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16.越智氏考
1)はじめに
 筆者の故郷である広島県尾道市近辺(三原・福山・瀬戸内島嶼部)には、村上、三島という苗字の家がやたらと多い。越智、土居、河野という苗字も結構ある。
京都乙訓地方ではあまり出会わない苗字である。
これらの苗字の発生源が古代豪族「越智氏」である。
越智氏は7孝霊天皇を元祖とする「皇別氏族」に分類されている。(新撰姓氏禄)
前稿の「吉備氏」と兄弟氏族である。しかし一方では「饒速日」を元祖とする物部氏が越智氏の元祖であるという説が併存している。(旧事本紀)
越智は元々、「小千」「小市」「乎千」などとも記され国造家に端を発するらしい。
四国の伊予国越智郡に勢力の中心をもっていた氏族である。奈良時代以降越智郡の郡司としてこの地方に勢力をはっていた。
大三島大山祇神社を奉祭してきた氏族である。
この神社の由緒によると、神武天皇の東征以前に大山積神の子孫である「乎千命」が四国に渡り、瀬戸内の治安を司って芸予海峡の要衝である御島(大三島)を神地と定め鎮祭したことにはじまると伝えられている。
この神社には筆者も何度かお参りしたが、現在は「しまなみ海道」の開通により大変賑わっている。
島にある神社としては、日本で最も大きく立派な神社だと思う。
天然記念物の大楠木が境内の真ん中にあり、樹齢数千年と言われている。
 さて越智氏は歴史上大和王権誕生に関与したかどうかは不明である。
記紀にもほとんど記録が残されていない。系図上の越智氏関連は多少あるようだが。
即ち天皇家・中央政権とは、ほとんど関係ない地方豪族として勢力を永続した数少ない氏族の一つである。
記録にはっきりしてくるのは、平安時代の藤原純友の乱(936年)に「伊予水軍」として朝廷側として参画し、功を挙げたとされる。
この頃には押領使として武士化していたらしい。
当初は平清盛の傘下にいたらしいが、やがて源氏に従い、平安末期の源平合戦・承久の乱・弘安の役などに河野水軍、村上水軍の名で登場する。
その後、越智氏の主流となった河野氏が、伊予守護大名となり活躍するが、やがて長宗我部氏や安芸の小早川氏らに滅ぼされ、豊臣秀吉時代には、歴史上からは消える。
 越智氏出身の主な氏族としては、後に「楠木正成」を輩出することになる「伊予橘氏」(これに関しては異説多数あり)
大三島大山祇神社社家「三島氏」、村上水軍で有名な「伊予村上氏」、戦国時代から江戸時代にかけての稲葉氏・林氏、一柳氏・久留島氏。(大名家)などである。
土着氏族としては、新居氏、土居氏、別府氏、矢野氏、忽那氏、八塚氏、重見氏、今岡氏二神氏、などなど多数あり。
越智氏を祖とする歴史上の有名人
・一遍上人(時宗開祖)
・正岡子規
・伊藤博文
など。
これ以外の地方にも多くの豪族が古い系譜を残しながら、存在していたが、越智氏は中央には殆ど関係なかったという意味、かなり詳しい系図が公知にされて残されている点では、代表的な地方古代豪族の一つである。
この系図検討は非常に興味ある課題である。
ところで「しまなみ海道」が開通したのは1999年である。これは本州側は、尾道市が始点で「向島」「因島」「生口島」「大三島」「伯方島」「大島」などを橋で繋ぎ、四国側は、今治市が終点である。
正に伊予村上氏の割拠した島々を通過している。この中の大島が能島(現在:愛媛県越智郡宮窪町)であり、村上氏の本拠地である。
大三島には越智・河野氏が奉祭する伊予一宮「大山祇神社」がある。
因島村上氏は一時「向島」もその領地とした。「百島」(現:尾道市)、「田島」も村上氏の島である。
このルートにないのが「来島」である。この島は今治市の沖にある周囲850m、現在の人口は僅か49人の小島である。ここには現在来島村上氏の城跡があるのみである。
この島から江戸時代の大名家久留島氏が出た。
この伊予村上氏は、越智氏とは厳密な意味では異なる氏族であるが、非常に密接なる関係があるので一緒に論考するものとする。
(参考)
越智氏を語る時、避けて通れないのが大三島に坐す「大山祇神社」である。
この神社がいかなるものであるか、紹介しておく。
<大山祇神社>
●所在地:愛媛県今治市大三島町宮浦
●祭神:大山積神(和多志大神、三島大明神)
古事記「大山津見神」風土記「大山積神」
日本書紀「大山祇神」と記され、現在は神名「大山積神」神社名「大山祇神社」と分けて記されている。
・その他祭神:岩長比売、木花開耶姫、
●祖神:饒速日尊、又は伊予皇子
●神格:全国の山祇・三島神社約11,000社の総本社。
日本総鎮守(平安時代朝廷より下賜)。延喜式名神大社。
伊予国一宮、伊予国総社、国幣大社(四国で唯一の大社)。
●境内:66万m2(約20万坪)神域:約4万m2(約12,000坪)
●宝物:国宝8件  重文75件
●天然記念物:大山祇神社楠木群(樹齢約1,500−3,000年?)
●由緒:@山の神、海の神、戦神、武運長久の神
Aこの地への鎮座由来:諸説ある。
・大山祇神の子孫「乎千命」がこの地に築いた。
・静岡県三嶋大社から分霊した。(三嶋大社が、大山祇神社の分社であるとの説もある)
・朝鮮半島から渡来した神。
・大阪三島江から移動した。(一般的)
B四社詣(大山祇神社、出雲熊野大社、厳島神社、宇佐神宮)
五社詣(さらに太宰府天満宮)の中心的神社。
C伊予風土記「御嶋、坐す神の御名は大山積の神、一名は、和多志の大神(海上安全守護神)なり。是の神は、難波の高津の宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此の神、百済の国より度り来まして、津の国の御嶋に坐しき。ーーー御嶋というは、津の国の御嶋なり。」古来から山神と同時に海神でもあった。
D大三島記文「仁徳天皇の御宇に、乎知命が祖神・大山祇命を祀った」
E三島宮社記「推古2年大三島の南東部瀬戸に鎮座し、大宝元年現在地へ遷座。16年の歳月をかけ社殿を造営。719年遷宮の儀が執り行われた。」
F社記「和多志大神と称せられ、地神、海神兼備の霊神で日本民族の総氏神として、古来日本総鎮守と御社号を申し上げた。大三島に鎮座されたのは、神武天皇の砌、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り、瀬戸内海の治安を司っていたとき、芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮座したことに始まる。−−−本社は、社号を日本総鎮守、三島大明神、大三島宮と称され、歴代朝廷の尊崇、国民の崇敬篤く、奈良時代までに全国津々浦々に分社が奉斎された。ーーー」
G小千命は、15応神天皇の時代、今治地方が小千と奴麻の二国に統一されたとき、小千国造として最初に下向した。これが小千(乎致)という人物である。
この小千が大山祇神社を創祀した小千命の末裔であり、小千族は、大山祇の子孫、同時に饒速日尊の末裔であるという説がある。関連神社として勝岡八幡宮(松山市)、大浜八幡宮(今治市)があり、今治市馬越には乎致命の墓とされる「鯨山古墳」(愛媛県史跡指定)がある。
1579年に書かれた三島大祝越智安任の手記に「小千御子墓在馬越邑」と記されてあるらしい。
●年表
伝594年大阪高槻市三島江から大三島瀬戸に移る。
伝701年現在地(宮浦)に移る。
伝719年遷宮の儀。
1322年戦火に遭い本殿、拝殿焼失。
伝1378年(1575年)本殿、拝殿再建
1534年大三島合戦、鶴姫戦死。
伝1607年(1602年)拝殿建築。
●社家
大山祇神社所蔵文書によれば、社家は三島大祝家と呼ばれ、伊予小市国造の越智氏の後裔であり、越智郡少領武男の孫玉興が越智郡大領となり、その弟玉澄の子供にあたるとされる「安元」が、三島大社(大山祇神社)の初代大祝となったと伝える。以後現在までこの一族が社家として神社を祀っている。(諸説あり)
 
2)越智氏関連人物列伝
 越智氏・河野氏の主流を中心に主要人物のみ記すことにする。他に伊予橘氏、伊予村上氏などにも若干触れるものとする。代数は直系で記したが、兄弟間で名跡が引き継がれることも多々あったようで系図上での代数とは異なる表示をしてある。
 
2−1)彦狭島命
@父:7孝霊天皇 母:蠅伊呂杼
A第3皇子、兄弟:稚武吉備津彦 大吉備津彦など
別名:伊予皇子
B越智氏祖(新撰姓氏録、記紀)。但し伊予国に来たことを記した文献などないとされている。
 
2−2)越智皇子
@父:彦狭島 母:不明一説では和気氏女
A別名:小千御子
小千御子の子が越智皇子であるとの説もある。
 
2−3)天狭貫
2−4)天狭介
 
2−5)粟鹿
@父:天狭介
A物部氏系小市国造家「若伊香加」に養子として入った。
 
参考)
既稿「物部氏考」系図を参照   (旧事記)
物部大新河(11垂仁時代)ー大小市(13成務天皇時代)ー小市国造小致(15応神時代)ー若伊香加
・旧事記によると、15応神天皇時代に今治地方は小千と奴麻の2国に統一された。小千国造として最初に下向してきたのが「小千命」である。これが小千(乎致、小致とも書く)であろうとされている。小千は、現今治市大浜に居を置き、小千国(現;越智郡、今治市東伊予)を開拓。松山市「勝岡八幡宮」今治市「大浜八幡宮」に祀られた。
今治教育委員会では鯨山古墳を「小千命」の墳墓としている。
この「小千」と大山祇神社の創建者と伝える神武天皇東征以前にこの地に来た「小千命」という人物とどういう関係にあるのかは不明。大山祇神社が祖神として「饒速日」を祀ってあることから物部系の人物であった可能性が高いとされているが。
・越智氏が物部氏系であると言われる所以はこの辺りにあるらしい。
 
2−6)三並
14仲哀天皇の熊襲征伐の時功績との言い伝えあり。
2−7)熊武
小市直姓となる。神功皇后の新羅征伐に功績との言い伝えあり。
2−8)伊但馬
15応神天皇の頃活躍、日振島と関係の言い伝えあり。
2−9)喜多古
16仁徳天皇の時新羅と交戦の言い伝え。
 
・高縄
@父:喜多古
A大浜八幡宮を創建とされている。
「喜多古」の後の越智氏の当主であったらしい。その子供に当主は移らず弟の「高箕(高海)」になったらしい。
B21雄略天皇(?−479)の頃の人物。
 
2−10)高海(箕)
2−11)勝海
2−12)久米麿(丸)
 
2−13)百男
@父:久米麻呂
A兄「百里」が小市評造となる。
B29欽明23年(562年?)新羅へ出兵。戦利品を持ち帰る。
 
2−14)益躬  既稿「紀氏考」系図参考
@父:紀園益 母:不明
A兄:増太政大臣紀諸人
B越智百男に養子として入り家督を継いだ。
C越智郡大領。33推古天皇(554−628)時代。
 
2−15)武男
現東予市大明寺(実報寺)造営
異説では武男の子供が「浄江」でありその子が「玉興」とあり。玉興の後越智氏の家督は弟の「玉澄」に継がれたとある。
 
2−16)玉男
2−17)諸飽
道安寺造営。
2−18)万躬
 
2−19)守興
伊予大領。
白村江の戦(663年)に出兵。
38天智天皇(626−671)の時道後湯之町に「宝厳寺」創建。
・玉興
710年頃(42文武天皇時)伊予大領。
現東予市三芳に三島神社建立。光明寺も再建。
三島大明神に祈って海中から清水を授かったという伝説。これが河野の地名の興り。
 
・玉守
@父:守興
A次男
Bこの流から伊予橘氏が発生した。新居氏の祖とも言われている。
 
・橘実遠
@父:実連
809年正5位下に叙せられ、越智姓を改めて橘姓となった。
 
・橘(楠木)遠保
@父:貞保?
A貞保と遠保は同一人物説あり。
B異説多数あるが伊予橘氏系図によれば、橘氏本流奈良麿の子安麿の流の成行に養子に
なったことになっている。
実保には二子があり兄は貞保、後に遠保と改名との説もある。弟は基保といい高市氏の祖。
941年伊予国警古使(純友の乱は936ー941年)になり、南海海賊藤原純友を討ち取ったとされる(越智好方も純友を討ち取ったとされている)。
遠保は橘諸兄系橘氏と婚姻関係があったものとされる。筆者系図でも明らかなように遠保は諸兄流橘安麿の流の成行の養子になっている。
橘好古なる人物は、伊予国を賜り宇和郡城主となった。との説もあるがこれは怪しい。
遠保の子孫は宇和島に土着し、その地方の在地豪族に成長し、武士化するものも現れた。
 
・楠木正遠
@父:正俊
A熊野国造家、大阿刀足尼の流「和田氏」の流
伊予橘氏系図によれば上記遠保の流から楠木氏が発生し、その楠木成氏が熊野国造家「和田氏」に養子に入りその成氏の孫が正遠である。
この正遠は橘好古の流の盛仲の養子に入っている。
この子供が楠木正成であるとされている。これは一つの説である。楠木正成の出自に関しては古来多数の説があり、謎であることは今も同じである。
 
・正成(1294−1336)
@父:正遠 母:不明
A子供は正行である。この父子こそ南北朝の一方の雄として余りに有名。
父親の血筋は越智氏の系統であるとした説に従えば以上のような系譜が公知系図として残されているのである。
 
2−20)玉澄(?−747)
@父:守興?(玉興説もある)
A玉興の弟。玉興の養子。高峠城を現西条市に築いた。
Bその後、伊予国温泉郡(風早郡)河野郷(現:北条市)土居に居を構える。河野氏を称する。河野氏の基礎を築いた人。
兄玉興が42文武天皇時伊予大領に任命された。
この兄「玉守」の流から「伊予橘氏」が発生。
C伊予北条市 「善応寺」に河野氏発祥之地の石碑あり。
D715年宇摩大領となる。
E藤原広嗣の乱(740年)で大野東人に従い乱の鎮圧に功があった。との記事あり。
F子供「安元」が大三島大山祇神社の初代大祝となった。但し異説もある。
安元は玉興の子供元興の子供である、との説。いずれにせよ、この頃越智氏が社家になった。
G玉澄も玉守も玉興の子供であるという系図多し。
 
2−21)益男
@父:玉澄
A周布(敷)郡司(天平年間)
B弟「安元」が三島大祝家を興し、以後代々この流が大三島大山祇神社の社家となった。
三島氏、高橋氏など多くの氏族が分派した。
どこから「安元」が分かれたかについては、異説多し。
C733年三島明神が現れ、勅命により、嫡子益男に国政を執らせ、次男安元に社職を務めさせた。神託により安元は「大祝」となった。とされる。
 
2−22)広成
越智宿禰姓を賜姓。
 
2−23)真勝(実勝)
西条に館。

2−24)深躬
桑村郡司 桑村に館。

2−25)興利
樹下押領使。
 
2−26)好方
越智押領使。
藤原純友の乱(939−941)で追捕海賊使、小野好古*と共に戦いこれを討つ。
伊予三郡を根拠に勢力を伸ばした。

*小野好古(884−968)
@父:小野葛絃(太宰大弐)祖父:小野篁
A弟:小野道風
B従三位、参議、
小野妹子の流(既稿和邇氏考参照)で太宰府とは代々縁深い一族。武士以前の軍事氏族。藤原純友が太宰府を襲撃したのでこれを追捕したとされる。
 
2−27)好峰
野間押領使。

2−28)安国
風早大領。

2−29)安躬
喜多郡司
2−30)元興
温泉郡司。

2−31)安家?
2−32)元家(家時)
和気大夫  
 
・為世
50桓武天皇第4皇子伊予親王(?−807)の長男で母親は家時女説あり。伊予親王の変に際し家時が親王を窃かに養育し、伊予に下向した橘清友に預けその子と称する。7才の時上洛し52嵯峨天皇后橘嘉智子に寵愛され、藤原姓を賜る。下向して浮穴郡高井里に住み浮穴四郎を称す。と言い伝え有り。
新居氏祖。
この辺りで後世の河野氏が系図を捏造したとの説強い。ここまで越智氏・河野氏が存在してきたがこの辺りで後世の河野氏が越智氏の地位を簒奪し、系図に侵入してきた可能性が高いとされている。
           
2−33)為時
為世の弟説、子供説あり。

2−34)時高
2−35)為綱
2−36)北条親孝
 
2−37)河野親経
@父:北条親孝 母:不明
A越智氏42代とされている。河野氏元祖。
B風早郡河野郷に移り高縄城に拠る。以後河野家と称しこの地を本拠とする。
C男子なく、伊予領主(国司)であった「源頼義」(988−1082)の4男「三島四郎」を養子とした。
頼義は奥州での活躍の後伊予国司になり伊予に赴任してきた。この国の任にある間、もし男子が産まれれば大明神の氏子としてこの国に残し仕えさせますと祈願して産まれた子が「親清」であった。15才の時大明神の神前で元服し、三島四郎と名乗らせた。八幡太郎義家にあやかった呼称である。とされている。
 
2−38)親清
@父:源頼義 母:不明
A4男  三島四郎日向守(通明)
実の父は源義家で祖父頼義の養子となっていたが、後に河野親経の養子になったとの言い伝えも残っている。朝廷の公式系図では頼義・義家の子供に「親清」なる人物はいない。
B妻:河野親経女
C1136年三島大明神を新造した。高縄三島神社と改称され正岡氏が神官となった。
 
2−39)通清(?−1181)
@父:親清(親清には子が生まれなかったので妻が河野家の血を残すため、密通し、大三島神社の大宮司との間に産まれた子だとの説もある)母:河野親経女
A越智氏44代。この頃から河野氏の存在が歴史上確実化される。
B保元・平治の乱において源氏に味方し、軍功を挙げる。平家物語に記録。
C以仁王の乱(1180−1185)で挙兵し、敗死。
 
・通助
@父:通清
 
・村上頼久
@父:通助
A清和源氏頼信の子村上頼清流定国流頼冬の娘に婿入り
・頼泰
・頼員(貞)
 
・村上義弘(?−1374)
@父:清和源氏頼義の子頼清流信濃村上氏流義武(伊予村上氏村上頼員説あり)
A伊予村上氏頼員の養子となった。?
B村上定国から義弘までが前期村上水軍という。
C南朝方についた。
 
・師清
@父:村上源氏北畠流北畠親房の子顕家(信濃村上氏信貞説あり) 
A伊予村上氏義弘の養子となる。
Bこの子供3人がそれぞれ能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏の祖となり、後期村上水軍として瀬戸内に君臨した。(異説あり:師清にも子供なく信濃村上氏義信の子供義胤を養子とし、その子供が3人いて上記に示したように分派したという説。師清の子供義顕の子供が3人おりそれが3島に分派したという説など)
C来島村上氏から後に大名「久留島氏」が発生した。
 
参考)
北畠親房(1293−1354)
@父:村上源氏庶流北畠師重 母:藤原隆重女
A1318年後醍醐天皇即位。その皇子世良親王の養育担当。1323年源氏長者。1325年大納言。従一位、出家。後醍醐天皇の倒幕計画には直接関与なし。建武の新政により、政治の舞台に登場。尊氏と対抗。南朝吉野に移る。
B1338−1340年頃「神皇正統記」を執筆。
C後醍醐天皇没後は後村上天皇を補佐した。
D南朝方の最大の公家政治家。
 
・能島村上義顕及びその歴史
@父:師清
A別名:雅房
B伊予守護河野氏の下風として活躍。村上水軍の惣領筋。
C能島村上武吉の活躍は有名。いずれの大名にも属することなく「海の大名」として独立した存在であった。「厳島合戦」当時因島村上氏は毛利氏、来島村上氏は河野氏の直属水軍であった。武吉の妻は来島通康女であった。厳島合戦には武吉が三村上氏を束ね毛利氏側につき陶氏を破って毛利を勝利させた。その後秀吉の時代を迎え武吉父子は海上特権を総てうしなうことになる。その後瀬戸内から排除されることになる。子孫は萩藩士。
 
・来島村上顕忠及びその歴史
@父:師清
A河野氏に直属し、瀬戸内海の治安を行った。岩城島、大崎下島の警護。
伯方島にも砦を持っていた。
B戦国時代に河野通直の娘を妻とした通康、子供通総の時河野本宗家の跡目問題発生。
C通総は河野氏を支えてきたが1579年反旗を翻し、織田陣営に入った。その後、能島・因島村上氏は毛利方に従った。一方来島村上氏だけは織田方につき、これが後に来島村上氏が秀吉より重んじられ大名家となるきっかけとなった。大名久留島氏はこの流。
 
・因島村上顕長及びその歴史
@父:師清
A別名:吉豊。備後国田島地頭
B因島村上氏は約15万石匹敵する勢力があった。
C毛利氏に接近。小早川隆景に従い、因島、向島を領有。
その後、毛利氏が秀吉に敗れ因島村上氏も備後から撤退。長門に移った。
その後因島に帰った。江戸時代は毛利氏の船手組番頭となり明治を迎えた。
 
2−40)通信(1155−1223)
@父:通清 母:不明
A妻:北条時政女(やつ)
B源平合戦で、源氏方(源義経)につき屋島より敗走する平家を追討し、軍功を挙げる。
これにより、守護佐々木盛綱の支配から独立し、一族の統率が許され、1218年伊予国守護になった。
C承久の乱(1221年)で、鎌倉幕府の処遇に不満をもっており、院に仕えていた通政らと共に上皇方につき敗北、奥州の江刺に配流。
D通久を除き一族総ての所領を失う。
 
参考)承久の乱における河野氏の動き
朝廷側ーー通信・通俊・通政・通末・通宗・通秀・政氏・通行
幕府側ーー通久
 
・別府通広(?−1263)
@父:通信 母:二階堂行光女(幕府長老)
A僧となる。別名:如仏  別府氏祖。
専修念仏の修行を聖達・西山証空(西山上人)のもとで行った。
B承久の乱の時は僧であったため領地は没収されなかった。
 
・一遍上人(1239−1289)
@父:別府通広 母:大江氏女
A3男。松山市道後湯月町宝厳寺で誕生。幼名:松寿丸
10才で母を失い、仏門にはいる。13才で太宰府の聖達上人の下で修行。智真と称す。
B1263年父が亡くなったため伊予に帰り、25才で還俗「通秀」この時子供
八塚通則をもうけ、この流を八塚氏祖となる。と言う説もある。八塚氏は通朝(別府氏本流)の派生とする説も強い。
C33才で再度出家。35才の時熊野権現参籠。「一遍」と称す。時宗開祖となる。
D1289年兵庫和田崎の観音堂で没す。(神戸市「真光寺」に墓あり)
E一遍聖絵(一遍弟聖戒著)・一遍上人絵詞伝
 
2−41)通久
@父:通信 母:北条時政女(妹?)
A5男。実質的に河野氏を継いだ。他の兄弟は総て院方につき敗れたため。
B承久の乱で母が北条氏であったため、幕府方につき命脈を保つ。宇治川の合戦で先陣をきる。この武功が認められ本領安堵される。温泉郡石井郷。
 
2−42)通継
 
2−43)通有(1250−1311)
@父:通継 母;不明
A「弘安の役」(1281年)で伊予水軍を率いて出陣、活躍。肥前、肥後、伊予(旧河野氏領地回復)に恩賞地をえる。最盛期。1282年長福寺建立。
この頃河野氏派生の得能・土居氏ら及び村上・来島氏らが伊予国、瀬戸内に盤踞。
 
・通盛(通治)(?−1364)
@父:通有
A周防守護・伊予守護
B1336年足利尊氏に従い各地転戦。14世紀前半に温泉郷「湯築城」築城支配。以後河野氏の中心となる。
C1342年南朝方忽那氏に湯築城を攻められる。
 
2−44)通朝(?−1364)
@父:通有(通盛説もある)
A管領家、四国管領「細川頼之」との合戦で戦死。
B足利氏につく。得能・土居氏は新田義貞につく。
・稲葉/林氏
・一柳/久留島
 
2−45)通直(通尭)(?−1379)
@父:通朝
A1364年細川勢に湯築城を奪われる。恵良城に籠もる。1365年細川勢と戦うが九州へ逃れる。南朝の征西将軍「懐良親王」に従い刑部大輔、讃岐守に任じられ、伊予奪還をねらう。1379年細川頼之失脚。伊予国守護となる。しかし、再度細川頼之との合戦で戦死。周防の守護支配権失う。
 
2−46)通義(?−1394)
@父:通直
A京都で家督を弟通之に譲り病死。
B1386年3代将軍足利義満の仲介で河野氏は細川氏と和睦する。
 
2−47)通久(?−1435)
@父:通義
A大内氏との合戦で戦死。
B1409年河野氏は東伊予を支配する高峠城予州家と西伊予を支配する湯築城河野宗家家に分裂。
 
2−48)通直(?−1500)
@父:通久
A応仁の乱で一族分裂。主流は西軍(山名氏方)に属し、高峠城の通春らは細川方につき河野氏は衰退していく。
B別名:教通  守護。
C湯築城で死去。
 
2−49)通宜(ー1519)
@父:通直
 
2−50)通直(弾正少粥)(?−1572)
@父:通宜
A嫡子なし。娘婿村上通康に家督を譲ろうとして家臣の反対にあい出家。
 予州家河野通政との家督争い。
 
2−51)通政(ー1543)
@父:通之の4代孫通存(異説あり)
A別名:晴通  通直養子。
 
2−52)通宣(−1581)
@父:通之の4代孫通存  (異説あり)
A通政の弟。通直養子。
 
・一柳宜高
@父:通直?(通宜説もある)
A大名一柳氏祖。
 
2−53)通直(?−1588)
@父:通宜?(異説あり)   一族からの養子説。
長宗我部元親に屈服するも家名は保った。1585年豊臣秀吉の四国攻めにより、1585年湯築城を開いて降伏。安芸に亡命。小早川隆景の庇護。
1587年福島正則が伊予を拝領。湯築城は廃城となる。
1588年嗣子なく竹原で没す(墓は竹原市長生寺)。河野本家は滅亡。
 
2−54)通軌
旧家臣団が毛利家より貰い受け擁立した養子。
 
3)越智氏関連系図
 越智氏と河野氏は一体のものとして記した。伊予橘氏は越智氏派生氏族として扱った。
伊予村上氏は本来的には越智氏とは別氏族であるが関連氏族として扱った。
その他派生氏族である「新居氏」「土居氏」についても簡単に記した。
後期河野氏を江戸時代大名家となる派生氏族「一柳氏」「稲葉氏」「久留島氏」についても簡単に相互の関係が理解出来る範囲の系図を記した。
いずれも公知系図の組み合わせであるが筆者創作系図とする。
4)越智氏系図解説・論考
 古代豪族「越智氏」は新撰姓氏禄では皇別氏族に分類されている。7孝霊天皇の皇子伊予皇子の子越智皇子を祖としていると記紀では記されている。
前稿の吉備氏とも兄弟関係になる氏族である。 ところが「旧事紀」では、越智氏は「饒速日」を祖とする物部氏の出であるとしてある。(既稿「物部氏考」系図参照)
「物部大新河」の孫「小市国造小致」を越智氏の祖としている。
越智氏が古くから奉祭している「大山祇神社」の祖神は「 饒速日命」であるとも言われている。この神社については謎が多いが「神武天皇の東征に先駆け祭神大山積大神の子孫にあたる「小千命」が四国に渡り大三島を神地と定め御島として大山積神を祀ったのが初めである」と由緒されている。
現存する多くの越智関連氏族の系図は信用出来ないかも知れぬが、物部氏を祖としているものが多いらしい。
筆者は越智皇子の子孫である「粟鹿」が物部小致の子供の養子として入ったとする公知系図を採用した。
ところで旧事紀によると「小致」は15応神天皇時の人物であり「大新河」は11垂仁天皇の時代とされている。このままだと「伊予皇子」は11垂仁時代と考えねばならない。これは不合理。系図によっては「越智皇子」と「天狭貫」の間に一人または二人の人物を入れたものもある。吉備氏の系図もこの辺りが不合理であることは前述した。
いずれにせよ天皇家の人物が伊予国に来たことを証明出来る記録はないらしい。
 越智氏は全くの地方豪族である。吉備氏のように大和王権と関与した記事は記紀にはない。しかし、古くから瀬戸内海に君臨した豪族であったらしい。
 
 ここで宇佐神宮の社家に伝承されているという宇佐氏伝承系図なるものを紹介しておこう。これは宇佐八幡宮の宮司であり、宇佐氏の当主であった宇佐公康氏が近年(1990年)書いた本の中で記したものである。参考系図参照。宇佐氏そのものの論考は別途行う予定である。
信憑性は、全く疑問らしいが、非常に変わった系図である。
ここで登場する神武天皇は、記紀に示された神武天皇とは全くの別人である。
著者は、記紀の記した神武東征神話は、実際はここに記した神武天皇なる人物をモデルにしたもので、この人物は安芸国厳島で死亡している。時代も全く異なるとしている。
この神武天皇と宇佐氏の当主、宇佐津彦の妻(宇佐津姫)との間に産まれたのが「宇佐都臣命」で、これと越智氏から略奪してきた「越智宿禰女常世織姫」との間に産まれたのが、「宇佐押人」でこれこそ後に本当の応神天皇となる人物であるとしている。
この流が現在の天皇家であるとしている。一方その天皇家の弟流が宇佐氏である。としている。
宇佐八幡宮が何故応神天皇を祭神としているかは、このことからきているのである。
いやはや、とんでも系図である。一般公知の宇佐氏系図とは、ある点では似ているが、その初期部分が全く異なるものである。これはずっと秘伝として宇佐氏の当主にのみ伝わってきたものらしい。
ここに越智氏の娘が関与している。応神天皇の母である。応神天皇のところで皇統譜は途切れているという学説は、現在も根強くある。河内王朝説もその一つである。
神功皇后は、記紀の万世一系の天皇家を貫く為の創造人物である。とする説濃厚。
それでは15応神天皇はどこからどういう素性の者かは、学者は語ってくれてない。
宇佐氏は、これぞ極秘の古代史であるとしている。この伝承系図もよく見れば皇統譜は繋がっているのである。ここでは触れない。
奈良時代、宇佐八幡宮は、格別の扱いを受けてきたことは事実である。それにしても?の系図である。歴史の謎である。この本は一度読むことを薦める。但しかなり難解である。
 
この越智氏に古代豪族の「紀氏」から33推古天皇以降に養子が入っている。それも「紀諸人」の弟とされる人物である。(既稿の紀氏考系図参照)
この辺りから越智氏の系図は詳しくなる。「紀大人」の没年は687年とされている。「越智玉澄」の没年が747年である。この間僅か60年である。ところが系図上ではこの間に7人の人物がいる。これは常識的には不合理である。
一部系図ではこの間に4人しかいなかったとするものもある。また一方、紀諸人弟とされる「益躬」は、33推古天皇時(554−628)越智郡大領になったとの記録があるようだ。
「玉澄」の兄「玉興」が710年に伊予大領になったとの記録もある。
諸人の娘「橡媛」の子供「49光仁天皇」が産まれたのが709年である。
38天智天皇の生没年は626−671年である。紀諸人の生没年は不明であるがその弟が天智天皇と同じ年代だとしても、33推古天皇時代(在位592−628)に越智大領にはなれない年である。
どこかがおかしい。
越智氏に中央から紀氏という有力氏族から養子が入ったことは間違いなかろう。「益躬」なる人物は今昔物語にも33推古天皇時代の豪傑として出てくる人物である。上記のことを総て正しいとすれば橡媛は諸人が60才前後の子供であることになる。不可能ではないが疑問は残る。
「小市国造小致」が15応神天皇時代(400年頃)。「益躬」を33推古天皇時代(620年頃)とすると、この間約220年である。筆者系図によると10人の人物で継いである。これは合理的範囲と判断する。
玉興・玉守・玉澄3兄弟が実在していた可能性は高い。
長男「玉興」は家督を弟の3男「玉澄」に譲ったらしい。次男「玉守」は伊予橘氏(後述する)の元祖みたいな人物である。
3男玉澄が居住地を風早郡河野郷(現:伊予北条市)に移した。これが河野氏の発祥の地と言われている。この玉澄の子供とされる「安元」が大三島大山祇神社祝家として分派したらしい。
これには色々異説もあるがここでは論及しないこととする。
玉澄の孫広成の時、越智宿禰姓を賜ったとされる。それ以前は小市直姓(神功皇后時代から)だったらしい。
越智氏が中央の歴史に登場するのは、平安時代初期の藤原純友の乱(939−941)で朝廷の追捕海賊使「小野好古」と共に越智押領使「越智好方」が戦い、純友を討伐した記事からである。
この後6代程歴史上特記する人物はいない。
為世、為時兄弟?付近でどうも本来の越智氏系図に河野氏が入ったという説が主流。
確かに玉澄から河野郷におりどうも「河野」と呼ばれていたのは間違いなさそうであるが、それは間違いなく越智氏であった。
(この説にも異論があり既にこの頃には河野氏が越智氏の名跡を簒奪していたとの説もある。)
ところが本来越智氏ではなかった後世河野氏が伊予国の名門越智氏の別名となっていた河野氏を簒奪し、系図上でもこの辺りに入り込んで越智氏の後裔となっている模様である。 「為世」が桓武天皇の息子「伊予親王」の子供であるとの説は疑問である。
河野氏元祖は北条親孝の子供「親経」だとされている。
玉澄と同じ風早郡河野郷の高縄城を拠点とした。
この頃には本来の越智氏の河野氏は完全に新河野氏にとって替わっていたのであろうか。丁度この頃清和源氏の嫡流で八幡太郎義家の父親「頼義」が奥州での「前九年の役」を終え(1062年頃)、京都に帰り、新たに伊予国司として伊予国に赴任してきていた。
これは史実のようである。ただし、その子供に「親清」なる人物がいたかどうかは公式系図上でははっきりしてない。(親清は義家の子供で祖父頼義の養子となっていたとする説もある)
河野氏系図では「親清」が養子として河野氏に入っている。
この親清の子供が通清であり歴史上河野氏が認知された時代である。
「通清」は保元(1156年)・平治の乱で源氏側について活躍の記事などが平家物語に載っている。この通清の子供が河野氏を世間に認めさせた人物「通信」である。
通信は源平合戦で義経に従い軍功を挙げ、実質的な伊予守護になった。
また内室に北条時政女をもらい鎌倉幕府と結びついていた。しかし、幕府の処遇には不満を持ち承久の乱(1221年)では、北条時政女との間に産まれた「通久」以外の総ての河野一族を率いて宮方についた。
このため通久以外の河野氏は、戦後領地を没収され勢力は著しく低下した。
通信にはもう一人変わり種の息子がいた。「通広」である。
通広は承久の乱の時僧となり比叡山にいたとされる。そのため領地の没収を免れた。
その子供の一人に「一遍上人」がいた。時宗の開祖「遊行上人」である。この辺りの系図も諸説あるようだが、省略する。
これ以降の河野氏の本流は元々庶流であった「通久」流に移る。
通久は母が北条時政娘だった関係もあり、河野氏の中では唯一人幕府方につき戦後処理では、本領安堵され、河野氏の家督を継いだ様な形になった。
その孫である「通有」が弘安の役(1281年)で河野水軍を率いて活躍し、伊予国だけでなく、九州にも領地を得た。
通有の子供「通盛」は周防守護、伊予守護となり、足利尊氏に従った。
この通有・通盛時代が河野氏の最盛期だと言われている。
通盛の弟「通朝」が家督を継ぐが四国管領細川氏と争い負ける。
また河野氏内部でも抗争が起こり勢力は衰える。この流から伊予林氏・稲葉氏が分派する。 戦国武将で有名な「稲葉一鉄」・「春日局」・「細川ガラシャ」の絡んだ系図が残されて実に興味深い(この辺りは後世に林氏・稲葉氏が越智系図に入り込んだのだとの説もある)が、ここでは本論とずれるので参考に留める。
河野氏本流は戦国時代の荒波にもまれ、ついに「通直」の時、1585年豊臣秀吉の四国攻めで降伏し、安芸国に亡命。小早川隆景を頼る。
1587年福島正則が伊予国を拝領。河野氏の本城湯築城は廃城となる。
そして河野氏の嫡家「通直」には子供なく、1588年竹原で没し、本家は断絶した。
分家(通直弟)から大名家「一柳氏」が輩出された。以上が越智・河野氏の4世紀ー16世紀に渡る延々たる一族生き残りの歴史である。勿論そこから派生した氏族も多数ある。現在も多くの累孫が日本全国にいる。
派生有力氏族である、土居氏・別府氏・新居氏などの解説は省略した。
越智氏と河野氏は本当に同一氏族であったかどうかは、現在も色々議論があるようだが、本稿では同一氏族として論じた。
 
・伊予橘氏
 越智氏を論じる時、避けて通れない氏族が「楠木正成」に繋がるとされた「伊予橘氏」である。
筆者系図では玉興の弟玉守の5代孫に「橘実遠」という人物がいる。これが伊予橘氏の元祖である。
実遠は52嵯峨天皇より809年正五位下に叙せられ、越智姓を改め橘姓となったとされる。実遠の住んでいた土地の領主が橘氏であったからだともいわれている。
この流から藤原純友の乱で活躍した「橘遠保」が出る。遠保と貞保は同一人物との説もある。ここからが実に複雑な系図になる。
楠木正成の出自は現在謎である。
@橘好古流橘氏説A橘遠保流説B熊野国造説など。養子猶子関係が複雑に絡んでそうなったものと思われる。
筆者系図はその一つの公知系図を参考にした。
この系図に参考として「能」の観阿弥・世阿弥父子の出自を載せた。これも最近分かった系図であるが、真偽については未だ確定されていないようだ。
また伊予の豪族「矢野氏」の元祖とされる「矢野貞高」が遠保の孫として記されている。出身は伊予国喜多郡矢野郷(大洲市)とされている。
 
・伊予村上氏
 村上水軍として有名な瀬戸内海の豪族である。これがどの様な出自で越智氏・河野氏とどう関係していたのかを解説する。
筆者は子供の頃から村上水軍とは、瀬戸内の大海賊と聞いてきた。
村上という苗字はこの関係者が皆つけたのである。よって島全体が村上という苗字であるという所が幾つもあるのだと聞いていた。それ程瀬戸内ではポピュラーな苗字である。
一方越智とか河野の苗字はあることはあるが、村上ほどポピュラーではない。
この村上水軍は古代豪族「越智氏」の一分派だと、つい最近まで思っていた。
実はそうではないのである。
「村上」という姓はどこから発生したのか。諸説・諸流あることは間違いない。
しかし、伊予村上氏、瀬戸内の村上水軍と呼ばれるようになった村上氏は、清和源氏源頼信(968−1048)の子供「村上頼清」(頼義の弟)に始まるという説が主流である。頼清またはその子供「仲宗」又はその子「顕清」が信濃国更級郡村上郷に住み、村上信濃守を称したのが始まりとされている。
一方頼清の兄「頼義」(988−1075)が伊予守の時(1062年頃)頼義は河野親経と甥の村上仲宗に命じて寺社の造営を行わせたという記録もある。
この頃村上氏は伊予大島(能島)に城を築いていたらしい。
さらに遡って天慶3年(939年)の藤原純友の乱に村上氏は越智河野氏のもとで従軍した記録がある。
939年頃は頼信の父「源満仲」(912−997)の時代である。満仲も伊予守に任じられている。しかしこの頃に村上氏は未だ発生してない。おかしい。
村上定国の時平治の乱(1159年)があり、信濃から海賊の棟梁となって淡路・塩飽へ進出してきた。
そして父祖(仲宗のことか?)の地大島に上陸。これより伊予村上氏が始まったとされている。
これより「義弘」までを前期村上氏と呼ぶらしい。
筆者系図に記されているように、公知系図では、定国の3代孫は清和源氏源頼義の子供親清が河野氏に養子に入り、その子通清の子供通助の子供「頼久」が養子に入っている。
即ち伊予村上氏は血脈的には河野氏といってもおかしくない訳である。また義弘は信濃村上氏からの養子であるとの説もある。(筆者系図)
義弘が1374年没した後、信濃村上氏から「帥清」が入り後期村上氏が始まったとされている。
但し帥清は村上源氏流の北畠親房の孫であるという説も濃厚。(筆者系図)
帥清は後期村上氏の祖である。頼員・義弘・帥清・義顕辺りの系図は養子がらみで非常に
複雑でどれが正しいのか現在もよく分からないらしい。
この子供に3人の男子がありそれぞれ3つの島に分立させた。
長男「義顕」を能島、二男「顕長」を因島、三男「顕忠」を来島に配置。この時、能島村上氏・因島村上氏・来島村上氏の村上三家が産まれた。とされる。
この部分については異説もある。帥清の子供「義顕」に3人の男子がありそれが3村上に分立したのだとする説である。
いずれにせよこの辺りで3島村上氏が産まれ、能島村上氏からは「武吉」時代が最盛期とされている。
1549年には武吉は大和権守に任じられ「海の大名」と呼ばれ、いずれの大名にも属さず独自の立場を守った。
因島村上氏は、早くから毛利氏に荷担。
来島村上氏は伊予河野氏の直属水軍となっていた。
武吉の妻は来島村上通康娘であった。戦国時代になり来島村上通総 だけは他の村上氏と異なり、秀吉に付き、毛利氏に付いた能島・因島村上氏と対立。来島城を追われ備中の秀吉の所へ逃げた。秀吉の時代を迎えると、四国征伐が始まり、武吉らは能島から追われた。能島村上氏は最終的には萩藩士となったらしい。伊藤博文はこの流か?
逆に秀吉の側近となり来島姓をもらっていた通総は小早川軍に属し、色々変遷するが来島を改め「久留島」と名乗り、江戸時代慶長6年(1601年)豊後国三郡の森藩14,000石の大名となった。
一方因島村上氏は、備後国田島の地頭、因島地頭職なども得て一時15万石に匹敵する勢力を持ったとされる。
秀吉の時代には小早川隆景に属し、因島・向島を領有し、その後も勢力は保った。
しかし、毛利氏の衰退に伴い備後からの撤退を余儀なくされた。その後領地を返上し、因島に帰ったが毛利氏の船手組番頭となり明治維新を迎えた。
以上が伊予村上氏の概略である。
 
・大祝(三島)氏
 大三島の大山祇神社の社家が大祝氏である。所謂三島姓の元祖である。系図上越智玉澄の子供「安元」をその祖とする。越智氏である。異説もあるが省略。
社家でありながら鎌倉時代には、在地領主化し、島嶼部に相当の勢力をはった。
南北朝時代は河野氏の一族として宮方に属した。戦国時代には「三島水軍」を組織し、大内氏と戦った。鶴姫伝説あり。その後毛利氏の庇護を受け、神社を守ってきた。大祝家は近世になって三島姓を名乗り現在も大山祇神社の社家として続いている。
越智氏としての正統な?血脈を残してきたのはこの一族であったと結果的にいえるのではなかろうか。
 
・忽那氏
 伊予国には水軍として忽那七島を中心として「忽那水軍」と呼ばれていた別の氏族がいた。このことについて簡単に解説しておく。
松山市沖「興居島」以西の群島を忽那七島と呼ぶ。旧伊予国風早郡に属し、忽那島(現:中島町)を中心とする群島である。現在は愛媛県と山口県にまたがっている。この島嶼部に盤踞していたのが忽那氏である。越智・河野・村上氏らとは別の氏族である。
その出自は諸説あるが、11世紀に藤原道長の後裔とされる藤原親賢なる人物がこの地に配流されたのに始まると言う説有力。
藤原道長ーー?−隆賢ー忽那三郎親賢ー親則ー忽那長者但馬守俊平ーーー>
以降詳しい系図が残されている。(省略)
上記俊平が鎌倉幕府の御家人となり、忽那島の地頭となった。以後この地で勢力をつける。南北朝時代は宮方に付いた。この間河野氏とも付いたり離れたりしたが、南北朝合体後は河野氏の武将の一人として活躍。
秀吉の四国征伐に際し、忽那島も攻略を受け以後没落。
 
以上で越智氏関連の概要を見てきた。さて筆者はこの中で幾つか疑問点を述べてきた。
@越智氏は皇別氏族か神別氏族(物部氏)か。
A越智氏の系図に33推古天皇の時中央の紀氏が養子として入っている。年代に齟齬あり。B越智氏流河野氏の元とされる玉澄は本当に越智氏か。
C越智玉守流伊予橘氏の発生問題。楠木正成出自問題。
D清和源氏源頼義の子供親清の河野氏への養子問題。
E清和源氏村上頼清と伊予村上氏発生問題。養子問題複雑。
など
古代豪族「越智氏」を論考するのが本稿の主目的なので鎌倉時代以降については、また別の稿で述べることにしたい。
大山祇神社が大三島の南東部に元々祀られていたらしいが、養老三年(719年)に鎮座地を移し鎮座祭を行ったとの記録が残されている。越智玉澄の時代である。
記紀編纂にあたり越智氏の系図提出がされたかどうかは定かではない。しかし、紀氏、物部氏の系図は参考にされたはずである。
また筆者系図に記したように肥後阿蘇氏本流への越智氏からの養子の系図が残されている。阿蘇氏も古代地方豪族の一つである。
玉澄と益躬の間が疑問あるが、益躬から小市国造付近までの系図は検証不可能ではあるが記紀編纂時にはあったものと思われる。
越智皇子ー7孝霊天皇付近は多々疑問あり。
元来越智氏は、元々は朝鮮半島からの先進文化をもった海洋系の渡来人(弥生人)が、この辺りに住み着いたことに始まった。とする説があるが、案外この辺りが正しいのではなかろうか。要するに系図なんて不明であり、或ところから物部氏系図、天皇家系図に越智氏として組み入れられたのではなかろうかと筆者は判断する。
 
次ぎに河野氏問題である。一般的には「河野親経」が初代の河野氏とされている。
しかし、それよりかなり前に「為時」付近で新興河野氏がこの越智氏系図に入り込んできたと言われている。では本流越智氏はどうなったのか。三島大祝家 として政治の舞台からは下ろされた?歴史的には越智好方が平安時代初期藤原純友の乱で活躍の記事あり。
よってもっと前の玉澄の時代には河野氏になっていたとする説もある。
この場合は、三島氏も河野流である。
一方、その後清和源氏の血脈が色々絡んでくるが、この辺りは、筆者も真偽の程は分からない。後世の作り話みたいな気もしてならない。
源頼義・義家の子供に「親清」なる人物は記録にない。
越智氏系図にのみ登場する人物である。伊予村上氏の系図と対比してみると面白い。
伊予村上氏が藤原純友の乱に関係したとの記事もあるらしいが、これは怪しい。
未だ村上氏は発生していないはずである。
源頼義の弟村上頼清が初代村上氏である。頼義の生年が988年であるのであるから。939年の純友の乱には伊予村上氏は存在しえない。それとも源満仲も伊予守であったのでこの時純友の乱に関与したのだろうか。疑問。
「村上定国」が伊予村上氏祖とされている。父祖の地能島に城を築いたとある。
これは祖父「仲宗」が、頼義が伊予国司時代に伊予におり甥の仲宗らに寺社を造営させたという記事があるので、このことを指すのであろう。
この村上氏に河野氏から入り婿がされている。こうなると村上氏は河野氏と同族である。ところがその河野氏に頼義の息子が入り婿している訳だから、河野氏・村上氏共に清和源氏一族になる。
元々の越智氏の影もなくなる。古代豪族「越智氏」は鎌倉時代に入る前に清和源氏に簒奪されたことにならないだろうか。
このままの系図が正しいとするなら、筆者にはそう思える。
いやそうではない、戦国大名がその出自を清和源氏に求めたと同じようなことが河野氏・村上氏にはなかったのか?
戦国時代に稲葉氏・林氏らが越智氏系図に入ってくる。これも怪しいという説もある。
越智氏は地方豪族であり、古代豪族である。狙われ易いのかもしれない。
 
ところで「小千命」の墓とされる古墳が、今治市馬越町にある鯨山古墳であるとして、愛媛県指定史跡とされている。
発掘調査がされた訳ではないが、諸種の古記録からそのように認定されているようである。1579年に書かれた三島大祝越智安任の手記に「小千御子墓在馬越邑」と記されてある。
この古墳について驚くべき話がある。
筆者の結婚の時の仲人であり大学の大先輩であるY先生の郷里が今治市であった。
ある時伊予国越智氏の話をしていたら、先生曰く「私の家の所有地の中に「なまこ」の形をした小山が畑の中にあった。ある時地元の学校の先生と名乗る人物が我が家を訊ねてきて、あの土地を譲って欲しいと頼まれた。相手をした祖母はいいですよと簡単に今治市に譲った。(寄付か?)
その時、その山は確か「おちのみこと」の墓であるらしいと説明を受けたようだ」。戦前の話らしい。
筆者が本稿を執筆するに当たり色々調査していくなかで、今治市にある鯨山古墳が小千命の古墳であると判明した。円墳か前方後円墳かは定かでないが円墳なら直径が66mにもなり相当大型の首長墓であるらしい。
これと Y先生の話が関係あるのかどうか確認のため、95才の先生はご健在なので、再度写真・関連記事をお見せした。
先生曰く「間違いない。これは「なまこ山」である。自分の叔父がこの山の麓で病院を建てるために祖父母の時代に購入したが、叔父が早世したので不要となっていた土地であった。その時その山に神社があったという記憶はないが。自分の家からは1−2km離れていたが子供の頃から知っていた」とおっしゃった。
先生は歴史には全く興味がなく、気にもかけなかったそうである。
先生の家は大変な旧家だったようで、当時田畑も多く所有しており、役立たずの小山なんか無価値な物だったのかも知れない。歴史的には非常に貴重なものだったのである。
また色々Y先生の話と筆者の調査を付き合わせて見ると、先生のお家はどうも越智氏の末裔の一つらしいことが分かった。本人は全くその認識がなかったようである。
 
話はそれたが、鯨山古墳が小千命の墓だとすると、小千命は実在の人物であることになり、発掘調査がされれば年代も確定されるはずである。旧事紀によれば15応神天皇の時代の人物である。物部氏である。
どうであれ古代豪族「越智氏」は伊予国越智郡を中心に勢力を張っていたことは間違いなかろう。
これに色々な氏族が関係し、越智の名跡を保ったことのようである。天皇家とは全く関係なかったようである。
マクロに見れば、15応神天皇付近から記紀編纂時までの系図が存在しているのである。紀氏との関係が何故発生したかは不明である。
清和源氏との関係には筆者は疑問を感じるが、これが本当なら伊予村上氏と併せて越智氏は、清和源氏の血筋に入ったと言っても過言ではなかろう。
伊予橘氏については、土着した氏族(矢野氏ら)と、養子縁組をしながら本流橘氏、楠木氏と関係していったものとに別れるが、複雑で真相は不明である。
越智氏関係の氏族は膨大である。瀬戸内全体にその勢力を張ったことは間違いない。
河野氏・伊予村上氏・土居氏・新居氏・八塚氏・別府氏・重見氏・今岡氏・二神氏・矢野氏・忽那氏・三島氏・正岡氏・得能氏・三宅氏・玉井氏・真鍋氏・高市氏などなど大小様々の地方豪族が四国・本州の瀬戸内沿岸に繁茂していった訳である。
その多くの嫡流家と言える氏族は、源平合戦、承久の乱、南北朝争乱、応仁の乱、戦国時代、秀吉の四国征伐、関ヶ原の合戦などに関わり、廃絶されるか衰退してしまった。
江戸時代以降生き残ったのは、庶流と言われる、争乱に直接参加しなかった氏族家々であったと思われる。その典型例が河野氏・伊予村上氏・忽那氏などである。
 
5)まとめ(筆者の主張)
@古代豪族越智氏は、皇別氏族と分類されているが、神別氏族である「物部氏」の小致命が元祖であるという説が、伊予国では強い。現に愛媛県指定史跡の今治市にある鯨岡古墳は、物部氏出自の「小致命」の墓とされている。
実のところは、弥生時代からこの地に住んでいた、当時としては進んだ文化を有して勢力を持っていた一族が、いつかの時点で、物部氏、天皇家などの系図に入り込み越智氏を名乗るようになった。と考える方が正しいかもしれない。
A越智氏は、どの時期かは判然としないが「河野氏」に簒奪されて越智氏の系図に河野氏が入ってきたという説濃厚。即ち後世の河野氏は古代豪族「越智氏」の直系子孫ではないということである。
B越智氏は、大和政権誕生にも、その後の中央政権においても、直接的貢献があったことはない。
地方豪族として、大三島の大山祇神社を奉祭した伊予国を中心とした地方豪族であった。
この大山祇神社の創建に関しても諸説ある。
摂津の三島神社遷宮説が有力であるが、これが15応神・16仁徳朝の時だとすると、物部小致のこの地への下向とほぼ同時期となる。
これは、大山祇神社社記の「神武天皇東征に先駆け云々」の記事と大幅なずれがある。
このことは、@とも関連し、15応神天皇以前の越智氏の姿を一部反映しているのかもしれない。即ち4世紀以前からこの地には弥生人の勢力(物部氏系?)が存在していた。
そこえ中央の物部氏から国造の形?で小致命が5世紀頃入ってきた。
そして、摂津三島の大山積神をこの地に移転してこれを祀った。
しかし、元々は物部氏の祖である「饒速日」を祖神として祀った。とは考えられないだろうか。
大和朝廷との関係で「饒速日」を表向き祀るのが憚れたのではなかろうか。
記紀編纂後は益々そうなったのではなかろうか。
C越智氏が、歴史上その存在が知れるのは平安時代初期の「藤原純友の乱」に朝廷側として貢献したことが中央の記事に出てからである。
Dこの流から、伊予橘氏が派生する。伊予橘氏も純友の乱で活躍している。その後この流から一説では楠木正成に繋がってくる。
E越智氏には33推古天皇の頃、中央の豪族「紀氏」から入り婿がされている。その経緯は定かではないが、史実らしい。
F平安時代後期になり清和源氏の血が越智氏(河野氏)の入り婿の形で入ってくる。
G一方越智・河野氏と密接な関係がある「伊予村上氏」が伊予国周辺に清和源氏流として勢力をもってくる。
この村上氏と河野氏は明らかに姻戚関係があり、見ようによっては、越智・河野氏は清和源氏の血流に入ったと言える。
但しこれは後世の、武士は清和源氏出身でないと肩身が狭い的風潮が系図的改竄を招いた可能性もある。
H越智氏の系図は、15応神天皇頃から以降一見合理的な系図が残されているが、何処かの時点で色々な氏族により利用され、系図簒奪、入り込みがされた可能性が高い。
本当の越智氏と言えるのは大山祇神社社家系図だけなのでは。勿論これも怪しいという説もあるが。
Iいずれにせよ越智・河野氏本流は、河野通直が安芸国竹原で1588年没したことにより断絶とされる。庶流は色々な形でその後も日本全国に繁茂している。
J筆者の中心課題である古代豪族越智氏と言えるのは、越智玉興、玉守、玉澄3兄弟?辺りまでである。
その実態は謎だらけである。その解明は発掘調査を期待するしかない。
伊予国に勢力をもった古代地方豪族「越智氏」が存在していたことは、間違いない。
 
6)参考文献
・古伝が語る古代史 宇佐公康 木耳社(1990年)