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13.紀氏考
1)はじめに
 紀氏は「記紀」上では元々 天道根命又は御食持命を祖とする「神別氏族」である。
宇遅彦命の時、紀国造となりその妹「山下影媛」が8孝元天皇の孫屋主忍男武雄心命の妃となり、その間に「武内宿禰」が産まれたとされている。
この武内宿禰が、宇遅彦の子「宇豆彦」の娘の「宇乃媛」を妃として、紀(木)角宿禰が産まれた。
これが、外家紀氏の姓を嗣いで「皇別氏族」として中央政界で軍事氏族として活躍する「紀氏」となった。
これが紀氏の祖は、武内宿禰であると言われる由縁である。
紀の国紀氏は、古墳時代初頭の昔から紀国の豪族であったが、大和王権に媚びてその由緒を捨て去り、神別、皇別氏族へと6世紀後半ー7世紀前半に集団が分断されたらしい。
 武内宿禰は、架空の人物(紀記編纂時造られた)とされ、この子紀角宿禰は、渡来系の人物で7世紀あたりで神別紀氏の系譜に入りこんだ、との説も多数ある。
葛城氏、蘇我氏、巨勢氏、平群氏などの有力豪族もほぼ同じ時期にその祖を武内宿禰とした。
朝廷の大臣をやるには大臣の鏡とされた武内宿禰の子孫だとする必要があったのか?
元々の紀氏が有する非公開系図上には、須佐鳴尊を祖としている。
その場合は、五十猛命と続くものと思われ筑紫紀氏とでもいえる。
また出雲大国主の子孫ともある。出雲紀氏とも言える。
 中央紀氏は、本拠地は大和国平群(大和国平群県紀里?)か?山城国紀伊郡がある。紀朝臣の拠点か?
紀氏は、秦氏を配下とし蘇我氏に仕えた。平群氏とも非常に近い関係にあったとされる。
その後軍事氏族として朝廷に仕え、飛鳥ー奈良ー平安初期まで多くの
人材を出す。
49光仁天皇の母(施貴皇子の妃)は、紀橡姫で紀氏の出身である。
その為か
50桓武朝では、紀船守、梶長、古佐美ら紀氏が多く活躍した。
 しかし、その後の平安時代は「応天門の変」で伴大納言に連座して、紀氏は、政界から遠ざかる。和歌の道で紀貫之ら多くの業績を残すことになった。
古代豪族の中で最も遅くそれなりに咲いた紀氏一族の生き様は、他の豪族に見られない特色がある。そのほんの一部をかいま見ることにする。

(参考)加藤謙吉氏説より
 5世紀の倭王権の主要な構成メンバーは、倭王家、葛城氏、和迩氏などの大和勢力と吉備氏、出雲氏、紀氏、上毛野氏などの有力地方豪族であった。
 6世紀になると、地方豪族の地位が低下し、大和優位が確立。
6世紀は、皇族紀氏の時代となり、大和にその拠点が置かれた。
倭王権の中枢は、大王のもとに大臣、大連の執政官がおかれ、重要事項は、それに「大夫」(まえつきみ)が加わって会議が行われた。
日本書紀によれば、21雄略朝以降、天皇の即位の度に大臣、大連を任命する記事がみえる。
当時は、未だウジ名、カバネも無かったと考えられるので、実際に大臣、大連制が成立するのは、「蘇我稲目」が大臣に任じられる28宣化朝頃からであろう。
 「大夫」を出した氏族;阿倍臣、紀臣、巨勢臣、膳臣、葛城臣、平群臣、坂本臣、春日臣、の8つの臣姓氏族と、大伴連、物部連、中臣連の3つの連姓氏族(元々から大王家を支援してきた氏族)に三輪君の12氏だけ。
坂本氏以外はすべて大和を本拠とする氏族。
 
2)紀氏関連人物列伝
 紀氏は大きく分けて「神別氏族」の紀国造家と「皇別氏族」である貴族となる紀氏とがある。
列伝は主として紀氏について記す。どの流を本流するのか判断し難い。
筆者の独断と偏見で下記のような列伝を造った。
結果的には、紀長谷雄流が紀国造氏にも入り、紀氏を統合したようにも見える。しかし、もう一方では石清水八幡宮社家こそ本来的意味での紀氏の中心的存在であったともいえる。

参考
・天道根命
 旧事紀では高皇産霊尊の5世孫で、神武天皇の時「紀伊国造」としたとある。
紀直の祖としてある。天孫降臨の時、日像、日矛両鏡を奉斎し、日前国懸神宮(名草郡毛見郷浜宮)に祀った。

・鬼刀禰

・荒河戸畔
崇神天皇に娘を嫁がせた。
・大名草彦
日前国懸両神宮神官の始まり。

・宇遅彦
国造紀氏の祖。

・宇遅比売
宇遅彦の妹で、武内宿禰の母親。

・豊耳
記紀の神功皇后記事に登場する人物。

・宇豆彦
宇遅彦の子供。宇乃媛の父。

・宇乃媛
武内宿禰の妃となり、紀角の母親。

・武内宿禰
省略。
 
2−1)紀(木)角宿禰(?−?)
@父;武内宿禰 母;宇乃媛(紀宇豆彦女)
A子供;白城宿禰ら。
B日本書紀 15応神天皇の巻 百済に紀角宿禰、石川(蘇我)宿禰、木菟(平群)宿禰を使わした、の記事。
C同、16仁徳天皇の巻 百済に紀角宿禰をやり国境の分け方、郷土の産物を記録させた。この時百済の王族「酒君」が、無礼であったので、紀角は、百済王を責めた、の記事。
D皇族紀氏の元祖。実在? 渡来人系で既存の紀氏に入り婿の形で入り、
「紀氏」を名乗 り出した。
武内宿禰自身が、架空の人物? など出自に疑問ありとするのが現在のほぼ定説。蘇我氏、平群氏、巨勢氏も武内宿禰元祖説あやしい。
葛城氏も?いずれも渡来人系との説多し。勿論反対説もある。
 
2−2)白城
@父:紀角 母:不明
A2代は田鳥とする系図も多い。子供:小弓
 
2−3)紀小弓宿禰(?−?)
@父;白城 母;不明
A子供;大磐宿禰
B日本書紀 21雄略天皇の巻 新羅征伐の大将軍として海を渡り、新羅軍を打ち破った。この戦いで、大伴談連と紀崗前来目が戦死、小弓は、病没。との記事。
 
2−4)紀大磐宿禰(?−?)
@父;小弓 母;不明
A紀生磐宿禰とも記すらしいが、同一人物かはよく分からぬ。
B日本書紀 21雄略天皇の巻 父「小弓」の死を聞いて新羅に向かったが、蘇我韓子宿禰などと仲違いして、帰還した。の記事。
C日本書紀 23顕宗天皇の巻 紀生磐が、任那をまたにかけて高句麗と通じ、三韓の王 となろうとし、宮殿を作り自らを「神聖王」と称し百済の軍と戦った。とある。
半島に留まって夢を追った人物の一人。
 
2−5)紀男麻呂宿禰(?−?)
@父;大磐? 母;不明
A日本書紀 29欽明天皇の巻 562年新羅が任那諸国を滅ぼしたので、修復のために、男麻呂 が、大将軍として派遣された。
B日本書紀 32崇峻天皇の巻 587年物部ー蘇我戦争で男麻呂は、蘇我側に付いた。また、591年馬子は、任那再建のため、紀男麻呂、巨勢猿臣、大伴咋、葛城烏奈良(オナラ) らを大将軍として、新羅を討つ べく2万の軍勢とともに筑紫に送った。32崇峻死亡 により、本計画は中断され、推古3年595年大和に帰還した。
 
参考)紀臣奈率弥麻沙
 541年(欽明朝)百済から安羅(加羅、倭王権の窓口があった所)に派遣された使者の一人。
倭人と韓婦との間の子「韓子」であったが、百済の6位(13位中)の高官位の役人。何らかの意味で、紀氏と関係あり?
ここからは皇族紀氏ではあるが、上記紀氏との系譜がハッキリしないものである。実在は、はっきりしている。
 
2−6)小足

2−7)塩手
宮人、628年山背大兄を推した。
 
2−8)大口(?−?)
@父:塩手? 母:不明
A子供:明珍氏の祖となる宗次、大伴御行(ー701)の妃となる音那(これは系図によれば大磐の子とするものもある)
Bここまでの系図は、色々ある。
<1>紀角ー白城ー小弓ー大磐ーーー男麻呂ーー???
<2>紀角ー遠耶ー小開子ー久比ー真咋ー小足ー塩手ー大口ー大人ー園人ー諸人ー紀麻呂
<3>紀角ー田鳥ー某ー小弓ー大磐ー建日
<4>紀角ー田鳥ー某ー小弓ー大磐ー大人    など
 
2−9)大人(?−683)
@父;大口?(大磐) 母;不明
A子供;国益、麻呂、麻路?、古麻呂?、猿取? 名;「ウシ」
B671年天智朝正月 大友皇子を太政大臣に任命した。
左大臣;蘇我赤兄 右大臣;中臣金 
御史大夫;蘇我果安、巨勢人、「紀 大人」
 この人事で皇太弟「大海人皇子」が、除外され内外に大友皇子が、次期天皇であることを強く印象づけた。  大納言
 同年10月天智天皇は、大海人皇子を枕元に呼び後事を託す。大海人は、これを固辞し
 吉野に向かった。
C671年11月大友皇子と赤兄、中臣金、果安、巨勢、紀大人の6人で、仏像の前で天皇の詔を守ることを誓う。
D「壬申の乱」で負ける。しかし、大人は最後で大海人方についたとの説あり。
「大人」以外は、死亡又は斬殺されたのに、「大人」への刑は非常に軽かった?
E683年没。贈正三位。
 
2−10)国益(?−?)
@父:大人 母:不明
A「園益」とも記す。
B子供:清人、諸人、益躬(越智氏祖)など。異説も多し。
 
・清人(???−753)
@父;国益 母;不明
A大納言 紀 大人の孫。弟;諸人、橡姫の伯父、別名;浄人
B714年三宅臣藤麻呂と共に国史撰修を命じられ「日本書紀」の編纂に携わった。
C721年「首皇子」の侍講となる。橘佐為王、紀男人、山上憶良らと共に皇太子に学芸を教授した。
D723年従五位上、 732年右京亮 741年治部大輔、文章博士
E744年平城京留守官 746年武蔵守
F753年散位従四位下で、死去。
 
 
2−11)諸人(?−?)
@父;紀国益?(園人) 母;不明
A娘「橡姫」は、天智天皇皇子「施貴皇子」に嫁ぎ、白壁王(49光仁天皇)を産んだ。このため、死後「贈太政大臣」を贈られた。  紀大納言大人の孫。
「日本書紀」編纂に携わった「紀清人」は、兄である。
紀猿取の子供船守を養子とした説あり。筆者はこの説を採用した列伝とした。
B709年陸奥、越後の蝦夷が、良民を害するため、遠江、越前、越中などから兵士を徴発する。
陸奥鎮東将軍;巨勢麻呂、征越後蝦夷将軍;佐伯石湯、副将軍;従五位下
内蔵頭「紀 諸人」を任命。蝦夷征伐に出発。の記事あり。
C711年平城宮造営将軍。
D785年贈正一位太政大臣。
 
・紀橡姫(とちひめ)(?−?)
@父;紀諸人 母;不明
A施貴皇子の妃。49光仁天皇の母。難波内親王(?−773)の母。
B771年皇太后を追贈された。
 
 
2−12)船守(731−792)
@父;猿取 母;不明  紀諸人の養子となった説採用。
A子供;梶長(勝長)
B764年「恵美押勝の乱」で押勝側の矢田部老が「山村王」の「鈴印」を奪い返そうと するのを授刀舎人の紀 船守により射殺された。
「鈴印」は、孝謙天皇に戻った。
C784年都を移すため山城国乙訓郡長岡村の視察。造長岡宮吏。
D785年中納言、参議
E786年50桓武朝 右大臣;藤原是公 大納言;藤原継縄
中納言;石川名足、紀 船守、佐伯今毛人、藤原小黒麻呂
参議;紀 古佐美
F790年正三位。791年 大納言
G792年没。贈正二位右大臣。
 
・田上(770−825)
@父:船守 母:不明
A従4位下。3男
B810年「薬子の変」で平城天皇に従い、尾張守から佐渡権守に左遷。
 
・深江(790−840)
@父:田上 母:不明
A従4位上、伊予守

・田長
@父:船守
A従5位上。東大寺写経に奉仕。
 
2−13)梶長(754−806)
@父;船守 母;不明
A別名;勝長。子供;名虎、興道(この流れから「貫之」出る)
B中納言、従三位 参議 
C806年 造東寺長官となる(東寺創建か)
 
・名虎(?−847年)
@父;梶長 母;不明
A子供;有常、種子(仁明妃)、静子(文徳妃)
B散位正四位下で死去。
 
・有常(815−877)
@父:名虎 母:不明
A従四位下、監護左右馬寮 周防権守  尾張守。
B妻:藤原内麻呂女(北家)
子供:女:在原業平の妻 女:藤原敏行の妻。
 
・種子(ー869)
仁明天皇妃。子供:常康親王 曾孫:空也上人
 
・紀静子(???−???)
記事;文徳天皇后、惟喬親王、惟条親王、恬子内親王(859−913)(在原業平と密通し後に高階氏へ養子となった師尚を産んだ)の母
 
・惟喬親王(843−897)
@父;文徳天皇 母;静子(紀名虎女)(石清水八幡宮系図:御園娘)
A文徳の第1皇子 弟;清和天皇
B父帝の寵愛を受け皇太子に立てようとしたが、「藤原良房」の娘「明子」に惟仁親王(清和天皇)が産まれたため実現せず、太宰帥、常陸守、上野守、歴任後28才で出家小野の里に幽居(山城愛宕郡小野)「小野の宮」と呼んだ。54才で没。
C在原業平と義理の従兄弟関係。親交を深めた。
D木地屋(ろくろ師)の業祖といわれている。
 
2−14)興道(?−834)
@父:梶長 母:不明
A従4位下
 
2−15)本道(?−?)
@父:興道 母:不明
A従五位下、875年肥前国司
 
・紀有朋(???−880)
@父;本道 母;不明
A子供;友則(ー907) 紀貫之の叔父
B844年内舎人、武蔵介、河内守、摂津権守
 879年従五位下宮内少輔。歌人。
 
・友則(ー904?)
@父:有友?(利貞) 母:不明
A従6位 904年大内記 40才半ばまで無官。897年土佐掾
B905年紀貫之と古今和歌集を撰上。  36歌仙の一人。
 
 2−16)望行(?−880頃)
@父:本道 母:不明
A茂行とも記す。従6位。
 
2−17)紀 貫之(868?872−945)
@父;望行 母;不明(内教坊に勤仕していた女性説あり)
A子供;時文(「後撰集」撰者) 従兄;紀 友則
B「古今和歌集」歌人。紀友則、在原業平、菅原道真らとともに中心人物在原業平も縁者である。
醍醐天皇外戚である藤原定方や藤原兼輔の庇護を受けた。
C幼くして父を失う。若くして歌才を表し、892年以後「寛平后宮歌合」「是貞親王家 歌合」に歌採用される。
D905年「古今和歌集」撰進の勅を奉ず。「友則」没後歌集編纂を主導。
E906年越前権少掾、大内記を経て917年従五位下、右京亮
F930年土佐守となる。同年醍醐天皇の勅命により「新選和歌集」を編む。その後官職に恵まれず、「周防守」。945年従5位上で死去(74才)
G古今、後撰、拾遺の和歌集総てで最多入歌人(36歌仙の一人)
H935年「土佐日記」著者。我が国最初の仮名文日記作品。
I945年従5位上 木工権頭
(参考)古今集歌人紀氏関係者
撰者:紀貫之・友則
歌人:貫之、友則、望行、有朋、有常、静子、惟喬親王、有常女、秋岑、利貞、淑人
淑望、惟岳、紀乳母、常康親王、兼覧王、在原業平(有常女の夫)
藤原敏行(妻:有常女、母:名虎女)
 
2−18)時文(?−?)
@父:貫之 母:藤原滋望従5位上木工頭女(曽曾祖父の妻は紀御依女)
A986年大膳大夫、歌人、源順集
 
2−19)輔時(?−?)
@父:時文 母:藤原滋望女
A従6位 歌人。
 
2−9−1)麻呂(658?−705)
@父;大人?(諸人) 母;不明
A子供;系譜により異なる。宇美、宿奈麻呂、(猿取、依麻呂、男人)
B703年文武朝 45才で大納言となる。知太政官事;刑部親王      大納言;不比等(4 6才) 石上麻呂(64才) 右大臣;阿倍御主人(69才)
C705年正従三位 大納言。文武天皇が深く哀悼の宣命をされた。
***紀麻呂と紀麻路は別人である。混同している記事多し。
 
・男人(682−738)
@父;麻呂 母;不明
A大納言紀大人の孫。弟;宇美 通称;大弐紀卿
 妹;奈賀岐娘は藤原仲麻呂の室 子供;参議家守、兼貞(娘は、平城天皇妃)
B705年従5位下。
C711年平城宮造営の際、将軍になる。
D723年従四位上、730年太宰大弐
E737年右大弁、738年正四位下「太宰大弐」として卒す。
 
・家守(724−784)
@父:男人?(猿取) 母:不明
A777年美濃守
B783年参議
 
 
・猿取(?−?)
@父:麻呂?
A従5位上
B子供:船守(諸人の養子)
 
・麻路(?−757)
@父;麻呂?(大人) 母;不明
A子供;広庭  広名
B743年聖武朝構成 左大臣;橘諸兄 中納言;藤原豊成、巨勢奈弖麻呂
           参議;藤原仲麻呂、紀麻路
C749年孝謙天皇即位 左大臣;橘諸兄 大納言;藤原仲麻呂
中納言;石上乙麻呂、紀麻路、多治比広足、
参議;大伴兄麻呂、橘奈良麻呂、藤原清河(房前4男)石川年足、藤原八束
D752年大仏開眼供養会。平城宮留守役の一人中納言紀麻路。
E757年孝謙朝、皇太子「道祖王」の廃太子問題で審議に参画。
F 従三位。
 
・広名 (?−?)
@父;麻路?(麻呂)母:不明
A従5位下。少納言。
B767年式部大輔
 
・広庭(?−777)
@父:麻路 母:不明
A775年参議 美濃守  従四位下。
 
 
・奈賀岐娘
@父:麻呂 母:不明
A夫:藤原仲麻呂(706−764)
 
・宇美(ー753)
@父:麻呂 母:不明
A従4位下。讃岐守
B子供:広純
 
・広純(?−780)
@父:宇美 母:不明
A従四位下。参議。780年東北伊治郡の伊治城で殺害される。多賀城も落ちた。
B子供:吉継
 
2−9−1−1)宿奈麻呂
@父:麻呂?(飯麻呂、古麻呂)母:不明
A子供:古佐美
 
2−9−1−2)古佐美(733−797)
@父;宿奈麻呂 母;不明
A子供;広浜 娘(藤原藤嗣室・北家)
B788年50桓武朝で征東大使に任じられる。
蝦夷戦争で大敗し、責任をとらされる。
C785年春宮大夫となる。参議。
D793年大納言小黒麻呂、左大弁古佐美が、平安京の下調べに行く。
E794年平安遷都。右大臣;継縄 中納言;紀 古佐美(従三位)
F796年正三位大納言。
 
2−9−1−3)広浜(757−819)
@父;古佐美 母;不明
A「広成」とも記す。子供;長江、善峰
B819年参議となった。正4位下、太宰大弐。
 
・善峰(ー)
@父:広浜 母:不明
A従4位上 美濃守
B子供:秋峰、夏井、豊城 女(仁明天皇妃)
 
・夏井(?−?)
@父;善峰? 母;不明 (石川氏女)
A866年「応天門の変」で大納言「伴善男」は、放火の犯人は、左大臣源信として、告発したが、真犯人は、伴善男の一味であるという者が現れ、結局伴善男、紀夏井(土佐国へ配流)紀豊城(異母弟、安房国へ配流)紀春道(上総国へ配流)紀武城(日向国へ配流)らが、断罪された。
ここで古佐美流れは、歴史上消えた。
B讃岐守、肥後守、従5位上
平安前期の清廉な能吏の典型とされた人物。
 
2−9−1ー4)長江(?−?)
@父:広浜 母:不明
A842年従5位下。 大和国司
 
2−9−1−5)豊河
@父:長江 母:不明
 
2−9−1−6)兼弼
@父:豊河 母:不明
A子供:御園、行教
 
・行教(812−887)
@父:兼弼 母:不明
A奈良大安寺の僧。859年宇佐八幡宮に参籠して、神託を受け、860年八幡神を男山に勧請した。神仏習合の形となった。 石清水寺、護国寺、神宮寺
 
2−9−1−7)御園
@父:兼弼?(船守子田長説) 母:不明
A子供:御豊、真済(柿本紀僧正・東寺長者・空海10大弟子の一人)、
安宗(石清水別当)、運真
 
2−9−1−8)御豊(?−?)
@父:御園?(夏井) 母:不明
A叔父の行教が勧請した八幡神を石清水八幡宮として祀った初代神主。以後俗別当に曾孫良常が任じて以後別当職は、紀氏の世襲となった。
B866年初代神主。876年従8位上。
C御豊の系図は色々諸説あるようである。
石清水八幡宮系図は「古佐美」ーー「御園」
説であるのでこちらを採用した。
 
2−9−2)古麻呂(646−705)
@父;大人?(麻呂) 母;不明
A兄弟;麻呂、麻路 子供;飯麻呂
B正5位上。
 
2−9−2−1)飯麻呂(690ー762)
@父;古麻呂?(麻呂) 母;不明
A740年聖武朝、「藤原広嗣の乱」発生。大将軍;大野東人 副将軍;飯麻呂を任じ兵17,000でこれを平定した
B757年正4位下参議。
C762年従三位
D子供:娘(北家藤原大津室:子供:良縄)
 
・木津魚(?−?)
@父:飯麿 母:不明
A835年従三位。右衛門督。
B子供:最弟 魚員(平城天皇妃)  百継
 
・百継(763−836)
@父:木津魚 母:不明
A833年従二位、参議
B空海と親交があった。
 
2−9−2−2)麻呂名
 
・貞守
@父:真呂名
A従5位下。851年甲斐守。
 
・利貞(ー881)
@父:貞守 母:不明
A従5位下、歌人。
B子供:友則?説あるが採用せず。
 
2−9−2−3)国守(?−?)
@父:麿名 母:不明
A836年外正5位下、右京人侍医
 
2−9−2−4)貞範
 
2−9−2−5)長谷雄(845?−912)
@父:貞範 母:不明
A902年参議。910年従3位中納言・東大寺俗別当。
B菅原道真の弟子であり、友人である。文章博士。道真の死に際し詩集「菅家後集」を託された。
C鬼に絡む本に多く登場。「長谷雄卿草子」など。
この子孫は永続し、大名:池田氏 戦国大名なども輩出したとされる。
紀氏は、この長谷雄の流と石清水八幡宮の流がその後の主流である。
D長谷雄の系図は諸説ある。紀氏概略系図(2)−A参照。
 
その他紀氏関連者
 ・紀女郎(?−?)
@父;紀 鹿人 母;不明
A「安貴王」の妻(717−724以前)名;小鹿
B安貴王は、因幡の八上采女を娶った罪で罰せられたため、紀女郎と離婚。
C女官だった模様。大伴家持とも関係?万葉歌人(12首)
 
その他 
紀 鹿人、紀 広前、紀 夏人  紀 広純 紀全子(陽成天皇乳母)

3)紀氏関連系図
紀氏概略系図(1)(2)紀氏主要部詳細系図、参考系図「古代天皇家・紀国造氏・尾張氏・大伴氏・和邇氏関係譜」を下記に記す。いずれも公知系図を基にした筆者創作系図である。



4)系図解説・論考
 紀氏と言えば紀貫之を知らない人はいない。しかし、彼が古代豪族紀氏の末裔であると認識出来る人は少ない。
古代豪族紀氏の系図は難物である。神世系図から諸説ある。
一般的には、高皇産霊尊又は神皇産霊尊、を出神とする高天原系の天神族とされている。
しかし、一方では素戔嗚尊を出神とする出雲系の説も根強くある。
そのせいかどうかは判然としないが次のような系図も残されている。
ーーー天御食持命ー比古狭知ー名久佐刀弥ー名草戸根ー名草戸畔ー天道根命ー
ー知名曽ー比古麻ー?−鬼刀弥ー荒川戸畔ー久志多麻ー大名草比古ー宇遅比古ー舟本ーー夜都賀志比古ー豊耳ーーー
(丹生祝家系図:筆者の紀氏概略系図(1)の丹生氏)
上記系図に現れる「名草戸畔」は神武東征の際に、1神武天皇により滅ぼされた土着の豪族の頭領である。
「荒川戸畔」も10崇神記に登場する土着の人物である。
少なくとも高天原系の天神族とは思えない面々が紀国造家(神別氏族の紀氏のことをこのように記すことにする)の系図の中にも入り込んでいる。(筆者系図参照)
勿論現在の日前(ひのくま)国懸(くにかかす)両神宮の系図には入ってない。
これ以外にも所謂秘系図なるものもあるそうである。(出雲系の系譜)
筆者系図では若干アレンジしたものを記したが、紀国造氏の系図は天道根命からのオーソドックスなものを載せた。
参考系図として旧事本紀と記紀系図に準拠した、紀国造氏ー尾張氏ー大伴氏ー天皇家ー和邇氏の婚姻関係を記した系図を公知資料をもとにした筆者創作系図を載せた。
このように詳しい系図が何故必要とされ、現在まで残されたのか考えるだけで、古代史へのロマンが駆り立てられる。
「紀伊国造次第」という平安時代に完成したと言われている系図をアレンジしたのが紀氏概略系図(1)の武内宿禰までの筆者系図である。
但し、滋野氏関連系図部分は他の資料を参考とした。
この紀国造氏(日前・国懸神宮を祀る氏族)の宇遅彦の妹である山下影媛が8孝元天皇の孫である屋主忍男武雄心命と結ばれて産まれたのが、有名なる「武内宿禰」である。記紀ではそう明記してある。
記紀記述の中で最も謎とされ、実在性が信用出来ない創作人物のナンバーワン的人物である。
この子供から蘇我氏、葛城氏、平群氏、巨勢氏、そして紀氏など将来大臣となる氏族が総て発生したとされている。
勿論これも全く信じられていない虚構事項とされている。
それはさておいて、「紀角」なる人物が この武内宿禰と前述の紀国造氏の宇遅彦の子供である「宇豆彦」の娘「宇乃媛」との間に産まれて、母方の氏族名が付されて皇別氏族「紀氏」の初代になったとされている。
この辺りの調査・検証も色々の角度からされているようだが、省略する。
紀角は記紀記事では、15応神天皇の頃の人物とされている。
記紀に記された武内宿禰の子供かどうかは別にすれば、諸系図から判断して、概ね「紀大人」が、「紀角」を初代として約10代になる。
一代約20年ー25年と仮定すると「紀大人」の時代から約200年から250年前に初代紀角が産まれたことになる。「大人」は壬申の乱頃の人物であるのでこれをもとに換算すると、「紀角」は、紀元420年ー470年頃の人物であることが予測される。
これは筆者の考える15応神天皇の時代よりは少し後のようだが、(好太王碑:391年日本軍出兵)そんなに離れてはいない。
となると、「紀角」という人物又はそのモデルになった人物がこの頃存在した可能性は無きにしもあらずである。
紀氏についての今日の主流的な説は、4世紀から5世紀にかけての朝鮮半島からの渡来人の系統から発生した氏族の一つであろう。となっている。武内宿禰が祖ではなく本当の親は朝鮮半島出身の人であるとする訳である。
とはいうものの、元々の神別紀氏とは何等かの関係(例えば神別紀氏の女性と婚姻関係など)があったからこそ、「紀」という姓を名乗れるようになったのではなかろうか。
その
神別紀氏がそもそも渡来人の氏族の末裔であるという説もあるので話は一層複雑である。
前稿で紹介した「葛城氏」も「蘇我氏」も朝鮮半島からの新規渡来系の新興氏族だったのではないかとの説が戦後急に強まった。
これは今日の歴史学者の主流的説のように感じる。
筆者はこの種の説には組しない。
「葛城襲津彦」「蘇我満致」「紀角」などが総て渡来系の人物であり、それが記紀の創作人物である「武内宿禰」の子や孫などにされたのである、という説には余りに我国の歴史を記した記紀を無視し、ないがしろにする説だと思う。
記紀には明らかなる新規渡来系の氏族は、それなりの地位を得た氏族に対してはその出自を明記してある。例えば、秦氏、東漢氏、坂上氏、百済氏など15応神天皇以降多くの氏族はその出自を明確にし、系図もはっきりと残されている。
また中央政界でもそれなりの活躍をした記録が残されている。
もし上記武内宿禰がらみの後に有力氏族となった面々が新規渡来人なら、その出自を隠す必要なんか何処にもなかった。
ということは、それよりはるか以前の渡来人の末裔の有力者がここに名前を連ねたと考える方が、考え易い。
戦後の歴史学者は、もっと勉強して欲しい。考えが余りに単純?過ぎる。
 日本人のルーツ論は未だスッキリはしてない。少なくとも弥生人と言われている人種(中身は色々の種種雑多の人種・民族・氏族の集合した総称)は概ね紀元前5世紀頃から紀元前後にかけて中国、朝鮮半島から日本列島に色々な新文明・文化を携えて、色々な形で渡来してきた。
これが元々日本列島に土着していたいわゆる縄文人と呼ばれる人種と婚姻などを通じて融和していった。
古墳時代、初期大和政権時代のリーダーは、総てこの渡来人系の人間(弥生系)だったといっても過言ではない。
出雲系の氏族(銅器文明)は古い時代の渡来人系氏族。
高天原系の氏族(鉄器文明)は新しい時代の渡来人と分類してもさしつかえないであろう。
その後も渡来人は続々日本列島に来た。しかし、初期大和政権が誕生した紀元4世紀初め頃には、紀の国、大和国辺りには、純然たる縄文人が主体であり弥生系は極一部であったと思われる。
弥生系の進出の東の端は尾張国辺り。関東以北は、完全な縄文人の世界だったと考えても良いらしい。
これが15応神天皇頃(5世紀初め)には、さらに新たな技術・文明をもったさらなる新規渡来人も大和国にもどんどん入ってきた。
これらの集団のリーダーとなったのが、葛城氏、蘇我氏、紀氏などではなかったか。
自分自身が新規渡来人ではない。という説もある。
筆者はこちらの説を支持する。
話を紀氏に戻そう。
元来紀の国には、縄文系の土着氏族と彼等を緩やかに統治していた出雲系の古い弥生人がいた。
ここへ高天原系の新弥生人が来てこれらを征服して、大和に入り新王朝を築いた。
これが10崇神王朝である(3世紀末ー4世紀初頃)。
その前に葛城王朝、物部王朝又は邪馬台国(近畿説では)などが存在していた。これらとの争いが記紀の神武紀や、国譲り神話などの神話として象徴的に記紀に記述されているのである。と解釈している人もいる。
筆者はこの解釈にほぼ同意したい。
元々から存在してたであろう「紀国造」氏と呼ばれている古族は地方豪族とはいえ相当力のあった勢力と推定される。朝鮮半島との交流も自力でやっていた。
初期天皇家との直接関係があったかどうかは、全く分からぬが、10崇神天皇の妃に紀国造氏に関係ある「荒川戸畔」の娘がなっている系図もあり、全く不可能ではなかったろう。
尾張氏、物部氏、などと紀国造氏とは 、大差ないのではないだろうか。
日前国懸神宮(現和歌山市にある)の社家は平安時代になって皇別紀氏の末裔である「紀長谷雄」の子供の淑光の息子である「交換」が入り婿して、以後この流が嗣ぐことになった。
これも古の紀国造氏と「紀氏」の関係が大切にされたからこそ産まれた関係であろう。
また、記紀の中でその活躍が記されている「紀男麻呂」と「紀大人」がどう繋がっているかは、本当のとこは分からない。
この辺りは諸説あってよく分からない。
記紀記事では21雄略天皇付近から、特に朝鮮半島への出兵記事で紀氏の活躍が記されている。
紀氏は蘇我氏に組して物部氏と戦ったとされている。
しかし、皇別紀氏でさえ本当は「紀大人」辺りからが信頼出来るらしい。
だが、細部は謎だらけである。
例えば、「紀諸人」は天皇家に繋がる重要人物であるが、その本当の出自は、はっきりしてない。
筆者系図が一番合理的だと、諸情報をから考えている。
この娘「橡媛」が49光仁天皇を産んで、その子が50桓武天皇である。
なのに「橡媛」も「諸人」も生没年さえ不明なのである。
もともと天智朝では紀氏は未だ下級貴族であったと認識する。
その後の紀氏は、「麻呂」「船守」流が本流と考えるが、これとて、本当はよく分からない。
筆者は船守は下級公家「猿取」の息子であるが、諸人の養子になったとの記事もあったので、それを信じて国益ー諸人ー船守を本流とした。
系図が複雑になるのは、前稿でも述べたように、養子、猶子関係をどう記録に残してあるかに懸かっている。
後代活躍する紀長谷雄の出自も不明確である。これも養子縁組が関係しているものと考える。
さらに平安時代初期(860年)に創建された「石清水八幡宮」の社家は紀氏であるが、その出自も古佐美流とする説と船守ー田長流とする説があるようだが、筆者は、石清水八幡宮家の系図に従い、古佐美流を採用した。
この流は、その後の紀氏に重要な役割を演じた。
どうでも良いように思えるが、色々なことを解釈をする上で微妙に影響してくる。
さて、紀氏で朝廷の参議以上の要職に就いた人物は、下記の人たちである。
・大臣クラス:諸人(但し死後贈位)
・大納言:大人、船守、麻呂、古佐美、
・中納言・参議:梶長、家守、麻路、広庭、広純、広浜、飯麻呂、百継、長谷雄
だけである。実権のある大臣には誰もなっていない。
紀氏は「秦氏」などと関係をもちながら蘇我氏の下で力をつけてきた氏族と言われている。
古代豪族紀氏が花開いたのは41天武天皇以降である。非常に遅かった。
しかし、それ以降細く長く平安時代まで朝廷内での地位は常に藤原氏の下位ではあるが、藤原氏以外では只一つ生き残っていた。(大伴氏はさらに細々と生き残った)
しかし、「応天門の変」で伴善男と共に紀夏井ら紀氏一族連座し配流され、その勢力は著しく低下した。
只一人紀長谷雄だけが線香花火のようにその後「参議」となった。
これはその才能の素晴らしさを宇多天皇から認められたからだと言われている。
このようにして政界からは脱落したが、紀貫之、友則、など多くの歌人が紀氏から産まれた。
位は精々5−6位の下級公家でしかなくなったが、平安文化の花を咲かせたのである。
紀氏として石清水八幡宮の祠官家は、厳然とその地位を誇り、位は低かったが、名家としてその後も営々としてその体面は保った。
一方紀長谷雄の末裔は日本各地に繁茂して戦国大名、池田氏など多くの武家を輩出し、現在にまで繋がっている。
紀氏から后妃も多数輩出したが、その子供が天皇になったのは、前述の49光仁天皇だけである。
しかも天武朝から天智朝へ再び藤原氏の策謀で転換された時であり、49光仁天皇が即位したときには、諸人も橡媛も既にこの世にはいなかったようである。
これ以降古佐美らがこの縁により朝廷の要職に付いたようである。
しかし、藤原氏の覇権主義はとどまることなく推し進められ、摂関政治の時代へ突入した。
藤原氏と紀氏との婚姻関係はある程度認められるが、主流の藤原氏との関係は無かったようである。
紀氏らは古今集など現実逃避の文化活動にその活路を見いだしていった。
これは紀氏だけの動きではない。
最近は、古代史マニアの間では、本稿の前半で述べた皇別紀氏より神別紀氏の本当の原点といわれている、出雲系紀氏、五十猛命系に繋がる神社研究なども盛んなようである。
広瀬神社・龍田神社・丹生川上神社・伊太祁曽神社などの古社がその対象である。日本人のルーツ研究に関わるらしい。
いずれにせよ証拠は無い。謎解きの世界である。
ここらになると筆者の手におえない世界である。
紀元前までさかのぼるらしい。
とにかく紀氏にはまっている人が多いことは事実。
 
5)まとめ(筆者の主張)
@神別紀氏(紀国造氏)は、非常に複雑であり公知系図だけが真実の実態を残しているとは言い切れない。
出雲系(銅器文化族)、高天原系(鉄器文化族)が婚姻関係を含め抗争・融和を繰り返して紀の国を統治してきたものと思われる。
A皇別紀氏の原点である武内宿禰は実在したか架空の人物か判然としない。(記紀の記述のような長命の人物は存在しえない)
しかし、紀角なる15応神天皇時代に出現した紀氏の祖は、何等かの形で神別紀氏と関係があり朝鮮半島などで活躍し、新渡来人と言われる集団のリーダー的存在となった人物であろう。
B皇別紀氏の祖「紀角」は朝鮮半島からの新規渡来人にその祖を発するという説には組しない。
C紀諸人、麻呂、船守ら中央に進出した皇別紀氏の重要人物と言われる者もその系譜は不明確な部分が多い。
しかし、蘇我氏滅亡後、徐々に中央政府のなかで一定の地位を確保していったことは間違いない。
D紀船守の流を紀氏主流と判断した。古佐美流、古麻呂流共に「応天門の乱」を契機に政界から脱落した。但し紀長谷雄だけはその後参議にまでなった。
E紀氏は紀貫之で代表されるような文化人一族を形成し、平安時代に花咲かせた。
Fその後、紀長谷雄の流は、野に下り、武人となり日本各地に繁茂していった。
一方公家周辺には、石清水八幡宮祠官となった紀氏一族がそれなりの地位を保って永続した。
紀氏は、これ以後政治的には全く表舞台に出ることはなかった。
 
参考文献
・古代豪族の研究  新人物往来社(2002年)
http://homepage2.nifty.com/ihmm
など