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3.「賀茂族」考(1)
写真クリックで下鴨社写真
京都上賀茂神社(平成17年1月1日撮影)
1)はじめに
本年も初詣は京都上賀茂神社に、家族揃ってお参りした。
山城国一宮、産土神である賀茂別雷神(わけいかづち)を祭神とする。
建角身命(たけつぬみ)と玉依姫を祭神とする下賀茂神社と並んで京都で最も古くて格式のある神社である。
毎年5月15日に行われる「葵祭り」は、八坂神社の「祇園祭り」、平安神宮の「時代祭」と共に京都三大祭りの一つとして、全国的にも有名である。
今日賀茂神社と言えば、この京都の上下賀茂神社を指す言葉と思っている人が多い。
その歴史は気の遠くなるほど古く、この神社の社家の系譜は、天皇家と同じくらい古くからの記録が記されていると、教わってきた。事実、賀茂神社の由緒書きには類似のことが書かれている。
奈良時代に編纂されたと言われている「山城風土記」にも、神武天皇東遷の折りにそれを助けた「八咫烏(やたがらす)」こと「建角身命」が大和葛城の地から賀茂族を率いて山代岡田を経て最終的に、愛宕郡の現在の賀茂神社が鎮座しているあたりに移り「賀茂県主」となりこの地の賀茂族の祖となった旨の記録が残されている。
上下賀茂神社に分かれたのは、奈良時代らしいが、どちらが元社とするかも判然としないらしい。筆者は上賀茂神社を元社として以下のことを記すことにする。
一方筆者の住む「乙訓(おとくに)地域」には、上記賀茂族の葛城から山代国愛宕郡に移る途中の記録が色々の形で現在も残されている。
その一つは古事記、日本書紀(以後「記紀」とする)にもそれ以降の古文書にも度々登場する「乙訓神社」現在の「角宮神社」(すみのみや)の存在である。
この神社は賀茂別雷神の母「玉依姫」(その父親が建角身命)と父「火雷神」(ほのいかづち)を祭神として祀ってある。
さらに、多くのこの地方に居た賀茂族の首長であった人の物であろうと推定される古墳が、発見、発掘調査されている。このことも「山城風土記」の記述を裏付けている。
元来「乙訓地方」には非常に多くの弥生時代のものと認定されている遺跡が発見、発掘調査されてきた。
さらにその近辺で古墳時代初期から後期までの各種古墳(円墳、方墳、前方後方墳、前方後円墳など)も多数発見発掘調査されている。(長岡京市だけでもその数は百数十個ある。全国的にも珍しい程多い)
現在も新たな発見発掘が続いている。しかし、残念ながらその古墳の主の名前は勿論、氏族などはまだまだ全くと言って良いほど分かってない。
その中で「賀茂族」だけは色々な周辺情報もあってかその片鱗が分かりかけてきている。(中村 修著「乙訓の原像」などの文献)
筆者の前報「葛城氏論考」で葛城氏と「賀茂族」のことを一寸触れたが、この二氏族?は,筆者の調査によると非常に密接に関係しており、複雑に絡み合い、日本の大和古代史、ひいては日本国の誕生に裏面史的に重要な役割を演じてきたものと、判断した。
しかし、非常に分かりにくい事項の一つである。
勿論記紀では、編纂時の天皇家、政権にとって、不都合な事項、後世に残したくない事項などを、(過去の実態、日本国誕生の真実を編者等は分かっていたのに)意図的に、記録から抹殺、改竄した可能性もあるといわれている。
この葛城ー賀茂の関係もその一項目かもしれない。
筆者は、記紀編纂当時から葛城ー賀茂の関係は複雑でかつ神話の部分とも絡み合いその真実の姿を把握することが困難であった、また当時政権中枢部に葛城ー賀茂の有力氏族・有効なる資料提供者が既に居なくなっていたのではないかとも思う。が一方では、本稿で述べるような裏事情があったものと推定している。
本稿では
・賀茂族とはどんな氏族であったのか。
・賀茂族と葛城氏はどんな関係があったのか。
・その賀茂族が、何故、いつ頃、葛城の地を離れて山城国まできたのか。
等を中心にプロの歴史学者と自負されている先生方が言いたくても言えない(確実な実証証拠がない?為)部分について、アマチュア古代史ファンの特権を許して頂き、独断と偏見を顧みず、記述したい。
なお賀茂族考(2)の中で本稿で触れられなかったさらなる「賀茂族」について論考したい。
2)賀茂族とはどんな氏族であるか
<カモ>と発音する地名は全国に多数ある。鳥の「鴨」の嘴のように平野部に山部から突出した半島状の地形の部分を一般に<カモ>と呼ぶようである。
古よりこれに当てる漢字は色々あるようである。
賀茂、鴨、加茂、迦毛などである。
大和国葛城郡(現在の御所市、大和高田市、香芝市付近)の<カモ>の地に神武天皇の侵攻以前から盤踞していた住民を総称して鴨族と呼んでいたようである。
縄文系・弥生系色々な種族が入り乱れ存在し、出雲系地祇とされる「味鋤高彦根神」(あじすきたかひこね)を信奉していたとされる。
現在の「高鴨神社」(上社)がその中心でその祭神が「味鋤高彦根神」である。
この神は大国主の子供とされ、迦毛之大御神と記紀の中でも天照大御神と並んで大御神の称号をもっている神である(この2神以外この称号を持つ神はいない)。 
そこへ神武天皇の侵攻の功労者の一人である「八咫烏」と称された「建角身命」の率いる天神族の一集団(新興弥生人)が入ってきた。
これも何時の頃からかは判然としないが「カモ族」と呼ばれた。
その守護神を祀る神社があったはずであるが、これが判然としない。少なくとも現在は「八咫烏・建角身命」を祭神とする神社は葛城にはない。
ところが現在、「鴨都波八重事代主神神社」(下社)(かもつはやえことしろぬしのかみ)と呼ばれて味鋤高彦根神の腹違いの弟である「事代主神」を祭神としている神社こそ元々は建角身命を祀っていた神社である、との説を唱える学者もいるらしい。
要するにこの同じ葛城の地に血族の異なる2つの勢力がおり、共にカモ族を称した訳である。
さらにややこしいのは、開化天皇の子供である彦坐王(ひこますおう)の系統にもカモ族を名乗る一派がいたらしい。
これをまとめて新撰姓氏録では下記のように記してある。
@山城国別 天神
 賀茂県主、鴨県主   神魂命の孫、武津之身命(たけつのみ)天八咫烏と号す、の後。
           成務天皇御世、鴨県主を賜る。
A大和国別 地祇
 大神朝臣(おおみわ) 大国主命後      (三輪氏)
 賀茂朝臣       大国主ー大田田根子の後  大賀茂都美命(大鴨積)
B左京皇別
 鴨県主 彦坐命後
B摂津国皇別
 鴨君 日下部宿禰同祖 彦坐命後
これ以外にもカモ族を名乗る氏族も多々いたであろう。
筆者は、@を賀茂県主系賀茂氏Aを葛城鴨氏Bを彦坐系鴨氏と分類して呼ぶ事にした。
一口に賀茂族と言ってもその個々の中身は、その後の歴史的経過をみても全く異なり、完全に別氏族として考える必要があろう。
現在も「全国のカモと名乗る神社の総帥は葛城の高鴨神社である」と主張する向きもあるようだが、筆者はそんなこと言ったって無理がある、歴史的背景があるんじゃあないのって思っている。
出来るだけ単純化したカモ族の解説であるが、歴史的にも、現在でも複雑怪奇な分かりにくい複合氏族の総称である。
文献によってはぐちゃぐちゃに混同されているものもあるので注意が必要。
よって賀茂神社でも出雲の神様を祀る賀茂神社もあれば、天神族の八咫烏こと「建角身」を祀る賀茂神社もあり、同称異神である。
3)葛城氏の出自について
一般に葛城氏と言えば、葛城襲津彦(そつひこ)以降の天皇家と結びついた葛城豪族を指す場合が多い。
しかし、この言葉も厳密性を欠く言葉である。葛城王朝という言葉もしかりである。
大和国葛城郡に関係して、色んな立場で色々葛城云々と言われるが、筆者は誤解のないように下記のように区別をつけたい。
・原葛城氏:葛城襲津彦以前から何等かの形で葛城の名が付されている人物群。
・葛城氏:実在が認知されている葛城襲津彦に直接結びつく人物群。
・出雲系葛城王朝:この表現が的を得ているかは疑問だが、上記葛城鴨族が中心となった葛城地方に限定された、一つの王朝。
・葛城王朝:葛城襲津彦時代の天皇家に匹敵する勢力を有したと思われる、葛城地方に限定された一つの王朝。
記紀の神武記に神武天皇の侵攻に協力した人物として、剣根命(つるぎね)なる人物が登場する。
古来この人物は謎の人物とされている。功績みたいなものが明記されてないのに、神武即位後葛城国造に任命されている。
この時同時に国造に任命されたのは、椎根津彦で倭国造に任命されている。
国造に任命されたのは、この2人だけである。(国造の制度はずっと後のことであるが、記紀編纂時この2人は別格という扱いにしたらしい)
色々議論がされてきた人物であるが、本稿では、この剣根命に注目したい。
この人物の出自もよく分からないが、今までの論調では、神武侵攻以前から葛城付近にいた土人、縄文系の種族を束ねていた親玉的存在の人物で神武侵攻に際し、これに協力した。
出雲系弥生人にも土着の縄文人にも気脈を通じ、一種の仲介人、悪く言えばスパイ的存在だったのではとも言われているが、さっぱり分からない。
ところが、この人物は、先代旧事本紀にも登場するし、新撰姓氏録にも下記のような形で登場する重要人物である。
大和国神別 葛木忌寸 高魂命五世孫剣根命之後也
河内国神別 葛木直  同上
和泉国神別 荒田直  同上
未定雑姓左京右京 大辛 天押立命4世孫剣根命之後也
即ち高魂命の子孫であるから、天神系である。しかも、原葛城氏である葛木忌寸、葛木直荒田直等の祖という位置づけである。
さらに、「古代豪族系図集覧」(後述)によると、なんと建角身の子玉依彦の子供として剣根命が記載されており、賀茂県主系賀茂氏の祖である、生玉兄日子と兄弟の関係が明記されている。
これは原葛城氏の祖は賀茂県主系賀茂氏の祖である八咫烏の流れである。
筆者が調査した範囲では、これ程はっきり、賀茂県主系賀茂氏と原葛城氏の関係を記した系図、文献はない。
恐らく多くの学者先生は、眉唾又は無視している類であろう。
一方、葛城国造荒田彦の娘葛比売が武内宿禰(出雲系葛城王朝の血を引く)との間に産まれたのが葛城襲津彦であるとした文献(田中卓著「日本国家の成立」の中に記載されている「紀氏家牒」なる古系図にある)もある。
また別系図では神功皇后の母の葛城高額媛の妹である虚空津姫(母系は葛城系)と武内宿禰の間に葛城襲津彦が産まれたとするものもある。
いずれにせよ、原葛城氏の母親から葛城王朝の祖「襲津彦」が産まれたと記されているのである。ということは、襲津彦も八咫烏系である。
勿論こんなことは記紀にも賀茂県主系賀茂神社の系譜の何処にも記載されてない。
何故か。記紀は、原葛城氏も葛城氏もその存在を極力抹殺しようとした。
記紀編纂時、天皇家の先祖は、天孫であり、これに対抗出来る氏族はいなかった。特別の存在でありこれ以後もそうである。という一貫した主張を記する為には、天皇家と同等な勢力が過去に存在していたことは出来るだけ伏せたい。との意志が働いた。
よって、葛城王朝的な天皇家と併存しうる勢力の現存したことなんて記せる訳がない。
しかし、系図上では事実を完全に隠せられないので、ばらばらにどうしても記さざるをえないものだけは、葛城氏との関係が天皇家ともあったと記した。
しかし、葛城氏の出自、賀茂県主系賀茂氏との関係は、記紀の系図上から抹殺された。
紀氏家牒なんて系図は秘密文書扱いではなかったか。
一方賀茂神社は、自分らの血族が政治に関与して、天皇家から最終的に滅亡されたような記録、系図の類は後々の世に禍根を残す。よって、どこかの時点で、原葛城氏も、葛城氏もその系譜から抹殺した。てなことは可能性ありと判断した。

3)賀茂族と葛城氏関係系図
(筆者の創作系図:諸々の既知系図の合体)     
参考系図 ・賀茂氏・葛城氏・天皇家関連公知系図
  1)欠史八代関係 2)葛城鴨ー賀茂朝臣関係 3)賀茂県主関係
       4)葛城氏関係                
・創作系図の解説
ギザギザ線 を境にして、旧勢力(出雲系・地祇系神である賀茂大御神を祀る氏族)と新勢力(天神系・九州系?で八咫烏・建角身を信奉する氏族)に別れ共に初めは葛城に共存していた。
新勢力側が初めから賀茂(鴨)を称していたかは疑問が残るが。
(「古代豪族系図集覧」東京堂出版の賀茂族の系譜を大いに参考にした。)
玉依彦の子供に初代葛城国造剣根命があるのがよく分からぬが「古代豪族系図集覧」ではこのようになっているのでこれを採用した。
剣根命をどう位置づけるかで葛城氏の流れは変化する。
勿論京都の上賀茂下賀茂神社の系譜にはこんなややこしい人物は出てこない。色々な系図を調査したが賀茂ー葛城の関係が記されているのは上記系図だけであった(その根拠となる文献は分からない)
新撰姓氏録などでは、原葛城氏の源点を剣根にしている。
謎の人物で記紀にも神武紀で登場するが、八咫烏(建角身)ほどはっきりした記述はない。
見ようによっては土蜘蛛(縄文系の土着種族)の頭領的匂いのする人物ではある。
しかし何等かの根拠(天神系に婿入りなど)によりここに入ったものとも思われる。
出雲系ではないという意味かもしれない。
陶津耳も記紀に崇神記で突如登場する人物で、本当の素性はよく分からぬ。
娘を大物主(大国主の別名で大和の地の大国主という位置づけ)に嫁がせ、その子孫に大田田根子が生じこれがその後の大和の国の地祇の神々を取り仕切ることになったらしい。
その大物主と陶津耳娘の間に産まれたのが、事代主神である。という系譜もある。
事代主神は出雲系の神様とされている。別名夷(えびす)様である。(これも後代のこじつけの匂いがするが)
古事記では大物主と三島溝杭の娘との間に出来た娘「媛蹈鞴五十鈴媛」が神武天皇の后になり2代目綏靖天皇を産んだとしており、日本書紀では大国主(大物主)の子供である前述「事代主神」と三島溝杭の娘との間に産まれた娘「蹈鞴五十鈴媛」が神武天皇の后になっている。
この三島溝杭なる人物も謎の人物。神武記のこの部分のみに登場する人物でその系譜は判然としない。
一見どちらでも大勢に影響はないはずである。大和の地に攻め込んできた新勢力の親分が、敗者である旧勢力の親分の娘を嫁として、その土地の住民と融和をはかっていくというのは、弥生時代日本の至る所で起こった現象の一つといわれている。
いや世界中どこでも行われた新体制造りの根幹的な方策であったと言っても過言ではないであろう。
ところが、記紀ではなにかしら変なこだわりがあったように思える。
天日方奇日方命(あめのひかたくしひかた)と鴨王は同一人物か。
筆者は諸系図から同一としても問題なかろうとした。
記紀ともに大田田根子は事代主神、味鋤高彦根、天日方奇日方などを経ることなく大物主神からの子孫となっている。
ところが先代旧事本紀、はじめ色々な系図ではここのところが複雑怪奇である。大田田根子はその後の大和を中心とした出雲系旧勢力の神々の中心的な人物であり、賀茂朝臣の祖である。何かあると思わざるをえない。
((筆者注:京都下鴨神社には、素戔嗚尊も大国主命も祀られてある。系図を見ても八咫烏の祖を天神系の高魂命とするものと、出雲系の神魂命とするもの(下鴨神社社家系図など)とがあり、昔からややこしい一族であったことが想像される。出雲系といっても神魂命は大国主とは別系統である。よって八咫烏を神武と一緒に九州から来た新勢力弥生人と決めつける訳にはいかない感じがする。元々から熊野、葛城近辺に勢力を持っていた出雲系の弥生人で神武に協力した勢力としてもおかしくはないのではなかろうか。))

4)賀茂県主系賀茂族は、いつ頃何故葛城の地を離れたか。
話を賀茂県主の系統に戻すが、この氏族何故葛城の地を離れて、最終的に京都の愛宕郡に来たかは謎とされている。
「山城風土記」には、葛城を離れ、山代岡田を経て、乙訓の久我に入りその山手(現在の長岡京市井ノ内周辺:筆者注)に落ち着きその後山代葛野郡に入り最終的には愛宕郡の現在賀茂神社あたりに落ち着いたことを記してある。
何時の頃かは記されてない。葛城氏のことも、葛城に現在もある味鋤高彦根神のこともそれを祀る「高鴨神社」のことも何も記されてない。
賀茂県主の系統からは歴史上政治的にも名前が残る人物は出現してない。抹殺された可能性もある。
鴨長明、賀茂真淵などは賀茂県主系の人物であるが奈良時代以前には京都の賀茂神社は、ここに来た賀茂族の守護神でしかなかった存在である。
筆者には源平合戦の後の全国に散らばった平家の落人みたいな感じがしてならない。
最近発行された中村 修著「乙訓の原像」のなかで、乙訓地方の色々の古墳の解析をした結果、「「カモ族が五世紀中頃に在地勢力の居る井ノ内・今里地域を避けて、その西側(井ノ内宮山辺り)に移住して来たと推定」」としている。
そしてカモ族6代約120年の古墳があるとした。(約480年ー600年頃まで)
これは過って上田正昭が「元々葛野県主がいた地に6世紀ころ葛城系の葛野鴨県主が進出してきて、これに代わった」と推定したのとほぼ一致するわけである。カモ族は乙訓郡から山代国葛野郡に移って行くとされている。
これから類推すると、実在が認められている「倭の五王」の時代の最後は、雄略天皇であるが、雄略天皇はいわゆる「葛城氏、葛城王朝?」を滅ぼした大王である。
雄略天皇の生没年は不詳だが推定として420−480年頃との説あり。
これと賀茂県主系賀茂氏の葛城郡離反とは無関係ではなさそうである。
逆に言えば葛城襲津彦の葛城氏と非常に密に結びついていたとも言える。
葛城氏は雄略天皇により、吉備氏と共に完全に滅ぼされたのである。
これによって、天皇家はやっと、豪族とは異なった地位が確立したとも言える。
この時葛城氏を支えてきた、賀茂県主系賀茂氏は、雄略朝からのさらなる圧迫を恐れ、長年住み慣れた葛城の賀茂の地を離れたのである。
その主流が山代山田を経て、乙訓井ノ内辺りに住み着き、さらに時を経て、その一部は、葛野郡へ移り、さらに愛宕郡に移って行ったと類推する。
                      
では葛城系鴨氏はどうだったのか。
これはその後の記紀などの記事からの類推しかできないが、神功皇后・応神天皇成立には賀茂族挙げて組している。
しかし、雄略天皇時は、土佐に流された神があった。(記紀)味鋤高彦根の子孫で土佐国造になったものがある系図も残されている。
その神が味鋤高彦根神とも一言主神とも言われ現在も判然とはしないが、後年(764年)賀茂朝臣田守が「高鴨神」を土佐から大和葛城上郡に復祀したとの記事(続日本紀)が残っているので、葛城の鴨族にも雄略朝に何等かの影響があったものと推定せざるを得ない。
ほぼ無事だったのは大田田根子系の鴨族くらいではなかろうか。
その後、継体天皇が即位する迄は、新たに勃興する葛城系の蘇我氏とか古くから付き合いの深い物部氏などに関係していたものと推定する。
継体天皇の大和入りには最後まで葛城系の氏族の抵抗があったらしい。
勿論物部・蘇我戦争の時は三輪氏など一部は物部側となる。しかし、蘇我政権、天智天皇政権でも生き残り、この勢力は奈良時代末期まで政治の中枢ではないがその近辺にいたものと思われる。
これを見方をかえると、葛城鴨族の中でも、大田田根子の子孫は、大神神社、大三輪神社などの出雲系神社を中心に神々の世界に君臨し、また鴨積命の流れは後に賀茂朝臣となり中央政界に多くの人材を輩出してきたことは事実である。
藤原鎌足の子不比等の妃となった賀茂比売も賀茂吉備麻呂の孫で、不比等との間に出来た宮子は文武天皇の妃となり、聖武天皇を産んで藤原氏全盛のきっかけを造っている。
また安倍晴明など陰陽道師を後年輩出するきっかけは、陰陽道賀茂氏が産まれその系図も残されている。
これは役行者(葛城系で実在した人物)とも関係してくるがこの稿では除外する。
など古代史の世界では葛城鴨氏(出雲系)は確固たる地位を築いてきたようである。
参考までにさらにもう一つの賀茂族と言われていた系譜について記しておく。
開化天皇の子供に彦坐王なるこれまた古代史上謎の大物がいる。
崇神天皇と異なり、この人物こそ葛城王朝の後継者だとする説もある。即ち葛城に関係する人物。この流れの一部が賀茂族を名乗ってことも記録に残っている。この流れから「息長氏」「神功皇后」「応神天皇」「継体天皇」という流れも見えている。この辺りのことは、別途記述したい。
母親は和邇氏祖妣津彦の妹で妣津媛(おけつひめ)。
この人物は複数の人物が系図上重なり合っているのではと言われているが、記紀に従って見ると前述の系図となり、応神天皇の産みの親であり、記紀の中で女性として最も事績が記されているとされる神功皇后がこの流れとして輩出されることになっている。
神功皇后の父方は彦坐王の流れであるが、母方は、これまた古代史の中で光っている謎の渡来人「天日矛」(あめのひぼこ)(但馬国出石神社の祭神)((この人物こそ崇神天皇であるとの説もある。)の流れを引く氏族である。
この母方の又母系が実は葛城族である。但し筆者の系図によれば、剣根命の流れになる訳であるから、八咫烏系鴨族となる。
ところで賀茂県主氏族はいつ頃から鴨の名が付いたのでしょうかね。
新撰姓氏録逸文に成務天皇の御世に「鴨県主を賜る」とある。が年代的におかしい。
上賀茂神社、下賀茂神社はいつ頃創建されたのか。
697年の記事に上賀茂神社がある。それ以前であることは間違いないがよく分からないらしい。
下賀茂神社は井上光貞らの考察では746年頃とされているらしいが、これもよく分からない。
いずれにせよ、上下賀茂神社は一地方神であった。中央神になったのは、平安遷都後であることは間違いない。

5)まとめ
以上本稿で筆者の主張したかったことをまとめると、
・賀茂族は、少なくとも3つ以上の何等かの形で葛城地方に縁があった異なった血族氏族の総称である。

・葛城襲津彦に始まるとされている葛城氏は、元々「八咫烏 」の子孫であり、賀茂県主系賀茂氏と同族である。(筆者推定)

・5世紀中頃雄略天皇により葛城氏本流は滅ぼされた。時を同じくして、それを支援してきた同族賀茂県主系賀茂氏は、葛城の地を追放されたか、自ら離れざるをえないことになった。また同じく葛城氏を支援してきた葛城鴨氏の主流も葛城の地を追われた。(筆者推定)

・賀茂県主系賀茂氏は、山代山田を経て、山代国乙訓郡井ノ内付近に定住した後、その一部がさらに葛野郡へ移りさらに愛宕郡の現在賀茂神社付近に移った。桓武天皇が平安京に遷都後急激に朝廷に接近し、今日の繁栄のきっかけとなった。この氏族からは中央政府に関与した人物は歴史上輩出してない。

・葛城「高鴨神社」は、後年土佐国より葛城に帰ったが、以前のような勢力はなく、むしろ大田田根子の子孫が奈良時代末頃まで、三輪君、賀茂朝臣として繁栄した。