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28)磯城氏考(含:十市県主氏・春日県主氏)附:中原氏
1)はじめに
 磯城(しき) 氏(正式には磯城県主氏というべきかもしれない)は、「記紀」の「神武紀、神武東征伝」において、「兄磯城(えしき)」「弟磯城(おとしき)」として初出する。記紀に登場する最初の古代豪族の1つである。本拠地は現在の志貴御県坐神社がある
奈良県桜井市大字三輪小字金屋付近だとされている。この地に10崇神天皇磯城瑞籬宮跡の碑がある。またこの近くに十市御県坐神社(橿原市十市町1)・多神社(奈良県磯城郡田原本町多字宮ノ内)などもある。
磯城県主氏は、古代豪族を論じる時、避けて通れない豪族の一つである。
しかし全くの謎の氏族である。実在したかどうかも現在なを判然としてない。記紀のいわゆる「欠史八代」の大王?の后妃の出自の多くは、磯城氏関連女となっている。事績は記録になく、磯城県主祖女と明記する后妃は、7例(記は3例)十市県主祖女は、2例(記は1例)春日県主祖女は、2例(記は1例)となっている。大王家誕生の裏に何等かの重要な関係をもった、元々(神武東征以前から)倭(三輪山西麓)の地にいた、在地豪族の1つで、東征してきた神武天皇(初代大王)に帰順した後、大王家の姻族となった一族を示唆しているように思える。
古代三輪山信仰は、大物主神(大国主の別称とされている)を祀っており、「磯城氏」とは、その大物主神を祖とする一族である、という見方もある。
過去多くの研究者、歴史学者等が色々の角度よりこの磯城氏問題に論究している。しかし何しろ確証を与える文献、証拠の類が少なく、古代神社学?からの言い伝え、僅かに記紀に残されている記事、系譜の類、10崇神天皇以降の色々な氏族の行動記事などからの類推、古地名、考古学、発掘調査、古墳研究などからの類推でしかない。
磯城氏に対する歴史観の基本的考え方として、主に次ぎの3つに分類出来る。
1)1神武天皇、神武東征、神代、欠史8代など紀元1−3世紀又は4世紀初め位までの記紀の記事は、全く史実を反映してない。8世紀、記紀編纂時の政治的背景により、史実の抹殺、改竄がされており、概ね「創作」された記述記事ばかりである。10崇神天皇から26継体天皇以前の記紀記述も年代・人物・事績は、史実と確認できるのは、中国・朝鮮など外国の古文献と一致するものに限定される。各大王の存在にも疑問多し。よって、10崇神以前である磯城氏などの存在は認められないし、日本の歴史学の対象外である。
2)1神武天皇即位が、紀元前660年位になるような記紀の紀年改竄は、間違いなく認めざるを得ない。しかし、初代神武天皇から9開化天皇までの大王(後の大王とは同じ意味ではないが)は、概ね実在していた。よってそれを支えた磯城氏をはじめとする后妃も存在していた。(その具体的名前、人数、誰がどの大王を生んだかなどは記述通りとは言えないが)又記紀に示された系譜なども紀年延長操作のために生じた不合理を是正するため色々細工がされている事は、認める。しかしその総てが後年の創作とは考えない。神話の部分にも神武東征部分にも欠史八代の部分にも史実が隠されている。これを復元解き明かすことこそ、日本の古代国家誕生の糸口となる、重要な研究である。との観点から磯城氏に関しても諸々の説が提案されている。
3)10崇神天皇が大和王権の事実上の初代大王である。これを強いて言えば「三輪王朝」
と呼び、ここから徐々に拡大発展(系譜的には切れながらも)したのが大王家である。
それ以前の記紀の記述は、後世の創作、虚構の産物である。勿論10崇神以降の記述にも史実を反映していないものも多くあるが、5世紀後半になると史実に合ってくる。
(中国、朝鮮の文献との整合性) この場合磯城氏は、考慮の対象外である。
 
筆者は、磯城氏の問題は、「邪馬台国論」「日本人のルーツ論」「大和朝廷誕生論」「大王氏(天皇家)万世一系論」「天皇家姻族論」「出雲神話」「伊勢神宮」「古代信仰」「百済ー新羅朝鮮交流問題」「大王氏歴代継承問題」「古代氏族、豪族発生問題」などなどと陰に陽に関係してくると思っている。少なくとも記紀にはどんなことが記されているのかを知った上での判断事項である。我々の世代は、この辺りのことは全く教育を受けていないのである。戦前の教育もひどいが、戦後の教育も偏っていたと思わざるをえない。世界の先進国・後進国を問わず、自国の歴史をこのような形で意図的に教えない国はない。少なくとも記紀という先人が残してくれた宝物があるのにである。現段階では、どんな説も確たる立証は不可能であるが、今後各種科学的研究調査の進展と、過去の諸々の研究を組み合わすことにより、少しづつ解明される問題と確信している。
後代の氏族の系譜研究などの資料(例;新撰姓氏禄)では、大きく分類して
・天孫系(大王氏)皇別氏族
・天神系(天孫に従って来た神)神別氏族
・地神系(元々大和又はそれぞれの地域に在地の神)神別氏族
・渡来系(元々朝鮮、中国からの渡来者)蕃族氏族
とし、その祖、分脈が記されている。しかし、磯城氏は、少なくとも10崇神朝までにその宗家が滅亡したためか、元々の磯城氏の名前ではその系譜が残されてない。
筆者は基本的に前述2)の立場にたって記紀及び古文献などに何が記されているかを紹介し、論考を試みたい。
2)の考え方を全面的に支持している訳ではない。しかし、1)3)ではあまりに学者、プロのみの世界過ぎて後年の各種歴史的事件、史実と言われるものを理解し難いものにすると判断した。
2)の考えに立つと色々な古代史の謎の解明が、少なくとも1)3)よりやり易い。それだけである。
磯城氏は、謎の氏族である。これがどのような形で後世に繋がっていくか諸説を参考にしながら考えたい。ちなみに後世歴史上活躍する史実として存在が確認されている多くの豪族、氏族(例;物部氏、葛城氏、尾張氏、大三輪氏、息長氏、阿倍氏、和邇氏など)が、その原点として磯城氏と関わりをもっていたとされる説は、多い。
(参考)上田正昭(大和朝廷ーー古代王権の成立ーー講談社学術文庫)
筆者には素朴な疑問が未だ解けないでいる。プロの学者もこの点の解明を避けておられるようでならない。それは、初期大和王権の誕生は、3世紀末から4世紀初めで記紀の10崇神天皇の頃であるとされている。この説は現在の通説となっており筆者もこれに異論はない。
前方後円墳の出現とその分布・規模・その時代考証などからもこの頃が大きな転機であったことは間違いない。
ではその最初の大王を10崇神天皇と仮定して、この最初の大王は、どのような出自の人物でどこから倭の地に来ていかなる経緯をへて王権を確立したのか、である。
・「それが記紀の神武東征伝であり、欠史八代である」、とは残念ながら直結しては考えられないのである。
・また、邪馬台国の存在は「魏志倭人伝」に記されている。この邪馬台国は近畿特に箸墓古墳近くに存在していた。この延長線上に初期大和王権が三輪の地に誕生した。
・いや、九州北部に存在していた邪馬台国の勢力が諸種の環境の変化で近畿地方へ移動してきて大和の地に王権を確立したのである。これの示唆的な記録が神武東征伝である。
・朝鮮半島から元々騎馬民族であった一団が九州から近畿まで一挙に攻め込んで大和の地に王国を築いたのが原大和王権である。などなど諸説がある。
筆者には現段階では、どれが本当なのか分からない。ここの部分が日本古代史最大の謎とされているところである。
ここ最近では、「邪馬台国近畿説」特に箸墓古墳ー纒向遺跡付近こそその地であるという説が脚光を浴びている。しかし、それが史実だとしても、その邪馬台国と記紀の10崇神天皇などとどんな関係だったか、欠史八代との関係はありやなしや、など未だ謎だらけである。発掘調査の進展を見守りたい。
ところで、欠史時代の記紀の王室系譜の后妃に、磯城県主を出身とする者が多いことは、注目に値する。これは磯城地方の首長らを大王?が服属させて、三輪祭祀権(大物主神祭祀権?)を掌握し、その地に磯城御県を設け、御県坐神社を祀って王領化していった事情をめぐる歴史認識が、このような系譜を支える裏にあったと思われる。十市、春日など周辺の県主氏の系譜が盛り込まれているのも、王権の拡充とあながち無縁ではあるまい。よって十市県主氏および春日県主氏についても併せて述べていきたい。
参考として3安寧天皇第3皇子磯城津彦を元祖とする皇別氏族十市宿禰から発生したとされる「中原氏」は、平安後期位から色々な人物が歴史上登場するので、併せて述べておきたい。
本稿に先立ち初期天皇家概論T・三輪氏考・物部氏考・和邇氏考・葛城氏考・賀茂族考Tなど既稿を参考にするとより理解は深まるであろう。
 
(参考)
・志紀御県坐神社 祭神:饒速日命(ニギハヤヒのみこと)
・十市御県坐神社 祭神:豊受大神・社伝十市県主祖大目。配神:市杵嶋姫
・多神社(正式名:多坐弥志理都比古神社)祭神:神八井耳・神沼河耳 太安麻呂など
 
2)磯城氏人物列伝
磯城氏に関しては通常の古代豪族のような列伝を記すだけの史料がない。個々の人物のみの記述になる。主に日本書紀記述名で記す。
 
・兄磯城(えしき)
@父:不明 母:不明
A兄弟:弟磯城黒速   別名:武兄磯城(たけるえしき)
B磯城の地の首長。
C記紀記事:神武東征紀
1神武天皇が熊野から大和の地に入ろうととしたとき、最後まで抵抗した氏族の首長。
弟が神武天皇側についたため敗北した。元々弟磯城より上位にいたと考えられている。
 
2−1)弟磯城黒速(おとしきくろはや)
@父:大物主? 母:不明
A兄弟:兄磯城
子供:磯城県主葉江?川派媛?猪手?
B紀記事:神武東征紀
上記兄磯城と同一記事の中に登場する。
神武の大和侵攻に功績あったとして、「磯城県主」を与えられた。
C以後この後裔一族の娘が天皇家の后妃になる欠史八代の姻族系譜の中心的人物である。
    
・川派媛(かわまたひめ)
@父:弟磯城黒速? 母:不明
A兄弟:磯城県主葉江?猪手?
子供:3安寧天皇?
夫:2綏靖天皇
B記紀記事:
(紀)2綏靖天皇后一書第1:川派媛。磯城県主の娘。2綏靖天皇后・3安寧天皇の母
本文の2綏靖天皇后・3安寧天皇の母は、事代主神の娘五十鈴依媛となっている。
(記)河俣毘売:師木県主の祖、2綏靖天皇后・3安寧天皇の母
 
2−2)磯城県主葉江
@父:弟磯城黒速? 母:不明
A子供:川津媛(阿久斗比売)・渟名城津媛・長媛・太真稚彦?
別名:波延
B記紀記事:弟磯城黒速と親子関係であったかどうかは記紀には明記されていない。
磯城県主祖と記されているのみである。事績的な記事なし。娘の婚姻関係の記事のみ。
 
・川津媛
(紀)3安寧天皇后一書第1:川津媛。磯城県主葉江の娘。
3安寧天皇后・4懿徳天皇の母本文の3安寧天皇后・4懿徳天皇の母は、事代主神孫鴨王の娘渟名底仲媛(渟名襲媛)となっている。
(記)阿久斗比売:師木県主波延の娘。3安寧天皇后・4懿徳天皇の母
 
・渟名城津媛
(紀)5孝昭天皇后一書第1:渟名城津媛。磯城県主葉江の娘。5孝昭天皇后・6孝安天皇の母
本文の5孝昭天皇后・6孝安天皇の母は、尾張連祖瀛津世襲の妹世襲足媛となっている。
(記)5孝昭天皇后・6孝安天皇の母は、尾張連祖奥津余曽の妹余曽多本毘売となっている。
 
・長媛
(紀)6孝安天皇后一書第1:長媛。磯城県主葉江の娘。6孝安天皇后・7孝霊天皇の母となっている。
 
・猪手
(紀)4懿徳天皇后の一書第1に磯城県主葉江の男弟猪手の娘泉媛という記事あり。古事記には記事なし。
 
・泉媛
(紀)4懿徳天皇后一書第1:磯城県主葉江の男弟猪手の娘泉媛。古事記は対応記事なし。
(記)4懿徳天皇后・5孝昭天皇母は、師木県主の祖賦登麻和訶比売(飯日比売)となっている。
 
2−3)太真稚彦
@父:磯城県主葉江? 母:不明
A子供:飯日媛
B記紀記事:
(紀)4懿徳天皇后一書第2に磯城県主太真稚彦の娘飯日媛の記事あり。
C記紀には父母の記事なし。葉江の後の磯城県主と推定。
 
・飯日媛
(紀)4懿徳天皇后一書第2:磯城県主太真稚彦の娘飯日媛。
(記)賦登麻和訶比売:師木県主の祖。4懿徳天皇后・5孝昭天皇母
 
・真鳥媛
@父:磯城県主? 母:不明
A夫:物部氏遠祖「伊香色雄」 子供:大売布
B子供「大売布」の流れから志紀県主が生まれそのさらに後裔が十市氏となったとの系図が残されている。即ち真鳥媛が有していた磯城県主の名跡が物部氏に継がれた形になった。
磯城御県坐神社の祭祀者も物部氏になったと考えられている。(中原氏系図参照)
C以上旧事本紀の記事。次ぎの参考事項も旧事本紀の記事である。
 
参考:3安寧天皇の時、ニギハヤヒの3世孫出雲色大臣が倭志紀彦の妹真鳥姫を妻として
大木食・六見宿禰・三見宿禰の3人の子供を産んだという記事あり。
この真鳥姫と上記伊香色雄の妃の真鳥姫は明らかに別人である。
 
2−4)磯城県主大目
@父:(磯城県主?)不明  母:不明
A子供:細媛
B記紀記事:
(紀)7孝霊天皇后の本文に磯城県主大目の娘細媛とある。
(記)7孝霊天皇后の記事に十市県主大目の娘細比売とある。
C記紀で磯城県主・十市県主と表記が混乱している。この辺りで磯城氏から十市氏が派生したものとも思える。「和州五郡神社記」の十市氏系図には大目は記載されていない。
 
・細媛
(紀)細媛:7孝霊天皇后・8孝元天皇母。磯城県主大目の娘
(記)細比売:7孝霊天皇后・8孝元天皇母。十市県主大目の娘
 
2−4)十市県主五十坂彦
@父:磯城県主大目?(異説あり) 母:不明
異説:和州五郡神社記:十市県主五十坂彦の父は春日県主豊秋狭太彦で5孝昭天皇の時春日県主が改名されて十市県主となったとある。
A子供:五十坂媛・真舌媛?
B記紀記事:
(紀)6孝安天皇の妃として十市県主女五十坂媛の記事あり。古事記には対応記事なし。
C「和州五郡神社記」に十市県主系図が記されている。これによると磯城県主系統に入らない人物である。
 
・五十坂媛
(紀)6孝安天皇の妃として十市県主女五十坂媛とある。(記)なし。
 
・真舌媛
「和州五郡神社記」によると父は十市県主大日彦であり五十坂媛は叔母である。
(紀)7孝霊天皇后一書第2:真舌媛。十市県主等女とある。古事記には対応記事なし。
 
(参考)新撰姓氏録記載 志紀氏関連記事
・河内国皇別:志紀県主:多氏と同祖「神八井耳命」の裔
・和泉国皇別:志紀県主:同上
関連神社:志紀県主神社(藤井寺市惣社1−6−23)祭神:神八井耳命
これは磯城氏とは直接関係にはない。多氏系なのに何故志紀神社となったのか謎である。
 
・大和国神別:志貴連(683年連姓となる):ニギハヤヒ孫「日子湯支命」の裔
関連神社:志貴御県坐神社(桜井市三輪字金屋896)
祭神:饒速日命(にぎはやひ)旧式内大社
これは磯城氏の名跡を物部氏が簒奪した後の姿と解されている。
建新川 倭志紀県主祖 垂仁侍臣(天孫本紀)
物部印岐美連公:志紀県主祖(天孫本紀)
・和泉国神別:志貴連:ニギハヤヒ7世孫「大売布」の裔:志貴県主
これも上記と同じく磯城氏の名跡を物部氏が簒奪した後の姿。
 
3)春日県主氏人物列伝
3−1)大日諸
@父:鴨王(事代主の子)? 母:不明
A兄弟:渟名底仲媛(3安寧天皇后)? 別名:武研貴彦友背命
B記紀記事:
(紀)2綏靖天皇后一書第2に春日県主大日諸の娘糸織媛の記事あり。古事記には対応記事なし。
C「和州五郡神社記」によると鴨王の子供とされ春日県主大社祝とも記されている。日本書紀では父親は不明であるが、春日県主と記されている。
D多神社の由緒を記したとされる「多神社注進状」によると、要約「綏靖天皇の時、神八井命がこの春日の地に住み、朝政に携わった。皇祖を祀るのに県主遠祖春日大日諸に司どらせた。崇神天皇7年に宮を創建しこの地を太郷と名付けた。昔春日宮、今多神社という」となっている。
 
・糸織媛
(紀)2綏靖天皇后一書第2:糸織媛。春日県主大日諸の娘。(記)なし。
 
3−2)大間宿禰
@父:大日諸? 母:不明
A子供:糸井媛・春日日子? 兄弟:糸織媛?
B記紀記事:
(紀)3安寧天皇后一書第2に大間宿禰の娘糸井媛とある。古事記に対応記事なし。
C「和州五郡神社記」によると大日諸の子供で春日県主となっている。
 
・糸井媛
(紀)3安寧天皇后一書第2:糸井媛。大間宿禰の娘。(記)なし。
 
3−3)豊秋狭太彦
@父:春日日子? 母:不明
A妻:豊秋狭太媛 子供:大井媛・五十坂彦?
B記紀記事:
(紀)5孝昭天皇后一書第2に豊秋狭太媛娘大井媛とある。古事記に対応記事なし。
C「和州五郡神社記」によると春日日子の子供となっている。春日県主である。
 
・大井媛
(紀)5孝昭天皇后一書第2:大井媛。豊秋狭太媛娘。(記)なし。
 
・春日千乳早山香媛
記紀では父母不明である。春日県主氏関係の人物らしい。              「和州五郡神社記」によると父は十市県主大日彦であり、真舌媛と姉妹である。
(紀)7孝霊天皇后一書第1:春日千乳早山香媛   別名:倭国早山香媛
(記)7孝霊天皇妃:千千速真若比売。子供:千々速比売
 
・春日建国勝戸売
記では父母不明である。春日県主氏関係の人物らしい。(紀)記事なし。
(記)日子坐王の妃の一人大闇見戸売の母親が春日建国勝戸売と記されている。
大闇見戸売と日子坐王との間に12垂仁天皇の后となった沙本毘売と沙本毘古の乱を起こした沙本毘古が生まれた。
 
(参考)4)中原氏人物列伝
・磯城津彦
@父:安寧天皇 母:
A兄弟:4懿徳天皇 子供:多祁太努美・和智津彦
B中原氏元祖
 
・和智津彦
@父:磯城津彦 母:不明
A子供:蝿伊呂居・倭国香媛・蝿伊呂妹
別名:和知都美
B淡路島の御井宮に祀られてある。(古事記)
 
・倭国香媛
@父:和智津彦 母:不明
A夫:7孝霊天皇 子供:倭迹迹日百襲媛・吉備津彦・倭迹迹稚屋媛
別名:蝿伊呂姉(はえいろど)、蝿伊呂泥、意富夜麻登久邇礼比売
 
・蝿伊呂妹(はえいろね)
@父:和智津彦 母:不明
A夫:7孝霊天皇 子供:彦狭嶋・稚武彦  別名:蝿伊呂杼
 
・蝿伊呂居
@父: 和智津彦 母:不明
Aこれ以降の系譜不詳
B十市氏・中原氏の祖である。
 
4−1)十市磐古
@父:物部系大部丹夫古 母:不明
A物部系大部氏より蝿伊呂居の流れを引く十市氏に養子に入ったものと推定されている。この大部氏は磯城県主の名跡も嗣いでおり、これで物部氏が磯城県主・十市氏ともに嗣いだ形になった。?
子供:多米
 
4−2)−4−12)系図あるが省略
 
4−13)十市勝良
@父:勝友 母:不明
A子供:春宗・良忠(良佐)
B従五位下、太宰少弐(少典)
 
・良忠(873−951)
@父:勝良 母:不明
A子供:以忠
B博士、主計頭、従五位上、少外記
Cこの流れが木曽中原氏に繋がる。
 
・中原兼遠(?−1181)
@父:兼経 母:不明
A子供:巴御前・今井兼平・樋口兼光・山吹(養女)など
兄弟:中原兼保、妻:木曽義仲の乳母。
B貴族「宗像氏」の大吉祖荘園の荘官。信濃の豪族。木曽の実力者。
C1155年木曽義仲の父「源義賢」が源義平(義朝の子供)により殺された。
この時幼い義仲(駒王丸)を匿い養育した。木曽義仲の乳人。
D1180年の義仲の挙兵を見届けて没。墓所:長野県木曽郡木曽町「林昌寺」
 
・中原兼保(?−?)
@父:兼経 母:不明
A子供:幸広・坊覚明・幸氏など 兄弟:中原兼遠の兄。海野氏に養子に入り、海野幸親と称した。
B海野氏は、滋野氏から興った地方武士団滋野党(海野氏・根井氏・楯氏・望月氏・弥津氏・小室氏)らの棟梁的存在であった。実質的に木曽義仲をバックアップした中心。
 
・巴御前(1157?−1247?)
@父:中原兼遠 母:不明(木曽義仲乳母?)
A夫:木曽義仲 子供:義高? 再婚夫:和田義盛 子供:朝比奈義秀?
兄弟:今井兼平・樋口兼光・山吹
B女武者。
 
・山吹(?−1184)
@父:海野氏?養父:中原兼遠 母:不明
A夫:木曽義仲 子供:義高?
B宇治川の戦いに義仲を探すが会えず敵に殺されたとされる。
 
・今井兼平(1152?−1184)
@父:中原兼遠 母:木曽義仲乳母?
A四男、
B義仲四天王(樋口兼光・今井兼平・根井小弥太・楯六郎)として木曽義仲の平家討伐で活躍。「平家物語」
C1184年源頼朝軍に敗れ義仲と共に自害。墓所:大津市晴嵐。
 
・樋口兼光(?−1184)
@父:中原兼遠 母:木曽義仲乳母?
A次男、巴の兄。
B義仲四天王の一人。
 
4−14)十市春宗
@父:勝良 母:不明
A子供:有象
B少外記、大外記、史博士、美濃介
Cこの後明経道を家職としていった。
太政官の外記を世襲。
 
4−15)中原有象
@父:十市春宗 母:不明
A子供:致時・致親・師光・致明・致行
B元々十市宿禰姓を名乗っていた。971年中原宿禰姓を賜る。974年中原朝臣姓を賜る。
C初代中原氏である。この時従兄弟の以忠にも中原姓が与えられた。
D菅博士、従四位下、治部卿、伊予守、大内記。
E978年記事あり。
F明経道の博士家。
 
4−16)致時
@父:有象 母:不明
A子供:貞清・師任・致仲・俊光
B従四位下、菅博士、伊予守、大内記、伊勢守、斎宮頭、大外記
Cこの流れから明法道を世襲。

4−17)師任
@父:致時 母:不明
A子供:俊光・師平・師章・貞親(養子)
B大内記、大外記、天文密奏。
 
4−18)師平
@父:師任 母:不明
A子供:師遠
B大炊頭、明経博士助教。
 
4−19)師遠
@父:師平 母:不明
A子供:師安・西小路師清・師元。
B図書頭。
Cこの流れが中原氏本流と思われる。大外記中原氏として存続。押小路家・
蔵人出納の平田家が興る。省略。
 
4−18)貞親
@父:師遠(養父)母:不明
A子供:俊貞・広宗・広資
B大外記。
 
4−19)広宗
@父:貞親 母:不明
A子供:広忠・資盛・広成
B博士
 
4−20)広忠
@父:広宗 母:不明
A子供:広安・親盛・広季・親光など多数。
B直講。
 
4−21)広季
@父:広忠 母:不明
A子供:広能・親能(養子)・(大江)広元(養子)
B博士。
 
4−22)親能(ちかよし)(1143−1208)
@父:参議・藤原光能・養父:広季 母:大江維光女(中原広季女説もある)
A子供:季時・親家(親盛孫養子)・親実(養子)・能直(養子)・親茂
B源頼朝の側近として重用された。1185年源範頼に従い平家追討のため周防国、豊後国などを転戦、その功により所領は九州をはじめ全国に散在。この縁で大友氏が豊後国を所領にした。鎮西奉行・京都守護・明法博士。
C鎌倉幕府の重役となった大江広元とも義兄弟の関係である。
D武家中原氏の祖である。
 
4−23)能直(1172−1223)
@父:近藤能成 親能(養父)母:利根局(大友経家女)
A子供:親秀他
B守護大名家 大友氏祖
C母親の里が相模国足柄上郡大友郷を領地としていた波多野経家家でこの領地を嗣いだ時
大友姓となった。能直がこの領地を嗣ぎ大友を名乗った。
D母親の姉が中原親能の妻であった。その縁で親能の養子となった。
E母親は源頼朝の妾であった。そのため能直は頼朝の落胤だとの噂があった。
F親能が頼朝の側近であり、母が頼朝の元妾であったことから、頼朝から寵愛された。
G豊後国守護に補任された。実際の赴任はしなかったらしい。以後この一族は九州の大大名となった。
 
以降省略
 
(参考)「武家・十市氏」
史料上では1347年の「興福寺造営料大和国八郡段米田数並び済否注進状」に十市新次郎の記事あり。中原氏流・十市宿禰流などの系図あり。南朝方の武人。説明省略。
・十市新次郎
・十市遠忠
 
(参考資料)欠史八代及び初期天皇皇居名、陵墓名・比定地
1神武天皇:畝傍山橿原宮 橿原市畝傍町(現:橿原神宮)(旧:奈良県高市郡)
・畝傍山東北陵 橿原市大久保町(旧高市郡)
2綏靖天皇:葛城高丘宮 御所市森脇(旧:奈良県葛城郡)
・桃花鳥田丘上陵(つきたのおかのうえのみささぎ)橿原市四条町井ノ坪
3安寧天皇:片塩浮孔宮 大和高田市片塩町(多久虫玉神社)(旧:葛城郡)
            橿原市四条町付近(高市郡)説
・畝傍山西南御陰井上陵(うねびやまひつじさるみほといのうえのみささぎ)
橿原市吉田町西山
4懿徳天皇:軽曲峡宮(まがりおのみや) 橿原市見瀬町?
・畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごたにのえのみささぎ)
橿原市西池尻町
5孝昭天皇:掖上池心宮(わきがみいけこころのみや) 御所市池之内玉手(葛城郡)
・掖上博多山上陵(わきがみのはかたやまのえのみささぎ) 御所市三室
6孝安天皇:室秋津嶋宮 御所市市室(葛城郡)
・玉手丘上陵 御所市玉手
7孝霊天皇:黒田廬戸宮(くろだいほとのみや) 磯城郡田原本町黒田(法楽寺)
・片丘馬坂陵 奈良県北葛城郡王子町本町
8孝元天皇:軽境原宮 橿原市見瀬町?
・池嶋上陵 橿原市石川町
9開化天皇:春日率川宮(かすがいざかわのみや)奈良市本子守町(率川神社)
・春日率川坂上陵(かすがのいざかわのさかのえのみささぎ)奈良市油阪町念仏山古墳
10崇神天皇:磯城瑞籬宮(しきみずかきのみや)桜井市金屋(志紀御県坐神社)
・山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)
天理市柳本町行燈山古墳
11垂仁天皇:纒向珠城宮
・菅原伏見東陵 奈良市尼辻町宝来山古墳
12景行天皇:纒向日代宮
 
5)磯城氏関連系図
・欠史八代磯城氏関連系図(日本書紀準拠 筆者創作系図)
日本書紀に記されている欠史八代の記事を系図の形にしたもの。
・欠史八代磯城氏関連系図(古事記準拠 筆者創作系図)
古事記に記されている欠史八代の記事を系図の形にしたもの。
・磯城氏関連推定系図(「太田 亮」説など参考 筆者推定系図)
日本書紀・古事記を参考・太田 亮説などを参考にして磯城県主氏を中心にした
系図に書き換えたものである。
・(参考)十市県主氏元祖系譜(原典:和州五群神社記)
奈良県教育委員会編「大和志料」を参考にした。
・春日県主系図(太田 亮説参考)
太田亮説を参考にして公知系図の一部を付け加えたもの。
・十市氏流中原氏系図(「姓氏類別大観」参考 筆者創作系図)
中原氏系図は異系図も多種ある。「姓氏類別大観」で示された系図を中心に諸情報を加え一部訂正をしたものである。
・参考系図「太田田根子」出自関連系図
古事記・日本書紀・先代旧事本紀などに記された三輪氏祖太田田根子の系図。
6)磯城氏関連系図解説・論考
 磯城氏を論じる時、関連してくる氏族として、天皇家を別にすれば、十市県主氏・春日県主氏、及び多氏である。本稿では多氏を除く3氏について並行的に解説していきたい。多氏については、別途「多氏考」を記す予定である。
最近(2007年5月)筆者は、上記各古代豪族の本拠地とされている三輪山西麓付近をマイカーで走った。三輪神社(大神神社)・志貴御県坐神社・十市御県坐神社・大和神社及び多神社などが、徒歩で廻れる距離に散在していることを確認した。現在の行政区割りは異なっている所もあるが、大昔はその大半は大和国磯城郡の中にあったものと思われる。(一部は大和国添上郡に属する)これらの神社の創建がいつ頃かは難問である。三輪神社については既稿「三輪氏考」の中で述べているのでこれを参考に言えば、その原点は縄文・弥生時代まで遡る可能性がある。いわゆる「大物主神」信仰の源である。古事記ではこの大物主の娘(比売多多良伊須気余理比売)が1神武天皇の后となり、その子供が、2綏靖天皇である。この2綏靖天皇の后が師木県主祖娘の河俣毘売がなって3安寧天皇を生んだことになっている。(筆者系図:古事記準拠参照)一方日本書紀では、事代主神の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」が1神武天皇の后となり2綏靖天皇を産み、2綏靖天皇の后には、同じく事代主の娘「五十鈴依媛」がなり、3安寧天皇を生んだとなっている。この部分は、何故か記紀で明らかに異なる記述になっている。
但し2綏靖天皇の后に関しては、紀の場合本文は、上記のようになっているが、一書第1に磯城県主娘川派(かわまた)媛と記されており、以降の各天皇の后についても本文は記と異なるが一書第1、第2まで記されておりこれも併せると綏靖天皇以降については、記紀一致していると言える。(筆者系図:日本書紀準拠参照)問題は1神武天皇の后の不一致である。
既稿の三輪氏の場合も大物主の扱いが古事記と日本書紀では異なっている。即ち「紀」では大物主は一見排除されているのである。
古来この不一致問題が色々議論されてきた。この点に関しては後述したい。
さて磯城県主であるが、紀の神武東征伝の中にかなり詳しい記事が記されている。
兄磯城・弟磯城の記事があり、倭の磯城地方の首長だったと思われる兄磯城が1神武天皇等の新勢力の倭への侵攻に激しく抵抗したのに対し、弟磯城の助けにより、これを制止し討伐に成功した。この功により弟磯城黒速を磯城県主に任命したとある。参考だが同じ記事の中に倭国国造に「椎根津彦」を、葛城国造に「葛城剣根命」を任じたとある。この「椎根津彦」の裔が「大倭氏」となり、その末裔が大和神社で倭大国魂神を祀ったとされている。古事記では3安寧天皇の后は師木県主波延娘「阿久斗比売」である。一方紀では3安寧の后は事代主の孫鴨王娘「渟名底仲媛」である。子供が4懿徳天皇である。
一書第1では磯城県主葉江娘川津媛となっている。一般的に波延と葉江は同一人物、阿久斗比売と川津媛も同一人物と考えられている。
ここで前述の磯城県主黒速と磯城県主葉江の関係が気になる。記紀には明記されていない。記述の年代を考慮すると親子と考えるのが常識的であろう。即ち上記2綏靖天皇后とされている師木県主祖娘「河俣毘売」と葉江は兄弟姉妹の関係でこの場合の県主祖というのが黒速と考えるのが妥当であろう。記紀には明記されていない。(磯城氏関連推定系図参照)
4懿徳天皇の后は記では、師木県主祖飯日比売である。紀の本文は息石耳娘天豊津媛、一書第1は、葉江男弟猪手娘泉媛、一書第2では、磯城県主太真稚彦娘飯日媛となっている。
師木県主祖飯日比売と磯城県主太真稚彦娘飯日媛は同一人物と考えられている。
となると、磯城県主太真稚彦なる人物と葉江の関係はどうか。記紀には記述なし。
これも時代の順に見れば親子であろう。葉江男弟猪手は明らかに葉江の弟と考えられる。記では飯日媛の子供が5孝昭天皇になっている。ここまでは大物主及び磯城氏の娘が天皇后になってきたが、これ以降様子が変わる。5孝昭天皇の后は記紀ともに尾張氏の娘余曽多本毘売(紀:世襲足媛)で子供が6孝安天皇である。しかし、紀の一書第1に波延娘渟名城津媛が記されている。6孝安天皇の后も記紀ともに5孝昭天皇の孫である忍鹿比売(紀:押媛)であり、子供が7孝霊天皇である。ここにも紀の第1書に波延娘長媛が記されている。即ち磯城県主波延娘は2綏靖天皇から6孝安天皇の4代の天皇の后になった可能性を記しているのである。この頃の天皇は親子継承と記紀は共になっており、この波延娘の4代の天皇后は疑問ありとされてきた。
さて7孝霊天皇には記紀ともに后妃が沢山記録されている。但し后は記紀ともに同一人物とされている。記では十市県主大目女細比売、紀では磯城県主大目女細媛となっており子供が8孝元天皇である。ここで記では初めて十市県主が登場する。しかもここだけである。
ところが紀では、6孝安天皇后の一書第2に十市県主五十坂彦娘五十坂媛が記されている。さらに紀では7孝霊天皇后の一書第2に十市県主等祖娘真舌媛も記されている。
この事が十市県主氏を論じる時古来色々議論されてきたことである。
本件も後述したい。
8孝元天皇・9開化天皇の時代には磯城県主・十市県主の娘は記紀記事には出てこなくなる。物部氏(穂積氏)の時代となる。即ち磯城県主氏・十市県主氏の没落を意味すると解釈されている。
次ぎに春日県主氏について述べておきたい。記では春日県主に関係する記事はない。痕跡と思われるものはあるが。よって紀の記事に従って述べる。
初出は、2綏靖天皇后の一書第2に春日県主大日諸娘糸織媛とある。次ぎに3安寧天皇后の一書第2に(春日県主)大間宿禰娘糸井媛、である。7孝霊天皇の妃に春日千乳早山香媛(記:千千速真若比売)もその流れを引くものと推定されるが、明記なし。
古事記に9開化天皇の子供「日子坐王」の妃である大闇見戸売の母親が春日建国勝戸売と記されている。これも春日県主の流れを引く者と推定されるが、明記されてはいない。
この大闇見戸売の子供「沙本毘売(紀:狭穂媛)」は11垂仁天皇の后となった。兄「沙本毘古(紀:狭穂彦)」は謀反を起こし殺されたとされ、記紀記録上有名な事件(狭穂彦の乱)とされている。以上が記紀に記載されている欠史八代付近の磯城氏関連氏族の概略解説である。
10崇神天皇の頃3世紀末から4世紀初め頃に大和王権が誕生したであろうというのが現在の通説だと思う。これに従えば、上述の欠史八代の期間に記紀記事にのみに登場する磯城県主氏・十市県主氏・春日県主氏などの活躍記事は一体何なのであろうか。
これに関しては、色々の学者が色々な観点から諸説を展開してきた。筆者は本稿の1)で述べたように、
「1神武天皇即位が、紀元前660年位になるような記紀の紀年改竄は、間違いなく認めざるを得ない。しかし、初代神武天皇から9開化天皇までの大王(後の大王とは同じ意味ではないが)は、概ね実在していた。よってそれを支えた磯城氏をはじめとする后妃も存在していた。(その具体的名前、人数、誰がどの大王を生んだかなどは記述通りとは言えないが)又記紀に示された系譜なども紀年延長操作のために生じた不合理を是正するため色々細工がされている事は、認める。しかしその総てが後年の創作とは考えない。神話の部分にも神武東征部分にも欠史八代の部分にも史実が隠されている。これを復元解き明かすことこそ、日本の古代国家誕生の糸口となる、重要な研究である。」との観点に立って
磯城県主及び関連氏族の問題を論考してみたい。
さて前述した記紀で大物主の扱いが異なる事に関し、論述したい。(三輪氏考参照)
「古事記」では、「事代主」は「大国主」の子供とされそれ以降の系譜は記されていない。一方「大物主」は、大国主とは明らかに別の神として扱われている。大物主と「三島溝咋耳」の娘との間に生まれた「富登多多良伊須気余里毘売」が1神武天皇の后となり2綏靖天皇を生んだとされている。また大物主と「陶津耳」の娘の間に生まれた櫛御方の曾孫が「意富多多泥古」としている。
「日本書紀」では、大物主と大国主とは異名同神と明記されている。大物主の子供が事代主であるとし、この事代主と三島溝咋の娘との間に「媛蹈鞴五十鈴媛」が生まれ1神武天皇后となり2綏靖天皇を生んだとなっている。またその媛の同腹兄弟に「鴨王」がいる(古事記には記事なし)。また大物主と陶津耳の娘との間に「大田田根子」が生まれたことになっている。
参考に「先代旧事本紀」のこの部分の記事を記す。
大国主と大物主は同神。大物主の子供に事代主がいる。事代主と三島溝杭娘の間に1神武天皇后五十鈴媛が生まれその子供が2綏靖天皇になっている。一方上記「鴨王」の替わりに「天日方奇日方」が記されており、この流れから太田田根子が出たとなっている。
(以上参考系図「太田田根子関連系図」参照)
この部分の不一致問題が古来色々議論されてきた。
大物主も事代主も出雲風土記に全く登場しない神なので、これは大和地方の神であり大国主とは全く別系譜であるとし、古事記の記述の方が古い伝承を伝えているという説が主流だと筆者は考えている。
しかし逆に日本書紀の方が古い伝承を伝えているという説もある。
例えばプロの学者である塚口義信は「三輪山の神々」学生社(2004年)の中で以下の4つの理由により日本書紀の方が古い伝承としている。
・古事記の大物主の丹塗矢伝説は鴨氏の伝説による可能性高い。書紀の事代主の八尋熊鰐伝説はこれと異なる。
・三島溝咋娘云々は記紀共に出てくる。これも鴨氏に関係した伝承と思われる。鴨氏と事代主は関係が深い。よって事代主を登場させている紀の方が本来的な伝承。
・崇神紀に記紀ともに記事がある太田田根子伝説を考慮に入れると古事記の大物主娘が1神武と結婚し2綏靖以降の天皇には大物主の血がつながっていることになり崇神にも繋がっているのでわざわざ太田田根子を捜す必要なし。自己矛盾。一方書紀は事代主娘なのでこの矛盾なし。
・天皇の出自(母親が誰かということ。紀本文では事代主関係の娘が多数。一方古事記では磯城氏関係の娘中心)と陵墓(その多くが事代主の関係した高市郡にあり磯城郡ではない)の関係が日本書紀の方が合理的。古事記ではこの関係が不合理である。
としている。(欠史八代天皇の皇居と陵墓比定地などは2)人物列伝の参考資料を参照)
筆者はこの説には与せない。
以下は上述と一部重複するが各氏族に分けて論考する。

6−1)<磯城県主氏>
 記紀の記述からみて、所謂「天神」系の氏族でないことは明らかである。1神武天皇が倭に侵攻してきた時には既に倭の地で或る一定の地域に地盤を持っていた弥生人の集団の首長であったことが分かる。その地は三輪山の西麓の現在の大神神社の近辺である。記紀の記事から彼等は当時の縄文人系の末裔も従えていたものと思われる。このことと、縄文時代・弥生時代からの倭の地の甘南備山である三輪山信仰とは無関係とは思えない。三輪山の神は大物主神である。(いつの頃からそうなったかは不明である)これを信仰してきた弥生人(初期古墳時代人も含め)は、所謂出雲系の弥生文化(銅器文明:銅鐸文明)を有する氏族と言われてきた。となると、磯城県主氏こそ、三輪山西麓にいた出雲系弥生人の代表氏族といえる。兄磯城は1神武天皇の侵攻に抗して討伐されたが弟磯城黒速は何故か、神武方に味方して褒美として磯城県主に任じられた。そしてその子供と思われる娘が2綏靖天皇の后になった。また息子と思われる磯城県主波延(葉江)の娘達及び血縁と思われる娘達が次々歴代の天皇の后になっている。磯城県主は正に外戚として当時としては最大の天皇家支援者となったことが記されているのである。
さらに古事記では1神武天皇の后が大物主の娘がなったと記されている。大物主は神である。これは何を意味しているのか。磯城県主兄弟らの親とは考えられないだろうか。即ち三輪山信仰の祭祀者である。これを大物主と記は記したのである。と考えると、母親はそれぞれどうだったかは不明であるが、兄磯城・弟磯城・比売多多良伊須気余理比売は兄弟姉妹の関係である。即ち4懿徳天皇くらい頃まで新勢力の天孫族天皇家の面倒を磯城県主氏が丸抱えで支えたことを意味する。倭の国造に任命された「椎根津彦」の一族は一体どうしていたのだろうか。これは「椎根津彦」が元々の倭の出身の人物でないことを意味する。一方三輪山の大和平野を挟んだ対岸にある葛城国の国造に任命された「葛城剣根」の一族はどんな役目をしたのか。磯城郡と葛城郡は、勿論徒歩で簡単に行ける距離しか離れていない。日本書紀では古事記と異なり、1神武天皇の后は葛城の神である事代主の娘
媛蹈鞴五十鈴媛がなっている。媛の母親は記紀共に三島溝咋娘(記紀で名前は異なる)である。三島溝咋は、磯城郡や葛城郡からは遠く離れた摂津国三島の人物ということになっている。この人物も天神系の人物ではない。出雲系の臭いのする人物である。但しこの1神武天皇の后問題の記事にしか登場しない人物である。前も後も全く不明である。
どうであれ記紀ともに初期天皇家の后は出雲系と思われる磯城氏およびその関係者の娘がなったと考えれば良い。即ち新興弥生人は倭の地に元来住んでいた旧弥生人の娘と婚姻関係を結び新旧の融和をはかった。ということを記紀編纂時にも記憶伝承されていたと理解する。勿論この考えには異論がある。それはまとめて後述する。
以上述べてきたことから次のような推論をしてみた。(筆者だけがしている訳ではない)弥生時代から三輪山信仰はあった。それを奉祭してきた中心氏族が磯城氏である。三輪山西麓最大の実力氏族であり、1神武が侵攻してきた時の首長は兄磯城と呼ばれる人物であった。兄磯城は神武に抵抗し滅んだ。一方弟の「黒速」は神武に服従した。そしてその功により磯城県主の地位が与えられた。神武は併せて黒速の妹とも思われる大物主娘を后とした。黒速は兄に替わって三輪山の奉祭者となった。これ以降何代かこの地位は続いた。しかし、少なくとも9開化天皇の頃には磯城氏はその勢力を著しく減じ、三輪山信仰の一部は天皇家自身の手中に入ったものと思われる。同時に磯城県主の名跡も物部氏系に簒奪されたと思われる。これが旧事本紀などに記されている系図では磯城県主娘「真鳥媛」が物部氏遠祖「伊香色雄」と結ばれ「大売布」という志紀県主祖を生んだという記事が物語っている。これは時代的には9開化天皇頃に相当する。
現在の志紀御県坐神社の祭神は「ニギハヤヒ」である。これは元々あったであろう磯城御県坐神社の奉祭者の名跡も磯城氏から物部氏に移り、その祭神も替えられたと解すべきであろう。一説によれば大物主と「ニギハヤヒ」は異名同神であるとも言われている。これらも物部氏信奉者の考え出した説であろう。筆者はこの説には与せ無い。
新撰姓氏録では磯城県主氏は記載されていない。志紀連氏はニギハヤヒを祖とする物部氏から別れたと記載あり。即ち平安時代初期には磯城県主氏は、全く歴史上から消え去った氏族となっている。では何故記紀は、磯城氏の記録を残したのであろうか。ある人はこの磯城氏の滅亡こそ出雲の国譲り神話の実態であるとしている。この件だけでも百家争論非常に面白いがどれも筆者には与せ無い説ばかりである。
10崇神天皇の時、倭国に災害・伝染病など多発して国が乱れた。その原因が占いにより三輪山の大物主神を祀る人物が大物主の血族でないことにある。となり、「大田田根子」という血族が捜し出されて、この人物が三輪山の神を奉祭するようになったら、国の災害が無くなった、云々の記紀の記事がある。これが三輪氏の元祖である。とされている。(参照:「三輪氏考」)この記紀の記事は記紀編纂時、古代豪族三輪氏の裔たちが自分たちの先祖をそのように創作して組み込ましたのだ、と言う説が通説めいている。しかし、筆者は先ず記紀に記されていることを理解し、どこで合理的にみて矛盾が生じるのかを自分の観点で確かめる必要があると判断している。
ところで、2)人物列伝の参考資料として、欠史八代関連各天皇の皇居・及び陵墓の比定地を記した。これで見ると大雑把に言って皇居は旧葛城郡に集中しており、陵墓は旧高市郡に集中している。これは后が古事記のように磯城氏中心であることと矛盾しているように見える。10崇神になって初めて磯城の地に都がおかれたことになっている。
これらに目を付け過って鳥越は「葛城王朝論」を提唱した。この説は現在では学会では、
議論の対象外の扱いになっている。
筆者は、上記一見矛盾する記事も色々の伝承が後世まで伝わっていた証拠の一つだと判断している。

6−2)<十市県主氏>
 古事記で十市県主の記事が出てくるのは、7孝霊天皇后として十市県主大目女細比売が記され8孝元天皇の母とされている部分だけである。一方日本書紀では6孝安天皇の后(一書第2)として十市県主五十坂彦娘五十坂媛が記されたのが初出である。7孝霊天皇の后(一書第2)として十市県主女真舌媛が記されている。上記8孝元天皇の母細媛は磯城県主大目女となっている。以上のことから磯城氏と十市氏の混乱が記紀で発生していることが古来指摘されてきた。この解釈はこの大目の時に磯城氏から十市氏が分離したため大目は2つの姓が伝承されたのであるという説が主流と思われる。
ところが、「和州五郡神社記」という古文書があり、それによると、十市県主の出自は事代主ー鴨主ー大日諸と繋がる「春日県主」であると記されている。5孝昭天皇の時に春日県主が改名されて十市県主五十坂彦となり、その息子十市県主大日彦の娘倭真舌媛・倭国早山香媛が7孝霊天皇の妃となった。という系図である。(筆者参考系図参照)
倭真舌媛・倭国早山香媛は日本書紀の十市県主女真舌媛・春日千乳早山香媛に相当する。古来色々評価の分かれる系図とされているが後年の偽書説が濃厚である。
十市県主と磯城県主・春日県主・後述の中原氏・十市氏の関係が実に謎である。
十市県は現在の十市御県坐神社付近であったろうとされている。この神社と1神武天皇の息子で2綏靖天皇の同腹兄にあたる「神八井耳」が創建したとされる春日神社の現在名多神社は距離的に非常に近い関係にある。この多神社付近が元々春日県と呼ばれた所であるとの説あり。磯城(志紀)御県坐神社 も方向は異なるが十市御県坐神社からはそう遠くはない。
このことは欠史八代の記紀記事を裏付ける証拠にはならないが、参考にはなる。
この三輪山西麓一帯に磯城県主・十市県主・春日県主が時代的に多少のズレがあるが存在しており天皇家へ娘を后妃として出していたと記紀は記録しているのである。
平安末期から鎌倉時代に歴史上多くの活躍人物を輩出した中原氏が十市氏の累孫でありその元祖は3安寧天皇の息子「磯城津彦」でありこの流れが十市氏であり、これに物部氏系の血脈が入った後も十市氏を称していたが、平安時代後期になって中原氏に改姓された。別流が戦国武士十市氏であるとされている。中原氏については後述する。筆者は磯城県主から十市県主が出て共に物部氏にその名跡を簒奪されたとの説を支持したい。よってこの2県主の元々の姿は消し去られたのである。記紀の欠史八代の中に閉じこめられたとも思われる。

6−3)<春日県主氏>
 春日県主の記紀への初出は日本書紀2綏靖天皇の后の一書第2の春日県主大日諸娘糸織媛である。次いで3安寧天皇后一書第2に大間宿禰女糸井媛である。大間宿禰は春日県主と明記はされていない。が一般的に春日県主と考えられている。十市県主元祖系図参照。
古事記には明記された記事はない。日本書紀の5孝昭天皇后の一書第2に出てくる倭国豊秋狭太媛女大井媛は春日県主豊秋狭太彦の娘と考える説もある。古事記にも記事がある7孝霊天皇の妃の一人春日千乳早山香媛(記:千千速真若比売)も春日県主の出身説あり。同じく古事記に登場する「彦坐王」の妃の一人「大闇見戸売」の母親が「春日建国勝戸売」と記されている。この女酋と思われる人物も春日県主の関係者と見られている。
この大闇見戸売と彦坐王との間に狭穂彦・狭穂媛兄妹が生まれ、狭穂媛は11垂仁天皇の后となった。ところが兄狭穂彦が謀反を起こし妹狭穂媛は11垂仁天皇を捨てて兄について兄妹共に殺される話が記紀に記されている。
以上が春日県主に関係あると思われる記紀記事である。
春日県主の本拠地は大和国添上郡春日郷である。現在の多神社がある所付近とされている。
春日県主のその後がどうなったについては、諸説ある。
和邇氏にその名跡が嗣がれたという説がある。
(太田 亮説)それによると、5孝昭天皇の皇子に和邇氏の祖とされている「天足彦国押人」がいる。この孫に姥津媛・妹姥津媛・姥津彦がいる。姥津媛は9開化天皇の妃で彦坐王の母である。妹姥津媛はその彦坐王の妃である。上述したようにこの彦坐王と春日の女との間に出来た息子狭穂彦が謀反を起こしたため、連座により春日県主の所領は没収され、
彦坐王のもう一人の妃の兄である姥津彦の息子彦国葺(春日和邇臣祖)にその春日の所領が引き継がれたのである。元々和邇氏は大和国添上郡和邇を本拠地としていた。その一部がこの大和国添上郡春日郷の地に移ってきた。これが春日和邇臣となり、後に春日臣を称することになるのである。(既稿「和邇氏考」参照)このあたりのことを筆者推定系図として記した。
上述したように、一般的には春日県主の後継者は十市県主氏であるとする説が強い。
それは前述の和州五郡神社記から来る説である。
筆者はこの説は採用しない。よって磯城氏の推定系図のような太田説に近い考えに与する。
理由は「春日」という名称は、その後も和邇氏により継承されており、十市県主氏との接点を立証し難いからである。十市氏と磯城氏は、ともに後に物部氏によって簒奪されたと考える。
一方、「多神社注進状」(1149年)という多神社の由緒を記した有名な古文書がある。古来春日県主氏を語るとき必ず引用されてきた。どれだけ信用出来るかは別として人物列伝の項でも記したように、要約「綏靖天皇の時、神八井命がこの春日の地に住み、朝政に携わった。皇祖を祀るのに県主遠祖春日大日諸に司どらせた。崇神天皇7年に宮を創建しこの地を太郷と名付けた。昔春日宮、今多神社という」となっている。
神八井耳は1神武天皇の子供で2綏靖天皇の同腹兄である。後世多氏祖とされている人物である。多氏については本稿では考察を省略するが、上記注進状によれば春日宮は神八井耳が創建したものである。その祭祀者になったのが春日県主大日諸だと記してあるのである。この大日諸なる人物は記紀では出自が明確ではない。
しかし、十市県主系図・旧事紀・日本書紀などの各種系図を検討すると、どうもこの人物は複数の名前を有しており、事代主の子供の鴨王の子供である。と推定されている。となると日本書紀に従えば神八井耳とは従兄弟の関係である。同じく従兄弟である2綏靖天皇に自分の娘を后に出したことになっている。即ち天皇家に非常に近い地祇系の神別氏族ということになる。磯城県主氏とも非常に近い関係と見られる。(古事記と日本書紀とで大物主が中心か事代主が中心か異なることに注意)上述したようにこの春日宮(後の多神社)と十市御県坐神社は非常に距離的に近い。
今から思えば大雑把ではあるが、春日県主・十市県主・磯城県主は一つの氏族と考えても大きな間違いはないとも思える。
即ち新興勢力である新弥生人(1神武天皇で代表表示されている)が旧勢力である出雲系弥生人(磯城氏で代表表示)に支えられて三輪山西麓地域で徐々に勢力を蓄えた。そして旧勢力である磯城氏らは、同じく旧勢力(その出身は異なる)である、生駒山東麓に本拠地を有する物部氏にその地位及び名跡を簒奪され、10崇神天皇時代には歴史から消滅した。
残ったのは、皇別氏族とされる和邇氏系に引き継がれた「春日」の名称。天神系神別氏族である物部氏系に引き継がれた「志紀」・「十市」の名称だけである。
即ち見方を変えれば、旧弥生人・出雲系弥生人と呼ばれた豪族は、10崇神天皇頃から以降には三輪氏しか大和の地にはいなくなったことを意味するのである。
10崇神天皇紀に色々と太田田根子がらみの記事が出ているが、これは8世紀に記紀編纂時に三輪氏の関係者が、その祖先伝承も含め色々創作してここに挿入させたのだという説もあるが、筆者は時代的に10崇神の時が正しいかどうかは別にして、大和王権誕生に際して、新興勢力と旧勢力との何かの葛藤の歴史が伝承されていたものと考える。
この物部系十市氏の流れから平安末期ー鎌倉時代に歴史上登場する十市流中原氏がある。
 
6−4)附記<中原氏>
 中原氏は本稿とは直接関係は無いが、十市氏と微妙な関係があり、3安寧天皇の息子磯城津彦を元祖とする皇別氏族とされている。この磯城津彦は古来磯城氏と非常に関係ある人物とされ、本当は磯城氏の出身だが、後世の十市氏が何かの因縁で3安寧天皇の子供として天皇家の系譜に入り込ませたとの説もある。などの理由により本稿では、系図も含め論じることにした。
初めに断っておくが、世に言う「中原氏」にはイ)3安寧天皇第3皇子磯城津彦後裔氏族。ロ)崇峻天皇皇子定世親王後裔のいわゆる江州中原氏。の2流が有名であるが、本稿ではイ)のみに限定して解説したい。
先ず磯城津彦の系図から説明したい。筆者創作系図「中原氏系図」参照。
磯城津彦の子供「和知都美」は謎の人物である。古代史ファンの一種の標的にされている人物でもある。それはさておき、この子供「倭国香媛」「蝿伊呂妹」は有名人である。筆者創作系図「磯城氏関連系図(日本書紀準拠)」を見れば明らかなように、「倭国香媛」即ち蝿伊呂姉(はえいろど)は7孝霊天皇の妃となりあの有名な「倭迹迹日百襲媛」・「吉備津彦」らの母親だとされている女性である。ここで倭迹迹日百襲媛(やまととひももそひめ)こそ記紀では大物主の神妻となった女性として記されているが、邪馬台国近畿説を主張される先生方の多くが古来、この人物こそ「卑弥呼」である。とされているのである。箸墓古墳の主は倭迹迹日百襲媛とされてきた。この箸墓古墳の築造年代と卑弥呼の没年とされている西暦248年とが最近の発掘物の鑑定から非常に接近してきた、とされている。記紀に記された記事では彼女は巫女である。魏志倭人伝と一致しており、10崇神天皇紀に色々書かれていることとの整合性ありとの解釈をしている学者も多い。勿論反論も多々あり、未だこの邪馬台国論争に決着がついた訳ではない。しかし、記紀にはこの女性の記事が異常に多いことは事実である。魏志倭人伝に出てくる卑弥呼の面倒を見た唯一人の男性であり弟を「吉備津彦」または「8孝元天皇」に比定している専門家もいる。そして姪である「倭迹迹媛」こそ魏志倭人伝に出てくる「台与」であるとする説もある。
一方妹の 「蝿伊呂妹(はえいろね)」も7孝霊天皇の妃であり、吉備氏祖であるとされている「稚武彦 」の母親である。これら女性の兄か弟かは不明であるが「蝿伊呂居」なる男兄弟がいる。この子孫が十市氏であるとされている。十市氏と十市県主氏が同一のものかどうかも意見が分かれるところである。筆者は、近い関係ではあろうが、一応区別している。ところがこの十市氏に、磯城県主女真鳥媛と物部伊香色雄との間に生まれた「大売布」という人物が志紀県主を称しどうも磯城県主の名跡を簒奪したことを系図は示している。その流れから「大部磐古」という人物が出て、これが上記十市氏に養子に入り十市氏を名乗ったとされている。この後系図は延々と続くが、歴史的に確認出来る人物はいない。
 平安時代の末頃の人物である「十市宿禰勝良」辺りから歴史的な史料が残っている。勝良の子供「良忠」は生没年も(873−951)と明確に残っている。この頃から朝廷の外記(朝廷において文筆に長じた者がなる職務でその長が「大外記」といい、中原・清原の2氏が世襲職となった。)や明法道の博士を出す家として認知されていたようである。これが勝良の孫「有象」の時「中原姓」を賜った記事がある。970年代のことである。
中原有象の流れが本流である。従兄弟の「以忠」の流れは木曽の土豪となり、木曽義仲の平家追討の時の中心人物となった。木曽義仲の妻とされる巴御前・側室山吹共に中原兼遠の娘とされている。その娘の兄弟達が義仲四天王と言われた、今井兼平・樋口兼光らである。一方嫡流とされる中原氏は大外記中原氏として幕末まで続いた。
貞親流中原氏という武士になった中原氏について若干考察したい。中原氏系図も異系図が多く、特に武士中原氏は複雑である。既稿「出雲氏考U」で記した大江氏もこの中原氏と鎌倉時代関係している。大江広元は実は参議藤原光能の息子?であるが、縁あって中原広季の養子となった。その義理の兄に中原親能がいる。この親能も藤原光能の子供であり中原氏へ養子に入っていた。筆者の中原氏系図を参照して貰いたい。この親能は源頼朝挙兵の時からの頼朝の従臣の一人であった。この親能の口利きで「大江広元」は、鎌倉幕府の重臣となったのである。この親能の妻は相模国波多野氏の出である大友経家の娘で、その妹が「利根局」という源頼朝の愛妾であった。この利根局と藤原秀郷の末裔とされる近藤能成との間に出来た子供が「近藤能直」であり、上記母親の縁で中原親能の養子となり、源頼朝の寵臣となった。そしてついには九州豊後国の守護大名となり九州大友氏の祖となったのである。有名な大友宗鱗はこの流れである。
これ以外にもこの親能の養子として厳島神社宮司家なども出た。貞親流中原氏からは多数の戦国武将が輩出されたがここでは省略する。
以上で中原氏の概説を終わるが、気の遠くなるような系譜を残している一族である。
十市氏時代から決して歴史の表舞台に出ることはなく、営々とその氏族の命脈を保ってこられたエネルギーは何だったのであろうか。
 
6−5)<磯城氏関連全般論考>
 以上磯城県主関連の主な記事に関する過去の議論を見てきた。既述した「葛城氏考」の中でも一部触れたが、この欠史八代に関連して有名な「葛城王朝説」が鳥越憲三郎により提案されて多くの支持者を得てきた。現在も古代史ファンの中にこれを支持するファンも多くいる。現時点でこの説のプロの目でみた扱いはどうなっているかを先ず見ておきたい。
古代史学者 和田 萃(あつむ)は「古代葛城とヤマト政権」 学生社(2003年)
のなかで大凡次のように記している。(筆者の理解した表現に変更している)
・鳥越説は成立しない。
・2綏靖天皇から9開化天皇までの系譜部分の成立時期が新しい。
・33推古天皇時代に蘇我氏が畝傍山の麓から葛城地域に大きな勢力を伸ばした時期の産物である。
・系譜的に実在したことが確実なのは10崇神天皇で、ミマキイリヒコは実在したことが確実な最初のヤマト王権の王である。
・それは五世紀段階で初代王とされていた。
・6世紀中頃から後半にかけて、ミマキイリヒコをはるかさかのぼって初代王が語り出される。それがカンヤマトイワレヒコ、即ち初代の神武だろうと思っている。
・ですから、推古朝段階になって、ミマキイリヒコとイワレヒコ、10崇神と1神武のあいだをつなぐ欠史八代の系譜が作られた。
と明記している。最近の学者でこれだけのことを明記する人は少ない。この考えが学会などで評価されているかどうかは筆者は分からない。これだけ言い切るにはそれなりの理由があるのであろうが、それは明記されていない。
過去10崇神天皇こそ初代の実質的倭王権の大王で3世紀末から4世紀初め頃成立したとする説は通説になっている。勿論現在も異論百出であるが。筆者もこの説に従って本「古代豪族」を記してきた。ところが前述したように、素朴な疑問「10崇神天皇の出自はどうなのか?」は残ったままなのである。「騎馬民族説」云々は現在ではダメとされている。
10崇神天皇の父親ら親族も含めた伝承は全く残されていないのか、である。その人が大王である必要はない。
旧倭国は、現在から見れば本当に小さな国である。一日歩けばその端から端まで歩いて行けるくらいの範囲であろう。魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国」は7万余戸くらいの規模である。多少の誇張もあるであろう。この規模の国が10ケ国集まったって100万人位である。或る人の推定によると、紀元3−4世紀頃の近畿一円の人口が30万人以下であったであろう(弥生文化を持った人)としている。奈良時代で大和朝廷の支配する日本全体(関東以北は統治圏外)の人口は600万人くらいとされている。このような推定をどこまで信用できるか筆者には検討つきかねるが、専門家が定義しているであろう「初期ヤマト王権」というのは、地域でいったらどの範囲で、人口で言ったらどの位の範囲のことを言っているのであろうか。
前方後円墳の築造が開始されるのが3世紀初め?−中期頃であり、箸墓古墳が3世紀後半頃?としてこれ以後に初代王権が誕生したというのが通説のようである。
箸墓古墳以前にもかなり大きな古墳が大和平野には沢山ある。これらの古墳の主は一体どんな立場の人物だったのか?本論で対象範囲の欠史八代の大王とされている人物の陵墓も1神武天皇も含め記紀には記されており、その真偽の程は別として、現在宮内庁は各大王墓を比定して祀っている。こんなもの全くの出鱈目である、とする説が多くの戦後のプロの学者の通説である。でも明らかに箸墓古墳よりも古い古墳が散在していることは事実である。これは大王の墓ではないとするなら、一般庶民の墓であろうか。とんでもない。筆者はそう思っている。
即ち大王と現在定義される程の勢力は持っていなかったかもしれないが、庶民とは全く異なる、この倭地域のさらに分化された地域それぞれの歴代の首長クラス及びその家族・親族の墓であろう。それがどれくらいの農民らを従属させていたかは不明である。仮定として100人ー1,000人(この規模以上でないとこんな古墳を築造する事は出来ないと推定)だとすると、後の郷の単位ではなく郡の単位とみるべきかもしれない。だとすると古代では国と呼んでもおかしくない規模である。磯城県主というのはこのくらいの規模の首長と見ればよいのであろうか。
狭義の倭国の規模はどの位と見るべきか、葛城国をどの位と見るべきか、どんなに大きく見ても葛城山から見渡せる範囲であろう。この2つの国を統治するのが大王だったのか。崇神記には色々な記事がある。四道将軍の記事が代表的である。大和地方以外にも大王が覇権を広げていったことを暗示している。このレベルは明らかに大王と言える。勿論記紀は崇神紀にそのようなことを記しているが、それ自体が創作である、時代が異なるなどの
異論も多数ある。
ところがそれ以前(欠史八代)はこの種の記事は全くなく、后妃・子供・皇居・陵墓などだけである。これは一体何を意味するのであろうか。記事がないからそのような歴史はなかったという理屈にはならない。
「邪馬台国畿内説」を主張する方々は、邪馬台国は滅亡したとしてもその後にそれを滅ぼした一族または邪馬台国関係者らの系譜が10崇神天皇に繋がったとする説が多い。それを欠史八代伝承に結びつける人もいる。「邪馬台国九州説」を主張する方々の中には邪馬台国から大和の地にその勢力が移ってきたのであるとも言う。筆者には系図的な見方から言えば畿内説の方が無理がないように思えてならない。欠史八代系譜が史実だと言っているのではない。10崇神天皇を初代の大王という認識が5世紀ー6世紀にはあったとして(血脈が続いたという認識が当時あったかどうかは不明)その前の世代も大王ではなくとも大和地方の勢力ある首長の出身であるとの認識がこのような系譜を創作したのかもしれない。先祖は九州からきたのだという記憶が神武東征伝を作ったのだとの説もある。
人間の伝承記憶は細かいことは別にすれば約400年位までは真実が伝えられるという説を言っている学者もいる(「池田源太」元奈良教育大教授)。倭の地にそれまでとは異なった勢力・権力をもった組織・人物が出たのがいつ頃かくらいは6世紀の大王家周辺の貴族には伝わっていたと考えても不合理ではあるまい。それが血脈が繋がっているかどうかは別の記憶である。
寺澤 薫の王権誕生「日本の歴史」講談社(2001年)のよれば紀元250年くらいには纒向型前方後円墳が築造され始めたと、発掘考古学の成果が記されている。これを大王墓とするか単なる首長墓とするかは意見が分かれるところであろうが、邪馬台国の話を云々しなくても狭義の倭国の纒向の地に明らかに他とは異なる兆しが見えているのである。
ここで10崇神天皇を300年の時代の人物と仮定する。欠史八代の大王が平均20年の在位で存在していたとする、約200年間のことである。とすると紀元100年に1神武が存在し崇神が紀元300年に存在していたことになる。これは直列相続の場合そうである。兄弟相続・親族相続などをありうるべき実態とすれば約100年間のことが欠史八代の記録と見てもおかしくない。(但し崇神以降のような大王という存在ではなく、狭義の倭地方の勢力ある首長と考えるのが妥当かもしれないが)となると紀元200年頃即ち「卑弥呼」が活躍していた時代と一致する。この狭義の倭国・葛城国辺りに勢力を有していた新弥生人一族(九州から移動してきた?)と倭国の磯城県付近に勢力を有していた旧弥生人(銅鐸文化を有していた氏族の末裔)の間で徐々に融和がされていって遂には旧弥生人勢力は新弥生人勢力に吸収され、その両方の血脈を受け継いだ10崇神大王が誕生したのであるということを暗示する創作歴史が、何処かの時点で大王家の歴史に入り込んだのではなかろうか。と推定した。
よって欠史八代は、細かいことを議論しても余り意味がないかもしれない。しかし、大和王権の誕生の原点みたいなものを暗示したのではないかと思う。よって磯城県主・十市県主・春日県主云々は、余り細かく議論する必要はない。但し、物部氏・多氏・和邇氏・葛城氏・鴨氏・大三輪氏・蘇我氏など多くの明らかに存在していた古代豪族を論じる時、一度はここまで遡って考える価値のある記録であるといえる。これらのことを無視して発掘考古学だけで日本の歴史を云々することは無理がある。と言って戦後の文献史学が陥っている、自虐的記紀無視論も問題である。我々一般日本人に、日本の歴史とは何ぞやと逆の疑問を産み出し、過っての皇国史観の新たな火種になることに繋がりかねない危険な因子をはらんでいるようでならない。
記紀にはこのように記されているが、史実はかくかくしかじかである。この部分は謎である。などとはっきりと、少なくとも10崇神天皇以降は一般向けの歴史書には記してもらいたい。最近の権威ある?日本歴史の歴史年表の書き方に非常に不満を覚える。専門の勉強をした極々一部の学者しか我々日本人として世界に誇れる歴史書である古事記・日本書紀に何が記されているのかが分からなくて、我々一般庶民には中味を分かりやすく知らせないという姿勢である。(詳しく知りたい者は、古事記・日本書紀の解説書を読めば良い的感覚である)一国の歴史はその国民全員の共有する財産である。記紀に書かれていても史実として立証出来ないものは、一般無学の輩には誤解の元になるから知らしてはならない。と一握りのプロの先生方は考えておられるのでしょうか。それとも偉い先輩諸先生・諸同僚の先生方から白い目で見られて自己の立場を失うことを恐れて、色々書きたいが迂闊なことは書けないという風潮が歴史学会全体にあるのでしょうか。頭の固くなった偉い先生方に望んでも無理がある。
若い専門学者を志しておられる方々に奮起を期待する。分かりやすい一般国民向けの日本の古代史の啓蒙書を書いて頂きたい。記紀記事と現在分かった範囲の史実と記紀記事の疑問点を対比出来る形で分かりやすく啓蒙する歴史書である。特に10崇神天皇ー26継体天皇までが空白過ぎる。中国・朝鮮の古典記事、考古学的発見記事だけで年表を埋めるやり方はうんざりである。歴史学者として誇りと自信をもって各々の推論・仮定もどんどん披露してはどうか。
 
7)まとめ(筆者主張)
@記紀は1神武天皇后妃を含め9開化天皇までの欠史八代の天皇の后妃で若干の違いはあるが日本書紀一書まで考慮に入れるとほぼ一致して同一の記事になっている。
A神武天皇東征伝・欠史八代の記紀の記事は、狭義の倭国・葛城国に元々からいた所謂旧弥生人と侵攻してきた新弥生人との融和が婚姻関係を通じて何代にもかけて行われたことを記録している。
Bその中で磯城県主一族が中心的姻族であった。十市県主・春日県主も登場するが、磯城県主を補うかたちである。大局的に見れば大物主・事代主系共に出雲系系譜の人物の娘が后の地位についたことを記している。これを史実とする証拠は何もない。神社伝承学?からみれば現在も生き生きと近畿一円・日本全国に色々な形で残されているのは事実である。
C間接的証拠として、鴨族の祖であるとされる事代主を祭神とする「鴨都波神社」(葛城郡)「高市御県坐鴨事代主神社」(現:河俣神社)(高市郡)が現在もある。磯城氏の名跡を嗣いだと思われる「志紀御県坐神社」・十市県主の名跡を嗣いだと思われる「十市御県坐神社」などは物部氏が祀ってきたとされている。これらの神社が狭義の倭国・葛城国に現存している。
D10崇神天皇がヤマト王権の初代大王とすると、それを誕生させた血脈的背景を欠史八代は暗示したものと思われる。記紀に記された内容そのものは、恐らく後世の創作であろう。しかし、古来いわれてきたような、天皇家の歴史が非常に長いということを説明することの目的だけに創作したものではないと考える。5−7世紀に創作されたとしても、ある種の伝承記録は存在していたものと推定される。筆者は欠史八代に記された大王が10崇神以降の大王と同じ意味での大王とは、思っていない。しかし、箸墓古墳も含め紀元200年頃以降に倭・葛城付近に築造された各種の古墳の主を暗示する首長クラスおよびその親族が存在していたことを示唆していることは間違いない。
Eよってこの時代の細かい議論をすることには余り意味が無いかも知れない。しかし、10崇神天皇誕生の背景を後世の人に伝承された範囲で思想として暗示したものと推定する。ある時突如として大王が誕生したのではない。ということである。倭地方に多くの円墳・方墳・前方後円墳など各種存在していることが、誰の墓かは不明ではあるが、傍証となっていることは間違いない。磯城氏らは象徴的に倭地方で初期倭政権誕生以前から勢力を持っていた氏族の首長である、というとらえ方を筆者はしている。
E磯城県主・十市県主・春日県主いずれも平安時代の「新撰姓氏録」には記載されていない。なのに何故記紀では欠史八代とはいえこれほど詳しくその系譜が残されたのであろうか。謎である。「新撰姓氏録」に載っていないからこのような氏族は存在しなかったという証拠にはならないし、そのような史実はなかったという証拠にはならない。
F中原氏についてのまとめは、省略する。(6/14/07脱稿)
 
8)参考文献
・「古事記の起源」 工藤 隆 中公新書(2007)
・「三輪山の古代史」  和田 萃ら 学生社(2004)
・「三輪山の神々」 和田 萃ら 学生社(2004)
・「古代葛城とヤマト政権」 御所市教育委員会編 学生社(2003)
・「王権誕生」日本の歴史 寺澤 薫 講談社(2001)
・「古代物部氏と先代旧事本紀の謎」 安本美典 勉誠出版(2003)
・「姓氏家系大辞典」 太田 亮
・「神話と考古学の間」 末永雅雄・三品影英・横田健一 創元社(1973)