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11.和邇氏考
1)はじめに
 和邇氏は、和珥、和迩、丸邇などとも記される古代豪族である。
欠史八代の5孝昭天皇を始祖とする皇別氏族である。
5孝昭天皇の長男「天足彦国押人命」(記では天押帯日子命)を祖とし、本拠地は奈良盆地東部「春日、大和国添上郡和邇(天理市和爾町)」である。
関連地としては、全国に多数あるが、滋賀県滋賀郡志賀町和邇春日が代表的である。
関連神社は、和爾下神社(天理市櫟本町、大和郡山市横田町)、神田神社(大津市真野町)、小野神社(滋賀県滋賀郡志賀町小野)、柿本神社(奈良県北葛城郡新庄町柿本)、浅間(あさま)神社(山梨県東八代郡一宮町)、富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)などが有名である。
中でも富士宮市の浅間神社は和邇部氏が社家として「和邇氏系図」として最も古くからのものを伝えている。
ちなみに富士宮市にある駿河一宮浅間(せんげん)神社は、創建が山梨県の甲斐一宮である浅間神社より一寸新しいらしい。
(富士吉田市にある富士浅間神社は、大伴氏が社家を司る別系統の浅間神社である。)
 元来和邇氏は、安曇氏、海部氏らと同じく海人族系とされた。
朝廷では、埴輪などの祭祀土器製作集団を率いて、山稜の管理、古墳埋葬者の事績の語り部的役割を持っていたらしい。
元々は「春日」氏と呼ばれた。その後和邇姓となり、29欽明天皇頃からまた春日姓に改姓されたとも言われている。
古くから天皇家に妃を供給する氏族の役割を果たしてきた。
30敏達天皇までに9−10名の女性が、記紀に妃として記録されている。
但し、これらの妃の子供が天皇になった事績は10崇神天皇以降全くない。
これだけ多くの女性を妃として天皇家に出した氏族は、後の藤原氏を除けば歴史的には存在しないのに、そこから直接天皇が輩出してないのは偶然なのだろうか。
15応神天皇以降30敏達天皇までが最盛期のようである。
 この一族から多くの派生氏族が発生した。
有名なのは、柿本人麿の柿本氏、小野妹子、小野小町、小野道風などで有名な小野氏、山上憶良の山上氏、粟田真人の粟田氏、石上神社社家の布留氏、など歴史上活躍する人材を輩出している。
特に「小野氏」は鎌倉時代以降、武蔵七党の「横山党」「猪俣党」という武士集団として活躍、その流れから江戸時代大名家及び武士として残り、現在まで繋がっているとされている。
 息長氏とは非常に近い関係にあったとされ、天皇家は少なくとも15応神天皇以降は、「和邇腹」と「息長腹」を特に血脈維持の上で大切にされた節が感じられる。
この2氏の頂点に立つ人物が「彦坐王」であるとされ、この謎に包まれた人物こそ記紀編纂者、特に日本書紀の編纂者がその真実の姿を隠そうととした形跡大と言われている。
和邇氏関係の男性については、系図だけでしか分からない人物が多い。
それ程政治上では無力の氏族と言える。
「葛城氏」「物部氏」「大伴氏」などとは比較しようがない。
一人「難波根子建振熊」のみ活躍記事が記紀に残されている。
「細く長くそれなりに」の典型的な氏族であったと思われる。
天皇家の謎の10崇神天皇ー25武烈天皇までの血脈に、最も深く母方として関係している和邇氏のことを知ることは、上記謎解きのヒントを与えるものと思われる。
これに挑戦してみたい。

2)和邇氏関連人物列伝        
和邇氏の列伝は難しい。どれを嫡流とするのかよく分からない。本稿では、浅間神社社家となる系譜を中心として羅列的な列伝とした。

(参考)
・春日千千速真若比売(記) 春日千乳早山香媛(紀)
@父;不明 母;不明
A7孝霊天皇后 子供;千千連比売命(記)子無し(紀)

・糸織媛(紀)
@父;春日県主大日諸 母;不明
A2綏靖天皇妃 子供;なし
 
2−1)天足彦国押人命(?−?)
@父:5孝昭天皇 母:世襲足媛(尾張氏)
A妃:不明
 兄弟:弟6孝安天皇、妹?押媛(子供説もある)6孝安天皇后7孝霊天皇母。
子供:和爾日子押入
B和邇氏祖。
 
2−2)和爾日子押入(?−?)
@父:天足彦国押人命 母:不明
A妃:不明
子供:彦国姥津、
姥津媛(意祁都比売:おけつひめ:姉おけつ)):9開化天皇妃、彦坐王母
袁姥津媛(孫説もある)(妹おけつ):彦坐王妃、山代大筒木真若王ら母「息長氏」へ
B事績なし。不存在説強。
 
2−3)彦国姥津(?−?)(ひこくにおけつ)
@父:和爾日子押入 母:不明
A子供:袁姥津媛、彦国葺、等多数。
B事績なし。
 
2−4)彦国葺(?−?)
@父:彦国姥津 母:不明
A子供:大口納、吉備穴国造祖、武射国造祖
B記紀記事:11垂仁天皇紀:武埴安の乱 の時、大彦(9開化天皇皇子)の副官として参戦。山城木津川で埴安王を倒した。
 
2−5)大口納(?−?)
@父:彦国葺 母:不明
A子供:難波根子建振熊、彦汝、真侶古
B事績なし
 
2−6)難波根子建振熊(?−?)
@父:大口納 母:不明
A子供:米餅搗大臣、日蝕使主、石持宿禰、大矢田宿禰
B記紀記事:・神功皇后の命により15応神天皇の政敵「忍熊王」を討った。
・16仁徳天皇の時、飛騨国の両面宿儺を退治。
・神功皇后の三韓征伐に参戦活躍。
 
2−7)米餅搗大臣(?−?)(たがねつき)
@父:難波根子建振熊 母:不明
A子供:八腹木事、春日和爾深目、春日市河、春日人華
B応神天皇時、餅の元である粢(しとぎ)を初めて作ったので「しとぎつき」(米餅搗)の姓を賜ったとされる。
C小野神社祭神。
 
2−7−1)日蝕使主(?−?)(ひふれのおみ)
@父:難波根子建振熊 母:不明     別名:丸爾之比布礼能意富美
A子供:和邇口子:記紀記事:仁徳天皇が皇后「磐之媛」と別居状態(皇后は、現京田辺市の韓人奴理能美の屋敷)にあった時、天皇が皇后に送った使者。皇后に仕えていたのが妹の国依媛。であった。この助けにより皇后に面会できた。しかし、皇后は皇居には帰らずここで亡くなった。この原因が宮道宅媛の娘「八田皇女」であった。
宮道宅媛(宮主宅媛、宮主矢枝比売):15応神天皇妃 八田皇女(矢口)、雌鳥皇女ら母
小ナベ媛:15応神天皇妃 菟道稚媛母
国依媛:記紀記事
 
2−8)春日和邇深目(?−?)(丸爾佐都紀臣)
@父:米餅搗大臣 母:不明
A子供:河内、日爪、
童女君(おみなぎみ)(袁杼比売):21雄略天皇妃、春日大郎女皇女母。
記事:もと采女であった。雄略天皇と一夜を共にしただけで孕んだので疑われ、妃に加えられなかった。後に物部目大連の助言により妃に加えられ、娘は皇女となった。
(記紀で名前等異なる)
B事績なし。
 
2−8−1)八腹木事(?−?)別名:丸爾許碁登(こごと)、大宅木事
@父:米餅搗大臣 母:不明
A子供:武背立(大宅氏祖)
都努郎女(つののいらつめ)(津野媛):18反正天皇妃 甲斐郎女ら母。
弟姫:18反正天皇妃 財皇女ら母。
B事績なし。
 
2−8−2)春日市河(?−?)
@父:米餅搗大臣 母:不明
A子供:櫛事(この流れはその後物部首となり、布留姓を賜り、石上神宮祠官家となる。)
大島:この流れから山上氏が興り、万葉歌人、山上憶良が出た。
小島子:19允恭天皇妃、子供なし。

・山上憶良(660−733?)
702年遣唐使として入唐。704年帰国。従五位下、伯耆守、筑前守、万葉歌人。
 
2−8−3)春日人華(?−?)
@父:米餅搗大臣 母:不明
A子供:牟久(この流れより柿本氏、粟田氏発生)
・柿本人麻呂(?−和銅年間?)
持統・文武朝に仕えた。
万葉歌人、36歌仙の一、歌聖、石見国役人、讃岐国にも行く、石見で没?刑死説あり。
生誕地:櫟本町和爾下神社境内、柿本寺跡説。石見柿本神社付近小野郷説
謎多い人物。

・粟田真人(?−719)
奈良時代の官人。学者、遣唐使、大宝律令制定に参画。正三位中納言。
 
岡上:この流れより櫟井氏、春日小野氏発生。

・春日小野大樹 (?−?)
21雄略朝の武人。紀記事あり。

・小野妹子(?−?)
飛鳥時代の官人。607年遣隋使。翌年隋使「裴世清」と帰国。再度隋へ。
609年帰国。「蘇因高」と呼ばれた。
近江国滋賀郡小野村(現大津市)出身。墓:大阪府南河内郡太子町
・小野峰守 (778−830)
・小野篁 (802−853)
・小野小町(809?−901?)
・小野道風 (894−966)
・小野好古(884−968)
 
2−9)日爪(?−?)  丸邇日爪臣
@父:春日和邇深目 母:不明
A子供:田作、
糠君媛(糠若子郎女:ぬかのわくごのいらつめ):24仁賢天皇妃、春日山田皇女母。
糠子: 29欽明天皇妃、春日山田皇女母
B事績なし。
 
2−9−1)河内(?−?)
@父:春日和邇深目 母:不明
A子供:美奈古、
ハエ媛:26継体天皇妃 厚(阿豆)皇子ら母。
記では父阿倍氏、紀では河内。
B事績なし。

(参考)
・老女子郎女(記) 老女子(別名;薬君娘)(紀)
@父;春日中若子(記) 春日仲君(紀) 母;不明
A30敏達天皇妃 子供;難波王(記) 難波皇子(紀)
            春日王(記) 春日皇子(紀)
            桑田王(記) 桑田皇子(紀)
            大俣王(記) 大派皇子(紀)
 
2−10)田作(?−?)
@父:日爪 母:不明
Aこれ以降系図は色々あるようだが、和爾部となり、最終的には「浅間神社社家」として現在までこの流れが和邇氏の流れを伝えている。
 
3)和邇氏関連系図(記紀準拠 筆者創作系図)
和邇氏は非常に古い豪族であり、記紀にもかなり詳しい系図が残されている。表示漢字は記紀でかなり異なる。主として紀に準拠した表示にした。小野氏は、非常に永い系譜が残されているが、出典により諸説ある。大勢に影響ないと筆者判断を加えた系図の部分あり。
 
 
 
 
 
 
4)系図解説・論考
和邇氏は、始祖は5孝昭天皇、祖はその長男「天足彦国入命」とされている。
政治上、歴史上重要な役割を演じた人物は皆無に近いので,系図上どれが本流なのか判断し難い。
女性は、天皇家維持の役割を演じており、記紀に記録が残っているだけでも10名位天皇家の妃となっている。
その意味では他の豪族の追随を許さぬ、稀な「高貴」な氏族といえる。
「押媛」は天足彦の妹説と子供説がある。大勢に影響ないので天足彦の妹とし、6孝安天皇の后となり7孝霊天皇の母となる。
欠史8代では和邇氏と関係ありそうなさらに2人の天皇妃が記されている。
2綏靖天皇妃である、春日県主「大日諸」娘「糸織媛」と7孝霊天皇妃である「春日千乳早山香媛」である。
後者は父親不明であるが春日という呼称を入れてあるので何等かの意味で「春日氏」に関係ありと判断した。
ここで和邇氏は元々春日氏を名乗っていたとの説がある。
勿論大和国春日という地名に由来している訳である。
その証拠に後代になって、春日氏、春日和邇氏、春日小野氏など「春日」を名乗ることになる。
和邇部、和爾部、和邇など細かく分かれていくことになるが、筆者は静岡県の「浅間神社」社家に残されている系図がもっともしっかりした和邇氏本流系図と判断し、この流れを仮の本流として記した。
初期の重要人物は、9開化天皇妃となった「姉オケツ媛」とその子供の「彦坐王」の妃となった「妹オケツ媛」である。
この2人は姉妹とも叔母姪関係とも言われているが、記紀の歴史上重要な女性である。
息長氏考でも述べてきたが「彦坐王」は謎の重要人物である。
本当に実在したかどうかは甚だ疑問ではあるが、記紀歴史上では無視出来ない人物である。
即ち10崇神天皇系の流とは一寸異なった血脈を築いた元祖みたいな存在である。この血脈を引く女性が時の天皇家には何処かにおり、表に出たり引っ込んだりしながら天皇家の血脈維持に関係しているのである。
和邇氏はその相棒的存在である。と筆者には写っている。
息長氏そのものが影の存在である。これに和邇氏が加わって10崇神天皇ー15応神天皇ー26継体天皇ー39天智天皇ー41天武天皇へと天皇家の血脈を維持してきた。
天皇家は「万世一系」であると主張するのが記紀編纂の主目的の一つである。それは勿論男系でそうであると主張している訳である。
系図上では間違いなくそうなっている。筆者も認める。
しかし、現在の歴史学者の多くは、この系図は記紀編纂時、改竄創作されたもので、信用出来るものではない。としているのが主流である。
筆者は「古代豪族」の研究を通して、上記現在学者の常識的見解とは異なる見解を持つに至った。
徐々に述べていきたいが、その一つの証拠と思われる氏族の系図がこの和邇氏系図と、前稿の「息長氏」系図である。
「難波根子建振熊」なる人物は、神功皇后から仁徳天皇時代の人物である。
この流の媛達の多くが15応神天皇ー29欽明天皇辺りの多くの天皇妃になっている。
15応神天皇から21雄略天皇頃は、葛城氏全盛の時代である。この時代でも何故か和邇氏の姫君が各天皇妃になっている。
しかし、その子供は誰一人として天皇にはなっていないのである。
ところが、深目の娘「童女君」と21雄略天皇の娘「春日大娘」の流の娘腹から天智・天武に繋がる天皇系譜が出来ているのである。
21雄略天皇は実在性が高い天皇の一人である。
この天皇系譜をどう判断すべきかである。ここに息長氏が絡んでいることは既に記した。
ところで「尾張氏考」の稿で国宝「海部氏系図」のことを紹介した。
ここで海部氏の系図の中にも「建振熊」なる人物があることが記されている。その人物も神功皇后に協力して朝鮮出兵などしたとの記事がある。
これはどう見ても同一人物である。この時は海部氏と尾張氏は既に分離している。海部氏と和邇氏の間で何等かの人の交流があったのであろうか。
例えば養子縁組みたいなもの。
少なくとも記紀では和邇氏として建振熊は出ている。系図作成上の混乱なのか、意図的なものなのか、事実なのか、現在では解明出来ていない。
父親、子供等の共通性もなさそうである。謎である。
和邇氏の歴史上から見ると、10崇神天皇から14仲哀天皇頃までは天皇家に媛を出した記録がない。
日蝕使主娘「宮道宅媛」が15応神の妃となったのが初めてである。
これは建振熊の天皇家への関与と関係していると思わざるをえない。
「春日市河」の流れから石上神宮祠官家(布留氏)が出ている。石上神宮といえば「物部氏」の主祭する宮である。何故和邇氏がこれに関わったのか。
日本書紀記事「垂仁天皇の時、その皇子である五十瓊敷皇子が太刀千口を造らせ、初め忍坂邑に納め、次ぎに石上神社に移した。
この時神託があり「春日臣の一族である市河という者に治めさせよ」とあったので市河が治めることになった」と。
五十瓊敷皇子は「彦坐王」に繋がる人物で和邇氏に関係あったのだとする説もある。
市河は物部氏ではないのに、物部首の祖となる。その後改姓し、布留宿禰となった。(新撰姓氏録)
即ち石上神社は、物部氏と布留氏が共に祀った形となった。
但し、布留氏は石上神宮の神官に違いないが、物部氏より上位にあったとは思えない。
一説には、元々布留氏が祠祭であったのを何時の時代かに物部氏がその主導権を剥奪したのであるとの説もある。謎に包まれた所があることは間違いない。
石上神社は別名「布都努斯神社」ともいう。和邇氏でも毛色の異なる氏族である。
同じ市河流から山上氏が派生し、歌人山上憶良が輩出された。
次ぎに春日人華の流について解説する。
この流からは後年歴史上有名な人材が多く輩出されている。
万葉歌人のナンバーワン的存在である柿本人麻呂。
大宝律令制作者の一人粟田真人。
上の流とは別流として小野妹子を輩出した小野氏が有名。
小野峰守、篁、道風、好古、小町など文化人政治家を輩出。
さらに関東に行って土着化した武蔵七党の横山党、猪俣党、その延長での戦国大名、江戸武士へと系譜は延々と残されている。

さて話を元に戻そう。
和邇氏という古代豪族が存在したことは、真実であろうか。
筆者はここに記された系図総てが正しいとは言わないが、存在したことは真実と判断する。
物理的証拠を示せと言えば奈良時代くらいまでだったら、あるかもしれない。それ以前は無いと言わざるを得ない。無いから存在しなかったとは言えない。ここから先は、過去の先人の累積した遺産としての人間の知恵の結集をどう判断するかである。
・浅間神社社家 及び和邇氏系図
・石上神宮祠官家
・和邇氏関連の記紀記録系図・関連記事
・和邇氏関連の歴史上有名人物に関する言い伝え、神社伝承など。
・和邇氏関連の地名、神社。などなど
和邇氏は、政治上権力の座についたことはない。少なくとも記紀編纂時、和邇氏を特別視する必要性は編纂者側には無かったはず。
残るは、天皇家の継続性を創作するためにその姫君達を和邇氏という血脈に意図的に創作挿入したという可能性がありやなしやである。
筆者は前稿の息長氏よりは、和邇氏の系図の方が信頼性は高いと判断している。
上記の和邇氏関連遺産及び人間の知恵を総合的に判断した結果である。
これらを総て虚偽・虚構・改竄・創作の積み重ねの遺物とするなら、この頃の記紀に記された日本の歴史は総て嘘であるということにならないだろうか。
先人はそんなに浅はかなことを後生大事に営々と護ってきたのであろうか。
現在日本各地で多くの古い遺跡が発掘されている。後代に残そうと意図的に改竄して残した物などないはずである。
言い伝え、神社伝承、文字記録などは信用出来ない。信用出来るのは海外の国々の日本に関する記事と、発掘された遺跡だけである。とする風潮が強すぎる。
現存する古い神社をどう考えるか。このエネルギーは凄い。
和邇氏関連の神社にもそれを感じる。これらの神社は記紀編纂に影響を与えたのであろうか。逆に記紀に影響を受けたのであろうか。
神功皇后以降と前とは、明らかに天皇家の妃の動向が異なっている。
10崇神天皇、11垂仁天皇、12景行天皇、13成務天皇、14仲哀天皇、と15応神天皇以降である。
イリ王朝と河内王朝で男系で血脈が切れていると言う説あり。しかし、女系ではどうであろうか。
15応神以降は前述したように26継体天皇問題があったとしても女系では息長氏と和邇氏系との合わせ技で繋がっていると判断している。
問題は15応神とそれ以前が男系女系併せて繋がっていると考えられるか、無理があると考えるかである。
今回はこの点は後の宿題としたい。
息長氏と和邇氏は、江戸時代の5摂家と似たような存在である。と例えられた人がいる。
筆者も同感である。
朝廷内では非常に位は高く血脈的に「高貴」な家柄である。時の権力構造に左右されない特殊な存在である。
古代の天皇の娘は、その多くは結婚してない。神に仕える巫女的な存在として特別扱いを受けていた。結婚したとしても皇族(それも3世孫くらいまで)だけが相手であり一般氏族は、対象ではなかったらしい。
10崇神天皇以降この大原則みたいなものがあったらしい。
記紀編纂時に意図的にそうした系図しか残さなかったのだとも言えるかも知れぬが、当時の血脈に関する意識は、現在の我々からは想像を絶するものがあったと筆者は判断している。
作り事で済まされない背景を感じる。筆者は10崇神天皇の時から間違いなくそうだったとは確信を持てないが、大王家は神の家的因子が加わった時点からはそうなったのではなかろうかと推定している。
この考えはかなり後代まで厳しく守られたようである。
天皇家と同格の血筋が天皇家以外に発生することを防御したわけである。
天皇家の男には、色々の氏族の女性との結婚を許されており、男系として天皇家の血筋が保たれることが重要と考えられた。
ところが天皇家以外に天皇の娘が嫁いだら、その子供は天皇の孫となり、神聖な神の血が天皇家外に出たことになり、皇位継承問題もからみ
天皇家の尊厳維持の上でも厳しくタブーとなったものと思われる。
これがどの天皇の頃からかは判然としない。
勿論初代神武天皇からそうであると言われる方々がいることも間違いない。
とんでもない記紀編纂時に都合の悪いことは総て抹殺したのである、と主張される先生方もおられるでしょう。
筆者は「万世一系」問題とこの天皇の娘の婚姻問題は、軸を同じくする問題と考える。
少なくとも記紀記述では、天皇の娘が皇族以外の氏族と婚姻した記録を残してないと断定する。
古代豪族の系図からもそのような例は発見されてない。
勿論天皇の2、3世孫の娘が一般氏族と婚姻した例は例外的にあったかもしれない。
4世孫以降では、系図的には残されてなくとも実際にはあったものと推定する。
物部氏、尾張氏、蘇我氏、葛城氏、和邇氏の系図には無い。勿論息長氏の系図には表れている。
神別氏族で3世孫までの娘のそのような例があるのであろうか。
現段階では記紀記述の範囲では筆者の調査にはない。
いずれにせよ和邇氏は、春日和邇日爪の娘糠子が29欽明天皇妃となったとの記録を最後に記紀記録からも影が消える。
反面,派生氏族である柿本氏、小野氏、粟田氏らの面々が色々活躍することになり、小野氏は延々とその活躍の系譜が続いたとされる。
 
まとめ)筆者の主張
@21雄略天皇から29欽明天皇・30敏達天皇までは,女系では間違いなく血脈は繋がっている。
息長氏と和邇氏は非常に近い関係にあり、この両氏族の女系が天皇家の血脈維持に重要な役割を演じている。
A10崇神天皇以降で天皇の娘が直接古代豪族(4世孫以降の皇別氏族を含む)に嫁ぎその氏族に天皇家の血が入ることはなかった。これは厳然と守られた天皇家保持の大原則みたいなものであったような気がする。(天皇家とそれ以外の氏族との峻別化)
この原則が崩れるのは平安時代の藤原氏時代に,例外的にあった位厳しいものと判断する。記紀系図を作成時にそのような例外を系図から削除した又は改竄したなら話は別である。天皇の娘は神に仕える巫女、又は3世までの皇子の妃となったようである。
B問題は神功皇后ー15応神天皇のところである。どうも謎が多い。尾張氏、息長氏、葛城氏の女性が関係してくるが、その裏に何故か和邇氏女性が絡んでいる。
即ち「彦坐王」がらみの女性陣の存在が意味ありと判断している。
C15応神天皇ー25武烈天皇までの天皇家、和邇氏、息長氏の系図を総て創作・虚偽であるとする説には組しない。
D和邇氏は歴史上、実在し、少なくとも15応神天皇以降の歴代天皇家に妃を供給し天皇家の血脈維持に貢献したが、その妃の子供が天皇になった例はない。また和邇氏自体が政治上表立つことはなかった。その主流は、奈良時代には影をひそめ、派生氏族である小野氏等が後代まで多くの歴史上の人材を輩出した。

(参考文献)
・古代豪族の研究     新人物往来社(2002年)