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20.古代天皇家概論U(38天智天皇ー50桓武天皇)
1)はじめに
古代豪族を論考する上で、基準点的役割を果たすのが、歴代天皇である。これは記紀及びその後の公的歴史書は、概ね各天皇の時代で区切って記しているためでもある。
既稿4.「古代初期天皇家概論」で1神武天皇ー25武烈天皇、8.「古代天皇家概論」で26継体天皇ー40天武天皇までを概観してきた。
本稿では一部重複をするが38天智天皇から50桓武天皇即位までを概観したい。
 日本史における古代から中世へと移る画期となった、源氏と平氏の総元祖は、50桓武天皇である。桓武天皇は、都を奈良から長岡京に移しさらに京都に遷都した天皇である。しかし、その成立過程は非常に複雑である。何故桓武天皇が生まれ、何故平安京に遷都したのかを解明することが、何故源氏・平氏が生まれたかを知る上で重要である。この過程で、陰に陽に重要な役割を演じたのが藤原氏である。古代豪族ナンバーワンは、なんと言っても藤原氏である。この藤原氏については改めて論じたいが、本稿の中にその原点が含まれている。
 蘇我氏が日本の政治を牛耳った時代が終わり、中大兄皇子がいよいよ表舞台に登場し、661年実質的に38天智天皇時代となり、日本はいよいよ律令国家としての体制を整えはじめた。667年には都を近江の大津に移し、668年正式にそこで即位した。しかし、間もなく671年には崩じられ、息子の大友皇子(明治以後39弘文天皇)がそれを継ごうとしたが、ここで天智天皇の弟である大海人皇子が蜂起して、「壬申の乱」が勃発した。
そして生まれたのが40天武天皇である。天武朝は再び都を飛鳥の地に戻し、673年飛鳥浄御原宮で即位した。以後48称徳天皇まで天武系の王朝が続いたが、49光仁天皇は天智天皇の孫にあたり、血脈は再び天智系に戻った。この光仁天皇の子供が50桓武天皇である。
781年桓武天皇は平城宮で即位され、784年に長岡京に遷都、794年に平安京に遷都、806年崩御。
本稿では、以上のうち中大兄皇子時代から桓武天皇即位くらいまでの約150年を扱いたい。
この150年は、記録もかなりはっきりしており、幾つかの謎はあるものの、平安京に日本の都が固定される礎の時代であった。
また古代豪族が次々滅亡し、藤原氏全盛時代の礎の時代でもあった。
 
2)人物列伝
8.「古代天皇家概論」と一部重複があるが、38天智天皇以降について天皇の即位順に列伝することにする。
 
2−1)38天智天皇(626−671)在位(661−671)
@父;34舒明天皇 母;35皇極(37斉明)天皇
A子供;大田皇女(天武妃、母;遠智娘)菟野皇女(持統天皇、天武后、母;同左)
建皇子(母;同左)大友皇子(弘文天皇、母;宅子) 阿閇皇子(母:同左)
阿閇皇女(元明天皇、草壁妃、母;姪娘)御名部皇女(高市皇子妃、母;同左)
大江皇女(天武妃、母;色夫古娘)泉皇女(母;同左)川島皇子(母;同左)
飛鳥皇女(刑部妃、母;橘娘)新田部皇女(母;同左)
山辺皇女(大津皇子妃、母;常陸娘)
施貴親王(母;越道君女郎)
水主皇女(母:栗隈首徳萬女黒媛)
皇后;倭姫王(古人大兄皇子女)
嬪;遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂女)姪娘(同左、妹)
  橘娘(安倍倉梯麻呂女)常陸娘(蘇我赤兄女)
采女;宅子娘(伊賀采女)、色夫古娘(忍海造小竜女)越道君女、蘇我造媛
車持与志古娘、額田姫王、鏡姫王、栗隈黒媛娘など
B本名;中大兄皇子  34舒明の次男、 別名:葛城皇子
C640年遣隋使南淵請安が帰国。中臣鎌子(後の鎌足)らと講義を受ける。
641年舒明天皇没。
642年皇極天皇即位。蘇我蝦夷引き続き大臣。入鹿が実権を握る。
D645年蘇我入鹿らの専横に憤慨し、中臣鎌足らと謀って蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)後、36孝徳を立て、自らは皇太子となった。 (大化の改新)
E645年吉野に出家していた兄「古人大兄皇子」の謀反の密告があり、殺害する。
F36孝徳没後も、皇位に就かず母皇極が、37斉明として重祚し、658年36孝徳の遺児有馬皇子を謀反のかどで処刑するなど、長らく皇太子のまま実権を握っていた。
G659年第四次遣唐使派遣。
H660年初めての水時計(漏剋)を造る。百済が唐・新羅連合軍に大敗。日本に救援を求めた。
I百済王子「豊璋」、鬼室福信の記事。
J661年斉明天皇新羅征討に出軍。九州で没。中大兄皇子は称制を開始。帰京。
K662年唐・新羅連合軍が高句麗を討つ。高句麗が日本に救援要請。同年鎌足が近江令を刊定。
L663年27,000の軍朝鮮出兵、「白村江の戦い」で大敗(唐、新羅連合軍)これにより、百済滅亡。百済王氏ら大量の亡命渡来人がくる。
M664年対馬、壱岐、筑紫に防人、水城を設置。
N667年大津へ遷都。高安城(倭)、屋島城(讃岐)、金田城(対馬)築く。  
O668年近江大津京で即位。 高句麗滅亡。新羅が朝鮮半島統一。
P669年中臣鎌足に「大職冠」授け、「内大臣」とし、藤原姓を賜与した。鎌足没。
Q670年「庚午年籍」を造る。
R671年新体制;太政大臣ー大友皇子、左大臣ー蘇我赤兄、右大臣ー中臣金
御史大夫;蘇我果安、巨勢人、紀大人。
S671年同母弟で皇位継承の最有力候補だった大海人皇子を病床に召し、後事を託す。しかし、大海人は、次々と皇位継承者を謀殺してきた 天智天皇の本心を見抜き、怖れ、これを固辞して、自らは吉野に出家隠遁。
S@長子の大友皇子(弘文天皇)を後継に擁立すると、間もなく崩じた。
SA志賀大津宮
 
(参考)
・倭姫王(?−?)
@父:古人大兄皇子 母:不明
A夫:天智天皇。兄弟:不明
B645年父は新政権に謀反を計画した疑いにより中大兄皇子らにより処刑された。
倭姫王は死を免れ、東漢氏の元で養育されたとされている。
C668年天智天皇の后となる。 結婚はこれ以前いつかは不明。
D671年天智死亡時は存命であったとされる。生涯子供なし。

・建皇子(649−658)
@父:天智天皇 母:蘇我倉山田石川麻呂娘遠智娘(?−649又は651)
A姉:大田皇女、讃良皇女
B本来ならこの人物が天智天皇の後継者的存在であった。口をきくことが不自由だったとされている。斉明天皇が非常に可愛がったとされている。
C一説にはこの皇子は、 蘇我倉山田石川麻呂娘遠智娘の子供ではないという。
 
・阿閇皇子(?−?)
@父:天智天皇 母:宅子媛
A兄弟:大友皇子、阿雅皇女
B事績等不明。
 
・河嶋皇子(657−691)
@父;天智天皇 母;忍海造小竜女色夫古娘
A天智第2皇子。妃;泊瀬部皇女<天武、春原朝臣氏、淡海朝臣氏の祖。
同母兄弟姉妹:泉皇女(?ー734):伊勢神宮斎宮)・大江皇女(?−699):天武妃
子供:高丘王(近江氏祖)、三室王(淡海氏祖)
B679年吉野での「六皇子の盟約」(草壁・大津・高市・忍壁・志貴皇子)に参加。
C686年大津皇子の謀反を密告したと言われている。懐風藻によると、温厚な人柄。
 
 
・施貴皇子(?−716)
@父;天智天皇 母;越道君娘伊良都売(采女)(越の豪族「道君」女)*
A天智の第7皇子(第3皇子?)正室;多岐皇女(天武女で伊勢斉宮)
側室;紀朝臣椽姫(紀諸人女、白壁王の母)子供;白壁王、難波内親王、湯原王、春日 王、榎井王、 海上王女、 坂合部女王など。
B「六皇子の盟約」に参画。
C715年二品に除せられた。政治面で活躍の場なし。皇族・貴族の教養書の選定をしていたようである。歌、学問には非凡さを発揮。
D「道鏡」は、施貴の子であるとの説あるが、信じられない。???
Eこの子供白壁王が志貴皇子の死後、770年に49光仁天皇となり、50桓武天皇へと繋がっていくことになる。
   *685年50桓武より太皇太夫人と朝臣姓を追贈された。
 
・春日王(?−?)
@父:志貴皇子 母:多紀王女<天武
A子供:安貴王?
 
・安貴王(?ー?)
@父:春日王? 母:不明
A妻:紀小鹿女郎 因幡八上采女(藤原麻呂の妻:浜成の母と同一)
B不敬の罪に問われた。姦通罪。
 
・市原王(?−?)
@父:安貴王 母:不明
A正妻:能登内親王(733−781)<光仁天皇   妃:紀小鹿女郎
子供:五百枝王、五百井女王
B743年従五位下。
C763年摂津大夫、造東大寺長官。以後不明。
 
・五百枝王(760−829)
@父;市原王 母;能登内親王
A桓武天皇の甥。即位後侍従となった。
B種継暗殺事件に連座。伊予へ流罪。805年免罪、帰京。
C桓武崩御後皇太子、安殿親王に春原朝臣を賜姓される。
 
・五百井女王(?−817)
@父;市原王 母;能登内親王
A桓武天皇の姪。母能登内親王が、死んだ時弟五百枝王と共に二世王として優遇する旨
光仁天皇の詔あり。
B女官として異例の高位(従二位)まで上った。
 
 
・湯原王
・壱志濃王
桓武天皇朝大納言正三位
・榎井王
 
・大田皇女(645以前−667頃)
@父:天智天皇 母:蘇我倉山田石川麻呂娘遠智娘
A夫:天武天皇 兄弟姉妹:建皇子、41持統天皇
子供:大伯皇女、大津皇子
B41持統天皇の姉である。
C持統天皇より先に天武天皇の正妻となっていた可能性が高いとされている。
D661年いわゆる白村江の戦いに斉明天皇らと九州に出兵中に現地で第1子大伯皇女を
出産。
E662年持統天皇が草壁皇子出産。
F663年大津皇子出産。
G665年孝徳天皇后間人皇女他界。この前後に大田皇女も他界説有力。
 
・山辺皇女(?−686)
@父:天智天皇 母:蘇我赤兄女常陸娘
A夫:大津皇子 子供:粟津王(豊原氏祖)
B686年大津皇子謀反事件により後追い自殺した。
C外祖父蘇我赤兄は有馬皇子を陥れた人物とされている。
 
・飛鳥皇女(?−700)
・新田部皇女(?−699)
・御名部皇女 (658?−?)
 
・泉皇女(?−734)
@父:天智天皇 母:忍海造小竜娘色夫古娘
A同母兄弟:川島皇子・大江皇女
B691年兄川島皇子没。
C699年姉大江皇女没。
D701年斎宮として伊勢神宮へ。
E706年田形皇女が斎宮となる。
 
・大江皇女(?−699)
 
・水主皇女(?−737)
@父:天智天皇 母:黒媛娘
 
参考)・額田王女(?−?)
@父;鏡王 母;不明
A40天武との間に十市皇女(大友皇子妃)を産む。その後38天智の後宮に入った?
B38天智妃「鏡王女」が姉であるという説と、関係ないとの両方あり。
いずれにせよ、その出自は謎である。ーーーー古代史の謎ーーー
  ーーー万葉歌人ーーー
 
 
2−2)39弘文天皇(648−672)在位(671−672)
@父;38天智天皇 母;伊賀采女宅子
A子供;葛野王、壱志姫王、与多王
妃;十市皇女(天武女)、藤原耳面刀自(鎌足女)
B38天智天皇第1皇子 大友皇子、淡海真人氏の祖。
C658年天智の後継者と目されていた建皇子が8才で他界。
D668年天智即位。大海人皇子が皇太弟となる。博学で文武の才に長じ、鎌足の息女(耳面刀自)を側室にした。
E671年史上初の太政大臣になった。
母が、伊賀の采女であったために貴族らの支持を得られないまま、671年38天智天皇の没後近江朝廷の主となった。
F叔父大海人皇子が、決起して「壬申の乱」勃発(672年)。***近江国瀬田の決戦に大敗。 大友皇子は、自殺。
G明治になって、39弘文天皇と認定された。
H志賀大津宮
I葛野王の孫が懐風藻の撰者である淡海三船であり、与多王の孫が六歌仙の一人である大友黒主である。とされている。
参考)***日本書紀では、大友皇子は天皇と認めてない。もしこれを天皇と大海人皇子の戦いとしたらこれは、明らかなる反逆行為として、革命扱いになる。よって皇位継承に伴う争いの一つだと筋をとうした形になっている。一説では、元来日本書紀にも天皇紀が
存在していたが、編纂者「舎人親王」が、父天武天皇の皇位簒奪の印象を拭い去ろうとして、大友皇子の即位を省いたとの説(伴 信友)
 
・葛野王(669?−705)
@父:大友皇子 母:十市皇女<天武
A子供:池辺王、藤並王
B696年高市皇子死去の後持統天皇が軽皇子を皇太子にしようとしたとき、天皇位の直系相続を主張、弓削皇子と論争の記事あり。
C正四位式部卿となった。
 
・淡海三船(722−785)
@父:池辺王 母:不明
A子供:不明
B751年淡海真人姓となる。大学頭、文章博士、石上宅嗣と並ぶ文人。
C765年大伴古慈斐とともに禁固刑を受ける。
漢詩集「懐風藻」撰者。漢風諡号の撰者。とも言われている。
 
2−3)40天武天皇(631?−686)在位(673−686)
@父;34舒明天皇 母;35皇極(37斉明)天皇
A子供;十市皇女(弘文妃、母;額田姫)高市皇子(母;尼子娘)
大伯内親王(母;大田皇女)大津皇子(母;同左)                 弓削皇子(母;大江皇女)長皇子(母;同左)
草壁皇子(母;持統天皇)新田部皇子(母;五百重娘)但馬皇女(母;氷上娘)
刑部皇子(母;穴人臣大麻呂女)磯城皇子(母;同左)               泊瀬部皇女(川島妃、母;同左)多紀郡皇女(施貴妃、母;同左)
紀皇女(母;石川夫人)田形皇女(母;同左)穂積皇子(母;同左)
舎人親王(母;新田部皇女)
皇后;菟野皇女(持統天皇、天智女)
妃;大田皇女(天智女)、大江皇女(天智女)、新田部皇女(天智女)
夫人;氷上娘(藤原鎌足女)五百重娘(鎌足女)石川夫人(別名;大荻娘、蘇我赤兄女)
額田姫王、尼子娘(胸形君徳善女)穀媛娘(穴人臣大麻呂女)。
B38天智天皇の実弟 大海人皇子
C653年日本書紀記事初出?皇太子中大兄皇子に同行。
654年難波に皇太子と同行。長男高市皇子誕生?
662年次男草壁皇子誕生。664年記事。
D667年近江大津宮遷都。
E668年天智天皇即位。この祝宴の時長槍で敷板を刺し抜き天皇激高するが、鎌足のとりなしで事なきをえた。(藤原家伝)原因不明。
F669年内大臣鎌足の病床へ、天智の命で大職冠、藤原姓を授けに赴いた。この時に記述は「東宮大皇弟」とあり、皇位継承者を明示してある。
G671年天智天皇の病床で、皇位を託されたが次々と皇位継承者を謀殺してきた兄を怖れてこれを固辞。出家して吉野に隠遁していた。
H672年天智没後、後継となった大友皇子が、吉野を急襲する準備をしているとの情報を得て(大伴連吹負の活躍、中臣金処刑の記事)、決起し大友皇子を討って(壬申の乱)飛鳥岡本宮に移った。
I673年 飛鳥浄御原で即位、飛鳥浄御原令の作成を命ず。
J679年吉野で6皇子を 集めて盟約をした。(草壁、高 市、河嶋、施貴、刑部、大津)
K681年皇太子; 草壁皇子(20才) いわゆる「親 政」体制で政治をおこなった。大臣任命なし。本格的律令国家樹立に邁進。飛鳥浄御原令
L新羅が半島統一。新羅との外交関係保持する方針をとる。唐との国交は、断絶。
M川原寺に一切経の書写を始めさせる。(最初の写経事業)また大臣を廃し、皇親政治をとり、律令、古事記・日本書紀などの史書の編纂を命じた。 諸国境界の確定など中央集権国家体制を固めた。伊勢神宮の祭祀重視。三種の神器の制定。天皇号の創始(推古天皇朝であるとの説もある)。
N683年大津皇子に朝政を執らせる。
O684年八色の姓制定。685年冠位48階制定。
P飛鳥浄御原宮 (明日香村)
Q689年40天武崩御。直後「大津皇子の謀反」発覚、皇子自殺。(41持統の陰謀?)
 
参考)正史上は、上記の通りであるが、古くから出自に謎があるとされている。 ーーーーーーー「古代史の謎」ーーーーー
イ)日本書紀編纂を命じた天皇でありながら、誕生の年不明。何処にも記録なし。古い天皇で誕生年不明はあるが、この時代では考えにくい。意図的に隠した?
ロ)誕生を隠さなければならぬ、理由があった。???
ハ)日本書紀は、天武天皇の正当性を歴史上確定させるために編纂させた。?
ニ)皇后であり、皇位継承者であった持統天皇は、それを総て知った上で、皇位につかざるをえなかった。
草壁が嗣げば問題はないが、それ以外即ち自分の子以外では、
天皇家の血統が絶えると判断せざるをえなかった。?

ホ)よって沢山の皇位継承資格のある皇子がいたにも関わらず、異例の継承を自分でした。???
ヘ)日本書紀及び総ての記録の中から、天武の出生に関する事項は、上記正史以外は、無い物と仕組んだ形跡あり。?

ト)母親が皇極であること間違いない。問題は父親である。
皇極(宝王女)は、初め、
蘇我系皇族「高向王」(31用明天皇の孫、とあるが、父は不明)と結婚し、漢王を産んだ。その後34舒明天皇に嫁ぎ、天智、天武らを産んだとされている。漢王までは、記録あり。よってこの漢王が、天武という説あり。勿論天智より年上、兄になる。しかし、これなら王族であり隠す必要はない。いやいやそんなものではない、天皇家とは、全く関係ない人物(新羅人?)と皇極との子だという説。高向王は、蘇我入鹿であるという説まである。
チ)38天智の子、持統の弟「建王」の話。建王=漢王=40天武説持統は、蘇我系皇族、天武も蘇我系であった可能性あり。よって、飛鳥に対し隠然たる力を持っていた。天智はこれを無視出来ず、多くの娘を天武に嫁がせた。との説。

リ)どうであれここで皇統が、切れた。少なくとも、男子系において、継体とは違ってそれも秘密裏にそうなった。それを持統が、知った。徹底的対策(歴史に残らぬ)をとった。?ーーーお面白いが天智もそれを知らなかったのか?少なくとも長い間天智を助け、実質的には皇太子であった。その出自に一寸でも不信な点があれば、第1に天智がそれを暴いて処分したはず。ーーー

ヌ)新羅人の金多遂であるという説(佐々克明氏)高句麗人の淵蓋蘇文であるという説(小林恵子氏)などなど。
 
 
・草壁皇子(662−689)
@父;天武天皇 母;持統天皇(天智女)
A天武第2皇子 妃;阿閇皇女(43元明天皇)
B子供:軽皇子(42文武天皇)氷高皇女(44元正天皇)吉備皇女(長屋王妃)
C671年父母と共に吉野に隠れる。
D672年「壬申の乱」に際し、父母と共に東国へ下り従軍する。
E679年吉野での「六皇子の盟約」に参加。
F681年立太子。
G683年大津皇子が摂政的地位を得て政治に関与。
H686年病気になった天武は讃良皇后と草壁皇太子に大権を委ね、大津皇子は失脚。
I同年天武崩御。大津皇子が草壁皇子らに謀反の計画ありと川島皇子から密告あり。
大津皇子は自殺(処刑?)する。同年持統天皇即位(称制)。
J689年天武の後継ぎとされたが、即位することなく、28才で没す。
Kこの流れが天武朝の本流となる。
L柿本人麻呂との交友。
 
 
・高市皇子(654?ー696)
@父;天武天皇 母;胸形君徳善女(尼子姫)
A天武第1皇子、「たけちのみこ」。妃:御名部皇女<天智、但馬皇女<天武
子供:長屋王(母:御名部皇女)、鈴鹿王(母:同左)、河内女王、山形女王等。
B高市県主のもとで養育された。
C「壬申の乱」勃発時は、大津皇子と共に近江にいたが、逃げて父の一行に合流将軍に任命された。
D父即位後は、大臣を置かず、皇后、皇子らで皇親中心の政治を行った。
E「六皇子の盟」に参加「相扶けて逆らふること無」きことを父帝に誓約した。
F翌年異母弟草壁皇子(20才)が、立太子。高市皇子が年長であったが、立太子出来なかったのは、母親の出身の低さによるものとされている。草壁死後高市も皇太子になったらしい?が、持統は、孫の軽皇子を次期天皇に推した。
G690年持統帝の時、太政大臣となる。非常に有能な人材であったとされる。
H696年没。(高松塚の主説あり)その翌年に持統天皇は文武天皇に譲位した。
I子供「長屋王」の活躍。長屋王の変へと繋がる。
 
・鈴鹿王(?−745)
@父:高市皇子 母:御名部皇女<天智
A同母兄弟:兄;長屋王
B729年長屋王の変で連座。赦免。
C731年参議。
D737年知太政官事に就任。
E邸宅跡は、称徳天皇御陵となる。

・河内女王(?ー779)
@父:高市皇子 母:不明
A結婚の記録なし。
B739年従四位上
C769年不破内親王事件に連座。宇佐八幡宮神託事件。
D773年正三位で復権。
 
・長屋王(676又は684ー729)
@父;高市皇子 母;御名部皇女<天智
A高市の第1子。吉備内親王(草壁女)を正室とし、膳夫王、葛木王ら。藤原長蛾子との
間に安宿王、黄文王ら。智努女王<長皇子、安倍大刀自、石川夫人らを妃とした。
B皇太子であったらしい。
C718年大納言。719年右大臣不比等死亡。721年右大臣。
これ以降皇親政治に戻す動きの中心人物となる。
D721年元明上皇は、右大臣長屋王と藤原房前に後事を託す。
E723年三世一身の法施行に関与。
F首皇太子の即位に関し推進派武智麻呂と慎重派長屋王との間対立。724年首皇子即位。正二位左大臣になる。聖武天皇の母藤原宮子の扱いについてその尊称を改めさせた。
この後不比等の四子との対立激化。聖武天皇妃、不比等娘光明子が727年男子生む。しかし、夭折。
F729年「長屋王の変」で自殺。光明子立后を反対されることを恐れた藤原氏の陰謀。
Gこの変で大多数の妃や子供も一緒に自害した。但し藤原長娥子及びその子供らは許され
生き残った。その一人とされる桑田王の流れから高階氏が発生し、平安時代以降も貴族
「高階氏」として活躍する。
 
・山背王(?−763)
@父:長屋王 母:藤原長蛾子<不比等
A同母兄弟:安宿王、黄文王、桑田王など
B729年長屋王の変。母が藤原氏であったため助かる。
C757年橘奈良麻呂の乱では謀反計画を密告し、反藤原勢力を封じた。
奈良麻呂は兄弟の黄文王・安宿王などを皇位につけようとして山背王は対象外だったようである。よって山背王は他の兄弟とは異なり親藤原・親仲麻呂的行動をとった。
D孝謙天皇から藤原姓を賜り、藤原弟貞と改名。
E762年参議。
 
・安宿王(?−?)
@父;長屋王 母:藤原長蛾子<不比等
A同母兄弟:山背王・黄文王・桑田王など
B729年長屋王の変。母が藤原氏であったため助かる。
C754年鑑真和上歓迎勅使。
D757年奈良麻呂の乱で黄文王に加担。黄文王死去。安宿王は佐渡流罪。
E773年高階真人賜姓。
 
・黄文王(?−757)
@父:長屋王 母:藤原長蛾子<不比等
A同母兄弟:山背王・安宿王・桑田王など
B729年長屋王の変。母が藤原氏であったため助かる。
C757年奈良麻呂の乱で関与が確実視され、獄死。
佐伯全成は、奈良麻呂が黄文王を天皇位につけようと企んだとされる。
 
・大津皇子(663−686)
@父;天武天皇 母;大田皇女
A天武第3皇子。同母姉;大泊皇女、妃:山辺皇女<天智
子供は山辺皇女との間に粟津王(豊原氏祖)がいる。
B天智天皇の長女(大田皇女)の子として、九州筑紫で生まれ、天智の寵愛を受けたが、程なく(667年頃)母を失う。
これにより、父大海人の正妃は草壁皇子の母、菟野皇女に移った。
C672年「壬申の乱」時兄高市と共に近江にいた。(10才)急遽伊勢の父のところに逃げた。
D673年父即位後、679年「六皇子の盟約」に草壁、高市、河嶋、志貴、忍壁、らと参加。
E674年姉大伯皇女が斎宮となり伊勢に行き、二人は引き離される。
F681年草壁皇子立太子。
G683年21才時朝政を委ねられた。新羅の僧行心との関係始まる。(謀反計画原因)
H687年天武崩御。大津失脚。
F父帝崩御後謀反が発覚(草壁擁立派の皇后らの謀略?)24才で自殺。山辺皇女もこれに従う。
 
 
・忍壁皇子(666−705)
@父;天武天皇 母;宍人臣大麻呂女
A天武第4皇子、同母弟;磯城皇子、泊瀬部皇子、多岐皇女。妃: 明日香皇女<天智 子供:山前王、長谷女王。
B672年「壬申の乱」時父大海人皇子に随行して、東国へ向かう。
C「六皇子の盟」に参画。
D696年までに大津、草壁、高市らが死に、天武皇子としては、最年長の存在となった。しかし、持統天皇は、孫の軽王の即位を熱望し、697年文武天皇が即位した。
E703年史上初の知太政官事に任命される。若い文武帝を補佐する役目。しかし、自分より若い長皇子・舎人皇子・穂積皇子よりは位は下位であった。
F高松塚古墳の主説あり。
 
 
・舎人皇子(676?684年−735)
@父;天武天皇 母;新田部皇女(天智女)
A天武第6皇子、第3皇子とも。妃:当麻老女山背。子供:大炊王(47淳仁天皇)、御原王、船王、池田王、貞代王らあり。
B719年新田部皇子と共に首皇太子の補佐役に任命される。
C720年「日本書記」奏上。藤原不比等の死去に伴い、元正天皇の知太政官事を任じられ、混乱の収拾役を演じたとされる。
D729年長屋王の乱の時、新田部皇子と共に窮問使となった。長屋王自害。
長屋王と舎人親王の関係は微妙である。後年は親藤原政治に荷担したと考えられる。
E735年60才で死去。最後に生き残った天武皇子。
Fこの流れから平安貴族清原氏:清少納言もその末裔。前9年の役・後三年の役で有名な奥州清原氏など名門清原氏が発生するのである。
 
・御原王(?−752)
@父:舎人皇子 母:不明
A子供:和気王、岡細川、石浦王、小倉王 兄弟:淳仁天皇ら   「三原王」とも記す。
B717年従四位下。746年大蔵卿、749年正三位中務卿
C藤原広嗣の乱後躍進。元正天皇との関係が強かった。
D子供小倉王の流れから清原氏発生。
 
・和気王(?−765)
@父:三原王  母:不明
A子供:長尾王
B755年岡真人姓となる。
C764年藤原仲麻呂の乱では反仲麻呂で活躍。参議兵部卿。淳仁天皇廃立に加担。
D765年称徳天皇・道鏡を呪詛し、自ら皇位を狙った謀反計画発覚、伊豆流罪。
山背国相楽郡で絞殺される。
 
・船王(?−?)
@父:舎人皇子 母:当麻老女山背
A子供:栄井王ほか 同母兄弟:弟47淳仁天皇 守部王、飛田内親王
B757年奈良麻呂の乱の時、藤原仲麻呂につき鎮圧。黄文王・道祖王・らを殺害。
C奈良麻呂ー淳仁路線。
D764年仲麻呂の乱で流罪。弟池田王も同じ。
 
・穂積皇子(673?−715)
@父;天武天皇 母;蘇我赤兄女大ヌ娘(石川夫人)
A天武第8皇子、妃;大伴坂上郎女など。子供:上道王、境部王
同母妹:紀皇女、田形皇女
B但馬皇女をめぐる高市皇子との三角関係。
C705年知太政官事。
D706年右大臣格になる。
 
・長皇子(?ー715)
@父;天武天皇 母;大江皇女(天智女)
A天武第7皇子。弓削皇子の同母兄。子供:栗栖王、長田王、智努王、邑知王、智努女王、
広瀬女王、(川内王)
B715年一品に叙せられる。歴史的には、一般的には蔭の薄い存在であった。
Cこの流れから文室氏が発生する。子供文室浄三・大市らは天皇候補にもなった。
また栗栖王の子供から神足氏が興り、これが桓武天皇の長岡京遷都に伴い長岡京に移り
長岡京の神足氏の祖となったとの説もある。
 
・新田部皇子(?−735)
@父;天武天皇 母;五百重娘(鎌足女)
A天武第10皇子(末男)、異父弟;藤原麻呂(藤原京家祖)、妃:不明。子;塩焼王、道祖王。
B700年従四位下。
C719年首皇太子補佐役。
D720年藤原不比等没。近衛部隊最高司令官となり、朝廷の武人的役割を担う。
E729年「長屋王の変」の時武智麻呂、舎人親王らと王邸に派遣され、王を訊問。この時大将軍。藤原氏とは親しい関係にあった。藤原四兄弟の一人麻呂は異父弟であった。
F旧邸は、鑑真に与えられ、唐招提寺になった。
G735年疫病流行の平城京で死亡。
H子供塩焼王・道祖王ともに天皇位を狙う立場であり、その後の政局に翻弄され非業の最期をむかえることになる。
 
・塩焼王(?−764)
@父:新田部皇子 母:不明
A妃:不破内親王(聖武天皇娘)子供:氷上川継、氷上志計志麻呂
B735年父新田部皇子没。
C740年藤原広嗣の乱鎮圧。
D742年女官との不適切な関係により、伊豆に流罪。
E745年帰京。757年道祖王の廃太子により、藤原豊成・永手の推薦を受け立太子する計画があった。橘奈良麻呂の乱にも関与。758年臣籍降下し、氷上真人姓となる。
藤原仲麻呂らが天皇になる可能性のある人物として警戒してとった措置ともいわれている。
F764年藤原仲麻呂により今度は逆に天皇に擁立を計画(仲麻呂の乱)され、これにからみ琵琶湖で処刑された。
 
・氷上川継()
@父:塩焼王 母:不破内親王<聖武天皇
A妻:藤原法壱<藤原浜成(京家) 兄弟:氷上志計志麿
B782年氷上川継の乱で夫婦、母とも流刑。
 
・道祖王(?−757)
@父:新田部皇子 母:不明
A塩焼王の弟。
B756年聖武天皇の遺詔により孝謙天皇の皇太子になる。次期天皇の資格ありと判断された理由の一つに母が天智系の女だった可能性あるとの説あり。(宇改常典に従えば?)
C757年孝謙天皇は道祖王の行状宜しくないことを理由に廃太子された。
右大臣藤原豊成は兄塩焼王を後任に推薦。
文屋珍努・大伴古麻呂は舎人親王の子池田王推薦
藤原仲麻呂は天皇が後任を決めるべき、とした。
孝謙天皇は、弟が行状悪かったのに兄塩焼王はダメ。舎人親王系では、大炊王のみが評判良いと判断し、これを皇太子にした。(仲麻呂の陰謀説あり)
同年これに不満をもった橘奈良麻呂・大伴古麻呂らが、孝謙天皇を廃し塩焼王、道祖王、安宿王、黄文王の中から天皇を推戴しようと計画、発覚。奈良麻呂の乱により、獄死。
 
・但馬皇女(?ー708)
@父;天武天皇 母;氷上娘(鎌足女)
A異母兄;高市皇子、穂積皇子との間で、三角関係有名。
 
・十市皇女(?−678)
@父:天武天皇 母:額田王<鏡王
A夫:大友皇子 子供:葛野王
B母額田王が天智天皇の妃になったことで、情勢は一変した。
C672年の壬申の乱で夫を亡くし、葛野王と飛鳥に移動した模様だが不明。
D675年阿閇皇女と伊勢神宮参拝の記事。
E678年没。自殺説あり。謎とされている。
F葛野王の流れから淡海三船が出た。
 
・泊瀬部皇女(?−741)
@父:天武天皇 母:宍人大麻呂女かじ媛娘
A同母兄弟:忍壁皇子・磯城皇子・多紀皇女
夫:川島皇子<天智 子供:不明
B686年大津皇子事件で川島皇子が大津皇子の謀反計画を密告。この時二人は結婚していたのかは不明。
C691年夫川島皇子没。
 
・大伯皇女(661−701)
@父:天武天皇 母:大田皇女<天智
A弟:大津皇子
B初代斎宮。
C夏見廃寺。ゆかりの寺。
 
・紀皇女  (?−?)
記事ほとんどなし。
 
・田形皇女 (674−728)
@父:天武天皇 母:大ぬ娘<蘇我赤兄
A同母兄弟:穂積皇子・紀皇女
夫:六人部王 子供:笠縫王女
B伊勢神宮斎宮
 
・多紀皇女 (?ー751)
@父:天武天皇 母:かじ媛<宍人臣大麻呂
A同母兄弟:刑部皇子・泊瀬部皇女・磯城皇子
夫:志貴皇子 子供:春日王
B伊勢神宮斎宮
C一品。
 
2−4)41持統天皇(645−702)在位(686−697)
@父;38天智天皇 母;蘇我遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂女)
A天智天皇第2皇女 39弘文、43元明の異母姉、40天武天皇の皇后、菟野皇女。
B657年大海人皇子の妃となる。662年草壁皇子を生む。671年大海人皇子が、38天智の誘いに乗らず吉野に逃げた時、これに従う。「壬申の乱」を経て飛鳥に遷都673年40天武即位、菟野皇女が皇后となった。
C686年天武没後、称制をとって実子の草壁皇子をすぐに即位させず、継子の大津皇子を謀反のかどで自殺させ(川島皇子の密告)、草壁即位の安全を図った。
Dしかし、2年3ヶ月後天武の葬儀が終わって間もなく、寵愛していた草壁皇子が、没してしまった。(689年)
E草壁の遺児で孫にあたる軽皇子(42文武天皇)が、成長するまでの中継ぎとして、自ら即位した。(690年)(物部麻呂;大楯、中臣大嶋;神祇伯の記事)       体制;太政大臣ー高市皇子、右大臣ー丹比嶋
F40天武天皇の遺業を受け継ぎ、「飛鳥浄御原令」を施行(689年)。***    大化の改新以来の律令国家建設は、この御代にほぼ完成。
G696年高市皇子死亡、新規に大納言をおく。阿倍御主人、大伴御行
H697年軽皇子が、成長すると譲位し(大友皇子の子葛野皇子と弓削皇子の論戦記事)、太上天皇として天武を支えた。(この譲位方式 は、これが初めてである。上皇となり、若い天皇を補佐する。)702年崩御。この頃既に藤原不比等が頭角を現してきた。
I飛鳥浄御原宮ーーー>藤原宮 (橿原市)(694年)
***この時正式な形で「天皇」号が生まれた。それまでは、大王である。併せて国号として「日本」が、確定された。
   ーーー「日本書紀」の記述は、持統天皇までである。以降は「続日本紀」となる。
 
 
2−5)42文武天皇(683−707)在位(697−707)
@父;草壁皇子 母;阿閇皇女(43元明)
A子供;聖武天皇(母;宮子)
后;藤原宮子(藤原不比等女)
嬪;紀竈門娘、石川刀子娘
B7才の時、皇太子であった父草壁皇子が、死去。祖母持統天皇の庇護のもとに育った。14 才で即位。同母姉に氷高内親王(44元正) 軽皇子。草壁第2子
C反対勢力が、少なくなかったので、持統が天皇と同等の太上天皇として、共治体制をとった。「大宝律令」を天下に頒布。(702年)右大臣;阿倍御主人
D病弱、持統没後、母の阿閇皇女に譲位の意志を示し、25才で没した。不比等は既に当代随一の実力者となっていた。
E藤原宮
 
 
参考)・藤原宮子(?−754)
@父;藤原不比等 母;賀茂朝臣比売娘
A光明子の異母姉。42文武夫人。首皇子(45聖武)の母。
B697年文武天皇夫人となる。
C701年首皇子出産前から「人事を廃し」ていたため、出産後首皇子と面会することはなかった。
D724年聖武天皇即位直後、天皇は、宮子を「大夫人」と称する詔を発するが、長屋王らが、その称号は令に違反することを指摘し、天皇は、先勅を撤回、公式には、令通り「皇太夫人」とする詔を発した。
E735年玄ムの看病を受け正常な精神状態に戻り、聖武と相まみえた?。(聖武は、これまで母の顔を見てなかった。)
F746年僧玄ム死去。
 
・石川刀子娘(?−?)
@父:不明(蘇我氏系?) 母:不明
A夫:文武天皇 子供:広成皇子、広世皇子
B697年文武天皇の嬪となる。
C707年文武天皇崩御。
D713年嬪の位を剥奪される。二人の皇子も臣籍降下され、石川朝臣姓となる。
Eこれにより文武の後継者は藤原宮子の子供首皇子だけとなった。
この動きの背後に藤原不比等・県犬養三千代夫婦の策謀ありとされている。
 
2−6)43元明天皇(661−721)在位(707−715)
@父;天智天皇 母;蘇我姪娘(蘇我倉山田石川麻呂女)
A子供;文武天皇、元正天皇(氷高皇女)、吉備皇女(長屋王妃)
B阿閇皇女 天智天皇第4皇女、草壁皇子の妃。
C文武の子、自らの孫、首皇子に皇位を継承するべく中継ぎとして、即位。
D首皇子が、当時最大の実力者であった藤原不比等の孫にあたることから、不比等の意志
が、強く働いた。
E「和銅開珎」、平城京遷都、(710年、左大臣石上麻呂は、藤原京の留守役となり、不比等が事実上の最高実力者としての地位確立。「古事記」の撰上、「風土記」の編纂。
F藤原宮ーーー>平城京
 
 
 
2−7)44元正天皇(680−748)在位(715−724)
@父;草壁皇子 母;阿閇皇女(43元明)
A子供;なし。配偶者;なし。
B早世した文武の同母姉。氷高内親王。一生独身。
C皇位継承が約束されている首皇子(45聖武)が、未だ若く母の元明天皇が、年老いた
ことから、首皇子即位までの中継ぎとして、元明天皇に譲位されて即位。「不改常典」の記事
D「養老律令」(藤原不比等らにより撰修)「日本書紀」(舎人親王らが撰進)編纂。良田百万町開墾計画、三世一身の法。(723年)按察使の設置。
E720年不比等が没すと、藤原氏は、武智麻呂を中納言、房前を内臣とし、舎人親王を知太政官事に任命。721年長屋王を右大臣に任命。橘諸兄とも親交あり。
F平城京。
 
 
2ー8)45聖武天皇(701−756)在位(724−749)
@父;文武天皇 母;藤原宮子娘(不比等女)
A子供;阿倍内親王(孝謙、称徳天皇、母;光明子)基親王(母;光明子)井上内親王(光仁皇后、母;県犬養広刀自)安積親王(母;同左) 不破内親王(母;同左)
皇后;藤原安宿媛(光明子、不比等女)
夫人;県犬養広刀自(県犬養唐女)、藤原武智麻呂女、藤原房前女、橘古那可智。
B叔母元正天皇より譲位されて即位。首皇子。文武第1子。舎人親王、新田部親王が補佐
C諸国に国分寺、国分尼寺の造営の詔を発し、東大寺大仏の建立を命じ(740年)、仏教心の厚い天皇として、知られている。
D史上初めて、皇女の阿倍内親王(孝謙、称徳)を皇太子(738年)とした。即譲位。
E史上初めて、皇族以外の女性(藤原光明子)を皇后にした。(皇子ができてから皇后に
した場合はある。)
F729年左大臣長屋王謀反。自害させる。藤原武智麻呂を大納言、さらに右大臣にする。
G737年藤原4卿が、相次いで没す。皇后の異父兄橘諸兄を大納言次いで右大臣にする。
唐から帰国した玄坊、吉備真備らを重用した。
H740年藤原広嗣の乱起こる。大野東人が大将軍、紀飯麻呂が副将軍としてこれを討伐。
I744年安積皇子急死。
J左大臣橘諸兄、上皇誹謗の密告あり。不問。
K749年東大寺に行幸「三宝の奴」発言。孝謙に譲位。
L妃;橘古那可智、 武智麻呂女、房前女との間には、子がなかった。
M平城京、恭仁宮、紫香楽宮、難波宮。
・安積親王(728−744)
@父:聖武天皇 母:県犬養広刀自
A同母姉妹:井上内親王、不破内親王
B728年光明皇后の男児基皇子夭逝。安積親王はこの年に産まれた。
C738年阿倍内親王(718−770)が立太子。
D安積親王はこの時聖武天皇唯一の皇子であった。藤原氏にとって非常に不安材料であった。
E744年聖武天皇は恭仁京から難波宮へ行幸。恭仁京の留守官に鈴鹿王と藤原仲麻呂任命。安積親王も難波宮に同行したが、途中で脚気の症状が悪化。恭仁京へ戻る。その直後
安積皇子は急逝。17才であった。留守官の藤原仲麻呂・宇比良古*夫婦によって暗殺されたのではといわれている。
Fこれにより聖武天皇の直系男子は断絶。政治の混乱のきっかけとなっていった。とされる。
 
*藤原宇比良古(?−762)
@父:藤原房前(北家) 母:
A「袁比良女」とも記す。夫:藤原仲麻呂(南家)子供:久須麻呂・真先
B正三位尚蔵兼尚侍
C藤原仲麻呂(恵美押勝)政権の蔭の主役と言われた女性。孝謙天皇・光明皇后・淳仁天皇に仕え朝廷内では女官長の役目を果たした。
 
・不破内親王(?−?)
@父;聖武天皇 母;県犬養広刀自
A氷上塩焼に娶られ志計志麻呂、川継らを産む。
B764年夫の塩焼王は、恵美押勝の乱に加わり斬殺。
C769年県犬養姉女らと共謀し、称徳天皇を呪詛し子の志計志麻呂を帝位につけようと
企てたとの罪状により、京より追放される。
Dまた、氷上川継の謀反の企て発覚、淡路島へ配流。
 
 
・県犬養宿弥広刀自(?−762)
@父;県犬養宿弥唐 母;不明
A聖武天皇との間に井上内親王、安積親王、不破内親王あり。
 
 
・藤原光明子(701−760)
@父;藤原不比等 母;県犬養橘三千代
A不比等の第3女。武智麻呂、房前、宇合、麻呂、宮子の異母妹。夫首皇子は、同い年の
甥でもある。橘諸兄は、異父兄にあたる。首皇子との間に、阿倍内親王、基親王あり。
安宿媛(あすかひめ)740年頃より光明子と称す。
B716年16才で首皇子の妃となる。718年阿倍内親王出産。727年皇子出産。皇太子とする。729年臣下として異例の立后をはたした。
C730年施薬院設置。貧窮者救済に悲田院設置。
D737年疫病流行で、4人の兄を失う。
E大仏建立を天皇に勧めた。
F749年阿倍内親王が即位。甥の大納言藤原仲麻呂(武智麻呂の子)を紫微中台長官とし、実権を掌握した。
G756年聖武帝死す。天皇遺愛品を東大寺へ献じた。正倉院の始まり。
 
 
・県犬養橘三千代(?ー733)
@父;県犬養宿弥東人 母;不明
A参議県犬養石次は、弟か?
美努王との間に葛城王(橘諸兄)佐為王、牟漏女王(房前室)をもうけた。その後藤原不比等の夫人となり光明子をもうけた。
B「新撰姓氏録」によれば、県犬養氏は、神魂命の八世孫、阿居太都命の末裔。もと猟犬の飼育を職務とする伴造氏族。
C初め美努王に嫁するが、694年美努王が、太宰師として筑紫に赴任した後、王を捨て
不比等の室となる。701年光明子を産む。
D708年元明天皇より、橘宿弥姓を賜る。
E不比等の死後、不比等の莫大な遺産の大半は、三千代を経て光明子に受け継がれた。
ーーー一説;元々文武天皇の乳母として後宮で重きをなし、入内した紀、石川両氏の娘を
抑えて「宮子」の台頭を後押しした。との説。ーーー
 
・橘諸兄(684−757)
@父;美努王 母;県犬養橘三千代
A光明皇后は、異父妹。不比等の娘多比能を妻とし、奈良麻呂をもうけた。
多比能の母は、県犬養三千代との説あるが、これは近親婚であり、疑問。
B738年阿倍内親王の聖武天皇の立太子と同時に右大臣就任。以後政界を主導。
玄坊、吉備真備らをブレーンとした。
C740年藤原広嗣の乱。恭仁遷都実現。
D745年紫香楽遷都されるが、聖武天皇は、平城に還都。諸兄の脱平城京計画失敗。以後次第に実権を藤原仲麻呂に奪われる。
E754年官界引退。上皇誹謗の言辞の引責。
 
2ー9)46孝謙天皇(718−770)在位(749−758)
@父;聖武天皇 母;藤原安宿媛(光明子)(不比等女)
A子供;なし。配偶者;なし。
B聖武の第1皇女。安倍内親王。史上初めての女性皇太子。(21才)
C聖武太上天皇が没すると、遺詔に従って、新田部親王の子、道祖王を皇太子に立てたが
言動がそぐわないとして、皇太子の位を剥奪。右大臣藤原豊成、中務卿藤原永手らは、塩焼王を、文屋智努らは、池田王(舎人の子)を次期皇太子に推した。藤原仲麻呂は、天皇の裁定で大炊王を選んだ。
D「橘奈良麻呂の乱」
E台頭著しい藤原仲麻呂の進言によって、舎人親王の子、大炊王を皇太子に立て、翌年
大炊王に譲位した。47淳仁天皇即位。
F譲位後、弓削道鏡を寵愛し、これを咎めた淳仁と激しく対立。
G政治の実権を淳仁から剥奪。やがて重祚して、48称徳天皇のなった。
H平城京。
 
 
 
2ー10)47淳仁天皇(733−765)在位(758−764)
@父;舎人親王 母;当麻山背
A子供;山於皇女
妃;粟田諸姉(藤原仲麻呂長男真従の未亡人)
B40天武の孫。大炊王(舎人第7子)父舎人皇子は735年になくなっており、庇護者がいなかった。
C藤原仲麻呂の推挙によって、独身で跡継ぎのなかった孝謙天皇の皇太子(25才)になった。立太子以前は、妃と共に仲麻呂邸に居住。仲麻呂は、「恵美押勝」の名を賜り太政大臣扱いとなる。
D孝謙の譲位により即位。弓削道鏡を寵愛した孝謙を諫めたことで、孝謙上皇の怒りを買い、国権を剥奪され、窮状を打開しようとした仲麻呂の挙兵(764年)も孝謙により仲麻呂の息子久須麻呂が討たれ、仲麻呂は逃走したが、琵琶湖で、斬殺され鎮定された。
 (仲麻呂の乱)
E孝謙上皇は、淳仁天皇の皇位を剥奪。淡路島に幽閉した。その地で没。
F平城京
G淳仁天皇は明治天皇によって追号された天皇である。古文書では、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
ーーー仲麻呂の傀儡政権と言われた。ーーーー
 
・山於皇女
@父:淳仁天皇 母:粟田諸姉
A夫:磯部王<<長屋王 子供:石見王
B伊勢神宮斎王
C父の廃位に伴い斎王退任。帰京後磯部王と結婚。
 
 
 
2ー11)48称徳天皇(718−770)在位(764−770)
46孝謙天皇に同じ。
・平城京。
@仲麻呂の乱直後に、藤原豊成を右大臣に再任し、道鏡を大臣禅師とした。
A皇太子候補和気王(舎人の孫)を謀反の罪で絞殺。
B道鏡を太政大臣禅師に任命。
C藤原永手を右大臣、道鏡を法王に任じた。
D宇佐八幡宮神託により道鏡を皇位につけるべき奏上あり。和気清麻呂を公式に宇佐八幡の神託を伺うよう命じた。和気の答えは「我が国家君臣は、分定せり。ーーーーー」
との神託をなしたと報告。天皇激怒して和気を大隅に流した。道鏡は、称徳天皇の死後
帝位を狙う陰謀の罪で左遷された。
 
 
2ー12)49光仁天皇(709−781)在位(770−781)
@父;施基親王 母;紀橡姫(紀諸人女)
A子供;開成、能登内親王(市原王妃、母;同右)、山部親王(桓武天皇、母;高野新笠)早良親王(母;同左)弥努摩内親王(母:県主島姫)、広根諸勝(母:県犬養勇耳)、 稗田親王(母:尾張女王)  酒人内親王(桓武妃、母;井上皇女)他戸親王(母;同左)
皇后;井上内親王(聖武女)
妃;高野新笠(和乙継女)、尾張女王(海上女王女*−1)、藤原曹司、紀宮子、   県主嶋姫、県犬養勇耳、  大野仲子。
B天智天皇孫。白壁親王。 
C765年仲麻呂の乱鎮圧の功により、勲二等、766年大納言。
孝謙朝以後皇位継承をめぐる政争に巻き込まれることを恐れ、「酒を欲しいままにしていた」と言われている。
D770年称徳天皇が、後継を決めないまま没したため、次期皇位をどうするかで大もめがあった。
・右大臣吉備真備:文屋浄三(当時78才)<長屋王ーーー大市(浄三弟)を推戴。
白壁王は、諸王の中でも年長で正三位大納言の要職にあったこと、聖武天皇娘井上内親王との間に他戸親王をもうけていたことで、次期皇位につけられる、と判断し、左大臣藤原永手や式家藤原良継(弟藤原百川)らの支持を受け、推挙され立太子。
770年即位。(62才)
・本当は、永手らが、吉備真備らが作成していた、後継者発表の文書(形式的には称徳天皇の遺勅)を直前に名前だけ白壁王にすりかえたとされている。これにより、吉備真備は辞任した。
E770年井上内親王を皇后とし、翌年他戸親王を皇太子にした。
F771年北家藤原永手没。主導権は、式家藤原良継・百川らに移った。式家は他戸親王の皇位につくことを快く思っていなかった。
G772年井上皇后が、光仁天皇を呪詛しようとしているとして、廃后された。他戸親王も廃太子となった。
H773年藤原百川らの支援で、夫人、高野新笠との間にもうけた山部親王(桓武)が立太子。
I775年井上内親王・他戸親王が死亡(暗殺?)
J777年良継死去。完全に弟百川の時代となる。
K781年老齢で病の床に伏し、譲位した。
50桓武天皇即位。皇太子は、同母弟;早良親王
L光仁朝において、「万葉集」が、現在の形に近いところまで編纂整備された。
M平城京。
 
参考)・井上内親王(717−775)
@父;聖武天皇 母;県犬養広刀自
A721年5才の時伊勢斉王になる。744年帰京後白壁王の妃となる。「いがみ」
B770年光仁天皇即位、皇后となる。
C772年巫蠱(フコ)の罪に連座して、廃后。背後には、山部親王(桓武)擁立を謀る
藤原式家の策略があった?
D同時に息子他戸親王は、皇太子を廃された。他戸は、暴虐甚だしく以前より、父帝とは、
不和だったとのこと。
E775年幽閉先で、他戸(25才)と共に変死。これ以後転変地異が多数起こったとの
事。怨霊説出る。
 
・他戸親王(751?ー775)
@父:光仁天皇 母;井上内親王
A771年立太子(光仁朝)「おさべ」生年には諸説あり。756年生説もある。
B772年母井上内親王の大逆罪により皇太子を廃される。773年山部王立太子。
C775年母の罪に連座し、母と共に死亡。
 
 
・酒人内親王(754−829)
@父;光仁天皇 母;井上内親王
A桓武天皇に娶られ朝原内親王を産む。818年朝原死去。
B19才時伊勢斉宮になる。帰京後桓武夫人になる。
 
 
・高野新笠(?−789)
@父;和乙継 母;土師真妹
A光仁即位以前に室となり、能登女王、山部王、早良王を産んだ。
B和氏は、百済系渡来氏族。
C百済の武寧王を祖先とする和氏の出。美貌、有徳で若い頃より評判の女性。
 
・早良親王(750−785)
@父;光仁天皇 母;高野新笠
A11才の時出家。「さわら」
B781年兄山部王即位すると、父の遺志により皇太弟に立てられた。(32才)
C仏教界に重きを置き人望もあった。
D藤原田麻呂が東宮。大伴家持が春宮大夫となった。
E785年長岡京造営工事中、藤原種継が殺された。取り調べの結果、家持、五百枝王、
大伴継人らによる皇太子早良親王を担いだ謀反と断定された。
F乙訓寺(長岡京市今里)に幽閉され、抗議の断食、淡路に移送中憤死。
G後日罪は解かれ、崇道天皇を追称された。(怨霊鎮魂のため)
 
 
・能登内親王(733−781)
@父;光仁天皇 母;高野新笠
A山部、早良親王の同母姉。市原王の室となり、五百井女王、五百枝王をもうけた。子供
らは、二世王として扱われた。市原王は、違う。(四世王)天智ー河嶋皇子流れ
 
・稗田親王(751−781)
@父:光仁天皇 母:尾張女王
A773年山部親王立太子にあたり、その出自が渡来系であることを京家藤原浜成が指摘し、藤原百川と対立、尾張女王の子供である稗田親王を推挙したと水鏡にある。
 
・広根諸勝(?−?)
@父:光仁天皇 母:県犬養勇耳<
A親王宣下もされず、臣籍降下。従五位上。山城介、摂津介など。
 記事が殆どない。
 
*尾張王女(?−?)
@父;(湯原王?) 母;海上女王<志貴皇子
A白壁王側室となり稗田王(751−781)をもうけた。従四位上。
B母海上女王は、父は施貴皇子で初め45聖武天皇の妃となったが、後に湯原王(施貴皇子息子)と再婚し、壱志濃王(50桓武朝で大臣となる)を産んだという記録あり。  しかし、尾張王女の父は、不明。
C773年山部王立太子の時、藤原京家浜成が、稗田王を推したが、式家百川らにより
排除された。という記録あり。
 ーーー尾張王女関連の正式記録は、C項も含めない。ーーー
 
 
 
2−13)50桓武天皇(737−806)在位(781−806)
@父;49光仁天皇 母;高野新笠
A光仁天皇の長子、同母姉;能登女王、同母弟;早良王。
異母弟、妹;酒人女王、他戸王(母;井上内親王)
       稗田王(母;尾張王女)
正妻;乙牟漏(藤原式家良継女)ーー>子;高志内親王(53淳和夫人)
                     安殿親王(51平城天皇)
                     神野親王(52嵯峨天皇)
妃;藤原旅子(式家百川女)ーー>子;大伴親王(53淳和天皇)
妃;藤原吉子(南家是公女)ーー>子;伊予親王
妃;多治比真宗(多治比長野女)ーーー>葛原親王(桓武平氏元祖)
妃;藤原小屎  ーーー>万多親王(平姓)
妃;酒人内親王(49光仁女)ーーー>朝原内親王
その他多数女御あり。百済王明信もその一人。皇子、皇女総数;35人
 
 
<山部王誕生ーーー50桓武天皇即位>(737−781)
@737年(天平9年)誕生。名は山部、乳母の山部子虫にちなみ命名。
父白壁王は、29才で無位から従四位下に叙せられた年。45聖武朝で天武皇胤全盛期。天智系である父は、あまりはえない傍系皇族であった。
Aこの年藤原4家当主が、次々疫病で死んだ。
B母新笠は、百済帰化人流れ「和史乙継」と「土師宿弥真妹」という名もない夫婦の娘
 であった。(白壁王最初の女)母の出自が低かったため、山部王は、長子であったにも かかわらず、嫡男の待遇を受けることができなかった。
C山部王の出生地(推定)山背国乙訓郡大枝村?(母の母の実家)
 根拠;イ、父白壁王は、白髪部に通じ山背にも白髪部の相当な集団がいたらしい。
      山背の大氏族賀茂県主一族(賀茂神社など)にも白髪部の成員が出ている。
      この白髪部は、設立後顕宗、仁賢二天皇の代を経て仁賢天皇の皇女
      「手白香姫」に相続された。この姫は、継体天皇の后となり大和朝廷を継承      した。越前から迎えられた継体は、直ちに大和に入る事が困難であったらし      く北河内の樟葉、山背の綴喜、乙訓(弟国)という風に大和北辺を点々と移      り、長期にわたる苦心の末ようやく大和入りをした。皇居が、主として山背      に置かれていたのは、手白香姫が握っていた白髪部が、山背の軍事的勢力で      あり、天皇がこの軍事力を実力の基盤とし、大和の残存勢力と対抗する必要      があったからではないかと思われる。
    ロ、山背の愛宕、葛野、乙訓、筒城(つづき)の諸郡にまたがって、白髪部の子      孫がいた。白壁王の乳母となった女性もこの一党の出のシラカベ姓の者では      あるまいか。
    ハ、施基親王家も居館の一つを山背国内に構えていたのでは?
      「壬申の乱」後山背の別荘地(桂川、宇治川あたり)
      白壁王がこういう別邸で生を受けていたとしたら、王は、山背存住の諸王と      して若い日を送ったことだろう。
    ニ、母新笠について、彼女の父の和史乙継は、恐らく平城の下級官人であった。      母土師真妹は、山背国乙訓郡大枝村に住む土師氏の出。彼女は、和史乙継が、      何かの縁で大枝に来た時に真妹と結ばれた。そして、新笠は、大枝で生まれ      た。墓所が、大枝にあるのもそのため。(現在 京都市西京区大枝沓掛町)    ホ、藤原式家清成の妻は、「秦氏」でこの間に種継をもうけた。清成弟綱手は、      医家の秦朝元の娘を娶り菅継をもうけた。このように式家の人々は、秦氏と      の結びつきが強かった。
    ヘ、母の低い身分がたたって、ひっそりと新笠は、その母の実家である大枝の土      師の家で山部を産んだと思われる。
  ーーーーーとにかく山部王の幼少の時の記録は、ほとんどない。ーーーーーー
D白壁王は、20才前後で新笠を最初の女として娶った。しかし、陰の妻として万事控えめにふるまった淑徳の美女を愛情深く側室の立場をとりながら、守った。能登王女、山部王、早良王を産んだ。
E山部王は、「日本後紀」に「徳度高くそばだち、天姿嶷然として、文華を好みたまわず」と賛している。
F鷹狩りを好んだ。 百済王家の本拠地は、河内交野でありここは鷹野として朝廷指定地であった。
Gここで山部王は、百済王の館で明信という息女を知る。そしてこれを愛した。
後に彼女は、藤原南家継縄に嫁し乙叡を産んだ。彼女は、際だった才媛だった。桓武朝の時後宮では、尚侍(女官長)となり一切を取り仕切ることになる。
H父白壁王は、井上内親王(45聖武女)を王妃として迎え、酒人女王、次いで他戸王をもうけた。同時に昇進が急に早まった。
I「恵美押勝の乱」の影響;式家広嗣の乱で影を潜めていた式家の連中が、これを契機として表舞台に出てきた。・宿奈麻呂(良継)・蔵下麻呂・雄田麻呂(百川)ら。
これと白壁王、山部王とが深く関わった。
押勝決起した時、山背派が一斉に立ち上がってこれを討った。白壁王は、この功により大納言となった。
765年右大臣南家豊成は、62才で没。
766年太政大臣道鏡、左大臣北家永手、右大臣吉備真備の体制。
J766年山部王「大学頭」。王の学問的素養が、当代の学士等にひけをとらない程深かった。
K770年道鏡没落。48称徳女帝崩御。白壁王立太子。これに暗躍したのが、式家雄 麻呂(百川)並びに式家の連中。
・雄田麻呂は、和気清麻呂を陰で応援していた。
・48称徳の退位を極秘に計画?「水鏡}には、雄田麻呂が毒を盛ったという話しまである。
・女帝崩御直前に、藤原永手は、宮域内外の軍事力を総てその掌中に入れた。
・近衛大将;蔵下麻呂、外衛大将;田麻呂、兵部卿;宿奈麻呂など総て式家で固めた。
L女帝崩御53才。白壁王62才の皇位継承者。
他に智努王(文室浄三)78才、その弟、大市67才がいた。浄三は、固辞したが、大市が引き受けことになり立太子の宣命まで起草された。(水鏡)これは、右大臣吉備真備の推薦であった。(後日吉備泉ー真備の息子ーの反抗的態度から推測)
M天武皇胤は、系譜上無事故の家は、ほとんどなかった。天智系白壁王が、むしろ最高の
有資格者であった。(天智の孫)しかし、当時の貴族はそう思わなかった。これが後日「氷上川継の謀反」となる。
N式家百川らの色々な<からくり>があったとは思われるが、770年井上内親王を皇后
にして、49光仁天皇即位。後に他戸親王が皇太子となった。
山部王は、4品親王中務卿に就任。母の家柄の差歴然。
O政変後式家宿奈麻呂は改名し、良継に、雄田麻呂は、百川となる。
良継;内臣
北家魚名;大納言
南家縄麻呂;中納言
参議;南家継縄、式家内麻呂、百川、蔵下麻呂。
P49光仁天皇と井上皇后との愛情?の破局。
772年井上皇后が、巫蠱(フコ)罪で廃后。他戸皇太子も連座で廃された。
白壁王の皇位継承は、天武皇胤である井上皇女母子が、その後を継ぐという了解があってのみ、一般に容認されたのである。しかし、天皇擁立者(式家の連中)らは、そう考 えてなかった。
Q773年山部王立太子(37才)ーーー百川の強い後押し
新皇太子に京家浜成らは、尾張女王の所生である稗田親王(49光仁の第3皇子)を押 した。(水鏡)山部親王の母が、渡来人の流れであることを理由として。
実権を握る式家の面々は、その動きを黙過できなかった。強引に山部王をおした。
・井上内親王、他戸親王没(これにも百川関与?)
一般的には、生母の血筋のいやしい皇子は、この頃は、たとえ長子といえども皇位には、つけなかった。(例、天智の長子大友皇子の例)
<百川らが万難を排しても山部王を皇嗣として推したのは、何故か?>
・いわゆる山背派の存在。「恵美押勝の乱」の際に、式家兄弟の主導的動きと、山部王
の昇進に関し、この山背派の動きが表に出た?これと同じ動きが後ろにあった?
R山部王と藤原氏との最初の縁組みは、南家乙麻呂の子是公の女、吉子との間で行われた。
子供;伊予王。乙麻呂は、紀氏を母とし、山部王も父系の祖母は、紀氏であった。伊予王は、山部の長男だったと思われる。式家は、良継女「乙牟漏」が、773年正妃とし て、迎えられ774年安殿王を産んだ。飛ぶ鳥落とす、式家良継が、藤原嫡流の南家を さしおいて、その女を未来の皇后の位置に据えた。吉子は、乙牟漏に席を譲らなければならなかった。これが、後日の伊予王と安殿王の運命を決定した。一方、百川の女「旅子(25才)」が皇室に入ったのは、783年頃である。
Sこの後式家の主力が、次々死亡。
参議蔵下麻呂42才で没。内大臣良継62才で没。(777年)、参議百川48才で没。(779年)この後781年49光仁は、山部皇太子に皇位を譲り、桓武天皇の治世が到来した。(45才)前帝の遺志により、弟、早良親王を皇太弟とした。(32才)
 
<50桓武天皇即位ーーー崩御>(781−806)
@「氷上真人川継の謀反」
川継は、40天武天皇の曾孫で、新田部親王の孫、父塩焼王は、「橘奈良麻呂の乱」に連座し、王籍を削られ氷上真人を称した。塩焼王の兄弟「道祖王」は、46孝謙天皇の皇嗣と定まっていた。(45聖武の遺志)しかし、恵美押勝らのため、廃太子された。
しかし、新田部親王系統は、皇位継承権を未だ持っているという考えが、氷上真人家にはあった。川継は、井上皇后の姉妹である「不破内親王」を母に持つ身であり、40天武皇胤中では、最も49光仁朝に接近した立場でもあった。
779年恐るべき権力者百川が死ぬと、皇位を天武皇胤に奪還しようという陰謀を急速 に、活発化した。朝廷は、その動きを察知して、いち早く49光仁から50桓武の皇位 の授受をすまし、川継を因幡守に任じ、都から疎外した。(782年)
川継は、もはや猶予ならぬと、謀反の実行にとりかかる。手勢をひっさげ宮中に乱入し て、一挙に事を決しようとした。しかし、これは直ぐ察知され摘発を受け、逮捕された。
川継、妻、法壱(京家浜成女)は、伊豆に遠流。連座;大伴家持、坂上苅田麻呂ら(ト バッチリ程度の軽刑)これにより、天武皇胤の皇位継承の流れは、後を絶った。しかし、その「恨み」は、残った。式家種継暗殺もその一つ。
A50桓武朝の最大課題 辺境(東北地方)の不安、平城京の抜本的改革。が共存していた。平城の仏都的構造を解体することは、物理的に無理。ーーー>平城京より脱出?
桓武が旗印としたのは、「皇宗天智天皇の政治理想に立ち返らなくてはならない。それ は同時に天武系皇胤の積み重ねた政治の否定であった。」平城京にいることは、天智系 天皇にとっては、色々な点で不安定と考えた。財政の建て直しも緊急を要した。
この時現れたのが、藤原式家種継であった。
B「種継」は、50桓武と同年生まれ。式家「宇合」の孫として記録あるが父の名不明。尊卑分脈には、父「清成」とあるが、歴史記録上清成は、世に現れてない。(途中で改 名されたか?例、藤原宿奈麻呂ーーー>良継など多数あり。)母は、秦(朝元か?)氏女で山背葛野の秦氏か?子種継も山背派の一員?766年従五位下に急昇進(30才)山部王が皇太子になってからは、さらに昇進を早めた。山背守、近衛少将、左京大夫、下総守、50桓武即位時、従四位上、782年参議、中納言、正三位と急ピッチの昇進 50桓武との関係が、特別だったことがうかがえる。
C50桓武と種継は、早くから遷都を決意していた模様。二人とも山背派である以上、郷土の上下の人々の待っている山背に行くのは、自然の勢い。「乙訓郡長岡村」が密かに予定地となった。これは、秘中の秘とされた。平城では、万事節約政策がとられた。
この節約は、名目にすぎない。実際は、近い将来の遷都を含みとして、やがて廃墟となる平城京にこれ以上余計な費用をかけてはつまらないから工事などやらないとした。宮殿新造営、造寺をやめ残したのは、「造東大寺司」だけ。これを廃止すれば反対運動が 起こると考えた。
D政権体制状況;
藤原南家是公ーーー右大臣
継縄ーーー大納言   以上が式家種継の上位者。
藤原北家浜成ーーー氷上川継の妻の父で縁座失脚。
魚名(北家惣領の地位)ーーー左大臣を連座により解任され、太宰帥となり、延歴2年
63才で没         
鷹取、末茂(魚名の子)ーーー失脚
小黒麻呂;妻は、秦嶋麻呂娘で山背派。ーーー中納言
<大伴氏>大伴家持を中心として、皇室守護を任じる氏であった。早良皇太子の春宮職となる。早良皇太子と種継は、和せず対立。平城派の中心人物は、家持であった。これにともない春宮職員一同種継打倒側にまわった。?中納言家持を、延歴3年持節征東大使として奥州に追い出した。
E大伴家持の留守中に「長岡遷都」が公表された。延暦3年朝廷は、公然と長岡遷都に踏み切った。
体制;造宮使、中納言藤原種継、左大弁、佐伯今毛人 近衛中将、紀 船守など北家小黒麻呂は、造宮使に入ってないが、長岡の地には見に行っている。遷都賛成派。
F長岡の地は、王都の地たる風格を備えているとは認めがたい。藤原京にも及ばない、
2流3流の土地だと思われる。何故もっと慎重に選ばなかったのか。
>平穏のうちに総ての都人から支持を得ての遷都ではなく、潜在的ではあるが、根強く広く手を握る平城への執着者たちを出し抜いて、遮二無二そこから脱出することが、最 重要と考えとにかく、天皇、種継にとって縁故の深い場所で、軍事的に要害の地である 長岡を選んだ。「急を要する仕事」であったから、総て簡略主義で遂行された。工事開 始していくらもたたないその年の内に天皇は、長岡に移られてしまった。(784年)
G785年正月には、朝賀式を大極殿で正式に挙行した。しかし、この長岡への遷都にはかなりの無理があった。
H785年8月、伊勢の斉王に定まった桓武皇女、朝原内親王を見送るため、天皇は、長岡を離れ、平城へ行幸。長岡の留守は、皇太子早良親王が、造宮使長官種継が、工事の指揮をとり続けていた。
9月23日に遣唐使大伴古麻呂の子、旅人の従兄弟、大伴継人、大伴竹良を中心とする一味の者が、決起して種継を急襲し、射殺した。種継49才であった。桓武は、翌日長岡に帰り、徒党を逮捕し、刑を執行した。家持も当然本件に絡んでいた と思われるが、この事件発生の直前に67才で没していた。この暗殺には、春宮坊の職 員が、ほとんど関した者として、処分を受けた。本件も天武皇胤問題と絡んでいるとさ れる。
I本件の最高責任者として、皇太子早良親王は、乙訓寺に幽閉され、淡路へ配流が命じられた。その途中で憤死した。天皇は、実弟であったが、情は情、法は法として、この刑に決断をせざるを得なかった。
J藤原式家の凶運は、この後も種継の娘薬子、長子仲成が、50桓武の後を継いだ51平城天皇に接近し、「薬子の変」を起こし、死亡する。など続いた。***
K大伴家持、藤原種継らの死は、逆に平城旧臣の退場、中堅官僚群の進出をうながした。
右大臣;南家是公
大納言;南家継縄  共に60才前後
中納言;石川名足、紀 船守、佐伯今毛人、  共に老人
中納言;北家小黒麻呂
参議 ;紀古佐美   共に若く健在
  さらに若手の新人の活躍が開始された。
例)・津 真道;「続日本紀」編纂・坂上田村麻呂(苅田麻呂の子);征夷大将軍・藤原仲成(種継の子)
皇太子は、安殿皇子となる。
L延暦5年50才で近江大津に「梵釈寺」を建立。
天皇の仏教観は、仏教を教学的価値において尊重する立場。
M789年(53才)前代からの懸案の蝦夷征伐(3回目)が行われた。全くの失敗であった。征夷大使は、紀 古佐美であった。延暦10年新たに大使 大伴弟麻呂、副使 百済俊哲、多治比浜成、坂上田村麻呂(34才)、巨勢野足らを任命。794年 夏台4回目実施。これもうまくいかなかった。797年坂上田村麻呂40才で征夷大将 軍となった。第5回征夷戦実施。延暦21年(802年)膽沢城築城。これで東北が平 定された。
N792年長岡京が大洪水となる。「もう長岡京の建設事業は、止めた方がよい」祟りを
恐れた。天皇もこれを深刻に受け止め長岡京を捨てる決意をした。
次の候補地として、山背国葛野郡宇太村が挙がった。(秦氏の本拠地太秦の隣)
延暦12年大納言北家小黒麻呂、左大弁 紀古佐美ら現地視察。
O新都造営体制;
造営大夫;小黒麻呂、紀古佐美、菅野(津)真道ら、これに和気清麻呂も加わった。
794年10月遷都の儀執行(50桓武58才)
右大臣;藤原継縄(68才)
参議; 紀古佐美   中納言
    神王     中納言  *
    壱志濃王   中納言  *
    北家内麻呂(39才)
    南家真友、乙叡
大納言;小黒麻呂(遷都に先立ち死亡62才)
式家は、全く姿を消した。実務の中心は、筆頭中納言 紀古佐美であった。
11月山背国を山城国に改め、新都を「平安京」と号した。「平安楽土」
*神王は、桓武と同じ年で壱志濃王とともに施貴皇子の孫で天皇の従兄弟。いずれも天皇と仲が良かった。壱志濃王は、湯原王(施貴皇子の子)と尾張王女との子である。
P50桓武の後宮関係
女性は、乙牟漏皇后以下26名いた。
子供 皇子16名 皇女19名 計35名
妃吉子夫人(是公女)ーーー伊予親王(天皇の長子、天皇の信頼は厚かった)**
**807年51平城天皇になって藤原宗成が、親王に謀反を勧めたという事件発生。母子共に毒死した。
この50桓武の後宮を取り仕切ったのが、前述の山部王の若き頃の恋人である百済明信で、尚侍となり天皇の彼女に対する信頼極めて厚く、その縁により百済王家は栄え、同 家からも後宮に入った女性も幾人かあった。
Q延暦21年式家緒嗣(百川の長子29才)を参議とした。式家の過去の働きに報いた。R延暦23年(804年)遣唐使派遣、最澄、空海が渡唐。
S806年50桓武天皇崩御。51平城天皇即位。
***<藤原薬子>
@父;藤原種継 母;不明(粟田道麻呂女?)
A式家蔵下麻呂の子中納言縄主の妻となり、3男2女の母となった。
Bその娘が安殿皇太子の室となった。
Cその縁で皇太子に接近。その寵愛を受けることになった。(延暦12年頃から?)
D50桓武は、これをたしなめた。しかし効果はなかった。天皇は、安殿の廃太子も考えたが、他戸親王の例もあることなので、これを断念した。
E50桓武崩御後、薬子は、後宮に入り官長の地位にあって、51平城天皇の私生活を左右した。
F52嵯峨天皇の時代に平城上皇を重祚し都を平城京に戻すことを兄仲成と企み、兵を挙げようとして、事破れ服毒死した。「薬子の変」
 
3)天皇家系図(38天智天皇ー50桓武天皇)
T)天皇家概略系図(38天智天皇ー50桓武天皇)
U)天智天皇系詳細系図(38天智天皇ー50桓武天皇)
V)天武天皇系詳細系図(40天武天皇ー48称徳天皇)
*49光仁天皇詳細系図
**長屋王流詳細系図(高階氏元祖系図)
参考 舎人親王流詳細系図(清原氏元祖系図)
いずれも筆者創作系図である。公知系図の組み合わせである。
)古代天皇家(38天智天皇ー50桓武天皇)概論・論考
「春すぎて夏きたるらし白たへの衣ほすてふ天の香具山」万葉集 持統天皇
どなたもご存知の和歌である。
この41持統天皇こそ、この時代を決した人物である。
さて、既稿8、「古代天皇家概論(26継体天皇ー40天武天皇)」と一部重複する形で本稿を記した理由は、38天智天皇の前と後とが日本の歴史上非常に重要であり、古代豪族を考える時、天皇家がどのようになっていたかを充分理解しておく必要あると判断したからである。
天智天皇が歴史上登場するのが、かの有名な大化の改新(645年)での主役としてである。「中大兄皇子」として若干20才の時である。これ以降数名の天皇が即位したが、実質的には常に中大兄皇子が活躍の主役の時代であった。しかし、正式に天皇に即位したのは668年であった。
37斉明天皇(在位655−661)が崩御(661年)してからでも8年間という異常に長い称制(先帝の崩御後即位式を挙げずに政務を執ること。中大兄皇子が史上初めてとされている。次ぎが持統天皇である)のままで実権を握ったのである。 この理由は諸説あるが謎である。
斉明天皇即位の時、中大兄皇子は皇太子となったが、既に30才なのでここで自分が即位してもおかしくはない。この間に有力な天皇候補を亡き者にしてきた張本人とされている。古人大兄皇子・有馬皇子などもその犠牲者である。
蘇我王朝を倒した貢献は高く評価されるが、その後の中大兄皇子の評判はすこぶる悪い。母斉明天皇と行動を共にした「白村江の戦い」は、その大義名分が未だに理解されないでいる。
日本を危機存亡の淵に自ら追いやる暴挙であったとも言われている。その上、都をこともあろうに飛鳥の地からはるかに離れた琵琶湖の西岸「大津京」に遷したのである。
当時の民衆にも大和に根拠をおく古代豪族にも理解できない事態であった。
しかし、天智天皇はそれまでの天皇とは訳が違ってそれをやってのける力があったのである。これに真正面から対抗出来る人物は、いなかったのである。何故か?
645年以降中大兄皇子がやってきた実績を、大和の貴族連中は知り過ぎていたからである。
既にこの時点では、過っての古代豪族の力はなかったと考えるべきである。
最盛期の蘇我氏は、明らかに天皇家を凌駕する力を持っていた。逆にそれ以外の豪族の力を殺いでしまったとも言える。その蘇我氏の実質的トップであった「入鹿」を若干20才の若造が、たとへ中臣鎌足(当時32才)という参謀がいたとはいえ、討ちとったのである。これは当時の中央政権にとっては驚天動地の出来事だったのである。
併せて次期天皇候補のナンバーワンと目された中大兄皇子から見れば兄にあたる人物も、中大兄皇子の指金であっけなく殺されたのである。
ここから668年の38天智天皇即位までの20数年間の行動は何だったのであろうか。この間に多くの后妃(10名)を娶り17名(5皇子・12皇女)もの子供をもうけた。
その内4名もの皇女が天智の同母の実の弟とされる大海人皇子(後の40天武天皇)の后妃となったのである。
ところが天武天皇の皇女は一人も天智天皇の后妃になっていないのである。
既稿8の中で筆者は誤って天武の娘が多く天智の妃となったと記したが、これは明らかなる誤記で天武の娘の幾人かが天智の息子らの妃になったと言うべきであった。勿論天智の他の娘の多くは天武の息子の妃となった。これは一体何を意味しているのであろうか。
天武天皇はこの時期の天皇にしては珍しく、生年が不明とされている。これが古来色々な憶測を産み、古代史の謎の一つにされている。現在も色々推理小説のように諸説が創作されつつある。
その主な説が、天智天皇と天武天皇は異父兄弟で、実際は天武天皇の方が兄だったと言う説である。これに対し、筆者は上記后妃の問題も含め下記理由で、天智は天武の実の兄であることを主張したい。
@天智は626年生まれ。皇極天皇の32才の時の子供。皇極天皇は再婚で「舒明天皇」の后(立后は630年)となっている。これに異常なところはない。
A天智の最初の子供は大田皇女であろう。大田の同母妹の持統天皇の生まれが645年とされており、643年・644年頃生まれと推定される。となると天智と「遠智媛」の結婚は天智の16才・17才頃と推定される。これは当時としては極普通の年齢であろう。
B もし天武が皇極天皇の前夫との間の子供と仮定すると、少なくとも天智より1才は兄となる。
C天武も当時の常識的には、20才未満で結婚しているはずである。となると645年前後には第1子が生まれて良いはずである。ところが記録上最初の子供と思われるのは、「胸形君徳善娘尼子娘」との子供「高市皇子」である。654年生である。約10年のヅレがある。勿論天武はそれ以後多くの后妃との間で多数の子供をもうけている。
D天武は天智に遠慮して、又はその他の理由で結婚するのが遅く30才頃になったのである。という考えは不合理ではない。しかし、当時の常識からは著しく離れている。
即ち、Bの仮定に無理があるのである。
E次ぎに天智の娘は4人も天武の后妃になっているのに何故天智の后妃の中に天武の娘が一人もいないのか。
F天武の一番早い娘は記録上大田皇女との間に生まれた「大伯皇女」である。661年生。
15才で結婚出来たとして676年である。天智没年671でこれは完全に不可能。高市皇子と同い年の娘がいたとしても(実際はいないが)669年で15才である。これも不可能といえる。即ち天武の娘は一人として天智の生前に結婚可能な年齢に達していない。即ち、これは常識的には天武は天智より年下であることを示している。
G661年斉明天皇に従って天智・天武・大田皇女・持統など揃って九州に移動している。この間に現地で生まれた天武の子供が大伯皇女・草壁皇子・大津皇子だとされている。天智35,6才である。
H668年天智が即位した時天武を皇太弟としたとされている(諸説ある)。いずれにせよ、天智が天武を非常に重要人物視していたことは、上記自分の娘を4人もその妃に入れていることからも分かる。即ち天智が万一の場合の次期天皇候補の筆頭だったのであろう。何しろ天智は舒明・孝徳系の次期天皇位を狙える人物は天武以外全部殺してしまっていた。天智の真の狙いは我が子に次期天皇位を嗣がすことであったことは間違いないとしてもである。668年時最長の我が子「大友皇子」でさえ20才であった。
I当時天皇位を嗣げる男子の産まれは、その母親・父親が誰であるかは、共に非常に重要因子であった。天智が自分の側近中の側近におき、自分の娘を4人も妃に入れた、場合によっては皇位を譲る立場の人物の父親が、皇族とは言え皇位を嗣げる位置にいない人物かどうかも知らないで、受け入れる素地は無かったと判断する。
自分の異母兄でさえ殺したのである。自分より年上で自分と皇位を争う立場の人物を自分の近くに置く訳がない。大和の豪族等も、それは受け入れなかったであろう。
J壬申の乱以降の天武及び周りの行動からも天武が当時として異常な出自・諸豪族から受け入れられない人物とはなってない。記紀の編纂を命じたのは天武自身である。正当性があるからこそ出来たことと判断する。
 以上から筆者は天武天皇は正確な生年は不明だが、明らかに天智天皇の実の弟であると判断した。
本件に関する追記。
・南北朝時代の「本朝皇胤紹運録」記事:天智天皇生年614年、天武天皇生年622年
・鎌倉時代の「一代要記 」記事:天智天皇生年619年、天武天皇生年622年
・日本書紀記事:天智天皇生年626年、天武天皇生年?年。
・最近の主流説:天智天皇生年626年、天武天皇生年631年。
・上田正昭「古代日本の女帝」:天武天皇56才没年齢(生年631年)説採用。
天武天皇が天智天皇より年上であるとはいずれも記してない。
戦後の記紀批判の材料の一つとして、「紹運録」の天武の没年齢65才から生年622年を出し、これが、「日本書紀」の天智の生年626年より4才年上としたようである。自分らにとって都合の良い数字だけを使うのはいかがなことかと、思うが。
 さらに、天智の白村江の戦いに勝った新羅国の勢力が日本国に攻め込み、「壬申の乱」と称されているのは、この新羅軍勢力及びそれに組する日本の不満分子勢力とが天智王朝勢力を駆逐したのである。よって、天武天皇は、従来の皇統ではなく、新羅国傀儡政権であり、天武は新羅王朝系の人物である。天武は日本書紀を編纂させてこの事実を総て歴史上から隠匿させた。というなんともはや筆者らの手に負えない説もある。これに類する説が結構あることは事実である。筆者はこれらの説には全く組みせない。
 さて、以上少々くどく天智と天武の関係を論考したのは、これ以降の筆者の立脚点を明確にしておく必要があったからである。
天智と天武の関係は、それ以前でもそれ以後でも歴史上例を見ないほど、その婚姻関係は密であった。両天皇ともに天皇家中心の政治・統治を目指したものと判断する。
天智天皇の最大のブレーンは中臣鎌足であった。中大兄皇子が645年以降、深謀遠慮約20年もかけて皇位についた裏には、鎌足の色々な助言を受けたことは間違いないとされている。鎌足はその死の直前に「藤原氏の姓」を天智から賜っている。
藤原氏・中臣氏については別稿で取り上げる予定であるが、その後の1,000年の日本の政治の歴史を牛耳ることになる藤原氏の発生は、天智天皇ー中臣鎌足の関係で産声を挙げたのである。古代史の一つ画期である。その原点は645年の乙巳の変であった。
鎌足の娘が天智には一人も妃として入らず、2人も天武天皇妃に入っている。
これをどう理解したら良いであろうか。
筆者は、天智と天武の間柄は元々非常に良好だったのではないかと思える。
天智の後は天武と考えていたのではないかとも思える。鎌足もそのように予想していたのではなかろうか。
天智の妃は主流は蘇我氏系である。自分が滅ぼしたとはいえ豪族ナンバーワンは蘇我氏であったのである。それでは壬申の乱は何故起こったのか。
近畿一円貴族・豪族総てを巻き込んだ、それまでの史上最大の戦争だとされている。詳しいことは省略する。(多くの文献あり)
勃発の最大の原因は、吉野に身を隠していた「大海人皇子」を、大友皇子派が、将来に禍根を残すので殺そう、との動きを察知した大海人皇子が、東国に逃げると同時に、645年以降天智が主導してきた政治に対する不満勢力が、これを担いだ形で爆発したものであるという説有力。
本来なら朝廷勢力(大津京派・大友皇子派)が軍事力においても支配力においても当然大海人皇子派より遙かに優勢であった。にもかかわらず大友皇子らはあっけなく敗北したのである。
その原因は、@大友皇子への豪族らの支持が余りに無かった。母親の出自が余りに卑であるというのも、その理由の一つ。それに伴う朝廷内部の分裂・裏切り。
A大和古代豪族守旧勢力の巻き返し。
Bこの争いは、大友皇子は、未だ即位してなく、皇位の正統性を巡っての皇位継承争いであって、天皇に対する謀反ではなかった。よって大海人皇子方は、朝敵ではなかった。
C新羅派勢力の大海人皇子側支援。などなどであるとされている。
結果として都は飛鳥(飛鳥浄御原宮)の地に戻された。
天武は、豪族勢力に頼らない皇族中心の政治を律令制度と一緒に断行していった。
この間藤原氏は、鎌足も没し子供である不比等は幼く、全く歴史上登場しない。
天武は、679年には皇后の讃良皇女(後の持統天皇)と一緒になって、「吉野の六皇子の盟約」と後世に称せられた、天智系、天武系の今後皇位を争う可能性のある有力皇子6名に皇位継承争いを起こさぬよう約束させ、足かせをかけた。
ところが、686年天武崩御直後にこの盟約を破る形で41持統天皇は実の姉の子であり、非常に有能とされ、人心を集めていた「大津皇子」を殺した。
我が子「草壁皇子」を皇位につける算段であった。
ところが689年草壁が急死した。そこで正式に41持統天皇として即位して、草壁の遺児である軽皇子(後の42文武天皇)の中継ぎをすることになった。
天武天皇には10人の皇子がいたとされている。なのに何故草壁皇子の流れだけに皇位継承がされることになったのか。
勿論天智天皇にも川島・志貴皇子ら有力皇子が存在していた。
当時皇后という位は他の天皇妃とは格別の格差があったようである。即ち天皇に何かあった場合、その皇位継承権が皇后にあったようである。律令として決められてはなかったようである。よって皇后は皇族でないとなれないとされていた。これを破ったのが後の聖武天皇の后となった「光明子」である。藤原不比等の娘である。
天武天皇崩御前に天武は持統と草壁に後事を託したと記録がある。これにより大津皇子は失脚したのだとされている。
皇位継承に関し天皇の遺勅は最重要とされたことは事実である。
よって持統天皇ー草壁皇子までは問題ない。草壁の最大のライバルであった大津皇子は既にいない。天武の長男である「高市皇子」は、母親の出身が卑であることにより有能ではあったが当初から皇位継承対象外となっていたらしい(異論もある)。持統天皇の良き協力者という存在であった。690年持統天皇朝の太政大臣となった。
残る皇子は草壁死亡時23才であった「忍壁皇子」である。しかし、母親が卑であったためか、「位」は自分より若い長皇子・舎人皇子・穂積皇子らより低かったようである。対象外である。
持統天皇は、執念をもって皇位を草壁の子供「軽皇子」に譲るべく色々手を打った。
何故、持統天皇は、草壁系に拘ったのか現在でも諸説ある。その主な説は、@世は天武系の時代になったが、血は天智の血脈を維持することこそ、天皇家の本流である。
A天智+蘇我の血脈を繋ぐことが重要と考えた。
B天智+蘇我倉山田石川麻呂系(蘇我本流)の血脈維持。
C嫡男直系こそ天皇家の本来あるべき姿である。天武の嫡男は草壁、草壁の嫡男は「軽」である。
D天武は本来の天皇家以外の男の血が入っている。即ち天智の実の弟ではなく、その父親は卑なる人物である。これを本来の血筋に戻すのは自分しかいない。例え天智の娘の子供だと言っても、その娘の出自が問題である。この総ての条件を満たすのは草壁の流れだけである。と考えた。 などなど、侃々諤々の世界である。
694年都が「飛鳥浄御原宮」から「藤原京」に移った。
軽皇子を即位させる時、大友皇子の子供「葛野王」と天武と大江皇女の子供「弓削皇子」の論争の記事が残されている。これの真偽の程は分からぬが、史実は、42文武天皇の時代となった。持統天皇の威力がいかに大きかったかは、容易に推察される。
この時代にいよいよ「藤原不比等」が歴史上に登場し、持統天皇の後ろ盾を得て猛烈な勢いで政界で力をつけてくる。文武天皇の妃に不比等の娘「宮子」が入り、701年には、後の45聖武天皇になる「首皇子」を生む。
持統天皇は702年に没する。文武は707年には崩御。
この間不比等はさらに実力者になってきた。
続いて即位したのが、持統天皇の母親の妹と天智の間に生まれた「阿閇皇女」である。草壁皇子の妃であり、文武天皇の母親である「43元明天皇」である。この時有名な天智天皇が定めたとする「不改常典」なる皇位継承に関係する言葉が史上初めて登場した。
天皇即位の詔の中でこの言葉を使って自分が皇位を継ぐ正当性みたいなことを言わんとしているようだが、現在もこの意味するところは、諸説あって定まっていないようである。これ以降、聖武天皇、孝謙天皇、称徳天皇らが即位に当たってこの言葉を用いている。
最近、坂田 隆氏が「古代史の海」の中で不改常典について非常に分かりやすい論文を出している。それによると、天智の不改常典の内容は「天智の次ぎには、弟の天武が天皇になってよいが、天武の後は、最終的には天智の子孫が天皇位を継承していかねばならない。」であるとした。これにより元明以降の天皇位に天武の子孫でも天智の血脈でないものを排除出来たのである。称徳ー光仁の関係もこれに合致している。とするもので筆者はこの説に組したい。
この時代に何故多くの女帝が誕生したかの背景にこの不改常典があったようである。
元明天皇は、文武天皇の子供首皇子を天皇にふさわしい年になるまでのつなぎの女帝である。藤原不比等の意志が強く働いたとされる。
710年に都は「平城京」に移った。
713年には文武天皇のもう一人の妃である「石川刀子娘」とその間に出来た広成皇子・広世皇子が共に皇族としての扱いを剥奪された。これも藤原不比等・県犬養三千代(藤原宮子の母親で宮廷女官)夫婦の首皇子護衛策であると言われている。
この時代には不比等は、実力では、朝廷内のナンバーワン的存在になっていた。
715年 43元明天皇は年老いたため、譲位して、娘であり文武の同母姉である「氷高内親王」が「44元正天皇」として即位した。これも首皇子の成長までの中継ぎ的女帝である。
720年実力者藤原不比等没す。未だ子供らは実力なし。
この合間を縫って登場するのが「長屋王」である。長屋王は高市皇子と天智の娘「御名部皇女」の長子で皇位を狙える立場であった。
721年には右大臣となり皇親政治復活をはかろうとした。藤原不比等の子供らとの対立。首皇子の即位に慎重派であったが724年聖武天皇即位。長屋王左大臣となるも藤原不比等の四人の子息との対立激化。ついに729年藤原氏の策謀にはまり自殺。(長屋王の変)
これを契機に藤原氏の専横政治が開始される。ところが737年流行病のためこの藤原不比等の子供実力四兄弟(南家:武智麻呂、北家:房前、式家:宇合 京家:麻呂)が揃って死去した。
738年皇后「光明子」の子供「阿倍内親王(20才)」が立太子する。女性の立太子は史上初めてである。しかもこの時聖武天皇には、「安積親王」という皇子がいたのである。母親は井上内親王(光仁天皇后)と同じ「県犬養広刀自」である。年令はこの時10才と若いが聖武天皇唯一人の男児であった。
今の人から見ればどう考えても策略が巡らされていたとしか思えない。
そしてこの親王は744年17才の時急死している。南家藤原仲麻呂の暗殺説濃厚である。これにより聖武天皇の男系子供での後継者はいなくなったのである。
朝廷内は不安定状態になったのである。
738年阿倍内親王立太子と同時に皇族系の「橘諸兄」が右大臣に就任。政界のリーダーとなる。しかし、長続きはせず、745年頃には南家「藤原仲麻呂」にその地位がとって替わられた。
749年聖武天皇は譲位して、阿倍内親王が即位して、46孝謙天皇となった。未婚の女帝である。
仲麻呂は光明皇后の信任厚く、紫微中台の長官となった。孝謙天皇の寵愛も受けた。これ以降しばらくは、藤原仲麻呂の時代でもあった。
756年聖武上皇崩御。757年仲麻呂政治に不満を持っていた橘諸兄の子「奈良麻呂」が天皇の廃立を企て密告で見つかり多くの皇族・氏族が処刑された。(奈良麻呂の乱)
758年孝謙天皇は譲位し、舎人皇子の子供「大炊王」が藤原仲麻呂の支援によって「47淳仁天皇」として即位。ただし、この天皇号は明治天皇が追号したもので、当時はまともな天皇と認められていなかったとの説もある(廃帝扱い)。完全な仲麻呂の傀儡政権となった。仲麻呂は太政大臣にまでなった。しかし、淳仁は、まもなく764年には孝謙上皇の逆鱗に触れ、皇位を剥奪され、淡路に流されそこで没した。
この状態を打開しようとした仲麻呂は、764年に挙兵したが、鎮圧され殺された。 (恵美押勝の乱)
764年孝謙上皇は重祚して48称徳天皇として即位した。この時代が有名な「弓削の道鏡」時代である。
道鏡を皇位につける・つけないで「和気清麻呂」が歴史上登場し、天皇の逆鱗にふれ大隅に流罪となった。道鏡は、770年称徳天皇の崩御後帝位を狙う陰謀の罪で左遷された。一方和気清麻呂は復活し、その後の朝廷で活躍する。
この間舎人皇子の孫である「和気王」が称徳天皇の皇太子候補となったが、謀反の罪で絞殺された。このようにして天武系の男子が次々といなくなったところで、称徳天皇は次期天皇を指名しないまま770年に没した。
ここで政治の舞台が急展開した。この時左大臣であった北家「藤原永手」は、式家の藤原良継、百川らと共謀して、天武系の皇子ではない62才の天智の孫にあたる「白壁王」を立太子させた。
白壁王の父は38天智天皇と「越道君女郎」の間に生まれた「志貴皇子」である。天智の7男又は3男とも言われている皇子である。この志貴と古代豪族紀氏の末裔である「紀諸人娘橡媛」との間に生まれたのが白壁王である。
志貴皇子には白壁王以外にも春日王、湯原王、榎井王などがいたし、天智の皇子としては川島皇子がおり、その子供として三室王、高丘王などもいた。(春日王ら諸王の記事はほとんど残されていない。)
それなのに何故白壁王に白羽の矢が当たったのか。謎である。
これには、裏条件があったものとされている。即ち白壁王の妃には称徳天皇の異母姉「井上内親王」が既になっており、その間には既に男子があり、この子を「他戸親王」(751年頃の誕生)として皇太子にし、光仁の後は他戸親王が皇位につける、という永手の主張である。こうすれば、天武派の者も説得出来るとしたものであった。
それ程天武系の人材は枯渇していたとも言える。これは天武系の天皇家が墓穴を掘ったものであり、藤原氏の誤算が生んだ結果ともいえる。
そして間もなく770年に、49光仁天皇として即位した。他戸親王は皇太子となった。
ところがさらに歴史は動いた。上記の主役を演じた「永手」が771年に急死したのである。
元々他戸親王擁立には難色を示していた式家の良継・百川らは、772年井上皇后・他戸皇太子が光仁天皇を呪詛したとして、廃后、廃太子してしまい、775年には暗殺してしまったとされている。
そして担ぎ出されたのが光仁天皇の長子「山部皇子」である。母は百済系帰化人「和史乙継」と山背国乙訓郡大枝郷の「土師真妹」の間に生まれた「高野新笠」である。
全く皇位なんて望むべくもない存在であった。
一方光仁天皇には尾張女王との間に「稗田親王」という皇子がいた。これを推していたのが京家の「藤原浜成」であったとされている。次期天皇を誰にするかで、藤原氏内部での勢力争いも相当あったことが窺える。
773年山部王が立太子。上記「稗田親王」は、781年には没している。また「広根諸勝」という皇子もいたようだが、親王宣下もされずに臣籍降下してしまっていた。それ以外にも男子の名前が残されているが、詳しい記事が全くない。
777年式家藤原良継没。続いて779年藤原百川は、桓武天皇の即位を見ずして、没した。その後式家の主導権を握ったのが、「藤原種継」である。
781年の光仁崩御前には、山部親王とその実弟の「早良親王」だけが、光仁天皇の後継者として残っていただけなのである。
781年光仁は老齢で譲位し山部親王が、「50桓武天皇」として即位したのである。
光仁の遺志により「早良親王」が皇太弟となった。桓武44才、早良32才の時である。
782年「氷上川継の乱」発生。天武天皇系の最後の皇位継承者として「新田部皇子」の子供「塩焼王」の子供である「氷上川継」が、起こした皇位継承争いである。川継・及びその妻である「浜成娘法壱」を流罪とした。これを最後として、天武系の動きは封じられた。
山部王の立太子に反対した浜成は782年川継の乱に連座し、太宰府にに左遷され、京家は没落する。
一方北家は「藤原魚名」が781年には左大臣にまで登ったが、同じく、川継の乱に連座し、太宰府に左遷赴任途中で病没。
北家では小黒麿(北家非本流)が中納言となり、魚名とは異なった道を歩んだ。しかし、やがて摂関家となる「藤原冬嗣」流は未だこの時は、表には出ていない。
この頃藤原南家は、安泰であった。即ち乙麿流の「是公」は右大臣、豊成子供の「継縄」は大納言であり、式家「種継」の上位にいた。
 
以上で38天智天皇が歴史に登場してから50桓武天皇の誕生までを概観してきた。
我々現代人は、何とはなしに「飛鳥」にロマンをもっている。
大和は国のまほらば。万葉集の世界は、飛鳥・藤原京・平城京の時代と合わせて、山辺の道、法隆寺・唐招提寺・薬師寺・東大寺・興福寺・春日大社・若草山・大和三山(畝傍山・天香具山・耳成山)など数え上げればきりがないほど多くの何かしら日本人の心の故郷みたいなものになっている。
ところが、この時代こそ日本が国らしくなっていく過程での、最もどろどろした時代だったとはいえないだろうか。
天皇家を中心とした歴史しかはっきりしたことは分からないが、それさえも日本書紀・続日本紀(菅野真道ら797年完成、文徳朝697−桓武791)・日本後紀(藤原緒嗣ら840年完成、桓武792−淳和833)など勝ち組中心の歴史しか分からないが、この時代の概要は分かる。
38天智天皇即位が668年で781年50桓武天皇即位。113年間の間に13人の天皇が即位し、持統、元明、元正、孝謙、称徳と5代4人の女帝が誕生したのである。
女帝の時代だっといってもおかしくない。それ以前それ以後の天皇家の歴史を見ても異例の時代であったことが窺える。
特に天武王朝という時代は、一体何だったのであろうか。
天平文化に見られる華やかさと現実政治の不安定さこそ、50桓武天皇の平城京脱出・長岡京遷都、ひいては平安京遷都の原動力になったものと思われる。
同時に藤原氏の勃興と古代豪族の衰退の時代でもあった。
良きにつけ悪しきにつけ、この時代の要の人物が、41持統天皇と藤原不比等であると最近は言われている。
持統天皇は天智天皇の娘であり、不比等はその天智天皇の寵臣「藤原鎌足」の息子である。この二人は日本の国がどのようになることを夢見たのであろうか。
この二人のそれぞれの血族が、二者択一をしていった結果が、50桓武天皇の誕生である。
 
 
参考系図として長屋王流詳細系図(高階氏元祖系図)と舎人親王流詳細系図(清原氏元祖系図)を併載した。これはこの時代多くの皇別氏族が発生したが、後世歴史上活躍記事の多い上記2氏の元祖部分の理解のために記したものである。
<高階氏>
「長屋王」は、高市皇子の息子で、天武天皇の遺志を継いで藤原氏中心の政治にブレーキをかけ再度皇親政治に戻そうとした、実力者であったが、729年の長屋王の変で一族諸共滅んだのである。
しかし、その子供の一部及び孫の一部だけ生き延びたとされている。それが安宿王、桑田王の子供「磯部王」らである。
最初に高階真人姓を賜姓されたのは773年に安宿王である。この流れは次ぎの代で切れている。
貴族「高階氏」に繋がったのは、磯部王の流れである。
磯部王は斎王として伊勢神宮にいた47淳仁天皇の娘「山於(やまのうえ)皇女」が淳仁天皇の廃位の後帰京した時、これと結婚し、「石見王」をもうけたとされている。
磯部王については776年従五位上の記事くらいしか分からない。
石見王の子供が「高階峯緒」である。生没年は不詳である。844年に臣籍降下して高階真人姓を受けている。最終的には従四位上神祇伯になった。後の高階氏繁栄の基礎を築いたとされる人物である。
彼が伊勢権守であった時、かの有名な「在原業平」が伊勢神宮を訪れ、時の斎王であった55文徳天皇の娘「括子内親王」と内通し、斎王に子供が出来るという不祥事が発生。
峯緒はこれを表沙汰にするのを憚り、自分の子供「茂範」の子供として引き取った。
これが「高階師尚」である。これが結果的には、本当の高階氏の祖となった訳である。
これ以降高階氏は平安貴族として陰に陽に日本の歴史に関係することになる。
系図にはその一部を記した。
「師尚」の孫成忠の娘が藤原摂関家道隆の室となり、その娘定子が66一条天皇の妃となった。これに仕えたのが枕草子作者「清少納言」である。これは下記清原氏出身である。
一方、一条天皇にはもう一人の妃、藤原道長の娘「彰子」がいた。これに仕えたのが「源氏物語」の作者「紫式部」である。彼女は藤原北家良門流藤原為時の娘である。
定子と彰子の争いは、清少納言と紫式部との争いである。それは藤原道隆・道長兄弟の争いであった。彰子の子供二人が天皇となり定子の子供は天皇にならなかった。
ついに道長の最高の時を迎えたのはこの時である。
この戦いに裏で高階氏・清原氏がからんでいたのである。
さらには「平治の乱」の主役の一人「藤原信西」は高階氏の養子となり、出世して政治の表舞台に出た人物である。
<清原氏>
清原氏の元祖部分については諸説ある。筆者は「舎人皇子」ー御原王ー小倉王ー清原夏野ー海雄説を採用した。
舎人皇子は天武皇子の中で最後に生き残った皇子とされている。
長屋王とは一線を画したようで、藤原政治に加担する勢力と見なされている。
子供も「三原王」は、正三位にまでなっており順調。
その子供「和気王」は、48称徳天皇の皇太子候補にもなったが謀反の罪で処刑された。この弟と思われる「小倉王」の子供が「清原夏野」である。元々繁野王といい、804年臣籍降下して、清原真人姓となった。後世永続する清原氏の祖である。
従二位右大臣となった。833年「令義解」を編纂したとされる当代きっての知識人とされた。これの養子として三原王の弟「貞代王」の流れから「清原海雄」が入り、この子供豊前介房則の子供の代に海氏から養子に入った「業恒」と実子「深養父」の流れに分かれる。
業恒の流れが平安貴族清原氏本流か。系図にも記したがこの末裔とされる清原宣賢(吉田家より養子)の娘が勝竜寺城城主「細川藤孝」の母親である。
一方歌人「深養父」の流れは2流あり、その一方から、「清少納言」が生まれる。これが高階氏と微妙に関係することは上述した。
もう一方は、「出羽清原氏」となり、前九年の役・後三年の役と関係し、鎌倉幕府政治へと関係してくる。
付記)<神足氏>
山城国乙訓郡神足村(現在の京都府長岡京市神足)には現在もその末裔と称しておられる家があるが、神足氏という国人がいた。足利尊氏の時代にこれに仕え勝竜寺城を細川氏が築城するとき、自分の領地を提供したとされる。向日市史によると、この神足氏は、桓武天皇が長岡京に遷都してきた時随行してきた、皇親「神足光丸」の末裔であるとしている。神足光丸は天武天皇の皇子である「長皇子」の子供「栗栖王」の子供である。天武天皇の曾孫である。真偽の程は不明である。現在、式内社「神足神社」もある。
 
5)まとめ(筆者の主張)
@38天智天皇は40天武天皇の実の兄である。年齢は5才以上離れていたものと推定。
天智の娘は天武の后妃に4人もなっているが、天武の娘は天智の后妃に一人もなっていない。
A 天智が645年「中臣鎌足」らと起こした「乙巳の変」以降668年大津京 で即位するまで、実力者でありながら、何故真のトップにならなかったのは、未だ謎である。天皇が真の政治の中心になるべきであるとした、天武天皇とほぼ同一思想を持っていたことは間違いなかろう。そのための準備に長い年月がかかったという説もある。
B天智の大番頭は「中臣鎌足」であった。鎌足の死の直前に藤原の姓を賜姓した。これが藤原独裁体制の原点でもあった。
C天武は順当なら天智の後継天皇になっていたであろう。ところが天智が年老いて、正常な判断力を欠いたものとも思われているが、自分の子供「大友皇子」に後継天皇位を嗣がそうとしたことから、総ての歯車が狂った。
D「壬申の乱」は、起こるべくして起こった皇位継承争いであった。
色々な勢力が天智のやり方に不満をもっており、それが爆発したのである。天武は思わぬ勝利を手にしたのである。本来なら朝敵として断罪されるような内乱であった。
E都も飛鳥に帰り、天武は徹底した皇親政治を実施した。古代豪族の出番は殆どなかった。F天武の皇后は、天智の娘、後の41持統天皇である。天武崩御を待っていたように、自分の子供「草壁皇子」の即位に向けた準備を始めた。
G藤原鎌足の子供「不比等」が持統天皇の支援のもと、次第に力を得てくる。持統天皇の戦略に乗りながら、藤原氏の勢力を増大さす準備を着々と進めた。
Hついに藤原氏は、45聖武天皇の外籍氏族になった。天智の血と藤原氏の血を有する人物を天皇位に付けるべく、それ以外の皇族を次々と暗殺・処刑していった。
Iその結果が女帝を4人も擁立する結果となり、天武の血を引く男の天皇になれる人材が欠如という事態になった。この裏付け的なものが天智の「不改常典」だと言われている。
J遂に天武の血の全く入ってない、天智の孫「49光仁天皇」が即位するという天武勢力にとっては、異常事態が出現した。
K藤原氏内部の抗争も激しくなり、光仁の子供の中でも全く予想だにされなかった、山部王という渡来系の母親を持つ従前の皇位継承基準には全く当てはまらない「50桓武天皇」の誕生となった。
L天智・天武の思いとは別に、持統天皇と藤原不比等とが仕組んだとされる、日本100年の計?は、結果的には、思いもしなかったであろう方向に展開したのではなかろうか。
そして、旧来の古代豪族は、その勢力を失い、藤原氏一人勝ちの時代へと移るのである。
 
 
 
 
 
7)参考文献
・「古代日本の女帝」 上田正昭 講談社(2004年)
・日本の歴史「大王から天皇へ」 熊谷公男 講談社(2001年)
・日本の歴史「平城京と木簡の世紀」 渡辺晃宏 講談社(2001年)
・日本の歴史「律令国家の転換と日本」 坂上康俊 講談社(2001年)
・「桓武天皇」 村尾次郎 吉川弘文館(1996年)
・逆説の日本史2「古代怨霊編」 井沢元彦 小学館(2001年)
・「天皇制の深層」 上山春平 朝日新聞社(1995年)
・「大和朝廷」 上田正昭 講談社(2003年)
・「額田王の謎」 梅澤恵美子 PHP研究所(2003年)
・「古代史の秘密を握る人たち」 関 祐二 PHP研究所(2001年)
・「天武天皇隠された正体」 関 祐二 KKベストセラーズ(2002年)
・「古代史の真相」 黒岩重吾 PHP研究所(1999年)
・「持統天皇」 直木孝次郎 吉川弘文館(1994年)
・「藤原不比等」 高島正人 吉川弘文館(1997年)
・坂田 隆 「不改常典」 古代史の海42号(2005) P2
など多数。
                                                         6/27/06掲載