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44.藤原式家考(参考:藤原京家・「長岡京」について) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1)はじめに
当初,藤原氏については既稿の35「藤原氏元祖考」だけにしようと考えていた。古代豪族の中で歴史的史実として最終的に生き残ったのは、藤原氏だけだといっても過言ではない状態になったからである。しかも,その藤原氏に関しては、多方面から研究がされており、多数の著書・文献の類があり筆者のようなアマチュアが,ごちゃごちゃ書くことを憚る気持ちがあったからである。ところが、この大豪族藤原氏を理解する上で、謎の部分が多数あることに気づいたのである。
筆者は,現在京都府長岡京市に住んでいる。50桓武天皇は平城京で即位され、急遽山背国乙訓郡の長岡邑に遷都され長岡京とされたのである。そして10年程でさらに長岡京の真北に約10Kmの所にある山背国葛野郡・愛宕郡に跨がった地域に遷都し、これを平安京としたのである。
発掘調査の結果、長岡京は当初,東西4.3Km 南北5.3Km とされたが、その後の調査で南北がさらに北へ数100m延びているとのことである。ちなみに元来の平安京の規模は東西4.5Km 南北5.2Kmであったとされているのである。
長岡京の規模が,いかに本格的なものであったかを知る事ができるのである。
筆者は既稿20「古代天皇家概論U」(38天智天皇−50桓武天皇)および35「藤原氏元祖考」の中で、ある程度平城京末期ー長岡京ー平安京初期の日本の歴史の一大変動期の様子を述べてきたが、人物論的には非常に不十分であり、特にその期間の重要氏族である藤原式家の動き、京家の状況、南家の状況、北家の状況については殆ど記述していなかったのである。古代豪族藤原氏と言ってもこの時代になると、不比等の子供の4兄弟の各流れが競い合って、各々独立した豪族のような規模になっており、各家毎にその動きを知る必要があるのである。それほど、それ以外の古代豪族の勢力が低下してきたのである。
本稿では、その中で49光仁天皇・50桓武天皇の擁立に活躍した「式家」に的を絞って記述したいのである。その蔭となって歴史上から消えていった「京家」についても参考記述をしたい。
併せて僅か10年ほどで歴史的に謎の多い、長岡京時代がどんな時代であったかを推論してみたいのである。
2)人物列伝
藤原式家の元祖は既稿「藤原氏元祖考」で記した様に藤原不比等の3男「宇合(うまかい)」である。宇合には6名の男子がある。その中で特に良継・百川・蔵下麻呂・清成の流れを分けて列伝を記したい。最も長い系図を残したのは蔵下麻呂の流れである。
・藤原鎌足
・不比等
2−1)宇合(694−737)
@父:不比等 母:蘇我娼子<連子
A3男 室:蘇我倉山田石川国威大刀自<石川麻呂 子供:広継・良継
室:久米奈保麿女若売 子供:百川
室:佐伯家主姫<徳麿 子供:蔵下麿
室:小治田牛養女 子供:田麻呂
室:高橋阿禰女<高橋笠朝臣 子供:清成
その他女 子供:綱手・北家魚名室(末茂母)・南家巨勢麻呂室 掃子(綱継母説?)
別名:馬養
B 藤原「式家」祖。宇合が式部卿をしていたことから付いた名称だと言われている。
C正三位・参議・式部卿兼太宰帥
D716年遣唐副使 渡唐。初出。
E737年他の3兄弟とともに、天然痘で没。
2−2)広嗣(?−740)
@父: 宇合 母: 蘇我倉山田石川国威大刀自<石川麻呂
A長男 子供:行雄
B737年従五位下(又は従四位上)。
C738年太宰少弐(又は大弐)に左遷。これを不満とし、吉備真備・僧玄ムを誹謗。左大臣橘諸兄は謀叛と判断。45聖武天皇から召喚の詔勅。
D740年太宰府で弟「綱手」ら1万人の兵力を挙げて反乱。(広嗣の乱)大野東人らに鎮圧され、処刑された。
G式家はこれにより、46孝謙天皇ー48称徳天皇にかけて、南家(豊成・仲麻呂) 北家(永手)らの後手に回る時代が続いた。
H死後、豊後国鏡明神に祀られた。
2−3)行雄
@父:広嗣 母:不明
A子供:不明
Bこの流れは系図上はここで終わり。
2−2)良継(716−777)
@ 父: 宇合 母: 蘇我倉山田石川国威大刀自<石川麻呂
A次男 別名:宿奈麻呂
室: 安部古美奈(?−784)<粳蟲<島麿<広庭<御主人 女官 子供:乙牟漏
室:蓼原氏 子供:能原長枝
その他子女:詫美 藤原楓麻呂室園人母 人数:藤原鷲取室 藤嗣母
藤原家依室・藤原永手室 ・諸姉(?−786)式家百川室 旅子母
B従二位・内大臣 51平城天皇・52嵯峨天皇外祖父
C740年広嗣の乱連座。伊豆流罪。746年従五位下。
D非遇後764年仲麻呂の乱。詔勅によりこれを討つ。766年従三位
E770年参議。45称徳天皇没。北家永手と白壁王擁立。正三位中納言。良継に改名。
F771年左大臣永手没。藤原一門の中心人物となる。内臣。右大臣:大中臣清麻呂
G777年内大臣。没。
2−3)詫美(やかみ)(?−785?)
@父:良継 母:不明
A子供:無?
B従四位下。
C772年従五位下。776年越前守従五位上。
D長岡京で賊に襲われ死亡(尊卑分脈)。他に男児が無く、この流れはここで断絶。
E785年の式家種継暗殺事件と関連有るかどうか不明。
・乙牟漏(おともろ)(760−790)
@父:良継 母:安部古美奈<粳蟲<島麿<広庭<御主人 尚侍兼尚蔵
A夫:50桓武天皇 子供:51平城天皇・52嵯峨天皇・高志内親王
B783年50桓武天皇皇后
C774年安殿親王出産。785年安殿親王立太子。
D786年神野親王(52嵯峨天皇)出産。789年高志内親王出産。
・諸姉(もろね)(?−786)
@父:良継 母:安部古美奈説?
A夫:式家百川 子供:旅子(桓武天皇妃 淳和天皇母)帯子(平城天皇妃)
B786年従三位 尚縫
C759年旅子出産。
D769年官位従五位下。政治に関与。道鏡失脚後良継百川を女官として支える。
E777年良継没779年百川没。その後従兄弟にあたる種継とともに式家を支える。
F783年異母妹?乙牟漏が桓武天皇夫人皇后になる。その前後に娘の旅子も桓武天皇の後宮に入る。785年種継暗殺事件。786年旅子が桓武天皇夫人になる。没。
2−2)清成(716?−777?)
@父:宇合 母: 高橋阿禰女?<高橋笠朝臣
A3男?室:秦朝元女 子供:種継 安継?
不明女:子供:正子(桓武天皇女御)
B活動記録全くなし。
C兄広嗣の乱に連座か?
2−3)種継(737−785)
@父:清成 母: 従五位下 秦朝元女
A長男 室:粟田道麻呂女 子供:仲成
室:山口中宗女 子供:山人
室:雁高佐美麻呂女 子供:縵麻呂
室:式家継縄女 子供:安継?清成子供説
室:式家縄主女
母不詳子供:藤生・世嗣・井出湯守・薬子・東子
B正三位・中納言
C766年従五位下。781年従四位下、
D781年50桓武天皇即位後、従四位上、782年参議。783年従三位。784年中納言桓武天皇の信任厚かった。式家良継・百川没後、式家代表者となった。
E784年長岡京遷都。種継が提唱者、北家小黒麻呂・佐伯今毛人・紀船守・大中臣子老
坂上苅田麻呂らと長岡を視察。造宮使。秦氏の協力秦足長、大秦宅守叙爵。
F785年種継暗殺事件。桓武天皇不在中。大伴竹良、継人、佐伯高成ら逮捕。大伴家持首謀者説。皇太弟早良親王廃嫡。配流。死亡。
Fこれにより式家は中心人物を失った。
2−3)安継(?−?)
@父:清成または種継 母:継縄女?
A生母不明子供:時継・賀備能・常江
B従五位上・周防守
C810年薬子の変連座 薩摩権守に左遷。829年赦免後従五位上。
2−4)仲成(764−810)
@父:種継 母:粟田道麻呂女
A長男 室:笠江人女
生母不詳子供:藤主
B従四位下・参議
C785年父の死により従五位下。
D797年従五位上、798年正五位下、801年従四位下。
E平城朝では妹の尚侍薬子との関係もあり、重用された。
F807年伊予親王事件にも関与。809年公卿。
G807年51平城天皇が譲位。52嵯峨天皇即位。仲成・薬子兄妹は平城上皇と平城京に移った。
H810年参議。薬子の乱発生。射殺。
I人望は著しく悪かった。
2−4)藤生
@父:種継 母:不明
A子供:元利麻呂・登美麻呂
B従五位下大隅守
2−5)藤主
@父:仲成 母:不明
A子供:万侶
2−6)元利麻呂
@父:藤生 母:不明
A子供:雅延
B従五位下。太宰少弐
2−4)山人(?−?)
@父:種継 母:山口中宗女
A室:菅野真道女 子供:管雄
生母不明子供:行雄・長常
B正五位下。刑部卿
C804年従五位下。808年従五位上伊予守。827年正五位下。
2−5)管雄(?−?)
@父:山人 母:菅野真道女
A室:伴氏女 子供:佐世
B正五位下・民部大輔
C844年従五位下。863年正五位下。
D藤原氏の儒士の祖。
2−6)佐世(847−898)
@父:管雄 母: 伴氏女
A室:藤原忠岳女 子供:文貞
室:従四位下住蔭女 子供:文材
室:菅原道真女 子供:文行
B従四位下。右大弁
C儒者「菅原是善」の門下。877年従五位下。文章博士。大学頭。887年宇多天皇時藤原基経を関白に任じる件で発生した「阿衡の紛議」の基となった見解を示した。891年陸奥守。中央から排斥された。
2ー7)文貞(866−927)
@父:佐世 母:従五位上藤原忠岳女
A子供:後生・直生・斯生
B正五位上。式部大輔、文章博士。
Cこの流れは地方官として永続する。
2−7)文材
@父:佐世 母: 従四位下住蔭女
A子供:
B従五位下尾張守
2−7)文行
@父:佐世 母:菅原道真女
A子供:惟貞・家貞
B阿波守
2−4)縵麻呂
@父:種継 母:不明
A子供:貞成・城成
B不明
2−5)貞成
@父:縵麻呂
A不明
B従五位上
2−4)世嗣
@父:種継 母:不明
A子供:永峯
B従五位下伊勢守
2−5)永峯
@父:世嗣 母:不明
A子供:釈之
B刑部大丞
2−6)釈之
@父:永峯 母:不明
A子供:百男
B従五位下 筑前守
2−7)百男
@父:釈之 母:左京大進菅野延貞女
A不明
B従五位下 安芸守
・薬子(?−810)
@種継 母:不明
A夫:式家縄主 子供:女(平城天皇妃)
B東宮女官 806年尚侍
C51平城天皇・藤原葛野麻呂らと密通。50桓武天皇からも注意を受けた。
D兄「仲成」と共謀して平城京への遷都を謀る。810年薬子の乱自殺。仲成誅殺。
2−2)田麻呂(722−783)
@父:宇合 母:小治田牛養女
A5男 子供:田上二十七代
B従二位・右大臣
C740年広嗣の乱連座。隠岐国配流。
D764年仲麻呂の乱後、兵部卿。766年従四位上参議。
E各種政争には参画しなかった。780年正三位中納言。781年大納言。
F782年北家魚名左大臣失脚。従二位右大臣。没。
2−2)百川(732−779)
@父:宇合 母: 久米奈保麿女若売
A8男 別名:雄田麻呂
室:式家諸姉<良継 子供:旅子(桓武天皇夫人:淳和天皇母)帯子(平城天皇妃)
室:伊勢大津女 子供:緒嗣・緒業 産子?(761−829)(光仁天皇妃)
B従三位・参議 河内職大夫
C759年従五位下。
D769年宇佐八幡宮神託事件 北家永手と共に道鏡の皇位継承阻止派。和気清麻呂支援。
E770年称徳天皇没。左大臣永手、参議良継らと右大臣吉備真備に反対し、白壁王を擁立「光仁天皇」。正四位下。771年太宰帥・参議。百川に改名。光仁天皇の信頼大。
F772年井上皇后他戸皇太子廃后・廃太子に関与?
G773年山部王(桓武天皇)立太子に関与。
H779年従三位式部卿。没。
I備後国御調郡(現、広島県三原市)の御調八幡宮男神座像は百川がモデルか?この八幡宮は和気清麻呂姉「法均」の流刑地、法均は宇佐八幡宮をこの地に勧請したとされている。
・旅子(759−788)
@父:百川 母:式家諸姉<良継
A長女 夫:50桓武天皇 子供:53淳和天皇
B785年50桓武天皇の後宮に入る。786年大伴親王(53淳和天皇)出産
2−3)緒嗣(774−843)
@父:百川 母:伊勢大津女
A長男 室:蔵垣人山女 子供:家緒・春津
生母不詳:本緒・忠宗・正子?(桓武天皇女御)・藤原常嗣室
B正二位・左大臣
C5才で父と死別。791年従五位下。
D異例の昇進で802年29才で参議。桓武天皇の特別な思いがあった。
E805年歴史上有名な緒嗣と参議菅野真道の桓武天皇前での論争。徳政論争。
緒嗣「蝦夷平定・平安京建設を止めるべき」
真道「今までの天皇の施策を支持」 桓武は緒嗣の意見に従った。
F平城天皇の時809年東北へ赴任。兵を動かさなかった。
G810年薬子の乱により、緒嗣は個人的には全く関与は無かったが、式家全体の政治的地位の著しい低下を招いた。緒嗣は参議に復帰はしたが北家冬嗣が蔵人頭に就任し814年には従三位となり緒嗣の地位を追い抜いた。
H821年大納言。新撰姓氏録・日本後記の編纂。
I825年右大臣。しかし、長男家緒に先立たれ、北家冬嗣の後継者長良・良房の台頭著しく晩年は842年の「承和の変」に遭遇し、一族の期待の星であった中納言式家吉野が流刑にあった。
J843年正二位左大臣になったが、病死。 これ以降式家から緒嗣以上の政治家は
輩出しなかった。北家との勢力の交替の時期であった。
2−4)家緒(799−832)
@父:緒嗣 母:蔵垣人山女
A長男 子供:
B従四位上、左兵衛督
C822年従五位下。
D823年従兄弟の淳和天皇即位。826年従四位下。831年蔵人頭・伊予守。
E832年従四位上没。 若年でのこの急死が式家にとっては致命傷となった?
2−4)本雄(?−876)
@父:緒嗣 母:不明
A別名:本緒 子供
B従四位上、大和守
C831年従五位下。
2−4)春津(808−859)
@父:緒嗣 母:蔵垣人山女
A次男 室:紀御依女 子供:枝良
生母不詳子供:常氏・常仁・常数・在数・藤原文弘又は興邦室
B従四位上・刑部卿。
C831年従五位下。843年従四位下 地方官。父の後継者扱い。
2ー5)枝良(845−917)
@父:春津 母:従五位下紀御依女
A八男 室:息長息継女 子供:忠文
生母不明子供:忠舒・忠家・忠衡
B従四位上・参議
C887年従五位下。913年69才で従四位上参議。修理大輔。
2−6)忠文(873−947)
@父:枝良 母:息長息継女
A三男 子供:滋望・公時?
B正四位下参議
C904年従五位下。
D926年従四位下摂津守国司歴任
E939年参議。940年平将門追討の将軍になる。到着前に平貞盛、藤原秀郷らにより
鎮圧されていた。
F941年藤原純友の乱。追討将軍。
2−7)滋望
@父:忠文 母:不明
A子供:正衡
B従五位下 備後守
2−7)公時?
@父:忠文 母:不明
A子供:遠藤為方ー頼恒ー為助ー為長(茂遠)ー盛遠(文覚)ー盛実ーーー
B5代後に文覚を輩出。武家遠藤氏として永続する。諸説あり。
2−12?)文覚(1139−1203)
@父:為長 左近将監茂遠 説 母:不明
A別名:遠藤盛遠 子供:盛実 弟子:上覚、孫弟子:明恵
B平安末期ー鎌倉時代初期の武士・真言宗の僧。神護寺中興の祖。
C鳥羽天皇の皇女上西門院に仕え、19才で出家。
D高雄神護寺の再興を後白河天皇に強訴。伊豆に配流。伊豆に配流中の源頼朝と交流。
E頼朝が征夷大将軍在任中は幕府の要人として活躍。
Fその後は色々あったが、鎮西で客死。この系図には色々異説がある。
G平家物語・吾妻鏡・源平盛衰記などにその活躍記事がある。どれが史実かは判然としていない。平家物語の熊野荒行の記事有名。既稿「穂積氏考」参照。
H武家遠藤氏の出自についての諸説:藤原式家百川流説。藤原南家説。嵯峨源氏渡辺氏流説・桓武平氏千葉氏流説。などあり、系図も多種あるが遠藤盛遠(文覚)を祖としており
その前は判然としていない。
2−3)緒業(779−842)
@父:百川 母;従三位伊勢大津女
A子供:
B従三位・非参議
C800年従五位下。
D823年淳和天皇即位。826年従三位。
2−2)蔵下麻呂(734−775?)
@父:宇合 母: 佐伯家主姫<徳麿
A9男 室:粟田馬養女 子供:縄主
室:乙訓女王<掃守王 子供:綱継(縄継)
その他女:子供:宗継・網主・浄本・八綱・清綱・姉子(綱継室)・南家是公室
B従三位・参議
C763年従五位下少納言
D764年仲麻呂の乱追討軍将軍 従三位に躍進。
E770年称徳天皇没。左大臣永手らと光仁天皇擁立。
F774年太宰帥・参議 775年42才で没。
2−3)縄主(ただぬし)(760−817)
@父:蔵下麻呂 母:粟田馬養女
A長男 室:式家薬子<種継 子供:貞本・貞吉・安殿皇子妃
室:従五位下清正女 子供:貞庭
B従三位・中納言
C783年従五位下。
D798年参議800年皇太子安殿親王春宮大夫。
E806年平城天皇即位。従三位太宰帥
F810年薬子の乱では連座を逃れ、812年中納言。
2−4)貞本(?−?)
@父:)縄主 母: 式家薬子
A室:橘島田麿女 子供:正世・正峯
B正五位下・大蔵大輔
C808年従五位下。810年薬子の乱で連座。
D833年赦免。846年従五位上。853年正五位下。
2−5)正世(?−?)
@父:貞本 母:橘島田麿女
A室:山背氏女 子供:興範
生母不詳子供:真房・興氏・真湛
B従五位上・因幡介
C842年従五位下。承和の変に連座。安芸権介。847年恩赦。849年肥後守
D861年因幡介
2−6)興範(844−917)
@父:正世 母:山背氏女
A9男 室:藤原有恒女 子供:公葛
B正四位下参議
C883年従五位下。筑前守
D902年従四位下。907年延喜格編集参加。911年正四位下参議兼太宰大弐
2−7)公葛
@父:興範 母:不明
A子供:仲遠・仲文・仲陳
B従五位上信濃守
2−8)仲文(923−992)
@父:公葛 母:不明
A子供:聡亮
B正五位下。歌人 36歌仙の一人。清原元輔らと交流。
C冷泉天皇の側近。加賀守など地方官も歴任
2−5)正峯(?−?)
@父:貞本 母:橘島田麿女
A子供:在興
B従五位下肥後守
C842年承和の変連座。849年従五位下。
2−6)在興
@父:正峯 母:不明
A子供:養子:正倫(実父:興範)
B正6位上
2−7)正倫
@父:興範 養父:在興 母:薩摩守阪合部春恒女
A子供:合茂(令茂)
B従五位上越後守
2−8)合茂(令茂)(?−1101)
@父:正倫 母: 安部氏女
A室:源等女子供:敦信
B従五位下・因幡守
2−9)敦信(?−?)
@父:合茂 母:源等女
A室:橘恒平女 子供:明衡
B歌人。正五位下。山城守。
C円融天皇時文章生。敦良親王の読書始列席。式家の院政時の儒文確立。
2−10)明衡(989−1066)
@父:敦信 母:橘恒平女
A室:平実重女 子供:敦基(1046−1106)敦光
養子:明業<菅原明任 子供多数。
B儒学者・文人 従四位下右京大夫。
C1032年文章得業生になるための試験に合格。
D後冷泉天皇時文章博士・大学頭などで活躍。
2−11)敦光(1062−1144)
@父:明衡 母: 平実重女
A室:源親長女 子供:有光(1099−1177)
室:大中臣輔清女 子供:長光・成光(1111−1180)邦光
生母不詳の子供:多数。
B正四位下式部大輔
C兄敦基の養子。
D1098年官吏大内記文章博士大学頭として活躍。
E堀河・鳥羽・崇徳朝侍読。参議にはなれなかった。
2−12)長光(1103−1175)
@父:敦光 母:大中臣輔清女
A子供:光経・光輔など
B正四位下。陸奥守・文章博士
2−12)成光(1111−1180)
@父:敦光 母:大中臣輔清女
A4男 室:藤原茂明女 子供:季光
室:藤原能兼女 子供:康成
室:安部広賢女 子供:成宗
生母不明子供:能成・敦季・親成・成永・安成
B儒学者・文章博士
C1137年初出。1142年蔵人補任1156年正五位下。
D1178年九条兼実と文談。
2−13)安成
@父:成光 母:不明
A子供:成倫・光兼・成兼 別名:成信
B大学頭
2−14)光兼
@養父:長倫 実父:安成(成信) 母:不明
A以下長倫の項参照
2−13)光輔
@父:長光 母:不明
A子供:長衡・長倫
B文章博士
2−14)長倫(1173−?)
@父:光輔 母:不明
A次男 子供:養子:光兼<安成(成信)
養子:基長(?−1289)<正四位下大弼保綱
B正三位・非参議
C1242年出家
2−15)光兼(1194−1265)
@父:安成 養父:長倫 母:不明
A子供:兼倫
B従二位・非参議
C1246年従三位
2−16)兼倫(1227−1299)
@父:光兼 母:不明
A子供:光顕・家倫・敦継(?−1312)(実父:藤原則俊)・倫光・
B正二位・非参議
C1288年従三位
2−17)家倫(1293−1359)
@父:兼倫 母:三条実平女
A子供:兼俊
B従二位非参議
C1343年従三位。
2−18)兼俊(?ー1390)
@父:家倫 母:不明
A子供:
B正三位非参議
C1373年従三位。
2−3)浄本(770−830)
@父:蔵下麻呂 母:不明
A9男 子供:
B従三位・大蔵卿・非参議
C811年従五位下。
D823年淳和天皇即位。従四位下。828年正四位下蔵人頭。大蔵卿。
E830年従三位。
2−3)網主
@父:蔵下麻呂 母:不明
A子供:吉緒
B従五位上
2−4)吉緒
@父:網主 母:不明
A子供:近氏・氏影・氏助・氏江など 従五位下クラス
B従五位下
2−3)八綱
@:蔵下麻呂 母:不明
A子供:清澄(従五位下・備中守)
B従五位上
2−3)清綱
@:蔵下麻呂 母:不明
A子供:定代・定挙 従五位下クラス
B従五位上豊後守
2−3)綱継(763−847)
@父:蔵下麻呂 母:乙訓女王<掃守王
A5男 室:式家姉子<蔵下麻呂 子供:吉野 別名:縄継
生母不詳子供:吉永・承吉
B正三位・参議
C803年41才で従五位下。823年53淳和天皇即位、従四位上左兵衛督。
D825年参議。828年官職を子供の吉野に譲る。831年正三位。
E842年の「承和の変」に遭遇。
2−4)吉野(786−846)
@父:綱継 母:式家姉子<蔵下麻呂
A長男 子供::近峯・真峯(従五位下)・近主・良近・延命
B正三位・中納言
C淳和天皇に尽くした一生。819年従五位下。駿河守。
D823年淳和天皇即位で都へ帰り、側近となり、836年蔵人頭。827年従四位下。
E828年参議。832年従三位。その後正三位中納言。840年淳和上皇没。政治の第1線を引き、上皇の息子で皇太子の恒貞親王に尽くそうとしたが、54仁明天皇から慰留され、中納言に留まった。842年「承和の変」勃発。謀叛の疑いで恒貞皇太子は廃太子。吉野は太宰員外帥。845年それも解任され、山城国に幽閉。病死。
2−5)近主(?−?)
@父:吉野 母:不明
A三男 生母不明子供:後世・本行
B従五位上・土佐守
C839年従五位下。
E842年承和の変で連座。太宰員外帥。856年従五位上。
2−6)後世
@父:近主 母:不明
A子供:高綱
B無官
2−7)高綱
@父:後世 母:土佐守橘最雄女
A子供:公方・公将・公康 別名:高堪
B従四位下右京大夫、近江守
2−8)公方
@父:高綱 母:不明
A子供:為文
B従四位下。文章博士
2−9)為文(?−1001)
@父:公方 母:不明
A子供:義忠
B従五位下大和守
C8代後まで続く系図あり。
2−5)近峯
@父:吉野 母:不明
A室:藤原真夏女 子供:玄行(従五位下)
B従五位下刑部大輔
2−5)良近(823−875)
@父:吉野 母:不明
A四男 子供:高用・清和天皇妃
B従四位下・神祇伯
C861年従五位下。清和天皇側近。
2−2)綱手(?−740)
@父:宇合 母:不明
A4男?室:秦朝元女 子供:管継
B内舎人?
C740年広嗣の乱参戦。誅殺。
2−3)管継(?−791)
@父:綱手 母: 秦朝元女
A子供:真野麻呂・葛守・葛成・宗成
B従四位下右京大夫
C773年従五位下。783年従五位上。789年従四位下右京大夫。高野新笠葬儀司
D790年藤原乙牟漏の葬儀の御葬司。
2−4)真野麻呂
@父:管継 母:不明
A室:中臣継丸女 子供:豊仲(従五位下)
B従五位上、周防守。6代後までの主に従五位の位の地方官の系図あり。
参考)3)藤原京家人物列伝
3−1)麻呂(695−737)
@父:不比等 母:五百重娘(不比等異母妹)
A室:大伴坂上郎女<大伴安麻呂女
室:因幡国造気豆女(因幡国八上郡采女)子供:浜成
室:当麻氏 子供:百能
生母不明子供:綱執・勝人
B従三位・参議・藤原京家元祖。歌人 京家:麻呂が京職大夫に任じられたことによる。
C717年従五位下。729年長屋王の変後従三位。731年参議。
D737年天然痘に罹り没。43才。
3−2)浜成(724−790)
@父:麻呂 母:因幡国造気豆女(因幡国八上郡采女)
A嫡男 室:多治比県守女 子供:継彦
生母不明子供:永谷・臣彦(正6位上)・大継・承之(従五位下)・豊彦(従五位下)
・法壱(氷上川継室)
B従三位・参議 歌人
C751年従五位下。
D764年仲麻呂の乱で孝謙上皇につき、従四位下。772年49才で参議。
773年藤原百川に対抗。光仁天皇の皇太子他戸親王の後任皇太子に稗田親王を推挙。
776年従三位。781年桓武天皇即位。太宰帥に任じられたが、(桓武天皇より)降格を命じられた。
782年娘の夫である氷川川継が乱を起こし、連座し参議解任。太宰府で没。
3−3)継彦(749−828)
@父:浜成 母:多治比県守女<県守<嶋
A3男 子供:広敏(?−837)清敏・俊敏(?−848)貞敏
B従三位・刑部卿
C780年従五位下。782年川継の乱に連座。
D822年従三位。
3−4)貞敏(807−867)
@父:継彦 母:不明
A6男 子供:良春・晨省
B従五位上・掃部頭 琵琶の祖
C838年遣唐使渡唐。琵琶の名人から琵琶を教わる。名器:玄象・青山を持ち帰る。
D842年従五位下。雅楽頭
3−5)良春
@父:貞敏 母不明
A子供:保臣
B従五位上
3−6)保臣
@父:良春 母:不明
A子供:長胤
B無官
3−7)長胤
@父:保臣 母:不明
A子供:兼親
B無官
3−8)兼親
@父:長胤 母:不明
A子供:
B従四位上加賀守
3−4)広敏
@父:継彦 母:不明
A子供:興嗣
B従四位上太宰大弐
3−5)興嗣
@父:広敏 母:不明
A室:貞元親王女 子供:忠房
B正五位下右京大夫 琵琶名手
3−7)忠房(?−929)
@父:興嗣 母:貞元親王女
A室:兵衛命婦藤原高経女 子供:親衛(従五位下肥後守)
生母不明子供:千兼・親公
B従四位上・右京大夫 中古36歌仙の一人。
C925年従四位上
3−8)千兼
@父:忠房 母:不明
A子供:
B従五位下大和守
3−3)大継(?−810)
@父:浜成 母:不明
A子供:高雄・豊主・豊継(豊前守)・豊吉・賀登理
B従四位上神祇伯
C川継の乱 連座?
・河子(?−838)
@父:大継 母:不明
A夫:桓武天皇 子供:仲野親王他1男4皇女
B桓武天皇夫人
・仲野親王(792−867)
@父:桓武天皇 母:京家河子
A子供:班子女王他多数
B
・班子女王(833−900)
@父:仲野親王 母:当宗氏
A夫:光孝天皇 子供:宇多天皇
B藤原京家の血脈は河子ー仲野親王ー班子女王経由で宇多天皇に繋がり永続したとされている。
3−4)豊主(?−847)
@父:大継 母:不明
A子供:氏岑(阿波守)
B従四位下播磨権守
C823従五位下。847年従四位下。
3−3)豊彦
@父:浜成 母:不明
A室:伴永主女 子供:冬緒
生母不明子供:貞敏・秋緒(安芸守)・憲友(この子孫から戦国武将直江氏派生説あり)
B従五位下豊後守
3−4)冬緒(808−890)
@父:豊彦 母:伴永主女<永主<家持<旅人
A三男 子供:灌木(大学助)
B正三位大納言
C847年従五位下。
D870年参議 清和・陽成朝の能吏
E877年従三位中納言。882年正三位大納言。京家出身最後の公卿。
3−5)灌木
3−6)望見
3−7)清光
3−8)脩道
3−9)兼信
@父:脩道 母:不明
A子供:不明
B従五位下
3−3)永谷
@父:浜成 母:不明
A子供:道成
B従五位下。
3−4)道成
@父:永谷 母:不明
A子供:興風
B正6位上
3−5)興風(?−?)
@父:道成 母:不明
A子供:
B正6位上。36歌仙の一人。百人一首作者の一人。
3−3)法壱
@父:浜成 母:不明
A夫:氷上川継 子供:
B782年氷上川継の乱発生。夫と共に伊豆国へ流罪。
3−2)百能(720−782)
@父:麻呂 母:桓武尚侍当麻氏
A夫:右大臣藤原豊成
B女官 尚侍従二位。
C749年従五位下。
3−2)綱執
@父:麻呂 母:
A子供:不明
B従四位下
3−2)勝人
@父:麻呂 母:不明
A子供:夏茂(無官)
B従五位下 続くが省略。
4)藤原式家関連系図
4−1)藤原氏総括概略系図(平安時代初期まで)
4−2)藤原式家概略系図(姓氏類別大観準拠・公卿類別譜 等参考)
4−3)**A 式家蔵下麿流概略系図
4−4)藤原式家詳細系図
4−5)藤原式家詳細系図B・C B)式家百川流詳細系図
4−6)C)式家蔵下麿流詳細系図
4−7)参考系図)藤原京家詳細系図(姓氏類別大観準拠・公卿類別譜 等参考)
5)藤原四家関連年表(式家中心)
5−1)藤原四家元祖没後四家関連概略年表(737−967)
5−2)藤原四家主要人物官位年代表 (737−967)
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6)藤原式家関連系図解説・論考
既稿「20古代天皇家概論U」(38天智天皇−50桓武天皇)「35藤原氏元祖考(鎌足ー藤原四家始祖)本稿4−1)〜4−7)5−1)5−2) 参照
6−1)藤原式家系図解説背景説明
藤原四家とは、南家・北家・式家・京家と呼ばれている藤原不比等の子供4人から派生した氏族である。その始祖は、それぞれ、武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4名である。
不比等一族は、45聖武天皇(首皇子)の外戚となり、不比等娘の「光明子」が聖武天皇の皇后となった。
この間の関係年表
698:42文武天皇の詔で藤原不比等とその子孫のみが「藤原朝臣姓」を名乗ることが許された。
708:藤原不比等が右大臣となる。
716:不比等娘「光明子」が文武天皇の長男である首皇子(母:不比等娘宮子)の妃となる。
717:不比等次男「房前」が参議となる。
718:不比等長男「武智麻呂」が式部卿となる。
720:不比等没。
721:武智麻呂が中納言となる。
724:45聖武天皇(首皇子)即位
729:光明子が皇后となる。
731:不比等3男「宇合」及び4男「麻呂」が参議となる。
734:武智麻呂が右大臣となる。
737:不比等の男子供4名が揃って天然痘で没。
749:45聖武天皇退位。46孝謙天皇(母:光明子)即位。
正確にいえば、不比等在命中に「天皇外戚・四兄弟総てが議政官になる」、となった訳ではないのである。
古代律令制になってからも、奈良時代になってからも議政官(大臣・大納言・中納言・参議)は、各豪族1名しかなることは出来ないという不文律みたいなものがあった。698年に不比等が不比等の直系の子孫しか藤原氏を用いてはならないとして、中臣(後に一部は大中臣氏となった)氏と藤原氏を峻別した話は有名である。この裏には、この議政官の定員みたいな慣習を考えた上でのこととされている。即ち旧中臣氏として2名まで議政官が出せるのである。ところが、上記に示したように、藤原氏として不比等生前の時、少なくとも2名、武智麻呂の式部卿までを議政官に入れる?と、3名同時に存在可能にしたのである。これは明らかに不比等の政治力の大きさを物語るものである。しかし、不比等没後の731年に、なんと不比等の子供4名が揃って議政官になったのである。これは不比等の力だけとは言えない。古代豪族藤原氏の力が、それまでの、いかなる豪族よりも強大になったことを示しているのである。これを許した他の豪族(例えば大伴氏・石上氏・石川氏・大中臣氏及び天武系皇族など)の勢力が相対的に著しく低下していたことを表しているとも言える。異常な状態だったともいえる。反藤原勢力にとっては、なんとかしなくてはという思いが頂点に達していたのである。
ところが、全くの偶然であったが、737年の天然痘の大流行に議政官だった四兄弟が次々に罹り、没したのである。これは時の政権にとっては、危機的な事態であったことであろう。逆に反対勢力にとっては、これ以上望めないチャンス到来であった。
これが、「橘諸兄」の台頭、九州での「藤原式家広嗣」の挙兵。諸兄の失脚、「奈良麻呂の乱」などの引き金を引き、藤原南家「仲麻呂」の台頭、「恵美押勝の乱」を引き起こした。この間に四兄弟の2代目がそれぞれ裏で暗躍し、藤原4家間の勢力争いの時代に突入していったのである。
天皇家では、45聖武天皇の跡継ぎ問題に解決の見通しが無い状態で、僧「道鏡」問題まで発生して、天皇跡継ぎ問題に巻き込まれた非藤原氏の筆頭であった「吉備真備」が失脚したのである。天皇家は天武系から天智系(49光仁天皇)に替わった。これを仕組んだのは藤原北家・式家である。この時台頭してきたのが、一度は埋没しかけていた藤原式家2代目で次男の「良継」4男の「宿奈麻呂」らである。北家のトップであった「永手」が771年に病没し、遂に式家の天下となったのである。この段階で、これらに対抗する勢力は無くなったのである。
しかし、式家の2代目の良継・百川(宿奈麻呂)らは、桓武天皇即位を見ることなく、次々に病没したのである。781年,50桓武天皇の即位後,直ぐに49光仁天皇の後継者問題で、「氷上川継の乱」が発生したが、「川継」を押した藤原京家の「浜成」がここで失脚した。
50桓武天皇は平城京で即位したが、この色々煩わしい事件が続く平城京に見切りをつけ、若い式家の「種継」らに新都「長岡京」への遷都を計画させた。そして時間を置かず実行したのである。さてこの後,式家はどうなったかが本稿のポイントである。
6−2)藤原四家の総括概略系図解説 4−1)参照 5−1)ー2)参照
藤原不比等には4人の男児がいた。それが45聖武天皇の時に総て参議以上の議政官に就任したのである。これはそれまでの慣習からは、あり得ないことである。逆の見方をすれば、古代豪族藤原氏から4っつの豪族が派生し、それぞれが独立した1つの豪族と見なされた扱いになったものとも考えられるのである。それぞれの氏の長が議政官になったのであると考えるのである。よって系図解説は,それぞれ分けて、行いたい。
6−2−1)南家概略系図解説
@始祖「武智麻呂」の長男「豊成」は,当初は藤原氏全体の「氏の長」的立場であった。父の没後直ぐに参議に就任した。その後着実に昇進。748年には右大臣になった。この時、他家での議政官は一人もいない。
A757年「橘奈良麻呂の乱」後、豊成は右大臣を解任され、758年、47淳仁天皇の時、弟の「仲麻呂」は急台頭し、改名し、「恵美押勝」となって右大臣になった。
B764年「恵美押勝の乱」で「押勝」は戦死。兄の豊成が復活し右大臣となった。
Cこの豊成の子供「継縄」は48称徳天皇ー49光仁天皇ー50桓武天皇の間、議政官となり平安京遷都の時は「是公」に替わって右大臣であった。
D継縄の子供「乙叡」も51平城天皇の時、中納言になっていたが、「伊予親王の変」で失脚。この流れは以後政治的には低迷した。
E恵美押勝の流れは「刷雄」の流れのみ残ったが、政治的には無視された。他は総て殺された模様。
F武智麻呂の4男「乙麻呂」の子供「是公」は、49光仁天皇ー50桓武天皇の間、議政官で桓武天皇朝では右大臣。息子の「雄友」が「是公」没後に参議となった。
G雄友の妹が桓武天皇妃で伊予親王の母である「吉子」である。「伊予親王の変」により雄友も失脚。この流れはその後、朝廷では没し、武家「工藤氏」へと発展するのである。
H武智麻呂の5男「巨勢麻呂」の流れが平安時代以降は南家の本流となり、これ以後の藤原南家出身の貴族といえば、この流れであると言って過言ではない。
I巨勢麻呂流の議政官としては、貞嗣・三守・仲統・諸葛・管根・元方らが輩出され、
熱田大神宮宮司家は「貞嗣流」から輩出。江戸時代に堂上家として3家が残り、政治の表舞台には出ないが、その勢力を維持したのである。
J「保元・平治の乱」で有名な「信西」は、元々は貞嗣流の出身で、高階氏に養子に出た人物である。
6−2−2)北家概略系図解説
@始祖「房前」の長男「鳥養」は夭逝したため、この流れは遅れて政界に出て来ることになる。子供「小黒麻呂」は779年に参議となり、長岡京遷都に貢献した。平安京遷都にも関与したが遷都前に没した。小黒麻呂の子供が「葛野麻呂」である。806年51平城天皇即位の時、参議となり、818年中納言で没した。子供に常嗣(参議)・氏宗(右大臣)がおり、共に議政官となったが、共にその流れは、これ以降表舞台に表れる人物を輩出していない。堂上家なし。
A房前の次男「永手」が「北家の長」的存在になったが、南家「豊成」とは著しく遅れた。
B永手は「恵美押勝の乱」では追討軍として活躍。戦後、左大臣となった。さらに49光仁天皇の擁立の筆頭になり正一位左大臣となった。息子「家依」も参議になったが、この流れは系図上ここまでで終わっているのである。
C4男の「真楯」は大納言で没。真楯の3男の「内麻呂」は平安京遷都の時,参議となる。さらに51平城天皇即位の時、右大臣となった。52嵯峨天皇即位の年に没した。内麻呂の長男「真夏」と次男「冬嗣」の母親は、渡来系の飛鳥部氏娘で「百済永継」で同母兄弟である。兄の真夏は冬嗣より1年早く参議になったが、その後の昇進はなく、参議のままで没。真夏の流れからは12家の堂上家を輩出し、栄えた。
余談であるが、母「百済永継」は、二人の男児を産んだ後、桓武天皇妃となり「良岑安世」を産んでいるのである。どこまで真実かは不明であるが、有名な話である。これが史実なら、冬嗣らは、平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇らと義理の兄弟ということになるのである。
それにしても北家内麻呂は何故自分の正室とも言える「百済永継」を桓武天皇に差し出したのであろうか?良岑安世の生年が785年なので、783-784年頃の話である。
冬嗣は、その後猛烈なスピードで昇進し遂に814年最大の競争相手であった式家の「緒嗣」を追い越して従三位に達した。これが北家が式家の上位に立った瞬間である。825年冬嗣は左大臣となり、826年没した。
D冬嗣の長男「長良」・次男「良房」は同母兄弟。母親は南家「真作」の娘「美都子」で同母兄弟として5男良相 長女順子(仁明天皇妃・文徳天皇母)がいる。
E冬嗣の長男「長良」は良房より4年早く従五位下に叙せられたが、参議には良房の方が10年も早く昇進した。長良の次男「遠経」は地方官で、この流れから、「藤原純友の乱」で有名な「純友」が出、その流れは武家集団に発展した。6男の「清経」の流れからは、堂上家が3家派生し貴族として栄えた。
冬嗣の次男「良房」は、その後も昇進は異例の早さであり、858年56清和天皇即位の時、人臣として歴史上初めての摂政となった。
Fこの良房には男子が産まれなかったので兄「長良」の3男である「基経」を養子に迎えた。この「基経」の昇進も異常に早く、28才で参議となり、872年良房が没した時、36才で右大臣・摂政となったのである。
G以後この基経の流れが「摂関家」となり、また約50家の堂上家を派生し、これ以降の朝廷政治の中心勢力となったのである。
H房前の5男「魚名」は「永手」没後の北家を代表する議政官となり、50桓武天皇即位の時の左大臣であった。ところが、その翌年の「川継の乱」で連座し、失脚後、没した。何故魚名が連座したのかは、謎とされているのである。この流れは暫く政界から遠のいたが、3男の「末茂」の息子の「総継」の娘が54仁明天皇妃となり、55文徳天皇の外祖父となった関係で堂上家8家を派生する一族として栄えた。魚名の長男?の 「鷲取」の流れは利仁流・山陰流と呼ばれた武家に発展したのである。又魚名の5男「藤成」の流れは有名な武家「藤原秀郷」に繋がり、日本中にその流れを増やしたのである。
以上のように北家は藤原氏の中心勢力となり、古代豪族の最後の勝利者といえる氏族になったのである。
6−2−3)藤原式家概略系図解説 省略
6−2−4)藤原京家概略系図解説 省略
6−3)藤原式家系図解説 4−1)4−2)4−3)4−4)4−5)4−6)参照
@式家始祖「宇合」の母は、兄武智麻呂・房前と同じ蘇我連子娘「娼子」だと言う説もあるが、娼子の没年と宇合の誕生年(684)の関係に疑義があることから母:不明とする方が正確であろう。
A宇合の長男「広嗣」と次男「良継」の母は、蘇我倉山田石川麻呂娘国威大刀自である。
広嗣は大和守に任じられたが、太宰少弐に左遷され、740年に九州で弟、宇合4男「綱手」と共に所謂「広嗣の乱」を起こし、戦死。これにより、良継、宇合5男「田麻呂」、宇合3男「清成」?ら一族に連座者が出て、式家の朝廷での昇進が著しく遅れた。
広嗣の流れは子供「行雄」までで終わっている。
B宇合の次男「良継」別名:宿奈麻呂は、「広嗣の乱」で伊豆流罪。764年の「仲麻呂の乱」で活躍。770年参議。北家「永手」と協力して49光仁天皇擁立。永手が没したので、内臣となり藤原一門のトップになった。娘の「乙牟漏」を後の50桓武天皇の正室に入れた。ただ一人の息子「託美」は、若くして長岡京で賊に襲われ死亡したため、この流れは断絶。
C宇合の三男「清成」は、古来謎の人物である。「広嗣の乱」に参戦し、没したとの説もある。その室が「秦朝元娘」でその間に産まれたのが歴史上有名な「種継」である。
種継は50桓武天皇の特別な信任を受け、782年参議となり、長岡京遷都の際には中納言造長岡京使となり、式家のトップの存在となったが785年建設途上の長岡京で暗殺された。これにより、式家の勢力が著しく低下したのである。種継の長男「仲成」は、810年参議となった。51平城天皇が譲位して52嵯峨天皇が即位した直後である。仲成は妹の「薬子」と共に、平城天皇の側近であった。810年の「薬子の乱」の首謀者となり、討伐軍により射殺された。薬子は自殺。これにより、多くの種継の流れは政界から遠ざかり、地方官になり、その多くは、数代で系図上から消滅した。歴史上名前が残ったのは、種継の曾孫の「佐世」ぐらいである。彼は文章博士となり、887年59宇多天皇の時、藤原基経を関白に任じる件で発生した「阿衡の紛議」の見解を出した人物である。彼の見解は正しかったことが後に証明されたが、結局は地方官に左遷されたのである。この流れは、さらに6代後まで系図が残されている。
D宇合の4男「綱手」の室は、「秦朝元女」とある。740年の「広嗣の乱」で誅殺された。この流れには歴史上の人物はいないが、主に地方官として、8代先まで系図が残されている。
E宇合の5男「田麻呂」は、各種政争に全く関与しなかった。782年北家「魚名」左大臣が失脚したのに伴い、右大臣となり、翌年没した。式家として、この後継者が、種継である。この流れは記録上残されていないのである。
F宇合の8男「百川」別名:雄田麻呂こそ式家の代表的人物である。母は久米奈保麿女若売である。正室は兄「良継」の娘「諸姉」で、その間に49光仁天皇妃の産子、50桓武天皇妃の「旅子」、52平城天皇妃帯子を産み、「旅子」は53淳和天皇を産んでいる。
側室の伊勢大津女との間に、長男「緒嗣」 次男緒業。また、緒嗣の娘「正子」は50桓武天皇妃である。832年緒嗣は式家としては最高位である左大臣になっているのである。しかし、この年に長男「家緒」が病死し、式家としてのその後発展の致命傷になったとされている。 緒嗣の3男「春津」の流れが永続した。この流れから武家遠藤氏となったという説もある。しかし、春津の孫「忠文」が参議になったのを最後に議政官になる人物はいなくなった。忠文の6代孫に源平合戦で有名な「文覚上人」が出たという系図もある。本稿ではこの系図を採用した。
G宇合の9男「蔵下麻呂」は、774年参議になった人物で、系図的にはこの流れが式家としては最も長く続いたことになっている。長男「縄主」は812年中納言になった。有名な「薬子」は正室である。この間に産まれた娘が平城天皇妃になった。息子「貞本」らは「薬子の乱」に連座したが「縄主」は連座しなかった。貞本の孫「興範」は911年参議になっている。系図的に永続したのは貞本の次男「正峯」の流れである。基本的には下級貴族であったが、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて、突如として公卿が連続して5代続く流れが発生している。系図的に養子関係があり、複雑ではあるが、青字で記した方が正しいものと思われる。いずれにしても系図は室町初期あたりで消滅しているのである。
蔵下麻呂の5男「綱継」別名:縄継 は、825年参議になったが、828年には息子の「吉野」に参議職を譲ったとされている。この吉野は中納言になり式家としての次のリーダーとして期待されたが、842年の「承和の変」に連座し、失脚した。これが式家没落の最後の引き金になったとされている。この流れは下級貴族として永続するが系図的には、「為文」の8代後までしか残されていないのである。
蔵下麻呂の9男「浄本」は830年従三位非参議で没。この流れは記録なし。
これ以外の蔵下麻呂の息子については解説省略。2)人物列伝を参照。
6−4)参考)藤原京家系図解説 4−7)5−2)参照
@藤原京家始祖「麻呂」の母は、不比等の異母妹「五百重娘」である。嫡男「浜成」は772年49才で参議となった。782年の「氷上川継の乱」で失脚。これが京家没落の主因となった。浜成の3男「継彦」の流れは4−5代孫で系図消滅。
A浜成の子供「大継」の娘「河子」は、桓武天皇妃となり、仲野親王を産む。この親王の娘「班子」が58孝徳天皇妃となり、59宇多天皇を産んだ。この系図より京家は女性系で天皇家に繋がったと言われているのである。
B浜成の息子「豊彦」の息子「冬緒」は、882年大納言となった。これ以降京家出身の公卿は、輩出されなかった。この流れも5代後で系図消滅。
豊彦の息子「憲友」の流れから戦国武将「長江兼読」が輩出されたという系図もあるが、異説も多い。
C浜成の娘「法壱」は、天武天皇3代孫である「氷上川継」室となった。これが浜成が川継の乱の首謀者になったとされる主原因とされているのである。
D始祖麻呂の娘「百能」が南家豊成室となった。子供は知られていない。
6−5)藤原式家論考
6−5−1)藤原式家論考背景説明 6−1)参照
藤原四家の誕生については既稿「藤原元祖考」で詳しく述べたので本稿では、主として737年の四兄弟の揃っての病死という藤原氏にとっての一大危機の時以降について考えてみたいのである。そもそも、720年の藤原不比等の没後から、四兄弟が揃って参議以上の議政官に何故なったのか、何故なれたのか?から考えてみたいのである。不比等右大臣生存中には、次男の房前が参議としていただけである。そのこと自体も前代未聞のことであった。この辺りの論考も既稿でしたので省略するが、不比等没後一体何が起こって、不比等の息子4人が揃って議政官になったのであろうか?
@不比等生存中は、天武皇族の代表である「長屋王」は藤原氏と友好的であった。718年には大納言になっている。長屋王の妃に不比等の娘(長蛾子)がなっていたのである。
A不比等没後、721年に後任の右大臣に長屋王がなった。この辺りから長屋王と藤原氏の関係が怪しくなったのである。
B721年に藤原南家の武智麻呂が正四位下から参議を経ずに中納言になった。これは、不比等没による欠員補充の意味もあるのではないだろうか。この段階では藤原氏としては議政官は2名のままである。しかし、先に参議になった房前をここで追い抜いたことになるのである。理由は判然としていない。
C724年には45聖武天皇が即位。長屋王が左大臣になった。聖武天皇実母「宮子」に「大夫人」の尊称を天皇が与えた。これに長屋王が反対し、取り下げられた。藤原氏の反発。
D727年「光明子」を立后させる話が出る。この時、長屋王は、光明子が皇后になることに反対した。
E729年藤原氏と長屋王の関係悪化が頂点に達し、「長屋王の変」が勃発。武智麻呂(長屋王の訊問)・宇合(長屋王追討軍指揮)らの活躍により、長屋王側は全滅。長屋王は自害した。光明子が皇后となった。
新議政官体制:大納言:多治比池守・武智麻呂・中納言:大伴旅人・阿部広庭、参議:藤原房前 権参議:多治比県守・石川石足・大伴道足
F730年多治比池守大納言没。
G731年大伴旅人大納言没。阿部広庭中納言病気。まともな議政官は藤原兄弟二人だけになったのである。よって諸司の推薦により新たに6人の参議を任命。式部卿藤原宇合・民部卿多治比県守・佐大弁葛城王(後の橘諸兄)右大弁大伴道足・兵部卿藤原麻呂・大蔵卿鈴鹿王が決まり、以前からの房前参議・大納言兼中務卿武智麻呂・中納言阿部広庭(藤原四氏政権)を加えて9名体制になった。
●731年3男「宇合」・4男「麻呂」が揃って新参議になった。前代未聞の1氏族4議政官体制になったのである。
H734年武智麻呂が右大臣となった。
I735年「吉備真備」が唐から帰国した。僧「玄ム」も帰国。聖武天皇・光明皇后から寵愛された。
J737年天然痘流行。藤原4兄弟没。
急遽、従三位参議左大弁橘諸兄<美努王と参議大蔵卿であった鈴鹿王<高市皇子を大臣クラスの議政官にして、諸兄を大納言に任じ、鈴鹿王を知太政官事に任じて切り抜けた。新参議多治比広成を中納言、参議大伴道足の構成とした。そして南家武智麻呂長男豊成を参議とした。
K738年光明子の子供「阿部内親王」が立太子。諸兄右大臣。諸兄は吉備真備・僧玄ムらを重用した。
L739年大野東人・巨勢奈弖麻呂・大伴牛養・犬養石次が参議になった。藤原氏は南家豊成だけであった。
M740年式家宇合の長男「広嗣」が九州太宰府で「広嗣の乱」を起こした。
以上までの歴史的経過を踏まえて考えてみたいのである。
@45聖武天皇が即位する前に「不比等」は没したのである。この時には天武系皇族は多数存在していた。その代表が朝廷の中枢にいた「長屋王」大納言であった。彼と不比等は姻戚関係でもあり、表向きでは、友好的関係は保たれていたとされている。勿論41持統天皇ー不比等で築いてきた政治方針に反対する勢力も多数存在していたのである。
A717年に房前が何故参議になれたのかについては既稿の中で述べてきた。結論的にいえば、既存の古代豪族の勢力は著しく低下し、実力を伸ばしていたのは、藤原氏だけであったのである。天皇家を護り、その政治を補佐するのが議政官の最大の使命だと考えると、年老いた「不比等」に替わるべき人材を用意しておくことは、喫緊の課題だったのである。
長男「武智麻呂」ではなく、何故「房前」なのかは、年令も1才違いなので大きな問題ではなかった。但し、藤原氏の「氏の上」を不比等の後継者として誰にするかは、残された問題であっただろう。
B長屋王問題は、突然起こったことではない。不比等も生前に充分想定していたことと推定されるのである。この時代は40天武天皇が敷いた親政政治が基本とされた時代である。
即ち、天皇が直接政治を行い、その皇族がそれを補佐することが、基本であった。その意味で、不比等が政治のリーダーシップを採ることの方が、異常だったともいえるのである。Cところが、文武天皇妃の不比等娘「宮子」が、次期天皇と目される、「首皇子」を産んだことから、事はややこしくなっていたのである。
・42文武天皇には非藤原腹の皇子広世皇子・広成皇子がおり、また、40天武天皇の息子「高市皇子」の子供:長屋王・鈴鹿王などがおり、更に長屋王には草壁皇子の娘との間に、膳夫王・葛木王が、さらに藤原不比等娘「長蛾子」との間に安宿王・山背王・黄文王などがおり、その他、舎人皇子系、新田部皇子系、長皇子系などに男子の皇位継承権を有する人物が多数いたのである。44元正天皇の後継天皇を誰にするかは、決まっているようで決まってなかったのである。首皇子(45聖武天皇)は元明・元正天皇時代は皇太子ではあった。41持統天皇が没したのは、703年であり、首皇子が産まれたのは701年なのでこの路線は、持統天皇ー不比等の間で引かれていたものと考えられている。
D天武天皇系皇族の中では、反藤原勢力が主流だったと思われる、しかし、長屋王は、反藤原勢力ではなかった。しかし、天武系皇族勢力からは、期待されていた人物であった。首皇子に何事かあると、長屋王の息子などは次期天皇になる資格を有していたのである。E首皇子が天皇になると、藤原氏は外戚となる訳ある。これは不比等としては死守ラインである。それもあって、716年不比等の娘「安宿媛(光明子)」を首皇子妃にいれ、717年「房前」を参議に入れ、万全の体制を準備したものと考える。当時の他の豪族で、これに対抗、反対する勢力は718年大納言となった「長屋王」などの皇族以外には無かったものと思われる。長屋王は不比等とは姻戚関係でもあり、表向き友好関係を保っていたのである。しかし、不比等ら藤原氏の者達は、長屋王の本音は充分知っていたものと思われるのである。
F不比等の死後、長屋王が朝廷のトップに立つと、その本性を現してきた。724年の45聖武天皇即位後の天皇母「大夫人」尊称問題。727年の光明子の皇后問題。がそれである。ある意味では藤原氏の因縁話めいているが、729年の「長屋王の変」は、この様な背景で起こるべきして起こった政変である。勿論藤原氏側が仕組んだものとされている。これにより藤原氏は、その軍事把握力においても他の氏族を圧倒した強さを示したのである。勿論表向きは天皇家をお護りするためであるとしたのである。
この功績により、「武智麻呂」は大納言になったのである。この意味するところは、弟「房前」を完全に抑え、自分が藤原氏のリーダーであることを示すことにもなったとされているのである。
G731年に不比等の3男「式家宇合」と4男「京家麻呂」が揃って参議となった。新体制の議政官9名の内4名が藤原氏で占められた。藤原四家政権の発足。当然反藤原勢力からは、猛烈な批判がされたことであろう。しかし、この時の45聖武天皇の周辺を見ると、聖武天皇は不比等娘「宮子」(存命中)の子供。皇后光明子は不比等娘、議政官4名は不比等の息子となり、聖武天皇を血の繋がった実母・叔父叔母で固めた形になっているのである。これ以上の天皇支援体制は、望めない形を完成したのである。頼りになるのは血の繋がりが一番と言われた時代である。これぞ、持統天皇ー藤原不比等が理想とした統治体制だったのかも知れない。余人が入り込む隙を与えなかったのである。また藤原氏側からの言い分は、南家・北家・式家・京家は、それぞれ過去の古代豪族の一氏族に匹敵する、実力・勢力を有し、天皇家をお護りするのは、その時、真に実力ある氏族を代表する人物が議政官として、国の政治を天皇を補佐して司ることこそ、重要である。と考えたのではないであろうか。この時代に藤原各家の代表者に優る実力者が存在しなかったとしか思えない。
Hところが、737年この4兄弟が次々と天然痘に罹り、没したのである。お互いに見舞い合ったのが原因とされているが、驚天動地の出来事である。朝廷は、機能麻痺になりかけた。急遽、「橘諸兄」を大納言に任じ、長屋王の弟である「鈴鹿王」を知太政官事に任じて切り抜けた。新参議「多治比広成」を中納言、参議「大伴道足」の構成とし、南家武智麻呂長男「豊成」を参議に加えた。738年光明子の子供「阿部内親王」が立太子。諸兄は右大臣となった。諸兄は、735年に唐から帰国した吉備真備・僧玄ムらを重用した。勿論諸兄らは、どちらかといえば反藤原氏勢力である。但し、光明皇后とは父違いの兄妹の関係でこの関係は密な関係であった。藤原四兄弟の突然死騒動が無ければ、歴史上活躍する機会は無かったと判断するのである。諸兄こそ古代豪族「橘氏」の祖であり、この流れは、平安時代の52嵯峨天皇后「嘉智子」を輩出し、54仁明天皇の外戚ともなり、「源平藤橘」と後年呼ばれた繁栄した貴族の1つになったのである。
I739年大野東人・巨勢奈弖麻呂・大伴牛養・犬養石次が参議になった。これにより議政官9名の内、藤原氏は南家豊成一人だけになったのである。
737年時点での各家の長男の年令 南家豊成:33才、北家永手:23才、式家広嗣:不明。737年に従五位下となっており、参議なんて全く無理。京家浜成:13才
等で、この付近で参議に任じられる年令に達していたのは南家豊成だけだったのである。
以上までを式家論考の背景説明としたい。
6−5−2)式家論考
古代豪族藤原氏の誕生の年は、筆者は前述したように698年とした。新撰姓氏録では神別氏族である。これは神別氏族の中臣氏から派生したからそうなるのである。一般的には神別氏族は、その発生年など分かりようがないのである。皇別氏族の場合は、26継体天皇以前の皇別氏族(例えば、紀氏・吉備氏・蘇我氏・葛城氏など)は発生年を特定することは不可能であるが、それ以降の場合は、臣籍降下した時点が発生年と考えて良いであろう。例えば「高階氏」などは、長屋王の息子「安宿王」は「長屋王の変」で母親が不比等の娘「長蛾子」であったために連座を免れ、生き残り、773年に高階氏を賜姓されたとある。色々なケースがあると思うが、臣籍降下・賜姓の年は、多治比氏、橘氏、在原氏などについては既稿のどこかに記載されているので参考にしたい。蕃別氏族も発生年は不明である。それでは藤原四家の発生年をどうするかであるが、筆者は、その1つとして、それぞれの始祖の誕生年でどうかと判断するのである。南家は680年武智麻呂誕生。北家は681年房前誕生。式家は694年宇合誕生、京家は695年麻呂誕生である。しかし、問題点がある。いずれも上記藤原氏の誕生年(698)より前になってしまうのである。そこで新たに始祖が貴族として一人前になったとされる従五位下に任じられた年がそれに相応しいのではと思う。
武智麻呂:702年? 房前:703年? 宇合:716年 麻呂:717年
となるが、どうであろうか。?は不確実であるが、宇合・麻呂と同じ扱いと仮定した年令に相当させたのである。南家と京家は始祖の誕生年が15年離れていることによる。このことが、その後の各家の将来に大きく関係してきたと判断するのである。各初代の始祖は、没した年は同じ年(647年)である。その意味では実質的出発点は同じである。しかし、各初代の長男が誕生した年が、かなり異なることである。南家と京家とでは約20年異なる。約1世代の差があったのである。その中で式家はどのような位置づけであったのであろうか。
南家長男「豊成」:704年誕生ー732年従五位下ー737年参議ー749年右大臣
南家次男「仲麻呂」:706年誕生ー734年従五位下ー743年参議ー760年太政大臣
北家長男「鳥養」:?ー737年従五位下ー没
北家次男「永手」:714年誕生ー737年従五位下ー751年従三位−766年左大臣
北家三男「真楯」:715年誕生ー740年従五位下ー749年参議ー766年大納言
式家長男「広嗣」:?誕生ー737年従五位下ー740年没
式家次男「良継」:716年誕生ー746年従五位下ー770年参議ー771年内臣
式家五男「田麻呂」:722年誕生ー763年従五位下ー766年参議ー782年右大臣
式家八男「百川」:732年誕生ー759年従五位下ー771年参議ー没
式家九男「蔵下麻呂」:734年誕生ー763年従五位下ー774年参議ー777年従三位没
京家長男「浜成」:724年誕生ー751年従五位下ー772年参議
6−5−1)で述べてきた年表の後半が、式家に関係してくるのである。即ち宇合の長男「広嗣」は、当初大和守となり順調な滑り出しであったが、訳あって太宰少弐として太宰府に左遷された。740年に広嗣は45聖武天皇宛に上表文を出した。聖武天皇や、橘諸兄が重用していた反藤原氏派と目された僧「玄ム」と「吉備真備」が総ての悪の根源であるとし、彼等を排斥することを要求するものであった。天皇は直ぐにこれを謀叛とみなし、追討軍を派遣。弟「綱手」とともに、広嗣は誅殺された。「広嗣の乱」は、筆者には理解出来ない部分が多々ある。何故に式家の長男が、反藤原勢力が気に食わないといっても、南家・北家を差し置いて軍を動かすなどという強行手段に出たのか?これにより、一族が連座した。次男「良継」は伊豆に流罪となり、官途の昇進も著しく遅れた。田麻呂・百川にも影響があったものと判断する。しかし、764年の南家次男による「恵美押勝の乱」では、式家の兄弟は活躍。南家には悪影響したが、式家には好影響したとされる。北家は総てに順調であった。766年には、北家「永手」左大臣・「真楯」大納言、南家「継縄」参議、式家「田麻呂」参議となり、朝廷内で藤原氏が勢力を持ち直し、四家始祖達がいた聖武天皇朝以上になったのである。約30年要したが、藤原氏の実力が他の豪族から抜きん出ていたことが分かるのである。この背景には光明皇后(760年没)の強力なバックアップがあったともいわれているのである。特に北家がトップになった。式家の出遅れが目立った。ところが、770年の48称徳天皇の没と49光仁天皇の即位に際し、北家「永手」左大臣と式家「良継」参議の活躍が目立った。これにさらに式家「百川」正四位下河内職大夫が加わったのである。皇統を天武系から天智系に替えることに成功させたのである。771年になると、北家「永手」は没し、百川も参議となり、式家が朝廷を牛耳ることになった。772年には、井上内親王・他戸親王を自殺に追いやったのは、百川らの陰謀であったことは、歴史的に明らかであるとされているのである。773年遂に式家の思惑通り、山部皇子(後の50桓武天皇)の立太子となったのである。この時、京家浜成はこの人事に反対とされている。そして、この皇太子に式家良継娘「乙牟漏」を嫁がすことに成功したのである。
772年49才で京家の長男「浜成」が参議になった。著しく遅れた。理由は、はっきりしないが、上記山部皇太子に反対したことも関係していると思われる。又、これが、桓武天皇即位後に起こった「氷川川継の乱」の遠因だったと思わざるをえないのである。49光仁天皇の時代、約10年間は実質的に朝廷は式家の時代だったと言える。ところが、その後半の775−779年にかけて式家の蔵下麻呂参議・良継内臣・百川参議らが次々没した。残ったのは「田麻呂」中納言だけになった。781年50桓武天皇が即位した。この時の体制は、南家:継縄従三位・是公中納言 北家:魚名左大臣・小黒麻呂参議・家依参議、式家:田麻呂中納言 京家:浜成参議 神王参議(皇族)・大中臣子老参議・紀船守参議・石川名足参議・大伴家持参議であった。桓武天皇にとって頼りにするべき式家からは、年配の田麻呂しかいなかったのである。そこで目を付けたのが当時44才で従四位上であった「種継」であった。破格の昇進をさせ、782年には従三位参議にさせたのである。同時に田麻呂を右大臣にした。この年に天武系の血を引く氷川川継が、桓武天皇の即位に反対して乱を起こした。首謀者は川継の正室「法壱」の父親である京家「浜成」参議であったとされるが、それは彼が山部王立太子の時からの反対者であったからで、「川継の乱」そのものは、直接関与はしなかった模様である。連座して参議は解任。失脚した。ところがこの時、北家の「魚名」左大臣が連座して、左大臣を解任され、太宰府へ左遷された。この解任理由は謎である。この魚名の連座は、北家全体には影響されず、魚名の流れのみの影響に留まった模様である。783年には式家田麻呂が没し、南家「是公」が右大臣となった。これで、式家のトップは「種継」になったのである。桓武天皇は、種継を最も信頼し新都建設の責任者に任命したのである。正三位中納言とした。北家「小黒麻呂」中納言も新都建設の良き支援者であった。小黒麻呂の正室は、古代豪族秦氏の娘で、この間の息子が「葛野麿」である。種継の母親も秦氏の娘である。桓武天皇の母親も渡来系の和氏娘で、後の「高野新笠」である。桓武天皇は新都建設、遷都対策として、この様な山背国に縁のある若手勢力を活用したとされている。この年、式家良継の娘「乙牟漏」が皇后になったのである。乙牟漏は774年に既に「安殿皇子」を産んでいた。784年長岡京に遷都。ところが、785年長岡京遷都に反対の勢力が、種継を暗殺したのである。桓武天皇の留守中の出来事であった。直ぐに実行犯達は捕らえられたが、その背後に皇太弟の「早良親王」がいるということになり、捕らえられ、乙訓寺(現存)に幽閉後、船で淡路島へ配流中に自害したという事件である。これについては、古代豪族大伴氏の氏長であった「大伴家持」も関与したとされ、既に没していた彼の財産・名誉などを剥奪された。皇太子に桓武天皇の長男「安殿親王(後の51平城天皇)」がなった。(後述参照)
新体制は、右大臣:南家是公、大納言:南家継縄、中納言:石川名足・紀船守・佐伯今毛人・北家小黒麻呂、参議:紀古佐美・北家家依である。式家からは誰も議政官がいなくなったのである。
余談ではあるが、式家「良継」の一人息子「詫美」がこの長岡京時代に、従四位下でいたはずである。772年に従五位下になったと記録にあるので恐らく種継より5−7才ほど若い人物である。皇后「乙牟漏」の異腹兄と思われる。式家としては非常に重要人物である。この詫美も長岡京で暗殺されたのである。このことは通常の歴史書には記録されていないのであるが、系図等には残されている。種継暗殺時、同時に殺されたとの説もあるが、明確ではない。犯人も分かっていないのである。式家にとって、桓武天皇にとって、乙牟漏皇后にとって、これ以上の痛手はなかったことであろう。この2人の有能な後継者を失った式家は、これ以降約10年間議政官を出すことはなかったのである。798年に蔵下麻呂の長男「縄主」がやっと(38才)参議になった。縄主の室が有名な種継の娘「薬子」である。
794年の平安京遷都には、式家の関与は記録上ないのである。主実行者は北家小黒麻呂・葛野麻呂父子であった。(長岡京時代の一般事項については別項で記述したい。)
さてここで系図上の謎の部分に触れておきたい。
南家始祖・北家始祖は間違い無く同母兄弟で、母は「蘇我連子」の娘「娼子」である。古代豪族蘇我氏の中で最後に生き残ったのは、この連子の流れである。当時としても皇族を除けば名家中の名家である。不比等の正室である。ところが、娼子は一般系図では3男宇合も産んだことになっているのである。一方古来「宇合」は娼子の子供ではないのではないかといわれてきた。理由は次男の房前を産んで間もなく娼子は亡くなったので、房前の誕生より5年後に産まれた宇合が娼子の子供であるとするのには無理がある。という説があった。この時代、同母兄弟姉妹の間の結婚は禁止婚であり、これを破れば死刑が科せられたのである。反面異母兄弟姉妹婚は問題なかったのである。それ程同母と異母兄弟の関係には差があったのである。そのような観点から藤原四家のその後の展開を概観してみることも重要であるような気がする。同じ藤原氏といっても他の豪族、朝廷などの四家それぞれへの対応の仕方が、徐々に変化して来たように思えてならない。南家と北家は共に助け合っている。婚姻関係もある。式家及び京家は、何かしら外れ者扱いを受けているように思えるのである。京家は早々と疎外され、式家は必死にしがみついている感じがするのである。どうであろうか。「詫美」の暗殺の裏に藤原氏本流であると自覚していた南家・北家などの陰謀が存在していたのでは、という感じがするのである。種継暗殺は歴史書にも詳しく記述があるが、詫美の暗殺については何も記事がないのである。詫美こそ次期天皇候補筆頭の「安殿親王」の外戚になる身であった。それは困るという勢力がいたのではないだろうか?
さて、50桓武天皇が格別に期待したのが桓武天皇の大恩人である式家百川の長男「緒嗣」であった。795年に従五位下となり、なんと28才で805年参議になったのである。
当時から平安初期頃の藤原氏の有名人の参議になった年令を調べて見た。
南家 是公:47才 継縄:39才 三守:31才
北家 真楯:34才 魚名:47才 小黒麻呂:46才 葛野麻呂:51才
内麻呂:38才 冬嗣:36才 良房:30才 基経:28才
式家 良継:54才 百川:39才 田麻呂:44才 蔵下麻呂:41才 種継:45才
縄主:38才 仲成:46才 緒嗣:28才 吉野:42才 忠文:66才
京家 浜成:48才 冬緒:62才
などである。参議といえば議政官の一つで、公卿である。現在でいえば大臣クラスである。簡単になれる職位ではないのである。公家の職位は従五位下以上のランクである。一般的な話ではあるが、江戸時代の大名は大抵は、従五位下であった。
参議は従四位下以上になると、なれる資格を持つが、その中の優秀な政治処理能力を有すると天皇が判断しないとなれないのである。公卿とは一般的には従三位以上の貴族であるが、公卿が即参議ではないのである。参議は四位の位でも公卿として扱われたのである。
50桓武天皇までの時代で30才未満で参議となったのは「緒嗣」が初めてであろう。摂関政治時代になると、北家「基経」のような人物は多数出たことであろうが、そこまでは調査しなかった。「緒嗣」は、桓武天皇即位の最大の功労者、式家「百川」の長男で、桓武天皇妃「旅子」の異母弟で大伴親王(後の53淳和天皇)の外戚、安殿親王(後の51平城天皇)・神野親王(後の52嵯峨天皇)の外戚にもなる人物である。「旅子」も「乙牟漏」も既に他界しており、桓武天皇の思いは格別だったと思われる。自分も死を前にしての時だったのである。真の外戚となるべき、良継・百川は桓武天皇の即位前に没し、期待した式家の跡継ぎ「種継」は暗殺され、乙牟漏の異母兄である「詫美」もまた暗殺され、式家の人材は枯渇していたのである。「緒嗣」こそ桓武没後の息子達を支えるリーダーとなってくれることを桓武が託した人物である。それが、この若さでの参議登用に表れているのである。
805年、歴史上有名な「菅野真道」参議と緒嗣との所謂「徳政論議」が50桓武天皇の御前で行われ、桓武天皇は一番若い緒嗣の提案を受け入れて、桓武のライフワークと思われる「蝦夷征伐」・「平安京の建設」を中止したのである。その翌年桓武天皇は没したのである。
桓武天皇没時の体制では、南家は、「雄友」中納言・「乙叡」中納言、北家は、「内麻呂」右大臣、「葛野麻呂」参議、式家は、「縄主」参議、「緒嗣」参議がいた。806年平城天皇が即位した。側近に式家薬子・浜成兄妹がいた。
807年には「伊予親王の変」があり、南家「雄友」大納言・「乙叡」中納言が失脚してしまった。この変は理解し難いとされている。原因:@伊予親王は母親が南家吉子<是公で「雄友」大納言の妹の子供であった。A伊予親王は、桓武天皇の3男?で平城天皇の皇太弟になっても不思議ではなかった。それが式家の横やりで弟である式家腹の神野親王(52嵯峨天皇)が皇太弟になったこと。南家が不満であった。B北家内麻呂右大臣が企んだ後継者争い?などなど古来から議論があるのである。
この変は式家の「仲成」らが南家を追い出すために仕組んだという説が有力。伊予親王が謀叛を企てたという事実は無かったとされている。しかし、これ以降南家が勢力を落としたことは間違い無い史実である。余談であるが、伊予親王母子が大和の川原寺に幽閉され、そこで自害したとされているが、幽閉されたのは、旧長岡京にあった川原寺(現存してない)であるという説もあるのである。距離的にはこちらの方が遙かに近いので、あり得る話だと思うが、どうであろうか。
809年に51平城天皇が退位する前の体制を見ると、南家は議政官なし。北家は4名。式家は3名。京家は無し、であった。52嵯峨天皇が即位した。810年式家「仲成」参議が、姉の「薬子」と謀って、所謂「薬子の乱」を起こした。種継の子供等が何故このような事件を起こしたのか、筆者は理解出来ないところがある。@父「種継」は新都「長岡京」建設の責任者であり、平城京に都を戻したい反対勢力の者達に暗殺されたのである。A51平城天皇は、平安京に慣れず(平城京生まれ、長岡京育ちである)、都を平城京に戻したいと日頃から望んでいた。B薬子は式家「縄主」の正室で、娘を平城天皇妃にしていた。C一方薬子は平城天皇の女官となっており、平城天皇とは、皇太子時代から男女の関係であった。桓武天皇は、これを案じて度々注意をしていた。D仲成は種継の長男で平城天皇の側近として仕えていた。人柄は余り好ましい評判ではなかった。E式家から議政官が3名も出ており、北家の4名と競い合っていた。
このような背景で平城京への遷都を目論んだ謀叛を平城上皇を担いで起こしたのである。
薬子は自害し、仲成は誅殺されたのである。これ以降死刑制度は廃止された。
嵯峨天皇は長岡京生まれだとされている。平城京に対して何の未練はなく、父桓武天皇の遺志を継ぎ平安京をより完全な都にすることこそ、最重大政治課題だと判断していたので、この仲成らの謀は絶対に許せないことであった。無謀な反乱であったことは明らかである。
式家に対する風当たりは強くなった。ところが、不思議なことに、当時参議であった薬子の夫の「縄主」は、お咎め無しで812年には中納言になっているのである。既に離婚していたものと推定される。又「緒嗣」にも類は及ばなかった模様である。ただし、「種継」の流れは、これ以降参議クラスを出すことは無かった。
この「薬子の乱」で活躍し、52嵯峨天皇の信頼を勝ち取ったのが、北家「冬嗣」であった。冬嗣が参議になったのは811年である。緒嗣より9年も後である。ところが、814年には従三位に昇進し、緒嗣を追い越したのである。これが歴史的瞬間だとされているのである。式家のエース中のエースであった「緒嗣」が北家のエースに(二人はほぼ同年令)に敗れたのである。826年冬嗣左大臣没。832年緒嗣は左大臣(式家としては初めてで最後の左大臣)となり、843年(54仁明天皇時)に没した。天皇家としては、53淳和天皇の外戚であった緒嗣を感謝を込めてその名誉を称えた形にしたのである。しかし、実態は814年以降は緒嗣は飾り物的存在で、ただ長生きしただけとされているのである。勿論本人からも何度となく解任要求が出されたが、受理されなかったのである。
52嵯峨天皇ー53淳和天皇ー54仁明天皇時代に朝廷の状態は大きく変わった。式家は、緒嗣以外に「綱継」が825年に参議になったが。息子の「吉野」に参議を譲る形で828年吉野が参議になった。ところが、832年に緒嗣の長男「家緒」が参議になれる直前に病死してしまった。式家のリーダーとして期待された吉野が834年中納言になった。北家冬嗣の次男「良房」が参議になったのも、この年である。ところが、842年「承和の変」が起こり、吉野は失脚してしまったのである。この変は通常の歴史書では触れていないか、簡単に記されているだけの事件である。しかし、詳しくは記さないが日本の歴史の大きな曲がり角だったのではなかろうかと筆者は思っている。
@桓武天皇の子供3人が天皇になった。A51平城天皇は人心から離れた「薬子の乱」などにより、この流れから次期天皇が出せる可能性は無かった。B52嵯峨天皇は、上皇の期間も含めて長期間親政を敷いた。この流れから54仁明天皇が出たことは異論はなかった。C53淳和天皇は嵯峨天皇の後に即位したが、順番からすれば54仁明天皇の後には自分の息子(恒貞親王)が天皇になるべきと考えていた。(嵯峨天皇と淳和天皇は同い年であった)、式家「吉野」中納言ら「恒貞親王」側近もそのように考えていたのである。即ち嵯峨天皇流と淳和天皇流が交互に天皇を出すことこそ順当だと考える勢力があったのである。D一方北家「冬嗣」娘「順子(良房の妹)」と54仁明天皇の間には「道康親王」があった。皇統を嵯峨天皇流に一本化して54仁明天皇の後は仁明の子供(道康親王)を次期天皇にするべきであるとの強い思いが北家「良房」参議にはあった。両統迭立か一本化かの選択が迫られたのである。
840年淳和天皇没、842年嵯峨天皇没、ここで「良房」参議らは行動に出た。仁明天皇の皇太子であった淳和天皇の息子「恒貞親王」を廃し、その取り巻きであった「吉野」らを謀反人として、解任失脚に追い込んだのである。この事件は皇位継承問題であり、良房の叔父で北家「愛発」大納言(娘が恒貞親王の妃)も連座した。これを裏で仕組んだのが834年に参議となった北家冬嗣の次男である良房である。これら一連の処分で、良房は、自分の邪魔になる勢力を一掃してしまったのである。
a,式家「吉野」中納言の追放により北家の競争相手になりうる式家のその後の勢力拡大の芽を完全に摘んだ。
b,北家「愛発」大納言の追放により、北家冬嗣流を完全に北家の主流にすることになった。
良房は、この変の後、北家「愛発」に替わって大納言になったのである。
南家は840年に三守右大臣没後、参議さえいない状態になっており、式家は名ばかりの左大臣緒嗣が843年に没し、これ以降は正に「良房」の一人舞台となった。858年良房は56清和天皇の時、遂に人臣として初めて「摂政」となったのである。
式家は、843年に左大臣緒嗣が没して後、約70年間参議を出すことが出来なかった。縄主の曾孫である「興範」が911年に参議になったのである。さらに約30年後の739年に緒嗣の曾孫の「忠文」が参議となった。これが式家として実質的な議政官としての最後の人物である。桓武平氏出身の平将門が起こした「平将門の乱」、藤原北家出身の藤原純友が起こした「純友の乱」などの追討軍の将軍として活躍したとある。
これ以降は式家からは、通常の歴史書に登場するような人物は出なかった。ただ、系図上では、「縄主」の流れから、平安末期頃から南北朝が終わる1390年代の間に連続して5人の公卿を輩出しているのである。非参議なので、執行官ではなかった。何故この時期に突然そのようなことが起こったのかは、筆者の調査した範囲では分からなかった。武家中心の政治体制・南北朝など、朝廷の混乱した時期であり、公卿職の価値も低下し多発されたのではないかと、推定しているのである。いずれにせよ、その後間もなく、式家は、系図も残されない位に没落したものと判断する。堂上家は1家もなく、約1400年頃には系図上からも消滅したのである。系図に示された最後付近の人物でも従五位下とあるので、江戸時代に約460も有ったと言われる所謂「地下家」と言われた朝廷の役人の中に埋もれたのかもしれない。但し、平安末期源平合戦の頃活躍記録がある「文覚上人」という人物が前述の式家「忠文」の流れから輩出し、武家遠藤氏、として永続したとの説もある。これには、異説も多くあるので、参考までに人物列伝にも記した。
式家は、発生から消滅まで約700年間存在していた氏族である。最初から最後まで系図が存在し、人物名も明確化されているのである。筆者が取り上げた古代豪族でもこれだけ長期間存続確認が出来る氏族は少ないのである。大抵はその誕生の時期は不明である。歴史上から消滅した時期はほぼ分かる程度である。例えば「葛城氏」「蘇我氏」「息長氏」「和邇氏」「大伴氏」「阿部氏」「吉備氏」「越智氏」「三輪氏」「秦氏」「東漢氏」「多治比氏」「忌部氏」「毛野氏」「磯城氏」「百済氏」「高麗氏」「巨勢氏」「穂積氏」「倭氏」「安曇氏」「久米氏」などは年代も異なり、評価も分かれるとは思うが、700年未満でその歴史的役割を終えたと推定されるのである。700年以上の氏族は「天皇家」以外では「賀茂県主氏」「紀氏」「橘氏」「中臣氏」「清原氏」などであるが、一番素性系図などがはっきりしているのは、藤原北家・南家(古くは中臣氏と重なるかも知れないが)だと判断するのである。極論すれば、天皇家と藤原北家こそが、日本の血脈の背骨を形成したとも言えるのである。これこそ藤原不比等が目論んだ大戦略だったのかも知れないのである。???「積善の家」とはそういうことか?藤原式家はそのほんの一部を担ったのかも知れないのである。
6−6)参考)藤原京家論考 省略
7)参考)長岡京について
7−1)<長岡京に住んでいた歴史上の人物>
中山修一著「長岡京」京都新聞社(1984年)
長岡京発掘 中山修一らNHKブックス(1968)
長岡京市史 長岡京市史編纂委員会(1997?)及び諸系図など参考 筆者推定
7−1−1)天皇家関係
A.桓武天皇・后妃
@50桓武天皇(737−806) 49光仁天皇の子。長岡京遷都・平安京遷都。
A藤原乙牟漏(760−790)藤原式家良継女 51平城天皇52嵯峨天皇母
B藤原旅子(759−788) 藤原式家百川女 53淳和天皇母
C酒人内親王(754−829)49光仁天皇女 朝原内親王母
D藤原吉子(?−807) 藤原南家是公女 伊予親王母
E藤原南子(平子)(?−833)藤原南家乙叡女 伊都内親王母
F藤原河子(?−838)藤原京家大継女 仲野親王母
G藤原上子(?−?)藤原北家小黒麻呂女
H藤原仲子(?−?)藤原北家家依女
I藤原小屎(おくそ)(?−)藤原北家鷲取女 万多親王母
J藤原正子(?−?)藤原式家清成女
K藤原東子(?ー816)藤原式家種継女
L多治比真宗(769−813)多治比長野女 葛原親王母
M紀若子(?−?)紀船守女 明日香親王母
N紀乙魚(おとな)(?−840)紀木津魚女<<飯麿<古麿<大人
O坂上又子(全子)(?−790)坂上苅田麻呂女
P坂上春子(?−834) 坂上田村麻呂女
Q橘常子(788−817)橘嶋田麻呂女
R橘御井子(?−?)橘入居女
S橘田村子(?−?)橘入居女
S@百済教仁(?−?)百済武鏡女
SA百済教法(?−840)同上
SB百済貞香(?−?)百済教徳<俊哲 女
SC百済永継(?−?)飛鳥部奈止麻呂女(異説あり)良岑安世母 北家内麿室、冬嗣母
SD河上好(?−?)錦部春人女
SE中臣豊子(?−?)中臣大魚女
SF多治比豊継(?−?)多治比広成? 長岡岡成母 785年従五位下
SG因幡浄成女(?−796)采女
SH百済明本()理伯女 ???
B.皇族
@早良親王(750−785)桓武実弟。種継暗殺にからみ乙訓寺幽閉後自害。
A五百枝王(760−829)市原王男、種継暗殺で流刑。後免罪 正三位参議。
B神(みわ)王(737−806)榎井王の子、中納言・参議・弾正尹 桓武従兄弟
D壱志濃王(733−805)湯原王の子、大納言・桓武従兄弟
E高野新笠(?−789)桓武天皇母。百済王系和乙継女。
F安殿親王(774−824)51平城天皇
G藤原帯子(?−794)藤原百川女 平城后
H葛原親王(786−853)桓武息、桓武平氏元祖
I佐味親王(793−825)桓武息
J賀陽親王(794−871)桓武息
K大徳親王(798−803)×桓武息
L三狩王() 清水王の子 海上真人、造長岡宮使、従五位太宰少弐、遣唐使?
M浅井王()丹波守、伊予守
N伊都内親王(?−861)桓武女
O神野親王(786−842)52嵯峨天皇
P大伴親王(786−840)53淳和天皇
Q高志内親王(789−809)桓武女
R橘嘉智子(786−850)橘清友女 嵯峨天皇后
S阿保親王(792−842)平城天皇の長男
S@朝原内親王(779−817)桓武女 平城天皇妃
SA伊予親王(783?−807)桓武息
SB良岑安世(785−830)桓武息子供:僧正遍昭ー素性法師
SC藤原産子(761−829)式家百川女又は北家楓麻呂女 光仁天皇妃
SD藤原曹子(?−793)光仁天皇妃 藤原永手女
SE葛井藤子()平城妃・葛井道依女 阿保親王母
SF長岡岡成(773/781−848)桓武息、787年に長岡朝臣姓を賜姓。
SG五百井女王(?−817)市原王女
SH弥努摩内親王(?−810)光仁女 神王妃
SI浄庭女王(?−?) 弥努摩内親王女 斎王 791年従五位下。
SJ能登内親王(733−781)×光仁女桓武実姉、 市原王妃 五百枝王母
SK伊勢継子(772−812)平城妃
SL萬多親王(788−830)桓武息、「新撰姓氏録」編者
SM坂本親王(793−?)桓武息
SO仲野親王(792−867)桓武息
SP尾張女王(?−804?)湯原王女、光仁天皇妃
SQ紀宮子(?−785?)紀稲子女 光仁天皇妃
SR県犬養勇耳()県犬養女 光仁妃 広根諸勝母 781年従五位下。
SS 広根諸勝()光仁息 787年賜広根朝臣姓
7−1−2)藤原南家関係
@是公(727−789)乙麿男、正三位右大臣 六条一坊現第9小学校付近住人か?
A雄友(おとも)(753−811)是公男、参議大蔵卿、伊予親王事件で伊予へ流罪。
B真友(742−798)是公男、参議大蔵卿。
C継縄(つぐただ)(727−796)豊成男、母路虫麻呂女、正二位右大臣。六条一坊?
D乙叡(おとたか)(761−808)継縄男、従三位中納言、伊予親王連座 左京大夫
E貞嗣(759−824)巨勢麿男、従三位中納言宮内卿
F今川(749−814)巨勢麿男 ?
G黒麿(ー810)巨勢麿男、周防守・因幡守。
H道麿()乙叡男、尾張介
I真作()巨勢麻呂男、790年大蔵大輔 従五位上
J三守(785−840)真作男、816年参議、838年従二位右大臣。
K美都子(781−828)真作女、北家冬嗣室、良房・長良の母
7−1−3)藤原北家関係
@小黒麻呂(733−794)種継暗殺処罰強硬派。正三位大納言
A葛野麻呂(755−818)子:常嗣、氏宗 正三位中納言
A内麻呂(756−812)真楯男、従2位右大臣 長岡大臣。
B真楯(715−766)×北家の主流となる。正三位大納言
C真夏(774−830) 内麿男、 参議従三位刑部卿 平城天皇派
D冬嗣(775−826) 内麿男、初代蔵人頭、 正2位左大臣 この流れが主流。
E愛発(あらち)(787−843)内麿男、 正三位参議大納言
F長岡(786−849) 内麿男、 大和守
G緒夏(?−855)嵯峨天皇妃 内麿女
H園人(756−818)楓麿男、従2位右大臣
I楓麻呂(723−776)×従三位参議
J永手(714−771)×正一位左大臣
K雄依(?−?)永手男 別名:小依 種継暗殺関与左遷 正四位下大蔵卿
L鷲取(?−784)魚名男、従五位上中務大輔・伊勢守、桓武妃小屎父
M末茂(?−?) 魚名男 、土佐介、種継暗殺関与左遷。氷上川継の乱連座 内匠頭 N家依(743−785)永手男、 従三位参議兵部卿。
O浜主(784−844)園人男、 木工頭、安芸守
P魚名(721−783)×正二位左大臣
Q藤嗣(773−817)鷲取男、従四位上参議。藤原利仁・山陰流へ
R藤成(776−822)魚名男、奥州藤原秀郷流元祖。
S諸貞(?−?)園主男 大舎人頭
S@道雄(771−823)小黒麿男、 参議
SA大津(792−854)内麿男、 備前守
SB園主()園人男、三河守
7−1−4)藤原式家関係
@種継(737−785)妻:粟田道麻呂女 正三位中納言造長岡宮使長官
A薬子(?−810)薬子の乱 縄主室
B緒嗣(774−843)正2位左大臣
C仲成(774−810)太宰大弐 薬子の乱 参議
D詫美(?−785)良継男 種継暗殺事件で暗殺される?
E管継(?−?)綱手(宇合男)男 刑部大輔 長岡京左京大夫
F良継(716−777)× 正三位 内大臣
G百川(736−779)× 参議
H清成(716−777)× ?
I縄主(760−817)藤原薬子の夫 従三位中納言 蔵下麿(宇合男)男
J綱継(763−847)蔵下麿男 正三位参議兵部卿
K吉野(786−846)綱継男 正三位参議中納言 太宰帥
L田麿(722−783)×宇合男、大納言
M帯子(?−794)百川女 平城天皇后 (前出)
N浄本(770−830)蔵下麻呂男
O諸姉(?−786)良継女百川室 旅子・帯子の母
P緒業(779−842)百川男、 826年従三位
Q旅子(759−788)百川女 桓武天皇妃・淳和天皇母 (前出)
R乙牟漏(760−790)良継女 桓武天皇皇后 平城天皇・嵯峨天皇母 (前出)
7−1−5)藤原京家関係
@浜成(724−790)×? 桓武天皇即位に反対太宰府に左遷 正三位太宰帥
A大継(?−?)浜成男、桓武妃河子の父。従四位上伊勢守
B継彦()
7−1−6)大中臣氏・大伴氏・佐伯氏関係
@大中臣清麻呂(702−788)中臣意美麿男、大中臣氏元祖。正2位右大臣・神祇伯。
A大中臣子老(こおゆ)(−789)清麿男。参議神祇伯。長岡の地が都に適当と判断。
B大中臣諸魚(743−797)清麿男、造長岡宮使山背守、参議神祇伯。平城妃百子父
C大伴家持(718−785)万葉歌人。大伴氏嫡家。参議・種継暗殺に絡み領地没収。
D大伴永主(?−?) 家持男、 種継暗殺で流刑。従五位下、紀伊守。
E大伴継人(?−785)藤原種継暗殺首謀者死刑、783年左少弁、遣唐使。
F大伴竹良(?−785)? 同上死刑
G大伴弟麻呂(731−809)初代征夷大将軍。古慈斐男、従三位非参議。
H大伴潔麻呂() ?
I大伴潔足(716−792) 山陰道使 従四位上参議兵部卿。
J佐伯今毛人(719−790)人足男、参議・正三位造長岡宮使。大和守。遣唐大使
K佐伯真守(?−791)今毛人の弟 従四位上大蔵卿。
L佐伯三野(?−780)×下野守、陸奥守鎮守府将軍。散位。
M佐伯成人()783年宮中舎人謀殺事件に関与。帯刀舎人。
N佐伯高成(?−785?) 種継暗殺共犯者死刑、春宮少進。
O佐伯人足()?今毛人の父 右衛士督従五位下。
P佐伯久良麻呂() 従四位上陸奥鎮守権副将軍、造宮使。長岡京左京大夫
Q佐伯老() 従五位近衛少将。
R佐伯副都理 ()? 造東大寺司大判官
S佐伯諸成()? 従五位下兵馬正
S@佐伯葛城 () アテルイと戦った征東副将軍の一人。造長岡宮使。
SA大中臣継麿()清麿の子
SB大中臣淵魚(774−850)継麿男
SC大伴書持(?−746)×家持弟
SD大伴坂上郎女(?−?)万葉歌人。
SE大伴真麻呂(?−785?) 主税頭。種継暗殺共犯者死刑。
SF大伴湊麻呂(?−785?) 種継暗殺共犯者死刑。
SG大伴国道(768−828)継人男。 種継暗殺関与佐渡流刑。子供:伴大納言
SH大伴勝雄(776−832)弟麿男
SI大伴名留女()旅人女、藤原南家継縄室
SJ中臣大魚()桓武妃豊子父 ?
SK大伴峰麻呂()799年遣新羅使
SL大中臣今麻呂()782年大判事従五位下。
SM大伴是成()799年桓武の命を受け春宮亮として、淡路で早良親王の霊を慰める
7−1−7)石川氏・巨勢氏・紀氏関係
@石川名足(728−788)石足男、 従三位参議中納言兵部卿。「続日本紀」編纂
A石川豊人(ー790)大蔵卿。長岡京遷都時、乙牟漏・新笠を迎えに平城京に行った。
B石川垣守()木工頭。種継暗殺時宮内卿。乙訓寺に早良親王を訪ね、淡路まで運んだ。
C石川真守(730−799)正四位上参議刑部卿。
D石川吉備人()豊人長男?788年長岡京左京六条一坊に住んでいた。土地売買記事。
E石川公足() ?
F石川年足(−762)×石足の長子、正三位大納言・神祇伯。
G石川豊城()?
H石川河主()豊成(石足男:垣守の父)男
I石川長津()河主男
J巨勢野足()巨勢苗麿(徳陀古4世孫)男、征夷副使(大使:大伴弟麿の時)
K巨勢嶋人()783年宮中舎人謀殺事件捜査。 長岡京時代山背守
L巨勢人公()長岡京左京亮
M紀船守(731−792) 正三位参議大納言、桓武妃若子父、造長岡京使。
N紀梶(楫)長(754−806)船守男、従三位中納言参議
O紀古佐美(733−797)宿奈麿男、参議正三位大納言 征東大使。
P紀広浜(759−819)古佐美3男、正四位下参議。
Q紀国()?
R紀真人()長岡京時代征東副使
S弓削塩麻呂()?
S@石上宅嗣(729−781)×麿男、正三位大納言、光仁天皇擁立。
SA紀白麻呂(?−?)種継暗殺関与流刑。春宮亮。
SB紀田上(770−825)船守男、従四位下、尾張守、薬子の変で左遷。
SC紀深江(790−840)田上男、従四位上伊予守。
SD紀興道(ー834)梶長男、従四位下。曾孫:紀貫之
SE紀名虎(ー843)梶長男、散位正四位下 子供:紀有常
SF紀咋麿(755−833)古佐美男
SG紀木津魚()飯麿男、桓武妃乙魚父、平城妃魚員父、従三位右衛門督 SH紀百継(763−836)木津魚男、従二位参議。
SI紀千世()従五位下六条二坊 墨書土器発掘。
SJ紀家守(725−784)782年参議
7−1−8)秦氏・坂上氏・百済氏関係など
@秦足長() 長岡京造営功労者として外五位下に叙位された。主計頭
A太秦公宅守()長岡京太政官院の垣を築いた。太秦嶋麻呂の子か?従五位下
B坂上苅田麻呂(727−786)犬養男、従三位下総守非参議。
C坂上田村麻呂(758−811)苅田麿男、征夷大将軍、正三位大納言
D百済俊哲(?−795)父:理伯 征夷副使(大使:大伴弟麿、副:田村麿ら)
E百済仁貞(?−?)桓武側近 長岡京木工頭
F百済明信(?−815)理伯女、宮廷女官長、桓武の恋人、藤原継縄室、乙叡母
G菅野真道(741−814)百済系、従三位大蔵卿、「続日本紀」撰者、緒嗣と論争
H坂上大野()田村麿長男 従五位下陸奥鎮守副将軍。 I坂上広野(787−828)田村麿次男、従四位下伊勢守・陸奥守。
J百済武鏡()桓武妃教仁・教法・貞香父、理伯の兄弟 右兵衛督。
K葛井道依()平城天皇妃(阿保親王母)藤子の父 790年東宮亮
L和家麿(734−804)桓武の従兄弟、従三位中納言、渡来人最初の入閣
7−1−9)一般豪族関係
@吉備真備(695−775)×遣唐使、学者、称徳・光仁朝正二位右大臣。
A和気清麻呂(733−799)道鏡事件に関与。摂津大夫、高野新笠に仕える。
B和気広虫(730−799)宮廷官女。百済明信との関係密。
C阿部祖足()?
D上毛野大川()遣唐使。主計頭。「続日本紀」編纂
E吉備泉() 真備男、 種継暗殺関与左遷。従四位下伊予守、造東大寺長官。
F上毛野公我人()786年西市正に任命。
7−1−10)皇別氏族
@多治比宇美()国人男、陸奥按察使:大伴家持と同時期。従四位上
A多治比浜成()国人男、征夷副使(大使:大伴弟麿の時)従五位上、遣唐使
B多治比子市()?
C淡海三船(722−785)天智系葛野王男、大学頭・文章博士、「懐風藻」撰者。
D文室久賀麻呂() 大市男、正五位下、嵯峨天皇妃文子父 長岡京木工頭
E文室綿麻呂(765−823)三緒大原長男、従三位参議中納言、坂上田村麿と活躍。
F文室忍坂麻呂()造長岡宮使、木工頭
G甘南備継成()?甘南備氏は敏達ー難波王ー栗隈王ー武家王流 長岡京右京亮
H路豊永()? 京都護王神社祭神 路氏は上記難波王ー石川王ー路跡見が祖。
I息長清継()?
J橘清友(758−789)奈良麻呂男、嵯峨后嘉智子父 贈正一位太政大臣
K橘氏公(783−848)清友男、従二位右大臣
L橘氏人(?−845)清友男、正四位下神祇伯。
M橘清野(750−830)奈良麻呂男、正四位上、清和天皇妃船子父。
N橘嶋田麿(?ー?)奈良麻呂男、正五位下兵部大輔、桓武妃常子父
O橘入居(ー800)奈良麻呂男、従四位下播磨守、 桓武妃御井子、田村子父
P橘逸勢(782−842)入居男、三筆の一人、遣唐使、「承和の変」で配流中死亡。
Q多治比浜人(ー785)東宮主書首。早良親王側近。種継暗殺関与死刑。
R多治比郎女()県守女、大伴旅人室、家持母、
S多治比長野(706−790)家主男、桓武妃真宗父、参議。
S@多治比広成(?−739)×県守弟、遣唐大使 参議中納言、 従三位式部卿
SA多治比継兄()広成男、786年山背国班田次官に任命。従四位下、豊後守・神祇伯
SB多治比古奈禰(−792)?大中臣清麿室、諸魚母
SC多治比真浄()造長岡宮使
SD文室八多麿()長岡旧宮守衛
SE文室与企()?、持節征東副将軍、相模守
SF多治比邑刀自()旧長岡京地5町拝領
SG橘安麻呂(739−821)伊予親王の変で連座 正四位上
SH橘安万子()南家三守室
7−1−11)その他
@最澄(767−822)×?奈良・比叡山・遣唐使で長岡京にはいなかった。
A空海(774−835)15才ー18才長岡京にいた。遣唐使を終えて乙訓寺別当。
B阿刀大足() 空海の母の兄。空海の長岡京時代の師。伊予親王家庭教師。
C味酒浄成()×? 空海の大学時代の師 平城宮にいた。
D味酒広成()浄成男
E岡田牛養()×? 空海の大学時代の師。讃岐国出身。平城宮にいた?
F羽栗翼(たすく)(ー789)唐で産まれた。内薬正 776年臣姓を賜る記事。
G羽栗翔 ()
H羽栗吉麻呂()遣唐使、翼 翔 兄弟の父
I高橋御坂 ()長岡京陰陽頭
J伊勢水通 ()長岡京内匠頭
K伊勢老人()平城天皇妃継子(772−812)父 長岡京木工頭
L御方広名?
M三嶋名継()長岡京時代山背守
N安都長人?
O入間広成()長岡京時代持節征東軍監、陸奥介
P嶋田宮成()長岡京右京亮
Q麻田?
R韓国源()遣唐使、下野介
S林稲麿()東宮学士 種継暗殺関与。
S@日下部雄道()造宮使
SA丈部大麻呂()造宮使
SB淡海三船()長岡京で785年没。(前出)
SC伊勢継子(772−812)伊勢老人女 平城天皇妃
SD伯耆桴麻呂()種継暗殺関与斬首
SE牡鹿木積麻呂()種継暗殺関与斬首
SF高倉福信(709−789)背奈福徳 孫。孝謙天皇側近。桓武天皇時代従三位
SG栗前広耳()山城国久世郡栗隈郷(現 宇治市付近)の豪族。長岡京造営に協力
SH勝 益麿()近江国の人 長岡京造営に協力、785年外従五位下。
約270名 掲載
7−6)長岡京関連解説・論考
7−6−1)桓武天皇と長岡京 7−1)参照
桓武天皇は781年平城京で即位し、784年に長岡京に遷都し、794年に平安京に遷都し、806年に没したのである。在位25年の内10年間長岡京を都としたのである。長岡京は桓武天皇1代だけの都であった。 長岡京について詳しい記述がある文献は参考文献に挙げたが、一番詳しく記されているのは「長岡京市史」である。
これ以外としては、人物叢書「桓武天皇」村尾次郎 吉川弘文館(H8第6刷)
「桓武天皇」井上満カ ミネルヴァ書房(2006)
「桓武と激動の長岡京時代」 国立歴史民族博物館編 山川出版社(2009)など多数あるが、最近の発掘調査関係については長岡京市教育委員会、長岡京市埋蔵文化財センター、向日市教育委員会、向日市埋蔵文化財センターなどの機関が発行している膨大量の資料があるのでそれを参考にした。
年表・人物名などの元文献は、主に
・続日本紀(697−791):797年完成:撰者:菅野真道・藤原継縄ら
・日本後紀(792−833):840年完成:撰者:藤原冬嗣・藤原緒嗣ら
・日本紀略(六国史抜粋、ー1039):11世紀後半ー12世紀完成、編者不明
・類従国史():892年完成:撰者:菅原道真
・三代格式の弘仁格式(701−819):嵯峨天皇が藤原冬嗣に編纂させた。
・類従三代格():1000代?三代格式の格の部分だけの類従。
などである。
長岡京関係は主に「続日本紀」に記されているが、藤原種継暗殺・早良親王関係の記事
も当初は詳しく記されていたらしいが、50桓武天皇がこの部分を政治的配慮から削除し、その後色々書き直されて現在の形になったらしい。「日本紀略」に記されていることが、現在の文献類に採用されているらしい。また「日本後記」にも桓武天皇の後半が記されていたが、散逸が著しく現存しているのはその一部しかなく、現在では日本紀略・類従国史などで復元して現在の文献に記されているのである。
これらを参考にして、筆者は、これらの現在の文献を参考にして、「長岡京関連年表」・「長岡京に住んでいた歴史的人物リスト」を作成したのである。
本稿では、主に長岡京に関係した歴史的人物の動向に的を絞った論考をしてみたいのである。
長岡京を論じる場合必ず問題になる事項がある。
1.桓武天皇は70年間も続いた平城京を何故棄てたのか。
2.桓武天皇はその遷都先として、何故山背国乙訓郡長岡邑を選んだのか。
3.桓武天皇は僅か10年間で、建設途上であった長岡京を何故棄てて、平安京に遷都したのか。
などの疑問である。勿論これ以外にも多くの疑問点が指摘されているが、筆者はこの3点が基本的問題だと判断しているのである。
1.平城京を何故棄てたのか?
@平城京の前は藤原京であった。707年に遷都の審議が開始され、708年に草壁皇子の妃であった43元明天皇の遷都の詔が出され、710年に平城京に遷都したのである。以来8代の天皇が76年間この都にいたのである。ただし、45聖武天皇は恭仁京、難波京などに一時的に遷都したが、ほんの数年間で再び平城京に帰っているのでこの空白期間も含めて一般的には奈良時代と称されてきた。しかし、48称徳天皇の没後、藤原式家の良継・百川兄弟らの暗躍により、皇統が天武天皇系から、天智天皇系に替わり、770年に49光仁天皇が62才という高齢で即位したのである。
元来日本の天皇は天皇毎にその宮処は替わるのが通例であった。平城京のように何代もの天皇が同じ宮処にいたという方が異例とも言えることである。
ましてや、皇統が替わるという大変化が起きた光仁天皇の時に宮処が替わって当然ともいえるのである。しかし、光仁天皇は余りに高齢だったのであったことと、次期天皇である皇太子は、母親が天武系で、その血脈を引く他戸親王に決まったので、遷都判断は出されず、むしろ光仁天皇は、繋ぎの天皇であるとの認識が多くの皇族・豪族にあったのである。ところが、天武系の継続を快く思っていなかった藤原式家百川らは、策を巡らして井上皇后の廃后、他戸親王の廃太子に成功し、代わりに光仁天皇の長男で37才の山部親王(後の50桓武天皇)を773年立太子させたのである。勿論反対者もいた。その代表格は参議藤原京家浜成らであった。しかし、当時の実力者式家良継・百川兄弟の力で押し切ったのである。
A山部親王にとっては、想像さえしていなかった皇太子の座が回ってきたのである。
父白壁王が49光仁天皇として即位することも想像出来なかったこととされているのである。彼等親子は王族ではあるが、既に官吏の道を歩んでおり、白壁王は759年従三位・762年中納言・766年大納言という系譜が残されているのである。また山部王は764年従五位下・764年従五位上大学頭・771年中務卿などが記録されているのである。
B異例中の異例の天皇・皇太子が誕生したのである。皇統が、はっきりと替わったのである。このことが平城京から都を移さなければならないという背景にあったことは間違い無いという説が現在の主流だと判断するのである。
C山部王が立太子以後、彼は着々と平城京からの遷都の想を練っていたものと判断される。
平城京が抱えていた問題点:イ、天武系残存勢力 ロ、既存仏教勢力 ハ、既存古代豪族勢力 ニ、環境問題・人口問題から来る都市機能不全 ホ、皇位継承問題の不安定さ へ、寺社勢力の巨大化・政治への介入 ト、東北蝦夷地問題 チ、経済問題 ト、人心安定化問題 などなど
D平城京にいたのでは上記の諸問題を解決することは不可能である。出来るだけ早期に遷都を計画するべきである。と即位の直前まで考えていたのである。
2.何故遷都先が「長岡京」になったのか
@50桓武天皇の母親は「高野新笠」である。元の名前は「和史弟継娘新笠」 母親は「土師宿禰真妹(?)」である。和氏の祖は百済国の武寧王だとする系図が続日本紀・新撰姓氏録などに記されている。所謂百済系の渡来人だとされている。和史弟(乙)継は下級宮人であり、当初その出自は不明であった。勿論白壁王(当時23才)の正妃でもなかった。長女の「能登内親王」の生年が733年と記録されており、732年頃白壁王家に入ったものと推定されている。「山部王」は737年(光仁:28才)誕生である。白壁王としては長男である。しかし、白壁王の正妃は744年(光仁:35才)に結婚した聖武天皇の娘である井上内親王(717−775)であった。母親は「県犬養広刀自」である。754年に酒人内親王を産み、761年に他戸王を産んだとされている。なんと内親王が45才という高齢出産ということになる。古来この記事には疑義があるとされているのである。後に11才で立太子したのである。光仁天皇即位の時、山部王は、43才である。母親の出自問題が歴然としていたのである。これを2年後773年にひっくり返したのが「藤原式家百川」である。これは母親の出自が天武系の聖武天皇であり母親が、反藤原派の県犬養氏であったからである。一方山部王の母親は下級の渡来人であり、その母親も下級の古代豪族の土師氏で、式家にとっては気を使うべき背景を有しない天皇候補であると判断したのである。即ち山部王は、天智系の皇統であり、当時この皇統には勢力を有する王族は存在してないし、頼りにするのは、藤原氏、中でも式家だけになると判断したのである。その証拠に山部親王の立太子(773年)前後に「式家良継娘乙牟漏」を正妃として山部王家に入れているのである。774年に長男安殿親王が誕生しているのである。
しかし、この話には一部謎があるのである。それは山部王の長男は本当に安殿親王か?である。
一方山部王が立太子した頃に母親は、和史姓から高野朝臣姓に改姓(続日本紀)されているのである。さらに778年新笠は、高野朝臣従三位夫人となり、781年には正三位皇太夫人となった。この時、併せてその外戚は和史氏から和朝臣に改姓された。新笠の兄弟と推定されている和史国守が和朝臣国守外従五位下に叙せられたのである。この子供が後に桓武天皇を補佐したとされる和朝臣家麻呂であるとされている。(和氏系図参照)
A 古来、桓武天皇の長男は、南家吉子との間に産まれた「伊予親王」であるとの説がある。
桓武天皇は伊予親王を本当に可愛がっていたとの記事があり、反面、安殿親王とは、生涯打ち解けなかった関係であったとの説がある。
また、山部王時代の女官であった「多治比豊継」との間に産まれた「長岡岡成」こそ長男であるという説(本朝皇胤紹運録)などがある。
というのが、皇太子になる前の山部王時代の女性関係の記録が全く無いからである。上述した山部王の誕生のように当時の皇族や豪族などは、正室または正妃を迎える前に、少なくとも20才前後で非公式に数名の女性と関係を持ち、その間に子供を持つことは極当たり前であった。ところが、山部王の場合37才の立太子までの女性関係が、あたかも全く無かったような扱いになっているのである。それ以後没するまでに36名以上の后妃が記録され、30名以上の子供が産まれたと記録されているのである。どう見ても不思議である。それ以前の記録が意図的に削除された可能性が大であると推定されるのである。
これが、長岡京遷都、藤原種継暗殺事件、平安京遷都、薬子の乱、伊予親王の変、などの暗部に秘められていることと関係しているのではなかろうか?
B高野新笠の父「和史弟継」は、渡来系の平城京での下級官吏であったと推定されている。本拠地は和弟継の墓がある、現;奈良県北葛城郡王子町にある久度神社付近とされている。一方当時から貴族であった百済王族出身の百済王氏の本拠地は、旧:河内国交野郡中宮村にある百済王神社付近にあった。と考える。(本稿百済王氏考参照)
この地は、後に50桓武天皇が長岡京遷都に際し、延暦4年(785)・延暦6年(787)の2度も百済王氏の支援を受けて「昊天上帝を祭る儀式」所謂「郊祀(こうし)」を行った所でもある。続日本紀に「天神を交野の柏原に祀った」とある。何故交野でこの儀式を行ったのか。後述したい。
百済王氏として歴史上最も有名な人物は、45聖武天皇の大仏建立の時金900両を献じたとされる「敬福」である。我が国最初の金を領地であった陸奥国で産出したとされている。これにより従三位刑部卿にまで昇進した。この子供が「理伯」である。この理伯の娘が桓武天皇の生涯を通じての恋人とも言われた「明信」である。公的には桓武天皇時代に尚侍として多くの女官の長として活躍したのである(歴史年表参照)が、藤原継縄の室でもあった。(系図参照)
桓武天皇・52嵯峨天皇・54仁明天皇にわたって百済王氏の多くの女性が天皇妃となっている。渡来系の氏族の娘達が天皇妃になったのは、この時代だけである。その意味で日本の歴史上異常な時代だったと言える。その中心が百済王氏である。桓武天皇の生母は百済氏ではあるが百済王氏ではない。高野新笠が一つのきっかけになったことは間違いない。しかし、その後の和史氏の娘は天皇妃にはなっていない。新笠の甥である「和家麻呂」が桓武天皇時代に才能はなかったが政治に直接関わる我が国最初の渡来人出身の参議・中納言になったと記されてある。その後「坂上田村麻呂」「菅野真道」などの有能な渡来人が政治に直接携わった。これも桓武天皇時代だけの特異現象とされている。
話を天皇妃に戻すが、上述したように桓武天皇の生母「高野新笠」と百済王氏とは直接関係にはないのに何故10名近い百済王氏関係の子女が数名の天皇の妃になれたのであろうか。未だこの時代は藤原氏全盛の時代ではなかった。だからといって百済系渡来人が政治面で特別な勢力をもっていたとは思えない。謎である。上記「百済王明信」の桓武天皇への影響力が特に後宮関係では抜群であったため、その影響が54仁明天皇頃まで及んだと考えるのが妥当かもしれない。旧来の古代豪族の力は急速に低下してきた時代である。長岡京・平安京初期はその意味で大きな日本の氏族制度の過渡期だったのである。
この時代を経て藤原北家全盛時代に移っていったのである。藤原京家は滅亡し、式家は没落し、南家はアウトサイダーになっていた時代である。その新時代の始まりに百済王氏の女性達が天皇家の後宮を支えていたとも言える。この辺りの研究が過去余り行われていなくて、詳しい史実がどうであったのか、良く分からないのが残念である。
さてここで前述の「郊祀」について詳述したい。
歴史事典によると「郊祀」について以下のように解説してある。
祭祀の一つ。出典「礼記」。「万物は天に本づく、人は祖に本づく、これ上帝に配する所以なり、郊の祭は大いに本に報い、始に反(か)へるなり」とあるに基づく。古代中国においては、郊野に円丘を築いて天の神を祀り、その祖をとあわせ祀った。ーーーわが国史の初見は、日本書紀神武天皇4年2月条に大和国鳥見山の条 「我が皇祖の霊、天より降臨し、朕が躬を光し助けたまうーーー天神を郊祀(まつ)りて、もって大孝を申べん」とあるのがそれである。(しかしこれは中国流の「郊祀」としての意味ではない。)ーーー中国の「郊祀」の風習をそのまま我が国の祭祀のうちに採用したのは、桓武・文徳両天皇の代の例だけで、永く我が国の祭祀のうちに融合せぬままに終わった。ーーー(延暦6年788年では、)天神に桓武天皇の父の光仁天皇の霊を配祀せしめている。ーーーとある。
2回目の祭文を読んだ人物は百済王明信の夫である大納言「藤原継縄」である。
これが行われた祭壇場所の比定地として、現:枚方市片鉾本町杉ケ本神社付近とされている。百済王神社の直ぐ近くである。
さてここでいう天神とは、日本書紀などに記されている天神ではない。天下宇宙を司る神で宇宙の最高神とされている。(日本流の神ではない)「郊祀」は冬至の日に都の南の郊外に円丘を築いて、天命を帝王に与える儀式とされ、桓武がその天命を嗣ぐ子とした。即ち新王朝の誕生を意味していたのである。
長岡京の大極殿の真南にあたる淀川を挟んだ所が交野である。百済王氏の本拠地である。
勿論桓武天皇が天皇になる以前から百済王一族の地であり、何度も桓武はこの地を訪れていたらしい。「明信」の家も勿論ここにあった。49光仁天皇も、この地に行幸されているのである。
この地が桓武の「郊祀」の地に選ばれたのは偶然であろうか。
だいたい「郊祀」という中国流の儀式を天皇が行ったのは桓武が始めてである。
これには記録に残されてない多くの意味があるとする説が最近出ている。
桓武は当初から中国流の都造りを目していた。一種の中華思想の導入もはかっている。
風水・道教の影響も大である。天照大神・出雲神などの影が薄い。仏教の影響も少ない。
長岡京の地を新都として何故選んだか。諸説ある。その一つに真南に百済王氏一族の本拠地があったことを挙げる説もある。非常にマイナーな説かもしれないが、筆者は長岡京市に住んでおり、向日神社の裏山に登り、この説は表に出せない桓武の心情を穿った説と同意したい。確証がある訳ではない。
a.桓武は父49光仁天皇が未だ天皇になる可能性が皆無とされた時代に、身分の低い百済系の渡来人の娘「和新笠」との間に生まれた子供である。当時冷遇されていたとはいえ皇族で皇位継承権がある人物が渡来系の娘と結ばれた例は記録にない。実際にはあったかも知れないが記録上ないのである。ということは、桓武の生い立ちは非常に惨めなものだったと推定できる。事実生母「新笠」の父親とされる「和乙継」なる人物の職業もはっきり記録されていないのである。百姓であった、平城京の下級官吏であったと言い伝えられているが、本当は不明である。後に天皇になった生母の父親がこれほど不明確な例は歴史上皆無と言える。どこの馬の骨か分からない母親から生まれた人物として扱われていたのである。しかし、一方光仁天皇は新笠との間に桓武を含め3人の子供をもうけている。これは
単なる一夜妻的関係ではない。真に新笠を愛していたからのことである。
これが桓武の一生を左右した裏の意志である。
b、45聖武天皇ー48称徳天皇時代の桓武天皇(山部王)の記録は無いといってもよい。卑母から生まれた王子の宿命であった。
c.一説では桓武が皇太子になる以前から生母の縁からだとは思うが、河内国交野にいた百済王明信との交流があったとされている。
d、光仁天皇が誕生し、間もなく桓武は皇太子となった。約10年間の皇太子時代に旧天武系王朝時代の色々な勢力からの軋轢を受けたとされている。桓武にとって平城京は苦悩・苦痛以外の何物でもない魅力のない王城になっていた。
e.当然自分が皇位についたらどうしたいかは、この間に充分計画していた。
f.782年遂に皇位についた。突然の長岡京遷都。と記録にはある。そしてそれを支援したのが、渡来系の秦氏であり、秦氏に縁のある、藤原種継・藤原小黒麻呂・和気清麻呂などであると一般的には言われている。勿論それは事実であるが、ここで忘れてはならないのが百済王氏なのである。いや桓武自身からすれば、百済王氏こそ最大の心の支えになった一族だったと言える。
百済明信をはじめ百済王氏は、一族挙げて桓武の奈良脱出、長岡京遷都を支援したのである。百済王氏が河内国交野にいたからこそ、長岡京を都にしたとも言える。桓武の守護神が都の南の地にいるからであると考えた。
g.何故桓武にとって交野は守護神がいる所なのか。桓武の生母「高野新笠」の出自である百済国王の嫡流(百済王氏)が住んでいるところであるからである。
高野新笠の出自を明確にし、系譜を作成した人物は、既稿「和気氏考」で記したように「和気清麻呂」だとされている。桓武天皇はこの清麻呂の努力に対し、大変喜んだと記録されている。百済王族の出身であったことは、ある程度伝わっていたのであろうが、明確ではなかったことが窺われる。
百済国王族は滅びたとはいえ、大和国王即ち天皇家と同等又はそれ以上の歴史を有する
朝鮮半島の国王の血筋である。その先祖はさらに古代中国にまで繋がる貴なる一族(扶余族)である。その血を嗣いだ自分は今までのいかなる天皇とも異なるのである。と考えてもおかしくはない。その自分を護ってくれるのは天神(日本の神ではない)であるとしたのではなかろうか。桓武の心の問題がここに秘められている。
これがその後、桓武が詔した「百済王らは朕の外戚である」と「郊祀」を交野で行ったことは、同一線上のことである。
h.天皇妃を多く百済王氏から出したのも、参議クラスに異例の渡来人が顔を出したのも同じ思いが両者にあったのであろう。
i.さらに穿った見方をすれば、桓武天皇は日本の天皇家のルーツは、中国ー百済王族ルーツの一族と考えていた(38天智天皇の思想もそうだったのであろうと筆者は推定)のかも知れない。その王家の末裔が住む河内国交野をその仮想故地と見立て、その王家の血脈を嗣いだ自分を護ってくれる天神が降臨する地と考えた。それが長岡京遷都の本当の理由であり、「郊祀」を行った理由である。桓武以後「郊祀」は行われなくなった。この桓武の裏の思想に同意が得られなく、馴染まなかったとも考えられる。従来通り、「大嘗祭」こそ天皇家の世継ぎの祭祀である。とされたのである。
j.桓武は諸事情により長岡京を僅か10年で廃都にしたが、決して平城京に戻ることなく長岡京の真北即ち交野の真北に当たる山背国葛野郡の地に平安京を造営したのである。偶然にそうしたのではないことは明らかである。
C高野新笠の母親(桓武の母方祖母)は、土師宿禰真妹(?)」である。この本拠地が何処か?諸説あるのである。主な説は
a. 現:京都市西京区大枝沓掛(旧:山背国乙訓郡大枝郷)で高野新笠の大枝山稜があるところである。「桓武天皇」 村尾次郎 吉川弘文館(1996年)など
b.古代豪族土師氏の百舌腹の本拠地は元来河内国志紀郡土師里であるが、奈良時代には、同腹出身の菅原氏・秋篠氏と同様に大和国(平城京周辺)に土師宿禰氏として住んでいた。(1例:旧京都府相楽郡木津町吐師(はじ)村)とするのである。桓武と激動の長岡京 国立歴史民族博物館編 山川出版(2009)
最近の学説はb説が主流のように思う。しかし、a説も捨てがたいものがあるのである。
790年桓武天皇は祖父高野朝臣弟継・祖母土師宿禰真妹に正一位を、土師氏を改姓して大枝朝臣とするよう命じた。これの解釈で説が分かれるのである。
上記a.説は、氏名は本拠地の地名を付したもので、菅原朝臣は大和国添下郡菅原邑、秋篠朝臣は大和国添下郡秋篠邑という地名が付されている。大枝朝臣は山背国乙訓郡大枝郷の大枝が付されたと考えるのである。
一方b.説は、大枝朝臣は本拠地の地名ではなく、高野新笠の大枝山稜に因んで大枝を付したのであって、そこに土師宿禰氏が住んでいたわけではないとするのである。
筆者はa.説の方が筋が通っていると判断している。
いずれの土師氏も土師連ー土師宿禰となり、781年に菅原宿禰・782年に秋篠宿禰となり
790年に高野新笠出身の土師宿禰氏も揃って朝臣姓を賜ったのである。この時新笠出身の
氏族が大枝朝臣を賜ったのである。
さて、上記a.説によると、山部王は、母の里(土師真妹の生地)である山背国乙訓郡大枝で生まれ育った可能性が高い。よって乙訓郡長岡邑(後の長岡京)は、隣村であり、旧知の場所であった。よって平城京からの遷都先は諸々の条件さえ整えばこの山背国の地が好都合であると山部王時代から考えていた。という説に繋がる。
b.説では長岡京遷都の理由の一つにもならないのである。
筆者はこれだけが理由とは思わないが、a.説は有力な裏付け因子の一つだと判断するのである。
D造長岡京使の筆頭者は式家種継である。彼の母親は山背国葛野郡・乙訓郡などに勢力を持っていた古代豪族秦氏(本稿「秦氏考」参照)の娘である。また782年に中納言となり種継とともに桓武天皇の信頼を得ていたのが、「北家小黒麻呂」であり、彼の正室はやはり山背国太秦の秦氏の娘であり、その子供が「葛野麻呂」であった。783年摂津大夫となり、難波宮の解体、長岡京造営に大貢献した和気清麻呂と秦氏の関係(本稿「和気氏考」参照)も非常に緊密なものであった。「和気清麻呂」は、山部王立太子以降死ぬまで(799年没)桓武天皇の最も信頼する相談相手であった。793年に平安京への遷都を密奏したのも彼である。
この様に桓武天皇を支えた人物の多くが渡来人の裔であり関係者であった。経済的強力な支援者は秦氏であった。
E公的な遷都の詔は787年に発せられた「朕水陸の便を以て都をこの邑に遷す。云々」
であった。
以上@ーEなどの事項が複雑に絡んで長岡京遷都が決定されたものと判断する。
アマチュア古代史ファンからみた一考察である。(7−6−4参照)
3.何故長岡京を棄てて平安京に遷都したのか。
古来この謎に対して諸々の説が提案されてきた。最近の各種発掘調査(後述)の結果も含め解説論考してみたい。(「長岡京」関連歴史年表参照)
長岡京遷都・平安京遷都関係を記述した現存する公的な資料としては、前述したように続日本紀・日本後紀・日本紀略・類従国史・三代格式・類従三代格などである。これらの文書に記されている事項で長岡京に関連する事項を記したのがこの年表である。先ずこれに基づいて平安遷都の謎を探ってみたい。勿論古来からの説も紹介することにする。
@藤原種継暗殺事件もその遠因であるという説
そもそも785年の種継暗殺事件は何故起こったのか?
・桓武天皇が即位したことに不満を有する者達の一種のクーデター。782年の氷川川継の乱にも関係。
・長岡京遷都に不満を持った者達が、新都建設のリーダーである「式家種継」を暗殺することにより、この事業を中止させ、平城京に都を戻すことを画策。
・東大寺の造作を桓武は中止させた。その原因は種継らの長岡京遷都を提案したことにあるとする元造東大寺使らの不満分子の計画。
・早良皇太弟と種継は、日頃から意見が合ってなかった。早良親王一派の反乱。
・藤原式家の台頭を快く思わない一派の反乱。
どこまでが史実かは不明であるが、ほぼ同じ頃に「式家良継」の唯一人の息子で間もなく参議になるはずであった「式家詫美」が長岡京で暗殺されているのである。この記録は公的な記事にはどこにもないが、式家の系譜に記されていることに筆者は注目している。
これは、意図的に記録から除外されたのではと思っているのである。
この種継暗殺事件についても政治的配慮から、続日本紀から削除された歴史があるのであるのである。
等の諸々の因子が重なって勃発したものと考えられている。
問題は、桓武天皇自身がその反乱分子の首謀者が、自分の実弟の早良親王だと判断し、乙訓寺に幽閉後、早良親王は無実を訴え淡路島への配流中に自害したことにある。
これは桓武帝の想定外だったのではないか?
桓武帝は、弟が次期天皇になることに問題ありと日頃から判断し、自分の子供である安殿親王こそ次期天皇にするべきだと判断していた。この暗殺事件は、桓武帝にとっては非常に困ったことであるが、この際、自分にとって不都合な早良親王をこの事件の責任をとらせて、廃太子させることを選んだものと、現在は判断されているのである。
まさか、自害するとは思わなかったので桓武帝は、これを痛く悔やみ、800年に天皇号(崇道天皇)を追称したのである。桓武帝の心の傷になったものと判断されて、平安京遷都の一因だとされているのである。
A788年桓武妃「旅子(後の淳和天皇母)」没。789年皇太后高野新笠没。790年皇后「乙牟漏(後の平城天皇・嵯峨天皇の母)没。791年皇太子安殿親王の病気などの凶事が続く。
792年にこの原因は占うと早良親王の祟りであると出た。
B792年大雨・洪水多発 桂川氾濫記事。
この頃、桓武帝は長岡京廃棄を決意か?説
C793年桓武帝の永年の側近であった和気清麻呂が平安京に遷都することを密奏したとの記事。
7−6−2)長岡京発掘調査の父「中山修一」先生について 7−4)7−5)参照
「長岡京」という言葉は続日本紀、日本後記などに記されているが、その実態は永い間謎であった。その規模、具体的な形状、何を目的にした都だったのか、平城京や、平安京と何が異なり、何が同じなのか、難波京、大津京、恭仁京などと、どう異なるのか、首都なのか副都なのか、等も含め、少なくとも昭和20年代まではその意味で幻の都であったのである。
明治以降でも日本史の中で、その存在価値、歴史的価値が全く無視された存在だったのである。あの有名な歴史学者の喜田貞吉博士(京都帝大教授)(1871−1939)でさえ「桓武天皇の長岡遷都は、歴史上最も解すべからざる現象の一つである」と記しているのである。各種教科書にも殆ど記述が無いのが普通であった。
これを現(うつつ)の都であったことを立証した偉大な功労者が中山修一先生(1915−1997)であった。筆者が住んでいる京都府長岡京市出身の歴史地理学者である。先生の生涯をかけた発掘調査により、長岡京は、史実として存在し、本格的な条坊制に基づく京域を有する都であり、約5万人-10万人の人口を有する当時日本一の規模を有した首都であったことを証明したのである。詳細を記すことは省略するが、
長岡京市市史・向日市市史・長岡京市教育委員会・向日市文化資料館・長岡京市埋蔵文化財調査センター・向日市埋蔵文化財調査センター・京都府埋蔵文化財調査センター等が発行してきた各種資料及び上記参考文献などを参考にして、筆者が作成したのが
・「長岡京」関連歴史年表
・中山修一氏略歴年表
・主な長岡京発掘関係年表
である。
中山修一先生の生涯でポイントとなったと筆者が考える数点について解説をしておきたい。
@彼の家は代々京都府乙訓郡久貝邑(現:長岡京市久貝)に住んだ豪農であった。
A彼は幼い時から、歴史に興味を持ち、長岡京についても特別の想いがあった。
B師範学校を出て、地元の小学校の訓導をしていたが、さらに歴史を勉強したいと思った。
C終戦後、一般的には大学を退学せざるをえなくなる人が多い昭和21年に京都帝国大学に入学したのである。この時には既に結婚しており、2人の子供があったのである。
Dこの時住んでいたのが京都府乙訓郡新神足村開田(現JR長岡京駅の西約100m程)という所で、この付近の中山家所有の農地の区割りが、上記久貝辺りの区割りと異なることに気づいた。即ち久貝の区割りは条里制の区割りであり、開田辺りの区割りは、条坊制であったのである。歴史地理学を専門とする学生であり、「長岡京」に特別な想いがあるがゆえの発見であった。現在この地に「長岡京発見の地」という石碑が長岡京市により建立されている。
ーーー大極殿はずっと北の方と思われる。ここが条坊の地割りがされているのは、少なくともこの辺りまで京域が広がっていたことではないだろうか?長岡京は間違い無く存在していた?30才頃の話である。
E大学へは40才過ぎまで、博士課程まで進学された。一方特別扱いで京都市立西京高校などの教諭もしていた。この通学・通勤は阪急電車・JRなどを利用していたが、帰途は一つ前の駅で降りて、駅周辺の観察(彼の頭には、この辺りが長岡宮のあった所のはず。何かそれを証明する遺物・遺跡めいた痕跡はないものかと探し続けていたものと推定される。)をしていた。
F昭和28年の秋、一般的な研究活動として「類従三代格」を読んでいたら、本稿の歴史年表の795年の条に記されている蓮池の記事が目に止まった。日頃の観察でJR向日町操作場付近の農地の中で非常に水はけの悪い一画があることは知っていた。早速その区画を計測した。そして、地元の者しか分からない土地勘と、歴史地理学の知識でこの湿地こそ、あの類従三代格に記されている蓮池の跡に違いないと直感的に判断したのである。
これが長岡京発掘の発端になったのである。
G彼は、そこに記されていた「三条一坊十町」という地番を元に条坊制の区割の原則、平安京の条坊図などを参考にして長岡京復元図を机上で作成したのである。
Hその図面を京大の指導教官に提出した。ところが教官は「これでは学術的価値は無い。これを証明する何かが必要である」ということで、受理されなかった。これでへこたれる中山ではないことを教官は良く知っていたのである。38才で子供3人の父親である。普通の気持ちで京大の博士課程に進学してきた人物ではない。何か考えるであろう。
I昭和29年の暮れに勤め先の学校が冬休みに入った時、色々事前調査、地元の農家などの意見なども聞き、最後は自分を信じ、自分が作成した復元図に従えば、ここには長岡宮の存在を示す何かがあるはずだと信じて初めての発掘に着手したのである。(長岡宮の存在を示す地上の遺物・遺跡の類は、その当時全くなかったのである。それ故、幻の都だと言われたのである)
J昭和30年春に、上記の初めての発掘で発見した人工の礎石らしき物が長岡宮の朝堂院中門にあたる「会昌門」跡であることが認証されたのである。これは大発見であった。中山は、その後、次々と長岡宮にあった小安殿・大極殿跡などを発掘し、昭和39年にはそれらが史跡指定されたのである。それらの発掘の状況を昭和43年に「長岡京発掘」という本として、京大教授の福山敏男らと共著で発表したのである。
K発掘調査には多額の資金が必要である。中山は、その多くを自分の資産を売却しながらまかなってきたようである。他人には「自分には良いパトロンがおりましてね」と漏らしていたようである。この状態は昭和40年代中頃から埋蔵文化財の発掘に行政が関与することが法令で決まり、全国的に改善され、発掘調査がし易くなった。長岡京市、向日市の埋蔵文化財調査センターの設立などもこの一連の動きである。
中山の場合、この地方が宅地開発ブームになる前から重要な部分の発掘調査をやり終えていたので、経済的には大変であったが、その郷土を愛する執念と、先見の明により、一般の学者では到底不可能な発見・証明が出来たのである。人は幸運だったというが、並大抵のことではなかったのである。
その後、昭和47年に京都府乙訓郡長岡町が、市制に移行した時、その名称を「長岡京市」という日本で初めての古都の名称をそのまま付した行政体が誕生したのである。これは中山修一氏の生涯をかけた研究の賜である。その意味で長岡京市の産みの親ともいうべき存在である。
L1997年81才で他界された後、その生家の一部を遺族が長岡京市に寄贈され、2002年より「長岡京市立中山修一記念館」として、一般市民に先生の約7000冊の蔵書、及びその業績を偲ぶ遺品などを展示しているのである。筆者の「古代豪族シリーズ」の参考資料の多くはこの蔵書の中にあるのである。
MS28年暮に中山修一先生によって始まった長岡京発掘調査は、2014年には2,000回を越え、学術的にも非常に有用な各種成果を挙げているのである。現在も毎日のように発掘調査は続いているのである。
7−6−3)長岡京に住んでいた歴史上の人物解説・論考7−1)7−2)参照
長岡京にどのような人物が住んでいたかを確認することは、かなり難問である。
上記したように、今日では長岡京は桓武天皇の居られた首都であり、その機能も充分果たしていたことが確認されているが、昭和20年代頃までは、そうではなかった。よってこの都に歴史上実在が確認出来る人物の誰がこの都に住んでいたかという研究などされていなかったようだ。敢えてこの難問を考えてみたいのである。その一部は上記中山修一著「長岡京」京都新聞社(1984)に記されており、それを参考にした。
前提条件:対象になるのは
@上記古文献に記事のある人物で、生没年が判明しており、784−794の間に生存していた可能性が確実な人物。
A桓武天皇の后妃など、生没年は不明確ではあるが、桓武天皇と大人として直接関係があったと思われる人物。
B明らかに784−794の間に産まれたと判断出来る、有名人物の子息など。
C関連系図などで明らかにこの期間に生存していたことが予測される人物。
D生没年不詳でも上記有名人物との交友記録が残されている人物。
E発掘調査などで住んでいたことが予測される人物。(有名人物でなくとも)
などである。
これらを天皇家関係・藤原四家関係・古代豪族関係・その他に分類して記したのが7−1)<長岡京に住んでいた歴史上の人物>である。
この中で人物名の後に×印を付した人物は、長岡京に何らかの関係があったが、長岡京時代には既に他界していたことが明白な人物、または、この時代に生存していたことは明白だが長岡京以外の別の場所で活動していたことが明白な人物である。
太字の人物名は歴史上注目すべき人物である。
集計出来た総人数は約270名であった。勿論筆者の調査範囲は限られているので、これ以外にも多数いたものと推定しているが、歴史上有名な人物はほぼ網羅されているものと判断しているのである。読日本紀などにはこれ以外にも多数の人名が記載してあるが、長岡京との関係がはっきりしない、大勢に影響ないと判断した人物は除外した。
長岡京時代は桓武天皇親政時代である。天皇家・藤原四家・朝廷の役人関係を除く人物の記録は殆どないのである。
特記すべき2人の僧について先ず記しておきたい。
天台宗祖「最澄」(767−822):長岡京時代は間違い無く生存していた。しかし、彼は近江国滋賀郡古市郷産まれ、783年まで近江国分寺で修行、785年東大寺・比叡山修行 804年遣唐使 805年帰国 などで長岡京には無縁であった。
真言宗祖「空海」(774−835):四国讃岐国産まれ。ーーー788年15才の時上京し、母方の叔父(異説あり)である当時伊予親王の家庭教師をしていた「阿刀大足」の世話になった。そこで大学に進学する準備をし、792年18才で京にある大学に進学した。ーーーという内容の古文書が残されている。この文章の解釈は、従来は「京」は平城京であるとされてきた。
ところが上記中山修一氏らの発掘調査により、長岡京が現実の都であったので、788年と言えば上京したのは長岡京であったことになる。また叔父の阿刀大足は歴史上知られた人物であり、伊予親王の侍講であったことも公知である。伊予親王は桓武天皇の息子であり、長岡宮内に住んでいたことは間違い無い。ということは、阿刀大足も長岡京域にいたことであろう。即ち、佐伯真魚(まお)後の「空海」が、受験勉強したところは長岡京である。という説が浮上してきたのである。ところが、後半の大学のある京は明らかに平城京である。(長岡京には大学寮は当時存在してなかった)
上記古文書は、京の字を2つの意味に使っている可能性があるのである。
一方「真魚」が当初逗留したのは、佐伯今毛人が平城京内に建立した「佐伯院」(史実ではあるが現存していない)という氏寺である。その後、阿刀大足について受験勉強したとの説もある。これだと、最初は少なくとも平城京に住んでいたことになる。
筆者は15才-18才まで長岡京に住み、大学は平城京へ行った、と解するべきだという説に与したい。(年表参照)空海と阿刀大足一族の関係はその後も続く。804年の遣唐使船に空海が乗れたのは、この大足の支援があったという説。阿刀大足は、「伊予親王の変」により、没落しかけたが、空海が「東寺」を賜ったとき、その別当家に阿刀氏を入れ、幕末まで東寺別当家は阿刀氏関係者であったとされている。(既稿「阿部氏・膳氏考」参照)
空海は804年遣唐使船で渡唐。806年帰国。809年入京。嵯峨天皇の命により、811−812山城国乙訓郡の「乙訓寺」別当となり赴任してきたのである。これが上記の長岡京時代の縁が関係していたかどうかは不明である。一般的には早良親王の霊を弔うためだとされている。これ以降の空海の活動は長岡京とは無関係になる。
以下に分類ごとに解説・論考が必要な人物を挙げたい。
・<天皇家関係>
@多治比真宗・葛原親王:787年に参議になった多治比長野の娘「真宗」と桓武天皇との間に産まれたのが、後の「桓武平氏」の祖となった葛原親王である。786年長岡京で誕生したとされている。現在の京都府乙訓郡大山崎町円明寺の若宮前公園内に葛原親王屋敷跡、同字葛原にある葛原児童公園内に葛原親王塚伝承地の石碑が残されている。あの平清盛らのご先祖の地なのである。
A百済永継・良岑安世:渡来人飛鳥部氏の娘で藤原北家内麻呂(後に右大臣になった)室であり北家真夏・冬嗣の実母であった永継が桓武天皇の後宮に入り、785年に皇子「良岑安世」を産んだ。これは非常に珍しい事例である。天皇の妃の一人を廷臣に下賜する例は古来沢山ある。しかし、廷臣の夫人を、しかも子供を産んだ女性を天皇が妃に迎えることは普通無いことである。784年頃入内したと推定すれば、永継の夫、内麻呂は参議には、なっていなかった。何があったのであろうか?古来色々取りざたされた話である。10年後内麻呂は参議になった。そして806年右大臣になった。北家としては20年以上も無かった大臣職である。810年真夏参議・811年冬嗣参議、正に藤原北家時代の到来である。この根っこにあったのが、内麻呂の愛妻の桓武天皇への献上という驚くべき史実である、という説が現在もあるのである。確かに嵯峨天皇と冬嗣は義兄弟になっていたのである。嵯峨天皇にとって、外戚である藤原式家より義兄弟である冬嗣の方が遙かに頼りがいがあったのではなかろうか。さらに816年には冬嗣と同母腹の桓武の息子「良岑安世」が参議になったのである。冬嗣にとって非常に強い味方が出来たのである。(5-2表参照)
B藤原吉子・伊予親王:南家吉子と桓武の皇子伊予親王は783年生まれとされている。一方安殿親王は774年生まれとなっている。「伊予親王」の783年生まれには疑義があるとされている。桓武天皇は伊予親王をこよなく可愛がった。一方安殿親王と桓武天皇の関係はあまり良くなかったとされている。また先述した阿刀大足は伊予親王侍講を788年の空海が上京してきた時していたとされている。しかし、この時伊予親王は5才だったことになる。論語や儒教をこの年令でしていただろうか。
伊予親王は807年大和国川原寺に母と共に幽閉され自害した。これは式家が南家の台頭を
抑えるために仕組んだ事件とされている。安殿親王長男説、伊予親王長男説、伊予親王次男説、伊予親王の変は絡み合っているのでは?藤原種継暗殺事件、式家詫美暗殺事件、も絡んでいるのであろうか。
ところで異説として伊予親王自害の川原寺は、大和国にある有名な川原寺ではなく、長岡京にあった京下七寺の一つであった「川原寺(現存していない)」であるという伝承がある。筆者は無視出来ない説だと判断しているのである。
C神王・壱志濃王・五百枝王・和家麿:桓武天皇関係系図参照。
神王と壱志濃王は桓武天皇の父方従兄弟。和家麿は桓武天皇の母方従兄弟で、晩年の桓武天皇の良き相棒として議政官となった。和家麿は渡来人系としては初めての議政官であった。五百枝王も桓武天皇の父方の親族。母親は桓武天皇の姉である。嵯峨天皇・淳和天皇朝で参議として活躍。
・<藤原氏関係>
@南家是公・継縄:共に同年令で、是公は783−789右大臣、継縄は790−796右大臣で、どちらかが発掘調査で6条1坊の現在の長岡京市立第9小学校付近に住んでいたと推定されているのである。
A北家雄依・北家末茂:共に北家。雄依は永手の子供。末茂は魚名の子供で、種継暗殺事件関与し左遷された。北家は永手流、魚名流はこれにより、本流から外されたとされている。小黒麻呂ー葛野麻呂が表舞台にいたが、この流れはここまでで、最終的には真楯ー内麻呂ー冬嗣が着実に伸びてきた時代である。
・<古代豪族関係>
@大中臣清麿・子老・諸魚・継麿・淵魚:清麿一族が活躍。(系図参照)
A大伴家持・継人・永主:反長岡京派の主力氏族と目され、種継暗殺事件の中心とされた。
B佐伯今毛人・真守・葛城:この時代造長岡京使、などとして活躍。(系図参照)
C石川名足・真守:石川氏は旧蘇我氏である。長岡京時代の議政官 真守が石川氏として最後の参議となった。(系図参照)
D紀船守・古佐美・楫長・広浜:長岡京時代は船守・古佐美が議政官として活躍。この一族は光仁天皇の母方の出身氏族であり、この後も朝廷で優遇された。(系図参照)
E秦足長・太秦公宅守:長岡京造営に貢献した。居住地が長岡京内かどうかは不明
F百済俊哲・武鏡・仁貞:百済王氏で本拠地が河内国交野なので、長岡京に住んでいたかどうかは判然としないところもあるが、桓武妃を多数輩出しており、京内にも住居はあったものと判断した。(系図参照)
G吉備泉:真備の息子、種継暗殺事件で左遷されたことから、長岡京に居たと推定。
・<皇別氏族関係>
@橘清友・氏公・逸勢・嘉智子など:橘氏は平安時代「源平藤橘」と言われるほど、繁栄した氏族となる。その原点的人物は嵯峨天皇皇后であった嘉智子である。(系図参照)
A淡海三船:「懐風藻」撰者 785年長岡京で没した記事あり。
B多治比長野・真浄:何故この時代に多治比氏が歴史的に記録されているのか、不思議
である。これ以降平安時代には殆ど記録がないのである。(系図参照)
・その他
@紀千世:続日本紀:781従五位下・783 中衛少将・785 豊後守・795 弾正弼
紀氏系図では確認出来なかった。発掘調査で紀千世と記された墨書土器を左京6条2坊で発見。発掘調査で住民の名前まで分かる事例は非常に珍しい。
A石川吉備人:石川豊人の息子か?(系図参照)。古文書(六条令解)で長岡京左京6条1坊に住んでいた吉備人の土地売買文書が見つかった。
7−6−4)長岡京関連歴史年表 解説・論考 7−3)参照
本年表は長岡京市史に記載されている年表を元に筆者が諸々の資料から得られた関連事項を追記したものである。
これに関し補足説明、論考を記したい。
@長岡京遷都以前の地元記事の主なものは、乙訓寺創建記事、乙訓郡火雷神(乙訓社)くらいで古文献に残されている記録は殆どないのである。
A784年に任命された造長岡宮使は、全部で18名であった。そのトップが藤原式家種継中納言で、佐伯今毛人参議・紀船守参議がこれを補佐する形になっている。
それまで中納言であった大伴家持は、長岡京遷都の反対勢力と見なされ、事前にその任を解かれ持節征東大使として奥州に派遣(約6ケ月間)されていた。その間隙をぬった急激な遷都がされたのである。
B遷都に先立ち、造長岡宮使の一人である大中臣諸魚(元右大臣清麿息子)を松尾神社と乙訓社に派遣して神階として従五位下を叙位した。この乙訓社が現在の向日神社だとする説と現角宮神社だとする説があり、論社になっているのである。
C785年には有名な「藤原種継暗殺事件」が起こった。場所は長岡京島院付近、現在の向日市の島坂付近で射殺されたのである。桓武天皇が長岡京不在の時に起こった。目的は反長岡京遷都勢力による反乱行為だとされた。(諸説あり)当初の続日本紀には詳しくこの事件の経緯などが記載されていたが、後年桓武天皇の命令でこの部分は削除された。その後、嵯峨天皇などの意向で一部復活されたらしい。しかし、現存している古文書で一番詳しく記載されているのは「日本紀略」だとされているのである。
その中に、この事件の処罰者が記されている。これを参考に記すと
・早良親王:皇太子:廃太子(淡路島へ配流中に死去):800年崇道天皇号追称
・五百枝王:桓武親族(系図参照):伊予国へ流罪:806年復位、819年参議
・大伴家持:中納言・早良親王側近:病没していたが、官位剥奪:806年贈従三位
・大伴継人:古麿男(系図参照):死罪
・大伴真麿:系図不詳:死罪
・大伴永主:家持男(系図参照):隠岐国へ流罪:806年従五位下
・大伴竹良:系図不詳:死罪
・大伴湊麿:系図不詳:死罪
・大伴国道:継人男・大納言善男の父(系図参照):佐渡国へ流罪:803年入京
・佐伯高成:老男?(系図参照)・早良親王側近:死罪
・紀白麻呂:系図不詳・早良親王側近::隠岐国へ配流:806年正五位上
・多治比浜人:系図不詳・早良親王側近:死罪
・藤原小依:雄依(北家永手男)(系図参照)大蔵卿:隠岐国へ配流:806年従四位下
など。死罪斬首者は計8名の記載あり。
この事件の真相は現在でも謎とされている。
いずれにせよ、本事件により長岡京造都計画には著しい影響があったことは間違いない。
これにより、長岡京は「宮」は建造されたが、京域までには及ばず、桓武天皇は平城京で日頃の政務を行い、次ぎの平安京が出来上がるまで、時々長岡宮に出かけていた。それだけの意味しかない都?であったのだ。的な評価しかされていなかったのである。
これが後に「幻の都」と言われる原因となった事件である。
しかし、長岡京造都そのものが中断された訳ではなかった。現在では発掘調査の結果でもそれが証明されているのである。
D785年の特記事項としては、桓武天皇が冬至の日に長岡京の真南の川向こうにある河内国交野で「郊祀」を行ったことである(前述参照)。史実として日本の天皇が「郊祀」という中国の皇帝が行った祭祀を実施したのは初めてであるとされている。日本書紀には神武天皇も行ったという記事があるが、これは現在では史実としては認められていないのである。
この桓武天皇の「郊祀」は787年にも行われている。この史実こそ、桓武天皇が長岡京を中国の都に匹敵する都にしようとした証拠であり、決して副都、仮都などと考えて遷都したのでは無い、と判断できると主張される学者もいる。
この「郊祀」の場所が百済王氏の本拠地「交野」であったことも、色々議論されているのである。あくまで推論の域を出ていないが、ア、日本の天皇家の出自は朝鮮半島南部にあった百済国の王族に繋がる。ロ、790年の詔:「百済王等は朕が外戚なり」
ハ、記紀神話 ニ、百済明信との関係 ホ、天皇妃に百済王氏の娘を異常に沢山入れた
ヘ、渡来人を沢山議政官に採用した ト、771年光仁天皇が交野へ行幸・783年桓武天皇が交野に行幸 チ、桓武天皇は長岡京時代にも鷹狩などの名目で数十回も交野に行っている。 などなど。桓武天皇にとって河内国交野は特別な地であったことは間違いない。
これを、長岡の地が遷都先に選ばれた真の理由であるという説もある。
E786年に和気清麻呂が、高野新笠の系譜を調査し、桓武天皇に撰上した。(前述参照)
元々桓武天皇の母親「和史乙継娘新笠」の和氏の系譜は不詳であった。渡来系の祖先を持つ身分の低い官吏と言うくらいしか分かっていなかったらしい。
今や天皇になった桓武天皇の母親の素性が分からないでは、問題である。そこで内々に桓武天皇は一番信頼し、頼りにしている「和気清麻呂」に調査を命じたのである。
その結果が、百済王である武寧王の息子である純陀太子(百済王聖明王の弟)こそ和氏の祖であり、その7代孫が新笠の父親であるという系譜を提出したのである。(系図参照)
これによると、交野に本拠地を有する貴族である百済王(くだらこにきし)氏(聖明王の裔)と同祖であることが分かったのである。これが、786年記事の「帝甚だこれを善す」に繋がるのである。それがまた、789年の高野新笠崩御記事の百済武寧王の子「純陀太子」より出た。790年記事の詔「百済王等は朕が外戚なり」に繋がる訳である。
日本書紀継体天皇7年(513年)に「百済太子淳陀薨」とある。淳陀と純陀が同一人物かどうか。同一なら和気清麻呂はこれを和氏の祖としたことになるが、朝鮮側の資料には武寧王の子供に「純陀」も「淳陀」も記されていないのである。
いずれにせよ和気清麻呂が提出した系譜そのものは、現存して無く、続日本紀・新撰姓氏録の記事のみが残されているのである。伝承されている筆者が記した関係系図は、この続日本紀などの記事を引用したものであろう。
F787年に初めて桓武天皇の長岡京遷都の詔「朕水陸の便を以て都をこの邑に遷す。云々」が出された。ここの部分が古来、何故に長岡に遷都したのか?という謎の部分である。
G788年天皇妃「藤原旅子」没、789年皇太后高野新笠没。新笠御稜「大枝山稜」790年皇后藤原乙牟漏没と連続して桓武天皇の身内に不幸があった。
新笠御稜「大枝山稜」は実在している。山背国乙訓郡大枝郷沓掛にある。
何故この地に新笠の稜をつくり、新笠の母親で土師真妹の一族に大枝朝臣の姓を賜姓したのかが古来論争されている。これについては前述したのでここでは省略する。
H791年皇太子安殿親王が重い病気にかかり、「京下の七寺」で病気平癒の読経をした記事。桓武天皇は長岡京遷都に際し、平城京からの寺社の移転を禁止した。よって長岡京には、遷都前からそこに存在していた寺しか無かったのである。これが京下の七寺と呼ばれている寺である。発掘調査などでその存在確認はされているが、現存しているのは、早良親王が幽閉されたとされる乙訓寺だけである。
I792年ここ数年天皇家周辺で起こっている凶事、皇太子の病気、洪水などは「早良親王」の祟りであるとの占いの結果が出た。と記されている。これが史実かどうかは謎であるが、桓武天皇が長岡京廃棄の決意をしたのは、この年ではないかと最近は言われているのである。新都造営大夫もこの年に任命されているのである。
J793年日本後記に和気清麻呂の桓武天皇への密奏文が載せられている。平安京の造営も開始されている。
K794年平安京に遷都。
この時の朝廷の体制:右大臣:南家継縄 大納言:北家小黒麿没 中納言:紀古佐美
・神王・壱志濃王 参議:南家雄友・南家真友・南家乙叡・北家内麻呂・大中臣諸魚
注目点:藤原四家 南家:4名 北家:1名 式家・京家:0名
中納言に皇族(桓武天皇の父方従兄弟)2名 となり式家は桓武の支えと、なれなかった。
L795年旧長岡京の地8町が勅使所の藍圃・近衛府の蓮池云々の記事。
これが上述した類従3代格に記されている記事で、これに中山修一氏は注目し、長岡京発掘のきっかけとなった記事である。
・長岡京はこれ以降歴史上からは消滅するのである。
<長岡京に関する筆者の主張>
@桓武天皇は練りに練って、長岡京遷都を実施した。単に平城京が厭になったから、一度気分転換の為に、どこかへ遷都してみよう、的な発想で決断したものでは無い。
Aその場所を山背国乙訓郡長岡邑にしたのも、彼にとっては必然性があったものと判断する。ここでなければ意味がない位の必然性があったのである。
B父49光仁天皇は、余りに高齢で天皇に推戴されたため、皇統が天武系統から天智系へと大転換されたにも拘わらず、諸事情により、新都を造営することは、叶わなかった。50桓武天皇は、皇太子時代に国のあるべき姿、天皇のあるべき姿、都のあるべき姿、など諸々のことを考えたことであろう。
C新しい都には天武系の血脈を排除し、天智系の血脈を重んじた親政体制を敷いたと思える。平城京の寺社の移転を禁止したのも、その一環だと判断する。
D式家種継の暗殺事件は、桓武の想定外の事件だったと思う(最大の躓き)。しかし、これによって平城京勢力を一掃したことにもなった。早良親王は、平城京勢力の一人であったことは間違い無かったであろう。自分の子供「安殿親王」を皇太子に出来たのは、転んでも只では起きぬという、強かさの表れでもある。並の天皇ではない。
E何が起ころうとも、長岡京の建設は止めないという、強い意志が感じられる。
新しい国家を築き、唐の都(長安)に匹敵する都を造り、新皇統による争いの無い皇位継承が、この都で永遠に継続することを願っての都造りであった。
Fなのに何故、僅か10年程でこの都造りを断念したのか?多くの説が出されているが、洪水説は発掘調査をされた研究者の多くは発掘結果から疑問視している。祟り説か?都設計ミス説?など現在の感覚では、理解出来ないことが多い。筆者は、次の都の名前「平安京」に、その総てが集約されているのではないかと、判断している。
即ち桓武天皇の目指した新都造りの目的はEで記したものであった。その多くが長岡京造営で挫折してしまった。これを、このまま永続しても次期天皇となる、ひ弱な安殿親王ではEをこの長岡京で達成させることは、無理であると結論した。そこで敢えて自分の手で新都を造り直すという策を選んだものと推定する。
Fしかも、平安京の造営は長岡京のように急がずに、何代もかけてEを達成すれば良いという心境になったのではなかろうか。「式家緒嗣ー菅野真道」論争の結論がその証拠である。
Gこの遺志を継いだのは、平城京生まれの51平城天皇ではなく、長岡京生まれの52嵯峨天皇だったと判断する。同時にこれを支持し強力に推し進めたのが、藤原北家冬嗣流の面々だったのである。
H50桓武天皇は、日本古代史の中で特筆するべき傑物である。この天皇の出現により、それ以降の日本の歴史が大きく変わったと判断する。その原点が長岡京である。
I埋蔵文化財の発掘調査の威力が具体的に示された典型例が長岡京発掘であり、そのきっかけを作った中山修一氏のことを、より多くの現在の国民が知る必要がある。古代史関係の学者は勿論であるが、文部科学省など関係諸機関の関係者の再認識を強く望むのである。
<謝辞>
本稿(7)参考)「長岡京について」を作成にあたり、長岡京・中山修一氏・発掘関係に関し、各種指導、情報提供をしてくださった関係諸機関の皆様に感謝申し上げます。一部筆者の誤解、理解不足の事項がございましたらご容赦下さい。
8)まとめ(含む筆者主張)
藤原式家に関して筆者の独断と偏見に基づいて「まとめ」をした。
@古代豪族「藤原氏」は神別氏族である中臣氏から派生した氏族である。
A中臣鎌足の臨終に際し、天智天皇から藤原姓を賜姓された。当初、中臣氏は総て藤原朝臣姓になったが、藤原不比等の時(文武天皇詔)、不比等の直接血族以外は、旧姓(中臣氏)に復姓することになり、直系子息のみが藤原朝臣姓となった。
B不比等には4人の息子がいた。長男「武智麻呂」次男「房前」三男「宇合」四男「麻呂」であり、それぞれ南家、北家、式家、京家と称するようになった。
C不比等の娘「宮子(文武天皇妃)」の子供が45聖武天皇となり、その妃に不比等の娘「光明子」がなった。この聖武天皇の時、不比等は右大臣となり、次男「房前」が参議となった。これは当時としては、異例の人事であった。即ち、一氏族から議政官は一人しかなれないという不文律があったからである。
D不比等没後、さらに朝廷は諸事情により、藤原氏から武智麻呂、宇合、麻呂の三兄弟を議政官とした。即ち藤原四兄弟政治の時代が誕生した。しかし、この体制は永く続かず、737年、天然痘の大流行により、この四兄弟が次々に病死したのである。
E以後、藤原四家の2代目達の競争時代に入った。この時代にはその勢力規模から、藤原四家はそれぞれ独立した氏族(豪族)扱いになっていたと推定している。
四家間の息子達には、年齢差もあり、先ず南家が先行し、北家、式家が続いたが、京家は著しく遅れた。
Fまた、式家は、長男広嗣の乱により、その他の兄弟の出世が著しく遅れた。橘奈良麻呂の乱を経て、南家の次男恵美押勝の乱による南家の沈没。北家のみ何事もなく伸張した。しかし、48称徳天皇の頃には京家を除く3家からそれぞれ議政官を輩出出来る状態に戻った。光明皇后が藤原氏をバックアップした力は、多大であった。
G48称徳天皇(46孝謙天皇)は聖武天皇と光明子の間に生まれた女性天皇である。ところがこの天皇の後継の目途は全くたっていなかったのである。これには藤原氏の画策があり、藤原腹以外の男性天皇の擁立を阻んでいたのである。48称徳天皇は後継天皇を決めることなく他界した。
H時の朝廷の実力者は、北家永手左大臣・吉備真備右大臣・式家良継参議などであった。
真備は天武系の皇族を推薦したが、永手・良継らは、皇統の異なる(天智系)白壁王を推し、条件として白壁王と45聖武天皇の娘井上内親王(非藤原氏腹)の間に生まれていた他戸親王を皇太子(次期天皇?)立てる、ということで天武系及び豪族連中の合意をとりつけ、高齢の49光仁天皇が即位したのである。
I翌年北家永手が他界した。ここで、式家良継・百川参議らが策を巡らした。以前の約束事を反故にしたのである。彼等にとって非藤原腹の天武系の天皇など、とんでもない事であった。井上皇后と他戸皇太子に難癖をつけ、廃后・廃太子にした。
J後任の皇太子として、パトロンが全くいない渡来系低級官吏の娘を母に持つ光仁天皇の長男である山部王に白羽の矢を当てたのである。そして、遂に井上・他戸親子2人ともを自害に追い込んだのである。これは主として式家百川の仕業だとされている。その後間もなく新皇太子の妃に式家良継の娘「乙牟漏」を入れたのである。774年には息子が産まれた。後の安殿親王である。これが天皇になれば、式家は正に天皇外戚になるのである。
K光仁天皇の時代(770−781)は、正に式家の最盛期であったと言える。南家・北家・京家の勢力は式家より遙かに劣っていたのである。他の豪族にも式家を凌駕する人材は居なかったのである。結果論ではあるが、古代史における歴史的転換の時期だったのである。即ち皇統が天武系から天智系に替わり、それを本物にする準備期間だったのである。
これをやってのけたのが、藤原式家であるといっても過言ではない。
Lところが式家にとって不幸が起こった。式家良継・百川の相次いでの病死である。山部皇太子が桓武天皇として即位した時には、彼の最大の支援者である式家のリーダーはこの世に居なかったのである。そこで今度は桓武天皇が、式家のリーダーとして、式家種継に白羽の矢を当てたのである。種継の父は謎の人物である。母は秦朝元娘で渡来系の娘である。桓武天皇は、皇太子時代から自分が即位すると、平城京から別の場所に遷都する計画を持っていたと推定される。早速、内々に種継を中心とした若手有能廷臣に遷都計画案を策定させて、着々とその準備をさせた。
M784年突如として都を山背国乙訓郡長岡邑に遷都した。勿論造長岡宮使のリーダーは式家種継中納言であった。種継は、失墜しかけた式家の復権のリーダーとして、燃えていたに違いない。この時の皇后は種継の従兄妹である。頼りとする相棒としては、北家小黒麻呂中納言がいた。彼の正室は、やはり渡来系の秦氏の娘であった。
N785年式家の思いは断ち切られた。種継暗殺事件が起こった。桓武天皇不在中の事件であった。詳しくは本論に記した。歴史上ではこの事件により、長岡京建設は挫折し、中断されたと思われていた。ところが、最近の発掘調査の結果、長岡京の規模は南北5,4Km東西4,3Kmを有する後の平安京に匹敵する規模で、その8-90%は建設が完了していたことが判明している。よってこの種継暗殺事件では、建設は中断されずに続行されていたと判断されているのである。
O藤原式家にとっては致命的な事件であった。元々式家は南家・北家に比し、男児に恵まれて無く、年令的にも断層があり、種継にとって替わる人材がいなかったのである。
長岡京時代は、これ以降議政官を輩出できなかったのである。
P794年平安遷都を余儀なくされた桓武天皇は、自分を天皇にしてくれた最大の恩人である式家百川の嫡男「緒嗣」(後の53淳和天皇の母旅子の兄)の成長を待ち望んでいたのである。802年歴代最年少の参議が誕生したのである。自分の死後当分の間は式家腹の天皇が続くはずである。それを心から支えてくれるのは式家の人間である。年老いた桓武天皇の最後の切り札であった。805年の歴史に残る所謂「徳政論議」こそ、桓武の気持ちを如実に残した物と判断する。
Qしかし、現実は厳しかった。51平城天皇時代は短命で式家仲成・薬子らが乱を起こし式家の朝廷内の信頼は著しく低下した。52嵯峨天皇も式家腹の天皇であるが、緒嗣より北家冬嗣を選び、遂に朝廷内で北家の下位になってしまった。53淳和天皇になっても緒嗣は長生きして、冬嗣に続いて左大臣に就いた。しかし、これは実権をともなった物ではなく世は既に北家冬嗣流が牛耳っていたのである。
R世が54仁明天皇になったとき、「式家吉野」が中納言になった。式家復権のチャンスが来たのである。ところが、「藤原北家良房」が仕組んだ842年「承和の変」により、吉野中納言は失脚したのである。そして、843年「緒嗣左大臣(69才)」が没した。
以上が藤原式家としての主な記録である。式家は堂上家は1家も無く、南家・北家とは全く異なる歴史を繋ぐのである。系図的には室町時代初期までは確認できるが、特記するべき事項はないのである。(2014-10-29脱稿)
9)参考文献:
・人物叢書「桓武天皇」 村尾次郎 吉川弘文館(1996)
・日本の歴史04「平城京と木簡の世紀」渡辺晃宏(2001)
・日本の歴史05「律令国家の転換と日本」坂上康俊 講談社(2001)
・桓武と激動の長岡京時代 国立歴史民族博物館編 山川出版社(2009)
・遷都1200年「長岡京」中山修一 京都新聞社(1984)
・長岡京発掘 福山敏男・中山修一・高橋徹・浪貝毅 NHKブックス(1968)
・新版 長岡京発掘 福山敏男・中山修一・高橋徹 NHKブックス(1984)
・長岡京市史 長岡京市史編纂委員会(1997?)
・中山修一ものがたり 小鉄勝美 中山修一先生をたたえ胸像を作る会(2004)
・「桓武天皇」 井上満カ ミネルヴァ書房(2006)
・「光明皇后」 林 陸朗 人物叢書 吉川弘文館(1961)
・「藤原不比等」 高島正人 人物叢書 吉川弘文館(1997)
・「藤原不比等」 直木孝次郎 学生社(1985)
・太田 亮「姓氏家系大辞典」
・フリー百科事典ウイキペディアの各種関連hp
・その他関連の多数のhp など
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