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12.大伴氏考
1)はじめに
春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鶯鳴くも
我が屋戸のいささ郡竹(むらたけ)ふく風の音のかそけきこの夕へかも
                                 大伴家持  (万葉集)

 大伴氏は、天忍日命(アメノオシヒノミコト)を祖とする神世時代からの古い軍事氏族である。
天忍日の裔の日臣命は、1神武天皇の東征に従ったと伝えられている。
熊野から大和への道案内を行ったことにちなみ、道臣命の名を与えられた(神武東征の時の最大の功臣という扱い)。その後大伴武日は、日本武尊の東国遠征に従った。
など物部氏、阿倍氏、中臣氏などと同じく大王家(天皇家)と共に歩んできた氏族と言われている(大伴氏は、中臣氏、物部氏と違い、宮廷の祭祀には殆ど関与しなかった)。
その本拠地は、大和盆地東南部(橿原市、桜井市、明日香村付近)であったらしく、皇室、蘇我氏の本拠地と隣接する。古くは、難波地方を本拠とし、和泉、紀伊方面まで勢力を張っていたかと思われる。
これが、5世紀半ばまで大王家と共に各地の豪族との戦乱を勝ち抜き、21雄略天皇の頃葛城氏、吉備氏の没落により、これに替わって、物部氏と共に、中央での覇権を確立した。
「大伴室屋」は、”大連”を賜り、その孫「金村」にかけて、政権を掌握した。金村は、「平群氏」を平定し26継体大王を担いで、王位継承戦に勝った。
その後大伴氏は、26継体天皇の子27安閑天皇、28宣化天皇の擁立者となり、一方蘇我氏は、29欽明天皇を推して政権争いをし、大伴氏は敗れた。
これ以後蘇我氏の台頭により一時勢力は落ちたが、大化改新後「大伴長徳」が、右大臣に就任した。
しかし、37斉明、38天智朝で再び沈潜し、「壬申の乱」で40天武天皇側として戦功を挙げ復活。宿禰を賜姓された。
以来多くの人材を世に出してきた。特に万葉歌人として有名な大伴旅人・家持父子を中心とした多くの女性を含む宮廷歌人の活躍がこの時代を彩った。
家持は万葉集の編纂者の一人にも目されており(本当は不明)、473首の歌(万葉歌人の第一位)を残した。
しかし、朝廷内では、藤原氏の進出に伴い、大伴氏の地位は、次第に低下した。
50桓武天皇の成立にも大伴氏は、陰に陽に色々活躍したが、「藤原種継の変」で徹底的に沈み、その後、藤原氏の陰で天皇家と関わった。
伴善男が54仁明天皇の時大納言になったが、「応天門の変」で藤原氏に陥れられ遂にさしもの古代豪族も命運つきて、これ以後中央政界に復帰することはなかった。
しかし、その係累は、富士浅間神社社家、鶴岡八幡宮社家など日本全国にその血筋を残した。特に、近江(甲賀)、三河、甲斐、大隅地方に伴氏の係累が多く分布したとされる。
古代豪族大伴氏の生き様は、他の多くの豪族とは異なっている。その辺りを考察してみたい。
 
2)大伴氏関連人物列伝
 大伴氏の嫡流をどう判断するかは、「家持」までは、はっきりしている。それ以降は難しい。
ここではそれ以降は、伴善男に繋がる人物を参考として列伝として記した。

(参考)
・天忍日命(?−?)
@父:天石門別命(別説:安国玉主命など色々)母:不明
A高皇産霊尊の子供とする説もある。一般的には数代の孫とされている。天押日命とも記す。
B大伴氏の始祖。
C記記事:天孫降臨の際、天久米命と共に天孫に仕えた。
紀記事:天孫降臨の際に、天櫛津大来目を率い、高千穂の峰に降った。
 
・日臣命(?−?)
@父:刺田比古(別説:天津日など色々)母:不明
A天忍日の曾孫。別名「道臣命」
B記紀記事:1神武東征に際し、大久米命を率い熊野から宇陀までの道を通した。この功により「道臣」の名を賜った、とされる。
色々活躍し、神武即位の翌年、築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜る。
 
・武日命(?−?)
@父:豊日 母:不明
A道臣の7世孫。
B記紀記事:11垂仁朝に阿倍臣遠祖「武渟川別」和邇臣遠祖「彦国葺」中臣連遠祖「大鹿嶋」物部連遠祖「十千根」と共に、厚く神祇を祭祀せよとの詔を賜る。
景行朝に、日本武尊の東征に吉備武彦と共に従い、その功により、靫負部を賜る。
 
・大伴連武持(?−?)
@父:武日 母:不明
A子供:室屋、諸説ある。室屋までに佐彦、山前などが入っている系図もある。
B14仲哀朝の四大夫。伴氏系図では「初賜大伴宿禰姓」とある。
「大連」となったとの記事もある。
 
2−1)大伴連室屋(???−???5世紀)
@父;大伴武持 母;不明
A新撰姓氏録では、天忍日の11世孫、道臣の7世孫。となっている。子供:談、御物(異説あり)
B19允恭大王時、衣通郎姫のため藤原部を定める。大伴氏の実在がはっきり信じられる のは、室屋以降である。
C21雄略大王即位に伴い、物部連目と共に”大連”となる。
D21雄略崩御後、「東漢直掬」に命じ兵を起こし、「星川皇子の乱」を鎮圧。
E22清寧大王時 、子供のいない22清寧の名を遺すため、諸国に白髪部舎人、膳夫(かしわで)等を置く。
25武烈大王まで5代にわたり、大連として政権を掌握した。   
一説に、大伴氏の本来の職掌は、「部」の設置にあったという(直木孝次郎氏)
 
 
2−2)大伴連談(カタリ)(???−雄略9年)
@父;大伴室屋 母;不明
A子供;「金村」 「歌」(佐伯氏祖ーーー9代後 僧「空海」***)
B21雄略9年 紀小弓、蘇我韓子らと共に新羅討伐を命じられ遠征。
現地で戦死。
 
2−2−1)林御物(?−?)
@父:室屋 母:不明
A子供:倭胡・戸難目   倭胡は14允恭朝、讃岐国造。佐伯直豊雄らの別祖
Bこの流から軍事氏族佐伯氏が輩出された。
 
2−2−1−3)佐伯東人(?−?)
@父:佐伯丹経手 母:不明
A子供:広足
B記紀記事あり。34舒明天皇の頃の武人。
 
2−2−1−6)家主姫(?−?)
@父:佐伯徳麿 母:不明
A夫:藤原式家宇合 子供:蔵下麻呂(734−775)には、縄主ら多数の子供あり。
 
2−2−1−7)佐伯今毛人(?−757)
@父:人足 母:不明
A大伴家持と同時代の人
B755年造東大寺長官。従三位
遣唐大使。
783年造長岡京使。
 
2−2−1−11)佐伯子房女
@父:佐伯子房 母:不明
A清和天皇妃、子供:従三位源長鑒、右衛門督長門守源長頼
B父は信濃守
 
2−3)大伴連金村(???−???)
@父;談 母;不明
A子供;磐、咋子、狭手彦。
B498年(24仁賢11年)大王崩御後、大臣平群臣真鳥父子の横暴に怒った太子(25武烈)の要請により兵を起こしこれを滅ぼす。その功により”大連”となる。
C506年25武烈の後継者として、物部麁鹿火(アラカイ)大連、許勢男人大臣らと「男大迹王」(26継体)を迎えさせる。
D百済が任那4県の割譲要求。金村これを承認。(512年)代償として、百済は五経博士を日本に送る。当時の外交権は、大王になく金村が掌握していたらしい。天皇による外交権の確立は、「壬申の乱」後とされる。
E526年26継体大和磐余に都を移した。
F527年「磐井の反乱」鎮圧。
G534年27安閑即位。大連となる。
H537年任那を救援。子供の「磐」「狭手彦」に任那救援の命を授ける。「狭手彦」は、 朝鮮に渡り活躍した。「磐」は、筑紫の那津宮家(大宰府の起源)で執政した。しかし、 540年物部尾興らに、任那4県割譲の責任を問われ、 引退。ここで大伴氏は、政治 的指導権を物部、蘇我氏に奪われ、室屋から続いた最盛期は、終わった。「日本書紀」 では、金村が百済から賄賂を受け取ったことを示唆するなど金村に対し批判的。
 
2−3−1)大伴歌
@父:大伴談 母:不明
A兄弟:金村
B佐伯氏祖この流より、空海が輩出する。
 
2−3−1−8)空海(774−835)
@父;佐伯直田公 母;阿古屋御前(多度津海岸寺「阿刀真足」女)
A幼名;佐伯真魚 大伴連談の子「歌」の9代孫。
B774年讃岐国多度郡に生まれる。15才で上京。791年18才で大学入学。
母の弟?である阿刀大足が当時伊予親王持講即ち家庭教師をしており、これの教えを受けたとも言われている。788年頃長岡京にいたらしい。(筆者注)
C804年留学僧として、入唐。806年帰国。密教を伝える。
D811年山城国乙訓郡「乙訓寺」の別当に任命され約2年ここに在住。
E815年高野山金剛峰寺建立。
F823年52嵯峨天皇より「東寺」を給預され、密教の根本道場とする。
G825年頃参議であり、東寺、西寺の検校であった「伴国道」と親交を結んだ。
H828年陸奥按察使となった国道に書状を送っている。(高野雑筆集)
I835年没す。921年60醍醐天皇より、「弘法大師」の諡号を賜った。
 
2−4)大伴連咋子(くいこ)(???−???)
@父;金村(阿被比古説もある) 母;不明
A子供;長徳、馬来田、吹負 娘;智仙娘(中臣御食子室、鎌足母)
B587年蘇我馬子らの物部守屋征討軍に蘇我方として加わる。
C591年任那復興のため、大将軍として出陣。32崇峻暗殺で中断、601年再度高句麗に派遣された。翌年帰国。外交面で活躍。
D608年隋使「裴世清」迎える。610年新羅使を迎える。
 
2−4−1)大伴糠手(???−???)
@父;金村 母;不明
A子供;頬垂(丸子連の祖)加爾古(仲丸子連の祖)小手古媛(妃崇峻天皇)
B583年百済からの日羅らを慰労する。
 
・小手古媛
588年32崇峻妃となる。天皇が大伴氏の娘を妃としたのは、記録上これが唯一例。但し、平安時代56清和天皇が、伴氏を女御にした例はある。     天皇の寵が衰えたことを恨んで小手古が、蘇我馬子のもとにやった密告に端を発して崇峻天皇が暗殺されたと言われている。
 
2−4−2)大伴連狭手彦(???−???)
@父;金村 母;不明
A金村三男。537年新羅の任那侵攻に際し、朝鮮半島に覇権される。百済救援に活躍。
B562年大将軍に任命され、高句麗を討つ。
 
2−4−3)大伴連磐(?−?)
@父:金村 母:不明
A子供:長狭、弟古ら
B537年新羅の任那侵攻に際し、筑紫に派遣される。
那津官家(太宰府の起源)で執政
 
2−5)大伴連長徳(ナガトコ)(???−651)
@父;咋子 母;不明
A子供;御行、安麻呂。  別名;馬養
B649年36孝徳朝右大臣となる。(粛清された蘇我倉山田麻呂の後任)
 
2−5−1)大伴連馬来田(まぐた)(???−683)
@父;咋子 母;不明
A咋子次男。子;道足
B672年大海人皇子の東国入りに際し、菟田の吉城において皇子の一行に追いつき「壬申の乱」に参戦。功を挙げた。
C40天武朝で大納言になった。
 
2−5−1−1)大伴宿禰道足(???−741)
@父;馬来田 母;不明
A子供;伯麻呂、娘;藤原北家鳥養に嫁ぎ「小黒麻呂」を生む。
B隠岐守、731年参議。「旅人」没後大伴氏の頭領的立場であったが、政界での活躍なし。
 
2−5−1−2)大伴宿禰伯麻呂(718−782)
@父;道足 母;不明
A子;弥嗣。
B上野守、伊豆守、駿河守、遠江守
C771年他戸親王立太子の時 「春宮亮」778年参議就任。(49光仁朝)
D49光仁上皇崩御時、「御装束司」
 
2−5−2)智仙娘(???−???)
@父;咋子 母;不明
A藤原鎌足の母。通称;大伴夫人。夫;中臣御食子
 
2−5−3)大伴連吹負(???−683)
@父;咋子 母;不明
A子供;祖父麻呂、牛養ら
B672年「壬申の乱」時、大和に留まって大海人皇子への帰順を決意。
皇子は、吹負を
大和将軍に任命。功を挙げた。
C40天武朝で、常陸守になった。
 
2−5−3−1)大伴宿禰牛養(???−749)
@父;吹負 母;不明
A709年遠江守 739年参議 藤原仲麻呂と共に「平城留守司」749年中納言。
 
2−5−3−1)大伴祖父麿(?−?)
@父:吹負 母:不明
A731年従四位下、越前国守
 
2−5−3−2)大伴宿禰古慈斐(こしび)(695ー777)
@父;祖父麻呂 母;不明
A吹負の孫。子;弟麻呂  妻;藤原不比等女刀自を正妻とした。
B739年従五位下、756年朝廷誹謗の件で、淡海三船と共に禁固。三日後赦免757年「奈良麻呂の乱」に連座配流。その後従三位大和守となった。
 
2−5−3−3)大伴宿禰弟麻呂(727−809)
@父;古慈斐 母;不明(刀自?)
A794年征夷大将軍として副将軍坂上田村麻呂を用いて、蝦夷征討させる。
 
2−6)大伴宿禰安麻呂(???−714)
@父;長徳 母;不明
A長徳の第6子、子供;旅人、田主、宿奈麻呂、坂上郎女、稲公。 別名;佐保大納言、 大伴卿。妻;巨勢郎女* 石川内命婦。*
B672年「壬申の乱」で吉野方として参戦。大伴氏戦功を挙げる。
 40天武政権確立後は、功臣として重んじられた。
C684年大伴氏に「宿禰」が40天武より賜与された。
C701年42文武朝中納言。藤原不比等の勢威に圧倒されつつも昇進した。
D705年大納言となる。右大臣;石上麻呂、大納言;藤原不比等 に次ぐ地位となった。
 
・石川内命婦(???−???)
@父;蘇我氏? 母;不明
A石川氏は、蘇我氏の傍系(大和高市郡石川に本拠)父は、倉山田石川麻呂、赤兄、連子、果安のうちの誰かであろう。
B大津皇子の侍女。草壁皇子と三角関係。その後持統の侍女。その後大伴安麻呂に嫁す。
C坂上郎女、稲公を生む。佐保大伴家の大刀自として一家を取り仕切った。
D女官として永く朝廷に仕え、歌を良くし武門の名家大伴一族に歌を好む風流を導入
した
張本人ではないかと言われている。
E坂上郎女と関係のあった「安倍虫満」の母「安曇外命婦」とは姉妹の関係。
 
・巨勢郎女(???−???)
@父;巨勢比等***母;不明
A田主の母、旅人の母でもあるか?
B「壬申の乱」後父巨勢比等は、子孫と共に配流。この中に巨勢郎女が含まれたか不明。
***飛鳥朝 小徳「大海」の子。巨勢氏は、6世紀頃から台頭した新興の軍事氏族。
7世紀中頃最盛期。649年巨勢徳太が左大臣に就任している。
671年比等は、御史大夫(大納言)になり、「壬申の乱」で近江軍の将となった。
 
 
2−6−1)大伴宿禰御行(???−701)
@父;長徳 母;不明
A安麻呂の兄、子;三依
B「壬申の乱」の功臣。675年大伴氏の氏上に任命される。684年「宿禰」姓賜姓。696年大納言となる。
 
2−6−1−1)大伴三依(?−774)
@父:御行 母:不明
A757年三河守
 
2−6−1−2)大伴宿禰駿河麻呂(???−776)
@父;兄麿 母;不明
A御行の孫。妻;坂上家次女「二嬢」
B越前守、陸奥鎮守府将軍、775年参議就任。
 
2−7)大伴宿禰旅人(665−731)
@父;安麻呂 母;巨勢郎女(巨勢比等女?)
A安麻呂長男、子供;家持、書持、留女之女郎。妻;大伴郎女、丹比郎女?
 通称;大宰帥大伴卿。
B672年8才時「壬申の乱」の時、母方(巨勢比等)は、近江方につき、母巨勢郎女も配流された?
C705年父安麻呂、大納言、大宰帥
D710年左将軍(正五位上)718年中納言 家持誕生。720年 九州に赴任(大将軍)
E724年45聖武即位。正三位に昇叙。大宰帥として赴任。聖武後の皇位継承問題が微妙であ った。729年「長屋王の変」当時藤原氏に対抗しうるだけの軍事的動員力を有する唯 一の勢力であった大伴氏の頭領「旅人」を筑紫に追いやった事自体、藤原氏の陰謀だっ たと言われている。
F730年大納言 (多治比池守の後任)武智麻呂と並んだ。        731年従二位(臣下最高位)67才で死去。「万葉歌人」としても有名
 
2−7−1)大伴坂上郎女(700?−750以降?)
@父;大伴安麻呂 母;石川内命婦
A稲父の姉、旅人の異母妹、家持の叔母。通称;坂上郎女、大伴郎女、「万葉歌人」
B初め穂積皇子に嫁す。今城王をもうけた?後に大伴宿奈麻呂の妻となり
 坂上大嬢、二嬢を生む。また「旅人」の側室となり「家持」の母代わりとなった。その他藤原麻呂(京家)、安倍虫満らとの関係も記録されている。
C「額田王女」以後最大の女性歌人。万葉集編纂にも関与。84首。女性中最多。全体でも「家持」、「人麻呂」に次ぐ第3位。
 
(注)<郎女と女郎の違い>
  ・いずれも読みは「イラツメ」である。
  ・「郎女」は、大納言以上の大官を輩出している権勢家(例;藤原氏、大伴氏、   巨勢氏など)の子女につけた。
  ・「女郎」は、紀氏、笠氏、中臣氏など主として高卿には至らない五位以上の
   官吏を
輩出している氏族の子女につけられた。   例外もある。
 
2−7−2)大伴宿禰稲公(???−???)
@父;安麻呂 母;石川内命婦
A坂上郎女の弟。
B因幡守、上総守
C「奈良麻呂の乱」鎮圧。758年大和守。
 
 
2−8)大伴宿禰家持(718?−785)
@父;旅人 母;丹治比郎女?<県主
A旅人の長男。同母弟妹;書持、留女之女郎。
正妻;坂上大嬢(大伴宿奈麻呂女)
子供;永主、女子。
B727年父に従い筑紫に下向。
C731年父死去。家持は、14才で佐保大伴家を背負って立つこととなった。
 安積親王の内舎人となる。
D751年少納言。橘諸兄との交流。757年左大臣橘諸兄死去(74才)。
 「奈良麻呂の謀反」発覚したが、家持は、咎めなかった。
E763年「恵美押勝暗殺計画」に連座。京外追放。
F778年参議となる。
G781年50桓武即位。早良親王立太子。家持は、右京大夫、春宮大夫となる。(皇太子のお守り役)
H782年「氷上川継の謀反」発覚。坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)らと連座。直ぐ復位。陸奥按察使、鎮守将軍として陸奥に赴任。(長岡京遷都の反対勢力の中心と目され、藤原氏に対抗する最大勢力者なので、中央政界からはずされた。?)
I785年持節征東将軍として長岡京で死去。
「藤原種継暗殺事件」で甥大伴継人ら首謀者に家持が、関与していたこと発覚。
家持は、直前に病死していたが、除名処分を受けた。その後50桓武天皇は、本位に復す詔を発し、従三位を復した。
J家持は、万葉集に473首を残す大歌人である。後世隆盛をみる王朝和歌の基礎を築いた歌人としても評価が高い。万葉集撰者、編纂者とも言われている。

ーーー大伴氏こそ旧大和豪族の中で、40天武朝成立の大功労者となり、天武系を支える守旧派の最大勢力であったらしい。よって、50桓武の奈良平城京脱出の最大反対勢力と見なされていた模様。その宗家は、家持であった。藤原式家の狙いは、この大伴一族の中央勢力からの排除こそが最大の政治課題であった。くしくも「種継暗殺事件」がその絶好のチャンスになったことは、間違いない。ーーーー
 
2−8−1)留女之女郎(るめのいらつめ)(???−???)
@父;旅人 母;不明
A家持の同母妹。750年藤原南家継縄に嫁す。真葛の母?
 
2−8−2)大伴書持(?ー746)
@父:旅人 母:不明
A官職にはついてない。万葉歌人。
                                    2−9)大伴宿禰永主(750?−???)
@父;家持 母;不明
A家持長男 子供;陸奥介伴春宗、女2人
      娘は、藤原京家豊彦に嫁ぎ冬緒(大納言)をもうけた。
B785年種継暗殺事件に縁座し、隠岐に流された。806年従5位下に復位。
 
      ーーー大伴主流は、ここで歴史上姿を消した。ーーー
参考として「田主」流れを別記する。
 
(大伴氏別伝)
2−7−3)大伴宿禰田主(???−???)
@父;安麻呂 母;巨勢郎女
A安麻呂次男。兄;旅人。
Bこの流れが、平安初期の伴大納言に繋がる。? 諸説あり不明。
           
2−7−3−1)大伴宿禰古麻呂(???−757)
@父;田主?(御行の子、宿奈麻呂の子説など) 母;不明
A大伴旅人の甥としか分からぬ。(筆者系図は御行の子供として記した)
子;継人
B733年遣唐留学生として入唐。
C750年入唐副使、754年帰朝の折り「鑑真」を伴う。
D陸奥鎮守府将軍、陸奥按察使、左大弁(正四位下)歴任。「道祖王」廃太子に伴い「池田王(舎人皇子の子)」を推したが、失敗。
D757年「奈良麻呂の乱」に加担し死す。
 
2−7−3−2)大伴宿禰継人(???−785)
@父;古麻呂 母;不明
A子供;国道
B777年遣唐使判官として入唐。翌年漂流の後帰国。
C779年従五位下、能登守、伯耆守、近江介。
D785年造営中の長岡京で藤原種継が暗殺されると、同族の「竹良」らと共に捕らえら れ、首謀者に「家持」の名を挙げ、早良皇太子の共謀を自白したという。主犯格として直ちに斬刑に処せられた。
 
2−7−3−3)伴宿禰国道(768−828)
@父;継人 母;不明
A子供;善男。
B785年父継人の種継暗殺事件に縁座し佐渡に流された。
C803年恩赦により帰京。その後能力が認められ昇進。
D823年延暦寺別当。従四位下。天皇の諱(大伴親王)を忌避して大伴の氏名を「伴」 に改めた。同年参議となる。 825年頃から「空海」との親交を結んだ。
E828年陸奥按察使となった。 61才で没す。
 
2−7−3−4)伴宿禰善男(811−868)
@父;国道 母;不明
A子;中庸、甲賀善平、三河伴員助    別称: 伴大納言
B830年仁明天皇の知遇を得る。
C842年蔵人。「承和の変」後式部大丞。
D847年参議になる。
E864年大納言についた。大伴氏が大納言に就くのは実に730年の「旅人」以来のこ とであった。
F866年応天門が放火される事件発生。(応天門の変)善男は、犯人として断罪され伊豆に流された。子の中庸は、隠岐に流された。
これより「伴氏」「紀氏」らは、中央政界から駆逐された。ーーー>藤原良房陰謀説。
Gこの流から三河伴氏・甲賀伴氏へと繋がる。
 
2−7−3−5)伴中庸(?−?)
@父:善男 母:不明
A子供:春雄、仲兼ら。この流から鶴岡八幡宮社家、大隈伴氏へと繋がる。
B応天門に火を付けた犯人は自分であると自白したことになっている。隠岐に流された。
 
 
3)大伴氏関連系図
大伴氏の系図も神世からのものは諸説ある。富士浅間神社に残されている「伴姓古屋氏系図」も参考にしながら記紀仕様に準拠。記紀以降のものは、姓氏類別大観、姓氏家系辞書尊卑分脈、古代豪族系図集覧など色々のものを参考に筆者創作系図とした。
 
4)系図解説・論考
 万葉歌人である大伴旅人・家持父子のことを知らない人はいないであろう。
しかし、この二人が古代豪族の中の雄の一つ「大伴氏」の嫡流の氏首長であったことは、あまり知られていない。
そもそも大伴氏は、どこまで信用出来るかは別にして、記紀上非常に活躍した古代豪族である。
神世では天孫「ニニギの尊」の降臨の際の随伴神の一人「天忍日命」を祖としている、「神別氏族」である。
同じく随伴神の「手力男神」の流から紀国造氏が産まれる。
系図で分かるように大伴氏と紀国造氏は同根の神から分かれたとされている。
この辺りの細部の系図は、諸説ある。共通に現れる大伴氏の遠祖として、「日臣」がいる。
これは、1神武東征の際大活躍する「道臣」のことである。
1神武即位の翌年に道臣らの功により賜ったとされる宅地付近に、現在もそれを記念する碑があるそうである。
「記紀」の記事は、各豪族が有していた過去のその氏族の言い伝え、家譜の類も参考にされている。
また歴史を示す公文書的なものは、その時代時代の有力豪族の手により、手が加えられている。
「神武東征」の記事は、非常に複雑な構成がされているらしく、この記事に関しては、大伴氏、物部氏の功績が著しく強調されている。
これは、この両氏の勢力が強かった21雄略朝ー28宣化朝、又は41天武朝のあたりで改竄がされたのではないかと言われている。
現在ではこの辺りの記紀記事全体が信用出来ない物語に過ぎないとする説が定説化されている。
 「武日」の時に大伴姓を賜姓されたという説と、その子「武持」の時であるとの2説ある。
記紀記述で言えば、11垂仁ー14仲哀時代頃である。武持は「大連」になったとの文献もあるが「紀」及び「旧事紀」には大連は「室屋」からである。
武持から室屋は、筆者は親子とする説を採用したが、2代3代離れている系図も多数ある。
武持が14仲哀天皇時代とすると、室屋は21雄略天皇時代であるので親子というのは一寸無理があるかも知れない(この間にいわゆる倭の五王がいたのである)。
 大伴氏の中では、室屋は実在がほぼ間違いないとされる最初の人物のである。
「大連」として5代の天皇に仕えたとされる。実質上のナンバーワンだったようである。子供の「談 」は新羅討伐で朝鮮に出兵中に戦死しており、次ぎは孫の「金村」が25武烈天皇の時大連職を継いだようである。
金村は29欽明天皇の時、蘇我氏らにより、26継体天皇の時に金村が百済に任那4県割譲した件で責任を取らされ、失脚した。
この間に26継体天皇の擁立を含め、大和朝廷の第一人者は、大伴金村であったとされる。大伴氏全盛時代であった訳である。
「談」のもう一人の子供「歌」については事績がほとんど分からない。しかし、この流は佐伯氏となり、やがて「空海」という大人物を輩出している。
しかし、この佐伯氏は系図的には一寸複雑である。
歌の4代孫にあたる「大人又は大入」は、12景行天皇の末裔である「佐伯那賀児」の血筋からの入り婿である。よって空海は大伴系ではなく「皇別氏族」である。という説が現在も「空海」を中心に考える人々に強く支持されているようである。
大伴氏系を中心に考える人は、空海は大伴氏から分派した佐伯氏の末裔と主張している。どちらも正しいのではなかろうか。
 系図研究で一番難しいのは、入り婿、猶子関係である。血脈だけから言えば男系系図が正しいのであろうが、その氏族はどう続いたのかと言えば、名跡を継いだ男は、その名跡の氏族として扱われるべきだとも言える。
天皇家の場合も後者に近いのではと、筆者は考えている。
両論あることは間違いない。
空海付近の人間関係についてはまた別の機会に稿にしたいと思っている。
 さて話を戻す。金村には多くの子供があった。
「磐」は最終的には甲斐国に移ったようである。その流から富士浅間神社社家が産まれる。これが「伴姓古屋氏系図」を残したのである。富士吉田市にある浅間神社である。
和邇氏考の稿で述べたように同じ「浅間神社」を名乗っていても甲斐一宮である「浅間(あさま)神社」、駿河一宮である「浅間神社」は和邇氏系であり、富士吉田の浅間神社は、大伴氏系であり異なるのである。
別系図で「吹負」を磐の子とするものがあるが、筆者は大勢に従って吹負は「咋子」の子とした。年代的には合理的と判断。
また金村の後継者は系図によっては阿被比古ー咋子となっている。
大勢は金村の息子咋子である。筆者は判断出来なかったので概略と詳細で別々の系図にした。「阿被比古」の事績記事なし。咋子は記紀上有名人である。
 32崇峻天皇妃「小手古媛」の父「糠手」も「狭手彦」の子とする説もある。
こちらは採用しなかった。
大伴氏は、連姓氏族であり、天皇妃を出せないとされてきた。ここで例外的に天皇妃を出した。何故であろうか。
金村が失脚して以来、世の中は、蘇我氏全盛の時代である。大伴氏は不遇の時代であった。
32崇峻天皇は蘇我氏により暗殺されている。その糸を引いたのが小手古媛であるとも言われている。謎である。
大伴氏出の天皇妃はこれが初めてである。後世、平安時代に56清和天皇妃に伴氏の娘が入った例がある。
 大化の改新後、36孝徳天皇の時、またもや大伴氏の復活がなされた。
咋子の子供「長徳」の右大臣就任である。
その前になるが咋子の娘「智仙娘」が「中臣御食子」に嫁ぎ、「中臣鎌足」を産んだことに系図上ではなっている。
ところが現在のその道のプロの間では鎌足は、智仙娘の産んだ子供にあらずというのが通り相場になっている。
鎌足の出自に関しては昔より諸説あって、現在も謎なのである。
でも公的系図は筆者系図の通りである。
しかし、これより以降大伴氏と藤原氏は奈良時代末頃まで非常に密に婚姻関係があったことは間違いない。それも藤原氏の重要人物とである。
 長徳後また大伴氏は低落する。復活するのは、壬申の乱により天武天皇方に大伴氏がつきその功大なるが認められたのである。何故天武方についたのかは謎である。
天智朝では不遇であったのは事実。大伴氏が古来地盤としたのが大和地方であり、近江朝には反対勢力であったのであろう。
天武王朝で参議・大納言クラス になったのは、馬来田、道足、伯麻呂、牛養、古慈斐、安麻呂、御行、駿河麻呂、旅人、家持などなどで、正に大伴氏復活であった。
藤原氏台頭著しい時代の中で古代豪族大伴氏の第2回目の全盛時代を迎えた。
そこには多くの万葉歌人も産まれた。特に女性の活躍が特徴的である。
坂上郎女、田村大嬢、坂上大嬢、坂上二嬢、石川夫人、巨勢郎女などなど。大伴氏の周りは万葉歌人だらけであったと言っても過言ではない。
その中でも大伴旅人・家持父子こそ、その最高峰にいたわけである。
ところが、世の中はドンドン変化し、天武王朝は終わり、天智系の光仁天皇・桓武天皇へと藤原式家一派の時代に変革していった。
そして、784年ついに都が平城京から長岡京へと遷都された。
これは大伴氏にとっては、青天の霹靂的な出来事であった。
大伴氏の氏首長は家持であった。彼は朝廷の主要ポストである参議にいたが、藤原氏らはこれを邪魔としこれを解任し、鎮守将軍として陸奥に追いやった。その赴任中に遷都が行われた。と言われている。
その後、長岡京に帰って785年長岡京で病死した。
その直後、甥である「大伴継人」らが首謀者となった「藤原種継暗殺事件」が起こった。都を奈良に戻すべきとする守旧派勢力の中心に大伴氏がおり、その真の首謀者は、家持であるとされ、彼は既に死んでいたが、過去の経歴剥奪がされた。
その後、怨霊説などもおこり、名誉回復ははかられたが、大伴氏は徹底的に処分された。
ここで大伴氏の本流は、種継事件を起こしたとされる「継人」の流れが継ぐことになったようである。
継人の父「古麻呂」が誰の子供かスッキリしてない。
「御行」説、「田主」説、「宿奈麻呂」説などある。
大伴氏はまたもや不遇の時代に入ったが、また復活するのである。
この継人流れから、伴大納言で有名な「善男」が54仁明天皇の時活躍する。伴一族は56清和天皇妃を出す程になっていた。しかし、摂関政治を目指す藤原良房の陰謀にかかり、「応天門の変」の首謀者とされ息子の「中庸」とともに流刑となった。
これでさすがの古代豪族大伴氏は、完全に中央政界からは駆逐され、藤原北家全盛の時代に入っていった。
この中庸の流から鶴岡八幡宮社家が興る。
 ところで、大伴氏を語る時、忘れてならないのが武人佐伯氏である。
空海系については前述したが、それとは別に室屋の子供「林御物」から別れた佐伯氏がある。
歴史上武人として登場する佐伯氏はほぼ皆この流である。筆者系図にはその一部しか記されてないが、「東人」、「今毛人」、「子麻呂」、など多くの歴史に残る人材を輩出した。
参考であるが、宮島厳島神社の社家も佐伯氏である。しかし、この佐伯氏は大伴氏とは関係なさそうである。
以上見てきたように、大伴氏は少なくとも21雄略天皇から54仁明天皇まで約400年にわたって日本の政治の中枢部で、あがきもがきながらその氏族としての生命を維持してきた。
このエネルギーは一体どこから生まれたのであろうか。
葛城氏・蘇我氏・和邇氏・息長氏などとは異なるものを感じる。
時の政権のトップを極めた氏族は、必ず滅亡の運命をたどっている。にも関わらず大伴氏はしぶとく400年も生き残った。
また同時にそれだけの氏族が、藤原氏の覇権主義に何故かくももろく負け去ったのか。多くの謎、疑問が筆者の脳裏から離れない。
 
5)まとめ(筆者主張)
@大伴氏は、古代豪族の中でも、特に大和王権誕生の時からの天皇家を護る役目を帯びた軍事氏族であった。
A21雄略天皇から29欽明天皇くらいまで朝廷のナンバーワン的存在であった。しかし、后妃を出すようなことはなかった。只1回崇峻天皇に妃を出しただけである。
その意味では和邇氏とは対称的な氏族であった。
B壬申の乱で40天武天皇方につき天武王朝では,大伴氏全体が色々な所で活躍をした。
万葉歌人としての一族あげての活躍は、歴史に彩りを残すものであった。
Cしかし、50桓武天皇の長岡京遷都を一番喜ばなかった勢力の筆頭と目され、種継事件を境に本流である家持の流は影を消した。
D平安時代初期,伴大納言が久し振りに歴史上に登場したが、藤原氏により完全に歴史上から消されてしまった。
これにより、古代豪族といわれた氏族は藤原氏(含む中臣氏・大中臣氏)以外中央政界からは完全に駆逐されたことになった。
E大伴氏は、藤原氏とは決して悪い関係ではなかった。南家、北家、式家、京家それぞれと婚姻関係を持ち、良き関係造りには手を打っていた様子が系図からはっきりしている。Fしかし、藤原氏の覇権主義に徐々に負かされ、地方に出て行かざるを得なくなったようである。
物部氏、蘇我氏、和邇氏、息長氏などよりは長命であった。
古代豪族の一つである「紀氏」とほぼ同時期に朝廷からその姿を消すことになった。
これだけ長い寿命を保てたこと、こんなに簡単にその最後を迎えたこと、その主たる原因は一体何だったのであろうか。???
 
参考文献
・日本の歴史「平城京と木簡の世紀 」渡辺晃宏 講談社(2001年)など
http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST 大伴氏関係全般のhp  
など