天種子命の間に産まれたと記されている「宇佐都臣命」である。これは宇佐家系図では「稚屋」と記されている人物である。
Cこの稚屋は伊予国の越智宿禰の娘「常世織姫」を略奪し妻とした。この間に産まれたのが宇佐家系図で「押人」と記された人物である。この人物こそ後の真の応神天皇である。
稚屋は越智氏の恨みをかい、次の越智氏との戦で戦死。この墳墓が宇佐八幡宮のある小倉山(亀山)である。
D神武天皇はその後、宇佐津姫を連れて安芸国の多祁理宮(宮島の近く)に行った。この地で二人の間に「御諸別命」が産まれた。記紀では御諸別は崇神天皇の曾孫彦狭嶋の子供で東国で活躍し毛野氏の祖となっている人物である。
E神武天皇夫婦は共にこの地で亡くなりその墓は宮島の弥山にある。
F神武天皇の兄が景行天皇で、神武の遺志を継ぎ、九州各地瀬戸内で活躍し阿蘇国で没す。その子供の成務天皇は、長門国・筑前国を本拠地として活躍したが子供がなく景行天皇の子供である「倭武」の子供の仲哀天皇が後を嗣ぎ、神功皇后と九州の従わない部族(熊襲)の征伐を試みるが半ばで忠臣である武内宿禰に暗殺された。
G神功皇后と武内宿禰は不義の間柄となり、その間に誉田別皇子が産まれた。記紀ではこの皇子を応神天皇にしている。
H御諸別は神功皇后・武内宿禰・誉田天皇勢力を打ち破って誅した。自分の甥であり神武にとっては孫である「押人」を応神天皇として大和国高市郡白橿村の軽島豊明宮で即位させた。ここにはじめて天下国家を統一した。
神功皇后と誉田天皇は豊前国田川郡香原岳勾金に幽閉されこの地で亡くなった。誉田天皇は4才で早世した。武内宿禰は落ち延びたが行方不明。
I宇佐氏との関係は神武天皇の日向時代に産まれた子供「常津彦命」を宇佐津彦の養子として宇佐国造を嗣がせ、その養子として神武の子供「稚屋」を跡継ぎとし、その子「押人」がその後を嗣ぎその子供の「珠敷」が宇佐の首長として宇佐氏が嗣がれていくことになる。(一部明記されていないが前後の関係から筆者判断)
概略以上のように古伝は伝えていると筆者は理解した。
宇佐公康は記紀編纂時に宇佐氏はことさら上記事実を公表することをはばかり、事実を捏造して現在記紀に記されている宇佐家系図を公表したのであると記している。
 
8−2)宇佐大神氏関連
 一般的には大神(おおみわ)氏と言えば大和の三輪神社の社家であり出雲族の末裔であるとされる「大田田根子」の流れで大三輪氏ともいう(既稿「三輪氏考」参照)。地祇系神別氏族の代表氏族である。ところが宇佐国で活躍した大神氏は、何故か「おおが 」と称されている。名前が出てくる最初の人物は「大神比義」である。男性か女性かも不明である。宇佐家古伝では女性シャーマンだとしている。新編姓氏家系辞書では、比義について「オオガ氏は大三輪すなわち大神氏の後裔であり三輪氏曲部の末孫」と記してある。
古来出雲国から移ってきた人物、大和朝廷と関係ある大三輪氏の流れだとか諸説ある。ちなみに筆者の大神氏概略系図は三輪の高宮系図を原典としたと思われる三輪叢書に記されている系図を主に参考にしたものであるが、これには明確に三輪君身狭の子供として比義があり、その子孫も記されている。しかしこの系図は後年色々加筆された形跡があり現在宇佐大神氏を述べるには適切ではないとされている。
宇佐大神氏の流れを嗣ぐとされている「小山田氏」の小山田系図を中心に人物列伝を作成した。これによると比義の子供として春麻呂が記されている。一方概略系図ではその間に5代の人物が記されている。この違いは何故発生したのか。
春麻呂以降の系図は、小山田系図では不十分と判断したので概略系図を用いた。
宇佐大神氏と言えば宇佐八幡宮創建の最大の貢献者とされている氏族である。宇佐八幡宮誕生に関しては詳しく後述する。先ずは大神氏の系図解説をしたい。
大神比義と言う人物は宇佐八幡宮関係の諸々の文献では、早い時期では欽明朝から遅い時期では養老年間まで約150−200年間の活躍記事が出ている。はっきりしている記事は571年の八幡神(応神天皇)顕現記事。712年の官社八幡宮造立の記事などである。いずれも神社伝承などを基に記されたものであり、その総てが史実とは思われていない。
筆者は次のように考える。仮定:神社伝承はある程度年代的には正しい事象を伝えている。@宇佐大神氏の背景には筑前地方にあった神功・応神信仰*みたいなものがあった。
*日本書紀には仲哀天皇9年神功皇后は三韓征伐の勝利祈願のため現在の福岡県朝倉郡三輪町弥永に(大和大神神社から)三輪の神を勧請して大三輪社を創建とある。これに基づき大神氏の末裔であるオオガ氏が、応神・神功信仰を持ち出し普及させた。
A最初に歴史に登場する大神比義以前から神功シャーマニズム的なことを行う集団・一族が宇佐地方付近に存在していた。
B最初の比義は、欽明朝(539−571)頃の人物である。ちなみに概略系図の三輪身狭は雄略朝の人物とされている。また系図上、比義の甥にあたる三輪逆は歴史上有名な人物で、没したのが586年とされている。となると最初の比義と三輪系図の比義とは合理的範囲で時代的には合う。
C712年記事に登場する比義は最初の比義と同一人物ではない。三輪系図の比義とも時代的に合致しない。小山田系図で比義の子供とされている春麻呂に関しては716年の記事がある。これは712年の比義の子供ということで問題ない。
D以上から判断すると大神比義なる呼称をした人物が数代いることになる。これはシャーマンという特殊な一種の世襲的な職業においては充分考えられることである。これに類する例として上記宇佐池守の例が挙げられる。通称比義だが固有名は概略系図に示したような名前があったのではなかろうか。概略系図はその反映であり全くの虚偽とはいえない。但し初代比義から春麻呂までに5代も存在したかどうかは分からないが合理的範囲と筆者は考える。
E比義の中でも存在が間違いないのは712年の記事に登場する比義であり三輪系図でいえば諸上又は調足(路足)に相当する人物であろう。
よって筆者は三輪叢書の系図は比義の流れに関しても充分参考に出来るものと判断している。だからといって比義が大和王権の指示を受けて宇佐の地に派遣された人物とは直接的には未だ判断していない。
(但し中野説では比義は一人であるとしている。712年の記事に関連する人物だけ。)
小山田系図に戻る。
比義の子供である春麻呂は716年に八幡宮を小山田社に遷座したとある。(異説あり)春麻呂には多くの子供がある(三輪系図参照)娘の宅女は続日本紀で748年外従5位下が与えられ姪の杜女とともに女禰宜として中央でも活躍した。
弟の諸男は720年の大隅国での隼人反乱に活躍。その子供である田麻呂は聖武天皇に認められ749年に杜女と共に朝臣姓を賜るなど大神氏の名を中央朝廷に多いに広めた。ところが754年厭魅事件に連座(具体的中身不明)し杜女と共に官位剥奪配流された。これにより一時宇佐八幡宮のトップの座を宇佐氏に奪われた。しかし、774年和気清麻呂の裁定により再び大神氏が八幡宮のトップの座に返り咲いた。これ以降大神氏と宇佐氏の併存時代が1053年まで続く。それ以降は大神氏は豊後国に移動したとの説あり。豊後国速見郡大神郷を本拠地としてその後も栄えた。由原八幡宮(賀来社・現在名:柞原八幡宮)は、827年に延暦寺僧「金亀」によって創建となっているが、宇佐大神氏の末裔が築いたものともされている。豊後国大野郡の大神氏は、明らかに大和の大神氏の流れであり比義の流れではないとされている。大分県の石仏・魔崖仏は有名である。この建造には大神氏が関与したとされている。この大神氏が比義系大神氏か大野大神氏か両者なのかは筆者は判別出来ない。
 
8−3)辛島氏関連
 辛島氏は辛嶋氏・韓嶋氏とも記す。宇佐八幡宮の誕生発展に非常に関与してきた一族である。辛島氏の系図はすっきりしたものは無い。(辛嶋勝姓系図・漆嶋宿禰樋田系図)但し公知にされている辛島系図というものがある。参考系図として記した。これは非常に不思議な系図で専門家筋には一笑に付されているらしいが、一考の余地ありと思う。もう一つの参考系図「紀氏概略系図」を併せて載せた。紀氏については色々の系図があるが既稿「紀氏考」に掲載したものの一部を載せた。紀伊半島には古来「五十猛命」に関する伝承が多く残されている。紀伊は木の国であり、日本列島に木を朝鮮半島の新羅から持ってきた神が素戔嗚尊の子供である 五十猛命であるとされているからである。辛島氏も祖先伝承として同じ神を持っていることになる。但し紀氏の場合は、どこかの段階で天神系の祖神に替えられたようだが。この両系図を見ると宇豆彦と山下影媛、武内宿禰が出てくる。古来アマチュア古代史ファンの間ではこの共通性に注目がされている。どこかで両氏の伝承が交錯したものと思われる。辛島氏は九州であり紀氏は紀伊半島である。これを出雲族の過去の動きの証拠だとする説もある。どうであれ新羅系の臭いはする。
辛島勝系図では、「辛島氏は素戔嗚尊を祖とし、その子五十猛命を奉戴し、新羅を経由し、筑前国御笠郡「筑紫神社」に五十猛命を祀り、次ぎに香春岳で「新羅の神」を祀ってから宇佐へ入った」とされている。辛島氏の本貫地は豊国宇佐郡辛嶋郷とされている。
一方辛島氏伝承として奇妙な記事がある。
「八幡神は欽明天皇の御代、宇佐郡辛国宇豆高島に天降り、大和国の膽吹嶺(いぶきのみね)に移り紀伊名草海島、吉備神島と渡って、宇佐郡馬城嶺に現れ、乙梼ミ・泉社・瀬社・当社鷹居社・小山田社、現社地へと移った。」この宇豆高島は辛島氏の宇佐の本拠地辛島郷にある稲積山に比定されている。また馬城嶺は宇佐氏の神を祀る御許山のことである。勿論これにある八幡神は、上記原始八幡神(応神天皇は未だ習合していない)であろう。
これをみな正しいとするなら、辛島氏は新羅国ー筑前国ー香春岳ー宇佐辛島郷ー大和国ー紀伊国ー吉備国ー宇佐郷と転々としたことになる。時間的因子は不確かであるが何かを暗示しているのではとも感じる。ちなみに関連神社の項に記した堺市にある「櫻井神社」は宇佐八幡宮が確立するよりも前の597年にそれまでに祀っていた神と八幡神を合祀して上神谷(にわだに)八幡宮を創建したと伝承されている。紀伊名草地方は五十猛命を祀る神社の名所みたいなところである。何か謎めいている。
辛島氏は新羅から肥前国・豊前国田川郡(香春岳)・宇佐国稲積山へと進んだという説もある。
香春岳付近では秦氏が金属精錬などの殖産事業を古くから行ってきた。これが所謂秦王国と呼ばれる所(608年の遣隋使の返礼使である「裴世清」による隋書倭国伝の記事)である。秦王国の場所に関しては諸説あるが、ここでは豊国香春岳付近がそうであるという説に従うことにする。
秦氏は記紀によれば応神天皇以降に日本列島に渡来した氏族である。一方辛島氏については、渡来した氏族には間違いないであろうが、渡来時期は秦氏よりは前と考える。少なくとも秦氏とは同族ではない。伝承系図・及び伝承記事が全く異なる。後になって辛島勝姓が発生するが、この勝姓は秦氏に多い姓なので辛島氏は秦氏と同族であるという説が現在の通説のようになっている。筆者はこの説には与せない。ちなみに大隅国で活躍した辛島氏は勝姓ではない。勿論秦氏と辛島氏が婚姻関係などを通じて非常に密な関係があったことは推定される。宇佐葛原古墳は辛島氏の墓との説がありこの古墳は5世紀前後のものとされ、辛島氏はそれ以前に宇佐付近に来たものと推定されている。
参考として辛島氏口伝と言われている下記辛島氏出自伝承を記す。
「辛島氏の出自は朝鮮半島ではなく3世紀頃に中国に興った西周という国の王家出身である。辛島乙目の父方が西周王家流で母方はインドの釈迦族流の女性シャーマンであるとしている。倭国には紀元前後に中国を出て南九州に上陸後九州一円を20回も移転して最終的に宇佐の地に落ち着いた。」どうも釈然とはしないが秦氏系とは異なることを主張している。
宇佐氏関連年表にも参考までに載せたが、伝承記録として北九州・豊国付近 では大和地方と比べて相当早い時期に渡来系の道教・仏教の影響を受けた山岳修行集団が存在していたと思われる。その証拠が雄略天皇の病気を治したという豊国奇巫であり、求菩提山修験・彦山修験などである。呪術・医術・医薬・神託など日本古来には無かった類の当時としては、先進文化が既に存在したと考えられる。この中に辛島氏の祖先は関与してきたことが推定される。秦氏が関与したとすれば彼等のパトロン的存在と推定する。
辛島氏で歴史的に記事が残されている主な人物について述べてみたい。
始めに出てくる人物は「辛島勝乙目」である。太政官符弘仁5年(814)宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起(承和縁起)(844年)などに記事がある。この人物は性別不明だが通説では女性の巫女とされている。欽明朝から天智朝まで出てくるので、この人物も特定の個人というよりも辛島氏のなかで女酋的立場に立ち、神懸かりが優れた女性に代々「乙目」という名前が継承されたと考える方が妥当と判断する。承和縁起によると欽明朝に八幡神(辛国神)(応神天皇は未だ関係してない神:これを原始八幡神ともいう)は(香春岳を経て)豊国宇佐郡辛国宇豆高島(稲積山:標高406m)に天降ったとされている。この神を代々祀ってきたのが辛島乙目である。そして遂に崇峻朝に辛島郷内に「鷹居社」を造り祝(時期については諸説あり)となった。「辛島意布売」をその禰宜としたとある。この意布売の時712年に前述の何代目かの大神比義と共にこの鷹居社を官社としたと考える。(この辺りの記事は色々混乱あり)
663年の「白村江の戦」の折、辛島勝娑婆なる人物が倭軍として参戦し、唐軍の捕虜となった記事がある。北九州からも多くの兵士がこの戦にかり集められたことが窺える。
一方承和縁起には、天智朝以後に宇佐氏と共に小倉山に「北辰社」を造ったとある。
これは宇佐氏の比売神と道教と仏教の習合した辛島シャーマニズムと宇佐信仰が融合したものとされている。この段階も未だ原始八幡信仰の段階とされている。
扶桑略記では720年宇佐宮の禰宜であった「辛島勝波豆米」らが朝廷からの依頼を受けて大隅・日向国で隼人族が反乱を起こしたのを鎮圧するため神軍を率いてこれを征伐したとある。これが宇佐八幡宮の「放生会」のきっかけとなったとされている。
725年に八幡宮は現在地小倉山に移ったとされている。(諸説ある)
即ち宇佐神が祀られている北辰社が有る場所に遷座したのである。
次に769年の有名な道鏡事件の時の宇佐宮女禰宜として出てくる「辛島興曽米」という人物がいる。763年から禰宜となっており15年間その職にいたとも言われている。
和気清麻呂に神託を与えたのはこの人物である。古伝ではこれも乙目であると記されている。辛島氏の女シャーマンのリーダーだったのであろう。上記いずれの人物も血脈関係は筆者の調査した範囲では、はっきりしなかった。
ところで、それでは道鏡事件の最初に宇佐八幡の神託として道鏡が天皇になることを言った人物は誰かである。これは大神氏の巫女だとする説がある。和気氏考でも述べてきたがこの辺りの記録が実にはっきりしていないのである。後世に、この部分は抹殺したのかも知れない。
宇佐氏と辛島氏はどの時代でも協力関係にあったと思われる。辛島氏と大神氏の関係は複雑である。どちらもシャーマン系の一族である。902年以降祝・禰宜職から大神氏は辛島氏を排除したという記事もある。しかし、辛島氏はこの後も平安時代には惣検校職を努めたとある。
また辛島氏から漆嶋氏が派生し漆嶋氏から漆間氏が派生し、この末裔として美作国で浄土宗開祖法然上人が誕生したのである。
漆嶋氏は辛島氏とは別流であるという説もあるが、筆者は諸情報から上記辛島氏説を支持する。シャーマニズムによる託宣は14世紀の南北朝戦乱による神宮の荒廃及び女禰宜の消滅により無くなったとされている。
さてここで辛島氏に関して別の話を記しておこう。
続日本紀714年の記事に、豊前国の民200戸を大隅国に移すというのがある。
これは朝廷の隼人対策の一つであるとされている。大隅・日向にいた隼人族は700年頃から反乱を繰り返していた。そこで太宰府は、約5,000人もの豊前にいた殖産氏族である秦氏を中心に隼人を懐柔させるために送り込んだのである。この中に辛島氏もいたのである。
彼等は守護神を祀った。韓国宇豆峯神社であり大隅正八幡宮であった。大隅八幡宮は地元の隼人族の神と八幡神を習合したもので習合神社の創建は708年とされている。この時の八幡神は筆者は原始八幡神だと推定している。(その後応神八幡神になっている)
その社家は、当初辛島氏系の者達であったとされている。この件に関しては古来色々議論されている。宇佐八幡宮の主導権争いからの辛島氏の脱離、信仰神の違い(原始八幡神と
応神八幡神)など。やがて平安時代には八幡宮の本家は大隅正八幡宮であると称することにもなった。通説では、ここでも辛島氏は秦氏の一氏族的扱いになっている。筆者はそうではないと主張したい。韓国宇豆峯神社の祭神は五十猛命である。
いずれにせよ辛島氏は歴史の舞台から消えるため公的記録からはなくなるので、その真実の姿は非常に見え難い。平安時代後期に浄土宗を興した法然上人は辛島氏ー漆嶋氏ー漆間氏と流れた宇佐八幡宮に原点を有する人物とされている。武家「美作立石氏」と同族である。法然上人の母も秦氏の娘とされている。(法然上人系図参照)
辛島氏は謎の氏族である。さらなる調査が必要と思われる。
 
8−4)八幡信仰・八幡宮誕生について
 八幡を当初はヤワタと呼称していたが平安時代に菩薩号を賜って以降ハチマンと呼ぶようになったとされている。
さて古来この問題は、非常に難解な謎だらけのこととされてきた。戦後も諸説が混乱し我々アマチュアには、どれを信じたらいいのか分からない状態であった。この問題に一応の決着をつけた人物が中野幡能氏だとされている。筆者も色々な記事・著書に接した。宇佐八幡宮に関わる調査・解析を実に細やかに実施し、現在の感覚で合理的解明を学者の冷徹な目でしている。細かな点ではこれからもさらなる改良が行われるとは思うが、現在ではこの中野説がほぼ通説になっていると判断する。難解な部分もあるが筆者の理解した範囲で中野説による八幡宮誕生の経過を下記に記す。
詳しくは中野氏の著書を読むことを薦める。
@豊国には非常に古い時代から日本古来からの神信仰とは異なる渡来系・朝鮮系の神信仰が北部九州の香春岳経由などで入って来ていた。既に民間に普及していた道教、さらに公的伝来より以前から九州に入っていた仏教などの信仰もこれに習合されて朝鮮系の巫覡信仰を伴った山岳修験宗教が普及していた。宗教だけでなく薬・医術など当時としては日本の他地方にはない文化が展開していた。これはシャーマンである豊国奇巫(豊国法師とも)と呼ばれ、雄略朝には天皇の病気治癒のため朝廷に参内したほどである。これに朝鮮系渡来人である秦氏・辛島氏(筆者注:辛島氏を秦氏の一氏族のような扱いをしている)が関与していた。(中野は辛島氏は5世紀以前に宇佐郷に入ったと推定している。)
Aこれらの宗教の祭は、大陸寺院に見られるような多くの幡に囲まれた祭場で行われシャーマンによる託宣が行なわれた。この神を八幡(ヤワタ)神と呼んでいた。これを原始八幡信仰と呼ぶ。(筆者注:この段階では応神天皇と八幡神は習合していない)
B一方豊国宇佐地方にはさらに大昔より宇佐氏による馬城峰磐座信仰が祭祀されていた。
C天智朝以降に宇佐氏と辛島氏が共同して小倉山に宇佐氏の比売神と道・仏習合した@で記した神とを習合させた「北辰社」を創建し祀った。ここまでは原始八幡信仰。
D神功皇后は大三輪神を守護神として新羅征伐に成功したと伝えられていた。欽明天皇は新羅国の脅威に悩まされていた。九州北辺の大神氏族は応神天皇をこの地方の新たな守護神とし、これを豊国にも普及させてきた。大神比義は応神天皇の神格が欽明朝に出現したとして原始八幡神にこれを付与した。
E比義は欽明朝の人物ではなく、欽明朝における応神天皇霊の復活を主張した道士的巫覡である。比義は律令権力に接近して応神天皇を八幡神として祀る官社八幡宮創立(712年)に努め成功した。(筆者注:これ以降が八幡大神:応神天皇とする我々が通常用いる八幡さんである。)
F720年隼人族の反乱に八幡宮禰宜である(辛島)代豆米が神軍を率いてこれを征伐した。これが縁となって本邦では初めての神社における「放生会」が行われることになった。
G725年宇佐国造の日神三女神を祀る小倉山へ八幡宮を遷座。(筆者注:一之殿祭神:八幡大神建立)同時に神宮寺を建立。
僧法蓮は渡来系氏族と宇佐国造の文化統合に貢献。比義と法蓮はほぼ同一時代の人物。
H733年三女神を比売神として併祀(筆者注:二之殿祭神:比売大神)。
これ以降は公的記録に八幡宮記事が登場する。初出は737年突如として続日本紀にである。朝廷が新羅の無礼を伊勢神宮など5社に告げた中に八幡大神・比売大神が入っているのである。これ以降中央での記事が続出することになる。
823年になって三之御殿を創建して神功皇后を神託により筑紫の香椎宮より分祀した。
これで現宇佐八幡宮の姿が出来上がったのである。
 さて以上の中野説に対して古伝はかなり異なっている。その主部を紹介しておく。
イ)八幡宮の第1殿の祭神の応神天皇は真の応神天皇ではない。
ロ)八幡宮の第2殿の祭神比売大神は「妻垣神社」に遷座しており、現在ここに祀られているのは八幡大神即ち応神天皇の后妃であると考えるべきである。(別の考えも併記。)
ハ)八幡宮の第3殿の祭神の神功皇后は、本来ここに祀られる神にあらず。
即ち第1、第3の御殿の神は本来祀るべき神にあらず。第2殿の神は通説で言われている
神ではない。要するに現在の宇佐八幡宮の由緒書(5−1参照)は間違っていると主張しているように筆者は理解したが、いかがであろうか。
これは今更言ってもいかんともし難いことのように思える。
信仰とは所詮そんな物ではないだろうか。史実と信仰・神は異るのが世の常ではないだろうか。
712年までの経緯についても古伝はかなり異なる。これは宇佐氏・大神氏・辛島氏
それぞれが独自の八幡神誕生譚を持っておりそれを主張している訳だから中野幡能氏が現代感覚で整理したと解している。
本当は本件の謎解きが完了した訳ではない。今後も発掘調査などの進展でさらに変化する可能性大の課題であることには違いない。
ここで宇佐氏・大神氏・辛島氏がそれぞれ関与した神社を筆者独断で整理してみた。
宇佐氏:(神山:御許山)・薦神社・奈多八幡宮・妻垣神社・北辰社など
大神氏:筑前大三輪神社・八幡古表神社・古要神社・香椎宮・筥崎宮・鷹居社
    ・矢幡八幡神社・小山田社・由原八幡宮など
辛島氏:(神山:稲積山)・筑紫神社・古宮八幡宮・香春神社・鷹居社・北辰社・乙梼ミ
    ・泉社・瀬社・小山田社・韓国宇豆峯神社・大隅正八幡宮など
宇佐八幡宮:手向山八幡宮・石清水八幡宮・筥崎宮・鶴岡八幡宮など。
前述の宇佐八幡宮関連神社の項を参照して欲しい。
 
8−5)宇佐八幡宮と仏教について
 宇佐八幡宮は元々宇佐の字は付されていなかった。公的には山城国男山に石清水八幡宮が859年に勧請されて以降それと区別するために宇佐八幡宮とか宇佐宮とか呼ばれるようになったようである。説明の都合上基本的に宇佐八幡宮と記すことにする。
宇佐八幡宮は誕生当初より仏教に非常に関係していたのである。日本初の宮寺を有していたのである。このことが他の日本のより古い神社とは大きく異なっておりこのことがこの神社の一大発展と密接に関係しているのである。何故そうなったかは上記の誕生伝承からも容易であるがさらに詳しく述べておきたい。
続日本紀で宇佐氏に関係して最初に出てくる人物に僧「法蓮」がいる。703年の記事、721年の記事がある。宇佐氏の氏寺「虚空蔵寺」の開祖。宇佐八幡宮神宮寺の初代別当。とされた人物で宇佐君の姓を賜ったとされているのである。ところが宇佐系図には載っていないのである。宇佐公武雄の別名説もあるが武雄の孫説もある。生没年不詳であるが実在の人物と考えられている。その生涯は謎の部分も多いが豊国付近に古くからあった渡来系の山岳修験仏教・道教を若い時に身につけ、太宰府などの支援もあって大和飛鳥で遣唐僧「道昭」から法相宗を学び修め官僧となっている。豊国に帰国後、宇佐地方の仏教普及のリーダーとして活躍、多くの寺院を開いたとされている。この人物が辛島氏・大神氏・宇佐氏の一種のまとめ役的存在となり八幡宮の誕生の時から既に仏教的因子をその宮の中に導入していた。720年の隼人反乱に縁をもつ殺生を禁じる目的で行われる放生会は本来は仏教儀式であるが八幡宮の重要な儀式となった。神宮寺・比売神宮寺などにも法蓮が大きく影響を与え、宇佐地方を弥勒信仰の一大拠点としたとされる。これが後年最澄・空海の興味を非常にひいたのである。
仏教立国を目指した聖武天皇はこの八幡宮に異常なまでの関心を示した。
東大寺建立・大仏造立に関係して八幡宮の神託が果たした役割は大きい。これにより全国に展開することになった国分寺の総てに守護神として八幡宮を分祀することになるのである。また平安時代に入り八幡大菩薩という神と仏の合体した神名が朝廷より贈られた。空海もまた非常に八幡神を守護神として自分の関係する寺院に次々祀った。
空海が何故宇佐八幡宮と関係してくるかは既稿「和気氏考」を参照して欲しい。秦氏と宇佐八幡宮の関係は本稿でも辛島氏との関係で普通ではないことは明瞭である。和気氏と秦氏との関係、空海と和気氏の関係も和気氏考で考察した。そして空海は829年奈良の官寺大安寺の別当になり、その大安寺の紀氏出身の空海の弟子僧「行教」が平安京の守護神として859年石清水八幡宮を宇佐から勧請したのである。参考系図「紀氏概略系図」に示したようにこの行教の縁で石清水八幡宮は紀氏が宮司家、東大寺八幡宮の社家も紀氏となったのである。話は逸れるが、この行教の石清水八幡宮への八幡神の勧請の際に一時男山の淀川を挟んだ対岸山城国乙訓郡大山崎の嵯峨天皇の離宮「河陽宮」の場所に仮遷座してあったとされている。後に全国の油座の元祖となった神社である。それが現在の離宮八幡宮であると伝承されている。この神社の社家は秦氏系とされてきた。
この神社の伝承として宇佐八幡宮からご神体と共に宇佐の神官が供してきた。この神官が
そのまま離宮八幡宮の社家になったのである。これは何を意味するのであろうか。
日本の仏教は神仏習合により飛躍的に発展普及したのである。その先端をきったのが八幡宮なのである。
ここで長岡京市にある乙訓寺について一寸記しておきたい。和気氏考でも述べたが、この寺は乙訓地方で現存する最古の寺である。寺伝では推古天皇の勅願により聖徳太子が創建したとされている。この寺に遣唐使から帰国直後の空海が別当として2年間いた(811−812)。これは史実である。現在この寺の本尊は合体菩薩という33年に一度しか開帳されない秘仏がある。筆者も未だ拝見していないものである。この仏像の縁起が次のように伝承されている。「空海が自分の像を彫っていると、八幡大菩薩が現れ、協力して一体の像を造ろう、とお告げになり大菩薩は空海の肩から下を、空海は大菩薩の首から上をそれぞれモデルにして彫り、出来上がったものを組み合わせると寸分の狂いもなく合体したと。」この寺の境内の一角に現在も八幡宮が祀られている。
空海と八幡宮の関係が普通ではなかったことの証拠である。またこの寺を創建した当時
(発掘調査では、白鳳時代と推定されている)この地方の勢力氏族は秦氏であり、筆者はこの寺は半官立ではあるが、この地方の秦氏の氏寺だった可能性が高いと推定している。
ここにも秦氏ー空海ー八幡宮の関係を感じている。
さらに余談として平岡八幡宮の話を追加しておきたい。空海は乙訓寺に来る前にも和気氏の世話で一時だけ神護寺にいた。その時(809年)、神護寺の守護神として宇佐八幡宮から勧請して出来たのが山城国最古の八幡宮とされる平岡八幡宮がある。現在は椿の名所として有名である。
 
8−6)八幡神について
八幡神について色々の解釈・説があり、非常に難解である。中野説以外のものの主なもののそのほんの一部を紹介しておく。
・金達寿:八幡神は秦氏の信仰神である。託宣集「辛国の城に始めて八流の幡を天降して吾は日本の神になった」八幡神の託宣。この最初の八幡神が6世紀末大和王朝の蘇我馬子のバックアップで宇佐に来た大神比義によって応神信仰が八幡のなかに入り込み宇佐在来の比売神と合体して7世紀以後の応神八幡神となった。
・香春神社の辛国息長大姫大目。豊比売と宇佐の比売大神は同一である。
・八幡大神は吐農の神であり、日向国辛国城に降り馬城峰の三柱神をご神体とし、鷹居瀬社となり小山田社の神となり小椋山に遷って宇佐宮の神となった。という説。
・梅原猛:八幡宮の古い性格は海神であり、放生会は海の祭りである。
・八幡神は母子信仰の神である。
・託宣集:「古、吾は震旦国の霊神なりしが、今は日域鎮守の大神なるぞ。」
・福永光司:八幡とは諸葛孔明の四頭八尾の八陣図戦法を元に唐代に生まれた破陳楽舞で使われる八つの旗からきている。
・八幡神とは古代朝鮮のシャーマンの儀式で多数の幡を立てて祭る神(鳥に化身した神が飛ぶ様子)
・多くの幡を翻して遠征したために八幡大神と呼ばれ、素戔嗚尊のことである。各地の豪族も一族の勇猛な人物を八幡宮に祭ることがよくあった。誉田八幡宮もその一つ。
・ハタとは神の依代(よりしろ)としての旗を意味する。
・対馬が八幡信仰の原点である。海神神社は、元は上津八幡宮・厳原八幡宮などがある。
・八幡神は秦氏の神で農耕神・鍛冶神であった。
・宇佐古伝:御諸別命が古代中国の易を導入。日本固有の神から八神を選び四方・四隅の八方にまします「八幡神」と称して天皇の守護神として応神王朝の神祇官に祀られた。
 
8−7)全般考察
 本稿を執筆するにあたり、宇佐氏関連は、筑前・筑後・豊前・豊後辺りが舞台であり、それは同時に邪馬台国九州説の舞台の一つであることにぶちあたった。神功皇后の卑弥呼伝承にも関わってくる。これは大変である。敢えてこの問題には触れないこととした。
 宇佐氏は非常に古い豪族であることは推定出来るが、信頼できる資料に乏しい。最近の発掘調査により宇佐地方に3末−6世紀の前方後円墳が6基あることが分かり、これが宇佐国造のものであろうと推定されている。6世紀以降前方後円墳は無くなり非常に小型の古墳になっている。このことは6世紀頃に国造氏はここで滅んだか、もしくは勢力が衰退したものと推定されている。辛島氏のものと推定される古墳も見つかっている。一方6世紀初めには歴史上有名な「磐井の乱」が新羅国の支援を受けて北九州で勃発して朝廷より物部氏が派遣され鎮圧されている。このことからも、この地方は古来新羅の影響の大きい地方とされてきた。この時宇佐氏は磐井方に与して敗戦し、その勢力を落としたという説も出されている(異論もある)。宇佐家系図は現存するものが、いつ頃成立したものかはっきりしていない。平安時代より以前の人名系譜は非常に信憑性が低い。宇佐公池守だけが第3者の公的記録に出てくるが、非常に不明瞭であることは否めない。筆者は宇佐家系図に明記されている池守は実在し760年代に活躍した人物と考える。それ以外の宇佐公佐雄以前の人物・系譜は伝承記録の域を出ないと判断する。問題は、国造宇佐氏と宇佐公池守らの宇佐氏が同一氏族であるかどうかである。宇佐八幡宮の誕生初期に宇佐氏がどのように関与したかということと非常に関係する。上述したようにこの欽明天皇朝頃の伝承が実に不明瞭である。真に実力ある古代豪族宇佐国造氏が存在していたら上述のようなあいまいな伝承記録ではないはずである。宇佐公康の古伝でも、どうもはっきりしない。筆者はこの時期宇佐氏は完全に滅びた訳ではないが嫡流家は無くなり庶流(御春流?)の宇佐氏が御許山の祖先神をなんとか祀る程度の小氏族になっていたのではないかと推定する。系図に異説があるのもどれを本流としていいか不明だったとも考えられる。辛島氏や大神氏の勢力がむしろ勝っていたのではなかろうか。7世紀後半になって武雄が宇佐公姓を賜ったとあるがこの公姓の意味するところが微妙である。一般的に公姓は継体天皇以降に臣籍降下した皇別氏族に与えられた姓である。それより以前の皇別氏族又は地方の有力豪族の姓は君姓である。
ちなみに722年に法蓮の親族に宇佐君姓が与えられたと続日本紀にあるが、これとの関連はどう判断したらよいのであろうか。元々から宇佐氏は君姓であったとする説もある。
ここで宇佐公康の古伝について筆者の考えを述べておきたい。
現在の古代史の諸情報の中でこの古伝をそのまま受け入れることは不可能である。先ず時代的に応神天皇を約100年前即ち3世紀末から4世紀初頭の崇神天皇時代またはそれ以前に持ってきていることである。その2は、宇佐氏は応神天皇と同族としていることである。
もしそうであるなら真実は歴史上隠されたとしても宇佐氏の末裔が何故そこまで隠さなくてはならなかったのかが全く不可解である。神社伝承の宮司口伝としたとなった理由が不可解。余りに畏れ多くてとてもそんなことをいうことは憚れた???勿論立証することは不可能。但し、記紀に記された神話・神武天皇東征伝など大和王権誕生の部分が史実だというつもりは全くない。しかし、古伝のような応神伝承も今となっては多くの専門家を納得さすことは無理だと判断する。もっと違った角度からの応神天皇・神功皇后伝承を検証する必要がある。
一連の応神天皇を主祭神とする八幡宮誕生の背景から、逆に欽明天皇時代に記紀編纂時代とは200年近く前より、既に少なくとも北九州地方には応神天皇・神功皇后伝承があったことを示唆しているのである。
記紀編纂者が創作した話ではないと考える証拠伝承が八幡宮誕生伝承であるといえる。
筆者はこの事実に興味がある。712年に大神比義により応神八幡宮が誕生したとする通説に従ったとしても古事記編纂の年である。この原点が571年だという説は後年の付け足しだとしても712年には既に応神天皇は神にされている存在だったのである。
当時の朝廷と大神比義がどんな関係にあったのかは不明である。民間伝承されていた応神伝説・神功皇后のシャーマン伝承などが相当一般化されていたと考えるのが妥当である。
(筑前国大三輪神社・八幡古表神社・香椎宮・箱崎宮などの伝承記録)。
この段階では完全な地方神である。宇佐氏の関与がどの程度だったかは725年の小倉山への八幡神の遷座、733年の比売大神を二之殿に祀ったことから推察される。小倉山は宇佐氏の聖地である。大神氏の勢力がいくら強かったとしても宇佐氏の聖地そのものへの
八幡宮の建立は宇佐氏の協力なしには無理であると考えるのは妥当である。また二之殿の神は宇佐氏の祖先神そのものと通説ではされている。これには具体的名前がないので古来諸説ある。この二之殿の建っている所には辛島氏と宇佐氏が協力して北辰社という応神八幡宮とは異なる神が祀られていた。しかもその地は宇佐氏の古墳の場所でもあったとされている。(古伝では「稚屋」の墓)まさに聖地だったのである。
即ち733年の時点で宇佐氏・大神氏・辛島氏の3氏の大融合が成立したと判断する。但し、八幡宮経営のリーダーは大神氏であったと考える。
八幡宮と大和朝廷との関係は720年頃から始まるが、737年に朝廷から新羅の無礼を伊勢神宮と並んで告げたことが八幡宮の地位を一気に向上させた証拠とされている。741年には八幡神宮と改称されている(この記事は疑問もある)ことからも窺える。
宇佐八幡宮を天下に知らしめたのは聖武天皇である。天皇は東大寺建立・大仏造立にその政治生命を賭けた。これに日本の神社の中で唯一仏教受容の神社として八幡宮は神託でもって天皇を支援した。当時の神で神託という形で言葉で神のお告げをする神は八幡神だけだった。聖武天皇から見れば、天皇家の祖先応神天皇を主祭神とし、自分が信じる仏教を容認する神八幡神、さらに宇佐八幡宮からは大仏造立の銅の供給、精錬技術者の供給までされたのである。これは豊国の香春郷の秦氏が関わったとされている。(和気氏もこの辺りで関与していると筆者は推定している。和気氏も銅産出に関与し、秦氏と密接な関係があった。和気氏の朝廷への関与はこの頃からであろう。これが伏線としてあればこそ道鏡事件で和気氏の派遣は浮上したのである。)まさに国家守護神であると考えても不思議ではない。これを指揮したのは大神氏であった。これにより大神氏は五位の位・朝臣姓・膨大な領地を賜ったのである。ところが754年大神氏は突如追放された。理由ははっきりしていない。領地も没収されたのである。
ここで急遽八幡宮の経営権が宇佐氏に渡されたのである。併せて禰宜職に辛島氏が復権したのである。
765年頃八幡神は突如神託により大尾山に遷座したのである。理由は謎である。そして769年の道鏡事件を迎えるのである。本事件の詳しい記述は既稿「和気氏考」を参考にして頂きたい。この事件の後、和気清麻呂は大隅国に配流されている。その場所が現在比定されている。
鹿児島県姶良郡牧園町にある和気神社付近である。ここは旧大隅国で上述の714年に豊前国から秦氏らが大挙して移住してきたところである。偶然ここに流されたとは考えられない。当然朝廷の一定の配慮があったればこそ秦氏の支援が得られるこの地が選ばれたのである。余談であるが、769年和気清麻呂が配流された時、同時に姉の広虫も流された
。その配流地は伝承ではあるが備後国御調郡であった。その時彼女が宇佐八幡宮から勧請したとされる御調八幡宮が現存する。筆者の故郷の直ぐ近くである。877年に藤原百川が社殿を建立したとある。
そして、清麻呂は771年に帰京。774年には豊前国国司になっている。これも特別な意図があったものと推定される。ここで清麻呂は宇佐宮の管理体制に裁定を下している。
この裁定をどう判断するかで諸論ある。何故、大宮司職に大神氏が復権し、宇佐氏は少宮司職に格下げされたかである。辛島氏の禰宜職は当然である。謎である。道鏡事件の第1回目の託宣に宇佐氏が関与したとする説が強い。大神氏の失脚により宇佐八幡宮は経済的にも非常に困った。そこで宇佐氏は再度の八幡宮興隆を計る意味で時の勢力者である道鏡の側近勢力である太宰府と計って道鏡容認の神託をさせた可能性が大である。清麻呂はこれを見抜いており、このような裁定を下したという説である。宇佐古伝では勿論第2回目の神託のことに宇佐氏が関与したとしか記されていない。しかし、裏に何かあったと誰しも考える。
これ以降再度大神氏の時代となったのである。桓武天皇の時代になり和気氏は天皇から大変信頼された。その和気氏が支援したのが当初「最澄」であり次ぎに「空海」である。この二人の僧は共に宇佐八幡宮を参詣しその仏教面での支援をしたとされている。
空海は、さらに踏み込んで自分の関与する寺の守護神として八幡宮を勧請した。これが日本全国の一般寺院への八幡宮勧請のきっかけとなった。
宇佐八幡宮ー辛島氏ー秦氏ー和気氏ー空海という古代の一大人脈が浮かび上がってくる。
また和気氏は「和気使」と呼ばれる宇佐宮への勅使となり、和気氏の子孫が長く宇佐八幡宮と関係してくるのである。宇佐神宮は現在も数少ない勅祭社の一つである。
次ぎに八幡宮が一大発展するのは、清和源氏の八幡信仰である。
清和源氏の源頼義は河内国壺井(現:羽曳野市壺井)に八幡神を勧請し、壺井八幡宮を河内源氏の氏神とした。その子供の源義家は石清水八幡宮で元服をして八幡太郎義家と称された話は有名である。この縁で1063年に鎌倉に初期の鶴岡八幡宮が勧請されたと言われている。
正式には源頼朝が1191年に現在地に石清水八幡宮を勧請したことが現在に繋がる鎌倉鶴岡八幡宮とされている。
源氏は鶴岡八幡宮を氏神として鎌倉時代には守護地頭は全国の赴任地へ八幡宮を祀ったとされている。これにより日本全国の村々に鎮守様としての八幡信仰が広まった。
さらに明治以降の海外進出に伴い多くの海外領土に神国日本の象徴として軍神八幡神社が展開され軍国主義に利用されたとされている。
 
9)まとめ(筆者主張)
宇佐氏は、古伝に従えば有史の遙か以前からこの日本列島にいた菟狭族である。父系の先祖として月読尊・母系の祖先として三女神を持っている。日本各地を転々とした後、豊国宇佐郷にある御許山に祖先神宇佐明神をを祀って宇佐国造として栄えてきた氏族の累孫が
宇佐八幡宮の創建に関与し、紆余曲折の後大宮司職を世襲化し明治まで続いた。
宇佐八幡宮の誕生・及び発展に関して私見をまとめる。
@宇佐池守は数代続いたと言う説を支持する。
A大神比義は数代続いたという説を支持する。その結果一般公知の三輪叢書系図を支持することになる。
B辛島勝乙目は数代続いたという説を支持する。
C辛島氏は秦氏と同族であるという説は支持しない。
D上記@ーCの前提で中野説の大略を支持する。
E712年に辛島氏が中心に確立した渡来神にその基がある原始八幡神に大神氏が持ち込んだ応神・神功皇后信仰を習合して応神八幡大神が産まれた。さらに宇佐氏の祖先伝承神を習合して宇佐八幡宮が成立した。733年のことである。。この宮は当初から宮寺を有していた。この貢献者は官僧「法蓮」である。宇佐氏の出身者とされている。
F宇佐八幡宮誕生の最大の功労者は大神氏である。
G以上のことは712年時点で応神天皇・神功皇后伝承は既に一般庶民レベルで少なくとも北九州地方には広まっていたことを意味する。関連する古社も多く現存する。
戦後の記紀批判の流れの中で神功皇后・応神天皇などは、架空の人物、記紀編纂者・藤原不比等らの創作であるなどの説が通説化しているが、時代をどこに設定するかを別にすれば全くの机上の創作人物でないことは、はっきりしたと言えるのではないだろうか。
H聖武天皇の東大寺建立・大仏造立に際し、神仏習合の形を日本で初めてとった八幡神は神託の形で天皇を支援する唯一の守護神となって、一気に伊勢神宮に肩を並べる地位にのしあがった。
I道鏡事件は、さらに宇佐八幡宮の神力を示した形になり、益々日本全国に八幡宮が拡がった。
J八幡宮ー秦氏ー和気氏ー空海の関係でさらに仏教寺院の守護神として神仏習合を推し進めた。
K鎌倉時代以降、清和源氏の氏神として八幡宮が武士と共に日本全国の村々に広まった。
L宇佐八幡宮の大宮司は、色々紆余曲折の後、平安後期から宇佐氏が独占世襲となった。大神氏・辛島氏は歴史上から消えた。
 以上であるが未だ多くの謎の部分がある。早くても欽明天皇(約1400年以前)以降に誕生した新しい神である八幡神なのにである。応神天皇が実在した大王なのかどうかも現在の学説でははっきりしていない。もし実在していたら、4世紀末から5世紀初め頃の人物であるとされている。欽明朝から見れば僅か150年程前の話である。人々の記憶の中に充分残されている話である。宇佐八幡宮の伝承記録に571年に応神八幡神の誕生が
伝承されており、その伝承に基づいて712年に官社八幡宮が大神比義らによって設立されたことは重要である。朝廷が未だ関与していない時代に九州の宇佐の地で神様にされた誉田別命(応神天皇)がいたことに注目したい。    ( 2008−2−28  脱稿)
 
10)参考文献
・中野幡能「八幡信仰史の研究」吉川弘文館(1967年)
・中野幡能「八幡信仰史の研究上・下」吉川弘文館(1975年)
・中野幡能「八幡信仰」塙書房(1985年)
・中野幡能「宇佐宮」吉川弘文館(1985年)
・中野幡能「宇佐神宮の研究」国書刊行会(1995年)
・中野幡能「八幡信仰」雄山閣(2007年)
・飯沼賢二「八幡神とはなにか」角川書店(2004年)
・宇佐公康「古伝が語る古代史」木耳社(1990年)
・宇佐公康「続古伝は語る古代史」 木耳社(1990年)
・太田 亮「姓氏家系大辞典」
・日本の歴史 3・4・5 講談社(2001年)
http://www.e-obs.com/heo/frmain50.htm 他多数の宇佐八幡宮関連hp