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14.吉備氏考
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1)はじめに
 筆者は旧岡山県吉備郡真金町(現:岡山市真金町吉備津)にある母の里で産まれた。
「真金吹く 吉備の中山帯にせる 細谷川のおとのさやけさ」(古今和歌集)で有名な町である。
同時に「吉備津神社」のあるところである。母の家から歩いて20分程であの大きな神社に行けた。
子供の頃、あの長い長い回廊でよく遊んだのを覚えている。
JRの駅は、岡山から吉備線で「吉備津」である。
その一つ手前の駅が「備前一宮」である。「吉備津彦神社」が駅前にある。
備中吉備津神社とこの吉備津彦神社は、昔は歩いてお参りしていた程の距離である。
筆者が育ったのは、備後の尾道であるが、妹が嫁いでいるのが旧広島県芦品郡新市町(現:福山市新市町)であり、ここに備後一宮の「吉備津神社」(通称:一休さん)がある。いずれも田舎には珍しく大きな威厳のある神社である。
大昔はここいらは総て吉備国に属した。それが備前、備中、備後となり、現在は岡山県と広島県になっている訳である。
母は「吉備津アマ」の信者で、我が家の神棚にはいつも吉備津神社のお札が飾ってあった。
子供の頃から馴染んできた吉備津神社が、どういういわれのものか良く知らなかった。
桃太郎・吉備団子・吉備津彦命・四道将軍・武運長久などが連鎖する程度であった。
 古代史に興味を覚え、色々知るに及び、吉備の国は、古より日本の歴史に重要な役割を演じた所であり、その原点的なところで吉備津神社の祭神である「大吉備津彦命」が絡んでいることが仄かに見えてきた。
古い神社には珍しく、現存?した人物を祭神にした神社である。
 そもそも吉備氏は、7孝霊天皇の子 「吉備津彦」を元祖とするとされている。
吉備の国は、瀬戸内海の海上交通の要地である岡山平野を有し、古くから独自の文化が育っていた。
弥生時代半ばにあたる1世紀には、そこに有力な首長が出現した。
大和朝廷の勢力が急伸する4世紀初めになると、吉備の首長はすすんで朝廷に従う道をとった?3世紀後半から4世紀の極初めにかけて古墳が広がっている。
最近では前方後円墳の原型は吉備に端を発しているとされだした。
吉備氏は、吉備国(備前、備中、備後)平定のために朝廷が送った「吉備津彦」の子孫だとされている。しかし、この辺りは現在も諸説ある。
上道、下道、笠、賀陽、三野などの臣姓をもつ有力豪族が割拠しており、これらが総て「吉備津彦」の子孫ということになっている。
(系譜は色々あり、複雑)
別系譜では、大吉備津日子が上道氏、その弟「若日子建吉備津彦」が下道氏、笠氏の先祖だとする。
しかし、本当は、吉備に割拠する豪族は、元からその土地の土着豪族であり互いに同祖関係はなかったらしい。との説も有力。
 最近の学説では、3世紀に造られた大和の巻向遺跡、箸墓古墳などの発掘調査の結果からこれらの文化は、大和の弥生人の文化の延長ではなく、吉備国の影響が非常に濃くでており、初期大和政権は、吉備国、讃岐国、播磨国、筑紫国などの連合政権であった。とする説(寺沢薫)、などが出現し、興味深い。
 5世紀初め吉備下道氏が全盛期となり、作山古墳、造山古墳(総社市)などの天皇家の古墳に匹敵する大型前方後方墳を営なんだ。
5世紀末下道前津屋の反乱で21雄略天皇は、物部氏にこれを討たせた。
これにより、吉備氏は、大きく後退したとされる。
一方、5世紀末上道氏の娘が21雄略の庶妻になり「星川皇子」を産んだ。
雄略没後、上道氏は、この皇子を王位につけようと企み、「大伴室屋」らに阻止された。
中央政界では、大化の改新時「笠垂」が古人大兄皇子の謀反計画を密告し、中大兄皇子から褒美をもらっている。
 40天武朝、下道氏、笠氏が朝臣姓を与えられている。
地方豪族ではこれ以外には、下毛野氏、上毛野氏があるのみ。
奈良時代後期に活躍した「吉備真備」は、下道氏流れとされている。
これ以後、吉備氏は歴史上から消える。
 鎌倉時代に出現した臨済宗開祖「栄西禅師」は吉備津神社社家賀陽氏の出身である。
この古族吉備氏のアウトラインでも理解出来たらと思う。
 
2)吉備氏人物列伝
重要人物のみ記す。古い人物は、日本書紀に準拠。古事記は参考にした。
 
2−1)大吉備津彦命(???−???)
@父;7孝霊天皇 母;意富夜麻登玖爾阿礼比売(姉)?倭国香媛<大倭氏  諸説あり。
A子供;どの系譜を用いるかで異なる。三井根子、大屋田根子ら
血族吉備氏の祖ではない系譜が多い。吉備氏祖は異母弟の稚武吉備津彦となっているもの多し。但し古事記には上道臣祖となっている。
姉;夜麻登登母母曽毘売(卑弥呼???)
別名;比古伊佐勢理毘古命(大吉備津日子)、吉備津彦命、五十狭芹彦命など。
B崇神天皇の時四道将軍の一人として、西道(山陽)の征討に派遣された。この時異母弟の稚武吉備津彦を副官として伴い吉備地方の平定をした。日本書紀の記事。古事記にはない。
併せて武埴安彦とその妻吾田姫が謀叛を起こしたのを打ち破りこれを殺したとの記事もある。
C吉備津神社の祖神は「大吉備津彦命」である。備中吉備津神社の創建は社伝では、吉備津彦5代裔加夜臣奈留美命(この人物は筆者の調査した範囲ではどの系図にもない。大和国明日香村にある加夜奈留美神社と関係あるのか?)が、吉備の中山の麓の茅葦宮という斎殿の跡に社を建立。
一説には稚彦建吉備津彦の3代後稲速別、御友別、鴨別が初めて社殿を造った。
また一説では、仁徳天皇が吉備津海部直の娘「黒媛」を慕って吉備国に行幸したとき社殿を創建。など(社家の姓氏ー賀陽氏ーより)
備前吉備津彦神社および備後吉備津神社はこれ以降に創建されたがいずれもその国の一宮である。
 吉備津神社等の系譜も考慮に入れて記す。
D172年倭国大乱終わる。238年卑弥呼魏へ遣使。
この間のどこかで吉備津彦の吉備平定が行われたものと考える?
播磨の氷川(加古川、印南川)の岸で軍を集結し、吉備を攻める体制を備へたとされる。
E吉備津神社伝承(吉備津宮縁起)
・垂仁(崇神)天皇の御代、異国の鬼神が飛行して吉備にやって来た。百済の王子で温羅(ウラ)あるいは吉備冠者と呼ばれ、新山に城を築き人々を脅かした。この居城を鬼之城という。 朝廷は、武将を派遣してこれを討たせたが敗れるばかりであった。そこでついに7孝霊天皇の皇子の五十狭芹彦命(大吉備津彦)が派遣され、温羅を討つことになった。
・命は、吉備の中山に陣をとり、温羅と互いに弓矢を射あったが、温羅は不思議な力を持ち、命の射かけた矢に温羅の射る矢と空中で噛み合い海に落ちるの常であった。
しかし、命が神力を現し、強弓で二矢を同時に射ると、一矢はそれまでのように温羅の 矢と噛み合ったが、予想外の残る一矢が温羅の左目を貫いたのである。血は流れて血吸川となり、傷ついた温羅は、雉と化して山中に隠れたが、命は鷹となって追いつめると温羅はたちまち鯉となって血吸川に隠れたが、命は鵜となってこれを噛みあげた。 今の鯉喰宮(倉敷市矢部)は、その跡である。温羅は降伏し、吉備冠者の名を献上したので命が吉備津彦命を称するようになった。命は、温羅の首を刎ね、串に刺してこれを曝したが、首は何年も唸り続けて止まない。たまりかね、「犬飼建」に命じて、犬に食わせたが、ドクロになっても温羅は、吠え続ける。そこで命は、ドクロを吉備津宮の釜殿の竈の下八尺に埋めさせた。しかしなお13年間唸りは止まなかった。ある夜命の夢に温羅が現れて「我が妻、阿曽郷の祝の娘、阿曽媛をして命の釜殿の神餞を炊かしめよ。幸あれば裕に鳴り、事あれば荒らかに鳴ろう。命は世を捨てて後(死後)は、霊神となって現れ給え。吾は、一の使者となって四民に賞罰を加えん」と告げた。つまり吉備宮のお釜殿は、温羅を祭ったもので、その精霊を「丑寅みさき」という。これが鳴釜神事の起こりである。
F温羅の娘を娶って温羅の霊を吉備津神社のお釜殿に祭った。
G応神天皇時代に吉備氏は、分割されたという。上道臣も若建吉備津彦の子孫とされてい る。若建吉備津彦は、ヤマトトトビモモソ媛の弟ではなく、大和朝廷になってから、新 たに吉備の首長として大和から派遣された人物である。との説あり。
H大吉備津彦は、加古川でも祭られた。
I「記紀」では、年代的なつじつまが合わない記事になっている。
J備中吉備津神社は吉備の中山という山の麓にある。この山には宮内庁管轄の「中山茶臼山古墳」があり、推定3世紀後半ー4世紀前半である。120mの大型古墳で大吉備津彦の墓とされている。
 
(参考)桃太郎伝説
上記吉備津神社の温羅伝説に基づいたものとされている。
犬:犬飼武 犬飼部首長
雉:名方古世・留玉臣 鳥取部首長
猿:楽楽森彦(製鉄に関係?)山部
いずれも吉備津神社に祀られてある。
ちなみに吉備津神社には、温羅、百田弓矢比売(温羅の娘で大吉備津彦の妃)も祀られてある。
ーーーとにかく古くてよく分からないーーー
 
2−2)若建吉備津彦
@父:7孝霊天皇 母:蠅伊呂杼?<大倭氏    異説あり。
A子供:吉備武彦、宍戸武媛、稲日大郎媛、伊那毘能若郎女 諸説あり。
別命:稚武吉備津彦、稚武彦
B異母兄大吉備津彦に従い吉備地方を平定した。吉備臣祖。
 
・吉備比売
@父:7孝霊天皇? 母:蠅伊呂杼?
A夫:比古汝茅?
子供:印南別嬢?
B播磨風土記記事:13成務天皇の時丸部の比古汝茅に国境を定めさせる。吉備比古、吉備比売が迎える。
 
・稲日大郎姫(???−???)
@父;吉備津彦命?(若建吉備津彦)? 母;吉備姫?   諸説あり。
A12景行天皇后、子供;日本武尊、櫛角別、大碓、倭根子、神櫛王
 別名;播磨稲目大郎媛、印南別朗女、針間之伊那毘能大郎女
 
・吉備穴戸武媛(???−???)
@父;吉備稚武彦又は吉備武彦 母;不明
A日本武尊妃  兄弟;吉備武彦、稲日大郎女、伊那毘能若郎女
子供:武卵王(建貝児王:讃岐綾君祖)、十城別(伊予別君祖)
別名:吉備建媛、大吉備建比売
 
・伊那毘能若郎女
@父:稚武吉備津彦 母:不明
A12景行天皇妃 子供:真若王、日子人之大兄王
別名:印南別嬢*
*丸部臣始祖「比古汝茅(ひこなむち)」と吉備比売との間の娘が印南別嬢という説あり。
ヒコナムチは「彦坐王」ではないかとの説もある。
 
2−3)吉備武彦
@父:稚武吉備津彦  母:不明
A子供:御友別、鴨別、吉備兄媛、吉備弟媛、浦凝別
別名:吉備臣日子、大吉備建日子  御(金且)友耳建彦(記)
B倭建が東征する際、12景行天皇が随行させた副官。
 
・吉備兄媛(???−???)
@父;吉備武彦 母;不明
A15応神天皇妃
B日本書紀のみに記事有り。倭氏黒媛の記述が古事記のみにある。このことから黒比売と
兄媛は同一人物であり、応神天皇と仁徳天皇も同一人物であるとする説あり。
 
・黒比売(???−???)
@父;吉備海部直 母;不明
A仁徳天皇の側室
B后「磐之媛」の嫉妬を怖れ故郷へ帰ってしまった。天皇は吉備まで追って行った話有名
 
 
2−4)御友別
@父:吉備武彦  母:不明
A子供:仲彦、稲速別、弟彦
B15応神天皇が吉備に行幸された際、膳夫として饗を供した。その功績で一族が分封に与る。
吉備氏全盛時代。造山古墳、作山古墳など天皇級の大型古墳が造られたのはこの時代前後とされている。
 
<上道臣・賀陽臣系>
2−5ー1−1)仲彦
 
・射獲
@父:仲彦
A子供:香夜国造真丹
Bこの流から備中一宮「吉備津神社」社家賀陽氏
 
・蚊屋采女
@祖父:賀陽高室
A夫:34舒明天皇 子供:三島真人祖「賀陽皇子」
 
・栄西(1141?−1215)
@父:賀陽貞遠(秀重説もある)
A11才で吉備津神社神職であった父の親友であった備中「安養寺」住職「静心」に預けられ、13才で叡山に登り14才落髪、その後安養寺に帰り、19才で再度叡山に入り、27才で南宋に留学、その年に帰国。47才の時(1187)年再度入宋。禅宗を修め、1191年帰国。この時お茶の種を持ち帰り日本にお茶を広めたとされる。 「喫茶養生記」
B臨済宗開祖。
C比叡山からの迫害を避けるため鎌倉に下り源頼家・政子親子の帰依を受け寿福寺建立。
1202年幕府の力を借りて、京都建仁寺開山。
 
2−5−1−2)稲生
 
−5−1−3)上道田狭(???−???)
@父;稲生 母;不明
A妻;吉備稚媛(吉備窪屋臣娘)後に21雄略天皇妃となる。
その子供;星川皇子、磐城 皇子 子供;兄君、弟君
側室;葛城円大臣妹「毛媛」この関係で葛城氏(玉田宿禰流)と親密であった。
B21雄略天皇に任那国司を命じられ、その赴任中に美しい妻稚媛を雄略に召し上げられた。それを知った田狭は、新羅へ亡命しようとした。
C21雄略により滅ぼされた。吉備氏上道臣の没落。
D星川皇子の乱 大伴室屋、東漢掬らによって星川皇子、磐城皇子、稚姫、兄君ら殺される。
E両宮山古墳が田狭の墓説あり。
 
2−5−1−4)弟君
@父:田狭 母:稚媛
A子供この流に斐太郎が出現する。
B記紀記事に21雄略天皇に征新羅将軍を父田狭を討つために任命される話あり。
妻の樟姫に殺された。
 
2−5−1−?)上道斐太郎(都)(???−???)
@父;吉備上道臣弟君(吉備田狭の子)の流で不明 母;不明
Aこの流れが吉備氏として続く
吉備真備とほぼ同時代の人。下道臣真備に非常に対抗心を持っていたとされる。
B757年「橘奈良麻呂の変」の記事
 「小野東人」は、中衛の「斐太都」に決起への参加を求めた。承諾する返事をしてから 「仲麻呂」のもとに走った。この密告を孝謙天皇に仲麻呂は、奏上した。孝謙は、即刻 「小野東人」と答本忠節(百済系氏族の一人)を拘禁。また「道祖王」の邸宅を囲む。 光明皇太后は、「斐太都」の密告に名の挙がった「安宿王」「黄文王」「奈良麻呂」「大伴古麻呂」「塩焼王」らを御在所に呼び寄せ仲麻呂を通じてこう述べた。 「貴方達は、私にとって近しい間柄であり、私を怨むようなことは心当たりがない。朝廷は、貴方達をこれ程にも高く処遇しているのだから何の不満を感じて、このよう なことをするのだろうか。その様なことは、絶対にあるまいと思う。それで貴方達の罪 を免じることにする。今後けっしてこの様なことを起こすことのないように」と言って 放免された。しかし、その後追求の結果443名もの人が、流罪、死刑となった。
C斐太都は、この功により功田の相続世代を定められた。
D飛騨守、備後守 従5位下。
 
2−5−1−?)保命
@上道氏とだけしか不詳。
白山比盗_社(シラヤマヒメ)神主家祖。
 
<下道臣系>
2−5−2−1)稲速別
 
・下道前津屋(さきつや)
@父:草能男
A記事:21雄略天皇の時、天皇と自分に見立てた鶏や女を戦わせた。不敬罪で物部氏により誅殺された。同族70人連座。
 
2−5−2−4)窪屋
@父:下道速津彦
A子供:津布子(この流が吉備真備へ) 稚媛(初め上道臣田狭の妻後に21雄略天皇妃)
 
2−5−2−11)吉備真備(695?−775)
@父;下道圀勝 母;楊貴(八木)氏女
A下道朝臣、746年吉備朝臣に改氏、別名;真吉備
父は、右衛士少尉。母は、奈良県五條市にいた楊貴氏出身。
子供;泉、由利
B下道氏は、吉備地方に勢力を誇った地方豪族吉備氏の一族。備中国下道郡(吉備郡真備町、現在倉敷市真備町)出身。姓は、初め「臣」684年 朝臣姓賜姓。
C716年22才時第8次遣唐使の留学生に任命され、阿倍仲麻呂、玄坊?らと717年 出航。押使;多治比県守、大使;大伴山守、副使;藤原宇合。
真備、玄坊?は、共に18年間唐に留まった。
D732年第9次遣唐使任命される。大使;多治比広成、副使;中臣名代
735年広成らと共に帰国。正6位下に叙せられ大学助となる。以後「玄坊?」と共に 45聖武天皇、光明后の寵愛を得て急速に昇進する。
E739年母を失う。(五條市で発見された楊貴氏墓誌)
F740年太宰少弐「藤原広嗣」が上表文で時政を批判。玄ム、真備を除くこと主張。 この時正五位下右衛士督であった。741年東宮学士となり、皇太子阿倍内親王に典籍 を講演する。742年従四位下春宮大夫となる。「泉」誕生。
G745年玄ムは、筑紫観世音寺に左遷される。746年吉備朝臣を賜姓される。
747年春宮大夫解任される。後任の石川年足は、仲麻呂に近い人物。仲麻呂による真備排除の動き。右京大夫となる。
H748年元正上皇崩御。山作司に任じられた。749年孝謙天皇即位、従四位上となる。 750年筑前守に左降される。肥前守に転任。孝謙が私淑していた真備の勢力伸長を
 恐れた仲麻呂が、真備を天皇から遠ざけた計略。
I751年入唐副使。753年真備を乗せた遣唐使船は、唐より帰国途上屋久島に漂着。 754年帰国。この時「鑑真」が来日。太宰大弐
J761年西海道節度使になる。14年ぶりに都の重職に就く。
「恵美押勝の乱」従三位中衛大将とし、追討軍を指揮し、乱鎮圧に功を挙げ参議になる。
K766年中納言、大納言「真楯」の死去に伴い大納言に昇進。
「道鏡」の法王就任に伴い右大臣に昇進。
L769年正二位。「私教類聚」を著す。儒仏、忠孝を説く。
M左大臣「藤原永手」担当;近衛府、外衛府、左右兵衛府
右大臣「真備」担当;中衛府、左右衛士府、    となる。
同年48称徳天皇崩御。永手らの協議により「白壁王」を立太子。真備は「文屋浄三」(長皇子の子77才)を皇太子に立てようとした。
藤原百川(雄田麻呂)と永手、
良継らは、浄三に子供が13人もいるため後を配慮してこれに反対。浄三も固辞した。
 次ぎに参議「文屋大市(浄三弟67才)」を立てたが、また固辞される。
百川らは謀って偽の遺言の宣命を作り、「白壁王」を立てたという。
「水鏡」によれば、「大市」立太子
の宣命が起草されたが、百川らが、偽の宣命にすり替えた。真備は、これを慨嘆したという。
N770年49光仁天皇即位。
真備は老齢(76才)を理由に辞職を願い出るが、天皇は、中衛大将のみ解任を許し右大臣の職は、慰留した。
771年再度辞職を願い出て許可
された。 775年 死去。
 
・吉備由利(???−???)
@父又は兄;吉備真備
A記事;770年称徳朝「道鏡」が失脚し、称徳天皇が病に倒れた後、女官であった由利だけが、称徳天皇の病床にあってその意志を取り次いだとされている
B従三位尚蔵。
 
 
2−5−2−12)泉(???−???)
@父;吉備真備 母;不明
A子供;全継
 
 
2−5−2−8−3)岡田臣牛養                   @父:岡田臈足(窪屋の流)
A空海の大学時代の師の一人
大学「明経科」博士筆頭大学頭、讃岐国寒川郡岡田村(現:志度町末)出身
 
<三野臣系>
2−5−3−1)弟彦
@父:御友別
A子供:吉備根
Bこの流から備前一宮「吉備津彦神社」社家大森氏が出る。
 
<笠臣系>
 「笠氏」関連人物列伝
 笠氏は、吉備地方の豪族で笠国(笠岡市及びその周辺)の国造を務めた。
初め臣姓684年朝臣賜姓。8世紀を中心に中央の中下級官人として活躍が見られる。
 
2−4−2ー1)鴨別
@父:吉備武彦
A笠臣祖、子供:小篠
B神功皇后の熊襲征伐の際最初に派遣されて熊襲を討った。
 
2−4−2−2)笠小篠
 
2−4−2−12)吉備笠臣垂(???−???)
@父:羽鳥 母:不明
A子供:垂、諸石(この流から若狭彦神社神主家)
B記事;645年大化改新後、「古人大兄皇子」が、「蘇我田口臣川堀」らと謀反を企んでいると「中大兄皇子」に密告した。これにより吉野の古人大兄皇子を討った。「垂」は、この功により昇進し、功田20町をもらった。真相は、闇の中(中大兄皇子の策略か?)
 
・笠金村
@父:垂 母:不明
A 万葉歌人 30首 元正朝ー聖武朝初期にかけて活躍した歌人。
 
2−4−2−13)笠麻呂(???−???)
@父:垂 母:不明
A子供:名麻呂
記事;704年 従5位下
   706年 美濃守
   716年 木曽路を開通させ、元正朝に美濃守、尾張守となり、従四位上右大弁
   721年 出家 満誓を名のる。
   723年 造筑紫観世音寺別当となり大宰府に下向。
 
・笠節文
@父:名高(?−871)陰陽博士 母:不明
A若狭彦神社(福井県小浜市)の神主家の祖となる。最終的には「牟久氏」となる。
  
・笠女郎
@父:不明 母:不明
A 万葉歌人 29首 奈良時代後期の代表的歌人
 
(参考)
吉備氏関連記事;
・雄略紀;
@「下道臣前津屋」が天皇を呪詛していたことが発見され、物部氏配下の兵に滅ぼされた 。
A「上道臣田狭」が妻の稚媛を21雄略天皇に奪われた上に「任那国司」に任じられて、遠ざけられたことを恨んで息子の「弟君」と共に「任那」と「百済」に拠って反乱を企てて失敗した。
B21雄略の死後、「稚媛」は21雄略との間に産んだ「星川皇子」を王位に
つけようとクーデターを起こさせるが、失敗し、2人は、「大伴室屋」と「東漢掬」の軍勢によって滅ぼされる。この時上道氏も水軍を率いて攻め登ろうとしたが、「星川皇子」らが既に殺された事を知って引き返す。 
上道氏は、後にこの行動が咎められて勢力は大きく削られた。
葛城、吉備両有力豪族が、21雄略朝より没落した。逆に「大伴」「物部」両氏が、王権内で大きな力を得ることになった。
 
(参考)
<四道将軍> 10崇神天皇時四道将軍が任命され日本統一が計られた。
・日本書紀記事               ・古事記
 大彦命(孝元天皇皇子)  北陸道      大毘古命 北陸道
 武淳川別命(大彦命王子) 東海道       建沼河別命 東海道
 吉備津彦命(孝霊天皇皇子)山陽道      日子坐王 丹波道
 丹波道主命(日子坐王王子)丹波道       (吉備津彦がない)
 
 
3)吉備氏系図
諸説あるが吉備臣、上道臣、香屋臣、下道臣、三野臣、笠臣氏、及び苑臣、岡田臣など吉備関連氏族の系図を示した。基本は日本書紀に準拠し、古事記も参考にした筆者創作系図とした。
参考系図として、異説の一部と笠氏系図を載せた。
4)吉備氏系図解説・論考
 吉備津神社の祭神は、大吉備津彦命、倭迹迹日百襲姫、稚武吉備津彦命、御友別などである。主祭神は勿論「大吉備津彦」である。
備前・備中・備後の吉備津神社では神社毎に少しずつ異なるが、大吉備津彦は共通である。
古来この大吉備津彦が7孝霊天皇を父とする説(記紀)と6孝安天皇の子供「大吉備諸進」を父とする説、大吉備諸進が大吉備津彦であると言う説、など諸説ある。
魏志倭人伝に登場する卑弥呼の身の回りを世話する唯一の男性である弟とされる人物こそこの吉備津彦であるとも言われている。
姉の倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であるという説も別途存在している。
巻向遺跡にある箸墓古墳は、この姫の墓であると古来からされている。
3世紀中ー末頃?の築造と推定されており、魏志倭人伝に記載がある卑弥呼の死亡年・墓の規模などからこの墓こそ卑弥呼の墓であるとする説もある。
築造年の推定が近年数十年位早くなり魏志倭人伝の卑弥呼死亡年(248年)に近づいたので邪馬台国近畿説の学者は勢いずいている。
 参考系図1)は吉備津神社伝承系図と言われているものである。これで見ると大吉備津彦は7孝霊天皇の子供である。この人物はよく分からない。
これが吉備討伐の時、鬼ヶ城に籠もり最後まで激しく抵抗した「温羅(ウラ)」の娘との間に産まれたのが「吉備津彦」である。
どうもこの吉備津彦は何代か同名であったようである。
しかも7孝霊天皇の子供とされる若建吉備津彦とは異なる稚武吉備津彦とも呼ばれていたとのことなので複雑怪奇である。
ここから上道臣・香屋臣の祖が産まれている。
一方何代目かの吉備津彦の娘「吉備姫」と大和から派遣された「若建吉備津彦」が結ばれ下道臣が産まれた。
この若建吉備津彦と大吉備津彦に血族関係があるかどうかははっきりしない。
どうも婿養子的存在である。和邇氏の出身らしい。
和邇氏と吉備氏は近い関係があるとされているが、このようなとこにもその理由があるのかも知れない。いずれにせよ記紀系図とはかなり異なる。
 さらに系図を複雑にしているのが、参考系図2)3)の存在である。
日本書紀には「大吉備諸進命」なる人物は7孝霊天皇の兄として存在してない。古事記にのみ出てくる。何か吉備国に関係していると思われるが、よく分からない人物である。
古来から吉備氏は、その元祖に関しては、一筋縄では理解出来ない氏族とされている。
その幾つかの説、疑問を列挙する。
@吉備地方には大和政権が誕生する以前から、弥生文化をもった一大勢力圏が存在していたことは間違いない。
弥生時代の初め頃、吉備の中心は東部備前地区。
津島遺跡、百間川遺跡、東高月遺跡、など。
弥生時代中頃、備中の足守川流域が中心となり、足守川川床遺跡、上東遺跡、宮山遺跡などの大集落が発生。これは吉備王国誕生と言われている証拠。
弥生時代後期に楯築遺跡がここに出現。現在の倉敷市矢部西山の片岡山に大和巻向・箸墓古墳に先立って前方後円墳の先駆け的古墳が出現した。
全長78mの3世紀前半としては日本最大規模の双方中円墳である。
ここの首長であったのが温羅である。または大吉備諸進命の子供であった稚武彦又は弟稚武彦であるなどの説。即ち大和王権と関係ある人物が既にいたという説。などある。
A記紀の1神武天皇の東征の際にも、吉備の高島宮(少なくとも3ケ所の比定地が海沿いにあるが決め手なし)に数年間いたとの記述あり。
中国山地から瀬戸内吉備地方にかけて7孝霊天皇の足跡(楽々福伝説)が伝承・神社の形で残されている。
併せて最近は吉備「邪馬台国」説もにぎやかである。
吉備国は魏志倭人伝の「投馬国」に比定されるという説もある。
B吉備には、出雲国と対抗する勢力が鉄器文化を有し存在していた。
但し鉄の生産は6世紀後半からだとされている。
C吉備津神社の裏山に中山茶臼山古墳があり、現在宮内庁管轄で発掘調査は出来ないが一部の発掘物から判断して3世紀後半から4世紀初頃築造と推定されている。(4世紀代は古墳はこの中山丘陵中心に移る。足守川流域にはなくなる。)
10崇神天皇の墓とされる古墳と類似の型式で、明らかに大和王権の影響を受けているとされる。
これが麓に祀られてある大吉備津彦命の墓とするか、別人の墓とするかは別にして、当時の吉備国の首長墓には違いなかろうとされている。
一方5世紀代になると再び足守川流域に巨大古墳が発生する。(造山古墳・作山古墳など)
D記紀記述の大吉備津彦は、10崇神天皇の時代の人。
異母弟とされる若武吉備津彦もほぼ同時代。とする説。
その娘とされる「播磨稲日大郎姫」が12景行天皇の后扱い。
また孫にあたる御友別、兄姫が15応神天皇時代又は16仁徳天皇時代の人となっている。10崇神を4世紀初頭、15応神・16仁徳を5世紀初頭とすると約100年である。この記紀の記事は年代的にどこか無理があるのではないか。
E吉備氏には多くの派生氏族(上道氏、香屋氏、三野氏、下道氏、笠氏など)が記紀に記されている。総て血族としてである。
元々から吉備地方で勢力をはっていた多くの小国の首長の子孫は、大和から派遣された大吉備津彦に総て滅ぼされたのか、吸収されてしまったのか。
それとも吉備氏は色々の血脈は異なる連合体氏族の総称であるとするのか。
F5世紀頃の築造とされる造山・作山古墳などの天皇家の墓に匹敵する巨大古墳をどう理解したらよいのか。
G3世紀中ー後半と思われる巻向遺跡や箸墓古墳に残されている明らかなる吉備固有の文化の持ち込み的証拠をどう解釈したらよいのか。
H播磨風土記などに記されている記紀とは異なる吉備氏関連記事の解釈。(吉備姫・印南別嬢など)
I淡路に本拠があったとされる「倭・大倭氏」との関係も判然としないがあるようである。
大吉備津彦の母(倭国香姫)淡路島にいた。
その親は「椎根津彦」(倭氏祖)の子供「和知津美命」である。との説あり。
J日本書紀では吉備氏祖は「若武吉備津彦」となっている。
では何故吉備津神社は大吉備津彦を祖神とするのか。
K10崇神天皇の時の四道将軍記事で日本書紀では吉備津彦は記されているが、古事記にはその名がない。何故か。
また、四道将軍の記事は大和大王家の者が日本全国を武力で統一していった有様を表現したものである。と言う説。とそうではなく、四道将軍は大王家の直接の血族ではなく元々その地方の首長的存在であった部族の長をその国を治めることを大王家が認めた(それが大和大王家の統治下に従えたことを意味する)ことを表現した記事である。との説もある。
L大吉備津彦は、大和大王家の血を引く人物か。
割拠して存在していた吉備地方の小国豪族を統一した人物ではあるが、大和大王家とは直接の血族関係にはなかった。その意味では葛城氏も同じ。
吉備氏も葛城氏も当時大王家と実力的にほぼ拮抗する勢力にあったと考えられている。
ところが21雄略天皇の時、物部氏、大伴氏らにより共にその主家が滅ぼされた。
系図はこれ以降改竄を繰り返し下道臣吉備真備の出現により完全に統一されたようになった。元々は、上道臣族が主流。
M元々の系図は大吉備津彦命が元祖で、これから上道国造と下道国造に分かれ、これがさらに備前国上道郡の上道国造、備中国下道郡の下道国造、備前国御野郡の三野国造、備中国小田郡の笠国造、備中国賀夜郡の賀陽国造などに分派した。
また吉備国だけでなく越前国敦賀郡の角鹿国造、駿河国蘆原郡の蘆原国造、豊後国国埼郡の国前国造なども色々な経緯により吉備氏流と呼ばれるようになった。
N「吉備武彦」の娘とされる兄姫は15応神天皇妃となっているが、この姫は日本書紀だけに記事があり、一方16仁徳天皇の妃の一人に「黒日売」という記事内容が非常に類似した人物が古事記のみにあり、古来この二人は本来同一人物ではないかといわれてきた。となると夫である15応神と16仁徳も同一人物であることになる。ここいらも記紀の記事に錯綜があるところであるが、それ以外にも16仁徳と17応神を同一人物にした方が合理的だとかで現在も15応神・16仁徳同一人物説は根強くある。
O印南別嬢と12景行天皇の子供「彦人大兄」の娘「大中姫」は、14仲哀天皇妃である。この間に産まれたのが「香坂・忍熊王」兄弟である。
一方14仲哀天皇には神功皇后との間に15応神天皇がいた。
本来の母親の格から言えば前者の方に王位継承権があった。
ところが、武内宿禰と神功皇后が結託して、九州から神功皇后の子供である15応神天皇(当時は未だ王位についてない)を引き連れて大和へ帰ってきた。
ここで近畿地方を2分する戦いが起こった。「香坂・忍熊王の乱」とされている。
この乱があったことは、史実のようである。
但し、近年の学説では、前王権の王位継承権者と新勢力(後に河内勢力と呼ばれる?)との争いであって必ずしも記紀記述の14仲哀天皇の子供同士の王位争いという位置づけではないらしい。
即ち、14仲哀天皇の実在は疑問。神功皇后の実在も疑問。まして14仲哀の父親である倭建の実在は疑問。13成務天皇の実在も疑問とする中での話である。
10崇神・11垂仁・12景行天皇くらいまでは実在を認めたとしても、それ以後15応神天皇までは疑問とする説強い。
だけど具体的に誰の子供かははっきりしないが、前王朝の血脈を継ぐ王と新勢力との間で「香坂・忍熊王の乱」はあった。考えられているらしい。
 
 参考であるが、中村 修によると乙訓地方もこの2つの勢力に2分され向日市勢力は旧勢力につき長岡は新勢力(河内勢力)につき、勝利した新勢力(河内勢力)がその後この地方の統治権を握り「恵解山古墳」はその首長の墓である可能性を推測している。
 
この乱の中心人物に絡んでいるのが吉備腹の「大中姫」なのである。
古事記ではこの姫の母である「銀王」の系図も記されている。しかし、その系図は明らかに不合理な点が多く筆者も記すことを憚ったので記さなかった。
記紀編纂の時色々な系図をつなぎ合わせたのであろうが、全く整合がとれないものとなっている。
これも記紀を疑問視する学者のネタにつかわれているようである。
P12景行天皇・日本武尊・14仲哀天皇・15応神天皇・16仁徳天皇の辺りは大型前方後円墳時代である。
倭の五王の時代の前辺りである。これが吉備氏の全盛時代と一致しているのである。
この辺りの吉備氏と大王家の系図総てが吉備氏の改竄が加えられているとの説もある。
(591年の18氏の有力豪族からの系図上進の時吉備氏は含まれてない。)
Q7世紀に備後国が出来、8世紀に備前・備中国に分かれ、備前国がさらに分かれ美作国となった。(元々の吉備国は諸説あるが播磨国西の加古川以西、現在の尾道付近が西の端とする備後国までとされる。出雲国との境ははっきりしないが中国山地である。各地に大吉備津彦の足跡を伝承する神社などが現存している。尾道には吉備津神社・山波艮神社などが関係神社である。)
などなど諸説・謎が一杯の氏族である。
 
「御友別」以降については、派生氏族の問題を別にすれば、ほぼどの系図も一致してくる。
吉備津彦神社社家系図、吉備津神社社家系図、白山比盗_主家系図、若狭彦社社家系図なども色々問題点はあるだろうが参考になる。
記紀に記述のある窪屋、前津屋、稚姫なども系図上で確認出来る。
年代的にもほぼ合理的範囲にはいっている。
上道臣は、田狭ー兄君・弟君のところで実質的に切れている。(下道臣・笠臣系図は切れることなく奈良時代末くらいまではある。)
この上道臣の流から「斐太都」のような公的記事が残っている人物があるが、系図は不詳とされている。
これはやはり上道臣が21雄略天皇により滅ぼされたという記紀記述の正しさを示していると判断する。
下道臣は、系図はその後も続き、笠臣と共に天武朝では朝臣姓が賜姓された。
そして遣唐使に派遣された「吉備真備」が766年ついに右大臣になった。
しかし、彼も藤原氏の力には及ばず一代限りの線香花火的歴史上の人物であった。
この勢力は、平安時代にまでは至らなかった。
吉備氏がこれ以降歴史上登場することはない。
 
参考として笠氏についても解説しておきたい。
笠氏は現在の笠岡市付近に発生した氏族である。
歴史的に記紀・万葉集などに顔を出すのは、垂・麻呂・金村・笠郎女くらいである。しかし平安時代以降も下級公家として永続した模様である。
有名なのは「若狭彦社社家」の牟久氏として現在も続いているようである。
特記すべきことなし。
 
吉備津神社の社家賀陽氏は1574年高治を最後として絶家したようである。
吉備津彦神社の大森氏は現在も続いているようである。
備後吉備津神社社家は吉備氏とは直接関係のない丹波姓品治氏で「宮氏」を名乗り武人として活躍したらしい。
 
さて、以上概略を述べてきたが筆者はどのように考えるかを独断と偏見で述べて見たい。 そもそも吉備地方の歴史は、非常に古く、弥生時代に入ってからも海を挟んだ伊予国、讃岐国などと共に海洋文化、朝鮮半島・中国などの新文化の流入、また出雲地方からの文化の流入など、大和地方より早く開けた所であったことは間違いなかろう。
これが弥生時代後期に楯築遺跡の文化を産み、これが大和政権誕生に大きな影響を与えたことであろう。これと古代豪族吉備氏とどのように繋がったかは、非常に難解である。
 筆者は吉備王国といわれるものは、吉備氏の発生以前に存在していたという説に組する。3世紀中ー後半にかけて大和巻向に大和王権の前段階みたいな国が出来、これが前述した、寺沢らのいう吉備・讃岐・筑紫・播磨などの連合体政権だったかどうかの判断は専門家に譲るとして、当時の吉備国が重要な役割を演じたことは、間違いなかろう。
ここから遅くとも4世紀初めには、10崇神王朝が大和に誕生し、その王朝と何等かの血族的関係を有し、かつ旧吉備王国の首長とも血族的な関係を有していた大吉備津彦なる人物がどこかの時点(恐らく3世紀中頃)でこの吉備国の首長となった。と考える。
吉備津神社に残されている伝承をどの程度信用できるかであるが、日本書紀に記された四道将軍「吉備津彦」というのは、吉備国征伐に大和から派遣されたのではなく、既にその時は、彼はこの地の実質的な首長であった可能性が高いとみる。
 楯築古墳の主と中山茶臼山古墳の主の系統は明らかに異なるとみるべきである。
楯築古墳は旧吉備国の首長(温羅・大吉備諸進の子稚武彦???)の墓。
ここら辺りのことが吉備津神社の伝承系図及び古事記の系図から窺える。
大吉備津彦は大和王権の誕生前に繋がる7孝霊天皇と大倭氏娘(倭氏の拠点が淡路島にあったとされ、旧吉備王国と関係があったかもしれない。神武東征時の記事に倭氏の祖である椎根津彦は瀬戸内で活躍しており、吉備国とも関係していることを窺わせる。また彼は吉備海部直氏祖ともされている。大吉備津彦の母は淡路出身者であるとの説もある)の間の子とされている。
大吉備津彦は旧吉備国の首長?(温羅伝説)の娘との間に子供を産んでいる。
ここから上道臣・賀陽臣の流は発生している。これが吉備氏の元祖部分である。
但し、温羅は百済王の血をひく人物で、時代がもっと後代である。との説もある。
何時の時点かは不明であるが、これが若武吉備津彦の流に組み込まれてしまったと考えるべきである。
若武吉備津彦は大吉備津彦と血脈が繋がっているかどうかは不明であるが、少なくともこの二人を異母兄弟とするのは(記紀)実態ではないのではなかろうか。
上記伝承系図では大吉備津彦の子供が若武吉備津彦とも呼んだとのことも伝わっているらしい。実にややこしい。
中山茶臼山古墳(3世紀後半から4世紀初め築造)の主は間違いなく大吉備津彦と言われる人物だと思う。大吉備津彦は実在の人物である。
だからここに吉備津神社を祀り、大吉備津彦を主祭神にしたのである。
正殿には大吉備津彦しか祀っていない理由はここにある。
相殿には確かに若日子建吉備津日子及び多数の関係者が祀ってある。
これを祀った原点は上道臣・賀陽臣である。
日本書紀のような系図(大吉備津彦の血脈は吉備国にはいない)では大吉備津彦を正殿に祀らず、稚武吉備津彦を祀るのが当たり前ではなかろうか。
伝承系図では、大吉備津彦の子供に吉備津彦(又は若武吉備津彦)がいることになっている。10崇神天皇時に四道将軍となったのはこの時か孫の吉備津彦の時かも知れない。
日本書紀の系図のままでは年代的に合わないところがあると前述したが、上のように考えると合理的になる。
元々が吉備国は小さな小国の連合体であったとも言われている。
それが大和の地に巻向などの新体制を造るのに参画し、その縁で一人の人物が吉備の連合国の一つ(東部吉備)に来て多少の争い(温羅などと)はあったかもしれないが吉備全体の再統合をなしとげた。(3世紀中ー後半頃)
新たに大和に誕生した国とも独立した形でである。しかし、両国は友好関係はあった。
この時が大吉備津彦の時代であり、大吉備津彦が新吉備国の創立者的扱いを受けた元である。
そして吉備国の中心地である備中中山に自分の墓を築造し、その麓に自分の子孫である上道・香屋臣が吉備津神社を創建し、それを祀った。
その後に若武吉備津彦と後に呼ばれるようになった人物が産まれ、又は婿養子的に入り、さらに吉備国の体制を強固なものにした。
その子孫から笠臣・下道臣・三野臣と後に呼ばれるようになった氏族が発生した。
吉備武彦・御友別・稲速別の時代は12景行天皇・日本武尊・15応神天皇・16仁徳天皇時代に匹敵する。
記紀には、天皇家と吉備氏の女性との関係記事が頻発する。
この頃は吉備氏は、非常に繁栄し、天皇家と対等の付き合いが出来た時代だっと推定される。
日本書紀記事に15応神天皇が吉備国に行幸された時、接待をした「御友別」にご褒美として吉備5県を分封した。と記されている。これは上述の経過からするとおかしい。
この頃は未だ吉備国は天皇家とはほぼ対等のはず。何を意味しているのか。
確かに日本書紀系図では御友別の子供の代に上道・賀陽・下道・三野と分かれ前代で笠臣が産まれたことになっている。
これは余りに強大になった吉備国の力を削ぐ目的で、その全体を統括する御友別みたいな存在を廃し、それぞれを分割したのではなかろうかとの説がある。
筆者はこれに組する。
即ちこの頃は吉備国は嫡流は上道氏であったが、実力的には既に下道氏が握っていたと見るべきで、既に5県的な下地はあった。
統括する人物もおり血脈的には下道氏であった。
これを実質的に分割したのが大和政権の圧力だったのではなかろうか。
このことを日本書紀は褒美と記したのではなかろうか。
さてここで問題がある。
日本武尊・14仲哀天皇・神功皇后の実在性である。
現在の学説では、ここで王朝が替わったとする説が主流?である。
10崇神ー11垂仁ー12景行 と15応神ー16仁徳ー以降、は別の王朝という訳である。
吉備氏の系図では、この2つの王朝は繋がっている。
吉備氏が非常に重要な役割を演じている。
一方「香坂・忍熊戦争」というのは、現在上述したように史実とされている。
香坂・忍熊王は、前王朝(崇神朝)の正統なる後継者であるとされている。
14仲哀天皇が実在しなかったとすると、その父親は誰か。
これには誰も回答を用意していない。
吉備氏系の母親の子であるとしか言えない。14仲哀天皇に相当する人物はいた。吉備氏とも関係があった。しかし15応神天皇の父ではない。と考えるのではどうか。
しかし、不思議なことに、この新旧勢力の争いに吉備氏が関係したという記事が何処にもない。
むしろ12景行・日本武尊・15応神・16仁徳に関連した記事ばかりである。
葛城氏の場合も同じ傾向である。謎である。
一方15応神天皇が誰の子供なのかも回答がないのである。謎である。
記紀編纂者が練りに練って創った系図である。そう簡単に馬脚が出るようなことしてない。
戦後の学説では、15応神天皇は九州の方からきた新勢力なのだそうだ。
神功皇后も創作であるとしている。
15応神天皇にも本当の両親もおれば、祖先もいたはずである。(武内宿禰と神功皇后の間に産まれた御子であるとの説もあるようだ。この武内宿禰も創作人物とされている。)
それも抹殺したのであろうか。
万世一系の天皇家を作成するためにか。??? 
筆者は現段階では記紀系図に従っておくことにする。
吉備氏系図の方からは、ここで王朝が切れたという証拠が出てこない。
さて、どの時点で下道氏が台頭したかは、はっきりしないが、造山・作山古墳(5世紀初ー中)の主は下道氏の首長であろう。
上道氏は「田狭」の時をもって完全に没落する。しかし、天皇家は「前津屋」も滅ぼしている。これは下道氏である。
即ち21雄略天皇の時(5世紀後半)、吉備氏全体が大和政権から勢力を削がれていったと考える。これは葛城氏の例(葛城氏もここで系図断絶)と一緒である。
天皇家と対等な勢力の駆逐が行われたのである。
裏返せばこの頃は大和政権は、未だ日本列島のほんの一部分しか実質的な統治下にしてなかったとみるべきであろう。
10崇神天皇の四道将軍、日本武尊の西征・東征、12景行天皇の熊襲征伐、14仲哀天皇の熊襲征伐などの記事もそれを裏付けるものである。
その中でも天皇家に友好的ではあるが、完全に組した関係ではなく、あくまで対等関係を主張していたのが葛城氏と吉備氏だったであろう。
その意味で葛城・吉備を打ちのめしたことにより、21雄略天皇の時ほぼ日本の主立った所を組下においたことは間違いなかろう。
これは21雄略天皇が中国に送ったという文書の内容(宋書倭国伝の478年の「倭王武上表文」)に合致するところがある。
さて、これ以後の吉備氏については上述したとうりである。
 
 吉備津神社社家より輩出された「栄西禅師」について若干の解説をする。
栄西は2度に亘り渡宋し、禅宗である臨済宗を修め日本での臨済宗の開祖となった人物である。また日本で初めてお茶の栽培をした人物でもある。
栄西の誕生地は現在の岡山市吉備津とされている。
筆者の母の実家(筆者の誕生地)の近くで旦那寺の近くである。
修行をした「安養寺」は備中足守の近くで現在の岡山市日近で現存する寺である。
開基は空海の甥であるあの「智証大師」(天台宗)である。
また曹洞宗の開基である「道元禅師」は建仁寺での栄西の孫弟子とされている(直接は二人は会ってはいないらしいが)。この道元は乙訓郡久我郷の出身で、現在もその誕生地(村上源氏久我氏・土御門家の屋敷跡)に誕生寺がある。
この道元が乙訓郡海印寺郷(現在の長岡京市奥海印寺)に孟宗竹を1227年に日本ではじめてもたらし「孟宗竹たけのこ発祥の地」とされている。
栄西は京都栂尾でお茶の栽培を、道元は乙訓で孟宗竹の栽培を開始した訳である。
臨済宗の有名寺院は、建仁寺、東福寺、建長寺、円覚寺、南禅寺、大徳寺、妙心寺天竜寺、などがある。
筆者の故郷尾道の家の近くに映画の舞台にもなった「西願寺」があるがこの寺も臨済宗である。その本山は仏通寺という西日本一の臨済宗の寺である。
本稿の吉備氏とは直接関係はないが、我々がいかに古代豪族と現在も関係しあっているかの一端を記したのである。
 
 昔から吉備氏と陰陽道の関係について色々いわれている。これに関し少し触れておく。
吉備真備は、上記吉備郡吉備津の隣町、吉備郡真備町出身とされている。
吉備津神社には「鬼伝説」があり、「鳴釜占い」があった。
真備にも「鬼伝説」がある。
また真備が遣唐使となり中国から「金烏玉兎集」なる陰陽道の聖典を持ち帰り、常陸国筑波山麓で「阿倍仲麻呂」の子孫に伝えようとしたという話もある。
これらにより真備を日本の陰陽道の祖とする古書もある。
岡山県鴨方町・矢掛町には「安倍晴明」伝説が残されている。
晴明は真備の子孫をたずねて備中国に来て、浅口郡里庄町占見に居住したと言われる。
阿部山に居を構え天象観測をしたのが「清明屋敷」で、そこから下道郡の吉備氏のところへ通学したらしい。(両町発行パンフレット「陰陽師安倍晴明ゆかりの地ー阿部山ー」)
これからも、吉備氏と陰陽道は関係ありそうである。
真備と阿部仲麻呂は同じ時に遣唐使として唐に渡り、仲麻呂はついに日本には帰れなかった。真備はこの仲麻呂の縁者に対し色々面倒みたとされる。
それが上記のような晴明伝説に繋がったものと思われる。
陰陽道は「吉備氏」「賀茂氏」「安倍氏」に関係していたようである。
どう繋がっているかは定かではない。
「賀茂吉備麻呂」なる人物もいる。吉備氏とは関係ないが、陰陽道には関係有る。
 
さらに「岡田臣牛養」について解説をしておきたい。
吉備下道臣の流に岡田臣牛養なる人物が見える。
香川県志度町史によると、791年讃岐国寒川郡岡田村(現在の志度町末)の岡田牛養ら20戸の人々に岡田臣姓が賜姓された。牛養は大学の博士に任じられた。とある。
この人物が同じ讃岐出身の「空海」の大学時代の師である。
味酒浄成と牛養は大学の明経科という当時の高級官僚養成機関の教授であった。
特に牛養は同じ故郷出身で秀才であった空海をかわいがったらしい。
ところが空海は「我の習う所は古人の槽粕なり」とし、真の道は仏教の道と判断し、2,3年で退学し、山伏・私度僧となり修行に入った。
即ち牛養らは空海にとっては一種の反面教師になったらしい。
その後空海は叔父の阿刀大足や、佐伯今毛人(大伴氏考系図参照)の助けもあり東大寺戒壇院の具足戒を受け、留学生として、橘逸勢、最澄らと遣唐使として渡唐することになる。
以上が吉備氏関連の系図解説および論考である。
 
5)まとめ(筆者主張)
@吉備氏の真の祖は吉備津神社主祭神である「大吉備津彦命」である。
ここから上道・賀陽氏が派生する。これが本来の元祖及び嫡流である。
但し、大吉備津彦の前に大和王権に関係した人物が旧吉備王国に関与したとの説には一考の価値ありと判断する。(大吉備諸進の子供らの活躍?)
A吉備津神社裏山の中山茶臼山古墳の主は「大吉備津彦」である。
B記紀記載の大吉備津彦と稚武吉備津彦は、共に7孝霊天皇の異母兄弟とし、稚武吉備津彦の血脈から上道・賀陽氏が派生し稚武吉備津彦を吉備氏の祖とする系図には、諸状況から判断して合理性がない。
稚武吉備津彦は大吉備津彦の血脈か否かは判然としないが、どこかで吉備氏の系図に入り下道・三野・笠氏の祖になった。
吉備津神社伝承系図では大吉備津彦の血を引く吉備比売の婿となっている。
C大和政権誕生に関与したであろう旧吉備国の中心地は足守川流域であり(3世紀前半)その後大吉備津彦の時代になり吉備国の中心は備中中山付近(現吉備津神社付近)に移った。
これは茶臼山古墳の築造年代が3世紀末から4世紀初めであるので大吉備津彦の活躍時期は3世紀中から3世紀末と予測される。
大吉備津彦を大和政権から派遣された吉備征討軍の将軍(四道将軍:日本書紀)とする説には組し難い。
大吉備津彦は大和にも関係あり、旧吉備国にも関係があった人物であろう。
大吉備津彦は、旧吉備国の連立小国家のどれかの国の首長系の人物で、大和政権がこの地を統治する以前にこの地の新たな吉備国の王になった人物と思われる。
大和王権とも友好関係は持っていた。
吉備国の旧王家とも婚姻などを通じ融和を謀った。
大吉備津彦が没した後、この地に吉備津神社をその血族が創建し、祖神として大吉備津彦を祀った。
引き続いて稚武吉備彦が現れ、多くの派生氏族を出してくる。
D記紀系図のようになったのは、吉備氏の嫡流(上道氏)が没落し、下道氏ら稚武吉備津彦流が再び頭を出し始める「大化の改新」頃(7世紀)以降であろう。
この辺りで吉備氏内での系図の改竄が行われたと思う。
E吉備氏と天皇家の婚姻関係を見る限り、14仲哀天皇と15応神天皇との間で王朝交替が行われた証拠らしいものはない。
この時代吉備氏は全盛時代を迎えている。
中央で王朝交替が起こる位乱れていたのに、吉備国ではそれとは無関係に繁栄がもたらされたのであろうか。疑問である。
学説「河内新王朝説」には、この段階では組し得ない。
F21雄略天皇の時、吉備氏は上道氏も下道氏も天皇家からの粛正を受け、葛城氏と同様天皇家と対等の関係は保てない状態に追い込まれた。
記紀記事と吉備氏上道氏系図の断絶性・宋書倭国伝記事との整合性あり。
G下道吉備真備が奈良時代の最後に右大臣を勤めたが、ここで吉備氏は歴史上から消えてしまった。
 吉備氏の元祖部分は、幾つかの似たような名前、似たような戦いの伝承が重なり合って複雑になっているようである。
その上に吉備氏内部での勢力関係から意図的改竄もされた節がある。
これがあいまって記紀系図のようなものが編纂時に造られて、現在からみれば非常に解読し難い形になっている。
古墳などのさらなる発掘調査でさらに史実に近づけるものと期待している。
それが日本の誕生の謎を解く鍵の一つにもなるであろう。
 
6)参考文献
・日本の歴史「王権誕生」寺沢 薫  講談社(2001年)
・「乙訓の原像」 中村 修  ビレッジプレス(2004年)
・「日本武尊」 上田正昭   吉川弘文館(1997年)
 など
<吉備氏考追記>
平成17年(2005年)10月7日(金)吉備津神社取材メモ
上記吉備氏考を脱稿後、色々疑問点もあったので直接吉備津神社に赴き社務所で色々伺った。
併せて吉備津神社社家藤井氏のご出身で、歴史学者であり、岡山大学教授をされていた藤井 駿氏の「吉備津神社」という本を紹介された。
吉備津神社に伝承されていることは、この本に主なものは総て掲載されているとのことだった。
・社務所で分かったこと。
@筆者が参考系図として載せた「吉備津神社伝承系図」なるものは、少なくとも備中吉備津神社には残されてないし、伝承もされてない。全く知らないものである。
吉備津神社の有する祭神「大吉備津彦命」に関わる系図のコピーを頂いた。
(参考系図参照)
A「温羅」と「百田弓矢姫」は、全く関係はない。親子なんてとんでもない。
B百田弓矢姫は、大吉備津彦の妃として祀ってあることは、間違いない。
C吉備津神社の創建の時期については諸説ある。藤井先生の本に載っている。
などであった。

・藤井 駿著「吉備津神社」より
@大吉備津彦については、記紀の両方を併記。
その後の吉備津彦の事績として吉備津神社伝承によると、「吉備の中山」の麓に「茅葺宮」を作ってこれに住み、吉備国の統治にあたったが、281才の長寿を保って、ついにこの茅葺宮に薨じ御墓は、「吉備中山」のいただきの茶臼山(海抜160m)に葬られた。という。
A大吉備津彦の子孫は、記紀および「新撰姓氏禄」通り。それ故吉備地方に蕃衍した古代の吉備の豪族はいずれも弟の若日子吉備津彦の後裔である。
としている。
B内宮社に祀られている百田弓矢姫は吉備津彦夫人であるとし、土豪の楽々森彦命の娘と記してある。
C正宮の創建に関しては筆者本文とほぼ同一。諸説併記。
D吉備津神社社家についての伝承
・賀陽氏:出自は、吉備津神社を創建したと伝承されている、吉備津彦から五代の孫、加夜臣奈留美命の子孫で、この地方の大豪族(代々香夜国造家であり神官)。吉備津神社筆頭社家であったが、江戸時代に絶家した。
・藤井氏:出自は、備中国土豪神「楽々森彦命」*である。
吉備津彦の山陽道平定時勲功があったとされる。賀陽氏に次ぐ社家。 一説では大中臣藤井氏の出である。
・堀家氏:出自は、「留王臣命」(配神の一人)*である。
これも吉備津彦の功臣。
・河本氏:出自は、吉備津彦の功臣の一人「叔奈麿 」(末社の祭神)である。
等と記されてある。
E最大の謎である古事記記述の大吉備津彦は上道氏祖ということには触れていない。
*温羅伝説登場人物で大吉備津彦命の功臣。桃太郎の鬼退治 (筆者注)
・犬飼部犬飼健命     イヌ
・猿飼部楽々森彦命    サル
・鳥飼部留玉臣      キジ
 
<追記論考>
吉備津神社に直接行って、疑問に思っていたことの幾つかがはっきりしたことは、実に有意義であった。
また吉備津神社が発行している元祖部分の系図も非常に興味あるものであった。また藤井 駿氏の吉備津神社内部まで知り尽くした人の吉備津神社に関する多くの伝承についての記述も興味深いものであった。
以上に関し筆者の考えを下記に示す。
@本稿で参考系図として載せた吉備津神社伝承系図というものは、筆者はその出典については明確ではないが、数年前にインターネット上で吉備地方の郷土史をご研究されている方の情報として入手したものであった。
これは今回の確認事項として吉備津神社で伝承されているものではないことがはっきりした。
何処にこの系図の根拠があるのか現在は、不明である。
A百田弓矢姫についても藤井氏の文献および吉備津神社での面談で、温羅とは無関係であることが、はっきりした。
但し、温羅伝承とは無関係ではなさそうである。温羅退治の際の吉備津彦の功臣「楽々森彦」の娘である。と藤井文献には記されており、かつ社家の藤井氏自身が楽々森彦を祖としているとの伝承があることから、吉備津彦の妃として祭神の一人として祀られている理由も理解出来る。
但しこの妃に子供があったかどうかは不明である。
B今回の調査でも藤井文献でも吉備津彦の子孫から上道臣が出たという古事記の記述を確認出来なかった。
吉備津神社系図では、日本書紀と同じく上道臣は若日子建吉備津彦の流より出たことになっている。
また若日子建吉備津日子は吉備津彦の腹違いの弟となっている。
筆者の本稿で記した素朴な疑問は、回答が得られなかった。
何故吉備氏は、自分の真の祖ではない大吉備津彦を主神として祀り、配神の一族が営々として主神を祀ったのであろうか。
社務所の若い神官にも聞いてみた。彼等も勿論分からないとのことだった。
この辺りこそ吉備氏の謎を解く鍵があるようでならない。
その意味で筆者が本稿の参考系図で示した伝承系図に興味を持ったのである。
C吉備津神社系図は、古事記と日本書紀の系図を併せて整合をとったようなものになっている。
この中で正宮相殿祭神が、注目される。これは何を暗示しているのであろうか。
いつ頃からこのようになったのであろうか。
Dこの系図でも7孝霊天皇ー御友別(応神ー仁徳時代)まで4代しかない。
天皇家は直系代数で記紀上では
7孝霊ー8孝元ー9開化ー10崇神ー11垂仁ー12景行ー日本武尊ー14仲哀ー15応神ー16仁徳と8代以上存在している。これは明らかに不合理である。
この点は本稿で述べた通りである。
藤井文献は明らかにこの部分に立ち入ることを避けていると判断する。
E5世紀頃に吉備に出現した大王墓規模の前方後円墳の主は誰か。
御友別が匂う。この人物の正統性を示すために吉備津彦の系図に、この辺りで入り込んだのではなかろうか。
勿論この人物も吉備氏ではあっただろうが、嫡流ではないのに嫡流としたのではないだろうか。
これは、後に主流となる下道氏の創作があったのではなかろうか。
筆者は上道氏こそ嫡流で、それから分派した賀陽氏が自分等の直接の祖である大吉備津彦を祭神として祀ったと考えるが。
上道氏祖仲彦が正宮相殿祭神となっており、下道氏祖稲速別が正宮西笏御崎というさらなる脇神として区別した理由があるのではないだろうか。
F吉備津神社は吉備氏の総合氏神なので、これ以上の史実をあぶり出すのは無理であろう。
 
筆者は、本稿で述べた下記主張に変更はない。
吉備氏は21雄略天皇頃までは、葛城氏と同様に、大王家と拮抗する大豪族であり、大王家とも婚姻関係が保たれていたことは史実であろうと推定している。
上道臣がその主体であったであろう。15応神ー16仁徳時代には、大王家に優るとも劣らない規模の前方後円墳を築き、その勢力の強大さを大王家と競っていたように思えてならない。
即ち大王家はこの頃は未だ、葛城、吉備氏らを完全に統治してない。
記紀に記された15応神天皇から御友別が吉備の国5カ国を下賜されたという記事は納得出来ない。そうではない。
その勢力が余りに強いので、元来、大吉備津彦が領有した吉備国を逆にここで分割させられたという説に組みしたい。
そして、21雄略天皇により少なくとも上道臣は滅ぼされ、系図もここで切れた。その他の吉備氏(下道臣、笠臣ら)は、その後も命脈を保ち、本稿に示したように、再興されていくのである。
それらの勢力の何処かで本来の吉備氏の系図に改竄又は、併合がされたのではなかろうか。
(2005-11-10)
 
参考文献
・吉備津神社 藤井 駿  岡山文庫(初版1973年)