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33.賀茂族考U(賀茂君・賀茂朝臣氏)
1)はじめに
 本「古代豪族」シリーズの初期に「賀茂族考T」を記した。筆者が古代豪族の中で一番興味を引いたのが葛城氏と賀茂族である。前稿では賀茂県主氏に注目した。数ある古代豪族の中で何故、賀茂氏だけ「族」を用いたかは、「氏」ではカバー仕切れない複雑な氏族であるからである。前稿でも概略は述べたが、未だにすっきりしない。主に3系統の賀茂・鴨氏があるからである。その中で系図的にかなり他の2者と異なる賀茂氏が前稿で述べた京都の上・下賀茂神社に関係する賀茂県主氏である。今回の中心氏族は、後に賀茂君・鴨君・賀茂朝臣・鴨朝臣と呼ばれることになる葛城鴨と呼ばれた氏族である。賀茂県主系は少なくとも現在では、天神系氏族とされている。一方賀茂君・賀茂朝臣系は、現在では、通常は地祇系氏族とされている。ところが以前は皇別氏族である吉備氏の系統とされてきたのである。詳しいことは後述するがこれが一層賀茂族を理解するのを難解なものにしてきたのである。
さて話は変わるが、陰陽道(おんみょうどう)とか陰陽師という言葉から何が思い浮かぶであろうか。最近映画にもなった「安倍清明」のおどろおどろした世界を連想される人が多いことであろう。この陰陽道の元祖的存在となったのが、本稿と取り上げる賀茂朝臣氏なのである。
日本の陰陽道は、吉備陰陽道と賀茂陰陽道があったようである。詳しいことはその専門書を読むことを薦めるが、明治までは間違い無く、公的に認められた形であったのである。それ以後は迷信の類として日本の近代化の邪魔になるとして少なくとも公的には廃止されたのである。
しかし、現在も我々の身の回りの生活には、陰陽道が盛んだった頃の多くの習慣が色々の形で厳然と生き残っているのである。日本の文化の一翼を担ってきたことは間違いない。陰陽五行説などは暦に今も影響を与えている。三隣亡・仏滅・丙午など幾らでもある。
これらを公的に平安時代以降取り仕切っていたのが賀茂氏であり、安倍氏だったのである。 また一方、役行者(えんのぎょうじゃ)という修験者の名前は多くの人が知っている。
日本の修験者の祖とも言われている人物である。この人物は謎だらけであるが、実在した人物とされている。この人物は葛城の賀茂氏の出身とされている。日本の山岳仏教に関係する山々例えば吉野熊野・大峰山・富士山・白山・英彦山・石鎚山などなどには必ずと言っていいほど役行者が関与したことになっている。これが後の陰陽道にも陰に陽に関係してくるので益々賀茂氏は陰陽道の中心氏族と言われる由縁とされている。本当は陰陽道と修験道とは直接的関係は無いとの説もあるが、筆者には良く分からない世界である。
賀茂県主氏と陰陽道は基本的には無関係であると筆者は考えている。
現在葛城に出雲神系統の「高鴨神社」がある。これと本稿の賀茂君・賀茂朝臣氏は関係あるかどうか。これが難問である。本稿の中で解説していきたい。 
 
2)賀茂君・賀茂朝臣・高賀茂朝臣氏人物列伝
大きく分けて元祖部分と「賀茂蝦夷」以降とに分離して考えざるをえない。蝦夷以降は本流「勘解由小路家」に繋がる人物を中心とし、「幸徳井家」に繋がる人物も併記することにする。
 
<元祖部>(諸説あるが先代旧事本紀に準拠して記す)
・素戔嗚尊
・大国主命
 
(参考)
・味鋤高彦根(あじすきたかひこね)
@父:大国主命 母:多紀理毘売<素戔嗚尊
A子供:天八現津彦(都佐国造・長国造祖)  同母兄弟:下照姫
別名:阿遅志貴高日子根・阿治志貴高日子根・阿遅須枳高日子・味耜高彦根など
B迦毛大御神(古事記)
C記紀:神代 国譲り神話に登場。余り重要な役どころではない。
・高天原から葦原中国に最初に天菩比神を派遣したが3年経っても帰って来ない。次ぎに天若日子が派遣される。この神は味鋤高彦根の妹である下照姫と結婚し8年経っても帰国しなかった。ここで高天原は雉鳴女に様子をうかがわせる。色々事件が起こって味鋤高彦根が死んだ天若日子に間違われ怒って「間違えるな」といい剣で喪屋を倒したという記事。
D続日本紀:雄略天皇の怒りにふれ土佐国に流された神となっている。一言主と同一神?
E関係神社:高鴨神社・土佐神社
F土佐神社では土佐大神と呼ばれている。但し一言主神もそう呼ばれており混同されている。
G686年秦石勝が天皇の病気平癒を土佐大神に祈願。764年高賀茂田守が同族の円興と共にご祭神を高鴨味鋤高彦根神社に土佐から復した上で和魂を土佐神社に改めて鎮座せしめた。とされている。
H出雲国造神賀詞:己命の御子阿遅須伎高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ
とある。
 
・事代主命(ことしろぬし)
@父:大国主命 母:神屋楯比売  (高津姫)
A子供:蹈鞴五十鈴姫(1神武天皇后)・五十鈴依姫(2綏靖天皇后)・天日方奇日方
別名:都味歯八重事代主。 恵比寿さん  同母兄弟:高照姫
B三輪氏考参照
C賀茂族の中心的神。
D関係神社:鴨都波神社・美保神社・今宮戎神社・長田神社
E国譲り神話に登場。元々は田の神。宮中守護八神の一柱。
 
(参考)一言主神(ひとことぬし)
@父:素戔嗚尊 母:櫛稲田姫
A妻:安玉姫 子供:葛木麿尊・赤星命   別名:葛木一言主尊
B記紀の神代には記事なし。
C古事記460年雄略紀に初出の神。
・雄略天皇が葛城山へ鹿狩をしに行った時、天皇一行と同じ恰好の一行を見つけた。雄略天皇が名を尋ねると「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神」
と答えた。天皇は恐れ入って弓矢、衣服などを一言主神に差し出した。神はそれを受け取り天皇らを見送った。
D日本書紀記事:雄略天皇と共に狩りを楽しんだ。
E続日本紀記事:高鴨神(一言主神)が雄略天皇と獲物を争ったので天皇は怒り、土佐国に流された。
F日本霊異記:一言主は役行者に使役された。役行者が伊豆に流されたのは、一言主が朝廷に讒言したためとし、役行者は一言主を呪法で縛りそれが解けていない。と記されている。
G関係神社:葛城一言主神社・土佐神社
H一言主と味鋤高彦根は同一神説・一言主と事代主命は同一神説がある。
I旧事本紀地祇本紀・ホツマ伝では参考系図に示したように、素戔嗚尊の子供とされている。ホツマ伝ではさらにこの流れから葛木剣根が出ている。このことはホツマ伝以外には記事なし。
J賀茂氏が祀っていた神とも言われている。
 
・天日方奇日方命(あめのひかたくしひかたのみこと)
@父:事代主命 母:活玉依姫<三島溝杭(みしまみぞくい)
A子供:渟中底姫(3安寧天皇后)・健飯勝・大日諸(春日県主)
 別名:阿田津奇根・鴨王・鴨主王
B日本書紀:鴨王として記されている。
C地祇本紀:神武朝食国政申大夫
 
・健飯勝
@父:天日方奇日方命 母:日向賀牟度美良姫
A子供:健甕尻  別名:阿田都久志尼
 
・健甕尻
@父:健飯勝 母:出雲臣女子沙麻奈姫
A子供:豊御気主   別名:健甕槌・健甕之尾
 
・豊御気主
@父:健甕尻 母:伊勢幡主女賀貝呂姫
A子供:大御気主    別名:健甕依
 
・大御気主
@父:豊御気主 母:紀伊名草姫
A子供:健飯賀田須
 
・健飯賀田須(阿田賀田須命)
@父:大御気主  母:大倭国民磯姫
A子供:太田田根子 
B和迩君等祖。
 
・太田田根子(おおたたねこ)
@父:健飯賀田須 母:鴨部美良姫
A妻:出雲神門臣女美気姫 子供:大御気持
B古事記:大物主の4代孫 日本書記:大物主の子供。記紀共に崇神紀に記事あり。
C三輪氏考参照。
 
<鴨部>
大田 亮説:鴨君が葛城鴨の地を占有するを得しは、この鴨部美良姫との結婚より来りしものと考へらるべし。この女との結婚により出雲神族三輪氏の人が後に此の部の首領となり。鴨積と称し、後君姓を称して鴨君と言うに至りしものと考へられる。ーーー大和国葛城の鴨はこの部の発祥地なり。
 
・大鴨積(おおかもづみ)
@父:大御気持 母:出雲鞍山祇姫(異説:大伴武日女)
A兄弟:大友主(三輪君祖)・田田彦(神部直・大神部祖)子供:不明 
別名:大賀茂足尼
B鴨君・鴨朝臣祖。
C京都下鴨神社社家に賀茂朝臣本系という新撰姓氏録逸文が残されている。
これにより大鴨積以降の系図がある程度分かる。
D新撰姓氏録:賀茂神社を奉祭。社伝では崇神朝に勅命により大鴨積が鴨都波神社を創建したとある。
E関係神社:鴨都波神社・鴨高田神社
 
・賀茂役君小角(えんのおづの)(634?−701?)
@父:(高)賀茂役君問賀介麻呂? 母:渡都岐白専女(とときしらとうめ)?
A子供:無 別名:役行者(えんのぎょうじゃ)(初出:984年三宝絵詞)
役優婆塞(えんのうばそく)
B続日本紀:699年役君小角が伊豆島に流された記事。(公的記事としてはこれだけである)葛城山に住み呪術で有名となった。弟子の外従五位下「韓国連広足」が「師は妖惑の術を用いている」と讒言して伊豆島に遠流になった。
小角は鬼神を使役して水を汲ませたり薪を採らせたりすることが出来、もし鬼神が言うことを聞かなかったら、呪術で自由を束縛した。との記事。実在の人物だが謎多き人物。
C山伏修験道・密教の祖。咒術を会得。
D日本霊異記に多くの伝承記事あり。源平盛衰記。今昔物語。扶桑略記。
・大和国葛木上郡茅原村(現在:御所市茅原)・賀茂役公の出。
・生誕地伝承地には「吉祥草寺」が誕生寺として現存。
・末法悪世に苦しむ人々を救うための活動をした人物。
・修験道場:羽黒山・立山・富士山・御嶽山・大山・石鎚山・英彦山・霧島など多数。
・20才代で藤原鎌足の病気治癒。
E咒術・陰陽術などを会得していた。
(伝承年表)
634年:大和国葛木上郡茅原村で誕生。
646年:毎夜葛城山に登り暁に帰る。
647年:仏教に帰依。
650年:葛城山・金剛山で修行。・17才で元興寺の慧観(えかん)のもとで修行。孔雀明王呪術習得。
671年(675年説もある):金峰山(吉野)で蔵王権現(修験道の最高神)感得。
673年:金剛山寺建立。
695年:一言主神に金峯山ー葛木山への石橋工事を命じる。
699年:伊豆大島へ配流。
701年:・701年茅原に帰る。母と共に昇天。後大唐に渡る。
F1799年「神変大菩薩」号を賜る。(聖護院)
G賀茂役君(かもえのきみ)とは賀茂氏に従属した祭祀関係の一族。又は賀茂氏に仕える役民の長。
太田 亮:賀茂役君は、賀茂氏の一族にして高鴨のアジスキタカヒコネ神(一言主神)と至大の関係を有し、後に賀茂朝臣姓を賜い、更に高賀茂朝臣姓を賜いしと知るべし。賀茂役首は役君の族なり。
H719年続日本紀記事:賀茂役首石穂など160名が賀茂役君姓を賜った。
 
<陰陽道賀茂氏>
諸説あるが現在の通説となっている陰陽道賀茂氏は、葛城鴨君の流れであり、吉備氏の流れでは無いとする説に従って記す。
 
・賀茂君蝦夷(?−695)
@父:不明 母:不明
A子供:吉備麻呂?
B672年壬申の乱に功あり。大伴吹負に従って三輪高市麻呂と共に大海人皇子軍として参戦した。石手道(竹内峠?)の防衛。
C684年八色の姓で賀茂君が朝臣姓を賜る。
D695年直広参。
 
2−1)賀茂朝臣吉備麻呂
@父:蝦夷? 母:不明
A子供:小黒麻呂・円興?
B701年刑部判事。遣唐使(粟田朝臣真人が正使)。
C707年帰国。従五位下。
D708年下総守。河内守、従四位下
E719年播磨守、按察使。
F唐に在国中に天文道・暦道などを学んだ可能性ありとされている。
 
・賀茂比売(?ー735)
@父:吉備麻呂 母:不明
A夫:藤原不比等 子供:宮子
B聖武天皇外祖母。
C紀伊海人娘説あり。
 
2−2)小黒麻呂
@父:吉備麻呂 母:不明
A子供:諸雄・比売・田守・萱草   別名:虫麿
B749年従五位下。
C756年従四位下。聖武天皇崩御山陵奉仕。
D天文道・暦道に精通していたとの説あり。
 
・田守
@父:小黒麻呂 母:不明
A子供:
B764年藤原仲麻呂追討の功により従五位下。
C764年兄?法臣円興と共に高鴨神(一言主神?)を土佐より大和葛上郡に復祀。
D767年播磨守。
E768年高賀茂朝臣姓を賜る。
 
・萱草
@父:小黒麻呂 母:不明
A子供:
B767年従五位下
E768年高賀茂朝臣姓を賜る。
 
参考
・円興
@父:吉備麻呂又は小黒麻呂 母:不明
A子供:
B弓削道鏡の弟子・補佐役。法臣となった。
C賀茂朝臣田守と764年に土佐より高鴨神を葛城の高鴨神社に遷した。
E766年大僧都に任じられた。
F766年参議・準大納言。
 
2−3)諸雄
@父:小黒麻呂 母:不明
A子供:人麻呂・忠峯・諸魚
B765年従五位下。
C768年高賀茂朝臣姓を賜る。
D769年員外少納言。
E777年神祇大副。
F789年三河守。正五位下。
 
・人麻呂
@父:諸雄 母:不明
A子供:江人
B771年従五位下。
C筑後守・斎宮頭を経て従五位上790年左少弁。
 
2−4)忠峯
@父:諸雄 母:不明
A子供:弟峯・峯雄・直峯・貞子・松芳子・茅子
 
2−5)峯雄
@父:忠峯 母:不明
A子供:女(清和天皇妃)・養子:忠行(人麻呂孫)
 
2−6)忠行(?−960?)
@父:賀茂江人(人麻呂男)養父:峯雄 母:不明
A子供:保憲・慶滋保胤・慶滋保章・慶滋保遠
B陰陽家。安倍清明の師。
C今昔物語:まるで瓶の水を移すかのように陰陽道の神髄を安倍清明に伝授した、記事。
その他多数の逸話が記されている。
D陰陽寮には天文道・暦道・陰陽道の三部門があってそれぞれ分業されていたのを総て掌握した。陰陽頭?
E朱雀天皇・村上天皇の2代に陰陽師として仕えた。
F陰陽道宗家と呼ばれるようになった。
 
・慶滋保胤(931?−1002)
@父:忠行 母:不明
A子供:     別名:茂能・定潭・内記入道
B慶滋も「かも」と読む説有力。
C平安中期の文人・儒学者
D文章博士菅原文時の弟子。従五位下。
E986年出家。日本往生極楽記を著。
F弟子:寂照(大江定基)
 
(参考)
・安倍清明(921?−1005)
@父:安倍益材 母:葛の葉?賀茂葛子<賀茂保憲?
A子供:吉昌・吉平
B平安時代最も有名な陰陽師の一人。土御門家祖。
C摂津国阿倍野で誕生?。その他諸説あり。
D右大臣安倍御主人の裔説有力。
E賀茂忠行・保憲父子から陰陽道を学び天文道を伝授された。
F960年天文得業生。天文博士。
G播磨守・従四位下。
H墓所:京都嵯峨渡月橋付近。
I大鏡・今昔物語・宇治拾遺物語・十訓抄・源平盛衰記・古事談などに多くの伝承記事あり。
 
2−7)保憲(917−977)
@父:忠行 母:不明
A子供:光栄・光国・光輔・女
B安倍清明の師または兄弟弟子。陰陽頭
C天文博士・暦博士・従四位
D著書「暦林」
D暦道を子供光栄に継がせ、天文道を安倍清明に継がせた。これ以降陰陽道宗家は二家となる。(安賀両家)
 
2−8)光栄(939−1015)
@父:保憲 母:不明
A子供:守道
B陰陽師。暦博士・天文博士・主計頭
C何故父が陰陽道を二家に分割して安倍氏に宗家の地位を与えたのか疑問を発し清明と論争をしたとある。「続古事談」
 
2−9)守道
2−10)道平
2−11)成平
2−12)宗憲
2−13)在憲
2−14)在宣
2−15)在継
2−16)在清
2−17)在秀
2−18)在冬
2−19)在実
 
2−20)在弘(?−1419)
@父:在実 母:不明
A子供:在方
B1406年従三位 正三位刑部卿
 
2−21)在方(?−1444)
@父:在弘 母:不明
A子供:在貞・在尚(正五位下)・在成
B1422年従三位 正三位非参議
 
2−22)勘解由小路(かでのこうじ)在貞(?ー1473)
@父:在方 母:不明
A子供:在盛・在宗
B1445年従三位非参議。 従二位非参議。
C藤原氏系の勘解由小路家とは無関係である。
 
2−23)在盛(?−1478)
@父:在貞 母:不明
A子供:在通・在基
B1456年従三位 従二位非参議。
 
2−24)在通(1431−1512)
@父:在盛 母:不明
A子供:養子:在重   別名:在栄
B従二位非参議。
 
2−25)在重(1459−1517)
@父:在宗 養父:在通 母:不明
A子供:在富・在親・在康
B従三位非参議。
 
2−26)在富(1490−1565)
@父:在重 母:町顕卿女
A子供:在昌・養子:在種(在康男)養子:在高(安倍有春男)
B正二位非参議。
C嫡流は断絶。
D在種は1554年21才で横死。(尊卑分脈)
E在高によって再興されたが没落。
F一説:在富の嫡男在昌がキリスト教の洗礼を受け廃嫡とした。在種を養子にしたがこれを暗殺して自ら家名を絶った。
これ以降は分家筋である幸徳井家が江戸初期に暦職に復帰、陰陽道家を世襲し明治まで続いた。
 
・在康(1491−?)
@父:在重 母:在富女?
A子供:在種
B従三位非参議。
 
2−11)よりの分家(幸徳井家流賀茂氏)
2−12)周平
2−13)憲平
2−14)定平
2−15)定保
2−16)定名
2−17)定員
2−18)定統
2−19)定秀
2−20)定守
 
2−21)定弘
@父:定守 母:不明
A子供:定長・在康・養子:友幸
B従四位上。刑部卿陰陽助
 
・在康
正三位・非参議
 
2−22)友幸(1391−1473)
@父:安倍友氏* 養父:定弘 母:不明
A子供:友重    別名:友兼・安倍友徳
B1419年定弘の養子となる。幸徳井家となる。居住地が南都幸徳井であった。
興福寺尋尊に仕えた。以後この一族は興福寺と主従関係を結ぶ。
C1463年非参議従三位。 正三位非参議。
*勘解由小路定弘の弟子。
 
2−23)友重(1411−1492)
正三位。
2−24)友延(1435−?)
従三位
2−25)友胤(1462−1503)
従四位上
2−26)友栄(1487−1558)
正四位上
2−27)友祐(?−1546)
従五位下
2−28)友忠(1531−1601)
従三位
2−29)友豊(1566−1602)
従四位下
 
2−30)友景(1583−1645)
@父:柳生宗矩従兄弟安井某 養父:友豊 母:不明
A子供:友種
B1618年陰陽頭    正五位上。
 
2−31)友種(1608−1658)
1646年陰陽頭    従四位下。
2−32)友伝(1648−1682)
1661年陰陽頭   1681年暦博士 従四位下。
 
以後安倍家(土御門家)に陰陽道宗家の地位を奪われ、その下に付く形が続いた。
これ以降明治まで続く。華族にはなれなかった。
 
3)葛城賀茂関係神社
3−1)高鴨神社(奈良県御所市鴨神1110)
@祭神:味治須岐高彦根命(迦毛之大御神)
配祀:下照比売・天稚彦命  高鴨神
A社格:式内社(名神大)859年神階従二位。
B別名:延喜式:高鴨阿治須岐詫彦根命神社
C由緒抄録:この地は大和の名門の豪族である鴨の一族の発祥の地で本社はその鴨族が守護神としていつきまつった社であります。
・大和の名社で大神神社・大和大国魂神社と同格の神社。
・弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。
・鴨一族は全国に分布、中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。
・神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の首長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました。この王朝は9代で終わり三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。
・鴨族の神々は神話の中で大きく物語られている。アジスキタカヒコネ・シタテルヒメ・アメワカヒコ・事代主神など。
・現在の本殿は室町時代の三間社流造、国の重要文化財指定。
D弥生中期前より祭祀を行う日本最古の神社の一つ。(神社説)
E日本書紀雄略紀に記事のある一言主神を土佐に流したという話とこの高鴨神社との関係
は謎である。
 
3−2)葛木御歳(みとし)神社 (御所市東持田字御歳山)
@祭神:御歳神
配祀:大年神・高照姫
A社格:式内社(名神大)852年正二位。     中鴨神社。
全国の御歳神社・大歳神社の総本社。
B創建由緒:不詳  葛城氏・鴨氏によって祀られた神社。
最古記録765年。
大正時代まで神職なし。
「古語拾遺」の記事あり。平成祭礼データ葛木御歳神社参照。
・背後にある御年山を神体山として、稲田の守護神。
 
3−3)鴨都波神社(御所市宮前町514)
@祭神:積羽八重事代主命・下照姫
配祀:建御名方命
A社格:式内社(名神大)・県社   
B別名:鴨弥都波(かもみつは)神社 都味歯八重事代主神社  下鴨社 大神神社別宮
C創建:崇神天皇の時代に勅命により大賀茂都美命が創建。(社伝)
D葛城氏・鴨氏によって祀られた神社。水の神・農耕神。葛城川と柳田川の合流点にある。
E事代主神は宮中守護8神の一神。
F夷さん:商売繁盛の神
G付近に弥生遺跡「鴨都波遺跡」がある。
 
3−4)葛城一言主(ひとことぬし)神社(御所市森脇字角田432)
@祭神:一言主大神・大泊瀬幼武尊
A社格:名神大社・県社   859年従二位
B別名:葛木坐一言主神社
C創建:
D悪事も一言、善事も一言、言い離つ神 託宣の神。
E一言主神と事代主命を同一視、味鋤高彦根命もその分身とする説もある。
F記紀の雄略紀に記事ある神。この時初めて顕現した神。
G古事記:460年頃の話。天皇は恐れ入った。日本書紀:天皇と対等。続日本紀:高賀茂神(一言主神)は天皇の怒りに触れて土佐国へ流された。日本霊異記:一言主は役行者に使役された。とどんどん変化している。
ここでも高鴨神と一言主神は重なっている。
 
3−5)鴨高田神社(東大阪市高井田1280)
@祭神:素戔嗚尊・大鴨積命
A社格:式内社・官幣小社
B創建:673年  (社伝)
C由緒:鴨氏は元来大和葛城を本拠に主に祭祀を掌った氏族である。その鴨氏の一族がこの地に居移し鴨氏の開祖大鴨積命及び祖先神素戔嗚尊を祀ったのが当社の始まり。
 
3−6)土佐神社(高知市一宮しなね2丁目16−1)
@祭神:味鋤高彦根神・一言主神
A社格:式内社(大)土佐国一宮・国幣中社・別表神社
別名:高鴨神・土佐大神  土佐高賀茂大社  935年正一位
B創建:雄略朝(社伝)
C賀茂氏の同族が土佐国造に任じられたことから当地に祀られた。との説。
D土佐国風土記:祭神は一言主尊であるが、一説では味鋤高彦根尊であるという。
E社伝:当社の祭神の高鴨神は元は大和の葛城山に坐したが、雄略天皇の怒りに触れて土佐に流され、はじめは幡多郡賀茂社に祀られ、後に土佐神社へ移ったという。しかし、一言主神は古事記では雄略天皇から崇められる存在と記されており、そこから同じ賀茂氏によって祀られていた味鋤高彦根尊とする説が出たものとみられる。
 
3−7)高天彦(たかまひこ)神社(御所市北窪字燈明)
@祭神:高皇産霊尊
A社格:式内社(名神大)859年従二位。
B葛城氏祖神 高天山694m神山
C高天原発祥地・秋津島発祥地。葛城王朝を鴨族と一緒に造ったところ。
D葛城氏の神社。
 
4)鴨君・賀茂朝臣氏関係系図
●鴨君・賀茂朝臣氏略系図
陰陽道賀茂氏の概略系図を尊卑分脈系図に準拠して筆者創作系図として記した。
 
●賀茂朝臣系図
中村修也著「秦氏とカモ氏」本文記載の賀茂朝臣本系の記事を筆者解釈に基づき系図化したものである。
 
●(参考系図)安倍氏系図(安倍清明以降)
陰陽道賀茂氏に関係してくる部分のみ尊卑分脈安倍氏系図に準拠して記した。
 
●鴨君・賀茂朝臣氏元祖詳細系図
先代旧事本紀準拠で大国主から大鴨積までを創作系図として記した。
 
●鴨君・賀茂朝臣氏元祖部異系図
東京堂出版の古代豪族系図収攬を参考にして関係部分のみ1)−6)
7)古事記 8)日本書紀 9)ホツマ伝
関係部分のみ簡略に記した。
 
●<系図間表記名前の違い>
・高魂命流鴨県主系図(古代豪族系図収覧参考)
・神魂命流賀茂県主系図(古代豪族収覧・姓氏類別大観参考)
・都佐国造氏系図(古代豪族系図集覧参考)
・記紀・旧事紀記事
三嶋溝杭・陶津耳に限定して諸記事を併合系図化したもの。
 
●賀茂・葛城氏・尾張氏関係系図
上記系図間表記名前の違いを筆者判断のもとに習合した上、賀茂族考Tに記した関係系図をさらに改訂した筆者推定系図を記した。
 
●(参考系図)天皇家ー蘇我氏ー藤原氏相関系図
蘇我氏に流れた葛城鴨の血脈がどのように藤原氏に流入して最終的に藤原摂関家に繋がったかを示す図である。青色表示部分に注目。蘇我氏がいかに天皇家に関与していたかも示した。
5)鴨君・賀茂朝臣氏系図解説・論考
 賀茂族考Uでは所謂葛城賀茂氏について述べたい。一般的には陰陽道賀茂氏と言われている古代豪族がそれである。古来、陰陽道賀茂氏は、吉備氏だとされてきた。これは尊卑分脈(1395年)・群書類従(1819年)などの古文献では、そのようにされてきたからである。現在ではこれは明らかな間違いであり、葛城賀茂氏の末裔が陰陽道賀茂氏であるとなっている。即ち鴨君・賀茂朝臣氏である。間違いの原因は、右大臣となった皇別氏族である吉備氏の「吉備真備」が遣唐使として唐から「陰陽道(おんみょうどう)」を輸入したとされたことと密接な関係があるらしい。さらに「賀茂朝臣吉備麻呂」という人物の名前が吉備真備とオーバーラップして混乱があったともされている。それ以降の系図は尊卑分脈系図は正しいとされている。概略系図の解説はさておいて、葛城賀茂氏を理解する上で重要なのは、その元祖部分である。古来多くの研究者の注目を集めてきたところである。非常に難解であるがここから始めたい。
<葛城賀茂氏元祖部>
 鴨君・賀茂朝臣氏(葛城賀茂氏)元祖部詳細系図としては、先代旧事本紀以上のものはない。これに準拠して解説したい。ただし、この系図が正しいと認定した訳ではない。葛城賀茂氏は明らかに出雲神族の流れである。国津神系の神別氏族である。古事記に詳細な説明もなく「迦毛大御神」と記されている「味鋤高彦根」は、大国主と素戔嗚尊の娘で宗像3女神の一人「多紀理毘売」(田心姫ともいう)との間に産まれた神とされている。他の系図でもほぼ同じである。この神が葛城にある高鴨神社(上鴨神社)の主祭神である。全国鴨族の総元締めであることを高鴨神社由緒記では述べている。勿論賀茂県主氏も同じ鴨族としているのである。一方、賀茂県主氏は、一般的には天神系神別氏族とされている。
古来この区別は分かり難かったようで、「令義解」(833年)という本によれば「天神」の例として「伊勢・山代鴨、住吉、出雲国造斎神」。「地祇」の例として「大神(おおみわ)・大倭(おおやまと)・葛木鴨・出雲大汝(おおなむち)神」となっている。平安時代初期には明らかに山代鴨、即ち賀茂県主氏が奉祭する賀茂神社は天神とし、葛木鴨、即ち高鴨神社は地祇としているのである。わざわざ例を挙げて区別していた背景にはこの頃
でも分かり難かったのかもしれない。賀茂県主氏には、高魂命流・神魂流の2系図がある。既稿「賀茂族考T」を参照のこと。先ずこれが謎1である。即ち、葛城鴨氏と賀茂県主氏は同族か否かである。
大国主と「神屋楯比売」の間に産まれたのが「事代主神」である。この母は出自がはっきりしていない。諸説ある。高津姫(宗像3女神の一人)説・多紀理毘売(竹子姫・田心姫)説・陶津耳娘活玉依姫説など。日本書紀でもこの神の娘「蹈鞴五十鈴姫」が1神武天皇の后に、もう一人の娘「五十鈴依姫」が2綏靖天皇の后になっている。また息子「天日方奇日方」(別名:鴨王)の娘「渟中底姫」が3安寧天皇の后になっている。また男系の6代目に「大田田根子」がおり、その孫に鴨君・賀茂朝臣祖とされる「大鴨積」が出る。その兄弟の「大友主」は三輪君祖である。即ち葛城賀茂氏と三輪氏は同族なのである。その祖は事代主神である。既稿「三輪氏考」を参照のこと。
三輪氏は祖神として大物主を大神神社で祀っている。葛城賀茂氏の祖神は事代主神 のはずである。確かに鴨都波神社(下鴨神社)の主祭神は事代主神である。
なのに葛城鴨族の氏神は高鴨神社の味鋤高彦根であるとされている。何故か。謎2である。太田田根子の母親は「鴨部美良姫」と記されてある。これが記されているのは「先代旧事本紀」だけである。
大田 亮は、概略次のように解析している。大和国葛城の鴨はこの鴨部の発祥地であり、遙かに昔からこの地に住んでいた氏族である。鴨君が葛城鴨の地を占有することになったのは、出雲神族嫡流が鴨部美良姫と結婚したことにより後に此の部の首領となり、鴨積と称し、後君姓を称して鴨君と言うようになったものと考へられる。即ち母系の名跡を継いだことから出雲神族の一派が賀茂氏を称することになったのである。と太田は述べていると筆者は理解した。
葛城川と柳田川の合流地点(鴨都波神社が在る所)は、古来鴨族が住んでいたところである。即ち葛城鴨の発祥地である。ここで元々農耕していた氏族が鴨部(これは後の鴨君・賀茂県主氏から派生した鴨部とは異なる)という氏族で、ここへ出雲神族が移ってきた。どこからか?@高鴨と呼ばれた葛城山の中腹に住んでいた出雲族。A茅渟や紀伊などさらに別の所から。が考えられる。ここには「鴨都波遺跡」と呼ばれる弥生遺跡がある。鴨部氏が出雲族に属するのかより古い縄文系になるのかは不明である。
謎1,2を同時に解くことは現在まで出来ているとは思えない。
出雲神族の本流は三輪氏と考えられている。鴨氏は母系の名跡の地葛城鴨の地に大神として味鋤高彦根神を祀り、祖神として事代主神を祀ったと考えるべきであろうか。
筆者には未だ釈然としないものが残っている。
 事代主の子供である天日方奇日方は別名「鴨王」とも呼ばれてきた(日本書紀)。ここにも鴨が出てくる。三嶋溝杭娘「活玉依姫」が事代主神の妃になっている(旧事紀)。日本書紀では三嶋溝杭耳女「玉櫛姫」が事代主の妃となっている。古事記では三嶋溝杭耳は登場するが事代主神との関係は記されていない。大物主との関係が記されている。この辺りは混乱がある。この辺りについての考察は「三輪氏考」「磯城氏考」などを参照のこと。この溝杭なる人物が謎の人物である。
国造本紀に都佐国造・長国造・意岐国造などの祖の記事がある。そこに三嶋溝杭9世孫小立足尼・観松彦伊呂止の5世孫十揆彦・観松彦伊呂止の9世孫韓背足尼と記されている。本稿の鴨君・賀茂朝臣氏元祖異系図の2)5)6)などにこれらの名前で出てくる。
いずれも四国の国造である。太田 亮は、これらから三嶋溝杭の本名は「観松彦伊呂止」ではないかと推定している。だとすると、その祖父は味鋤高彦根又は事代主ということになる。(諸系図あり)ここで初めて味鋤高彦根がカモ族と絡んで登場する。
謎の三嶋溝杭耳の片鱗が見えてきた。これが正しいとすると、間違い無く出雲族である。しかもカモ族に関係している。
次ぎに異系図9)のホツマ伝の系図を参考までに見ておこう。これでは他の系図と異なるのは素戔嗚尊の子供として葛木一言主尊が明記されており。しかもその流れから葛城国造祖の剣根命が記されている。地祇本紀にも葛木一言主尊が素戔嗚尊の子供と記されているが、剣根命は、高魂尊系とされている。いわゆる天神系である。
一言主神は記紀では雄略朝の記事が初出でその出自が不明な神の一人である。
一般的には葛木国造・葛木直の系統は高魂尊系とされており神別氏族である。ところが皇別氏族の葛城臣氏が別にいる。これが葛城襲津彦から始まる大豪族で蘇我氏にまで関係してくるのである。既稿「葛城氏考参照」。
葛城地方に発祥したと思われる豪族を整理してみると下記のようになる。
イ、鴨君・賀茂朝臣氏:出雲神族の流れ地祇系神別氏族。
ロ、賀茂県主氏:高魂命又は神魂命系の流れで天神系神別氏族。
ハ、葛木国造・葛木直氏:高魂命の流れで天神系神別氏族。
ニ、葛城臣氏:武内宿禰を祖とする皇別氏族。
ホ、尾張連氏:葛城の高尾張を発祥地とし、天神系神別氏族(天孫族?)。
これら諸氏の関係系図を賀茂族考Tの筆者推定系図として既稿で示した。色々な公知系図を繋ぎ併せたものでこれが正しいと推定している訳では全くない。古来、神社伝承・民間伝承など色々な形で現在まで言い伝えられたことがこの系図に現れているものと推定している。これから言えることは古代に葛城地方にいた豪族が互いに非常に近しい関係であったことが推定出来ることである。
さらに一歩踏み込んで言えば、天神系と地祇系の関係が区別し難いほど近いことである。
太田 亮らが推論しているように元々は出雲系国津神系の氏族の一部が時代の流れの中で天神系又は皇別氏族の系譜に入り込んだ可能性が高いという説に筆者も与したい。
上記イーホの内ホの尾張氏を除く4氏族は元々から葛城に本拠地を有した出雲神族の裔ではないだろうか。その意味で奈良盆地の東端に本拠を持った三輪氏と同族であると言える。これは母系も考慮に入れた推論である。
純然たる高魂命・神魂命などの天神系氏族(所謂天孫に随伴してきたとされる氏族)ではないと推定している。大和地方に銅器文明を最初に持ち込んだとされる初期弥生人の裔達と考える方が無理がない。鴨君と賀茂県主はもっと近い関係であったろう。葛木直と葛城臣も近い。
 ここで賀茂朝臣系図について解説しておきたい。
この系図は京都の下鴨神社「鴨脚家」に伝承されてきた「新撰姓氏録逸文」とされている賀茂朝臣本系なるものを佐伯有清がその著書「新撰姓氏録の研究全6巻」の中で紹介している。また中村修也がその著書「秦氏とカモ氏」の本文に記事として掲載していたものなどを参考にして筆者解釈で図示したものである。一部解釈に誤りがあるかも知れないが大意は示されているものと判断する。これによると大鴨積以降の鴨君の流れがある程度理解できる。
これによると鴨君の流れから西日本各地の鴨部の祖が派生していることが分かる。
注目するのは、後に実在が確認されている役行者の役君の祖が示されていることである。
天武朝で朝臣姓を賜った「黒彦」なる人物も記されている。但し、後述する陰陽道賀茂氏系図に登場する人物は一名も出ていない。恐らく同じ賀茂朝臣一族でも数流あったものと推定される。それにしてもこのような系図が何故賀茂県主家である下鴨神社社家に伝わったのであろうか。
<系図間表記名前の違い>を既存公知系図を基に図示した。
賀茂県主系図2種から陶津耳と鴨建角身が同一人物であることが推定できる。
記紀・旧事紀記事の三嶋溝杭・陶津耳関係の系図解析からこの二人は同一人物であることが推定出来る。さらに都佐国造系図から三嶋溝杭が味鋤高彦根の流れであることが推定出来る。即ち三段論法的に言えば三嶋溝杭・陶津耳・鴨建角身は同一人物であり味鋤高彦根の孫にあたる人物であることになる。筆者の大胆な仮説である。
次ぎに鴨と葛木はどうであろうか。難解である。
@記紀の雄略紀に初出する一言主神が一つのヒントである。
Aこの神は後年土佐へ流されたと記事がある。しかし、これは高鴨神社の祭神である高鴨神即ち「味鋤高彦根」であるともされている。土佐神社の祭神は一言主神・「味鋤高彦根」の2柱併祀している。これには諸説ある。
B葛木国造(葛木直)祖である剣根命は、記紀神武紀に記事がある人物であるが、その出自が謎である。一説では高魂命裔で建角身(賀茂県主氏祖)の孫としている系図がある。葛城にある高天彦神社を葛木氏の氏神とするのはここからきていると推測する。
Cさらに一説では剣根命は一言主神の裔としている。(ホツマ伝)
D一言主神は先代旧事本紀の地祇本紀に素戔嗚尊の子神の一柱として記してある。ホツマ伝も同じである。
E葛城襲津彦は実在がほぼ確実視されている最古の人物である。この人物の母親が葛木国造の娘であるという系図が伝承されている。父親は武内宿禰と記紀で明記されているが、現在は疑問視されている。一説には神功皇后の妹「虚空津姫」が母親であるとされている。これも母親は葛城系とされている。となると歴史上の人物葛城襲津彦は葛木国造の権利の一部を母系で引き継いだことになり、葛木族と言って過言ではない。
F葛城鴨族の発祥地付近には現在も高鴨神社・御歳神社・鴨都波神社が祀られてある。これらの神社は古来鴨族の氏神であった。しかし、同時に葛木氏もこれを祀ってきた形跡がある。
G葛城鴨族の流れを引くとされている役行者が一言主神を使役した云々の記事が日本霊異記にある。これは一言主神が鴨族の神ではないことを暗示しているという説あり。
H高賀茂朝臣田守らが土佐に流された高鴨神を大和に遷座させたという記事がある。
Iどこかで混乱が起こっていることは間違いない。
筆者は鴨県主と葛木剣根命とが同族とする上述高魂命流系図に注目してこれも三段論法的に鴨建角身命の流れに葛木氏があると推定した。
これらを纏めた図が賀茂・葛城・尾張氏関係系図である。全くの筆者の推定系図なのでこのような系図が存在するものではない。
この系図から明らかなことは、
@鴨県主氏・葛木氏・鴨君氏・三輪氏・葛城襲津彦流葛城臣氏などは総て味鋤高彦根命に関係している出雲神族の神裔であることが分かる。
A葛木一言主は鴨族には入らない出雲神である。
B事代主は鴨族に入るが味鋤高彦根の方が上位の鴨族の神と言える。
C葛木・葛城臣氏も鴨族といっても不思議ではない。
D三輪氏を鴨族とするには一寸違和感がある。即ち大国主・事代主・大田田根子と続く
出雲神裔の直系の流れでやはりこの族の神は大物主(大国主)というべきであろう。
E大鴨積は鴨族の名跡を母系で継いだ人物であると考える。
F鴨族の嫡流は鴨県主氏とみるべきである。葛木氏は鴨族から分かれた氏族である。
G鴨県主氏・葛木氏は共に後世に諸般の事情により出雲族を離れ天神族に鞍替えしたものと推定される。
H葛城臣氏はさらに皇族との関係がどこかで発生して皇別氏族に入ったものと推定される。
以上から大胆に下記のように古代奈良盆地のカモ族の流れを推定した。
@縄文時代から奈良盆地には人が住み、盆地の東部の神奈備山は三輪山であり西南部の神奈備山は葛城山であった。
Aこの地に銅鐸文明を持った出雲族(弥生人)が入ってきた。葛城地方に入ったのが、原住民と融和して鴨族と呼ばれる一族を形成し高鴨神社に出雲神である味鋤高彦根を奉祭した。一方東部の三輪地方に入った出雲族が原住民と融和して三輪神社を奉祭し三輪族を形成した。(この段階の三輪族と後の三輪氏とは区別して考える。「磯城氏考」「三輪氏考」参照。)
Bそこへ新たに鉄器文明を持った天孫族及び天神系弥生人が入ってきた。天孫系の王家は、最初は鴨族の娘と婚姻を繰り返し、葛城周辺に王朝が出来た(a鴨王朝)。ついで三輪地方の娘と婚姻を繰り返し、三輪地方に王朝が引き継がれた(b三輪王朝)。
aー>bの間に何等かの混乱があったことが記紀の崇神朝の記事から推定される。これには諸説あるが、筆者は「それまでに三輪に勢力を持っていた出雲族の氏族が滅び新たに大田田根子がこれに替わってこの地に入った」と考える説を支持する。
Cさらに次の時代では、臣族となって勢いを増した鴨族出身の葛城氏の王朝が出来た(c葛城王朝ーーー鳥越憲三郎氏の葛城王朝という意味とは異なる。)。
D雄略天皇の時代に、葛城系の主な氏族の大和地方からの駆逐が起こった。
Eabcの時代は鴨県主系鴨氏の中心は祭祀氏族として葛城鴨にいた。但し、摂津国・和泉国など周辺地域にもその勢力は及んでいた。
F c時代になり葛城地方に、さらに鴨君祖が派生した。鴨県主系鴨氏とは共存状態で祭祀氏族として葛城臣氏を支援していた。
G雄略天皇時代になり、葛城氏の本流は滅亡し、それを祭祀氏族として支援してきた鴨県主系鴨氏も鴨君系鴨氏もその多くは地方へ分散していった。
Hその中で葛城に残り細々と葛城鴨の祭祀を行ってきたのが鴨君・賀茂朝臣の流れである。一方山城国へその主流が移動したのが本来の鴨族の嫡流である賀茂県主氏である。鴨氏の流れの一部は四国に移り土佐国造・長国造などになった。土佐神社を祀ったのは土佐国造氏である。
I葛城に残った鴨君の流れから役君が派生し、これから役行者が出たのである。また残留鴨君は(恐らくは葛城にあった高鴨神社・御歳神社・鴨都波神社などを細々と護ってきた氏族)、壬申の乱において天武天皇方に付き活躍が認められ、鴨朝臣の姓を一族に賜った。
Jこの鴨朝臣姓の鴨氏から後年陰陽道賀茂氏が誕生したのである。その中から高賀茂朝臣氏が誕生するのである。
Kこの高賀茂朝臣田守なる人物が土佐に流されていた高鴨神(味鋤高彦根)を本来の高鴨神社に戻したとされている。
 以上のように類推すると上記鴨族の謎1.2は解けたことになる。
即ち、賀茂県主氏と鴨君氏は同族でともにその祖は味鋤高彦根である。嫡系は賀茂県主氏である。鴨君は母系として鴨の名跡を継いだ一族であるといえる。
事代主は出雲神裔の三輪氏に繋がる嫡系ではあるが、鴨族としては鴨君の祖ではあるが賀茂県主氏の祖ではない。その意味で総てのカモ族の祖は味鋤高彦根であるとするのは正しい、と判断する。
筆者の推定系図は一種の概念図である。全国に散らばるカモ族(含む鴨部)の元祖を各種伝承・系図・文献記事を基に習合するとこのようになったのである。
天皇家とほぼ拮抗する勢力を有していた葛城臣氏の背後に祭祀氏族として隠然たる勢力を有していたであろう出雲神族の一方の雄であった賀茂氏は、新勢力である大和王権にとって脅威の的であった。雄略天皇は当然この勢力を削ぐ必要があった。この場合最も注目したのは鴨族の嫡流である建角身の裔の一族(後に賀茂県主と呼ばれるようになった一族)であった。葛城臣一族の駆逐と同時にこの賀茂一族も大和から追放したと考えられる。
記紀では、この一族の記事は歴史から抹殺した可能性がある。三輪氏より遙かに天皇家にとってはやっかいな一族だったと考えられる。記紀の八咫烏伝承記事は後年に建角身一族(賀茂県主氏)が神別氏族への転身のための一種の手段として創作された話とした方が正しいであろう。中村修也らも賀茂県主氏八咫烏祖先説に疑問を呈している。筆者もこの説を支持するものである。即ち八咫烏と建角身は元々は全く別人である。
 
<陰陽道賀茂朝臣氏>
 鴨君・賀茂朝臣氏の祖大鴨積命については記事が非常に少ない。新撰姓氏録に賀茂神社を奉祭する。とのみ記されている。この賀茂神社がどれを指すのか詳らではない。常識的には高鴨神社であろうとされているが、鴨都波神社だったかもしれないし、上中下3社総てだったかも知れない。鴨都波神社の社伝では崇神朝に勅命により大鴨積が創建したとある。また673年創建と社伝に記されている鴨高田神社は、大鴨積を祭神として祀っている全国的には珍しい神社である。
この大鴨積の時代に三輪氏と分かれる訳である。三輪氏に関して既稿「三輪氏考」でも述べたように史実であるかどうかは別にして、これ以降も詳しい系図も残されている。しかし、鴨君に関しては前述したように下鴨神社社家に賀茂朝臣本系と記された新撰姓氏録逸文が残されているだけで、非常に不明瞭である。
後世に陰陽道賀茂氏として非常に栄えた氏族にしては不思議なことである。しかも陰陽道賀茂氏の系図に登場する人物が、この賀茂朝臣本系なる系図に一名も無いのである。
新撰姓氏録には賀茂朝臣氏は大和国神別地祇とし、太田田根古命孫大賀茂都美(一名大賀茂足尼)奉祭賀茂神社也。としか記されていない。14世紀末に完成した尊卑分脈・19世紀の群書類従などでは陰陽道賀茂氏の祖である賀茂朝臣吉備麻呂を皇別氏族である吉備氏の子孫としている。これは吉備麻呂を吉備真備と混乱したことから発生した誤りであることが現在の通説である。賀茂朝臣吉備麻呂も続日本紀などの記録が残されており、遣唐使であったことは間違いない。しかし、大臣などにはなってない従四位下の官吏であったと記されている。その娘「賀茂比売」が藤原不比等の妃であり聖武天皇の外祖母であったことなどもこの誤りの原因ではないかと考えられる。尊卑分脈編纂の頃には鴨君・賀茂朝臣氏の出自に関する系譜の類が散逸していたのかもしれない。それにしても陰陽道賀茂氏自身が作成した系図があってもおかしくはないのである。いずれにしても大鴨積以降で鴨君の公的記事に出て来る人物は「鴨君蝦夷」からである。7世紀末の人物である。この人物らの壬申の乱での功績により一族にそれまでの鴨君姓から賀茂朝臣の姓が686年に与えられたのである。いつ頃鴨君姓になったかは定かではない。三輪君が発生するのが雄略朝に活躍記事のある三輪身狭の子供の時代であるからそれ以前ではない。早くて6世紀前後であろう。ちなみに賀茂役首氏が君姓になったのが719年との記事がある。
筆者の概略系図には記されていないが続日本紀などに記事がある賀茂君・賀茂朝臣氏に属していたであろう人物を一部記すと以下のようになる。鴨君粳売(大倭国葛上郡人) 鴨朝臣堅麻呂(正五位下)賀茂役君石穂、賀茂朝臣助(従四位下) 鴨朝臣角足(正五位上遠江守)賀茂朝臣塩管(従五位下土佐守)賀茂朝臣大川(従五位上伊賀守)高賀茂朝臣清浜(大和葛上郡人)などである。
これらの人物も上記賀茂朝臣本系には記載がない。以上より陰陽道賀茂氏以外にも多くの鴨君・賀茂朝臣一族が奈良時代までに存在していたことが窺える。しかし、後世まで歴史上に記録に残されたのは陰陽道賀茂朝臣氏の流れだけだっといえる。但し768年に賀茂朝臣小黒麻呂の子供ら3人に「高賀茂朝臣姓」が与えられていることからこれらの流れから高賀茂神社の社家が輩出され継承されたことは容易に推定される。(後述)
賀茂朝臣吉備麻呂以降の系図は、ほぼ正しいとされている。
疑問1)崇神朝頃(4世紀始め頃)に三輪氏とほぼ同一時期に産声を葛城の地で発した葛城鴨氏が、何故7世紀終わり頃まで歴史上から消えていたのかである。
筆者の推論は
@賀茂県主氏に比しこちらの賀茂族は下位の存在であり、葛城臣氏を支援した一族であっただろうが賀茂県主氏ほどの勢力は有していなかった。高鴨神社などを奉祭する氏族では
あったが、賀茂県主氏が主導権を有していた。三輪氏のように独立した奉祭氏族ではなかった。
A葛城臣氏の滅亡により、賀茂県主氏は一族の危険回避から葛城から出ていった。又は追放された。葛城鴨氏は、そこまで身の危険はなかったので葛城の地に留まった。しかし、高鴨神社をはじめとする鴨関係の神社勢力は著しくその勢力が衰えた。だけどその奉祭氏族としての役割は続けた。続日本紀の記事が正しいなら雄略朝に高鴨神は土佐国に追放されたことになっている。これは葛城鴨氏としての氏神を失ったことであり、氏上としての役目を果たすことが出来なくなったことを意味する。
B葛城臣氏勢力の一つである蘇我氏の台頭により少しは勢力を取り戻したが、蘇我氏は滅ぼされ、天智天皇らの百済系勢力により頭は押さえられてきた。
C壬申の乱は、三輪君と共に出雲系氏族にとっては幸運が巡ってきた。苦節300年の戦いだったのかも知れない。一族挙げて天武天皇方に付いたのである。
D壬申の乱以降八色の姓により一族に朝臣という高位の姓が与えられた。大和を離れた賀茂県主氏は全くその恩恵に預からなかった。ところが記紀編纂にあたり賀茂県主氏は八咫烏伝承を取り込み、その出自を神魂命(又は高魂命)という天神系に鞍替えして出雲族から完全に縁を切ったのである。
参考)・678年山背国に命じて賀茂神宮を造らせる(22社註式)
・698年山背国の賀茂祭の日に人々が集まって騎射することを禁止(続日本紀)
・706年大和国宇太郡に八咫烏神社創建
 
さてここで次ぎの大きな疑問がある。出雲神裔である葛城鴨氏から何故陰陽道賀茂朝臣が発生したかである。
陰陽道については筆者は全く知見がないので村井修一らの解説記事を下記に抜粋引用したい。「陰陽道は、古代中国に発生。我が国に伝わり特殊な占法をもって四季のめぐりや方位などを基に国家・社会あるいは人の行為行動に関し吉凶禍福を判定する方術。その中心となる思想は陰陽五行説で日月や十干十二支の運行配当を考え、そこから吉凶の判断を導き、時日方位に関し日常茶飯事にも煩雑な禁忌を設けてさまざまの祭祓作法を行う」とある。
陰陽道は世の中の森羅万象を陰陽五行説によって総て説明し、かつ未来をも予測出来る方術として道教に端を発し、色々な思想・哲学的な因子も付加され中国が原点として発展した。我が国へは、はっきりはしないが、継体天皇以前から道教などの中国民間信仰・山岳仏教などの民間伝承などとともに早くから入っていたものと思われている。
記録に残されている主なものを下記に示した。
 
<日本の陰陽道の概略歴史>
・512年百済より五経博士「段楊爾」来日。陰陽道伝来最古の記録。
・554年易博士来日。
・602年百済僧観勒が来日。暦本、天文地理書、遁甲方術の書伝来。聖徳太子の冠位十二階・十七条憲法などにも影響を与えた。本格的な陰陽道の我が国への伝来普及は、この人物からとされている。
・607年遣隋使派遣。陰陽道を勉強。
・671年天智天皇の漏刻創設。
・676年陰陽寮(天文・暦・漏刻・占術などを扱う)設置。天武天皇が官僚制度に取り込んだ。
・685年「陰陽師」という言葉使用開始。
・707年「賀茂朝臣吉備麻呂」が唐より帰国。陰陽道を持ち帰った可能性大とされている。
・718年養老律令で中務省内局に陰陽寮設置。
陰陽道:天皇・国家に関する事柄のみ対象。土地の吉凶・占い。
暦道:暦の作成。
天文道:日月の蝕・天気などを観察、異変があれば朝廷に報告。
漏刻:水時計の管理。時刻を告げる。
陰陽頭の元に陰陽・天文・暦・漏刻などの専門博士などを置いた。
当時としての科学技術の先端分野を司ったとされる。
律令ではこの部外者がこれに関する行為・言動を行うことを厳しく禁止した。完全な国家機密事項を取り扱う部署であった。
・735年「吉備真備」が唐より多くの典籍を持ち帰る。天文暦書「大桁暦経」陰陽道聖典「金烏玉兎集」日時計など。聖武天皇の時それまでの呪禁師を廃止して陰陽道を採用した。(吉備陰陽道の始まり)
・806年空海帰国。密教の普及。密教と陰陽道が結びつく。山岳修験道にも影響。
・810年天皇直轄の蔵人所に陰陽寮は組み込まれた。国家機密を握る部署として非常に重要視された。
(推古天皇以降非常に多くの陰陽師とされた人物の記録が残されている。初期は渡来僧が圧倒的に多い。平安初期頃になると日本人も数多く記録されている。)
・838年遣唐使廃止。これにより新たな外からの陰陽道の進展因子はなくなり我が国固有の陰陽道の発展が加速される。
・900年代初め 「賀茂忠行」が出現し陰陽道の集大成をはかり賀茂氏が世襲的に陰陽道を扱う特権を朝廷内で得る基盤を作ったとされる。(陰陽道宗家の出現)
・900年代中頃:賀茂忠行・保憲父子の弟子である安倍清明が出現。賀茂氏・安倍氏2家が天文道・暦道を分担した形で陰陽道2家体制が出来た。基本的にはこの体制が江戸幕末まで続いた。
詳しいことは、村山修一の「上代の陰陽道」「宮廷陰陽道の成立」などの論文などを読むことを薦める。
 
さて話を賀茂朝臣氏の系譜に戻したい。
 陰陽道賀茂朝臣氏かどうかははっきりしないが、壬申の乱で天武側に付き功を挙げ鴨君から賀茂朝臣に八色の姓で認定された人物として「賀茂君蝦夷」が続日本紀に記録されている。通常の陰陽道賀茂朝臣氏の系図の最初に記されているのは吉備麻呂である。年代的には蝦夷の子供の世代である。この人物の娘とされる賀茂比売が藤原不比等の側室となり、その間に産まれたのが文武天皇の妃となった「藤原宮子」である。この宮子が産んだ子供が聖武天皇である。とされている。これには古来色々議論がある。これが真実なら賀茂朝臣氏は、当時の慣例に従えば相当の厚遇が期待出来る。ところがどうもその痕跡がない。賀茂比売を賀茂吉備麻呂の娘とする系図は疑問である。というものである。筆者はこれについては意見を持っていない。
強いて言えば「藤原宮子は問題多い鬱病女であり、賀茂氏を誉めるにあたわずとし、藤原氏が、その総ての成果を奪い賀茂朝臣氏は無視された」とでも言えるのである。
 ところで陰陽道賀茂朝臣氏を語る時、避けて通れない人物がいる。「役行者(えんのぎょうじゃ)」である。実在の人物であるとされている。(699年続日本紀記事)日本の山岳仏教・山伏修験道の祖とも言われている謎だらけの人物である。この人物は古来賀茂役君の出であるとされてきた。異説も沢山ある。筆者の賀茂朝臣系図にも明らかに賀茂君の流れの中に庶流ではあるが役君祖という記事がある。役行者誕生寺伝承地が葛城の地に「吉祥草寺」として現存している。7世紀の人物と推定されている。この人物こそ陰陽道賀茂氏発生の原点的人物であるという説もある。日本の原始的陰陽道を具現化したような数々の伝承が残されているのである。そのような体質的・遺伝的素質(超能力・霊媒能力みたいなもの)を有していた一族の「賀茂朝臣吉備麻呂」が、唐での理論的陰陽道の教育を受け、その秘術を習得して日本に帰国して子供の「小黒麻呂」に伝授した。小黒麻呂は天文道・暦道をよくした、との伝承もある。
さらに小黒麻呂の兄弟とも子供とも言われている僧「円興」が「弓削道鏡」の最大の弟子となり非常に寵愛された。この弓削一族からは、当時の陰陽寮に属する陰陽師も何人かいたようで、この縁で賀茂朝臣氏も公的な陰陽道に関与の糸口が出来たと容易に推定される。「賀茂忠行」の養父である「賀茂峯雄」は、その娘を清和天皇の妃にしている。この頃は賀茂朝臣氏は明らかに五位以上の貴族であり朝廷内で一定の官職を得ていたのである。
その流れとして陰陽道に関与してきたのであろう。公的記録はない。突如として賀茂忠行なる人物が陰陽寮の陰陽道・天文道・暦道の三部門を総て掌握したとある。彼はまた有名な陰陽師「安倍清明」の師であると認定されている。10世紀の人物である。
忠行の子供が「保憲」である。これも非常に優れた陰陽師であったようで遂に陰陽頭というこの道のトップの地位に就いている。この人物の娘が「安倍清明」の母であるとの説がある。当時の陰陽道は絶対にその秘術を他人には教えないのが通例であったのに保憲は全くの他人であるはずの安倍清明をこよなく愛し、自分の子供である「光栄」と分け隔て無く教育したと伝えられている。そして遂にやっと手に入れた陰陽道宗家の権利を天文道は安倍清明に譲り、息子には暦道を譲って2分したのである。これは余程の理由がないと出来ないことである。その理由の一つとして、清明の母は保憲の娘であるという説が後年出たものと思われるが真相は不明とされている。
いずれにせよこの10世紀は、律令制に基づく陰陽道は衰え藤原氏を中心とした宮廷陰陽道の時代に入っていた。賀茂氏・安倍氏(安賀両家)による陰陽道全盛時代に入ったのである。
鎌倉時代に入っても陰陽道は衰えず、賀茂氏は勘解由小路家・安倍氏は土御門家を興して公卿職に任じられるようになった。
ところが 勘解由小路家は1565年「在富」の時、突如として絶家となった。その後は賀茂朝臣氏の庶流であって興福寺と主従関係を結んでいた奈良の「幸徳井家」が陰陽道賀茂氏を継いだ形となり、安倍氏(土御門家)に主導権を奪われた形ではあるが日本の陰陽道の家元として全国に拡がっていた各種陰陽活動の指揮権を堅持してきたのである。明治政府になり多くの公卿家は男爵家などの貴族となるが、陰陽道家2家は共に当時の政府の方針に合わず貴族にはなれなく、陰陽道そのものも禁止となった。

<高賀茂朝臣氏>
さて高賀茂朝臣氏の件を解説してなかったので最後にこの件を述べておきたい。
賀茂朝臣小黒麻呂の子供の諸雄・田守・萱草の3名は768年に高賀茂朝臣姓を賜っている。神名式では「大和国葛上郡高鴨阿治鋤高彦根神社と見ゆる地より起こる」とある。
これ以外に出自ははっきりしないが賀茂朝臣清浜なる人物が769年に高賀茂朝臣姓を賜っている。さらに役行者の役君は後に賀茂朝臣となりさらに高賀茂朝臣と称するようになったとある。これらの記事こそ陰陽道賀茂朝臣氏が吉備氏の出身ではなく大鴨積の末裔である鴨君の流れであることを物語っていると判断する。
764年高賀茂朝臣を賜る以前に上記「田守」と田守の兄弟か叔父にあたる僧「円興」が朝廷に申し出て土佐に流されていた高鴨神(一言主神)を大和葛上郡に復祀したとある。(続日本紀)ところが1301年の釈日本紀では従五位上高賀茂朝臣田守らが奏上して葛城山の東下の高宮岡に迎え奉じるたのは一言主神である。と記されている。
古事記雄略紀・日本書紀雄略紀・続日本紀(797年)で一言主神の話が登場するがそれぞれ内容がすこしづつ異なる。続日本紀記事だけが雄略天皇により高鴨神(一言主神)は土佐に流された、とある。これに関して古来色々議論されてきた。@土佐へ流された神は一言主神である。よって復祀された神は一言主神である。A土佐へ流されたのは高鴨神即ち味鋤高彦根である。よって復祀されたのも高鴨神である味鋤高彦根である。B土佐へ流された神は高鴨神である一言主神である。よって復祀された所は葛木一言主神社へである。C土佐神社は味鋤高彦根と一言主神を共に祀ってきた。よって両方の神が土佐に流されたのである。その他諸々の説が存在する。現在も真相は謎である。筆者は次ぎのように推定している。
結論:雄略天皇により土佐へ流された神は、高鴨神である味鋤高彦根である。
理由:@記紀の雄略紀では表現は異なるが一言主神を土佐国へ流した記事はないし、その理由もない。
A続日本紀で初めて高鴨神(一言主神)が土佐へ流された云々の記事が登場し、これを高鴨神社に関係していた賀茂朝臣氏の2人が、流されている自分らの祖神を元の葛城の地に返してくれるよう奏上したのである。
B一言主神は葛木氏の神かも知れないが鴨族の神ではない。役行者が一言主神を使役したとする日本霊異記の記事もその証拠である。また葛城から追放された神を使役したというのもおかしな話である。一言主神は葛城にいたということである。
C葛木氏、葛城臣氏共に高鴨神は祀っていた。表向きは彼等の氏神は高天彦神社であったかも知れないが、筆者推定系図でも分かるように葛城氏の祖先は出雲族であり、鴨族である。即ち真の神は古事記に記されたように迦毛大御神である高鴨神即ち味鋤高彦根である。
D雄略天皇は葛城勢力の大和からの駆逐を最大の目標とした大王である。大王家にとって最大の脅威ある存在が葛城氏であったからである。しかも葛城氏は本当は天神族・皇別氏族ではなく出雲族であることを雄略天皇は知っていたのである。
E葛城臣氏の祭祀氏族として支えていたのは高鴨神を祀っていた鴨族である。
Fその鴨族の主流は後の賀茂県主氏である。この氏族は自発的か強制的かは詳らかではないが雄略朝に葛城の地を離れた。(後に山城国愛宕郡に定住、賀茂神社を祀る)
G土佐国には既に味鋤高彦根の流れを引く鴨族が地盤を築いていた。(土佐国造氏)
H雄略天皇は葛城勢力駆逐の為に目障りになる高鴨神そのものを土佐へ遷座させた。
この記事は記紀には記されていないのである。一言主神との云々の記事はこの件とは無関係の話である。
I鴨族として大和国葛城に残っていた鴨君の裔達にはそのことは伝承されており、恐らく
準大納言の地位にまでなった道鏡の寵臣円興の力で朝廷を動かしたのである。
Jここで再び高鴨神社が正式に復活し、その祭祀を行う者達に高賀茂朝臣姓が賜姓されたのである。
現在の我々では想像もつかない祖先の名誉回復劇をやったのである。
葛城地方には鴨族・葛城族関連神社が多数現存する。これらの神社の由緒はそれぞれあるが昔も今も混乱がある。これは致し方ないことである。
賀茂県主氏は出雲神を離れ天神系の神にその系譜を替え、葛木直氏も出雲族から天神系高木神系に移り、葛城臣氏は武内宿禰の流れに入ることにより自氏族の繁栄安定化をはかったのであるから神々が複雑になるのは致し方ないことであり、活き残るための方便であったのでこれを非難することはナンセンスといえよう。記紀編纂の時には既にそれぞれの氏族はその祖先を替えていたのである。(その一部は替えさせられた可能性もある)
賀茂朝臣氏も多くの流れが派生したことであろうが、歴史に系譜を残したのは陰陽道家として栄えた一派だけだったと言える。
 
さて最後にさらに大胆な筆者推論を記しておきたい。
古事記には味鋤高彦根神を何の説明もなく「迦毛大御神」と記している。日本書紀にも旧事本紀にもこの記述はない。日本の神話に出てくる神で「大御神」の尊称を有しているのは「天照大御神」とこの「迦毛大御神」だけである。
筆者の調査した範囲では、このことに詳しく言及している文献がない。何故であろうか。
イ、味鋤高彦根神は、葛城高鴨神社の祭神であり葛城鴨族の祖神である。それ以上の説明不要と判断されているからである。
ロ、味鋤高彦根神は、素性があまりはっきりしていない神である。記紀共に余り重要視した扱いはされていない。鴨族の祖神というのもその理由がはっきりしていない。
ハ、天照大御神というのも、どの時代にそのような扱いになったのか定かではない。記紀編纂時に天皇家を天孫神話を創作して、神裔とし、万世一系の血筋を有する他のいかなる氏族とも異なる存在と位置づけ何人もこれを犯すべからず。としたもので、その皇祖神として創作されたものである。という説に従えば、単なる葛城鴨族という一氏族の祖神など
敢えて取り上げる価値などない。
ニ、或る伝承として迦毛大御神という呼称があったので古事記にそのように記されただけで特に注目する事項ではない。
 などが考えられる。
筆者は、上記のいずれにも従わない。要は記紀編纂者の練りに練った策略に皆が嵌ったのであると考える。この難問に敢えて考察を試みたい。
 古事記は、編纂当時以前から味鋤高彦根神は、大和王権にとって皇祖神「天照大御神」と並ぶ重要な神であると考えられていた神であることを意図的に書き残したのである。
日本書紀は、逆に意図的にこの神を抹殺したのである。と考える。
記紀には神武東征以前に、ここ大和の地に多くの先住氏族がいたことは認めている。
出雲国譲り神話・出雲神裔系図も記されている。またその神武紀・欠史八代記事などで大王妃の記述も詳しく記されている。ところが何故か味鋤高彦根神の神裔が記されていないのである。事代主神裔又は大物主神裔は記されている。これで記紀読者は古来この部分の解釈に難渋したのである。鴨族に関しては記紀には殆ど触れられていない。しかし、迦毛大御神なる古事記の記述だけが残ったのである。
筆者も随分以前からこの問題にぶつかっていた。上山春平も名著「神々の体系」の中で多数いる出雲神の中で味鋤高彦根こそ最も注目すべき神であると記していた。
筆者は本稿の中で一つの推定系図を提案した。現段階で到達した「鴨・葛木・尾張氏関係系図」である。これは概念系図と思っている。この系図は古代の葛城地方に住んで勢力を競っていた天皇家は勿論、物部氏・大伴氏・阿倍氏・中臣氏・三輪氏及び鴨氏・葛木氏・尾張氏などの古代豪族は、概念としてお互いに知っていたのではなかろうか。
さらに言えば、出雲神裔である高鴨神の裔の娘が次々大王家の后になり大王を産みだしたことを。天皇家の男系の皇祖神を天照大御神とするなら女系の皇祖神は出雲神でなければならない。素戔嗚尊・大国主・大物主・事代主など色々考えられる。それでは大和での元祖ではない。それは葛城鴨族の祖でなければ大和の者は納得しない。それ程当時の大和王権は出雲神族(先住民的弥生人出身氏族)と天孫族(後続弥生人出身氏族)がバランスした状態で国体を保っていたとも言える。そこで葛城鴨族の祖神である味鋤高彦根神を女系の皇祖神としたのである。これが迦毛大御神という尊称の誕生の真実であると筆者は推論するに至った。
欠史八代は別にしても崇神天皇以降でも古事記が記述した推古天皇までに皇族以外から天皇を産んだ天皇妃を出したのは葛城臣氏・蘇我臣氏系だけである。(継体天皇の代は除外)
蘇我氏も血脈的には葛城系である。即ち鴨族の流れである。
どの時代に迦毛大御神という尊称が発生したのかは不明だが、この意味は日本の古代史を知る上で非常に重要と判断している。
記紀は、出雲神裔の影を払拭するために葛城鴨族の嫡系である賀茂県主氏の祖建角身命を天神系の八咫烏に比定し全く別系統の賀茂氏を認定したのである。賀茂県主氏は出雲神でもなく天神でもない記紀にも記事のない独自の「賀茂別雷神」を氏神として祀っている。これだけ古い氏族なのに何故か。その過去に大変な苦悩を味わった結果だと筆者は想像する。葛城鴨族の主家を出雲族から外したのであるから迦毛大御神の尊称は影が薄くなるのは当たり前であろう。
ところが歴史は繰り返すの諺通り、女系鴨族は今度は藤原氏の血脈に入るのである。
藤原不比等の正室は、蘇我馬子の孫連子の娘「娼子」である。(筆者参考系図参照)この間の子供が藤原南家・北家の祖となる訳である。天皇家の妃供給源となるのである。まさに天皇家の大御神は天照大御神と迦毛大御神であり。この2大御神が守護してきたのである。
出雲神裔の葛城鴨族の祖は、賀茂県主氏祖「建角身」だったのである。このことを記紀は、抹殺したのである。これが総ての混乱の基であったのである。
以上が筆者主張も盛り込んだ概略解説である。
 
6)まとめ(含む筆者主張)
 賀茂族考Uでは、賀茂族考Tで議論してきたこと、結論を後回しにしてきたこと、なども併せて考察を加えた。日本古代史の神話と現(うつつ)の狭間に位置する人物が多数登場する。所詮内容を立証することは不可能な伝承世界の話であるが、古代史ファンにとっては非常に興味深い大和王権誕生にも関わる部分である。
@陰陽道賀茂朝臣氏は、明らかに記紀で記されている三輪氏と同族である大田田根子の孫である「大鴨積」を祖とする鴨君・賀茂朝臣の末裔氏族である。地祇系神別氏族である。
A大田田根子の祖は諸説あるが日本書紀では、大国主の子供である「事代主神」である。
この神は大国主の子供であり、この神の娘が神武天皇の后である。所謂「鴨王朝」の中心神である。
B葛城にある高鴨神社の祭神は「味鋤高彦根」であり、古事記ではこの神を「迦毛大御神」としている。大御神という尊称が用いられている神は、「天照大御神」とこの神の2柱しかいない。葛城賀茂氏の祖は上記のように「事代主神」である。「味鋤高彦根」と「事代主神」は兄弟ではあるが、独立した別の神である。どうも釈然としないのである。
C一方賀茂県主氏の祖は「建角身」であり、記紀では「八咫烏」と記された人物である。古来こちらは天神系氏族とされてきた。賀茂氏と言っても葛城鴨氏とは別流として扱われてきた。
D高鴨神社の由緒記では現在も「賀茂県主氏・葛城鴨氏共に祖は味鋤高彦根である」ということを主張している。だから迦毛大御神といわれたのだと主張している訳である。
E大鴨積以降の系図は存在するが、陰陽道賀茂朝臣氏と直接的には繋がらない。しかし、
「八色の姓」の時、この鴨君一族の幾らかが揃って朝臣姓を賜ったことは間違いない。
F役行者で有名な役君も鴨君の流れで派生した氏族であることは明白である。
G賀茂朝臣吉備麻呂以降の所謂「陰陽道賀茂朝臣系図」は正しいとされている。
Hこの吉備麻呂の5世孫に「賀茂忠行」なる人物が出る。忠行はそれまでの陰陽道の集大成をはかり、律令体制の陰陽道を廃し、独占体制で陰陽道を世襲する陰陽道宗家体制の基礎を築いた。賀茂氏は、これ以降世襲化された形で陰陽道が栄えるのである。弟子に有名な「安倍清明」がおり、息子「保憲」とともにこれを教育した。そして天文道は安倍氏に暦道は賀茂氏と宗家を2家支配体制で江戸幕末まで日本の陰陽道の家元になったのである。
 以上が鴨君・賀茂朝臣氏の概略まとめである。
これ以降は、葛城鴨一族に関する筆者の推論事項のまとめである。
I筆者は、過去に公知にされた記事、伝承されてきた色々な系図などを解析した結果、「三嶋溝杭・陶津耳・建角身は同一人物と判断し、味鋤高彦根の孫[観松彦伊呂止]に比定される」という結論に達した。この結論に従えば、賀茂県主氏も葛城鴨氏も葛木直氏も葛城臣氏も総て同族であり、記紀その他古文献などで分かり難かった多くの疑問が多く解けることになった。
J「建角身」らの一族(賀茂県主氏)こそ葛城鴨族の祖族であり、本流賀茂族である。この一族から葛木直氏が派生し、その女系から葛城臣氏が誕生した。
K大鴨積は葛城鴨族の名跡を女系で譲り受けた鴨氏で、建角身らの一族よりは下位の鴨族と考える。即ち高鴨神からみれば傍系の鴨族なのである。
L葛城臣氏が天皇家と並ぶ勢力を有して来たころ(4世紀末ー5世紀中頃)、両鴨氏は祭祀氏族として葛城氏を支援してきた。葛城鴨3神社(高鴨・御歳・鴨都波神社)がその中心であった。
M雄略天皇は葛城氏系(出雲神族系)の天皇家への血脈が入るのを排除する目的で葛城勢力のこの地方からの駆逐を断行した。葛城臣族は勿論だがその祭祀氏族・親(おや)族である鴨族も追放したのである。賀茂県主氏はこの時葛城の地を離れた。その祖神である高鴨神も土佐国へ流された。
Nこれは出雲神族の血脈が天皇家に入ることを排除しようとしただけでなく天皇家の真の王家としての支配権の確立を目的としたものである。賀茂県主氏こそ出雲神族の嫡流であり天孫族に対抗する最大の正統な勢力だったのである。邪魔者だったのである。
O賀茂県主氏は、その後血脈を出雲族から天神族に変更する(八咫烏伝承の取り込み)。
これが県主氏の自発的な行動なのか朝廷指導だったのかははっきりしない。その賀茂県主氏は、京都賀茂神社の奉祭氏族として栄えたのである。
Pその後、葛城臣族の血脈を受け継いだ蘇我氏が台頭する。古事記はここまで知った上で天皇家の祖神を男系は「天照大御神」とし女系を「迦毛大御神」として日本の国体が維持されていることを暗に示したものと考える。そして出雲神族系の系譜はことごとく闇の中に葬ったものと考える。
Qところが史実は、蘇我氏の血脈を女系で継いだ(藤原不比等の正室は蘇我氏女)藤原氏の登場により、この出雲神族の血脈は、藤原全盛時代を通じ完全に踏襲されたのである。即ち表向き記紀の狙い通り迦毛大御神は抹殺されたが、天皇家の血脈には営々と出雲族の鴨族の血が受け継がれ迦毛大御神はそれを守護してきたのである。     (2008−4−5 脱稿) 
 
 
 
7)参考文献
・上山春平「神々の体系」中公新書(1972年)
・上山春平「続・神々の体系」中公新書(1975年)
・中村修也「秦氏とカモ氏」臨川選書(1994年)
・佐伯有清「新撰姓氏録の研究」全6巻 吉川弘文館(1963年)
・大田 亮「姓氏家系大辞典」
・村山修一「上代の陰陽道」伊東多三郎編 国民生活史研究
・村山修一「宮廷陰陽道の成立」古代学協会編 延喜天暦時代の研究
・村山修一「日本陰陽道史話」朝日カルチャーブックス 大阪書籍(1987年)
・平林章仁「蘇我の実像と葛城氏」白水社(1996年)
・薗田稔ら「日本の神々の事典」学習研究社(2002年)
・門脇禎二「葛城と古代国家」講談社学術文庫(2001年)
・直木孝次郎「日本神話と古代国家」講談社学術文庫(2001年)
・網干善教ら「古代葛城とヤマト政権」御所市教育委員会編 学生社(2003年)
http://kamnavi.jp/as/katuragi/kamotable.htm など一連関連hp記事。
・フリー百科事典ウイキペディアの各種関連hp
                    など多数。