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14.阿倍氏・膳氏考
1)はじめに
 天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出し月かも   万葉集
この有名な万葉歌の作者は「阿倍仲麻呂」とされている。
717年遣唐使として中国に渡り「鑑真和尚」の渡日の貢献者である。
その帰国の時、鑑真と一緒に中国の港を出たが、鑑真の乗った船は日本についたが、仲麻呂の船は暴風で中国に戻されてしまった。
この時に読んだ歌とされている。
753年12月15日で、コンピュターで推定した結果十六夜の月だったらしい。
そして彼は日本に帰ることなく中国で他界した。
近年この仲麻呂と一緒に渡唐し、734年長安で客死した「井真成」の墓誌が中国で発見され話題になっている。
 そもそも阿倍氏は、8孝元天皇の子「大彦」の子で四道将軍の一人「建沼河別命」を元祖とする皇別氏族である。 
物部氏、中臣氏らと共に大王家を支えてきた古代豪族である。
元来軍事氏族であったらしい。本拠地は、大和国十市郡阿倍(桜井市阿部)であるが、その後越の国にいたらしく、「男大迹王」の大和侵攻には、「膳氏」(にえ)と共に越よりこれを護って来たらしい(黒岩氏)。
その縁で「阿倍比羅夫」のように初期蝦夷征伐の将軍となり天皇家に貢献した。
6世紀初め頃から中央で勢力を伸ばした。
蘇我氏の進出とほぼ同時期である。6,7世紀蘇我氏と密接な関係を持っている点から見て、蘇我氏が自派の有力者として阿倍氏を引き立てたと見られる。
大化の改新前後から政治の表舞台に進出し、奈良朝終わり頃まで活躍する。
平安時代「安倍」と書かれるようになった。(阿部・安部とも記す。)
この流れから、陰明師として現在も有名な「安倍晴明」、「前九年の役」(1051−1062年)以降歴史上度々登場する奥州安倍氏の祖「安倍貞任」などが出た。
一方「膳氏」は、阿倍氏と同じく「大彦」が始祖でその子「彦背大稲興」から始まる、阿倍氏と兄弟氏族である。
歴史上有名になったのは、なんといっても聖徳太子の最も愛された妃といわれた「菩岐岐美郎女」の出現であろう。
阿倍氏の影のような存在であった。飛鳥時代以降歴史上から消えた。
この両氏について述べていきたい。
(参考)「稲荷山古墳出土鉄剣銘文」と阿倍氏
 ここから阿倍氏が東国経営に活躍したことがうかがえる。
武蔵の有力豪族「乎獲居臣」が、大彦(8孝元子)の子孫だと名のったと伝えられるからだ。
彼は、阿倍氏の同族団に組み入れられることにより、臣姓をもらいそれ以後阿倍氏の配下になった。その後は不明。
 
2)阿倍氏人物列伝
阿倍氏の結果的な本流は、大麿ーーー倉梯麿ーーー道守ーーー晴明ーーー土御門家と判断した。(布勢氏系阿倍氏)
さらにもう一派陸奥安倍氏も武士として江戸時代を超えて永続したと判断しこの一派も本流扱いで列伝することにした。(引田系阿倍氏)
(参考)
・大彦命
@父:8代孝元天皇 母:欝色謎命(物部氏女)
A四道将軍(北陸)西道は吉備津彦 丹波は丹波道主(彦坐王)
B異母兄弟である「武埴安の乱」に和邇氏祖彦国葺を副官として征伐に遣わしてこれに勝利。
 
2−1)建沼河別命(???−???)
@父;大彦命* 母;不明
A10崇神天皇より親子で四道将軍を命じられた。
大彦命は、北陸。建沼河別命は、東海 に派遣され、東北地方南部で合流。
この場所;会津。
B妹;御間城姫は、10崇神天皇の后11垂仁天皇の母。
*8孝元天皇と欝色謎命(物部氏元祖系女)との子。兄は9開化天皇。
C出雲征服に活躍したとの伝承もある。
 
・御間城姫
@父:大彦 母:
A10崇神天皇妃。11垂仁天皇の母。
B古事記には大彦の子供としてこの人物は出てこない。9開化天皇の子供に御真津比売として登場。しかし、10崇神天皇と同腹兄妹である。これは???
 
・高田媛
@父:阿倍木事 母:不明
A12景行天皇妃。子供:武国凝別(伊予国御村別の祖)御村別氏は愛媛県西条市中野にある伊曽乃神社社家。この流から平安時代に智証大師円珍が輩出された。
 
2−2)豊韓別
2−3)雷別
2−4)阿倍阿加古
2−5)大籠
2−6)忍国
 
2−7)阿倍大麻呂(???−???)
@父;阿倍忍国臣 母;不明
A28宣化朝に朝廷の執政官である「大夫」になった。歴史上はっきりした段階での活躍記録記事の初見である。
兄弟:歌麿
Bこの頃阿倍氏が、東国支配の強化に活躍。
Cこの流を布勢氏流阿倍氏と呼ぶ。
 
2−8)目
@父:大麻呂 母:不明
A記紀記事:敏達記12年に記事あり。物部贄子、大伴糠手子と同時代。
 
2−9)鳥子(???−???)
@父;目 母;不明
A蘇我馬子が活躍した33推古朝を中心にする時期に朝廷で活躍。「大夫」となる。
B新羅との外交で重要な役割。
C鳥子の活躍により阿倍氏の朝堂内での地位を高めた。
 
2−10)倉梯麻呂(???−649)
@父;鳥子臣 母;不明
A別名;内麻呂、倉橋麻呂とも記す。
B聖徳太子、蘇我蝦夷、らと同時代の政治家。蘇我馬古に次いでナンバー2の権力者。
 孝徳朝の左大臣。内臣;鎌足、右大臣;蘇我倉山田石川麻呂。皇太子;中大兄皇子。
C639年百済寺造寺司。
C娘;小足媛は、孝徳天皇の妃となり、有馬皇子を生む。後に鎌足の夫人となる。(定恵の母と言われている。しかし、父は孝徳らしい。)
娘;橘娘は、天智天皇の妃となり、新田部皇女を生み、これは天武の妃となり、舎人親王をうんだ。
 
・小足媛(?−?)
@父:倉梯麻呂 母:不明
A36孝徳天皇妃。有馬皇子母。
 
・橘娘(?−681)
@父:倉梯麻呂 母:不明
A38天智天皇妃。新田部皇女等の母。
 
2−11)御主人(635−703)
@父;倉梯麻呂 母;不明
A妹二人が天皇妃。
B持統天皇の功臣。703年文武朝の右大臣(大宝律令下での初の右大臣)知太政官事;刑部親王、大納言;石上麻呂、不比等、紀麻呂
C阿倍朝臣姓賜姓。
D「竹取物語」に実在人物として、大納言「大伴御行」と共に登場する。
 
2−12)広庭(659?−732)
@父;御主人 母;不明
A長屋王没後議政官;大納言;多治比池守、武智麻呂、中納言;旅人、阿倍広庭
 参議;房前、権参議;多治比県守、石川石足、大伴道足。
従三位中納言。
B729年光明子皇后に際し、舎人親王の勅が出された。それと併せて広庭も勅を出して 「諸臣の娘が皇后になること」補った。藤原氏側の立場に立っていた。
  ーーーこれ以降藤原氏に押されて政治の世界で低落する。−−−
 
・鳥麻呂(ー761)
 
2−13)粳虫
@父:広庭 母:不明
A糠虫とも記す。中務大輔
 
・古美奈(ー784)
@父:粳虫 母:不明
A夫:藤原式家良継 子供:乙牟漏(桓武天皇妃) 諸姉(式家百川室)
B尚侍(781−784)
 
2−14)道守
 
2−15)兄雄(ー808)
@父:道守 母:不明
A平城天皇朝の参議、左中将。伊予親王事件で親王の無実を天皇に諫言。受け入れられなかった。
 
2−16)吉人
陰陽頭
2−17)房上
2−18)恒材
 
・益材(ますき)
安倍晴明の父説強い。保名と同一人物か。
大膳大夫。
兄雄ー春材ー益材ー晴明  
 
2−19)春材
 
2−20)晴明(921?−1005)土御門記録では、45才没。
@父:春材?(益材:一般的には益材となっている。阿倍保名とも)
 母:橘文子?(霊狐巫女?)葛の葉説
A妻:梨花?
B生誕地:大阪説:大阪市阿倍野区阿倍野元町 晴明神社
常陸国猫島説:茨城県真壁郡明野町猫島(常陸国筑波山麓猫島晴明神社)
讃岐説:讃岐国香車郡井原庄など
C従四位 播磨守
D陰陽道を賀茂忠行(子供の保憲)に習った。但し陰陽頭にはなれなかったらしい。
平安時代の陰陽道の大家として超有名人。
 
・吉昌(ー1019)
 
2−21)吉平(954−1027
@父:晴明 母:不明
A陰陽頭。賀茂光栄と並ぶ陰陽師。従四位下。
2−22)時親
2−23)有行
・泰長
・泰親(1110−1183)九条兼実パトロン
・季弘(1136−1199)
・土御門有世(1327−1405)公卿従二位  足利義満パトロン
村上源氏も土御門家であった。
同じ名前の併存はないはず。実際はもっと後代に安倍氏流
土御門家は興ったのではなかろうか。との説あり。
・有盛 公卿
・有季 公卿
・有宣 公卿
・有脩(1527−1577)
・久脩(1560−1625)
・泰重(1586−1661)
・泰福(1655−1717)陰陽頭、全国の陰陽師の支配権独占。全盛時代。
・泰邦(1711−1784)
・晴雄(1827−1869)明治
 
2−6−1)歌麿(?−?)
@父:忍国 母:不明
A引田流阿倍氏祖。
 
2−6−2)久比
 
・安倍安仁(793−859)
@父:寛麿 久比の6代孫
A仁明天皇朝の大納言・右近衛大将。
 
2−6−3)浄足
 
 
2−6−4)阿倍比羅夫(???−???)
@父;目臣 母;不明
A引田氏流れ阿倍氏。飛鳥時代の将軍。斉明朝(658年)180艘の大船団を率いて蝦夷征伐実施。 659,660年と3度実施。
B661年天智天皇称政時代他の将軍たちと共に朝鮮半島に軍を出し、百済を支援した。(白村江の戦いには、遅れた。)
 
・阿倍安麻呂(???−???)
@父;比羅夫 母;不明
A716年遣唐使 大使。
 
・船守
@父:比羅夫 母:不明
A中務大輔
 
・睦子
@父:船守孫弟当 
A夫:藤原南家貞雄 子供:保則(在原業平娘の夫)
 
・阿倍仲麻呂(698−770)
@父;船守 母;不明
A717年遣唐使として入唐。(20才)現地で科挙に合格、「玄宗皇帝」に仕えた。中国 名;朝衡 重用され帰国が許されなかった。
753年鑑真に合い渡日を依頼。同じ遣唐 使船で帰国が許されたが、暴風で中国に戻され、最後まで帰国 出来なかった。
(遣唐大使藤原清河も同じく帰れなかった)吉備真備、玄坊は、同時に入唐し、帰国後活躍。
B万葉集の歌で有名。
 
2−6−5)阿倍宿奈麻呂(???−720)
@父:比羅夫 母:不明
A705年中納言、左大臣;石上麻呂、右大臣;不比等、中納言;粟田真人、巨勢麻呂
B718年正三位大納言に就任
C藤原仲麻呂の師。
 
2−6−6)小島(?−764)
2−6−7)安倍家麿
2−6−8)黒人
2−6−9)富麿
2−6−10)宅良
2−6−11)隣良
 
2−6−12)頼良(−1057)
陸奥の豪族。奥六郡の司。陸奥守源頼義に攻められ敗死。
別名:頼時。
 
2−6−13)安倍貞任(1019−1062)
@父;阿倍頼良 母;不明
A「前九年の役」を起こした。(1051−1062)源頼義・義家らに厨川柵で討ち取られた。
 
 この頃までに「武家阿倍氏」は、東北方面にかなり地盤を築いていた模様。
この流から安藤氏・安東し・秋田氏などが輩出される。
 
・貞任女
夫:源義家 子供:義国 孫:新田義重(新田氏祖) 足利義康(足利氏祖)
 
・宗任女
夫:藤原基衡 子供:秀衡
 
これ以外で文献上出てくる阿倍氏で出自不明の人物。
阿倍継麻呂、虫麻呂、など。
阿倍女郎;万葉歌人、大伴家持の傍妻か?
 
3)膳氏人物列伝
膳氏は、歴史上名を残した人物に乏しい。列伝は困難。
古族高橋氏は膳氏からの派生氏族とされている。
 
・大稲興命
@父:大彦
A膳氏始祖。
 
・磐鹿六雁命
@父:大稲興
A膳氏祖。
 
・膳臣余磯
@父:佐白米
A若桜国造・稚桜部氏・若桜氏・高橋氏らの祖。
 
・傾子(かたぶこ)
@父:膳大麿
A子供:菩岐岐美郎女、比里古郎女など
B加夫子とも記す。
C欽明31年北陸に漂着の高句麗の使人を天皇の勅により接待。の記事あり。
 
・菩岐岐美美郎女(ほききみみのいらつめ)
@父:傾子
A夫:聖徳太子
B子供:春来女王、長谷王など多数。
C太子には多数の妃があったが最も愛された妃とされている。

4)阿倍氏・膳氏系図
阿倍氏・膳氏の概略系図、膳氏詳細系図、智証大師関連参考系図
阿倍氏主要部詳細系図を記紀記載範囲は記紀準拠でそれ以降は諸々の公知系図を参考にして筆者創作系図とした。
異系図も多数存在するが詳細系図と概略系図の一部は意図的に別の系図を記してある。





4.阿倍氏・膳氏系図解説及び論考
 阿倍氏は皇別氏族である。膳氏と同じく8孝元天皇の子供「大彦」を始祖としている。
1968年(昭和43年)埼玉県行田市埼玉にある稲荷山古墳(前方後円墳)の発掘調査で鉄剣が見つかった。1978年その鉄剣のレントゲン撮影により、115文字の銘文がサビの下から見つかった。
大意は、作刀、刻銘した年、次ぎにオホヒコ(意冨比コ)からヲワケまでの8代の系譜を示し、ヲワケがワカタケル大王(雄略天皇)に仕えた。それを記念して刀を造り刻銘したという内容。
解釈は色々あるようだが、現在の主流は、大彦命に連なる系譜が示され、雄略天皇に武人として仕えた8代目のヲワケなる人物が471年(531年説もある)に刀を造り刻銘した。とされている。
この鉄剣は現在国宝指定され、埼玉県立さきたま資料館に展示されている。
この鉄剣の銘文115文字の発見は非常に重要な意味をもっている。100年ぶりの大発見であるという人もいるほどの価値あるものだった。
@記紀に記されてある「大彦命」の存在を471年の時点で記録されている。
A文字記録された系譜らしきものの最古のもの。
Bワカタケル大王の存在記録。
C大王という表現が使われている。
D阿倍氏系図・記紀記録との整合性。
E文字記録の普及。
F系図の普及。重要性。など。
現在もこの刀の文字解釈には色々あるようだが、記紀に記されてある事項との整合性立証の証拠として、非常に興味ある史料である。
筆者流に解釈すれば、戦後記紀批判の一つである、「継体天皇以前の記紀記録は全く信用出来ない」に対して、大きな一石を投じた史料といえる。
記紀編纂よりははるかに古い時代に、朝廷とは関係なさそうな関東の一地方豪族が、単に自分の系譜を残すために刀に漢字で彫り込んだものである。
その後この氏族がどうなったかは全く不明である(膳氏に繋がったとの説あり)。崇神天皇紀に記されている、大彦命を四道将軍として関東付近に派遣されたとの記事との関係、阿倍氏との関係は想像にかたくない。
記紀に記されている歴史事項を、証拠がないから信用出来ない、というのは一種の暴論である。
例えどんな事でも良い、それを立証出来そうな史料が見つかれば、それ自体が凄いことであることを認めるべきではなかろうか。
似たような古代文字記録史料として和歌山県橋本市の「隅田八幡宮鏡銘文」、熊本県江田船山古墳「太刀銘文」、千葉県市原市「稲荷台古墳鉄剣銘文」などがある(これらの解説は略す)が、115文字もの多数の全文字がスッキリとした形で残されたものはない。
発掘調査というのは、非常に地道な過去の歴史証拠の確認作業である。しかし、そこから得られたものは、どんな論理・類推よりも優っているのである。
勿論得られた発見物の解釈については、大いに科学的視野にたって行われるべきである。
これだけではないが、現在までに発掘されたり、発見された事項を筆者なりに素朴に考えると、「記紀に記された古い記録もかなり信用できるのではないだろうか」である。但し年代的なことに関しては、いかんともし難いものがある。
大彦命は崇神天皇と同時代で、4世紀初めの人物と考えられる。
雄略天皇は、5世紀中頃から後半と推定されている。
150ー170年間に8代は充分合理的な範囲である。
ヲワケの系譜は阿倍氏より膳氏に近いとも言われている。高橋氏との関係あり。高橋は地名である。天理市櫟本町(旧高橋邑)上記鉄剣の系譜の中に多加披次獲?居なる人物がいる。
阿倍氏・膳氏自身の話からは、一寸ずれてしまったが、阿倍氏・膳氏の原点を知る意味では重要と判断した。
阿倍氏は、記紀記録上では建沼河別以降、特別な記事はなく28宣化天皇の時「大麻呂」が「大夫」となったと初出するまでない。
一説では、阿倍氏・膳氏共に北陸・越・関東方面に勢力を持っており、26継体天皇が北陸から大伴氏・蘇我氏らにより擁立される過程でこれを支援する形で中央に出てきたとされる。
蘇我氏とは良き関係にあった模様である。
阿倍氏は布勢臣系と引田臣系に忍国の子供の時代に分かれる。
布勢臣系は主に朝廷関係で活躍。引田系は軍事面で活躍したとされる。
<布勢臣系>
鳥子は推古朝で大夫となり、その子「倉梯麻呂」は孝徳朝で左大臣にまでなった。
その娘小足媛は、孝徳天皇妃となり有馬皇子を産み、うまくいけば天皇の外戚の可能性があった。
その妹橘娘は、天智天皇妃となり、阿倍氏は蘇我氏に次ぐナンバー2であった。
次ぎの「御主人}は、壬申の乱で天武方につき文武朝で右大臣になった。
その子広庭は参議にまではなったが、この頃より藤原氏の圧力が強まり、低落する。
これ以降阿倍氏で参議以上の人物は平城天皇朝参議「兄雄」と仁明天皇朝の大納言「安倍安仁」だけである。この安仁の系図は異系図が多く、布勢臣系では、倉梯麻呂の流、布勢耳麻呂の流、また引田臣系の真老流などある。
布勢臣系の女性で注目すべき人物は、粳虫の娘「古美奈」である。当時勢力を伸ばしてきた藤原式家の嫡男良継に嫁ぎ、乙牟漏・諸姉の二人の娘を産んだ。
「乙牟漏」は50桓武天皇の后となり、51平城天皇、52嵯峨天皇を産んだ。桓武朝のトップレディである。
「諸姉」は式家嫡男百川の室となり、49光仁天皇妃産子、51平城天皇妃帯子、50桓武天皇妃旅子を産んだ。この旅子の子供が53淳和天皇である。
これに裏で絡んでいたのが安倍氏だったのである。しかし、朝廷内では藤原氏に押さえられ低迷を続けた。
ここに安倍氏の名を天下に知らしめた人物が登場する。即ち陰陽師「安倍晴明」である。筆者系図では2通りの系図を示したが、安倍晴明の系図は異系図が多い。
謎に包まれた人物には違いない。安倍氏本流には違いなさそうである。
筆者は概略系図の方が真実に近いのではと思っている。
詳細系図の方が一般的だがどうも前後の人物の生没年の関係からこちらには無理があるように思える。
この晴明の流こそ明治時代にまで繋がっている堂上公家である「土御門家」になる訳である。村上源氏にも土御門家が存在したが、それが消滅後、安倍氏流が土御門家を名乗った。
正に陰陽師の総元締め的地位を確保したのである。
<引田臣系>
忍国の子「歌麻呂」の流である。
飛鳥時代の将軍「阿倍比羅夫」の蝦夷征伐は有名である。
その孫に遣唐使「阿倍仲麻呂」がいる。仲麻呂の業績については紀でも大きく記事とされている。
一方嫡流である宿奈麻呂は、大納言にもなった人物で、この流から「陸奥安倍氏」が産まれたのである。
安倍貞任の「前九年の役」は有名。
この娘婿が八幡太郎源義家であり義国を産んだ。ここから、新田氏・足利氏に別れ鎌倉・室町時代を造る武士団が産まれるのである。
またこの貞任の累孫として奥州の大名家となる、安東、安藤、秋田氏が輩出された。
一方貞任の弟「宗任」の娘が奥州藤原氏の祖「基衡」に嫁ぎ、秀衡を産み平泉文化を花開かせた。
即ち安倍氏は奥州においてその後の日本の歴史うえ重要な人物の源となったわけである。
<膳氏(高橋氏)>
 膳氏は若狭国造として勢力を張った。一方本流は、「傾子」の娘が聖徳太子の愛妃となりその娘春米女王と天皇候補の山背大兄皇子が結ばれて一気にその力を得たようである。
そのため蘇我氏と反するようになったらしい。
壬申の乱では天武方につきその功績により、八色の改姓では、朝臣の姓を授けられ、その後間もなく「高橋朝臣」に改姓した。安曇氏とともに以後宮内省内膳司の長官の地位に任じられ、志摩守は高橋氏の世襲となった。
上記稲荷山古墳の鉄剣銘文に記されている一族と膳氏の祖先は非常に近い関係にあったという説を採用すれば、関東方面にも膳氏の勢力があったものと考える。
いずれにせよ、膳氏は高橋朝臣と改姓され、これ以降歴史の表舞台に登場することはない。
 
 ところで、筆者の「古代豪族」シリーズも本稿で13稿になる。
ここで一寸古代の「氏姓制度」みたいなものについて解説をしておきたい。
筆者の稿では古代豪族の氏(うじ)姓(かばね)については余り拘らずに記してきた。
古代の氏姓について述べることは非常に難しい。
現在までにはっきり分かっていることが少ないからである。
武光誠著「古代史を知る事典」に解説されていることをさらに簡単に筆者の独断的解釈も入れて下記に記す。
「氏」:祖先を同じくして、同族意識で結ばれた団体。ただし、すべての者が「氏」に編成されたのではない。
大和朝廷の支配層のごく限られた人々が「氏」として、朝廷から認められた。
「氏」とは下記「氏族」とははるかに新しい時代につくられたものである。
6世紀に発生。大和朝廷内での役割分担と関係している。
日本の「氏」は中央、地方の支配者層に属する豪族からなる。
大王から与えられた「氏」の名と「姓」を誇り高い称号として代々受け継いだ。

「氏族」:血縁集団もしくは、同族と信じてまとまる擬制的血縁集団である。
これは非常に古く大和政権発足以前から全国的にあった。

「姓」:4世紀以降、大和朝廷の発展と共に拡大された。670年の庚午年籍で最終的に完成。
臣(おみ)、君(きみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)、県主(あがたぬし)、など。
大化の改新までは「氏」の尊卑をあらわすものであった。臣、連が上級のものとされたがあまりはっきりはしてない。
成立時期は、定説なし。3世紀にはあったとする説。(彦姓説)
4世紀後半説(「別」「宿禰」を最古の姓とする説)5世紀末説(「臣」姓が起点とする説)など諸説あり。
大化の改新までは、支配層だけが「姓」をもっていた。
もとは、一つの豪族を代表する者が「姓」を与えられていた。
例えば物部連尾興。物部が「氏」で連が「姓」である。
ところが大化の改新後は豪族の長でない者も「姓」をもらい役人となった。そこで豪族の長の地位は「氏上」とされた。

「臣」姓:大和朝廷ではもっとも有力な「姓」とされた。孝元天皇以前に皇室から別れた「氏」に臣の姓が与えられた。
吉備臣、阿倍臣、膳臣、春日臣、和邇臣、葛城臣、蘇我臣、平群臣、巨勢臣、など臣の姓をもつ豪族を代表する家が大臣(おおおみ)を出した。
天武朝の八色姓では臣の姓を有するもののなかで有力な氏に朝臣(あさみ・あそん)の姓が与えられた。

「連」姓:天神の系譜をひく家がなのるものとされた。すなわち元々から天皇家の家来的存在であった。物部連、大伴連はそのなかでも特に有力氏族であり「大連」と呼ばれ朝廷の重職となった。天武朝八色姓では、宿禰の姓を与えられた。連姓の豪族は多数いる。しかし、連姓には謎の部分多い。(以上「古代史を知る事典」より)

「宿禰」は古くは「足尼」と記されている。非常に分かりにくい概念である。
天皇でも宿禰とついた天皇もいる(允恭天皇:雄朝津間稚子宿禰尊)。
武内宿禰、息長宿禰のように連ではあり得ない人物にもついている。
一般的には、一族の元祖・親分みたいでもあり、世襲の姓みたいな感じもする。
「国造」も分かりにくい。大和朝廷からその国に初めて、統治者として派遣された者又は元々その地にいた豪族でその地の統治を朝廷から任された者及びそれを世襲した氏族に与えられた「姓」とでもいうのでしょうかね。(「県主」もほぼ同じ)
 元々は臣姓氏族からは天皇妃を出すことは許されたが、連姓氏族からは出来なかったとの説もある。
臣姓氏族は皇別氏族であり、連姓氏族は神別氏族である。
しかし、これは日本書紀に従って区別されたもので実態はそう簡単なものではなさそうである。
記紀の編纂目的の一つに色々の氏族が勝手にその出自及び系図を作成して統治管理上色々不具合が生じていた。
これを正しオーソライズして、天皇家との関係を明確化することにあったらしく、それが天皇家の他氏族との峻別化を謀ることにあった。との説もある。
実際は、弥生人の出身地、出身母体、毎に色々な古族が発生しその中で勢力あるものが大和政権の中に食い込み、最終的には記紀の系図の何処かに入り込んできた。
それが欠史八代であったり、天神系譜であったりしている訳で、後代になって「臣」とか「連」とかに何等かの理由で区別されてきたと考えるべきとの説が主流のように思える。
但し、これもこうだと立証することは極めて難しい。前述したように文字記録は極めて少ないのであるから。
その意味でも前述の稲荷山古墳鉄剣銘文は極めて重要な意味がある訳である。
 ちなみに先代旧事本紀には4懿徳天皇の時大臣の名がはじめて登場。出雲醜大臣。
11垂仁天皇時大連の号がはじめて登場。日本書記でも登場。物部十千根大連。勿論これらは後代に前に遡ってそうしたのであるというのが通説。
国造についても複雑な変遷をとったようである。
5.物部氏考の稿で述べたように朝廷は、591年(推古天皇朝)に当時有力であった、18氏族の家記を上進させた。
その中に阿倍・膳両氏も含まれる。
記紀編纂時にも似たような家譜の提出また場合によっては没収、廃棄なども行われたとの記録もあるらしい。
それ程各氏族の系図の類は朝廷にとっても重要だったようである。
裏を返せば、各氏族は色々な方法で自分等の血脈がどうであったかを記憶・記録することに力を入れていたことになる。
その一つの立証証拠が稲荷山古墳鉄剣銘文である。
471年のものと仮定すると、上記591年の記録と僅か100年程の前のことになる。
即ち記紀系図の基本資料とされた各有力氏族の系図というものは、間違いなく残されており、文字記録の形で相当詳しいものがあったものと想像出来る。
地方の一豪族でさえ大彦命あたりからの系図を有するのであるから中央の有力豪族である18氏が色々な自己氏族の出自系譜を残していない訳がない。
何故ならこれこそ彼等の飯の種の根幹になる証拠物件であった訳であるからである。
以前にも述べたが、少なくとも崇神天皇以降朝廷の重要な部門を取り仕切ってきたのは豪族と言われる由緒正しい系譜を有する氏族に限られてきた。
これが氏族制度の根幹であった。
それ以外の由緒の分からぬ氏族・人物の入り込む余地はなかった。
勿論新渡来人の新知識・技術を有する人物・氏族は、そうであることが明確にお互いに分かった上で朝廷内部で活躍してきた。
非常に厳格な区別がされてきたものと筆者は推測している。
ところが年を経るに伴い、子孫が増えるに伴い、大和政権成立などに貢献した氏族内部でその本流・派生氏族の上下関係などに乱れが生じ、又は族長の統制がきかなくなり、一番大切な系図の類にも改竄・偽系図的なものが色々発生してきた。朝廷の役人登用などは主要ポストなどにつける人物にとっては系図が非常に重要であった訳であるので当然のことである。
朝廷も聖徳太子の頃には氏族中心から人物中心に登用基準を替えるべきであるとし「官位12階制度」などを採用せざるを得なくなってきたのである。
小野妹子なども従来の氏姓制度では考えられない程の地位を新制度により得たのである。
しかし、大勢はまだ動かず奈良時代でも古代豪族の力は基本的には維持されていたのである。
天皇家がその意味で一番しっかりした系図を残していたはずである。
何故ならこれが一番の証拠物件だったのであるから。よってこれが他の氏族の系図と整合が全くないものであったら他の豪族の信頼を著しく失うことになる。
よって、神世からの他の豪族との関わりをはっきりさせ、他の豪族と如何に天皇家が大昔から異なった立場であったかを公にしたのが記紀である。
これが全くの造りものであり、他の古代豪族の家記の類と整合とれないものであればこの時点で天皇家の権威は失墜してしまう程の重要事項であったと筆者は判断する。
それほど血脈・由緒正しさ(出自がはっきりしていること)が国及び民を統治する者には重要事項とされたのである。
これは、武力・権力・財力中心にトップがどんどん変遷してきた世界の多くの国々の様子と日本の大きな違いがあるように筆者は感じている。
これは記紀編纂時にそうしたのだという説もあるが、筆者はそう思えなくなった。
現在感覚で言えば武力・権力・財力などでトップが変わるのが分かり易いし、自然の成り行きであろうと考える。
ところが天皇家も古代豪族と言われる氏族も、一部又は一時的には真の実力者がそのトップの地位についたようであるが、長い歴史で見ると、どうもそれ以上に重要因子が後継者選択の基準だったようでならない。
天皇家はいつまでも天皇家、古代豪族は何時までも古代豪族で有り続ける的関係が相当古い時代に大和国家の中で出来上がっていたように思える。
言い換えれば天皇家を維持することが自分の古代豪族としての立場・地位を維持するすることに繋がる。
世襲的権力維持
のためにはどんぐりの背比べではない絶対的突出した天皇家という存在が体制維持のために必要だった。
それも中国や西欧諸国に見られるような帝王的存在ではなく「お飾り的
絶対君主」をその血族のみを世襲可能とし、実質的政権運営は豪族が入れ替わり立ち替わって切磋琢磨で争う範囲は良しとする体制である。
雄略天皇の記紀記事が史実かどうかは別として、このような天皇はよろしくないという思想があったようである。
中国の血を血で洗う戦乱の歴史の犠牲者を祖先にもつ弥生人の新天地日本での国造りは、初めから大陸とは異なったものがあったのではなかろうか。
記紀編纂時にそうなるように仕掛けたのではない。
但し天皇家の地位をより盤石なものにしたことは結果的に言える。
古代豪族についても基本的には同じであるが、この頃には既にかなり軽く扱われるようになっていたといっても過言ではないであろう。
古くからの支配・統治構造の根幹的価値観は変わってない。
即ち象徴天皇と実力内閣による国統治という古い時代の諸外国には類を見ないような、支配体制の骨格が出来るように仕組まれた。と筆者は考える。
しかし、その根っこはもっともっと古くから大和国に内在していたとみる。
この体制の根幹にあるのが家譜であり、系図を最も重要視する氏姓制度にあったと筆者は考える。
どうもこの辺りが島国日本の価値観醸成の一つの根っこであったと判断する。
現代感覚だけでは理解不可能な、価値観であろう。
現在の我々にも無意識的にこの価値観の波及効果が、諸外国の者には理解しえない糸として残っていると考える。
今後の稿でもこの点を念頭におけば歴史解釈は理解し易くなる。
日本独特の摂関政治、封建社会、武家社会、庶民の村社会も明治までこの価値観は一本筋を通して存在していたものと判断する。
良い悪いの問題ではない。日本という国を維持してきた我々の祖先の価値観の源泉みたいなものを感じる。
話が稲荷山古墳鉄剣銘文から変な方向に行ったが、以上述べたようなことまで考えさせる大発見の一つであったのである。
安倍氏はついには明治時代まで営々とその裔を繋いできたことは間違いない。
稀な古代豪族である。

ところで参考系図として載せた「智証大師円珍系図」について概説したい。
筆者が住まいする京都府の乙訓地区に関係する人物がこの系譜に登場するからである。
智証大師円珍(814−892)は5代天台座主である。
三井寺の創設者としても有名である。
14才で比叡山に入り、853−858年遣唐使として入唐した。
868年から入滅するまで天台座主であった。
長岡京市に長法寺という古刹がある。
ここの創設者はこの智証大師の弟子であった千観であるとされている。この千観はまた同じ長岡京にある勝竜寺の住職でもあったらしい。(寺伝ではこの寺は空海が創設者になっている)
千観が智証大師の直接の弟子であったかどうかは筆者は疑問をもっているが、何等かの関係があったものと思われる。
一方円珍の伯父とも言われている空海(774−835)もこの長岡京に非常に関係がある人物である。記録に残っているのは811年長岡京にある「乙訓寺」の別当として約2年間いたことになっている。
またそれに先立つこと24年前787年頃に空海の叔父の
阿刀大足が桓武天皇の第3皇子の家庭教師として長岡京に住まいしていた。
この叔父のもとに四国讃岐より大学受験の勉強のため登ってきたのである。
ここで約3年勉強したらしい。
空海が13、4才の頃と思われる。これは色々の空海の研究をしている内に明らかになったことである。
即ち空海は二度長岡京に来たことになる。関係する寺は、乙訓寺、勝竜寺
揚谷寺である。また空海の親族で弟子であった「道雄」という僧が819年に長岡京にあった奥海寺(現存:寂照院)を創建したとされている。
以上述べてきた智証大師円珍、空海、阿刀大足などの関係系図が残されているのである。
これが阿倍氏と関係しているのでこの稿に載せた。
これは一方では和気氏、佐伯氏(大伴氏)にも関係してくる。
参考だが東寺の俗別当家はこの縁で結ばれた阿刀氏が代々勤め
現在にも繋がっているとのことである。
 
5)まとめ(筆者主張)
@安倍氏は明治時代(現在)まで滅亡することなくその裔が繋がった珍しい古代豪族である。
A安倍氏は蘇我氏と共に歴史上登場し、主に2流が栄え布勢安倍氏は蘇我氏の後僅かの間、大臣になったり天皇家に后妃を出したりしたが、平安時代以降は陰陽師の道に特化して永続した。
一方引田安倍氏は武家として陸奥安倍氏として多くの武人を出しながら永続した。
B膳氏は、安倍氏の影のような存在であった。
聖徳太子時代に一時歴史の舞台に登場したが、奈良時代には高橋氏に改姓し永続した。それ以降歴史上に登場することはなかった。
C埼玉県の稲荷山古墳鉄剣銘文は、記紀記録の裏付け証拠として非常に重要な発見であった。
これにより戦後の記紀批判がいかに的はずれであったかが証明されたといっても過言ではない。
記紀編纂よりはるかに以前から、大王という存在、文字使用、雄略天皇の実在大彦命から8代にもわたる系譜、など5世紀の一地方豪族の姿が浮き彫りにされた。
筆者は、日本人の原点的価値観の一つをこれを基に類推した。
即ち古代豪族も大王家も互いにその存在価値を認め合っていた。
大王家(天皇家)は他の古代豪族とはその地位を争わない関係であった。
古代豪族は大王家を利用しながら共存共栄を世襲的にはかる体制を確立していった。
記紀編纂はその公的トドメの役割をはたした。
記紀編纂によりそうなったのではない。
その原点は家譜であり系図である。氏姓制度の源である。
これは4世紀頃には統治者・リーダークラスには普及していた価値観であったと推定している。
この根っこの概念がその後の日本人の根底に受け継がれてきたものと思う。
これが戦後新憲法の天皇と一般国民の関係にも受け継がれているものと思う。
D智証大師円珍(5代天台座主)も阿倍氏の流を引く人物で空海の甥とされ乙訓の地に空海と共に関係あった歴史上の重要人物である。
 
(参考文献)
・「古代豪族の研究」      新人物往来社(2002年)
・「古代史を知る事典」   武光 誠著 東京堂出版(1996年)