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29和気氏考
1)はじめに
 戦前に教育を受けた方々は「和気清麻呂」を小学校の教科書で習い、知らない人はいないらしい。また戦前の10円札の表面には、その想像上の清麻呂像が印刷されてあり、裏面には清麻呂の守り神である「野猪」が刷られてあったとのことである。筆者はそのお札は全く知らない。明治以後の皇国史観に基づかれた忠臣「和気清麻呂」の姿である。
筆者は戦後教育を受けたため、その内容がどんなものだったかは詳しくは知らない。
極々一般的には、[奈良時代に女性天皇(称徳天皇)に取り入って、自分も天皇になろうとした「弓削道鏡」というとんでもない坊主を、宇佐八幡宮の神託を受けて「和気清麻呂」という忠臣が、「天皇家の血筋でないものが天皇になることは出来ない」と女性天皇を諫め、道鏡が天皇になることを止めさせ、自分は流罪になったが、日本の国体の最大の危機を救った。]というお話である。
日本全国に和気清麻呂人気が沸騰したらしい。戦後はその反動であろうか、誰も和気清麻呂について語らなくなった。筆者らも高校までの歴史の教科書に載っていたかどうかも定かではない。
この和気氏こそ今回とりあげる古代豪族である。本当の和気氏とはどんな一族であり、清麻呂とはどんな人物であったのか、現在アマチュアが調査出来る範囲でその真実の姿を追ってみたい。
本拠地は、備前国磐梨(いわなす)郡石生(いわなす)郷。現在の岡山県和気郡和気町藤野、付近である。現在「和気神社」がある。JR山陽線の岡山と兵庫県の相生の間の和気駅と吉永駅の間に大きな和気清麻呂の顕彰碑が建っている辺りである。非常にのんびりとした感じの田圃が広がる山間の町である。筆者はJRでも車でもその近くをよく通ったのでよく知っている。
古代の吉備国の中である。ここは元来古代豪族「吉備氏」の勢力圏である。ここに何故「和気氏」が勢力を持ったのであろうか。歴史上和気氏が登場するのは和気広虫・清麻呂姉弟が初めてである。何故この地方豪族が中央に進出し、何故「道鏡事件」に関与し、その後どうなったのか。またその後裔氏族はどうなったのかを述べてみたい。
特に、和気清麻呂が長岡京遷都・平安京遷都に非常に重要な役割を演じたことは、余り知られていない。この辺りの事情を詳しく述べてみたい。
「和気清麻呂」に関しては平野邦雄「和気清麻呂」吉川弘文館(S39)が一寸古いが
我々アマチュアにも分かり易く解説した戦後の名著がある。これを多いに参考にさせてもらった。
ところで一般的には、古代の氏族を語るとき「和気氏」と言ったら上述の「和気清麻呂」の一族だけを特定したことにはならない。幾つものその出自を異にする和気氏が存在する。
11垂仁天皇子供「鐸石別命」を祖とする和気氏が清麻呂に繋がるのである。これ以外にも12景行天皇皇子を祖とする和気氏・倭健命の子供を祖とする和気氏などある。歴史上
有名人物は輩出していないが、かなりしっかりとした系図が残されている一族もあるので
その一部については参考までに記しておきたい。
 
2)和気氏人物列伝
・11垂仁天皇
2−1)鐸石別命(ぬでしわけのみこと)
@父:11垂仁天皇 母:渟葉田瓊媛<丹波道主<彦坐王
A妹:胆香足姫 子供:稚鐸石別命 別名:沼帯別(記)・吉備石旡別
B和気神社祭神。和気神。和気氏始祖。
C河内国大県郡高尾山に葬られた。鐸彦神社創始。
D金属技術集団(秦氏などの渡来人)が奉斉した神。
E和気氏は精錬に優れていた。
 
2−2)稚鐸石別
@父:鐸石別命 母:不明
A子供:田守別
B吉備磐梨別君姓を賜ったとされる。
 
2−3)田守別
@父:稚鐸石別 母:不明
A子供:弟彦王  別名:健真別王
 
2−4)弟彦王
@父:田守別 母:不明
A子供:麻己目王 別名:建結別王
B神功皇后の新羅遠征に従軍。凱旋した翌年に忍熊王の反乱が興った。
皇后は弟彦王に命じて播磨と吉備の境に関(現在:備前市三石)を設けて防がし、反乱は鎮圧された。この勲功により、藤原県に封じられた。(日本後紀)これが現在の和気町である。以後この地に土着。新撰姓氏録には上記記事の他に吉備磐梨県を賜るとある。
C和気神社配神。
 
2−5)麻己目王
@父:弟彦王 母:不明
A子供:意富己目王 別名:依国別王
 
2−6)意富己目王
@父:麻己目王 母:不明
A子供:伊比遅別王
B異説:始めて吉備磐梨君姓を賜る。
 
2−7)伊比遅別王
2−8)伊大比別王
@父:伊比遅別王 母:不明
A子供:萬子 別名:伊比太別王
 
2−9)萬子
@父:伊大比別王 母:不明
A子供:古麻佐 別名:萬侶
 
2−10)古麻佐
@父:萬子 母:不明
A子供:佐波良
B難波朝(孝徳天皇?)廷立藤原長舎。
 
2−11)佐波良(さわら)
@父:古麻佐 母:不明
A子供:伎波豆
B美作・備前両国国造となる。
C和気神社配神。   佐波良神社
 
2−12)伎波豆(きはず)
@父:佐波良 母:不明
A子供:宿奈
B美作・備前両国国造
C和気神社配神。
 
2−13)宿奈(すくな)
@父:伎波豆 母:不明
A子供:和気乎麿
B美作・備前両国国造
C和気神社配神。
 
2−14)和気乎麿
@父:宿奈 母:不明
A子供:和気清麻呂  広虫   別名:平麿  藤野別乎麿・吉備藤野和気乎麿
B美作・備前両国国造
C和気神社配神。
D713年備前北部六郡をさき美作国をおく。
E721年備前邑久・赤坂郡の五郷をさき、藤原郡をおく。
F726年藤原郡を改め藤野郡とする。
 
・広虫(730−799)
@父:藤野別乎麿 母:不明
A夫:葛木戸主 弟:清麻呂
B744年皇后宮職の葛木戸主に嫁す。(15才)
C749年夫が紫微少忠となる。
D756年京中の孤児をあつめる。
E759年夫神宮大忠となる。
F762年女孺・豎子として勅を伝宣する(淳仁天皇朝)。この頃夫が没した。
孝謙上皇出家これに併せ広虫も出家して、「法均」と号す。上皇の腹心となる。
G764年「藤原仲麻呂の乱」の孤児83人収容。仲麻呂の乱の連座者の処刑375人の減刑嘆願。その結果34名の処刑に留まった。
H765年藤野別真人を吉備藤野真人姓に改姓。従五位下。
I768年従四位下。大尼。
J769年称徳天皇は、道鏡を皇位に就かせるために夢告に従い、宇佐八幡宮への使いを法均に命じる。体力的な理由により弟の清麻呂を宇佐へ行かせることを推挙。これが認められた。清麻呂の報告は「君臣の秩序を重んじ、皇位には皇統から選び就けて、無道の人を除去せよ」であった。この報告は称徳天皇・道鏡の逆鱗に触れ、清麻呂・法均姉弟は官職など剥奪され、法均は名前を「別部狭虫売」と改名され、還俗させられ、備後国御調郡八幡村宮内(明確ではない)に流される。(宇佐八幡宮神託事件)
K770年称徳天皇崩御。光仁天皇即位。配所より戻され復姓。従五位下。和気公となる。
L774年和気宿禰を和気朝臣姓となる。
M781年従四位下。典蔵。桓武天皇の勅命を伝奏する役目。
N789年典侍従四位上。
O799年没。正四位上。
・桓武天皇「法均が他の人間の過ちを非難することを聞いたことがない」
・護王神社祭神
 
2−15)和気清麻呂(733−799)
@父:藤野別乎麿 母:不明
A子供:広世・達男・仲世・真綱・女(藤原葛野麿室)6男3女。 姉:広虫 
B備前国藤野郡(現岡山県和気町)出身。713年備前国が分割され美作国が誕生。
C姉の「広虫」が孝謙上皇(称徳天皇)の側近くに仕えていた関係から、769年の弓削道鏡の皇位就任に関し宇佐八幡宮の神託問題に関与し、称徳天皇の逆鱗にふれ「別部穢麻呂」と改名され、大隅国に配流。道鏡失脚後復活、桓武天皇即位により重用された。その後、長岡京遷都・平安京遷都造営に重要な役割を演じた。
D姓の変遷:宝字八(764)年以前 磐梨別公 藤野別真人(684年の八色の姓制定時の真人13氏の中には入っていない。)
神護元(765)年:吉備藤野別真人
神護景雲3(769)年:輔治能真人
宝亀2(771):和気公・和気宿禰
宝亀5(774)年:和気朝臣
E年譜
・765年従六位上。右兵衛少尉(33才)(この続日本紀の記事が歴史上初出)
藤野別真人清麻呂。
・766年従五位下。近衛将監兼美濃大掾。封50戸を与えられた(日本後紀)
・769年姉「広虫」の縁で48称徳天皇の勅使として宇佐八幡宮に行き神託を受け帰京してこれを奏す。その内容が称徳天皇・道鏡の逆鱗に触れ、罰せられる。因幡員外介に左遷、名前も別部穢麻呂とされ、大隈国に流される。
・同年藤原百川より封20戸をおくられる。
・同年本拠地の墓所の木が切られる。
・770年称徳天皇が崩御。光仁天皇即位。道鏡は下野国に左遷された。清麻呂は配所より戻され復姓される。
・771年従五位下に復す。豊前守となる。772−774説
・780年49光仁天皇に神願寺の建立を願う。
・781年従四位下。50桓武天皇即位。神願寺の建立を詔す。
・783年摂津大夫。
・784年平城宮都より皇后を長岡京に迎える。長岡京造京の功により、従四位上。
・786年民部大輔。摂津班田司長官。
・788年中宮大夫(高野新笠に仕えた。789年新笠没す)。大和川干拓工事。
高祖父佐波良以下四代および清麻呂が備前・美作国造に任じられた。
本拠地に新たに磐梨郡をもうけた。
・790年正四位下。
・793年清麻呂密奏して平安に遷都せんと願う。(日本後紀延暦18年記事)
「長岡の新都、十載を経て未だ功成らず。費勝げて計うべからず。清麻呂潜かに奏して、上をして遊猟に託して、葛野の地を相せしめ、更に上都に遷す」
・796年従三位、造宮大夫。非参議。民部卿。
・799年没。贈正三位。
F高野新笠の系譜「和氏譜」撰す。「帝甚だこれを善す」の記事あり。
法令集「民部省例」編纂。
G1851年孝明天皇から「護王大明神」の神号が贈られた。
H1874年神護寺の境内にあった清麻呂を祀った廟は「護王神社」と改称され別格官幣社となり1886年明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座した。
I猪伝説:大隈国へ配流の際に宇佐神宮に参詣したおり、猪により難事が救われたとされている。護王神社・和気神社では狛犬ではなく狛猪がある。
J戦前の10円紙幣の表面に「和気清麻呂肖像」裏面に「猪」が描かれていた。
 
(参考)道鏡事件の時の政権閣僚
天皇:称徳天皇
法王:道鏡
左大臣:藤原北家永手。
右大臣:吉備真備
大納言:弓削浄人。道鏡弟
大納言:白壁王(後の光仁天皇)
中納言:大中臣清麻呂
参議:石川豊成
参議:藤原南家縄麻呂
参議:文室大市
参議:石上宅嗣
参議:藤原北家魚名
参議:藤原式家田麻呂。太宰大弐
参議:藤原南家継縄
非参議:藤原式家蔵下麻呂
非参議:高麗福信
非参議:藤原式家宿奈麻呂(良継)
 
・広世
@父:和気清麻呂 母:不明
A長男?子供:家麿(養子?)宗世(守世)・貞臣・豊永
B延暦4(785)年「事に坐して禁錮」の記事。
B794年造京判官となる。この前後に菅野真道・藤原葛野麻呂と一緒に平安京の「造京式」作成の記事(従五位下)。
C799年広世奏して亡父の志をつぎ私墾田100町をもって和気郡以下八郡百姓の賑救田にあてた。
D広世の世話で最澄はじめて高雄山寺に法華会をひらく。
E805年天台法文を写す。
F宇佐使。式部大輔。大学頭。文章博士。正五位下。弘文院(一族の大学)を建てた。
 
・家麻呂(733−804)
@父:和(高野)国守? 母:不明
A従姉妹:高野新笠(50桓武天皇の母)子供:真菅
B延暦15(796)年参議。中納言
C「人と為り木訥なるも才学なし」「帝の外戚を以て特に躍進ーー」
「蕃人の相府に入るはこれより始まる」日本後紀(804年)
和気氏系図によると実高野氏となっており広世の養子となったようになっている。
中納言。贈従二位。
 
・仲世(784−852)
@父:清麻呂 養父:広世? 母:不明
A清麻呂6男
B刑部大輔。従四位上。播磨守。
 
・達男
@父:清麻呂 母:不明
A兄弟:広世・仲世・真綱など
B宇佐使。但馬守。従五位下。
 
・清麻呂女
@父:清麻呂 母:不明
A夫:藤原北家葛野麻呂 子供:氏宗
 
参考 藤原葛野麻呂(755−818)
@父:小黒麻呂 母:太秦嶋麻呂女
A妻:和気清麻呂女(後妻?) 子供:氏宗 ・常嗣  妹:桓武天皇妃
B785年従五位下。
・784年藤原種継・父:小黒麻呂らが山背国乙訓郡長岡村の地を相す。
父小黒麻呂中納言となる。
・793年父小黒麻呂ら山背国葛野宇多村の地を相す。父造宮使長官(造宮大夫)となる。
葛野麻呂もこの時左少弁として造宮に関与しはじめている。
・794年父小黒麻呂(733−794)没。和気広世とともに造京判官となる。
・796年和気清麻呂造京大夫。
C801年遣唐大使任命される。804年渡唐。最澄・空海も一緒。
805年帰国。従三位。
D806年参議。式部卿。
E808年中納言。809年正三位。
F「弘仁格式」編纂
 
・藤原氏宗(810−872)
@父:葛野麻呂 母:和気清麻呂女
A兄弟:常嗣(796−840)
B正三位右大臣。「貞観式」撰上。
 
2−16)真綱(783−846)
@父:和気清麻呂 母:不明
A子供:貞臣・豊永・好道・貞興  兄弟:広世・達男    第5男
B宇佐使。蔵人頭、右大弁、従四位上。
B840年参議。
 
・親光
・親光女
橘敏行(安吉雄流)室
 
2−17)貞興
@父:真綱 母:不明
A子供:時雨・時盛 別名:真典・貞典
B宇佐使。摂津守。美作守。
 
・時盛
宇佐使。侍医。隠岐守。
 
・兼済
宇佐使。民部大輔。従四位下。
 
2−18)時雨(899−965)
@父:貞興 母:不明
A子供:正世・正業 
B宇佐使、典薬頭、侍医、針博士。
 
2−19)正世(933−1013)
@父:時雨 母:不明
A子供:相法
B宇佐使、典薬頭、医博士、従五位上。
 
2−20)相法
@父:正業 母:不明
A子供:章親
B針博士。
 
2−21)章親
@父:相法
A子供:成貞
B典薬頭
 
2−22)成貞
典薬頭
 
2−23)貞相
宇佐使
 
2−24)定成(1123−1188)
3男
典薬頭
 
2−25)時成(1159−1219)
侍医。典薬頭
 
2−26)知成
2−27)蔭成
2−28)夏成
 
・広成(?−1391)
@父:益成(宮内卿) 母:不明
A子供:
B1391年従三位・非参議。
 
2−29)仲成
@父:夏成 母:不明
A子供:致成(養子)
B正四位上・典薬頭・宮内卿
 
2−30)致成
@父:英成 母:不明
A子供:邦成
B従四位上
 
2−31)邦成
@父:致成 母:不明
A子供:郷成
B右馬頭・典薬頭
 
2−32)郷成(1381−1437)
@父:邦成(右馬頭)母:不明
A子供:保成
B1435年従三位・非参議。
 
2−33)保成(1406−?)
@父:郷成 母:不明
A子供:富業 別名:保成
B1459年従三位・非参議。
 
2−34)富業
@父:保成 母:不明
A子供:親就
B施薬院使
 
2−35)親就(1465−?)
@父:富就? 母:不明
A子供:業家
B1517年従三位・非参議。
 
2−36)業家
 
(半井氏系)
2−26)親成(1181−1244)
典薬権介
 
2−27)種成
侍医。兵庫頭
 
2−28)仲景
典薬頭
 
2−29)弘景
女医
 
2−30)嗣成
典薬頭
 
2−31)常成
典薬頭
 
2−32)和気明成(?−1433)
@父:常成 母:不明
A子供:茂成  
B典薬頭。1417年従三位・非参議
 
2−33)半井茂成(1402−1483)
@父:和気明成 母:不明
A子供:明重 別名:明茂
B治部卿。典薬頭。1451年従三位・従二位・非参議。
 
2−34)明重(1462−1519)
@父:明茂 母:不明
A子供:明孝・明澄・利長
B甲斐守。典薬頭。1507年従三位・非参議。
 
2−35)明孝(1506−?)
@父:明重 母:不明
A子供:明名・明英(養子)
B1526年正三位・非参議。
 
2−36)明英(1506−?)
@父:半井明澄   母:冷泉為広女
A子供:不明    他の系図では半井明親男である。
B1553年従三位・非参議。
 
・明名(?−?)
@父:明孝 母:不明
A子供:不明
B1564年従三位・非参議、従二位。
 
<和気神社>(岡山県和気郡和気町藤野1385)
・和気氏一族の氏神として遠祖「 鐸石別命」を和気神と称して祀っていた。
・1591年数町川下にあった社殿が大雨で流され現在地に遷座。
・1909年になって弟彦王・和気清麻呂・広虫姫を祭神に加えた。
・佐波良・伎波豆・宿奈・乎麻呂を別の所で祀っていた国造神社を合祀した。
・旧社格:県社
 
<神護寺>(京都市右京区梅ヶ畑高雄町5)
・781年?に和気清麻呂により創建された和気氏の氏寺。神願寺・高雄山寺。
(793年神願寺に能登国の墾田50町が寄進された「類従国史」)
(高雄山寺の創立の時期は不明確。初見は802年和気広世が伯母広虫の3周忌法要実施。)
・805年最澄が伝法灌頂式で入寺。
・810年空海が高雄山寺に入る。
(・空海は811−812年山背国乙訓寺の別当になる。)
・812年空海は高雄山寺で金剛界・胎蔵界結縁灌頂式を次々行った。最澄もこれを受けた。
・824年定額寺となる。河内国石川郷?に在った清麻呂創建の神願寺と高雄山寺を合併させて神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改めた。空海が神護寺初代住職。829年空海の永代付属寺になった。
・和気清麻呂の霊廟がある。
・鎌倉時代に文覚上人により復興された。
・現在は高野山真言宗別格本山「高雄山神護国祚真言寺」別称「高雄神護寺」
 
<護王神社>(京都市上京区烏丸通下長者町下る桜鶴円町385)
・祭神:和気清麻呂・和気広虫姫
・護王神社は和気氏の氏寺である高雄神護寺境内にある和気清麻呂を祀った廟(護王善神堂)に始まるとされているがこの堂の創建の時期は不明。
・1851年孝明天皇が和気清麻呂に護王大明神の神号と正一位の神階を授けた。
・1874年護王善神堂を神社として護王神社に改称。
・1886年明治天皇の勅命で京都御所蛤御門前の中院家邸宅跡に遷座した。
・1915年大正天皇の即位の時広虫が合祀された。
・狛猪がある。
 
<宇佐使>
宇佐八幡宮に幣帛する役。天皇の勅使が宇佐八幡宮に参宮した始まりは、720年の隼人の反乱鎮圧を祈願するものであったとされている。以後事ある毎に行われてきた。
特に有名なものが769年の和気清麻呂の「道鏡事件」に関するものであった。
これらの奉幣使の中でも、769年以降、天皇の即位の報告を宇佐宮に行う勅使を特別に「和気使」と呼び、代々和気清麻呂の子孫で正五位下以上の人物がこれに当たったとされている。
 
3)和気氏関連系図
・「和気氏」元祖系図 (公知系図組み合わせ・筆者創作系図)
11垂仁天皇皇子「鐸石別命」後裔和気氏系図。
・和気清麻呂流和気氏・半井氏系図
・参考系図「景行天皇裔 和気朝臣・和気公系図」
景行天皇皇子「稲背入彦」裔佐伯氏系図。「神櫛命」裔讃岐国造・和気朝臣系図
「武国凝別 」裔別君・和気公系図。倭建系 十城別王裔和気氏・空海との関係も併せ記す
4)和気氏系図解説・論考
 新撰姓氏録では右京皇別「和気朝臣」となっている11垂仁天皇と「丹波道主」の娘
「渟葉田瓊媛(ぬなはたたまひめ)」との間に生まれた「鐸石別命(ぬでしわけのみこと)」を元祖とする「和気氏」が本稿の中心氏族である。前述したように、一般的に「和気氏」だけでは氏族を特定したことにはならない。
太田 亮の解説などを参考にすると、「別(わけ)」は元々天皇・皇族の名前・称号であった。(例:「鐸石別命」・「武国凝別命」・「御諸別」・「千摩大別」など)その皇族が地方に領地をもらって地方官となったとき、その地方の地名を冠して「○○別」(例:磐梨別)と称するようになり、自然に皇別の地方官の通称になった。
国造・県主などに任じられることと無関係に「別」が付された。さらに姓として臣・君・直などを賜った氏族もある。これらの延長線上に「別」を「和気」と記する氏族も現れ、備前の別公が磐梨別君となり、その嫡流が藤野別真人となり、藤野和気真人になったのである。この流れの裔に「和気清麻呂」が輩出したのである。これ以外にも多くの和気氏が伊予国・讃岐国などにも興るが、これらの一部は後述することにする。(参考系図参照)さらに、「別」という姓(かばね)を有する氏(うじ)は、古事記に24,日本書紀に6,旧事本紀に9併せて39もあり、その総てが天皇から分かれたという氏で、地名を氏の名に負う地方豪族であり、畿内・西国にかけて多く、東国には見当たらない。5−6世紀に集中。「別」を氏(うじ)の名にしたものも7世紀から出る。(佐伯有清)
 さて、和気氏の元祖「鐸石別命」は日本書紀に記されている。古事記では「沼帯別」と記されている。河内国大県郡高雄山に葬られたとされ、鐸彦神社として秦氏などの金属技術集団が奉斎してきたとされている。和気氏は古来金属精錬を得意とする氏族とされ、本拠地備前国和気郡でも和気神として「鐸石別命」を祀ってきた。
伝承によると(日本後紀)、鐸石別の曾孫の「弟彦王」が、神功皇后の新羅遠征に従軍後、「忍熊王の反乱」が起こり、皇后は弟彦王に命じて播磨と吉備の境(現在の三石町)に関を設けて防がし反乱は鎮圧された。この勲功により「藤原県」に封じられた(これが現在の和気町である)。新撰姓氏録では「吉備磐梨県」を賜るとある。
この伝承を史実とするかどうかは、意見が分かれるであろうが、吉備の和気氏の発祥の原点である。4世紀末頃である。
この辺りは元来吉備氏の勢力圏である。既稿の「吉備氏考」を参考にすれば、吉備一族が15応神天皇から吉備国を幾つかの氏族に分国拝領する記事が記紀に記されている。21雄略天皇の時代にはその一部が滅ぼされたとある。
この一大勢力氏族の中に異質の和気氏がどうして存在しえたのかは謎である。15応神天皇より前には吉備国は未だ大和王権の統治権は及んでいなかったとする説が強い。よって大和王権の出先機関として、和気氏みたいな王権の直轄氏族を送り込んだのではないかともされている。また和気氏は製鉄など蹈鞴技術を有する丹波国勢力の吉備国への進出である。よって、和気氏が皇別氏族というのは疑問である。多くの地方古代豪族は、どこかの時点で貴なる人物を自分らの元祖とするのはよくある話である。という説もある。
和気氏の場合「和気氏系図」なるものが存在している。和気清麻呂以降は異系図も多数あるが、ほぼ大筋では史実を反映していると考えられている。しかし、それ以前は非常に不確かなものである。
「和気広虫」は、清麻呂の姉である。730年生まれであることは確実な史料により確認出来る。その父親は「藤野別乎麿」と記されている。美作・備前両国国造とされている。美作国が備前国から分国されたのは713年である。さらに788年に清麻呂に対し高祖父「佐波良」以下4代及び清麻呂に備前・美作両国造に任じるという記事があることから、「乎麿」自身が生きていた時に国造であったとは思えない。勿論それ以前の人物もである。
一方、和気広虫・清麻呂が歴史上初出の765年の記事で、「藤野別真人」姓を「吉備藤野別真人」と改姓されたとある。一方684年の「八色の姓制度」発足の時の真人姓13氏には藤野別は入っていない。以上から真人姓になったのは684年以降765年の間である。
一般的には地方に下った皇別氏族は、「君姓」で中央にいたのが「公姓」であった。684年以降、真人姓でなかった君姓は公姓に変わった。そして公姓からさらに真人姓に変わったとされる。和気広虫・清麻呂の活躍記事より前に真人姓になっていた模様なので、少なくとも彼等が活躍を始める頃には和気氏が皇族出身の貴なる氏族であることは、公知になっていたわけである。
これが上記の太田 亮の解説にあったように備前の磐梨別君の嫡流が藤野別真人となった。これを裏付ける史料が和気氏系図の元祖「鐸石別命」の子供「稚鐸石別命」が「吉備磐梨別君姓」を賜ったという記事であろう。いずれにせよ清麻呂から4代位前までは認知されており、「佐波良」が約600−650年頃産まれた(33推古天皇時代)人物と推定される。佐波良の父親の「古麻佐」の系図記事に36孝徳天皇時代のことが記されている。それ以前はよく分からないが備前国の東の端近くで大和王権の支配を強く受けた地方豪族であったと推定出来る。
 和気氏の祖先のものかどうかははっきりしないが、和気町周辺には3世紀ー7世紀にかけての大小100基以上の古墳が見つかっている。(押部・掛ノ山・千畳座・大明神・稲坪・丸山古墳など)また鉄の精錬をした製鉄跡も多数見つかっている。
和気氏の配下には金属の生産に従う帰化系の者が多かったとされている。備前・美作地方は銅鉄の生産地として有名であった。これに秦氏が関係していたと思われている。
既稿「秦氏考」でも一部触れたが、播磨国赤穂郡辺りには「大避神社」が沢山あり、これは秦氏の神社である。播磨国西部から備前国東部にかけては、古来秦氏の一大活躍拠点とされてきた。この秦氏は山背国葛野郡の太秦氏とも非常に密な関係があったとされている。
要するに和気氏は、これらの殖産的金属製造技術を秦氏と関係しながら育成し、発展してきた氏族だったのである。これが土豪和気氏の原点的姿なのである。
 6−8世紀の大和朝廷・天皇家周辺には地方豪族からその忠誠の証としてその子供等を男性は舎人(とねり)(兵衛として天皇などの身辺警護をする男)として、女性は采女(うねめ)(天皇・皇后などの身の回りのお世話をする女)として派遣するのがごく普通に行われていた。
天皇が采女と結ばれ皇子・皇女を産んだ例も多数ある。(38天智天皇の子供:「志貴皇子」・「39弘文天皇」天武天皇の子供:「高市皇子」など)
「和気広虫」が采女として45聖武天皇の頃に朝廷に出仕するようになったのはそのような事情からであろうとされている。
父親は備前国磐梨郡(藤原郡・藤野郡など色々名前の変遷があるようだが)地方の郡司クラスの人物であったと推定されている。
郡司とは律令制下の地方行政官で国から派遣される国司の下で地方行政を取り仕切ってきた。国司とは異なり、代々その地で世襲的に選任された地方の有力豪族である。元々国造であったような氏族の長が任命されたとされている。日本全国にこの郡司とか大領とか呼ばれていた地方豪族がいたわけである。
この種の豪族の記録が史料として後代にまで残ることは珍しいとされている。和気氏はその珍しい例の一つである。吉備氏は大豪族であり、古代より記紀にも記録が多く残されており、和気氏はそれと較べると非常にマイナーな氏族であったと考えられる。
それが、765年の続日本紀に、和気広虫・清麻呂姉弟の記事が登場して以来、この二人の記事が多発するのである。日本歴史上、和気氏が活躍を始めたのである。
その後の和気清麻呂伝(日本後紀)などから遡ってこの二人のことを知ることが出来る。これによると、初めに大和に来たのは広虫で、恐らく46孝謙天皇が45聖武天皇の皇太子の頃であろう。744年15才で光明皇后宮職であった「葛木戸主」と結婚している。夫は762年頃には亡くなったと推定されている。広虫は46孝謙天皇の女官を続け、47淳仁天皇時代762年に孝謙上皇は出家して、広虫も併せて出家して「法均」と称した。この頃完全に孝謙上皇の腹心と言われる程の信頼を得ていた。
765年弟「清麻呂」が右兵衛少尉従六位上、姉法均は従五位下であった。清麻呂33才の時である。清麻呂が武官として何才の時に上京したのかは不明である。二人とも誕生地は備前国和気郡であるとされている。
当時女性で五位の位を有することは凄いことである。いかに彼女が優秀でかつ孝謙天皇から信頼されていたかが窺える。弟の清麻呂も33才とはいえ従六位上という位は地方豪族出身者としては普通ではない。父親は郡司だったすれば五位には達していない。国司が五位以上でないとなれないのである。しかも翌年の766年には清麻呂は従五位下近衛将監になっている。貴族である。日本後紀ではさらに封50戸が与えられている。全く破格の処遇である。これはひとえに姉「法均」の力であるとされている。後世になって50桓武天皇が法均のことを「法均が他の人間の過ちを非難することを聞いたことがない」と褒め称えたとされている。夫「葛木戸主」とともに難民救済・孤児救済事業を若い頃からしていたことは史実として残されている。法均は768年には従四位下・大尼となっている。並の女性ではなかったことが分かる。但し、政治家・女傑というイメージではない。
769年は、この二人の姉弟にとって運命の年である。世に言う「道鏡事件」(別名:宇佐八幡宮神託事件)の年である。
これについては「続日本紀」「日本後紀」にも詳しく記されているし、その後時代毎に色々な見解が示され、その度に和気清麻呂姉弟の評価が大きく分かれたのも事実のようである。詳しい記述は専門書に譲るとして、筆者なりに諸文献を調べて理解した事件の経過は以下のようなものである。
@弓削道鏡は法相宗の僧で孝謙上皇の病を治したことから出世が始まる。
A764年「藤原仲麿の乱」・淳仁天皇廃位により上皇は重祚して48称徳天皇となった。
B道鏡は称徳天皇の特別の信頼を得て765年には太政大臣禅師になった。766年には法王になった。皇太子はいなかった。
C女帝称徳天皇の後継者問題がくすぶっていた。
D767年道鏡の弟「弓削浄人」大納言となる。習宣阿曽麻呂(すげのあそまろ)が豊前介となる。
E768年習宣阿曽麻呂が太宰神司になる。
F769年道鏡の弟で大納言兼太宰帥の弓削浄人と太宰神司の習宣阿曽麻呂が、「道鏡を皇位に付ければ天下太平になる」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上した。称徳天皇は、宇佐八幡宮から「法均」の派遣を求められ、法均は身体的に無理とこれを断り、弟の清麻呂を推挙した。これが認められ清麻呂が宇佐八幡宮に(宇佐使として)派遣された。
G八幡宮参宮の時、神が禰宜の「辛嶋勝与曽女」に託宣。「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ」という神託であった。これを大和に持ち帰り奏上。別文「我が国は、開闢以来君臣の分は定まり、臣をもって君とすることはありえない。天つ日嗣には必ず皇緒をたてよ。無道の人はすみやかに除け」と託宣された。(諸説あるようだ)
H称徳天皇は、この報告を聞き怒り、清麻呂を一旦因幡員外介に左遷。名前も「別部穢麻呂」と改名させ、大隅国(大隅国姶良郡牧園村?)へ配流。法均も還俗させ、「別部狭虫」と改名させ備後国(備後国御調郡八幡村宮内?)へ配流。
I称徳天皇は、道鏡には皇位は継がせないと詔を発した。
J770年女帝没。49光仁天皇が即位。道鏡は下野国薬師寺へ配流。
K770年和気清麻呂・広虫が配所より帰され姓氏復活。広虫は従五位下に復活。
L771年清麻呂従五位下に復活。和気公。播磨員外介となり、和気宿禰となる。さらに
豊前守となる。
日本後紀には、これ以外にも多くの説話が載せられている。この中に有名な「野猪」の話もある。
以上の経過に関して史実か、否かに色々な説が現在も存在している。その中で筆者の興味を引いた説を紹介しておきたい。
749年宇佐八幡宮から禰宜「大神社女」と主神司「大神田麻呂」が建設中の東大寺廬舎那仏像を支援するという神託を奉じて平城京を訪れた。非常に功を挙げた。手向山八幡宮の建立。
これにより八幡大菩薩号が授けられた。両名も朝臣姓と官位が与えられた。しかし、両名は別件で罪を犯し位階・姓をその後剥奪された。以上は「藤原仲麻呂」時代のことで、道鏡時代になり八幡宮側が汚名挽回を狙ったのである。と言う説がある。
解説)宇佐八幡宮は非常に難解な歴史を有している。元々は地元の天神系と思われる宇佐氏が「比盗_」という神を祀っていた。そこへ北九州の方から渡来系(新羅系?秦氏系?)と思われる辛嶋氏が「八幡神」という朝鮮系の神を宇佐の地に持ち込んで来たとされる。そこへ既稿「三輪氏考」でも一部触れたが、「大神比義」という三輪氏出身とされる人物(実はこの人物も秦氏系の人物ではないかともいわれている)が29欽明天皇の頃に神職として入っており、辛嶋氏と組んで八幡神を著しく発展させた。しかし、この段階では未だ一地方神の域を出なかった。転機になったのは上記の749年の大和進出である。これにより一躍、国の守護神・天皇家の守り神という地位を確保したのである。ところが大神氏は上記のように754年に失脚して、宇佐氏が主導権を握った。この宇佐氏が「道鏡」と「習宣阿曽麻呂」などを通じて宇佐八幡宮の失地回復のために仕組んだのが第1回目の神託であった可能性がある。いうのである。
では何故第2回目の神託を受ける人物として和気法均が指名されたのか。これは謎である。
・法均は称徳天皇の腹心であり、天皇が最も信頼しており、絶対に天皇を裏切らない人物である。よって天皇は宇佐八幡宮からの要請という形をとったが、本当は自分が決めた。
勿論その弟も姉の意向を違えることはない、として清麻呂を代理として認めた。
はたしてそうであろうか?
・宇佐八幡宮は、当時宇佐氏が主導権を持っていたとはいえ、禰宜は辛嶋氏である。辛嶋氏は大神氏と通じ、秦氏に通じる太い繋がりがあった。前述したように秦氏は、金属精錬などを通じ備前の秦氏とも深い関係があり、その縁で和気氏とは通じるものがあった。当時は神託を受けるのは禰宜の役目であり、禰宜の威力こそ宇佐八幡宮の威力と考えられていた。この禰宜「辛嶋氏」が和気氏を指名したのである。
 本当に神の託宣が禰宜に乗り移って上記のような言葉が発せられたとは、現在の人は考えない。勿論専門家の学者も考えない。後は言わずもがなである。というのがこの説の背景にある。
 
和気清麻呂は、明治以後、終戦までは天皇の忠臣の鏡とされた。一転戦後は無視または、「藤原氏の手先説」「策謀家説」「単なる使い走りをしただけの人物で、日本国家の国体を護った人物という大げさなことをいうのは史実をねじ曲げた解釈である」。など諸説出された。
現在では平野邦雄がS39年吉川弘文館の人物叢書の「和気清麻呂」で記した説が多くの学者の共感を呼んでいる説だと筆者は理解している。
筆者流に解釈すると「和気清麻呂は、単に道鏡事件だけでなく、その一生の生き様から判断しなけばならない。そこから見えてくるのは、清麻呂には、はっきりした主体性がある。その主体性の根源を彼の土豪的官僚としてのあり方にもとめられる。それまでの南都の貴族や僧侶によって主導された政局の退廃を救う目的をもつもので、首尾一貫した清麻呂のすぐれた行動性と宮廷政治を革新せんとする意欲をしめすものと言えるとし、彼を革新政治家・第3の勢力と位置づけている。」この辺りのことは徐々に述べていきたい。
 
 豊前守になって彼がしたことは、神託という形で世の中を騒がす宇佐八幡宮の内部抗争を止めさすことであった。裁定は、大宮司は大神朝臣氏から、少宮司は宇佐氏から、禰宜・祝は辛嶋氏から出すこととしたのである。しかし、清麻呂は49光仁天皇時代全く昇進していないのである。このことからも彼が藤原氏の手先で動いたのだという説は間違っている。
781年50桓武天皇が即位すると直ぐに従四位下に特進した。姉広虫も同時に特進し、「典蔵」になった。桓武天皇は773年から山部王として光仁天皇の皇太子であり、実務面では平城京朝廷の抱える問題点を充分理解していた。恐らく相当前から、自分が天皇になったらどうするかを考えていたと推定される。退廃してきている平城京宮廷政治・神社寺院の横暴など、大変革を要する事態になっていることをである。
この荒療治の策こそ長岡京遷都であった。それに先立ち人材の選択を行っている。注目すべき人材登用では、先ず藤原種継・藤原小黒麻呂である。共に秦氏に非常に縁のある人物である。種継の母親は秦朝元の女である。小黒麻呂の妻は太秦嶋麻呂の娘である。
そして和気清麻呂である。彼は本拠地備前でも秦氏との関係が密接である上に、その縁で山背国の秦氏とも密接な関係があることを桓武は見抜いていたと思われる。それと彼が平城京旧勢力とも藤原氏とも特別な関係を持たない、寺社勢力にも属さない、田舎の実直な土豪感覚の持ち主であり、政争に関与する人物ではなく、しかも実務面では抜群の行動力のある人材として皇太子時代から目を付けていたのであろう。勿論姉の広虫は天皇の身近でその性格・高潔さは、既に見抜いていた。これぞ自分の一大事業を助けてくれる人材と判断していたのである。
桓武天皇はそれまでの天皇と異なり、特異な人事を行ったことで有名である。人心を一新し、国の体制を改革することに燃えていた希有の天皇だったと評価されている。結果的にその後の日本の政治体制はここで一変したことは間違いない。その一角に和気清麻呂が関与したことも間違いない。
長岡京遷都の宣言の前(783年)に彼は、「摂津大夫」という要職に任じられている。これ以降この職をづっと続けるのであるが、これは長岡京遷都を完全に睨んだ任命だったのである。
・難波宮をそっくり長岡京に移すことが費用もかからず、短期間に遷都が可能となる。
・難波宮の瓦・柱などの物資の輸送、全国からの色々な物資の輸送のため淀川を中心とした水運関係の整備をすることが、長岡京建設には急務である。
主にこの2点が彼に課せられた特別任務だった推定される。それまでの摂津大夫は一種の閑職であった。彼の場合はそうでなかったことが、783年以降の続日本紀・日本後紀の記事からも明らかである。摂津職から発信したと思われる記事が急に頻発するのである。
長岡京大極殿跡の発掘などで発見された大多数の瓦は難波宮のものであった。これが上記のことを裏付ける確実な証拠である。784年に藤原小黒麻呂・種継らを山背国乙訓郡長岡村の地を都に適した所かどうか調査させたとある。これは表向きの体裁を整えたのであって、桓武の構想は既に即位した時には、出来上がっていたと考えるのが妥当である。
勿論多くの遷都反対勢力があることは当然予測されたので、極秘裏に計画は一部の者達だけで進められていた。これが上記小黒麻呂・種継そして和気清麻呂らであった。清麻呂の官位の異常な昇進・摂津大夫任命も当然これを考慮してのことは容易に推定できる。
それ程、清麻呂はこの時既に信頼されていたのである。これには姉の果たした役割も見逃せない。
 ところが、新都の建設は難渋をしいられた。詳しいことは省略するが、793年遂に清麻呂は桓武天皇にさらに遷都することを密奏したのである。日本後紀によると、
「長岡の新都、十載を経て未だ功成らず。費勝げて計うべからず。清麻呂潜かに奏して、上をして遊猟に託して、葛野の地を相せしめ、更に上都に遷す」
と記されている。これを史実とするかどうかでは意見も分かれるが、桓武天皇と余程の信頼関係が無い限りこのようなことは言えないのである。当時の桓武天皇の苦悩を充分理解し、周囲の平城京に都を戻すべきであるとする勢力のことも、充分知り、これからの日本の政治はどうあるべきかも充分考えた上での奏上である。この記事がここに残されたことは、和気氏の立場を後々に有利にしようとした政治的目的で記されものではない。
せっかく苦労して多額の費用と人手をかけた長岡京建設・和気清麻呂自身も当初から取り組んできた一大事業を取り止め、平城京に帰るのではなく、長岡京のすぐ隣の山背国葛野郡に替えるべきだと桓武天皇に直接言っているのである。余程の事情があったのである。
一般的に10年で建設途上の長岡京を何故見捨てて平安京に新たに遷都したのかは、未だに謎であるとされている。諸説あるが、続日本紀にも日本後紀にも詳しい事情が記されていないのである。(肝心の部分が欠落して、現存されていない)
この日本後紀の清麻呂の密奏とされる記事から桓武天皇の苦渋の決断を予測するしかないのである。この時、姉広虫は従四位上「典侍」になっている。この時の女官長で「尚侍」であった「百済王明信」に次ぐ地位になっていた。即ち明信の片腕として、活躍していたのである。
明信は桓武天皇の生涯を通じた恋人と後世言われている。桓武が最大の信頼を寄せていた女性である。桓武天皇の人間的な悩みは総て知っていたのである。この明信の腹心の部下であった和気広虫が本件に関わっていたことは容易に推測出来る。明信ー広虫ー清麻呂の関係があったからこそ他の有力な人物が多数いた中で、正四位下の清麻呂が上記のような最大の機密・重大事項を天皇に直接奏することが可能だったのである。勿論これは和気清麻呂自身を利する提言ではない。一つ間違えば打ち首・左遷ものの提言である。別のいい方をすれば、清麻呂しか出来なかった提言であった。
歴史はこの提言の通りになった。そして難波京を廃止し、摂津職を廃して摂津国にしたのが793年であった。
794年菅野真道・藤原葛野麻呂(小黒麻呂の子供)と一緒に清麻呂の長男「広世」が従五位下として造京判官となった。
796年には平安京建設の最高責任者に従三位になった清麻呂が任命された。799年
姉広虫が亡くなり、続いて清麻呂も没した。
ここで今までの文献で触れられていない系譜上の注目点を述べておきたい。
その1)は上述の「藤原葛野麻呂」の妻に清麻呂の娘がなっているということである。葛野麻呂は上述の小黒麻呂と太秦嶋麻呂女との間に生まれた子供である。小黒麻呂は和気清麻呂と共に長岡京建設に励み平安京遷都の責任者であったが794年没した清麻呂の盟友と言える人物であった。その嫡男の嫁に清麻呂の娘を貰っていたのである。葛野麻呂も長岡京建設に努力し、平安京建設にも重要な役割を果たした。804年には「遣唐大使」として空海・最澄らと唐に渡っている。これが和気氏が最澄・空海とその後密接な関係が生じた一因でもあろう。最終的には正三位中納言に任じられている。その二人の間の子供は「氏宗」で「貞観の治」の時の右大臣となった人物である。
その2)は清麻呂の長男の養子として「家麻呂」という人物が記されている。和気氏系図には実高野氏・中納言と記されている。この人物こそ桓武天皇の従兄弟であり母「高野新笠」の甥である。日本後紀に「蕃人の相府に入るはこれより始まる」その他色々記事のある人物である。何故この人物がここに出てくるのかは謎である。しかもその生没年は清麻呂と余り違いがないのである。不思議である。ここにも桓武天皇ー和気清麻呂の密接な関係が窺える。清麻呂は788年に高野新笠の面倒を見る中宮大夫に任じられている。そして新笠の系譜「和氏譜」を撰し、桓武から「帝甚だこれを善す」とされている。これらの記事と系図に出てくる「家麻呂」の件とは何か関係しているように思えてならない。
ところで余り知られていないが重要な話を記しておきたい。坂上田村麻呂の氏寺が「清水寺」であることは有名である。和気氏の氏寺を知っている人は少ない。京都高雄にある「神護寺」である。この寺の境内に清麻呂を祀った霊廟がある。これが後年になって「護王神社」となり、さらに1886年に遷座して、京都御所の蛤御門の側にある「護王神社」となったのである。
そもそも780年に清麻呂は光仁天皇に神願寺の建立を申し出ている。781年桓武天皇はこれを許可したとされている。ところがこの寺の場所は未だ不明である。諸史料から間違いなく神願寺は建立されたようである。(河内国内説がある)ところが802年に高雄山寺が和気氏の氏寺として、史料に出てくる。そして805年唐から帰国した最澄を和気広世がこの高雄山寺に招いて灌頂式を行っている。和気氏が最澄の強力なパトロンとなったのである。奈良仏教ではなく、全く新たな息吹のする仏教である。
次いで遣唐使として唐に渡り、最澄より遅れて806年に帰国してきた空海は、808年まで太宰府の観世音寺におり、809年52嵯峨天皇が即位すると、和泉国槇尾寺に入り、7月になって入京し、前述の高雄山寺に入った。811−812年にかけて山背国乙訓郡長岡郷にあった「乙訓寺」(京都府乙訓地方で現存する最古の寺。文献上の初出は785年の藤原種継の変の時、早良親王が幽閉された寺である。)の別当をした後、812年高雄山寺に戻った。これを支援したのは、清麻呂の5男真綱・6男仲世兄弟だった。どうも長男はこのころは他界してたのではないかと思われる。空海はこの寺を拠点として真言密教の本格的な活動をした。824年に高雄山寺は神願寺と合併した形で「神護寺」となり定額寺となった。初代住職が空海である。要するに和気氏は平安仏教の2大教祖である「最澄」「空海」をその非凡な才を見抜き育てたのである。これには前述した和気広世・真綱・仲世ら兄弟の妹が遣唐大使藤原葛野麻呂の妻となり、その縁で空海・最澄の支援に結びついたのであろう。
空海と葛野麻呂の縁は遣唐使船が同一で中国に漂着した時、空海が素晴らしい漢文を作成して「葛野麻呂」の窮地を救ったという話は有名である。
ここからは筆者の推定である。
@和気氏の氏寺である高雄山寺の創建については謎である。
この土地は元来秦氏の勢力下にある。和気氏と秦氏は上述したように永い歴史をもって友好関係が結ばれていた。長岡京建設・平安京建設に関しても和気氏を支援してきたものと思われる。同じく葛野麻呂は秦氏の親族である。葛野麻呂と和気氏も親族である。
和気氏は、781年に氏寺である神願寺を国の支援もえて創建した。しかし、この寺は立地条件が良くなかったようである。そこで併行的に高雄山の麓に高雄山寺を造った。これを支援したのが秦氏である。秦氏は既に太秦に「広隆寺」という氏寺を有していた。
A空海は何故遣唐使に選ばれたのか謎である。
空海は四国讃岐国の佐伯直氏の出身である。母の兄とも言われている「阿刀大足」が長岡京で桓武天皇の皇子である「伊予親王」の家庭教師をしていた縁で788年(諸説ある)15才の時上京してきた。ここで大学への受験勉強をして平城京の大学に入学したが、2年間ほどでそこを出奔、謎の10年間を過ごし、804年(31才)頃東大寺で受戒して留学僧に選ばれたとされている。そう簡単に留学僧に選ばれることはない。強力な支援者がいたことは間違いないとされている。
上記伯父の阿刀大足の縁で伊予親王が支援し、親王を寵愛していた桓武天皇が後押ししたという説が有力。
B空海が何故和気氏の氏寺であった高雄山寺に京都に帰京した時入ったかは謎である。
これは、葛野麻呂が取り持ったものと思われる。空海ー葛野麻呂ー和気氏ー高雄山寺の関係である。
C空海は何故「乙訓寺」の別当になったのか謎である。
52嵯峨天皇の勅により別当になったとある。乙訓寺の寺伝によれば、創建は33推古天皇の勅により聖徳太子によって建立となっている(長岡京市教育委員会の調査では、白鳳期の瓦が発見された)。となると、上記太秦の広隆寺建立と近い関係にある。この乙訓寺付近には「乙訓社」と言われる賀茂氏に関係する古社がある。また26継体天皇の弟国宮(518年)もこの辺りだったという説も根強くある。多くの6−7世紀の古墳もある。この古墳の主は不明だが、その豪族の裔が乙訓寺を建立したとの説が通説になっている。
この付近には、6世紀ー7世紀にかけて賀茂族がいたことは間違いない。同時に秦氏もいた。当時秦氏の方が勢力があった氏族である。同じ長岡の地に渡来系の氏族「田辺史」氏の氏寺と推定されている「鞆岡廃寺跡」が発見されている。創建は、はっきりしないが、乙訓寺とほぼ同じ頃ではなかろうか。となると、乙訓にいた秦氏勢力が乙訓寺を朝廷の支援も受けて創建したと考えても妥当性はある。乙訓という郡名を冠しているので単なる私寺ではないであろうが。(中山修一もその著書の中で、乙訓寺について、向日市の宝菩提院廃寺とともに秦氏関係寺院と推定している)
そうなると、空海をここの別当に推薦したのは、秦氏ー和気氏ー葛野麻呂ー嵯峨天皇ー空海となったのではなかろうか。(葛野麻呂は52嵯峨天皇にも重用されている)
52嵯峨天皇が空海と特別な関係であったことは有名である。
空海は荒廃しかけていたこの寺の再建に取り組んだとされている。この目途がたったので
和気氏の寺、高雄山寺に812年に帰り本格的な真言密教の布教活動を開始。824年に前述の神願寺と高雄山寺を併合した形で、ついに定額寺「神護寺(正式名:高雄山神護国祚真言寺」)」とし、初代住職となったのである。
参考であるが太秦の「広隆寺」も空海の弟子が入り、平安時代から真言宗の寺となっている。秦氏と空海の関係はそれ以外にも伏見稲荷神社と東寺の関係からも尋常でないことが窺える。
D和気氏の元祖「鐸石別命」は、河内国の高尾山に葬られたとある。この神護寺は、山背国高雄山にある。偶然の一致であろうか。
筆者は偶然とは判断しない。勿論高尾山の神を祀っているのは秦氏である。高雄山も秦氏の勢力下である。和気氏と秦氏の強い絆を感じるのである。
 
和気清麻呂の長男「広世」は、和気氏一族の子弟の教育機関として「弘文院」(大学)を設立した。これがこれ以後和気氏が典薬・医師の分野を世襲する氏族の原点になったとされている。
これ以降どの流れを嫡流とするかは難しいが、5男「真綱」の流れをそうだとして系図及び人物列伝を作成した。和気氏から派生した薬の半井(なからい)氏は有名である。
この清麻呂以降の和気氏の系図及び人物列伝からも、その裔は政治関係には直接関係しない人物ばかりである。貴族ではあるが、典薬・侍医の形で天皇家および 藤原家を中心とした貴族社会の裏方として、江戸時代まで続いたのである。
人物列伝・和気清麻呂流和気氏・半井家系図参照。
勿論和気氏の本拠地である吉備・美作の地の一族の面倒は和気清麻呂の時代は勿論その裔の時代になっても非常によく見たとされている。
以上が古代豪族「和気氏」の生き様であり、「和気清麻呂」の生き様である。
 
参考までに最近の数名の学者の清麻呂評を紹介したい。
長岡京の発掘の先駆者「中山修一」がその著書「長岡京」の中で「和気清麻呂が摂津大夫として造都(長岡京)に努め、のち民部大輔・中宮大夫として造宮に励んだことは万人の認めるところである。ことに発掘によって瓦の比較や建物の大きさを調べると、難波宮の瓦を載せた建物がむしろ奈良の平城京のものより多いことがわかる。彼の功績である」
 
「岸 俊男」は同じく中山修一編の著書のなかで「長岡京と日本の都城」という小論を載せている。その抜粋。和気清麻呂が摂津職の長官になった意味を説明。
「ーーー主唱者の種継が死んでしまえば、後に残った者もまた反対勢力の意見に引かれて行きます。その点和気清麻呂の立場ははなはだ微妙ですが、平安遷都も清麻呂自身が中心になって行っています。これは清麻呂が融通性に富んだ人物であったからか、あるいははじめから平安京に至る遠大な都造りの計画をもっていたかであると思います。ーーー
文献上では、今まで気付かれなかった摂津職の果たした役割に注目されるようになり、また一方考古学的な発掘成果によって、難波宮の長岡京への移建が明らかにされて大きく進みました。つまりこの2つの新しい視角を重ね合わせることによって、長岡遷都は、実は
平城京からの遷都と難波京の統合を兼ねたものであること、つまり、それは複都制の廃止を意味し、桓武新政の改革方針にかなった重要施策であったことが知られてきたと思います。ーーー」
 
「井上満郎」はその著書「桓武天皇」の中で、和気清麻呂について前述の平野邦雄の土豪的な新官僚グループで第3勢力説を支持した上で下記のように評している。
「ーーー桓武からいえば自分の意志を汲んでくれる、言わなくても察してくれる人物として清麻呂を重用したのである。ーーー平安京のデザインも含めて、桓武は清麻呂に己を託したのである。その信頼の深さ、強さが分かるし、清麻呂側からいえば、それだけ自分を生かすことの出来る機会があったことでもある。ーーー」としている。
 
<その他の和気氏の例>
 和気氏は上述したように皇別氏族ではあるが、約40氏族もあり、色々の出自を有し、名前は「和気」を最終的に名乗ったものの、実際上は同一氏族とは見なされていない。
その例を参考系図を用いて解説したい。
本論に登場した「空海」が関係する「佐伯直氏」と併せて述べたい。
本論で記した和気氏は、11垂仁天皇を出自とする氏族であるが、参考系図に示したのは12景行天皇を元祖とする氏族である。有名な「倭建」の皇子「十城別」から「伊予別」が発生し、伊予国の和気氏はこの流れである。「武国凝別命」からは「御村別君」が派生している。別子銅山はこの流れが開発したとされている。
他に「別君氏」がおり、この流れは途中「因支首」姓を名乗るが、和気公姓となり、「和気公宅成」と空海の妹または姪と言われる娘との間に「円珍僧都(智証大師)」という名僧を輩出した。円珍は唐に渡った後、延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、寺門派の拠点とした。円珍の祖父「道善(別名:道麿)」は、四国88ケ所真言霊場76番「金蔵寺」の開基者である。その弟とされる「道隆」は、同77番札所「道隆寺」の開基者である。
空海と讃岐和気氏の深い関係が窺える。
「神櫛命」の流れは「讃岐国造」となり、桓武天皇時代に讃岐公となり「従五位下・讃岐公永直(783−862)」という人物は、中央で活躍し、820年代に有名な「令義解」を編纂したとされている。その子供らの世代864年には、和気朝臣姓となったとされる。この流れは後世武士「寒川氏」「十河氏」などを輩出したとされる。
さて、空海の出自である讃岐の「佐伯直氏」の出自に関しては古来色々言われてきた。主なものは、古代豪族「大伴氏」から派生した氏族であるという説。例えば「佐伯今毛人」という有名人が、奈良時代後期から長岡京時代にかけて歴史上活躍した。これは佐伯宿禰姓である。(既稿「大伴氏考」参照)
これと同一氏族とする系譜が残されている。
一方12景行天皇の皇子「稲背入彦命」の流れは播磨国造になるが、その流れの分岐した讃岐国造となった佐伯氏が佐伯直姓となり、この裔に「佐伯直田公」がおり、この子供が「空海」だとする説がある。
本稿の筆者系図はこの中間の養子説を採用している。現在は景行天皇裔説が主流のようだ。この佐伯氏は讃岐和気氏との交流が密だったようである。この和気氏と本論の備前和気氏の接点は残念ながら筆者の調査ではなかった。
 
5)まとめ(筆者の主張)
@一般的に古代豪族「和気氏」は、西日本を中心とした別々の皇族出身の「別姓」を有していた元祖を有する別々の皇別氏族で多数存在していた。本稿は、11垂仁天皇皇子「鐸石別命」を元祖とする、現在の岡山県和気郡和気町付近を本拠地として活躍した「磐梨別」の裔である「和気清麻呂」に繋がる和気氏を中心に解説した。
Aこの和気氏は伝承によると、神功皇后の時代にこの地を賜った。記紀の記録なし。
B備前東部・美作地方に渡来系の秦氏等と共に銅・鉄などの金属精錬などの殖産事業を興し発展してきた氏族である。よって秦氏とは非常に深い友好関係が古くから(6世紀頃?)あった。
C744年には和気清麻呂の姉「広虫」が采女として朝廷に出仕していたことが窺える。
歴史上、和気清麻呂・広虫姉弟の記事が初出するのは765年の両名の改姓記事であるがその後の色々の記事から、744年までは、ハッキリしている。
D和気清麻呂以前の和気氏の系譜は、和気氏系図でしか分からない。(記紀記述などない)
色々の周辺情報から、4代前の「佐波良」・5代前の「古麻佐」あたりまでは、史実として遡れそうである。(7世紀初め頃か。)それ以前については確証的なものは分からない。古代豪族とはいえ比較的新しい地方豪族と言える。
E本稿は「和気清麻呂」伝みたいになった。しかし、彼の生き様を知ることが、和気氏の地方豪族としての生き様を強く反映していると判断する。清麻呂は明治以降終戦まで、皇国史観に利用された代表的な忠臣として評価されてきた。戦後色々見直し評価されたが、筆者は上記「平野邦雄」説に強く共感をしている。道鏡事件だけで彼を評価するべきではない。
その後の長岡京遷都・平安京遷都に対し、彼がどのような活躍をしたかおも充分考慮するべきである。
F和気清麻呂は、「道鏡事件」に対し、秦氏の強い協力を得て、当時の退廃した宮廷政治・増長した宗教勢力の打破・革新こそ最重大事と判断し、地方豪族的感覚でどの既存勢力にも与することなく自己判断し、宇佐八幡宮神託を48称徳天皇に奏上したのである。
G50桓武天皇は、清麻呂の高潔な態度を見抜き、平城京から長岡京への遷都の実務面の最大の協力者の一人に彼を選んだ。この影には姉「広虫」の活躍が光っていると判断する。
H行き詰まった新都長岡京建設に断を下ろし、桓武天皇に更なる平安京遷都を密奏したのも清麻呂である。これは桓武天皇と余程の信頼関係が無い限り不可能なことである。
常識的にみれば、一地方の郡司クラスの豪族の出身者である人物が出来ることではない。
また、この背後に初めから最後まで和気氏を支えてきた殖産氏族「秦氏」があったことを忘れてはならない。この氏族も決して政治の表舞台に出たことはないが、日本を替えた氏族である。
I清麻呂は、最終的には平安京の「造宮大夫」(従三位)となった。都造りの総責任者である。その意味では日本の歴史を変えた人物の一人であった。
それと共に、本拠地(備前国・美作国)のことを最後まで面倒見てきた、地方豪族であり、この思想は、子供ら及びその裔にも脈々と嗣がれたとされている。
J彼の子供達は、最澄・空海の強力な支援者となり、新たな平安仏教の礎を築いた。
その本拠となったのが、和気氏氏寺である「高雄山神護寺」である。
K清麻呂の裔達は、政治家の道は採らず、典薬・侍医という裏方の貴族として、これ以降江戸時代幕末まで続いたとされる。      (7/11/07脱稿)
 
6)参考文献
・「よみがえる長岡京」(岸 俊男) 中山修一編 大阪書籍(1984年)
・「長岡京」 中山修一 京都新聞社(1984年)
・「桓武天皇」 井上満郎 ミネルヴァ書房(2006年)
・人物叢書「佐伯今毛人」 角田文衛 吉川弘文館(1963年)
・人物叢書「和気清麻呂」平野邦雄 吉川弘文館(1964年)
・人物叢書「桓武天皇」 村尾次郎 吉川弘文館(1987年)
・日本の歴史「大王から天皇へ」熊谷公男 講談社(2001年)
・「姓氏家系大辞典」 太田 亮
など多数。