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38.穂積氏考(含む、熊野直氏・和田氏・鈴木氏・亀井氏・熊野別当家など) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1)はじめに
最近「熊野古道」の文字がテレビ・新聞・雑誌は勿論のこと旅行関係の冊子類には踊っている観がある。2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産として登録されて以来のブームとも言える現象である。詳しいことは後述するが、その中心的古道とされているのが中辺路(なかへじ)と呼ばれている道で、和歌山県田辺市から湯の峰温泉経由で熊野本宮大社(田辺市本宮町)を経て熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山)そして新宮市にある熊野速玉大社に至る古道である(本宮から熊野川を舟で下るルートもあった)。熊野三山(熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社)・熊野権現信仰は、平安時代の907年の宇多法皇・1090年の白河上皇らの熊野行幸が契機となって発展したとされている。以後熊野詣は、京都の貴族に広まり江戸時代には庶民層にも拡大し、「蟻のとわたり」と言われる程盛んになり、主にこの熊野古道を利用したとされている。京都から淀川を船で下り難波の窪津(現在の天満橋付近)という港で船を降り、いわゆる熊野街道(別名:小栗街道)といわれた道を紀伊田辺まで海岸に沿って歩き、ここから上述した中辺路という山手の道を歩くのがメインルートだったようである(海沿いの道は大辺路という)。このルートに沿っていわゆる「熊野99王子」と呼ばれた祠(一種の休憩所みたいなもの)が設置されていたのである。
ところが明治維新となり神仏分離令により、熊野詣という風習そのものが著しく衰退していった。また国道の整備、村々の発展などにともない熊野街道・熊野古道は著しく変化、破壊が進んだ。
それが最近になって突如として復活したのである。信仰というより、観光という面が強いのであるが。
筆者が紀伊半島を友人と二人で旅したのは昭和35年(1960)の夏であった。4月に大学に入学し同級生のY君とお互いに初めての旅らしい旅をしたのが紀伊半島一周の無銭旅行みたいなものであった。Y君は鳥取県出身で、筆者は広島県出身で共に紀伊半島は全くの未知のところであった。リュックに寝袋を入れ、海岸での野宿・学校・お寺・友人の家などに泊まりながらの1週間の旅であった。
京都ー高野山ー和歌山市ー白浜町ー串本町ー潮岬ー那智勝浦町と来て、次ぎに日本一の高さ(133m)を誇る那智の滝・西国33ケ所第1番札所「青岸渡寺(せいがんとじ)」に参拝した。那智大社も同じ所にあるので参ったことは間違いないであろうが記憶は定かではない。その翌日は確か熊野川と北山川が合流する所の岸辺にある「宮井」という所までバスで行き、そこからプロペラ船という産まれて初めて乗る奇妙な船に乗って北山川を上り瀞峡(瀞八丁)に入った。今でもその時の美しい青く澄んだ水の色を思い出す。この後、熊野本宮大社に参ったか新宮の速玉大社に参ったかは、全く記憶に残っていない。熊野市の海岸で泳ぎ、寝袋で野宿をしたのは覚えている。鬼ヶ城なる奇岩がある海岸に行った記憶もある。この当時未だ紀勢本線は尾鷲の手前がトンネル工事中で西と東が繋がっていなかったと記憶している。熊野から尾鷲まではバスで行ってさらにバスを乗り継いで波切町の大王崎の灯台に行ったような気がする。どのように行ったかは全く覚えていない。紀勢本線が全線開通したのは昭和36年(1961)7月のことだったと記録されている。これにより大阪からも名古屋からも特急や急行が走り出し新宮あたりも便利になった。
それまでは筆者らが行った時でさえ地の果てという感じだった。熊野古道の難所を徒歩で大阪方面から来る時代には、何日もかかる、まさに信仰巡礼の地だったのである。
筆者はその後、自動車で大和五条市から十津川村を通り川湯温泉ー新宮市まで行ったことが2度ほどある。この時も本宮大社・速玉大社に参ったかどうかは定かではない。
熊野古道という言葉は、筆者らの脳裏には全くインプットされていない頃の話である。
本稿の中心古代豪族は、物部氏と同族である「穂積(ほづみ)氏」である。この穂積一族は記紀にも幾人か名前が記されている中央で活躍した一族であるが、その本拠地の一つが紀伊半島の熊野地方であるとされ、熊野権現と密接な関係を持った氏族であるとされている。この流から、現在日本で一番沢山の方々がその苗字として用いている鈴木氏が派生したとされているのである。(勿論、現在の鈴木姓の方々が、この穂積姓鈴木氏と必ずしも直接関係があるという訳ではないのでご注意下さい。)熊野本宮大社の社家は、穂積氏と同族の物部氏から派生した熊野氏で、後年、和田氏を称し一説では南北朝時代の武将「楠正成」を輩出したとされている。
一方「熊野」と言えば、史実とは思えないが、記紀に神武東征記事として色々伝承記事が記されている所でもある。即ち1神武天皇は、熊野神邑(現在の新宮市付近)に上陸し、以後ここから吉野の方に入り大和入りしたとなっている。さらに古くは日本書紀の神話として伊弉冉尊が「紀伊国の有馬に葬られた」と記されて(古事記では伊弉冉尊は中国地方の比婆の山に葬るとある)あり、この比定地が熊野市有馬町上地130の花の窟神社辺りとされている。
熊野神社(現在は熊野大社)といえば出雲国に出雲一宮とされ出雲大社より格上とされてきた古社が現存している(既稿「出雲氏考」参照)。素戔嗚尊が祭神とされている神社である。熊野本宮大社の祭神も素戔嗚尊であるとされている。また、紀国内には出雲系の神々を祀る古神社が多数ある(例:「伊太祁曽(いたけそ)神社(祭神:五十猛命)」「大屋都姫神社」など)ことも事実である。これらのことが、紀国と出雲国が太古の昔より関係があったという説が古来より現在に至るまで続いているのも事実である。古代史ファンにとっては非常に興味ある所である。
熊野三山の本来的祭神と主な社家氏族を纏めて記すと
「熊野本宮大社」祭神:素戔嗚尊 社家:熊野氏・和田氏 物部氏系
「熊野速玉大社」祭神:伊弉諾尊 社家:穂積氏・鈴木氏 物部氏系
「熊野那智大社」祭神:伊弉冉尊 社家:尾張氏・潮崎氏 尾張氏系
と考えられている。
また中世になって源平合戦に、この熊野権現関係の多数の人物が歴史上に現れる。熊野別当「湛増」、源為義の娘「鳥居禅尼」、源義経の従臣「弁慶」、「熊野水軍」、「雑賀(さいか)衆」などなどである。
さらに上記、和田氏・穂積一族(鈴木氏など)と関係してきた紀国在田郡湯浅庄から発祥したとされる武士団「湯浅氏」は、藤原秀郷の後裔とされているが、中世紀伊国・熊野権現との関係で密接な関係があるので上記諸氏族と共に本稿で一部触れることとする。その他鈴木氏同族とされる武士団「亀井氏」伊予国の武士団「土居氏」、なども一部記したい。
2)穂積氏・鈴木氏人物列伝
穂積氏の元祖部は古来諸説ある。本稿では新撰姓氏録(左京神別上)の記述に準拠し、一部先代旧事本紀の系図も参考にする。
太田 亮著書によると穂積氏の発祥の地は大和国山辺郡穂積邑(現:奈良県天理市前栽付近?)または大和国十市郡保津邑説があるとされている。物部氏とは同族の一大古族である。(既稿「物部氏考」参照)
・饒速日命
@父;天之忍穂耳命 母;満幡豊秋津師比売命
A 妻;御炊屋姫(長髓彦の妹)、天道日女 別名:天火明命
正式名;天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(別名;贍杵磯丹杵穂命)略称;ニギハヤヒ
B子供;宇麻志摩治命、天香語山命(別名;高倉下命)(尾張氏祖)兄である。
兄弟;弟 禰禰芸命(神武天皇曾祖父)
C物部氏の遠祖とされている。伝説、神話上の人物。実態不明。「日本書紀」に記載あり。
色々な氏族の始祖伝説を習合した創造上の人物?「書紀」では物部氏の祖であることを
ボカシながら認めている。(古事記には記事なし)旧事本紀(物部氏の系譜。8−9世紀 に出来た?)には、詳しく出ている。
D大和国三輪山にある「大神神社」の主神は、大物主命=事代主命=ニギハヤヒであると の説もある。ここから「出雲」との関係があるとされる。
E九州遠賀川流域より東遷したとの説。
F1神武天皇東征(大和政権樹立)以前に河内国河上哮峰に「天磐船」で天降ったという話。
G大和在地豪族長髓彦を従え、その妹「御炊屋姫」を妻とした話。
H神武東征時、息子「ウマシマジ」が外祖父長髓彦を殺して、神武を迎え入れた話。
Iニギハヤヒは、「出雲系」であるとの話。
J物部氏が実権を握った26継体、ー29欽明朝あたりで祖先が神武東征時に活躍したよ うにこの部分を創作導入したのでは? との説。
K天下った所が、「日下」という地名でそこから、後年「日本」という名前が発生したの だという説。 など諸説あるが、立証すること困難。謎謎謎ーーーー
・宇麻志摩治
@父;ニギハヤヒ 母;御炊屋姫
A兄弟;兄 天香語山命(母:天道日女命)(尾張氏祖)穂屋姫(天香語山命妃)
妃;活目邑五十呉桃娘「師長姫」
子供;彦湯支命・味饒田命(ウマシニギタ)
(神日子命ー麻佐良命ー久尼牟古命ー大由支命ー小阿斗足尼命ーー
ーー熊野国造、阿刀連祖と続く・後述)
B神武東征を助け、以後大王家を助けた。
C古事記神武段:物部連・穂積臣・采女臣祖
・彦湯支命(?−?)
@父;ウマシマジ 母;師長姫?
A妻:日下部馬津久流女阿野姫・出雲色多利姫・淡海川枯姫 「ヒコユキのみこと」
別名:日子湯支命・比古由支命・木開足尼
子供:出石心大臣・出雲醜大臣命(イヅモのシコ)・大禰命
B志貴連祖:姓氏録大和国神別 日下部祖:姓氏録河内国神別
C天孫本紀:綏靖朝初めて足尼となり、中食国政大夫となり、大神を祭祀。
・出石心大臣
@父;彦湯支命(異説:大禰命) 母;淡海川枯姫?
A「イヅシゴコロのみこと」別名:妃;新河小楯姫 子供:大矢口宿禰・大水口宿禰(異説あり)
B孝昭朝に大臣となって大神を祭祀。
・大矢口宿禰
@父;出石心大臣命(異説あり) 母;新河小楯姫?
A妃;坂戸田良都姫 子供;欝色雄命、欝色謎命(8孝元后、9開化、大彦命の母)
大綜杵命など 別名:大矢口根大臣
B孝霊朝に宿禰を称し大神を斎き祀る。
C榎井部祖:姓氏録和泉国神別
・大綜杵
@父;大矢口宿禰命 母;坂戸田良都姫?
A「オホヘソキのみこと」
妃;高屋阿波良姫 子供;伊香色雄命、伊香色謎命*(8孝元妃、9開化后、10崇神母)
B孝元朝 大禰となり開化朝大臣となり大神を斎祀。
・伊香色雄
@父;大綜杵命 母;高屋阿波良姫?
A「イカガシコオのみこと」
子供;物部大新河命、物部十市根命 大水口宿禰(異説あり)・建胆心禰・多弁宿禰
建新川・大燈z・気津別・武牟口など
妻:山代県主祖長溝女直木姫・笠姫・玉手姫・倭志紀彦女真鳥姫
Bこの頃「欠史8代」ではあるが物部氏系の皇后、妃が多数出て、天皇の外戚関係が出来ていたらしい。(この時期のみである)
C崇神7年紀:崇神朝の人物、物部連祖。
D天孫本紀:開化・崇神朝大臣。石上大神を祭って氏神とした。
2−1)大水口宿禰
@父:伊香色雄(姓氏録)(異説:天孫本紀:出石心命)(異説:鬱色雄)
母:新河小楯姫?
A子供:忍山垂根 別名:千翁命?熊野地方伝承:饒速日命5世孫
B天孫本紀:穂積臣・采女臣等の祖。7孝霊朝に宿禰となる。
C崇神紀:穂積臣遠祖。崇神朝に活躍した人物。(崇神7年・垂仁25年の記事)
夢を見て天皇に上奏した。(大田田根子関連)
2−2)忍山垂根
@父:大水口宿禰 母:不明
A別名:建忍山垂禰・忍山宿禰 子供:大木別垂根・弟橘媛(日本武尊妃)・弟財郎女(成務妃)
B伊勢国在住説あり。
C景行40年記事:弟橘媛の記事。
D古事記成務朝:天皇が穂積臣等の祖建忍山垂根女弟財郎女を娶り和訶奴気を生んだ。
・弟橘媛
@父:忍山垂根 母:不明
A夫:大和武尊 子供:稚武彦王
B日本書紀景行40年紀・古事記・常陸国風土記:有名な伝説が残されている。ヤマトタケルが海に入水して自分を救ってくれた媛を偲んで歌にした「吾妻はや」が東国を「あずま」という語源になったともされている。
2−3)大木別垂根
@父:忍山垂根 母:不明
A子供:穂積真津
2−4)穂積真津
@父:大木別垂根 母:不明
A子供:阿米・采女臣宮手
B穂積臣
2−5)阿米
2−6)十能寸
2−7)鎌子
2−8)押山
@父:鎌子 母:不明
A妻:「弟名子媛」(?−570)(蘇我韓子娘)子供:磐弓・巴提
B継体6年(512)記事:継体6年に穂積臣押山が百済に遣わされた。そして任那4県を百済に譲渡することを大伴金村大連に提案したとされている。その後金村・押山ともに百済から賄賂を受けたとして糾弾された。
2−9)磐弓
@父:押山 母:不明
A子供:祖足
B欽明16年(555)記事:蘇我稲目と吉備国へ派遣された。
2−10)祖足(忍足)
@父:磐弓 母:不明
A子供:咋・人足・古閉(熊野速玉大社社家祖・後述)
2−11)咋
@父:祖足 母:不明
A子供:百足・五百枝
B孝徳大化2年(646)記事:
C美濃国穂積郷に居した。
2−12)百足
@父:咋 母:不明
A子供:
B天武元年(673)紀: 壬申の乱で近江側大将。 大伴吹負軍によって殺された。
C斉明朝に阿部倉橋麻呂と共に造百済大寺司に任じられた。
2−13)虫麻呂
@父:百足 母:不明
A子供:老・山守
B天武13年(685)穂積朝臣姓
C朱鳥元年(686)紀:新羅使を持てなすため筑紫に派遣された。
・山守
持統3年(689)紀:判事に任じられる。
和銅5年(712)続紀:正5位下。
2−14)老(?−勝宝元年)
@父:虫麻呂 母:不明
A子供:
B万葉歌人・大蔵大輔
C大宝3年(703)記事:山陽道巡察使 副将軍・式部少。
D佐渡への配流。正5位上。
以上が穂積氏の本流と思われる系譜。これ以降はっきりしない。
以下亀井系図に基づく(異系図多数あり)別流。
2−11)古閑
@父:祖足 母:不明
A子供:里万
2−12)里万(男麻呂・男萬)
2−13)濃美麿
@父:里万 母:不明
A子供:兄麻呂・忍麻呂
B穂積朝臣姓・住紀伊国牟婁郡
C奉斎熊野神宮
2−14)忍麻呂
速玉社禰宜
2−15)息嗣
2−16)財麻呂
禰宜
2−17)永成
一禰宜
2−18)豊庭
一禰宜・御倉領物忌領
2−19)国興
@父:豊庭 母:不明
A子供:(榎本真俊・宇井基成)・鈴木基行・基雄(禰宜)・基衡
B一禰宜・御倉領物忌領
2−20)鈴木基行
2−21)良氏
鈴木判官・検非違使
2−22)重氏
@父:良氏 母:不明
A子供:重実・重豊(娘が藤原実方室となりその子供が熊野別当泰救)
B押領使・掃部助?
2−23)重実
@父:重氏 母:不明
A子供:重武・倫安・基康・基安
B鈴木庄司
2−24)重武
庄司
2−25)重康
庄司・住藤白・越中守
2−26)重光(?−天永3(1112))
これ以降は鈴木系図と亀井系図は一致している。
2−27)重元
庄司・左近将監。
2−28)重邦
@父:重元?(重氏説あり) 母:不明
A子供:重倫・佐野鈴木季重・三河鈴木重善(善阿弥)・下野鈴木重定(重足)
B左近将監。刑部左衛門 別名:道哲
C源為義に属す。
D住藤代
・三河鈴木氏
三河鈴木重善(善阿弥)については色々な伝承が残っているが史実ははっきりしていない。
足助鈴木重直の時徳川家康に降伏した。
最終的には徳川家臣団に組み込まれ旗本家として残った。
2−29)重倫(?−1159)
@父:重邦 母:不明
A子供:重家・越中鈴木重源・亀井重清(亀井氏祖)
B鈴木庄司
C平治の乱で戦死。
2−30)重家(?−1189)
@父:重倫 母:不明
A子供:土居清行(伊予土居氏祖)・児島鈴木重勝・重次・重義
B源義経の臣となり衣川で戦死。
C義経記:
・土居清行
清良記:土居氏の出自は紀伊国牟婁郡土居の鈴木党に発する。
父重家は1189年源義経に従って奥州に下るにあたり、嫡子太郎清行を伊予の「河野通信」に依頼した。清行は伊予国宇和郡土居中村を与えられ土居氏を名乗った。(異説:西園寺家関連氏族説)(既稿「越智氏考」参照)
・土居清宗(1483−1560)
@父:土居重宗 母:不明
A子供:清貞・清晴・など
B領主西園寺実充に良く仕え1560年子供清貞とともに討ち死にした。
・土居清良(1546−1629)
@実父:土居清晴 養父:土居清貞 母:西園寺実充娘
A子供:重清
B清良記の作者。
C子孫は代官・庄屋をつとめ、明治維新を迎えた一族。
2−31)重次
@父:重家 母:不明
A子供:武州鈴木重宗・重好
2−32)重好
2−33)重基
2−34)重時
2−35)重実
@父:重時 母:不明
A子供:伊豆鈴木重伴・藤白鈴木重恒
2−36)重恒
@父:重実 母:不明
A子供:安弘
B住藤白・藤白鈴木氏
2−37)安弘
2−38)重義
2−39)重政
2−40)重氏
@父:重政 母:不明
A子供:重弘・雑賀鈴木重長
・雑賀鈴木氏
重氏ー重長ー重家ー雑賀長重ー重行(孫市)の系図が残されているがこの孫市(又は孫一)という名称がこれ以降多数の雑賀鈴木氏の人物に使用されているため、人物を特定出来ないとされている。
参考)鈴木孫市(雑賀孫一)
続風土記などを参考にした。以下の「重意」から「重秀」までの人物が孫市として総称されている観あり。
・鈴木重意(1511?−1585?)
@父:雑賀氏名前不詳 母:不明
A子供:重兼(義兼)・(孫六)・重秀・(重朝 ) 別名:佐大夫・孫一
B16世紀中頃の人物で雑賀衆の棟梁であり、鉄砲武装集団の棟梁であった。
元々大名家の傭兵であった。
1570年石山本願寺を織田信長を攻めた時、門徒であった孫一は「顕如」の求めに応じて雑賀衆を率いて織田軍と戦った。1577年織田氏に降伏。その後豊臣秀吉を頼る。鉄砲頭となる。しかし1585年秀吉により雑賀衆は滅ぼされ佐大夫は殺された。とされているが孫市の墓とされるもの(和歌山市平井「蓮乗寺」にある)には1589年没とある。
・鈴木重兼(1540?−1589?)
別名:平井孫一
・鈴木重秀(1546?−1586?)
別名:孫市
・鈴木重朝(1561−1623)
@父:重意? 母:不明
A子供:重次
B1585年以降秀吉の家臣となる。
C1600年関ヶ原合戦西軍につく。
D伊達政宗に仕え、その仲介で水戸徳川家の「頼房」の旗本になる。
E息子重次の養子に徳川頼房の息子を養子に迎え鈴木重義とし、以後水戸藩の重臣となる。
2−41)重弘
2−42)重光
2−43)重則
2−44)重長
(参考)3)亀井氏人物列伝
穂積姓亀井系図に準拠して記した。異説多数あり。
紋:角(隅)立四目結
3−1)亀井重清(?−1189)
@父:鈴木重倫 母:不明
A子供:盛清 兄弟:鈴木重家 別名:亀井六郎
B吾妻鏡:1185年源義経が兄頼朝に起請文を書き送った時の鎌倉への使者。
C源平盛衰記:一ノ谷合戦で源義経の郎党亀井六郎重清として記事あり。壇ノ浦合戦参戦
D義経記:衣川の戦いで鈴木三郎重家の弟亀井六郎重清生年23として登場、兄とともに
自害とある。
3−2)盛清
3−3)(重春) 重定
3−4)(重永) 重光(?−1315)
3−5)資重(1266−1343)
戸野兵衛尉
3−6)(為重)
3−7)重徳
3−8)重宗(重家)
3−9)重村
3−10)重信
3−11)重高
3−12)重則 (永綱?)
この頃出雲国へ来て尼子家臣となる。
3−13)重貞(安綱?)
尼子氏筆頭家老職・武蔵守・能登守。
永綱の子か。
尼子経久の富田城奪回戦に参加。その後、尼子氏と姻戚関係を結んだとみられ、上席家老として権力を振るった。
3−14)秀綱(1491?−1566?)
@父:(安綱) 母:
A子供:娘(宇多源氏佐々木流山中鹿之介室、)娘(亀井茲矩室、異説:山中幸盛娘)
B尼子経久の家臣(筆頭家老職)・能登守
C1511年船岡山合戦に参戦。1566年に月山富田城奪取戦で討ち死。
・山中幸盛(鹿介)(1545?−1578)
@父:山中満幸(宇多源氏佐々木氏流)養父:亀井秀綱 母:立原綱重娘
A室:亀井秀綱長女 娘?:亀井秀綱養女・湯国 綱(亀井茲矩)室
亀井秀綱次女を養女としたとの説もある。子供:山中幸元(鴻池新六)
B尼子氏の臣。
C毛利氏との戦いで活躍し山陰の麒麟児と言われた。1566年尼子義久は毛利元就に敗戦滅びた。この復興に活躍。
D1568−1571・1572−1576・1577−1578と3度戦った。
織田信長とも手を結び毛利と戦うが1578年「上月城の戦い」で主君尼子勝久は自害。
鹿介は自害せず、毛利軍に降伏。毛利輝元のところに護送中に吉川元春によって謀殺されたとされている。
首塚は、備後国鞆の浦の静観寺山門前にある。これは15代足利義昭・毛利輝元らが当時鞆の浦に滞在しており首実検のため岡山市高梁市の当時の阿井の渡しでの謀殺場所から首だけ鞆まで運ばれたためとされている。
Eこの山中氏の末裔が豪商「鴻池氏」とされている。
3−15)亀井茲矩(1557−1612)
@実父:湯永綱(宇多源氏隠岐氏:江原佐々木氏?)養父:亀井秀綱 母:多胡辰敬娘
A正室:山中幸盛(鹿介)娘(義父亀井秀綱の養女)、旧名:湯 国綱
子供:政矩
B養女・養子の関係で亀井氏を継いだとされている。
C尼子氏は毛利元就に滅ぼされる。尼子残党となり新興勢力である織田信長に臣従。
羽柴秀吉軍に就く。
D1581年秀吉から鹿野藩初代藩主(1582−1612):13,500石を任命される。
E本能寺の変後は秀吉につく。秀吉死後、徳川家康につく。東軍。38,000石に加増。F・琉球守・武蔵守・外様大名・ 津和野藩亀井家初代
3−16)政矩(1590−1619)
@父:亀井茲矩 母:不明
A子供:茲政
B鹿野藩2代藩主(1612−1617)・豊前守
C1618年津和野藩43,000石の2代藩主(1617−1619)(初代は坂崎氏)となり明治末まで亀井家が続いた。
3−17)茲政(1617−1681)
津和野藩亀井家3代藩主・能登守・豊前守
3−18)茲親(1669−1731)
3−19)茲満
3−20)茲延
3−21)矩胤
3−22)矩貞
3−23)矩賢
3−24)茲尚
3−25)茲方
3−26)茲監
津和野藩11代藩主(1839−1871)廃藩置県藩知事となる。
紋:四目結 隅立四つ目結 井桁に稲
裔孫に代議士「亀井静香」などを輩出。
4)熊野氏人物列伝
・饒速日命
・宇麻志摩治
・味饒田
@父:宇麻志摩治 母:師長姫
A子供:神日子 ウマシニギタ
B阿刀氏・熊野国造祖 :姓氏録山城神別・天孫本紀
・神日子
・麻佐良
・久尼牟古
・大由乃支(大田乃支)
4−1)熊野国造大阿刀足尼
@父:大由乃支 母:不明
A子供:稲比
B国造本紀:成務朝にニギハヤヒ5世孫大阿刀足尼を熊野国造に定め賜う。治所:新宮
C続風土記:ニギハヤヒは大和国に在して併せて熊野を領し、その子高倉下命をして熊野を治めしならん。それより高倉下の子孫世々熊野を領しなるべし。
D湯の峰温泉の開湯者との伝承あり。
4−2)熊野直稲比(建毛呂乃命)
@父:大阿刀足尼 母:不明
A子供:大乙世
B熊野直姓を賜る。
4−3)大乙世
4−4)国志麻
4−5)夫都底
4−6)大刀見
4−7)石刀爾
4−8)土前
@父:石刀爾 母:不明
A子供:高屋古
B尾崎系図:以上代々国造と為し、熊野大神の奉斎に任す。
4−9)高屋古
牟婁郡大領
4−10)伍百足
@父:高屋古 母:不明
A子供:祖万呂・熊人(禰宜)・田人
B牟婁郡大領
C熊野本宮禰宜・正7位上。
4−11)祖万呂
牟婁郡権大領
4−12)牒
@父:祖万呂 母:不明
A子供:多賀志麿
B延暦14年(795)熊野連姓・従7位擬少領。
4−13)多賀志麿
牟婁郡大領
4−14)真主(奥主)
@父:多賀志麿 母:不明
A子供:広野(大領)・広主
B禰宜
4−15)広主
@父:真主 母:不明
A子供:広継・兼弘・広泰・広俊・広政(禰宜)・広村(禰宜)
B禰宜
4−16)広継
橘氏・和田氏流へ
4−17)橘広方
@父:広継 母:不明
A子供:良輝・良扶(禰宜)
改姓・寛平9年(889)行幸時、為行長 任郡司領之 橘氏姓。
4−18)良輝
@父: 母:不明
A子供:良雅(大領)・良形
4−19)良形
4−20)和田良冬
熊野社年領・和田庄下司・和田庄司 以上竹坊系図
4−21)良和
4−22)良任
4−23)良保
A子供:良実(号和田国造・和田庄司・尾崎坊別当)・良国
B和田庄司年領
4−24)良国
和田庄司三河守
4−25)良村
A子供:良正・女(湯浅宗孝室)
B和田庄司大夫。後白河院御幸の行宮を竹坊と号し、良村を以て之を司しむ。
参考)湯浅氏
紀伊国在田郡湯浅庄発祥の大族。藤原北家秀郷流。紀国造氏出身、清和源氏出、桓武平氏出など諸説ある。自らは藤原氏を名乗っていた。
・宗永
1099年粉河寺縁起に記事あり。
・宗重
@父:湯浅宗季(宗永) 母:和田良村娘
A子供:宗景・盛高・宗方・宗光・知長・女(渋谷重国室)
B1143年湯浅庄に湯浅城築城。
C1159年熊野詣に来ていた平清盛を助け上洛(平治の乱)武将となる。その後文覚上人の仲介で源頼朝に1186年所領を安堵される。湯浅党。
D一族はその後毛利に属し、萩藩士となる。
・宗光流
この流から丹波国船井郡世木郷に住した一族で細川氏と婚姻関係が発生、細川藤孝とも関係し藤孝の子供がその流の家督を継ぐことになった。(日吉町誌)九曜紋使用
・女(渋谷重国室)
@父:湯浅宗重
A夫:平(渋谷?)重国 子供:明恵上人
B夫が渋谷重国なら、これを通じて佐々木秀義・藤原秀衡・源為義・義朝とも繋がってくる。しかし、平重国と渋谷重国は別人と考えた方が良さそう。
(参考)・文覚上人(1139−1203)
真言宗の僧。弟子:上覚(父:湯浅宗重)・孫弟子:明恵上人
俗名:遠藤盛遠・摂津源氏渡辺党武士。
鳥羽天皇皇女上西門院に仕えた北面武士。従兄弟の妻を殺し出家。
神護寺再興のため後白河天皇に強訴。伊豆国へ配流。源頼朝に会い平家打倒を進言。
頼朝・後白河法皇の庇護を受けたが後鳥羽上皇には疎まれ佐渡に配流、客死。
1210年???高尾上人文覚坊は山保田荘下司職を湯浅宗光に譲り鎌倉幕府は宗光を地頭職にしたとの記事あり。
文覚上人ー源行家ー鳥居禅尼の関係
・明恵上人(1173−1232)
@父:平重国(渋谷重国?)母:湯浅宗重女
A紀伊国有田郡石垣庄吉原村で産まれた。
B文覚上人の弟子上覚(湯浅宗重の子)の弟子。
C京都高雄 高山寺開山。
4−26)良正
4−27)良成
@父:良正 母:不明
A子供:橋本成友・成氏
4−28)成氏
河内国石川郡に住し、千早七郷領主。
4−29)正俊
和田刑部尉
4−30)正玄
左近大夫・千剣破館に住し、7郷を領す。
楠木氏
4−31)楠木正成
A子供:正行・正時・正儀
B湊川討死
4−32)正儀
左馬頭
4−33)正勝
4−34)正理
4−35)行康
住熊野本宮
・池田氏
参考)5)熊野別当家人物列伝
熊野別当家は穂積氏とは直接関係にはないが、熊野権現関係を理解する上では避けて通れない一族なので、熊野別当家系図に従い記述することにする。「紀伊続風土記」所収の「熊野別当代々次第」系図が最も広く知られているが異系図も多数ある。「諸山縁起}所収「熊野本宮別当次第」、「二中歴」所収「熊野別当」など。
実質的な熊野三山を統括する形になるのは1090年の白河上皇以降とされている。しかし、伝承としてはそれ以前から熊野別当家は存在しており、白河上皇の御幸の時に正式な形として「長快」が別当に任じられたとされている。この時別当の上位者として熊野三山検校も任命されたが、検校は熊野に在住する職ではなく京都にいたので、実権的には三山の統括をしたのが別当となったのである。
以後新宮別当家(熊野速玉神社・那智神社)・田辺別当家(本宮・田辺)に分裂し1221年の承久の変により衰退するが、南北朝中頃まで続いた。
・藤原冬嗣(775−826)
@父:藤原内麻呂(右大臣) 母:百済永継
A子供:長良(権中納言)・良房(摂政)・順子(仁明天皇妃)
妻:藤原美都子・百済王仁貞女・安倍男笠女・嶋田村作女など
B摂関家の祖。藤原北家・左大臣。
5−1)快慶
@父:藤原冬嗣?(伝承)母:榎本道信嫡女
A子供:A慶覚ーD慶玄・C快円・B覚胤
B弘仁3年(812)初代熊野別当に任じられた。
5−2)快円
@父:快慶 母:不明
A子供:E長仁・F増慶
B当山へ荘園を寄進。
5−3)増慶
@父:快円 母:不明
A子供:G増皇・H殊勝
・増皇
「権記」長保2年(1000)記:999年熊野修行僧・京寿が自らを別当に補任することを
太政官に訴えた。熊野の衆徒が事前にこれを知り、当時の別当「増皇」の正当性を主張し京寿の訴えを撤回させた。(熊野別当初見記事)
5−4)殊勝
@父:増慶 母:不明
A妻:穂積姓鈴木重豊娘 子供:女・養子「藤原泰救」
・藤原実方(?−999)
@父:藤原定時(養父)大納言済時 母:
A子供:泰救 妻:穂積重豊娘
B従四位上 陸奥守
C熊野に来た史実は疑問とされている。
5−5)泰救
@父:H殊勝(養父)藤原実方(実父) 母:穂積重豊娘(奥国人?)殊勝娘説
A子供:J快真・K永尊・L覚真
B10代熊野別当
C実質的な熊野別当職が系図上機能するのはこの人物の登場によってからとされている。
D実父は藤原実方とされているが、史実かどうかは不明。
5−6)快真
@父:泰救 母:殊勝娘
A子供:N長快
B11代熊野別当。
・宗賢
@父:紀伊守 母:不明
熊野別当家の血筋ではない。
第14代別当になったが三山衆徒の不満をかい、殺害された。とされている。
5−7)長快(?−1123)
@父:快真 母:不明
A子供:O長範・P長兼・Q湛快
B1090年白河上皇初めて熊野御幸。紀伊国2郡田畑100町余を熊野神社に寄進。
長快を法橋に叙する。この時大僧正増誉を熊野三山検校職(初任)に任じる。
C15代熊野別当
D熊野別当の名が史上初めてあらわれたのはこの長快からである。正式熊野別当初代。
E藤原実方の子供説あり(尊卑分脈系図)。伝承:「実方」が奥州に左遷されたときその地の女との間に産まれた子供、「実方」は熊野信仰心厚く参詣しようとしたが配所で没。その後母子は熊野に参詣しこの地に留まった。これを榎本氏が養い、その娘を妻とした。この時の子供が長快であり、熊野別当になったのである。との伝承あり。泰救の出自に母:奥国人と記されている文書もある。色々伝承の混乱があるのかも知れない。
・熊野三山検校職
1090年、熊野三山の統括にあたった役職で熊野別当職の上に設置された。
白河上皇の熊野御幸の時、先達を務めた園城寺長吏「増誉」を初代熊野三山検校に補任した。実権より名誉職的な役職であったが後年(承久の乱を経て熊野別当職の没落により)になって実権を握った。最終的(28代以降)には聖護院の管轄。
・湛快(1099−1174)
@父:N長快?J快真 母:不明
A子供:21湛増・24湛政・女(行快・平忠度室) 妻:鳥居禅尼説あり
別名:教真説あり
B1159年平治の乱で平氏方につき平家より多大の恩顧を受けた。多くの荘園・所領を獲得した。
C1146年18代熊野別当。
D鳥羽・後白河上皇を20回先導したとされる。
E本宮在。田辺に進出。別宮新熊野社(現:闘鷄神社)設。田辺別当家の始?
E愚管抄:1159年平治の乱の勃発時に、熊野参詣途中で田辺宿あたりに滞在していた平清盛らに助成して湯浅宗重らとともに帰京を勧めた。
5−8)長範(1089−1141)
@父:N長快?J快真 母:不明
A子供:R行範・S範智
B1123年16代別当就任。長兼を権別当にして田辺近くの岩田に配した。新宮には行範を配した。1131年には独立志向の強かった那智神社の別当にもなった。しかし、那智の自治運営は続いた。
・長兼
1142年17代別当。湛快権別当。
5−9)行範
@父:長範 母:不明
A子供:範誉(那智執行家)・22行快・23範命・行遍 妻:鳥居禅尼
別名:鳥居法眼
B新宮在。湛快別当時代から別当代行者扱いであった。
C19代熊野別当就任後数ヶ月で死去。
D源氏ついた。行家 新宮・那智は源氏勢力となる。
・範誉
那智執行家祖。本宮・新宮からの独立志向が強かった那智山を統括組織の中に組み込んだ。
・範智
1174年20代別当就任。権別当:湛増。1181年まで在任。
・範命
@父:行範 母:鳥居禅尼
A子供:26快命・良範・定範
B23代別当
・鳥居禅尼(?−1210?)
@父:源為義 母:熊野別当娘田鶴原女房 別名:立田御前・立田の局
A兄弟姉妹:同母弟:行家・異母弟:義朝 別名:丹鶴姫・立田腹の女房
夫:行範(・湛快説もある) 両人と結婚した可能性もある。
B源平合戦で頼朝に味方しその功績により紀伊国佐野庄、湯橋、但馬国多々良岐庄の地頭に任命された。(吾妻鏡)
C娘婿(実の子供説あり)の「湛増」にも大きく影響を与えた。
・湛増(1130−1198)
@父:Q湛快 母:鳥居禅尼説あり
A子供:SF湛真 弁慶???
B1184年21代熊野別当。権別当:行快
C源為義の娘鳥居禅尼がR行範を夫としてその間に産まれた娘を妻とした。
湛増の実母が鳥居禅尼ならこれは同母異父婚であり禁止婚である。
D伝承(平家物語など)として武蔵坊弁慶は湛増の子供である、というが母親が諸説あって信憑性乏しい。
E1180年の以仁王挙兵時平家方につく。源行家方と対抗して新宮の行家方と戦った。
田辺・本宮は平家方、新宮・那智は源氏方(鳥居禅尼の子供らである)となった。
結果新宮方に負け源頼朝挙兵により源氏方につくことになった。
F1185年平氏追討使となり熊野水軍2000人を率いて壇ノ浦合戦参戦。功績により頼朝から上総国に所領を貰う。
G1187年熊野別当に任じる。田辺別当家
H熊野水軍の統率者。
I闘鶏神社と関係あり。
J源平盛衰記・平家物語に記述あり。
K弁慶との関連記事:御伽草子・義経記・弁慶物語などにある。熊野別当代々記にはない。
・湛政(?−1222)
1208年 24代別当就任。京都朝廷(上皇派)と鎌倉幕府との対立表面化。
1221年承久の変。熊野 湛政:中立 田辺・新宮両家は上皇派・幕府派に分裂。
田辺家は財政基盤を失う。別当家の勢力衰えた。
・湛真
27代別当
・定湛
子供:正湛・尭湛
29代別当
・正湛
31・36代別当
・尭湛
34代別当
・九鬼氏
はっきりした系図は不明とされている。諸説ある。
一説:19熊野別当行範の子供「行遍」の流である「九鬼隆真」が紀伊国牟婁郡九鬼浦で一族をなした。
またその子供「隆良」が志摩国波切村に移住して(川面氏の養子)地頭となり、志摩九鬼氏が派生したとされている。鳥羽藩主ー摂津三田藩主ー丹波綾部藩主
(家伝書)
・九鬼嘉隆(1542−1600)
@父:九鬼定隆 母:
A妻:橘宗忠妹 子供:守隆 他多数
B九鬼氏8代当主、九鬼水軍、海賊大名。
C志摩国英虞郡の九鬼山城守泰隆の波切城で次男として生まれた。
D織田信長ー秀吉ー秀頼と主君を替えた。西軍。鳥羽城城主。自害。東軍についた長男守隆が初代鳥羽藩主。以後九鬼氏は大名家として明治まで続いた。
5−10)行快(1146−1202)
@父:行範 母:鳥居禅尼
A妻:湛快女(平忠度の室でもある)子供:28尋快・25琳快
・琳快
1222年25代別当就任。権別当:湛真
承久の変には関与しなかったが上皇方に荷担した僧を匿った嫌疑により下野足利へ配流。
26代快命ー27代湛真と田辺・新宮が交互に別当を出すことになった。
(参考)・平忠度(1144−1184)
@父:平忠盛 母:藤原為忠女 伝・熊野別当の娘「浜の女房」
A兄弟:清盛・家盛・経盛・頼盛ら 子供:忠行
B近衛天皇天養元年九重村大字宮井音川にて生まれる。(平家物語)
C平清盛の実弟。1180年正四位下薩摩守。歴史上の有名人。歌人
D伝承として湛快の娘を娶ったとある。
5−11)尋快
子供:30静快
承久の乱のほとぼりがさめた頃に28代別当に就任。
5−12)静快
30代別当
31代正湛以降40代定遍まで別当家は続いたようになっているが実質的には熊野三山の支配力・熊野水軍の統制力は既に失っていたとされている。最終的には南北朝14世紀中頃までは続いた。(1350年の熊野別当快宣?の記事が最終か)
6)関係寺院・関係文書(色々の文献からの抜粋)
6−1)熊野権現御垂迹縁起
「長寛勘文」(1163年)は、現存する文献では最古の熊野縁起。
昔、唐の天台山の王子信の旧跡が九州の英彦山に天降った。続いて伊予国の石鎚山、淡路の諭鶴羽山、紀伊国牟婁郡切部山、熊野神蔵峰、阿須加社の北石淵の谷に勧請した。
初めは結玉家津美御子と申した。次ぎに本宮大湯原の櫟の木の3本の梢に3枚の月形で天降った。
石田川の南、河内の住人、熊野部千代定という犬飼(猟師)が大猪を射た。跡を追って石田川を遡った。犬が猪の跡を追って大湯原に着いた。
ここで木の梢に月を見つけた。「どうして月が虚空を離れて木の梢にいるのか」と訊ねた。
月がその猟師に答えた「我は熊野三所権現である」「一社は証誠大菩薩と申す。今2枚の月は両所権現と申す」
また「5孝昭天皇の時、紀伊国の千尾の峰に神人が龍に乗ってお姿をあらわした。人々が崇め奉るなかに、一人の男が進み出て12本の榎のもとに神を勧請した。神は男の殊勝な心がけを喜び、榎にちなんで榎本の姓を賜った。その弟は、丸い小餅を捧げた、そのゆかりで丸子(のちに宇井)の姓を与えられ、第3の弟は稲の穂を奉納したので神は穂積(のちの鈴木)の姓を授けた」ともある。(伝説として太田 亮著「家系大辞典」収蔵の鈴木氏項に類似記事あり。)
・熊野略記(熊野三巻書)
熊野三山の伝来を詳細に述べている古文書
那智山執行職「尊勝院潮崎家」秘蔵の巻物で他見を許さなかったが近年熊野那智大社に譲られたので公開された。永享2年(1450)足利時代後花園天皇代の書。
1巻:本宮 2巻:新宮 3巻:那智となっている。神仏習合思想。
6−2)熊野三山
@熊野本宮:主祭神:家都美御子神
A熊野新宮:主祭神:速玉・夫須美神
B熊野那智:主祭神:夫須美神
最古:1083年「熊野本宮別当三綱大衆等解」には熊野三山の記述あり。
1109年「中右記」に熊野三山として那智神社の記事あり。
6−2ー1)熊野三所権現(延喜式)927年延喜式神名帳
@熊野本宮:神名:熊野坐神
A中宮(新宮):神名:速玉神
B西宮(新宮):神名:熊野牟須美神
この時は那須神社は無い。
6−2−2)熊野三所権現(大峰縁起)1100年
@熊野本宮:証誠菩薩:熊野権現
A熊野新宮:速玉:中御前
B熊野新宮:結宮:西御前
6−2−3)熊野三所権現(長寛勘文)1163年
@熊野本宮:証誠大菩薩:家津美御子
A熊野新宮:両所権現:玉
B熊野新宮:両所権現:結
熊野三山と熊野三所権現は別の概念であるといえる。
6−3)熊野十二所権現
三所権現・五所王子・四所明神を併せて12所権現という。
三所権現:熊野権現・速玉・結宮
五所王子:結の子供:若女命子・児宮・子守 速玉の子:禅師宮・聖宮
四所明神:大顕王の家臣:雅顕長者・金剛童子・飛行夜叉・米持金剛
6−4)権記
『権記』(ごんき)は、平安時代中期に活躍した藤原行成の記した日記。行成卿記、権大納言記とも。執筆時期は藤原道長の全盛期で、当時の宮廷状況を知ることができる貴重な史料である。
正暦2年(991年)から寛仁元年(1017年)分が一部逸文を含むが伝えられている。自筆本は伝わらない。最も古い写本は、鎌倉時代以前に筆写された宮内庁書陵部蔵本。同時期の日記に『小右記』(藤原実資)、『御堂関白記』(藤原道長)がある。
熊野別当の初見は、『権記』の長保2年(1000年)正月20日条である。この条で言及されている人物は、別当増皇である。それによると、長保元年(999年)、熊野の修行僧・京寿が、解文を太政官に送り、自らを別当に補任するよう訴えたという。これに藤原説孝が加担し、増皇について偽りの罪状を奏上した。こうしたことから、中央政庁では増皇の解任と京寿の別当補任に議論が傾いたが、熊野の衆徒が事前にこれを察知し、こうした動きを差し止めるべく中央政庁に申し立てを行った。その結果、京寿の解文が偽りであることや、説孝の奏上が事実に反することが明らかになり、京寿の別当補任が撤回された。
6−5)藤白鈴木氏に伝承されている記事:鎌倉実記の鈴木氏記事
(太田 亮「姓氏家系大辞典」より抜粋)
鈴木三郎重国というあり。南方八荘司の旗頭にして、同治郎重治(或いはいう重国3男)と、世々藤白を領す。所縁ありて、源家に属し義朝に近習す。義経の未だ舎那王といいし時、熊野詣して,鈴木の館に逗留す。この時,義経に仕えていた武士・佐々木秀義六男・亀井六郎重清をして,重国の一子三郎重家と、兄弟の誓いを結ばしめ,重家は家に留まり、父を養い,重清は義経の軍中に従わしむ。義経・奥州に落つる時,高館に安堵するよし、飛脚到来につき,重家・伯父の重次と、山伏の姿となり,奥州に下る。重次は病ありて、参州刈屋に留まる。重家は奥州に到り、衣川にて兄弟討死すという。
鎌倉実記に「義経は去年より紀州藤代に籠もり居給い、奥州通路の方便をなして、文治3年(1187)2月18日首途し給う。また熊野鈴木次郎重行というものあり。義経鞍馬にありし時、重行と対面し、主従の約をなし、義兵を起し給う時は必ず参るべき由申し・・・・己が代わりとして甥二人を遣わす。彼の鈴木三郎重家、亀井六郎重清とはこれなり。ーーー
という。
6−6)「義経記」の記事
「義経記」日本古典文学全集 訳:梶原正昭 小学館(S53)より引用。
戦記物である義経記が完成したのは諸説あるが室町時代初期から中期にかけてであろうというのが現在の通説。 <鈴木三郎重家高館(たかだち)へ参る事> の段
判官(筆者注:源義経)は、鈴木三郎を呼び寄せて、「いったいそなたは、鎌倉殿から所領を拝領したと聞いていたのに、どうして没落したこの義経のもとになど来たのだ。それも来てすぐに、このような事になってしまって気の毒なことよ」とおっしゃったが、鈴木三郎は、「鎌倉殿から、紀伊国に奉公の地一カ所をいただきましたが、まさにこうなる運命でございましたのでしょうか。寝ても覚めても、殿の御事をほんの時の間もお忘れすることができず、御面影が目に浮かび、あまりに来たいと思いましたので、永年養ってきた妻子も、熊野の者でございましたが、実家に送り帰してしまいました。もう今はこの世に何の未練もございません。ーーー」
<衣川合戦の事> の段
ーーー正面には武蔵坊・片岡八郎・鈴木三郎兄弟・鷲尾三郎・増尾十郎・伊勢三郎・備前平四郎、以上八人が当たった。ーーー鈴木三郎は、照井太郎と組み合って、「そなたは誰だ」「御館詰めの侍の照井太郎高治だぞ」ーーー鈴木はすでに、左側に二騎、右側に三騎を切り倒して、敵の死骸の上に腰をかけ、「亀井六郎、犬死するな。重綱はもう討死をするぞ」といって、腹を掻き切って倒れ伏した。亀井六郎は、これを見て、「紀伊国の鈴木を出た時から、生きている限りはともに生き、死ぬ時には一緒にと約束していたことだ。死出の山で、きっと待っておられよ」といって、鎧の草摺を引きちぎって捨て、「評判は聞いていよう。今は自分の目ではっきりと見ろ。鈴木三郎の弟で、亀井六郎重弘、生年26才。戦いにぶつかったことは数えきれぬ。弓矢の手腕は多くの人々に知られているが、東国の者どもはよもや知るまい。初めて腕前を見せてやるぞ」といって、ーーー重傷を負ったので、鎧の上帯を切ってゆるめ、腹を掻き切って、兄が倒れたその同じ場所で枕を並べて倒れ伏した。ーーー
6−7)熊野本宮大社(和歌山県田辺市本宮町本宮1100)
@主祭神:家都美御子大神(別名:熊野坐大神・熊野加武呂乃命):(比定:素戔嗚尊又は国常立尊)
A社格:式内社(名神大社)・官幣大社 熊野三山の一つ。
B創建:伝・崇神天皇65年説(水鏡)・崇神47年説(扶桑略記)
「神社縁起」「帝王編年記」「皇年代略記」「扶桑略記」
C別名:熊野坐大神神社
D2004年世界遺産登録「紀伊山地の霊場と参詣道」
E社殿:1886年の大洪水までは熊野川・音無川・岩田川の合流した中州(大斎原:おおゆのはら)にあった。現在の社殿は山のうえにある。
F創建伝承:「長寛勘文」熊野権現御垂迹縁起(日本最古の熊野権現縁起書)
(異説:インドのマカダ国説「大峰縁起」)など多数ある。
・長寛勘文:熊野権現御垂迹縁起
昔、甲寅の年、唐の天台山の王子信 (おうししん。王子晋。中国の天台山の地主神) の旧跡が、日本の鎮西(九州)の日子の山峯(英彦山(ひこさん))に天降りになった。その形は八角形の水晶の石で、高さは3尺6寸。そのような姿で天降りになった。それから5年が経った。戊午の年、伊予国(今の愛媛県)の石槌の峯(石槌山(いしづちさん))にお渡りになった。それから6年が経った。甲子の年、淡路国(今の兵庫県の淡路島)の遊鶴羽の峰(諭鶴羽山(ゆずるはさん))にお渡りになった。それから6年が過ぎた。
庚午の年3月23日、紀伊国牟婁郡切部山の西の海の北の岸に玉那木の淵の上の松の木の本にお渡りになった。それから57年が過ぎた。庚午の年3月23日、熊野新宮の南の神蔵の峯にお降りになった。それから61年後の庚午の年、新宮の東の阿須加の社の北、石淵の谷に勧請し奉った。初めは結玉家津美御子と申した。2宇の社であった。それから13年が過ぎた。壬午の年、本宮大湯原(大斎原(おおゆのはら))の一位木(イチイガシ(あるいはイチイか))の3本の梢に3枚の月形にて天降りなさった。8年が経った。
庚寅の年、石多河(石田川(いわたがわ))の南、河内の住人、熊野部千代定という犬飼(猟師)が体長1丈5尺(約4.5m)もの猪を射た。跡を追い尋ねて、石多河を遡った。犬が猪の跡を追って行くと、大湯原に行き着いた。
件の猪は一位の木の本に死に伏していた。肉を取って食べた。件の木の下で一夜、泊まったが、木の梢に月を見つけて問い申し上げた。「どうして月が虚空を離れて木の梢にいらっしゃるのか」と。月が犬飼に答えておっしゃった。「我は熊野三所権現である」と。「一社は證誠大菩薩(しょうじょうだいぼさつ)と申す。今2枚の月は両所権現(りょうしょごんげん)と申す」とおっしゃった。(以下略)
本宮 新宮 新宮
主祭神: 証誠大菩薩 両所権現 両所権現
家津美御子 玉 結
・大峰縁起
中インドのマカダ国の慈悲大顕王は、家臣の雅顕長者を日本に遣わして熊野と金峰山を天照・神武天皇から譲り受けます。この雅顕長者が熊野で感得した三所権現が上記のもので結と早玉は雅顕長者の娘・慈悲母女と大顕王との子供です。結の子が「若女命子・児宮・
子守」早玉の子が「禅師宮、聖宮」で併せて「五所王子」。大顕王の家臣たちが四所明神で「勧請十五所(雅顕長者)、一万眷属十万金剛童子、飛行夜叉 、米持金剛」がそれです。三所権現・五所王子・四所明神を併せて「熊野十二所権現」ということになります。 雅顕長者の弟「長寛長者」の垂迹したものが伏見稲荷大明神と説明されている。
雅顕長者には役行者と同じように金剛蔵王権現を感得する話もある。
猟師の是与が伊勢から三匹の熊を追ってくると、それが三つの鏡(熊野三所権現)に変わり、「裸行上人」とともにこれを祀ったという話。
猟師「是与」は本宮の長床衆(修験)の祖とされ、「裸行上人」は那智の開祖とされる。
本宮 新宮 新宮
主祭神 証誠菩薩 速玉 結宮
(熊野権現) (中御前) (西御前)
『熊野略記』 「熊野大社」 篠原四郎 著より引用
熊野権現が神武天皇戌午12月晦夜半に摩竭陀国より二河の間に飛んで来られた。二河は東流を熊野川と称し、(またの名を尼連禅河)西流を音無川と号す(またの名を密河)二河の間の嶋を新島と号す。この権現は初め日本に来られた時は鎮西彦山に、次ぎに四国の石鎚山に、次ぎに淡路の遊鶴羽峯、次ぎに紀伊無漏切目、次ぎに熊野神倉、次ぎに阿須賀社北の石淵(現:三重県鵜殿村矢淵)に順々に降臨されて、石淵に「結速玉、家津御子」の二宇の社を造ってお鎮まりになった。のちに家津御子だけが熊野川の上流本宮の櫟木に天降られ、崇神天皇の御代に別に社殿を造って御遷りになった。このように三神の内一番早く社殿を設けて鎮まりになったので本宮というと伝えている。また、「三巻書」では阿須賀に13年を過し、壬午年に本宮大湯原一位木の本の末に三枚の月形としてお降りになった。その後8年した年に石多河の住人熊野部千与定という猟師が、射った猪を追ってこの木の下に来て、猪を捕らえてそこで一夜あかした朝、木の先に三面の鏡を見つけて、熊野権現の御正体と仰いで崇拝した。
社伝
崇神65年に熊野連、大斎原において、大きな櫟の木に三体の月が降りてきたのを不思議に思い「天高くにあるはずの月がどうしてこの様な低いところに降りてこられたのか」と訊ねたところその真ん中の月が「我は証誠大権現であり、両側の月は両所権現である。社殿を造って斎き祀れ」との神勅が下された。社殿が造営されたのが始まり。降臨神話。
・延喜式
熊野三所権現 本宮 中宮(新宮) 西宮(新宮)
神名 熊野坐神 速玉神 熊野牟須美神
G859年従五位上、907年正二位、940年正一位 (日本紀略・扶桑略記など)
H907年宇多法皇御幸。初めての御幸。
I927年 延喜式:名神大社となる。
J1083年三所権現の名称が使われる。
K1090年白河上皇熊野御幸。(以後12回御幸)熊野別当長快が実権を握る。大僧正増誉が熊野三検校職につく。これ以降神主は検校・別当に副することになる。
L1125年鳥羽上皇熊野御幸(以後23回御幸)
M1142年西行法師熊野で修行。
N1159年平清盛が熊野参詣途中平治の乱勃発。別当湛快らが支援する。
K1160年後白河法皇熊野御幸。(以後34回御幸)
L1163年長寛勘文所収「熊野権現垂迹縁起」によれば、10世紀前半頃熊野三所権現が成立したことが窺える。
M中右記の1109年条:三山が互いの主祭神を祀るようになった。
N1185年別当湛増が熊野水軍を率いて源氏方として壇ノ浦で活躍。
O1187年湛増が正式に別当に任じられる。
P1198年後鳥羽上皇御幸(以後28回御幸)
O熊野別当代々記
熊野速玉大社の神官であった宇井、鈴木、榎本三氏の祖神、つまり穂積臣の祖神にあたる千翁命を祭神とみる説があった。熊野村の千翁命は景行天皇の悪神退治に際し、稲と兵を献上したところ、その功績により穂積姓を賜り、その子孫が上記三氏であったとする。
6−8)熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮1)
@主祭神:熊野速玉命(伊弉諾尊)・熊野夫須美命(伊弉冉尊)
日本書紀神代第4段一書の10
「伊弉諾尊は、追いかけて伊弉冉尊の所に来た。ーーーー唾をはいた神を、速玉之男と名付けた。次に(死の穢れを)はらう神を泉津事解之男(よもつことさかのお)という。合わせて二神である。−−−」(山田宗睦訳)
A社格:式内社(名神大)・官幣大社 熊野三山の一つ。
B創建:伝・景行天皇58年「皇年代略記」「延喜式神名帳」「水鏡」「伊呂波字類抄」
熊野三所権現降臨の元宮「神倉山」から現社地に新たに宮殿を造り遷宮した。新宮と称した。
「熊野権現御垂跡縁起」によると、往昔、熊野神が各地遍歴の後に、伊予、淡路を経て新宮の南の神倉山に祀られ、さらに阿須賀社の北、対岸の石淵(三重県鵜殿村矢淵)に遷られたのであって、始めは結(結神)、早玉(速玉神)と家津美御子神を二社殿に奉斎していた。
「熊野年代記」には、安寧天皇十八年に新宮の神倉に祀られ、貴祢谷(石淵)へ遷り、孝昭天皇五年に二社殿を建立して、熊野三所権現(結、速玉、家津美御子)を奉斎したと伝える。
諸説によって考察すれば、まず熊野三山の中心の早玉(熊野速玉大神)、結(那智大社・熊野夫須美大神)、家津美御子(熊野本宮大社御主神)の三柱が神代の頃に神倉山に降臨せられ、景行天皇五十八年に、社殿を現在の処に築営して結、速玉の二神を御奉遷申し上げたと思われる。
熊野速玉大社は、第十二代景行天皇五十八年に、熊野三所権現降臨の元宮「神倉山」から、現社地に新たに宮殿を遷って遷宮したことから、旧社地に対して、現社地に新しく宮殿を造立したので新宮と号したと古書に記されている。
熊野三山 熊野速玉大社の御由緒
熊野速玉大社は、第十二代景行天皇五十八年に、熊野三所権現降臨の元宮「神倉山」から、現社地に新たに宮殿を造って遷宮したことから、旧宮の神倉神社に対して「新宮」と号したと言われています。御祭神は、熊野速玉男命(速霊雲)と熊野夫須美命(結霊宮)を中心に十二柱の神々を祀り、那智大社・本宮大社とともに、全国に祀る数千社の熊野神社の総本宮として仰がれています。
第四十六代孝謙天皇の御世、「日本第一大霊験所」の勅額を賜り、第五十九代宇多法王に始まる歴代上皇女院の御親拝は、四百年の間実に百四十度におよぴ、これを世に「熊野御幸」といいます。
過去世を救済し、現世の利益を授け、来世加護へと導く達玉大神の大神徳は、「滅罪と甦り」を説く熊野権現信仰として広く万民に受け入れられ、日本全土に熊野神社が祀られるに至りました。難行苦行の旅でありながらも蟻の熊野詣とうたわれるほど参詣が盛んとなり、今なお日本第一大霊験所・全国熊野神社総本宮として崇敬を集めています。境内には、熊野権現の象徴たる樹齢約千年の「なぎの木」が御神木としてそびえ、歴代の朝廷から賜った千二百点にもおよぶ国宝古神宝類ぼ、我国の至宝として一部を熊野神宝館にて展示しています。(説明板から)
C別名:
D世界遺産登録
E46孝謙天皇朝に「日本第1大霊験所」の勅額を賜る。47称徳天皇朝天平神護2年(766)速玉神・牟須美神に神封四戸が与えられた。出典:新抄格勅符抄(806年)(熊野祭神史料初見)このことから熊野三神が世に知られるようになったのはこれ以降とされている。
F812年熊野別当に快慶を任じる。
G859年従五位上、907年従一位、940年正一位
H延喜7年(907)宇多法皇が初めて熊野御幸。
I927年大社に列せられた。
J1,000年熊野別当増皇事件
K1194年鳥居禅尼が但馬国の地頭職に任じられる。
6−9)熊野那智大社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1)
@主祭神:熊野夫須美大神(伊弉冉尊)
A社格:官幣中社 熊野三山の一つ。
B創建:伝・仁徳天皇5年「熊野略記」「古今皇代記」「熊野年代記」
C別名:那智神社・熊野12所権現・那智山権現
D世界遺産登録
E元々は那智の滝の傍にあり、滝の神を祀った原始宗教的なものが始まりとされている。
F806年に熊野牟須美神の記述あり「新抄格勅符抄」。式内社には入っていない。熊野三山の記述で最も古いのは1083年の「熊野本宮別当三綱大衆等解」という書物。
G続風土記:禰宜・神主は存在しない社僧中心の修験道場。
東座執行:潮崎尊勝院
西座執行:西仙滝院・米良実方院
H創建伝承:孝昭天皇朝(別説:仁徳天皇朝)に天竺から裸形上人が渡来して12所権現を祀ったとしている。熊野本宮大社・熊野速玉大社よりは創建は遅いとされている。
I1150年那智山如意輪堂が西国第1番札所となる。
I1161年文覚上人那智山に入り荒修行を行う。
6−10)阿須賀神社(和歌山県新宮市阿須賀1−25−25)
@主祭神:熊野速玉大神・熊野夫須美大神・家津御子大神
A社格:村社
B創建:不明(社伝:5孝昭天皇朝?)
C別名:飛鳥社
D由緒:熊野権現は先ず神倉神社に降臨し、次ぎに阿須賀神社北側(対岸)にある石淵谷に勧請され、阿須賀社はその遙拝所であった。その時初めて「結早玉家津美御子」と称した。(熊野権現御垂迹縁起)
・熊野年代記
安寧天皇18年に新宮の神倉に祀られ、貴祢谷(石淵)へ遷り、孝昭天皇5年に二社殿を建立して、熊野三所権現を奉斎した。
E境内から弥生時代の遺跡発掘。
6−11)神倉神社(和歌山県新宮市神倉1−13−8)
@主祭神:天照大神・高倉下命
A社格:熊野速玉大社の摂社。別名:熊野根本神蔵権現・熊野速玉大社奥院
B創建:不明(伝承:景行58年?) 琴引岩 磐座信仰の地
C由緒:この神社は記紀神武天皇東征伝に出てくる天磐盾山であるとされている。
高倉下は、神武に神剣を捧げこれを得た神武は、八咫烏の道案内で軍を進め熊野・大和を制圧した。
熊野権現御垂迹縁起では熊野三所権現の最初の降臨地とされている。
6−12)藤白神社(和歌山県海南市藤白466)
@主祭神:饒速日命
A社格:県社
B別名:藤代神社・藤白権現・藤代王子旧址
C創建:伝・景行5年
D社殿:斉明天皇の牟婁の湯行幸の際に建立と伝承されている。
E全国の藤白鈴木氏の総本家の屋敷跡が現存している。
6−13)青岸渡寺(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8)
@山号:那智山・宗派:天台宗・西国33ケ所第1番札所
A本尊:如意輪観世音菩薩
B世界遺産登録
C創建:伝・仁徳天皇朝(4世紀)
D開基:伝・裸形上人
E江戸時代末までは熊野那智大社と神仏習合の修験道場であった。明治になり神仏分離により如意輪堂が分離され青岸渡寺となった。本宮大社・速玉大社にも仏堂があったが明治になってこれら仏教的な施設は破却されて、熊野三山の中で残ったのはこの寺だけになった。
F伝承:孝昭天皇朝(別説:仁徳天皇朝)に天竺から裸形上人が渡来して那智滝の滝壺で得た如意輪観世音(別説:12所権現)を本尊としてこの寺を開基した。
G補陀落渡海の拠点・補陀洛山寺が那智浜にある。
H1150年西国第1番札所となる。
6−14)補陀洛山寺(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町大字浜の宮348)
@山号:白華山 宗派・天台宗
A本尊:三貌十一面千手千眼観音
B世界遺産登録
C創建:伝・仁徳天皇朝
D開基:伝・裸形上人
E平安時代ー江戸時代にかけインドにあるとされた観音浄土である補陀洛山 へ舟で那智の浜から出るという補陀洛渡海の寺とされた。
F868年慶龍上人補陀洛渡海
6−15)闘鶏神社 (和歌山県田辺市湊655)
@主祭神:熊野三所神
A社格:県社
B創建:伝・允恭天皇8年
C別名:田辺宮・新熊野
D由緒:允恭天皇8年に熊野権現を勧請し、白河法皇時代に熊野三所権現を勧請。
熊野別当湛快の時、天照大神など11神を勧請し新熊野権現とした。
湛快の子供湛増が源平合戦のとき鶏を紅白に分けて闘わせ、白が勝ったので源氏に味方することを決めた。(平家物語)これに因み闘鶏権現と称した。
6−16)牛鼻神社(三重県南牟婁郡紀宝町鮒田字右市鼻)
@主祭神:国霊日女尊・高倉下命・大屋島子命・誉田別命・詞遇突智命・天児屋根命
(千翁命?)
A社格:
B創建:紀州地方最古?
C由緒:・神武天皇東征の折に牛の鼻を繋いだとも伝えられる。
日本記に曰く、景行天皇重ねて南方の悪神を征し給う時、三輪崎荒坂山に軍立し給い、御陣を秋津野に召されて日久しく御粮尽きける時に、熊野村の千翁命稲千束奉りて奉救す依って御陣堅固になり悪神共無為に治まる也。天皇御感のあまり千翁命姓を給い穂積と号す。命に三子あり、榎本、鈴木、宇井、日本武尊熊野村に御鎮座の時、大成榎木の元に檀を築き鈴をもって奉迎するに、右の功を称して三子の屋号とするという。故に本社の祭神は熊野三苗はじめ熊野地方一帯の祖神を祀るところ也。
社伝によると、崇神天皇六十五年の勧請とされる。往古より現社地に鎮座、熊野大権現と称されていた。
熊野速玉大社の神官であった宇井、鈴木、榎本三氏の祖神、つまり穂積臣の祖神にあたる千翁命を祭神とみる説があった。熊野村の千翁命は景行天皇の悪神退治に際し、稲と兵を献上したところ、その功績により穂積姓を賜り、その子孫が上記三氏であったとする。
7)穂積氏関係系図
・穂積氏関連概略系図
・穂積姓鈴木氏・亀井氏系図
・穂積氏元祖詳細系図
・穂積氏元祖部諸系図
・穂積氏異系図1.
・穂積氏異系図2.
・穂積氏異系図3.
・穂積氏異系図4.
・鈴木氏異系図1.
・鈴木氏異系図2.
・鈴木氏異系図3.
●鈴木重家前後系図
1)姓氏類別大観準拠亀井氏系図
2)藤白鈴木氏系図
3)穂積氏異系図1
・寛政重修諸家譜
・土居氏系図
・(参考)近江源氏佐々木氏流 湯氏系図
●(参考)熊野別当家系図
1)「系図綜覧」系図
2)別系図
3)別系図
4)その他系図
5)熊野別当歴代系図(姓氏家系大辞典)
6)熊野別当家・九鬼氏系図
・(参考)湯浅氏系図
・(参考)熊野系氏族と源氏相関図
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8)穂積氏関連系図解説・論考
8−1)穂積氏元祖部系図解説・論考
穂積氏は、新撰姓氏録では左京神別氏族で臣姓氏族である。
一般的には古代豪族の雄である物部氏と同族で元祖は饒速日(ニギハヤヒ)だとされている。その祖は「大水口宿禰」であることは、どの文献もほぼ一致している。問題はこの大水口宿禰が誰の子供であるかである。古来諸説ある。筆者は新撰姓氏録の説に基づき「伊香色雄」の息子であると仮定して概略系図を作成した。先代旧事本紀では「出石心」の子供とされている。他にも筆者系図の元祖部諸系図に一部紹介したように色々の説がある。
日本書紀には、「大水口」に関係する記事が10崇神紀にあること、子供である「忍山垂根」・孫にあたる「弟橘姫」の記事が12景行紀にあること、古事記では13成務段に、孫の「弟財郎女」の記事があることなどから、開化・崇神朝で大臣をしたとある伊香色雄の子供である、という説の方が説得力があると判断した訳である。AC300年頃の人物と判断せざるをえない。
記紀で有名な「倭武尊」関係の伝説に登場する「弟橘姫」の話は史実とは思えないが、これに関連して穂積氏の先祖が絡んでいたことには興味が沸く。系図では、「大水口」の曾孫にあたる「真津」が穂積臣姓を賜ったとあるが、物部氏の姓(かばね)は一般的には「連」姓である。何故「臣」姓であるのか謎である。一般的には鬱色謎・伊香色謎・弟橘姫・弟財郎女など天皇の后クラスの女性を輩出した氏族であるから、とも言われているようだが、それなら物部氏の方がもっとそれに近い関係の氏族であるから物部臣となってもおかしくない。この理屈は妥当とは思えない。づっと後になるが穂積臣虫麻呂は八色の姓(684年)では朝臣姓を賜っているのである。物部氏も朝臣姓を賜った。684年には朝臣姓は52氏賜ったのであるから、その意味でも穂積氏は、物部氏等と同格の古代豪族だったのである。
ところが記紀等の記事には殆どめぼしい活躍記事が無いのである。
穂積氏の発祥地は、一般的には大和国山辺郡穂積邑(現在:奈良県天理市前栽付近?)とされている。この地名「穂積」が穂積臣氏のいわれである。この「穂積」の意味として後述するように積まれた稲穂のことで、神に一年間の収穫を感謝し、稲穂を高く積むことによって神の降臨を願ったものでものである、という説があるとされている。これが熊野神降臨神話・伝承として伝わっており、これによって熊野神を祀る一族に穂積氏という姓を賜ったともされている。これが最終的には鈴木姓(熊野地方では穂積と鈴木は異音同義語とされている)となる訳である。本稿では、現在日本で一番(又は2番)多いとされている「鈴木」姓の源点とされている熊野穂積姓鈴木氏について論究するが、その名前の由来が古来土地の地名から説と、上述の熊野神降臨説話説がらみと、あることを簡単に記した。
さて、穂積臣氏として記紀に登場する人物を概観しておきたい。
穂積臣氏の中で歴史上一番重要な役割を演じたと思われる人物は、「押山」である。継体6年紀(512)に記されている。有名な任那4県割譲問題に「大伴金村大連」と関係していたのである。押山は任那に渡って直接百済と交渉するという非常に重要な役割を果たした人物である。
この金村の政敵が「物部尾興」で、この任那4県割譲問題を糾弾して遂に金村は失脚するのである。押山もこれに連座する形で糾弾されたとされている。
押山の妻が蘇我韓子(?−465)(蘇我稲目の祖父:雄略朝の人物 )の娘「弟名子媛 」であるとなっている。つまり穂積氏と蘇我氏は密な関係があった。押山の子供である「磐弓」は、欽明朝に力を付けてきた蘇我稲目とともに、吉備国に派遣されたと記事がある。稲目と物部尾興は仏教導入問題で反発し合う関係であった。
この磐弓の子供「祖足」の子供「咋」の流は、朝廷に仕えて5位以上の貴族としての扱いを受けていたことが、記録上ある程度辿れるが、これから約8代以後の系図は不明である。則ち、これ以上貴族穂積朝臣の歴史を知ることは、筆者レベルでは不可能である。一般的には穂積氏は美濃国穂積郷辺りに勢力を持ったとされているが、詳しくは分からない。
一方、祖足の子供「古閉」の流は、孫の「穂積朝臣濃美麿」が紀伊国牟婁郡に移り熊野神宮を奉斎したと記録が残されている(亀井系図)。濃美麿は天武朝頃の人物と推定される。八色姓で朝臣姓を賜っている。初代の「大水口」を300年の崇神朝の人物として濃美麿までが13代であるので、平均約30才で継いだことになり、やや長い感じがするがほぼ合理的範囲の系図だと言える。この流が熊野穂積姓鈴木氏・亀井氏に繋がるのである。
8−1−1)穂積姓鈴木氏元祖部系図解説・論考
筆者は姓氏類別大観に準拠した鈴木氏系図を先ず示した。この系図の問題点は、上記穂積朝臣濃美麿の息子「忍麻呂」の6代孫の所に3人の子供が記されていることにある。
則ち、榎本真俊・宇井基成・鈴木基行である。濃美麿は680年代には存在していた人物と考えると、680年に30才だと仮定6×25=150年 830年頃に「鈴木基行」という熊野における穂積姓鈴木氏の原点みたいな人物が誕生したことになる。この系図が正しいと仮定すると、この基行から11代目に年代が推定出来る「鈴木重家」が存在している。
鈴木重家については後述するが1189年に30才前後で没している。1代あたり33才平均となる。当時としてはやや長いと思われるが全く不合理な代数ではない。
また系図上で表れる「藤原実方」という人物の没年代も分かっている。999年とされている。これから推定される鈴木重豊女の年齢と基行からの年代を推定すると950−850=100年の間に4人いるので25才平均となりこれも妥当、濃美麿ー重家は17代で約513年要しており1代平均30才となる、これもやや長いが妥当な範囲。要するにこの系図は代数的には、不合理な系図ではないことを示しているのである。 ところが「鈴木基行」なる人物が問題なのである。穂積氏異系図3,4、鈴木氏異系図1、2などに「基行」という人物が記されている。
「熊野権現垂迹縁起」という書物があったとされているが、何年頃に完成したのかは、はっきりしていない。その本の解説書みたいなのが1100年頃に編纂されたとされている「大峰縁起」とか1163年の「長寛勘文」という書物である。これらの本に記されている内容は少しずつ異なるが概ね同じような内容の記事が記されている。この中に「熊野三党」又は「熊野三苗」といわれた熊野の古族であり、熊野速玉大社の神官だったとされる榎本・宇井・鈴木氏の出自について記されている部分がある。これらを筆者が解釈した範囲で系図化したものが鈴木氏異系図3である。これはあくまで伝承であり史実と考えるべき史料ではない。
熊野新宮大社を祀る神官の家の出自を神懸かり的権威付けをした系図であろう。
鈴木氏異系図1,2共にこの伝承記事を背景に造られたと見て間違いなかろう。穂積氏異系図3,4も同類のものと推定される。則ち「鈴木基行」という人物は熊野鈴木氏を語るとき避けて通れない伝説上の人物だと言える。その登場する時代は系図により大きく異なり5孝昭天皇の頃から平安時代まで色々である。前述した亀井系図では推定で850年頃の人物として出てくる。姓氏類別大観もこの亀井系図に準拠したものと思われるが、榎木・宇井・鈴木の3氏は、穂積氏系図として派生するように記されている。これを信じるかどうかは個人の問題だが、未だに諸説あるところである。鈴木氏系図として有名なのは、藤白鈴木氏に伝承されてきた鈴木氏異系図2である。これでは基行は遙か昔のご先祖という位置づけとされている。要するに古代豪族「穂積氏」の流として熊野の鈴木氏を捉えるか、熊野古来からの地方豪族鈴木氏と捉えるかである。後者の場合も初めは熊野で発生した穂積氏で後に異音同義語である鈴木氏に転じたと考えるのである。(この場合、古代豪族「穂積氏」と熊野で発生した「穂積氏・鈴木氏」は直接関係ではないことになる。)ところが同じ藤白鈴木氏の伝承として次ぎのような記事が残されている。
「始祖、饒速日命五世孫、千翁命の血脈をうけ、熊野神に稲穂を捧げて穂積の姓を賜った鈴木氏は、以来熊野三党のひとつとして、勢威大いにふるったと古書に伝える。」
熊野地方で最も古い神社の一つとされる「牛鼻神社」由緒では
熊野速玉大社の神官であった宇井、鈴木、榎本三氏の祖神、つまり穂積臣の祖神にあたる千翁命を祭神とみる説があった。熊野村の千翁命は景行天皇の悪神退治に際し、稲と兵を献上したところ、その功績により穂積姓を賜り、その子孫が上記三氏であったとする。
異説
鈴木氏の祖先は、饒速日命(にぎはやひのみこと)の孫、千翁命(ちおきなのみこと)。神武東征の際、天皇に稲を献じたので「穂積」の姓を賜わったが、稲を積み重ねたのを「すずき」といったところから「鈴木」姓になったという。
異説(牛鼻神社伝承)
日本記に曰く、景行天皇重ねて南方の悪神を征し給う時、三輪崎荒坂山に軍立し給い、御陣を秋津野に召されて日久しく御粮尽きける時に熊野村の千翁命稲千束奉りて奉救す依って御陣堅固になり悪神共無為に治まる也。天皇御感のあまり千翁命姓を給い穂積と号す。 命に三子あり、榎本、鈴木、宇井、日本武尊熊野村に御鎮座の時、大成榎木の元に檀を築き鈴をもって奉迎するに、右の功を称して三子の屋号とするという。故に本社の祭神は熊野三苗はじめ熊野地方一帯の祖神を祀るところ也。
など細部では異なるが千翁命なる人物が熊野穂積氏・鈴木氏の祖であると伝承されているのである。
しかも、この人物は饒速日命の血脈でもあるともある。
鈴木氏異系図1、3では鈴木・宇井・榎本氏の祖として千興(与)定なる人物が記されてある。これは「熊野権現御垂迹縁起」前述5−1)に記した下記記事を参照のこと。
「長寛勘文」(1163年)は、現存する文献では最古の熊野縁起。
昔、唐の天台山の王子信の旧跡が九州の英彦山に天降った。続いて伊予国の石鎚山、淡路の諭鶴羽山、紀伊国牟婁郡切部山、熊野神蔵峰、阿須加社の北石淵の谷に勧請した。
初めは結玉家津美御子と申した。次ぎに本宮大湯原の櫟の木の3本の梢に3枚の月形で天降った。
石田川の南、河内の住人、熊野部千代定という犬飼(猟師)が大猪を射た。跡を追って石田川を遡った。犬が猪の跡を追って大湯原に着いた。
ここで木の梢に月を見つけた。「どうして月が虚空を離れて木の梢にいるのか」と訊ねた。
月がその猟師に答えた「我は熊野三所権現である」「一社は証誠大菩薩と申す。今2枚の月は両所権現と申す」
また「5孝昭天皇の時、紀伊国の千尾の峰に神人が龍に乗ってお姿をあらわした。人々が崇め奉るなかに、一人の男が進み出て12本の榎のもとに神を勧請した。神は男の殊勝な心がけを喜び、榎にちなんで榎本の姓を賜った。その弟は、丸い小餅を捧げた、そのゆかりで丸子(のちに宇井)の姓を与えられ、第3の弟は稲の穂を奉納したので神は穂積(のちの鈴木)の姓を授けた」ともある。(伝説として太田 亮著「家系大辞典」収蔵の鈴木氏項に類似記事あり。)ここに登場する千代定という猟師と系図に記された千興(与)定
は同一である。則ち鈴木異系図1,3は「熊野権現御垂迹縁起」を系図化したものでまさに神仏習合思想の賜である。これを史実と考える人は先ずいないであろう。
ところが、上記「千翁命」伝承と熊野権現御垂迹縁起との間には何か共通因子がある。
どちらが先に生まれた伝承かは不明だが、熊野穂積氏・鈴木氏も饒速日命を祖とする伝承を元来有していたと考えるのが妥当と推定出来る。それが仏教思想の導入により色々変形されてはいるが、根っこでは熊野速玉大社の神官の内、少なくとも鈴木氏は古代豪族「穂積氏」の流を引く氏族と考えて大きな間違いはないと思われる。千興定と千翁命と大水口は伝承は異なるが同じ人物のことと言っても大きな違いはないであろう。(どこにもそのようなことを記した文献はないが)よって鈴木基行なる人物は、鈴木氏が、どこかの段階で古代豪族穂積氏とは姓を分けた元祖の証拠を残すために創作された人物であろう。そもそも「基行」という名前は、そんなに古い時代の名前ではない。平安時代位に付けられた名前であろう。
熊野の穂積姓鈴木氏の元祖は、古代豪族「尾張氏」の祖である「高倉下」であるという説も厳然と現存している。(篠原四郎著「熊野大社」)また後述する熊野国造氏の流だとする説(太田 亮著「姓氏家系大辞典」)もある。
要するに熊野藤白鈴木氏は、現在の全国の鈴木姓の元祖とされているが、そのまた元祖については、謎だらけであるというのが真実である。一番それらしいのが古代豪族「穂積氏」元祖説である。
次ぎの様な説もある。参考までに記しておく。
穂積姓を有していた河内国に住んでいた人物が、熊野国の相野郷に相野荘司に補せられて下向してきた。そこの鈴木村という所に住み、鈴木荘司と称したので、その子孫が鈴木を氏とした。現在の三重県南牟婁郡紀宝町鮒田(旧鮒田村)辺りである。(藤白鈴木会HPより)(現在の前述の牛鼻神社がある所辺り)また一方、太田 亮は「姓氏家系大辞典」で藤原南家流の鈴木氏について下記のように述べている。「この氏は1に藤原南家の族にて、紀伊国牟婁郡鈴木庄より起こり惟時を祖とすという。その他鈴木氏にして藤姓というものも甚だ多し。−−−」
また異説として、ナギの木に鈴を付けて馬印としたためというのもある。
熊野速玉大社の境内に現存し、国の天然記念物に指定されている、推定樹齢1000年の梛(なぎ)の大樹は、平安末期に熊野三山造営奉行を務めた平重盛(清盛の嫡男)の手植えと伝えられ、梛としては日本最大です。このナギの木に神官が鈴をつけたことから鈴木となった。という説。
そもそも鈴木・榎本・宇井氏などと呼称されている所謂、熊野三党・三苗という氏族の氏名は、古代の氏姓制度上の名前なのであろうか。それなら姓(例えば臣・連・首・直など)
があるはずである。少なくとも筆者が調査した範囲ではこのような姓(かばね)はこれらの氏族には付されていない。ということは、常識的には平安時代以降、さらに言えば平安末期、武士の台頭以降に付された名前と言える。それが何故「熊野権現御垂迹縁起」などの平安初期には存在していたであろうと推定されている(縁起物ではあるが)書物に、これらの名前が記されたのか謎である。榎本真俊・宇井基成・鈴木基行共に奈良時代には遡れないと推定される名前である。
8−1−2)藤白鈴木氏関係の系図解説
現在の和歌山県海南市藤白466に藤白神社がある。この神社の社家は、代々鈴木氏であった。ここが藤白鈴木氏の本拠地であり、いわゆる熊野穂積姓鈴木氏の総本家があったところである。藤白は熊野三山巡りの拠点とされた所で、熊野一之鳥居が有るところでもある。ここには熊野九十九王子の内の「祓戸王子」という熊野詣の重要拠点が置かれていた。
鈴木氏発祥の地は、上述したように熊野速玉大社の地である紀伊国牟婁郡新宮である。
しかし、平安時代中頃と思われる時代に同じ紀伊国でも遙か離れた名草郡藤白浦にその嫡流が移ったとされている。移住の理由は、皇室の熊野三山信仰が増し、紀北にも多くの荘園寄進があり、これを管理運営する荘司として移住したとある。鈴木荘司と言われた。熊野八荘司の総頭領といわれた。藤白鈴木氏伝承記録によると、穂積氏異系図1に名前が出てくる「盛基」の子供の重実(筆者推定では970年頃の人物)の時、移住したのだと推定されている。盛基は、筆者の穂積姓鈴木氏系図の「重氏」に相当する人物である。盛基は新宮鈴木氏だと記されている。この盛基という人物は藤白鈴木氏系図鈴木氏異系図2には記されていない。一方平安末期の1150年に居を藤白に移したという記事もある。亀井氏系図では「重康」の時に藤白に住すとある。要するに、いつ頃藤白に移住したかは明確ではないのである。後述する熊野別当家の台頭と鈴木氏の新宮からの撤退は無関係ではないと判断する。15代熊野別当「長快」が白河上皇から正式な形で別当に補任されたのが1090年とされている。これが大きな転機であったことは頷ける。速玉神社の神官の地位・権限は著しく低下したことは間違いなかろう。則ち古族鈴木氏の新宮での存在価値が失墜した時期と判断する。詳しくは後述したい。
穂積姓鈴木氏として歴史的に存在が確実視されている人物で一番古い人物は、「鈴木重家」(1159?−1189)だとされている。源平盛衰記にも源義経の郎党として名が見られる。紀伊続風土記・鎌倉実記・義経記等にも源平合戦において源義経の従臣として活躍した記事が記されている。特に藤白鈴木家伝承記録においては、重家の書簡まで残されているようだ。
この重家こそ現在の鈴木姓の総元祖である、という説もあるくらい、この流から全国に鈴木氏の一大勢力が生まれたとされているのである。その原因としては諸説ある。
@重家が、源義経の従臣として奥州平泉に行くまでに、東日本各地に現地妻を作り、その子供らが、それぞれ鈴木姓を名乗り一族が急激に増えた。(系図的には全く把握出来ない)
A義経記・源平盛衰記などの物語が、南北朝から室町時代にかけて東日本を中心に急激に普及し、義経伝説が熱狂的に一般庶民に受け入れられた。これらの戦記物の中で鈴木重家は義経の家臣として、その活躍が注目される人物として描かれている。
B熊野権現信仰が鎌倉時代以降、東日本を中心に急激に拡がり、各地に熊野権現が祀られ神社も増えた。それらの神社の神官として藤白鈴木氏が赴任していった。
C熊野水軍のように藤白鈴木氏の子孫一族は、武装化集団を作り日本各地の雇われ武士的
役割を帯びて拡がった。代表的なのは雑賀衆である。
この@ABCなどが複合的に作用して鈴木を名乗る指導者層が各地に発生したとされている。
この鈴木重家が実在したとして、その父親は誰で、その祖父は誰かと、その系図を追求してみると、これが実に謎に満ちているのである。
亀井系図:重氏ー重実ー重武ー重康ー重光ー重元ー重邦ー重倫ー重家ー重次
鈴木系図:基平ー重包ー重氏ー重康ー重光ー重元ー重邦ー重倫ー重家
異系図1:盛基ー重実ー倫安ー允重ー重基ー重氏ー重邦ー重倫ー重家ー重次
異系図2:国益ー重実ー倫安ー允重ー重基ー重氏ー重邦ー重倫ー重家
異系図3:国行ー国重ー国望ー国奉ー国光ー重連ー重邦ー重倫ー重家
異系図4:家盛ー成久ー吉長ー成本ー幸家ー成朝ー重俊ー重邦ー重家
異系図5:国頼ー国望ー国経ー国奉ー国光ー季長ー季重ー重貞ー重家
以上本稿に収録した公知系図より抜粋したものである。
お互いに似ているが異なっているのが分かる。
代表的なのが、亀井氏系図・鈴木氏系図である。亀井氏は後に大名家になった一族であり、後述するが重家の弟「亀井重清」が祖となった氏族である。鈴木系図は藤白鈴木氏に現在まで子孫が続いている氏族の系図である。だからといってこの亀井・鈴木系図こそ史実として正しいと判断できないのが系図の難しさである。これらの系図はいずれも鎌倉時代以降に造られたものであろう。それまでも何らかの形で系図の類は存在伝承されてきたことは推定出来る。しかし、これらの氏族は貴族ではない。地方の豪族であったかも知れないが、時代時代で非常に不安定な存在であったことは、中央の大古代豪族・貴族とは全く異なる。一方一族を維持させるには養子・猶子などが、必須因子で頻繁に発生したことが予測される。これが発生した場合の系図をどうするかは非常に混乱因子になっているといわれている。その意味で上記諸系図を総て偽系図として排除する立場は筆者はとっていないのである。重家がそれ以降の藤白鈴木氏の原点的な人物であることは分かる。父親は重倫という系図が多い。祖父が重邦という系図も多い。一般的には重家の家督を継いだのは重次だとされている。重家は奥州に下る際に嫡男であった「清行」を伊予国の「河野通信」に後事を託した、と「土居清良記」に記されている。これが土居氏の祖となり伊予国宇和郡土居中村に領地が与えられたとある。(異説もある)(既稿「越智氏考」参照)
一方重家の叔父にあたる鈴木重善(善阿弥)が三河鈴木氏の祖であるとされている。(異説あり)この三河鈴木氏は後年徳川家の従臣となり江戸時代は旗本として多数の人材を輩出したとされている。それぞれに家系図が存在する(寛政重修諸家譜など)とのことであるが、重家だけは一致するが、あとはばらばらのようである。一方、重家からの流から、はるか後年になって歴史上有名な「雑賀衆」の頭領となって鉄砲集団を率いて織田信長とも石山本願寺で戦ったとされている「鈴木孫一」という人物が現れる。この一族は最終的には水戸藩の重臣となったとされている。ところが、この一族の明確な系図は残されていない。系図上、日本各地に鈴木氏が発生したことは窺える。しかし、その本当の系譜は、上述の鈴木氏系図と大同小異で不明であるというのが真実であろう。藤白鈴木氏に出自を有する鈴木氏は、各地の熊野系神社の神官・神社侍・各種荘園管理人・武士などになった人物が多いとされているが、江戸時代に大名家になったとされているのは前述の亀井氏しかないと筆者は判断している。その原点も重家の弟で義経の従臣となった亀井重清だとされているのである。
「藤白鈴木氏に伝承されている記事」
(太田 亮「姓氏家系大辞典」より抜粋)(前述(5−5)参照)
「義経記」(前述(5−6)参照)
などからも鈴木重家・亀井重清については、ある程度史実に近いことは推定出来る。
ところが、細かく見ると色々疑問・謎が秘められているとされている。
その一つが亀井氏の出自問題である。
8−1−3)亀井氏系図解説・論考
一般的には亀井氏は、藤白鈴木氏からの派生氏族となっている。本稿系図でも亀井系図・鈴木氏系図でも鈴木重倫の子供で鈴木三郎重家の弟で亀井六郎重清が亀井氏の元祖となっている。穂積姓鈴木氏の異系図も含み、ほぼ総ての系図で一致しているのである。ところが、古来亀井氏は宇多源氏系佐々木氏が出自であるという説が濃厚にあるのも事実である。
亀井氏は後年、江戸時代には津和野藩藩主となった大名家なのである。本稿亀井氏系図にも記したが2代津和野藩藩主は、宇多源氏佐々木流の「湯 永綱」の子供「茲矩」が亀井家に養子に入り、中国地方の雄、尼子氏の重臣であった亀井秀綱の娘で山中鹿之助の養女との間に産まれた亀井政矩だとされている。
この系図では佐々木氏流の人物が亀井氏の名跡を継いだということは明白である。宇多源氏佐々木氏流湯氏系図から明らかなように近江国出身の佐々木氏は源義朝の時からの従臣であった「佐々木秀義」の息子達が幕府成立後守護などになり鎌倉幕府を支えたのである。この流の主流から戦国時代の六角氏・京極氏が派生し、この京極氏から中国地方の戦国大名尼子氏が派生したのである。この佐々木秀義の子供である出雲守護「佐々木義清」の流から出雲国仁多郡湯村(出雲国意宇郡湯郷)を本拠地とした湯氏が派生した。尼子氏の従臣であった。
亀井氏が尼子氏の従臣となったのは、記録によれば、秀綱の祖父である重則の頃らしい。秀綱の父「重貞」は尼子氏の筆頭家老となっている。また一方尼子氏の家臣として歴史上有名な人物に山中鹿之介(鹿介・幸盛)がいる。この人物の詳しい記述はしないが、同じく佐々木源氏の流であることが分かる。尼子氏と毛利氏の争いは永年に亘って行われた。この時の尼子氏の筆頭家老的存在だったのが、亀井秀綱である。系図によると秀綱の妻は同じく尼子氏家臣の湯氏の娘であった。秀綱には男子が産まれなかった。娘婿として養子の形で尼子氏の家臣山中鹿之介を迎えた。そして鹿介は妻の妹を養女として育てた。
ところが訳あって鹿介は自分の出である山中氏を継承することになった。よって亀井氏の名跡が途絶えることを案じ、「湯 永綱」の息子である「茲矩」と自分の養女で実は亀井秀綱娘とを結婚させ、亀井の名跡を継いだとされている。この息子「政矩」が津和野藩2代目藩主(初代は坂崎氏)となり幕末までこの流が藩主となった。要するに宇多源氏佐々木氏流の流を汲む者が尼子氏周辺に集まり、相互に婚姻関係で結ばれて結束を堅くしていたのである。
いつ頃からかは、明白ではないが佐々木氏独特の「四目結」の紋を亀井氏は家紋として使用している。ちなみに湯氏の紋も同じ紋が使われている。則ち男紋として鈴木氏の紋とは明らかに異なることは広く知られている。この意味で亀井氏は佐々木氏であるというのなら納得出来る。
ところが、そうではなく、元祖である亀井六郎重清も佐々木氏であるというのである。勿論鈴木系図でも亀井系図でもそうなっていないことは既に述べた。
ところが前述した、「藤白鈴木氏に伝承されている記事」:(太田 亮「姓氏家系大辞典」より抜粋)では、
『鈴木三郎重国というあり。南方八荘司の旗頭にして、同治郎重治(或いはいう重国3男)と、世々藤白を領す。所縁ありて、源家に属し義朝に近習す。義経の未だ舎那王といいし時、熊野詣して,鈴木の館に逗留す。この時,義経に仕えていた武士・佐々木秀義六男・亀井六郎重清をして,重国の一子三郎重家と、兄弟の誓いを結ばしめ,重家は家に留まり、父を養い,重清は義経の軍中に従わしむ。ーーー』
という伝承記事が知られている。これには明らかに亀井六郎重清は佐々木秀義の息子で鈴木氏の養子となり鈴木重家と兄弟の誓いをして源義経の家来となったと記されているのである。この伝承記事は、古来色々取りざたされてきた記事である。登場する人物と鈴木系図との整合性が取れていないためでも、謎の文章とされている。この文章に登場する佐々木秀義は、歴史上有名な人物である。平治の乱では源義朝の従臣として活躍した人物である。その子供らが頼朝の配下として活躍、妻は源為義の娘で義朝に仕えたが、義朝の死後相模国の渋谷重国の世話になり、その娘を娶り5男「義清」を産んだともされている。1184年に戦死している。
さて、上述の伝承記事がいつ頃のことを記しているのか定かではない。
亀井六郎重清は、『吾妻鏡』文治5年(1185年)5月7日条、『源平盛衰記』では一ノ谷合戦記事で義経の郎党亀井六郎重清として登場する。『義経記』では上述の衣川合戦記事に兄鈴木三郎重家と共に登場。生年23才とある。
また、いつの時点でどんな由縁があって亀井氏の名が与えられたのであろうか。
太田 亮著「姓氏家系大辞典」では、亀井という地名として武蔵国比企郡に亀井庄ありて、地域は入間郡に及ぶとある。
これは上述の佐々木秀義が世話になり、嫁を貰ったとされている「渋谷重国」の領地(武蔵国荏原郡から相模国高座郡渋谷荘)に近いのである。
このことから、佐々木秀義ー渋谷重国ー亀井庄と結びつき亀井六郎重清は、佐々木秀義の子供であり、藤白鈴木氏に養子に入る前に父親の縁で武蔵国の亀井庄の領主的存在になっていた可能性があり、それに因んで亀井姓を付していた。という説が生まれてきたらしい。則ち血脈的には亀井氏は、当初から佐々木源氏であったと考える方が妥当という説である。
そうであるなら、何故、佐々木氏の子供が藤白鈴木氏の養子になる必要があったのか。謎である。どうであれ以上のことから判断すると、重清が養子に入ったとする時期は1177年前後と推定している。この辺りのことは一部後述することにする。
いずれにせよ、平安末期から鎌倉時代以降にかけてのことである。よって本項ではこれ以上の解説は省略することにする。
8−1−4)土居氏系図解説
上述した「鈴木重家」には鈴木系図では3名の男子が記されている。清行・重勝・重次である。
嫡男であった清行が、その末裔である土居清良が書き残した「清良記」によると、四国伊予国宇和郡土居中村に本拠地を置いた土居氏の祖であるとされている。見方を変えれば藤白鈴木氏の本流は、四国に移転ということである。伝記によると1189年重家が義経のいる奥州へ旅立つ前に長男清行を伊予国の雄である「河野通信」に預けたことになっている(越智氏考参照)。筆者推定ではその時10才前後だったと思われる。
この河野氏から領地として宇和郡土居中村を与えられた訳である。
伊予国には土居氏という氏族が他にもあり混同し易い。穂積姓鈴木氏出身の土居氏は宇和郡土居中村の土居氏だとする説が主流である。この一族も戦国武将として戦い、その子孫は、伊予国の諸所の代官・庄屋をつとめ、明治維新を迎えたとされている。
8−1−5)雑賀氏系図解説
前述の鈴木重家の3人の男子の一人重次の流が、藤白鈴木氏を継承したのだが、この10代孫に雑賀鈴木重長なる人物が系図上現れる。(本稿「穂積姓鈴木氏・亀井氏系図」参照)この流から所謂雑賀衆という歴史上有名な武装集団が登場する。その代表者が雑賀孫一という人物である。ところが、雑賀孫一と言う人物は特定の個人名ではなく、雑賀衆の頭領となった人物は、代々孫一と名乗ったらしいのである。よって系図は不明というのが現在の状態である。相当経過した辺りから一部の系図が公知になっている。鉄砲集団として、織田信長とも戦ったと記録が残されている。最終的には水戸徳川家の家臣となったとされている。
8−2)熊野国造氏(熊野直氏)系図解説・論考
系図では熊野国造氏は、饒速日の孫「味饒田(うましにぎた)」が元祖とされている。「新撰姓氏録」の山城神別・天神には、熊野連「饒速日命孫味饒田命之後也」とある。国造本紀に熊野国造は成務朝に、饒速日五世孫「大阿斗足尼」を国造に定め賜う、とある。本稿に示した系図では大阿斗足尼は、饒速日の5世孫ではなく7世孫になっている。
一方「紀伊続風土記」では、「 饒速日、大和国に在して、併せて熊野を領し、其の子「高倉下」をして、熊野を治めしならん。それより高倉下は、子孫世々熊野を領せしなるべし」とある。高倉下は記紀の神武東征伝に登場し、熊野での活躍記事がある。こちらの伝承からは別の系列の氏族が熊野にいたことを暗示している。熊野国は、後の紀伊国牟婁郡であり、現在の三重県尾鷲市・熊野市・南牟婁郡、和歌山県東牟婁郡・新宮市・田辺市・西牟婁郡が範囲であった。
一般系図では大阿斗足尼の子供「稲比」が熊野直姓を賜ったとある。熊野本宮社家系図でも「稲比」から「土前」まで「直姓」が記されている。尾崎系図では以上代々国造で熊野大神を奉斎に任す、と記されている。
「高屋古」は牟婁郡大領と記され、(これは熊野国が紀伊国に編入されたことを意味する。牟婁郡の名が歴史上初めて登場した時期は孝徳天皇の在位中(645年〜654年)である)。次ぎの「伍百足」は郡司擬大領または大領と記録され、熊野本宮禰宜と記されている。その孫の「牒」が795年に熊野連姓を賜ったと記されている。熊野氏の初代「大阿斗足尼」を成務朝の人物と仮定して筆者の換算年表(巨勢氏考参照)で345年頃とすると795−345=450年となる。この間に12代の人物が記されている。37才/1代となり少し無理である。数代抜けていると推定される。
30才/1代と仮定して逆算すると、伍百足は、735年頃の人物と推定出来る。父親の高屋古が上記熊野国が紀伊国に編入された記事から推定すると、645年頃の人物だとすると、これは不合理である。よって系図上の伍百足の前後「土前」ー高屋古ー伍百足ー祖万呂ー「牒」の間が1−2代抜けている感じがする。
奈良時代頃には本宮大社の禰宜であったことは確からしい。勿論系図からは、それ以前から熊野大神を奉斎していたことは窺われる。
さて、その後16代「広継」の子供「広方」の時に熊野連姓から橘姓に改姓されている。この橘姓が古代豪族橘氏(既稿)と、どのような関係であるのか筆者には判然としていない。897年のことである。
その3代後では嫡流「良冬」は熊野社年領・和田庄下司・和田庄司となり、和田姓となる。
この和田庄とは、日高郡和田(現:和歌山県日高郡美浜町和田)のことと思われる。
良冬の5代孫の「良村」の娘が紀伊国在田郡湯浅荘を本拠地とした藤原秀郷流の湯浅宗季と結婚し産まれたのが歴史上有名な「湯浅宗重」である。この辺りについては後述する。
参考事項であるが、太田 亮らは、前述の熊野鈴木氏は穂積氏からの流と言われているが、本当は、この熊野国造氏系ではないかと推定している。熊野国造氏も、元々は新宮の地が本拠地であったと考えられている。鈴木氏も新宮の熊野速玉大社の神官の出身である。
一方熊野本宮大社の神官には玉置氏という古族がいる。この氏族は、上述した高倉下の累孫であると伝承されている。その他、熊野には高倉下の累孫だと伝承されている氏族が幾つかある。那智大社社家の潮崎、汐崎氏もそうである。
本宮大社社家には熊野国造大阿刀足尼系として、楠・尾崎・竹坊・音無・堤・坂本・預岐・長田・竹内氏らがいる。高倉下も饒速日の子供であるとされており、その意味では熊野地方の豪族は総て物部氏と同族であったと考えれば、後は大同小異の部類かも知れない。
問題は、いつ頃この地を支配し始めたのかである。熊野三山・熊野権現信仰が世に広まるのは奈良時代以降、平安時代に入ってからである。しかし、熊野本宮大社・速玉大社・那智大社は、それよりはるか以前から存在していたことは間違いないとされている。
これらの神社の創立・発展と連動した形で、熊野国造氏・穂積氏(鈴木氏)らの古代豪族の存在姿・発展状態を知ることができるのである。
これら神社などについての考察は後述したい。
さて、和田氏は南北朝の南朝方武将である「楠 正成」に繋がっているとされているが、それには諸説あり判然としない。(越智氏考・橘氏考参照)本稿では省略したい。系図としては楠木正成に繋がるものを参考までに載せた。
8−3)熊野別当家系図解説・論考
穂積氏・鈴木氏・熊野国造氏(熊野直氏)などの熊野古族の姿を知る上で避けて通れない一族が平安初期に発生したと社伝にある熊野別当家である。その出自は真に謎めいている。系図上では歴史上有名な藤原摂関家の祖である「藤原冬嗣」であるとなっている。冬嗣と榎本道信嫡女との間に産まれた「快慶」という人物が弘仁3年(812)に熊野別当に補任されたと記録されているのである。これが熊野別当家系図上の初代別当である。勿論、藤原冬嗣の公式系図上には、このような記事は残されていない。謎である。「榎本道信」なる人物は、筆者の調査した範囲では全く分からない人物である。類推をすれば、熊野速玉大社の神官の3古族(鈴木・榎本・宇井)とされた榎本氏に関係した人物かも知れない。代々その血族が別当職を継いだ系図になっている。この系図で9代別当に「殊勝」がいる。この妻が鈴木重豊娘という伝承もある。
前述の鈴木氏系図の重氏(盛基)の子供に「重豊」という人物があるが、この人物の娘である。この娘が藤原摂関家の流である、藤原実方と結ばれ、息子「泰救」を「殊勝」の婿養子に迎え10代熊野別当としたともある。これには諸説ある。藤原実方は熊野に来たという史実は残されていない。彼は陸奥守として東北に駐在中に現地の女と結ばれ、一子をもうけた。実方は熊野信仰厚く、東北での客死に臨んで、その子供と女を熊野に行かせた。当時の別当「殊勝」は、その子供を自分の養子として育て、それが「泰救」であるという説もある。筆者は殊勝の妻が鈴木重豊娘で、その間に産まれた娘と藤原実方と陸奥国の女との間に産まれた泰救を育て、この貴種の泰救を娘婿として第10代熊野別当にしたのが史実に近いのでは、と判断している。
どうであれ、この別当家系図は、2度に亘り京都の高貴な貴族の血脈を導入した形をとって、熊野別当家が並の氏族ではないことを、熊野の他の豪族らに知らしめる狙いから造られたもので、史実を必ずしも反映したものではないというのが、現在の通説になっているように思う。しかし、一方では14代別当「宗賢」という人物は、この血脈系図上の人物ではなく紀伊国守の息子で別当職に就任したが、熊野大神を信仰する氏人の信任が得られず殺害された、という記事も残されている。則ちこの系図は当時の熊野の神官・僧らによって、ある程度信任された血族・特別な氏族という証拠だったようにも思える。ただし、現在残されている初代からの系図は第29代別当「定勘」(正嘉2年(1258))の時書す(続風土記)ともあり、史実としては、その総てが信じられている訳ではないようである。ちなみに生存年代が分かる快慶(812年)実方(999年没)から推定して33年前後/1代と推定され、やや長いようだがほぼ合理的範囲の代数を記した系図と判断する。これ以降は、ほぼ人物的には、史実を反映しているとは思うが、色々な系図が存在しており、親子・兄弟の関係が判然としないのである。恐らく養子猶子の問題が複雑に絡んでいるものと判断せざるをえないのである。
本稿系図5)6)にその一例を示した。説明の都合上6)図(尊卑分脈系図系)をもとに解説したい。
そもそも熊野別当という言葉が文献上表れたのは991−1017までのことを記した
「権記」という本の中で1,000年の記事に熊野別当「増皇」のことを記したものがある。そして、公式な形で認められた熊野別当という言葉が歴史上登場するのは、寛治四年(1090)に白河院が熊野三山にご参詣の時、「長快」が初めて別当に補せられた事が中右記(1087−1138までの日記)に詳しく記されたのが、初めとされている。
この時、併せて初の熊野三山検校職として大僧正「増誉」も任命されている。
「日本紀略」によると、御幸としては、907年に宇多法皇が御幸として初めて熊野に参詣し熊野速玉神に従一位、熊野坐神に正二位を授けたとある。
このことから正式に熊野別当職が認められたのは「長快」からだとはしても、それ以前から熊野三山を統括する熊野別当なる地位と人物がいたことは窺える。一説によると、当初の熊野別当家は新宮に住していたとされている。熊野別当は妻帯は許された僧職である。代々同一血脈であったかどうかは不確かである。紀伊続風土記の熊野別当家系図(筆者系図5)類似)は、別当家が主張した系図であるが、その出自部分に関しては藤原氏とは何等関係ない異説も多数あるようである。
「泰救」以降については尊卑分脈にも同様な系図が採用されているので、史実かも知れない。歴史上熊野別当が活躍するのは、「長快」以降なのでそれについて解説したい。
長快を藤原実方の子供だとする説もあるようだが、これは年代的に不合理なので採用しないことにする。
長快も、新宮を本拠地としていたと考えられている。系図6)では長快を長範らと兄弟になっているが疑問である。5)の方が色々な情報から妥当と考える。ところが5)では「湛快」と「湛増」の関係が、史実とは異なると判断する。この場合は6)の方が妥当で親子だと考える。
長快の子供に「長範」がおり、この子供が「行範」である。この行範の妻が源為義の娘である「鳥居禅尼」である。この女性は吾妻鏡にも登場する人物である。父の源為義は清和源氏の嫡流で源義朝ら多数の子女がいたことで有名である。何故、熊野という地方の僧侶の妻になったのかは、詳くは分からない。一説では熊野別当(どの別当かは不明)の娘「立田御前」と源為義が結ばれ生まれた子供が立田腹の女房と言われた後の鳥居禅尼であるともいわれている。しかも、この別当の娘に入り婿したのが湛快であり生まれた子供が湛増であるともいわれいるのである。筆者はこの説を採用しなかったが、このあたりの別当家の系図は色々ありどれが真実か不明だとされている。近親婚が行われて可能性も否定できないらしく謎とされている。鳥居禅尼は湛快の死後行範と再婚したという説もある。しかし、一連の源平合戦において、この女性が熊野の地で果たした役目は、目を見張るものがある。源行家・文覚上人・明恵上人・湛増・鈴木重家・亀井重清・湯浅宗重など熊野の色々な歴史的人物は、彼女がらみであったと言っても過言ではないのではと推測している。詳しくは後述する。
熊野別当家は、15長快の子供の代くらいから新宮別当家(本家)と田辺別当家(分家)に分離していくのである。16長範の流が「新宮別当家」であり、18湛快の流が「田辺別当家」である。田辺別当家は主に本宮大社、新宮別当家は速玉大社・那智大社をその勢力下に置いたのである。
田辺別当家は、本拠地を紀伊半島の西海岸の田辺(現:田辺市)に置き、本宮大社を支配下に置いた。18湛快は平治の乱(1159年)の時、隣地の豪族である湯浅氏と共に平清盛を助け大いに清盛に喜ばれ、恩賞も頂いた。以来暫く平家方の重要メンバーとなる。
一方新宮別当家は、1140年頃には上記鳥居禅尼が19行範の妻となり、その縁で子供らは総て源氏方に与したとされる。さらに禅尼の同母弟「源行家」は、新宮で育てられたとされており、平家追討の以仁王の令旨(1180年)を全国の源氏勢力に届けたとされている。湛快の子供「湛増」は、この時、平家方として新宮別当家を攻めている。その後両家は和解していた。「湛増」は配下に熊野水軍を有していた。また自分の妻は系図に示したように鳥居禅尼の娘である。1184年に源頼朝が挙兵した時、平家・源氏両勢力より味方になるよう要請が来た。困り果てた湛増は田辺の闘鶏神社で闘鶏により、どちらに付くべきか占ったという伝承がある。結果的には源氏方につき、壇ノ浦の決戦では約2,000名の熊野水軍を派遣して、源氏を勝利に導いたとされている。この湛増の参戦の可否がその後の日本の歴史を左右したとも言える。熊野別当家の威力がいかに大きかったかを知る話である。この功績により、鳥居禅尼は多くの領地を貰い女性では珍しい地頭にもなった。湛増も多くの領地を貰い、熊野三山の力は最高に達した。
その後別当家は、1221年承久の乱で上皇方についたため、これを境に熊野別当の勢力は著しく低下し、熊野水軍の統制力も失い、1300年代には歴史上からほぼ消え、逆にそれまで実権がなかった熊野三山検校(初代は「長快」の別当職就任と同じ1090年に「増誉」に始まった。)が実権を握ったとされている。京都の聖護院がその実権を握った。検校職は明治初めまで続いた。解説は省略する。
次ぎに別当家と九鬼氏との関係を筆者系図6)で簡単に解説しておきたい。
九鬼氏の系図も多種ありどれを史実とするかは、判然としない。本系図は代表的なものを筆者が他の公知系図と合体させたものである。九鬼氏といえば戦国時代に九鬼水軍と呼ばれた一種の海賊から戦国大名となり、最終的には、関ヶ原の合戦では徳川家康の東軍につき、江戸時代は大名になった一族である。
この系図で見ると、藤原摂関家の道隆流の末裔に九鬼隆信という人物が派生し九鬼姓を名乗りだした。この人物の孫「隆房」の所に熊野新宮別当家の「行遍」の流の「隆真」という人物の息子「隆良」という人物が養子として入った。以後この流が志摩国波切村を本拠地として活躍する。この4代孫の定隆の子供に「嘉隆」という人物が産まれるが、この人物が九鬼嫡流の澄隆の養子となり、この流が江戸時代に三田36,000石、綾部20,000石の藩主を産むことになる。という系図になっている。熊野別当家出身の大名はこの九鬼氏だけである。
8−4)湯浅氏系図解説・論考
紀伊熊野地方から発生した武将として忘れてはならないのが、「湯浅宗重」である。その出自に関しては諸説ある。本稿に示した系図は、藤原秀郷流説に基づくものである。
この一族は、平安時代末期(平治の乱1159年)に紀伊国在田郡湯浅荘(現:和歌山県有田郡湯浅町青木)を本拠地として「湯浅宗重」の時、歴史上に突然出現した氏族である。
宗重の父は藤原宗光(宗永)といい、1099年頃湯浅郷にいたことが、粉河寺縁起にある。母は、熊野国造系の和田良村の娘(前述)を妻として産まれたのが宗重である。
1143年に湯浅荘に湯浅城を築き居城とした。1159年熊野詣に来ていた平清盛に平治の乱の勃発を告げて、熊野別当の湛快とともに帰京を助けた。これが縁となり平氏方に付いた。その後、源頼朝の挙兵後も平氏方について源氏に抵抗したが、1186年「文覚上人」の仲介により鎌倉方に付き、所領を安堵された。宗重の娘が紀伊国で産んだのが、有名な「明恵上人」である。宗重の息子に「文覚上人」の弟子となった「上覚上人」がおり明恵はこの叔父の弟子となったのである。文覚上人からみれば孫弟子である。文覚上人は頼朝挙兵の時から源氏の裏方として、源行家とともに活躍した人物である。熊野とも非常に関係あった人物で若い頃、那智大社で修行しており、熊野新宮別当「行範」の妻である鳥居禅尼とも親交があった。よって宗重が平家滅亡後でも恩義を感じ平家方について頼朝に抵抗していたのを和解させ湯浅氏の滅亡を防いだとされている。
この時以降湯浅氏は、熊野古族である、鈴木氏・和田氏、熊野別当家とも婚姻関係を通じて深く関わってきたことが、系図上から窺える。そして着実に勢力を伸ばした。湯浅氏の活躍時期は概略1159年から南北朝頃までであろうか。
この嫡流系は、その後丹波国に移動したらしい。京都府日吉町誌掲載系図によると、その一派は世木郷を領していたようだ。この世木郷を領した湯浅氏は、戦国時代に、丹波の守護であった管領「細川勝元(1430−1473)」の息子「勝之」が湯浅宗祐の娘を貰い、その間に産まれた子供「宗正」が湯浅氏の養子となり、宗正の娘が「細川藤孝」と結ばれ「宗清」という男子を産み、この宗清がさらに湯浅氏に養子となり、世木の湯浅氏は細川氏の血脈となったとされている。その証拠として、この流の湯浅氏の家紋は細川藤孝の子供「忠興(細川ガラシャの夫)」と同じ九曜紋である。筆者が調べた範囲では、細川氏側の系図には、このことは記されていない。非常に興味のあることである。筆者の住する京都府長岡京市には細川藤孝が織田信長から賜った勝竜寺城がある。忠興と明智光秀の娘お玉が結婚をしたのもこの城である。系図では、前述の宗正の子供「宗貞」の時武士を止め帰農したとある。則ち細川藤孝の子供「宗清」は、その帰農した世木湯浅氏を継いだことになっている。郷士という扱いであったとされている。細川氏は、その後もこの湯浅氏を親族として明治まで付き合ったと記録されている。
一方の湯浅氏は戦国時代に毛利氏に付き、萩藩士となったともされている。
8−5)「熊野の神々の歴史」解説・論考
穂積氏を理解する上で、言い換えれば穂積姓鈴木氏を理解する上で避けて通れないのが熊野地方にある神々の歴史である。大和に隣接しておりながら険しい山々に阻まれて、古代より大和の中央部分とは隔絶した文化圏にあった所とされている。
熊野に関しては記紀に幾つかの記事がある。日本書紀の神代の話として「伊弉冉尊が火の神を産んで亡くなられたので紀伊国の有馬に葬る」、という記事が一番古い記事とされている。これと類似の記事が古事記にもあるが、伊弉冉尊が葬られたのは、中国地方の比婆山とされている。この日本書紀の「紀伊国有馬」というのが、現在の三重県熊野市有馬町上地にある「花の窟(いわや)」だと伝承されている。この伊弉冉尊と後世呼ばれるようになった神こそ、縄文時代よりこの地方で祀られてきた産霊神であり、速玉大社・那智大社の祭神である熊野夫須美命又は結神の原型であるという説がある。同じく神代その一書に速玉之男の記事がある。古事記には対応する記事がない。この場合速玉之男は伊弉諾尊の唾から生まれた子供として登場する。
次ぎに記紀に登場するのが、神武東征伝において、神武天皇が八咫烏・高倉下らの助けにより熊野から大和へと進出することになる一連の記事がある。この中で熊野での上陸地点が古来より色々議論されてきた。日本書紀神武即位前紀6月23日の項には「ーーー狭野(新宮市佐野)を越えて、熊野の神邑に着き、天磐盾に登った。ーーー」とある。現在の新宮市にある神倉神社(天磐盾の山比定地)がその候補地になっている。勿論異説も沢山ある。神武東征そのものが史実とは思われていない現在、これも伝承神話の部類としておきたい。但し少なくとも日本書紀編纂の720年頃には「熊野神邑」という非常に古くからの神を祀った場所があったということが伝えられていたことは間違いない。
次ぎに熊野地方の伝承として伝わっているのが秦の始皇帝の命で不老長寿の仙薬を探しに「徐福」という人物が日本列島にやってきて、熊野の阿須賀神社(甘南備・蓬莱山)付近で上陸したという話がある。(日本列島での上陸伝承地は多数ある)一説では孝霊天皇の時であったともある。
「熊野略記」によると、神武朝にインドのマカダ国より熊野権現が日本の色々の場所を経由した後、石淵に「結速玉、家津御子」の二宇の社を造ってお鎮まりになった。のちに崇神天皇の時「家津御子」だけが熊野川の上流の本宮櫟木に天降って、社殿を設けて鎮まった、とある。(解釈では三神総てとも考えられている)
この熊野権現誕生伝承は古文書により微妙に異なる。どこから来たか、どの時代かが定まらず、また神仏習合思想で脚色されているため、そこから史実を探ることは不可能と思われる。
参考までに、現在伝承されている3山の創建時代としては、熊野本宮大社は10崇神朝、熊野速玉大社は12景行朝、那智大社は16仁徳朝だと一般的には、されている。
これが史実であることを証明するものは何もない。但し、遺跡発掘調査の結果では、上記花の窟(いわや)付近からは、縄文時代・弥生時代の遺物が大量に出たとされている。
阿須賀神社付近からは弥生時代から古墳時代の集落跡などが発掘されている。
非常に古い時代から、この地には人々が暮らし、自然物崇拝の原始信仰神みたいなものが祀られていたことは、間違いないこととされている。
元々は本宮社(熊野坐神社)・速玉社・那智社には、それぞれ独立した自然神が祀られていたのが、どこかの段階で熊野権現思想みたいなもので統一された三所権現を、どの神社も祀るようになったと考えられている。勿論これは我が国に仏教が伝来して以降のことである。
熊野権現垂迹縁起・大峰縁起・熊野年代記などなどから窺えるのは、熊野での古い神社の順番は「神倉神社」ー>「阿須賀神社」ー>「本宮大社」ー>「速玉大社」ー>「那智大社」のようである。本宮・速玉・那智が後年になって熊野三山と呼ばれ、神仏習合の修験道の場となったのである。
本宮社の主祭神は家津御子(熊野坐大神)で現在では、素戔嗚尊又は国常立命のこととされている。速玉社の主祭神は熊野速玉命・熊野夫須美(結)命とされており、前者が伊弉諾尊で後者が伊弉冉尊とされている。
以上の熊野の神々の正体は古来色々言われてきたが、謎である。
夫須美(結)神を伊弉冉尊に比定するのは「産」神のご先祖的存在としてある程度理解できる。問題は速玉神である。これは古より男神と考えられてきた。速玉之男神とも記されてきた。日本書紀の一書には伊弉諾尊が伊弉冉尊の死後黄泉の国にイザナギが追いかけて行ってイザナミに合った後離婚しようとしたときに、イザナギの唾から生まれた神ということになっている。これが何故イザナギに比定されるのであろうか。この日本書紀の記事とは異なる速玉命と称する神がいたのであろうか。
さらに家津御子はどこにも関連文献がないのである。素戔嗚尊だとすると、イザナギ・イザナミの子供または、イザナギの子供とされている出雲系の神さんの原点みたいな存在の神である。謎である。ニギハヤヒ系の一族が何故このような神々を祀らなくてはならなかったのであろうか。謎である。要するに熊野三神は現在からみても謎だらけの神であると
言われている。これが神仏習合して何が何やらさっぱり分からないのである。どうも大昔の人たちも分からなかったらしい。そこで家津御子神を阿弥陀如来・速玉神を薬師如来・
結神を千手観音として仏教的な意味づけがされたようである。
那智社の主祭神は熊野夫須美命である。勿論那智滝の神「飛竜神」が原点的な神であったことは間違いないとされている。
本宮と速玉に関しては難解である。現在でも諸論あるようである。概念的に記すと
@熊野本宮大社は、熊野三権現の総元締め的神社で元々この地に家津御子・速玉・結神が祀られていたのである。そこから分家して新宮として熊野速玉神社が出来て、速玉・結神がそちらに遷られ祀られたのである、と言う説。
A熊野権現は先ず神倉神社に降臨し、次ぎに阿須賀社対岸の石淵に勧請され、この時初めて「結早玉家津美御子」と称された。次ぎに家津美御子だけが先ず(崇神朝に)現在の本宮という場所に遷されて祀られた。次ぎに三所権現の元宮である神倉神社より結神早玉神の2神を新宮として現速玉神社に遷され(景行朝)祀られた。上記本宮に対する新宮ではなく、元宮に対する新宮だという説。
新宮という意味に主に上記2通の解釈が古来からあったようである。
那智社の主祭神が「結神」になったのは、速玉からの分祀(仁徳朝)であることは間違いなさそうである。
B熊野三山表記の初見は1083年の「熊野本宮別当三綱大衆等解」であるとされている。
元々原始自然神を祀っていたものが、史実として社を持つ神社にどの時代になったかは、上記3社とも正確には全く不明である。
系図に残されている人物で穂積朝臣濃美麿が熊野神社の禰宜となり紀伊国牟婁郡に住むとあるのが、天武13年(684年)頃と推定される。また熊野直土前が熊野大神の奉斎に任ずとある。これが初代熊野国造大阿刀足尼(成務朝)の7代孫である。その子供「高屋古」が牟婁郡大領となると記されている。646年に熊野国は廃され紀伊国牟婁郡が誕生した。またその4代孫に「牒」という人物が熊野連姓を延暦14年(795)に賜ったとある。これから熊野直土前の生存年代を予測すると600−650年頃の人物と推定出来る。
穂積朝臣濃美麿と熊野直土前は、ほぼ同時代か土前が1代前くらいの感じである。となると600年から700年くらいの間に熊野本宮(熊野坐神社)及び熊野速玉社が存在していたことが推測出来る。当時未だ仏教の影響を受けていない形で、禰宜職が実権を持っていたと思われる。
熊野直氏が熊野に住み始めたのは成務朝だと仮定すると、熊野本宮が社として存在し、その神職として熊野直氏が国造職として神を祀っていた可能性は否定出来ない。
穂積氏が熊野に移り住むのは系図上では穂積朝臣濃美麿以前には遡れない。よって熊野速玉社の歴史は680年代以前には人物的には遡れないのである。
一方那智社の開山が裸形上人であるという伝承がある。仏教系の人物であるが、諸説ある。、本稿系図を参照のこと。
我が国の山岳仏教・修験道の歴史はその開始がいつ頃かは、はっきりしていない。(宇佐氏考・賀茂族考Uなど参照)一説では、公式の仏教伝来(538年)より遙かに以前の雄略朝頃には既に九州ではそれらしき活動が見られたともされている。
熊野権現誕生伝承には、我が国の山岳修験の山々を九州から東へと経た後、熊野に達したことが記されている。その年代は仏教伝来より遙かに大昔となっている。これをそのまま史実とすることは出来ない。しかし、これは仏教色で修飾された熊野権現誕生説話である。
熊野の修験道の開始をいつ頃とするかに関しては、諸説あるようである。
@裸形上人:16仁徳天皇時代(一説では孝昭天皇朝)にインドから渡来した裸形上人が那智滝に如意輪観音を本尊として安置し、これが青岸渡寺(西国33札所第1番札所)の開基とされている。同時に熊野那智神社の創建者ともされている。(異説多数あり)
また現在の東牟婁郡勝浦町浜の宮に補陀洛渡海で有名な「補陀洛山寺」がある。ここも裸形上人が開基とされている寺である。
A769年興福寺沙門「永興禅師」熊野村に住む。(日本霊異記)法華経を流布。
B役行者(634?−706?)が7世紀後半に吉野修験道道場金峰山寺を開基した。
この影響が熊野にも及んだという説。
元々の熊野神であるはずの「結早玉家津美御子」がいつ頃誕生し、どのように熊野各社に祀られていったかが問題である。
そもそも、日本の古い神社創建時期は、史実的には大抵不明である。
出雲大社・伊勢神宮・阿蘇神社・三輪神社などについては、既稿で述べてきたのでそれを参考にして貰いたい。
ところで、記録に残っていることで筆者が分かり難いことがある。
@806年の新抄格勅符抄(熊野祭神史料初見)の記事に766年に速玉神・牟須美神に神封四戸が与えられた、とある。この記事の解釈として、熊野速玉神社と熊野本宮神社(熊野坐神社)の2社にそれぞれ神封四戸が与えられたという説と熊野速玉神社だけに神封四戸が与えられたのであるとする説がある。
おなじく806年の新抄格勅符抄(熊野祭神史料初見)の記事に孝謙天皇朝に「日本第1大霊験所」の勅額を賜ったとあるが、これが熊野速玉神社なのか熊野坐神社なのか、両社なのかがはっきりしない。速玉大社の由緒書にはこの記事が明記されているが、本宮大社の由緒書には書かれていない。
A日本紀略・扶桑略記などの記事に859年本宮・速玉両社に従五位上となる、907年に本宮は正二位、速玉は従一位となるという記事がある。
明らかに朝廷は本宮より速玉社の方を上位に考えていたと思われる。
B927年延喜式で両社は大社となる。那智社はこの段階では神社扱いになっていない。C1090年白河上皇熊野御幸の際、熊野別当「長快」が任命される。別当家は新宮にあったとされる。後年になって分家が本宮に住む(田辺別当家)ことになる。本宮の別当家は分家扱いになっている。
D全国にある熊野神社の総元締めは、速玉大社であるとされている。
信仰上の問題が色々あるものと思われるので、ここでは、これ以上のことは記述しないが、熊野三山といっても中味は非常に複雑怪奇な歴史を経ているものと推定される。
さらに謎は、熊野神の神の使いは「八咫烏」とされている。神武東征伝に登場してくる人物である。これは一般的には賀茂県主族の始祖とされている人物である。
ところが熊野では全く賀茂氏については伝承が無いのは何故なのか。
いずれにせよ、907年に宇多上皇が初めての御幸をされた後、1090年には白河上皇の最初の御幸がされ、これ以降12回も熊野詣でがされ、熊野三山信仰は、朝廷の厚い加護もあり全国的な民衆の支持も得て異常なまでの発展を遂げるのである。
1125年以降、鳥羽上皇は23回の御幸を、1160年以降34回も後白河法皇の御幸は続いた。鎌倉時代に入っても1198年以降28回も後鳥羽上皇の御幸が続いた。
上皇らの参詣回数は文献により色々異なるが、その規模の大きさは、一行の人数が数千人というものも度々あったとされている。熊野信仰は、阿弥陀信仰・観音信仰・補陀洛信仰・浄土信仰などの仏教的なものと熊野神という日本古来の神々が合体した熊野権現信仰という独特な信仰体系をとり、現世とは、ある種の隔絶した秘境にあることも関係して、平安末期頃より東国を中心とした武家層に普及し、特に地頭クラス・荘園領主クラスが参詣したとされている。
この頃は、一般庶民クラスは、これらの武家層の付き人として参詣していたようである。
南北朝以降は、畿内の農民クラスにも拡大していった。しかし、その後の熊野信仰の中心勢力は東国・東北地方の農民層だったとされている。江戸時代は「蟻の熊野詣」「蟻のとわたり」と言われるほど繁栄したのである。明治になり、神仏分離などの影響もあり、一挙に衰退した。これが最近になり新たな観点(熊野古道・世界遺産指定)から見直され多くの観光客を呼びようになって活況を呈しているのである。
8−6)穂積氏・熊野国関係全般論考
紀伊半島の熊野国と古代に呼ばれていた地域は646年以降紀伊国牟婁郡と呼ばれるようになった。現在の和歌山県南部と三重県西南部一帯である。熊野という地名は日本には幾つかある。有名なのは出雲国にある熊野である。古来この出雲の熊野と紀伊の熊野は多くの点で混同されてきた。出雲にも熊野大神・熊野神社があり、出雲一宮とされ出雲大社より格上の神社とされてきた。祭神は素戔嗚尊であるとされている。(異説もある)紀伊半島にも多くの出雲系の神々を祀った古い神社がある。そもそも「熊」は「隈」に通じ辺境の地、野蛮な氏族が住む地とも言われてきた。紀伊半島の熊野国はまさに辺境の地であった。しかし、近年になって発掘調査が多数行われ、縄文時代・弥生時代の多くの遺跡が発掘され、大昔から人類が住み独特の文化を持っていた地域であったことが明らかにされてきた。特に海岸線の新宮・熊野・那智勝浦付近の古い伝承が残されている寺社付近ではその伝承を裏付けるかのような遺跡が発見されているのである。
記紀神話・神武東征伝・寺社伝などは何かの人間の歴史を投影している可能性が窺えるのである。筆者が特に興味を引くのは、神武東征伝に出てくる上陸地点の熊野神邑という言葉である。現在この地点は新宮市付近とされている。新宮市の神倉山付近から銅鐸が発掘されている。正に青銅器文化が及んでいたことを物語っている。また、有馬の「花の窟」付近では縄文遺跡・弥生遺跡が混在している。ここは伊弉冉尊神話の伝承地である。
熊野国最古の神社だという牛鼻神社・神倉神社・阿須賀神社などに伝わる伝承も無視出来ない。
またこの辺りには高倉下神話みたいなものも根強く残っている。併せて本稿の主目的である穂積氏・鈴木氏に関係する千翁命伝承も残されている。
熊野の神々を祀ってきた氏族は、高倉下の子孫・千翁命の子孫であるとされているのである。いずれもニギハヤヒの子孫だといわれているのである。物部氏と同族である。
一説では、ニギハヤヒで代表される氏族は青銅器文明を持って鉄器文明を持った神武天皇系弥生人より先行して近畿地方に入ってきた弥生人だともされている。
一説では、ニギハヤヒ族が九州から大和地方へ東征?する際に、主流は、河内生駒山付近から大和に入り、もう一つの勢力は、熊野国付近から上陸し、これがニギハヤヒの長男とされる高倉下命の勢力であり、高倉下らはその後、葛城山付近に本拠を置き、これが古代豪族「尾張氏」の派生へと繋がったというのである。
一方青銅器文明を持って先行したのは所謂出雲神族というニギハヤヒ族とは別氏族の弥生人であるとも言われ、筆者のようなアマチュアには未だ理解出来ていない。出雲神族ー>ニギハヤヒ族ー>神武天皇族という構図も考えられるし、出雲神族(銅剣)−>ニギハヤヒ族(銅鐸)とも考えられる。 いやそうではなくて、ニギハヤヒ族も初期の鉄器文明を有していた弥生人でこれがやがて古墳文化の草分けとなったのであるともいえるらしい。
いずれにせよ、この新宮市付近に甘南備山を有し、自然信仰の対象となる神を祀っていた集団がいたことは間違いないであろう。縄文人とも融合し、彼等が祀ってきた神々も併せ祀ってきたのであろう。これが熊野坐神(後の結早玉家津美御子神)の原点みたいな姿であっただろうと推定するのである。これが現在では、素戔嗚尊(国常立尊)・伊弉諾尊・伊弉冉尊と比定されている神々である。これらの神々を最も古くから祀ってきた一族が所謂熊野三党、三苗と言われた鈴木・榎木・宇井氏と言われた氏族である。一説ではいずれも穂積氏から派生したとされているが、現在ではそれぞれ別々の氏族出身と考えるべきだというのが通説のようである。その中で鈴木氏だけは古代豪族穂積氏出身であるという説が濃厚である。
筆者はこの問題を別の角度から次のように考えたいのである。
@元々熊野国辺りには縄文人、前期弥生人などが融和しながら原始信仰神を祀ってくらしていた。
Aそこへ新文化を持ったニギハヤヒ族の一族が入ってきた。そして先住者と融和しながら元々の神々と自分らの神々を融和させてそれを祀った。
Bその中から神を祀るのを専門にする一種の神官みたいな存在が発生した。その中に通称穂積又は鈴木と呼ばれる一族が生まれた。
Cその一族は世襲的に神官的な役割をしてきたが、やがて自然神であった速玉神・結神を社の中に祀るようになった。この時期は、はっきりしない。
D初期のこの社を祀っていたのは、伝承としてニギハヤヒを元祖とし、高倉下・千翁を始祖とする氏族が婚姻を通じて融合したニギハヤヒ族裔で、これがやがて固定化してその氏族が屋号的に穂積または鈴木を名乗るようになった。
E継体朝以降6世紀になり、原初的な社から社殿(速玉社)らしきものが築造されたと推定(他の神社の社殿創建時期なども考慮して)される。
Fその後680年前後に中央で活躍している自分らの同族であると伝えられている古代豪族であり貴種である貴族の「穂積朝臣濃美麿」を自分らの娘婿として熊野新宮に迎え速玉社の禰宜としたのである。
G熊野に元々いた鈴木氏には系譜みたいなものは存在していたとは思えない。伝承として現在でいう千翁命、千与定、大水口宿禰 という祖先の名前が文字ではなく、口承として記憶されたいたのであろう。この濃美麿は貴族であり、一種の系譜伝承は有していたものと思われる。この段階で穂積姓鈴木氏が誕生したと考える。
Hこの濃美麿以降もこの鈴木氏の名跡は、兄弟継承なども行われ、複雑な一種の系図伝承が発生したものと推定される。これは地方豪族の場合、中央貴族と異なり、官位・官職などの問題がないために系譜的な価値観が低いため致し方ないことである。
I速玉社が766年に朝廷から認められる神社になったのは、古代豪族穂積朝臣氏の力によるものであろう。(日本書紀に熊野神邑などの記事を情報として提供したのも穂積朝臣氏かもしれない。)
Jこの穂積朝臣濃美麿の流が熊野速玉社の神官の世襲一族となり、1090年の白河法皇の熊野御幸頃までは新宮の速玉社で実権を握って活躍したと思われる。
即ち、穂積姓鈴木氏というのは、ニギハヤヒ系一族ではあろうが、元来弥生時代から熊野神を祀ってきた熊野土着の穂積氏(鈴木氏)と中央で活躍してきた古代豪族穂積氏が縁あって融合した氏族だといえる。
Kこの速玉社の神官の鈴木一族の中心的人物が、時代ははっきりしないが、熊野別当家が実質的な支配権を有した1070年以後紀伊国藤白にあった藤白神社に神官として移った、と推定される。この一族が、熊野穂積姓鈴木氏の名跡を継いだと考えられる。この嫡流から有名な鈴木重家・亀井重清兄弟は輩出されるのである。
L一方、4世紀の末頃には穂積氏と同族の大阿刀氏が熊野国造となって新宮付近に赴任し、その子孫が代々国造を世襲していた。
Mはっきりした年代は分からないが、少なくとも速玉社よりは早い時期に熊野坐神を祀る熊野本宮を創建し、そこの神官の一人として大阿刀氏の末裔である熊野直氏が就いた。
N646年熊野国が廃された時、熊野直土前が熊野大神を奉斎したのである。以後世襲的に熊野直氏が神官の一人として熊野本宮を祀ったのである。
O646−1090の間に熊野の神々は仏教の影響を受け、特に修験の場となり、那智社も含めた熊野三山信仰という日本有数の神仏習合の信仰の場となった。
それに併行して熊野直氏の熊野本宮での立場は衰えたと考えられる。
P穂積氏・鈴木氏・熊野直氏・高倉下裔氏など総てニギハヤヒ系の一族が、ある時代まで辺境の地熊野でお互いに婚姻を繰り返し競争しながら共存して文化を発展させてきたのであろうことは、想像に難くない。この勢力関係が一変するのは、仏教文化の侵入であり、平安時代以降の貴族文化の浸透によるものと考えられる。
Qさらに熊野が歴史的に注目を浴びるようになったのは、平安末期の源平合戦の時の熊野別当家の活躍、藤白鈴木氏出身の鈴木重家らの活躍である。
R何故全国的、特に東国において現在の名字として鈴木姓が多いのかという問題は上述した諸々の因子が複合的に合わさった結果だと判断する。これを史料的に解明出来る段階には現在は、未だ至っていないと判断する。
Sどうであれ、「鈴木」という姓(せい)は、日本の原初的な姓の1つであることは間違いないと判断する。
以上であるが、これを証明する史料的根拠は無いことをお断りする。
全体的に概観した結果の感想みたいなものである。
熊野については、これから科学的メスを入れてさらなる研究が必要である。
大和以外の日本文化を探る貴重な情報がこの地には、その後の破壊を免れて多く眠っていると思われる。
この謎多き熊野の神々をめぐる神秘のベールはこれからもそう簡単には拭えないと思う。熊野古道は益々多くの日本人の心を捉えることであろう。
9)まとめ(筆者主張)
@古代豪族「穂積氏」が実在したことは間違いない史実と判断する。但しその元祖が物部氏と同じニギハヤヒであるということは、確かめる術がなく記紀・先代旧事記・新撰姓氏録などの古文献を信用するしかない。それによると穂積氏の祖とされる「大水口宿禰」はAC300年頃の人物と判断する。
A穂積氏として記紀上有名な人物は倭武尊の妃となった「弟橘媛」と、512年の継体朝での百済割譲問題で記事となった「穂積臣押山」・万葉歌人である穂積臣老など数名が知られるているだけである。奈良時代を通じて中央朝廷に関係した人物がいたことは系図から推定出来る。勿論「弟橘媛」伝承を史実とすることには問題あり。筆者は何故物部氏が連姓氏族なのに同族であるはずの穂積氏が臣姓氏族とされているのかの疑問が解けないままである。穂積臣氏は、685年の八色の姓の制度の導入の際に物部連氏と共に朝臣姓となった。
B穂積氏の名前が後世まで続いたのは、紀伊半島の熊野地方に派生したとされる穂積姓鈴木氏である。これは、はるか後世に造られたと思われる亀井系図によれば、前述の穂積臣押山の孫「祖足」の子供「古閉」の流れで穂積朝臣濃美麿という人物が、紀伊国牟婁郡に移り住み熊野速玉社を奉斉したことに始まると考えられる。以来この一族が速玉神社の神官になったとされている。685年頃のことと推定される。これが史実かどうかは定かではない。
C766年に熊野速玉神・牟須美神に神封四戸賜る。これが熊野神が朝廷の記事に載った
最初とされる年代である。
D1163年長寛勘文が編纂され「熊野権現御垂迹縁起」が熊野縁起の現存する最古の記録として残された。この中に上述の穂積姓鈴木氏の発生など多くの熊野に伝承された熊野神・熊野権現誕生伝承が記されている。これと上述Bの亀井系図は時代的に大きな乖離があると判断する。
E熊野の鈴木氏に関しては、所謂鈴木系図(藤白鈴木氏)と言われるものもあるが、上述亀井系図とは異なる多数の系図が存在する。いずれも平安時代末期頃までのものは、まともには信じられないものとされている。筆者もそれは致し方ないものと判断している。
F筆者は前項の考察でも述べたように、熊野の鈴木氏に関しては次のように推察している。
・熊野速玉神社社殿がいつ頃創建されたかは、定かではない。(社伝では景行朝となっている)
・前記亀井系図の穂積朝臣濃美麿の記事をそのまま信用するわけにはいかないが、何らかの意味が内在していると仮定すると、この頃(685年頃)には速玉神社の社殿らしきものが創建されていたのではないかと推定される記事である。さらにこの頃中央にいた貴族穂積氏から僻地熊野にいる自分らと同一元祖を有していると伝承されている熊野の鈴木氏へ養子または猶子の形で穂積朝臣濃美麿(人物名が正確かどうか別)が派遣されたことを記録に残したのかもしれない。
・即ちこの段階で熊野の鈴木氏は穂積姓鈴木氏になったのである。よってこれ以降中央にいる貴族穂積氏と熊野との交流が深まった。
・奈良時代に編纂された日本書紀などに熊野の記事が断片的にではあるが掲載されたのは穂積氏の影響であるという説は、支持できる。
・この穂積朝臣濃美麿の裔だけが、それ以後の速玉社の神官を受け継いだかどうかは定かではない。熊野縁起に記されたような従前から熊野にいた鈴木氏一族および濃美麿の裔などが渾然一体になって、ある段階まで熊野速玉神社を祀ってきた可能性も否定できない。色々な系図が存在するのもそのせいかもしれない。
以上より熊野に発生した穂積姓鈴木氏は、古代豪族「穂積氏」の直接的な末裔だけではなく色々複雑な血脈が絡んで発生したと考えたい。熊野直氏裔説・高倉下命裔説なども存在しているがいずれも確証はない。筆者は熊野鈴木氏のご先祖は、穂積氏に拘らず途轍もない古い古代熊野の血脈を引いている一族と認識する。
G熊野鈴木氏が歴史上はっきりするのは、平安末期の鈴木重家・亀井重清からである。この2名が史実として存在していたことは間違いないと判断する。
H重家・重清兄弟は源平合戦記事で有名になった人物である。
I鎌倉時代以降、熊野権現信仰は全国的規模で拡がり特に東国には多くの熊野神社が創建され、それらの神社の神官・宮侍は熊野の鈴木氏(藤白鈴木氏)から派遣されたとされている。これが全国的に鈴木姓がその後爆発的に増大し、日本の名字の代表的な姓となった理由だとする説が有力である。真偽の程は筆者には分からない。
J重家・重清兄弟の裔の多くは武士層・在庁官人層になったとされている。
K亀井重清の裔は江戸時代に津和野藩藩主となった。
Lそもそも亀井重清は、熊野鈴木氏に佐々木源氏から養子に入ったという説を支持する。
その後の亀井氏の動きから佐々木源氏系との関係は非常に強いものがある。
M鈴木重家の裔としては、伊予国土居氏・紀伊国雑賀氏が有名である。嫡流は藤白神社の神官家であった藤白鈴木氏とされている。
N熊野穂積姓鈴木氏に関係したと思われる氏族は、イ.ニギハヤヒを元祖とし、熊野国造だったとされ、熊野本宮大社の神官を世襲した熊野直氏。後年和田氏となりかなり詳しい系図が残されている。ロ.平安時代に熊野に台頭してきた熊野別当家。ハ.平安時代末期に紀伊国に出現した湯浅氏。などがある。
O熊野直氏は4世紀成務朝に大阿刀足尼が熊野国造として熊野国に赴任して来てその裔が熊野国造氏、熊野直氏となったとされている。その後熊野坐神を奉齋し熊野本宮大社の神官を世襲したとされている。これも史実は謎である。
P熊野別当家の初代は812年初代熊野別当「快慶」だとされているが、史実とは信じられていない。熊野別当職が中央から明確に認められたのは、別当「長快」が1090年の白河上皇の熊野御幸に際し別当職に任じられてからだとするのが通説。これ以降鈴木氏ら熊野の各神社の神官らの勢力が低下したことは間違いない。歴史上でも熊野別当関係者の活躍が色々記録されている。「湛快」「湛増」親子、「鳥居禅尼」など
Q熊野神信仰の源は縄文・弥生時代に遡るとされている。それは別にして、仏教の影響が未だ入ってない熊野神の神社の社殿等の創建時期は未だ不明である。筆者は600−700年頃には熊野坐神社(本宮)、熊野速玉社が存在していたと考える。少なくとも700年以降になり山岳仏教・修験道の影響が熊野地方に及び古来の熊野神と習合して熊野権現信仰が出現したと考える。
R奈良時代に入り、神社への神封付与、日本第1大霊験所などの称号も朝廷より与えられ
中央にも認められたと判断する。平安時代907年の宇多上皇御幸を最初として鎌倉時代にかけて熊野権現信仰は貴族・武士階級に急速に広まった。
S熊野古道・熊野詣などが庶民レベルにまで普及してくるのは、鎌倉末期から室町時代にかけてである。特に江戸時代はそのピークを迎え「蟻の熊野詣」などといわれた。明治維新の神仏分離・廃仏毀釈運動により熊野詣は、激減し熊野は忘れられた所となった。これが2004年「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産として登録され「熊野古道」は復活したのである。新たにこの日本古来の霊地は、見直されているのである。
10)参考文献
・「熊野大社」(改訂版) 篠原四郎 学生社(2004年)
・「日本の神々の辞典」 園田稔ら 学習研究社(2002年)
・「熊野修験」 日本歴史学会編集 宮家 準 吉川弘文館(1996年)
・「熊野詣」 五来 重 講談社(2009)
・「姓氏家系大辞典」 太田 亮 など多数。
・フリー百科事典ウイキペディアの各種関連hp
・その他関連の多数のhp など
・www.iris.dti.ne.jp/~min30-3/suzukisaika/fujisiro.htm
・kawa-k.vis.ne.jp/chiikisi/asiato1.5.htm
(脱稿:2010−3−15)
<あとがき>
前稿を脱稿して以来約1年ぶりの稿である。個人的に非常に忙しかったこともその理由であるが、執筆中に色々疑問が発生し、その解明のための史料探しに手間取った。
非常に難解な氏族であった。鈴木姓は日本の代表的な名字である。慎重にならざるをえなかった。これほどの氏族・名族でもその足取りを真に究明することは、不可能であるというのが現実であることを痛感した。朧気な概略はつかめたような気はしているが、いかがであろうか。
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