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40.安曇氏考 ー日本人の起源論についてー
1)はじめに
 筆者は何度か信州の安曇野を訪れたことがある。高原野菜で有名な所である。ここが古代豪族「安曇氏」の所縁の地とされているのである。穂高神社の本拠地でもある。安曇氏の元祖である穂高見命が穂高岳(標高:3,190m)に降臨してこの地を開拓したとの伝承が残されている。
安曇氏は、金印(漢委奴国王)で有名な九州の志賀島付近にあった奴国の王一族であり、日本の海人族の代表氏族だとも言われ、日本全国の地名にその痕跡を残している。滋賀県の志賀・安曇川・安曇・厚見、渥見、熱海、泉 ・厚海・渥美・阿積・飽海・飽海川・飽海郡(あくみぐん)など関連地名だとされている。前稿で述べたように古代倭国の奴国と言えば「太伯之後」と自称したとされる倭人の代表的な国の一つであった。彼等が祀った神が「綿津見神」という海神である。
北九州志賀島付近にあったとされる古代倭国の一つ「奴国」が実在したことは、AD57年に上記金印を中国の光武帝が発行したことが、中国の古文献に明記されているのである。
一方、中国古代文献では、この頃の大王家(天皇家)のことは全く記されていないのである。この頃倭国内には多くの小国が存在していたことは、発掘調査などからも確認されている。未だ邪馬台国が出現する前である。この時の恐らく北九州辺り(倭国)で中国の漢の都にまで使いを出していた国が倭国に存在していたこと自体が驚きである。日本の歴史から見れば弥生時代である。一体彼等はどんな文化を持ち何をしていたのであろうか。その氏族の代表こそ、本稿の安曇氏だというのである。これ程古い出自がこれだけはっきりしている古代豪族は、いない。
しかも、記紀などにもその活躍記事が僅かではあるが記録されている。そして、穂高神社社家という形で現在に繋がる歴史が伝承されているのである。どこまでが史実であるかは議論があるところであるが、凄いことである。日本人のルーツを探る研究を色々な分野の専門家が進めている。アマチュア古代史ファンも色々な探索推理を楽しんでおられる。
筆者も否応なしにこの分野も、この際覗いてみようと試みたが、そう簡単に歯が立たないことを痛感している。最新の日本人の起源論を諸論文・諸情報を参考にして解説してみたい。安曇氏を知ることは、その一端を垣間見ることになると信じている。
 
2)人物列伝
 安曇氏の発祥地は、筑前国糟屋郡阿曇郷(福岡県粕屋郡新宮町:志賀島付近)だとされている。新撰姓氏録では海神綿積豊玉彦神の子穂高見命の後と記されている。
系図上どの流れを本流とするべきかは判断の分かれるところであるが、「安曇浜子」の流れは、はっきりした系図が公知にされていない。よって「前嶋子」の流れで穂高神社社家系図に基づき列伝を記した。但し記紀等に記事のある人物は、主に安曇浜子の後裔人物と思われる。個々の人物紹介は記すことにした。

2−1)綿津見豊玉彦命(わたつみとよたまひこのみこと)
@父:伊弉諾尊 母:伊弉冉尊
A子供:豊玉毘売・玉依毘売・宇都志金折(穂高見命)・振魂命
別名:古事記:海神・大綿積(綿津見)神・少童神 日本書紀:海神豊玉彦
B古事記:伊弉諾尊と伊弉冉尊の国生みに引き続き神々を産んだ8番目の神。
「海の神、名は綿津見神」と記されている。日本書紀には全く記されていない。但し、綿津見神、海神、少童命と記され、古事記の大綿津見神と同一。
山幸・海幸神話。大海神宮の主。初代神武天皇の外祖父。
C人の貧富を左右する力を持つ水の支配者。
D海人族の雄である安曇族の元祖神。
E日本書紀:黄泉の国から帰った伊弉諾尊神が、日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはぎはら)で禊祓った時、三柱の筒之男神(住吉三神)とともに化生した綿津見三神は、もとはこの一神であったと思われる。底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神
F猿田毘古神とも関係有り説。
G「天(海人)語歌」阿波国の阿曇系の海人部によって伝承されたとされる歌。
など記紀神話のこの部分は海人族の伝承神話の影響を受けている、説。
H住吉神を祭る住吉大社の奉斎氏族の津守氏の氏神が大海神社(おおわたつみじんじゃ)である。綿津見神と住吉神との関係
 
2−2)穂高見命(ほたかみのみこと)
@父:綿津見豊玉彦命 母:不明
A子供:多久置 弟:振魂命(倭氏・尾張氏の祖説)
 別名:宇都志日金柝命(うつしひがねさくのみこと)
B穂高神社の主祭神 信州穂高岳に降臨した安曇族の祖 安曇野はその後裔氏族が開拓。
C古事記:「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命(穂高見命)の子孫なり」
「新撰姓氏録」:「阿曇連、宇都斯奈賀(うつしなが)命の後也」
D
・豊玉毘売
@父:綿津見豊玉彦命 母:不明
A子供:鵜葺草葺不合尊 夫:彦火火出見尊(山幸彦)
B記紀神話:天孫ニニギの尊の子供である彦火火出見尊は塩土老翁神の勧めで海神の宮に行った。豊玉毘売はその妃となった。山幸彦が帰国したのち、あとを追って来て、山幸彦の国で御子を産みたいと告げる。そして海辺に産屋を建て、山幸彦に中を覗かないように禁じて産屋に籠った。しかし、山幸彦は、覗き見してしまう。出産中の豊玉毘売は八尋鰐と化していた。毘売は正体を見られたのを恥じ、御子・鵜葺草葺不合尊を置いて、父の海神のもとへ帰ってしまう。
 
・玉依毘売命
@父:綿津見豊玉彦命 母:不明
A子供:五瀬命・稲飯命・御毛沼命・神武天皇  夫:鵜葺草葺不合尊 姉:豊玉毘売
B記紀:天孫降臨・鵜葺草葺不合尊の段に登場。姉豊玉毘売の子供 鵜葺草葺不合尊を養育し、後にその妻となり、五瀬命・稲飯命・御毛沼命・神武天皇らの母となった。
C吉野水分神社、子守明神の祭神。
 
2−3)多久置
@父:穂高見命 母:不明
A子供:穂己都久
 
2−4)穂己都久
@父:多久置 母:不明
A子供:摩幣区利
B安曇犬養氏祖
 
2−5)摩幣区利
@父:穂己都久 母:不明
A子供:意伎布利根
 
2−6)意伎布利根
@父:摩幣区利 母:不明
A子供:小栲梨
 
2−7)小栲梨
@父:意伎布利根 母:不明
A子供:麻曽杵
B凡海連祖 説(新撰姓氏録)
 
2−8)大栲成吹
@父:小栲梨 母:不明
A子供:百足足尼
 
2−9)百足足尼
@父:大栲成吹 母:不明
A子供:大海宿禰・小浜宿禰 別名:阿曇連百足(あずみのむらじももたり)
B異系図:子供:勝海宿禰が子供とある。勝海の子供が大海宿禰・小浜宿禰とある。
C肥前風土記:12景行天皇西国鎮撫記事に「御付人」として活躍記事あり。
D播磨風土記:36孝徳朝の記事に百足関係記事あるが、これは時代が異なり阿曇連頬垂(つらたり)の間違いであろうとの説。
E貞観6年(864)三代実録の記事
「播磨国風土記〜揖保の郡・石海の里〜」にも、36代孝徳天皇朝に、「阿曇連百足がこの里に生えた百枝の稲を天皇に献上し、天皇が、それならばその里に田を作るがよいと、石見の人夫達を召して開墾させたので、この野の名を百便(ももたり)、村の名を石海(いわみ)という。」とあるが、時代的に、斉明〜天智朝に、我が国と新羅・百済間をたびたび往復したという、阿曇連頬垂(つらたり)の誤記であろう。とされている。
参考)肥前風土記(和銅6年=713年)  
「値嘉の郷(肥前国松浦郡値嘉郷)、郡の西南の方の海に中に烽(とびひ)が3カ所あり。
 同じき天皇(景行天皇)巡幸し時は志弐嶋の行宮(かりみや)に在わして、西の海を 御覧するに海の中に嶋あり。姻気(はぶりき)多に覆へりき。 
阿従(あともびと)、阿曇連百足(あずみのむらじももたり)におほせて 察(めさ)しめたまひき。ここに八十餘りあり。その中二つの嶋には嶋別に人あり。第一の嶋の名は小近(おちか)、土蜘蛛大耳すみ、第二の嶋の名は大近、土蜘蛛(穴居した先住民族)垂耳すめりその他の嶋は朋<(とも)に人あらざりき。
ここに百足(ももたり)、大耳など獲りて奉聞しき。天皇勅(みことのり)して誅(みみな)い殺さしめんとしたまひき。 時々大耳等叩頭(のみ)て陳聞(まお)しく。《大耳等が罪は、実に極刑(しぬるづみ)に当たれり、万たび殺戮(さつりく)するとも罪を塞(ふさ)に足らじ、若し思情を降ろしたまひて、再生きることを得ば御覧(みにえ)をつくり奉りて、恒に御膳(みけ) に貢(たてまつ)らむ》 とまおして、即て木の皮を取りて長蚫 (あわび)、鞭蚫、短蚫、陰蚫、羽割蚫等のを様 (ためし)を作りて御所(みもと) に献(たてまつ)りきに、天皇恩を垂れて赦し放りたまひき。
更に勅したまひしく(この嶋は遠けどもなお近きが如く見ゆ。近嶋と謂うべし)とのりたまひき。因りて値嘉(ちか)という。 嶋には則ち檳榔(あぢまさ)、木欄(もくらに)、枝子(くちなし)、 木蘭子(いたび)、黒葛(つづら)、茸(なよたけ)、篠(しの)、木綿(ゆう)、荷(はちす)、ひめゆりあり。
 海には則ち蚫螺(あわびにし)、鯛(たい)、鯖(さば)、雑(くさぐさ)の魚、海藻(め)、海松(みる)、雑の海藻あり。
 彼の白水郎(あま)は牛馬に富めり。或は一百(もも)餘りの近き嶋あり。或いは八十餘りの近き嶋あり。西に船を泊つる停二処あり。
 一処の名は相子田の停といひ、二十餘りの船を泊つべし。
 一処の名は川原の浦(岐宿町川原)といひ十餘りの船を泊つべし。遣唐の使はこの停より発ちて、美弥良久(みみらく)の埼に到りここより発船して西を指して渡る。
 この嶋の白水郎は容貌(かたち)、隼人に似てつねに騎射(うまゆみ)を好み、その言葉は俗人に異なれり。」
 
2−10)大海宿禰  (異系図:勝海宿禰)
@父:百足足尼 母:不明
A子供:安曇浜子・前嶋子 兄弟:小浜宿禰(凡海宿禰祖)別名:大浜宿禰?
B阿曇連祖
C日本書紀応神3年記事:諸所の海人の騒ぎを命により鎮めて「海人之宰(みこともち)」に任命された。それ以前から海人を率いていた人物と推定される。
D筑前風土記:糟屋郡資珂嶋条:神功皇后の新羅征討に陪従した大浜・小浜の記事あり。
E大岳神社:祭神:大浜宿禰
 
・小浜宿禰
@父:百足足尼 母:不明
A子供:不明    凡海連氏祖説
B神功皇后の伝説:神功皇后が三韓征伐の帰路、大シケに遭って象潟沖合に漂着し、小浜宿禰が引き船で鰐淵の入江に導き入れたが、そのとき皇后は臨月近かったので清浄の地に移したところ、無事に皇子(のちの応神天皇)を産み終えたという『蚶満寺縁起』所載の伝承。その後、象潟で半年を過ごし、翌年の4月鰐淵から出帆し、筑紫の香椎宮に向かったという。蚶満珠寺の名は、干珠・満珠を皇后が持っていたことに由来するとされる。
C小岳神社(志賀海神社の末社の一つ。大岳神社と対の神社。):祭神は阿曇小浜宿禰。
 
・凡海麁鎌(おおあまのあらかま)
@父:不明 小浜宿禰の後裔説(小栲梨命の後裔説もある) 母:不明
A子供:足人   別名:大海蒭蒲 大海宿禰菖蒲(おおしあまのすくねあらかま)
B飛鳥時代の人物。凡海・大海は「おほあま」、「おほしあま」、あるいは「おほさま」
姓は連姓。
C日本書紀天武13年(684)紀:凡海連姓から凡海宿禰姓となる。
D大海人皇子(天武天皇)の壬生(養育係)
E大宝元年(701年)に陸奥国の冶金に遣わされた?位階は701年当時で追大肆。
F阿曇氏の系図では、浜子の父となっているものもあるが、時代が会わない。浜子の弟の小浜宿禰が、凡海(おおしあま)宿禰祖とあるので、この子孫か。それとも大海部直祖の多与志を出した尾張氏か、賀陽采女を出した吉備氏か。また、凡海郷のあった大浦半島の付け根の舞鶴市には、息長の転訛である「行永(ゆきなが)」があり、息長氏系の丹波道主命の本拠地であることから、息長氏の可能性もあるともいわれている。
 
・海 業恒
@父:凡海信恒(麁鎌の7世孫) 母:不明
A子供:清原広澄・善澄・近澄 兄弟:海薫仲  
B皇別氏族(舎人親王系)清原房則の養子となる。史実か?平安初期の人物。
C清原氏系図では、義理兄弟として歌人として有名な清原深養父(908年内匠少允、923年内蔵大允等を歴任、930年従五位下に叙せられる。)がいる。この流れから清少納言輩出。及びこの流れが出羽清原氏に繋がっている。
D業恒の子供「清原広澄」が平安貴族清原氏の嫡流となり、この流れから、舟橋・伏原・沢家という堂上公家を輩出する。室町時代の碩学である清原宣賢は吉田神社の吉田兼倶の子供であったが、清原氏の養子となった人物。
 
・阿曇連浜子(あずみのむらじはまこ)
@父:大海宿禰 母:不明
A子供:不明     別名:黒友
B日本書紀17代履中天皇の即位前紀:淡路の野島の漁師を率いて、履中の同母弟、住吉仲皇子の叛乱に荷担。因みに、倭直吾子籠も住吉仲皇子に荷担している。吾子籠は妹を履中の采女に差し出し、浜子は死罪を免れて、目の縁に入墨をされた。時の人はそれを阿曇目(あずみめ)といったという。淡路島は阿曇氏の本拠地の一つ。
彼に従った淡路の野島の海人の話も記されている。
この事件により安曇氏の記事はしばらく史上から消えることになった。
C仁徳天皇がなくなって、王位を継ぐ立場にあった長子の去來穂別(履中)の婚約者と弟の住吉仲皇子が深い中になった。そのことを知った去來穂別が怒っていることを聞いた住吉仲皇子が安曇浜子(朝廷の水軍の指揮官)と結び、難波にあった去來穂別の宮を囲み焼くが、去來穂別は木莵宿禰、物部大前、阿知使主の三人とともに、石上神宮にのがれた。ここに、駆けつけた瑞歯別(反正)に去來穂別は、会わずに、難波に行き住吉仲皇子を討てと言う、瑞歯別は去來穂別も仲皇子も私の兄で一方に従い一方に背くことは、心苦しいが、このような場合には道の外れた者を滅ぼさねばならないと嘆きながら難波に行き仲皇子を滅ぼす、去來穂別の没後、瑞歯別が大王になった。
 
・阿曇磯良(あづみのいそら)
@父:不明 母:不明
A子供:不明   別名:磯武良(いそたけら)・少童(わたつみ)神・安曇磯良
B民間伝承多数ある謎の人物。
C神功皇后に従属した、志賀島の海人。
D民間伝承では、豊玉毘売命の子。鵜葺草葺不合命(日子波限建(ひこなぎさたけ))は同一人物説。
E宗像神社「宗像大菩薩御縁起」:神功皇后の三韓出征の時、亀に乗った磯良が現われて加勢したとある。
F石清水八幡宮「八幡宮御縁起」「八幡愚童訓」:「磯良と申すは筑前国鹿の島の明神の御事也。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、是みな一躰分身、同躰異名にてます」「安曇磯良と申す志賀海大明神」「磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神」
G「琉球神道記・鹿嶋明神事」:「筑前の鹿の嶋の明神、和州貸すが明神、此、鹿嶋、同磯良の変化也」とある。
H高良大社(福岡県久留米市御井町)の祭神、高良玉垂命が磯良神だという説
I1809年(江戸中期)成立の対馬の地誌「津島紀事」:「琴崎(きんさき)の海底には「龍宮の通路」と称する穴有り。神功皇后の新羅出征の時、碇(錨)がこの穴に挟まって抜けず、舵取安曇磯武良、亀に乗りて海に入り、碇を得て出で来る。」
J「琴崎大明神の社、祭神一座、少童命また磯良と云う。」この上対馬郡琴崎には胡禄(ころく・やなぐい)神社が鎮座しているが、同じ「津島紀事」に、「古、覡婆の小島氏(胡禄神社社家)の女が磯に出て、金鱗の小蛇と金の塊石を社前の海辺で見つけ、竹漉籠(ショーケ)ですくって祠に祭り奉った。」とあり、琴崎大明神は磯良神であるから、磯良神の正体は小蛇ということになる。
K太平記:磯良(阿度部(あどべ)の磯良)の出現について以下のように記している。
神功皇后は三韓出兵の際に諸神を招いたが、海底に住む阿度部の磯良だけは、顔に牡蠣や鮑がついていて醜いのでそれを恥じて現れなかった。
そこで住吉神は海中に舞台を構えて磯良が好む舞を奏して誘い出すと、それに応じて磯良が現れた。
磯良は龍宮から潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠(日本神話の海幸山幸神話にも登場する)を借り受けて皇后に献上し、そのおかげで皇后は三韓出兵に成功したのだという。
L志賀海神社の社伝:神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護したとある。
北九州市の関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。
M阿曇磯良は「阿曇磯良丸」と呼ぶこともあり、船の名前に「丸」をつけるのはこれに由来するとする説がある(ほかにも諸説ある)。宮中に伝わる神楽の一つ「阿知女作法」の「阿知女(あちめ)]は阿曇または阿度部のことである。
 
・男狭磯(おさし)
阿波国長邑の海人。19代允恭天皇紀、天皇が淡路島で狩をしたが、島の神(伊弉諾尊)の祟りで全く獲物が獲れなかった。明石の海の底の大真珠を供えればよいとの託宣があったので、方々の海人を集めたが獲れない。そこで男狭磯が呼ばれ、海底から大鮑を抱き取って浮上するが、海上で息絶えてしまった。その時、男狭磯が腰に巻いていた綱は、六十尋(一尋は大人が両手を広げた長さ)もあったという。大鮑から出て来た桃の実程の大きさの真珠を供えると、猟は大成功しが、天皇は男狭磯の死を悲しんで、墓を作って厚く葬った。
 
・安曇連比羅夫(?−663)
@父:不明 母:不明
A子供:不明 別名:阿曇山背連比良夫
B紀記事:舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていた。641年舒明天皇崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐(ぎょうき)を自分の家に迎えている。
C642年:皇極朝に百済に遣わされ朝鮮半島で活躍。百済救援軍の将軍。百済王豊璋の護送にも関与。
D661年:高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。
E662年:日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡った。大錦中に任じられた。
F663年8月:白村江の戦いで阿部比羅夫と共に戦死したとされる。(帰国説もある)長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命として祀られる。
G一族より東国国司輩出。
 
・阿曇連稲敷
@父:不明 母:不明
A子供:不明
B学者。天武元年(673)紀記事:38代天智天皇の10年11月、対馬沖に唐の使人、郭務?らが来訪。12月天皇が亡くなったので、その旨を筑紫まで知らせる朝廷の使者となっている。(7位)
C天武10年(681)紀記事:詔して川嶋・忍壁皇子らと共に「帝記」及び「上古の諸事」を定めしめた。
D684年宿禰姓を賜る。
E691年記紀編纂のため18氏の古代豪族に纂記提出が命じられた。その豪族の一つに安曇氏が選ばれた。
 
・阿曇宿禰虫名
慶雲元年(704)従五位下
 
・阿曇宿禰坂持(板持
@
A
B養老7年(723)従五位下。
 
・阿曇連頬垂(つらたり)
@父:不明 母:不明
A子供:
B西海使。新羅使。
C斉明3年4年紀記事・天智9年(670)記事:遣新羅使。
 
・阿曇宿禰蟲麻呂
@
A
B天平10年(736)淡路国司
・安曇宿禰広道
天平10年(736)淡路国司
 
・阿曇宿禰大足
@父:不明 母:不明
A子供:不明   別名:阿曇宿禰刀?
B天平18年(746)従五位下。勝宝5年(766)安芸守
 
・安曇宿禰刀
B神亀4年(727)従五位下。
C内膳奉膳 霊亀2年(716):神今食の時、典膳高橋乎具比に向かって刀は官長で長老の故先に立って供奉しようと言ったところ乎具須比は神事の日御膳を供奉するのは膳臣の職で、他氏の預かるところでないとして争い、この争論が内裏に聞こえたため累世の神事は改めず例によって行へとの勅判があり以後相論はなかったという。(本朝月令所引高橋氏文)
 
・阿曇宿禰諸継
@
A
B内膳典膳 奉膳 宝亀元年(770)従五位下。
 
・安曇宿禰石成
宝字5年(761)従五位下。景雲2年()若狭守。宝亀3年(772)従五位上
 
・安曇宿禰夷女
宝字6年(762)従五位下
 
・阿曇宿禰三国
@
A
B勝宝7年(768)万葉歌人防人歌。
C宝字8年(764)藤原仲麻呂追討 従五位下
 
・安曇宿禰浄成
宝亀5年(774)大膳主醤 宝亀7年(776)従五位下 内膳奉膳
 
・安曇宿禰刀自
宝亀7年(776)従五位下。天応元年(781)正五位下
 
・安曇宿禰日女虫
天応元年(781)従五位下
 
・阿曇宿禰広吉
@
A
B宝亀6年(775)高橋波麻呂と供奉の前後争い。
C延暦4年(785)従五位下和泉守。大同元年(806)従五位上安房守。
弘仁元年(810)伊予権亮介
 
・安曇宿禰継成(あづみのすくねつぐなり)
@父:不明 母:不明
A子供:不明
B延暦11(792)年3月18日、内膳奉膳であった継成は、高橋氏との内膳たる勢力争いに敗れ、勅命を承けず人臣の礼無しとして、絞刑に処せられるべきところを特旨をもって死一等を減ぜられ、佐渡に配流された。これにより阿曇氏は内膳たる正当性を失い、以後、中央政界からその姿を没してしまう。
 
789年(延暦8)に家記、792年に太政官符を付加して提出された、阿倍・膳氏系の「高橋氏文」に象徴されるように、当時、12月11日の月次祭(つきなみまつり)の夜に行われる神今食(じんごじき・かんいまけ)の神事に際し、両氏はしばしば行立の前後を争っていた。しかしながら、高橋氏が天皇の膳夫として奉仕し始めたのは、12代景行天皇に仕えた磐鹿六雁命であるのに対し、阿曇氏は15代応神天皇に仕えた大浜宿禰が最初であり、膳氏系高橋氏が先だという「高橋氏文」の主張で、阿曇氏は常に敗退の辛酸をなめた。
 
・阿曇連太牟
播磨風土記:孝徳朝百足が百枚の稲を献上。 間違い?
 
2−11)前嶋子
@父:大海宿禰 母:不明
A子供:杵都久 兄弟:安曇連浜子
 
2−12)杵都久
@父:前嶋子 母:不明
A子供:咋子
B
 
2−13)咋子
@父:杵都久 母:不明
A子供:倉海・鮪子
 
2−14)倉海
@父:咋子 母:不明
A子供:魚麻呂・船麻呂 兄弟:鮪子(安曇部氏祖)
B安曇犬養連氏祖。
 
2−15)船麻呂
@父:倉海 母:不明
A子供:泉 兄弟:魚麻呂
B奉齋穂高大神 穂高神社社家となる。
 
2−16)泉
2−17)虫万呂
2−18)稲男
2−20)清人
2−21)水万呂
2−22)今雄
2−23)子足
2−24)宗庭

2−25)永雄
@
A
B貞観3年(861)穂高神社禰宜

2−26)人宗
2−27)継長
2−28)千長
2−29)則長
2−30)光長
2−31)則富
2−32)諸安
2−33)則直

2−34)則敦
@
A子供:則智(安曇太郎)・則延(安曇次郎)
B禰宜
 
2−35)安曇則延
@
A子供:則里
B平安末期 禰宜
 
2−36)則里
@
A子供:則安(禰宜)・則吉・正郷
B禰宜
 
2−37)則吉
@
A子供:則総(祝部)則和
B神主
 
2−38)則和
@
A子供:政景
B神主
 
2−39)政景
@
A子供:則景
B神主
 
2−30)則景
@
A子供:政種・政弘
B禰宜
 
2−31)政種
2−32)則種
@
A子供:房則
B安曇伊賀守
 
2−33)房則
@
A子供:穂高知通・則政
B応永7年(1400) 神主・荘監  大塔合戦の時仁科盛房軍に従軍
 
2−34)則政
2−35)穂高政行
穂高但馬守
現在の宮司家も穂高姓。
 
3)関連神社
3−1)志賀海神社(福岡県東区志賀島)
@祭神: 綿津見三神(底・中・表津少童(わたつみ)命)
・祖神 綿津見豊玉彦命、阿曇磯良(丸)
A社格:式内社名神大社・官幣小社
B創建:不明 2−4Cの間に底津綿津見神を祀る表津宮が島南部の勝山に遷座され、それと併せて沖津・仲津神も祀られる事になった。との説
C由緒:筑前風土記:神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄り阿曇磯良が舵取りを努めたとされる。859年 従五位上。
<御由緒>
 古来、玄界灘に臨む交通の要衝として聖域視されていた志賀島に鎮座し「龍の都」「海神の総本社」と称され、海の守護神として篤く信仰されている。
 御祭神は、伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において禊祓(ミソギハライ)をされた際に、住吉三神と共に御出現された綿津見三神で、神裔安曇族によって奉斎されている。
 御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特に嫌い、諸々の穢・厄・災・罪を祓い清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現されている。
 当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。二世紀(遅くても四世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝山に遷座、併せて仲津綿津見神・沖津綿津見神が奉祀されたと伝えられている。
 往時の社殿は荘厳で、末社375社、社領50石を有し、奉祀する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元寇の役など国家の非常の際に赫々たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(859)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正15年(1927)には官幣小社の殊遇をうけている。
志賀海神社略記
古事記上巻に「此三柱綿津見神者阿曇連等之祖神以伊都久神也阿曇連者其綿津見神子宇都志日金拆命之子孫也」旧事記に「底津少童命・仲津少童命・表津少童命(綿津見神の別号)此三神者阿曇連等所祭筑紫斯香神也」即ち神代の昔、伊弉奈岐大神筑紫の日向の橘の小戸の檍原に禊祓ひ給ひ身心の清浄に帰り給ひし時生れ給ひし御神にして海神の総本社として鴻大無辺の神護を垂れ給ひ諸々の海の幸を知食し給ふ故に神功皇后御征韓に際しては神裔阿曇連磯良丸命をして舟師を導かしめ給ひ又元寇の役その他国家非常に際し赫々たる御神威を顕はし給へり、さればしばしば勅使の奉幣あり延喜の御代には名神大社に列せられ或は封戸奉り神階を賜ふ等上下の尊崇深厚を極め神領等も頗る多く、中津宮、沖津宮と共に三社別々に鎮祭せられ結構壮麗を極めたりしが其後久しく兵乱打続き神領等も次第に失せびて漸次衰微するに到れり然るに豊臣秀吉九州出陣に際し朱印地の寄進ありたる外、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政等諸将相についで社殿の造営神領の寄進等ありて凡そ面目を改めるも尚到底昔日の比にあらず、明治五年僅かに村社に指定せられたる状態なりしが大正十五年官幣小社に昇格仰出されたり。
D社家 阿曇氏
E祭神の綿津見三神は、「ちはやぶる 金の岬を過ぎぬとも 吾は忘れじ 志賀の皇神 (万葉集1230)」の歌で有名なように、尊称して「志賀の皇神(すめがみ)」と呼ばれた。
「金の岬」は福岡県宗像郡玄海町金崎の東北端、「鐘の岬」のことで、「志賀の皇神」の神威が宗像郡にまで及んでいたことになり、宗像氏との友好で濃密な関係が窺える。
また、祭神の一人阿曇磯良は岬の神であり、対馬の琴崎大明神(胡禄神社:対馬市上対馬町琴1:祭神: 表津少童命 中津少童命 底津少童命 太田命 宇都志日金折命 豊玉彦命)であるとされる。
F藻刈り神事:万葉集:「志可の海人は藻がり塩焼き暇なみ 髪すきの小櫛 取りもみなくに」
 
3−2)和布刈神社(福岡県北九州市門司区)
@祭神:比賣大神、彦火火出見尊、鵜葺草葺不合命、豊玉毘売命、安曇磯良
・祖神 安曇磯良
A社格:県社
B創建:伝仲哀朝 神功皇后の三韓征伐後
C由緒:一説に、神功皇后が三韓征伐のために角鹿(敦賀)から豊浦に航海中、安曇磯良から如意珠を手に入れた時、皇后は海底で磯良から潮盈珠・潮乾珠の法を学んで三韓征伐に成功したとも言われている。名前はワカメを刈るという意味。志賀海神社と関係あり。
D別名、速門社・早鞆明神・隼人明神。隼人の久米氏との深い関係?
E謡曲「和布刈」「和布刈神事」
 
3−3)穂高神社(長野県南安曇郡穂高町)
@祭神・祖神: 穂高見命(宇都志日金拆命)、綿津見豊玉彦命(穂高見命の父)、瓊瓊杵尊
A社格:延喜式名神大社・国幣小社
B創建:不明
C由緒:社伝によれば、主祭神穂高見命は、神代の昔に人跡未踏の穂高岳に降臨し、重畳たる中部山岳を開発するとともに、梓川の流域安曇筑摩を沃野とし、神胤をこの地に蕃息したという。
神社由来書:穂高見命を御祭神に仰ぐ穂高神社は、信州の中心ともいうべき 安曇野市穂高にあります。
穂高見命は海神族 の祖神であり、その後裔であります安曇族は、もと北九州に栄え主として海運を司り、早くから大陸方面とも交渉をもち、文化の高い氏族であったようです。醍醐天皇の延長五年(西暦九二七年)に選定された延喜式の神名帳には名神大社に列せられて古くから信濃における大社として朝廷の尊崇篤く殖産興業の神と崇め、信濃の国の開発に大功を樹てたと伝えられています。
D奥宮:松本市安曇上高地。嶺宮:奥穂高岳山頂 日本アルプスの総鎮守。
E穂高神社略記:安曇族は、海神系の宗族として北九州に起こり、海運を司ることで早くから大陸との交渉を持ち、文化の高い氏族として栄えていた。その後豊かな土地を求め、海路日本海を経て富山・新潟方面に上陸、信濃に入り信濃国を安住の地と定め、安曇野を開拓、稲作文化、鉄文化を普及し、奈良時代前「和名類聚翔」には、家郷、八原郷、
前科郷、村上郷の四郷からなる安曇郡が成立している。
安曇族は物部氏、蘇我氏などが台頭する以前の、天皇家直属の軍であり、特に綿積の神を祖神とする安曇一族率いる海軍は、古代における天皇家の海軍として最強の軍隊であった。
 
3−4)海神(わたつみ)神社  (長崎県対馬市峰町木坂247)
@祭神:豊玉姫
A社格:式内大社・対馬国一宮・旧国幣中社
B創建:不明
C社伝:神功皇后が三韓征伐の帰途、新羅を鎮めた証として旗八流をこの地に納めたことに由来。
D別伝:継体朝に祭殿を建て八幡宮と称し、我が国八幡宮発祥の地とも。
 
3−5)海(わだつみ)神社
日本全国にある。代表例:神戸市垂水区宮元町5−1 海神社
祭神:綿積3神など
由緒:神功皇后の三韓征伐関連
 
4)安曇氏関係系図
・安曇氏出自系図(姓氏類別大観準拠)
・参考)舎人親王流詳細系図(清原氏元祖系図)
・主要神系譜・氏族派生図
・参考)綿積豊玉彦関連氏族世代数比較
・参考)宗像氏系図
・参考)姫氏系図
 
 
 (参考資料)5)「最新の日本人の起源論」について
5−1)はじめに
 筆者が住んでいる長岡京市内には縄文時代・弥生時代などの遺跡が沢山発見されている。長岡京市の歴史は2万年前から語る必要があるともいわれている。私はこの年代付近のことは全く不案内なので過去1年くらいかけて色々調べた。全くチンプンカンプンの世界でした。「日本人の起源」を知ることは下記のような筆者が興味を持っている分野の基礎知識として非常に重要だと認識した。
・古代豪族との関連
・古事記・日本書紀の神話・記事との関連
・中国・朝鮮半島・南洋諸島と日本列島との歴史的関係
・人類の起源との関係
・先土器時代・縄文時代・弥生時代と下海印寺遺跡・伊賀寺遺跡などの位置づけ。
など
 この分野は、世界的に常に日進月歩の最先端の研究分野の一つである。
最新の科学技術を駆使し、多方面の学問領域の学者が共同して取り組んでいる分野である。
日本人の起源論は、ここ5年ほどでも大きく変化してきているのである。細かいことは抜きにして、大雑把に現状はどのように考えられているのかを紹介したい。
筆者の理解不足の為の誤解などもあると思うがご容赦願いたい。

5−2)従来の日本人起源論
●樋口隆康著「日本人はどこから来たか」講談社現代新書(S46)
日本人の起源論
・先住民存在説  石鏃粛慎説 アイヌ説 プレアイヌ説 コロポックル説
・日本人原住民説  清野謙次説
・日本人混血説  ドイツ人ベルツ説  鳥居竜蔵説
 ベルツ説 @アイヌ型A満州朝鮮型(長州型:征服階級)Bモンゴール・マレー型(薩摩型:被征服階級)
鳥居竜蔵説 @我が国に最も早く渡来したのは、アイヌ人で、日本全土の石器時代(縄文文化)を残した。出自不明Aその後我々日本人の祖先である固有日本人が朝鮮・満州・沿海州あたりから入ってきた。石器時代の文化を持ち、弥生式土器を生み出した。ーーー国津神
Bその後金属器時代になり、同じ東北アジアの同族が次々渡来ーーー天孫降臨
CABが合体し、古墳文化をつくった。これが日本民族の主要部をなした。
Dこれ以外にフィリピン、台湾、ボルネオ、スマトラに分布する原始マレー系インドネシアンも黒潮に乗って南方から九州へ入ってきたが、数は少ない。Eインドシナの苗族系統も漢民族より早く南中国をへて、日本へ渡来。銅鐸は彼等がもたらした。
Fこれらの諸民族が混血して、さらに帯方郡滅亡以後漢民族、朝鮮半島の人々が渡来し、混血して古代の日本人ができた。
清野謙次説
洪積期(約180万年前ー1万年前)には日本は未だ無人島だったと思われるが、新石器時代に、日本に初めて人類が渡来し、日本石器時代人が生まれた。その後大陸や南洋から種々の人種が渡来して、混血したが、日本石器人を一挙に体質的に変質させるような変化はなかった。ただ、時代が進むにつれて、混血や環境、生活状態の変化によって現代日本人となったのである。日本人は日本国土において、はじめから結成されたもので、日本島は日本人の故郷であり、断じてアイヌの母地を占領して居住したものではない。現代アイヌ人も日本石器時代人を祖型とし、その後北部異人種との混血によって、現代のアイヌ人が形成されたのである。
 
<オッテンベルグの血液型による人種分類>
日本人は湖南型:日本・南シナ・ハンガリー・ルーマニア系ユダヤ人O:28 A:39 B:19
インド満州型:朝鮮・満州・北シナ・ジプシー・インドO:30 A:19  B:38
・単一起源説    1980年 松本秀雄
・二重構造説    1980年代 埴原和カ   南方系の縄文人・北方系の弥生人
 
●百科事典に記された日本人の起源  関連ウイキペディア引用
・小学館『万有百科事典』(1974)「日本人の起源について、縄文人が基本的人種要素であるとして、この単一人種がそのまま進化して、現代の日本人になったと考えるのが、単源論である」「その後日本列島で二つ以上の異人種との混血が行われ、そして現代の日本人になったと考えると、混血民族としての日本人という複源論が成り立つ。日本人の起源についての多くの説はだいたいこの二つの類型のいずれかに分類できる」
・河出書房『日本歴史大事典』(1985)日本民族の項目「(長谷部に代表される)、洪積世の旧石器時代人が大陸南部から渡来したという学説と、清野謙次のように中国大陸や南方系の諸民族の渡来と混血により日本人が形成されたという学説」
・小学館『日本百科全書』(1987)「しかし縄文人がそのまま現代日本人に変化したとする長谷部言人、鈴木尚らの説は、必ずしも日本全体に言えるとは限らず、特に西日本では弥生・古墳時代に、朝鮮半島を経由して渡来した大陸系の人たちとの混血を考えざるを得ない」
・平凡社『世界百科事典』(1988)「従来、人類学界では、鈴木の移行説を支持する者が多かったが、池田次郎は金関の地域を限定した論説に早くから注目した」「清野・金関説と、長谷部・鈴木説との対立のよって来たるところは、人骨資料の地域差であろうと説明している」「尾本恵市は、1978年、現代日本人の血液の遺伝標識に関するデータの分布から、渡来人が大陸から朝鮮半島を経て日本に渡来したことを示唆している」「1982年、池田次郎は兵庫県から愛知県にかけての弥生人の体質には、渡来者の要素がかなり濃厚に混入していることを報じている。おそらく今後、弥生人骨の資料が追加されれば、高身、高顔の弥生人の分布は、本州のかなり広い範囲に渡って分布していたことがわかるものと推測される」「近年、埴原和郎や尾本恵市は、w.w.ハウエルズの分類によるモンゴロイドの2型、すなわち古モンゴロイドと新モンゴロイドの概念を用い、はじめ日本列島の渡来して後期旧石器時代人ないし縄文人は古モンゴロイドであり、弥生時代に渡来した新石器時代人は新モンゴロイドとみなし、新モンゴロイドの影響が及ばなかったアイヌや南西諸島人には古モンゴロイド的特徴を残していると解釈している」
・吉川弘文館『国史大事典』(1990)「坪井・小金井の先住民族説、清野の単系混血説、長谷部鈴木の単系説にわかれる」
・『ブリタニカ国際大百科事典』(1994)「日本人の起源に関する形質学者の論説は、長谷部の単源説のほかは、いずれも混血説であった」「長谷部の一系説の伝統を受け継ぐ鈴木説」
・朝倉書店『日本史広辞典』(2001)日本民族「現代日本民族は丸顔で彫りが深い縄文人的形質を持つ人と、面長で扁平な顔の朝鮮人タイプの人々に大別され、その出自が一系でないことが指摘されている」
・大和書房『日本古代史大辞典』(2006)「縄文人はほぼ一万年にわたり日本列島の中でやや閉鎖した集団を形成したが、縄文後期に至ると大陸からの渡来が始まったと思われる」「従って弥生時代になると人骨の形質が在来系と渡来系との二重構造が形成されたが、おそらく文化の面でも縄文系(採集狩猟・原始農耕中心)と渡来系(水田農耕中心)の二重構造ないし混合が生じたであろう」「エミシ・クマソ・ハヤトと呼ばれた人たちは、おそらく在来系の特徴と、縄文系文化を残していた集団と思われる」
 
5−3)人類の起源と日本人との関係
●人類の起源
ヒトの定義:哺乳類で直立2足歩行する生き物
人類の進化説: 猿人−>原人−>旧人−>新人   30年前の通説
現在の説
人類:ホミニン(ヒト族)
1.サヘラントロプス・チャデンシス:2002年アフリカ中央部で発見1番古い人類
  700万年-600万年前
2.オロリン・ツゲネンシス:2000年ケニアで発見 600万年前
3.アルディピテクス・カダッパ:1994年エチオピアで発見 580万年前
4.アウストラロピテクス属 ーーーー |
5.パラントロプス属    ーーーー | 160万年前アフリカで共存
6.ホモ属         ーーーー |
 
・20万年前アフリカ中南部でホモサピエンス誕生
・10万年前
アフリカ:ホモサピエンス
ヨーロッパ:ネアンデルタール人
アジア:ホモ・エレクトス(ジャワ原人・北京原人)
フローレス島:ホモフロレンス
 
第1次アウトオブアフリカ  150-180万年前
第2次アウトオブアフリカ  6-10万年前ホモサピエンスが全世界に拡がった。
日本へは4ー3万年前に到着 現在の日本人の祖先
 
 
 
 
 
 5−4)稲作の伝来
以前の説
・稲作の起源地:中国雲南省     せいぜい4000年前
現在の説
・江西省・湖南省では陸稲が12,000年前ころから栽培
・揚子江下流域浙江省・江蘇省では水稲が7000年-6000年前より栽培
日本への伝来ルート
1.揚子江下流域から直接九州北部へ
2.江南から西南諸島を経て九州南部へ
3.揚子江下流域から遼東半島経由朝鮮半島を南下し、北九州へ
4.揚子江下流域から山東半島を経て朝鮮半島南部経由九州北部へ
   考古学者:3.4.説主張 文献史学・民俗学・植物学者ら:1.2.説支持
 
日本列島の稲の発掘結果
・陸稲:約6000年前 岡山県
・日本最古の水田稲作:3000年ー2800年前
・日本最古の水田遺跡:2500年前 北九州板付遺跡
 
弥生時代は何年頃に始まったか
通説:紀元前5世紀頃
2003年5月に国立歴史民族博物館が新炭素14年代測定法(AMS)で従来発見されていた発掘物のすすなど1600点を再分析し水田稲作の開始を紀元前10世紀頃とした。
これにより弥生時代の開始が約500年遡ったとされた。異論多数ある。
弥生時代の定義:弥生式土器が用いられた時代−>水田稲作が行われた時代。
 
5−5)最新の日本人の起源論
●「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」
    日本学術振興会(平成17年度ー21年度)  2010−5−20発表
research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/index.html
上記文献より抜粋引用  (詳しいことは上記文献参照)
仮説
 現代日本人の起源・形成過程に関する、ほぼ「科学的」と言えるような分析は150年ほど前からあったのですが、それらに基づく現代本土日本人についての仮説は今日、「置換説」、「変形説」、「混血説」という3つの説に大きく分類されています。この分類は、弥生時代から古墳時代にかけて、主にアジア大陸から朝鮮半島経由で日本列島に渡来してきた人びとの遺伝的影響がどのくらいあったと考えているか、という観点からなされます。
 置換説は、弥生時代頃の渡来民が、それまで日本列島に住んでいた縄文時代人をほとんど絶滅させたか、あるいは辺境の地へ追いやってしまい、代わりに自分たちが日本列島の大部分を占めるようになった、と考えるものです。つまり、遺伝的影響がほぼ100%で、現代本土日本人はほとんど渡来民そのもの、ということになります。
 変形説は、日本列島の土着の民であった縄文時代人が、環境要因の影響で少しずつ身体的に変化して現代本土日本人になった、と考えるものです。この場合は渡来民の遺伝的影響は0%です。
 混血説は、渡来民が土着の縄文時代人と混血して、古墳時代以後の日本人の基礎を作った、と考えるもので、この場合は、現代本土日本人は縄文時代人と渡来民の遺伝子がある程度の割合で混ざった遺伝的組成を持っている、ということになります。
 さて、現代日本人の形成過程に関心をもつ欧米の人類学者の多くは、150年ほど前から今日まで、ほとんど一貫して置換説を支持してきました。他方、50年ほど遅れて提出された日本人人類学者の初期の説もやはり置換説でしたが、1950年頃に変形説が提唱され、それが1980年頃まで多くの日本人人類学者の間の定説となっていました。混血説も日本人人類学者によって1940年頃に提唱されたのですが、その頃は細々としか支持されず、1980年頃までは変形説に押され気味で、影の薄い存在でした。しかし、その後、徐々に置換説に近い混血説が日本人人類学者の間で優勢になって今日に至っています。
 
 この日本列島へのヒト渡来経路図は、2009年までになされた形質人類学的研究(骨・生体の形態、古典的遺伝指標、ミトコンドリアDNA、一塩基置換などに基づく研究)を通覧して溝口が現時点で妥当と考えるものであり、本プロジェクト研究班の班員全員の合意によるものではない。@アフリカで現代人(ホモ・サピエンス)にまで進化した集団の一部が、5〜6万年前までには東南アジアに来て、その地の後期更新世人類となった。AB次いで、この東南アジア後期更新世人類の一部はアジア大陸を北上し、また別の一部は東進してオーストラリア先住民などの祖先になった。Cアジア大陸に進出した後期更新世人類はさらに北アジア(シベリア)、北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散した。シベリアに向かった集団は、少なくとも2万年前までには、バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たして北方アジア人的特徴を得るに至った。日本列島に上陸した集団は縄文時代人の祖先となり、南西諸島に渡った集団の中には港川人の祖先もいたと考えられる。Dさらに、更新世の終わり頃(約1万年前)、北東アジアにまで来ていた、寒冷地適応をしていない後期更新世人類の子孫が、北方からも日本列島へ移住したかもしれない。Eそして、時代を下り、シベリアで寒冷地適応していた集団が東進南下し、少なくとも3000年前までには中国東北部、朝鮮半島、黄河流域、江南地域などに分布した。FGこの中国東北部から江南地域にかけて住んでいた新石器時代人の一部が、縄文時代の終わり頃、朝鮮半島経由で西日本に渡来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、広く日本列島に拡散して弥生時代以降の本土日本人の祖先となった。
課題事項
(1)縄文時代人の祖先集団はいつ、どこから、どのような経路で日本列島へ入ってきたのか?
(2)縄文時代人祖先集団のアジア大陸内・周辺地域での移住・拡散経路は?
(3)弥生時代人祖先集団の源郷はアジア大陸のどこか?
(4)弥生時代人祖先集団のアジア大陸内での移住・拡散経路は?
(5)渡来系弥生時代人は日本列島をどのような経路で東進・北上したのか?
(6)弥生時代前後の渡来民からの遺伝的影響はどの程度だったのか?
(7)環境要因の身体的時代変化への影響はどの程度だったのか?
 
本プロジェクト研究で得られた新知見
図5−1
           
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 











次ぎに筆者が目から鱗のデータを紹介したい。
ウイキペディア「日本人」ja.wikipedia.org/wiki/日本人 に掲載されている以下のような記事とデータである。
詳しいことは原典を参照のこと。
●遺伝子分析 分子人類学からの日本人起源」 
原典: 崎谷 満 「 DNAでたどる日本人10万年の旅,」 昭和堂(2008)
Y染色体による系統分析
抜粋引用
母系をたどるミトコンドリアDNAに対して、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。ヒトのY染色体のDNA型はAからTの20系統がある。複数の研究論文から引用したY染色体のDNA型の比率を示す。全ての型を網羅していないため、合計は100%にならない。空欄は資料なしで、必ずしも0%の意味ではない。(日本人に関する調査で、O2aの欄が*になっている箇所は、O2に関する調査のみ実施。O2bの欄の数字はO2が全てO2bだと推定したもの。)
表5−1参照
上記の分析から日本人はD2系統とO2b系統を中心としている事が判明した。D系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、アジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y染色体の中でも非常に古い系統である。
この系統はアイヌ人・本土日本人・沖縄人の日本3集団に固有に見られるタイプで、朝鮮半島や中国人にはほとんど見られない事も判明した。これは縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌ人88%に見られる事から、D系統は縄文人(古モンゴロイド)特有の形質だとされる。
アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体 分析でもYAPハプロタイプ(D系統)が扱われ、さらにチベット人も沖縄人同様50%の頻度でこのYAPハプロタイプを持っていることを根拠に、縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとするシナリオを提出した。現在世界でD系統は極めて稀な系統になっており、日本人が最大集積地点としてその希少な血を高頻度で受け継いでいる。それを最大とし、その他では遠く西に離れたチベット人等に存続するだけである。これは後に両者を分ける広大な地域に、アジア系O系統が広く流入し、島国の日本や山岳のチベットにのみD系統が残ったと考えられている。奇しくも大陸で駆逐されたD系統は、日本人として現在まで長く繁栄する事になった。なお東西に引き離されたD系統は、長い年月により東(日本)がD2、西(チベット等)がD1、D3となった。D2系統はアイヌ人・本土日本人・沖縄人の日本人集団固有であり、他地域には見られない。O2b系統はO2系統から分かれた系統で、日本および朝鮮半島・中国東北部に多くみられる。O2系統からは、他に東南アジアやインドの一部に見られるO2a系統が分かれている。
 と解説がついている。筆者には一部解釈不十分なところがあるが、以下の様に理解した。
@日本人は沖縄から青森までほぼ平均化されており、D2(古モンゴロイド)と
O2b+O3(新モンゴロイド)のDNAが拮抗して高い。完全な混血。
Aアイヌ人はD2のDNAしか有して無く混血されていない。
B朝鮮人は圧倒的に新モンゴロイドのDNAを有し、古モンゴロイドのDNAを有していない。
C漢民族は、華北・華南・台湾で傾向が異なるが、新モンゴロイドのDNAで古モンゴロイドのDNAを有していない。
D東南アジア人は人種間で多少の違いがあるが、日本人とは全く共通点がない。新モンゴロイド系である。
E唯一日本人と似た傾向を有するのは、チベット人である。古モンゴロイドと新モンゴロイドの混血である。
 
 
 
 
 
 
 
 
参考年表 日本人の起源関連概略 (筆者制作)
約45億年前  地球の誕生
約2億年前   哺乳類の起源 (中生代・三畳紀終頃)
約6500万年前 最古のサル(中生代末期)の化石:米国モンタナ州
約6-700万年前  最古の人類(猿人)化石
        中央アフリカ サヘラントロプスチャデンシス
約500万年前 弧状の日本列島の外形が形成された。
約380万年前 最古のヒト科化石:(エチオピア)
約250万年前 旧石器時代に入る。ー約1万年前
約120万年前 最古の「原人」:シナントロプス・ピテカントロプス 
・ジャワ原人
約100万年前 アジア大陸にモンゴロイド(古モンゴロイド)出現説
約80万年前  「藍田(らんでん)原人」中国陝西省 
約50万年前 「北京原人」
・この頃ネアンデルタール人がホモサピエンスと分岐か?
約20万年前  (最古の「旧人」:ネアンデルタール ) 
       ・新人「ホモサピエンス」 アフリカで誕生 エチオピアオモ1号
約10万年前  アフリカの新人が移動開始
約8万年以前 最古の日本人?大分県早水台遺跡 豊橋市牛川「牛川人」?
         日本最古の人類生活痕跡 東北 中期旧石器文化(再確認必要)
約5万年前   新人が中央アジアに移動(古モンゴロイド)
約4万年前   最古の「新人」:クロマニヨン:現代型ホモサピエンス
        旧石器時代・スペインアルタミラ洞窟絵
        「柳江人」「山頂洞人」:中国
・スンダランド
・日本列島では、後期旧石器使用の痕跡(南方系旧石器・北方系旧石器とがある)
約3万年前   日本列島では後期旧石器使用痕跡:群馬県岩宿遺跡など
約4−3万年前 日本列島に古モンゴロイド渡来・縄文人の祖
約2万5千年前以前 今里遺跡(旧石器)
約2万5千年前頃  硲遺跡(旧石器)
2万5千年前以後  神足遺跡(旧石器)
約2万年前   アジア大陸に新モンゴロイド出現
        ・縄文人の祖先?直接の日本人の祖先出現。後期旧石器時代
18,000年前 日本列島は大陸と陸続き間宮宗谷津軽対馬海峡・黄海琉球列島
        ・「港川人」(南方系):沖縄 (縄文人より古い人類?)
約16,000年前頃 「古代中国文明」時代に入る。(諸説あり)
1万数千年前  ・静岡県「三ヶ日人?」・「浜北人」
約12,000年前 日本最古の土器 九州出土
約11,000年前 長江中・下流域(湖南省・江西省遺跡)で稲栽培始まる説。
       ・最古の縄文人骨?栃木県 大谷岩陰遺跡
・長岡京市下海印寺遺跡で有茎尖頭器
約1万年前 日本列島が大陸から離れ現在の形になる
        日本列島は縄文時代に入る。    (諸説あり)
        ・下海印寺遺跡(縄文土器)     約20,000人
BC5000年 中国は新石器時代農耕社会・長江中・下流域で稲栽培
        (中国浙江省・江蘇省・湖南省遺跡) 日本の水田稲作のルーツ説
        列島人口 約105,000人
        ・長岡京市南栗ケ塚遺跡(住居)
        ・長岡京市伊賀寺遺跡(住居・集落)・友岡遺跡(土器)
BC4000年頃 古代エジプト文明開始
BC3500年 陸稲(熱帯ジャポニカ)が日本列島でも栽培
BC3000年 山内丸山遺跡(縄文時代中期初頭)諸説
        列島人工約261,000人
BC2600年頃 古代インダス文明開始。古代ギリシャ文明開始。
BC2000年 中国は金属器時代・文字使用。
・苗族が北の牧畜民に滅ぼされた。難民が日本列島に来る?。
列島人口約160,000人
4千年前   伊賀寺遺跡(住居・集落)
4千年前   下海印寺遺跡(柱穴)
BC1700年頃  中国で殷国成立。
BC1300年頃  漢字が古代中国「殷国」で発明?
・この頃日本列島で米を含めた穀物栽培開始(岡山県・南溝手遺跡)
BC1134年 中国では殷国を亡ぼして周国建国(青銅器文化)
・この頃周の王家の長男太伯が長江の辺の蘇州周辺に句呉国を興した。
BC1000年 水稲(温帯ジャポニカ)が日本列島で栽培され始めた。
      諸説あり。 弥生時代始まり(新説)
・新モンゴロイド人が朝鮮半島経由で西日本に渡来してきた?
BC1000年頃 ・倭人に関する古代中国文献(「論衡」)による初見記事
BC770年  中国が春秋時代に入る。
孔子(BC551−BC479)「論語」編纂
中国で鉄器の普及
BC753年 古代ローマ国家成立
BC600年  北九州に水田稲作技術伝来定着(佐賀県菜畑・福岡県板付遺跡)
BC585年  句呉国は呉(春秋)国と改名。
BC500年 弥生時代早期(従来説)
 
BC473年  越が呉を亡ぼす。呉人が列島に亡命?
BC400年頃 上里遺跡(ムラ)縄文ムラ跡
BC403年  中国が戦国時代に入る。  朝鮮半島に流民多発。
BC334年  楚が越を亡ぼす。越人が列島に亡命?
BC300年頃 西日本に稲作農耕拡散・金属技術伝来:弥生時代    
・銅器・鉄器はほぼ同一時期に日本に伝来?(銅器:祭祀用・武器鉄器:農具・武器)
但し製鉄技術はなかった。   ・この頃吉野ヶ里遺跡?
・列島縄文人人口約75,000人
       ・雲宮遺跡(環濠集落)
BC221年 秦始皇帝が天下統一。
・北九州で戦争が頻発。小共同体からクニへの統合始まる。青銅器武器
BC219年 徐福が東海へ船出(徐福伝説)
BC202年 劉邦が前漢を興す。     秦の難民が朝鮮半島・日本列島に流出?
       ・中国で本格的鉄器使用時代に入る?
       ・この頃北九州にマツロ国・早良国など成立。
       ・この頃クニのまとまりが生まれ階級的に成長した首長誕生
・水田稲作が東北まで到達。
       ・神足遺跡(大規模環濠・石器生産・玉・大集落)
BC194年   衛氏朝鮮成立
BC111年 武帝が南越を亡ぼす。越民が九州に渡来?
BC108年 武帝が衛氏朝鮮を亡ぼし、朝鮮半島に楽浪郡設置
・北九州に奴国・伊都国などの大国出現し青銅器生産。奴国・伊都国王墓
近畿では唐古遺跡・鍵遺跡(青銅器文明)
佐賀平野でも青銅器生産?
『前漢書地理志』に「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
 
BC33年  中国で前漢11第皇帝成帝即位。
・奴国・伊都国は前漢王朝と交渉を持った。  ・出雲銅鐸製作?
AD8年   前漢滅亡
・長法寺遺跡(環濠・土器)
25年  光武帝が漢を再興(後漢)
・奴国・伊都国が部族国家連合を形成し、楽浪郡と交流
楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云の記事。(「漢書」地理志)
50年頃 渡来系弥生人遺跡(土井ヶ浜遺跡)
57年 「漢委奴国王金印」記事(後漢書東夷伝)
『後漢書』 [編集] 本文 [編集]『後漢書』「東夷傳」
 
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす
 
 
82年 「漢書」地理志完成
・この頃出雲銅器類を埋納か?
「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」
安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う
184年頃 倭国争乱記事(後漢書東夷伝)
・長法寺谷山遺跡(高地性集落)
200年頃 「魏略」編纂 倭人の出自は「太伯之後」だと倭人が自称している記事。
210年 卑弥呼が王(連合国)になる。(魏志倭人伝)
220年  魏国建国(三国時代)
239年   邪馬台国卑弥呼記事:親魏倭王の金印授与(魏志倭人伝) 
248年 卑弥呼没記事(魏志倭人伝)
250年頃 古墳時代に入る。
260年頃 ヤマトに箸墓古墳築造
266年  倭の女王の使が「晋」に至る。(魏志倭人伝)
280年  「三国志」魏志倭人伝完成
     
     
     
     
     
     
     
     
   
6)安曇氏系図解説・論考
6−1)安曇氏についての概論
 古代豪族「安曇氏(阿曇氏)」の発祥の地は、古来、筑前国粕(糟)屋郡阿曇郷(現在の福岡県粕屋郡新宮町:志賀島付近)とされている。「新撰姓氏録」では、右京神別氏族で安曇宿禰として記録されている。「海神(わたのかみ)綿積(わたつみ)豊玉彦神の子穂高見命の後なり。」地祇である。元々は連姓氏族である。
アヅミとは海積(アマツミ)からきている名前。積(ツミ)とは元来「住む」という意味があるらしい。「海に住む一族を示す」のである。似た言葉に「山積」というのもある。大山祇(大山積)命もその一つである。
原始的な姓(カバネ)として「積」の言葉が用いられたとされている。
綿積(わたつみ)は、古事記では「綿津見」と表示され、日本書紀では「少童」と表示され「ワタツミ」と呼称した。海をワタと発音する語源としては、古来色々ある。有力なのは古朝鮮語で海のことをパタ「pata」と発音していた説。新井白石・谷川健一など。
もう一つは、ポリネシア語源説で、大野晋、村山七郎など。どちらであれ、元々は南方の海洋民族が海のことを表す発音から転じたものと考えられている。海人津見(アマツミ)とも表記される。
太田 亮著「姓氏家系大辞典」の「安曇氏」の記事を引用
「ーーーこの氏の発祥地は、筑前国粕屋郡阿曇郷ならんかと考へらる。この地は、ーーーひいては漢史に「奴国」、或いは「倭ノ奴国」とある地の中心と思はる。即ち安曇氏並びに其の配下たりし海部の民は海洋的大氏族たりしかば、早く各地に航海殖民すると同時に、朝鮮支那と通商し其の文化を摂取せしかば、其の富強天下に聞こえ、その宮殿の如きも当時としては頗る壮麗にして他氏族の目を驚かし、遂にかかる神話伝説の発生を見るに至りしものと思わる。ーーー」
ここでいう「宮殿」とは日本書紀・古事記の神話で記されている、海神の宮、綿津見の宮のこと指すのである。有名な「海幸彦山幸彦神話」に登場する安曇氏の祖「海神綿積豊玉彦」の娘であり、天皇家の先祖である、天孫「ニニギの尊」の子供である「彦火火出見尊(山幸彦)」の妃となって神武天皇の父親である「鵜葺草葺不合尊」を産んだとされる「豊玉毘売」の住んでいたところである。
中国の古書である、「後漢書」東夷伝に記されている「AD57に倭奴国の者が漢に朝賀し、光武帝が漢委奴国王の金印を授けた」という「奴国」こそ安曇氏の原点だと記されているのである。この金印は江戸時代の1784年に博多湾にある志賀島で発見され、現在福岡市立博物館で国宝として展示されている物である。
この志賀島こそ、安曇氏の本拠地だったのである。
「奴国」についてはさらに詳しく後述したい。
奴国は史実として、弥生時代に存在していた国である。その奴国の王家だと云われた一族の雄が「安曇氏」の元祖である。即ち系図上では、象徴としての祖神「綿積豊玉彦命」は、伊弉諾尊・伊弉冉尊の子供であるとされている。ということは、これより前の祖先は分からないとされているのである。その子供が豊玉毘売・玉依毘売・宇都志金析(穂高見)命・振魂命とされているのである。玉依毘売こそ神武天皇の母親である。振魂命は、前稿の古代豪族「大倭氏」の祖である。記紀においてもこの部分は神話の部分である。それにしてもこれはただ事ではない一族であることは、推定される。
この安曇氏は、日本列島の海人族の雄とされ、列島各地にその足跡を地名として残している。或る調査(宮地直一・大場磐雄ら)によると、@筑前国:筑前国糟屋郡志珂郷・阿曇郷・志賀海神社A壱岐対馬:和多都神社B豊後国:海部郡C長門国:D隠岐国:海部郡海部郷E伯耆国:会見郡安曇郷・西伯郡安曇郷F出雲国:簸川郡大社町杵築G丹後国:熊野郡安曇郷・与謝郡日置村籠神社H播磨国:揖保郡海上里I讃岐国:大内郡入野郷J阿波国:名方郡安曇郷・海部郡和多都美豊玉比売神社K淡路国:三原郡南方野島は海人の本拠地の一つ。阿萬郷。L摂津国:安曇犬養連氏の地安曇江・安曇寺M河内国:阿曇連氏の地
N山城国:阿曇宿禰氏の地O近江国:伊香郡安曇郷P美濃国:厚見郡厚見郷Q三河国:渥美郡渥美郷R信濃国:更科郡氷鉋・斗売郷氷鉋斗売神社・安曇郡・穂高神社・安曇部百鳥などなどである。これ以外にも熱海・安曇川・志賀(現滋賀県)・志賀高原・阿積・飽海などの地名も安曇氏関連地とされている。
また祖神海神(綿津見)を祀る神社は、総元締めは、志賀島にある志賀海神社である(社家は現在も安曇氏)が、日本全土に分布している。対馬、佐賀、小倉、高知、神戸、岡崎、銚子、相馬など。また伝承的に登場する(後述)「安曇磯良」を祭神と祀る神社も日本全国にある。志賀海神社の他、下記のような神社が知られている。
八幡古表神社(福岡県筑上郡吉富町)、磯良丸神社(風浪宮摂社・福岡県大川市大字酒見)、志賀神社(対馬下県美津島町)、松崎神社(多久頭魂神社摂社・対馬下県厳原町大字豆酘)、志古島神社(対馬下県豊玉町)、城山神社(大分県宇佐市大字高森)、住吉神社(闇無浜神社摂社、大分県中津市大字角木)、三之社(止上神社摂社・鹿児島県国分市重久)、三之社(鹿児島神宮摂社・鹿児島県姶良郡隼人町)、須伎神社(須佐之男と合祀・三重県鈴鹿市長太栄町)、一童社(石清水八幡宮摂社・京都府八幡市八幡た高坊)、百太夫社(西宮神社摂社・兵庫県西宮市)、白太夫社(北野天満宮末社・京都市上京区馬喰町)、磯良神社(大阪府茨城市三島丘)、新屋坐天照御魂神社(天照国照彦天火明命、天児屋根命、建御名方命と合祀・大阪府茨木市西河原)、蛎崎神社(保食神と合祀・宮城県仙台市青葉区片平) 等
いずれも安曇一族が関連した地域である。
これら総てが安曇血族関連地とはいえないであろう。しかし、弥生時代にも遡って海人族
安曇氏が海という媒体を手段として、日本列島全域にその影響力を持ち、漁撈・航海・稲作・金属農具、祭器、武器使用技術の伝搬に関与してきたであろうことは容易に推定される。これを立証する古文書・遺跡などは殆どない。しかし、現在まで伝承されている古地名・神社祭神名などは、無視出来ない証拠だと筆者は考えるのである。
これだけ広範囲にわたって影響力をもって、日本の歴史・文化・地域発展に寄与した古代豪族は、他に例がないと判断している。天皇家などのような政治的支配力を用いてではなかったのである。
派生した氏族の主なものは、海犬養連氏・凡海(おおしあま)連氏・八木造氏・阿曇犬養連など。
記紀などの記録にも安曇氏関連の記事は幾つか残されている。しかし、色々の古代豪族の中では、その扱いは非常にマイナーな存在である。平安時代初期で中央朝廷からは離れ、歴史上からは消えた存在となった。唯一信濃にある穂高神社社家系図という形でしか、その具体的脈流の痕跡を辿ることが出来ない存在となったのである。
 安曇氏は古来、代表的海人族とされてきた。前稿の「倭氏考」でも述べてきたが、海人族としては、縄文系と弥生系があり、日本列島に広く分布していた。どの氏族を縄文系とし、どの氏族を弥生系とするのか、現段階では諸説あり、筆者は判然としていない。
弥生系の中でも古弥生系と新弥生系とがあり、前者は、主として中国の揚子江下流域から直接日本列島に渡来してきた人々を祖とする弥生人。後者は主に朝鮮半島から渡来してきた人々を祖とする弥生人であるという説がある。安曇氏は間違いなく古弥生系だと判断している。古弥生系は青銅器文明を日本にもたらし、新弥生系は、青銅器文明は勿論であるが、鉄器文明を日本にもたらし、大和王権に繋がる主な氏族は、新弥生系だという説もある。本稿は、この問題には余り触れないことにしたい。
他の海人族としては、宗像氏・久米氏・尾張氏・倭氏・吉備氏・阿部氏・和邇氏などが挙げられる。宗像氏(参考系図参照)・久米氏などは、安曇氏に非常に近い関係にあったとも云われている。(いずれも入れ墨の風習あり)
この中で阿部氏からの派生氏族に高橋氏があり、この高橋氏と安曇氏が後年になって(奈良時代ー平安京時代初期)朝廷の内膳職を巡って争い、遂には安曇氏が敗れ、歴史上から消える運命になったのである。元を正せば、明らかに安曇氏の方が、海人族の雄であり、大和王権への海人としての寄与度は高かった思われるが、一種の政争に敗れたのである。
 
6−2)「日本人の起源」についての筆者の思い。
 筆者は現在までに伝えられている古代豪族の系譜を色々調査してきた。その結果日本の天皇家であれ、古代豪族であれ、その最古の祖先は総て記紀などに記されている神系譜に繋がり、それより遡れないことへの疑問である。また、その神系譜(本稿:主要神系譜・氏族派生図 参照)が色々分支していることの意味は何かという疑問である。所詮この種の系譜は史実とは無関係で、各氏族が自分らの祖先を飾り立てた創作物なので、現在これを詮索する価値など全くない。というのが、歴史学者の多くの先生方の見解だとされている。ところが、アマチュア古代史ファンの多くは、それでは気持ちが収まらないのである。人間は木の股から産まれる訳がない。これは大昔の人間も同じ事を考えたはずである。現在の日本人でも自分の数代前までの祖先の名前は知っているはずである。これが朝廷の役人になるには、その人物の祖先、出自を明確にすることが必須条件であった奈良時代以前では、庶民は別にしても、主要役人・貴族にとってはその出自を明確にできるかどうかは、死活問題であったことは、何度も本シリーズの中で記してきたことである。古くは聖徳太子時代に編纂されたという旧辞・古記にも貴族の系譜・出自なども記されていたとされる。また、691年に古代有力豪族18氏にその氏族の纂記を上進するように詔が出されている。これは、これ以前に各氏族が自分の祖先・出自などを意図的に偽って、より有利な官位に就こうという傾向が、頻繁に発生したため、これを正すことが、当時の朝廷の重要事項となったためだとされている。古事記・日本書紀の編纂目的もそのためであるといっても過言ではないとされている。平安時代初期の「新撰姓氏録」も目的は似たようなものである。これ以降も武士社会になっても何度となくこの種の調査記録がされていることも事実である。日本人の価値観の根っこに、この種の物があったことを忘れてはならないのである。現代人の感覚で、これを歴史的史実として否定することは、ナンセンスなのである。
古代中国・古代朝鮮半島でもこの問題・価値観はほぼ同一である。
AD200年頃編纂されたとも云われている中国の古書「魏略」の記事に「倭人の出自は泰伯(太伯)之後だと倭人が自称している」と記されている。有名な「魏志倭人伝」の編纂される前の書物にである。これが史実であるかどうかを云々する前に隣国であり当時の日本より遙かに文化的にも進んでいた中国のエリートが、当時の日本列島に住んでいる倭人が中国の周時代(BC1134年建国)の偉人である周の王族である「太伯」という人物の血脈を引く民族であると認識していたということである。倭人=>句呉国=>太伯
的ものの解釈をしていたのである。彼等もそれが史実かどうかは判然とはしないが、倭人自身がそう云っていると云うわけである。本件は詳しく後述するが、ものの考え方として、奈良時代・平安時代と基本的に変わらない本質的な価値観を共有していたと云うことである。ヨーロッパでもアジアでも人間が自己の存在を考えるとき、本質的には同じ価値観を有していたと思って間違いない。これが、人類の起源、民族の起源、日本人の起源というような話に繋がっていったものと思うのである。
これらの起源論は考古学だけでなく、民俗学、言語学、医学、生物学、などの最先端の学者の多くが興味を持ち、日進月歩の発展を遂げている分野である。
日本人の起源がどうだったのかまでは、現在の日本人の多くの人も興味ある話題である。
しかし、天皇家のルーツ、古代豪族のルーツ、自分らの祖先のルーツという話になると現代の歴史学者の多くは、余り興味を持たないし、知る必要もないし、研究対象にもならないと、顔を背ける対象の事柄の一つになっているのである。不思議である。
最近、中国の片田舎の村で、自分らは皆同じ姓で孔子の子孫であると異口同音に言っているのをテレビで見た。孔子といえばBC500年代の人物である。弥生時代である。
また、イタリア・スペイン・ギリシャなどは勿論のこと、イギリス・フランス・ドイツなどの国々の小さな田舎町の若者達が自分らの遙かな遠い祖先の活躍したことを誇らしげにあたかも昨日のことのようにテレビ取材のカメラの前で語っている姿をよく見る。日本で云えば弥生時代よりもっともっと前の出来事をである。
筆者は日本の現状との大きなギャップを感じざるをえないのである。
そこで先ず科学的にクールにどこまで日本人の起源が判明しているのかを知りたくなったのである。
 
6−3)「最新の概略的日本人の起源論」について 図5−1表5−1参考年表 参照
 筆者は全くのアマチュアであるので、この種の議論を専門的に行うことは出来ない。筆者が手にする範囲の文献を筆者の理解した範囲で概略的に述べてみたいのである。その文献の中で一部を「5)最新の日本人の起源論・日本人の起源関連概略年表」で紹介した。議論百出の分野なので今後もどんどん変化・進歩していくものと期待している。
@地球の誕生は45億年前(46億年前説もある)である。A最古の人類(類人猿)が中央アフリカ付近で誕生したのが6-700万年前である。これは文献毎にかなりのフレがある。B日本列島の外形が形成されたのが500−300万年程前だとされている。Cアフリカで誕生した人類はやがてアラビア半島経由でヨーロッパ方面、インド・東南アジア・中国方面、中央アジア方面などユーラシア大陸全域に拡散していった。その過程でそれぞれの方面毎に人類は独自に進化して猿人−>原人−>旧人を経て新人(ホモサピエンス)になったのであるという説が数10年前までの通説であった。Dところがこの説は最近になって影を潜めた感がある。最初の人類の子孫達は或る段階までは、それぞれの方面毎に進化した痕跡はある。しかし、これらの人類の大多数は、地球上の色々な環境の大変化(氷河期・火山の大噴火・巨大隕石の衝突など)により他の多くの生物(恐竜・マンモスなど)と同様に、この地球上から絶滅していったのである。Eアフリカ大地溝帯付近にいた人類だけが約20万年前頃新人(ホモサピエンス)まで進化した状態になった。反論:ヨーロッパにいた旧人であるネアンデルタール人も新人レベルまで進化したとの説あり。しかし、ヨーロッパの現代人の祖とも言えるクロマニヨン人(現代型ホモサピエンス)は、ネアンデルタール人の子孫ではないとされている。F上記新人まで進化したアフリカの新人がアラビア半島経由でユーラシア大陸に移動を開始したのが10万年前だとされた。ヨーロッパ方面、インド・東南アジア方面、中央アジア方面などへである。Gこの中央アジア方面に移動した新人を従来は、モンゴロイドという言葉で表現したらしい。所謂モンゴリアン(黄色人種)である。約5万年程前だとされている。ところが、最近では、東南アジア方面に移動した新人も黄色人種で上記モンゴロイドと区別してないようである。要するに大きな意味で、どちらも古モンゴロイドという分類に属する人種だと筆者は理解した。現段階では、この区別は非常に不明瞭である。Hこの古モンゴロイドに属する新人は、日本列島に約4-3万年前には、やってきたと考えられる。そのルートは南西の海洋ルート経由で九州方面に上陸した種族と中国東北から樺太経由で当時未だ陸続きであっただろう北海道へ渡り、津軽海峡も本州と氷で繋がっていたはずの東北方面に獲物を追って来た種族との、主に2つの可能性・痕跡が残されている。これより以前に人類が日本列島に存在していたかどうかは、議論が分かれており、はっきりしていないのが現状である。どうであれ、その後の縄文人に繋がる祖先は、この約4-3万年前に日本列島にやってきた「古モンゴロイド」であるという説は、ほぼ現在では意見は一致していると思われる。I一方古モンゴロイドの内、さらに北方のバイカル湖周辺にまで進出した種族が、寒冷地適合性を有する環境適応変化した。これを「新モンゴロイド」と称して古モンゴロイドと区別した。この種族の誕生は約2万年前だとされている。この新モンゴロイドは、一つはアリュウシャン列島経由でアメリカ大陸に渡り、遂には南アメリカ大陸まで渡り、両大陸の原住民の祖となったのである。また一方は、中央アジアから中国・東南アジア・朝鮮半島など広範囲に既存の古モンゴロイド系種族を駆逐?しながら進歩発展を遂げた。筆者はアジア大陸の大半はこの新モンゴロイド系の種族になっていったものと考えている。J約1万年前に日本列島は、氷河期を終えて大陸から離れ、現在の列島の形になったとされている。この頃から日本列島では世界的にも珍しい、縄文を有する土器が誕生した。それまでは石器中心の時代である。この縄文土器を使用する種族を「縄文人」と呼ぶことになる。Kこの縄文時代は、数年前まではBC8000年からBC500年くらいまで続いた。と考えられ、続く弥生式土器を使用する弥生時代は、過渡的段階を経て、はっきりするのはBC300年以降だと通説的に考えられてきた。ところが2003年、国立歴史博物館が新分析法である炭素14年代測定法を用いて従来の遺跡発掘などで得られていた発掘物1600点を再分析した結果、水田稲作が日本で開始されたのは、BC1000年頃だと発表した。即ち弥生時代はBC1000年頃から始まったのだとしたのである。これは従来からの考古学者には、到底受容出来ないデータ発表である。営々と積み重ねてきた日本の弥生時代の年代感覚が500年以上も遡ったのである。現在も喧々がくがくの議論がされている。しかし、徐々に新分析法の結果を重要視する傾向になりつつあるように筆者には思える。LもしBC1000年頃から水田稲作が日本で行われていたとすると、従来からの「日本の稲作技術は、朝鮮半島から伝来したのである。弥生人は朝鮮半島から水田稲作技術を九州北部に持ち込み、原住民だった縄文人を徐々に偏狭な地に追いやり、より高度な弥生文化を広め、やがてその延長線上で大和王権が成立し、日本列島の主な部分は弥生人の流れをくむものの支配地となっていったのだ。」という歴史観を変えざるをえないことに繋がるのである。何故ならBC1000年頃には、朝鮮半島には未だ水田稲作の技術は、なかったと推定されているからである。朝鮮半島からは、遺跡調査でそれほど古い水田稲作を示すものが現在まで発見されていないのである。Mそれでは日本への水田稲作技術の伝来はどのようなルートが考えられるのか。その前に水田稲作の原点はどこかである。従来は中国雲南省あたりという説が主流であった。現在では、揚子江下流域である浙江省・江蘇省付近では7000年ー6000年前から既に水田稲作が行われていたと考えられている。イ)よって日本へは、揚子江下流域から直接九州北部へロ)江南から西南諸島経由九州南部へ説が有力になりつつある。しかし、未だ未だ議論百出で朝鮮半島経由説も消滅したわけではない。
筆者はBC1000年頃に水田稲作が揚子江下流域から直接九州辺りに伝わったという説で、一度日本列島の歴史がどのように組み立てられるのかを検討・試算してみることは重要だと判断している。非常に興味を持っているのである。
NBC1000年頃から日本列島に中国大陸から直接的、朝鮮半島経由などから新モンゴロイド系の新人類が日本列島に渡来し出したと考えることは妥当性がある。
この理由は、中国及び朝鮮半島での政治状況も大いに関係していると考えられている。一種のボートピープルなので、少数の者が長年にわたって徐々に渡来してきたと考える方が妥当だと考えられる。勿論、南洋方面からも来たであろうとされている。これらの新モンゴロイド族は当時の日本列島に住んでいた縄文人とは異なった文化・進歩した各種技術を色々列島に持ち込んだ。稲作・銅器・鉄器・漁撈技術・航海技術・造船技術・などなどである。そして日本列島に弥生時代の花を咲かすのである。BC300年ーAD250年頃までが一般的な弥生時代といわれており、これ以降は古墳時代だとされている。人種的には、ほぼこの時までに出来上がったとされている。
Oこれ以後4世紀の後半以降に新たな渡来人ラッシュがあった。これは主に朝鮮半島南部からの一種の政治的混乱が原因で日本列島に避難してきた氏族中心の民である。
以上が日本列島に人類が入って来たと思われる歴史的な主な事象である。
 
日本列島は、地理的にユーラシア大陸の東の果ての島国である。これより東にアメリカ大陸まで陸地は無いのである。これが中国や朝鮮半島、東南アジア諸国とは徹底的に異なる歴史文化を育む根本原因だと云われている。それでは日本列島の人種は周辺諸国とどのように異なるのであろうか。現在の日本人はどんな血脈を有する人種なのか、古来江戸時代頃から、色々な説が提案されてきた。明治以降最近までの主流を占めてきた説は、「置換説」であった。即ち、「弥生時代頃の渡来民が、それまで日本列島に住んでいた縄文人をほとんど絶滅させたか、辺境の地へ追いやってしまい、代わりに自分たちが日本列島の大部分を占めるようになった」、と考える説である。この説は多くの欧米の学者の説でもあった。
前節で示した
●「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」
    日本学術振興会(平成17年度ー21年度)  2010−5−20発表
の中での説を引用
 ーーーさて、現代日本人の形成過程に関心をもつ欧米の人類学者の多くは、150年ほど前から今日まで、ほとんど一貫して置換説を支持してきました。他方、50年ほど遅れて提出された日本人人類学者の初期の説もやはり置換説でしたが、1950年頃に変形説が提唱され、それが1980年頃まで多くの日本人人類学者の間の定説となっていました。混血説も日本人人類学者によって1940年頃に提唱されたのですが、その頃は細々としか支持されず、1980年頃までは変形説に押され気味で、影の薄い存在でした。しかし、その後、徐々に置換説に近い混血説が日本人人類学者の間で優勢になって今日に至っています。
ーーーと歯切れは悪いが縄文人と弥生人との混血説が最近優勢になってきたことを記している。
さらに同論文では
「シベリアで寒冷地適応していた集団が東進南下し、少なくとも3000年前までには中国東北部、朝鮮半島、黄河流域、江南地域などに分布した。この中国東北部から江南地域にかけて住んでいた新石器時代人の一部が、縄文時代の終わり頃、朝鮮半島経由で西日本に渡来し、先住の縄文時代人と一部混血しながら、広く日本列島に拡散して弥生時代以降の本土日本人の祖先となった。」
と記している。
この種の大規模な専門家集団による研究報告としては最新の報告がこれである。未だ未だ未解明な課題事項も多数列挙してあり、我々アマチュアには、実に分かり難いのであるが、従前の定説が徐々に崩れて来ていると筆者は判断した。即ち、「現在の日本人は、日本列島に古くから住んでいた縄文人と新たに大陸・朝鮮半島から渡来してきた新モンゴロイド人(これらの人々を即弥生人というのは筆者は同意出来ない。そのような説もあるが)とが、混血を繰り返し、新たな人種‘弥生人’が誕生し、これがさらに縄文人・弥生人と混血を繰り返して、現代人へとなったことを示唆するようになったのである。」と考えられる。しかし、この説は、未だ学会の通説になったとは判断していない。
 
一方前節で紹介したウイキペディアの記事のY染色体のDNA分析による現在日本人と近隣諸国・アイヌ人などの比較研究の結果は、筆者の色々な疑問を一挙に解決してくれるデータである。
@このデータ類は過去の考古学的積み重ね知識とは独立したクールな科学的分析データである。
A筆者流に解釈した結果
イ)現在の日本人のY染色体のDNAは、日本列島で若干の地域差は、あるものの、いずれにおいても、縄文人(古モンゴロイド)特有の遺伝子を有している。これはアイヌ人と同じ遺伝子である。そしてこの遺伝子は、現在の中国人・朝鮮半島人は全く有していないのである。
ロ)現在の日本人のY染色体のDNAは、日本列島で若干の地域差はあるものの、いずれにおいても、新モンゴロイド特有の遺伝子も併せ有している。この遺伝子は現在の中国・朝鮮半島人も有しており、アイヌ人は全く有していない遺伝子である。これを弥生系の遺伝子と云ってもおかしくはない。
ハ)現在の日本人は、遺伝子的にみて古モンゴロイド人と新モンゴロイド人との完全な混血人種である。一方アイヌ人は混血されていない純粋の古モンゴロイド人である。
ニ)古モンゴロイド人の遺伝子を有する民族は現在では、世界的には非常に希有な存在であり、日本人以外では、上記データでは、チベット人の一部が有しているに過ぎないのである。
B以上の研究成果は1990年以降のものであり、Y染色体のDNA分析の主なデータ類は2005年以降に発表されたものである。未だ未だ専門家筋でも喧々がくがくの段階である。しかし、筆者のように学生時代に遺伝子工学の初期段階を学んだ者にとっては、非常に素晴らしい成果だと思うし、当然の結果だとも思っているのである。当然というのは「混血」が当然という意味ではなく、人類の分類、血脈の経歴を知る科学的分析法として他のいかなる方法より優れた方法であり、それらを明確化する証拠データとしてこれに優る方法は無いと判断しているからである。筆者は本古代豪族シリーズの最初の稿である「葛城氏考」の中で、日本人がどこから来たかの議論はやがて遺伝子分析技術が発展すれば自ずとはっきりするであろう、と6年ほど前に予言してきたのである。(葛城氏考を参照)
現在世界中でこのY染色体法・ミトコンドリア法のような遺伝子分析を用いて、人類学
の見直しが行われている。これからさらに詳しいデータが世界規模で収集解析されることを期待している。
C日本人が世界的にも非常に珍しい、「古モンゴロイド人」と「新モンゴロイド人」との完全混血型の民族に何故なったのかは、大きな謎であり、特色である。
筆者はこれこそ、日本人気質、島国根性、他の欧米諸国、アジア諸国とも根っこのところで異なる何かがあると思わせる根幹的因子を感じている。
D中国大陸・朝鮮半島・他のアジア諸国でも歴史的には元々の人類は総て古モンゴロイド系だったと推定できる。ところが、これらの大陸にある国々は現在では、殆ど古モンゴロイド人の遺伝子が残されていないのである。何故か?
理由は明白である。新モンゴロイド系の民族により、駆逐・排除・滅亡・その血筋が絶えたのである。混血は一部は起こったかもしれないが、基本的には、絶滅を余儀なくされたと考えるべきであろう。上記の「置換」が完全に行われたのである。日本でもつい最近までそれと同じと考えられてきたのである。しかし、事実はそうではなかったのである。
日本は異常な経過を経て今日の民族が誕生したのである。今から3,000年前頃から始まり、2,000年前ー1,500年頃にはほぼ現在に近い民族が誕生していたものと筆者は推定している。
E筆者は現代でいう「弥生人」を次ぎの様に考えている。
A:約3,000年前頃から日本列島(主に九州)に渡ってきた新モンゴロイド系の人々。
B:約30,000年前に北方・南方から日本列島に渡ってきて日本列島に住み着いて、約10,000年前より、より進歩した縄文土器を使用しだした縄文人で、約3,000年ほど前より、新たに水田稲作などの文化技術を渡来してきた新モンゴロイド人からその新技術を教わり、徐々に弥生文化を醸成していった縄文系の人々。
C:約3,000年前頃から日本列島に渡来した新モンゴロイド系の人々と縄文人との混血によって、日本列島で新たに発生した混血人。
これらABCを併せて「初期の弥生人」と考えるのである。AC分類だけを弥生人と考える説もあるが、筆者はそう考えるには、無理があると判断している。(各種遺跡発掘調査)
AD3−4世紀においても日本列島の中には、弥生文化に馴染めない縄文系の人々が存在していたことは、遺跡発掘や、記紀の各種伝承記事からも容易に推定される。
しかし、これらの氏族もやがて、弥生文化を取り入れ、血族的にも混血を始めた。
最後まで混血を拒絶したのがアイヌ人で北海道の一部に極在化を余儀なくされたのである。
弥生時代も中期あたりになると、A.B分類の割合は非常に少なくなり、C分類の人々が圧倒的になってくると推定した。この現象が近隣諸国と非常に異なる原因だと判断している。
F上記A分類の新モンゴロイド系の渡来人は一体どのくらい日本列島に渡ってきたのであろうか。元々の縄文人は、どれくらいいたのであろうか。小山修三氏が縄文人について推定したデータを参考までに年表に付記した。BC3,000年頃で約26万人だとしている。これがBC300年頃で約75,000人と推定している。この数字がどれだけの意味があるのかは分からないが、日本列島の発掘調査で縄文人の人骨だと思われるものからの統計処理をした数字である。弥生人については、このような人口推定数字は筆者は知らない。
G3,000年前頃から新文化を持った新モンゴロイド系の人々が日本列島に渡来してきたと仮定して、その渡来の状態は、どのようなものだったかについては色々な専門家が色々推定しているが、筆者は以下のように推定する説を支持したい。
イ)初期の段階は、主に揚子江下流域から中国内乱の影響で国を失った所謂ボートピープルの形で日本列島(主に九州)に流れ着いた人々である。決して多人数ではなく、小舟に乗れる範囲であっただろう。それが、九州のあちこちの海岸に漂着したものであろう。
その中のある者だけが、漂着先の縄文人らに助けられ、そこで生活を始めた。
ロ)漂着者らは、既存の縄文人とは異なり、新文化を有していた。それが、水田稲作技術であり、新漁撈法であり、航海術などであった。
ハ)漂着集団が多ければ、彼等だけで婚姻が可能であるが、そうでなければ、彼等と縄文人との間の婚姻は避けられないことである。ここから先は色々なケースが考えられるが、否応なしに縄文人と漂着者との混血が進んだ。勿論九州の他の場所に漂着した新モンゴロイド人を探して、新モンゴロイドの血脈を保とうとした者もあれば、新モンゴロイドとの婚姻を拒絶し続けた縄文人もいたであろう。いずれにせよ、日本列島は大陸から遠く離れた言わば孤島だったのである。当時この孤島に大挙して新文化・新武器などを持って、襲来してきたのではないということである。これが、中国大陸・朝鮮半島での古モンゴロイド系の社会への新モンゴロイド人集団が勢力を広げた事情と大きく異なることである。
ニ)日本列島への弥生文化の浸透は結構早く行われたとされている。これは、新モンゴロイド人が、縄文人を征服・駆逐したからではないのである。一部で弥生人同志の戦争・縄文人弥生人間の戦争の痕跡が残されているが、大多数は新モンゴロイド人と縄文人の融和婚姻による混血、新文化の共有化などが諮られ、稲作技術の早い伝搬もそれが原因と思われている。中国大陸とは全く異なった民族融和が行われたのである。その後に朝鮮半島からも多数の渡来人が日本列島にやってきた。この場合既に九州では弥生時代に入っており、
新モンゴロイド人種族も活躍していたと推定出来る。これらの朝鮮半島から入ってきた新モンゴロイド人達は、勿論鉄器文明など新技術を有しており、既存中国江南地方出身の新モンゴロイド人種、水田稲作を始めた縄文人、縄文人と既存新モンゴロイド人との混血族などとも融和しながら混血が進んだものと思われる。
HBC1000年ーBC400年にかけての縄文文化と弥生文化の過渡的段階を経た後BC300年以降は弥生文化・技術が日本列島全体に拡大普及した。同時に混血程度は進んだと思われる。その結果AD200年ー300年にかけて近畿大和の地にこれら弥生人の末裔達による王権が誕生した。この頃には、ほぼ現在の日本人の基本的DNAは出来上がっていたものと推定される。
I以上から現在の日本人の起源は、従前の説とは異なり、以下のように要約出来ると判断するのである。
「約3万年前に日本列島に到達した古モンゴロイド人が約1万年前に縄文文化を産み出し
縄文人と呼ばれるようになった。約3千年前頃から中国大陸の揚子江河口付近から水田稲作技術を有する新モンゴロイド系の人々が九州方面に渡来して来出した。この人々は既に日本列島に住んでいた縄文人達と融和し、混血していった。さらに朝鮮半島からも別の新モンゴロイド系の種族が九州方面を中心に、新技術を持って渡来してきた。彼等も既存の初期弥生人たちと融和しながら混血していった。その結果弥生時代の終わり頃には、古モンゴロイド人と新モンゴロイド人の混血した新人種が、日本列島全体に広まっていった。これが現在の日本人の起源である。」
JDNAによる世界的規模の調査研究はさらに詳しく行う必要がある。しかし、現代日本人の祖先となった弥生人は、世界的に見て非常に希有な民族であることには違いないと判断する。即ち現在の日本人も人種的に非常に古い「古モンゴロイド」のDNAを有しており、このDNAを有する現代人は世界的に稀な人種であることが明確となったのである。
 
6−4)(参考)長岡京市周辺での発掘結果について   参考年表参照
筆者は現在京都府長岡京市に住んでいる。ここでは古代の遺跡発掘調査が非常に詳しく行われてきた。長岡京市の教育委員会の発掘専門の先生方のご協力を得て、その発掘結果のほんの一部を筆者の年表に付記させて頂いた。これについて、若干の解説をしておきたい。総て市内にある遺跡である。残念ながら人骨と思われるものは発見されていない。
@約2万5千年前前後にこの付近に既に人類が住んでいた痕跡(旧石器)が3ケ所から発見されている。これが約3万年前に日本列島にやってきたとされる「古モンゴロイド人 」の系統の人類か、それ以前の縄文人には繋がらないとされる人類のものかは判然としない。古モンゴロイド人系だと考えるのが妥当だと筆者は考える。
A下海印寺遺跡から当時中学生だった生徒が発見した有茎尖頭器は、縄文時代以前(先史時代)のものとして発見当初非常に話題となった。その近くで極初期の縄文土器も発見された。
BBC5000年頃のものと推定される住居跡が南栗ケ塚遺跡で発見された。それよりやや新しい縄文時代の住居・集落跡が伊賀寺遺跡で発見され、その近くの友岡遺跡では、それとほぼ同時代の縄文土器が発見された。世界史的に見れば古代エジプト文明の頃のものである。
CBC2000年頃のものとして、伊賀寺、下海印寺遺跡などから住居跡集落跡などがABなどの重層的関係で発掘されている。ということは、この辺りに縄文人がかなり長期間一種の定住的に暮らしていた可能性が分かる。
D弥生時代だと思われるBC400年頃の遺跡として上里遺跡が集落遺跡として発見された。しかもこの遺跡の下には縄文時代の集落跡も見つかったのである。所謂重層遺跡である。
E筆者が興味ある遺跡は、BC300年頃のものとされる雲宮遺跡である。これは環濠集落跡である。この周辺の水田稲作の原点だとの説もある。しかもこの弥生遺跡と同時代と思われる地層から縄文集落的遺跡も見つかっているのである。即ち縄文・弥生の共存的遺跡の可能性があるのである。
FBC200年頃の遺跡として、非常に大規模な環濠・石器生産・玉生産跡を有する大規模弥生集落跡がある神足遺跡がある。
G紀元前後頃の遺跡として長法寺遺跡があり、ここでも環濠を有している。
HAD200年前後の遺跡として、長岡京市では珍しい高地性集落跡と思われる長法寺谷山遺跡がある。これが有名な倭国大乱と関係しているかどうかは不明だが、西日本全体に高地性集落が造られた時代とほぼ一致している。
以上が筆者の身近にある遺跡調査結果である。非常に沢山ある遺跡の中でその時代を代表するようなものに絞って列挙したのである。
さてここから言えることは、筆者の我田引水的な推定も含めて記すと以下のようになる。1)縄文人と弥生人はこの地方では、この地で、ほぼ連続的に居住してきた。即ち縄文人がやがて弥生人になっていった可能性が大である。
2)教育委員会の先生の見方では、この辺りの土器の文様を詳しく見ると、縄文土器・弥生土器が非常に類似した文様が多い、とのことである。ということは、文化が伝承された可能性が高いということの証拠である。縄文人は駆逐されたり、この地から追い出されたのでは無く、弥生人と融和、混血し継続的にこの地に住んでいたと考える方が合理的である。
3)上里遺跡の誕生年代をBC400年頃としたが、これの妥当性は筆者には分からないが、もしこれが正しいとするなら、北九州での弥生時代の従来の通説の年代とほぼ一致するのである。水田稲作技術の伝搬が早かったとはいえ、一寸早すぎる感じがする。
即ち、北九州の稲作はもっと前(例えば最近説のBC1000年頃)だったという可能性は否定出来ない。もしくは、上里遺跡はもっと後年に誕生したとするかである。
筆者は前者の可能性を支持したい。
4)BC300年頃の遺跡だとされる雲宮遺跡は、判然としないところもあるが、縄文人と弥生人が近距離で共存していた可能性を示唆していることは、非常に興味深い。日本列島の至る所で年代は異なるが、この様な併存状態があったと考えても不思議ではないと考える。現在の日本人の祖先はそのような段階を経て、両者(縄文人・弥生人)は融和し、混血が進んだと考える方が、「縄文人を駆逐し、日本列島で絶滅させたのだ」という従来の考えは、以上の遺跡調査結果からも窺えないのである。
 
6−5)「奴国」について  参考年表参照
既稿「倭氏考」の中で「倭・倭人関連文献中国歴史年表」を記した。本項はこれを参考にしながら記したい。
この中で重要な文献はAD82年頃完成したとされるT「漢書」地理志、U「魏略」(2世紀末-3世紀初め頃編纂か?)、V「魏志倭人伝」(280年完成)、W「後漢書」東夷伝(432年完成)、X「隋書倭国伝」(656年完成)などの記事である。
 
@BC108年漢の武帝が朝鮮半島に楽浪郡など漢四郡設置
ATの中で「ーーー然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云。」
の記事。
この記事内容の正確な年代は不明だが、BC108年以降であること間違いない。倭人は100以上の国を造り、恐らく楽浪郡を通じて漢との交渉を持っていたことを示している。
BWの中には「建武中元二年(AD57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」の記事。これが志賀島で発見された金印(漢委奴国王金印)を立証する記事だとするのが現在の通説。諸説あるが。
CWの中にさらに 「安帝永初元年(AD107年) 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」の記事。この記事に登場する倭国王と倭奴国との関係は明快ではない。
この部分についてはX「隋書倭国伝」にも類似の記事がある。そこでは「安帝時、又遣使朝貢、謂之倭奴国」と記されている。ここでは倭奴国と記している。
Vには「以前には百余りの国があったが、今は使者や通訳が往来するのは30国であると記されている。」
D「魏略」逸文である唐時代に編纂された「翰苑(かんえん)」という古文書の巻30に倭人について「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」という記事がある。
(読み下し文1例)
帯方より女國に至るには万二千余里。その俗、男子は皆、黥而(面)文(身)す。 その旧語を聞くに、自ら太伯の裔という。昔、夏后小康の子、会稽に封ぜられ断髪文身し、以って蛟龍の害を避く。 今、倭人また文身し以って水害を厭わす也。
 
この「魏略」以降の中国の文献では、倭人の出自に関してはどの文献も一致して「太伯之後」としている。断髪・刺青・素潜りなどの風習。
E旧唐書東夷伝倭国日本国伝(945年完成)
「倭國者古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國 〜   」
「日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰
 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」
F一方Vには「奴国」という国が2回出てくる。
ーーー又渡一海千里 至末廬國 有四千戸M山海居 草木茂盛行不見前人 好捕魚鰒水無深淺皆沒取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰謨柄渠 有千戸 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰馬 副曰奴母離 有二萬戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰奴母離 有千家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬戸
南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳 可七萬戸ーーー
 次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有國 次有吾國 次有奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子王 其官有狗古智狗 不屬女王ーーー
 男子無大小皆黥面文身 自古以來其使詣中國皆自大夫
夏后少康之子封於稽斷髪文身以避蛟龍之害
今倭水人好沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後以飾 諸國文身各異或左或右或大或小尊有差
計其道里當在稽東治【冶】之東ーーー
 
末盧国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国ーーーーーー奴国
という順にである。古来謎の部分である。本項の対象となるのは伊都国の次ぎに出てくる「奴国」だと筆者は考えている。(一般的な説)
有二萬戸と記されてある。これは邪馬台国の7万戸・投馬国の5万戸に次ぐ大国であった。
以上が「奴国」に関係する中国文献の主な記事である。
次ぎに発掘調査で分かってきた奴国関連の記事を『日本の歴史02「王権誕生」寺沢薫』の年表から抜粋すると以下の様になる。
@BC300−BC200年・北部九州で戦争が頻発、小共同体からクニへの統合が始まる。・北部九州でクニから国への統合が始まる。・末盧国の成立(佐賀宇木汲田遺跡の王族墓)・早良国の成立(福岡吉武高木遺跡王族墓)
ABC200−BC100年・青銅の武器形祭器と銅鐸を使ったマツリが始まる。
・倭人は百余国に分れていた。(漢書地理志)
BBC100-BC0 ・北部九州にクニ林立。戦争激化。・北部九州では奴国を中心に巨大な青銅器生産のテクノポリスが形成される。(福岡須玖遺跡群)・この頃倭の百余国の一部が楽浪郡を通じ朝賀する。(漢書地理志)
C奴国や伊都国がより大きな部族的国家連合の形成を始める。(福岡三雲南小路遺跡王墓、福岡須玖岡本遺跡王墓)奴国・伊都国は両立し、王の中の王として活躍。両王が没したのは紀元後まもなくと推定。
DAD0-AD100年・高地性集落発生・57年倭の奴国王が後漢に朝賀し、光武帝より金印を授かる。(後漢書東夷伝)・古い銅鐸が埋納される。
EAD100-200年・107年倭国王帥升ら後漢王朝に朝賀。(後漢書東夷伝)・この頃既に伊都国を盟主とする伊都倭国が成立(福岡井原鑓溝遺跡王墓)
・倭国乱れ相攻伐すること歴年(後漢書東夷伝)・伊都倭国の権威失墜
F200-250年・卑弥呼を倭国王に共立。・卑弥呼は239年帯方郡に難升米らを遣わし魏の明帝に朝献を求め「親魏倭王」の称号を賜る。(魏志倭人伝)・248年卑弥呼没。
・3世紀の奴国は王墓も無くなり次第に衰退した。
 
以上が「奴国」に関する中国古文献・発掘調査関係の概略記事である。
この事から以下のことは、ほぼ史実として認められるとされている。
T、BC100-AD200年頃に北九州の博多湾沿岸部に「奴国」という王国があり、首長一族が代々王として弥生文化の担い手として、中国・朝鮮半島とも交流・交易も行っていた。U、AD57年に漢の光武帝から 「漢委奴国王金印」 の金印を賜ったのは当時の「奴国王」だと考えて先ず間違いないであろう。(これには現在も諸説あるが)
 
さて、古来上記文献に関しては多くの議論がされてきた。その中で奴国に関係する主な事項について解説しておきたい。
@BC100年頃には既に倭人という存在が中国本土にも知られており、彼等は楽浪郡などに貢ぎ物をしていたのである。この時の倭人は、現在の日本列島・北九州に住んでいた、弥生人だったのか、朝鮮半島南部にもいたとされる倭人だったのか、議論あり。
筆者は、両方にいたと判断している。文献V、Wなどに倭国の北限、南限という表現がされていることから、当時の中国の貴族達は、倭国は、倭人が住んでいる所であり、壱岐対馬を中心にした朝鮮半島南端部・九州北端部が倭国の範囲だと思っていた上で上記文献を記した可能性を否定出来ない。という説を採りたい。
A文献Wは、432年に編纂された文献の記事である。この時初めて倭奴國 ・倭國 という表記がされたのである。問題は倭奴國をどのように発音するかである。「わのなのくに」即ち倭国にある奴(な)という国 という意味。とする説が通説とされている。倭国の最南端にある「奴国」から漢の光武帝に朝賀がAD57年にあったので、帝は印綬したのである。と解釈するのである。この時の印綬が志賀島で江戸時代に発見された金印と色々の調査で一致するものであるとして「漢委奴国王金印」を「かんのわのぬのこくおういん」と読むのが正しいとされたのである。これに関しては現在も議論百出がされている。教科書では「かんのわのぬのこくおういん」と記されている。
B文献WにはさらにAD107年の記事として倭國王という表現が初めて使われている。
これが色々な議論のある表現とされているのである。詳しいことは省略するが、
倭奴國 ・倭國、委奴国王・倭國王 よく似ているが明らかに区別された表記がされているのである。これに関しては656年に編纂された文献Xには類似記事として倭奴國 と明記されているのである。
即ち文献Wの倭国王帥升とは倭奴國王帥升だと解釈されるのである。(諸説ある)
C文献Vには当時の倭国の習俗なども多く記事があるが、その多くは文献Uに記されていたものであるとも云われている。「奴国」が中国の文献に記されているのは、文献Vだけである。それ以外の文献は総て「倭奴国」と記されているのである。文献Vは邪馬台国を初めて記録し、卑弥呼、台与の個人名が記されていることで有名である。この中で239年記事として卑弥呼が「親魏倭王」の金印を授与されたことが記されている。倭国王ではなく倭王と記されていることに注目される。
D平安時代の945年に編纂された「旧唐書」東夷伝倭国伝の記事は上記の不可思議な表記について当時の中国の貴族の見解を述べたものとされている。
即ち「倭國者古倭奴國也」と明記しているのである。これは、文献Wの上記記事とは明らかに異なると云える。これが古来色々議論されてきた事項の一つである。
筆者は文献Wは明らかに倭奴国と倭国は異なる概念で倭奴国は「わのぬの国」であり「奴国」を意識した表記であると判断する。しかし、それ以降の文献に記されている「倭奴国」は、倭国と同一概念に基づく表記であるとという説に与したい。倭奴国は倭国表記よりさらに蔑称だとも云われている。少なくとも倭王権は自国のことを「倭国」と自称したが、「倭奴国」とは自称していないのである。この場合の 倭奴国は「わぬこく」と称するべきであろう。所謂北九州にあったとされる「奴国」とは関係ない概念である。
E文献Wに記された倭国王帥升は「奴国」の王なのか、それ以外の王なのかについては議論が多いが、現在では、遺跡調査の結果を解析して当時の北九州の勢力から判断すれば伊都国の王だとするのが妥当だとする説が有力。当時(107年)は奴国より伊都国の方がより強い勢力を有していたと考えられている。中国から見ればこれも倭国の一つだと見ていたのであろう。
F文献Vの頃には「奴国・伊都国」共に「邪馬台国・女王国」よりは下位にある国だと中国政府は見ていた。よって、魏王は卑弥呼に対して、「親魏倭王」の金印を授与したのである。倭王と倭国王の違いははっきりしない。後年になって倭の大王が倭王の称号を貰ったという中国古文献(宋書倭国伝など)があることを考えると倭王というのは、中国から見て日本列島全般を統治する王であり、倭国王とは九州辺りを代表する王という程度の差が有ったのかも知れない。奴国時代には倭国という概念が倭人にはなかったものとも思える。奴国の王には自分は奴国を統治している王だという認識があったかも知れないが、中国王朝サイドから見れば、奴国の王こそ、倭人を代表する人物、即ち倭国の王だという認識を持って「漢倭国王」を認証するものとして「漢倭奴国王」印を授与したと考えるのが妥当との説は、説得力がある。よって中国側から見れば、倭奴国王と倭国王は同一意味を持っていたとすれば、その後の文献で倭奴国=倭国という扱いになるのは致し方ないことである。倭国についても中国サイドの初期の文献にある表記と倭王権後に倭王権サイドが自称した「倭国」とは、概念が異なるものとも思える。自称倭国の範囲は古代ヤマト王権が統治した範囲であり、中国サイドが当初倭国と称した範囲は、かなり限定された倭人が住んでいる地域で、それ全体を統治する政治体制は存在していなかった当時のことを示す国という範囲だったものと判断する。よって、旧唐書のような書き方になったものと判断する。旧唐書の記した「倭国」は、自称し出してからの倭国のこと。倭奴国とは、それ以前の中国から見た倭国である。と認識した。
Gさて、「魏略」(逸文が「翰苑」に記されている)に記されていたとされる「倭人は自謂太伯之後」という記事は、その後の中国政府の倭人に対する基本認識になった可能性がある。(その後の中国の史書である晋書倭人伝・梁書倭伝・北史倭伝などにも類似の記事有り。)この太伯という人物は、論語(泰伯編)・史記(呉太伯世家)にも中国の人格者の一人として記されている人物である。BC1100年頃周国の王家の嫡男として産まれたが、弟に周国を譲り、自らは長江下流の蘇州周辺(蛮地)に移り、句呉国(BC585年には呉国と改称)を興し、顔に文身(刺青)・断髪をして蛮人の姿となり決して中央政府を脅かすことはない、とした人物と伝承されている。姓は周王家と同じ「姫氏」を名乗った。
類似の記事は魏志倭人伝にも記されている。
この蛮人となった太伯の子孫が、長江下流域に繁茂し、その一部が日本列島周辺に渡来して、倭人の祖先となり、文身・断髪・素潜りなどの独特の風俗を有し、魏志倭人伝などには詳しく記されているこの風俗は倭人の定義みたいに中国本土から見られるようになったのである。その風俗の原点が長江下流域の呉国出身の種族と同一だとされたのである。
 
H前節で新モンゴロイド人がBC1000年頃から日本列島に渡来して、水田稲作技術など所謂弥生文化を持ち込んできたことを述べた。従前は水田稲作文化は主に朝鮮半島経由であったとする説が主流であったが、最近になって、中国長江下流域から直接九州などに伝来したとする説が有力になった。この説とGの「倭人は自謂太伯之後」という「魏略」の中国側の伝承記事は無関係ではないと考える。現在長江付近から中国の政変による流民が発生し、ボートピープルとして日本列島に渡来した可能性のある民族と以下のような説がある。(参考年表参照)
イ、BC2000年頃:苗族
参考:BC1100年頃:太伯が長江下流域に句呉国を興す
BC585年:句呉国が呉国に改名された。
ロ、BC473年:越国が呉国を亡ぼし呉人が列島に亡命
ハ、BC334年:楚国が越国を亡ぼし越人が列島に亡命
ニ、BC219年:徐福伝説
ホ、BC202年:漢が秦を亡ぼし、秦民が朝鮮半島・日本列島に亡命
ヘ、BC111年:武帝が南越国を亡ぼし、越民が九州に渡来
など。
これから考えられるのは、BC1000年以降に長江下流域(江南)から九州などに水田稲作文化をもたらした種族は呉国人の裔だとする伝承は、充分史実である可能性が高いことが分かる。勿論それだけではなく色々な種族がそれ以後渡来したことは、間違いないであろう。朝鮮半島からも色々な種族が渡来したことだろう。その代表的な種族は、倭人が自称しており、かつ文身断髪などの特異な風俗からして、倭人(弥生人)の祖は呉人(太伯の裔)と判断したのであろう。最近の研究成果によると、日本列島に最初に青銅器文明をもたらしたのも長江下流域からの倭人だったという説も出ている。一般的に周時代に中国の青銅器文明が発展されたとされている。周−>呉に青銅器文明が受け継がれた訳である。それが、水田稲作文化と一体になって九州に渡来してきたことは、可能性として充分頷かれることである。
前節で記した発掘調査の結果、北九州にBC100年頃には存在していた「奴国」(福岡須玖遺跡群)こそ、青銅器生産の最大の拠点であったとする史実と無関係ではないのである。IBC108年には漢王朝が、朝鮮半島に楽浪郡を設置し、倭国の国々がそこを通じて中国本土に朝献していたことは漢書地理志に記されている。中国の中央政府が倭人を正式に認識したのは、この頃であろう。その国々の中に後の「奴国」が存在していたであろうことは容易に推定される。発掘調査の結果では既にこの頃には「奴国」の王墓が出現していたのである。BC1000年頃から江南地方から徐々に渡来してきた、太伯の裔達が、漁撈・航海・交易・水田稲作・青銅器文明などを通じて、先住民であった縄文人とも融和しながら、北九州地域を中心に活躍発展し、倭人の代表的存在にまでなっていったと考えられる。
この長年にわたる彼等の倭人としての実績とその実力が中国政府に認められ、この「奴国」こそ倭国に多数存在する国々の中で最も頼りになり、中国に益する国だと判断したからこそ、AD57年の金印授与に繋がったと考えるのである。
事実は、倭人= 太伯の裔=奴国ではないと筆者は考える。中国の文献でこれを証明することは出来ない。中国文献で倭人=太伯の裔と考えたのは、倭国の中心的支配者はそうである、と考え、中国が倭人の支配者の故地であることを暗に主張したのかもしれない。
しかし、太伯の裔=呉国人=江南出身種族の一つ=奴国王族のような等式は、ほぼ成立するのではと考える。
あくまで古い伝承記録と発掘調査結果と、その後の日本での伝承記録を総合的に解析判断した結果である。
勿論奴国以外にも太伯の裔だと称する種族は列島内に存在していたであろう。また太伯の裔とは全く関係ない倭人も多数存在していたであろう。
ちなみに鉄器文明を日本にもたらしたのは、明らかに朝鮮半島出身の種族だと判断している。これも倭人となったのである。銅器文明は朝鮮半島からも日本列島に伝来したが、これは初期の江南からの文明以後だと判断している。
J本稿では、邪馬台国問題には、直接触れないこととした。これは、未だ謎である。
北九州に存在していた「奴国」は邪馬台国の誕生にともない、その従属下に入り、その勢力を著しく減じたものと判断する。後漢書東夷伝に記されたAD184年頃の倭国争乱記事・発掘調査による高地性集落の出現が何を意味するのか今後のさらなる研究が必要である。
 
6−6)「奴国」と「安曇氏」との関係
以上長々と日本人の起源・「奴国」などについて解説・考察をしてきた。次ぎに本稿の主題である古代豪族「安曇氏」の出自問題について考察をしたい。
記紀及び「新撰姓氏録」では、安曇氏の出自は、海神綿積豊玉彦神の子供「穂高見命」となっている。発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷とされ志賀島付近とされている。
穂高見命の姉妹は、彦火火出見尊(山幸彦)の妃であり、その息子「鵜葺草葺不合尊」の妃でもあり、その息子「神武天皇」の母親である、という伝承神話を有しているのである。これが史実かどうかは確かめる術がない。この伝承が安曇氏側の伝承なのか天皇家側の伝承なのか、両方からの伝承を記紀編纂時にそのようにしたのかもはっきりしないのである。穂高見命の兄弟に「振魂命」がいる。これは、大倭氏の祖(「倭氏考」参照)であり尾張氏の祖でもあるとされている。別系図では、尾張氏は天孫系の氏族であるとされている。(「尾張氏考」参照)新撰姓氏録では安曇氏・大倭氏は地祇とされ、尾張氏は天孫系天神という扱いになっているのである。
ところで、記紀には神系譜が記されている。綿積神(小童神)は伊弉諾尊・伊弉冉尊の子供神という扱いである。これが紀元何年頃の話なのかは全く不明である。記紀編纂時の情報では、これ以上古いことは神代のことで分からないとしているのである。
さて上述してきたように、北九州の志賀島付近には、紀元前100年ーAD200年にかけて「奴国」という古代王国があったことが、発掘調査などで確認されている。この「奴国」という名前は日本の記紀を含む古文献には記録が全く残されていないのである。魏志倭人伝などの中国古文献に記事があることから、ここが「奴国」だとされたものと筆者は推測している。
この「奴国」の王族が古代豪族「安曇氏」になったということを直接的に記した古文献はない。
・古事記:神代神話:イザナギ・イザナミの神産神話の8番目の神「大綿津見神」
         伊弉諾尊の禊ぎ神話で産まれた神:上津綿津見神・中津綿津見神・
         底津綿津見神。この3柱の綿津見神は安曇連が祖神として祀った神
         大綿津見神と綿津見3神は別神扱い。
  綿津見3神の子供・宇津志日金析(うつしひかねさく)(穂高見命)の記載あり。
・日本書紀:一書:伊弉諾尊・伊弉諾尊の子供神:海神:少童命
        伊弉諾尊の子供:筑紫の日向(福岡市西区東半室見川)の小戸(福岡市西区小戸)の橘の檍原で禊ぎ祓いをしたとき産まれた神、底津少童命・中津 少童命・上津少童命3神を安曇連が祀っている記事。
・記紀:海幸彦山幸彦神話:海神の娘豊玉姫・玉依姫神話
<日本書紀関連記事>
・応神3年記事:安曇氏が諸所の海人の騒ぎを命により鎮めて「海人之宰(みこともち)」に任命された。安曇氏がそれ以前から日本列島の多くの地域の海人を率いていたことが推定出来る。
・日本書紀17代履中天皇の即位前紀:阿曇目の話:安曇氏が魏志倭人伝などに記されている倭人の習俗とされている文身(刺青)の伝統を有していたことを暗に示している。
・筑前風土記:糟屋郡資珂嶋条:神功皇后の新羅征討に陪従した安曇大浜・小浜の記事。
・肥前風土記:12景行天皇西国鎮撫記事に「御付人」として活躍記事あり。
<安曇磯良関連伝承記事>
・宗像神社「宗像大菩薩御縁起」:神功皇后の三韓出征の時、亀に乗った安曇磯良が現われて加勢したとある。
・石清水八幡宮「八幡宮御縁起」「八幡愚童訓」:「磯良と申すは筑前国鹿の島の明神の御事也。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、是みな一躰分身、同躰異名にてます」「安曇磯良と申す志賀海大明神」「磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神」
・「琉球神道記・鹿嶋明神事」:「筑前の鹿の嶋の明神、和州貸すが明神、此、鹿嶋、同磯良の変化也」とある。
・高良大社(福岡県久留米市御井町)の祭神、高良玉垂命が磯良神だという説
・志賀海神社の社伝:神功皇后が三韓出兵の際に海路の安全を願って阿曇磯良に協力を求め、磯良は熟考の上で承諾して皇后を庇護したとある。
北九州市の関門海峡に面する和布刈神社は、三韓出兵からの帰途、磯良の奇魂・幸魂を速門に鎮めたのに始まると伝えられる。
以上が安曇氏関連の日本の古文献に記された概略内容である。これらから窺える安曇氏の素姿は、
イ:北九州の志賀島付近に根拠地を持った綿積神を祖神として祀った日本の海人を代表する古い一族である。
ロ:天皇家とも最古の段階で姻族関係であった。
ハ:中国本土の記録にある倭人の習俗を有していた可能性大である。
などを特色とする史実であるかどうかは立証不可能な一族だということが文献上から言える。
さて、中国古代文献・発掘調査などで明らかになったことを列挙すると、
a.江戸時代(1784年)に「漢委奴国王」と記された金印が、志賀島より出土した。
b.AD57年に漢の光武帝が「倭奴国」の国王に金印を授与の記事(漢書地理志)。本金印はaの金印と同一の物であることは現在では、確認されている。
c.AD280年に完成した魏志倭人伝に倭国の中に「奴国」があることが明記されている。その場所もほぼ推定可能な表記がされている。
d.福岡平野部の発掘調査:諸岡遺跡・須玖遺跡・須玖岡本遺跡などが上記中国文献に記された「奴国」に関連する遺跡として認定されてきた。
志賀島を「奴国」の領域とするかどうかは古来諸説ある。
e. 須玖岡本遺跡(現 福岡県春日市岡本「奴国の丘歴史公園」)は、奴国の王族墓だとされている。奴国の中心地?
f.上記奴国遺跡などから「奴国」及びその一族はBC100-AD200年頃までは存在していたことが確実視されている。(この期間はさらに変化するであろう)
g.「奴国」は最盛期には「奴国連合」みたいな大国を形成していたものと推定されており、博多湾に面している志賀島もその連合国家に含まれていたと推定されている。東に位置する粕屋地区・胸肩地区などの小国も「奴国連合」であっただろうとされている。志賀島はこの概念にたつと間違いなく「奴国」領域である。
h.「奴国」の西隣には早良国があり、その西隣に「奴国」と双璧の「伊都国」があった。伊都国も伊都国連合を形成して繁栄していたものと推定されている。
i.邪馬台国の誕生にともない「奴国」はこれに従属し、衰退していったものと推定されている。
j.志賀島に何故上記金印が埋められていたかは、現在も謎とされている。
k.現在の最新の学説によると、北九州辺りに水田稲作技術を持ち込んだ渡来人は、揚子江下流域の新モンゴロイド系の民が直接渡来して伝えたものである。(諸説ある)BC1000年頃以降である。
l.周国王族「太伯」を祖とする揚子江下流域の「句呉国(呉国)」が滅亡したのはBC585年である。この時呉人がボートピープルとして北九州方面に渡来した可能性を主張する説あり。これが、中国古文献「魏略」に初出する倭人の出自は、「太伯之後」だと倭人が自称しているとする記事の根拠であるという説がある。一般的には、日本列島に住んでいた縄文人のことは倭人とは称しない。倭人という呼称表記は、中国の古文献に出てくるものであって、当時の日本列島に住んでいた人々が自分らのことをそのように発音していたとは考えていない。
m.一般的には、倭人は、弥生人と考えられている。それも中国人と何らかの交流があった弥生人である。
n.中国政府と正式な交流を持ちだしたのは、BC108年の楽浪郡の設置以降だと考えられている。「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見(漢書地理志)」これが具体的にいつ頃のことかは、判然としないが、発掘調査などの結果から推定してBC100年前後だとする説もある。後の「奴国」と称される国もこの百余国に含まれていただろうとされる。
o.紀元前後になると「奴国」は、巨大な勢力を持ち、楽浪郡を通じて漢との交流を深め、倭人を代表する勢力であることが漢より認められた。その証拠がAD57年の金印授与であるとされている。この倭人の代表である「奴国」の使者が、中国政府に対して、自分らは「太伯之後」と称し、その習俗としては、魏志倭人伝に詳しく記されている、文身・断髪などをしていたと推定することは、当たらずとも遠からずの推定と思われる。
即ち倭人−>「奴国」人−>太伯之後となるのである。この考えが後年まで中国政府の倭人観になったものと推定されるのである。
p.史実は、それほど単純ではない。というのが、現在の日本の専門家の説である。但し筆者は、「奴国」に限定すれば上記の色々な伝承・文献・発掘調査結果を総合すると、「奴国」王族−>「太伯之後」は充分考えられる説だと判断するのである。
q.「奴国」の中心は、当初は須玖岡本遺跡付近であり、ここに王墓もあった。博多湾にあった志賀島も「奴国」の勢力圏内であり、この地は一種の聖地(離宮的な場所)であった可能性がある。邪馬台国の誕生に伴い「奴国」王族は、その中心地を離れ、志賀島に移ったものと筆者は推定する。勿論旧奴国内にも多くの血族が存在していたと推定している。
以上から、「奴国」と「安曇氏」出自を俯瞰すると、現在巷で云われている安曇氏は「奴国」王族の出身である、という説は、充分合理性がある説だと判断する。そこから引き出せる結論は、「安曇氏」は中国の「太伯之後」ということになり、「姫氏」の末裔だということになるのである。
 
参考系図「姫氏系図」参照
中国の「姫氏」の系図は非常に古くからの記録が残されている。これを史実とするかどうかは別にして史実として存在が確認されている中国の夏王朝(BC2070−BC1700年)時代からの系図である。ここに周王家の嫡男であった「太伯」が記されており、初代句呉王となっている。彼には子供が無く弟の「盧仲」が句呉国を嗣ぎ、18代続いた後に呉国と改名され、7代続いた後にBC473年に越国に滅ぼされて滅亡したとなっている。夏王朝の前は所謂黄河文明時代である。人名を辿ることは不可能である。その前は、新モンゴロイド族の誕生時代(約2万年前)である。
(注意)上記「呉国」は有名な三国志時代(三国時代)(AD180−280)の魏呉蜀の「呉国」(AD222−280:孫権が長江流域に建国。姓「孫氏」)とは別物である。
 
 新モンゴロイド族−>中国周王朝王族−>揚子江下流句呉国王族−>日本列島北九州渡来人−>倭人奴国王族−>安曇氏祖という流れが見えてくるのである。         これを史実として立証する証拠は何もない。しかし、数ある古代豪族(天皇家も含み)の中で、これだけそのルーツが現代感覚で追跡可能な豪族はいないと判断しているのである。       
 
6−7)安曇氏系図解説      参考)世代数比較参照
古代豪族「安曇氏」は、691年記紀編纂のために18氏の纂記提出が命じられた時の豪族の一つに選ばれた氏族である。並の氏族でなかったことはこの一事でも明白である。この時安曇氏に伝承されていたであろう系譜が、現在まで伝えられていないのである。日本書紀の系図の巻(現存していない)には、恐らくその系図が記されていたのではないかと筆者は推定している。現在伝わって公知になっている系図は、穂高神社社家に伝わってきたものと思われる。筆者の系図及び人物列伝はこれに準拠して記した。しかし、これは安曇氏の嫡流(本流)系図ではないと判断している。日本書紀などの古文献には多くの安曇氏の記事が残されている。その多くは系図は不明だが、安曇大海宿禰の子供とされる安曇浜子の流れが本来の安曇氏本流と考えるのである。
安曇氏の元祖は綿積豊玉彦で、倭氏(異説あり)・尾張氏(異説あり)などと同祖である。その息子の一人が穂高見命である。この人物は、宇都志日金析命とも記され古事記にも安曇連氏祖として記されている人物である。この人物は信州の穂高岳に降臨され、現在の安曇野市一帯を開拓した神として穂高神社の祭神とされている人物である。系図上では神武天皇の外伯父にあたるとされているのである。神武天皇とほぼ同一時代の人と考えられる。その後の約7代の人物は古文献には全く記事はないのである。穂高見の約9代孫に百足足尼という人物が、12景行天皇朝の人物として肥前風土記に記事がある。12景行天皇が西国鎮撫に九州に赴いた時、その「御付人」として活躍した記事である。この人物は、播磨風土記・三代実録などにも記事があるが、登場時代が余りに異なるため現在では景行天皇時代の人物とする説が通説である。さてここで綿積豊玉彦を共通とする子孫の世代比較をして見たい。筆者系図の参考世代数比較を参照して貰いたい。
安曇氏・倭氏・尾張氏・天皇家に関して公知になっている系図からその世代代数を比較すると天皇家だけが数世代多くあることに注目される。これは他の古代豪族のこの辺りの世代比較でも共通している傾向が見られる。このことから天皇家系図は、一部親子系図ではなく兄弟相続みたいなものが世代系図に含まれている可能性を示していると指摘されているのである。筆者は本シリーズを通じて10崇神天皇をAD300年前後の人物として考えてきた。1世代を20-25年としてあくまで推定年代ではあるが、時代推定を行ってきた。これに従うと、景行天皇は325-350年頃の人物である。上記安曇百足を330年頃の人物と仮定すると、初代穂高見命は、AD100年前後の人物と推定される。言い換えれば神武天皇もその頃の人物だと推定されるのである。これは、志賀島から発見された金印が奴国王に授与された年代(AD57年)に限りなく近い年代だと考えられる。邪馬台国の誕生よりは前と推定される。
上述してきた根拠に基づき志賀島に本拠地を置いたとされる安曇氏は、奴国の王族であったと仮定する。
AD200年頃には奴国は衰退し、邪馬台国の支配下に入ったとされている。奴国の王族達は、奴国の中心地であった、筑紫平野北部の現春日市付近から、古来海人族の聖地とされ奴国の領地の一つであった志賀島にその根拠地を遷して、そこで祖神である綿積神を祀ることになって、そこを新たな一族の本拠地としたのである。これが安曇氏の誕生である。衰退したとはいえ、嘗ての倭国王的存在であった、海人族の雄である安曇氏は、日本列島の沿岸部中心にその新文化新技術を普及伝搬し、一族の者が繁茂していったと考えられる。その証拠の一つが、各地に残された地名である。「あずみ・あど・しが」の発音に纏わる地名の多さは前述した通りである。この一種の伝承記録は無視出来ないものと筆者は考えている。信州の「安曇野」も同じである。
さて、百足足尼の子供だとされる大海宿禰は、日本書紀応神3年紀に「(列島の)諸所の海人の騒ぎを命により鎮めた功により海人之宰(みこともち)に任命された」との記事あり。このことからもAD400年頃でも安曇氏が列島の海人の雄であったことが窺われる。
また筑前風土記に安曇大浜・小浜が神功皇后の新羅征討に従い活躍した記事あり。また全くの伝承上の人物として「阿曇磯良」(安曇氏系図にはない)なる志賀島の海人が神功皇后の三韓征伐に加担し活躍したことが、宗像大菩薩御縁起・八幡宮御縁起などの伝承記事にも色々関連記事がある。しかし、この人物は架空の人物とするのが現在の通説である。(古事記・日本書紀には神功皇后の三韓征伐の記事は詳しく記されているが、安曇氏・海部氏・和邇氏らに関する具体的記事は全くない。参考:海部氏「勘注系図」には神功皇后の三韓征伐の時に丹波国造建振熊宿禰が海人3百人を率いて活躍とある。)高句麗好太王碑にある「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年(391年)來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」は、倭が朝鮮半島に攻め入ったことを証明する文献として有名である。これが史実だとすると、渡海する手段としては、船しかないので、北九州沿岸部の海人が関わったことは容易に推定される。
となると、安曇氏関連の海人がそれに携わったと考えるのは当たり前である。上述してきたこれらの伝承記録は、記紀に具体的記事が無いとしても、無視出来ないのである。
記紀記事の神功皇后・三韓征伐の類が総て創作であり、史実性は疑問であるというのが
現在の歴史学者の通説らしいが、筆者は未だこの説には賛同しかねている。民間伝承・神社伝承などを余りに軽々しく扱っていると判断している。さらなる検討がいる課題だと判断しているのである。
大海宿禰の子供である阿曇連浜子は、日本書紀17履中天皇即位前紀に詳しい記事があり、淡路島の漁師を率いて履中天皇に対抗したため目の縁に刺青をされ、「阿曇目」と云われるようになった。この記事より、安曇氏が倭人の習俗である文身の風習を有していたことを暗に示している。文身は野蛮人の風習であるとされ、蔑まれていた。即ち安曇氏は野蛮人の末裔であることを皆に知らしめたのである。この事件以後しばらく安曇氏の記事は歴史上消えるのである。
次ぎに日本書紀に記事が出てくる人物は「安曇連比羅夫」である。641年-663年までの活躍が記されており、有名な百済王豊璋を百済に送り届けたとも有る人物である。「白村江の戦い」では多くの水軍を率いた将軍となり、戦死したとなっている。没年がはっきりしている唯一の人物である。次ぎに記事があるのは、「阿曇連稲敷」である。673-691年まで記録が残されている。681年の川嶋皇子らとの「帝記」を定めたとあること、684年には宿禰姓を賜り、691年の纂記提出の18氏族に選ばれたことなどから、朝廷内で貴族としての扱いを受けていたことが窺える。その後、「阿曇宿禰虫名」・「坂持」らは、従五位下の位を有していたことが記録されている。「阿曇宿禰蟲麻呂」が淡路国司に着いている。
「安曇宿禰刀(大足?)」は、内膳奉膳職にあったことが記録に残されている。同職にいた高橋氏との争い記事がこれ以降多数記録されている。安曇氏は奈良時代前後から歴代国司・内膳奉膳職をやる氏族になったようである。位は従五位下ー正五位下くらいの下級貴族であった。792年の「安曇宿禰継成」の内膳奉膳職をめぐる高橋氏との勢力争いの記事以降中央政界から安曇氏が追放され、歴史上から消えた。ここまでが、安曇氏の本来の本流と思われる足跡である。系図が何故残されていないのか謎である。
人物列伝・系図には穂高神社系の人物を掲載したが、これは特記すべきことがないので省略する。現在に至るまでの安曇氏の系図があることは間違いない。併せて九州志賀島にある志賀海神社の神主家も現在まで安曇姓であるとされている。この神社の創建時期は不明とされている。諸説があるが、いつ頃から安曇姓の神官が嗣いできたのかも不明である。
 
6−8)安曇氏派生氏族
6−8−1)凡海(おおあま)氏
新撰姓氏録では、摂津国神別氏族(地祇)で阿曇氏と同族とされており、綿積命6世孫小栲梨命の後と記されている。筆者が採用した系図では百足足尼の子供である小浜宿禰の裔孫となっている。元々は連姓氏族であり、凡海鹿鎌より、再び系図が復活されている。
小浜宿禰は兄弟の大海宿禰の活躍記事(応神3年記事)、筑前風土記などの記事から推定して5世紀初頭の人物だと思われる。この人物の後は暫く系図が欠如しており凡海鹿鎌まで分からない。鹿鎌は、8世紀前後の人物と推定される。約300年間の間に安曇氏の派生氏族凡海(おおあま)氏が誕生したのである。一説によれば、凡海氏・大海氏は同一氏族を表示するもので、大臣・大連と同一意味の「大」が用いられており、応神天皇の時の「海人之宰」に任命されたという日本書紀の記事に基づいた日本の「海」に関わる民の統率氏族であるという意味の「大」であるともされているのである。
この凡海氏の系図は、かなり詳しい形で残されており、上記安曇氏とは対照的である。
しかも真偽の程は分からないが、平安時代の初期に、この一族の「海 業恒」なる人物が天武天皇の息子である舎人親王を祖とする清原氏という皇別氏族の養子となり、貴族の名族となったのである。これは、系図の仮冒であるとの説もある。
<清原氏> 本シリーズ20古代天皇家概論U(38天智天皇ー50桓武天皇)参照
清原氏の元祖部分については諸説ある。筆者は「舎人皇子」ー御原王ー小倉王ー清原夏野ー海雄説を採用した。
舎人親王は天武皇子の中で最後に生き残った皇子とされている。
長屋王とは一線を画したようで、藤原政治に加担する勢力と見なされている。
子供も「三原王」は、正三位にまでなっており順調。
その子供「和気王」は、48称徳天皇の皇太子候補にもなったが謀反の罪で処刑された。この弟と思われる「小倉王」の子供が「清原夏野」である。元々繁野王といい、804年臣籍降下して、清原真人姓となった。後世永続する清原氏の祖である。
従二位右大臣となった。833年「令義解」を編纂したとされる当代きっての知識人とされた。これの養子として三原王の弟「貞代王」の流れから「清原海雄」が入り、この子供豊前介房則の子供の代に海氏から養子に入った「業恒」と実子「深養父」の流れに分かれる。
「業恒」の流れが平安貴族清原氏本流だと思われる。系図にも記したが、この末裔とされる清原宣賢(吉田家より養子)の娘が筆者の住んでいる長岡京市にあった、勝竜寺城城主「細川藤孝」の母親である。即ち大名家細川家にも安曇氏の係累が繋がったのである。
一方歌人「深養父」の流れは2流あり、その一方から、「清少納言」が生まれる。
もう一方は、「出羽清原氏」となり、前九年の役・後三年の役と関係し、鎌倉幕府政治へと関係してくる。この流れは血脈的には、凡海氏の流れではなく安曇氏系ではない。
以上より、安曇氏派生氏族の凡海氏の血脈・名跡は、清原氏の系図に入り、現在に至るまでの裔孫を残しているということが推測出来るのである。筆者は、これはあくまで名跡的意味しかなく、DNA的に繋がっているとは思っている訳ではない。
 
6−8−2)他の派生氏族(海犬養連氏、八木造氏、阿曇犬養連氏など)
解説省略
 
6−9)安曇氏関連論考まとめ(筆者主張含む)
@約4-3万年前に日本列島に古モンゴロイド系の人類が渡来して来て、縄文人の祖先となった。そして、約1万年前に日本列島が大陸から離れ、現在の形状になり、この頃縄文時代に入った。
ABC1000年頃から新モンゴロイド系の揚子江下流域の人々が中国本土の政変などの影響などにより、漂流民・ボートピープルの形で西日本に直接渡来してきた。これらの人々は水田稲作技術・新漁撈法・航海術・青銅器文明などを日本列島に伝へた。さらに遅れて朝鮮半島からも別の新モンゴロイド系の人々が北九州などに渡来してきた。
B西日本・北九州には既に縄文人が住んでおり、上記新モンゴロイド系の人々との交流が始まり所謂「弥生時代」になった。そして新モンゴロイド系と古モンゴロイド系の間に混血が始まった。約1000年にわたり、色々な組み合わせの人種間の混血があったものと推定される。この間に人種間・集団間での戦争の類もあったことは発掘調査などでも確認されている。しかし、それは、弥生人が縄文人を駆逐滅亡させるタイプ(従前の説はこのタイプだと考えられてきた)のものでは無かったと推定される。(最近の「現代の日本人のY染色体による遺伝子解析」では、日本人は古モンゴロイドと新モンゴロイドの完全な混血タイプであり、世界的にも例が無い民族であることが、判明したのである。)
C上記弥生人の内、主に海で活躍し、中国本土の政府にも認知されていた人々がいた。これを中国の人々は「倭人」と称した。後に朝鮮半島の人々も中国の呼称を見習い海で活躍する弥生人を倭人と称するようになった。筆者はこの倭人の原点は、上記Aで記した中国揚子江下流域から、日本列島に渡来し、新たな文化を伝来させた人々であったと推定している。
DBC1000年頃に中国の「周国」の王族であった「太伯」が揚子江下流域に移り、「句呉国」を興した。彼は、あえて顔に刺青をし、断髪をして、野蛮人の姿になり、弟らの国(周)には帰らないことを誓ったとされている。この野蛮人の習俗は、やがて倭人に引き継がれたのである。これが「倭人が太伯之後だと自称」と記した古典「魏略」の背景であろう。倭人の野蛮人としての習俗は魏志倭人伝などにも記されており、中国政府の者には倭人と、そうでない種族を区別する常識だったものと推定される。
EBC100年頃以降に前漢国などの中国政府が倭人の代表と考えていたのが、北九州博多湾付近で勢力を有した「奴国」という倭人国の王であった。後漢の光武帝はAD57年に彼に金印を授与して倭人の代表者であることを認証したのである。この奴国の後漢への使い(前漢時代からかもしれない)が、「我々倭人は、太伯之後である」と自称したと考えることには、無理はないのである。これがその後の中国政府の中で伝承されたのである。
現在の歴史学者は、倭人=奴国人とは考えていない。奴国人は倭人であることには間違いない。しかし、当時でも日本列島には、百以上の小国があり、これらが総て、揚子江下流域出身の呉国人の末裔だけであるとは、到底思えないからである。朝鮮半島からも、沢山の種族が渡来していることは間違いないであろう。
FBC100年−AD200年の間に奴国王族は、その拠点を須玖岡本遺跡(現 福岡県春日市岡本)付近から博多湾にある志賀島に移したと推定される。これは、邪馬台国の誕生台頭と密接に関係していると考える。魏志倭人伝ではAD210年には、既に奴国は、邪馬台国の従属国ということになっているのである。既に奴国は、王族国として勢力を失っていたと考えられるのである。よって旧王族は志賀島に移り、独自の文化を担う一氏族となったと推定するのである。
Gこの志賀島に移った旧奴国王族こそ海人族の雄であり、海神綿津見を祖神として祀った安曇氏である。これが記紀に神代として伊弉諾尊の禊ぎ神話として記された伝承記事と密接に関係しているのである。同時に豊玉姫・玉依姫神話、神武天皇誕生伝承記事とも関係する一族である。これを総て史実とは無関係な創作記事だとするのが、通説かも知れない。しかし、記紀には全く記されていない「奴国」が存在していたことは、発掘調査などで史実とされている。また中国古文献にも記されている金印が志賀島で発見されたのも史実である。この金印が発見される、遙か昔から、この志賀島が古代豪族「安曇氏」の本拠地であったことは、史実である。何故この金印が奴国の中心地でもない志賀島に埋められたのかは未だ謎である。しかし、何か志賀島こそ、奴国の一種の故地・聖地みたいなところだったのではないかと類推しているのである。
また、日本列島各地に安曇・志賀に所縁がある地名が非常に沢山現在まで残っている。
これは、正にこれらの土地に安曇氏・志賀島に源を有する氏族が、日本各地に移り住み着実にその地で活躍したことを示しているのである。
H以上から、 新モンゴロイド族−>中国周王朝王族−>揚子江下流句呉国王族−>日本列島北九州渡来人−>倭人奴国王族−>安曇氏祖という流れが見えてくるのである。  勿論この安曇氏も、この間に古モンゴロイド系の縄文人の血脈が婚姻を通じて複雑な経路で入っているものと推定している。      
古代豪族は沢山いるが、安曇氏ほど中国文献記事に対応関係類推可能な氏族はいないのである。日本には記紀の神系譜以上に遡ってその祖を推定出来る資料がないのである。
天皇家・邪馬台国卑弥呼などと奴国の関係はどうであったのであろうか。
I安曇氏は記紀にも幾人か記事が残されている。そのいずれも「海人」に関係した記事である。記紀には具体的な記述はないが、安曇磯良伝承が伝承記録として一番有名である。神功皇后の三韓征伐に際し、海人磯良らが、大活躍したとするものである。この神功皇后の三韓征伐について、同じ海人族である、尾張氏系海部氏の伝承記事(勘注系図)にも出てくる。これが史実かどうかの判断は、未だ不明とされている。筆者は高句麗好太王碑文を信用に足るものと判断し、4世紀末頃安曇氏関係者が倭王権との朝鮮半島問題に関与した可能性は大であると判断している。応神朝の安曇氏に関する紀記事{海人之宰(みこともち)に任命された}は、その後の安曇氏の朝廷内の活躍の基本事項だと判断する。
安曇氏は大和王権内でも海人に関係した職務に就き、天智天皇の命で「白村江の戦」に一族挙げて臨んだが、完敗を喫して、その勢力を大いに減じたとされている。しかし、691年の纂記提出氏族にも選ばれ、名誉を保持していたが、その後古代豪族の一つである「高橋氏」との内膳職をめぐる争いに792年に破れ、遂に歴史上からその姿を消したのである。
一方、信州の安曇野にある穂高神社こそ、安曇氏末裔の唯一の系図を残して来たとされている。この社家は、現在まで続いているのである。また現在まで続く、皇別氏族で名家として誉れ高い清原氏に関係した流れにも何らかの形で安曇氏派生氏族が血脈を繋いだ痕跡がある。
J安曇氏は、具体的な日本人の起源を探るのに最も大きなヒントを与えてくれる代表的氏族だと言える。さらに色々な角度からの調査研究がされることを期待したい。
(安曇氏は、或いは奴国王族らは、揚子江下流域出身の越国出身氏族説もある。)
 
7)参考文献
・日本書紀(上・中・下)山田宗睦訳(株)ニュートンプレス(2004)
・日本の歴史1「縄文の生活誌」改訂版 岡村道雄 講談社(2002)
・日本の歴史2「王権誕生」 寺沢 薫 講談社(2001)
・日本の神々の事典 園田稔・茂木栄 学習研究社(2002)
・「日本人はどこから来たか」 樋口隆康 講談社(1973)
・「日本人はどこからきたか」 ー新日本人起源論の試み埴原和カ 小学館(1984)
・「倭国」 岡田英弘 中公新書 中央公論新社(2007年)
・「倭の正体」姜 吉云 (株)三五館(2010年)
・「邪馬台国から大和政権へ」福永伸哉 大阪大学出版会(2007年)
・「古代海人の謎」田村圓澄・荒木博之編 海鳥社(1994年)
・「中国からみた日本の古代」沈 仁安 ミネルヴァ書房(2003年)
・「新撰姓氏録の研究」佐伯有清 吉川弘文館(1981年ー)
・「姓氏家系大辞典」 太田 亮
・その他関連ウイキペディアなど参考
・主な参考HP @http://www9.plala.or.jp/juraku/csokil-1.html  など
・「神功皇后と天日矛の伝承」 宝賀寿男 法令出版(2008)
・「神武東征」の原像  宝賀寿男 青垣出版(2006)
・「越と出雲の夜明け」  宝賀寿男 法令出版(2009)
・www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/soo1104.htm
・homepage2.nifty.com/amanokuni/futatunokao.htm
・www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/contents.html
・yamatai.cside.com
・ja.wikipedia.org/wiki/日本人
・research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/index.html   日本学術振興会
・「新日本人の起源ー神話からDNA科学へ」 崎谷 満  勉誠出版(2009)
 
8)あとがき
 本稿を執筆し始めて1年以上がたちました。非常に面白い古代豪族で、色々調べている間にとんでもない方面まで調査範囲が拡がりました。
その間にNHKの朝の連続ドラマ「おひさま」で安曇野が舞台に取り上げられ、驚いております。
日本人の新起源論は、未だ日進月歩の研究課題のようで、これもNHKで取り上げられたようです。最前線の科学者の皆さんのご活躍を祈念しております。
筆者の「古代豪族入門」も残り数氏族を残すだけになりました。でも未だ数年はかかりそうです。本稿の執筆には、長岡京市の教育委員会・埋蔵文化財センターの先生方にも大変お世話になりました。感謝申し上げます。
                   (脱稿:2011−6−15)