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43.在原氏考 高階氏考
1)はじめに
・ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれないに水くくるとは
                       小倉百人一首 古今和歌集
・世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
                       古今和歌集
・唐衣、きつつなれにし、つましあれば、はるばるきぬる、たびをしぞ思う
   謡曲(かきつばた)           古今和歌集
・名にし負はばいざ言問わむ都鳥わが思う人はありやなしやと
                       古今和歌集
・月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつは元の身にして
                       古今和歌集
・つひに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
                       古今和歌集      
在原業平の代表的な歌である。

伊勢物語二十三段 に記された和歌
・ 筒井つの 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざるまに
・ くらべこし ふりわけ髪も 肩過ぎぬ 君ならずして たれかあぐべき
・風吹けば 沖つしら浪 たつた山 よはにや君が ひとりこゆらむ

謡曲「井筒」の一節
ここに来て。昔ぞ返す。ありはらの。
寺井に澄める。月ぞさやけき月ぞさやけき。
月やあらぬ。春や昔と詠(なが)めしも。何時の頃ぞや。
筒井筒。つゝゐづゝ。井筒にかけし。まろがたけ。生(お)ひにけらしな。
老いにけるぞや。さながら見みえし。昔男の。冠直衣(かむりのおし)は。
女とも見えず。男なりけり。業平の面影。

いずれもどこかで聞いたこと、頭の隅に思い出として残っている歌などである。いずれも在原業平所縁の文芸作品のほんの一部である。

 在原業平を知らぬ人はいない。平安時代の代表的歌人の一人である。有名な伊勢物語(作者不詳)の主人公とも言われている当代きっての色男とも言われた人物である。
謡曲「杜若(かきつばた)」「井筒」「小塩(おしお)」などにも昔男、まめ男として登場する人気者である。京都洛西の名刹「十輪寺」にも所縁のある人物である。
彼こそ皇別氏族である「在原氏」の始祖である。在原氏も清原氏と同じく、新撰姓氏録には、記載がない広い意味での古代豪族である。
在原氏を古代豪族というべきかどうか、迷うくらいマイナーな一族である。しかし、平氏や源氏とは異なった、平安時代の皇別氏族の姿を知る興味ある氏族であるので取り上げた。面白いのは、真実の程は分からないが、この在原氏の末裔として、三河の武家「松平氏」が登場してくるのである。即ち「徳川家康」の出自としてである。この点については、論考で簡単に触れたいと思う。
さらに、この一族には幾つかの氏族が実質的派生氏族として関係しているのである。
その一つが「大江氏」である。この古代豪族については、既に詳細を記述したので本稿では詳述は、省略することにする。既稿「出雲氏考U」(土師氏・菅原氏・大江氏)参照
さらにもう一つが、高階氏である。高階氏についても、一部既稿「古代天皇家概論U」の中で長屋王流詳細系図などで紹介してきた。しかし、見方によれば実質的には在原氏の派生氏族とも考えられるので、本稿で詳しく述べたい。「古代天皇家概論U」参照
<高階氏>
「長屋王」は、高市皇子の息子で、天武天皇の遺志を継いで藤原氏中心の政治にブレーキをかけ再度皇親政治に戻そうとした、実力者であったが、729年の長屋王の変で一族諸共滅んだのである。
しかし、その子供の一部及び孫の一部だけ生き延びたとされている。それが安宿王、桑田王の子供「磯部王」らである。
最初に高階真人姓を賜姓されたのは773年に安宿王である。この流れは次ぎの代で切れている。
貴族「高階氏」に繋がったのは、磯部王の流れである。
磯部王は斎王として伊勢神宮にいた47淳仁天皇の娘「山於(やまのうえ)皇女」が淳仁天皇の廃位の後帰京した時、これと結婚し、「石見王」をもうけたとされている。
磯部王については776年従五位上の記事くらいしか分からない。
石見王の子供が「高階峯緒」である。生没年は不詳である。844年に臣籍降下して高階真人姓を受けている。最終的には従四位上神祇伯になった。後の高階氏繁栄の基礎を築いたとされる人物である。
彼が伊勢権守であった時、かの有名な「在原業平」が伊勢神宮を訪れ、時の斎王であった55文徳天皇の娘「括子内親王」と内通し、斎王に子供が出来るという不祥事が発生。
峯緒はこれを表沙汰にするのを憚り、自分の子供「茂範」の子供として引き取った。
これが「高階師尚」である。これが結果的には、本当の高階氏の祖となった訳である。
これ以降高階氏は平安貴族として陰に陽に日本の歴史に関係することになる。
系図にはその一部を記した。
「師尚」の孫成忠の娘が藤原摂関家道隆の室となり、その娘定子が66一条天皇の妃となった。これに仕えたのが枕草子作者「清少納言」である。これは既稿清原氏出身である。
一方、一条天皇にはもう一人の妃、藤原道長の娘「彰子」がいた。これに仕えたのが「源氏物語」の作者「紫式部」である。彼女は藤原北家良門流藤原為時の娘である。
定子と彰子の争いは、清少納言と紫式部との争いである。それは藤原道隆・道長兄弟の争いであった。彰子の子供二人が天皇となり定子の子供は天皇にならなかった。
ついに道長の最高の時を迎えたのはこの時である。
この戦いに裏で高階氏・清原氏がからんでいたのである。
さらには「平治の乱」の主役の一人「藤原信西」は高階氏の養子となり、出世して政治の表舞台に出た人物である。

2)在原氏人物列伝
51平城天皇(774−824)在位(806−809)
@父:50桓武天皇 母:藤原乙牟漏< 良継
A桓武天皇第1皇子 安殿親王
后妃・子供:
・藤原帯子<百川
・藤原薬子< 種継
・藤原縄主娘 - 母は藤原薬子
・伊勢継子<伊勢老人 子供: 高岳親王、巨勢親王、上毛野内親王、石上内親王
・葛井藤子<道依 子供: 阿保親王: 在原行平・業平父
B785年早良親王の代わりに立太子。806年即位。
C藤原薬子との醜聞。
D809年病気のため嵯峨天皇に譲位、上皇となる。平城京に移り住んだ。
E810年「薬子の変」。坂上田村麻呂により鎮圧。薬子は自害。上皇は仏門に入った。
F高岳親王は廃太子。阿保親王は太宰権帥に左遷。
G阿保親王の子供に「在原業平」らがいる。(在原氏系図参照)

阿保親王(792−842)
@父:平城天皇 母:葛井藤子
A平城天皇第1皇子・后妃:伊都内親王<桓武天皇 子供:兼見王・在原仲平・行平守平
5男在原業平 側室「中臣石根娘」との間に大江音人が生まれ、大江本主の養子となったという説あり。
B810年薬子の乱で太宰権帥に左遷
C824年平城上皇没により入京が許された。
D826年子供の行平・業平らが臣籍降下し、在原朝臣姓を賜姓
E827年上総太守833年三品親王
F842年の承和の変を未然に防ぐ。

高岳親王(799−865?)
@父:平城天皇 母:伊勢継子<伊勢老人
A第3皇子、子供:在原善淵(816−875)在原安貞
B809年嵯峨天皇の皇太子。810年薬子の変で廃太子。
C822年四品 出家:真如 弘法大師十大弟子 遣唐使。マレー半島で没
D816−826に子供善淵・安貞が臣籍降下。在原朝臣姓を賜る。この流れは短命。

・在原善淵(816−875)
@父:高岳親王 母:不明
A子供:一貫
B810年賜姓
C大舎人頭、従四位上、伯耆権守、遣唐使。

・在原安貞
@父:高岳親王 母:不明
A子供:載春
B810年賜姓
C正五位下、摂津守

2−1)在原業平(825−880)
@父:阿保親王 母: 伊都内親王
A5男 妃:紀有常女 子供:在原棟梁(?−898) 滋春・美子(藤原保則室)
伊勢斎宮恬子内親王との間に高階師尚が産まれた。という説。
高階業遠妻(成章母)
B826年在原姓を賜る。
C849年仁明天皇蔵人従五位下。
D862年清和朝に従五位上。 在五中将在原業平
E877年従四位上。文徳天皇皇子惟喬親王に仕え和歌を奉る。
F880年蔵人頭(藤原高子の引き立てあり説) 従四位上 美濃権守 卒去。
G伊勢物語(別名:在五中将物語)主人公モデル。
二条后(藤原高子)との悲恋 伊勢斎宮恬子内親王との恋物語 東下り 筒井筒など
H歌人。六歌仙の一人。三十六歌仙、古今和歌集に30首 勅撰和歌集に87首
在原業平集
I関連寺社等:不退寺・在原神社・業平橋・言問橋・十輪寺など多数。
J関連謡曲:「小塩」「雲林院」「井筒」「杜若」「隅田川」、
K伊勢物語の東下りに相当する史実は無かったとするのが現在の通説?

・在原行平(818−893)
@父:阿保親王 母: 伊都内親王?
A2−3男 妻:不明 子供:遠膽(?−887)友于(?−910) 基平
文子(清和天皇更衣、貞数親王母)
B 826年在原姓を賜る。
C840年仁明朝蔵人841年従五位下 855年従四位下因幡国守 870年参議873年
従三位太宰権帥。882年正三位中納言。
D謡曲「松風」行平の百人一首題材。
E歌人。古今和歌集 4首勅撰和歌集11首
立ち別れ因幡の山のみねにおふるまつとし聞かば今帰りこむ 百人一首
F881年在原氏の学問所「奨学院」創設。

・遠膽(?−887)
B大谷氏祖 関ヶ原西軍大谷刑部吉驍ヘこの裔。
C右近将監

・在原守平
@父::阿保親王 母:不明
A子供:
B従四位下蔵人

・友于(?−910)
@父:在原行平 母:不明
A子供:
B900年 参議 正四位下

・在原仲平
@父:阿保親王 母:不明
A子供:弘景
B蔵人・豊前守・駿河守・刑部少輔

2−2)棟梁
@父:在原業平 母:紀有常女
A子供:元方・藤原国経室・元清 おほつぶね
B筑前守

・高階師尚
本稿3)高階氏人物列伝参照

・元方
@父:棟梁 母:不明 養父:大納言藤原国経
A子供:祐姫(村上天皇妃:広平親王)
B歌人、中古36歌仙、正5位下、美作守 古今和歌集8首

・おほつぶね
@父:棟梁 母:不明
A夫:陽成上皇?藤原敦忠母の妹説。藤原時平室説(子供:敦忠)。
藤原国経室説(子供:滋幹)
B女流歌人後撰和歌集3首

・滋春
@父:在原業平 母::紀有常女
A子供:時春・高滋・安平(882−945)
B大和物語作者? 歌人、古今和歌集6首 少将
C在原姓長野氏祖

・美子
@父:在原業平 母:不明
A夫:藤原保則 子供:清貫

・高階成章母?(時代が合わない)
@父:在原業平 母:不明
A夫:高階業遠 子供:高階成章

2−3)元清
@父:棟梁 母:不明
A子供:惟範
B

2−4)惟範
2−5)業正
2−6)宗屋
2−7)朝之
2−8)公之
2−9)見国
2−10)公見
B荒尾庄司・筑前守
2−11)公長
B左近将監
2−12)公平
2−13)持平
2−14)政平
B荒尾権守
2−15)持頼
B松平太郎左衛門

2−16)信重

荒尾・松平氏 ーーー徳川家




3)高階氏人物列伝
 皇別氏族「高階真人」姓は新撰姓氏録左京皇別に掲載されている。これは、773年に天武天皇皇子「高市皇子」の子供「長屋王」の息子「安宿王」が臣籍降下したことによる、賜姓に基づく掲載である。これ以降高市皇子の裔が臣籍降下した場合、高階氏が賜姓されたのである。その多くの高階氏は余り永く続かなかった。一般的には、長屋王の息子である、桑田王の子磯部王の孫である、峯緒王が844年に臣籍降下して、高階真人を賜姓されたことに始まる高階氏が後世まで繁栄した一族だとされているのである。
本稿ではこの高階峯緒の流れを人物列伝したい。但し前述したように、高階師尚という始祖的人物が、実は血脈的には、在原業平の実子であったとする説が現在では通説になっているので在原氏と同一稿の中で取り上げることとした。(既稿「古代天皇家概論U」参照)


長屋王(676又は684ー729)
@父;高市皇子 母;御名部皇女<天智
A高市の第1子。吉備内親王(草壁女)を正室とし、膳夫王、葛木王ら。藤原長蛾子との
間に安宿王、黄文王ら。智努女王<長皇子、安倍大刀自、石川夫人らを妃とした。
B皇太子であったらしい。
C718年大納言。719年右大臣不比等死亡。721年右大臣。
これ以降皇親政治に戻す動きの中心人物となる。
D721年元明上皇は、右大臣長屋王と藤原房前に後事を託す。
E723年三世一身の法施行に関与。
F首皇太子の即位に関し推進派武智麻呂と慎重派長屋王との間対立。724年首皇子即位。正二位左大臣になる。聖武天皇の母藤原宮子の扱いについてその尊称を改めさせた。
この後不比等の四子との対立激化。聖武天皇妃、不比等娘光明子が727年男子生む。しかし、夭折。
F729年「長屋王の変」で自殺。光明子立后を反対されることを恐れた藤原氏の陰謀。
Gこの変で大多数の妃や子供も一緒に自害した。但し藤原長娥子及びその子供らは許され
生き残った。その一人とされる桑田王の流れから高階氏が発生し、平安時代以降も貴族
「高階氏」として活躍する。
  
安宿王(?−?)
@父;長屋王 母:藤原長蛾子<不比等
A5男。同母兄弟:山背王・黄文王・桑田王など 子供:遠成(756−818)
浄階(?−834)
B729年長屋王の変。母が藤原不比等の娘であったため助かる。
C737年従五位下、同年従四位下 播磨守・讃岐守
D746年治部卿
C754年鑑真和上歓迎勅使。
D757年奈良麻呂の乱で黄文王に加担。黄文王死去。安宿王は佐渡流罪。
E773年高階真人賜姓。正四位下、内匠頭

桑田王(?−729)
@父:長屋王 母:藤原長蛾子<不比等
A子供:磯部王
B729年長屋王の変の時、父と共に自害した。

磯部王
@父:桑田王 母:不明
A妻:安倍内親王<淳仁天皇、子供:石見王

石見王
@父:磯部王 母:不明
A子供:峯緒王

3−1)高階峯緒
@父:石見王 母:
A子供:茂範
B844年臣籍降下。高階真人姓を賜姓。
C伊勢権守・神祇伯
D斎宮恬子(やすこ)内親王に仕えた。
一説:内親王と在原業平が密通して産まれた男児を引き取り師尚と名付け、息子の茂範の養子として育てた。

3−2)茂範
@父:高階峯緒 母:不明
A妻:藤原棟行女 子供:養子:師尚
B下野守

3−3)師尚(864−916)
@父:在原業平 養父:高階茂範 母:恬子内親王<文徳天皇
A子供:良臣
B備前但馬権守・信濃守・民部大輔
C従四位上・右近衛中将
D高階氏の実質的な始祖であるとの説あり。

3−4)良臣(898−980)
@父:師尚 母:
A妻:藤原博文女、子供:成忠・敏忠
B宮内卿、正四位下。

3−5)敏忠
@父:良臣 母:不明
A子供:業遠
B従五位上、左衛門佐

3−6)業遠(965−1010)
@父:敏忠 母:不明
A妻:在原業平女説? 子供:業敏・成行・成章・成佐・成経
B正四位下、春宮亮 越中守・美濃守・丹波守

3−7)成経
@父:業遠 母:不明
A子供:泰仲・宗俊(正四位下・刑部大輔)
B従五位下、判官代

3−8)泰仲
@父:成経 母:不明
A子供:重仲・泰兼・清泰・仲範
B正四位下・伊予守

・泰兼
@父:泰仲 母:不明
A子供:資泰
B筑前守正四位下

・資泰
@父:泰兼 母:不明
A子供:仲資
B正四位下

・仲資
@父:資泰 母:不明
A子供:美作掌侍(土御門天皇妃)

・美作掌侍
@父:仲資 母:不明
A夫:土御門天皇 子供:道仁法親王(1209〜1263)

3−9)重仲
@父:泰仲 母:不明
A子供:泰重 高階通憲室(子供:俊憲) 泰盛(従五位下、備後守、1289年没)
B正四位下、近江守、中宮権大進

・高階通憲室
@父:重仲 母:不明
A夫:高階通憲 子供:俊憲・貞憲・是憲・静賢・澄憲・憲曜
B

3−10)泰重 
@父:重仲 母:不明
A妻:修理大夫藤原宗兼女(池禅尼妹) 子供:泰経 平親範室(子供:基親)
B従五位下。若狭守
C荒尾氏・鳥居小路氏・矢部氏・大谷氏祖

3−11)泰経(1130−1201)
@父:泰重 母:藤原宗兼女
A妻:藤原行広女 子供:経仲・髓
B後白河法皇側近。院近臣1155年従五位下。後白河上皇と行動を共にして、昇進。
C河内守・出羽守・摂津守・少納言、1185年伊豆配流 1191年正三位、非参議。出家
D日本第一の大天狗説吾妻鏡など。源頼朝ー>高階泰経宛手紙。諸説あり。

3−12)経仲(1157−1227?)
@父:泰経 母:藤原行広女
A妻:藤原範季女 子供:経時 別名:業仲
B正三位、非参議
C1185年源義経・行家の謀叛に加担。父泰経とともに頼朝より解官される。その後
父とともに後白河法皇に近侍。法皇没後は、後鳥羽上皇の側近となった。

3−13)経時(1180−?)
@父:経仲 母: 藤原範季女 改名:経雅
A妻:修理権大夫源兼持女 子供:泰定・邦経・邦仲など
B従二位・非参議 和泉・但馬・美濃守
C母: 藤原範季女は後鳥羽天皇の寵妃重子(修明門院)と姉妹の関係。
その縁で後鳥羽院に近侍。1221年(承久の変)に籠居。その後九条家家司となる。

3−14)邦経(1231−?)
@父:経雅 母:修理権大夫源兼持女
A子供:重経・泰継・成房・経祐
B従二位・非参議
C地下家「鳥居小路家」祖。この後、経祐ー印祐ー経聡ー経豪ー経守ーーー明治まで続く
D尾張国丹羽郡供御所村を領した。これが後の武家堀尾氏の根拠地となった。

・邦仲(?−1289)
@父:経雅 母:不明
A子供:雅仲・邦泰
B従三位・非参議
C高階姓荒尾氏の祖。(諸説あり)系図続く

・重経(1257−1311)
@父:邦経 母:不明
A子供:敏順・寛経
B従二位・非参議

3−15)泰継(1266−?)
@父:邦経 母:不明
A子供:邦範・忠明
B従二位・非参議 丹波守
C堀尾氏祖。

3−16)忠明
@父:泰継 母:不明
A子供:忠継
B堀尾氏祖 続く

3−17)忠継
@父:忠明 母:不明
A子供:堀尾忠泰
B

3−18)堀尾忠泰
@父:忠継 母:不明
A子供:泰国
B守護斯波義重に仕える。以後守護代織田氏へ被官。
C1534年供御所村において堀尾泰晴の長男として堀尾吉晴が誕生。とある。
堀尾吉晴の時、秀吉に仕え、浜松12万石の大名になる。
1600年家康に仕え、越前国府18万石。その後松江城主23万5千石。1633年忠晴の時嗣子なく、絶家となった。

・雅仲(1276−?)
@父:邦仲 母:不明
A子供:邦雅
B従二位・非参議

・成房(?−?)
@父:邦経 母:不明
A子供:
B正三位・非参議

・寛経(1294−1355)
@父:重経 母:不明
A子供:
B正三位・非参議
Cこれ以降高階氏から公卿は出なくなった。

3−7)業敏
@父:業遠 母:不明
A子供:経成・基清
B美濃守・正四位下

3−8)経成(?−1099)
@父:業敏 母:不明
A子供:経俊
B正四位下、常陸守

・基清
@父:業敏 母:不明
A子供:基実
B

・基実
@父:基清 母:不明
A子供:女3人 対馬守源義親室 ・業
B肥後守、従四位上

3−9)経敏(経俊)
@父:経成 母:不明
A子供:養子:藤原通憲(信西)
B院近臣。摂関家家司、武蔵守・能登守、1126年長門守 正四位下

3−10)通憲(信西)(1106−1160)
@実父:南家貞嗣流藤原実兼 母:源有家女又は源有房女 養父:高階経敏
A妻:高階重仲女・藤原朝子 子供:俊憲・貞憲・貞慶・是憲・澄憲など重仲女腹
藤原成範・明遍・阿波内侍など朝子腹など多数。
別名:藤原通憲・信西
B1112年父親が急死したので7才で親戚である高階経敏の養子となる。
C鳥羽上皇寵臣藤原家成と交流。平忠盛・清盛とも交流。待賢門院蔵人
D第2妻藤原朝子が待賢門院の子供、鳥羽上皇皇子雅仁(後の後白河天皇)の乳母。
E1133年鳥羽上皇北面。出世の道を閉ざされていた。出家。信西。当代きっての碩学。
F正五位下・少納言 1144年藤原姓に復姓。
G保元の乱(1156) 後白河天皇の誕生 崇徳上皇・藤原頼長勢力を打倒。信西は死刑復活。
H強引な政治改革実施。美福門院ー信西協議。反信西勢力
I1159年平治の乱 平清盛が都不在の時勃発。信西は討ち死。

3−11)俊憲(1122−1167)
@父:信西 母:高階重仲女
A妻:藤原公教女 子供:基明・範房
B文章博士藤原顕業の養子となる。
C保元の乱後、父信西を助け後白河院政に参画。
D1159年参議従三位。平治の乱で解官。配流。
E1160年京都に戻るが復官しなかった。

・解脱上人(1155−1213)
@父:藤原貞憲 母:
A本名:貞慶
B興福寺で修行。法相宗僧。笠置寺に隠遁。

・阿波内侍
@父:貞憲 信西説もある 母:不明
A夫:75崇徳天皇 兄弟:貞慶(解脱上人)
B崇徳天皇の寵愛を受けた女官。
C建礼門院徳子の侍女として寂光院で余生を送った。
1185年寂光院入寺。寂光院2代目尼主

・参考)藤原成範(1135−1187)
@父:信西 母:藤原朝子
A妻:藤原重成女・平清盛女 子供:基成・小督など
B1159年平治の乱で信西に連座、流罪。
C1160年太宰大弐、1166年公卿、1174年正三位参議、1183年正二位中納言1185年僧職

・参考)小督(1157−?)
@父:藤原成範 母:不明
A夫:高倉天皇 子供:範子内親王
B高倉天皇の寵妃
C高倉天皇中宮建礼門院徳子の父平清盛の怒りを受け、出家。
D箏の名手・「想夫恋」、能「小督」


3−7)成章(990−1058)
@父: 業遠 母:不明
A妻:大弐三位藤原賢子<藤原宣孝 子供:為家・章行・章親
B1058年正三位、非参議、太宰大弐

参考)藤原賢子(大弐三位)(1000?−1082?)
@父:藤原宣孝 母:紫式部
A夫:兼驕リヨ白藤原道兼 再婚:高階成章 子供:為家・
B1017年母の後を継いで、一条天皇女御彰子(上東門院)の女房となる。
C恋人:藤原頼宗(道長次男:参議)・定頼(公任男:参議)・源朝任(源時中男:参議)
藤原兼驕i関白藤原道兼次男:参議)
D1025年後冷泉天皇乳母。
E1054年従三位
F女流歌人「大弐三位集」

3−8)章行
@父:成章 母:不明
A子供:章尋・女
B従四位下、阿波守

・章親
@父:成章 母:不明
A子供:敬遠(敦遠)
B正五位下

・敬遠(敦遠)
@父:章親 母:不明
A子供:敦行
B下野守


・敦行
@父:敦遠 母:不明
A子供:業行・基行
B下野守

・業行
@父:敦行 母:不明
A子供:忠業
B三河守

・忠業
@父:業行 母:不明
A子供:業国
B従五位下

・業国
@父:忠行 母:不明
A子供:業基・源雅言母
B従五位下

・為家(1038−1106)
@父:成章 母:藤原賢子(大弐三位)
A妻:藤原義忠女 子供:為遠・為章
B備中守・正四位下 1093年配流。

・為章(1059−1104)
@父:為家 母:藤原義忠女?
A子供:宗章・養子:基章
B白河院近侍。
C1090年正四位下、丹波守、越後守、但馬守、加賀守

・宗章
@父:為章 母:不明
A子供:宗成 中納言藤原家成室(子供:権大納言驪Gら)盛章?
B正四位下加賀守

・参考)藤原家成(1107−1154)
@父:藤原家保(参議)母:藤原宗子(崇徳天皇乳母)<髀@
A妻:高階宗章女 子供:         
B藤原北家魚名流
C鳥羽院政期上皇の第1の寵臣。美福門院(鳥羽天皇妃)は従姉妹の関係。
D藤原忠実・平清盛・重盛と協力関係。藤原頼長とは反目。
E平忠盛室池禅尼とは従姉妹関係。家成娘が平重盛室である。
F正二位中納言

・宗成
@父:宗章 母:不明
A子供:成朝・成尚
B従四位上

・盛章
@父:宗章 母:不明
A子供:八条院三位局
B遠江守

・成朝
@父:宗成 母:不明
A子供:成兼
B従四位上 遠江守  

八条院三位局
@父:盛章 母:不明
A夫:以仁王<後白河天皇 子供:道性・三条姫宮
夫:九条兼美 子供:良輔
B八条院(ワ子内親王<鳥羽天皇:美福門院)に仕えた。

・基章
@実父:但馬守醍醐源氏源家実 母:高階為家女 養父:高階為章
A子供:為泰 平清盛室(1138年重盛誕生・基盛)
B1136年正六位右近将監
C「台記」摂関家藤原忠実と基章妻と密通 その間に産まれた娘が、清盛室だという説。?

・為遠
@父:為家 母:不明
A子供:家行 白河院尾張
B正四位下、尾張守

・家行
@父:為遠 母:不明
A子供:為清・行全
B正四位下、大舎人

・為清
@父:家行 母:不明
A子供:行清
B正五位下佐渡守

3−9)章尋
@父:章行 母:不明
A子供:澄雲
B延暦寺僧

3−10)澄雲
@父:章尋 母:不明
A子供:栄子(丹後局)
B延暦寺僧

3−11)栄子(丹後局)(1151?−1216)
@父:澄雲 母:不明
A子供:藤原教成ら 覲子内親王(宣陽門院)
B従二位丹後局 後白河天皇妃 
C後白河法皇側近平業房の妻となる。業房は清盛によって処刑。
D業房死後、幽閉中の後白河法皇に近侍。寵愛を受ける。
E1181年清盛死後、政治にも介入。安徳天皇に替わって後鳥羽天皇を立てることを進言。
F鎌倉幕府以後は大江広元らとの交渉役。
G1192年法皇没後、出家。政治には口出しした。1202年後鳥羽上皇院政開始後威信失墜。

3−5)成忠(923?−998)
@父:良臣 母:不明
A妻:紀淑光女 子供:助順(正四位下)・信順・明順・貴子
・道順(木工権頭)積善(正四位下)
B宮内卿・大和守・東宮学士
C991年従二位。非参議、改姓、朝臣、出家
D正暦3年(992)中宮の外祖にあたるということで、真人姓を朝臣姓に改姓。(日本紀略)

・信順
@父:成忠 母:不明
A子供:
B996年 伊豆配流、従四位上 右中弁

3−6)明順
@父:成忠 母:不明
A子供:成順
B正四位下。播磨守、伊予守

・貴子 (?−996)
@父:成忠 母:不明
A摂政藤原道隆室 子供:内大臣伊周・中納言驩ニ・僧都驩~・一条天皇中宮定子
B女流歌人。従三位 高内侍

3−7)成順(?−1040)
@父:明順 母:不明
A妻:伊勢大輔<伊勢神宮祭主大中臣輔親 
子供:成棟・永業・四条宮筑前(神祇伯 延信王室)
B正五位下、1025年筑前守、出家

3−8)永業
@父:成順 母:不明
A子供:仲実・季永
B遠江守・

3−9)仲実
@父:永業 母:不明
A子供:仲光
B

3−10)仲光
@父:仲実 母:不明
A子供:加賀
B

・加賀(1124−1156)
@父:仲光 母:不明
A夫:藤原忠通 子供:摂政関白九条兼実・天台座主慈円・兼房
B

3−7)成行
@父:業遠 母:不明
A子供:後一条中宮女房上総大輔(菅原孝標妾)
B春宮大進

3−7)成佐  
@父:業遠 母:不明
A妻:源頼義妹 冷泉局 子供:惟章(河内守)
B筑前守、高氏祖

・参考)源頼信(968−1048)
@父:源満仲 母:藤原元方女 又は藤原致忠女
A兄弟:頼光ほか 子供:頼義・高階成佐室 ほか
B河内源氏祖、本拠地:河内国石川郡壺井(現:羽曳野市壺井)
C摂関家藤原道兼・道長に仕えた。平忠常の乱(1028年)を平定し。東国進出。
D従四位上、鎮守府将軍・陸奥守・河内守

・参考)源頼義(988−1075)
@父:頼信 母:修理命婦
A妻:平直方娘 子供:義家・義綱・義光(甲斐源氏・武田氏ら祖) ほか
B父と平忠常の乱平定。平直方娘を娶り、鎌倉にあった直方の屋敷を譲り受け、その後の河内源氏の東国支配の拠点とした。
C正四位下、鎮守府将軍・陸奥守
D前九年の役(1051−1062)で勝利。
E河内源氏の氏神:石清水八幡宮。鎌倉に石清水八幡宮を勧請して、鶴岡若宮(鶴岡八幡宮の前身)を創建した。

・参考)源義家(1039?ー1106)
@父:頼義 母:平直方女
A妻:藤原有綱女 子供:義守・義親・義忠・義国・為義?
別名:八幡太郎(石清水八幡宮で元服)
B後三年の役(1083−1087)で勝利。
Cその後の源氏の各流れの祖。
D四男源義頼を高階惟章の養子に出す。

・参考)源義親(?−1108)
@父:義家 母:源髓キ女
A妻:高階基実娘 子供:為義?・義信
B従五位下、対馬守。1107年隠岐国に流罪。出雲配流。平正盛に誅殺された。
C源為義の実父説有力。

・参考)源義国(1091−1155)
@父:義家 母:日野有綱娘
A子供:義重・義康(母:信濃守源有房女)・季邦
B義家より伝領された下野国足利郡(現栃木県足利市)を安楽寿院・伊勢神宮にそれぞれ寄進して足利庄・梁田御厨を立券し、経済的基盤とした。
足利氏・新田氏・山名氏・細川氏・斯波氏・畠山氏など祖。
C義国は京に住んでいたが、老後は足利に蟄居。息子義康は足利を拠点に活躍。

3−8)惟章
@父:成佐 母:冷泉局
A子供:実子なし養子:源義頼<源義家
B源義家に仕えた。河内守
C下野国梁田御厨荘を義家より貰った。
D母冷泉局は義家の乳母であった。

3−9)惟頼
@父:源義家 養父:高階惟章 母:日野有綱娘
A子供:惟真 別名:源義頼
B尊卑分脈に惟頼は源義家四男。3才の時之を養うとある。
Cこれ以降は大高姓を称した。これが高姓の始まりである。
D源義国(後の足利将軍家の開祖)とは同母兄弟である。義国の執事となった。
E領地:梁田御厨荘

参考)・高師直(?−1351)
@父:高師重 母:不明
A妻:上杉頼重女、継室:二条道平妹 子供:師夏・師詮
B主君:足利尊氏
C足利尊氏の側近。1338年尊氏征夷大将軍室町幕府執事。守護職。


4)参考「徳川家」元祖部人物列伝
・在原業平
・公見
・公長
・荒尾公平

・松平持頼
@父:政平 母:不明
A子供:信重・信頼
B松平太郎左衛門

・松平信重
@父:松平持頼又は信盛 母:不明
A子供:女1 次女「水女」 養子:松平親氏
B南北朝時代ー室町時代初期、三河国加茂郡松平郷の領主、国人。
C出自不詳。賀茂氏説、鈴木氏説あり。
D古代氏族系譜集成:松平信盛と荒尾持頼は同一人物。荒尾氏は在原氏の後裔。
陰陽寮下司系図:信盛の父親は、賀茂在信である。
E1360年頃家督を継いだ。
F松平親氏・石川孫三郎らが松平郷に来たとき、親氏の和歌に通じた教養・武勇を評価
次女の養子とし、松平郷を継承させた。という伝承が残されている。

・得川(世良田)有親
@父:得川親季 母:
A子供:親氏・泰親?平手義英? 別名:長阿弥
B南北朝ー室町初期の武将。
C東照宮御実紀・系図纂要・好古類纂・徳川家譜・鑁阿寺系図などに関係系図あり。
D父親季が鎌倉公方足利満兼から、上野国新田郡得川郷に領地を与えられた。(鑁阿寺系図)
E親氏・有親父子は、乱に敗れ、出家し、三河国愛知郡一柳庄荒子村に移り住んだ
(徳川諸家譜)
F1385年の合戦で有親は戦死説。(鎌倉大草紙)異説多し。
G藤沢寺記:藤沢の清浄光寺(遊行寺)の弁財天社を有親が時宗僧の時、勧請。その後
松平家を起こしたとの説。
H遊行・藤沢両上人御歴代系譜:親氏が長男・次男泰親と記されている。
I古代氏族系譜集成:加茂系図にある在原在久の子供「在親」が有親であり、得川有親
を在原氏説。
J世良田政義・親季・有親3代流浪蟄居説。
K従五位下。

4−1)松平親氏(?−1393?諸説あり)
@父:得川有親、養父:松平信重 母:
A妻:松平信重次女「水女」子供:酒井広親(松平氏の養子になる前に酒井氏の婿となっていたときの子供)、泰親、信広?信光? 別名:信武・世良田親氏・得川親氏・徳阿弥
B室町時代初期ー14世紀後半の三河国武将。徳川氏の始祖。
C出自は清和源氏新田氏支族世良田(得川氏)氏出身。南朝方につき、没落。
この部分が粉飾系図か?
D父有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺で出家。徳阿弥と称した。創作部分?
E徳阿弥は配下石川孫三郎と諸国流浪。
F三河国加茂郡松平郷の松平信重の客人となった。信重は徳阿弥の教養を高くかい、婿養子に迎え、親氏と称した。
G郷敷城築城。勢力を伸ばした。高月院をはじめ多くの寺社を建立。
H以上の話を証明する徳川氏側以外の証拠史料なし。
I泰親は実の子供か弟か、諸説あり。
J永享元年(1429)を以て三河国松平郷に到る。郷主太郎左衛門尉在原信重長女を配して婿と為す。
応仁元年(1467)没説。

4−2)泰親
@父:親氏(藩翰譜・寛政重修諸家譜)母:不明
A子供:信広・信光
B室町時代初期三河国松平氏第2代当主?
C父親は諸説ある。徳川親季説。子供:益親・久親、甥:信光説、甥を養子とした。親氏の弟説。説。享徳3年没説。
D親氏から家督を継いだ。
E三河国眼代と為り、始めて岩津塁を築き、岡崎城も築く。世良田三河守。
上いずれの事項も史実を証明するものなし。

4−3)信光(1413−1488)(1404−1488)など
@父:親氏(松平由緒書)?又は泰親?母:松平信重女
A妻:真浄院殿(一色満範女?)子供:守家・親忠・など多数。
B三河松平氏第3代当主
C室町幕府政所執事伊勢貞親に仕えた。この頃からは実在を証明する記事あり。
D1465年の記録あり。親元日記。
E岩津松平家祖。岩津に居城を移した。松平郷は、兄信広が継承。安城に移る。
F従五位下。

4−4)親忠(1431−1501)
@父:信光 母:真浄院殿(一色満範女?)
A妻:閑照院殿(鈴木重勝女)子供:親長・長親・など多数。
B松平氏第4代当主。信光3男
C安祥城主 そもそもは分家的扱いか?

4−5)長親(1473−1544)
@父:親忠 母:閑照院殿(鈴木重勝女)
A妻:松平近宗女 子供:信忠・親盛など多数。
B松平氏第5代当主。親忠3男
C1496年安祥城主。今川軍と争う。松平氏を戦国大名にした基礎を築いた人物。

4−6)信忠(1490−1531)
@父:長親 母:松平近宗女
A妻:大河内満成女 子供:清康・信孝など多数。
B松平宗家第6代当主。早期に嫡男清康に家督を譲った。
C1503年家督を継ぐ。不器用者、と評された。
D1523年に家督を清康に譲る。今川氏との対立続く。
E
4−7)清康(1511−1535)
@父:信忠 母:水野氏女説
A妻:春姫(松平昌安女)継室:青木貞景女 子供:広忠・信康など。
B松平宗家第7代当主。安祥城主、岡崎城主。この頃世良田姓を名乗る。
C1535年織田信秀軍と交戦中に家臣により、殺された。 三河統一。

4−8)広忠(1526−1549)
@父:清康 母:青木貞景女?
A妻:於大の方(水野忠政女)継室:戸田康光女 子供:家康・矢田姫など。
B松平宗家第8代当主。岡崎城主。今川氏による庇護。織田氏との対立。

4−9)徳川家康(1543−1616)
@父:松平広忠 母:於大の方
A正室:築山殿 側室:朝日姫 その他多数 別名:松平元信、元康など
子供:徳川秀忠・松平信康・忠康、徳川義直(尾張藩)徳川頼宣(紀州)徳川頼方(水戸)
B1603年征夷大将軍。江戸幕府を開く。


5)在原氏・高階氏関係寺社
5−1)在原神社
(天理市櫟本町3916 )
@祭神:阿保親王・在原業平
A創建: 835年説・880年説 阿保親王が創建
B元々在原寺(明治初年まで存在)と業平神社が併存していた。
C在原業平の生誕の地説。在原業平と紀有常娘が居を構えた所。とされている。
D境内に筒井筒の跡。伊勢物語23段ゆかりの地。
・筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 過ぎにけらしな 妹見ざる間に。
・(返)比べ来し 振り分け髪も 肩すぎぬ 君ならずして たれかあぐべき。
・風ふかば 沖津白波 たつた山 夜半にや君が ひとり超ゆらむ。
E謡曲「井筒」

5−2)不退寺(業平寺)(奈良市法蓮町)
@真言律宗 金竜山不退転法輪寺
A創建:847年説
開基:仁明天皇の勅願を受け在原業平 阿保親王の菩提を弔うために建立。
B平城天皇が「薬子の変」(810年)のあと剃髪したのち隠棲した「萱の御所」の跡説。
C阿保親王・在原業平の居所。

5−3)在原寺(知立市八橋)
@臨済宗妙心寺派
A創建:
B伊勢物語の舞台八橋にある。
C業平の骨を寛平年間(889−897)に分骨して、菩提を弔うための寺。
D近くに八橋伝説地あり。業平東下り所縁の地。
唐衣(からころも)着(き)つつ慣れにし、つましあれば、はるばるきぬる、旅(たび)をしぞ思う
杜若(かきつばた)を読み込んでいる。

5−4)無量寿寺(知立市八橋町寺内61−1)
@臨済宗妙心寺派 八橋山無量寿寺
A創建:伝704年822年現在地に移転。
B伊勢物語の舞台八橋にある。業平東下り所縁の地。
C杜若庭園 杜若姫(小野篁娘;杜若)伝承 謡曲「杜若」

5−5)十輪寺(業平寺)(京都市西京区大原野小塩町)
@天台宗、小塩山十輪寺
A創建:850年文徳天皇后、染殿皇后(藤原明子)の安産勅願寺。
B業平が晩年この寺に住み、塩焼きをここで行った。ここで没したとされている。
業平のお墓。
C謡曲「小塩」
・大原や小塩の山も今日こそは、神代のことも思い出づらめ(古今集)

5−6)業平橋・言問橋(東京都墨田区)
@伊勢物語9段が由来
・名にし負はばいざ言問わむ都鳥わが思う人はありやなしやと

5−7)宗像神社(桜井市)(桜井市外山818)
@祭神:宗像3女神
A創建:天武朝以前?
B社格:式内社(名神大)
C胸形徳善娘尼子娘が天武天皇妃になったことと関係。子供が高市皇子であることと関係。高市皇子の後裔氏族として高階氏が誕生したことと関係。880年官社(日本三代実録)
D高階氏氏神 社家高階氏、高階義岑(南北朝時代の神主)の話

6)在原氏・高階氏関係系図
6−1)在原氏元祖系図 (姓氏類別大観準拠・筆者創作系図)

・参考)紀氏略系図(紀名虎周辺)(筆者創作系図)
・参考)徳川氏系図1
・参考)徳川氏系図2
6−2)高階氏系図(姓氏類別大観準拠・筆者創作系図)
*1高階通憲関係系図(姓氏類別大観準拠 公卿補任参考)
*2高氏概略系図(姓氏類別大観準拠 筆者創作系図)
参考)*源為義流源氏概略系図(姓氏類別大観準拠・筆者創作系図)
参考)源義国流足利氏関係概略系図(姓氏類別大観準拠)
6−3)大江氏系図(姓氏類別大観準拠・筆者創作系図)
・大江広元詳細系図(姓氏類別大観準拠・筆者創作系図)
・(参考系図)大名家永井氏系図(筆者創作系図)
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  7)在原氏・高階氏系図解説・論考
7−1)在原氏系図解説
  6−1)在原氏元祖系図参照
 
 皇別氏族「在原氏」は、51平城天皇の子供「阿保親王」「高岳親王」の子供が臣籍降下した時に賜姓された在原朝臣に端を発する古代豪族である。
平城天皇の長男は阿保親王である。次男が高岳親王である。理由ははっきりしないが、臣籍降下は高岳親王の子供善淵王、安貞王が阿保親王の子供らより先に始まった。810年である。しかし、この流れは2家とも早く歴史上から消滅したので、解説は省略する。
重要なのは阿保親王の子供らの流れである。50桓武天皇の娘「伊都内親王」と阿保親王の間に在原業平が5男として産まれた。この流れこそ在原氏の本流となったのである。826年に兄「行平」らと一緒に臣籍降下して在原朝臣姓を賜った。
恐らく業平の同腹と推定されている在原行平は業平の兄である。
この行平の娘「文子」は、56清和天皇の妃となっている。行平は正三位まで昇級した参議であり、藤原氏が全盛時代に入る前ではあるが、政治的にも活躍した人物である。藤原氏に対抗して学問所も設け、子弟の教育にも力を入れた人物である。在原氏の輩出した人物の中では最も高位に就いた人物である。
しかし、何故か子供の友于(正四位下・参議)・基平の後が続いていない。「遠膽」の後は中央朝廷内の活躍記録はないが、近江国坂田郡司となり、営々と続き戦国時代末期西軍の領袖であった「大谷刑部吉驕vに続く武家大谷氏として系図を残しているのである。但し、史実がどうだったかは、不明とされているのである。
阿保親王には在原氏とは異なる子供がいたのである。この人物を解説しておきたい。
阿保親王には「中臣石根女」という女性が妃の一人としていた。この女性を神別氏族である、大枝氏の「本主」に下賜したのである(異説あり)。古代豪族の一つである土師氏の流れを引く大枝氏は、桓武天皇の時代に桓武天皇の母親の出自の関係で貴族扱いになっていたのである。(出雲氏考参照)。この大枝氏の嫡流であった「大枝本主」に阿保親王の側室の一人が下賜されたのであるが、この女性は既に身籠もっていたのである。一説では、下賜される前に既に阿保親王の子供として産まれていたともある。この男児の名前が「大枝音人」である。産まれていたか、身籠もっていたかは、判然としないが、明らかに阿保親王の子供が、大枝本主の子供として育てられたのである。これが、後の大江氏の実質的な祖となった、「大江音人」である。という説が現在通説になっている。勿論異論もあるが、筆者もこの通説に従い、本稿の系図に記載した。但し、既に大江氏については、出雲氏考Uの中で詳しく記したので、参考系図6−3)大江氏系図だけを掲載した。この大江氏こそ、戦国大名の毛利氏、長岡京市の勝竜寺城城主・高槻藩藩主の永井直清のご先祖なのである。本稿では詳しいことは省略。
 さて、在原氏の本流である在原業平系の系図について解説したい。
業平流在原氏の嫡流・本流をどうするかは、難問である。筆者の独断と偏見で「徳川家康」に繋がるとされている武家「荒尾・松平氏」へと続く流れを中心に解説したい。
在原業平は阿保親王の5男である。826年に臣籍降下し、在原朝臣姓を賜り、朝廷内で従四位上・蔵人頭まで達した人物である。しかし、そのような事で有名な人物ではない。「伊勢物語」のモデルとされ、六歌仙の一人であり、平安時代初期の超有名人である。詳しくは論考で述べたい。正室は「紀名虎」の孫である「紀有常娘」である。(紀氏略系図参照。)既稿「紀氏考」参照
紀氏と在原氏は非藤原氏族ということで、特別な関係があったことを伺わせるのである。
名虎の娘「種子」は54仁明天皇の妃である。その仁明の子供である55文徳天皇の妃に名虎の娘静子が入り、その間に産まれたのが「惟喬親王」と「恬子内親王」である。この恬子内親王は伊勢神宮の斎王になったのである。一方、名虎の息子「有常」は歌人であり、その娘は在原業平と結婚して「棟梁」を産んでいる。業平は惟喬親王に仕える身であった。
恬子内親王と業平の妻は従姉妹の関係にあるのである。
斎宮は何人も触れてはならぬ女性である。ところが、業平はこの妻の従姉妹で斎宮である恬子内親王と密通してしまったのである。しかも子供を身籠もったのである。これを秘密裏に処理しようとした人物がいたのである。「高階峰緒」である。この時、権伊勢守であった彼は、この斎宮が産んだ子供を自分の子供の「茂範」の養子として育てたのである。これが、「高階師尚」である。後に古代豪族・皇別氏族高階氏の実質的な祖のような形になって、発展繁栄させるキーマンになったのである。この説は史実かどうか異説も多数あるが、今日ではほぼ史実とするのが、通説であり、筆者もこの説に従って、本稿の系図に載せたのである。伊勢物語で詳しく記されている。当時の紀氏には、紀友則、紀貫行など平安時代を代表するような歌人・文人もおり、業平とも交流があったとされているのである。高階師尚以降の高階氏については、別途本稿で詳しく記述したい。業平の息子「滋春」は「大和物語」の作者説もあるが、歌人である。この流れから、後世在原姓長野氏が派生するのである。長野氏は、上野国の豪族で、上野国群馬郡長野郷を本拠地とし、長野氏を称した。戦国時代に武田信玄に敗れ滅亡したとされている。
嫡男「棟梁」は筑前守でこれ以降の在原氏は地方の領主クラスであったようである。系図は継続して存在するが、史実かどうかは、はっきりしない。この流れから荒尾氏が派生し、三河国に地盤を有する武家が誕生したようである。その中の一つが、三河国加茂郡松平郷に派生した。松平氏である。これが、後の「徳川家康」を輩出する基盤となったとする系図が存在する。本稿の徳川氏の項で参考程度に解説したい。

7−2)高階氏系図解説 (既稿「古代天皇家概論U」本稿6−2)高階氏系図参照)
 高階氏は40天武天皇の子供である高市皇子の子供の鈴鹿王・長屋王らの裔孫が臣籍降下したときに賜姓された高階真人姓に端を発する皇別氏族である。729年に長屋王の変があり、長屋王の多数の子供・縁者は殺されたり、自害したのである。しかし、母親が、藤原不比等の娘であった「長蛾子」腹の安宿王・桑田王の流れは、殺されなかった。但し、桑田王は父「長屋王」と共に自害したとされている。773年になって長屋王の子供の3世王「安宿王」の臣籍降下があり高階真人姓の最初とされている。新撰姓氏録左京皇別高階真人。安宿王の子供「浄階」の娘「河子」は、52嵯峨天皇の妃になっている。安宿王の流れはこの辺りで歴史上から急に消えるのである。理由不明である。次ぎに844年に桑田王の流れの6世王「峰緒王」が臣籍降下して「高階真人峰緒」となった。これ以外にも高階姓は発生したが、後世に繋がったのは、この「峰緒王」の流れだけである。系図には、鈴鹿王の流れからも高階姓が派生していることになっている。
757年に鈴鹿王の子供である出雲王、篠原王、尾張王などが臣籍降下して、豊野真人姓を賜姓された。この氏族は、新撰姓氏録右京皇別豊野真人と記載されているのである。
ところが、豊野真人出雲の子供の豊野真人沢野らが848年に新たに高階真人姓を賜姓されているのである。この理由は不明である。大勢には影響ないが、非常に珍しいのではなかろうかと思う。この流れ及び安宿王流高階氏は、ここで一般公知系図上からは姿が消えるのである。残ったのは、桑田王流の高階峰緒の流れだけである。
「高階峰緒」は伊勢権守であり、神祇伯であった。子供は「茂範」で下野守である。7−1)で述べたように、峰緒が伊勢権守の時、斎宮に仕えていたのである(斎宮頭)。「在原業平」と「斎宮恬子内親王」の密通で産まれた「師尚」を世間から隠蔽するために茂範の養子としたのである。高階師尚は、従四位上、民部大輔、などの要職を務め、以後の高階氏発展の礎を築いたのである。師尚は明らかに在原氏の出身だと、現在の一般系図ではなっているのである。結果的には、この流れが、名門貴族とされた高階氏の本流となったのである。それでは嫡流をどうするのが正しいかは、悩むところであるが、結果論的に見て下記の流れだと判断した。
高階師尚ー良臣ー敏忠ー業遠ー成経ー泰仲ー重仲ー泰重ー泰経ー経仲ー経雅ーーー
理由は、@この流れには歴史上有名な人物はいないが、鎌倉時代・室町時代になって三位以上の所謂公卿を多数輩出している。A高階氏は最終的には、地下公家である鳥居小路家になり幕末まで続いている。それはこの流れの延長上にある。Bこの流れの途中から、武家として「高師直」を輩出した、高氏が出ている。Cさらに史実として正しいかどうかは不明であるが、武家「堀尾氏」・「荒尾氏」が系図を残している。などである。
この本流系図の高階業遠の妻が在原業平女という系図があるがこれは明らかに何かの間違いだと判断する。在原業平(825−880)の娘が高階業遠(965−1010)の室になる可能性はゼロである。
 さて、嫡流とは別に歴史上有名人物について解説しておきたい。高階氏からは歴史上有名な女性が輩出されている。
52嵯峨天皇妃河子:安宿王の子供「高階浄階」の娘が嵯峨天皇宮人河子となり 宗子内親王(?-854)を産んだ。
@
高階貴子:摂政藤原道隆の正室となり、一条天皇中宮の「定子」を産んだ女性である。この定子に仕えた女流作家が「清少納言」である。この貴子の父親「成忠」は、宮内卿で従二位という藤原氏以外では到達不可能な高位に登った、歴代高階氏の中では、出世頭みたいな人物であった。ちなみに、成忠の父「良臣」は正四位下。子供「明順」は正四位下であった。
A
加賀:摂政関白藤原忠通の側室となり、摂政関白九条兼実・天台座主慈円というその時代を動かした人物を産んだ女性である。その父「仲光」は太皇太后宮大進職と記録があるが、この辺りの系図は不確かである。姓氏類別大観では本稿系図が明記されているが、それ以外の公知系図では藤原仲光と記されており、不明確。
B
丹後局・高階栄子:後白河法皇の側近であった平業房の妻であったが、業房が平清盛によって処刑された後に、幽閉中の後白河法皇に近侍して、寵愛を受け、法皇の子供も産んだ。その後の政治にも介入するという怪女的存在となり、楊貴妃に例えられた。父親は高階成章の流れの「澄雲」という僧である。
C
高階基章女(平清盛室): 父高階基章は、高階為家の娘と醍醐源氏の源家実との間の子供で、為家の嫡男為章の養子になった。この基章の娘が平清盛の室となり、嫡男「重盛」を産んだのである。基盛も彼女の子供である。平清盛が若い、身分も低い時に同じ職場にいた高階基章の娘を嫁に貰ったという関係。この基章の義理の兄宗章の子供盛章の一人の娘は有名な「以仁王」の室となり、また摂政関白九条兼実の側室となっている。
D
高階重仲女(信西室):高階氏本流の泰仲の子供「重仲」の娘が、業敏流れの経敏の養子に入った藤原南家出身の通憲(信西)の正室になった。信西は平安後期の日本の政治を牛耳った歴史的人物(後述)である。俊憲を始め多数の僧を輩出した。その中に貞憲があり、その息子が貞慶という僧で世に「解脱上人」として有名である。その妹に阿波内侍がおり、75崇徳天皇の妃となった。
次ぎに歴史上有名な男性について解説したい。
@高階成忠(923?−998):高階氏初期の実質的リーダーであった。娘「貴子」が摂関家藤原道隆の室となりその間に産まれた「定子」が一条天皇の中宮となった。その外祖父となった成忠は高階氏としては異例の昇進をして、従二位となった。ところがその没後この流れは急速にその勢力を失ったとされている。
A高階成章(990−1058):次ぎに高階氏として勢力を持ったのが、業遠(成忠の甥)の息子の成章である。妻が有名な「紫式部」の娘である「大弐三位」である。彼女は公卿クラスの多数の公達と恋仲になったとされているが、何故か実際の結婚相手は、受領クラスの成章だったのである。
父親である「藤原宣孝」も受領クラスだったのでそれなりに見合っているという説もある。この成章の流れから、後白河法皇の寵愛を受け、政治にも大いに影響を与えた女丈夫「丹後局」を輩出している。
B高階通憲(信西)(1106−1160):産まれは藤原南家貞嗣流で、永頼ー能通ー実範ー季綱ー実兼ー通憲という系譜を有している。祖父季綱は大学頭、しかし、父 実兼が1112年通憲7才の時に死亡したため、経済的に裕福であった親戚にあたる「高階経敏」の養子になり、学業に励んだ。そこで親族の高階重仲女を室とした。主君は鳥羽天皇・崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇二条天皇と変わっていくなかで、藤原家成・平忠盛・清盛などと交流を深め無類の才能を発揮していくが、官位の昇級は全く望めなかった。出家して「信西」となり、第2の妻藤原朝子が後白河天皇の乳母だったことも利用して、院近臣政治で力を持った。保元の乱の中心人物となり、成功。平治の乱で敗死。詳しいことは別稿で述べる予定だが、高階氏関係者の中で最も歴史上活躍した人物である。高階姓から藤原姓に復姓して、最終的には僧「信西」となった。非常に沢山の子供を残し、その大多数は僧職についた。
C高階基章:成章の息子「為家」の娘と醍醐源氏の但馬守源家実との間に産まれたのが源基章である。これが為家の息子「為章」の養子となり、高階基章となったのである。
若い頃の平清盛と基章は職場が一緒だった縁で基章の娘明子が清盛の室になったとされている。その間に産まれたのが、嫡男重盛である。(異説あり)基章は、生涯出世しなくてせいぜい正6位で終わっている。清盛とは対照的である。
一方基章の義兄「宗章」の娘は正二位中納言藤原家成の室となった。
D高師直(?−1351):足利尊氏の最大の側近の一人として室町幕府開闢に多大な貢献をした歴史上有名な武士である。この人物は高階氏から分かれ、その氏名の一部に「高」を入れた高氏を名乗ったのである。系図上から見ると、その出自は高階業遠の息子「成佐」である。
成佐の妻は清和源氏の嫡流である源頼信の娘「冷泉局」(源頼義妹)である。頼義の息子で歴史上有名な八幡太郎義家の乳母だった女性であるとされている。この縁で高階成佐の息子「惟章」と義家は義兄弟のような関係だったとされている。「惟章」は義家に仕えていたが、子供に恵まれなかった。そこで義家に頼み込んで義家の四男である「義頼」を養子に貰って、高階惟頼とした。惟頼と足利氏の祖である源義国は同腹兄弟とされている。
以後惟頼の流れは、主に足利の地で足利氏の重臣として仕えた。その末裔9代孫が師直である。
E堀尾吉晴(1535−1611):堀尾氏の出自は本稿での高階氏本流の高階重仲流邦経の息子従二位丹波守「泰継」だとされている。系図も残されているが、確証は得られていないらしい。
戦国大名堀尾吉晴は1535年に尾張国丹羽郡供御所村(堀尾氏の本拠地)で産まれ、秀吉・家康に仕え最終的には松江城主23万5千石の大名となった。しかし、孫の忠晴が
1633年に跡継ぎもなく急死したため、大名家堀尾氏は絶家したのである。
などである。

7−3)在原氏・高階氏論考
 前稿の「清原氏考」でも記述してきたことであるが、本稿シリーズの「古代豪族」とはどのように定義するべきか、筆者は迷っているのである。既稿で記述してきた多くの氏族は、「古代豪族」と呼称して、問題は無いであろう。しかし、清原氏・在原氏・高階氏となると、一寸それまでの氏族とは、異なるものを感じるからである。筆者のようなアマチュアから見ると、古代豪族は、@日本書紀・古事記にその存在、活躍記事が記されている。A新撰姓氏録に皇別氏族・神別氏族・蕃別氏族などと分類されて、収められている。B古代の氏姓制度に従った天皇家から賜姓された姓(かばね)と氏名(うじな)を有している。
Cその氏族の古くからの系図が公知にされている(勿論系図が伝承されていない豪族も多数あるが)。
などの条件を満たしている氏族だと、ぼわーとした判断基準で選んできたからである。
この基準で見ると、「清原氏」は、臣籍降下した年は新撰姓氏録の発行以前であるが、姓氏録には掲載されていないのである。勿論記紀にも記事は無いのである。BCだけは満足しているのである。「高階氏」は@は無し。ABCは満足している。しかし、実際の活躍時期は平安時代以降である。「在原氏」は@Aは無し。臣籍降下した時期も新撰姓氏録発行以降である。BCは満足しており、活躍時期は平安時代以降である。3者とも天皇家から臣籍降下により、賜姓された氏族である。新撰姓氏録流の分類では、皇別氏族に該当するのである。
7−3−1)古代氏姓制度・臣籍降下について
 日本列島に人類が住み始めたのはいつ頃からかは、現在でも議論が分かれる問題である。少なくとも1万年前には、縄文人がいたこと、3000年前頃から弥生文化・水田稲作文化などが列島に持ち込まれ、BC2−3世紀頃には、小国家が各地に産まれ、明らかなる身分社会が営まれ出していたと最近では、言われているのである。その集団を護り、維持するためにはリーダーの存在が不可欠となったのである。当然その人物の呼称は、他の人々とは異なったものとなった。これが、氏姓制度の原初的な発生の姿である。さらに、AD2−3世紀頃その場所の問題は意見は分かれたままではあるが、邪馬台国が存在していたことは史実として確立されているのである。魏志倭人伝の中に多くの身分を表す言葉が記されている。さらに、いわゆるヤマト王権なる統一国家の誕生をいつ頃にするのかも、現在喧喧がくがくの議論がされていることではあるが、筆者は4世紀初頭(崇神天皇の頃)と仮定して、本稿シリーズは記述してきたのである。
さて、この4世紀頃に身分制度的な氏姓制度は、果たして存在していたか?記紀の記述では、天皇(大王)の存在を認めているので、当然それ以下の身分制度の存在を各所で示唆しているのである。国造・県主・大臣・大連・大夫などなど。これが、特権的世襲的血族集団的身分制度として確立成立するのは、5−6世紀頃だとされている。
臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・県主(あがたぬし)稲置(いなぎ)、 氏上・氏人・部曲(かきべ)・奴婢 部・部民(べのたみ)・品部(しなべ)・子代(こしろ)・名代(なしろ)・田部(たべ)などの言葉が誕生した。
臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・造(みやつこ)・直(あたえ)・首(おびと)・村主(すぐり)・史(ふみ)などの世襲的身分姓(かばね)も徐々にではあろうが確定してきた。この氏姓制度は、一部支配階級だけの制度ではなく、朝廷の支配下にある日本全国民もこの制度に組み込まれたとされているのである。その氏族のトップに立つのが、氏上(うじのかみ)である。この制度は、604年の聖徳太子による冠位12階の制定、大化の改新(646年)、670年の庚午年籍、684年の「八色の姓」、701年の大宝律令、などにより改訂が繰り返された。
八色の姓制度が、その後の指導者層の姓としてのランク分けを決めたのである。真人・朝臣・宿禰・忌寸の4姓の者しか、貴族にはなれないようになったのである。
この内、真人姓は継体天皇以降の天皇家皇親氏族が臣籍降下して賜姓された場合の姓であり、新撰姓氏録の分類でいう皇別氏族にしか賜姓されない姓である。朝臣は従来の臣姓・連姓氏族の中から選ばれて52氏が賜姓された。宿禰姓も同じで50氏、忌寸姓は主に渡来系の有力氏族11氏に与えられたのである。この状態が奈良時代一杯続いた。しかし、朝廷内の支配体制が変化して、藤原氏以外の新たな豪族が発生する背景が完全に閉ざされたのである。唯一の新豪族の発生の可能性が残されたのが、天皇家からの臣籍降下によって発生する賜姓を受けた一族(皇別氏族)だけとなったのである。勿論従来から存在していた神別氏族から派生した氏族の台頭は可能性が無くはないが、基本的に元祖部が変わる訳ではないので、大勢に影響はないのである。例えば蘇我氏が石川氏に、物部氏が石上氏などに替わった。
藤原氏だけは、中臣氏から派生した訳だが、中臣氏はそのまま存在した上で、新たな豪族藤原氏の発生と認識されたのである。
 さてここで、古代の「臣籍降下」の実態についてその一端を紹介したい。
臣籍降下とは、皇族が親王、内親王、王、女王という氏姓(うじかばね)の無い身分から、姓と氏名(うじな)を貰って天皇に対して臣下となり、天皇になる資格を失うことである。律令制度上では、4世王までは、皇親であり、5世王からは、皇親とはならないが、王号を有しており、従五位下の蔭位を受けられる。6世王は、王号も受けられないのである。但し、「続日本紀」706年条によると、上記の修正令がでた。これにより5世王まで皇親となった。皇親とは、天皇になる資格を有する者の意と解されているのである。この修正は、継体天皇(男大迹王)の出自とその天皇としての正当性を明快にするためにあったとの説がある。逆に言えば701年の大宝律令制定の折には、継体天皇の応神天皇5世孫説が明確でなかったとも言えるという説の根拠となったのである。本件は本稿とは直接関係ないのでこれ以上の記述は省略したい。
臣籍降下という概念が乏しかった上古時代には、天皇家から派生した氏族には一般的には「公(きみ)」とか、「君 (きみ)」という姓が賜姓されたのである。例:守山公・高橋公・三国公・当麻公・丹比公・息長公・酒人公
参考までに新撰姓氏録に記された元祖がより古い時代に天皇家から別れた主な所謂皇別氏族を列挙すると、阿部朝臣・石川朝臣・紀朝臣・多朝臣・吉備朝臣・小野朝臣・毛野朝臣・巨勢朝臣・葛城朝臣・平群朝臣などである。旧姓は臣姓だった氏族が多い。いずれも本稿シリーズで取り上げた代表的な古代豪族である。
一方上記の公姓・君姓の氏族の多くは684年の八色の姓制度により、真人姓になった。
主に新撰姓氏録に記載された例を各天皇毎に臣籍降下した王族の姓氏で記した。
応神天皇系:息長真人・坂田真人・山道真人
継体天皇系:三国真人・酒人真人
宣化天皇系:多治比真人
敏達天皇系:大原真人・甘南備真人・路真人・大宅真人・橘宿禰(橘朝臣)
用明天皇系:当麻真人・
舒明天皇系:三嶋真人
天智天皇系:淡海眞人・春原朝臣
天武天皇系:高階真人・豊野真人・文室真人・清原真人・中原真人・氷上真人など。
光仁天皇系:広根朝臣
桓武天皇系:長岡朝臣・良峯朝臣・平朝臣
平城天皇系:在原朝臣
嵯峨天皇系:源朝臣
新撰姓氏録記載真人姓数:48氏。(清原真人・平朝臣・在原朝臣などは姓氏録には記載がない)
52嵯峨天皇以降に臣籍降下した場合の賜姓は、天皇が誰であれ、「源朝臣」または「平朝臣」となった。臣籍降下制度は、上古よりあったが、上古は各天皇の男児も少なく、皇族として面倒を見たとしても特別に経済的負担にもならなかったので、特別視されることは無かった。ところが、奈良時代の皇位継承問題の反動ともいわれているが、桓武天皇は多数の子供を産んだ。嵯峨天皇も30数名産んだ。こうなると、皇族を養う経費も膨大なものとなり、皇族に相応しい、職も不足し、一般の貴族の職種にも影響も出て来る恐れが発生した。そこで、嵯峨天皇は第1世王から臣籍降下を行った。勿論天皇になる可能性のある子供は親王として残した。これが嵯峨源氏の始まりである。その後、桓武平氏が誕生した。
従来の臣籍降下制度が続いたのは、51平城天皇系までである。この頃になると、真人姓は亡くなり、朝臣姓が賜姓された。
一般的には、臣籍降下した王族は、1−2代は身分及び経済的には保証されたが、それ以降になると、余程の才能のある人材を有する氏族以外は、没落し、絶家、又は地方に移り、武士・土着豪族として生き残ったと言う説が通説である。前稿の清原氏の場合の、豊後清原氏、奥州清原氏の例がこれである。
上記の多数の真人姓の一族で歴史上後世まで、継続活躍した例は非常に少ないことをことを見れば一目瞭然である。
臣籍降下制度は、しばらく、源朝臣氏・平朝臣氏時代になる(出身天皇の名前を付して、嵯峨源氏、清和源氏、村上源氏、桓武平氏、仁明平氏、文徳平氏と称し、区別された。)が、そのやり方も行き詰まり、新規の賜姓・公家誕生を完全に抑制する必要性に迫られ、天皇になる可能性の全くない皇子は、幼少の時に出家させて、法親王として、1代のみ経済的面倒を見て、子孫を残さないという現在流に見れば非常に酷な施策に切り替えられたのである。よって、賜姓もなければ、これ以上の王族の子孫は残らなくなったのである。詳しいことは省略するが、鎌倉時代以降は新たな源氏も新たな平氏も原則的に発生しなくなったのである。
以上の歴史的背景を参考にして、古代豪族の新規発生は、本稿における、平城天皇系の在原朝臣氏をもって最終と判断した。 これ以降の「源氏」と「平氏」については、全く別扱いとして、稿を起こしたいと思うのである。

7−3−2)在原氏論考
 前述したように筆者は、在原氏を最後の古代豪族だと判断した。51平城天皇の子供「阿保親王」と「高岳親王」の子供が臣籍降下し、在原氏を賜姓されたのである。平城天皇は50桓武天皇の第1皇子で809年に在位僅か3年で病気で弟の52嵯峨天皇に譲位して、上皇となり、平城京に住んだ。嵯峨天皇の皇太子として、何故か平城天皇の次男である高岳親王がなった。何故長男の阿保親王がならなかったのか、謎である。翌810年には「薬子の乱」を起こし、即、鎮圧され、皇太子は廃位され、阿保親王は太宰権帥に左遷された。これにより、嵯峨天皇の後継天皇が、平城天皇の系統がなる道は閉ざされたと判断されている。810年に高岳親王の子供が臣籍降下し、826年に阿保親王の子供が臣籍降下したのには、以上のような背景があったと考えられているのである。823年に嵯峨天皇は譲位し、53淳和天皇が即位したのである。平城上皇は、824年に没している。淳和天皇は833年に退位して嵯峨天皇の子供である54仁明天皇が即位した。桓武天皇及び桓武天皇子息が天皇となった時代が終わったのである。しかし、嵯峨上皇が亡くなったのは、842年なので、実権的には、ここまで嵯峨上皇政治が行われたと言われている。在原氏の活躍に陰に陽に、このことが影響したものと思われる。 
天理市に在原神社がある。ここは在原業平の生誕の地と伝承されている。また奈良市には業平寺(不退寺)がある。平城天皇が薬子の乱の後に剃髪して隠棲した、「萱の御所跡」とされている所である。同時にここは、阿保親王・在原業平の居所だったとも言われている。どこまで史実と考えるかは別にして、在原氏の元祖が平安京よりむしろ平城京付近に居たことが窺える。高岳親王は僧となり、遣唐使となり、遂にはマレーシア辺りで没したという記録もある。この一族のうち中央朝廷で活躍したのは、業平の兄の「行平」だけである。882年には正三位参議中納言にまでなり、娘「文子」は清和天皇の更衣となっているのである。しかし、この流れは数代で系図上から消滅するのである。謎である。
在原氏は、在原業平の流れのみが、後世まで続き系図を残したのである。初代の業平は、歌人として六歌仙(僧遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主)として有名であるが、伊勢物語のモデルとしての方が分かり易い。
「伊勢物語」は平安時代初期に完成した全125段からなる、「ある男の元服から死までを和歌を中心に描いた一生物語」である。作者は不詳であるが、紀貫之(866?−945)説・在原業平(825−880)説・伊勢(872−938)説・顕昭(1130−1209?)説などある。源氏物語(1001年完成)は伊勢物語を参考にした説、古今和歌集(905年完成)からの引用和歌が多い説。「大和物語」(作者不詳)(951年頃完成)以前に成立したという説などから、910−950年頃に出来上がったと言う説が妥当ではなかろうか。
この主人公(昔男・まめ男)が在原業平をモデルとしていると古来からいわれてきたのである。理由は文中に沢山採用されている和歌の多くが在原業平作とされているのである。第63段には在五中将(在原業平の別名)という名前が出て来る。業平以外の者の和歌も多数ある。有名な段とその段の歌の例

第2段:まめ男と二条后(藤原高子:清和天皇女御:陽成天皇母)との悲恋話 実話
和歌:おきもせず寝もせで夜を明かしては 春のものとてながめくらしつ
                          在原業平 古今和歌集
第9段:東下りの話(三河国八橋・駿河国宇津山・武蔵国ー下総国境の隅田川)創作
和歌:唐衣、きつつなれにし、つましあれば、はるばるきぬる、たびをしぞ思う
                          在原業平 古今和歌集
名にし負はばいざ言問わむ都鳥わが思う人はありやなしやと
   在原業平 古今和歌集
第16段:紀有常の話(紀有常娘が業平の妻)
和歌:手を折りてあひみしことをかぞふれば 十といひつつよつはへにけり
  年だにも十とてよつはへにけるを いくたびきみをたのみきぬら
  秋やくるつゆやまがふとおもふまで あるは涙のふるにぞありける
第23段:筒井筒の話(業平と妻:紀有常娘は幼なじみ) 伝承話
和歌:つつゐつのいづつにかけしまろがたけ すぎにけらしな妹(いも)みざるまに
くらべこし振り分け髪も肩すぎぬ 君ならずしてたれかあぐべき
第69段:伊勢斎宮(恬子内親王と惟喬親王は同母兄妹)と昔男の密通の話 実話
和歌:君やこし我やゆきけむ おもほえず 夢かうつつか寝てか覚めてか
 かきくらす心の闇にまどひにき 夢うつつとは今宵定めよ
       在原業平 古今和歌集
第82段、83段:昔男と惟喬親王(業平は惟喬親王と主従の関係)との交流の話 実話
和歌:世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
       在原業平 古今和歌集
第125段:臨終の段
和歌:つひに行く道とはかねて聞きしかど 昨日今日とは思はざりしを
        在原業平 古今和歌集

 余談であるが、筆者の住んでいる長岡京市には勝竜寺城がある。この城には戦国時代の終わり頃に織田信長の家臣となった「細川藤孝」という武将が城主をしていた。熊本細川家の始祖である。この藤孝は文武両道に通じた武将で、当時伊勢物語の注釈本として「伊勢物語闕疑抄」という本を著した。現存している著作物である。一例ではあるが、伊勢物語は貴族・武士などの教養書として非常に永いこと多くの人々に愛読されたのである。

 筆者は永年謡曲を習っている。謡曲では業平は人気者である。名曲「井筒」:上述した在原神社の筒井筒の話の舞台でもある。妻である紀有常娘との話とされている。ここに登場する有名な和歌は、業平作となっていないのである。謎である。
また、「八橋」で有名な謡曲「杜若(かきつばた)」に所縁の愛知県知立市の在原寺・無量寿寺付近の伝承も伊勢物語の業平の東下りが史実であるかのように描かれているが、謡曲「墨田川」と同様に色々な業平作とされる和歌が紹介されているが、史実としては業平が後の江戸と呼ばれる東の地に都から旅したということは、証明されていないのである。となると、ここに示された一連の和歌は一体何なんだろうか。言問橋・業平橋が現存しているが、いつ頃の伝承が採用された結果なのだろうか。謎である。

伊勢物語の中で斎宮「括子内親王」と業平の恋物語だけは、史実を基にしているという説が有力である。古来 皇胤紹運録・尊卑分脈・高階氏系図などの系図で在原業平と括子内親王との間に産まれた子供を当時、伊勢権守として斎宮に仕えていた古代豪族高階氏の氏上であった「高階峯緒」が、引き取り、自分の子供の「茂範」の養子にして育て、「高階師尚」としたことが、認められてきたのである。そしてこの師尚こそ、その後の高階氏の主流となり、発展の礎を築いた人物だとされているのである。現在でもこの説は色々な角度からの研究調査がされているが、史実だという説が最有力である。高階氏については後述したい。
筆者が住んでいる長岡京市の直ぐ隣には京都市右京区大原野があり、そこには業平臨終の寺として有名な「十輪寺」がある。謡曲「小塩」の舞台である。

ここで伊勢物語の登場人物と系図上の人物との関係を述べておきたい。(在原氏元祖系図及び紀氏略系図参照。)
紀名虎の男有常の娘が在原業平の正妻である。有常の妹が文徳天皇妃「静子」でこの間に惟喬親王と恬子内親王(斎王)が産まれているのである。在原業平は惟喬親王とは主従の関係であったとされている。業平と斎王は以前からの知り合いであったことは充分考えられるのである。妻から見れば斎王は従姉妹の関係でもあるのである。斎王は当時はいかなる男とも関係を持つことは禁じられていた訳であるから業平はとんでもないことをしでかしたのである。これを助けたのが、高階峯緒だとされているのである。紀氏には名虎の流れとは別に「興道」の流れがあり、この流れから土佐日記の作者である紀貫之が、業平とは約1世代遅れて登場してくる。貫行こそ伊勢物語の作者であるという説が相当に有力視されているのは、上記の様な紀氏と在原氏との交流の密なこと、裏話などを充分熟知していた可能性が高いと判断されているのである。
一方業平は清和天皇の女御に入る前の藤原高子とも恋愛関係にあったとされているのである。高子は入内して、後の「57陽成天皇」を産んでいるのである。業平はこれ以外にも数名の女性と恋愛関係を結んでいたとされ、当世随一の色男であり、和歌の名人であったと記録には残されている。
業平は朝廷人としては、無能であったとの記録(日本三代実録の業平の卒伝に「体貌閑麗、放縦不拘」)もあるが、880年には蔵人頭従四位上となっており和歌だけの人物ではなかったことが窺われる。どうであれ平安時代初期の有名人であったことは間違いないのである。
子供である「棟梁・滋春」らは所謂受領クラスの貴族であった。これ以降は在原氏から歴史上の人物は輩出されていない。棟梁の息子「元清」の流れから、三河国荒尾郷を本拠地とした武家「荒尾氏」が派生したという系図(系図纂要)が残されている。その一派として、三河国加茂郡松平郷に本拠地を築いた、松平氏が派生した。これが所謂「徳川家康」の元祖であるという系図が存在しているのである。史実とするには現在では無理とされているようであるが、この系図については別途徳川氏系図として、解説したい。さらに業平の息子滋春は大和物語作者であるとの説がある。この流れからは武家上野長野氏(本拠地:上野国群馬郡長野郷:現在:群馬県高崎市浜川町周辺)らが派生したとの系図が残されているが、中世以降に勢力を持った武士で、系図そのものが信頼性に乏しいとされているのでこれについては、解説等は省略する。

7−3−3)高階氏論考
 高階真人氏は、歴史的には在原朝臣氏より古い氏族である。しかし、前述してきた様に773年に臣籍降下した3世王の安宿王の流れの高階真人氏は、52嵯峨天皇の時代(786−842)以降その系図が途絶えているのである。これは7−3−1)で記した様に多くの臣籍降下による賜姓によって発生した皇別氏族と同じ短命な道を歩んだものと推定される。これと入れ替わる様に、天武天皇の6世孫にあたる峯緒王の臣籍降下による賜姓で、高階真人峯緒が現れたのである。844年のことである。結果的にはこの流れこそが、太田亮が「本氏は天下の大姓にして、支庶の氏甚だ多し」と記した高階氏なのである。本稿はこの流れの高階氏に的を絞って論考をしたいのである。
さてこの高橋真人氏は3代目が問題人物である。「高階師尚」である。系図的には現在の通説では、父は在原業平であり、母は恬子(やすこ)内親王(55文徳天皇娘)で養父が2代目高階茂範(下野守)となっているのである。在原氏考でも述べてきたが、この部分に関しては古来色々な説が提案されてきたのである。しかし、結局は「伊勢物語」に記された在原業平と斎王恬子内親王の密通によって産まれた子供を当時の伊勢権守で斎王頭であった高階真人峯緒が世間を憚って、自分の息子の養子という形で高階氏の子供として育てたという説が史実であるという説が通説になっているのである。
ちなみに「伊勢物語」では具体的な名前は記されていないのである。「斎宮なりける人」:斎王恬子内親王 「狩の使い」:在原業平 と考え、前後の関係から上記のような結論になっているのである。
ここで現在判明している年代的・系譜的な背景を記すと、
在原業平:825−880 恬子内親王:848?−913 高階師尚:864−916
861年に恬子内親王が斎宮となる。
862年に在原業平が従五位上(在五中将在原業平)
その他関連情報@在原業平の妻は紀有常女である。A紀有常の妹静子が55文徳天皇の妃となりその間に産まれたのが、恬子内親王と惟喬親王(844−897)である。業平の妻とは従姉妹同士である。B業平は惟喬親王に仕えていた。
・恬子内親王が在京中に業平と顔見知りであったことは容易に推定される。
・密通が事実だとすると、高階師尚の誕生年から863年頃と推定される。
・恬子内親王の誕生年は確定してなくて、848年頃と推定されている。これを基にすると863年は内親王は15,6才だったと推定される。
・業平は863年は38才前後である。
以上から、諸説が産まれたのである。現在では不可能・不合理ではないと判断されている訳である。高階氏系図。尊卑分脈。本朝皇胤紹運録。群書類従。太田亮など
参考までに伊勢物語69段の原文を下記に示す。
「狩の使」
 昔、男ありけり。その男、伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、「つねの使よりは、この人よくいたはれ」といひやれりければ、親の言なりければ、いとねむごろにいたはりけり。朝には狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつ、そこに来させけり。かくて、ねむごろにいたつきけり。二日といふ夜、男、「われて、あはむ」といふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど、人目しげければ、えあはず。使ざねとある人なれば、遠くも宿さず、女の閨近くありければ、女、人をしづめて、子一つばかりに、男のもとに来たりけり。男はた寝られざりければ、外の方を見いだしてふせるに、月のおぼろなるに、小さき童をさきに立てて、人立てり。男いとうれしくて、わが寝る所に率て入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何ごとも語らはぬに帰りにけり。男いとかなしくて、寝ずなりにけり。つとめて、いぶかしけれど、わが人をやるべきにしあらねば、いと心もとなくて待ちをれば、明けはなれてしばしあるに、女のもとより、詞はなくて、
  君や来しわれやゆきけむおもほえず夢かうつつか寝てかさめてか  
男、いといたう泣きてよめる。
  かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは今宵さだめよ  
とよみやりて、狩にいでぬ。野にありけれど、心はそらにて、今宵だに人しづめて、いととくあはむと思ふに、国の守、斎宮の頭かけたる、狩の使ありと聞きて、夜ひと夜、酒飲みしければ、もはらあひごともえせで、明けば尾張の国へたちなむとすれば、男も人知れず血の涙を流せど、えあはず。夜やうやう明けなむとするほどに、女がたよりいだす盃の皿に、歌を書きていだしたり。取りて見れば、
  かち人の渡れど濡れぬえにしあれば  
と書きて、末はなし。その盃の皿に、続松の炭して、歌の末を書きつく。
  またあふ坂の関はこえなむ  
とて、明くれば尾張の国へ越えにけり。斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御女、惟喬親王の妹。

伊勢物語の全編を通じて在原業平の生涯を描いていることは間違いない。勿論創作・想像部分もあるが、概ね史実に近い部分も多数あるとされているのである。69段の「狩りの使い」が在原業平であることは、容易に推定出来るのである。
しかし反論では、在原業平が伊勢国に行ったという記録がないことを挙げる説もあるが、筆者は伊勢物語は業平の没後に業平に非常に近い人物が書いたものと推定している。
具体的に高階峯緒の名前は全く記されていないが、それを臭わす言葉は記されているのである。「ーーー国の守、斎宮の頭かけたる、ーーー」は、正に峯緒のことと解されるのである。師尚誕生の秘部をこのようなロマン溢れる文章で残したものと判断するのである。
伊勢物語には、若い頃の話として、業平と後に56清和天皇后で57陽成天皇母となった藤原高子(二条后)(842−910) との恋物語も何段にもわたって堂々と記されていることなどから、この種の話題を公表することが上流社会では異常なことではないという風潮があったものとも推定されるのである。これも平安文化の「雅」の一つかも知れない。
 余談であるが、筆者の住んでいる長岡京市にあった勝竜寺城の城主であった戦国武将の「細川藤孝(幽斎) 」(明智光秀の娘である細川ガラシャの舅)は、当時としては優れた文武両道の武士であった。彼は伊勢物語の注釈書を著しているのである。 [伊勢物語]闕疑抄 である。現存している書物である。いかにこの平安文化の象徴みたいな、おおらかな歌物語が戦国時代にも多くの興味を引いたかが窺えるのである。
 以上述べてきた「高階師尚」こそ、その後の高階氏の始祖的存在となったのである。以上のことが史実だとすれば、高階氏の血脈はここで完全に在原氏の血脈に入れ替わったことになるのである。これが本稿で在原氏と高階氏を同一表題で取り上げた由縁である。
5代目に「高階成忠(923?−998)」という人物がいる。恐らく当時はこの人物が高階氏の「氏長者」であっただろうと推定している。非常に栄華を極めた貴族だとされている。この時に高階真人姓から高階朝臣姓に改姓されているのである(日本紀略)。これは一体どういうことであろうか。しかも、当時の成忠の活躍の褒美としてこの改姓が行われたとされているのである。
そもそも684年に「八色の姓」制度が発足した時は真人姓は最も高貴(最高位)な姓とされ、次いで朝臣姓であった。ところが、上述したように49光仁天皇以降の天皇の裔が臣籍降下した場合は、朝臣姓となり真人姓は無くなっていた。ところが、光仁天皇以前の天皇の裔は平安時代に入っても臣籍降下する際に真人姓が続いていたのである。
例えば在原業平は826年に臣籍降下し在原朝臣姓と初めから朝臣姓であるにも関わらず、高階峯緒は844年に臣籍降下したが、高階真人姓であった。新撰姓氏録には真人姓は48氏掲載されているが、前稿で記した清原氏のように記載されていない氏族も幾つかあるとされている。ところが、この最高位であるはずの真人姓の氏族が実社会では、ぱっとしなかったのである。少なくとも平安時代を牛耳った氏族は「源平藤橘」と言われるように総て朝臣姓の氏族だったのである。橘氏は708年に誕生した皇別氏族だが、当初は何故か宿禰姓であったが、橘諸兄らの貢献により、750年に朝臣姓に改姓された。藤原氏は当初より朝臣姓である。平安時代に入って発生した、皇別氏族である源氏・平氏は、いずれも朝臣姓だったのである。奈良時代の後半から真人姓は、実力を伴わない一種の飾り的姓と考えられ、実力がある朝臣姓への改姓を望む真人姓の氏族も現れ出していたのである。藤原氏の策略が功を奏したとも言える現象である。天皇家と藤原氏の確執は平安末期まで続くのであるが、その一つが天皇家出身の氏族をいかにして、中央朝廷から排除するかにあったのである。それを打破していくのが、源氏・平氏勢力であった。これが武士勢力源氏・平氏に変化していくのである。この様な中で頑張って特異な発展をしていったのが、高階氏なのである。
その意味で992年の朝臣姓への改姓はそれなりの意義があったと判断する。ところが、「成忠」の流れは、理由ははっきりしないが、急激にその勢力を落としたとされている。
一般系図では、成忠の流れは3代後の「永業」辺りまでしか記されていない。本稿系図は「姓氏類別大観」を参考にして、その後の仲実ー仲光ー加賀まで記してある。「加賀」は摂関家「藤原忠通」の室となり、歴史上有名な天台座主「慈円」や摂政関白「九条兼美」などを産んだとされている。一般的には「加賀」の出自は藤原氏だとされているが、系図が不明瞭である。平安末期の歴史を動かした人物の母親の出自がはっきりしないのは、意図的に高階氏出身というのが、政治的に隠したかったのかも知れない。関連事項を後述する。

ここで下向井龍彦著 日本の歴史07「武士の成長と院政」(講談社:2001年)の中の一部を引用したい。
『ーーーこのような王朝国家にもっとも適合した政治形態が、摂関政治だった。天皇は藤原氏の女性を生母としなければならないという皇位継承理念のもとに、藤原北家の嫡流(藤氏長者)が天皇の外戚の地位を独占し、摂政関白として天皇大権を代行(摂政の場合)または補佐(関白の場合) する政治形態である。政治のもっとも大きな不安定要因となるはずの皇位継承は、外戚たる摂関の意向に従ってスムーズに行われる。皇位継承をめぐる貴族の分裂は、摂関政治のもとでは起こりえない。ーーー』
『ーーー院政とは、上皇=院が直系子孫である在位の天皇を後見する立場から最高権力を掌握する政治形態である。それを可能にする根拠は、退位して自由な立場にあることにではなく、皇位継承の主導権を握っているところにある。皇位継承者を決めることが出来ない上皇は権力を持ち得ない。ーーー』
摂関政治の最初は866年の藤原良房が臣下として初めて摂政になったことに始まる。
院政は1068年に後三条天皇が即位した時が転機で1086年白河上皇の時から始まったと考えられているのである。平安時代を語るとき、天皇親政時代、摂関政治時代、院政時代で分けて考える場合がある。天皇親政時代は僅かである。(代表的には、50桓武天皇ー54仁明天皇、59宇多天皇ー62村上天皇、71後三条天皇など)前半は摂関時代、後半は院政時代だと考えても大きな間違いではないであろう。 天皇の母親が摂関家出身者の場合は、摂関時代だと思えば良い。1068年に即位した71後三条天皇の母親は皇室出身(67三条天皇の娘)の禎子内親王で170年ぶりに摂関家外の生母を有する天皇が即位したのである。この時から、王朝内の力関係が大きく変化してきたのである。当然貴族である高階氏関係者にも色々な影響が出てきたのである。参考までに関係年表を記す。青字部は高階氏に関係する事象である。

1068年:71後三条天皇即位
1072年:後三条天皇退位。72白河天皇即位
1086年:白河天皇退位。73堀河天皇即位。白河上皇院政開始。
1106年:藤原通憲誕生
1107年:堀河天皇没。74鳥羽天皇即位。白河院政。
1113年:藤原通憲が7才で高階経敏の養子となる。高階通憲。
1121年頃:高階通憲が高階重仲の娘と結婚。藤原家成・平忠盛・清盛らと交流開始。
1123年:鳥羽天皇退位。75崇徳天皇即位。白河院政。
1124年:高階通憲官位中宮(璋子)少進(初見)
1126年頃:高階宗章女と藤原家成が結婚。
1127年:雅仁親王誕生 通憲叙爵。藤原朝子が雅仁親王(後白河天皇)の乳母となる。
1128年:藤原家成が従四位下 鳥羽上皇側近。
1129年:白河上皇没。鳥羽院政開始。
1133年:高階通憲が鳥羽上皇の北面となる。
1136年:高階基章正六位右近衛将監。藤原家成従三位 鳥羽上皇側近。
1137年:藤原家成 参議就任。
1138年:高階基章娘明子が平清盛と結婚し長男重盛出産。
1141年:崇徳天皇退位。76近衛天皇即位。鳥羽院政。
この頃高階通憲の娘とも言われた阿波内侍が崇徳上皇に寵愛を受けたとある。
1143年:高階通憲正五位下 藤原家成従二位 鳥羽上皇側近。
1144年:高階通憲が藤原通憲に復姓。少納言。僧「信西」となる。
1155年:近衛天皇没。77後白河天皇即位。鳥羽院政。この体制造りに信西が策動?。
高階泰経従五位下。これ以降後白河天皇と行動を共にする。
1156年:鳥羽法皇没。信西が葬儀を仕切る。保元の乱・信西は崇徳上皇方を破り、後白河天皇方を勝利に導いた、首謀者となった。自分の息子達を要職に就け、反感を買う。
1158年:後白河天皇退位。78二条天皇即位。後白河上皇院政開始。信西と美福門院との共謀体制。信西打倒体制が芽生える。
1159年:信西息子の高階俊憲が参議従三位に就任。
平治の乱 反信西派が清盛の留守中に起こし、信西自殺。清盛が藤原信頼・源義朝軍を破り、後白河上皇を助けた。
1160年:源義朝謀殺。源頼朝伊豆へ配流。美福門院没。
1165年:二条天皇退位。79六条天皇即位。後白河院政。
1166年:信西息子藤原成範が公卿となる。
1168年:六条天皇退位。80高倉天皇即位。後白河院政。
1174年:信西息子藤原成範が正三位参議に就任。
1175年:高階盛章娘八条院三位局と以仁王の間に道尊が生まれた。
1179年:後白河法皇幽閉 高階栄子(丹後局)が法王の寵愛を受ける。
1180年:高倉天皇退位。81安徳天皇即位。高倉上皇院政開始。
治承の乱勃発1185年まで(源平合戦)
1181年:高倉上皇没。後白河上皇院政再開。平清盛没。丹後局が後鳥羽天皇擁立進言。
1183年:82後鳥羽天皇即位、安徳天皇存在。後白河院政。藤原成範正二位中納言。
1185年:安徳天皇没。82後鳥羽天皇。後白河院政体制。
高階泰経・経仲父子が源義経謀叛に加担。源頼朝より解官伊豆配流。その後後白河法皇に近侍。鳥羽上皇の側近。正三位非参議。
高階盛章娘八条院三位局と摂関家九条兼美との間に九条良輔誕生。
信西の孫(娘説有)の阿波内侍(崇徳天皇妃)が建礼門院徳子の侍女として寂光院に入寺。
1191年:高階泰経が正三位非参議。
1192年:後白河上皇没。

摂関時代の高階氏では、高階成忠・成章くらいしか歴史的に名前が知られた人物はいなくて、主に受領クラスの公家であった。高階氏系図・参考系図参照。成章はあの有名な紫式部の娘である「大弐三位局」を妻として迎えた人物である。大弐三位局は、一条天皇の女御「彰子」に母の後を受けて仕え、後冷泉天皇の乳母として活躍した女性である。名だたる公卿クラスの公達を恋人としていたのに何故高階氏という受領クラスの家に嫁いだのかは謎である。この大弐三位局の息子が「高階為家」でその娘と醍醐源氏源家実との間に基章が産まれ、これが為家の嫡男為章の養子に入った「高階基章」である。為章はこの頃白河院近侍であり、各地の国司も務めて非常に裕福な家だったとされている。その息子に「宗章」がおり、宗章の娘がどのような縁があったのかは不明であるが、身分違いである藤原北家魚名流の名家である中納言「藤原家成」の室になったのである。さらに宗章の義理弟の基章も恐らく為章らの縁で白河院及び鳥羽院などの近侍として院に仕えていた縁で、若い頃の「平清盛」と知り合い、基章の娘「明子」が清盛に室に入ることになったのである。明子ー清盛の子供「重盛」の室に藤原家成の娘「経子」が入ったことは、偶然とは思えない組み合わせである。このことが院政時代・武士の政治参加時代に突入した高階氏に大きく影響したことは間違いないのである。この時代の勢力関係・経済関係は高階氏だけではなく、貴族社会総てが、血縁・婚姻関係で決まるとまでされた時代である。摂関時代がその根底から崩れそう、崩そうという勢力が台頭してきた時代である。これを実力でやってのけた人物こそ、「高階通憲(1106−1160)」である。後の「信西」である。
院政時代は、それまでの摂関家が日本の政治・経済の総てを思いのままにした反動で、天皇家が上皇という異常な身分を駆使して摂関家を牛耳り、新たに台頭してきた源氏・平氏の武家勢力をその配下に入れて、それまでの日本には無かった新たな皇位継承の実権を握った時代である。しかし、それには色々な弊害も発生したのである。それを朝廷内での地位が全く低い人物「高階通憲」がその難局に切り込み、新たな政治形態を産み出す中心人物にまでになったのである。本稿では、院政時代に発生した保元の乱、平治の乱、治承の乱(源平合戦)の詳細について述べることはしないことにする。高階氏及びその周辺での事象に的を絞り論考したいと思う。1068年から、鎌倉幕府の始まった1192年までの関係年表を上記した。青字で記したのが、高階氏が関与した記事である。その総てが史実であるとは言えないと判断しているが、概要はこの年表で分かると思う。特に「信西」については、その主立った活躍が分かるように配慮した。
そもそも高階通憲は、高階氏出自の人物ではないのである。血脈から言えば南家藤原氏出身の人物である。主に経済的事由により7才で当時裕福な受領クラスの公家であった「高階経敏」の養子となったのである。約10年間は必死に勉学に励んだとされている。転機になったのは同族の「高階重仲」の娘と結婚したことである。この二人の間には多くの子供が産まれた。嫡男であった「俊憲」は後に通憲を助け公卿にまで出世した。また僧職に就いた有名人も多く輩出した。特に孫の「解脱上人」は有名である。また娘とも孫とも言われている「阿波内侍」は悲劇の上皇である75崇徳上皇の寵愛を受けた女性として有名である。
また通憲室の甥に当たる「高階泰経(1130−1201)」こそ後白河法皇(1127−1192)の側近中の側近として、公家と武士の仲介者として活躍し、後に「日本一の大天狗」と言われた人物である。(一般的には「日本一の大天狗」と称されたのは後白河上皇だとされているが、そう呼ばれる素地を作った人物こそ泰経だとの説あり)この泰経と通憲が具体的にどのように結びついたかは、定かではないが密なる関係があったことは間違いないと判断している。この泰経の流れは鎌倉幕府側からも信頼を受けて公卿の地位を歴代保ち、1355年没の高階寛経(1294−1355)まで続いたのである。高階氏としては、破格の扱いを150年間も続けることになったのである。筆者はこの原点は通憲と高階泰経の関係にあったものと推定している。天皇サイド、院サイド、摂関家サイド、平家政権サイド、鎌倉幕府などから高階氏が無くてはならない存在だったものと推定しているのである。その後、急に公卿家を外された理由は筆者の調査範囲では不明である。地下公家家「鳥居小路家」は幕末まで続いたとされている。筆者は高階氏の本流を結果論的ではあるがこの流れとして人物列伝を記したのである。
保元・平治の乱は日本の統治体制を一変させたのである。武士階級の台頭、政権確立という前代未聞の体制へと向かわせたのである。この中で高階氏関係の人物が信西没後でも激しく活躍していたことが年表から窺える。根本は後白河上皇を支える貴族というサイドからの活動である。女性の活動も多く記録として残されている。
高階盛章娘八条院三位局、高階栄子(丹後局)、阿波内侍などである。高階盛章は系図上で謎部分がある。筆者は姓氏類別大観に従って宗章の子供として記したが、人物列伝に示したように、公卿補任などでは盛章は出てこないのである。
怪物「信西」には謎の部分が多いが筆者は彼が歴史上これだけの活躍出来た背景を次のような要因が働いたと判断しているのである。
@幼くして高階氏に養子になったこと。
A通憲が高階重仲娘と結婚したこと。
B高階氏には藤原家成(美福門院派)・平清盛などと姻戚関係がある親族がいた。
C通憲の2人目の妻(藤原朝子)が後の後白河天皇の乳母だったこと。
D高階氏の親族に高階泰経など優秀な若い信西をバックアップする公家がいたこと。
E通憲には俊憲・成範など優秀な息子がいたこと。
F摂関家内部抗争激化
G天皇家皇位継承抗争、院政主導権争い
H鳥羽天皇后妃の派閥争い。
待賢門院派(北家魚名流藤原顕季派)・美福門院派(北家閑院家派)の主導権争い
I源氏内部抗争・平氏内部抗争
などFーIの中で信西は自分の昇進は僧になることで絶ち、鳥羽上皇・後白河天皇、上皇を美福門院派と共同して支持してきたことにある。
これにより自分は藤原姓に復姓して高階氏とは縁を切った形にはなったが、彼をバックアップし、結果的に氏族の継続発展をしたのは高階氏だったと判断する。藤原氏でも摂関家でもない氏族が、平安時代以降も武士階層からもそれなりの信頼を得て、公卿家として継続出来たのは、もともと高階氏出身では無い信西の活躍の結果だったという史実が見えてきたのである。
さて、この様にして旧体制は鎌倉幕府の開闢という新たな時代を迎えることになったのである。
 一方では、高階氏の中では上記貴族階級とは異なった一族が育っていたのである。この流れについて論究してみたい。高階氏系図の「業遠」の子供に「成佐」という人物がいる。この人物は筑前守であったが、どのような縁があったのかは定かではないが、清和源氏の嫡流である河内源氏の「源頼信(968−1048)」の娘冷泉局を室とした。源頼信は歴史上有名な人物である。1028年に関東の平忠常の乱を平定し、鎮守府将軍となった人物である。この子供が前九年の役で有名な「源頼義(988−1075)」である。この頼義の子供が「八幡太郎義家(1039?−1106)」である。この義家の乳母が冷泉局であったとされている。高階成佐と冷泉局の間の子供が「高階惟章」である。即ち惟章と源義家は乳兄弟の仲である。当初は在京の状態で義家に仕え、後に義家が有していた下野国梁田御厨を義家より貰い受けたのである。さらに惟章には子供が無かったので、義家の四男義頼を養子として貰ったのである。これが「高階惟頼」である。尊卑分脈にその記事が記されてあるが一般的な源氏の系図にはこの人物の記載は無い。義家には沢山の子供がある。その中に惟頼と同腹の兄「源義国(1091−1155)」がいる。義国は後の足利氏の祖となる重要人物である。惟頼はこの義国の家来となったのである。高階氏姓から大高姓に変わるのはこの時である。領地は足利庄に隣接してある下野国梁田御厨であった。義国は当初は京都にいたが、老後は足利に蟄居していたと記録にはある。義国の息子の源義康は当初から足利庄が活動拠点であった。惟頼の子供の高階惟真も拠点は足利であり「高惟真」と称した。以後この流れは「高氏」となるのである。足利尊氏が室町幕府を開く時の最大の側近がこの高氏の末裔である「高師直」である。
以上述べてきたように、その出自から考慮すると、高氏は血脈は清和源氏そのものであり、足利氏の元祖とは、兄弟の関係から出発したと考えるべきである。この師直に到る高階氏を本流だとする説もあるが、筆者はその説を上記理由により、採用しなかったのである。
一方義家の息子に「義親」という人物がいた。この人物は行状がよろしく無かった。1107年に隠岐島に流されている。この人物の室が「高階基実」娘と記載されている。基実は成佐の兄である「業敏」の孫である。この頃何故か高階氏は清和源氏の本流と緊密な関係があったことが窺えるのである。この義親が後の保元の乱などに関係してくる「源為義」の父親だとする説がある。源為義こそ「源頼朝」の実祖父である。
高階氏系図・高階通憲関係系図・ 高氏概略系図
・参考)源義国流足利氏関係概略系図 など参照
高階成佐を初代とすると、高師直は11代目である。一方源頼義を初代とすると、足利尊氏も11代目になる。
高階成佐と源頼義(988−1075)は同時代人物である。足利尊氏(1305−1358)と高師直(?−1351)は同時代人である。となると、上記足利氏系図と高氏系図は各時代の人物は、ほぼ合致していることを示しているのである。一般的に源氏の主流部分の系図はほぼ史実を反映し、正しいと証左されている。
一般の中世の武家系図には偽系図が多いとされているが、上記高氏系図はほぼ史実を反映しているものと推定される。一般的には一流の公家家に残されている系図は、正しいものが多いとされている。「高階成経」を初代とし、本流最後の公卿であった寛経(1299−1355)は10代目にあたる。高階成経は成佐の弟なので、源ョ義と同時代人である。高階寛経はそれの10代目である。これも系図がしっかり残されており、ほぼ高氏系図と時代的に合致するものと判断出来る。よって公知になっている高氏系図は正しいものと判断した。戦国大名の一人である「堀尾吉晴」に繋がる系図も公卿の「高階泰継」の跡として尾張国丹羽郡供御所村に領地を有した「邦経」からの系図が残されている。また戦国武将の尾張国知多郡荒尾郷が本拠地とされている戦国武家「荒尾氏」も高階氏出身(在原氏説もある)だともされている。これらについての論考は省略したい。
上述したように、一つの疑問がある。
室町幕府時代に入って何故高階氏は公卿職から追放?されたのか?
高階氏出身の武士「高氏」が新設された幕府の重臣として活躍し出した時に朝廷内で永年公卿で有り続けた高階氏が一般公家に成り下がった理由は何か? 筆者の調査した範囲では、これに論究した文献が見つからなかった。興味ある事項である。

7−4)徳川氏の系図について
6−1)在原氏元祖系図・4)参考「徳川家」元祖部人物列伝、
参考)徳川氏系図1・徳川氏系図2参照
江戸幕府を開いた徳川家康は正真正銘の天下人である。ところが、この武家徳川氏の出自に関して古来諸説あり、結論は出自不詳であり、いずれの系図も信用出来ないとの説が通説である。勿論その出自を云々することすら、意味のないことである、とされてきたが、どうもその徳川家側が、家康より遙かに昔にその出自を色々気にしていた形跡が残されているのである。本件は本稿の主題とも離れた問題ではあるが、別の興味もあるので、筆者が調査した範囲で簡単に記しておきたい。
@現在公知の一般系図では、例えば「姓氏類別大観」の在原氏系図に松平氏として掲載されている。
A在原業平の孫である「元清」の12代孫に松平持頼が現れ、以後信重ー養子親氏ー泰親となっている。
Bこの松平親氏が徳川氏初代というのが一般的な扱いである。
Cこれ以後も諸説あるが、3代信光・4代親忠・5代長親・6代信忠・7代清康・8代広忠
9代徳川家康というのが、現在の標準的な系図である。
D在原氏系図・系図纂要などでは、元清の流れは、見国ー公見ー公長(公為)辺りまでしか記されていない。古代氏族系譜集成・尾張群書系図部集の荒尾氏系図などには松平親氏まで記されている。荒尾氏には高階氏出自だという系図も知られている。
いずれにせよ、松平氏自身の出自が不明確である。
E松平持頼ー信重辺りの人物が三河国加茂郡松平郷の領主として武家荒尾氏と関係を有して在住していたことは史実として認めても良い。そこへ松平親氏に相当する人物が松平郷の領主であった信重の客人として逗留した。親氏は僧であり、和歌に通じた教養・武勇を有しており、信重の信頼を得て信重の娘の婿となり、松平郷の領主を継いだという伝承があった。
Fこの親氏の出自が清和源氏の流れであるという系図が色々古来提案されてきたのである。徳川系図1は、新田義重流れ得川義季を祖とする説である。
G徳川氏系図2は、加茂郡の領主であったと思われる葛城賀茂朝臣の流れを引く賀茂在信を祖としたのが親氏だとする説。これは複雑である。2代目松平泰親が清和源氏新田義重の流れだとしている。
Hとにかく、初代・2代が謎に包まれており、3代目からは生没年も分かっている。ここからは史実であると認知されている。
I単純に言えば、在原朝臣松平氏の名跡を身元不確かな親氏が継いだのだ、とすれば偽系図と呼ばれるほどでは無かったかも知れない。
J7代目清康が既に清和源氏新田義重流れの得川氏から派生したとされる世良田氏を称していた。このことから松平氏以外に源氏系の姓を家康より以前から使用していたことが窺える。
K家康が天下を取った時に偽系図を作成させたという説もあるが、それ以前から在原氏系であったことは分かっていたが、武家に相応しい清和源氏に繋がる祖先系図を初代の養子、僧出身者だという不明確さにかこつけて何代にも亘って創作し続けたのではと推定されているのである。家康が天下を取った時、一族名は松平姓を名乗り、特殊な大名(将軍家・御三家など)のみに徳川姓を名乗ることを許したものとされている。
L酒井氏と松平氏が親族であるのは、初代の親氏が最初に結婚したのが、酒井氏の娘で次ぎに婿養子に入ったのが、松平氏の娘であったからだととされている。
以上簡単に徳川系図について解説した。
徳川系図が正式系図として認められない最大の理由は、徳川氏(松平氏)以外の第三者のこの系図を裏付ける史料が無いことにある。
豊臣秀吉に系図がないことは、有名である。織田信長には、一応織田氏系図が存在している。桓武平氏の出身だとされている。しかし、それを証左する史料には乏しいとされているらしい。戦国時代の武将、江戸時代の大名家などには、それぞれ系図が残されている場合が多いが、歴史的史料として有効な物は意外と少ないというのが、現在の常識である。これは、筆者が扱ってきた古代豪族と異なり、その出自を確定することが非常に難しいことにある。氏族の価値観が変化してきたこと。歴史的に評価が定まらない。人物・身分が固定化し難い時代をどのようにその氏族が生き抜いていくかが、変動が激しすぎて系図の類を安定的に残すことが困難な時代であった。などの原因が挙げられるが、上記のような歴史上の有名人の一族でさえ10代以上も前の状態を正確に記録に留め続けることが不可能だったのである。ましてや、通常の百姓、一般武士層、地主層クラスの系図は、普通生活では不要であり、系図の元々有していた価値観が失われたので、戦国時代以降は切れ切れになったものと思われる。江戸時代に入り、生活が安定した段階で、地方でも都市部でも一部富裕層に系図ブームみたいなものが起こった。所謂系図屋というプロの系図作成を請け合う商売が非常に繁盛した時代があった。これ以降に作成された系図の類は、歴史的には全く無価値なものが多いのである。

参考)7−5)大江氏解説 既稿「出雲氏考U(土師氏・菅原氏・大江氏)参照
上記既稿の一部を抜粋・訂正・削除して下記に示した。
 ーーー大江氏は元々「土師諸上」が790年「大枝」の姓を賜ったことに始まる。本拠地は山背国乙訓郡大枝郷である。現在の京都市西京区大枝である。(異説あり)大枝柿の名産地である。筆者の住む長岡京市の隣である。昔は長岡京市も大枝も共に乙訓郡であったので同じ郡内である。
ここに住んでいた土師氏は元々和泉国の百舌鳥にいたものの一部がこちらに移ったものとされている。乙訓郡出身の唯一の古代豪族といえる。これが3代「音人」の時「大江」に改姓されたのである。
本論に入る前にもう少し「大枝」について述べておきたい。
前述したように、この地こそ、50桓武天皇の祖母「土師真妹」の住んでいた所である。真妹は「土師富杼」の娘とされている。この人物は、天智朝に百済救援軍に従ったと日本書紀に記されている。それ以外にはよく分からない。その娘が川向こうの河内国交野付近にいた(諸説あり)渡来系の和乙継(後の高野乙継)と結ばれ「新笠」が生まれた。兄に「祖麿」がいた。
その頃の女姓は、結婚後も自分の家にいたので、新笠は大枝で生まれた可能性が高い。さらに新笠は若い頃の「白壁王」に何かの縁でこの大枝の地で出会いがあったとされる(異説あり)。よって桓武天皇もこの大枝の地で生まれ育った可能性があるともされている。
桓武天皇が何故、奈良の都を捨て、山背国乙訓郡長岡の地に新都「長岡京」を造ったのかの理由の一つに、この生まれ故郷説がある。ちなみに高野新笠の御陵はこの大枝の「沓掛」と言う所にある。
この辺りの推論を村尾次郎が「桓武天皇」吉川弘文館(1996年)で詳しく記しており、現在もこの説は無視出来ないとする支持者がある。勿論桓武天皇は奈良付近で誕生したとする説もある。かほどにこの大枝という土地は筆者にとって身近な存在である。京都の西の端の集落である。真妹の兄もその子供も外従五位下という位を有し、奈良の朝廷に仕えていた形跡がある。大枝氏の初代諸上も奈良にいたらしく正6位上になっている。しかし、まともな貴族とは言えない位である。これが3代大枝音人改姓「大江音人(811−877)」になってから歴史上にはっきりと登場する。平安時代に入ってからである。
大江音人の父は、大枝本主であるが、この人物はよく分からない。一説では阿保親王の落胤であるという。また別の説では阿保親王(792−842)の側室であった中臣氏女(中臣石根女)が本主の嫁となり生まれた子供が音人で、これが阿保親王の落胤だという説もある。筆者人物列伝は、これに従ったが、史実かどうかはっきりしない。太田 亮は、いずれの説も作り事である。としている。音人は811年生まれである。土師氏初代野見宿禰から直系で17代になる。野見宿禰を垂仁天皇朝の人物とすると320年頃と仮定すると一代約29才で継いで来たことになる。これは不合理ではないが一寸長すぎる感はある。
大江氏も菅原氏と同じく学問・文章を得意とする一族となった。菅原氏とは非常に密な関係があった。音人も864年には参議、874年には従三位の公卿となり、道真の父是善より早く公卿になったのである。
それ以降大江氏からは多くの政治家・歌人・文化人が輩出された。女流作家として有名な「和泉式部」もその一人である。赤染衛門も関係者の一人である。
平安中期平安時代有数の碩学と言われた「大江匡房」という人物が現れる。この人物は八幡太郎源義家にも師と思われた程の人物である。大江氏としては最高位の正二位大蔵卿となりその後の大江氏の繁栄の祖となった。その曾孫に相当する人物が鎌倉幕府の基礎を造った「大江広元(1148−1225)」である。父「維光」の嫡男として匡範がおり朝廷に仕え、この流れから堂上家「北小路家」が発生している。大江氏としては唯一の堂上家であり、こちらが本来の大江氏の本流であろう。菅原氏とはかなり見劣りがする扱いである。
一方武家大江氏祖と呼ばれる大江広元 について、述べたい。
「広元」の出自に関しては古来諸説ある。
・大江維光の実の子供で中原広季の養子となったが後に大江姓に復姓した。
・実の父は藤原長家流の光能の子供であり、母が中原広季と再婚したので広季の養子となり、さらに藤原光能の別の妻が大江維光の娘であった関係で維光の養子となり大江姓を名乗った。(筆者参考系図大江広元詳細系図参照)
・大江維光の娘と藤原光能との間に生まれた子供である。この母が中原広季と再婚したので中原広元と名乗ったが後に大江維光の養子になり大江氏となった。
など謎である。いずれにせよ腹違いの義兄弟に中原親能がいたのである。
この人物が源頼朝の挙兵以来頼朝に従っており、この人物の紹介により京都の公家出身の文筆才能ある人物として、鎌倉幕府の主に事務方の幕僚として、幕府に迎え入れられたとされている。鎌倉幕府の礎を築いた人物である。これ以降この流れは武士として発展していくのである。
大江広元の子供に「宗光」という人物がいる。(参考系図:大名家永井氏系図参照)これは那波氏の養子となるが、大江姓に復姓してその末裔の娘が、源頼朝の父「義朝」を殺害した長田忠致(主君暗殺者とされている)の兄弟「親致」の末裔「広常」と結婚し、その子供の流れに「徳川家康」の幕臣であった「長田直勝」という人物がいた。家康は主君暗殺につながる「長田」という姓を嫌い、長田直勝を元々は女方の姓である大江姓に戻した。そして永井姓を名乗らせた。即ち大江氏・永井直勝としたのである。これが長岡京市にあった勝竜寺城の城主となった「永井直清(1591−1671)」の父である。
直勝は、勝竜寺城の元城主「細川幽斎」とも親交があったようである。
勝竜寺城は、細川ガラシャとして有名な明智光秀の娘「お玉」が細川幽斎の嫡男「忠興」とが結婚したした場所でもある。
息子「直清」は1633年勝竜寺城城主(2万石)となり1649年高槻藩主(3.6万石)となり、幕末まで高槻藩は永井氏であった。
一方勝竜寺城は直清が高槻に移ってから後は、廃城となった。乙訓郡にあった最後の城であった。現在勝竜寺城公園として残されている。
古代豪族大江氏が発生したのが「山城国乙訓郡大枝郷」である。そしてその約800年後に、その末裔の大名である大江氏「永井直清」が最初に城主になったのが「山城国乙訓郡勝竜寺村」にあった勝竜寺城だったのである。乙訓郡内にもかなりの知行地を持ったとされる。その間の距離は数Kmである。何かの縁を感じざるをえない。
これだけ記すべき内容のある大氏族となりえたのも「高野新笠」という全くの偶然の女性の縁があったればこそと思わざるをえない。その原点は山城国乙訓郡なのである。ーーー以上が大江氏の概略である。
 筆者が本稿で興味があるのは、大江氏発展の実質的祖である「大江音人」の出自と江戸時代初期に筆者が住んでいる長岡京市にあった勝竜寺城の城主となった「永井直清」に関係系する部分である。
その部分のみについて概略的に記すと次のようになる。
@大江氏は古代豪族土師氏の末裔で新撰姓氏録では右京神別天孫大枝朝臣氏と記されている。山城国乙訓郡大枝郷付近を本拠地としたとの説もあり、桓武天皇の母:高野新笠の縁で貴族に列せられるようになった。
A810年大枝本主の時、51平城天皇の嫡男「阿保親王」が、薬子の乱に連座し、太宰府に左遷された。
B811年本主の長男「音主」誕生。この人物が後に公卿となり、866年に大枝姓を大江姓に改姓したのである。理由は諸説あり。母親は中臣石根娘(阿保親王侍女)と記録されている。
C上記音人の誕生に関し諸説ある。本朝皇胤紹運録・系図纂要では音人は阿保親王と侍女中臣石根娘の間に産まれた子供で、阿保親王が左遷された時、その侍女が本主に下賜されその子供を養子として大枝本主が引き取ったと言う説である。
一方公卿補任・大江氏系図、尊卑分脈、北小路家譜などでは本主が阿保親王の子供であり、その子供が大江音人である。としているのである。
その他諸説あるところである。
D上記どちらに従ったとしても本稿の主題である在原氏、ひいては業平らとは兄弟の関係であったことになるのである。本稿大江氏系図は大江音人が阿保親王の子供だとして記した。ちなみに阿保親王は792年に山城国で誕生したとあり、当然長岡京があった乙訓郡内であったと推定されるのである。
E武家となった大江広元は、鎌倉幕府の重臣となった。しかし、その出自は非常に複雑なので解説を省略する。本稿系図「大江広元詳細系図」参照。形としては、古代豪族中原氏から大江氏に養子に入ったのである。この広元の流れから、戦国武将「毛利元就」が派生したとされているのである。
Fさらに江戸時代に大名家となった一族がある。大江姓永井氏である。大名家永井氏系図参照。この永井氏は系図的には桓武平氏長田氏の末裔である。
G歴史的に有名な平治の乱(1159)の後、敗戦した源氏軍の総大将源義朝(頼朝の父)が、関東に落ち延びていた途上、当時源氏方の従臣となっていた、尾張国野間(現:愛知県知多郡美浜町)に住んでいた平氏の長田忠致を頼って身を寄せた。ところが、忠致・景致父子は、裏切って義朝を討ち取り平清盛に首を差し出した。後に源頼朝が覇権をとり、上洛の時に親の仇として、長田忠致は美濃で斬首されたという説がある。(諸説あり)
H この長田忠致の弟にあたる「親致」の末裔である長田重元が徳川家康の父松平広忠に仕えることになった。重元の子供直勝が家康に仕えた時、長田姓は逆臣に繋がる姓で思わしくない、と改姓を命じられた。長田氏は長田広常の時、大江広元の流れを引く、大江宗秀という人物の娘を室にしており、これに目を付けた家康が、大江姓永井氏という姓を与えたのである。
I下総国古川藩主永井直勝の次男が、1633年山城国勝竜寺城主(2万石)になった永井直清である。兄の尚政は同年山城国淀藩(10万石)藩主となった。直清は1649年高槻藩主となり、以後幕末まで永井氏が藩主であった。
以上が本稿に関係する大江氏の概略解説である。
・大江氏の実質的な元祖である大江音人は在原業平、高階師尚と同一血脈である。
平安時代に活躍を始めた最後の古代豪族の実態を概観できたものと判断する。

8)まとめ(筆者主張)
@古代豪族の定義は難しく、確たるものは無い。
A古代豪族の最後の新規発生氏族は、在原朝臣氏であると断定した。
B51平城天皇の嫡男阿保親王・高岳親王の子供が臣籍降下して在原朝臣姓を賜った。
C在原行平・業平兄弟の流れが後続した。特に業平の流れが本流だと判断した。しかし、歴史上有名人物は、行平・業平以外には殆どいない。末裔は地方領主・武士化した。
D証明は不可能であるが、その末裔に松平氏が発生し、天下人「徳川家康」を派生したという系図がある。徳川氏自身は別途清和源氏を祖とする「徳川系図」を有しているが、これは偽系図だという説が現在の通説である。
E古代豪族高階真人氏は奈良時代に臣籍降下して派生した氏族である。しかし、歴史的活動は平安時代の高階師尚以降から具体化している。この高階師尚は、在原業平の子供であるという説が今日の通説である。筆者もこの説を支持する。
F高階氏は藤原氏全盛時代の朝廷政治の中で特異な活動記録が残されている。中でも傑出した人物は、元来高階氏の出自ではない、高階通憲の活躍である。平安時代の末期、それまでの摂関政治を打破し、主に後白河上皇を全面的に支え、院政時代を築き、保元・平治の乱を引き起こし、平氏・源氏といった武士の台頭を促進した立役者を演じた人物である。「信西」である。
Gこの信西の院内での活躍が引き金になったと筆者は推定しているのであるが、高階氏が公卿を100年以上も連続して輩出する氏族になって、室町時代の初めまで続いた。
H一方では高階氏の中で清和源氏の嫡流家と縁が出来て、その家臣となり領地を貰った一族がいた。その原因は源義家の息子の一人を高階氏の養子に貰ったことにあると判断する。この流れが[高(こう)氏]と称し、足利尊氏の側近中の側近であった高師直を輩出したのである。この流れは武家として残った。
I鎌倉幕府の重臣となった大江広元は、古代豪族大枝氏の末裔である。この大枝氏の少なくとも平安時代に入ってからの活躍の元祖は、「大江音人」である。その出自に関しては諸説あるが、筆者は、その一つである在原氏の祖である阿保親王の子供説に注目しているのである。もしこれも史実だと仮定すると、末期古代豪族である大江氏・高階氏・在原氏が揃って、51平城天皇の息子である阿保親王の実の子供・孫から発生したことになるのである。これは偶然のことであろうか?
J大江広元の末裔にあたる人物として、筆者が住んでいる京都府長岡京市にあった勝竜寺城の最後の城主になった「永井直清」が挙げられる。この地はご先祖の阿保親王の生誕地である。このことを永井直清は知っていたのであろうか?
K平安時代以降まで活躍した藤原氏以外の古代豪族の末裔は少ないと思われる。歴史上からも殆ど消えており、追跡は困難である。その中で、本稿で述べた在原氏・高階氏・大江氏は追跡可能な希有な氏族である。
中世以降、源氏・平氏の武士族が色々な分野で台頭・活躍してくる中で、上記古代豪族の末裔達が、地方の在地領主・戦国武将にその活路を開いて行った一端が窺えた。しかし、その系図の類は、一部残されているが、そのまま信じることは出来ない物が多いとされているのである。その代表例が徳川系図である。
(2013−9−2 脱稿)

9)参考文献

・臣籍降下・賜姓表 http://www.geocities.co.jp/Berkeley/6188/sisei/sisei072.html

・日本の歴史5 律令国家の転換と「日本」坂上康俊 講談社(2001)

・日本の歴史6「道長と宮廷社会」 大津 透 講談社(2001)

・日本の歴史7「武士の成長と院政」下向井 龍彦 講談社(2001)

・日本の歴史8「頼朝の天下草創」 山本幸司 講談社(2001)

・「新撰姓氏録の研究」佐伯有清 吉川弘文館(1981年ー)

・「姓氏家系大辞典」 太田 亮

・「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」 野口 実 新人物往来社(1998)

その他:関連ウイキペディア多数 関連各種HP