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25.出雲氏考T(出雲臣氏・出雲国造家・武藏氏) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1)はじめに
「古代出雲」といえば、出雲神話・出雲大社が先ず頭に浮かぶ。現在の島根県のことである。しかし、日本の古代史に興味を持つ者にとって興味は引くけれど、これ程理解するのに厄介なものはない。掴み所がない感じがする問題をはらんでいるからである。だから面白いとする研究者と、これはまともな研究対象ではない、とする研究者がいるのも事実である。
古来色々な学者がこの難問に挑戦し、色々な学説を発表してきた。
最近では、「神庭荒神谷遺跡」の発見・「加茂岩倉遺跡」の発見・四隅突出型古墳発掘などの考古学的研究の進展などにより、眠りかけていた古代出雲問題がプロ・アマ古代史ファンの新たな進展を夢見ての議論が再燃している。
古事記・日本書紀の記述を重要視すれば、出雲問題は避けて通れない重要事項である。ところがその大部分は、記紀神話の部分にある。この「出雲」が関わる神話を何故わざわざ記紀神話の中に、それもかなりのウェイトをもって記したのか。天皇家誕生神話を語る時、出雲神話は不可欠だった理由が何かあるのか。
そもそも、日本書紀は国家事業として、日本国の誕生・天皇家の誕生・その歴代の天皇の時代に日本国で何があり、古代豪族の誕生及びその活躍・海外諸国とどんな交渉をもってきたかなどを公的に記録したものである。文字の無かった時代のことが大半である。
日本各地に伝承されていた伝説・民話・神話の類の収集、各豪族・神社などに伝承されてきた話・記録などの収集、日本各地に存在していた語り部というプロの集団からの話の収集、それに天皇家に代々語り継がれてきた国家的組織化された語り部の類の記憶及び一部文字記録の収集、さらに当時国家として入手していた、中国、朝鮮半島などの海外の文字化された文献などもデータとして用い、精査して、ある国家的意図をもって編纂されたのが日本書紀であるとされている。
この中の天皇家誕生までのいわゆる「神代紀」において、「出雲」が重要な位置を占めているのである。古来この「神代紀」の記紀の記述は、史実とは全く関係ない、という説と何らかの史実を反映したものであるという説が共に存在してきた。共に立証不可能な説である。
ヨーロッパにおける「シュリーマン」の例もある。筆者は後者の説を支持して今後の考古学・発掘調査の成果に期待を寄せている出雲神話ファンの一人である。
「古代出雲」に関しては、既稿「三輪氏考」で一部述べてきた。
さて、筆者の理解が間違ってなければ、記紀神話では、伊弉諾尊(・伊弉冉尊)の産んだ3貴神、すなわち、「天照大神・月読命・素戔嗚尊」は、「天神」(天津神とも記す)である。ところが、素戔嗚尊の末裔達は後年「地祇」(国津神とも記す)として天神系とは別の神々として扱われている。即ち大国主命を初めてとして「出雲神族」として神譜も全く異なる。既稿「三輪氏考」で述べてきたように古代豪族といわれる氏族の内、この出雲神族の末裔とされる地祇系の氏族は僅かしかいない。三輪氏と賀茂朝臣氏(賀茂県主氏とは異なる。既稿「賀茂族考T」参照)信濃の諏訪氏くらいである。
薗田 稔らの「日本の神々の辞典」によると927年の延喜式の「大祓詞」に天津神は天上はるかの雲の上におり、国津神は高い山低い山の重なる地上の山中にあって雲や霧のなかに鎮まるとしている。と説明。難解である。
さらに記紀神話の高天原系の神々が天津神、天津神「素戔嗚尊」の系譜に繋がる「出雲系」の神々を国津神という。と記している。
ところが具体例を見ると以下のように記述されている。
天津神:伊弉諾尊・伊弉冉尊、火之迦具土、建御雷之男、豊宇気毘売、底津綿津見、
底筒之男、天照大神、素戔嗚尊、多紀理毘売ら、天忍穂耳、天穂日、天児屋、経津主
邇邇芸命、賀茂建角身、など。
国津神:大綿津見、大山津見、櫛名田比売、五十猛、大年、宇迦之御魂、大国主、事代主
大山咋、建御名方、木花之佐久夜毘売など。
分かり難いのは、大綿津見・大山津見は記紀ではイザナミ・イザナギの子供である。
素戔嗚尊の子供である多紀理毘売ら宗像三神は「天神」であるのにそれ以外の子供は「地祇」である。
古来この区別は分かり難かったようで、「令義解」という本によれば「天神」には「伊勢・山代鴨、住吉、出雲国造斎神」。「地祇」には「大神(おおみわ)・大倭(おおやまと)・葛木鴨・出雲大汝(おおなむち)神」となっている。ここで出雲国造斎神とは出雲熊野神社の「素戔嗚尊」であるとし、出雲大汝神とは出雲大社の大国主のこととしている。(以上「日本の神々の事典」より)これで大雑把には理解できるとしたのであろうか。 出雲の神々は現在も日本全国で祀られている。 日本の神社の中で、現在は、その数では地祇である「宇迦之御魂神」を祭神とする稲荷神社が断然トップである。大国主命・大年神・大山咋などなども根強い人気がある。やはり問題は「素戔嗚尊」である。一般的には出雲の神様である。でもこの神様だけは何故か天神系なのである。但し、高天原を追放された天神という扱いに記紀ではなっている。
次が「国譲り神話」である。高天原にいた天照大神は、葦原中津国(日本列島?)を支配していた素戔嗚尊の裔である大国主命に国を譲るように要請し、その条件として出雲大社を造り、天照大神の子供である「天穂日命」に大国主を祀ることを約束した。これが戦いもなく行われ、天孫「ニニギの命」がこの国に降臨され、その裔が神武天皇となった。云々。の話である。
この神話の意味することは何か。
・この日本列島に天孫族が来る前に出雲族と称されるような天孫族とは血脈を異にする列島全体に影響力(縄文人とは異なった文化:例えば銅器文化)をもった弥生人が既にいたことを暗示している。
・天孫族(新渡来弥生人)と出雲族(旧渡来弥生人 )との間で話し合いで日本列島の統治に関する主導権の移動があったことを暗示している。
・出雲族の原点は、天孫族と同じ天神で素戔嗚尊という天孫族より一足早く日本列島に天降った者の支配するところであったが、天神の嫡流である天照大神の流れが大国主を説得することにより円満に嫡流の子孫の治める国造りをしたという正統性の主張。
・この神話は、出雲国には直接関係ない。大和の国に元々いた大物主・大国魂などを祀る
先住弥生人文化圏に九州方面から新勢力が侵入してきたことを正当化するための創作話。
・天皇家を他のいかなる氏族・勢力とも異なる正統なる日本国を統治する主権者とするための創作神話である。歴史的史実とは全く無関係な荒唐無稽な話である。
・「出雲国風土記」に記されてある出雲神話と記紀の出雲神話との類似性、異質性。
・大和権力の力が最後まで及ばなかった出雲国がやっと大和権力に従ったことの象徴をこのような神話にした。
などなど諸説が混在している。専門家間でも未だに意見の一致が見られていない。
この謎に満ちた出雲国に出雲臣氏または出雲国造氏(出雲国造家)という豪族が実在したのである。
これが上記国譲り神話に登場する天照大神の子供「天穂日命」を元祖とする一族である(これをまとめて「出雲氏」とも称する)。これは上記「出雲神族」と言われる氏族とは異なる神別氏族である。これも併せて出雲族という混同した説も多数あるので注意を要す。
地祇系氏族ではなく天神系氏族なのである。この天神系の氏族が地祇系の神の総元締め的存在である大国主命を祀る原点の社である「出雲大社」の社家として神世からの系図を有しているのである。同時に出雲臣氏は大国主命の神祖である「素戔嗚尊」を祀る出雲国では出雲大社より常に上位にあった「熊野大社」をも祀ってきたのである。
要するに日本の神を大別すると、「天神」の総元締めは天照大神?で伊勢神宮でこれを祀ったのが天皇家?だとすると、もう一方の「地祇」の総元締めは、大国主命で出雲大社でそれを祀ったのが出雲臣氏である。
記紀の崇神天皇以降の「出雲」に関係する記事は総て、この出雲臣氏に関する記事である。
この出雲臣氏の嫡流は、出雲大社の社家「出雲国造氏(出雲国造家ともいう)」となり後年千家氏・北島氏に分かれた。分流として日本の相撲の祖と言われ、埴輪を提唱したとされる「野見宿禰」が現れ、この流れは後に古墳などの築造を職とする「土師氏」を称し、この流れから菅原道真で有名な「菅原氏」と鎌倉幕府で活躍した「大江氏」などが発生した。共に50桓武天皇の母親「高野新笠」が土師氏の血を引くことから、この縁で菅原・大枝氏を賜ったとされる。
菅原氏からも大江氏からも後に大名家も多く発生して後世に繋がったとされている。
天穂日命を祖とし3世孫「出雲建子命」から上記出雲氏本流から分流した、いわゆる「武藏氏」といわれている関東に進出し、「氷川神社社家」を中心とした「武藏国造氏」を名乗ることになる流れがある。
上述したように「天穂日命」を元祖とする氏族を総称して「出雲氏」と表現し、本稿では本流である「出雲臣氏・出雲国造家」と分流して武藏国造となった「武藏氏」について記述することにする。
出雲氏考Uで派生氏族である「土師氏・菅原氏・大江氏(大枝氏)」などについて記すことにする。
2)出雲臣氏・出雲国造家人物列伝
出雲臣氏は出雲国造氏とも言われるが、天照大神の子供「天穂日命」を初代とする系図が残されている。54代で千家氏・北島氏などに出雲大社社家が分かれるが、そこまでの嫡流家を中心に人物列伝を記す。
・天照大神
2−1)天穂日命(あめのほひのみこと)
@父:(素戔嗚尊) 母:天照大神
A天照大神と素戔嗚尊との誓約によって産まれた神。第2子。
別名:天之菩早能命、天之菩卑能命、天菩比命(記)、天夫比命(風)、野城大神、能義神、阿菩大神
子供:武夷鳥 兄弟:天忍穂耳尊、天津彦根命、活津彦根命、熊野久須毘命
B出雲臣氏祖・出雲国造氏祖
C天照大神の勅により、大国主神を天日隅宮(あまのひすみのみや)に祀りその祭主となる。
D記紀神話:国譲り神話で登場。天照大神の命で地上統治者「大国主命」のもとに国譲りの交渉に遣わされた。しかし大国主に心服し、3年経っても高天原に帰りも報告もしなかった。遂に武甕槌・経津主命らを派遣して国譲りを断行。その時の大国主の条件が大社を造ってそこへ自分を祀れ、祭祀者は天穂日命とすることであった。一方「出雲風土記」などでは天穂日命は子供天夷鳥命と一緒になって天孫降臨の準備をした偉大な神とされている。
E農業神・稲穂神
(参考)出雲大社
所在地:島根県出雲市大社町杵築東195
主祭神:大国主大神
社格:式内社(名神大社)・出雲国一宮・官幣大社
由緒:記紀神話で大国主神が天津神に国譲りを行う際に、その代償として天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて欲しいと求め、造営されたのが始まりである。古代より杵築大社と呼ばれていたが、明治4年に出雲大社と改称された。創建以来天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきた。
国宝・重文など:出雲大社本殿。秋野鹿蒔絵手箱が国宝。多数の重文あり。
(参考)熊野大社
所在地:島根県松江市八雲町(旧:八束郡八雲村熊野2451)
主祭神:熊野大神櫛御気野(くしみけぬ)命。素戔嗚尊と同一神であるとされている。
社格:名神大社、国幣大社、出雲国一宮。
一説:和歌山の熊野三山の元津宮である。異説もある。
創建:日本書紀「厳神宮」を現在の安来市伯太町に造らせたとあるを創建としている。
2−2)武夷鳥命(たけひなとりのみこと)
@父:天穂日命 母:不明
A子供:伊佐我(櫛瓊)・出雲建子(武藏国造氏ら祖)
別名:天日名鳥(姓氏録、紀)、天夷鳥(崇神紀)、武日照、建比良鳥(記)、出雲伊波比神、伊毘志都弊、阿太賀熊、天鳥船、天御鳥、天熊大人、出雲神、武三熊大人、武三熊、大背飯三熊之大人、稲背脛
B天より神宝をもらい出雲大神宮に蔵む。(記紀、出雲風土記など)
2−3)櫛瓊(くしたた)
@父:武夷鳥命 母:不明
A兄弟:出雲建子
子供:津狭 津島県造祖建弥己呂、素賀国造祖美志卯
別名:伊佐我神、五十坂三磯命
2−4)津狭
@父:櫛瓊 母:不明
A子供:櫛甕前
別名:二井之宇賀諸忍之神狭
2−5)櫛甕前(くしみかまへ)
@父:津狭 母:不明
A子供:櫛月
2−6)櫛月
@父:櫛甕前 母:不明
A子供:櫛甕鳥海
別名:久志和都
2−7)櫛甕鳥海(くしみかとりうみ)
@父:櫛月 母:不明
A子供:櫛田 別名:櫛甕嶋海
2−8)櫛田
@父:櫛甕鳥海 母:不明
A子供:知理
2−9)知理
@父:櫛田 母:不明
A子供: 毛呂須
別名:櫛知理
2−10)毛呂須(もろす)
@父:知理 母:不明
A兄弟:子供:阿多 別名:世毛呂須
2−11)阿多
@父:毛呂須 母:不明
A兄弟:子供:出雲振根、伊幣根、韓日狭
異説:「出雲振根」「飯入根」、「可美乾飯根」の代とする説
・出雲振根
@父:阿多(異説あり) 母:不明
A兄弟:伊幣根、韓日狭 、朝原氏祖。
B日本書紀記事:
・崇神天皇は武夷鳥が天よりもたらせ出雲大神宮に蔵めてある神宝を見るために「武諸隅」に大和まで運ぶことを命じた。(崇神60年)
・当時出雲を統治していた振根は、筑紫国に出向いて不在であった。
・振根の弟「飯入根」は、崇神の命を受諾して弟甘美韓日狭、子鵜濡渟に付し神宝を朝廷に献じた。
・振根は帰ってこれを知り、怒り、数年後策略により弟を殺した。
・これを知った崇神は、吉備津彦・武渟河別を出雲に派遣し、振根を殺した。
・出雲国は大和朝廷をおそれ、出雲大神を祀らなくなった。
・その後崇神の命で再び祭祀が行われるようになった。
C出雲の土豪という扱い。最近では杵築の統治者とする説多。
2−12)飯入根
@父:阿多 母:不明
A子供:鵜濡渟、神門氏祖伊賀曽熊、置部氏祖宇乃遅 兄:出雲振根 弟:韓日狭
別命:伊幣根
B崇神紀記事;同上「振根」の記事。
C最近では意宇の統治者説が強い。
2−13)鵜濡渟(うかつくぬ)
@父:飯入根(異説あり) 母:不明
A兄弟:子供:襲髄
別命:氏祖命(うじのおやのみこと)、宇賀都久野(姓氏録)、宇賀都久怒(旧事紀)
B出雲臣、土師連、菅原氏、秋篠氏、大枝氏、神門氏、凡河内氏等の氏祖。
C旧事本紀「国造本紀」などに記事あり。天穂日命12世孫(姓氏録)、または11世孫
(旧事紀)崇神朝に出雲国造という職名を朝廷より賜ったとされる。
2−14)襲髄(かねすね)(そつね)
@父:鵜濡渟 母:不明
A子供:来日田維穂、(一説:野見宿禰と同一人物)(一説:野見宿禰が子供の一人)
財部氏祖岐多志古
2−15)来日田維穂(きひたいほ)(きひたすみ)
@父:襲髄 母:不明
A子供:三島足奴 別名:岐比佐都美、来日狭維、来日維穂
B記紀記事:垂仁天皇23年皇子「本牟智和気命」出雲大社参拝。始めて言を発す。天皇これを喜び、菟上王を遣わして出雲神宮を造営。
2−16)三島足奴(みしまたりぬ)
@父:来日田維穂 母:不明
A子供:意宇足奴
・出雲建
出雲首長、景行紀記事:日本武尊に殺された(記)
2−17)意宇足奴(おうのたりぬ)
@父:三島足奴 母:不明
A子供:宮向
別命:游宇宿禰(おうのすくね)、意宰足奴
B仁徳紀:倭の屯田の司となった。
2−18)出雲臣宮向
@父:意宇足奴 母:不明
A子供:布奈 勝部氏祖菟
B允恭天皇元年国造となる。出雲姓を始めて賜る。 反正天皇4年国造となる記事あり。
以後国造世襲。
2−19)布奈
@父:出雲宮向 母:不明
A子供:布禰
B武烈元年国造。
2−20)布禰
@父:布奈 母:不明
A兄弟:子供:意波苦
B継体天皇9年(516年)国造。
2−21)意波苦(おみはこ)
@父:布禰 母:不明
A兄弟:子供:美許
B欽明天皇11(562年)年国造。
2−22)美許(みこ)
@父:意波苦 母:不明
A子供:叡屋、宇礼、黒万呂
B用明天皇2年(586年)国造
2−23)叡屋
@父:美許 母:不明
A兄弟:子供:帯許
B舒明天皇3年(631年)国造。
C斉明天皇5年(659年)厳神之宮造営(修造?)。
・出雲臣狛
壬申の乱の時、天武側将軍。702年従五位下 出雲臣姓を賜る。 (続紀)
2−24)帯許(たこ)
@父:叡屋 母:不明
A子供:果安 別名:帯評督
B天武天皇白鳳8年(679年)国造。慶雲3年(706年)意宇郡大領を兼帯。
Cこの後の国造は千国、兼連と続き、その後果安になったとする説あり。
2−25)果安(はたやす)
@父:帯許 母:不明
A子供:広島、弟山、川継
B元明天皇和銅元年(708年)国造。 25代国造。
C元正天皇霊亀2年(716年)神賀事を奏す。国史での初見。(続日本紀)上代より行われていた可能性あり。 外正7位上(続紀)
D大庭から杵築に移ったとも記してある。
・弟山
@父:果安(異説:広島) 母:不明
A子供:国上・国成
B聖武天皇天平18年(746年)国造。27代国造。
C飯石郡少領兼務。孝謙天皇天平勝宝2年(669年)神賀事を奏す。
D天平5年(733年)風土記勘造。 外従5位下(続紀)
・国上
@父:弟山 母:不明
A子供:不明
・国成
@父:弟山 母:不明
A子供:千国
B桓武天皇延暦元年(782年)国造。延暦5年(786年)神賀事奏す。
・千国
@父:国成 母:不明
A子供:不明
B桓武天皇延暦16年(797年)国造。延暦20年(801年)神賀事奏す。
2−26)広島
@父:果安 母:不明
A子供:益方
B元正天皇養老5年(721年)国造。26代国造。意宇郡大領兼帯。外正6位上。
C聖武天皇神亀元年(724年)神賀事奏す。726年にも神賀事実施。
D天平5年(733年)出雲風土記編す。外従五位下(続紀)
2−27)益方(ますかた)
@父:広島 母:不明
A子供:人長・門起
B淳仁天皇天平宝字8年(764年)国造。
C称徳天皇神護景雲元年(767年)神賀事奏す。
・門起
@父:益方 母:不明
A別名:兼連
B桓武天皇延暦22年(803年)国造。
2−28)人長
@父: 益方 母:不明
A子供:旅人
B延暦9年(790年)国造。
C同14年(795年)神賀事奏す。
2−47)孝時
@父:泰孝 母:覚日尼
A子供:清孝 孝宗 貞孝 景孝
B54代出雲国造。
2−29)ー2−47)省略
2−48)清孝
@父:孝時 母:不明
A子供: 三郎。
B55代国造を嗣いだ。病身で職務を遂行出来ず、五郎孝宗に国造代理とし、その後56代国造を孝宗に譲った。
・千家孝宗
@父:孝時 母:不明
A子供:直国 五郎。
B56代国造。この国造相続に弟六郎が反対。父親は六郎に当初から嗣がせる予定であったが母親「覚日尼」の口添えで清孝に譲った経過がある。
五郎・六郎の争いは遂に守護代の吉田厳覚の仲裁案二家両立案(総ての条件を対等)を
両家聞き入れ以後両家は常に対等に国造家を世襲していった。明治まで続いた。
孝宗の方は千家を名乗った。
C明治以降は出雲大社は国の管轄となり千家家が宮司となって現在に至った。
出雲大社教を主宰。 出雲国造伝統略を有す。
・北島貞孝
@父:孝時 母:不明
A子供:資孝 六郎。
B56代国造。記事上述と同じ。
C北島家は出雲教を主宰。出雲国造世系譜を有す?
3)武藏国造(武藏)氏人物列伝
・出雲建子命
@父:武夷鳥命 母:不明
A子供:神狭命
別名:伊勢都彦命・櫛玉命
3−1)兄多毛比命
@父:忍立化多比命 母:不明
A子供:荒田比乃宿禰・五十狭茅宿禰・大鹿国直・穴倭古直・大八木直
出雲建子命の6代孫。
B武藏諸国国造祖。氷川神社社務家祖。など
・3−2)〜3−18)略
3−19)武芝
@父:武成 母:不明
A子供:野与武宗・武時・女(秩父将常室)・女(菅原正好室)
B平安時代中期の武藏国の豪族。武藏国足立郡大領武藏宿禰武成の子。
C外従五位下。足立郡郡司判官代。在庁官人。氷川神社祭祀者。武藏国造。
D939年武藏国へ赴任してきた権守「興世王」と介「源経基」が足立郡内に入ったため、武芝は「武藏国では、正官の守の着任前に権官が国内の郡内に入った前例ない」として反対し、財産を没収された。平将門に調停を依頼。これが将門の乱の遠因となった。
武芝の子孫は、野与氏となった。氷川神社の社家は娘の子供が継いだとされる。
E将門記に登場する有名人物。
3−21)正範
@父:菅原正好 母:武藏武芝女
A武藏国氷川神社社家を継ぐ。
4)出雲氏(出雲臣氏・出雲国造家・武藏氏・武藏国造家)系図
・出雲氏概略系図(出雲臣氏・土師氏・武藏氏など)
・参考系図 素戔嗚尊・大国主神系図
・出雲臣氏筆者推定系譜
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5)出雲臣氏系図解説・論考(出雲国造家・武藏氏)
広い意味で「出雲氏」と言えば、「出雲臣氏」「出雲国造氏」「武藏氏」「武藏国造氏」「土師氏 」「菅原氏」「秋篠氏」「大枝・大江氏」などを総て含むものとする。
しかし、「素戔嗚尊」系の所謂古来から通称「出雲神族」と呼ばれた一族?は含まない。「出雲族」という言葉は、厳密性に欠ける言葉なので用いないことにする。
さて本論に入る前に古代「出雲」に関する疑問事項を整理しておきたい。(順不同)
イ)記紀の出雲神話はいつ頃記紀の形になったのか。「出雲風土記」との違いをどのように解すれば良いのか。
ロ)記紀神話として記されている「素戔嗚尊」と「出雲国風土記」に記されている「素戔嗚尊」とはどのような関係があるのか。
ハ)記紀神話の「国譲神話」の国とは何処のことか。また史実を反映しているのか、全くの創作か。その意義は何か。
ニ)「天神」(天津神)と「地祇」(国津神)の違いとは何か。
ホ)出雲大社(杵築大社)はいつ頃創建されたのか。その目的は何か。
ヘ)出雲臣氏と言われるようになった一族はいつ出雲国造の地位についたか。
ト)出雲臣氏はいつ頃誕生したのか。何故「臣姓」が与えられたのか。残された系図の信憑性はどのくらいあるのか。いつ頃元祖系図が、現在のような系図になったのか。
チ)8世紀には史実として間違い無く存在した、出雲国造氏による「出雲国造神賀事」はいつ頃から行われその意味は何だったのか。
リ)最近発見された「神庭荒神谷遺跡」「加茂岩倉遺跡」と「出雲神族」または大国主命との関係はあるやいなや。
ヌ)出雲神族と言われる氏族は、本当に存在したのか。全国の地祇を祀ったのは、誰か。
ル)出雲神族と出雲臣氏との関係はどうなっているのか。
オ)大和の大物主・大国魂神信仰と出雲大社信仰の関係はどうなっているのか。
ワ)古代出雲と大和国・葛城国辺りとは関係があったのか、なかったのか。
カ)記紀に色々記事がある初期天孫系男性(神)と地祇系女性(神)との婚姻形態は、何を暗示しているのか。
ヨ)崇神朝ー景行朝までの出雲関係の記事の意味することは何か。
タ)記紀で何故に「出雲」のことを詳しく記事に残したのか。
レ)出雲国造家はいつ意宇郡から出雲大社のある出雲郡杵築に居住地を移したか。
などなど謎だらけである。勿論これらの筆者の疑問に総て答えられるだけの史料・証拠は現段階ではどこにもない、と言って間違いない。その一部でも答えられないだろうかと思って本稿を記した。
さて出雲臣氏の系図から見ていこう。この系図は出雲国造氏(出雲国造家)に残されていた記録(出雲国造世系譜など)を基に作られたものと思われる。色々異系図があるようである。10代「毛呂須」まではどの系図も一致しているようであるが、本稿の11代「阿多」のところが系図により異なる。ここに「出雲振根」・「飯入根」兄弟らが来るものも多い。これは、本稿13代「氏祖命」が新撰姓氏録には「天穂日命」12世孫、先代旧事本紀には11世孫となっていることとの整合性をはかることと関係しているようである。また「野見宿禰」の出自のところも一部系図で混乱ある。本稿では現在一番ポピュラーと思われる「韓日狭」の子供説を採用した。大勢には影響ないものと判断する。この辺りで出雲臣氏本流から分派したのである。この流れも繋がった系図が残されている。(出雲氏考Uで述べる)
本稿12代「飯入根」辺りから記紀の崇神紀辺りに記事が書かれている。初代「天穂日」2代「武夷鳥」は、記紀神話「出雲国譲神話」で登場する神代の話。途中の人物はこの系図にしか記録はない。本稿17代「意宇足奴」は記紀仁徳天皇紀に記事のある「游宇宿禰」と同一人物と考えられている。次ぎの18代「出雲臣宮向」の時、出雲姓が与えられたとある。出雲国造という職名は、崇神朝に「氏祖」に与えられたと旧事紀「国造本紀」に記されている。この宮向の時に臣姓が与えられたようだが、記紀には記事がない。臣姓がどこかの段階で与えられたことは、間違いない。これは天皇家に先祖が神世で直に繋がっているという意味で臣姓が与えられたものと思われる。天皇家に神世で直に繋がる系譜を有する古代豪族には、物部氏・尾張氏・海部氏などがあるが、これらには臣姓は与えられて無く連姓である。臣姓氏族は、ある意味で天皇家と対等な氏族で、天皇家に付き従った従臣的な氏族ではなく、吉備氏のように場合によれば戦ってきた氏族、天皇家に妃を出せる氏族という意味があったともされる。(上古には連姓氏族からは、天皇妃は出せなかったとする説もある)「続日本紀」の716年記事に第23代国造出雲臣果安が「出雲国造神賀詞」を奏上と記されている。勿論日本書紀にも天穂日命が出雲臣・土師連ら二氏の祖と記され、続日本紀の702年に従五位下出雲狛(出自不明)は臣姓を賜り出雲臣となったと記されている、ことなどから8世紀初には間違いなく臣姓になっている。
文献的には出雲大社伝世系譜以外にはそれ以前のことは不明である。
「宮向」以降の人物は何年に国造になったかが伝世系譜に付記されている。西暦年がはっきりするのは本稿20代「布禰」の516年国造就任からである。16仁徳天皇朝の記紀記事以降、続日本紀に初見する筆者列伝での25代「果安」の大和朝廷への「出雲国造神賀詞」(以後神賀事と記す場合有り)の記事(716年)まで国の記録からは出雲国造氏の記事はないのである。これ以降出雲国造が替わる度に神賀事の記事が平安時代初期まで公的記録に載っている。 ちなみに733年26代広島が「出雲風土記」を編し朝廷に提出している。
参考までに天皇系図との対比をここでしておこう。
忍穂耳ー崇神天皇まで直系で14代である。一方、天穂日ー飯入根までは12代である。ほぼ妥当な範囲で一致している。次ぎに崇神天皇ー元正天皇まで直系で17代である。一方、飯入根ー果安までは13代である。これは出雲臣氏の方が明らかに少ない。一代当りの年数で見ると、概算であるが、天皇家は23才であり、出雲臣氏は30才である。
全く不合理とは言えないが、出雲臣氏の方は一代が長すぎる感がある。この辺りでは一代約20年が妥当とされている。一寸違和感があるが不合理ではない範囲である。
本稿に採用した系図は元々が平安時代頃に作成されたものであろうとされている。よって記紀の記事には精通している訳で、それと出雲国造氏に伝わっている系図との整合は意識的にしてあろう。しかし、嘘八百を営々と書き連ねたとは思えない。筆者は文字記録が可能となったであろう20代以降はかなり史実に近いものが記録されていると判断する。
ところが12代「飯入根」ー20代「布禰」は西暦換算すると約200年間である。(崇神を300年の人物とする)この中に8人いるのであるから一代25年となり、むしろこちらの方が妥当なのである。20代以降の系図に問題が有るかも知れない。異系図が多数あるのもこのせいかもしれない。これ以降国造は親子相続だけでなく兄弟相続もされているようなので、この辺りの系図に誤りがあるかも知れない。筆者系図は、その後延々と続く出雲国造氏系図は省略した。1342年頃(南北朝頃)54代国造(筆者列伝の代数とは異なる)とされる「孝時」には、多数の子供があった。ここで家督争いが発生した。55代国造は三郎「清孝」が継ぎ56代は五郎「千家孝宗」と六郎「北島貞孝」が並立して継いだ。これ以降出雲国造氏は本家分家の関係でなく、千家・北島氏が対等に国造を継ぐ形が幕末まで続いた。この間、出雲大社には宮司はいなくて、国造(こくそう又は、こくぞう)がその任に当たっていた。明治以降は、出雲大社は神社本庁の傘下に入り宮司は千家氏がなっている。
現在は千家氏は出雲大社(おおやしろ)教・北島氏は出雲教という宗教法人を主宰している。
さてこの系図は古来色々問題視されてきた。筆者の独断も入れて箇条書きしてみる。
@出雲臣氏は、天神系の神別氏族である。それが何故地祇系の中心的神である「大国主命」を祭神とする出雲大社の祭祀者であるのか。
A出雲臣氏の本貫地は古来出雲国意宇郡とされている。意宇郡と杵築の出雲大社のあるところは離れている。意宇郡には同じく出雲臣氏が祭祀した出雲国で一番格上とされている
熊野大社(祭神は素戔嗚尊とされているが、異論もある。)がある。国譲神話で天日隅宮の祭祀者として「天穂日命」がなったことは、記録に残っている。しかし、熊野大社の祭祀者に出雲臣がいつなったかを記録したものがない。熊野大社社伝では崇神紀の「厳神之宮」がそれであるとしているらしい。これは659年斉明朝に「出雲厳神之宮」を修復の記事があるが、これは熊野大社のことであるという説と連動した説であろう。
B杵築大社がある出雲郡には東出雲の意宇郡の出雲臣氏とは異なった勢力があったことは
色々な遺跡などからもはっきりしている。
C2代武夷鳥の子供の世代から出雲氏は分派が発生している。この後武藏氏になっていく
出雲建子は伊勢国風土記にも登場する伊勢都彦と同一人物とされ、出雲氏の東国への移動の原点になっている。となると系図上では3代ー11代まで一人づつしかいない。
出雲大社は誰が奉祭したのであろうか。
D記紀の崇神紀ー景行紀に記された記事と本系図との整合をとると、出雲振根が大和に対抗した勢力、飯入根らが大和に協力した勢力である。振根が西出雲勢力・飯入根が東出雲勢力を表している。とすると振根の前に西出雲にいた人物は誰か?この系図だけでは不明である。
E天穂日の裔が大国主を初期に祀ったのは意宇の熊野大社であったのではないか、との説もある。筆者には釈然としない説。
F出雲が統一されたのは、この飯入根の時・子供の氏祖の時辺りと考え、この頃出雲国造に大和王権より任じられたという「旧事本紀」の記事と上記「記紀崇神紀」とは、整合するとの説あり。
Gこれ以前はどうなっていたのか。西出雲の杵築大社を祭祀していた出雲臣氏と、東出雲の熊野大社を祭祀していた出雲臣氏が両立していた可能性が否定出来ない。
Hこの系図ではそれが不明である。
I出雲国造家が10崇神頃以降西出雲の杵築大社の祭祀者になったことは認めるとして、それ以前も出雲臣氏の血脈であったろうが、それ以後とは異なる本来の嫡流みたいな一族があったのではなかろうか、その最後の人物が出雲振根ではないだろうか。
飯入根を振根の弟としているが、これは実の弟ではないのではないか。
この辺りの系図が色々あるのもこれらのことを隠蔽するための細工がされたか又は伝承の間違いがあったからではなかろうか。
ところで、前述まで「出雲大社」(いずものおおやしろ・いずもたいしゃ)と記してきたがこの呼称は比較的に新しいのである。明治以降(明治4年に杵築大社を出雲大社に改称)、大正末ごろからこの呼称が一般化したようである。それまでは杵築大社(きつきおおやしろ)と呼ばれていた。勿論古来色々な名前があった。元々の名前は、日本書紀では「天日隅宮(あめのひすみのみや)」「厳神之宮(いつくしのかみのみや)」「出雲大神宮(いずものおおかみのみや)」など。古事記では「出雲石同之会宮」「天之御舎(あめのみあらか)」、出雲国風土記では「天日栖宮(あめのひすのみや)」「所造天下大神宮(あめのしたつくらししおほかみのみや)」、大社志では「杵築大社」、享保集成総論録では「出雲国大社」、延喜式では「杵築大神宮(きづきのおほやしろ)」釈日本紀では「杵築宮(きづきのみや)」などである。
それでは、この出雲大社の創建はいつであろうか。これは未だ謎である。少なくとも8世紀には存在していたとされている。
記紀神話
・国譲神話の時、大国主命を天日隅宮に祀り天照大神の御子である「天穂日命」が祭祀者となったと記事あり。出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に造った。
出雲国風土記
・出雲国杵築郷、八束水臣津野命の国引き給いし後、所造天下大神(大国主)の宮奉へまつらん。云々の記事。
・意宇郡母里郷、「我が造りまして、命らす国は、皇御孫命、平らけく世しらせと依さしまつらむ。但、八雲立つ出雲国は、我が静まります国と、青垣山廻らし賜ひて、玉珍置き賜ひて守らん。」(大穴持命の言葉)
・神魂命が「天日栖宮(あめのひすのみや)を高天原の尺度で所造天下大神の宮として造れと述べた。」と言う記事。
記紀記事
・11垂仁天皇の夢の中に大国主が現れ、「我宮を天皇の御殿と同じくらい立派なものを建造するなら御子(本牟智和気命)の口がきけるようにする」と言われ、天皇は出雲の地に「菟上王」らを派遣して宮を営むと、御子の口がきけるようになった。
云々の記事。 鰐淵寺旧記
・598年に現平田市に創建されたとされる。この寺の伝記に12景行天皇の時代に32丈もの高層神殿があったと記されている。
日本書紀
・659年(斉明朝)出雲国造に国が命じて「出雲厳神之宮」を修復。の記事。
これは熊野神社のこととする説あり。(京大福山教授ら)
源 為憲 著「口遊(くちづさみ)」(970年頃)
・「雲太(うんた)和二(わに)京三(きょうさん)」の記事。これは当時の建物の大きさの順番を言ったものとされている。1番が出雲国城築明神の神殿。2番が大和の東大寺大仏殿。3番が京都の大極殿である。とした。
出雲大社社伝
・11垂仁天皇の時第1回目の造営。37斉明天皇の時が第2回目の造営としている。
いずれも共通して言えることは、「天神」サイドに立つ者が命じて「地祇」の大国主を祀る宮もしくは社を造ったということである(風土記だけ一寸ニアンスが異なるが)。
一番古く考えれば崇神朝以前の神代であり、遅くても8世紀頃には、とてつもない大きな建物が出来ていたことになるが、学者方はそう簡単には結論を出していないのが現状である。筆者も別の意味で結論が出せないでいる。 記紀神話類を信用すれば、崇神朝よりさらに数百年前神代には既に天穂日命が祭祀者として大国主を祀る天日隅宮がなんらかの形で存在していたことになる。それを裏付ける形で出雲臣氏の系図がある。上記したように、天穂日命を祖神だとすることにして、実際には、杵築大社を造り大国主を出雲臣氏が祀りだしたのが崇神ー垂仁頃だと仮定すると、天穂日から飯入根頃までの系図はどうなるのか。これも天皇家系図と同じく根拠のない創作として排除していいのであろうか。
系図と記紀神話から判断するとその規模は不明であるが西出雲の杵築の地に大国主を祀った何かが(出雲大社の原点)あり、その祭祀者が後の出雲臣氏でこの地方の統治者でもあったろうと思う。それを受けた形での記紀記事であろう。いやそうではない。これ自体が創作であるというのが、現在の通説のようである。
実証出来ないから史実ではないとするなら、大多数の古代のことは、史実ではないことになる。現実は実証出来ない事の方が遙かに多いと思う。ここに発掘考古学と文献史学と
総合判断力が必要なのではなかろうか。戦後の記紀批判、実証されるとこまで安易に年代を繰り上げる(新しくする)ことこそ科学的だという風潮に何か危険なものを感じる。
解明出来ないことは、それとして後世に残していくことも、学者の使命ではなかろうか。
筆者は現時点では、大和地方の各種発掘・解析などから、大和王権誕生が崇神天皇頃(3世紀後半ー4世紀初め頃)という説に納得している。
しかし、出雲の話は別である。これはこれでさらなる考古学的発掘などの進展の様子を見る必要があるように思える。それ程出雲の神々の問題は、日本人の根っこにあるような気がしてならない。(神庭荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡などの解析も未だ不十分)
話は変わるが、三輪氏考の中でも触れてきたが、三輪氏云々は別にして、「三輪山信仰」は、弥生時代から神が宿る山として、自然神信仰の対象であっただろう、と多くの学者も認めている。これは色々な発掘物によっても推定されている。ここは地祇の大物主神の地でもある。後世になって大物主と大国主は習合されたようだが、初期大和王権が誕生する前から、この大物主神信仰は存在していたのである。弥生人が大和に入って来る以前から三輪山は、自然神の甘南備であった。そこに先行して来た弥生人の神「大物主」が習合して、三輪山信仰は存在していたと筆者は理解している。これを祀ってきた中心氏族を多くのアマチュア古代史ファンは、出雲神族の末裔としてとらえている。出雲神裔系図に大物主が載っている。記紀にも色々記事がある。記紀の崇神紀には「倭大国魂」という別の地祇も登場する。また天照大神の原点的な話、伊勢神宮に関係する話もある。出雲神宝の話もある。
「天神」系の出雲臣氏の元祖天穂日が「地祇」の総元締め的存在である「大国主」を祭神として祀るにはそれなりの理由があるはずである。
ここで本稿の1)でも触れたが天神と地祇について再度触れておきたい。
出雲大社宮司である千家尊祀はその著書の中で「天神とは高天原から天降られた神、ならびにその系統の神のことであり、地祇とは、もとからこの国土に土着の神のことである」と、記している。
「太田 亮」はその著「姓氏大辞典」の中で出雲神族を「出雲を中心として本州の西半、四国九州の北部にわたり勢力を奮ひたる強族にして、記紀の神話の伝ふる処によれば、イザナギ、スサノヲ命より大国主命に至り全盛を極めしが、天孫降臨せらるるに及び所謂譲国して大和に移り、三輪山を中心とする三輪氏族となれり。」と記している。
一方「出雲臣族」は。「出雲神族にかわりて出雲地方を治めし豪族たるなり」と記している。
「水野 祐」は、上田正昭編「古代を考える『出雲』」の中で次のように記している。
ーーー以上の諸伝承を勘案してまとめると、まず出雲の豪族が出雲一国を統合支配するにいたったのは四世紀初頭で、その頃までに東出雲の意宇を中心とする出雲臣族が、南出雲の鉄器文化(新羅系)をもつ須佐部族と協同して、西出雲の杵築を中心とする出雲振根の勢力と対抗し、統合の戦を繰り返していたが、西出雲の杵築部族は北九州の宗像君族と協同し、東出雲の意宇の出雲臣族は原大和国家に服属して、統合の戦を展開した結果、東出雲が出雲を統合した。こうした弥生時代を通じて、出雲でも統合のための戦がつづいたが、この出雲国内での統合のための動揺につけこんで、日本列島の統一をめざした原大和国家の西進運動は、吉備を統合した余勢をかりて一挙に出雲に進出し、対抗する振根を、親大和勢力を代表する飯入根・甘美韓日狭・鵜濡渟(氏祖命)を支援して出雲の統一を完成させるという、原大和国家と出雲との一連の政治史的事件を反映した伝承として理解すればよいであろう。−−− と記している。また東国における出雲系国造が多いことについてもこの意宇郡を本貫の地とする出雲臣族が5世紀以降日本各地に移住定住したことを意味しこれも神話伝説に反映されていることを示唆している。とも記している。
記紀の国譲神話は何らかの史実を反映しているものとして昔から現在に至るまで色々議論されてきた。筆者なりに理解した範囲で主なものを紹介したい。
前提T:記紀神話は出雲地方に記紀編纂時以前から民間伝承されてきた多くの個別の神話の類を基盤に、大和王権側で大王家に伝わる伝承・天神系豪族などに伝わる伝承などとも合体し、整合をはかり、体系化、王権側に都合の良いように創作された神話の部分が多い。
しかし、その中には幾つかの史実を反映したものもある。
前提U:出雲風土記と記紀神話を比較検討することは重要である。出雲風土記は政治的配慮が比較的に少なく元来の出雲地方に伝承された神話的因子が多い(だから史実だというのではない)。
・出雲風土記には「素戔嗚尊」は渡来系(新羅系)の製鉄の神として記され、伊弉諾尊の子供であり、熊野大社の祭神(異論あり)となっている。一方「大国主神」はスサノオの娘婿であり、大国主こそ出雲国を造った神という位置づけがされている。大国主の国譲り神話・天穂日命・天日隅宮(出雲大社)の話もある。但しスサノオの高天原での乱暴狼藉の話、天照大神の話・八岐大蛇の神話などは無い。天穂日命も記紀のように役立たずの神扱いはしていない。記紀神話に全く登場しない多くの出雲独特の神々が記されている。
この神々の総元締め的神が「大国主神」となっている。
前提V:出雲地方だけでなく北九州・近畿・中部地方などから多くの青銅製祭祀器・矛・剣などが出土している。これは出雲を含んだ文化圏が存在していたことを意味する。
これは大和王権の誕生以前の弥生時代の遺物である。
前提W:後に地祇と称される神々は、それぞれの地方に大和王権が誕生する以前から既に出雲系の神々と習合した形で民衆に信仰されていた。(この前提は一寸怪しいか)
説1)弥生時代、日本の或る範囲に勢力をもっていた集団がいた。それが「出雲神族」という言葉で表される集団である。その象徴的中心人物が大国主命である。(これが具体的に存在していた特定の人物というのではない)この大国主で代表される勢力圏に新たに天孫族(天神族)の勢力が入ってきた。これは渡来系の民族集団である。この集団は鉄器などの新技術を有し、文化的・政治的・軍事的にも断然優った集団であった。
これを知った大国主勢力は軍事衝突を出来るだけ避ける形で新勢力に主導権を渡していった。このことを暗示するのが国譲り神話である。
説2)神話に記された葦原中津国は列島範囲に及ぶものではなく、出雲文化の中心である出雲国だけの話である。スサノオも天降ったのは根の国即ち出雲である。
説3)この国譲りというのは「大和地方」のことである。出雲から色々文化が大和に波及したことは認めるが、その文化が発展したのは大和地方である。この大和地方に天神族が侵入してきた。この地方にいた出雲神族を中心とした、旧勢力は、象徴である大国主を大和から遠い元々の出身地である出雲国に遷し、そこで祀ったのである。ということを暗示している。
説4)出雲国に独特の文化があったことは認める。しかし、列島規模の国を支配するようなものではない。この神話部は、10崇神天皇ー12景行天皇紀に記されている出雲国内での一種の内乱を大和王権の力によってその統治下にしたことを暗示している。
説5)これは先行弥生人集団(新羅系出身中心?)が列島全体に縄文人と融合して弥生文化を普及させてきたが新たな弥生文化を持った新興弥生人集団(百済・任那系出身中心?)が、時間をかけて日本列島に進攻していく様を象徴的に表現した話。よって具体的に出雲地方とか、大和地方のことを国として譲ったという事ではない。これを記すことにより天孫族(天神族)の正統性・優位性を主張したのである。
など、諸説あり。勿論神話自体は、史実と何等関係ないとする学者も多数いる。
<筆者のアマチュア的独断的見解>
@古代では自然神・祖先神・守護神など自然発生的な原始信仰的神が民衆の間では中心であった。それぞれの地方にそれらの神に関与する祭祀者がおり、その地方の政治的支配者になった者もある。
Aスサノオも地方神の一人である。しかしこの神は列島内で発生した神ではなく、朝鮮半島からの渡来人(後の新羅系)が持ち込んだ神である。一方大国主神で象徴される神々は列島で生まれた神(自然発生神)である。これが出雲の地で義理(出雲風土記)ではあるが親子であるという神系譜で繋がった(参考系図参照)。このことが、スサノオを祭神とする熊野大社の方が子神である出雲大社より常に格上の神社扱いを受けた由縁かもしれない。出雲風土記の頃にはそうなっていた。後になっては、スサノオは天神扱いになったので大和側の配慮が働いたとも言える。
B一方弥生時代前半での青銅器祭礼の列島中部地方以西への普及(青銅器文化圏)にともない出雲の神々(単なる自然神ではなく人格神的文化は、新羅あたりから渡来した文化であろうと言われている)もこれに付随?して民衆に普及した。元々あった原始的神々もスサノオとかオオナムチなど出雲の色々な人格神たちと習合していった。その中で最も人心を引きつけた神が大国主神(各地、役割などで名前は異なるが)であったろう。神の中の神的扱いになった。勿論この頃は天神系の神々は未だ列島内には普及していない頃の話である。
C新たに弥生時代後半になって新文化・技術を持ち、政治的・軍事的にも優れた集団が列島に渡来し、時間はかかったが、徐々に九州から大和地方へと進攻してきた。その仕方は旧勢力と融和をはかりながら婚姻などを通じ双方混じり合いながらであった。
ところが、既存勢力を真に支配していくことには難問があった。
精神・信仰・祭祀的問題であった。新興勢力と旧勢力で信じる神・守護神が異なっていた。支配者は祖先神を祀ると共に天候・農業・自然現象・海・山の神々などの既存の民衆が信じている神々も大切にする必要があった。その為には既存の神々の中の象徴的な神である大国主神との融和をはかる必要に迫られた。
Dこの一つの象徴が記紀神話の神譜である。これがいつ頃創られたのかは不明である。基本部分は最終的には欽明朝頃だといわれているが 。この神話のポイントは、「素戔嗚尊」である。本来なら天神ではない。地祇である。しかし大和王権が民衆の真の支持を得るにはどうしても出雲系の神々の力を借りなければならない。記紀の神系譜は色々細工はしてあるが、この素戔嗚尊を天神系に持ってきたことが最大の工夫である。
その背景には彼が系統は異なるにしろ朝鮮半島に出自がある神であったからである、と筆者は推論する。元々はその他天神と同じ「天(朝鮮半島)」から来た神で同祖扱いにしたのである。
Eところが新勢力の神々と同一扱いは出来ない。そこで記紀神話の高天原神話の中では、血脈は天照大神と対等な最高の貴神であるとしたが、扱いにくい極悪神として扱い、根の国(出雲)へ追放してしまった。追放された天神にしたのである。
F一方出雲では、元々スサノオの娘婿が大国主という神系譜があった(風土記神系図参照)。大国主は、代表的な地祇である。これと「天神」の娘(スセリ姫)が結ばれた形にしたのである(記紀では大国主はスサノオの裔としている)。古事記では大国主の祖父に淤美豆奴(おみずぬの)神がでてくる。これは風土記の出雲創世神「八束水臣津野(やつかみずおしつぬ)神」と同一神であるという説もある。これも古事記が出雲神話を取り込んだのであろうか。(参考系図:素戔嗚尊・大国主神系図及び風土記系図)
こうすることにより新興勢力の神々と旧勢力の神々は結ばれたことになると形を整えたのである。
Gこの具体的融和策の現れが「1神武天皇」や「2綏靖天皇」の「后」が大国主の血脈である地祇系の神の娘であるとしたのである。崇神ー垂仁ー景行紀に記された出雲関係の話の裏にも、この出雲の神々に対する恐れと畏敬の念とこれを大和王権のコントロール下に置くという思想が見え隠れする。国譲り神話は実は大和側の出雲の神々(地祇)への協力を取り付けたという意味が込められている。それが天神である天穂日が地祇である大国主を常にお祀りし、どうかこの新しい国をお守り下さいと頼んでいるかたちにしたのである。出雲の国の勢力が怖かったのでもなく、出雲の国を征服云々とは違う概念であると判断している。出雲の神々の力即ち民衆一般の精神性を自分らの統治に役立てようとしたのである。これがいつ頃大和王権創作の記紀神話に入ったかは分からない。6世紀の欽明朝頃には既に入っていたのではなかろうか。
H新羅臭の強い青銅器文明をもった広範囲の列島に支配力をもった出雲を中心とした王国的なものが弥生時代に存在していた、とする説には現段階では与せ無い。但し、縄文時代からの自然神・弥生時代に発生した地域神を習合した「大国主神」など出雲に中心をおく神々を信奉する住民が、日本列島の相当広範囲にいたことは間違いないであろう。出雲はその神々の聖地であった。これは大和王権誕生以前の3世紀にはそのようになっていたと推定している。
出雲風土記の意宇郡母里郷での大穴持命の記事はまさにこのことを言っているのではなかろうか。即ち、出雲以外の国々は天孫に譲るが出雲は自分が住む所なので譲らぬ。と言っている(上述)。即ち出雲は神の国である。聖地であるとなっている。これと似た記事は
日本書紀一書にもある。国土の問題ではなく、天神系の神々の犯すべからずの神域の問題。
この出雲神信仰は、大和王権が誕生してから後にもさらに普及拡大したものと推定される。このことが大和王権側としては、その力を無視出来なかったのである。
よって、記紀にわざわざ詳細に神話・記事を書いたのである。この一部は史実を反映し、一部は創作と判断する。以上が出雲神話・国譲り神話・記紀記事の背景に関する筆者の見解である。
<出雲臣氏に関する筆者の疑問と推論>
出雲臣氏元祖「天穂日命」が歴史的に先に存在したのか、出雲国譲神話が先に出来たのか、記紀神話はいつ出来たのか、堂々巡りの疑問が解けないでいる。
合理的には先ず記紀神代に登場する神々に関する伝承があり、それを繋ぎ合わせたのが記紀神話であり、その中に国譲り神話があり、そこに出雲臣氏の祖であった「天穂日」が出てくるのであればいたって分かりやすい。実際はそうではないと考えられるから複雑で分かり難い話になっている。
筆者の推論を一つを紹介したい。
・先ず出雲神話が断片的に存在していた(弥生時代から)。ここに素戔嗚尊・大国主神の原型がある。
・高天原神話の原型みたいなものが原初天皇家にもあった。(4−6世紀)
・天皇家が勢力を伸ばす段階で高天原神話も出雲神話の原型を取り込み自分らにとって都合の良い新規な神話体系を創作していった。(6世紀)
・この段階で天神系と地祇系の区別を明確にした。新たに天神系の神々の再配置を行った。
・天照大神がどの段階で天孫系のトップに配置されたかは、諸論あるところである。
・この頃に天穂日命なる神が創作?され系図的配置がされた。素戔嗚尊の役割の創作、国譲神話の創作の際、天穂日命の役どころが決まった。(6−8世紀)
・一方弥生時代から出雲地方には、色々な小さな地方豪族がいた。勿論この段階では、それぞれの豪族は出雲風土記に登場する独立神を含む色々の祖神を祀っていたかもしれない。これらの中の一つに意宇郡を本貫地とする後の出雲臣氏の祖先もいた。(一説では、出雲風土記に登場する独立神「野城大神・能義大神」が出雲臣氏の祖神で後世「天穂日命」と同一神扱いになったとある)
・出雲臣氏は徐々に出雲の地で勢力を増してきた、ある段階で、出雲神族の信奉する出雲地方だけでなく列島一円にその信奉者を得てきた「大国主神」を自分らが出雲で陣地を張っていく守り神として、祀るようになった。同時にその神の全国規模の主祭権者的地位を
築いた。
・その後この氏族は出雲内の諸氏族とも争ってその地位維持をはかってきたが、吉備氏が一時出雲西部に勢力を張っていたことは、古墳遺跡から史実として認められている。15応神天皇から雄略朝にかけて吉備氏は衰退したと考えられる。筆者は21雄略天皇の頃意宇の出雲臣氏が出雲郡も統一したと推定している。さらに大和で樹立された大和王権との融和策の道を選んだ。そして遂に大和王権の配下に入って国造職を拝命したのが6世紀初め頃とみる。(後述)
・大和の豪族がそうであったように自分らの氏族の出自を明確にする必要性が生じた。
・ここで6世紀中頃、大和の天皇家が創作した天神系図の中の「天穂日命」を自分らの祖神としたのである。これはそう簡単ではなかったはずである。何故なら、単なる天神ではない。天皇家に直に関係する神である。
・この振り替わり条件の一つが、自分らが祀っている全国の出雲の神々の総帥である大国主神の扱いと、記紀神話の国譲神話である。あくまで形だけの問題であるが、これにより
出雲臣の立場は明確になり、朝廷側も格好ができたのである。
・出雲臣氏の現存したであろう祖先は、多くの古代豪族がそうしたのと同じような過程を経て、自分らの出自を記紀神話国譲り神話に連動した形で大和王権に認められた体制を整えたのである。これにより伝承された系図との整合性をはかったのは当然である。
上述の合理的な話の全く逆の順序で「天穂日」を元祖として仰いだのである。これは他の古代豪族と同じやり方だったのである。
●出雲臣氏は、大和の多くの古代豪族とは異なり、弥生時代の昔から出雲の地におり、発展してきた地方豪族である。出雲神族と言われる氏族ではないが、出雲の神「大国主神」の全国規模の主祭権者としての地位を有し、その中心的神社である杵築大社を代々護ってきた。この力(列島全体にわたる信仰)は計り知れないものであったので、大和王権は、
その国誕生の神話の中で天皇家と直に関係する「天穂日命」なる神を出雲臣氏の祖神とすることを認め、国譲り神話の中に登場させ、両者の融和をはかった。よって大社系図のある時代以前のものは、実際は不明であるが(弥生時代からの氏族であることは間違いない。天皇家も崇神以前の系図は不明である。)、創作として、天穂日命と結びつけられたのである。
次の疑問は、出雲神族と言われる元々から出雲にいた氏族は、何故祖神である素戔嗚尊・大国主などを出雲の地で祀らなくて、大和の地で三輪氏となって大三輪神社を大和王権守護神として祀ったのか。
これには、出雲神族の主流は、かなり早い時期に出雲から大和地方に移動していた。という説(青銅器祭器などの遺物から)を仮に採用しておきたい。
次は、一部前述したが、出雲臣氏が国造になったのはいつ頃からかの問題がある。
人物列伝でも記したが、旧事本紀では崇神朝に天穂日命11世孫宇賀都久努(うがつくぬ)が賜ったとある。これも現在では疑義ありとなっている。出雲大社ではこれを根拠に初代国造は、「氏祖」(宇賀都久努)と呼んでいる 。ところが、允恭天皇朝説、反正天皇朝説などある上に出雲国が統一した時期が学者間で意見が分かれている。
また大和王権に服属した時期も異論百出の感がある。
門脇禎二は「古代出雲」(講談社2005年)の中でイツモ国王が出雲国造の官位に就くのを受け容れた時期は、6世紀末ー7世紀初期であるとしている。
この問題は大和王権がいつ頃日本を統一したかに関わる話で迂闊なことはいえないのであろう。これと記紀神話との関係を議論する学者も多い。
筆者の見解は、以下のとうりである。
@出雲臣氏は意宇郡にいたのか、出雲郡杵築にいたのかの問題も未だ謎である。
諸説あるが、筆者は意宇郡本貫地説に同意する。問題は杵築の出雲大社との関係である。杵築の地に大国主を祀る何かが崇神朝頃(4世紀初頭頃)にはあったものと推定する。しかし、それが大きな社であったかどうかは結論出来ない。大和の三輪神社を王権が守護神と祀るようになったのと同時期ではなかろうかと推定する。
杵築にいた勢力は、意宇にいた出雲臣氏とは異なる勢力といわれている。なのに何故意宇の出雲臣氏が杵築の大国主を祀る社を祀ることが可能であるか。
答えの一つは、両勢力が同一血族であったとすることである。天穂日命を祖とする同一の出雲氏が杵築にもいたということである。既存の系図ではそうなっていない。相当早い段階に出雲国造氏の手によって消されたのであろう。と筆者は推定する。
その最後の片鱗が「出雲振根」ではなかろうか。記紀にもある期間大国主を祀ることが出来なかったと記されている。これが復活するのは意宇の出雲臣氏が出雲全体を統括出来ることになってからであろう。それがいつ頃かは不明だが、敢えて推論すれば雄略朝頃(5世紀後半)ではないであろうか。
A仁徳紀に記された「意宇宿禰」の記事は何かの史実を反映したものと判断。
これ以降は大社側の記録しか頼れる史料はない。筆者はこの時点では未だ出雲の統一は
されていないと判断。吉備氏の出雲西部支配はかなり長期間に及んだ。吉備氏が完全に
大和王権の支配下になるのは21雄略天皇の時代だと判断し、上記推論をした。
B吉備氏が出雲から撤退した後、やっと意宇の出雲臣氏が出雲全体を支配することになるがそれが即大和王権に付いたとは思えない。これも出雲国造神賀詞がいつから行うようになったかと連動することになる。となると、上記門脇説に近づくが、6世紀末では一寸遅すぎる感がある。三輪氏の諸活動を考慮に入れると、筆者列伝の20)布禰の国造就任516年付近が感覚的ではあるが、初代国造にふさわしい。これも踏まえて欽明朝の記紀神話基本作成へと繋がるのではないだろうか。この頃は三輪神社と出雲との関係、出雲の神々を全国的に広める活動(「巫覡ふげき」による宣教活動)も相当活発に行われていたと判断する。
C出雲国造神賀詞を出雲国造果安が奏したのは716年である。これは史実である。
これ以前から出雲国造の替わる度に行われていたと考えても不思議ではない。
これ以降の国造家の記事は比較的はっきりしている、但し親子関係は不明瞭である。
いつ頃から神賀詞が行われだしたかは、はっきりしないが、6世紀後半には始まっていたと推定される(記録なし)。
D出雲大社は平安時代頃から江戸時代頃までは主祭神が大国主ではなく「素戔嗚尊」であった時代があるようだ。これは天穂日が天神であることと関係しているのではなかろうか。地祇である「大国主」をそれまでのように畏れなくても良い時代背景があったのかも知れない。
以上が、出雲臣氏・出雲国造家に関する謎部分に対する筆者の答えである。色々の方々の説を参考にして、筆者なりの唯我独尊的推論をしたものである。
出雲氏は中央での活躍が全くと言って無いので、他の氏族の動きなどからの推論をせざるを得ない。
昭和59年(1984年)に神庭荒神谷遺跡(銅剣358本など)が発見され、続いて1996年には加茂岩倉遺跡(銅鐸39個など)が発見された。いずれも出雲西部出雲郡の範囲内である。それ以前には四隅突出型墓が東部・西部で発見されていたくらいで出雲地方ではあまり古代史に重要な影響を与えるような遺跡は見つかっていなかった。
ところがこの2つの驚くべき発見により、俄然出雲古代史に脚光が当たった。
従前の出雲神話無視説にも見直しが迫られている。
これらの銅器類が何故この地にあったのか、いつ頃ここに埋められたのか、それは何を意味するのか。考古学者・文献史学者・アマチュア古代史ファンなど議論百出している。
筆者の年表は、寺澤 薫 日本の歴史「王権誕生」講談社(2001年)の年表を参考にして紀元1世紀前半頃に埋められたとした。この説が通説かどうかは筆者には判断出来ない。
この頃にこの地にこれだけの規模の銅器類を有していた勢力がいたという証拠である。
当時としては国と呼ばれる規模の勢力だったと考えられる。これは崇神朝を300年頃と考えると、200年以上前のことになる。まさに「神世」である。
これが出雲神族と言われる氏族の原点的証拠とする説、出雲風土記の伝承された出雲の神々の原点的証拠であるという説、国譲神話の原点的証拠であるという説、神話とは全く無関係であるという説、出雲臣氏の原点とする説、などなど、全く統一見解が出せる状態ではない。
紀元200年頃には首長墓と思われる四隅突出型墓が各地に発生したが、出雲地方にも西部・東部共にある。西部の西谷墳丘墓は有名である。これらのことも合わせ出雲古代史を解明することは、大和王権誕生の問題とも連動する問題とされている。
筆者も軽々に結論が出せる話ではない。これからのさらなる発掘調査、各種解析の結果を注目したい。現段階では、これが即、出雲神国の原点とは断じ難い。但し、古代の信仰問題にもっと洞察が必要と思う。
出雲は昔も今も神の国である。出雲大社は昔も今も厳然と存在している。伊勢神宮とは異なった意味で日本人の心の故郷である。
「八雲立つ 出雲八重垣妻籠みに 八重垣作るその八重垣を 」 古事記
日本最古の和歌とされている。(素戔嗚尊作は疑問だが)
<武藏氏>考
武藏氏の出自は天穂日命の孫出雲建子命とされている。その説だと武藏氏は天神系である。
決して出雲神族ではない。この人物は伊勢風土記に登場する「伊勢津彦命」と同一人物とされている。この流れから武藏諸国の国造家の祖とされる兄多毛比命が出てこれが氷川神社社務家であり武藏国造家の祖とされている。これらの系図は氷川神社がいつの頃かに作成したものと思われる。かなり複雑な系図が残されている。
この系図で歴史的に押さえられるのは、本稿19代武藏国造「武芝」である。
10世紀に実在していた武人でもある。「将門記」にも記事がある。有名な平将門の乱はこの人物が絡んで勃発し、関東一円を巻き込んだ平安時代中期の武士勃興の端を発した大事件であった。武藏氏はその後関東の武家として色々絡んでいくがここではその詳細は省略する。武藏武芝の娘婿が、後述する同じ出雲臣氏出身の菅原氏の末裔である「菅原正範」である。
氷川神社社家を継承したのである。このように古代から、その氏族の名跡を維持するのは、
血脈は絶えたとしても何かの血脈的繋がりがある人物が嗣ぐのが通常であったようである。養子縁組・猶子縁組が複雑に絡んでこれが系図を研究する場合非常に難解な謎解きを
余儀なくするのである。本件は明確に菅原氏の系図と繋がっていたので分かりやすい。一般的にはこうはいかないのである。
6)まとめ(筆者主張)
@出雲に関する年表を表1に記した。
A出雲に関する各種疑問事項に関する通説及び筆者の見解を表2にまとめた。
B出雲臣氏の筆者が推定する真の概念系図を筆者推定系図として記した。
C出雲臣氏の元祖は「天穂日命」ではない。出雲臣氏と出雲神族は全く別の氏族である。
D素戔嗚尊は、元々は天神ではない。地祇である。天神としたのは、記紀神話の政治的創作である。
E国譲神話は、出雲の神々を中心とした地祇が一般民衆に既に広く信仰されていた列島に新たに天神・天孫系の神々が入ってくることを出雲の大国主主祭者であった出雲臣氏に認めさせ出雲の神々も新たな国を護ってくれるよう頼み了解しあったことを暗示している。
但し、出雲は聖域であり神の国と認めさせた。
F出雲臣氏が意宇郡・出雲郡を共に支配下に入れたのは21雄略天皇頃(5世紀後半)と推定する。完全に大和王権の支配下(国造任命)に入ったのは6世紀初頃と推定。
Gその後朝廷貴族らの手により記紀神話の元が創作された。この時出雲臣氏に先祖神として「天穂日命」という天孫系の神が与えられた。
(それ程出雲の神々を取り仕切る立場であった出雲臣氏は、王権側にとって重要な存在であった)
Hこの関係でその後「臣姓」が与えられた。
Iその前後から出雲国造神賀詞が国造が替わる度に大和朝廷で奏されるようになった。
J出雲臣氏はその後も出雲の神々の総元締め的存在である出雲大社の奉祭者として江戸幕末まで続いた。
K出雲の神々は現在も日本人の心の根っ子にある。それがいつ頃発生し、そのシンボルである出雲大社がいつ頃創建されたのか、神庭荒神谷遺跡 加茂岩倉遺跡などは何を我々に
伝えようとしているのか、謎は深まるばかりである。
今後のさらなる研究成果を期待したい。
(疑問事項の具体的記述は本稿5)項書き出し部にある。)
7)参考文献
・「古代出雲」門脇禎二 講談社(2005年)
・古代を考える「出雲」上田正昭編 吉川弘文館(1993年)
・「出雲」からたどる「古代日本の謎」 瀧音能之 青春出版社(2003年)
・「出雲王朝の軌跡を辿る」 安達 巌 新泉社(1991年)
・「銅剣・銅鐸・銅矛と出雲王国の時代」 松本清張編(1986年)
・「日本の神々」 松前 健 中公新書(2001年)
・「日本の神話と古代国家」 直木孝次郎 講談社(2001年)
・「神々の体系」 上山春平 中公新書(1972年)
・「続・神々の体系」上山春平 中公新書(1994年)
・日本の神々の事典 薗田稔・茂木栄 監修 学研(1997年)
・日本の歴史「王権誕生」寺澤 薫 講談社(2001年)
など
(2007−3−3脱稿) |
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