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8.古代天皇家概論(26継体天皇ー40天武天皇)
1)はじめに
 本シリーズの「4.古代初期天皇家概論」で1神武天皇から25武烈天皇までを概括した。
さらに「5.継体天皇出自考」で26継体天皇の出自に関して現時点での日本史学会周辺の状況を概観し、筆者の主張も記した。
さて、26継体天皇以降は歴史的にそれ以前に比し、記紀の記述も詳しく信憑性も増したと言われている(但し、古事記は推古天皇まで)。
各事象の年代記録もほぼそのまま西暦変換しても、問題なかろうとされている。
これは一つには、中国から新たな暦に関する知識が導入されたからである。とされている。
「6.蘇我氏考」に参考として年表を載せたが、これも一応、現史学会が認めているものである。記紀の記述とほぼ連動している。
しかし、「蘇我氏考」でも述べたように、実際は謎だらけであると主張する本の類が本屋の店頭を賑わしているのが現状である。
残念ながら確認、立証することは、至難のことである。
この時代の発掘調査も色々成果が出つつある。
筆者の感想では、「記紀に記されていることは、案外真実に近いのでは」である。
斉明朝の石の宮などそのまま残されているような感じがする。
 さて、26継体天皇から40天武天皇の時代、507年ー673年の約150年間は、混沌としていた大和王権が、確固たる法治国家の体制に突入する「日本国家」成立の時期とみる。
蘇我氏と反蘇我氏の格闘、豪族体制と法治体制、旧勢力と仏教勢力、百済派と新羅派、など色々な因子が絡み合った時代である。
古代豪族も生き残るために、それぞれ智恵を絞った激しい戦いが繰り広げられた時代である。
前半は蘇我氏の台頭、蘇我王朝の展開、そして滅亡。
後半は、天皇家親政体制に向けての準備期間である。
北陸の地から26継体天皇を擁立して、新たな豪族体制を模索した豪族達は、どうしたのであろうか、それを知る上にもこの間に天皇家はどうだったのかを概観することは、有意義である。
少なくとも記紀には、はっきり記されてある。これをマクロ、ミクロに見てみたい。

2)人物列伝
 26継体天皇から40天武天皇までの歴代天皇を列伝として記し、併せて天皇家関連人物を紹介したい。但し、38天智天皇から40天武天皇に関しては、本人のみの記述にとどめ子供等の紹介は本稿では省略する。
2−1)26継体天皇(450−531)在位(507−531)
@父;彦主人王 母;振媛命(垂仁天皇7世孫)
A子供;安閑天皇(母;目子媛)宣化天皇(母;目子媛)
   欽明天皇(母;手白香皇女)大郎皇子、出雲皇女(母;稚子媛)
 皇后;手白香皇女(仁賢女)
 妃;目子媛(尾張連草香女)稚子媛、広媛、麻績娘子、茨田関媛、
   倭媛、和迩氏女
B本名;男大迹 
C応神天皇の五世孫。25武烈天皇に後継ぎがなかったため、時の実権を握っていた大伴金村(物部麁鹿火大連、許勢男人大臣、河内馬飼首荒籠)らに推挙されて、即位。
Dしかし、大和に入ることが出来ず、20年に渡って大和周縁を転々とし、24仁賢天皇の皇女、25武烈の妹にあたる、手白香皇女を娶って皇后とし、大和入りした。
(近江地方の勢力が20年にわたって既存勢力に対抗し、ついに皇位を簒奪したとの説もある。)
E「筑紫国造磐井」と新羅とが手を組んだ乱勃発。「近江毛野臣」らが鎮定に苦しんだ。
 最終的には、物部麁鹿火がこれを討滅した。
F百済の任那四県割譲要求を大伴金村は、受諾した。
(後年金村は、これを失政として非難され、失脚した。)
G樟葉宮、弟国宮(長岡京市内)、磐余玉穂宮(桜井市池内)など。
ーーー25代武烈天皇で天皇家の血筋が一度切れたという説が戦後出されたが、現在では、26代継体天皇の出自も明確となり、切れてはいないという説が主流。  ーーーー
    「古代史の謎」
 
2−2)27安閑天皇(466−535)在位(531−535)
@父;継体天皇 母;尾張目子媛
A子供;なし (豊彦王)
 皇后;春日山田皇女(仁賢女)
 妃;許勢紗手媛(許勢男人大臣女)、許勢香香有媛(同妹)、
   物部宅媛(木蓮子大連女)
B本名;広国押武金日尊、勾大兄  継体第1子
C高齢で即位、2年で没。
D各地に屯倉を設置、皇室領の拡大を行った。(安閑、宣化時代)
E一説には、異母弟の欽明天皇が同時期に皇位にあり、宣化天皇と並立していたとの説。
参考)この大王は、実質的に存在しなかったという説強い。
 
2−3)28宣化天皇(467−539)在位(535−539)
@父;継体天皇 母;尾張目子媛
A子供;火焔皇子(母;稚子媛)石姫皇女(母;橘仲皇女)小石姫皇女(母;同左)
 皇后;橘仲皇女(仁賢女)
 妃;大河内稚子媛
B本名;武小広国押盾尊、檜隈高田皇子、  継体第2子
C兄安閑天皇に子がないため、即位。
D新羅の任那侵攻頻発。大伴金村(子供;大伴磐、狭手彦)に任那出兵を命じた。
E大伴金村、物部麁鹿火、大連
 蘇我稲目 大臣、 阿倍大麻呂 大夫。体制で政治を行った。
F安閑、宣化、欽明並列皇位説あり。ーーー「古代史の謎」
 
参考)この大王も存在があやしい。26継体の後継大王は、29欽明であり28宣化も人物としては存在したかも知れぬが、大王ではなかった可能性大。
 
2−4)29欽明天皇(509−571)在位(539−571)
@父;継体天皇 母;手白香皇女(24仁賢女)
A子供;箭田珠勝大兄皇子(母;石姫皇女)敏達天皇(母;同左)      用明天皇(母;堅塩姫)推古天皇(母;同左)
    桜井皇子(母;同左)
    崇峻天皇(母;小姉君)穴穂部皇子(母;同左)
    穴穂部間人皇女(母;同左)
 皇后;石姫皇女(宣化女)
 妃;小石姫(宣化女)倉稚綾姫皇女(同左)、日影皇女(同左)
   蘇我堅塩媛(蘇我稲目女)蘇我小姉君(蘇我稲目女)
   糠子(春日臣女)
B本名;天国排開広庭尊、  継体第3皇子
C「上宮聖徳法王帝説」などによれば、継体没年に即位となっており、安閑、宣化と並立していたのではとの説あり。(宮は、別々)日本書紀では、継体没後即位。
D治世中、百済の聖明王によって、仏教が伝来 (仏教伝来の年は、この大王がどの時点 で即位したかで変動する。552年説、538年説が、併存する。)後々まで続く崇仏 派(蘇我稲目)と廃仏派(物部尾興、中臣鎌子)の権力闘争の発端となった。
E聖明王が、新羅軍に敗れて、任那は滅亡。以降任那の復興が、歴代天皇の課題となった。
 (朝鮮半島関連記事異常に多い)
F蘇我氏の台頭著しい。
G磯城島金刺宮(桜井市金屋)
 
2−5)30敏達天皇(538−585)在位(572−583)
@父;29欽明天皇 母;石姫皇女(28宣化女)
A子供;押坂彦人大兄皇子(母;広姫)
    田村皇女(別名;糠手姫 母;老女子夫人、異説多し)
    難波皇子、大派皇子、         
 皇后;広姫(息長真手王女)、推古天皇
 夫人;春日老女君(春日臣仲君女)、伊勢兎名子(伊勢采女)
B本名;訳語田皇子、欽明天皇第2皇子。兄箭田珠勝大兄皇子の死により皇太子になる。
C父の死に際し、新羅を討って任那を復興するべく託されたため、
高句麗と初めて国交を開くなど、積極的に朝鮮諸国との交渉を行った。(阿倍目臣)
D百済から贈られた仏像を、蘇我馬子が祀ったところ疫病が流行した。天皇は、仏教禁止 の措置をし、物部守屋らに命じ て、仏塔、仏像を焼き払った。その直後、敏達天皇、 物部守屋が疫病に罹り、間もなく没した。
E皇后 広姫(息長真手王女)との間に押坂彦人大兄皇子あり。
広姫は、皇后になって(本当に皇后か疑問説あり)数ヶ月で死亡(575年)その後、推古天皇(炊屋姫皇女; 29欽明と蘇我堅塩姫の子)が皇后となり、間に、竹田皇子、尾張皇子などあり。
F蘇我馬子大臣となる。 「王辰爾」の記事。
G百済大井宮(大阪府富田林市)
 
参考)押坂彦人大兄皇子(?−?)
@父;30敏達天皇 母;広姫(息長真手王 女)
A30敏達の第1皇子。
妃;大俣女王(一説聖徳太子と橘大郎女の子の娘、又小墾田皇女;30敏達と推古の子など諸説あるがハッキリしない)子供;茅渟王
妃;糠手姫皇女(田村皇女;30敏達と老女子夫人の子、異説あり。)
子供;34舒明天皇
B蘇我氏の血が入って無かったため、天皇にはなれなかった。しかし、その後子供の34舒明をはじめ、茅渟(チヌ)王流れが、天皇家の主流となる。
35皇極、36孝徳、37斉明、38天智、39弘文、40天武など。
 
2−6)31用明天皇(540−587)在位(585−587)
@父;29欽明天皇 母;蘇我堅塩媛
A子供;聖徳太子(母;穴穂部間人皇女)来目皇子、茨田皇子
 皇后;穴穂部間人皇女(欽明女)
 妃;蘇我石寸名、葛城広子(葛城当麻倉首女)
B欽明天皇第4皇子、蘇我氏を外戚に持つ初めての天皇。
C兄敏達天皇の死にともない、蘇我馬子の後押しで即位。馬子大臣、物部守屋大連体制。
D皇后 異母妹、穴穂部間人皇女(29欽明と蘇我小姉君の子)との間に4人の皇子をもうけた。その中の一人が、厩戸 皇子(聖徳太子)である。
E仏法を信じ神道を尊んだ信仰心の厚い人物。(須加手姫を伊勢神宮の斉女とした)
F廃仏派の物部、中臣氏と崇仏派の蘇我氏が対立。一触即発の危機を迎える。
G推古天皇時完成する「法隆寺」と「薬師如来像」は、用明天皇の病気平癒を願って造立されたものと言われている。
H磐余池辺双槻宮(奈良県桜井市)
参考)「穴穂部皇子の謀反」
585年30敏達天皇没後直ぐに物部守屋と穴穂部皇子が組んで、次期皇位を狙った。 587年馬子の要請により炊屋姫皇女(推古)は、穴穂部皇子討伐の詔を下し、殺された。
(三輪君逆の話し)
 
2−7)32崇峻天皇(???ー592)在位(587−592)
@父;29欽明天皇 母;蘇我小姉君(蘇我稲目女)
A子供;蜂子皇子(母;小手子)、錦代皇女(同左)
 妃;大伴小手子、(大伴糠手連女)  嬪;蘇我河上娘
B欽明天皇の第12皇子   泊瀬部皇子
C用明天皇没後、馬子と守屋の対立は、武力衝突にまで発展。総大将として討伐軍に加わ り守屋を討ち、蘇我氏の後押しを得て即位。(蘇我氏、天皇家<−>物部守屋の争い)
D物部氏の没落によって、欽明朝以来の崇仏、廃仏論争に決着がつき、法興寺(飛鳥寺)四天王寺の造営に着手。造寺事業を積極的に行った。
E政治の実権は大臣となった馬子にあり、天皇はこれに対立するようになり、馬子一派(東 漢直駒)に殺害された。 駒も後に馬子に殺された。
天皇暗殺は、日本史上他に例がない。蘇我小姉君派と蘇我堅塩姫派の対立。小姉派は、主力 失う。小姉と堅塩は、同母姉妹となっているが、疑問あり、との説あり。
F倉梯柴垣宮(奈良県桜井市)
 
2−8)33推古天皇(554−628)在位(592−628)
@父;29欽明天皇 母;蘇我堅塩姫(馬子の妹)
A子供;菟道貝鮹皇女、竹田皇子、小墾田皇女
B欽明天皇第3皇女、異母兄敏達天皇の皇后、歴代天皇中最初の女帝。馬子の姪。炊屋姫皇女
C592年馬子に請われて即位した。593年聖徳太子を摂政とした。(当時「摂政」という官 職は、無かったとの説あり。)
D冠位12階(603年)、17条憲法制定(604年)遣隋使派遣(600年)、   斑鳩寺(法隆寺)造営(601年?)。
「国記」「天皇記」編纂。
E607年遣隋使「小野妹子」高向玄理、南淵請安ら留学生。
「裴世清」の記事。
F任那、新羅が衝突。境部臣、穂積臣。 坂本臣糠手、来目皇子、当麻皇子の記事
 以後新羅問題が尾を引く。
G蘇我馬子が葛城県を蘇我氏に賜りたいと申し出て断られる記事。
H豊浦宮(明日香村)他

参考)聖徳太子(???−622)
@父;31用明天皇 母;穴穂部間人皇女(29欽明女)
A31用明第1皇子。第2子説あり。
B仏教、儒教にも精通し、用明天皇に寵愛され、宮殿南の上宮に住んだ。
C「三経義疏」、四天王寺、法隆寺建立。
D601年以降宮室を斑鳩に移した。
 ーーー歴史上最大の聖人とされた。ーーー
 
2−9)34舒明天皇(593−641)在位(629−641)
@父;押坂彦人大兄皇子 母;糠手姫皇女(29欽明女、異説あり)
A子供;古人大兄皇子(母;法提郎媛)間人皇女(母;皇極)
    天智天皇(母;皇極)天武天皇(母;同左)
 皇后;皇極天皇
 妃;田眼皇女
 夫人;蘇我法提郎媛(蘇我馬子女)粟田香櫛娘、蘇我手杯娘、
    蚊屋采女姉子
B幼名;田村皇子、
C推古天皇没後、聖徳太子の長子で、用明天皇の孫にあたる山背大兄王と皇位を争い、蘇我蝦夷(阿倍麻呂臣、大伴鯨、中臣連弥気)らの支持を受け即位。
許勢臣大麻呂、佐 伯連東人、紀塩手、らは山背大兄を推した。
蘇我倉麻呂は、留保。***蘇我境部摩理勢は、山背王を終始推して殺された。
D第1回遣唐使派遣。百済、新羅、高句麗との関係良好。極めて安穏な時代であった。
E蘇我蝦夷、入鹿父子の勢力拡大。
F飛鳥岡本宮(明日香村)他
***田村皇子には、既に当時馬子の子の「法提郎娘」との間に「古人皇子」があった。
田村皇子自身は、蘇我氏の血は入ってなかったが、その子しかも男子が、蘇我氏の血が入り、蘇我本宗家の支持を勝ち取った根拠のひとつか?
ーーー「古事記」はもはや舒明天皇にその記述が及んでない。これ以降は「日本書紀」のみである。ーーーー
 
2−10)35皇極天皇(594−661)在位(642−645)
@父;茅渟(チヌ)王  母;吉備姫王(桜井皇子女)
A舒明天皇の皇后   宝皇女
B舒明天皇没後、蘇我蝦夷の支持を受け即位。
C大臣「蝦夷」から子の「入鹿」に実権が移行しつつあった。(紫冠事件)
 入鹿は、巨勢徳太臣、土師婆波連に命じ斑鳩の山背大兄王を急襲させ、自害させた。
D中臣鎌足の記事(南淵請安、中大兄皇子との関係)蘇我倉山田石川麻呂記事。
E645年実子 中大兄皇子が、中臣鎌足らと謀って蘇我氏を滅ぼした。(乙巳の変)
 そのため、弟の孝徳天皇(軽皇子)に一旦譲位(我が国歴史上初の譲位)。孝徳が没すると重祚して斉明天皇となった。
F唐、新羅の連合軍が、百済を攻略。百済支援のため兵を率いて筑紫に向かい、そこで急逝した。
G飛鳥板蓋宮(明日香村)
H宝皇女は、34舒明に嫁ぐ前に「高向王(出自不明)」の室となり、一子漢王子があっ たとの記録あり。これが40天武天皇の出生に繋がる謎と関係ありとの説あり。
 
参考)茅渟王(?−?)
@父:押坂彦人大兄皇子 母:大俣女王
A妃:吉備女王(桜井皇子女)子供:35皇極天皇・36孝徳天皇
B歴史上実に影の薄い王であるが、結果的には現在の天皇家に繋がる
キーマンの一人となった。謎の人物。記紀に記述ほとんどなし。
 
2−11)36孝徳天皇(596−654)在位(645−654)
@父;茅渟王 母;吉備姫王
A子供;有馬皇子(母;小足媛)
 皇后;間人皇女(舒明女)
妃;小足媛(阿倍倉梯麻呂女)、蘇我乳娘。(蘇我倉山田石川麻呂女)
B皇極の弟、軽皇子
C645年「乙巳の変」により皇極天皇より譲位され即位。都を飛鳥から難波へ遷都。
 体制;皇太子ー仲大兄皇子、左大臣ー阿倍倉梯麻呂(内麻呂)、右大臣ー蘇我石川麻呂。
 内臣;中臣鎌足(特別待遇)  国博士;僧旻、高向玄理
D645年「古人大兄皇子の変」皇子殺される。(蘇我田口臣川堀、物部朴井連椎子
 吉備笠臣垂、倭漢文直麻呂らと謀反を計画の罪)
E646年「大化の改新」
F649年「蘇我石川麻呂の変」石川麻呂自殺。(蘇我日向の讒言記事)その後の体制、 左大臣ー巨勢徳太古 右大臣ー大伴長徳  (阿倍左大臣は、病死)
G晩年は、皇太子の中大兄皇子らと対立。653年中大兄らが飛鳥に戻った後、難波で孤 独のうちに崩じた。
H飛鳥板蓋宮ーーー>難波宮
 
参考;軽皇子の本拠地は、「難波」である。中臣鎌足の本拠地もまた「難波」に近かった。
このことから、元々は、軽皇子と中臣鎌足が結びつき、蘇我入鹿暗殺と、軽皇子即位を
企てたのではないかという説が、注目されている。「乙巳の変」における中大兄の役割が、
日本書紀に記されている通りだったか疑問(若すぎる)???
 
参考;有馬皇子(640−658)
@父;孝徳天皇 母;阿倍倉梯麻呂女
A6才の時父即位。649年外祖父左大臣阿倍倉梯麻呂が死に後ろ盾を失う。
B15才の時、父崩御。当時の皇太子は、中大兄皇子。37斉明再祚。
C658年中大兄皇子は、有馬皇子を謀反を謀ったとして、絞首刑にした。(蘇我赤兄が、絡んでいた)
 
2−12)37斉明天皇(594−661)在位(655−661)
 35皇極天皇に同じ
@飛鳥板蓋宮 他
A658年阿倍比羅夫蝦夷を討つ。
B658年「有馬皇子の変」皇子死亡。
C661年百済救援軍を出す。37斉明はじめ中大兄皇子その家族大挙して、九州へ行く。 その地で崩御。(百済王子、「豊璋」の記事)
 
2−13)38天智天皇(626−671)在位(661−671)
@父;34舒明天皇 母;35皇極(37斉明)天皇
A子供;大田皇女(天武妃、母;遠智娘)
    菟野皇女(持統天皇、天武后、母;同左)
    建皇子(母;同左)大友皇子(弘文天皇、母;宅子)
    阿閇皇女(元明天皇、草壁妃、母;姪娘)
    御名部皇女(高市皇子妃、母;同左)
    大江皇女(天武妃、母;色夫古娘)泉皇女(母;同左)
    川島皇子(母;同左)
    飛鳥皇女(刑部妃、母;橘娘)新田部皇女(母;同左)
    山辺皇女(大津皇子妃、母;常陸娘)
    施貴親王(母;越道君女郎)など
 皇后;倭姫王(古人大兄皇子女)
 嬪;遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂女)姪娘(同左、妹)
   橘娘(安倍倉梯麻呂女)常陸娘(蘇我赤兄女)
 采女;宅子娘(伊賀采女)、色夫古娘(忍海造小竜女)
   越道君女、蘇我造媛
    車持与志古娘、額田姫王、鏡姫王、栗隈黒媛娘など
B本名;中大兄皇子  34舒明の次男、
C645年蘇我入鹿らの専横に憤慨し、中臣鎌足らと謀って蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)
後、36孝徳を立て、自らは皇太子となった。 (大化の改新)
D36孝徳没後も、皇位に就かず母皇極が、37斉明として重祚し、36孝徳の遺児有馬 皇子を謀反の かどで処刑するなど、長らく皇太子のまま実権を握っていた。
E百済王子「豊璋」、鬼室福信の記事。
F663年朝鮮出兵、「白村江の戦い」で大敗(唐、新羅連合軍)これにより、対馬、壱岐、 筑紫に防人、水城を設置。
667年大津へ遷都。  
668年そこで即位。
669年中 臣鎌足に「大職冠」授け、「内大臣」とし、藤原姓を
賜与した。670年「庚午年籍」を造る。
G671年新体制;太政大臣ー大友皇子、左大臣ー蘇我赤兄、
右大臣ー中臣金、御史大夫;蘇我果安、巨勢人、紀大人。
H671年同母弟で皇位継承の最有力候補だった大海人皇子は、次々と皇位継承者を謀殺してきた天智天皇を怖れ、自ら吉野に出家。
I長子の大友皇子(弘文天皇)を後継に擁立すると、間もなく崩じた。
J志賀大津宮
 
2−14)39弘文天皇(648−672)在位(671−672)
@父;38天智天皇 母;伊賀采女宅子
A子供;葛野王、壱志姫王、与多王
 妃;十市皇女(天武女)、藤原耳面刀自(鎌足女)
B38天智天皇第1皇子 大友皇子、淡海真人氏の祖。
C母が、伊賀の采女であったために貴族らの支持を得られないまま、天智天皇の没後近江朝廷の主となった。
博学で文武の才に長じ、鎌足の息女(耳面刀自)を側室にした。
671年太政大臣になった。
D叔父大海人皇子が、決起して「壬申の乱」勃発(672年)。***近江国瀬田の決戦 に大敗。 39弘文天皇は、自殺。
E明治になって、弘文天皇と認定された。
F志賀大津宮
参考)***日本書紀では、大友皇子は天皇と認めてない。もしこれを天皇と大海人皇子の戦いとしたらこれは、明らかなる反逆行為として、革命扱いになる。よって皇位継承に伴う争いの一つだと筋をとうした形になっている。一説では、元来日本書紀にも天皇紀が
存在していたが、編纂者「舎人親王」が、父天武天皇の皇位簒奪の印象を拭い去ろうとして、大友皇子の即位を省いたとの説(伴 信友)
 
2−15)40天武天皇(631?−686)在位(673−686)
@父;34舒明天皇 母;35皇極(37斉明)天皇
A子供;十市皇女(弘文妃、母;額田姫)高市皇子(母;尼子娘)
    大伯内親王(母;大田皇女)大津皇子(母;同左)         弓削皇子(母;大江皇女)長皇子(母;同左)
    草壁皇子(母;持統天皇)新田部皇子(母;五百重娘)
    但馬皇女(母;氷上娘)
    刑部皇子(母;穴人臣大麻呂女)磯城皇子(母;同左)       泊瀬部皇女(川島妃、母;同左)
    多紀郡皇女(施貴妃、母;同左)
    紀皇女(母;石川夫人)田形皇女(母;同左)
    穂積皇子(母;同左)
    舎人親王(母;新田部皇女)
 皇后;菟野皇女(持統天皇、天智女)
 妃;大田皇女(天智女)、大江皇女(天智女)、
   新田部皇女(天智女)
 夫人;氷上娘(藤原鎌足女)五百重娘(鎌足女)
    石川夫人(別名;大荻娘、蘇我赤兄女)
    額田姫王、尼子娘(胸形君徳善女)穀媛娘(穴人臣大麻呂女)
B38天智天皇の実弟 大海人皇子
C671年天智天皇の病床で、皇位を託されたが次々と皇位継承者を謀殺してきた兄を怖 れてこれを固辞。出家して吉野に隠遁していたが、天智没後、後継となった大友皇子が、吉野を急襲する準備をしているとの情報を得て、決起し大友皇子を討って(壬申の乱) 飛鳥浄御原で即位(673年)、
大伴連吹負の活躍、中臣金処刑の記事
 飛鳥浄御原令の作成を命ず。679年吉野で6皇子を集めて盟約をした。(草壁、高 市、河嶋、施貴、刑部、大津) 681年皇太子; 草壁皇子(20才) いわゆる「親 政」体制で政治をおこなった。大臣任命なし。本格的律令国家樹立に邁進。
D新羅が半島統一。新羅との外交関係保持する方針をとる。唐との国交は、断絶。
E川原寺に一切経の書写を始めさせる。(最初の写経事業)また大臣を廃し、皇親政治をとり、 律令、史書の編纂を命じた。 八色の姓、新冠位の制定、諸国境界の確定など中央集権国家 体制を固めた。伊勢神宮の祭祀重視。
F飛鳥浄御原宮 (明日香村)
G689年40天武崩御。直後「大津皇子の謀反」発覚、皇子自殺。(41持統の陰謀?)
参考)正史上は、上記の通りであるが、古くから出自に謎があるとされている。      
 ーーーーーーー「古代史の謎」ーーーーー
 イ、日本書紀編纂を命じた天皇でありながら、誕生の年不明。何処にも記録なし。古い天皇で誕生年不明はあるが、この時代では考えにくい。意図的に隠した?
 ロ、誕生を隠さなければならぬ、理由があった。???
 ハ、日本書紀は、天武天皇の正当性を歴史上確定させるために編纂させた。?
 ニ、皇后であり、皇位継承者であった持統天皇は、それを総て知った上で、皇位につかざるをえなかった。草壁が嗣げば問題はないが、それ以外即ち自分の子以外では、天皇家の血統が絶えると判断せざるをえなかった。???
 ホ、よって沢山の皇位継承資格のある皇子がいたにも関わらず、異例の継承を自分でした。???
 ヘ、日本書紀及び総ての記録の中から、天武の出生に関する事項は、上記正史以外は、無い物と仕組んだ形跡あり。?
 ト、母親が皇極であること間違いない。問題は父親である。皇極(宝王女)は、初め、蘇我系皇族「高向王」(31用明天皇の孫、とあるが、父は不明)と結婚し、漢王を産んだ。その後34舒明天皇に嫁ぎ、天智、天武らを産んだとされている。漢王までは、記録あり。よってこの漢王が、天武という説あり。勿論天智より年上、兄になる。しかし、これなら王族であり隠す必要はない。いやいやそんなものではない、天皇家とは、全く関係ない人物(新羅人?百済王?)と皇極との子だとい う説。
高向王は、蘇我入鹿であるという説まである。
 チ、38天智の子、持統の弟「建王」の話。
建王=漢王=40天武説。持統は、蘇我系皇族、天武も蘇我系であった可能性あり。よって、飛鳥に対し隠然たる力を持っていた。天智はこれを無視出来ず、多くの娘を天武に嫁がせた。との   説。
 チ、どうであれここで皇統が、切れた。少なくとも、男子系において、継体とは違ってそれも秘密裏にそうなった。それを持統が、知った。徹底的対策(歴史に残らぬ)をとった。?
ーーーお面白いが天智もそれを知らなかったのか?少なくとも長い間 天智を助け、実質的には皇太子であった。その出自に一寸でも不信な点があれば、第1に天智がそれを暴いて処分したはず。ーーー
 リ、新羅人の金多遂であるという説(佐々克明氏)
   高句麗人の淵蓋蘇文であるという説(小林恵子氏)などなど。
 ヌ、とんでもない。天武こそ間違いなく舒明ー皇極の子供である。息長系の正嫡である。天智こそが百済王の流れを引く、高向王ー皇極の子供である漢王子である。よって、皇統を継ぐことが憚れたので称制と称して長年月かけてめぼしい人物を次々と殺し、遂に皇統を実力で簒奪したのである。
これを詳しく知っているのは、娘である持統天皇と天智の忠臣藤原鎌足の子である不比等である。
よって記紀編纂により、これを完全に隠蔽したのである。という説。
など。日本史も文字記録が残されたのは間違いない推古朝以降でも全く謎だらけである。
 
3)古代天皇家系図(26継体天皇ー40天武天皇)
記紀に準拠しているが説明の都合上異説なども併記してあるので筆者創作系図とする。
概略系図と婚姻関係を中心とした詳細系図を下記に示す。但し、38天智天皇。40天武天皇については、詳細および子供関係の系図をこの稿では省略した。
いずれ別稿にて、詳しく述べる予定である。
4)系図解説・論考
 今回の系図では、各天皇の子供を出来るだけ詳しく記した。皇子クラスの人物についても後の歴史を理解し易くする範囲で、その婚姻関係・子供等を記した。勿論省略された人物も多数いるが、ここからはずれた人物は、我々レベルの研究では大勢に影響ないと判断した。
まず驚くのは、
@有力天皇と言われている人物は、非常に多くの嫁さんを有し、非常に多くの子供を産んで、子孫繁栄に努めている。
A今日でいう近親結婚が極く普通に行われていた模様。
当時は、同腹の兄弟姉妹間の結婚、及び血の繋がった親子間の結婚は、禁じられており、これを犯すと死罪までの重罰が科せられたとの記事あり。
しかし、父親が同一でも母が異なれば即ち義理の兄弟姉妹間の結婚は、許された。
31用明天皇と穴穂部間人皇女の婚姻は、共に父親は29欽明天皇である。
母親は、蘇我稲目の娘同士で同腹姉妹と言われている「堅塩媛」「小姉君」である。
よって、滅茶苦茶に血が濃い者同士の結婚である。
産まれたのが日本歴史上最も日本人の尊敬を集めている「聖徳太子」である。
正にに蘇我氏の申し子のような存在である。
この系図を見れば、ここまでは血は濃くないにしても多くの異母兄弟姉妹間の婚姻が行われている。
このような婚姻形態はこの後徐々に避けられるようになるが、平安末期でも完全禁止婚姻ではなかったようである。
この他でも義理の親子間も許されている。
例えば31用明天皇の息子「田目皇子」と31用明天皇の后である「穴穂部間人皇女」は、31用明天皇没後婚姻し、佐富女王を産んでいる。
この佐富女王と31用明天皇の子供である「聖徳太子」の息子長谷王と婚姻している。
なんて関係がそこいら中にある。
B蘇我氏全盛時代と言っても天皇を中心に見れば、蘇我氏の血が全く入っていない皇族も多数いたことが分かる。
これが意図的だとすれば、誰の意図なのか?詳細系図の上半分と下半分とでほぼ分かれている。
Cこの時代、蘇我氏以外の豪族が天皇家に娘を送り込むことは至難の伎だったようである。むしろもっと卑なレベルの地方出身の娘が側女的に入り天皇の子供を産んでいる。
この典型例が、38天智天皇の子供、大友皇子(39弘文天皇)である。
34舒明天皇の母とされている田村皇女もこの類か。
35皇極天皇の母、祖母なども、現在でも分かり難い出自とされている。
祖母である「大俣女王」なんて全く謎の人物である。
38天智、40天武に直結する系譜が未だにはっきりしないなんて、不思議であるが本当らしい。諸説あるが。
さて、各天皇順に解説をしたい。
・26継体天皇・27安閑天皇・28宣化天皇
 「継体天皇出自考」の項で詳しく記したが、26継体天皇は大和出身の大王ではない。よって大和に入るまでに既に多くの地方の媛と婚姻関係があり、膨大な数の子女を残している。
しかし、詳しい子供らの系譜があるのは、27安閑天皇、28宣化天皇そして29欽明天皇のみである。
27安閑、28宣化の二人だけが古代豪族尾張氏の娘「目子媛」の子供であり、他の子女は26継体天皇の親族みたいな関係にあった氏族出身の娘との間に産まれ、恐らく最終的に大和の地に移住してきたか不明である。
よって大和の名のある氏族・皇族との子弟との婚姻関係がなかったのではなかろうか。
しかも、前大和王権の血を引く手白香皇女と26継体天皇の婚姻は非常に遅く、29欽明天皇がらみの人物と26継体天皇の若い時代の子供等とは、年代差もあって、この間の婚姻関係が全く無かったか、記録が残されてないものと推定する。
筆者の人物列伝によると29欽明天皇は26継体天皇の59才の時誕生している。
これぞ正式な跡継ぎであると多くの豪族は、考えたに違いない。
よって目子媛との子供27安閑、28宣化は、人物として存在していたことは間違いなかろうが、天皇位に正式についたかどうかは怪しいとする説も強い。
いずれにせよ29欽明天皇までの繋ぎ的存在であったことは、間違いなかろう。
27安閑には子供が無かったと記すものがあるが、筆者の調査では、武烈朝、継体朝の大臣であった「巨勢男人」の娘との間に皇子が一人いたが早世している。
28宣化天皇には火焔皇子、上植葉皇子、宅部皇子という3人の皇子がおり、或る系図では(記紀系図ではないはず)、火焔皇子の流れから鏡王ー鏡媛・額田女王という歴史上有名な人物が出たとの記事あり。但し一般的には、万葉歌人「額田王」は出自不明とされているようである。
また、上植葉皇子は、多治比氏の祖とされる系図が残されている。
多治比氏は奈良時代には、大臣も出し、50桓武天皇の妃の一人である「多治比真宗」は、桓武平氏の祖となる「葛原親王」の母である。
28宣化と24仁賢の娘橘仲皇女との間の娘は、その多くが29欽明の妃となった。特に「石姫」は后となり、30敏達天皇を産んだ。
その意味でも28宣化天皇は、皇統継続に重要な役割を演じたと言える。
28宣化天皇と29欽明天皇の関係は、豪族の勢力争い(大伴金村ー物部ー蘇我稲目)に利用されたやに思われるが、そんなに悪い関係だったとは思えない。
・29欽明天皇
 仏教伝来は29欽明天皇の時である。その意味で日本が文化的にも一大変革を開始する時代である。
この天皇は蘇我稲目に擁立された天皇である。稲目の娘堅塩媛、小姉君を娶り蘇我王朝の基を造った天皇である。
仏教伝来の時期については2説あるが、蘇我氏に対してのみ仏像を祀ることを許した。
物部氏ら旧勢力と蘇我氏の政争が激化してきた。
朝鮮半島では、新羅が任那を滅ぼした。
親百済勢力、親新羅勢力が顕在化し出した。
・30敏達天皇
 30敏達天皇は、蘇我氏台頭の中で、仏教禁止令を出した程であるから、そんなに親蘇我氏色はなかったものと思われる。
血脈的にも蘇我氏の血は全く入っていない。自分の妃にも、33推古天皇を除けば蘇我氏の血統は貰っていない。
当時としてはかなり意図的な動きである。
「息長真手王」の娘「広媛」との間の皇子「押坂彦人皇子」こそ、その後の王朝の血脈の流れを替えた人物である。筆者はその裏に息長氏の影を感じる。       
・31用明天皇・32崇峻天皇・33推古天皇
 31・32・33代がまさに蘇我王朝天皇の時代である。
31用明天皇の外戚が蘇我氏である。この時は「馬子」の時代で、馬子の推薦で30敏達没後即位した。
日本書紀の記述に不明瞭な点があり、31用明天皇不存在説あり。これは、聖徳太子不存在説にも繋がり、一寸受け入れし難い。
が結構多い説である。
31用明は、国として正式に仏教を支持することを表明した。
31用明の后は従兄妹である穴穂部間人皇女である。その子が「聖徳太子」である。
31用明没後馬子の推薦で29欽明の子、32崇峻天皇が擁立された。
これも蘇我氏が外戚である。
この時に遂に宗教戦争が起こった。これは実際は皇位継承争いとの説もある。
蘇我氏+大多数の皇族(含む聖徳太子)+大多数の古代豪族連合軍と物部守屋+三輪氏、中臣氏ら廃仏派豪族連合軍の戦いであった。
この時皇族である「押坂彦人皇子」にも蘇我氏側での参戦要望が出されていたが、遂に皇子は参戦しなかった。とされる。
このことにより、皇子は次期大王の候補から外されたとされる。
結果は蘇我軍の勝ちとなり、物部氏本流は滅亡したとされる。
最近は旧事本紀の説に寄って守屋本流説を採らない説も多い。
いずれにせよ、これで蘇我氏は益々力を増し、その意志に反する行動に出たとされる32崇峻天皇を馬子は殺してしまった。
現役天皇を臣のものが殺害したのは歴史上初めてのこととされている。
次ぎに天皇に推されたのが日本初めての女帝とされる33推古天皇である。
33推古天皇は30敏達の后であり、二人の間には竹田皇子他多くの媛があった。
彼女は甥である聖徳太子を摂政とした。この時代摂政という制度はなかったらしいが。
32崇峻の後、何故聖徳太子や、竹田皇子が天皇になれなかったのか。
聖徳太子なんかまさに蘇我氏の申し子みたいな存在。しかも稀に見る人物である。不可解である。真相は未だに謎である。
一説では、繋ぎ的に即位した33推古が長生きし過ぎて、聖徳太子に順番が回って来ない内に太子の方が先に没した。この頃には天皇の譲位の思想が未だなかったが、この後35皇極は、日本で初めて譲位を行い36孝徳が即位している。これは、聖徳太子のようなことが起こらないようにしたのである。と言う説。
・聖徳太子・山背大兄皇子
 聖徳太子には多数の妃がいた。豪族関係では、「膳氏」の娘とのことが色々語り継がれている。子供も10名以上いた。
中でも馬子の娘「刀自古郎女」との間に産まれた「山背大兄皇子」は、次期大王候補の筆頭におり、本人もやるき満々の人物だったらしい。
聖徳太子没後間もなく、33推古天皇も亡くなり後継大王として山背大兄皇子が多くの豪族の支持もあり決まろうとしたその時、蘇我入鹿はこれを嫌い、蘇我氏の血の入ってない田村皇子(34舒明天皇)を推戴し、天皇位につけた。
34舒明天皇没後、蘇我入鹿らは、その后である35皇極天皇を皇位につけた。
34舒明天皇と蘇我馬子の娘との間に出来た「古人大兄皇子」を次期天皇にしようと企み、入鹿は、邪魔となった山背皇子を自害させ、併せて聖徳太子の血脈総てを自害に追い込んだ。とされる。何故か。筆者は未だに分からない。
日本書紀はどこまで真実を記したのか。
この時入鹿の父「蝦夷」はこの暴挙に嘆き悲しんだと記されている。
聖徳太子の血脈を引く人物が以後いなかったことは事実である。
この辺りの記紀の記述は総て記紀の創作であるという説が現在もまことしやかに横行している。
聖徳太子の存在まで否定して、記紀の記述を否定すると歴史書としての記紀の存在価値はまるで無くなるのではなかろうか。
記紀編纂の約100年ほど前の事である。多くの氏族、皇族は何等かの形で聖徳太子のことは、知っているはず。歴史上これほど有名な人物はいないはずである。例え誇張があったとしても、それが嘘だらけの創作と分かれば、それ以前のもっと不確かな時代の記述なんか信用するはずがない。
そんなに当時の官僚・貴族など上層部の人間を無知者扱いするのは、どうかと思う。
どうしても隠したいことはあったかも知れぬ。しかし、大勢に影響の及ばない範囲に留めたはずである。
筆者の心証であるが。
・押坂彦人大兄皇子・34舒明・35皇極・36孝徳・37斉明天皇
 蘇我王朝が栄華を極めている中で、密やかに、確実に非蘇我氏の血脈が皇統のなかで育まれていたのである。これが意図的に仕組まれていたのか、結果的にアウトサイダーだったので、殺されずに残り、そうなったのか意見の分かれるところであろう。
押坂彦人皇子の妃は、謎めいている。
34舒明天皇の母は田村皇女とされ、その父は30敏達天皇であるが母は、「伊勢大鹿首小熊」の娘「莵名古夫人」である。という説。
いや「春日仲君」の娘「老女子夫人」である。とする説。
また34舒明の母は29欽明天皇娘「糠手姫皇女」である。とする説など色々。
要は、よく分からないのである。
一方34舒明天皇の后であり38天智天皇、40天武天皇の母である35皇極天皇・重祚して37斉明天皇の出自も簡単ではない。
父親「茅渟王」は押坂彦人皇子と大俣女王との間の子供とされているが、この大俣女王なる女性のことが古来分からないとされている。
一説には、聖徳太子と橘大郎女の子の娘説、又は30敏達と33推古の子である小墾田皇女であるとする説、など謎である。
また、35皇極の母は「吉備女王」とされている。
29欽明天皇と蘇我堅塩姫との子「桜井皇子」の娘とされているが、母親が何処にも記されてない。
35皇極と36孝徳は同腹の姉弟とされている。共に一寸だけ蘇我氏の血が入っているようであるが、父系には先ず入っていないらしい。
母系に入っている蘇我氏の血を歴史上から消すために敢えて母系の素性をぼかしたのである。とも言われているが、謎である。
これ以後38天智も40天武も蘇我氏の娘を娶り、それなりの人物を輩出している。
例えば41持統天皇は、蘇我倉山田石川麿の娘「遠智媛」と38天智天皇の間に産まれた娘で40天武天皇の后である。
堂々と蘇我氏系の血を引いていることを日本書紀は明記している。なのに何故、38天智、40天武の最も重要なる出自である両親の母系の系譜がぼかされているのか。
日本書紀編纂時には既に分からなかったのか、実際は非常に卑な出自を有する女性からの子供なので、隠さなければならなかったのか、押坂彦人皇子が、当時の朝廷から見れば非常にマイナーな存在となり、その婚姻関係が正式に記録に残され無かった。また、茅渟王になると、さらにマイナーな存在。3世王である。その子である35皇極・36孝徳は本来なら、天皇になる圏外の皇族である。34舒明天皇だって漁夫の利的な天皇位が廻ってきた訳である。
しかし、34舒明の后となった時点で、35皇極の出自、34舒明の出自などは、時の朝廷は、はっきり記録に残したはずである。おかしい???。
もっと疑問なのは、押坂彦人皇子・茅渟王自信の記事が記紀に殆ど記述されてないことである。
天智・天武にとって、最も近い血の繋がった祖父である。これは一体何を意味するのか。
古来謎とされてきた。筆者は、事実記述するに値する記録が残されていなかった。
それ程蘇我氏の力が強大で、蘇我氏の時代に彼等の記録は抹殺されたか、元々朝廷記録に記されなかったものと考える。それ程アウトサイダーであった人物の流れが、大化の改新により急遽掘り起こされたて、表舞台に出てきた。皇極・孝徳などは存在していたが、舒明も没しており、記録を辿ることが不可能になっていた。と考えるがどうであろうか。
蘇我氏が34舒明を即位させざるをえなかったのは、この流れを無視出来ない何かがあったからであろう。即ち皇統からみればこちらが嫡流であると多くの氏族からは、見られていたのではなかろうか。
聖徳太子・馬子らがそれまでの歴史を書物にまとめたとあるが、この際にもここいらのことは全く記されなかったであろう。いわば、歴史の狭間みたいな時期だったのであろう。
 上に示した概略系図の31用明天皇の子供に「某」と記された人物の系譜が記紀以外の物として異系図としてあったので、併記した(日本書紀には高向王は31用明の孫と記してある)。その信憑性は疑問だが、「某」の子供に「高向王」なる人物がおりその妻が35皇極天皇であり、その子が「漢皇子」である。とされているのである。 
35皇極が34舒明に嫁ぐ前、高向王と結婚し「漢皇子」を産んでいたことは、日本書紀に出ている。この高向王の出自は本当は謎。
この漢皇子こそ40天武天皇であると主張している人もいる。いや天智天皇である。という人もある。
前説に従えば、38天智天皇と40天武天皇は異父兄弟であり、実際は40天武の方が兄である。とする説。
これは古くから言われていることのようである。現に40天武天皇の生まれた年が不明なのである。この頃の天皇の生年が不明なのはどうみてもおかしい訳で、敢えて伏せたとする説。
「壬申の乱」の背景には、表沙汰には出来ない天皇家の極々人間的な男女の複雑な関係が秘められている。
これを系図として正確に記すことが憚れた。と解すべきであろうか。
34舒明天皇も35皇極天皇も蘇我氏の力により天皇になった訳である。
蘇我氏の血脈とは、はずれているのに、何故か。
34舒明天皇の別名は「息長足日広額天皇」であり、父押坂彦人皇子は豪族「息長氏」の娘から産まれている。
息長氏とは、26継体天皇の出身母体である。即ち蘇我氏とは全く異なる、天皇家支持母体としての息長氏が朝廷の何処かに厳然とあったことを示唆している。
34舒明も36孝徳も35皇極も総て息長氏の流れといっても言い過ぎではないであろう。
・38天智天皇・39弘文天皇・40天武天皇
 大化の改新の立役者である「中大兄皇子」は、その後は、常に影の仕掛け人的役割を演じて来たとされる。その意味では、36孝徳天皇、37斉明天皇は、38天智天皇体制を引く遠望なる前段階であったとされる。
それを仕組んだのが中臣鎌足である。そのために邪魔となった「古人大兄皇子」「有馬皇子」らは中大兄皇子の手で殺されたと言われている。
日本書紀にはそうは記されてないが。
38天智天皇と「伊賀采女宅子」との間に産まれたのが大友皇子である。
壬申の乱で僅か1年で滅びたが、日本書紀では39弘文天皇という天皇は存在しなかったことになっている。もし存在していたら現役天皇を臣である大海人皇子(後の40天武天皇)らが殺したとなり、歴史上汚点となる。よってその即位はなかったとしてある。
恐らくそうであろう。
当時の豪族の多くはその母の出自の卑なることを理由に大友皇子の天皇位に着くことは、認めなかっただろうし、壬申の乱の原因の一つでもあるとされている。
39弘文天皇というのは、明治時代に造られた天皇位である。
38天智天皇には非常に多くの子女がいた。媛の多くは大海人皇子の妃となった。
同時に38天智は大海人皇子の媛の多くを自分の妃とした。
この辺りの詳しい系図、人物紹介は、別稿で述べることとする。
38天智と40天武は兄弟でありながら、その支持母体も政治思想もかなり異なっていたようである。
38天智は徹底的に親百済思想。40天武は逆に親新羅勢力の力を借りて、壬申の乱を勝ち取ったともいわれている。
仏教文化も異なるようである。38天智は百済系の仏像導入。40天武は新羅系仏像。
38天智は大和の地を離れたかった。40天武は逆に大和にこだわった。
一見40天武の思想が勝ったように見えるが、どうして、どうして40天武の后は、蘇我氏娘と38天智との娘である「41持統天皇」である。これと、これまた中臣鎌足の子供不比等が登場する訳である。
不比等の奥方は蘇我氏の娘であり、その間に産まれた息子3人がその後の日本の政治を牛耳ることになる。
38天智が描いた夢は、41持統天皇と藤原不比等により、見方を変えれば蘇我氏の血脈により遠大な構想・思想を記紀に盛り込んで、50桓武天皇により叶えられるのである。
 36孝徳天皇の側室の一人に「車持君国子」の娘「与志古媛」がいる。与志古媛はまた天智天皇の側室でもある。
この与志古媛が中臣鎌足に下賜されて(孝徳天皇からか天智からか)出来た子供が、不比等である(よって不比等の本当の父親は天智天皇?)とした系譜もあるので付記した。日本書紀外である。

<筆者の主張>
@26継体天皇の正式な後継天皇は29欽明天皇であろう。
Aいわゆる飛鳥文化を花咲かせた蘇我王朝天皇ー聖徳太子時代は、日本にそれまでにない画期をもたらし、仏教文化の興隆と共にその後の日本の発展の色々な意味での基盤を築いたと判断する。
B皇統の維持継続に蔭で寄与したのが「息長氏」であったろう。これをさらに詳しく知るには古代豪族「息長氏」を過去にさかのぼって知る必要がある。別稿とする。
C系図の中には多くの謎が隠されている。あからさまにすることを憚る多くの蔭の部分が天皇家と言えども多々あると見て良い。
聖徳太子に纏わる謎部分、34舒明天皇・35皇極天皇・36孝徳天皇などの出自に関する謎部分。40天武天皇の出生の秘密。など。
だからといって、記紀の記述が嘘八百である、創作だらけである、という説には、組しない。
D葛城氏・蘇我氏・藤原氏の血脈と応神天皇・継体天皇・舒明天皇・天智天皇の血脈は41持統天皇と藤原不比等により、より強固な天皇制日本国家の確立に向けて結実する。
その最大の武器こそ記紀編纂事業であった。
 
5)参考文献
・「大王から天皇へ 」日本の歴史03 熊谷公男講談社(2001年)
・「平城京と木簡の世紀」日本の歴史04渡辺晃宏講談社(2001年)
など