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34.度会氏・荒木田氏考(副題:伊勢神宮考)(含:伊勢神宮関連氏族)
1)はじめに
 筆者の出身地は広島県尾道市である。この辺りでは少なくとも昭和30年初め頃までは中学校の修学旅行は、どの学校も京都・奈良そして伊勢方面であった。筆者も生まれて初めて京都の金閣寺・銀閣寺・清水寺などを見て驚き、興福寺・春日大社・大仏を見て、奈良公園の鹿と楽しんだ。そして伊勢の下宮・内宮にお参りして、子供ながらに他の神社とはその規模の大きさに驚嘆し、また何かしら雰囲気が異なる神社であるなと感じた。二見浦の宿ではご多分に漏れず枕投げをして教頭先生から叱られた記憶が残っている。勿論伊勢神宮がどんな由緒があったのか、説明があったかもしれないが、全く覚えていない。
筆者の中学時代の社会科の先生の一人に伊勢の「神宮皇學館」出身の方がおられた。筆者の家の氏神さんであった八幡神社の宮司さんであった。「神宮皇學館」といえば全国のお宮さん関係の子弟の教育機関であり、神主養成専門の大学であった。
この先生は非常に温和なお方であった。少なくとも当時伊勢神宮に関して特別な話を授業でされた記憶はない。
その後には筆者の大学時代に、伊勢出身の友人がいたので夏休みに遊びに行った記憶がある。会社に入ってからは慰安会などで度々参拝した。しかし大抵は内宮だけだったような記憶である。
この神社が日本の神社の中でも特別な神社であることを認識したのは相当後になってからである。戦前教育を受けた方々から見ればびっくりされるでしょうがね。
私達の世代は、靖国神社も橿原神宮も伊勢神宮も全く教育の場には登場しなかったように思える。
筆者がこの「古代豪族」シリーズを書き始めた動機の一つにこの問題が内在していたことは事実である。
日本には多くの古いお寺さんが沢山ある。これは詳しくは難しいのであろうが、インドで誕生したお釈迦さんの教えを日本に広めるために造られた施設であることでは皆同じであるようだ、と認識していた。
ところが日本全国いたるところにある神社は一体何の為に造られた施設なのか、誰を祀り、その謂われは何なのかさっぱり分からない。誰もまともに教えてくれない不思議な存在であった。この辺りのことは本稿の「古代豪族入門」で記した通りである。
筆者の父が存命の間は筆者の子供の時から、毎年の晦日の晩になると父親は座敷の床の間の掛け軸を丸い赤い太陽が描かれた天照皇太神宮と確か書いてあったものに掛け替えていた。確か正月一杯掛かっていたような思い出がある。これと伊勢神宮が関係があるなんて、筆者が相当大きくなってから分かったことである。
本稿はこの伊勢神宮に関係した古代豪族「度会氏」及び「荒木田氏」を中心とした色々な氏族について解説をし、色々な謎に挑戦してみたいと思っている。
この両氏は古代豪族といっても地方豪族で非常にマイナーな感じを受けるが、日本の神の中の神とされた皇祖神「天照大神」の祭祀氏族として営々と続き、少なくとも江戸時代以降は公卿家という高貴な存在となり、明治になってもその嫡家は男爵家を拝命した一族である。
この両氏は大昔より余り仲の良かった間柄ではなかったようである。
伊勢神宮の創建にも携わった氏族であるとされている。大和王権の確立・天照大神神話の
誕生・日本神道の誕生など未だ謎の部分にも関与してきたものと思われる。
筆者みたいなアマチュアが調査出来る範囲で調べ、出来るだけクールな考察を行いたいと思っている。
2)度会氏人物列伝
 度会氏は神代から明治時代まで続いた古代豪族である。人物列伝は筆者創作系図に従い二門本流(明治時代男爵家を出した流れ)とされた一族を中心に記すこととする。
・神皇産霊尊
・天底立
別名:天曽己多智
・天嗣杵
別名:天嗣桙・天副杵
・天鈴杵
別名:天鈴桙
・天御雲
 
・天牟良雲(天牟羅雲)
@天神本紀:度会神主等の祖。
A豊受太神宮禰宜補任次第:別名:天二上命・小橋命。神魂命の第1子「櫛真乳魂命」の子、「天曽己多智」の子、「天嗣桙」の子、「天鈴桙」の子、「天御雲」の子也。
B二所太神宮例文「度会遠祖奉仕次第」:天牟羅雲命・天御中主尊12世孫天御雲の子。
C神宮雑例集:国常立尊12世孫、度会神主が遠祖。
D度会系図:皇孫天降り給ふ時供奉奉る。
 
・天波与
子供:天日別・建日別
 
・天日別
@父:天波与 母:不明
A子供:彦国見賀岐建興来 別名:天日鷲?天日和志
B国造本紀:神武朝に伊勢国造。
C神魂命5世孫・7世孫説もある。多米連祖。
D伊勢風土記など:神武天皇東征の時、天皇に随い紀伊熊野より菟田下県に至ったとき、標釼を賜って伊勢国の治平に赴いた。神武天皇の橿原宮即位の時、この論功行賞で伊勢国造に任じられた。伊勢・伊賀両国国造祖。
E神郡を定めた。
F伊勢直氏祖・度会氏祖
・彦田都久禰
・彦建津
別名:彦楯津
・彦久良為
 
・大若子
@父:彦久良為 母:不明
A子供:一説賀具呂姫(健甕槌*の妻?)弟:乙若子   別名:大幡主命
B垂仁朝大神伊勢に遷幸せられし際、御供に仕奉る。*健甕尻とも記され太田田禰子の祖
C禰宜補任次第:垂仁25年皇太神宮伊勢国五十鈴の川上に鎮座時。御供仕り奉りて大神主となる也。
D神宮雑例集・太神宮本紀:天牟羅雲7世孫度会神主が遠祖。倭姫が皇太神宮を奉載して
五十鈴宮に鎮め祭った時、大神主となった。
E倭姫命世記:伊勢国造。神国造。
F度会系図:越国に荒ぶる凶賊阿彦ありて皇化に従わず、(これを滅ぼす )天皇より大幡主の名を賜る。垂仁25年皇太神宮・伊勢国五十鈴河上宮に鎮座時、御供仕え奉りて大神主と為る。
 
2−1)乙若子
@父:彦久良為 母:不明
A子供:爾佐布・小爾佐布
B補任次第:度会系図:景行天皇・成務天皇・仲哀天皇の3代大神主。
C倭姫命世記:舎人。
 
・小爾佐布
度会系図:仁徳朝大神主
 
2−2)爾佐布
@父:乙若子 母:不明
A子供:彦若志理・小和志理・事代
B度会系図:神功・応神朝大神主
 
・小和志理
度会系図:反正朝大神主。
 
・事代
度会系図:允恭朝 大神主
 
2−3)彦若志理
@父:爾佐布 母:不明
A子供:阿波良波・御倉  別名:彦和志理
B度会系図:履中朝大神主
 
・御倉
度会系図:安寧朝 二所太神宮大神主。
 
2−4)阿波良波
@父:彦若志理 母:不明
A子供:乙乃子・佐布友・大佐々・野古
B度会系図:安康朝 大神主
 
・佐布友
度会系図:顕宗朝 二所太神宮大神主。
 
・大佐々
度会系図:雄略朝 二所太神宮大神主。
雄略21年皇大神の託宣により等由気神を丹波国与謝郡真丹原より大佐々命を使と為して伊勢国山田原に迎え奉りて鎮座す。今の豊受太神宮是也。
 
・野古(乃々古)
度会系図:仁賢朝 二所太神宮大神主。
 
2−5)乙乃子
@父:阿波良波 母:不明
A子供:爾波・飛鳥・水通・小事
B度会系図:武烈朝 二所太神宮大神主。
C子供の時代に石部姓を賜る。
 
・神主爾波
豊受大神宮禰宜補任次第(略:補任次第)度会系図:二所太神宮大神主だったらしいが、どの天皇の時かは不明。始めて神主姓を賜る。
一門 この裔は不詳。
 
・神主水通
補任次第・度会系図:安閑・宣化朝  二所太神宮大神主。
始めて神主姓を賜る。
三門始祖。
 
・神主小事
@父:乙乃子 母:不明
A子供:神主宮子・久遅良・
補任次第・度会系図:欽明朝  二所太神宮大神主。
四門始祖。
 
・神主宮子
補任次第:欽明朝に内親王の御杖代に立ち天皇安穏・人民快楽となったので父小事の霊を
度会宮の郡内「田上大水社」に祀るとともに宮子の霊も同所に祀った。
 
2−6)神主飛鳥
@父:乙乃子 母:不明
A子供:少庭
B補任次第・度会系図:継体朝 二所太神宮大神主。始めて神主姓を賜った。
C二門始祖。
D宮崎氏神鎮座。
 
2−7)少庭
@父:石部飛鳥 母:不明
A子供:調     別名:小庭
B補任次第・度会系図:用明・崇峻朝 二所太神宮大神主。
 
2−8)調
@父:少庭 母:不明
A子供:吉田
B補任次第・度会系図:舒明朝 二所太神宮大神主。
 
2−9)吉田
@父:調 母:不明
A子供:御気・奈波・志初太・志己夫
B補任次第・度会系図:孝徳朝 二所太神宮大神主。
 
・奈波
@父:吉田 母:不明
A子供:祖父・君麿・小君  別名:奈岐
B大建冠
C補任次第:庚午年籍に誤って石部姓を負ったという。持統朝の二所大神宮大神主。
D神宮雑例集:大化5年始めて度会郡を立てた時督造に任じられた。
 
・石部祖父
補任次第・度会系図:持統朝  二所太神宮大神主。
庚午年籍に誤って石部姓を負い和銅4年官符により旧姓に復した。
祖父・高志に姓渡相神主を賜るとある。
・君麿
補任次第・度会系図:持統朝 豊受大神宮禰宜・神主
 
・小君
補任次第・度会系図:文武元年 豊受宮禰宜神主。在任11年。
 
・志初太
補任次第・度会系図:天智朝二所太神宮大神主
 
・志古夫
補任次第:天武元年に御気に譲られて二所太神宮大神主(禰宜ともある)。
 
2−10)神主御気
@父:吉田 母:不明
A子供:兄虫
B補任次第・度会系図:天武朝 二所太神宮大神主。後に神主を志己夫に譲った。
 
2−11)兄虫
@父:御気 母:不明
A子供:虫名
B補任次第・度会系図:天武元年始めて豊受宮禰宜に任じられた。在任15年間。
 
2−12)虫名
@父:兄虫 母:不明
A子供:清足
B右舎人
 
2−13)清足
@父:虫名 母:不明
A子供:御原
B大内人。
 
2−14)御原
2−15)勝弁
 
2−16)高主
@父:勝弁 母:不明
A子供:宗雄・冬雄・春海・秋並・春彦
B大内人。
 
・秋並
この流れから村松氏が派生する。
また公卿家「久志本式部家・久志本左京家」を輩出する。
 
・度会村松家行(1256−1351?)
@父:有行 母:不明
A子供:盛行
B外宮の神官で伊勢神道の大成者。
C1306年禰宜 行忠(1236−1305)に替わってなった。
D1341年一禰宜となる。南朝より従三位を叙せられる。
 
・度会行忠(1236−1305)
系譜不明。家行より一世代前の外宮禰宜。
久志本家の例
・度会常達(1788−1850)
1831年従三位。非参議・外宮二禰宜。
・度会常伴(1817−?)
1861年従三位。非参議・外宮三禰宜。明治にいたる。
 
(参考)伊勢神道
鎌倉時代後期から南北朝にかけて伊勢神宮下宮の神官達が唱えた神道。その中心人物が度会行忠・家行らである。度会神道・下宮神道とも呼ばれた。
伊勢神道は、伊勢神宮なかでも下宮を権威づけるための教説である。鎌倉前期に始まり文永・弘安頃に形が整い、南北朝に体系化を終えたと考えられている。
豊受大神宮(豊受大神)を皇太大神宮(天照大神)と同等またはそれ以上の存在であることを主張した教説。
その背景には律令国家体制の解体にともなって平安中期以降その経済的基盤が動揺し神職団の組織に変化が起こった。伊勢神宮の国家的性格は次第に失われ祭主中心の神職団に再編成。所領拡大化。神官の御師化。神道という言葉の発生。外宮はこの動きに敏感に対応し内宮との関係は悪化した。外宮の度会氏による神道五部書の編纂。「天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記」「伊勢二所皇太神御鎮座伝記」「豊受皇太神御鎮座本紀」「造伊勢二所太神宮宝基本記」「倭姫命世記」が根本教典。
教義の最終的な体系化をはかった人物が度会家行だとされている。
家行は北畠親房とも交流があり、その著書「神皇正統記」にも影響を与えたとされている。
伊勢神道の発展した形が吉田神道とも言われている。
 
2−17)春彦
この流れが度会氏本流である。
公卿家である松木家本流・松木越後家・松木全彦卿家・松木当七禰宜偉彦家・松木雅楽之助家・檜垣家などを輩出。
2−18)晨晴
2−19)康平
2−20)彦晴
2−21)度会貞雄
2−22)広雅
2−23)忠雅
2−24)松木雅彦
2−25)彦章
ーーーー
・松木高彦(1679−1753)
1749年従三位。正三位・非参議。
・栄彦(1740−1797)
1785年従三位。非参議・外宮一禰宜。
・範彦(1773−1835)
1814年従三位。正三位・非参議・外宮一禰宜。
・朝彦(1827−1889)
1862年従三位。明治元年非参議・外宮四禰宜。
・末彦(1644−1708)
1700年従三位。非参議。
 
など多数の公卿輩出。
ーーー明治になり松木家本流は男爵家
 
(参考)三門
2−6)神主水通
前述
 
2−7)加味
@父:石部水通 母:不明
A子供:午手
B補任次第・度会系図:敏達朝 二所太神宮大神主。
 
2−8)午手
@父:加味 母:不明
A子供:針門   別名:馬手
B補任次第・度会系図:皇極朝 二所太神宮大神主。
 
2−9)針門
@父:午手 母:不明
A子供:飛鳥    別名:針間
B補任次第:少山中 神主
C神宮雑例集:大化5年度会郡を立てた時、助造に任じられた。
 
2−10)飛鳥
@父:針門 母:不明
A子供:国益
B度会系図:庚午年籍に誤り石部姓となす者也。
 
2−11)国益
 
2−12)牛長
@父:
A子供:虎主
B度会郡擬大領・正八位上・神主
 
2−12)虎主
@父:
A子供:
B禰宜・外従五位下 弘仁5年
C三門はここで断絶。
 
(参考)四門
2−6)石部小事
前述
 
・伊志
補任次第:推古朝 二所大神宮大神主。
 
2−7)久遅良
@父:小事 母:不明
A子供:加良
B補任次第:大仁冠 二所大神宮に奉仕か。
 
2−8)加良
@父:久遅良 母:不明
A子供:知加良
B補任次第・度会系図:孝徳朝 二所太神宮大神主
 
・富杼
補任次第・度会系図:斉明朝  二所太神宮大神主
 
2−9)知加良
補任次第・度会系図:和銅元年豊受大神宮禰宜に任じられた。元大神主。
 
2−10)龍
補任次第・度会系図:養老元年豊受宮禰宜。
 
2−11)安麻呂
子供:忍人・足床
補任次第・度会系図:天平元年豊受大神宮禰宜。
 
・忍人
補任次第・度会系図:天平20年豊受宮禰宜。外従五位上。(続紀:景雲元外従五位下)
養子:五月麻呂(広川男)
 
・五月麻呂
補任次第・度会系図:景雲元年禰宜36年間。
 
・足床
補任次第:天平13年豊受大神宮禰宜
 
・神主首名
続日本紀:伊勢大神宮禰宜・外正五位下。
 
・神主磯守
続日本紀:伊勢大神宮禰宜・天応元年外従五位下。
 
3)荒木田氏人物列伝
 荒木田神主氏は中臣氏と同族とされ垂仁朝以来神宮に奉仕すると伝えられている。後に一門・二門に分かれるが共に公卿家となり明治まで続いた。明治時代男爵となった一門沢田家を本流として記す。本稿では途中まで人物列伝を嫡流を中心に記す。
・津速産霊尊
・天児屋根
 
・国摩大鹿島(くにうずおおかしま)
@父:久志宇賀主 母:不明
A子供:臣狭山・大楯(鹿島大宮司・春日社家)・相鹿津臣
B常陸風土記
C北畠親房「職源抄」:11垂仁天皇朝神宮鎮座(伊勢神宮)に際しその祭主に任命された。これより以降その子孫である中臣氏に継承された。しかし、記紀にはこの記事なし。
D日本書紀:倭姫内親王の大神奉祀祭の御道駅使に任じられた。
E記紀記事:垂仁朝に五大夫に任命された。(物部十千根・大伴武日・和邇氏・阿部氏)
F二所太神宮例文荒木田系図など:垂仁25年天照大神五十鈴川上御鎮座の時祭主となる。一名雷大臣、始めて卜部姓を賜る。
 
3−1)天見通
@父:巨狭山 母:不明
A子供:天布多由岐
B大神宮例文:天児屋根21世孫。国摩大鹿島の孫で大神宮禰宜荒木田神主祖。
C太神宮儀式帳:倭姫の時禰宜となってより禰宜職世襲。
D神宮雑例集:天児屋根12世孫荒木田神主祖。
E諸雑事記:禰宜荒木田遠祖。
F二所太神宮例文・皇太神宮荒木田遠祖奉仕次第:天児屋根21世孫、大狭山命子、垂仁天皇御世奉仕。
G二所太神宮例文荒木田系図:天照大神宮之禰宜。
 
3−2)天布多由岐
@父:天見通 母:不明
A子供:伊己呂比
B二所太神宮例文・皇太神宮荒木田遠祖奉仕次第:垂仁朝奉仕
 
3−3)大貫連伊己呂比
@父:天布多由岐 母:不明
A子供:大阿礼
B二所太神宮例文・皇太神宮荒木田遠祖奉仕次第:景行天皇の時大貫連姓を賜る。同奉仕。
 
3−4)大阿礼
@父:伊己呂比 母:不明
A子供:波己利  別名:大荒命
B二所太神宮例文・皇太神宮荒木田遠祖奉仕次第:景行朝奉仕・物忌となる。
 
3−5)波己利
@父:大阿礼 母:不明
A子供:荒木田最上   別名:岐己利
B二所太神宮例文・皇太神宮荒木田遠祖奉仕次第:景行朝奉仕。
 
3−6)荒木田最上
@父:波己利 母:不明
A子供:佐波   別名:神主最上
B二所太神宮例文・皇太神宮荒木田遠祖奉仕次第:成務天皇の時大神の御饌料田三千代を奉った功により始めて荒木田姓を賜った。同朝奉仕。
C二所太神宮例文荒木田系図:これ以降神主姓となっている。
 
3−7)佐波
二所太神宮例文荒木田系図:仲哀朝
3−8)葛木
二所太神宮例文荒木田系図:神功朝。
3−9)己波賀禰
二所太神宮例文荒木田系図:応神朝。
3−10)大牟賀手
二所太神宮例文荒木田系図:仁徳朝。
3−11)酒目
二所太神宮例文荒木田系図:安康朝。
3−12)押刀
二所太神宮例文荒木田系図:雄略朝。
3−13)薬
二所太神宮例文荒木田系図:武烈朝。
3−14)刀良
二所太神宮例文荒木田系図:欽明朝。
 
3−15)黒人
@父:刀良 母:不明
A子供:首麿・広刀自女・乙丸
B二所太神宮例文荒木田系図:欽明朝。
 
3−16)首麿
@父:黒人 母:不明
A子供:石敷・石門     別名:荒木田神主首麿
B二所太神宮例文・皇太神宮荒木田遠祖奉仕次第:斉明天皇朝奉仕。始めて神主姓を賜る。
三代実録:元慶3年荒木田の3文字を脱っせられたのでこの字を加え旧姓に戻った。
C二所太神宮例文荒木田系図:天智朝。
 
3−17)石敷
@父:首麿 母:不明
A子供:佐禰麻呂・田長   別名:神主石敷
B二所太神宮例文・皇太神宮荒木田遠祖奉仕次第:天智朝奉仕。
C二所太神宮例文荒木田系図:天武朝。
D子供の時代に一門・二門が派生。内宮の禰宜職を両氏が世襲することになる。
 
・田長(田主)
荒木田二門祖。
この流れから重代7氏のうち、中川家・世木家・藤波家・佐八家を輩出。
・荒木田久老(1747−1804)
度会正身の子供。
江戸時代中期の伊勢神宮祠官で国学者。1773年荒木田久世の婿養子となり内宮権禰宜。
本居宣長とともに賀茂真淵に師事し国学・和歌を学ぶ。万葉集研究の第一人者となった。晩年は本居宣長学派と対立したともある。
 
中川家の例
・荒木田経盛(1618−1694)
1687年従三位。
・荒木田経美(1798−1856)
1842年従三位。非参議。
 
など多数の公卿を輩出。
明治まで続く。
 
3−18)佐禰麻呂
@父:石敷 母:不明
A子供:垣守
B二所太神宮例文荒木田系図:文武朝。
C荒木田一門の祖。
Dこの流れから重代7家のうち、沢田家・井面家・薗田家を輩出。明治まで続く。
 
薗田家の例
・荒木田守武(1473−1549)
戦国時代の伊勢神宮祠官・連歌師。山崎宗鑑とともに俳諧の祖とも言われる人物。
1541年一禰宜。
荒木田守宗(1619−1698)
1689年従三位。正三位。
荒木田守雅(1796−1858)
1831年従三位。正三位・非参議
 
など多数公卿輩出。
ーーー明治、一門沢田泰国家が男爵を賜り荒木田に改姓した。
4)(参考)藤波氏人物列伝
中臣氏二門の国子流「意美麻呂」の子「大中臣清麻呂」の流れが大中臣氏嫡流となり、この流れから祭主を世襲的に独占する堂上大中臣氏が生まれその主流が岩出氏である。この流れから藤波氏が嫡流として幕末まで続いて祭主家となった。明治になり子爵となる流れを本流として記す。

参考)祭主
大神宮司の上にあって神宮一切の政務を総括する職で、惣官とも称した。(伊勢神宮だけに存在する職)
起源:
倭姫命世記:垂仁26年条:大鹿嶋命を祭官に定めた。
職原抄:神祇官条:垂仁朝に天児屋命10世孫大鹿嶋命を祭主と為す。
太神宮諸雑事記:景行3年条:祭官の始まり。
二所大神宮例文:祭主次第:672年祭官を祭主に改め中臣意美麿が祭主の始めと記されている。
続日本後紀:850年条:大中臣淵魚が伊勢神宮祭主となる。これが初見とされる。
元々京官兼務であったが、平安時代中頃ー室町時代は居宅を伊勢国においた。南北朝には京都に移住。(鈴木義一氏)
・祭官:令制の神祇官の前身。一説では敏達ー推古朝頃からあり、天武朝以降に神官または神祇官と改められた。そのうち伊勢神宮の祭祀に派遣される官人を祭主と称するようになったという。祭主と祭官は同義語とする説多い。(所 功氏)
・神官:令制神祇官の前身官司。天武朝にはあった。持統朝には制度も整い令制の神祇官
にほぼ匹敵する構成となった。浄御原令では神祇官となった可能性大。(熊谷公男氏)
・神祇官:律令官制の二官の一つで天神地祇の祭祀を執行し、諸国の官社を総管し、その祝部の名帳と神戸の戸籍などを掌るなど神祇行政全般を管掌した中央官庁。
神祇官の源流は日本書紀継体天皇ー皇極紀に神祇伯と記されたものがあるがこれは編纂時に追筆されたと現在は解されている。天武または持統朝に出来たとする説が有力。
(今江広道氏)
 
4−1)大中臣清麻呂(702−788)
@父:意美麻呂 母:多治比真人嶋女阿伎良(斗売娘説もある)
A妻:多治比子姉 子供:今麻呂・諸魚・諸人・子老・淵魚・宿奈麿
大伴家持と従兄弟?説あり。
B769年中臣氏から大中臣朝臣を賜姓。 大中臣氏元祖。 大神宮祭主、これ以降この子孫が祭主および大神宮司を世襲することになる。また神祇伯も世襲。(平安中期白川家が神祇伯を世襲することになり、伊勢祭主・神祇大副を世襲)
C747年尾張守。762年参議。765年神祇伯従三位。771年大納言の時光仁天皇皇子他戸親王の東宮伝となり従二位右大臣となる。772年正二位。50桓武天皇即位後781年上表して職を退く。
 
・子老(?−789)
781年参議。正四位下・神祇伯。
 
・諸魚(743−797)
@父:大中臣清麻呂 母:多治比子姉
A子供:知治麻呂
B宝亀10年下野守
C続紀:延暦3年造長岡宮使。長岡遷都に際し、松尾・乙訓二神を従五位下に叙する勅使となった。従五位上兵部大輔。同4年山背守。同8年神祇伯。同9年参議。同10年伊勢奉幣使。同16年没。正四位上。
D卒伝によれば、「琴歌を好み他に才能なし。財貨を貪り商売を営み、人は諸魚を卑しんだ」と記されている。 
 
4−2)今麻呂
@父:母:不明
A子供:常磐
B続紀:延暦元年二大判事任命。
 
4−3)常磐(常麿)
4−4)雄良
・有本(?−894)
4−5)岡良
4−6)輔道
4−7)頼基(?−958)
 
4−8)能宣(921−991)
祭主・正四位下・神祇大副
 
4−9)輔親(954−1038)
@父:能宣 母:越後守藤原清兼女
A子供:輔隆・宣理・大輔
B1034年従三位 正三位・非参議・神祇伯・祭主
C岩出家
 
・大輔(?−1062)
高階成順室
子供:四条宮筑前・山井永業
 
4−10)輔隆
4−11)輔経
祭主・正四位下・神祇権大副
4−12)親定(?−1122)
1108年従三位、非参議・神祇伯・祭主
 
4−13)親仲
神祇権大副。
・親章
1159年従三位。非参議・神祇大副・祭主
・親俊(?ー1185)
1184年従三位。非参議・神祇権大副・祭主
 
4−14)親隆(1105−1187)
@父:親仲 母:石見守従五位上橘宗季女
A子供:能隆
B1171年従三位。正三位、非参議・神祇大副・祭主。
C1184年出家。
 
4−15)能隆(1145−1234)
@父:親隆 母:正四位上神祇大副卜部兼支宿禰女
A子供:隆通
B1198年従三位。従二位・非参議・神祇大副・祭主。
C1232年出家。
 
4−16)隆通(1208−1249)
@父:能隆 母:平棟範女
A子供:隆世・隆蔭
B1239年従三位。従二位・非参議・神祇権大副・祭主
C1249年出家。
 
4−17)隆世(1224−1259)
1254年従三位。非参議・神祇大副・祭主。
1259年出家。
4−18)定世(?−1297)
1288年従三位。非参議・神祇大副・祭主。
4−19)定忠(?ー1316)
@父:母:大中臣隆蔭女
1309年従三位、非参議・祭主神祇大副。
4−20)親忠(1295−1351)
1331年従三位。従二位・非参議・神祇大副・祭主。
4−21)親世(?−1383)
1361年従三位。非参議・神祇権大副。
4−22)清世(1341−1409)
1400年従三位。非参議。藤波家以後藤波氏と名乗る。
4−23)清忠(?−1469)
1431年非参議・従二位。
4−24)秀忠(秀直・清定)(?−1491)
1461年従三位、従二位・非参議。
4−25)伊忠(輔忠)(1468−1522)
1506年従三位。従二位・非参議。
4−26)朝忠(1498−1570)
1536年従三位。従二位・非参議。
4−27)康忠
4−28)慶忠
4−29)種忠
4−30)友忠
従四位下・神祇大副
4−31)景忠(1647−1727)
1685年従三位。正二位・非参議。
4−32)藤波徳忠(1670−1727)
1703年従三位。従二位・非参議。
4−33)和忠(1627−1765)
1773年従三位。正二位・非参議。
 
以後略ーーー明治に入り子爵家となる。

5)(参考)河辺氏人物列伝
中臣氏一門御食子の流れで嶋麿の子供人足・孫益人らが祭主になったが伊勢神宮大宮司家となったのは名代・伊賀麿の流れで大中臣真助の流れである。この流れから河辺氏が出て明治まで続き男爵家となった。この流れを本流として記す。

・中臣御食子(?−?)飛鳥時代の人物
@父:可多能祐 母:山部歌子連女那爾毛古娘
A妻:大伴智仙媛 子供:鎌足(614−669)・久多・垂目  別名:弥気・美気子
長男、一門。
B628年33推古天皇崩御。皇位継承問題発生。蘇我蝦夷側に組みし、田村皇子を推挙。
山背大兄皇子派の境部摩理勢の説得の役目。
C小徳冠前事奏官兼祭官。33推古・34舒明朝に仕えた。伊勢神宮初代祭官(後の祭主)
 
・垂目
・伊賀麿
5−1)大中臣真助・5−2)天足・5−3)千世・5−4)氏尋・5−5)恒滝
5−6)時用・5−7)理平・5−8)兼興・5−9)惟幹・5−10)致時
5−11)信円・5−12)永祐・5−13)永智・5−14)通能・5−15)長任
5−16)長則・5−17)河辺長藤・5−18)長泰・5−19)長基・
5−20)長昌・5−21)長盛・5−22)則長・5−23)広長・2−24)秀長
2−25)仁清・2−26)河辺精長・2−27)房長・2−28)隆亮
2−29)千長
2−30)河辺長矩(1719−1776)
@父:藤波景英 養父:河辺千長  母:不明
A子供:長尭
B1747年従三位。正三位・非参議・伊勢神宮内宮大宮司・神祇少副。

2−31)長尭(1740−1806)
1768年従三位。従二位・非参議。
2−32)長都(1766−1807)
1794年従三位。正三位・非参議。
 
ーーー明治になり男爵家。

6)その他関係氏族
・宇治土公(うじのつちのきみ)氏
伊勢国度会郡宇治郷より起こる。大土御祖神社。
伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記:猿田彦大神は宇遅土公氏人遠祖の神也。
皇太神宮儀式帳:「次百船を度会の国佐古久志呂宇治家田田上宮に坐しき。その時宇治の大内人として仕え奉る宇治の土公等の遠祖太田命を汝国名何と問い賜いき。是れ川名佐古志留伊須々の川と申す」
倭姫命世記:「猿田彦の裔宇治土公の祖太田彦参り相いき」
大神宮諸雑事記:宇治土公遠祖太田命神は当土の土神也。然して玉串大内人となる。即ち荒木田禰宜と相い並びて祭庭に供奉するの例也。
上代石部と称した。二見氏はその裔で猿田彦神社を祭る。

猿田彦神
椿大神社
猿田彦神社
 
・伊勢直氏(伊勢国造氏)
国造本紀:伊勢国造、橿原朝、天降る天牟久怒命の孫天日鷲を以て勅して国造りと定め賜う。
伊勢風土記:伊勢国は天御中主12世孫天日別の平治するところなり。ーーーとし、天日鷲と天日別は同一人物としている。
この伊勢国造の流れが伊勢直となり天平年間に中臣伊勢連を賜る。この後伊勢朝臣となる。
「伊勢大鹿首氏」は諸説あるが、中臣氏系であり伊勢直氏とは直接関係にはない。姓氏録

・(参考)伊勢大鹿首氏
神名帳伊勢国三重郡:大鹿三宅神社 この氏はこの屯倉の首と思われる。
記紀:敏達紀:伊勢大鹿首小熊女が敏達天皇の妃となり菟名子夫人と称す。
子供:宝王・布斗比売
中臣氏の派生氏族。(姓氏録)伊勢直氏とは異なる。
大鹿臣・大鹿宿禰。
 
・伊勢津彦
伊勢風土記:神武天皇東征以前伊勢の国主たりしが、天日別命の征伐にあい、その国を献じて東に走るというなり。この時神風を吹かしたと伝承され後に「神風の伊勢」という言葉が生まれ鎌倉時代の文永・弘安の役の時の台風を神風ということになる原初の言葉になったとされている。
倭姫命世記:出雲神の子「出雲建子命」、一名伊勢津彦 別名:天櫛玉命(建角身の父?)
太田亮説:天穂日命系の天孫族としている。伊勢国にありし大豪族。武蔵国造系図参照。
 
・磯部氏(石部氏)
 太古以来の大族。漁労航海の民。
度会氏・宇治土公氏も一時この姓であったとされる。
 
7)関係神社
・伊勢神宮
正宮は2つあり、皇大神宮(こうたいじんぐう)と豊受大神宮(とようけだいじんぐう)とからなっている。
前者を内宮(ないくう)後者を外宮(げくう)と通称する。
以前は二所大神宮・大神宮・神宮とも称された。
この中に14の別宮、43の摂社、24の末社、42の所管社など125社を有している。
 
<内宮(皇大神宮*)>伊勢市五十鈴川上
祭神:天照大神** ご神体:八咫鏡(三種神器の一つ)*天照皇大神宮・伊須受能宮
相殿神:天手力男神・万幡豊秋津姫命(儀式帳)(記)では思金神。 
**別名:天照坐皇大御神・天照皇大神
創建:伝垂仁26年   紀に記述あり。記には起源記述なし。
建築様式:唯一神明造。
社格:式内大社。現在は別格で格付けなし。
場所:神路山麓。五十鈴川辺。
禰宜家:明治までは荒木田氏。
内宮別宮:月読社(式内社)倭姫宮(1920年創建)など
 
・天照大神(あまてらすおおみかみ)
@父:伊弉諾尊 母:(伊弉冉尊)
A子供:天忍穂耳・天穂日・天津彦根・活津彦根・熊野樟日  兄弟:素戔嗚尊・月読尊 別名:天照大御神(記)大ひるめ貴神(おおひるめむち)
・天照皇大神(あまてらすすめ大神)・天照太神・天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)
B記紀日本神話などに登場する「皇祖神」であり最高神である。男神であるという説もあるが一般的には女神とされている。3貴子(素戔嗚尊・月読尊・天照大神)の一人。
イザナギは高天原を治めることを命じた。
Cこの神の孫であるニニギの尊が天上からこの日本の地上に降臨して天皇一族の祖となったとされている。スサノオとの誓約神話・天岩戸神話・天孫降臨神話など各種神話あり。省略。
D太陽神・太陽を祀る巫女・創作神説。モデルとして卑弥呼説・神功皇后説・推古天皇説・持統天皇説など諸説ある。 
E(日本書紀神格の変化説):大化の改新以前は天皇家は天照大神を祀っていない。
壬申の乱の頃:大ひるめ貴神を祀った。698年に皇大神宮創建し持統天皇をモデルとして天皇家の祖先神として女神「天照大神」が創造された。とする説。

(参考)三種の神器
天孫降臨の際に天照大神からニニギの尊に授けられたとする、鏡・剣・玉を指し、歴代天皇が継承してきた三種の宝物。古事記:3種の神宝の記事あり。日本書紀:本文にはなし。
第1の一書に3種の神宝の記事あり。
・八咫鏡(やたのかがみ):天照大神が岩戸に隠れた際に石凝姥命が造った。
現在伊勢神宮にある。昔からのものそのものとされている。
・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ):素戔嗚尊が出雲で八岐大蛇を退治したときその尾より出てきたものを素戔嗚尊が天照大神に奉納したとされる剣。別名「草薙の剣」
伊勢神宮にあったがヤマトタケルが貰い受けミヤズヒメに預け、ミヤズ媛はタケルの死後
これを祭神として祀り、熱田神宮となった。
現在熱田神宮に本物があり皇居にはそのレプリカがあるとされている。
本物は、平家滅亡の際に壇ノ浦の海底に沈んだとの説もある。
・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
天照大神が岩戸隠れした時、玉祖命が造り八咫鏡とともに榊の木にかけられたとされる。
現在本物は皇居にあるとされている。

<外宮(豊受大神宮*)>伊勢市豊川町
祭神:豊受大神    *別名:豊受宮
創建:伝雄略22年  この事は記紀には記述なし。「延暦儀式帳」に記事あり。
建築様式:唯一神明造。
社格:式内大社。現在は別格で格付けなし。
場所:山田原平地部。
豊受大神 :天照大神の食事を司る神とされ日別朝夕大御饌祭が毎日朝夕2回行われている。天照大神の食事をつかさどる御饌都神とされた。
禰宜家:明治までは度会氏。
外宮別宮:月夜見宮など
 
・豊受大神
@父:和久産巣日神 母:不明
A子供:なし 別名:豊宇気毘売神・登由宇気神
B古事記神系図にしか登場しない神。豊かな食物(宇気)の女性神・稲の豊穣の神。
C古事記:天孫降臨条:「こは下宮の度会に坐す神ぞ」と記された登由宇気神と同一神。
D止由気宮儀式帳記事:下記関係古書の項参照。
E伊勢神道:豊受大神は天御中主・国常立尊と同体視。日天・火徳の天照大神に対し月天
・水徳を担う宇宙の根源的神とされた。
F丹後国風土記:丹後国丹波郡比治山の真奈井に天降った天女である。
G豊受大神を女性神とするのが一般的であるが男性神だとする説も根強くある。
 
神宮林:約5、500ha. 現伊勢市の面積の約26%。
式年遷宮:690年に第1回目の式年遷宮は始まり、内宮・外宮ともに20年ごとに伊勢神宮の本殿などを全く同じ形で立て直すことを実施してきた。途中諸事情により実施出来なかった時もあるが1993年に第61回目の遷宮が内宮・外宮ともに行われた。
現在は2013年の第62回目の式年遷宮の準備中である。
斎宮:古代から南北朝時代にかけて伊勢神宮に奉仕した斎王の居られた所。
伊勢国多気郡竹郷に所在した。

斎宮起源:日本書紀崇神紀に天皇が皇女豊鍬入姫に命じて宮中に祀られていた天照大神を大和国笠縫邑に遷させこれを祀らせたのが斎王(宮)の始まり。
垂仁天皇の皇女倭姫が伊勢神宮に斎宮を建てた後、歴代天皇の皇女が伊勢神宮の斎宮となった。用明天皇の皇女の時を最後に伊勢派遣は中断された。天武天皇の時代に正式制度として復活した。その初代斎王は大来皇女であった。これ以降南北朝時代まで歴代天皇毎に新たな斎王が誕生した。
斎宮寮に斎王は居住していたが、そこには一部資料によると500人ほどの人が仕えていたともある。
記録に残されている斎宮(天武以前):崇神朝ー豊鍬入姫
垂仁朝ー倭姫・景行朝ー五百野皇女・仲哀朝ー伊和志真皇女・雄略朝ー稚足姫・
継体朝ー荳角皇女・欽明朝ー磐隅皇女・敏達朝ー菟道皇女・用明朝ー 酢香手姫
 
・祭主:伊勢神宮のみにある職掌。始めは祭官と呼び初代は中臣御食子。祭主初代は大中臣意美麿。
・神宮大麻:皇大神宮の神札のこと。
・外宮先祭:他の神社参拝と異なりお参りは外宮を先に詣る原則。
 
由緒:現在の伊勢神宮ホームページより
・皇大神宮(内宮):御祭神:天照大御神 御鎮座:垂仁天皇26年
天照大御神は皇室の御祖神であり歴代天皇が厚くご崇敬になられています。また私たちの
総氏神でもあります。約2000年前の崇神天皇の御代に皇居をお出になり各地をめぐられたのち五十鈴川のほとりにお鎮まりになりました。20年ごとに神殿をお建て替えする式年遷宮は1300年続けられてきました。第62回式年遷宮は平成25年におこなわれる予定です。
・豊受大神宮(外宮):御祭神:豊受大御神 御鎮座:雄略天皇22年
豊受大御神はお米をはじめ衣食住の恵みをお与えくださる産業の守護神です。
今から1500年前に丹波国から天照大御神のお食事をつかさどる御饌都神としてお迎え申し上げました。御垣内の御饌殿では毎日朝夕2度天照大御神に神饌をたてまつるお祭りがご鎮座以来一日も絶えることなく行われています。第62回式年遷宮は平成25年に行なわれる予定です。
 
一般的には下記のように言われている。一例である。(フリー百科事典「ウイキペディア」などを参考とした。)
垂仁天皇の皇女「倭姫命」が天照大御神を鎮座する地を求めて旅をした。
倭国・丹波国・倭国・紀国・吉備国・倭国・大和国・伊賀国・淡海国・美濃国・尾張国・伊勢国の順に移動し、伊勢国内を移動した後、現在の五十鈴川の畔に五十鈴宮と言う名で鎮座した。途中の鎮座場所を元伊勢と呼ぶ。記紀神話に従った伝説であって、考古学的資料に基づくものではない。
元々は皇室の氏神として天皇・皇后・皇太子以外の奉幣は禁止されていた。
内宮・下宮の禰宜職は初め荒木田神主・根木神主・度会神主の三姓あったが根木氏は早くに絶家となり、平安時代中頃以降は内宮は荒木田氏、外宮は度会氏が専ら奉仕することになった。
中世になって日本全体の鎮守として武士達から崇敬された。神仏習合の教説において神道側の最高神とされた。近世になってお陰参りが流行。多くの民衆が短期間に神宮に押し寄せた。そして明治政府により国家神道の頂点の神社として位置付けられた。
戦後は神社本庁により全国神社の「本宗」と位置付けられている。
 
<伊勢神宮関係古書記事>
古事記:起源記述なし。天孫降臨の段:「この二柱の神(天照大御神・八咫鏡)五十鈴宮に拝き祭る。」崇神天皇条:「妹豊(金且)入比売は、伊勢大神の宮を拝き祭りき」  下宮:「登由宇気神、こは下宮の度相に坐す神なり。」景行条「倭建命は伊勢神宮参詣・叔母倭姫命に会う。草薙の剣を授かる」
 
日本書紀:崇神天皇5年に疫病流行、翌年民の多くが流離、反逆を起こした。その勢いは天皇の徳をもってしても抑えられなかった。天皇は天神地祇に祈った。以前から天照大神・倭大国魂神を宮殿内で祀っていたが、天皇はその2神の神威を畏れるようになった。共住することが不安になり巫女に託すことにした。天照大神を豊鍬入姫に倭大国魂神を渟名川入姫に託した。ーーー豊鍬入姫は天照大神を大和国笠縫邑に祀った。次ぎの垂仁天皇の代では垂仁25年天皇は豊鍬入姫を辞めさせ、倭姫に大神を祀らせた。姫は大神が鎮座するべき所を探して諸国を回った。先ず菟田の筱幡へ行き、近江国、美濃国を巡って伊勢国へ着いた。その時大神が「この神風の伊勢国は常世之浪の重浪よする国なり。傍国のうまし国なり。この国に居らむとおもう。」と託宣し、姫は五十鈴川の近くに祠を建てて、磯宮と呼ぶようになった。
 
日本書紀一書:垂仁天皇は、倭姫を御杖として天照大神に献上。姫は大神を磯城の神木の本で祀ったあと、垂仁26年神託によって伊勢国渡遇宮に遷した。
 
皇太神宮儀式帳(804年):崇神天皇の代に宮殿に(天照大神を)祀り、その後豊耜入姫を御杖代とした。しかし、やがて老いてしまって次ぎの垂仁天皇の代に倭姫をもって御杖代とした。倭姫は美和の御諸原に宮を建て祀った。ついで5柱の御送駅使とともにその地をたった。5柱御送駅使とは、阿倍武渟河別・和迩彦国葺・中臣大鹿島・物部十千根・大伴武日である。倭姫巡行地15カ所?それぞれの地で関係人物逸話が記されている。
例えば、田上宮において、宇治土公の遠祖の太田命が「百船を度会国、この河の名はさこくしる伊須須の河。この河上はよき大宮地なり。」といったので、その地に鎮座することに定めた。
「朝日の来向う国、夕日の来向う国、波の音聞こえぬ国、風の音聞こえぬ国、弓矢鞆の音聞こえぬ国、大御意の鎮まります国」と称えられた。その後天照大神は、神田や忌み言葉、天つ罪、国つ罪、祓清など神宮の決まりについて託宣した。
 
止由気宮儀式帳(804年)
天照大神が伊勢神宮に鎮座してから482年後(?)雄略天皇22年に、天皇は夢で大神の神託を聞いた。「吾は高天原に坐して見し求ぎ賜し処に鎮まり坐ぬ。しかれども吾一所のみ坐ば、いと苦し。しかのみならず、大御饌も安く聞こしめさず坐ますが故に、丹波国の比治の真奈井に坐ます我が御饌都神、等由気大神を我が許に欲。」
天皇は驚き豊受大神を丹波国比治真奈井原から伊勢の山田ケ原に遷して社殿を建てて祀り始めた。また、それ以来御饌殿を建て毎日朝夕に御饌をお供えするようになった。
 
古語拾遺(807年)
崇神の代になって、今まで同床共殿で祀ってきた天照大神の神威を畏れるようになって、不安になった。斎部氏に神器の鏡と剣の複製を造らせ、護身用の神器とした。
倭の笠縫邑に遷し、神籬を建て、豊鍬入姫に天照大神と草薙剣を祀らせた。垂仁天皇の代になって、代って倭姫が祀るようになる。神の教えに従い、伊勢国の五十鈴川の川上に祠を建て、斎宮も建てた。五十鈴川のほとりに来たのは、神代の約束があり、先に猿田彦大神がここに来臨した事と関係があるという。下宮起源の記事はない。
 
先代旧事本紀(平安初期?)
伊勢神宮起源の記事なし。
天照大神と月読尊を並べて「五十鈴川のほとりにましまし、伊勢に斎く大神」とだけ記されている。
 
倭姫命世紀(鎌倉時代)
崇神6年に豊鍬入姫は、大和国笠縫邑に神籬を立てて天照大神と草薙剣を祀った。その後
各地を回り崇神39年丹波国吉佐宮に遷座、4年間祀った。ーーー崇神60年大和国宇多秋志宮で倭姫に代った。25カ所巡行。最終的に垂仁26年に五十鈴川上に着く。
 
・椿大神社(つばきおおかみやしろ)(三重県鈴鹿市山本町字御旅1871)
祭神:猿田彦大神・天鈿女命
社格:式内社・伊勢国一宮・県社
創建:垂仁天皇27年
神職:磯部氏後裔氏族「宇治土公氏」
由緒:太古の神代より祭祀されていた「猿田彦大神」の御神霊を、垂仁27年倭姫の御神託により磯津の川上、高山短山の麓、土公神陵の前方御船磐座辺りに「道別大神の社」として社殿造営奉斎された日本最古の神社。
初見:天平20年「大安寺伽藍縁起並流記資材帳」
 
猿田彦神(興玉神)
記紀・先代旧事本紀・古語拾遺にも記されている国津神。
天孫降臨の際に先導役をかってでた国津神。伊勢国の神。天鈿女命と結婚したともされている。この子孫が猿田女君。
猿田彦の子孫が宇治の宇治土公氏である。椿大神神社祭神。
 
天鈿女命(あめのうずめのみこと)
日本神話に登場する女神。岩戸隠れ神話・天孫降臨の時の五伴緒の一柱。この時高天原から葦原中国を照らす神がいた。その神が猿田彦神であった。ニニギの道案内に来た国津神である。この縁でこの二柱は結ばれたという説もある。芸能の始祖神。神楽の祖。おかめ。
おたふく。
 
猿女君(さるめのきみ)
日本神話で天照大神が岩戸隠れされた時、天鈿女命が岩戸の前で舞を舞ったという故事に因んで宮廷などの大切なお祭りなどに舞などの芸を行うことになった。これを独占的に執り行った氏族が猿女君だとされている。天孫降臨の際に天鈿女命と猿田彦神の間に縁が産まれ二人結ばれその孫が猿女君になったとされている。稗田阿礼はその末裔とされている。
 
・二見興玉神社(三重県度会郡二見町大字江575)
祭神:宇迦乃御魂神(豊受大神)・興玉神(猿田彦大神)
社格:別表神社
二見浦の夫婦岩  地主神。
 
・檜原神社(櫻井市大字三輪字檜原)
祭神:天照大神若御魂神
社格:式内社・元伊勢
 
・猿田彦神社(伊勢市宇治浦田2−1−10)
祭神:猿田彦大神・太田命
社格:無格社 
由緒:猿田彦の裔である「太田命」は倭姫に五十鈴川川上の地を献上した。その裔宇治土公の屋敷神として祖神猿田彦を祀った。明治以降これを猿田彦神社とした。
社家:宇治土公氏
 
・瀧原宮(三重県度会郡大宮町)
祭神:天照坐皇大御神御魂
社格:式内社
内宮別宮月読宮境内。大神の遙宮。
 
・瀧祭神(伊勢神宮内宮境内)
石神で社殿なし。準内宮別宮。
一説:この宮こそ伊勢神宮の原初の宮である。度会氏が最初に祀ったのがこの神で、龍神即ち丹波の籠神社の祭神火明命(天照国照火明命)即ち豊受神的説もある。
 
・伊雑宮(いざわのみや)(三重県志摩郡磯部町大字上之郷)
祭神:天照坐皇大御神御魂
伊勢神宮の本宮説あり。(先代旧事本紀大成経:江戸時代僧「潮音道海」著)
社格:式内社
内宮別宮・大神の遙宮。
 
・都美恵神社(三重県伊賀市拓殖町2280)
祭神:栲幡千々比売
元の名:穴石神社・石上明神。産土神。
創建:AD2,3世紀以前?
由緒:「伊賀の事志の社に坐す神、出雲の神の子出雲建子命、又の名は伊勢津彦の神、又の名天櫛玉命、この神昔石もて城を造り其の地に坐しきここに阿倍志彦の神、来たり集い勝たずして還り却りき。云々。」霊山の中腹穴師谷にこれらの民族の祀っていた神であることは事実。
 
・元伊勢
元々皇居内に祀られていた皇祖神の天照大神を伊勢神宮に至るまでの間に一時的に祀った伝承を持つ神社を元伊勢という。「倭姫命世記」に詳しく記されているが史実ではないというのが現在の通説である。
崇神天皇の時、皇女豊鋤入姫が笠縫邑に遷し、垂仁天皇皇女倭姫に引き継がれ約60年かけて27カ所記されている。(史料により異なる)
代表例
1.倭国笠縫邑 檜原神社
2.丹波国吉佐宮 籠神社・竹野神社・27.伊勢国五十鈴宮 伊勢神宮皇大神宮 など
 
・熱田神宮(名古屋市熱田区神宮1−1)
祭神:熱田大神(天叢雲剣)天照大神?
社格:式内社(名神大)・官幣大社
創建:不詳・景行天皇朝?
本殿様式:神明造
由緒:景行天皇43年に、日本武尊が東国平定の帰路尾張へ滞在した際に、尾張国造「乎止与」の娘「宮簀媛」と結婚した。草薙剣を妃の手許へ留め置いた。倭武尊が亡くなると媛は熱田の社地を定めこの剣を芳斉鎮守したのが始まりとされている。
 
8)度会氏・荒木田氏等系図
・一般神代系図
古代豪族系図収攬など多数の系図を参考にして本稿に関係する神々及び度会氏・荒木田氏大中臣氏・宇治土公氏らの祖を筆者創作系図として明らかにした。異系図多数あり。
・度会氏系図
公卿類別譜・尊卑分脈などを参考にして筆者創作系図とした。
・荒木田氏系図
公卿類別譜などを参考にして筆者創作系図とした。
・(参考)藤波氏概略系図
公卿類別譜などを参考にして筆者創作系図とした。
・(参考)河辺氏概略系図
姓氏類別大観・公卿類別譜などを参考にして筆者創作系図とした。
・(参考)古代斎王関連詳細系図
記紀系図準拠 筆者創作系図
 
9)伊勢神宮関連年表
伊勢神宮に関係した記紀及び伊勢神宮関連古書に基づいた年表を主に平安初期まで記した。
<伊勢神宮関連年表>
・神代:天照大神出現神話・岩戸隠れ神話・国譲り神話
・天孫降臨神話・三種神器神話(記紀)
・猿田彦記事(記紀)
・豊受大神の記事(記・丹後国風土記)
・天孫降臨の時度会氏遠祖「天牟良雲」が供奉(豊受大神宮禰宜補任次第・度会系図)
・神武東征伝:天照大神が神武東征を助ける話。(記紀)
・度会氏祖「天日命」が神武東征に随行。伊勢国で土豪伊勢津彦を平らげその功で伊勢国造となる。(伊勢風土記・国造本紀)
・伊勢津彦記事(伊勢風土記・倭姫命世記)
・崇神6年条:天照大神(ご神体:八咫鏡)は宮中に祀られていた(同床共殿)が、諸事情により笠縫邑に遷され(神人分離)豊鍬入姫(斎王・斎宮の始まり?)に祀らせた。(紀)
この時笠縫邑には鏡と草薙剣を遷し、鏡と剣を護身用に宮中に置いた。(古語拾遺)
・垂仁25年条:垂仁天皇が五大夫を任命(紀)この五大夫が倭姫に随行(皇大神宮儀式帳)
・垂仁25年倭姫が豊鍬入姫の後を継ぎ御杖代として天照大神(八咫鏡)を祀るための土地を求めて各地を巡った。この時「天叢雲剣」も一緒に奉じた。(紀)その経路は「紀」には詳しくは記されていない。804年皇大神宮儀式帳及び鎌倉時代の「倭姫命世記」に詳述。これが元伊勢と呼ばれている神社である。垂仁26年伊勢国に着き「この国に留まりたい」と大神の神託。倭姫は五十鈴川上流の現在地に祠を建てて祀り、磯宮と称した
(紀)。この時度会氏祖「大若子」が大神主となった。(伊勢国風土記逸文・神宮雑例集・太神宮本紀)
・垂仁26年(丁巳年)天照大神を伊勢国渡遇宮に遷し祀る。(紀)
・垂仁26年中臣氏遠祖大鹿嶋命を祭官に定めた。(倭姫命世記)
・大鹿嶋命は倭姫内親王の大神奉祀祭の御道駅使に任じられた。(紀)
・荒木田氏祖天見通命:垂仁天皇御世奉仕。(二所太神宮例文・皇太神宮荒木田遠祖奉仕次第)
・猿田彦裔宇治土公氏遠祖太田命記事:皇太神宮の土地提供(大神宮諸雑事記など)
・景行天皇:日本武尊の東征伝。東征の途中に伊勢の倭姫を訪ね草薙の剣を賜る話。(記紀)
・度会氏祖乙若子:景行天皇・成務天皇・仲哀天皇の3代大神主。(補任次第:度会系図)
・景行天皇20年(4世紀前半?)五百野皇女に天照大神を祀らせる。斎宮  (紀)
・荒木田最上が成務天皇の時大神の御饌料田三千代を奉った功により始めて荒木田神主姓を賜った。同朝奉仕。(二所太神宮例文・皇太神宮荒木田遠祖奉仕次第)以後神主姓を称する。
・仲哀天皇朝 伊和志真皇女斎宮 (紀)
・神功皇后元年(4世紀後半?):新羅征伐の際に伊勢の天照大神の神威を仰いだ記事(紀)
・雄略天皇元年(457年?)栲幡皇女斎宮 (紀)伊勢大神表記。
・雄略朝 度会大佐々 二所太神宮大神主。
雄略21年(477年?)皇大神の託宣により等由気神を丹波国与謝郡真丹原より大佐々命を使と為して伊勢国山田原に迎え奉りて鎮座す。今の豊受太神宮是也。(度会系図)
・雄略22年(478年?)天照大神の神託により豊受大神が伊勢山田原に祀られた。外宮の創建。(止由気宮儀式帳・大神宮諸雑事記)
・507年継体朝に荳角皇女が伊勢大神の祠に侍る。斎宮 (紀)
・540年欽明朝に磐隅皇女を伊勢大神に侍らせる。斎宮  (紀)
・578年敏達朝に菟道皇女を伊勢の祠に侍らせる。斎宮  (紀)
・585年用明朝に酢香手姫皇女を伊勢神宮に召して、日の神のまつりにつかえさせる。斎宮 (紀)
・敏達ー推古朝:伊勢神宮祭官がいた。中臣御食子が初代祭官か。
・天智朝荒木田氏は石敷より神主姓だけになる。「荒木田」がなくなる。
・672年:天武天皇が壬申の乱に際し伊勢の皇大神宮を望拝し戦勝祈願した記事。(紀)
・天武天皇時代(673−686)
・673年度会志古夫が天武元年に御気に譲られて最後の二所太神宮大神主(補任次第)
・673年度会兄虫が始めて豊受宮禰宜に任じられた。(補任次第・度会系図)
・673−686大来皇女斎宮(斎宮制度確立後初代)(紀)
・天武朝:「祭主」の創設。「中臣意美麿」を任命。祭主始(二所太神宮例文)。神宮の禰宜を内宮(荒木田氏)・外宮(度会氏)に各一名設置(豊受大神宮禰宜補任次第)。
・持統天皇時代(686−697)
・685年(688年説もある)式年遷宮の制制定。(大神宮諸雑事記・二所太神宮例文)
・688年藤原不比等官位に就く。
・690年(持統4年)第1回内宮式年遷宮。
・692年第1回下宮式年遷宮。持統天皇伊勢国行幸(紀)
・文武天皇時代(697−707)
・701年藤原不比等大納言になる。大宝律令制定。
・703年庚午年籍制定。
・元明天皇時代(707−715)
・710年平城京遷都。
・711年渡相神主姓に戻る。
・712年古事記編纂。
・元正天皇時代(715−724)
・720年日本書紀編纂。
・720年藤原不比等没。
・769年中臣氏から大中臣朝臣を賜姓。初代、大中臣清麿・祭主。
・794年平安京遷都。
・804年止由気宮儀式帳(延暦儀式帳)編纂。ここに雄略天皇22年、天皇の夢に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の等由気大神を近くに呼び寄せるように」と神託があった。同年内宮の近くの山田の地に豊受大御神を迎えて祀ったのが起源。
・804年皇大神宮儀式帳編纂。
・807年古語拾遺編纂。
・815年大中臣淵魚伊勢大神宮祭主。公的文書初出(続日本後紀)
・879年荒木田氏本姓に戻る。
・927年延喜式完成。「伊勢大神宮式」「神名式」
・1192年鎌倉幕府。
・鎌倉後期ー南北朝:14世紀中頃に「伊勢神道」確立。神道五部書編纂。
・1462年第40回内宮式年遷宮。これ以降中断。
・1563年第40回外宮式年遷宮。
・1650年慶安のお陰参り
・1867年ええじゃないか。
・1868年王政復古大号令。神仏分離令・神祇官設置。
・1869年明治天皇が歴代天皇で初めて伊勢神宮参拝。
・1871年社格制度制定。総ての神宮社家の世襲廃止。伊勢神宮を頂点とした社格設定。
神祇省が神職の任免権を持った。
・1872年神祇省廃止。
・1889年明治憲法制定。信教の自由条文化。
・1890年教育勅語。
・1892年この頃より実質的に国家神道的傾向強化。神道内では伊勢派が出雲派を放逐。
・1935年美濃部達吉「天皇機関説」発禁。
・1940年津田左右吉著書発禁。
・1945年神道指令。敗戦により連合国最高司令部により、神社は国家から分離。
・1953年第59回内宮・外宮式年遷宮。
・1973年第60回内宮・外宮式年遷宮
・1993年第61回内宮・外宮式年遷宮
・2013年第62回式年遷宮予定。
10)度会氏・荒木田氏等系図解説・論考
 本稿は伊勢神宮に関与してきた古代豪族を解説するものである。中でも度会氏及び荒木田氏を中心に述べたい。これ以外の氏族としては、大中臣氏・藤波氏、河辺氏についても簡単に解説を試みたい。こちらについては既稿「中臣氏考」も参考にしてもらいたい。
これらの氏族を語るとき避けて通れない問題がある。それは伊勢神宮問題である。
これは筆者のようなアマチュアには手に負えない難物である。しかし、現時点でこの問題を歴史的にどのように考えておくべきか、筆者なりに考察し述べておきたい。
10−1)度会氏
 度会氏は神代からの系図を有している神別氏族といえる。異系図も多くあるが、神皇産霊尊系の天神族と思われる。その意味では、紀氏・賀茂氏・忌部氏・県犬養氏らと同系統といえる。注目すべき人物(神)としては度会神主祖とされている「天牟良雲(天牟羅雲)」
と「天日別」である。共に国造本紀などの古書にその事歴が記されている。「天牟良雲」は、海部氏系図(尾張氏系図)に「天村雲」なる神が記されている 。これと関係あるやなしや。これは後の「下宮」の豊受大神や元伊勢伝承とも絡んで度会氏は丹波国出身説の根拠の一つか。
一方「天日別」は、記紀の神武東征伝には記事がないが、伊勢風土記では神武に従ったとあり、この時、伊勢国に元々いた土豪「伊勢津彦(都美恵神社の祭神・出雲建子ともいう)」を征伐したとある。この功により伊勢国造に任じられたとある。
この伊勢津彦には「神風の伊勢」の語源となった伝説(伊勢風土記)も伝わっており、
別名「櫛玉命」を有し諏訪神社祭神「建御名方命」と同一人物ではないかとの説もある人物である。
また「天日別」は、別名「天日鷲」とも言われ忌部氏の祖であるという説が通説である。(既稿「忌部氏考」参照)国造本紀には伊勢国造は「天日鷲」と記されている。伊勢風土記には「天日別」を伊勢国造としている。 筆者は一種の系図の混乱があるものと解釈している。
一説では、度会氏が後世に忌部氏の祖のところに自分らの祖「天日別」をはめ込んだのである。ともある(系図の簒奪)。現在公知の系図では「天日鷲」と「天日別」は別々の流れとして記されている。
度会氏を論じる時は「天日別」であり、伊勢国造祖・伊勢直氏祖・度会氏祖であると解釈している。度会氏を伊勢国造・伊勢直氏と同流とする説には異論があることも事実。
太田 亮は「伊勢国造と度会氏とは同族なること明白なれど、同一家なりしや否や詳かならず。ーーー伊勢国造家即度会神主なりしか。」としている。
さらに複雑なのは度会氏は一時「石部氏」と称されていた。これは磯部氏とも記し、伊勢地方に太古以来住んでいた漁労航海を職業としていた一族である。
海洋氏族安曇氏と同類の海部氏族である。後に「伊勢部」とも言われた。伊勢国造はこれらの一族も束ねていたのである。この磯部氏としては「猿田彦神」伝承を有する「宇治土公氏」もその出身であるとされている。
度会氏の遠祖「天牟良雲」は天孫降臨に供奉したとされているが、本当は伊勢土着の海洋氏族、又は丹後半島付近の海洋氏族を中心に発生したとされる「豊受神」を祀る日本海側の漁労氏族がいつの頃かは不明だが伊勢国に住み着き、度会氏の祖となったのではないか。
という説も有力になっている。この説に従うと度会氏遠祖は火明命(ほあかりのみこと)
と繋がり元伊勢神社として有名な丹後の「籠神社」と関係し、豊受大神へと連動していくわけである。そしてその延長上に鎌倉時代に度会氏によって興された伊勢神道へと繋がっていくのである。
とにかく、これらの神の裔として垂仁朝の人物として登場してくるのが 「大若子」である。伊勢風土記などにも記されている人物である。この人物こそ垂仁天皇皇女倭姫が天照大神(八咫鏡)を伊勢の五十鈴川川上に祀られたとき、その宮の大神主になったとされている。鎌倉時代に著された「倭姫命世記」では伊勢国造・神国造(神宮の付近は特別視され神郡とされた)と記されている。度会系図ではこの人物こそ、伊勢神宮の初代大神主という扱いにしている。即ち度会氏は伊勢の地に天照大神が祀られた最初から斎王である倭姫を助け、その神宮(この時代は祠規模であったであろうが)で神を祀る神主の役割をしたのであることを主張しているのである。
人物列伝的には大若子の弟である「乙若子」を初代としてその直系血族を記した。平安時代に編纂された豊受大神宮禰宜補任次第(以後略:補任次第)・度会系図などを参考にしてこれ以降の人物については記す。度会氏は途中、神主氏・石部氏・神氏・度会氏など氏名(うじな)は変遷しているがそれは付してない。
大若子の弟乙若子は景行天皇・成務天皇・仲哀天皇時代に皇太神宮の大神主となっている。以後歴代天皇の名前と大神主の名前が度会系図・補任次第には記されている。
注目すべき人物は直系5代に相当する「大佐々」である。雄略21年(477年?)に天照大神の託宣により豊受大神を丹波国与謝郡真丹原から大佐々が伊勢国山田原に迎え奉ったという伝承である。これが現在の外宮である。これにより伊勢の地に2大神が祀られることになり、「二所太神宮」と称するようになった。よって大佐々は二所太神宮初代大神主となったのである。この伊勢神宮としては非常に重要な事項が記紀ともに全く記事が無いのである。現在の多くの学者・アマチュア古代史ファンはこのことに注目している。
上記大佐々の兄弟である5代乙乃子の子供の時代から度会氏は4門に別れ、それぞれ石部姓を与えられた。継体天皇時代である。これ以降10代「御気」まで二所太神宮大神主を度会氏が独占しているのである。11代「兄虫」の時、天武元年(673年)に度会氏はそれまでの二所太神宮大神主の任を解かれ、平安時代の初め頃まで荒木田氏・根木氏・度会氏が共同して内宮・外宮の禰宜職に就くことになった、平安時代初期には根木氏が絶家となり、内宮は荒木田氏が外宮は度会氏が世襲として明治までこの2氏族による内宮・外宮禰宜職の世襲体制が続いたのである。この天武元年に、度会兄虫が初めて豊受宮禰宜となったのである。
ところで度会の姓はどの段階で賜ったのであろうか。非常に分かり難い。
和銅4年(711年)の官符に「庚午年籍(703年)に誤って石部姓を負ったので石部祖父・高志の姓を旧姓に戻し渡相神主とした」とある。しかしそれより遙かに古い継体朝に4門に分かれた時石部姓となっている。それ以前が度会姓であったかどうかは不明である。伊勢国度会郡に存在していた豪族であったことは間違いない。しかしその後も神主氏・神氏と通称されていたようで度会の姓を賜るという公的な記事は長保3年(1001年)になってからである。
これ以外にも色々な説がありよく分からない。神主姓・神姓・石部姓・石部神主姓・度会神主姓・度会姓などが入り乱れて記されているようである。
 
 さてここで例によって一代当たりの年数を推定してみたい。
初代は垂仁ー仲哀時代の人物と推定されるので325年生まれと仮定する。11代兄虫は650年生まれと推定。平均33才/一代となる。これは当時としては若干長いと思うが合理的範囲ではある。細かく見ると
初代は325年生まれー6代450年生まれ(以上25才/一代)ー11代650年生まれ(40才/一代)となり、雄略朝以降の系図が怪しいとなる。これは逆に雄略以前の系図が出来過ぎであり後年に造られた可能性を秘めており、雄略以降はほぼ伝承されたものに忠実に記されており、一部抜けがある可能性を示唆している。ともいえるのである。
ちなみに伊勢神道を纏めたことで有名な「度会家行」は1256年生まれである。これを系図に従い11代兄虫以降の平均一代年数を計算すると、33才となる。兄虫以降の系図はほぼ正しいと考えると、大佐々ー兄虫間が系図に若干の不備があると推定する。
「大佐々」以前は間違いなく後年の辻褄合わせみたいなものを感じる。
しかし、記紀に記された天皇の生没年から計算された一代当たりの年数とは明らかに異なり、ほぼ合理的年数なのでどの段階でこの系図の作成の原点があるのかは不明だが、例えば平安時代初期と仮定して、これらの豪族らも記紀天皇寿命(特に仁徳天皇以前)の不自然さは、いくらそれとの整合性をはかるとしても不合理と判断したのであろうことが分かる系図である。(例えば景行元年は日本書紀に従えばAD71年となる。これを基準に初代ー6代までの平均一世代年数を出すと75才以上/一代となる)
伊勢神宮に国(朝廷)が明確に関与し、皇祖神を祀る神社の中のトップの特別な扱いになるのは史実的には天武天皇以降である。というのが現在の通説といえる。
それも徐々にその体制を整えたとされる。きっかけは壬申の乱(672年)に際し天武天皇が伊勢の皇大神宮?を望拝し戦勝祈願をしたことに始まる。とされている。
@673年度会二所太神宮大神主を廃し、度会氏を禰宜職にする。
A大来皇女を伊勢神宮斎宮とする。(斎宮制度確立)
B祭主の創設。中臣意美麿任命。祭主の下に大宮司を設置。各禰宜はその管轄下におく。
C685年(688年?)式年遷宮制定。
さて度会氏の系図はこれ以降も連綿と続くが二門・三門・四門の人物列伝をそれぞれ参考にして頂きたい。中でも主流は二門「春彦」流れでありこの流れから多くの公卿家が輩出された。本流松木家は明治になって男爵となった。
この中で特記すべき人物は鎌倉時代に伊勢神道を確立した「度会家行」である。
これは度会神道とも呼ばれ豊受大神(外宮祭神)を天照大神(内宮祭神)と同等或いは
同等以上の神であるという教説で当時の社会に大きな影響を与えたと言われている。
家行は本流度会氏ではないが、外宮の神官の出身であったが一連の活躍でついには外宮の禰宜にまでなり、従三位にまでなった人物である。
伊勢神道は家行一代で完成したものではない。歴代の外宮の神官達が、朝廷や内宮関係者及び日本の色々な神社関係者に対して、伊勢神宮の神々に対する誤った解釈を正そうとする活動であった。神道五部書がその教典で、中でも「倭姫命世記」が中心的な書とされている。「倭姫命世記」は鎌倉後期の書物だがその原典は奈良時代に編纂されたとされている大神宮本記(伊勢古記録)だとされ、現在でも価値ある文献の一つとされている。
 
さてここで伊勢神宮関連年表を参考に度会氏の足跡を辿ってみたい。
国の公的記録である古事記・日本書紀には具体的に度会氏についてはどこにも記されていないのである。古いことは「伊勢風土記」に記されてある。後は度会氏自身が関与したと思われる豊受大神宮禰宜補任次第・度会系図・倭姫命世記・二所太神宮例文・大神宮諸雑事記・神道五部書などの伝承記録の記事が中心である。
筆者は次ぎのような疑問・考えを持っている。
@度会氏は政治的にも実力的にも伊勢国の地方豪族であり、中央の政治には殆ど影響力はなかった。
A天武天皇時代以前は少なくとも伊勢神宮の祭祀に関しては世襲的にトップの座にあった。荒木田氏らも併存したかもしれないが、度会氏の方が常に上位にあったと推定される。
B度会氏の氏神は、天照大神ではない。豊受大神でもない。
C度会氏が伊勢国で皇太神宮として天照大神を祀ってきたのは史実であると考える。何故天照大神を伊勢の地で度会氏が代々祀ってきたのか?謎である。
D皇祖神「天照大神」という神はどの時代に生まれたのか?度会氏とどう関係するのか。
E度会氏が豊受大神を伊勢の地で祀らねばならなくなった理由が不明である。
F天照大神と豊受神が何故ほぼ同格の神として伊勢神宮では祀られているのか。主祭神
天照大神・配神:豊受神で具合悪い理由は?
Gそもそも豊受神なる神はどのような位置付けの神なのか。古事記に一寸記されているだけで日本書紀には全く記事がない。どう解釈すればよいのか。
H度会氏は天武天皇以降二所太神宮大神主の職を解かれ、外宮だけの禰宜職にされたこと及び内宮の方が外宮より上位の扱いをされたことにも不満であった。
I度会氏と荒木田氏は決して仲の良い関係ではなかったと推定される。
J伊勢神道(外宮の神豊受神こそ神の中の神である、即ち天照大神より上位の神とする思想の確立。)を度会氏を中心に誕生させたのは鎌倉時代であるが、これは中臣氏(大中臣氏))藤原氏との非常に長い期間の色々な軋轢の結果生まれたものである。
最後にこの度会氏の系図はどの時代に成立したのかを考えてみたい。系図の類は代々引き継いでいくものである。その最初はどの時代であるかは非常に特定が困難なものとされている。筆者なりに判断して度会氏の場合、673年の度会兄虫が初めて豊受宮禰宜に任じられたという補任次第の記事に注目したい。天武朝になり伊勢神宮は徐々に国家管理体制が導入されることになる。それまでは伊勢神宮のトップは度会氏であったであろうから、人事は自分らの裁量で行われたはずである。
 
10−2)荒木田氏
 荒木田氏は中臣氏と同族とされ記紀に垂仁朝に五大夫の一人に任命されたと記されている大鹿嶋命の孫「天見通」から始まる伊勢神宮の神官氏族とされている。
大鹿嶋命は日本書紀には倭姫の大神奉祀祭りの「御道駅使」に任じられた。荒木田系図では垂仁25年の天照大神が五十鈴川上鎮座の時祭主を務めたなどの記事がある。
その孫である 「天見通」が大神宮関係の荒木田氏関係の記事では倭姫の時から大神宮の初代禰宜となり世襲したとある。6代最上の時二所太神宮例文によれば成務天皇の時御饌田を奉った功で荒木田神主姓を賜ったとある。17代石敷は天智・天武朝の人物に思われるがこの時以降荒木田の3文字が無くなり神主姓となる。荒木田姓が復活するのは879年である。さて石敷の子供の時代から一門・二門に分かれるとある。そしてこれ以降この2家が内宮の禰宜職を世襲とある。ここまで度会氏と異なり大神主に荒木田氏がなったという記事は伊勢神宮関係の文書にも全くない。(神主という表示は沢山ある)
荒木田氏はその後内宮の禰宜職を世襲し、多くの公卿も輩出した。明治にはその本流は男爵となった。
全般を通じて荒木田氏は外宮に関与した記録はない。
荒木田氏が歴史的に浮上するのは天武天皇以降である。それ以前にも伊勢神宮に関与してきたのであろうが度会氏に比して影が薄い。
荒木田氏も元は磯部氏に関係しており度会氏の下で神官として伊勢神宮に仕えていたがどこかの段階で中央の中臣氏の配下に入り中臣氏の系図に入り、やがて中臣氏・大中臣氏の時代になり皇祖神天照大神を祀る伊勢神宮内宮の実権を握って度会氏の内宮への関与を排除し、禰宜職独占に成功した氏族であるという説が有力か。
伊勢神宮誕生に関する諸説では、荒木田氏は殆ど無視されているように思える。
歴史的には奈良時代以降伊勢神宮は内宮が中心であり外宮は下位の扱いを受けたらしく、それが伊勢神道誕生の引き金になったと考えられている。
 
10−3)(参考)河辺氏
中臣御食子の流れが大中臣真助を経て則長の時伊勢大宮司となり以後この流れがこの職を世襲することになり、河辺姓を名乗ることになる。公卿を輩出し、明治には本流は男爵となる。系図解説等は省略する。この氏は藤波氏とともに中央朝廷内の役柄として天武朝以降に発生したもので常に度会氏・荒木田氏の上位者として伊勢神宮を管理する氏族であった。詳しいことは省略する。
10−4)(参考)藤波氏
中臣意美麿の流れが大中臣氏の本流となる。右大臣にまでなった清麻呂が大神宮祭主となり以後この流れが祭主を世襲することになる。この流れから岩出氏が出てこの嫡流が藤波氏を称し、堂上大中臣氏となり多くの公卿を輩出。明治になって本流は子爵となる。
 
10−5)伊勢神宮
 度会氏・荒木田氏を理解するには、どうしても「伊勢神宮」についてある程度の予備知識が必要である。ところがこれが難物中の難物である。伊勢神宮に関する文献・古文書の類は日本中に沢山ある神社の中でも断然トップの量があると思われる。現存する最も古い書物である古事記・日本書紀にも多数関連記事がある。伊勢国風土記・先代旧事紀・古語拾遺など、さらに続日本紀などの公的記録。平安時代初期(804年)に編纂されたとされている伊勢神宮が発行した「皇太神宮儀式帳」「止由気宮儀式帳」(延暦儀式帳)などがある。また927年の延喜式の中の「伊勢大神宮式」など。鎌倉時代後期の神道五部書特に「倭姫命世紀」なども有名である。これらの文献は伊勢神宮に関しては細部では異なるが大きな流れとしてはほぼ同じことが書かれていると筆者は判断している。その概略を記すと以下のようななる。(伊勢神宮関連年表参照・前述伊勢神宮HP記事参照)
@10崇神朝に宮廷内に祀られていた皇祖神「天照大神(八咫鏡)」を宮廷外(大和国三輪山の麓笠縫邑)で崇神天皇の皇女「豊鋤入姫」に祀らせることになった。
A11垂仁朝に皇女「倭姫」が豊鋤入姫に替わって天照大神を祀ることになった。
B倭姫は天照大神を祀る場所を転々と移し(その場所を元伊勢と呼び、その数は文献により異なる)ついに伊勢国五十鈴川上に安住の場所を定め、これが伊勢神宮の始めとなった。(内宮の始まり)
倭姫が最初の斎王となった。(度会氏・荒木田氏はこの段階から伊勢神宮に関与)
C12景行朝に「倭武命」が東国征伐の折に伊勢神宮の「倭姫」を訪ねた。草薙剣伝承。
D21雄略朝に天照大神の託宣があり「等由気神」を丹波国与謝郡真丹原より伊勢国山田原に迎え祀った。(外宮の始まり)  (この記事は記紀共に記載なし)。
E日本書紀には用明天皇までの何人かの天皇の皇女らが斎宮として伊勢神宮に仕えた記事あり。(古事記には無い)
F672年天武天皇(大海人皇子)が壬申の乱の時、伊勢の皇大神宮を戦勝祈願のため望拝した。(紀)
G天武朝以降律令制度とともに日本の神祇制度の確立がされていった。その一環として伊勢神宮の国家管理体制も整えられた。斎宮制度・式年遷宮制度・祭主制度など。
(この段階でそれまで伊勢神宮の実質的トップであった度会氏は外宮禰宜職という脇役的存在になった。)
H712年古事記編纂・720年日本書紀編纂による神話・天皇家系図の整備、主立った古代豪族の出自・系譜などの整備、などが行われた。
この中で天照大神の位置づけ・伊勢神宮の位置づけなども記された。
Iこれ以降伊勢神宮は沢山存在していた神社の中でも特別な存在であることが明確になる。神の中のトップ神(太陽神)であり、皇祖神である「天照大神」を国としてお祀りする伊勢神宮こそ日本の神社の総元締めとしたのである。
 概ね以上が江戸時代末までの日本人の伊勢神宮に関する歴史観だったと思われる。明治時代に入り、軍国主義の台頭によりこの思想はさらに過激になり「国家神道」となり、伊勢神宮はその中心的存在となったのである。この体制は終戦まで続き1945年連合国最高司令部より神社は国家から分離された。
 戦後専門の歴史家の間で記紀批判が活発になり(それ以前から史実と記紀記事との乖離問題は色々研究はされてはきたが)記紀神話・伊勢神宮誕生などにも多くの問題指摘がされてきた。伊勢神宮に関連するものとしては主に下記の様な事項である。
これらのことは現在も議論百出の観がある。信仰問題が背景にあるので難しい議論になるのは避けがたいし、一部は感情問題化してるようにも思える。
筆者のような素人が本件のような微妙な因子が絡む事項にとやかくいうことは差し控えるべきかも知れない。しかし、日本の古代史に興味を持つ一国民として現時点で伊勢神宮問題がどんな感じに写っているのかは、出来るだけクールに述べてみたいと思っている。
あくまで筆書の独断と偏見で選んだものである。
 
a.天照大神に関係する神話形成に関するもの。
@記紀に記された記事を基本的に踏襲する説。
天照大神(又は天照大御神)は神代の昔より太陽神であり我が日本列島の国土・国民総ての守護神であり、天皇家の皇祖神である。崇神天皇の時代(この時代も諸説あるが4世紀前後位に大和王権が原初的に誕生し、初代大王が10崇神天皇とする説が、主流か?)から少なくとも朝廷(王権内部)では信じられてきた神である。
A記紀神話は創作されたものであり、天照大神も創作神であるとする説。
戦後の大多数の説は多少の違いはあるがこの範疇に入る。その中味は百花繚乱である。
・記紀編纂の主目的は、万世一系の天皇家と天皇家は他の氏族とは全く異なる「天照大神」という皇祖神の直系子孫であり、他のいかなる氏族もこれを犯すべからず。という思想を徹底するために編纂したのであるから、この思想に反する史実は記録から排除し、この思想を支援する史実は積極的に記載し、それだけでなく史実でもないことを色々の時代に創作・粉飾して一見合理的な記事としている。記紀神話は一見神話の形態をしているが、これこそ朝廷内部で創作・組み立てられたもので一般的な神話とは程遠いものである。
 
b.天照大神と天皇家系図の関係。 皇祖神。
これも基本的にはa.と同じく大きく分けて両論ある。しかし、現在では天皇家が初代神武天皇10崇神天皇と繋がりそれが神代までという概念が史実だとする説はごく僅かだと判断する。信仰としての「天照大神」と史実としての崇神天皇以降の天皇家は別物であるという説に多くは傾いていると判断する。
 
c.天照大神を伊勢神宮に祀る伝承の史実性。斎宮伝承の史実性。
@記紀に記された記事を基本的に踏襲する説。
伊勢神宮は記紀に記されているように、垂仁26年に倭姫命が天照大神を伊勢国に祀ったことに始まるとしか言いようがない。これを史実に反するとする明らかな証拠はない。
A伊勢神宮誕生に関する記紀、特に日本書紀の記述は創作・粉飾記事であるとする説。
伊勢神宮の祭神である天照大神自身が相当後世の創作神である。崇神・垂仁・景行朝くらいの時代にこの様な神の信仰は一般豪族クラスは勿論朝廷内部で確立していなかったとみることが諸般の発掘調査・日本以外の東アジア情勢などの研究結果・諸文献調査などから妥当。
B現伊勢神宮の原型みたいな社は21雄略天皇時代以降に誕生したとする説。
この説が現在の主流かなと筆者は判断している。
雄略朝は5世紀中頃と推定されている。この大王は実在がほぼ間違いないとされている。この頃の日本列島の状況・王権の状況・伊勢国の状況・豊受大神遷宮の真否など諸情勢を判断しての説である。
C現伊勢神宮の原型は天武朝以降に誕生したとする説。
この説は、天照大神は持統天皇をモデルにしたいう説とも連動する説であるが、律令制度・斎宮制度とも連動し、史実的に間違いないという説の一つである。伊勢神宮が間違いなく存在していたという史実立証が出来る説とされている。
 
d.伊勢神宮は史実としてどの時代に創建されたのか。
これは基本的にc.と同じである。一般的に伝承と史実の間にはギャップがある。記紀に記されたことは、伝承なのか、意図的創作・粉飾なのか・史実なのか、編纂者の勘違いミスなのかを見抜くのは非常に難しい。本件では伊勢神宮自身が編纂した多くの古書がある。これ以外にも古語拾遺・先代旧事紀・伊勢国風土記・海部氏系図など多くの古文献がありその比較検討がされている。
史実として間違いないとされる最も古く大多数が認めざるをえないのは、上記Cであると言える。しかしこの説の裏には思想的に全く別の解釈が見え隠れするので筆者は釈然としないものを持っている。この点は後述する。
 
e.豊受大神とは一体どんな神なのか。何故伊勢神宮に天照大神とほぼ同格の神として祀られてきたのか。
最近になって賑やかになってきた問題である。
@豊受大神は天照大神の御饌都神であるとする説。
この神は日本書紀では全く記事なし。等由気宮記に由来が出てくる神で一種の天照大神の随神的臭いが拭えない。なのに何故伊勢神宮では古来ほぼ同格の神的扱いをしてきたのか謎につつまれている。この説ではこれに対する答えが得られない。
A豊受大神は天照大神と同等もしくは格上の神であるという説。
伊勢神道の考えにほぼ同じ説である。信仰問題に直結するので微妙な説である。
B豊受大神こそ伊勢土着根源的な神であるという説。
これに類似の伊勢国に元々存在していた原始太陽神信仰と天照大神の習合したものが現在の内宮天照大神の源像であるという説にも通じるところはあるが、この説の原点は豊受大神の発祥地である丹後半島付近と伊勢国・度会氏の出自に結びつける説と解している。
C豊受大神が祀られていた所に後に天照大神が併せ祀られるようになったとする説。
これもB説に近い説。上記c.d.とも関係し皇祖神「天照大神」が後世に誕生した本来的な天皇家の皇祖神ではないことを暗示している。
 
f.伊勢神宮の誕生と大和王権誕生の関係は史実的にはどうなっているのか。
大和王権誕生・天皇家誕生・皇祖神誕生・伊勢神宮誕生は連動した因子である。
イ、大和王権誕生は現在では史実としては3世紀末から4世紀初めとする説が通説。
ロ、天皇家誕生は記紀では大和王権誕生と同一としているが史実としては現在では切り離して考えるのが通説のようである。即ち史実としては、10崇神天皇から26継体天皇までは血脈として同一氏族でない可能性を否定出来ないとする説が通説である。26継体天皇以降は天皇家として血脈は間違いないとされる。
ハ、ニ、伊勢神宮誕生は皇祖神「天照大神」誕生問題と連動している。即ち天皇家の万世一系問題と連動している。議論百出事項。通説は現段階で史実として遡れるのは21雄略朝までであるとしている。

g.記紀は何故、天照大神・伊勢神宮などの記述を史実と乖離した形にしたのか。
などなどである。
これが難物である。
記紀編年では10崇神天皇でさえ西暦紀元前になってしまうのでこれは論外である。しかし一部神社関係などの資料には現在でもこの記紀編年を使用しているものもある。筆者はこれは採用しないことにする。
最近の大多数の資料は10崇神を3世紀末から4世紀始めの人物としているのでこれを採用した上で伊勢神宮問題を論じることにする。多くの資料もこの方式をとっている。
前述の伊勢神宮関連年表も一種の換算をして見る必要があるのである。神代は別にして10崇神は約AD300年として21雄略天皇を457年頃の人物とするのである。このようにして記紀に記されている伊勢神宮関連の記事を史実とそうでないものを峻別しようとする研究が色々の角度から行われているのである。勿論議論百出の世界である。
よってこの初期大和王権誕生と密接に関係して伊勢神宮が誕生したかどうかを論じる必要がある。
@記紀に記された記事を基本的に踏襲する説。
大和王権誕生が4世紀前後の崇神朝であると認めた上で、史実として伊勢神宮は崇神ー景行朝に皇祖神「天照大神」を祀る形で誕生した。
A伊勢神宮の誕生は天武朝以降であるとする説。
日本書紀はこの史実(伊勢神宮の創建は天武朝以降であった)を隠すために色々な史実としてはなかった創作記事を色々な時代に割り振って記し、伊勢神宮の存在を権威付けた。ひいては天皇家が皇祖神天照大神の神裔である特別な一族であること、万世一系であるとして記して権威付けたのである。これこそ記紀編纂の主目的であった。
B伊勢神宮誕生の史実は雄略天皇以前には遡れないと言う説。
c.と関係するが史実を立証することは困難であるが、c.ーCという史実が突如伊勢神宮誕生の原点とするAなどの説には多くの疑問がある。よって類推として雄略朝頃までは遡れるがそれ以前という根拠はない。
これらを別の表現をすると、
イ、記紀編纂者はこの辺りの史実をある程度知っていた。にもかかわらず意図的に記紀編纂の主目的のために記紀のような記事に組み立てたのであるという説。
ロ、記紀編纂者のもとには伊勢神宮をはじめ色々な方面からの伝承・情報が寄せられていた。これらをある程度合理的に年代順に組み立て再編成した結果がこのようになったのであって、朝廷サイドが意図的にこのようにしたのではないという説。
ハ、古事記と日本書紀では細部では色々異なる記述になっている。神話・神武天皇東征伝・伊勢神宮誕生伝など細部に亘る検証が重要。その中に謎を解く鍵が秘められている。という説。
ニ、日本書紀の伊勢神宮関係の記述が史実と乖離していることは認める。しかしこれは何も伊勢神宮関係だけではない。出雲大社関係もそうであり、多くの古代豪族の出自関係、対朝鮮半島関係など多岐に亘っても見られることである。これらのことを総て思想的・政治的に意図的に創作・改竄・史実をねじ曲げたというのは逆に問題であると言う説。
などなど諸説ある。
筆者は戦後の歴史学者が記紀批判をすることにより日本の古代史を見直そうとしたこと、及びその果たした貢献は非常に大きいものがあったと思っている。
しかし、その反面多くの逆の史実のねじ曲げ的な因子も産んだのではという反省も興っていると判断している。1,000年以上も前の史実を立証することは至難の業である。ましてや文字記録の無かった1,500年以前のことは、現在では考古学・発掘調査などに頼るしかない面が多い。
伊勢神宮問題は信仰問題・思想問題が歴史的に複雑に絡んでおりその真の史実の探求を阻んでいることは否めない。
筆者は上記ニの説に近い考えを持つようになった。伊勢神宮の伝承記録も総てを無価値だと切り捨てるのではなく、また元伊勢伝承、遷宮伝承(含:建築様式)、斎宮伝承など多方面の伝承記録がはたしてどこまで史実としてたどれるのかクールに検証することも大切だと思う。その一方で度会氏・荒木田氏の伝承も無視出来ないものがある。共に一種の対立関係にあった氏族であり、度会氏については中央の中臣氏・朝廷とも直接関係はあまりなかった氏族である。これの真の姿を知ることこそ、伊勢神宮の真の姿を知ることになると判断している。
 
10−6)筆者の視点
 筆者の住んでいる京都府長岡京市には「乙訓寺」という古刹がある。寺伝では推古天皇の勅命により聖徳太子が建立した寺とされている。市の教育委員会の発掘調査の結果では、瓦などの分析の結果、白鳳期の建物跡があったと分かった。寺伝と約50年の差があることになる。埋蔵文化財センターの専門家にお聞きすると、「発掘調査から分かることは限られている。この結果から言えることは少なくとも白鳳期には乙訓寺が存在していたということであり、それ以前に例えば茅葺きの庵みたいなものがあったかもしれない。それは発掘調査では分からないのです。」一般的に、 日本の古いお寺(瓦葺き)は比較的その存在年代を特定し易い。しかし、古いお宮の類は、石造物・焼き物の類(素焼き土器類を含む)でも発掘されない限り、その存在年代を特定することは非常に難しいらしい。伊勢神宮付近で斎宮跡が発見され国史跡に指定され現在発掘調査が行われているようである。その規模が余りに広いので発掘には長年月かかるらしい。
 さて我々日本人の祖先達は、伊勢神宮のことをどのように考えていたのであろうか。
昔々の大昔に(太陽神であり、日本列島の守護神であり、八百万の神々の総元締めの神様)天子様の祖神であられる「天照大神」を伊勢の地にお祀りしたのが伊勢神宮である。この神様は元々は伊勢神宮以外には祀られてなく、皇室の氏神であり、天子様及び皇后様・皇太子様以外の奉幣は禁じられていたものであるが、時代とともに一般国民にも信仰の対象となった。 とされている。()内のことは時代とともに付加されたのではなかろうか。
よって古代のことだけを考えれば、多くの貴族・古代豪族を含めた一般国民には殆ど関係ない存在の神社であったとも言えるのではなかろうか。
当時各貴族・豪族もそれぞれの祖神・氏神を祀るのは普通であり、大王家がその祖神をどこかに祀るのも当たり前であったのではなかろうか。
信仰対象としての伊勢神宮問題には筆者は触れないものとしたい。
洋の東西を問わず信仰の問題と史実の問題は一般的に切り離して議論されているのが通例である。
日本の多くの神社仏閣にはそれぞれ由緒書なるものが残されている。
一見現在の論理的な目で見ると不合理と思われる事象・記事なども記されていることは事実である。しかし、筆者はこれらは伝承されてきたこととして大切にしていかねばならないという視点でとらえている。
しかし、日本の古代史解明という歴史的史実を追求する視点に立てば、信仰問題とは別の
科学的な合理的視点が要求されるのは当たり前である。この観点にたった記紀批判・伊勢神宮問題などの真実の探求は重要であると判断している。
伊勢神宮問題は、出雲大社、阿蘇神社、諏訪神社、石上神社、大三輪神社などと異なるのは、皇祖神「天照大神」を祀り少なくとも天武朝以降は国家神的扱いになったことにある。
戦後に花開いた記紀批判・伊勢神宮問題の中心は、明治時代以降の皇国史観・神国日本的な歴史観が我々国民を誤った方向に扇動し、あの第2次世界大戦を引き起こし、我が国を滅亡の淵に陥れ、近隣アジア諸国にも多大な不幸に導いた原因の一つであると考え、その
根本原因であったのは古事記・日本書紀の記述であり、伊勢神宮の存在であったとしたのである。この考えには異論も多数あろうが戦後の日本古代史解明の画期であったと筆者は判断している。
そもそも皇祖神「天照大神」という概念が、天皇家(大王家)を史実として他のいかなる氏族とも異なる神裔として認め、その神裔だけが我が日本国(倭国)を統治する資格があるということを万民に認めさす概念であり、これを公的に記したのが今から1,300年程前に編纂された記紀である。と考えた。これこそ日本の天皇制の根本理念を植え付けたものと位置づけたのである。この考えは江戸時代でもあった考えであり多くの知識人は理解していたことである。
戦後の記紀批判は、単に記紀記事と史実の乖離を問題にしただけに留まらず、この問題を天皇制否定・国家体制の改革などという一種の政治問題・思想問題に利用しようとした人達がいたことは間違いないと筆者は判断している。
現在の政治問題・思想問題を論じる際に、1300年も前に記された古事記・日本書紀の編纂目的・思想及びそれに基づいて記された記事を批判することにより、自分らの都合の良い考え方に基づいて日本の古代史を書き換え、その考えを現在の一般国民に植え付けようと企んだ?学者集団が勢力を持った時期があったようである。
このような言動も逆の意味で明治以降の皇国史観と同じように大変危険(日本の古代史を歪にする)な問題をはらんでいたのである。
記紀の編纂方針・目的それに基づかれたと思われる史実と異なる記事に疑問を持ち批判をし新たな合理的証拠に基づき史実を書き換える努力をすることは非常に重要であるが、あくまで科学的・学問的根拠に基づいて、史実との乖離を解明することこそ最も重要なことである。
記紀編纂当時の指導者の思想が現代人である学者個人の思想と相容れないもの、誤った考え方であるとして、これを批判攻撃して何の意味があろうか。
そうではない、その精神思想を現在に踏襲しようとする勢力・思想を問題にしているのであると反論するかもしれないが、学者個人の思想を押しつけ、それを正当化する材料の一つとして記紀記事そのものを利用することは、少なくとも筆者は同意出来ない。
最近の若い歴史学者を中心に、戦後の一種のやみくも?・感情的にも思える記紀批判を逆にたしなめ、各種発掘調査、中国・朝鮮半島などの文献調査・発掘結果、民俗学、神社伝承学?、言語学など多方面の研究結果なども広く取り入れて、日本古代史の史実の解明をしようという我々が望む本来の姿に発展しているように思える。当然記紀記述との対比が行われている。頑張ってもらいたい。
 記紀には神系図が記されている。記紀では細部では異なるが、さらに国津神・天津神の区別もされている。この神系図は記紀編纂者が創作したものである、との説もあるが大和王朝が誕生して以来徐々に醸成されてきてその大勢は欽明朝頃には出来ておりさらに蘇我馬子・聖徳太子の時代にはほぼ確立していたとされていたと考えるのが妥当とする説を筆者は支持してきた。勿論これには異論も多くある。日本書紀の天照大神の概念が創作的に確立したのは持統天皇時代であるという説がその典型例である。筆者は皇祖神「天照大神」が男神・女神議論は別にして天照大神思想は相当以前からあったものと推論している。現在伊勢神宮の創建時期をどこにするかに関しては、21雄略天皇時代までは確実な立証証拠はないがある程度合理的に何とか遡れるが、それ以前に遡れる証拠はないという考えが通説のように思える。その雄略朝まで遡れる高祖神も天照大神と呼ばれていたかどうかは確たることは言えないが、伊勢の地に高祖神を祀る神社らしきものが史実として存したことは認めざるをえないというのである。
この高祖神という概念は、同時に万世一系の天皇家という概念と結びつくのでややこしい訳である。戦後の学者の多くは、この万世一系の天皇家の存在を認めたくない、よって皇祖神「天照大神」の言葉が10崇神天皇の条に登場する日本書紀の記事は認められない、史実として認めざるをえないのは、天武朝以降の伊勢神宮に関する記事からである、また記紀に記されている神系図なるものも総て天武朝以降に朝廷で創作されたものと考えるのが妥当であるとした。
この考えは余りに極端であるとして、色々の角度から見直しもされた現在の説が、上記雄略朝からであるという説などである。雄略天皇は実在したことがほぼ確実視されている大王である。雄略朝は、現在では457年頃から始まるとされている。崇神朝は300年頃と推定されている。皇祖神概念の誕生に関して日本書紀と現在推定との間には約150年位の差がある。記紀が編纂された700年頃から見た400年位前の記述だとしたらこの謎の150年がそんなに大きな作為的ものと判断すべきことであろうか?ざっくばらんな現在の一般人的感覚からすれば、目くそ鼻くそ的誤差である。でも学者的感覚からすれば、そうではないらしい。
一方度会氏関係の史料から見ると、雄略朝に豊受大神を丹波国から伊勢に遷祀したとある。この記事は記紀共に記載が無い。しかも豊受神が伊勢に祀る以前から伊勢の地で皇祖神「天照大神」を大神主として祀ってきた一族であることが明記されている。
自分らが祀ってきた神の順番史まで史実に偽って伝承しなければならない事情が度会氏側にあったのであろうか。
史実は度会氏が伊勢の地で元々祀っていたのは度会氏の遠い祖先に縁がある丹波神である豊受神であり、そこへ太陽神であり皇祖神である「天照大神」が朝廷側の事情により大和から伊勢に遷されて来たため共に度会氏が祀ることになったのである的説もあるが、筆者は現時点ではこの説にも合点していない。
豊受大神の伊勢神宮での扱いに筆者は謎を解く鍵が秘められていると思っている。さらなる研究が必要と判断している。
古事記が何故伊勢神宮誕生に関して記事を残していないのかも謎である。倭姫や倭建命伝承は日本書紀と同一ではないが記されてある。
伊勢風土記の日本書紀に記されていない各種記事も謎である。奈良時代に編纂されたという大神宮本記(伊勢古記録)を元に鎌倉時代に編纂された「倭姫命世記」の元伊勢伝承記事も無視出来ないのではなかろうか。
伊勢神宮に関する史料は総て、日本書紀の記事を参考にしたもので史実解明として利用出来る物ではない、とする考えに筆者は非常に抵抗感を持つ。自分らの考えにそぐわない史料は総て色々理由をつけて排除しているようでならない。斎王問題にしてもそうである。
倭姫は架空の人物・倭建伝承も架空と切り捨てて考えろとされている。熱田神宮はどうなるのであろうか。
古代史の史実を立証することは至難の業である。立証出来ない記紀記事は虚偽であり創作であるとするのは間違いである。
筆者は神社伝承が総て正しい史実を残しているとは思っていない。しかし、多くの史実のヒントを残しているのではと思っている。度会氏・荒木田氏は古代から共に競ってきた氏族である。荒木田氏の伝承の中に豊受大神に関する記述が全くないことも大きなヒントだと判断している。この両氏は天皇家に匹敵する系図を残している。これも雄略朝以降ならある程度信憑性があるがそれ以前は後世の創作以外の何物でもない、史実の解明には何等供するところ無し、というのが現在の多くの見方だと思う。筆者は古代豪族を色々調査し、アマチュアとしての判断ではあるが、この系図問題を軽々しく扱うことは、少なくともその氏族を知る上では決してしてはならないことだと判断している。度会氏及びそれを取り巻く一族にとっては、この系図は総ての生活基盤の根幹だったと思う。 これがあったればこそ伊勢神宮外宮禰宜職が保証されたのである。中臣氏の力をもってしても度会氏を伊勢神宮から排除出来なかったのである。
(参考)・「斎王」についての私見
日本書記には、11垂仁天皇娘「倭姫」を初代とした斎王(斎宮)についても、記事が幾つか残されている。上述したように制度として確立する天武天皇娘「大来皇女」以前に8名の斎王がいる。これに関係する系譜を、参考系図として記した。既稿「息長氏考」を参考にして以下の私見を記すものである。
この中で14仲哀天皇の娘とされる「伊和志真皇女」だけが母親が不明であり、古来この人物は斎王として疑問視されてきた。よってこれ以外の7名について調べた。
「倭姫」から始まるいずれの斎王も、謎の人物「彦坐王」に端を発するとされる「息長氏」に血脈的に繋がる人物ばかりである。これは単なる偶然とは思えない。
意図的にそうなるように日本書紀編纂者が仕組んだという人も有るかも知れない。
筆者はそうは考えない。斎王は天皇の娘で未婚の者から選ばれたとされている。それだけではない。皇祖神である「天照大神」の御杖代として天皇になりかわって祀るという非常に重要な役割を演じる巫女的存在である。10崇神天皇の時代に「倭大国魂神」を祀る巫女として、その神と血脈的に相応しくない皇女(渟名城入媛命)が任命されたら髪の毛が抜け痩せこけてしまったという話が記載されている。当時の神を祀るということは、現在の感覚では想像も出来ない程「血」の問題が背景にあったと考える。「大田田根子」と三輪神社の関係もしかりである。
筆者が記した記紀準拠系図がどれほど信憑性があるかは分からないが、この複雑な系図から、斎王となる資格がある女性は限られており特定していることが分かったのである。
筆者はその全部が史実であるという勇気はないが、大和王権の根っこの部分の祖先信仰,守護神的因子の中に存在し、堅く護ろうとした強い意志が感じられるのである。少なくとも雄略朝以降の記事はかなり史実を反映していると判断している。
倭姫命世記にも斎王が息長氏の血脈に関係する女性であることは記されていない。
天皇家と息長氏の関係は並々ならぬものがあることは間違いないのである。天皇家の血脈が葛城氏・蘇我氏の血脈に支配された時それを和迩氏・息長氏系の娘達によって浄化する勢力が常にあったことを筆者は幾つかの既稿の中で繰り返し記してきた。和迩氏も息長氏も政治的には全く表に出てこない氏族である。筆者は今もってこの謎が解けないでいる。確かに天武朝の「八色の姓」で天皇家が最も大切だとした真人姓の筆頭が息長氏であったことは史実である。それとこれら記紀に記されている息長氏関係の記事が伊勢神宮斎王人事という問題にも密接に関係があったとは、今までの筆者の知るいかなる文献には書かれていないのである。
現在の通説は「大来皇女」以前の斎王は、史実として存在したかどうか甚だ怪しいとされているのである。「伊勢神宮問題」・「天照大神問題」と同じく「斎王問題」も国家の制度の中に正式に組み込まれたのは天武朝以降であるということは筆者も認める。しかし、それ以前から天皇家の私的なものとして何か素朴な意図の基にこれらのものが営々と存在していたことは間違いないのではと思わざるをえないのである。
息長氏について記紀が意図的かどうかは不明だが、はっきりしたことを記していないのである。朧気にはっきりしてくるのが26継体天皇からである。神功皇后・15応神天皇も息長氏系であり21雄略天皇もである。筆者は倭の五王以降は大王家は血脈的に繋がっていると考えている。それ以前は現段階では王権は存在していたが男系で繋がっているかどうかは微妙。女系を併せて考えれば繋がっていたと考える方が妥当という感じでとらえている。この女系こそ和迩氏・息長氏が関係していたのではと憶測しているのである。
また息長氏は古代丹波地方が関係していたことも感じられる。豊受神も丹波神である。
天皇家の奥深いところで古代丹波国が関わっていたのではなかろうか。しかも血脈的にである。記紀はこの部分を意図的に暈かしているようでならない。

11)まとめ(筆者主張)
@少なくとも度会氏は、皇祖神を祀る伊勢神宮の誕生時から、その責任者として奉仕してきたことは間違いない。伊勢風土記・伊勢神宮関係各種伝承記録などは度会氏の息がかかった記録であることは認める。日本書紀がこれら度会氏の情報に基づいて伊勢神宮関係の記事を挿入したか、その逆だったのかどうかは不明である。非常に類似していることは認める。それなりの配慮をして解釈するべきであろう。「倭姫命世記」は非常に重要な伝承記録だと判断する。荒木田氏は天武朝までは伊勢神宮に関与してきたであろうが、度会氏の蔭に隠れた存在であった。逆に天武朝以降は度会氏を上回る存在となった。
A皇祖神「天照大神」的概念は雄略朝頃(457年頃)には大和王権内には生まれていた。それを祀る大王家の氏神的存在の伊勢神宮は、その頃には創建されていたという説を支持。但し史実として伊勢神宮創建時期が雄略朝以前どこまで遡れるかは不明だが、それより以前である可能性を否定するものではない。またこの時期の皇祖神名が「天照大神」と称されて否かは定かではない。さらなる研究必要。
B度会氏が伊勢土着の豪族として丹波の豊受大神を雄略朝に伊勢に遷祀したことは、史実としてほぼ間違いないと判断する。よって度会氏が丹波国と何らかの関係があったことも窺えるが、それ以上は現段階では謎である。これ以前から皇祖神を大和王権側の何らかの要請により伊勢において祀っていた可能性は、度会系図などからも極めて高いと判断する。
元伊勢伝承は史実を反映しており、大和地方から数10年を経て伊勢国へ皇祖神が遷祀されたと推定される。少なくとも応神朝頃には朝廷内に祀られていた八咫鏡は、大和地方を離れたと推定する。
度会氏が皇祖神を伊勢に祀る以前からこの地で度会氏自身の守護神的な神(これを原初的豊受神と筆者は呼ぶことにする)を祀っていたかどうかは微妙である。即ち原初的豊受神?ー>皇祖神ー>豊受大神の可能性は残されていると判断する。今後の研究必要。
C豊受大神を度会氏が伊勢に祀った理由はさらに研究する必要がある。これが明確になれば逆に天照大神のことも明確になると判断している。
D記紀神話・記紀神系図などが天武朝以降の朝廷内での創作であるという説には与せ無い。大和王権が誕生以来徐々に醸成されていたものが、欽明天皇以降徐々に朝廷内で整理されて、この時期に集大成され成文化され完成したのである。突如として生まれたものでは決してない。
E大和王権が10崇神天皇から30天武天皇まで万世一系であったかどうかは、この伊勢神宮問題だけでは分からないが、その他の今まで明らかにされたことを考慮に入れると、少なくとも倭の五王(15応神天皇)以降は血脈的には繋がっていると考えることが妥当と考える。
F度会氏以外にも伊勢国には多数の氏族が存在しており何等かの形で伊勢神宮の誕生発展に関与してきたことが窺える。
G天武朝以降「天照大神」が国家神とされ、それまでに既に存在していた伊勢神宮がこの国家神を祀る特別な神社として位置づけられたことは間違いない。
筆者は「皇祖神」と「国家神」は全く異なる意味合いに捉えている。皇祖神は一種の氏神であり、この段階は度会氏が大王家の要請を受けて大王家の氏神を斎王を擁して伊勢神宮として祀っていた段階。
国家神「天照大神」になってからは度会氏は、天照大神を祀る神官から外されたと理解している。
斎宮制度・遷宮制度・祭主制度・神祇制度など国としての神社管理体制・伊勢神宮管理体制が整備された。
これ以降度会氏は中臣氏(大中臣氏)の管理下で伊勢神宮(それも外宮に限定された形で)に奉仕することが余儀なくされたが、明治に至るまで現地でのある程度の実権は常時有していた。
                              (7/11/08脱稿)
12)参考文献
・千田 稔「伊勢神宮」中央公論新社(2007年)
・歴史群像シリーズ67「古事記」学研(2002年)
・所 功 「伊勢神宮」講談社学術文庫(2007年)
・武光 誠「古代史を知る事典」東京堂出版(1996年)
・上山春平「神々の体系」中公新書(1972年)
・上山春平「続・神々の体系」中公新書(1975年)
・佐伯有清「新撰姓氏録の研究」全6巻 吉川弘文館(1963年)
・太田 亮「姓氏家系大辞典」
・薗田稔ら「日本の神々の事典」学習研究社(2002年)
・直木孝次郎「日本神話と古代国家」講談社学術文庫(2001年)
・直木孝次郎「日本古代国家の成立」講談社学術文庫(2002年)
・直木孝次郎「伊勢神宮」新日本出版社(1991年)
・伴 とし子「卑弥呼の孫トヨはアマテラスだった」(2007年)
・榎村寛之「伊勢斎宮と斎王」塙書房(2005年)
・水野 祐・松前 建 対談記事 東アジアの「古代文化」7号大和書房(1975年)
・金久与一「古代海部氏の系図」学生社(2004年)
・田村圓澄「伊勢神宮の成立」吉川弘文館(1996年)
・田中 卓「伊勢神宮の創祀と発展」国書刊行会(1985年)
など多数。
・フリー百科事典ウイキペディアの各種関連hp
http//www2.plala.or.jp/cygnus/など多数の関連hpを参考にした。