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37.巨勢(こせ)氏考(附:平群氏)
1)はじめに
 アメリカ合衆国の大統領にオバマ氏が選出され2009年1月20日大統領に就任した。これは世界史に残る画期的なことだと筆者は判断する。事の善し悪し、主義主張思想信条の壁・民族の壁を超越した歴史的な事だと思う。武力によらないで民主的選挙によって一国のリーダーとして、白人支配を自認し世界のトップのリーダー国を自認してきた国であるアメリカが、黒人のリーダーを選んだことに驚きと脅威と畏敬の念を持たざるを得ない。アメリカ合衆国は凄い国である。
そしてアメリカ合衆国だから可能だったと思わざるをえない。現在の世界中でこのようなことが可能な国が他にあるだろうか。南米ペルーでは日本人である藤森氏を大統領に選んだではないか。それとこれとは一寸異質であると筆者は判断している。
これを現在の我が国に対応して考えて見た。
白人の留学生が日本に来て日本人の女性と結婚し男の子供が出来た。その子供は日本国籍を有することは可能である。その男の子が成人して同じく日本国籍を有する白人の女性と
結婚して限りなく白人に近い日本人を産んだと仮定しよう。
この留学生の子供は被選挙権を有し国会議員になることも可能である。青い目をしたブロンズ髪の毛をした非常に有能な人物だと仮定しよう。さてこの人物が内閣総理大臣に各種難関を突破してなれる可能性があるだろうか。最初の留学生がアジア人だった場合、黒人だった場合をも想定してもらいたい。筆者の独断と偏見ではあるが、現在の日本では答えは、はっきり「ノー」である。これは、イギリスでも、フランスでも、ドイツでも中国でも韓国でもアラブ諸国でも同じであろう。(但し白人国の場合は黒人、アジア人、アラブ人など異民族留学生とする。)
白人国には白人のリーダーが選ばれ、黒人国には同一民族の黒人が選ばれ、アジア人国
には同一民族のアジア人がそれぞれリーダーに選ばれるのが最も旨くいく事であると極一般的に考えられている。アメリカ合衆国には既に非常に多くの黒人が、有色人種が参政権を有して住んでいた。よってこれを白人支配国だと考えるのは問題であるという方もおられるでしょう。筆者はだからといってオバマ氏が過半数の国民の付託を獲得したとは思えない。多くの白人であるアメリカ人が敢えて黒人であるオバマ氏を自分らのリーダーに選んだものと推定している。
アメリカは、多くの他の国とは異なる宗教・歴史・文化・慣習・価値観を築いた国なのである。
宗教・歴史・文化・慣習・価値観などが異なる人々の集団がこの地球上に現在の国の数以上に存在していることは現実である。国際上の各種紛争は現在もこれからも続くであろうとされている。個人的に見れば誰一人として紛争はしたくないと思っているであろう。(そうでない人もいることも現実)ところが団体になった時は、人間という動物は豹変するのが歴史的事実である。
現在の日本では、個人的に言えば宗教・歴史・文化・慣習・価値観は日本人の中でも皆異なるよ、と主張される方々が多数おられると思う。それだけ日本は変化しており世界的視野に立てば幸せな国だとも言える。ところが一歩外から見た日本国観・日本人観はどうであろうか。
筆者のつたない経験からいえば、個人的な範囲は別として国という単位で見れば、アメリカ、中国、フランス、ドイツ、イギリス、韓国、など諸外国とは全く異なった宗教・歴史・文化・慣習・価値観を有する国であり、国民であると見られているのである。当たり前のことである。我々が好むと好まざるを問わず我々は、極平均的な日本人なのである。(本シリーズ入門稿を参考にして貰いたい。)
我々日本列島にいた祖先達は遙か遠い昔より、中国・朝鮮半島・東南アジア諸国の文化を吸収し改良し独自の文化をも構築しながらさらに欧米の近代文明を必死に勉強し現在の日本を構築してきたことは事実である。これと同じ経緯を辿った国は世界にはないのである。現在世界に存在するどの国も他の国とは異なった経緯を経て現在があるという意味では同じであることをお互いに認め合い尊重し合うことこそ真の国際友好の原点であると筆者は信じる。
現在我々日本人がオバマ氏のような人物を日本のリーダーには選出出来ないことも日本とアメリカは集団の価値観において大きく異なることをお互いに知り合うことが重要である。事の善し悪しは別である。
戦後の日本の歴史認識は、少なくとも公的には、国内的にも国際的にも余りに自虐的である、という議論が時々政治面でも個人レベルの話題にもなる。これが教科書問題になったこともある。特に中国・朝鮮半島の国々との関係でギクシャクしているのも事実である。
筆者は、この問題に対する歴史学者の果たすべき役割は非常に重要であると判断している。
思想信条の問題で歴史を判断してはならないと思っている。
先ず大切なことは、歴史的事実の解明を明確にすることである。少なくとも明治以降の日本が関与した(特にアジア諸国との)国際的な事項については、証拠に基づく国際的な事実関係の合意作りが必要である。これは簡単そうで難しいことは理解できる。しかし、だからといって放置していてはならない。次ぎの世代に本当の事実は、かくかくしかじかであったと一方的ではなく国際的に合意される形で歴史認識を合わせる必要がある。
場合によっては第3者の協力もいる。中国・朝鮮半島・台湾など関係諸国の歴史学者・政治学者の協力がいる。
現在の政治家は、この問題に関する事実関係解明にお互いに関与しないという国際的合意が必要。
その上に立った上で日本は国として国際社会に対してしかるべき対応をこうじるべきである。それがそれぞれの国の次ぎの世代へ果たすべき我々世代の使命である。
ドイツ国が戦後行った対応も大いに参考にするべきである。
以上グチャグチャと愚論を書いたが、筆者の古代豪族シリーズの根幹に触れる問題を含んでいるので敢えて述べたのである。
明治以降の日本政治は皇国史観に基づく軍国主義が終戦まで続いたと言われている。
その史観を形成した根本思想は、奈良時代に編纂されそれ以後の日本政治の思想面のバックボーンとなった日本書紀・古事記という日本最古の歴史書にあり、この思想が日本の軍国主義のバックボーンとなり日本を誤った方向に走らせたのである、よってこの記紀の記述が如何に間違った思想・創作に基づいたものであるかを一般国民に知らすことが大切である、という概念が戦後多くの優秀な心ある歴史学者及びその周辺で花開いたのである。
そして、その研究活動は一定の国民的評価を得て記紀批判することは古代史研究の必須事項の観を呈した。一方、記紀の記述をそのまま認める者は歴史学者にあらず、学会活動においても一種の右翼扱いをされ、軍国主義者とレッテルを貼られるという、戦前の全く逆現象が日本史学会全体のムードになったようである。(これは筆者が或人物から間接的に聞いた話なのでどこまでが真実かは不明)
さらにこの風潮に悪乗りしたのが、唯物史観問題があり、話はさらにややこしくなったようである。歴史的真実の究明・探索よりも記紀記事の背景思想批判、ひいては記紀編纂を
蔭で操った持統天皇・藤原不比等の思想問題の誤りの追求にその精力が費やされるようになった。
アマチュア古代史ファンも含め、戦後発見された多くの古文書の類も皆同類の創作・偽書問題に晒された。
筆者は以前にもこの問題に何度も触れてきた。
今我々一般国民が知りたいのは
@記紀にはどんなことが記されているのかの解説。
古代史学者の重要な啓蒙活動である。馬鹿にしてはいけませんぞ。
記紀そのものの現代語訳をそのまま読んで理解できる人は皆無に近い。
Aその記紀の記事のどの部分が史実でどの部分が史実でないのか。どの部分が伝承記事で
史実であるのかどうかが分からないのか。どの部分が意図的創作なのか。今日本の史学会で通説になっていることを明確に解説する必要がある。
B上記判断する理由は何か。
などである。
現在発掘考古学の分野も非常に進んできた。これと記紀記事との照合が重要である。文献史学者も発掘考古学者も、もっと相手の分野を勉強して欲しい。専門外(大抵の書物にはこの言葉が出てくる)という言葉を我々一般古代史ファンは聞きたくない。お互いに逃げていたら進歩はない。堂々と自分自身の見解を述べ合うことこそ史実解明の進歩に繋がる
近道である。重箱の隅をつつき合うような論争より遙かに大切である。
記紀も古文書も神社などに残る伝承なども大いに批判することは大切である。
しかし、簡単に自分の主義主張、学説に合わないという理由で無視したり一般への啓蒙活動そのものをもしないことは、また新たな皇国史観を発生させる原因になることを忘れないで貰いたい。
史実はどうか?という観点に立って、あらゆる情報を活用して貰いたい。その情報を捨てるの最後の最後でも良いのではなかろうか。
古代豪族に伝承されている系図の類も非常に重要な情報である。軽々に系図の類は偽物だらけで役に立たないという学者・専門家が多い。これも古代史解明のための無視出来ない貴重な情報源だと思う。
 
 本シリーズの「和気氏考」の稿で和気清麻呂が戦前の紙幣(10円札)の肖像として長く国民に親しまれてきたと紹介した。本稿で取り上げた巨勢氏・平群氏らの祖とされている「武内宿禰」も戦前の紙幣の人気人物であったことを知ったのはつい最近のことである。戦前教育を受けた方々にとっては、和気清麻呂も武内宿禰も小学校の教科書にも掲載されていた歴史上の有名人だったらしい。戦後教育を受けた筆者は幸か不幸か、この両名とも全くと言っていいくらい知らない人物であった。
戦後は戦前の反動であろうと思うが教科書の類には全く載らなくなったし、お札からもこれらの人物は消えた。参考までに明治以降に日本で発行されたお札に肖像が載せてあるものに限って調べた結果を別表にしるした。
戦前と戦後共通して登場する歴史的人物は「聖徳太子」だけである。
残りの人物は戦前の皇国史観を鼓舞することに利用された人物が並んでいるようである。
戦後はその反動でか文化人でお茶を濁しているようである。
1000年もそれ以上も前の人物の評価がかくもころころ変わるのは、いかがなもかと思わざるをえない。
和気清麻呂は史実として実在していたことは間違いないとされている人物であるが、問題は武内宿禰である。
記紀の記述のままに解釈すれば200年以上生きた怪物である。伝説上の人物である。
現在の通説では天皇家の忠臣像としてどこかの段階で朝廷サイドで創作し、それ以降大臣を務める氏族は総てこの武内宿禰を祖とする一族に限られると無理に系図的に仕立てたに過ぎなく史実とは基本的には無関係である、いう説になっている。
筆者は、この説も逆に行き過ぎた説のように思うようになった。本稿ではこの辺りのことにも言及してみたいと思っている。武内宿禰を祖とした氏族としては有名なのは、葛城氏
・蘇我氏・巨勢氏・平群氏・紀氏らがある。いずれも実在した氏族である。但しその祖が記紀で記述があるように武内宿禰であるかどうかは、判然とはしないのである。
葛城氏考・蘇我氏考・紀氏考は既に述べてきたのでそれを参照して頂きたい。
本稿は巨勢氏を中心に解説論考してみたい。平群氏に関しては資料が乏しく充分その実態を述べられない。それも現実である。
巨勢氏を調査していたらどれだけ信憑性があるかは分からないが、巨勢氏の流れからなんと徳川家8代将軍「吉宗」の産みの母親が出ているという系図に遭遇した。
これに興味を覚えて徳川将軍家の系図を調査した。
勿論詳しくその実態を知ったのは初めてであった。この系図は先ず間違いなく史実を反映しているものと判断出来る。一夫多妻の典型みたいな徳川将軍家でさえ男系で血脈を維持することがいかに難しいことであったかが如実に分かった。このことからも古代豪族の系図が一見スムーズに何10代も続いているように残されているが、その中味は大変だったことが容易に推測される。名跡を継ぐことは養子・猶子・婿養子などで可能であろうが真の血脈を男系だけでは通常の豪族クラスでは至難の業だったと思われる。
26継体天皇は何故誕生したのか?これは古代史の謎の一つである。記紀共に記述しているように皇統はここで切れかかった。この継体天皇以降は現在の歴史学者も平成天皇まで皇統は一系の血脈として繋がっていると認めている。
問題は北陸の豪族であった男大迹王が何故倭国の大王になれたのかである。これに巨勢氏及びその親族を含む所謂武内宿禰の流れが密接に関与したのではなかろうかという説が最近になって話題になってきた。非常に興味あることなのでその辺りを本稿では解説してみたい。
筆者は次元は全く異なるが継体天皇の誕生は現在のオバマ大統領みたいなものだった(但し継体天皇の場合一般庶民は全く関与してない)のかも知れないと勝手に想像しているのである。
 
2)巨勢氏人物列伝
・武内宿禰
@父:屋主忍男武雄心命(紀)比古布都押之信命(記)
母:紀伊国造宇遅彦妹山下影媛(宇遅媛)
A妻:葛比売<葛城国造荒田彦、宇乃媛<紀宇豆彦 豊子媛<壱岐直真根子
兄弟:甘美内宿禰・忍比売 
子供:羽田矢代宿禰・巨勢小柄・蘇我石川・平群木菟・紀角・久米能摩伊刀比売
・怒能伊呂比売・葛城襲津彦・若子  
別名:建内宿禰・御食津大神(気比神)・高良玉垂玉神
呼称:たけうちのすくね。たけしうちのすくね。
B大臣(おおおみ)を出した葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏の4氏をはじめ28氏の祖先とされる伝承的人物とされている。
C古事記孝元天皇段:孝元天皇の孫。日本書紀では曾孫。
D12景行天皇から16仁徳天皇まで5代の天皇に大臣として仕えた。(紀)
E記紀記述通りだとすると200才以上生存していたことにになり、実在の人物ではないという説が通説。(異説多数)
F13成務天皇と同年同日(景行3年?)産まれ。景行天皇朝に北陸・蝦夷地巡察。棟梁の臣となり成務3年初めて大臣となる。仲哀天皇朝神功皇后を助け新羅との戦で朝鮮出兵、忍熊・カゴサカの乱鎮圧、応神天皇即位を実現させた功臣。気比の大神を拝し韓人を率いて韓人池を造る。
探湯(くがたち)により自分の無罪を勝ち取った話。審神者(さにわ)としての活躍記事
など多くの事績記事あり。大臣としての理想像が描かれている。
G「紀氏家牒」:紀の武内宿禰は、大倭国葛城県五処里に家がある。墓は室里に在る。「帝王編年記」(一書、武内宿禰の墓は)室の破賀。
H墳墓:伝承宮山古墳(御所市室)巣山古墳説。
I関連神社:宇倍神社(鳥取市国府町)気比神社(敦賀市)高良神社(久留米市)
J戦前は忠臣として5種類のお札に肖像が載せられた。
K一説:景行3年紀伊国で産まれ、同25年北陸・東方諸国巡察。同51年棟梁臣となり
仁徳朝15年に没。315才。
 
参考)武内宿禰長男羽田矢代宿禰氏
・当初より不振氏族であった。歴史的著名人物輩出なし。別名:波多宿禰
・武内宿禰の長男
八太朝臣・山口朝臣・星川朝臣・林朝臣・道守朝臣・長谷部公・高生朝臣・播美朝臣ら祖。
 
参考)武内宿禰七男「若子宿禰」派生氏族
太田亮「姓氏家系大辞典」・今井啓一論文参考
<利波臣氏>:吉備氏の族、越中国砺波郡名を負ひたる大郷族。敦賀国造と同族。吉備武彦の北陸経営と関係か。古事記孝霊段「日子刺肩別命は高志の利波臣云々の祖也」人物:志留志
 
<江沼国造氏>:加賀国江沼郡・能美郡(現在の大聖寺東南別所村)
国造本紀:反正朝、蘇我臣同祖武内宿禰4世孫志波勝足尼を国造に定め賜う」
古事記:武内宿禰末子若子宿禰を江野財臣(姓氏録では江沼臣)祖
江沼臣:江沼国造の氏姓。
上宮記に(継体天皇の母)振姫の出自として余奴臣阿那爾比彌云々の記事あり。この余奴臣と江沼臣とは同一と推定。
江沼国造治所:江沼郡郡家郷。(現在の大聖寺東南別所付近)
和名抄:足羽郡にも江沼郷あり。国造族の分住か。
 
<射水国造(射水臣)>:越中国射水郡
国造本紀:伊弥頭国造・志賀高穴穂朝宗我同祖建内宿禰の孫大河音足尼を国造と定め賜う。
<道君>:安倍臣の族・蝦夷族で大彦命に服従した氏族?説
本拠地ははっきりしない。北陸から出羽に亘っての大豪族。加賀国が中心か。味知郷あり。
人物:天智皇妃道君伊羅都売(志貴皇子母)
 
<三国国造氏>:武内宿禰の裔で蘇我氏の族也。
三国国所在地:越前国坂井郡三国湊付近。
国造本紀:成務朝宗我臣祖彦太忍信命4世孫若長足尼を(越前国)三国の国造に定め賜う。
太田推定:若子宿禰の後裔でこの流れが品治部君となるのではないか。
和名抄:三国は坂井郡・足羽郡・今立郡・丹生郡
国造治所:光仁紀宝亀9年条の送高麗使の来着したとする越前国坂井郡三国湊である。
若子宿禰系三国国造は後に椀子皇子系三国公氏にその勢威を代わられた。
 
 佐伯有清著「古代氏族の系図」所収の利並臣氏系図では上記氏族は総て若子宿禰を祖として記されている(筆者系図参考)
 
参考)
<三国公氏>:坂井郡三国よりおこった三国国造氏とは別流の豪族
古事記:応神天皇系の意富富杼王は三国公などの祖。稚沼笥二俣皇子は三国君の祖
太田解説:三国君は継体天皇の子供椀子皇子の後裔である。後に三国真人姓になるのはこの一族。古事記の書き方?
 
<三尾君氏>:近江国高島郡三尾を本拠地とした古代豪族(水尾神社)
古事記垂仁段:三尾君は垂仁天皇皇子石衝別王が祖。
越前国へ出て能登へ進出し羽咋国造を輩出。上宮記振姫記事に登場。阿加波智君頃には越前に来ていたことが推定される。(太田説)
派生氏族:三尾君角折君・三尾君堅槭?(継体朝頃)
 
<羽咋国造氏>:能登国羽咋郡の豪族
和名抄:羽咋郡羽咋郷・羽咋神社
・垂仁皇子石衝別王の後
・国造本紀:雄略朝三尾君祖石撞別命の児石城別王を羽咋国造に定め賜う。同族として
雄略朝三尾君祖石撞別命4世孫大兄彦君を賀我国造に定めたとある。太田説では大兄彦君が羽咋国造の初代であろうとしている。
 
(参考)
牟義都国造(むげつのくにのみやつこ):美濃国北中部(美濃国武儀郡、現在の岐阜県関市・美濃市付近)身毛氏とも記す。景行天皇の子「大碓命の子押黒弟日子王」が祖。
継体天皇の父方祖父「乎非王」の妻「久留比売」はこの国造の伊自牟良君の娘であるとされている。(上宮記) 国造本紀には記述なし。
 
2−1)巨勢小柄
@父:武内宿禰 母:不明  
A次男(記)五男(三代実録)七男(群書類従など)諸説あり。
子供:星川建日子・田伊刀・乎利 別名:許勢小柄宿禰・雄柄・雄韓・男韓・男柄
B古事記孝元段:許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖。小柄の記事はこれだけである。
この系譜記事に対応する日本書紀の記事ない。
但し、新撰姓氏録右京皇別・公卿補任継体天皇条記事・群書類従紀氏系図などには小柄の記述あり。
C応神紀3年:紀角・羽田矢代・蘇我石川・平群木菟など武内宿禰の子供とされている連名記事に巨勢小柄が記されていない。ーーー小柄実在性に疑問説あり。
D本貫地:奈良県高市郡明日香村(旧:阪合村大字越)許世都比古命神社付近
伝承:小柄から男人まで越に本拠をおいていた。男人の時、葛城に領地を賜り移住。これが古瀬邑。この時元々越にあった小柄の墓を男人と合葬し葛上郡稲宿の新宮山に改葬した。
(許世都比古命神社の石碑記事)
E伝承小柄の墓:岩屋山古墳。
 
・星川建日子
長男、雀部祖
 
・田伊刀
別名:伊刀宿禰。
次男、軽部祖
 
2−2)乎利
三男、巨勢氏の祖。
                                    
2−3)河上
@父:乎利 母:不明
A子供:男人・猿・豊足・稲持
 
・豊足
・薬
白雉4(653年)紀記事:遣唐学生 豊足息子。
 
・猿
欽明紀:
591年記事:32崇峻天皇が「任那復興の詔勅」を出されると、葛城烏那羅臣は、紀男麻呂宿禰、巨勢猿臣、大伴噛連と共に、大将軍に任命され、2万余の軍勢を筑紫国にまで出陣している。(紀)
 
・三枝
 
・巨勢粟持
天武14(686年)紀記事:山陰道使。
 
・稲持
538年難波の祝津宮への29欽明天皇行幸記事:大伴大連金村・許勢臣稲持・物部大連尾興らが従った。(紀)
欽明紀:巨勢(木威)田氏祖 斐太臣氏祖。
持統3年(689年):遣新羅使記事。
 
・荒人
皇極紀:田に川水を引いたことで朝廷より巨勢斐太・巨勢(木威)田氏姓を与えられた。
 
2−4)男人(?−529)
@父:河上 母:不明
A子供:胡人・紗手媛・香々有媛   別名:雀部(ささきべ)男人
B小柄の子供である星川建日子の裔ともされている。
C25武烈天皇(506?)没後皇嗣がいなくなった。大連であった大伴室屋と物部麁鹿火、巨勢男人が誰を皇嗣とするか話し合った。
室屋:最初に仲哀天皇5世孫倭彦王擁立を計るが王に逃亡され失敗。次ぎに応神天皇5世孫男大迹王の擁立を建議。男人らは同意。河内国樟葉宮に迎える。(紀)
この時既に大臣になっていたとの説あり。
D507年男大迹王即位。男人は大臣に任命される。(紀)
E527年筑紫国造磐井が叛乱。この時男人が追討軍の将軍に物部麁鹿火を推薦。528年叛乱を鎮圧。(紀)
529年巨勢大臣薨じる(紀)
(古事記には紀の記事が全く無い。)
F751年雀部朝臣真人が「男人」は雀部氏であることが上奏され承認された。(続紀)
G649年巨勢徳陀古が左大臣に任じられたのを合理化するために創作された人物又は
巨勢人(比等)からの思いつきで創作された人物で実在を疑問視する説あり。
H26継体天皇即位に男人が北陸の三国国造氏と関係しその皇系に注目。
三国は若子宿禰系の三国国造の本拠地であった。との説。(参考系図)
I公卿補任:継体天皇条武内宿禰子小柄4世孫父河上臣
J群書類従・続群書類従:紀氏系図 武内宿禰7子小柄(巨勢氏祖)
 
・紗手媛
夫:27安閑天皇
 
・香々有媛
夫:27安閑天皇 子供:豊彦王?(本朝皇胤紹運録)
通説:安閑天皇には子供がなかった。
 
参考)大伴連室屋(?−?5世紀)
@父;大伴武持 母;不明
A新撰姓氏録では、天忍日の11世孫、道臣の7世孫。となっている。子供:談、御物(異説あり)
B19允恭大王時、衣通郎姫のため藤原部を定める。大伴氏の実在がはっきり信じられるのは、室屋以降である。
C21雄略大王即位に伴い、物部連目と共に”大連”となる。
D21雄略崩御後、「東漢直掬」に命じ兵を起こし、「星川皇子の乱」を鎮圧。
E22清寧大王時 、子供のいない22清寧の名を遺すため、諸国に白髪部舎人、膳夫(かしわで)等を置く。
25武烈大王まで5代にわたり、大連として政権を掌握した。   
一説に、大伴氏の本来の職掌は、「部」の設置にあったという(直木孝次郎氏)
 
参考)大伴連金村(?−?)
@父;談 母;不明
A子供;磐、咋子、狭手彦。
B498年(24仁賢11年)大王崩御後、大臣平群真鳥父子の横暴に怒った太子(25武烈)の要請により兵を起こしこれを滅ぼす。その功により”大連”となる。
C506年25武烈の後継者として、物部麁鹿火(アラカイ)大連、許勢男人大臣らと「男大迹王」(26継体)を迎えさせる。
D百済が任那4県の割譲要求。金村これを承認。(512年)代償として、百済は五経博士を日本に送る。当時の外交権は、大王になく金村が掌握していたらしい。天皇による外交権の確立は、「壬申の乱」後とされる。
E526年26継体大和磐余に都を移した。
F527年「磐井の反乱」鎮圧。
G534年27安閑即位。大連となる。
H537年任那を救援。子供の「磐」「狭手彦」に任那救援の命を授ける。「狭手彦」は、 朝鮮に渡り活躍した。「磐」は、筑紫の那津宮家(大宰府の起源)で執政した。しかし、 540年物部尾興らに、任那4県割譲の責任を問われ、 引退。ここで大伴氏は、政治 的指導権を物部、蘇我氏に奪われ、室屋から続いた最盛期は、終わった。「日本書紀」 では、金村が百済から賄賂を受け取ったことを示唆するなど金村に対し批判的。
 
(参考)物部麁鹿火(?−?)
@父;物部麻佐良 母;須羽娘妹古?
A「アラカヒ」兄弟:押甲、老古
武烈朝、継体朝、安閑、宣化朝での大連。(記紀、旧事紀)
506年子供のいない25武烈天皇が亡くなり王位に就ける人物がいなくなった。
大伴大連金村は、翌年物部大連麁鹿火らと計って応神天皇の五世孫の男大迹王を「越」 の三国から迎えた。これが26継体天皇である。
B527年九州の地方豪族であった「筑紫君磐井」が反乱を起こした。「磐井の乱」
 528年麁鹿火が、大将軍として派遣され、(巨勢男人も参画?)筑紫の御井郡(久留 米市付近)で磐井と戦いこれを鎮圧した。
Cこの時物部氏は、自らの発祥の地である九州の統治権を手に入れた。本貫地が、遠賀川 流域か、筑後川流域かを分かり難くしているのは、この為である。(この両方に多くの物部関連の神社が残されている。)
D信濃諏訪氏の女を母とする伝え(旧事本紀?)がある。
E男大迹王の軍事的中核の東国となった物部兵団の将帥である。外物部の中央復帰であった。
F子供;影媛、  
この流れから後の「石上氏」が出たとの説もある。
ーーーー尾興より早く歴史に登場実在が確認される物部氏第1号である
 
2−5)胡人
@父:男人 母:不明
A子供:徳陀古・大海  別名:胡孫
 
・大海
@父:胡人 母:不明
A子供:人・紫壇  別名:大臣
B推古朝の小徳。
 
・人(?−?)
@父:大海 母:不明
A子供:奈弖麻呂・郎女     別名:比登・毘登・比等
B671年近江朝の御史大夫(大納言)(蘇我果安・紀大人)。
C672年壬申の乱で近江側軍として活躍し敗戦後、一族配流。(紀)
 
・奈弖麻呂(なてまろ)(670−753)
@父:人 母:不明
A子供:
B672年壬申の乱により父「人」は近江軍に属し敗戦し一族流罪となった。
C729年外従五位下。
D739年参議。民部卿
E741年正四位上、智努王とともに恭仁京造宮卿
F743年藤原豊成とともに中納言。
G749年従二位大納言。神祇伯造宮卿。
H751年雀部朝臣真人が安閑天皇朝大臣となった先祖の男人が誤って巨勢男人と記されたことを訴えたとき、その証人となり、訴えは認められた。
I万葉歌人。
 
・郎女(?−?)
@父:人 母:不明
A夫:大伴安麻呂 子供:大伴旅人?・田主
B665年に大伴旅人を産んだという説がある。
C672年父人が壬申の乱の罪により配流されたがそれに同行したかどうかは不明。
D万葉歌人。
 
(参考)大伴安麻呂(?−714)
@父:長徳 母:不明
A妻:石川郎女、子供:坂上郎女・稲公、妻:巨勢郎女、子供:旅人・田主、宿奈麻呂
兄弟:御行
B672年の壬申の乱では大海人皇子側に付いた。
C702年参議、708年正三位大納言。
D氏寺永隆寺建立。
 
・紫壇(?−685)
@父:大海 母:不明
A子供:麻呂・多益須  別名:辛壇努・志丹
B646年国司「穂積咋」の罪に連座し処罰される。
C684年朝臣姓を賜る。(紀)
D685年京職大夫。
 
・多益須
大津皇子事件で捕らえられる(紀)
続紀:従四位上、和銅元年(708)太宰大弐
 
・麻呂(?−717)
@父:紫壇 母:不明
A子供:石湯
B709年正四位下鎮東将軍として蝦夷征討。
C713年従三位。715年中納言。
 
2−6)徳陀古(593?−658)
@父:胡人 母:不明   (公卿補任では小柄の7世とある。系図に脱落あり?)
A子供:馬飼・黒麿 別名:徳太古・徳太・徳陀・徳・徳多・徳陀子・大古曽など
B当初は蘇我氏の従臣的存在。
C642年舒明天皇の殯宮で誄を大派皇子の名代として行った。
D643年蘇我入鹿の命により軽皇子、大伴長徳らと斑鳩宮で山背大兄皇子を殺害。
E645年乙巳の変で入鹿が暗殺されると、急遽中大兄皇子側に付き蘇我遺臣らを説得し兵を引かせた。孝徳天皇即位、中大兄皇子:皇太子、阿部内麿:左大臣。蘇我倉山田石川麻呂:右大臣。中臣鎌子:内臣。
F649年阿倍左大臣病没。蘇我倉山田石川麻呂が討たれた。徳陀古は正三位左大臣に就任。大伴長徳:右大臣。
G651年新羅征討を進言。
 
・馬飼
天武14(686年)紀記事
 
2−7)黒麿
@父:徳陀古 母:不明
A子供:邑治・小邑智
B684年朝臣姓を賜る。中納言。
 
・邑治(おおじ)(?−724)
@父:黒麿 母:不明
A子供:養子:境麿    別名:祖父・祖
B702年従五位下で遣唐使判官とし渡唐。707年帰国。
C708年正五位上播磨守。
D718年中納言 藤原四子・長屋王・舎人親王と関与した時代の人物。
E721年中納言従三位。724年正三位。
 
2−8)小邑智
従五位上。伊予守。別名:子祖父。
 
2−9)境麿(せきまろ)(?−761)
@父:小邑智(養父:邑治) 母:不明
A子供:苗麿     別名:関麻呂
B藤原仲麻呂の寵臣。本拠地は大和国高市郡巨勢郷
C742年従五位下。
D753年丹波守。
E757年従四位上、下総守。橘奈良麻呂の謀議を密告。従三位。参議。兵部卿。
F759年伊勢神宮奉幣勅使。
 
2−10)苗麿
式部大輔・河内守・正四位下。式部卿。(続紀)
 
2−11)野足(750−816)
@父:苗麿 母:不明
A子供:光舟?金岡?
B平安時代初期の将軍。初代蔵人頭。791年坂上田村麻呂とともに蝦夷征討軍副将。
C796年正五位下下野守。
C810年蔵人頭、参議。
C812年正三位・中納言。
 
2−12)光舟
2−13)有行
 
2−14)金岡(?−?)
@父:有行?(野足説もある) 母:不明    本姓:難波氏説もある。
A子供:相覧・公望・公忠
B平安前期の宮廷画家。大和絵「巨勢派」の祖。采女正、従五位下、元隼人正。
元慶4年(880年)宮中の先聖先師九哲像壁画・藤原基経の五十賀屏風などを描いた。
C宇多天皇・藤原基経などに認められた。菅原道真・紀長谷雄とも交流。
D868年神泉苑監修。
E大阪府堺市北区金岡町に住んでいたとされる。金岡神社の祭神。
 
・相覧(おうみ)
別名:相見 金岡の養子であるという説あり。金岡の甥説。
源氏物語に「絵(竹取物語)は巨勢の相覧、手は紀貫之書けり」とある。
この流れから大神神社社家が派生した。
昌泰2年讃岐少目となる。
天歴元年(947年)に弟の巨勢公忠に三輪奉幣使が命じられ社に奉仕することを求められた。公忠は替わりに一族の巨勢金田という人物を薦めた。金田は三輪へ移住して神職となった。これが三輪越氏の祖である。
この流れより江戸時代に8代将軍吉宗の生母お由利の方が出た。
越系図(三輪叢書・大神神社史料第1巻所収)に900年以来三輪社の祠官となったとある。この一族は現在まで続いているとのこと。
越利和:1767年丹波亀山城主松平信直4男として産まれ1786年三輪社祠官家の越家に養子に入った人物。この人物が巨勢氏に伝わる記録を1813年に許世都比古命神社に石碑として残したとされている。
(この越姓は巨勢氏の本貫地:奈良県高市郡明日香村(旧:阪合村大字越)許世都比古命神社付近の地名に由来しているものと筆者推定)
 
・お由利の方
@父:巨勢利清<大神神社社家 母:不明
A夫:徳川光貞(紀州藩主:徳川家康の孫)子供:徳川吉宗
光姫(従一位関白 一条兼輝室)
ねゐ姫(出羽米沢藩四代藩主 上杉綱憲室)
育姫(佐竹義苗室)
B浄円院  光貞の側室。
C徳川吉宗は徳川8代将軍となった。
 
・公望
源氏物語に「公望が仕れる大極殿の儀式の絵」とある。
 
2−15)公忠
采女正、絵所長者。
949年皇命により御屏風八帖を画いた(日本紀略)
 
2−16)公茂
2−17)公義
2−18)深江
 
2−19)広高
別名:広貴
采女正、1000年に絵所長者。
1002年花山天皇の勅により書写山「性空上人」を描いた。(権記)
 
2−20)是重
左近将監、絵所長者。
 
2−21)信茂
出羽権守、長者。
 
2−22)宗茂
能登権守、長者。
 
・安芸
夫:源師光<村上源氏
 
2−23)益宗
出羽権守。
 
2−24)益茂 
別名:兼茂
民部大夫、長者、後白河院上北面。
 
・源慶     
・有行
 
・有久
有行3男、鎌倉後期画家、左近将監、従五位上、采女正、壱岐守、長者。東寺絵仏師。
 (東寺絵仏師)
 
2−25)有宗
 
2−26)宗久
修理亮、土御門院、後鳥羽院上北面。
 
2−27)永有
蔵人、
興福寺大乗院絵仏師
 
2−28)光康
正応年間に活躍。代表作「地蔵尊霊験絵巻」吉田兼好賛詩。
この流は現在にまで続く。
                     
<出自不明の巨勢氏>
・巨勢臣比良夫
崇峻2(590年)記事:蘇我馬子ー物部守屋の戦いの記事:蘇我馬子側についた皇族と豪族の名を泊瀬部(はつせべ)皇子、竹田皇子、聖徳太子、難波皇子、春日皇子ら、また紀男麻呂、巨勢臣比良夫、膳臣賀陀夫、葛城臣烏那羅らの豪族の名がある。一方、大伴連囓 (くい)、阿倍臣人、平群臣神手(かむて)、坂本臣糠手(あらて)、春日臣などは、別道隊として志紀郡から渋川の家を攻めた。当時の皇族や豪族のほとんどが、蘇我馬子側に荷担したことがわかる。ただ一人、傍観者として参戦しなかった皇子。敏達天皇の皇子で、常に皇位継承者として名を連ねてきた押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ) である。(紀)
・巨勢君成
天平18(746年)従五位下。同20年下野守。正五位上。
 
・巨勢池長
景雲元(767年?)続紀記事:従五位上武蔵介・越前介。
 
・巨勢魚女
神護元(765年)続紀記事:従五位上
 
・馬主
宝亀2(771年)・5続紀記事:能登守 雅楽頭。
 
・浄成
従五位下、下総守・美作守
 
・久須比
和銅5(712年)続紀:正五位下
 
・少麻呂(宿奈麻呂)
従五位上。万葉歌人
 
・足人
 
・首名
続紀:外従五位下
 
・公足
続紀:外従五位下
 
・古麻呂
額安寺絵図。
 
・巨勢野
命婦
 
・大麻呂
舒明紀
 
・大臣臣
孝徳紀
 
・徳禰
 
・許勢奈率哥麻
百済王に仕えた人物。
 
・許勢臣
任那日本府の卿。
 
 
3)平群(へぐり)氏人物列伝
平群氏は武内宿禰の後裔氏族であり、その本拠地は和名抄に記されている大和国平群郡平群郷である。新撰姓氏録では右京皇別氏族とされている。
・武内宿禰:上述。
3−1)平群木菟(つく)
@父:武内宿禰 母:壱岐直真根子女豊子媛?
A子供:真鳥、馬御織?(糸編は木編) 別名:都久、平群紀都久?
B古事記:平群臣・佐和良臣・馬御織?(糸編は木編)連 らの祖。
C応神3年紀:蘇我満智・物部伊呂弗・葛城円らと国事を執る。
D百済辰斯王関連記事。
E『日本書紀』仁徳元年紀:仁徳天皇が生まれた日、木菟(ミミヅク)が産屋に入り、また同日武内宿禰にも男子が生まれ、鷦鷯(ミソサザイ)が飛び込んできた。 この吉兆を交換して皇子を大鷦鷯尊、武内の子を木菟と名付けたとの説話が載っている。木菟宿禰は平群氏の祖である。
F応神16年紀:平群木菟などを使わして新羅をうち、秦一族・葛城襲津彦らを朝鮮から連れ帰った。
G履中即位前紀:この状況に難波宮では、平群木菟・物部大前・阿知使主が、住吉仲皇子の討伐を去来穂別皇子(履中天皇)に奏上したものの、去来穂別皇子は同母弟を討つことは忍びないとして宮を脱出した。
 
3−2)真鳥(?−498?)
@父:平群木菟 母:不明
A子供:鮪・味酒堅魚?
B雄略朝の大臣。清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇の時代まで大臣としてトップの座。
C武烈即位前紀:真鳥大臣は日本国王となろうとして専横を極めた。
日本書紀には、仁賢天皇の死後、大臣平群真鳥は驕慢で国政を恣にし、臣下としての礼節がまるでなかった。皇太子であった武烈天皇は、嫁にと望んだ物部麁鹿火大連(もののべのあらかひのおおむらじ)の娘影媛(かげひめ)が、平群真鳥臣の息子鮪(しび)にすでに犯された事を知り、大そう怒って鮪を殺し、大伴金村連(おおとものかなむらじ)に命じて、平群真鳥も焼き殺す。そして即位し、大伴金村連を大連(おおむらじ)とするのである。
C雄略朝大連:大伴室屋・物部目
 
参考)味酒(うまさけ)臣氏
本拠地:伊勢国員弁郡平群沢志知邑南方
平群氏から派生した氏族とされている。
貞観3年(861)に巨勢朝臣姓を賜った。(平群流巨勢氏)
人物:味酒文雄・味酒浄成・味酒安行
空海は大学寮の明経科(みょうきょうか)に入学し、岡田牛養(おかだノうしかい)、味酒浄成(うまざけノきよなり)に漢籍を学ぶ。  味酒安行は菅原道真の弟子。
 
3−3)鮪(しび)(?−498)
@父:真鳥 母:不明
A子供:根咋・子足    別名:志毘
B494年小泊瀬鷦鷯尊が皇太子となった。真鳥に危機感を持つ。
C物部麁鹿火の娘影媛と深い仲であった。
・武烈天皇が皇太子だった時、大臣平群真鳥(へぐりのまとり)は国政を擅断(せんだん)し、数々の無礼をはたらいた。ある日、皇太子は物部麁鹿火のむすめ影媛を娶ろうと思い、仲介の者を影媛の家に遣った。ところが影媛は、すでに真鳥の息子鮪(しび)と情を交わしていた。影媛は「海石榴市(つばきち)の巷でお待ちしています」と返事をしたので、皇太子はそこへ出掛けていった。市では歌垣が行われていた。皇太子は影媛の袖をとらえ、ついて来るように誘った。そこへ鮪がやって来て、二人の間に割って入ったので、皇太子は影媛の袖を離し、鮪との間で歌を応酬した。皇太子は鮪の歌によって鮪がすでに影媛を得たことを知り、顔を赤くして怒った。この夜、皇太子は大伴金村の家に行き、兵を集める相談をした。金村は数千の兵を率い、鮪を捕えて奈良山で処刑した。影媛は奈良山まで追ってゆき、鮪の処刑されるのを見た。驚き混乱し、目に涙があふれた。そこで「石上…」の歌をよみ、鮪のしかばねを土に埋めた。家に帰ろうとした時、むせび泣いて「なんと苦しいこと。今日愛しい夫を失った」と言い、再び涙を流して「あをによし…」の歌をうたったという
D古事記には以上のような記事はない。
古事記:鮪は袁祁命(顕宗天皇)と女性(菟田大魚)を巡って歌で争いそれで決着がつかなかったので袁祁命は意祁命(仁賢天皇)と共に鮪邸を襲いこれを殺害。
 
3−4)?
3−5)?
 
3−6)神手
587年崇峻紀:物部討伐将軍。大夫選任氏族の地位を得ていた。
 
3−7)宇志
推古31年(623)紀:征新羅副将軍。
 
3−8)子首
別名:首
684年:朝臣姓を賜る(紀)。
681年の帝紀・上古諸事の記定事業に参画。
691年墓記上進を命じられ提出。
 
・平群広成(?−勝宝4)
遣唐使。従四位下、東山道巡察使。武蔵守。(続紀)
 
・平群郎女
万葉歌人。大伴家持と何らかの関係あり。傍妻・恋人?
 
・平群臣足
 
・平群豊麻呂
天平3年(731)讃岐守、従五位下。(続紀)
 
・広通
・人足
・野守
・真継
・虫麻呂
 
・邑刀自
延暦2年(783)正四位上(続紀)
 
・家麻呂
 
・安麻呂
・平群壬生氏・安房平群氏
・甘酒首文雄
 
4)関連寺社
4−1)許世都比古命神社(奈良県高市郡明日香村越555 )
祭神:許世都比古命 許勢小柄
社格:式内社   別名:五郎宮・五老神
創建:?
由緒:(大和・紀伊 寺院神社事典 引用)
 越と真弓の境に鎮座。「延喜式」神名帳の高市郡「許世都比古命神社」に比定される。「大和志」に「在越村、今称五老神」とみえ、境内の1813年の石碑によると、巨勢小柄宿禰の霊を祀り、巨勢氏の祖武内宿禰の第五子にあたるので五郎社とも称するとあり、その子孫が後に葛上郡の古瀬(現奈良県御所市)に移ったと記す。しかし小柄宿禰は第二子であり(古事記)、五郎はおそらく御霊の転訛と思われる。南方の於美阿志神社も御霊大明神と称していた。御霊信仰の影響であろう。(と推定する説もある。)
 
・巨勢寺  www.kashikoken.jp/event/atrium2004/chuuzou/chuuzou2.html引用参考
@巨勢寺は御所市古瀬(吉野口駅の北方300〜400m)に所在した寺で阿吽寺(あうんじ)の本寺にあたり、聖徳太子の創建と伝えられ、 日本書紀686年に関連記事あり。豪族巨勢氏の氏寺で平安時代には奈良興福寺(こうふくじ)の末寺となったが、延慶元年(1308年)頃には荒廃していたと考えられている。
A現在塔跡のみが国史跡指定 発掘調査の結果
講堂・回廊・築地塀などが良好な状態で残っていることがわかった。伽藍配置は法隆寺式と考えられるが地形的な制約から伽藍は南東を正面としている。また、これらに付随して瓦窯(登窯1基・平窯1基)及び鋳造遺構が検出されている。寺域は南北約200m、東西約100mになると考えられる。
 
・金岡神社(大阪府堺市金岡町2866)
www.norichan.jp/jinja/shigoto/kanaoka.htm引用
祭神:底筒男命 中筒男命 表筒男命 素盞鳴命 大山咋命 巨勢金岡
社格:
創建:仁和年間(885−888)
由緒:
金岡神社は平安時代初期の仁和年間(885年頃)、庶民の安全と五穀豊穣を祈願するため住民が住吉大神をお祀りして創建されたと伝えられております。
その後、 一条天皇の御代(986年頃)勅命により画聖巨勢金岡卿を合祀し、金岡神社と称することとなりました。
明治41年には周辺の12神社を合祀して現在に至っております。
境内地は日本最古の官道といわれる竹ノ内街道(日本書紀では丹比道)に面した古社であります。 
「金岡神社由緒略記」
起源については記録の明らかなもの無きも伝説によれば光孝天皇仁和年間居民安全年穀豊熟を祈らんためこれを創立し住吉大神を祀りしが、のち素盞嗚命、大山咋命を配祀し更
に一条院天皇の時に巨勢金岡卿を合祀し金岡神社と称することとなった。本社は全日本における画聖「巨勢金岡卿」を祀る唯一の神社で金岡卿はいうまでもなく日本画の大祖である。清和、陽成、宇田、醍醐の四朝に歴任し大納言に至り宮中に召されて障子、屏風等に画を描いた。伝説によると本社の所在地は金岡卿の隠棲の地であって神社の東方約三000米のところに金岡淵即ち金岡卿筆洗いの池というのがある。河内名所図絵にもこのことが載せられてあるが、察するに金岡卿は晩年致仕の後にこの地に隠棲して丹青を楽しみ風月を友としていたのであろう。巨勢氏糸図ならびに古今著聞集などによると卿の略伝
があるが卿がこの神社の祭神として祀られたのは一条天皇のみ代に勅命によったものであることが明らかにせられている。この点から考えてくるとこの地が金岡卿と古い縁故のあった土地であることが疑われない。
筆者注)金岡を大納言と記してあるがこれは史実ではない。
 
4−2)平群神社(奈良県西和市平群町西宮617 )
kamnavi.jp/as/ikoma/heguri.htm引用
祭神:大山祇神
社格:      平群氏の氏神
創建:
由緒:「延喜式」神名帳記載社。五座の祭神とある。武内宿禰が神功皇后とともに朝鮮出兵前に戦勝祈願として大山祇神をこの地に祀ったと伝わる。
平群氏の祖神を祀っていたと考えるのが自然である。平群の地域は興福寺の影響下に入り、春日神が持ち込まれているようで、 当社も春日大明神とも呼ばれていた。
当社の近くの三里古墳は紀ノ川流域に分布する石棚を有する古墳と同形式であること、 また椿井宮山古墳や烏土塚古墳との関連も考えられよう。平群氏と同族とされる紀氏の居住地であったようで、共に武内宿禰の末裔とされる。
『日本書紀』仁徳元年紀に、仁徳天皇が生まれた日、木菟(ミミヅク)が産屋に入り、また同日武内宿禰にも男子が生まれ、鷦鷯(ミソサザイ)が飛び込んできた。 この吉兆を交換して皇子を大鷦鷯尊、武内の子を木菟と名付けたとの説話が載っている。木菟宿禰は平群氏の祖である。
 
4−3)巨勢山口神社(御所市古瀬宮の谷303)
kamnavi.jp/as/katuragi/koseyama.htm引用
祭神: 伊弉諾尊、伊弉冉尊  伝承:巨勢男人
社格:式内大社
創建:?
由緒:
曽我川の源流重坂川が中央を貫流、飛鳥・藤原と紀伊を結ぶ古道巨勢路が通じていた。古代の豪族巨勢氏の本貫地である。この豪族は何が収入源であったのか、農業ではない。紀の国と大和との間での交易であろうか。
 山口神社は延喜式内社として14社あるが、延喜式祝詞には古京に近い飛鳥、石寸、忍坂、長谷、畝火、耳無の6社がでている。祝詞に出ていない他の8社がいささか遠いのであるが、これは木材の伐採できる山が遠隔地になっていっている事を示している。
 江戸時代には高社と呼ばれていた。この頃には祭神は諾冉二尊になっていたのであろう。当初は大山祇命が祭神であったとされる。
 
・平群石床神社(生駒郡平群町越木塚字井戸ノ上)
kamnavi.jp/mn/nara/heguisi.htm引用
祭神: 石床神社 饒速日命 現在は劔刃石床別命となっている。 太玉命 ・素戔嗚命
社格:式内社
創建:?
由緒: 旧社地には作物の豊穣をを祈る原始信仰の巨石があり、この裂け目を性崇拝の対象としていた。 社殿のない神社で、磐座の前に鳥居のみの原始信仰の社であった。
 現在の神社は大正13年素戔嗚命を祀っていた境外摂社の消渇神社の所在地の現地に遷された。
越木塚集落の南東部、伊文字川流域を見おろす位置にあり、本殿や拝殿は当初からなく、鳥居と社務所があっただけで、崖面に露頭した高さ6m、幅10数mの巨大な「陰石」を御神体としている。 「延喜式」に記載のある式内社で、祭神は剣刃石床命。貞観元年(859年)には従五位上を授けられている。
 地域での磐座(陰石)信仰が窺え、古い信仰形態を伝える貴重な神社である。
 大正13年(1924年)に集落内の素盞嗚神社「現石床神社」に合祀されている。
 この付近には花崗岩の巨石が多数露頭し、烏土塚古墳や西宮古墳に運ばれており、古墳時代〜飛鳥時代の石材産地でもある。
 瓦葺きの覆屋内に三つの社殿があり、中央が石床の神である。また左右の社殿には太玉命と本来の祭神である素盞嗚尊を祀っており、拝殿の奧には神籠石がおかれている。
4−4)平群坐紀氏神社(奈良県西和市平群町上庄字辻の宮)
祭神: 天照大神、天児屋根命、都久宿祢、八幡大菩薩
社格:式内社(名神大)・村社       紀氏氏神とも云う。
創建:
由緒: 辻の宮、椿の宮と呼ばれていた。紀船守(紀氏もしくは平群氏の末裔)がその祖、平群木菟を祀っている。 中世には春日神社にもなっていた。
 
4−5)香椎宮(福岡県福岡市東区香椎4-16-1)
www.genbu.net/data/tikuzen/kasii_title.htm など参考
祭神:仲哀天皇 神功皇后
配祀:応神天皇 住吉大神
社格:旧官幣大社
創建:724年  仲哀9年(社伝)
由緒:仲哀天皇即位八年九月、天皇神功皇后とともに橿日宮(現古宮の位置)に留まり、熊襲および三韓征討の軍議中、翌九年二月、天皇にわかに崩御。
皇后みずからその地に祠を建て、天皇の神霊を祀ったという。
境内後方には、仲哀天皇大本営跡のある古宮。
神功皇后の死後四百五十年、元正天皇の養老七年、神功皇后の神託により、九州に勅して課役を起こし聖武天皇神亀元年、仲哀天皇神祠のそばに新に社殿を造営し皇后の神霊を鎮祭した。以来、両宮を併せて香椎廟と称したという。
近くには、武内宿禰の不老の秘密、不老水もある。
この水は、「日本名水百選」に認定されている。
 
4−6)宗我坐宗我都比古神社(高市郡真菅村大字曽我)
蘇我氏氏神
 
4−7)宇倍(うべ)神社(鳥取県鳥取市国府町宮下字一宮651  )
祭神:武内宿禰命(異説あり)
異説:稲葉国造の祖・彦坐王の皇子、彦多都彦命とする説。
当社神官であった伊福部氏の祖神・武牟口命とする説。など
社格:式内社・名神大社・因幡国一宮・旧国幣中社
創建:仁徳55年(武内宿禰この地で没伝承。)
創建:648(22社注式)
由緒:
『因幡国風土記』逸文
「仁徳天皇五十五年春三月、大臣武内宿禰命御年三百六十余歳で
因幡國に下向され、亀金に双履を残して行方知れずとなった。
因幡国法美郡の宇倍山の麓に神の社があり、武内宿禰の御霊である」
社殿の背後の丘の上には、祭神・武内宿禰命終焉之地と言われる亀金岡があり、「双履石」という石が祀られている。
 
4−8)気比神社(福井県敦賀市曙町11-68)ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E6%AF%94%E7%A5%9E%E5%AE%AE など参考
祭神:伊奢沙別(いささわけ)神、仲哀天皇、神功皇后、日本武(やまとたける)尊、應神天皇、玉妃(たまひめ)命、武内宿禰(たけのうちのすくね)命
社格:式内社(名神大)・越前国一宮・官幣大社
創建:神代 修復:702年
由緒: 仲哀天皇以降の祭神は702年に合祀されたと社伝にある。伊奢沙別神に八幡の神々を祀った神社と言える。式内大社で八幡神を祀っている貴重な神社の一つである。
笥飯(けひ)大神、御食津(みけつ)大神と称される伊奢沙別神は天筒の峰に降臨後聖地土公(敦賀北小学校の校庭)に降臨したと伝承されている。”天筒”、まさに海神のように見える。
 『古事記』に、「かれ、建内宿禰命、その太子を率て、禊せむとして淡海また若狭国を経歴し時、高志の、前(ミチノク)の角鹿(ツヌガ)に仮宮を造りて坐さしめき。ここに其地に坐す伊奢沙和気大神(イザサワケノオホカミ)の命、夜の夢に見えて、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と云りたまひき。ここの言祷(コトホ)ぎて白さく、「恐し。命のまにまに易へ奉らむ」とまをしき。またその神詔りたまはく、「明日の旦 、浜に幸すべし。名を易(カ)へし幣献らむ」とのりたまひき かれ、その旦浜に幸しし時、鼻毀れたる入鹿魚(イルカ)、既に一浦に依りき。ここに御子、神に白さしめて云りたまはく、「我に御食の魚を給ひき」とのりたまひき。かれ、またその御名を称へて御食津大神(ミケツオホカミ)と号けき。かれ、今に気比大神(ケヒノオホカミ)と謂(イ)ふ。またその入鹿魚(イルカ)の鼻の血臭かりき。かれ、その浦を号けて血浦(チヌラ)と謂ひき。今は都奴賀(ツヌガ)と謂ふ。」 とある。
『日本書紀』によれば神功皇后が九州へ赴く前に当地に滞在していたことになっている
由緒:北陸道総鎮守 気比神宮略記から
伊奢沙別命は、笥飯大神、御食津大神とも称し、二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地に(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境(ひもろぎいわさか)の形態を留めている。
上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座されている。
仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。
神功皇后は勅命により御珠玉姫命と武内宿禰命とを従えて筑紫より行啓せられ、親ら御参拝された。その時に笥飯大神が玉姫命に神憑リして、『天皇外患を憂ひ給ふなかれ、兇賊は刃に血ぬらずしで自ら帰順すべし』と御神託があったという。
文武天皇の大宝二年(七〇二)勅して当宮を修営し、仲
哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮に、応神天皇を総社宮に玉姫命を平殿宮に武内宿禰を西殿宮に奉斎して『四社之宮』と称した。 ーーー
 
4−9)高良(こうら)神社(久留米市御井町1)
祭神:高良玉垂命・八幡大神・住吉大神
異説:武内宿禰説、藤大臣説、月神説など
社格:式内社・名神大社・筑後国一宮・国幣大社
創建:伝承 履中朝元年
由緒:日本紀略795年従五位下。897年正一位。
元々は高木神を祀っていたが玉垂命が鎮座された。この神の正体が判然としないため祭神論議が続いている。神主家の神代氏が武内宿禰を祖先としている。
 
 
5)巨勢氏・巨勢氏関連年表
巨勢氏・平群氏関連年表
西暦 天皇 記事 出典
300頃 10崇神 大和王権誕生 戦後通説
318頃 11垂仁 崇神68年崇神没・11垂仁即位
340頃 12景行 垂仁99年垂仁没・12景行即位
342頃 ・景行3年武内宿禰誕生。
・景行25年武内宿禰北陸・東方巡察。
・景行51年武内宿禰を棟梁之臣とした。
13成務 景行60年景行没・13景行即位
・成務3年武内宿禰大臣となる。
・彦太忍信命4世孫若長足尼を三国国造に定める。 国造本紀
・建内宿禰の孫大河音足尼を射水国造と定め賜う。 国造本紀
350頃 14仲哀 成務60年成務没・14仲哀即位。
・気比神社関連記事。 記紀
・仲哀8年仲哀天皇・神功皇后が香椎宮で軍議記事。
・仲哀9年仲哀没にあたり香椎宮を造り神功皇后が祀った。 伝承
360頃 15応神 仲哀9年仲哀没・神功皇后摂政。
・仲哀9年武内宿禰・神功皇后が仲哀没を隠す。
・神功皇后は巨勢氏・羽田氏と三韓征伐記事。
・神功摂政元年カゴサカ・忍熊王の乱で武内宿禰活躍。
・神功摂政5年葛城襲津彦記事。
372 ・神功52年百済王が七枝刀を倭大王に献上。
382 ・神功62年新羅を葛城襲津彦が攻める。 紀・史記
・応神3年平群木菟が蘇我満智・葛城円らと国事を執る。
・応神7年武内宿禰が韓人に池を造らせた。
・応神9年武内宿禰の弟甘美内宿禰が兄を讒言した。
・応神14年葛城襲津彦記事。
・応神16年平群木菟ら新羅攻撃。葛城襲津彦秦氏を連れ帰る
391 ・倭国軍渡海百済・新羅を攻める。 高句麗碑
395頃 16仁徳 応神41年応神没・16仁徳即位。
・仁徳元年平群木菟誕生の話。
420頃 ・仁徳15年武内宿禰没説。 伝承
・仁徳41年紀角・葛城襲津彦記事。
・仁徳50年武内宿禰記事。(没記事か?)
・仁徳55・78年高良神社鎮座  伝承
・仁徳55年武内宿禰宇倍神社で没。 伝承
427頃 17履中 仁徳87年仁徳没・17履中即位。
・履中元年高良神社創建。 伝承
・履中前紀:平群木菟らが住吉仲皇子討伐
432頃 18反正 履中6年履中没・18反正即位。
・武内宿禰4世孫志波勝足尼を江沼国造に定め賜う。 国造本紀
・葛城円は反正ー安康まで大臣。
437頃 19允恭 反正5年反正没・19允恭即位。
・大伴室屋は允恭ー顕宗まで大連。
454頃 20安康 允恭42年允恭没・20安康即位。
456頃 ・葛城円大臣雄略により殺される。
456 21雄略 安康3年安康没・21雄略即位。
・平群真鳥は雄略ー仁賢まで大臣。
・三尾君祖石撞別命の児石城別王を羽咋国造に定め賜う。 国造本紀
・三尾君祖石撞別命4世孫大兄彦君を賀我国造に定めた。 国造本紀
479 22清寧 雄略23年雄略没・22清寧即位。
・武烈即位前紀:平群真鳥・鮪親子の専横記事。
・ 物部麁鹿火は仁賢ー宣化まで大連。
498 24仁賢 ・平群真鳥・鮪親子を大伴金村が誅殺。
499 25武烈 ・大伴金村は武烈ー欽明まで大連。
506 ・武烈没。皇嗣がいなくなった。大連大伴金村
・大連物部麁鹿火 ・大臣巨勢男人らが談合。
507 26継体 26継体即位。(樟葉宮) 記紀
・巨勢男人大臣に就任。
511 ・筒城宮へ遷都。
512 ・大伴金村任那4県割譲。
518 ・弟国宮へ遷都。
526 ・磐余宮へ遷都。
527 ・磐井の乱勃発。528年物部麁鹿火らが鎮圧。
527 27安閑 継体没・27安閑即位。
529 ・巨勢男人没。
535 28宣化 安閑没・28宣化即位。
536 ・大連「物部麁鹿火」没。
・蘇我稲目が大臣に就任。
539 29欽明 宣化没・29欽明即位。 記紀
571 30敏達 欽明没・30敏達即位。 記紀
・蘇我馬子が敏達ー推古の大臣。その後は蘇我蝦夷が皇極まで。
587 ・巨勢臣比良夫が物部ー蘇我戦に従軍し物部守屋を滅ぼす。
・平群神手が物部討伐軍の将軍となる。
593頃 ・羽田氏は副将軍となる。
593 ・聖徳太子摂政になる。
626 ・蘇我馬子没
645 ・大化の改新
649 36孝徳 ・巨勢徳陀古正三位左大臣就任。
658 ・巨勢徳陀古没。
671 ・巨勢人が近江朝の御史大夫に就任。
672 ・壬申の乱。
・巨勢人壬申の乱で近江軍に属し処刑される。
681 ・平群子首が帝紀・上古諸事の記定事業に参画。
684 ・巨勢氏・平群氏共に朝臣姓を賜る。
685 ・巨勢紫壇没。
686 ・巨勢寺記事
691 ・巨勢・平群・紀・羽田・石川氏「墓記上進」を命じられる
710 ・平城京遷都。
712 ・古事記編纂。
713 ・巨勢麻呂従三位・715年中納言。717没
720 ・日本書紀編纂。
721 ・巨勢邑治中納言従三位。724没。 続紀
732 ・平群広成が遣唐使大使に任命された。 続紀
749 ・巨勢奈弖麻呂従二位大納言就任。 続紀
753 ・巨勢奈弖麻呂没。 続紀
・平群広成従四位上武蔵守没。 続紀
759 ・巨勢境麿従三位参議伊勢奉幣使となる。 続紀
781 ・50桓武天皇即位。 続紀
784 ・長岡京遷都。 続紀
794 ・平安京遷都。 続紀
812 ・巨勢野足正三位中納言。
868 ・巨勢金岡神泉苑監修。
885頃 ・金岡神社創建 伝承
赤字:西暦年代確実な主事象。
頃付き年代:筆者推定
 
                    
                    
 
 
6)参考資料
6−1)明治以降の肖像紙幣と発行年 (公知資料)
明治以降の肖像紙幣と発行年
5銭
・楠正成    1944
1円
・武内宿禰   1889・1943
・二宮尊徳   1946
5円
・菅原道真   1888・1910・1930・1942・1943
・武内宿禰   1899・1916
10円
・和気清麻呂  1890・1899・1915・1930・1943・1945
20円
・菅原道真   1917
・藤原鎌足   1931
50円
・高橋是清   1951
100円
・藤原鎌足   1891・1900
・聖徳太子   1930・1944・1945・1946
・板垣退助   1953
200円
・武内宿禰   1927
・藤原鎌足   1942
500円
・岩倉具視   1951・1969
1000円
・日本武尊   1942  ・夏目漱石   1984
・聖徳太子   1950  ・野口英世   2004
・伊藤博文   1963
5000円
・聖徳太子   1957
・新渡戸稲造  1984
・樋口一葉   2004
10000円
・聖徳太子   1985
・福沢諭吉   1984・2004      青字:戦後
 
6−2)大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)の歴史
(記紀記事準拠)
大臣:最初の大臣:武内宿禰??? (13成務天皇ー16仁徳天皇)
18反正天皇ー20安康天皇:葛城円
21雄略天皇ー24仁賢天皇:平群真鳥
25武烈天皇 (巨勢男人?)
26継体天皇ー27安閑天皇:巨勢男人
28宣化天皇ー29欽明天皇?:蘇我稲目
30敏達天皇ー推古天皇ー35皇極天皇:蘇我馬子ー>蝦夷
大化の改新により従来の大臣はなくなり、孝徳天皇以降左大臣・右大臣制となる。
孝徳天皇以降の大臣        
<36孝徳朝>              
左大臣:阿部内麻呂(645-649) 巨勢徳太(649 - 658)   
右大臣:蘇我石川麻呂(645-649)大伴長徳( 649 - 651 )蘇我連子 (651 - 664)      内臣:中臣鎌足            
<37斉明朝>
左大臣:巨勢徳太
右大臣:蘇我連子
内臣::鎌足
<38天智朝>
左大臣:?蘇我赤兄(672)(弘文朝)
右大臣:蘇我連子・中臣金(671- 672)(弘文朝)
内臣:鎌足 
 
大連:最初の大連:物部十千根???
19允恭天皇ー23顕宗天皇:大伴室屋
21雄略天皇:大伴室屋・物部目
24仁賢天皇?ー28宣化天皇:物部麁鹿火
25武烈天皇ー28宣化天皇:大伴金村・物部麁鹿火
29欽明天皇:大伴金村・物部尾興
30敏達天皇ー31用明天皇:物部守屋 
守屋が滅亡して以降実質的に大連制は実効性が失われた。
 
7)巨勢氏・平群氏関連系図
・武内宿禰系氏族概略系図(公知系図)
・巨勢氏・平群氏系図(公知系図参考 筆者創作系図)
・異系図 巨勢氏元祖部
・補足系図(公知系図)
・参考系図)利並臣氏系図(佐伯有清著「古代氏族の系図」より引用)
・異系図 平群紀氏系図1(太田亮著「姓氏家系大辞典」参考)
・異系図 平群紀氏系図2(香椎神宮武内氏系図参考・公知系図参考・筆者創作系図)
・補足系図(公知系図)天日矛末裔系図
・参考系図 忍坂大中姫ー21雄略天皇系系譜(記紀系図)
・振姫出自系図(上宮記準拠)
・11垂仁天皇ー26継体天皇背景詳細系図(記紀・上宮記準拠)
・継体天皇背景豪族系図(筆者創作系図)
・(参考系図)徳川将軍家概略系図(公知系図)
・(参考系図)徳川将軍家血脈系図(公知徳川一族系図参考 筆者創作系図)
8)巨勢氏・平群氏系図解説・論考
 巨勢氏・平群氏は共に武内宿禰を祖とする臣姓氏族である。共に大和王権において政権中枢において大臣(おおおみ)を輩出した氏族として記紀歴史上著名な古代豪族とされている。ところが戦後の多くの記紀批判論文において、この両氏に関する記紀記事は史実とは認めがたいというのが通説になっている観がある。その主なものを箇条書きすると概ね以下のようになる。(類似の説は非常に沢山あるので細かいことは除外)
@両氏の祖とされる武内宿禰なる人物は記紀記述通りに考えるとその寿命が200才ー350才位(記紀の各天皇の寿命を何歳にするかで換算が異なる)になり到底合理性のある人物とは思えない。王権中枢部関係者及び記紀編纂者らの創作上の人物である。又は伝承上の人物で多数の人物をモデルにした架空の人物である。
A大和王権の体制が整い始めた29欽明天皇朝以降に朝廷の中枢である大臣に就任出来る豪族を特定化・特権化する思惑が、蘇我氏を中心に顕在化して他の氏族の大臣就任を排除しようとした。それが年代を経るにしたがい大和王権の初代大臣である伝説的人物である武内宿禰の血脈の氏族しか大臣にはなれないという考えになっていくのである。彼等は記紀に記された武内宿禰系氏族系図を創作し葛城襲津彦・許勢小柄・蘇我石川・平群木菟・紀角らを武内宿禰の子供としてこれらの血脈者しか大臣となる資格が無いという思想を定着化した。この時代は巨勢徳陀古の大臣就任を正当化するためで649年頃ともされる。
BAの思想を正当化するために、葛城襲津彦の裔である葛城円を大臣とした記事、平群木菟の裔である平群真鳥・鮪親子の記事、巨勢小柄の裔である巨勢男人を大臣にした記事などを創作し既成史実の如く、どこかの段階(時代)で朝廷の公的文書として残した可能性があるが、いずれも史実とは言い難いものである。記紀はそれ以前に存在していた文書をさらに改竄編纂したのである。
Cたとへ葛城円・平群真鳥・巨勢男人らが歴史的史実として存在し、朝廷内で重き役割を演じたとしても彼等が同一血脈、氏族であるという証拠はどこにもないし、後世の関係氏族の正当化のために造(創作された)られた記事であり系図である。
D蘇我氏も巨勢氏・平群氏なども欽明天皇以降に勃興した新興氏族である。
E蘇我氏は渡来人出身氏族である。武内宿禰系系図はそれを隠すための系図であり創作系図である。
などである。
筆者は既に「葛城氏考」「蘇我氏考」「紀氏考」などを記してきた。参考にして頂きたい。本稿では残る「巨勢氏・平群氏」について述べるが上記のような記紀批判があるので敢えて記紀に準じた武内宿禰系一族の系図について概説した上で本論に入りたい。
「武内宿禰系氏族概略系図」は記紀準拠の一般公知系図を基に作成したものである。
武内宿禰には7男2女がいたことになっている。
この内、朝廷の大臣を輩出した氏族は巨勢氏・蘇我氏・平群氏・葛城氏・紀氏である。但し紀氏は8世紀以降に大臣を輩出した氏族である。
波多八代・若子 の二人の子供からは多くの派生氏族が輩出されたが朝廷の中枢部に関与した歴史的人物の記事などは皆無に近い。よってその系図などもはっきりしていないのである。娘二人については婚姻関係等筆者レベルの調査では不明であった。
各派生氏族の名前・数などは古事記・日本書紀でもかなり異なるし、それ以外の紀氏家牒・蘇我石川両氏系図・利波臣系図など関係諸文献によりかなり異なる。
これらの原点である武内宿禰の子供系図がいつ頃このようになったかについては議論百出ではっきりした時期は現時点では不明である。少なくとも平安時代初期には基本部分は確立していたものと筆者は推定している。
記紀編纂時点で巨勢氏・蘇我氏・平群氏・葛城氏・紀氏などが史実として存在していたことは事実だと判断している。蘇我氏・葛城氏・紀氏が歴史上どんな活躍をした氏族であるかはそれぞれ本稿の既存の関係氏族考を参考にして頂きたい。
後世、新撰姓氏録では、この系図に記された多くの氏族は基本的には「臣姓氏族」とされているのである。これは記紀のこの部分の記述が当時の朝廷内では認知されオーソライズされていたものと判断せざるをえない。
29欽明天皇が即位したのは539年と見て良いとされている。
一般的にはこの頃から色々の記録が文字化・成文化が開始されたようである。勿論朝廷みたいなものが存在していたとすれば朝廷内に、また各豪族内部にも語り部的役割をもった人達が存在していたことも事実とされている。
蘇我稲目は、蘇我氏の中でその存在が確実化される最初の人物とされている。欽明天皇時代の大臣だったと記紀には記録されている。仮定として、この人物の時代に蘇我氏の祖が武内宿禰だと朝廷内で主張したとしよう。
筆者の歴史年表を参照して頂きたい。
朝鮮半島・中国の歴史書・記紀・その他の伝承などを勘案し、かつ合理的寿命なども勘案してかつhp上で色々な方々がご提案されている諸説も参考にさせて頂き、勿論プロの専門家の各種説も参考にして筆者が西暦変換したのがこの年表である。筆者の前提条件は記紀に記された歴代大王(天皇)の名前および系譜は踏襲するものとした。
これによると武内宿禰が没したのは筆者推定では420年頃となる。16仁徳天皇が没したのが427年頃と推定しているので、欽明朝から見れば約100年程前のことになる。
たとい成文化されてなくともこの範囲だったら蘇我氏以外の豪族でも伝承記録があり蘇我氏が何処の出身・出自であるかは、当時の彼等にとっては重大事項・関心事項なので分かっていたはずである。当時の大和王権内部は、非常に狭い範囲に勢力を持ったいわば隣同士みたいな豪族が寄り集まった集団である。各豪族間での婚姻も行われていたことであろう。世代数でいえば5−6代前のことである。見え見えの嘘系図みたいなものは他の豪族が許さないであろうし、ましてや国のトップ為政者のことである。これは無理であると筆者は判断する。一方、葛城襲津彦は歴史上存在していたことが確実視されている一番古い人物である。また遺跡調査でもその一族のものであっただろう住宅の跡が見つかっている。これが実在していたのが382年頃とされている。記紀には葛城一族の記事は沢山記されている。葛城円が大臣になったとも記されている。この葛城氏の伝承が蘇我稲目の時代まで記憶されていたことも容易に推定される。稲目がこの葛城氏と蘇我氏が血族であったという系図を作成した場合、他の豪族がどう思うかである。異系図として武光 誠氏の推定系図を載せたが、本当はこうだったのでは?即ち蘇我氏は葛城氏の末裔であると。
筆者はこれも無理があると判断している。むしろ記紀系図の方が妥当性があると判断している。
他の豪族は、この2つの氏族が同族であることに異論がなかったものと推定する。もし虚偽であり虚飾であったなら少なくとも大化の改新後のどこかの段階で朝廷内でこの稲目叉は馬子が成文化したであろう出自系図は消去抹殺されたであろうからである。
当時は現在と異なり、その祖先がはっきりしない人物は朝廷内でしかるべき地位には絶対に付けなかったのである。これが「氏姓制度」の根幹であったのである。聖徳太子がこれでは真に有能な人材を得にくいとして冠位12階を定めたともされているのである。
古代史を研究する場合、今の価値観で判断することは禁物であると筆者は思っている。各氏族は他の氏族との競争を常に強いられていたのである。大王(天皇)は欽明朝以降には既にその豪族間の競争の外にいた別格の扱いになっていたようである。
蘇我氏が色々な功績により大臣という執政者のトップの地位を得ていたとしても、もう一方に大伴氏・物部氏など連姓氏族の長である大連(おおむらじ)という大臣とほぼ対等の氏族もいたのである。(参考資料「大臣・大連表」参照)
このような時代背景の中で僅か100年ほど前の、多くの対立豪族の記憶にも残されている自分らの出自を偽ることは少なくとも稲目・馬子らには不可能であったと推定する。
 ひと昔前の日本の村社会を思い出して頂きたい。構成する家々の関係がどうであるか、親族・婚姻関係はどうであるか、何々姓の本家がどこで何々姓の本家がどこでその本家は元々何処からこの邑に来たかなど、総て皆の知るところであり、数百年位前までのことがあたかも昨日のように語り継がれてきていたのである。土地密着型の農業中心社会では日本全国ほぼ同じであったのである。
 さて蘇我氏らの話に戻すと、稲目と武内宿禰の子供とされている蘇我石川との間に数代の名前が記されている。稲目は「高麗」の子供であるから武内宿禰の5代孫ということになる。これはその各代の名前は別にすれば世代的には妥当な合理的範囲と判断出来る。
また葛城烏那羅という人物が日本書紀に590年頃活躍記事あり。系図ははっきりしないが筆者調査公知系図には武内宿禰6代孫となっている。これも襲津彦の実在確認の年代である382年からみて合理的範囲であると判断する。但しこの葛城烏那羅系図は一般的ではないので参考系図としておきたい。
次ぎに平群氏系図について解説したい。元祖は武内宿禰の子供である平群木菟である。紀の記事によると16仁徳天皇と同年産まれである。そうだとすると筆者年表に従うと370年前後の誕生(武内宿禰28才頃の子供。合理的範囲)と推定される。子供の「真鳥」は通常推定では400年前後の産まれ、孫の鮪は430年前後の産まれとなる。ところが真鳥・鮪親子が大伴金村により誅殺されたのは498年頃である。真鳥は100才前後、物部麁鹿火の娘との話の記事に出てくる鮪は70才前後で合理的でない。平群氏のその他の歴史年代が分かる人物としては587年の「神手」、681年の「子首」などがいるが、どの人物を根拠に計算してもこの系図通りでは一代あたりの年数が長く(40年くらい)不合理である。少なくとも1代抜けているか、木菟の生年を400年位に繰り上げないといけない。これは仁徳天皇の生年と矛盾が生じるし武内宿禰の没年齢との不合理が発生する可能性がある。(本件は後述する)だとすると木菟と真鳥の間くらいにもう一人人物がいたのが系図上欠如したと考えるのが妥当か?
木菟を370年頃産まれた人物、真鳥を木菟の40才(410年)位で産まれた子供、鮪を真鳥が40才(450年)頃の子供と仮定すると、25武烈天皇が平群親子を誅殺したとされる498年では真鳥大臣は88才、鮪は48才である。不可能とは言えないがこれも一寸無理がある。
勿論こんな系図なんて後世に平群氏を正当化するために「子首」かだれかが捏造したものであるから矛盾が生じるのは当たり前だと主張されるかも知れないが、筆者は上述したように僅か100年位前のその氏族の出自祖先を誤ったり、創作することは当時の情勢では無理だという観点にたっているので、系図上一名人名欠落説を採用したい。(合理的すぎる系図も逆に怪しいという説もある)いずれにせよ平群氏は古代豪族であるが記紀上では真鳥・鮪親子だけ突出した活躍記事があるだけで、後年記紀編纂者などに圧力をかけて歴史を改竄しなければ困るという因子は平群氏には8世紀時点ではなかったものと筆者は推定する。
次ぎに巨勢氏について系図解説をしたい。巨勢氏は武内宿禰の子供である巨勢小柄を祖としている。その3代孫に26継体天皇朝の大臣となった「男人」がいる。この流れが巨勢氏本流と考えられ、後に649年「徳陀古」が左大臣に就任している。徳陀古の兄弟である「大海」の流れからは天智朝の重臣である「人」が出、その娘「郎女」は大伴氏の嫡流である大伴安麿に嫁ぎ有名な歌人でもある大伴旅人を産んでいる。一方「郎女」の兄弟である奈弖麿は公卿になった人物である。また奈弖麿の従兄弟である「麻呂」も中納言公卿となっている。しかしこれらの流れは本流ではなく、徳陀古の息子黒麻呂ー境麿という流れが本流であり境麿も757年ころには朝廷の中枢にいた。その孫「野足」は812年に中納言公卿となっている。このように巨勢氏は少なくとも26継体天皇以降平安時代初期までは朝廷の中枢部にいたことが分かる。ところが野足の子供の時代から政治関係から遠ざかったようである。「野足」の曾孫である巨勢金岡という人物の流の系譜しか残されていない。この金岡は大和絵「巨勢派」の祖とされている人物である。はっきりはしないが巨勢氏に養子に入った人物との説もある。またこの人物の実男子は二人で系図に示した相覧は金村の甥で養子となり名跡を保った形跡がある。
「相覧」の流れから大神神社の社家「越氏」が派生し、実子の公忠・公望の流れは興福寺絵仏師・東寺絵仏師を世襲した。
上述の大神神社社家の流れから江戸時代に、お由利の方という女性が出て、この女性が紀伊徳川家に嫁ぎ産まれたのが後に徳川将軍家8代将軍「徳川吉宗」であると言われている。
上記「越氏」の系図は現在まで残されており、その末裔が現在も大神神社の神官として活躍されているようである。
次ぎに紀氏系図について簡単に解説したい。
紀氏は実際は非常に難解な氏族であることを既稿「紀氏考」で述べた。
本流紀氏は武内宿禰の子供である「紀角」が祖とされている。この系図については解説を省略する。ところが異系図平群紀氏系図なるものが九州の有名な神社である香椎神社の武内神主家に残されているのである。
これには記紀系図には記されていない情報が含まれている。特に注目するのは@平群都久
(平群木菟と同一人物?)がその祖であり、その子供から紀氏を称している。A武内宿禰と中臣氏祖である中臣雷大臣の子供である真根子(武内宿禰の身代わりとなって死んだと紀に記事がある卜部氏の祖)の娘との間に産まれたのが平群都久であると記されている。B真鳥などについては記されていない。Cこの流れの人物に嫁いだ女性達の名前が記されており中臣氏・蘇我氏・葛城氏・大伴氏など当時としてはトップクラスの豪族と婚姻関係にあったことが分かる。これに関係する神社として平群坐紀氏神社が現存し、紀氏本流である紀船守(紀氏本流系)が自分等の祖として平群木菟を祀ったと伝えられているから話はややこしいのである。平群氏の氏神は平群神社というのが現存している。 (後述する)
次ぎに武内宿禰の末子とされる若子宿禰の系図について解説したいが記紀ではこのこの人物についての記述は殆どない。
古事記では江野財臣祖とだけある。後述する。
8−1)武内宿禰考
 日本書紀によると筆者流に計算すると10崇神天皇は在位していたのがBC97−BC30となり(既稿「古代初期天皇家概論」参照)没年令は120才となる。これを史実として納得する古代史ファンは先ずいないのではと思うのであるがいかがであろうか。
戦後色々の角度から大和王権誕生問題が検討され、その時期はAD300年前後で、もしその時の大王に名前を付けたら記紀に記事のある10崇神天皇に相当する人物であっただろう、という説が通説化していると筆者は判断し、本稿では時代背景を理解する基準にしてきた。現在の日本史年表には26継体天皇以前の記紀記事は一般的には記載されていない。記載があるのは中国・朝鮮半島の古文書類・文字表記された遺物で年代確認が出来るものにほぼ限られている。筆者年表の赤字表記部分。(本稿歴史年表参照)
筆者は基本姿勢として以前にも述べてきたが次ぎのように考えて本稿を記述している。
@日本書紀・古事記には一体何が記されているのかを知ること。
A現在の知識・常識から考えて記紀記事の何が合理的で何が非現実的なことであるかを自分なりに判断する。
B記紀記事の背景となった時代の考古学的背景史料を知ること。
C以上などから記紀記事に出来るだけ忠実に従って、その記事が史実であるか、どこに矛盾があるかを自分なりに判断する。勿論無数に存在する過去のプロ・アマの古代史研究者の公知にされている文献類も筆者が目にする範囲で参考にする。
以上の観点で判断している主なものを挙げると
a.記紀で程度は異なるが、欠史8代は勿論のこと10崇神天皇以降も21雄略天皇頃までの天皇在位年数、天皇寿命などに不合理な引き伸ばしが作為的にされている。(通説)
b.各天皇朝単位で記事の年代が記されているが、この年代も全く信用出来ない。但し記事の内容・起こった順番は無視出来ない史実が内在している可能性は否定しない。
c.10崇神天皇在位AD300年初(従、戦後通説)、26継体天皇在位500年初在位の間に世代数で約10代の大王が存在していたことを記紀が記しているが、これは合理的な範囲である。(兄弟天皇、同世代異天皇は1代と見なす。)但し記紀大王系図に記された血脈については議論あるとみている。
d.古代史を判断する時、10代位を平均すると20ー25年/1代 が目安的判断基準となる。例えば大王の場合その在位年数は問題ではなく、次世代の子供を何歳位で産んだかが問題で、在位が長くなればその子供の天皇の在位は当然短くなる。
 本稿の「巨勢氏・平群氏関連年表」はAD300年から507年の26継体天皇即位までは、記紀の作為的と思われる天皇一代の長さの引き伸ばし、天皇寿命引き伸ばしを諸情報を基に筆者判断で合理的範囲に戻して換算西暦表示をしたものである。
アマチュア古代史ファンの特権として大雑把なこの間の年代が分かればと思い作成したものでそれ以外の何物でもない。(背景には記紀系図の大王即位順はほぼ正しいという仮定がある)
さてこの年表を基に武内宿禰の没年齢を推定してみた。日本書紀によると12景行3年誕生。16仁徳50年没を匂わせている。没した年は諸説あるがいずれも仁徳朝である。
参考までに日本書紀に記されている10崇神ー26継体までの各天皇の没年令を記す。諸説有り。
10崇神:120才 11垂仁:140才 12景行:106才(140才?)
13成務:107才 14仲哀:52才 15応神:110才 16仁徳:142才
17履中:70才? 18反正:(?)19允恭:(?)20安康天皇:55才 
21雄略:61才  22清寧:40才 23顕宗:37才 24仁賢:49才
25武烈:17才  26継体:81才
到底合理的でない没年令が多数ある。これを武内宿禰にそのまま適用するとその没年令は200才以上になること間違いない。よって武内宿禰は架空の創作上の人物である説、何代か同一名前の者がいた説、数人の人物を合わせた者説、など言われてきた。
日本書紀では景行天皇朝から朝廷で活躍し、13成務天皇の時、我が国最初の大臣となり、14仲哀・15応神・16仁徳と大臣を務めた非常に長寿の天皇家の忠臣として描かれている。
 明治時代から第2次世界大戦終戦までは日本の紙幣の多くに、その想像人物像が刷られていた。戦前教育を受けた方々は、教科書で忠臣「武内宿禰」として教えられ知らぬ人はいない。明らかに皇国史観の道具に使われた人物の一人である。
戦後は一変して学校教育の場で武内宿禰が教えられることはなくなった。筆者も全く知らなかった人物である。
この人物を筆者の西暦換算年表に従ってその没年令を推定すると、78才となる。没した年が諸説あるのでより遅い16仁徳天皇没年頃に宿禰も没したと仮定しても85才である。当時としては長寿であったことには違いないが人間の寿命という観点から見れば合理的範囲である。戦後色々の角度から検討されて、大和王権の誕生は4世紀初頭前後で敢えてその時の大王を言えば記紀に記事のある10崇神天皇がこれに相当するであろうという説(ほぼ定説化されている?)に従えば、必然的に日本書紀に記されている武内宿禰の没年齢は上述推定年齢前後にならざるをえないのである。勿論記紀に記された大王系図そのものがそのまま史実であるとするにはまだまだ多くの議論が必要なところであることは承知の上での話である。
しかし、逆にこの推定年表を用いて記紀の記事を判断すると、証明は非常に困難だが色々な伝承、その後に各氏族が作成した氏族系図等とも多くの整合がはかられるのではないであろうかと推定している。各氏族系図・家譜の類が何年頃に出来たのかを確定するのは非常に難しい作業である。26継体天皇以降の天皇家系図はある程度史実だとプロの歴史家も認めているようだが、一般的には各古代豪族の系図の類は古代の歴史を知る史料にするのは問題があるという歴史家が多いことも現実である。武内宿禰の末裔氏族なんて系図上の創作に過ぎなく史実解明には邪魔であるということで抹殺しておられる方も多い。
これは氏姓制度・冠位12階制度・八色の姓制度・記紀編纂など朝廷内・日本国内の身分制度の歴史を全く無視した歴史認識であると言わざるを得ない。現在の感覚でそれらの制度が不合理であると言ったってしようがないのである。
大和王権が誕生する以前から一種の身分制度みたいなものが厳然と存在していたのである。それを後の世に成文化する時に国造・県主・連・臣・首・君・公・大臣・大連・宿禰などの身分を表す漢字にしたのである。これ以外にも多数の身分を表す言葉が記紀にも記されているし、その他の古文書にも記されている。
この背景にあるのが系図・家譜の類なのである。朝廷・地方官庁などで或レベル以上の官位・職に就くにはその人物・氏族がどんな氏素性を有しているかが最大の決め手になっていたのであるから、これを客観的に証明するものが必要だったのである。これが系図・家譜の類だったのである。これが偽物・他の氏族の伝承と異なるものであると証明されたらその人物・氏族は公的に排除されたようである。これらの文書こそ生活基盤そのものであったのである。(こんな物は勿論一般庶民レベルの者は有していない)
一般に家系図は江戸時代以降一般庶民レベルまで普及したのであるが、断っておくが、古代豪族らに伝承されたこれらの自分らの祖先・出自系図の類は後世のそれとは全く意味合いが異なると筆者は判断している。
系図の類は、99%偽物である。そんなものを歴史史料にした話は信用出来ない、とする多くのプロの学者などがおられるが、後世のそれと古代を語る場合のそれとを混同しては、ならない。それは暴論であると筆者は考えている。
勿論古代でも自分の祖先を飾り立てたり、歴史上有名人物に結びつけられたりしたことは史実である。記紀編纂の目的の一つは、これら偽系図の類を正すことにあったのである。記紀編纂に先立ち(691年)18氏の古代豪族といわれる氏族の家譜を朝廷は提出を命じている。
その18氏の中に本稿の中心である平群氏・巨勢氏は含まれているのである。
この時既に武内宿禰末裔氏族となっていたことは容易に推論される。
もし巨勢氏・平群氏が当時の他の豪族の認識と異なる家譜を作成し、日本書紀などに反映されたとすると、他の競争相手である豪族等が黙っていなかったであろうことは容易に推定される。691年頃には既にこの両氏が武内宿禰の血脈の氏族であることは、大臣になっても良い氏族であることが認知されていたと推定している。
当時も、それ以前も氏族間の双方監視体制は非常に厳しかったと推定している。
筆者は現段階では武内宿禰の歴史上現存したかどうかは軽々に判断することでは無い、と考える。抹殺するなんてもっての他と判断する。さらなる見直し研究が必要な重要人物だと思われる。
筆者は何度も述べてきたが、記紀に記されている事で明らかに不合理とする事項は史実として排除することにしている。上記したように筆者換算年表から判断すると武内宿禰は現在のとこ年齢からくる不合理性はなくなり排除出来ない人物の一人であることが分かる。
8−2)巨勢氏考
8−2−1)巨勢男人について
巨勢氏を論じる時、最重要人物の一人は4代目「巨勢男人」である。この人物の記事は古事記には無く、日本書紀のみに詳しく記されているのである。25武烈朝ー27安閑朝まで大臣として朝廷のトップの座にいたことになっている。ところがこの時代の有力者は、むしろ大連であった大伴金村・物部麁鹿火であったとして、その方が現在の歴史書では多く取り上げられている。理由は良く分からないが、戦後一部の有力学者らが巨勢男人は、649年に左大臣となった巨勢徳陀古の正当性を主張するためにその祖先である巨勢男人を作為的に26継体天皇の大臣だと創作した可能性を指摘し、同時に武内宿禰末裔氏族系図を否定したことに関連している可能性が否定できない。勿論平群真鳥大臣も作り話とされている。
穿って考えると戦後の忠臣「武内宿禰」抹殺論の一部に利用された観がある。
巨勢男人の日本書紀上での位置づけはかなりはっきりしている。
@武内宿禰は大和王権最初の大臣として13成務朝ー16仁徳朝まで天皇家を支えた。
A武内宿禰の孫にあたる葛城円が18反正朝ー20安康朝まで大臣を務めた。
B葛城円は21雄略天皇により殺され、引き続いて武内宿禰のもう一人の孫に当たる平群真鳥が21雄略ー24仁賢まで大臣を務めた。
C真鳥・鮪親子の専横政治に危機感を覚えた25武烈天皇が大伴金村に命じてこの親子を誅殺して、その後に大臣になったのが同じ武内宿禰の血脈である巨勢男人であった。
D武烈が没した時、皇嗣がいなくなるという天皇家にとっては大問題は発生した。これに対策を講じたのが巨勢男人大臣・大伴金村大連・物部麁鹿火大連らであった。
E色々の経過はあったが、遂に北陸出身の継体天皇が上記豪族らに支援されて即位した。
巨勢男人は同時に大臣に就任した。
F27安閑朝まで巨勢男人は大臣を務め、没した。
G28宣化朝には武内宿禰のさらに別の血脈である蘇我稲目が大臣となった。以後蘇我馬子が30敏達ー33推古朝まで大臣を務め朝廷を牛耳った。33推古ー35皇極まで蘇我蝦夷が大臣となり子供「入鹿」の専横政治に中大兄皇子らにより入鹿は誅殺され、蝦夷は自害して蘇我氏本流は滅んだ。所謂大化の改新が行われた。(645年)
H大化の改新により従来の大臣はなくなり、36孝徳天皇以降左大臣・右大臣制となる。
最初の左大臣は阿部内麻呂(645-649)でその没後巨勢徳太(649 - 658)が就任した。  最初の右大臣が蘇我石川麻呂(645-649)次いで大伴長徳( 649 - 651 )次いで蘇我連子 (651 - 664) と続いた。 ()は大臣位の期間。    
以上が大和王権の中枢を担った大臣の姿である。Gまでは(皇極朝まで)例外なく忠臣「武内宿禰」の裔孫だけが大臣に就任してきたと日本書紀には記されているのである。
戦後の記紀批判によりGの蘇我稲目の大臣就任以降は史実として認めても良いがそれ以前の大臣については史実とは認めがたいと通説ではされていると筆者は理解している。
これは以下のような背景があったのではないかと筆者は推定している。
 
イ.「日本書紀編纂の最大の目的は、日本国を統治出来るのは万世一系の天皇族(家)出身の人物に 限られること、この天皇族は天孫の直系の子孫であり如何なる他の氏族とも完全に区別された一族であること、を歴史的に証明し広く万民にその正当性を知らすことにあった。よって日本書紀は単なる歴史書ではない。為政者である天皇家にとって都合の良いように編集、創作された啓蒙書であると考える方が妥当である。これは日本の古代の史実を直接反映したものではない。日本の歴史の史実を解明しようとしたら、その記事内容は充分精査しなくてはならないのである。」このような考えは勿論戦前から一部学者の間では既に研究されていた。そして戦前までの皇国史観と軍国主義に弾圧を受け自由な発想での古代歴史の解明を阻害していた問題から、戦後になり一挙に開放された学者達の研究成果が花開いたのである。
少なくとも戦前はこの種の議論は一種のタブーであり、一般庶民には全く知らされなかったのである。
ロ.イの観点に立って非常に多数、多方面から記紀批判は行われ古代史解明は非常に進んだとされている。(この中で本稿に関係する部分だけに話を絞ると)
A)万世一系の天皇を立証する証拠はない。せいぜい26代継体天皇以降は現在の天皇まで一系といっても差し支えない。それ以前の記紀記述は(記紀以外にこの時代のことを記した記紀より古い現存する文献は日本には存在しない)史実としてそのまま信用出来ない。B)一部学者は、武内宿禰及びその裔孫が関与する記事は特に要注意であるとした。これらの記事を史実とすると、少なくとも10崇神天皇以降の天皇家の血脈・系図を認めたことになり万世一系の天皇の存在を認めたことになる、と判断して、先ず武内宿禰の実在をナンセンスとして排除した。よってその後の大臣記事も創作であるとして排除した。
即ち逆に言えば、戦後の学者の多くは記紀に記された武内宿禰の史実としての存在を認めることは万世一系の天皇家を認めたことになり、明治の皇国史観・軍国主義に繋がる思想であると考えた、のではなかろうか。
 
筆者は何度も本稿シリーズで述べてきたが、歴史の真実を解明することと、思想問題とは別次元の問題である、と考えている。 記紀という貴重な我が国の古代の歴史を知りうる、世界的に見ても恥ずかしくない成文化された史料がありながら、それから目をそらして充分な精査を怠っておられる古代史専門家という方々がおられるのではと心配している。
勿論、思想は自由である。しかし、史実は自由ではないのである。我々アマチュアは史実が知りたいのである。
長々と愚論を述べて申し訳ないです。
さて本論に戻りたい。
 
昭和50年に発刊された佐伯有清著「古代氏族の系図」という書物の中に「利並臣氏系図」という興味深い系図がある。(参考系図参照)
詳しいことは上記書物を読んでもらいたいが、この系図は記紀にもその他古文献にも記されていない武内宿禰の末子である若子宿禰の裔孫が記されているのである。これによると若子の子供に若長宿禰がおり、これが北陸の三国国造祖となっている。次ぎに同じく若子の子供に「真猪」がおり、この孫「志波勝足尼」が同じく北陸の江沼国造と記されている。
そして若子のもう一人の息子「大河音」の孫に「波利古臣」という人物がおりこれが26継体朝に利波評を賜ったと記されている。この系図は地方豪族利並氏の系図で従来公知にされていなかったものである。
次ぎに26継体天皇の母親である「振姫」の出自系図(上宮記準拠)を見て頂きたい。
振姫は11垂仁天皇の子供「磐衝別」を祖とする三尾君の裔である。振姫の母親は前述の北陸の江沼国造(臣)の娘である。
これらと天皇家公知系図などを筆者が組み合わせて作成したのが26継体天皇背景豪族系図である。総て公知の系図を26継体天皇に焦点をあてて記した筆者創作系図である。
これから分かることは
@武内宿禰の子供とされる巨勢氏系氏族と同じく「若子」の裔である北陸地方の国造出身の氏族は非常に血脈的に近い関係にあったことが分かる。
A継体天皇の母方(振姫)と江沼国造氏は姻族の関係にある。
B継体天皇は子供の時、父に死なれて母振姫の郷である北陸の三国 で育てられた、とされている。本来三尾君の本拠地は近江国の高島付近とされていたが、この頃は北陸の三国に進出していたようである。
C三国の国造氏は、やはり若子の裔である。
北陸の三国辺りに住んでいた男大迹王(継体天皇)を何故大和朝廷は、わざわざ天皇に擁立したかについては古来諸説ある。
筆者が上述してきたように日本書紀の記事に従えば
a.498年平群真鳥大臣・鮪親子はその専横政治が後の25武烈天皇の逆鱗にふれ大伴金村大連により誅殺された。後任の大臣には平群氏と同族である武内宿禰の裔である巨勢男人が就任した。
b.506年武烈天皇が没した時、天皇の跡継ぎがいなくなった。この時、後継天皇捜しを画策したのは大連の大伴金村・物部麁鹿火と大臣であった巨勢男人である。
c.507年色々の経過を経た後に、北陸出身の15応神天皇の裔とされる継体天皇(男大迹王)が大和の豪族からの推戴を受けて河内国樟葉宮で即位した。
さてここで1つの推論を提案したい。勿論類似の推定を多くの学者・古代史ファンがされていることも承知の上でである。
<26継体天皇を天皇に推戴し実現させた最大の功労者は巨勢男人大臣である。>
理由
@当時、巨勢男人は大和王権の中枢にいた人物で、武内宿禰派生の血族集団のトップにいたと推定される。蘇我氏は未だそのレベルに達していなかった。
A北陸地方に数多く盤踞していた(12景行25年の武内宿禰の紀記事と関係しているとの説あり)武内宿禰の末子「若子宿禰」系の各国造氏は、中央にいる同族のトップである巨勢男人とは何等かの交流を持っていた。当時の地方豪族は何等かの中央豪族と交流を持たないとその地位を維持することは困難であったとされる。その場合、同族こそ一番信頼出来る関係である。
B北陸にいた若子宿禰の裔達にとって、三国に住んでいた男大迹王(後の継体天皇)は、姻族の関係にあり自分らの貴種としての親分であった。
C彼等は中央で天皇後継者問題が発生していることを、中央の同族のトップである巨勢男人からの情報で知った。日本書紀の武烈紀(506年?)に記されている男人の記事からこの時既に男人は大臣になっていたことが推定される。
D彼等は、自分らの親分である男大迹王を次期大王として巨勢男人に推戴した。
E男人は自分の同族が推戴してきた男大迹王こそ次期大王に相応しい人物だと、他の豪族らに働きかけてその即位を成功させた。
Fよって継体天皇の即位と同時に男人は大臣に任命されたのである。
 
継体天皇を支えた豪族は血族・姻族がらみだけでも相当数存在する。自分自身の婚姻関係からもさらに多数の支援豪族が増えた。三尾君の娘との間に産まれた椀子皇子の流れが自分の出身地北陸「三国」の主導権を握り三国君氏となったとされている。(三国国造氏はこれにとって代わられた。三国君と三国国造は異なる氏族である)
従来三国国造氏は蘇我氏の流れで継体天皇即位に蘇我氏が活躍したという説もあるが、これは系図の読み違いから起こった事と思われる。
 
以上より日本書紀の記事は史実を反映しているものと判断する。即ち「巨勢男人」は実在していた。その別の史料として続日本紀の751年の記事(人物列伝男人項参照)も実在を裏付けるものと判断する。
横田健一編「日本書紀研究第6」今井啓一論文 塙書房(1977)の中で今井啓一氏は「巨勢氏について」という論文を載せている。
今井はこの中で、筆者が推定した結論とほぼ同一結論を記している。しかし、この段階では上記、佐伯有清著「古代氏族の系図」の中に記されている「利並臣氏系図」が引用されていない。しかし、継体天皇誕生に北陸の武内宿禰の子供である若子の流と巨勢男人の関係を重要視し、巨勢男人実在説を展開している。
男人の娘2人が安閑天皇の妃となっているが特記すべき事項はない。
 
・継体天皇と弟国宮について
 話は一寸飛ぶが、日本書紀によると継体天皇は518年に山背国の弟国に遷都したとある。いわゆる弟国宮である。これは現在の京都府長岡京市であるとされている。比定地は未だ確定していないが筆者の住んでいる長岡京市にある乙訓寺の北付近が有力視されている。526年までこの地に都があったのである。またこの地は784年に50桓武天皇が平城京から遷都され長岡京となった所でもある。
実はこの弟国宮比定地として有力視されている場所から北方約3−4kmの所に旧山城国乙訓郡大枝郷という村がある。50桓武天皇の母方祖母の出所「土師氏」の本拠地であり母親である高野新笠の陵墓(京都市西京区大枝沓掛町)があることでも有名な村である。
この大枝郷の中の古い地名として「山城国乙訓郡大江郷巨勢本里」という名前があったことが近くにある寺の文書(三鈷寺文書(1164年)) に記録がある。一方長岡京時代の山陰道の地図(向日市埋蔵文化財センター資料)に巨勢駅という名前がやはり大枝郷あたりに記されている。
筆者は、この古地名は巨勢男人を語るとき無視出来ないのである。
巨勢男人は紀によると、26継体天皇の507年の樟葉宮での即位直後から大臣であり529年まで大臣であった人物である。当然弟国宮にも随行し、この周辺に住んでいたことであろう。よって巨勢氏の管理する土地・住居などがこの周辺に存在していたと考えるのは無理がないと判断する。そこの呼称が巨勢云々といわれたとしてもおかしくない。それが後年「巨勢」という地名となったのではないだろうか。
即ち巨勢男人大臣が山背国弟国郡に住んでいた証拠であると言える。偶然巨勢という地名が大枝郷に古くからあったに過ぎないとは思えないのである。
 
8−2−2)その他巨勢氏について
「男人」の孫又は曾孫にあたる徳陀古は、元々蘇我氏の従臣的存在だったとされるが、大化の改新を契機に朝廷内の地位を昇り、649年には阿部内麿の病没に伴い左大臣に就任した。
これは確実な史実とされている。戦後の学者らはこの徳陀古の左大臣就任を正当化するために前述のような巨勢氏系図、男人大臣などの話が創作されたのであると推定したようだ。
筆者はこの説は、論拠に乏しく、与しえない。この徳陀古の流は朝廷の中枢で活躍した。
公卿クラスも多数輩出。平安時代に入っても野足は軍人として活躍し中納言になっている。
 巨勢氏の氏神神社は許世都比古命神社(奈良県高市郡明日香村越555 )である。
この神社に江戸時代に造立された石碑があり、そこに巨勢氏に伝承されてきた記録が記されている。この石碑を造立したのが、前述の大神神社の社家となった巨勢氏の裔である「越氏」の末裔だと記されている。詳しいことは前述の横田健一編「日本書紀研究第6」今井啓一論文 塙書房(1977)を参照して欲しい。それによると、巨勢氏の元々の本拠地は、この氏神神社のある明日香村越であったらしい。これが上記「男人」の活躍で葛城の地に領地が与えられ、これがそれ以降の巨勢氏の本拠地になったようである。これが 巨勢山口神社(御所市古瀬宮の谷303)のあるあたりと言い伝えられている。
「野足」以後で有名なのは「巨勢金岡」である。この人物は貴族であったが、政治家ではないと思われる。
大和絵の画家である。巨勢派という流派を興しその後の巨勢氏の世襲的職業となった。政治とは縁を切ったのであろう。堺市にある金岡神社はこの人物を祀ったとも言われている。
これ以降画家としての巨勢氏の記事は多数存在するが、政治面で巨勢氏が歴史上登場することはない。
余談であるが、徳川将軍家の系図を参考系図として記した。これは8代将軍吉宗が巨勢氏の末裔の腹に出来た子供であるとされていることに関係して示したのであるが、本当の狙いはもっと別のところにあるのである。
@徳川将軍家は徳川家康から始まる一夫多妻の典型的な家系である。しかも史実的には正しい系譜とされている。
A家康の嫡系血脈は7代将軍「家継」までである。8代将軍は2代将軍「秀忠」の弟である紀伊徳川家の3代目にあたる吉宗が家継の猶子として将軍家に入りこれを嗣いだのである。
Bこの吉宗の血脈も嫡系は10家治までである。11代将軍は吉宗の子供である一橋宗尹の孫が家治の猶子として入り家斎として嗣いだのである。
Cこの11家斉の嫡系は13代家定までで、14代は12代家慶の弟である紀伊徳川斎順の子供が家茂として嗣いだのである。
D15代将軍は家康の息子水戸徳川頼房の9世孫である一橋慶喜が嗣いだのである。
このことから言えることは
一夫多妻型の制度が許されていても、血脈として男系だけでしかるべき名跡を維持継続させることは至難の業であり、極普通に考えれば不可能であるといっても過言ではないと判断する。古代豪族と言えども直系男系血族だけで10代も続けることは無理と判断する。所謂系図には猶子・養子の類を明記してないものが大多数である。血脈親族から猶子養子を迎えて名跡を維持することが古代豪族では一般的に行われていたようだ。(例えば賀茂県主一族の場合は最近までそうであったとのことである)
問題は天皇家の場合である。これも江戸時代までは一夫多妻であったことは間違いない。26継体天皇以降は色々な方法で一系を保ったことは史実として認められている。この場合一般古代豪族や、武士、徳川将軍家などのような猶子・養子・婿養子などのような方法で天皇家という名跡を維持したのではない。これが他の氏族と全く異なるとされる由縁らしい。26継体天皇は15応神天皇の4世孫とも5世孫とも言われている。これをもって血脈は切れたと考えるか、そうでないと考えるか議論があるところである。現代人の多くはそんなことどうでも良いことである、という声が圧倒的に多いようだが。
究極的に考えれば、我々日本人のご先祖達は、天皇家一族だけは、男系血脈を保っている唯一無比の一族として認識し、これを護り?大切にする?ことこそ、日本国家の存続維持に必要不可欠のものとして、いかなる時代にも?現在にいたるまで国民的コンセンサスが得られてきた?存在だと理解している。現在、皇室後継者問題が話題になっているが、今後これをどうするかは、筆者は、国民が決めることだと判断している。そのためにも日本の歴史を正しく認識することも重要だと判断している。
8−3)平群氏考
平群氏の本拠地は大和国平群郡平群郷で現在の平群神社のある奈良県西和市平群町西宮
付近とされている。九州の香椎宮の社家武内氏に残されている平群紀氏系図及び前述の利並臣氏系図を合わせたのが異系図「平群紀氏系図2」である。
これが正しいという証拠はないが、ある種の伝承を伝えたものと判断している。
これは記紀系図だけでは分からない部分が分かってくる。
@8孝元天皇の孫屋主忍男武雄命は紀国造系の山下影媛との間に武内宿禰を産んだ。一方尾張氏の娘葛城高千那毘売との間に武内宿禰の政敵になる甘美内宿禰と忍比売を産んでいる。
Aこの忍比売は中臣氏の遠祖である雷大臣の息子である中臣連烏賊津使主に嫁ぎ、中臣氏本流の祖である大小橋と壱岐卜部氏の祖である壱岐直真根子をもうけている。
Bこの真根子こそ武内宿禰に似ているということで甘美内宿禰の讒言に対抗上、武内宿禰の身代わりとなって死んだという話が記紀に残されている。この真根子の娘「豊子媛」が武内宿禰との間に産んだ子供が平群紀都久宿禰だということになる。
C平群紀都久宿禰と平群木菟とは同一人物とされている。
Dこの系図には平群真鳥などは記されてなく、都久の妻は中臣阿麻毘舎の娘「玉津媛」であり子供は紀馬御織(糸偏でなく木偏)連でありこの流は紀氏となっており、その末裔が香椎神社の社家であるとなっている。
この系図は本稿の公知系図として示した一般平群系図でもなく、一般的な紀氏系図でもない。
一方現在の奈良県西和市平群町上庄には「平群坐紀氏神社」なる古社がある。上記平群神社の隣みたいなとこにあるのである。祭神の中に天児屋根命と都久宿禰があり何かしら上記異系図2の系統を匂わせている。紀氏本流で歴史上有名な「紀船守」がこの神社を紀氏の氏神とし祖神は平群木菟としたとの伝承も残されている。実にややこしいのである。
この辺りのことはさらなる研究が必要に思われる。どこかで混線しているのではなかろうか。(紀氏考参照)
平群氏の一般公知系図では派生氏族で味酒氏が有名である。菅原道真関連で平安時代に学者として歴史上登場する。
平群氏の本流としては平群子首という人物が681年に帝紀・上古諸事の設定事業に参画したと紀に記されている。この人物が自分らの先祖を飾り立てるために平群氏系図・真鳥・鮪伝説みたいなものを創作したのだ、という説が戦後の学者により提案され通説化している。筆者は上述したように、子首が創作したような虚偽記事・系図などを日本書紀(系図は古事記)がわざわざ何故記する必要があるのか全く理解に苦しむ。平群子首なる人物は全く無視しても良い位の人物であり、当時は既に平群氏は全く権力の座からははずれた存在であり、それ以後も全く無視された存在の氏族である。
それは戦後の一部学者の説が史実をねじ曲げようとする意図的推測に過ぎないと思わざるをえない。正確に記紀に記された通りではないかも知れないが、武烈朝まで朝廷を牛耳るくらい勢力を有した平群氏の人物がいたということはある程度史実であったと推定している。その後継者になったのが同族である巨勢氏と考える方がより現実的である。
記紀に記されていることが史実であるということを立証することは非常に難しい。同時に史実でないということを立証することも非常に困難なのである。ならば、史実だと仮定してどこに矛盾が生じるかで判断せざるをえないのである。平群氏なる古代豪族が存在していたことはその後の続日本紀などにも何人かの人物が記事として登場することからも史実と判断している。問題は大臣を出した蘇我氏・葛城氏・巨勢氏らと同族であるかどうかである。同族だと仮定して筆者は現段階では矛盾は見つからないのである。
9)まとめ(筆者主張)
@10崇神天皇を大和王権誕生の時の大王と仮定し、その時期を4世紀初頭であったという戦後の通説に従うと、記紀に最初の大臣(おおおみ)として多数の記事が出ている武内宿禰という人物は没年齢80才前後で合理的範囲に入り、無条件にその存在を否定出来ない。よって戦後の武内宿禰は記紀編纂者らの創作上の人物であるという説は再考されるべきである。(筆者年表参照)
Aこの武内宿禰系氏族の系図は古事記にしか明記されていないが、武内宿禰以降の葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏など歴代の大臣輩出氏族はいずれも武内宿禰の血族であるという日本書紀の記事は、史実としては蘇我氏以外は疑わしいという戦後の通説?に疑義がある。
B上記葛城・平群・巨勢・蘇我氏がいずれも武内宿禰の血族であるとする記紀記事を史実として証明することは、現段階では不可能である。しかし、記紀編纂以前から既に古代豪族として大和国に存在していたことは史実と判断出来る。
C葛城氏・蘇我氏については本稿の「葛城氏考」「蘇我氏考」を参照することとして、平群氏・巨勢氏についてその史実性について以下に記述する。
D平群木菟の子供とされる「真鳥」が、21雄略天皇の時代に雄略の怒りをかって殺された葛城円大臣の後継大臣となり、仁賢天皇の時代まで活躍し、子供の鮪と共に専横政治を行い後の武烈天皇の命により大伴金村大連の手により滅ぼされた。
E平群氏と同族である巨勢男人が平群氏の後継大臣として25武烈天皇在位中から誕生していたと考えるのは当時大和地方には臣姓氏族として有力であったのは武内宿禰一族しか存在していなかったということを考慮に入れると妥当である。
F武烈の没後、後継大王問題が発生した。この時、巨勢男人の血族である北陸の三国国造氏など武内宿禰の末子である若子宿禰の一族が、自分らの姻族である15応神天皇の5世孫の男大迹王(後の継体天皇)を次期大王として男人に推薦してきたと考えるのは、無理がない。これにより大和勢力である巨勢男人と北陸の雄である男大迹王は結びつき、河内国樟葉宮で507年26継体天皇が即位したのである。男人がその大臣となったと記す日本書紀の記事理由も明白である。
G518年に継体天皇は山背国弟国郡に都を移した(弟国宮)。これは現在の京都府長岡京市内とされている。比定地は未だ確定していないが、その最有力候補地である乙訓寺北
あたりから数km北に旧山背国乙訓郡大枝郷があり、その邑の中の地名として巨勢駅とか巨勢本里という呼称で呼ばれていた所が存在していたことが知られている。これは巨勢氏が弟国宮に随行してきたことを暗示していると筆者は判断している。
H以上より大臣巨勢男人が実在していた可能性は非常に高いと判断している。
I男人の没後、同族の蘇我稲目が大臣となり、蘇我氏全盛時代を迎えた。
J大化の改新以降、新たな政治体制となり、大臣制は左大臣・右大臣制となり大連制は事実上名目的なものになった。
K男人の孫である徳陀古が36孝徳天皇時、左大臣となり、以後この一族は平安時代初め頃まで朝廷の中枢にいたと考えられる。
Lその後9世紀中頃に巨勢金岡なる人物が出て大和絵の一派を確立し、世襲的にその裔が画壇で活躍した。
一方、金岡の庶流から大神神社の社家となった「越氏」から江戸時代の8代将軍吉宗の母親「お由利の方」を輩出したとされている。どちらの家も現在までその裔が続いているとされている。
M以上より筆者は武内宿禰なる人物は実在し、その裔である葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏が実在し、それぞれ、時の朝廷のトップ為政者の座にいたことがある氏族であったとする記紀の記述は、多少の虚飾・非現実的な部分はあるかもしれないが、大筋では日本の古代史において活躍した事実を反映していると考えて大きな矛盾は無いものと判断している。
N戦後色々提案されているこれらの人物・事績・系図などに関する記紀記事の批判に関してさらなる検討が必要だと思われる。各種発掘調査のさらなる進展・解析が深まることを期待している。
        (2009-3-26 脱稿)
10)参考文献
・「古代氏族の系図」佐伯有清 学生社(1975)参考
・横田健一編「日本書紀研究第6」今井啓一論文 塙書房(1977)
・日野昭「武内宿禰とその後裔」平安学園研究論集NO3(1959)
・直木孝次郎「巨勢氏祖先伝承の成立過程」近畿古代論集(1963)
・「継体大王とその時代」高槻市教育委員会(2005)
・「京都三都物語」 京都渡来文化ネットワーク会議(2009)
・「姓氏家系大辞典」 太田 亮
・フリー百科事典ウイキペディアの各種関連hp
・その他関連の多数のhp      など