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22.橘氏考(附:県犬養氏考)
1)はじめに
 平安時代の代表的公家を表現する言葉として「源・平・藤・橘 」という言葉がある。源氏・平氏・藤原氏・橘氏の四氏以外の貴族は、三位以上の公卿にはなれなかった、ということを表現しているのである。勿論例外もあり平安時代を通じてそうであった訳ではないが、それ程栄えた一族の一つとされた「橘氏」について述べたい。
橘氏の起源は、708年「県犬養宿禰三千代」が43元明天皇から橘宿禰姓を賜ったことに始まる。県犬養三千代は命婦(五位以上に叙せられた女官)として40天武天皇時代(41持統朝からだとする説もある)から宮中に仕え、42文武天皇の乳母としても活躍し、それらの功により、女性では珍しく、杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰姓を賜ったとされる。彼女は30敏達天皇の曾孫である「美努王」と結婚して「葛城王」「佐為王」「牟漏女王」を産んでいた。736年葛城王と佐為王は聖武天皇に臣籍降下を申し出で、母の姓である橘宿禰姓を賜った。これが橘氏の始まりである。勿論「皇別氏族」である。
本稿では、橘氏発生の原点である「県犬養三千代」の出身母体である「県犬養氏」についても人物列伝・系図などを示し考察を加えたい。「県犬養氏」は、古い「神別氏族」である。しかし、豪族というには一寸気が引けるマイナーな古族である。しかし奈良時代後期には女性がらみで政治史に関与したのである。それ以後は歴史上全く登場しなくなるのである。一方県犬養三千代は、夫が太宰府に転勤している間に藤原不比等の後室に入り後の45聖武天皇后となる安宿媛(光明子)を産むのである。これが葛城王即ち「橘諸兄」の政治的立場に密接に関係してくるのである。「光明子」とは同腹義兄妹である。
橘氏と藤原氏は初めから 、ややこしい関係だったと言える。天皇家を支えるという意味ではどちらも同じであるが、「官」と「民」の違いはいなめないものがあったらしい。
その後「奈良麿の変」などにより「橘氏」は一時政界から遠ざかるが、諸兄の曾孫の「嘉智子」が52嵯峨天皇の后になった。橘氏からは多くの天皇妃が輩出されるが、后になったのは彼女だけである。これは彼女が絶世の美人であった上に頭脳明晰であり、跡継ぎである54仁明天皇を産んだ事にあると言われている。これを境に橘一族が急速に政治的立場が上がり一時は藤原氏と肩を並べる程になった。しかし、藤原氏の反撃も厳しく徐々に低落し、国司クラスに低迷し、やがて地方に土着する者が増してきた。中央では前稿の多治比氏ほどではないが、中級クラスの公家になってしまったといえる。
10世紀に64円融天皇の時橘好古が大納言に就任したのを最後に歴史上からは一度は消えたのである。この氏族の末裔として有名なのは南北朝時代に活躍し、戦前は忠臣として教科書を賑わした「楠木正成」一族がある。
橘氏が関係する歴史上有名な人物としては、歌人・文化人として喜撰法師・能因法師・性空上人・千観上人・親鸞上人・橘逸勢・和泉式部・小式部内侍・清少納言などである。
また楠木氏の流れとされる武家池田氏も有名である。戦国武将筑後の蒲池氏は橘氏出身かとされている。(筑後橘氏)越智氏と関係する伊予橘氏も無視出来ない存在である。
珍しいとこでは江戸時代の「由比正雪」も関係あると記したものあり。
 政治家として大臣・参議クラスも多々いるが「諸兄・奈良麿父子」を凌駕する人物はいない。
大局的に見れば「橘氏」も藤原氏全盛時代(990年代以降)までの古代豪族の一つであったのである。
ところがこの氏族が平安末期以降に源平藤橘と呼ばれるようになったのは、藤原全盛時代も終わり武士の時代を迎えると少なくとも公家の世界では変化が起こり、日本の政治には直接影響は与えないが、鎌倉時代の末になり橘氏嫡流と言われる流れから三位公卿が続出することになる。但し、大臣にはなっていないようである。ここが他の古代豪族と全く異なるところである。この辺りについては本稿では詳しくは触れない。
2)橘氏人物列伝
橘氏の嫡流は一般的には島田麿・広相・公材・敏政・広房と繋がる流れとされている。
初代を美努王として、これに準拠して列伝する。
 
・難波皇子(?−?)
@父;30敏達天皇 母;老女子夫人(春日仲君女)
A子供;栗隈王、石川王、大宅王など
B蘇我ー物部守屋戦争(587年)で泊瀬部皇子(32崇峻天皇)竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)蘇我馬子、紀男麻呂、巨勢比良夫、膳賀施夫、葛城烏那羅らと共に蘇我方として、参軍した。
 
・栗隈王(?−677)
@父;難波皇子 母;不明
A子供;美努王、武家王
B壬申の乱時筑紫率(太宰帥)、兵政長官、従二位。
 
2−1)美努王(?−708)
@父;栗隈王 母;不明     父を大俣王とする異説あり。
A妻;県犬養三千代(県犬養氏人物列伝参照)子供;葛城王(橘諸兄)佐為王、牟漏女王
B672年「壬申の乱」の際、父栗隈王、兄武家王と共に大宰府にいた。近江朝廷の使者 は、軍兵を徴発するため大宰府に至るが、栗隈王は、これを拒絶。
C681年川島皇子らと共に「帝記及び上古の諸事」の記録、校定に従う。
685年
京畿内の兵器校閲使者。
D694年大宰帥に任じられ筑紫に下向。妻三千代は、同行しなかった。この間に三千代 を不比等に奪われる。
E701年造大弊司長官 正五位下、翌年左京大夫
F705年摂津大夫、従四位下。
G708年治部卿となり死去。贈正二位。
 
2−2)橘諸兄(683−757)
@父;美努王 母;県犬養三千代
A妻;多比能?(不比等女)但し母が三千代でありこの関係疑問あり。尊卑分脈ではこのようになっている。多比能の母が三千代でない(賀茂比売説あり)可能性大。
 兄弟;弟;佐為王、妹;牟漏王女(藤原房前室)異父妹;光明皇后(45聖武后)
 子供;清野?、奈良麻呂、諸方(子供:正方) 別名:葛城王
B710年従五位下。729年正四位下、左大弁。731年参議。732年従三位。
C736年弟佐為王と自ら願い出て「橘宿禰」の姓を賜って臣籍降下した。 橘の姓は、733年に死去した母県犬養橘三千代の姓を嗣ぐものであった。
D737年藤原4兄弟の連続の死により急に中央政権に出てきた。大納言となる。
E738年阿倍内親王の立太子と同時に右大臣となる。以後政界を主導。唐から帰国した玄坊?、吉備真備らをブレーンとして国政の建て直しを図る。
F739年従二位。740年45聖武天皇を相楽別業(京都府綴喜郡井手町)に迎える。 同年「藤原広嗣の乱」勃発。恭仁京遷都推進。正二位。 井手大臣。
G743年従一位左大臣。749年に正一位となる。生前に正一位の例は極めて希。
H745年紫香楽遷都、聖武天皇は、平城京に還都。結局諸兄の脱平城京計画は、失敗。 以後次第に実権を藤原仲麻呂に奪われる。
I750年朝臣姓を賜る。宿禰から朝臣への改姓の初見。
J755年飲酒の席での上皇誹謗の言辞を側近の佐味宮守に密告される。不問となったがこの責を負って官界を引退。
 
・牟漏女王(?−746)
@父;美努王 母;三千代
A夫;藤原房前(正室) 子供;永手、八束(真楯)、千尋(御楯)、
女:北殿(聖武天皇妃)袁比良(藤原仲麿室)
B714年以前に房前室となる。後宮の高官。
C737年夫を失う。  興福寺の「不空羂索観音像」造立
D739年従三位、746年正三位で没。贈従二位。
 
・佐為王(?−737)
@父:美努王 母:三千代
A子供:広岡文成・錦裳・古那可智・真都我・宮子・真姪
B正四位下中宮大夫。文成とともに天然痘で死去。
 
・古那可智(?−759)
@父:佐為王 母:不明
A兄弟:広足、文成、宮子、真都我、広岡綿裳
夫:聖武天皇    正二位。橘夫人。大和国添上郡広岡「善光寺」建立。
 
・真都我(?−?)
@父:佐為王 母:不明
A夫:右大臣藤原南家是公妾 子供:雄友・弟友・真友
夫:参議藤原南家乙麿 子供:許麿
B桓武天皇妃藤原吉子は子供であるとする説あり。伊予親王が孫になる。
C女官、尚侍、従三位。
 
・錦裳(?−809)
@父:佐為 母:不明
A子供:継成        広岡姓となる。
B奈良麿の変に連座。朝臣から宿禰に戻された。その後朝臣に復帰。
C散位従四位上。少納言、山背守。
 
・枝主(?−?)
@父:継成 母:不明
A子供:春成、秋成
B従五位上、図書頭。
 
・春成女(?−?)
@父:広岡春成(従五位上武藏守) 母:不明
A夫:桓武天皇の子葛原親王の子供高見王 子供:坂東平氏祖高望王
 
2−3)橘奈良麻呂(721?−757)
@父;諸兄 母;多比能?
A妻;大原明娘 子供;入居、清友、安麻呂、喜撰 島田麻呂
B740年45聖武天皇が、諸兄の相楽別業に行幸した際、従五位下を授かる。
 大原真人明娘(大原今城の親戚か?**)との間に長男安麻呂産まれる。
C741年大学頭。
D743年正五位上。745年摂津大夫。難波行幸中の聖武天皇が、病に倒れた時、佐伯全成に謀反の計画を洩らす。聖武亡き後、多治比国人、多治比犢養、小野東人らを率いて「黄文王」を立てるとの計画であったらしい。
E749年参議に抜擢される。孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再度謀反計画の実行 を告げるが、全成は協力を拒絶。
F750年父諸兄と共に「朝臣」を賜姓される。
G752年但馬因幡按察使に任ぜられた。754年正四位下。
H757年父没す。奈良麻呂邸他で反仲麻呂派の謀議を開く。山背王(安宿王、黄文王の 同母弟)の密告により謀反計画発覚。反仲麻呂派会合では、黄文王、安宿王、奈良麻呂 古麻呂、多治比犢養、多治比礼麻呂、多治比鷹主(池守の子)大伴池主、大伴兄人ら、 約20名が挙兵を誓った。計画は朝廷の知るところとなり、挙兵は実行されぬまま、捕 まって斬刑?された。連座舎443名。ーーー<奈良麻呂の乱>ーーー
I847年仁明天皇の外曾祖父 奈良麻呂に正一位太政大臣を追贈された。
**「大原真人姓」は、敏達天皇の孫「百済王」よりでている。「高安王」「桜井王」
「門部王」「忍坂王」らの流れとされている。
 
2−4)島田麿(?−?)
@父:奈良麿 母:不明
A子供:真材、長谷麿、常子、有主、常(当)主、女など
B正五位下兵部大輔。
 
・喜撰法師(?−?)
@父:奈良麿 母:不明
A僧・歌人・六歌仙の一人。宇治山に住んでいた僧以外何も伝わっていない。
B「わが庵は都の辰巳しかぞ住む世を宇治山と人はいふなり」(百人一首)
 
・清友(758−789)
@父;奈良麻呂 母;大原真人明娘
A妻;田口氏女、粟田小松泉子。子供;氏公、氏人、弟氏、嘉智子(嵯峨天皇后)安万子
B777年20才の若さで渤海国大使接待役。予言の話あり。
C786年正五位下内舎人。嘉智子誕生。
D833年嵯峨天皇と嘉智子の子「正良親王(仁明天皇)」が即位して正一位を追贈さる。
E墓は井手町にある。
 
・氏公(783−847)
@父;清友 母;粟田小松泉子
A兄弟;嘉智子、安子、子供:岑継、真直(従四位下相模守・陸奥守)
B833年参議、844年右大臣となる。従二位。 嵯峨天皇側近。 井手右大臣
C嘉智子太皇太后と一緒に子弟のための「学館院」設立。
 
・岑継(804−860)
@父:氏公 母:田口継麿女真仲(54仁明天皇乳母)
A子供:氏継、茂生(上総介)
B844年正三位参議・中納言。
C54仁明天皇側近。
 
・氏公女影子(?−?:54仁明天皇妃 子供:なし
 
・氏人(?−845)
@父:清友 母:不明
A子供:清蔭(従四位下少納言)休蔭(治部大輔)
B尾張守・神祇伯、正四位下。
・休蔭()
・休蔭女(?−?):56清和天皇妃 子供:なし
 
・清友女安万子(?−?):右大臣藤原南家三守(785−840)室 子供:なし
 
・橘嘉智子(786−850)
@父;清友 母;田口氏女
A嵯峨天皇后、子供;正良親王(仁明天皇)***、正子内親王(淳和天皇后)
 別名;檀林皇后。
B賀美能親王(50桓武の次男、52嵯峨天皇)の妃となり、桓武天皇皇女高津内親王が后を廃された後、藤原冬嗣らの後押しで815年皇后となった。(橘氏としては最初で最後の皇后)嵯峨天皇譲位後は、夫と共に「冷然院」「嵯峨院」に住んだ。
C上皇崩御後も太皇太后として重きをなし、弟の右大臣氏公と図って橘氏の子弟のために 大学別曹学館院を創建。
D842年「承和の変」にも関与。廃太子恒貞親王母正子内親王(実の娘)との関係悪化。
***(参考)
・正良親王(810−850)
@父;52嵯峨天皇 母;嘉智子
A第2皇子、別名;深草帝 子供;道康親王(文徳天皇)宗康親王、時康親王(光孝天皇)
B823年53淳和天皇の皇太子となる。
C833年仁明天皇として即位。
D842年嵯峨上皇崩御直後、春宮坊帯刀舎人「伴健岑」と但馬権守「橘逸勢」らが恆貞親王を擁して謀反を企てたとの報告を受け、直ちに両名を逮捕、流刑に処した。(承和の変)
恆貞親王を廃太子とし、自分の子「道康親王」を皇太子に立てた。
これにより平城ー嵯峨ー淳和ー仁明と続いた王統の迭立(皇位を兄弟とその息子が交替して相続する)の原則が崩れ嵯峨ー仁明ー文徳の直系王統が成立。
E844年橘氏公を右大臣に任じた。
 
・入居(いりい)(?−800)
@父:奈良麿 母:不明
A子供:永名、逸勢、永継、御井子、田村子
B従四位下右中弁。遠江守。
 
・入居女御井子(?−?):50桓武天皇妃 子供:菅原内親王・賀楽内親王
・入居女田村子(?−?):50桓武天皇妃 子供:池上内親王
 
・永名(780−866)
@父:入居 母:不明
A子供:氏子     永石とも記す。
B860年従三位。神祇伯。非参議。
 
・永名女氏子(?−?):53淳和天皇妃  子供:なし
 
・永継(769−821)
@父:入居 母:不明
A子供:時枝、数子、女
B807年伊予親王事件連座。従四位下、修理大夫。
・永継女数子(?−?):藤原有統室   子供:なし
 
・永継女(?−?):藤原仲統室 子供:なし
 
・橘逸勢(782?−842)
@父;入居 母;不明
A兄弟;永継、御井子(50桓武妃)、田村子(50桓武妃)
 子供;遠保?、近保?、最茂?
B804年空海と共に入唐した。「日本三筆」の一人。空海、嵯峨天皇、橘逸勢
B842年嵯峨上皇が死去した時、但馬権守であった逸勢は、伴健岑らと皇太子恆貞親王を奉じて東国で挙兵し、仁明天皇を廃そうとする計画をし、発覚した。(承和の変)
伊豆に流罪。途中遠江板築で病死。娘「尼妙冲」の話。後年853年罪は許され従四位下。
 
・妙冲尼(?−?):父逸勢の没した地で尼となり弔った、とされる。
 
・清野(750−830)
@父:奈良麿(諸兄説もある) 母:不明
A子供:船子・安雄ら
B正四位上。無冠。
 
・清野女船子(?−?):53淳和天皇妃 子供:崇子内親王
 
・安麿(739−821)
@父:奈良麿 母:従三位大原真人明娘
A奈良麿長男、子供:諸清
B正四位上少納言、内蔵頭、播磨守
C802年伊予王事件で解任。
D伊予橘氏と遠保の時繋がり、楠木正成へと繋がる系図がある。
 
・遠保(?−944)
@父:成行(実父:伊予橘貞保) 母:不明
A子供:保氏、保昌、行順、保経
B939年藤原純友の乱の時朝廷の派遣した小野好古らとこれを討つ。
C伊予国衙官人。伊予国宇和郡を賜った。鎌倉時代まで相伝された。
C960年村上天皇から河内国、備中国を賜る。?
 
2−5)真材(?−?)
@父:島田麿 母:不明
A子供:峰範
B従五位上伯耆守。
 
・島田麿女常子(788−817):50桓武天皇妃 子供:大宅内親王(?−849)
・島田麿女(?−?):春澄善縄室  子供:なし
 
・長谷麿(779−824)
@父:島田麿 母:不明
A子供:海雄ら  別名:長谷雄
B従四位上左大弁。
 
・橘為義(???−1017)
@父;橘通文 母;不明
A父親は、近江掾内蔵助
 子供;義通、俊通 孫;為仲、資成 共に勅撰集に名を残す歌人
B1015年正四位下 但馬守藤原道長の家司。能書家でもあった。
 
・俊通(1002−1058)
@父:為義 母:讃岐守大江清通女
A室:菅原孝標女 子供:
B信濃守
 
・常主(787−826)
@父:島田麿 母:淡海三船女
A子供:世人・安喜雄(この流れから能因法師)   別名:常当
B822年参議下野守。 奈良麿以来60年ぶりの参議就任。
C「弘仁格式」編纂。
 
・安喜雄(?−?)
@父:常主 母:不明
A妻:飛鳥虎継女
子供:良殖・良基  別名:安吉雄とも記す。
B従五位上摂津守。
 
・良殖(864−920)
@父:安吉雄 母:飛鳥虎継女
A子供:敦行・敏行
B919年従四位上参議宮内卿。
  この流れから能因法師。
 
・能因法師(988−1058?)
@父:橘元ト 母:不明   父:忠望説もある。
A歌人、中古36歌仙の一人。後拾遺和歌集に65首。  旅歌人。
 
 
・敏行(?−?)
@父:良殖 母:不明
A妻:従二位下定国王娘和子王女。子供:定平・恒平・広平ら
B従五位上右少将。
 
・恒平(922−983)
@父:敏行 母:定国王娘和子王女
A子供:増賀
B正四位下尾張守・美濃守。983年参議(これが橘氏平安時代の最後の参議就任)
64円融朝。
Cこれ以降橘氏の叙爵者を推挙する権利を持つ是定となる人物がいなくなった。
藤原道隆が橘氏以外で初めて是定の役を果たすことになった。
 
・良基(825−887)
@父:安吉雄 母:不明
A子供:清澄、藤原道明母ら
B従四位下信濃守
 
・澄清(861−925)
@父:良基 母:不明
A子供:忠正 厳子(藤原中正室、子供:時姫(道隆・道長の母))
B913年参議勘解由長官920年従三位中納言。
C「延喜式」撰者。 道澄寺建立。
 
・道貞(?−1016)
@父:橘仲任(従五位下下総守) 母:不明
A妻:和泉式部(越前守大江雅致女、介内侍)子供:小式部内侍
B藤原道長の側近。和泉守、従四位下陸奥守。和泉式部の和泉は和泉守に由来。
 
・小式武内侍(997−1025)
@父:道貞 母:和泉式部
A夫:藤原教通・定頼・範永・公成 
子供:静円(父:教通)堀川右大臣女房(父:範永)頼忍阿闍梨(父:公成)
B一条天皇中宮彰子に仕えた。女流歌人。
C「大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天橋立」(百人一首)
 
・仲遠女徳子(?−1011):一条天皇乳母。従三位。太宰大弐藤原有国室。橘三位と称された。
子供:日野資業(988−1070) この流れから親鸞上人が出る。
実綱ー有信ー有範ー親鸞(1173−1263)   
 
・性空上人(928−1007)
@父:善根(従四位下) 母:保津姫
A俗名:橘善行 京都生まれ、書写上人。
B36才の時出家。966年播磨国書写山に円教寺(西国33ケ所霊場)を創建した。
 
2−6)峰範(?−?)
@父:真材 母:不明
A子供:広相
B従五位上阿波守
 
2−7)広相(ひろみ)(837−890)
@父:峰範 母:藤原末永女
A峰範次男、子供:公材・公廉・公頼・義子ら多数 室:左馬頭博風王娘
B菅原是善に学んだ学者。陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇に仕えた。884年正四位上参議。(58光孝天皇ー59宇多天皇)
菅原道真とともに文章博士。
C887年「阿衡事件」で失脚。娘義子(宇多天皇妃)の皇子即位問題がらみでの藤原
基経の陰謀説。菅原道真らが救済。
 
・公頼(877−941)
@父:広相 母:博風王娘
A子供:敏貞(相模守)、敏通らたすう。
B927年ー936年従三位参議、中納言、太宰権帥。60醍五天皇ー61朱雀天皇
C藤原純友の乱で純友の弟純乗の城筑後蒲池城を討った。よってこれ以降公頼の子孫がこの地を治めたとされる。蒲池氏
 
・敏通(?−?)
@父:公頼 母:不明
A公頼三男、子供:通敏ら多数。
B筑後国蒲池領主。従五位下、式部大輔、美濃権守。
 
2−8)公材(?−?)
@父:広相 母:博風王娘
A子供:好古
B従四位上文章博士  但馬守
 
・広相女義子(?−?):宇多天皇妃、 子供:斎世親王、斎中親王
 この斎世親王の妃に菅原道真娘がなり、皇位継承問題絡みで道真左遷の原因となった、とされる。
 
・公簾女(?−?):斎世親王妃 子供:源庶明
 
・千観上人(918−984)
@父:敏貞 母:不明
A園城寺で出家。天台教学を学び、浄土教に傾き阿弥陀和讃をつくった。
B962年摂津国箕面山へ隠遁。金龍寺(安満寺)再興。浄土教信者集団を作った。
C山背国乙訓郡 長法寺・勝竜寺にも関係している。
 
2−9)好古(893−972)
@父:公材 母:橘貞樹女
A子供:為政、敏政、清子、等子、輔政など
B958年参議、971年従二位大納言。64円融天皇まで。
橘氏ではこれ以降平安時代では三位以上の公卿になった人物なし。 但し同じ円融朝である983年に常主流の恒平が四位で参議にはなっている。これが参議になった最後であろう。
 
・好古女清子(?−?):藤原道隆側室 子供:好親三条天皇乳母、正三位。藤原道頼(父:道隆)側室 
 2−10)敏政(?−?)
@父:好古 母:有鄰女
A子供:則光、則隆、行平、定幹
B従五位下駿河守。
 
・則光(?−?)
@父:敏政 母:花山院乳母右近
A妻:清少納言、光朝法師母、 子供:則長
B従四位上陸奥守
 
・則長(982−1034)
@父:則光 母:清少納言
A子供:則季
B正五位下越中守。歌人。
この流れから伊予矢野氏発生。
 
(参考)
清少納言(966?−1025?)
@父:清原元輔(周防守)   母:不明
A夫:橘則光・摂津守藤原棟世(子供:小馬命婦)
B一条天皇中宮定子に仕えた。「枕草子」作者1001年ー1010年頃の作。
 
・為政(?−?)
@父:好古 母:不明
A子供:行資
B従四位上大和守。
Cこの流れから楠木正成が出たとの説あり。
 
・楠木正遠(?−?)
@父:橘盛仲?母:不明
A子供:正成・俊親・正季・正家・観阿弥母ら
B河内国土豪。南北朝の南朝方忠臣楠木正成の父親とされているが謎多き出自とされている。
 
・楠木正成(1294−1336)
@父:正遠 母:不明
A妻:南江久子(近隣豪族娘:太平記)、藤原万里小路宣房女滋子(万里小路藤房妹説)子供:正行・正時・正儀など
B河内守・摂津守。南北朝きっての武将。
C河内国石川郡赤坂村(現在:大阪府南河内郡千早赤坂村)産まれ。
D河内を中心とした流通ルートの悪党といわれた在地豪族。1331年後醍醐天皇の挙兵でこの傘下に入り赤坂城で挙兵。足利尊氏らと一緒になり1333年元弘の乱で鎌倉幕府滅亡させた。
E後醍醐天皇の建武の新政開始で河内・和泉の守護となる。
F足利尊氏と後醍醐天皇離反。最終的には後醍醐天皇側で新田義貞とともに尊氏側と戦い1336年湊川の戦いで戦死する。
G太平記。梅松論。
H本当の出自は現在も謎。
 
・正遠女():服部元茂妻 子供:観阿弥
 
・観阿弥(1333−1384)
@父:服部元茂 母:楠木正成妹
A妻:永富宗済女説、竹原大覚法師説 子供:世阿弥・元仲(音阿弥の父)
B足利義満の保護を受け「能」の確立した第一人者。
C本当の出自は現在も謎。
 
・世阿弥(1363?−1443?)
@父:観阿弥 母:諸説あり
A子供:元雅・元能・金春禅竹妻など
B足利義満の保護を受けて父観阿弥と共に能を確立。風姿花伝(花伝書)。
 
・楠木正行(?−1348)
@父:正成 母:久子? 万里小路滋子?
A子供:教正・正綱など
B父の死後、南朝河内国国司兼守護。
C1347年以降幕府側に対抗、攻勢に出たが1348年高師直らの反撃で河内国四条畷で自害。
 
・正行男教正:紀氏流池田氏は教依の時楠木正行の遺児教正を養子として引き取りその子佐正が池田氏を継ぎこの流れから池田恒興(1536−1584)その子輝政(1564−1613)が織田信長に仕え、大名家池田氏になった。
 
・正成男正儀:正行没後の楠木氏の棟梁的存在。楠木氏の本流はこの流れとなる。
 
2−11)則隆(?−?)
@父:敏政 母:不明
A子供:成任ら
B正四位下。陸奥守。
 
2−12)成任(?−?)
@父:則隆 母:不明
A子供:以綱
B陸奥守
 
2−13)以綱(?−?)
@父:成任 母:不明
A子供:広房
B従四位上鎮守府将軍
 
2−14)広房(?−?)
@父:以綱 母:不明
A子供:以長、広仲、以実、遠陸ら  
別名:大江広房(大江匡房の養子)1099年以前に復姓。
B正五位下信濃守
C橘広相男公廉流れ孝親女は大江成衡室となり匡房を産んでいる。この縁で橘広房は大江匡房の養子になったものと思われる。
 
これ以降三位公卿になった人物。(系図も残されているが省略)
1311年従三位橘知尚
1358年従三位橘知任(1298−1361)
1374年従三位橘以繁(1324−1379)
1412年従三位以基
1496年従三位橘以量(1436−1496)
1452年正三位橘以緒(1494−1555)
 
・橘近保、遠保、最茂
・橘遠茂
 
3)県犬養氏人物列伝
 県犬養氏(懸犬養)は、「神魂命」の流れである「天羽雷雄命」を元祖とする「神別氏族」である。犬養部の一派の首長として大和朝廷に仕えてきた。本拠地は、河内国古市郡である。奈良時代初期の不世出の賢夫人と呼ばれた「県犬養三千代」が出て一族は、大いに奮う。三千代は、元明天皇より「橘宿禰」も賜り「県犬養橘宿禰」とも称した。
三千代の甥の「内麻呂」は、「大宿禰」姓まで称したが、親族の「姉女」に逆謀の罪が出て「犬部」に名を貶められた。後に許されて県犬養宿禰姓に復する。
 
・天羽雷雄命
@父;天日鷲翔天命 母;不明
A兄弟;天白羽鳥命、大麻比古命
B県犬養連元祖、倭文連祖とされている。
C系譜;天御中主尊ー天八下尊ー天三下尊ー天合尊ー天八百日尊ー百日満魂ー神魂命ーー角凝魂ー伊佐布魂ー天底立命ー天背男命ー天日鷲翔天命。
 
3−1)県犬養田根(?−?)
@父:不明 母:不明  県犬養連祖天羽雷雄の末裔。
A子供:黒比古・多比
 
3−2)黒比古(?−?)
@父:田根 母:不明
A子供:東人
 
・多比(?−?)
@父:田根 母:不明
A子供:大伴、手縄(遣耽羅使)
 
・県犬養大伴(?−701)
@父;多比 母;不明
A子供;禰麻呂  大伴は、東人の従兄弟にあたる。
B県犬養宿禰のもう一方の祖。 
C672年壬申の乱で大海人皇子に従い東国で功を立てた。
D686年天武天皇殯宮儀礼で誄した。贈正広参
 
・禰麻呂(?−?)
@父;大伴 母;不明
A子供;人上、筑紫、唐
 
・唐(?−?)
@父;禰麻呂 母;不明
A子供;広刀自(45聖武天皇妃) 読み;もろこし
B従五位下讃岐守。

・人上(?−?)
@父:禰麿 母:不明
A子供:吉男、持男
B内礼正。歌人。
 
・県犬養吉男(?−?)
@父;人上 母;不明
A従五位下伊予介
記事;742年橘諸兄旧宅で紅葉の宴あり。久米女王、大伴家持、大伴池主、橘奈良麻呂らが集まり、吉男も一緒に歌を詠んだ。
 
・筑紫(?−?)
@父:禰麿 母:不明
A従四位下造宮卿
 
・姉女(?−?)
@父:筑紫 母:不明
A48称徳天皇女官。従五位下。大宿禰姓。
B769年不破内親王(母;県犬養広刀自)とその子「氷上志計志麻呂」と称徳天皇の女官である姉?「姉女」とが「称徳呪詛事件」をおこした。志計志麻呂の天皇擁立失敗。
この結果姉女は、姓を犬部と改めた上で遠流に処せられた。内麻呂も縁座にあった模様。後日これが誣告であったことが分かり復姓した。
 
・広刀自(?−?)
@父;唐 母;不明
A45聖武天皇夫人、子供;安積親王、井上内親王(49光仁天皇后)、不破内親王(塩 焼王妃)
B744年安積親王は、皇位継承問題にからみ藤原仲麻呂に暗殺された?
C正三位
 
3−3)県犬養東人(?−?)
@父;黒比古 母;不明
A子供;三千代(美努王室、藤原不比等室)石次、古麻呂、八重
B県犬養宿禰の祖。
 
3−4)石次(?−742)
@父;東人 母;不明
A子供:内麿
B739年式部大輔から従四位下参議となった。
巨勢奈弖麻呂、大伴牛養、大野東人と一緒。
 
・県犬養三千代(?−733)
@父;東人 母;不明
A最初の夫;30敏達天皇の曾孫「美努王」
子供;葛城王(橘諸兄)、佐為王、
牟漏女王(藤原房前室)
次の夫;藤原不比等(正室)ーー子供;安宿媛(光明子;45聖武天皇后)、多比能(異説あり)
別名;県犬養命婦、橘氏太夫、県犬養橘宿禰
B708年元明天皇より「橘姓」を賜姓され橘氏の元祖となった。
C天武、持統、文武、元明の4代の天皇に内命婦(5位以上の位階を持つ女性)として仕えた。
D「美努王」が大宰府に赴任中に三千代を不比等が見染めて再婚した。
E平城宮東面の不比等邸と向かい合う門は、平城遷都当初より「県犬養門」と称されてい た。三千代を顕彰するための命名と思われる。元明天皇の意向、不比等の妻への思い。
F720年夫不比等を失う。不比等の莫大な遺産の大半は、妻三千代を経て光明子に受け 継がれた。
G721年元明太上天皇の病気平癒を祈って出家している。づっと元明に仕えた。同年正三位。733年従一位を死に当たって追贈された。
 
3−5)内麻呂(?−?)
@父;石次 母;不明
A兄弟;姉女?(48称徳の女官)   従五位下。
B769年不破内親王(母;県犬養広刀自)とその子「氷上志計志麻呂」と称徳天皇の女 官である姉?「姉女」とが「称徳呪詛事件」をおこした。志計志麻呂の天皇擁立失敗。この結果姉女は、姓を犬部と改めた上で遠流に処せられた。
内麻呂も縁座にあった模様。
後日これが誣告であったことが分かり復姓した。
C内舎人。
 
・古麻呂(?−?)
@父:東人 母:不明
A正五位下筑後守、中務大輔。
 
・東人女八重(?−?):葛井広成室  命婦 従四位下。
・県犬養勇耳():49光仁天皇妃 子供:広根諸勝
 
4)橘氏・県犬養氏関係系図
・橘氏・県犬養氏元祖詳細系図
公知系図の組み合わせによる筆者創作系図とした。
・橘氏概略系図
異系図も多数ある。公知系図を基に筆者創作系図とした。
楠木氏は尊卑分脈系図に準拠。
・橘氏婚姻詳細系図
公知資料基づく組み合わせで筆者創作系図とした。
・楠木正成出自系図
姓氏類別大観準拠で伊予橘氏ー橘安麿流橘氏ー熊野国造氏ー楠木正遠経由正成系図とそした一部筆者創作系図とした。
・橘氏・楠木氏・観世家関係系図
各種公知系図を筆者流に解釈して記した。
5)橘氏・県犬養氏系図解説・論考
 橘氏は古代豪族とはいえ、奈良時代の後半に発生した新しい皇別氏族である。
平安時代にその活躍事績が、藤原氏を除く他の古代豪族が衰退していく中で抜き出でていた氏族として特記すべき大豪族である。
その出現の原点は708年43元明天皇の時、朝廷内で女官として活躍していた「県犬養宿禰三千代」(?−733)なる女性にその功績として「橘宿禰」という姓が個人姓として天皇から賜姓されたことに始まるのである。
その昔中臣鎌足が38天智天皇から個人姓として藤原氏を賜姓されたことに非常に似ている。
この姓を結果的に引き継いだのは藤原不比等の流れだけになった。
橘氏と藤原氏の発生の類似性に驚かされる。
一人の女性だけに賜姓が行われたのは筆者の知る限り初めてのことである。
40天武天皇の時に「八色の姓」制度が出来、真人・朝臣・宿禰・忌寸の4姓が新たに設けられ、これらの姓を有する氏族が貴族としての扱いを受ける資格が与えられたとされている。即ちそれまでの連姓・臣姓とは異なる制度を上乗せしたらしい。
よってそれまでの684年天武朝で宿禰姓をもらった県犬養宿禰姓とは訳が違う値打ちのある個人だけの姓を与えられたことになる。以後橘三千代・県犬養橘宿禰三千代とも称されたようである。
彼女は682年頃には30敏達天皇の曾孫にあたる美努王と結婚し、葛城王(後の橘諸兄)・佐為王・牟漏女王を産んでいた。さらに694年、夫美努王が九州太宰府に転勤になった時、これに同行せず離婚し、実力者藤原不比等(659−720)の後室に入り、701年には「安宿媛(後の聖武天皇后光明子)」を産んでいる。
42文武天皇(683−707)の乳母であり、697年不比等の娘宮子(683?−754)を文武の妃としたのにも彼女が一役かったのは勿論のこととされている。
そして宮子の産んだ首皇子(後の45聖武天皇)(701−756)に自分の娘「安宿媛」を716年に嫁がせたのにも当然関与している。
729年光明子の立后に反対していた長屋王が没し(長屋王の変)、光明子は臣下として初めて(前例として記紀には16仁徳天皇后として臣下である葛城襲津彦娘磐之媛が記されている。但し信憑性は疑問あり。)とされる皇后になったのにも不比等は既にいなくなってはいたが、三千代は関与している。
即ち、不比等の後半人生の皇室対策の大半は、三千代との二人三脚であったと言っても過言ではあるまい。
藤原氏繁栄の礎を築いた人物の一人である。
生前正三位、死後従一位を追贈されている。天皇妃でもない民間女性としては破格の扱いである。
ちなみに708年当時不比等は正二位の地位にいた。三千代への賜姓に彼が関与していたことは明らかである。以上が橘姓発生の背景である。橘氏の話に入る前に三千代の出自である県犬養氏について述べておきたい。
 
<県犬養氏>
「県犬養連氏」は、元祖を「神魂命」流「天羽雷雄命」(神魂命の8世孫阿居太都命とする説もある)とした「神別氏族」である。(異説もある)
信憑性は別にして系図上(異系図も多数ある)では、賀茂氏・中臣氏・忌部氏・八重事代主・諏訪神社のご先祖などとも関係があり、興味あるが、実態は全くよく分からない氏族である。
元々猟犬の飼育を職務とする伴造氏族で犬養部を統率してきた氏族の一つとされている。
系図上では県犬養田根から記されているものが多いが、この人物は恐らく30敏達天皇とほぼ同時代と筆者は判断している。事績記事全くなし。
この子供で2流に分岐。
一方が「三千代」に繋がり、一方が45聖武天皇妃である「広刀自」(?−762)に繋がっている。
広刀自の方で事績記事があるのは、「大伴」と広刀自の従姉妹(?)に当たる女官「姉女」位である。
広刀自が何故聖武天皇妃になれたのかははっきりしないが、ここにも三千代・不比等の関与が窺われる。最初の子「井上内親王」の生年から予測すると716年頃聖武妃となったらしいが、もっと以前だったかも知れない。
悲劇の皇子安積親王・王女井上内親王(717−775)・不破内親王の母である。いずれも子供らは聖武の子供でありながら、その後の藤原氏台頭の犠牲になったのである。(既稿「古代天皇家概論U」参照)
三千代は少なくとも初期では県犬養一族の一人であった広刀自の支援者であったであろう。ところが「安積皇子(728−744)」の出現は、心穏やかならざるものがあったとしても不思議ではない。しかし、三千代の死亡年から考え、安積皇子の死には全く関与はしてない。
さて三千代の流れで記事が残されている人物も殆どいない。父の「東人」も県犬養宿禰祖としかない。三千代の弟と思われる「石次」は、三千代の子供である光明子、橘諸兄らの七光りと思われるが739年には参議となっている。後にも先にも県犬養氏が中央の重職に就いたのはこれが初めてであり、最後である。
ちなみに「諸兄」はこの時右大臣となり、時の第一人者になっていたのである。この石次の子供内麿は769年に「称徳天皇呪詛事件」に親族「姉女」と連座。姓を犬部とされた。しかし後日無罪となり復姓したとある。
この後県犬養氏が歴史上登場することはない。非常にマイナーな氏族であったと言える。よって上述の三千代の異常なまでの活躍は、出自が何よりも重要であった時代に、それを頼りに出来なかったがゆえの、彼女の類い希なる才知の結果だとされている。
以上が県犬養氏関連の概略説明である。
 
<橘氏>
さて「美努王」と三千代との間に産まれた葛城王、佐為王、牟漏女王の方に話を戻そう。
最初に「牟漏女王」から述べておきたい。
714年頃には藤原不比等の次男北家「房前」の正室となった。房前は、不比等4人息子の中で最も才能があると言われた人物で、44元正天皇の内臣となったが737年の天然痘流行で没した。
子供「真楯」の流れが北家主流となりやがて「摂関家」となっていく原点である。
「葛城王」の弟「佐為王」は、影の薄い存在である。737年の天然痘で没している。この流れとして特記すべき人物は「橘春成女」である。
50桓武天皇の皇子「葛原親王」の子供「高見王」の妃となり坂東平氏の祖「高望王」を産んだとされている。
高見王なる人物は実在性にも疑問があるとのことであるが、系譜的には坂東平氏に橘氏の血が入っていることになる。しかし、これには異説も多々ある。
高望王の母は藤原北家「是緒女説」も有力。
また高見王の母も諸説ある。その一つが北家「道雄女真子説」などである。
春成の子供「秋実」の流れが広岡姓として永続するが歴史上の人物なし。

「葛城王」の父親「美努王」は、一般的には30敏達天皇の孫「栗隈王」の子供とされているが、敏達天皇の子「大俣皇子」の子供であるという系図もある。後者は年代的に若干無理がある。
美努王については記事は比較的に多くあり最終的には708年に従四位下治部卿として没している。この人物は橘氏ではない。便宜上これを初代として人物列伝を記した。
さて葛城王である。683年の産まれであり、710年に従五位下に叙位されている。708年の母親の橘姓賜姓の時は未だ無冠だった可能性あり。ところが731年48才の時参議となる。732年母親の亡くなる直前には従三位になったのである。母親の威光を感じる。
736年弟「佐為王」とともに733年に亡くなった母親の姓「橘宿禰」を自ら願い出て賜り、臣籍降下したのである。名前も「諸兄」とした。
当時臣籍降下する場合「真人」姓が普通であった。何故朝臣でもなく、その下位である宿禰姓で降下したのか、古来疑問視されている。当時隆盛を誇っていた藤原氏に配慮したのであるとの説もあるが、やはり母三千代に対する特別な思いがあったものと推定する。
大田 亮は「ーー全く母家の養子となりし形というべし。母の勢力の大なりし為か。−−」と記している。
737年突然なる幸運が「諸兄」に降り注ぐ。
宮廷を牛耳っていた藤原不比等の息子4人が揃って天然痘で没したのである。この天然痘は遣唐使が中国から持ち帰った?とされている。貴族レベルでも大変だったのであるから衛生状態のより悪い庶民レベルではさぞ凄まじい流行だったものと想像される。これにより政治の中枢部に大きな穴が空き、諸兄は45聖武天皇を支える第一人者になってしまった。大納言・右大臣・左大臣と737年から745年まで諸兄の時代になってしまった。
750年には宿禰姓を朝臣姓に改姓された。この間に息子「奈良麿」も参議にまで昇っていた。
745年以降新たに藤原南家「仲麻呂(恵美押勝)」が勢力を伸ばして遂に755年諸兄は政界を引退せざるをえないことになった。
757年諸兄が没して直ぐに息子「奈良麿」が反藤原勢力を結集して謀反を企てたことが発覚し、400名以上の処罰者が出た。「橘奈良麿の変」である。
これにより多治比氏はじめ多くの皇親政治擁護派の勢力は著しく低下した。橘奈良麿の子供等もこれにより昇進のチャンスが鈍ってしまった。
ここで奈良麿の母とされている「藤原多比能」について考察しておこう。
「尊卑分脈」などでは多比能は藤原不比等と県犬養三千代の間に産まれた娘、即ち光明子の実妹とされている。となると諸兄の妻は多比能であるから、同腹異父兄妹間の結婚がされたことになる。これは当時といえども禁止婚である。打ち首・遠流の刑は免れないとされたものである。
筆者はこの関係はどこかが誤って伝わっていると判断する。異説としてある多比能は不比等の娘であるが母親は宮子と同じ「賀茂比売説」もある。多比能の産まれは702年頃と推定されている。 宮子が産まれて約20年後である。賀茂比売説は無理?
「藤原不比等」の著者「高島正人」も破線で三千代の子としている。謎である。
不比等が名もない女との間にもうけた娘を三千代が養女として育てたのかも知れない。
いずれにせよ諸兄も奈良麿も藤原氏と実に込み入った血族関係にあることが分かる。これ以降藤原氏に対抗可能な唯一の古代豪族となるのである。
奈良麿の孫「橘嘉智子」の出現が再度橘氏を歴史の表舞台に引き出すことになった。
嘉智子は52嵯峨天皇の初代后である50桓武天皇娘「高津内親王」が廃后になり、「藤原北家冬嗣」らの後押しで突如として815年に立后したのである。
既に「正良親王」という男児をもうけており、これが833年54仁明天皇となったのである。即ち橘氏が外戚となったのである。この時嘉智子の父「清友」は既に亡く、嘉智子の兄「氏公」が52嵯峨天皇の側近として力を得てきており844年ついに右大臣となった。
これ以降平安中期頃まで橘一族は各世代ごとに誰かが参議クラスの公卿に列せられる氏族として繁栄した。
平安時代「橘氏」参議以上の人物
822年参議「常主 」           52嵯峨天皇
833年参議・844年右大臣「氏公」   54仁明天皇
844年参議中納言「峰継」        54仁明天皇
860年非参議「永名」          56清和天皇
884年参議「広相 」          58光孝天皇ー59宇多天皇
913ー920年参議中納言「澄清 」   60醍醐天皇
918年参議「良殖 」          60醍醐天皇
927ー936年参議中納言「公頼」    60醍醐天皇ー61朱雀天皇
958年参議・971年大納言「好古」   64円融天皇
983年参議「恒平」           64円融天皇
 
しかし、実情は、藤原氏、特に北家との激しい葛藤のなかでの地位の確保であった。
884年から参議となった広相の娘「義子」は59宇多天皇の妃となり斎世親王を産んだ。
これが次期天皇候補の可能性が生じた。早速藤原氏からの反撃が887年に「阿衡事件」という形で表面化した。この時は「菅原道真」らのとりなしで事なきをえた。広相は、道真の父「菅原是善」の教え子であり、学者出身であった。橘氏と菅原氏は親密な関係があった。この斎世親王の妃に菅原道真の娘がなった。897年のことである。
今度は右大臣道真が斎世親王を天皇にしようと企んでいるとの左大臣「藤原時平」の讒言により道真は901年太宰府に左遷されたのである。
これも含め藤原氏は、823年の承和の変、866年の応天門の変、897年の阿衡事件、967年の安和の変などで次々とアンチ藤原勢力の力を弱めていった。
これらを通じて900年代頃までには多くの古代豪族は衰退していった。
大伴氏、石川氏、、紀氏、吉備氏、多治比氏、佐伯氏、阿部氏、坂上氏、(以上氏族については既稿参照),巨勢氏、菅野氏、菅原氏、和気氏、、中臣氏、などなど古代史を賑わしていた氏族の大半は歴史の舞台から消えたのである。 橘氏も64円融天皇以降政治の表舞台からは消える。
983年の「恒平」以降橘氏からは参議がいなくなり、氏長者といえども叙爵者を推挙する権利を失い、橘氏是定(せじょう)として藤原道隆がなり、以後藤原氏が橘氏の氏長者の代行をすることになった。
藤原氏でも京家、式家の流れは消え去り北家の中で分派した各流派が摂関家を中心に勢力を分け合う時代になったのである。南家はアウトサイダーとしてそれなりの地位は保った。
新たに勃興する勢力として臣籍降下した皇別氏族として「源氏」と「平氏」が発生したのである。
59宇多天皇妃「橘広相女義子」以降橘氏から天皇妃は一人もいなくなった。
65花山天皇以降完全に藤原摂関家の外戚政治・摂関政治となり、やがて藤原道長の時代を迎え藤原全盛時代になるのである。
ここで一寸興味のある系譜の話をしておきたい。一般公知系図でははっきりしていないが
信頼すべき文献に次ぎの記事が書かれてあった。
藤原道長(966−1028)・道隆(953−995)兄弟の母親は藤原中正の娘「時姫」である。この時姫の母親が参議橘澄清娘「厳子」(一般系図ではここのとこがはっきりしていない)である。
ここからは筆者の推定である。即ち道長・道隆の母方祖母は橘氏だったのである。筆者系図の嶋田麿・常主・安喜雄・良基・澄清・「厳子」・「時姫」・「道長」と繋がるのである。摂関家の中心人物は参議中納言「橘澄清(861−925)」の曾孫であったのである。さらに道長らの同腹姉妹に超子がおり63冷泉天皇(950−1011)との間に67三条天皇(976−1017)を産んでいる。この三条天皇の乳母が大納言橘好古(893−972)の娘清子である。彼女は道隆の側室となっている。また同じ嶋田麿流の為義(?−1017)・道貞(和泉式部の夫)(?−1026)などは道長の家司であり側近として活躍している。橘氏最後の参議恒平(922−983)。これらのことと上述の橘氏是定を恒平以降最初が道隆で、次々摂関家がやることになったことは無関係ではあるまい。年代的にも、矛盾は無いと判断する。即ち橘嫡流家と摂関家との間に「元々両家の共通の元祖は県犬養三千代である。今後両家は無駄な争いは止めよう。藤原北家摂関家の優位は絶対なものになった。橘氏が政治面で変な動きをしない限り、摂関家は少なくとも橘嫡流家の者は代々面倒見るよ。」的な了解が得られたのではないかと思う。即ち道隆の時代に橘氏は名を捨て実を取り、一族が滅びることのない安定貴族を維持する道を選んだものと思う。これ以降この両家はこの約束?を相伝したのであろう。
 橘氏は好古ー敏政ー則隆ー成任ー以綱ー広房と四位・五位の国司クラスの地位に甘んじながらも嫡流家は、これ以降も営々と続いていくのである。
橘氏は見方を変えれば、藤原氏の陰には隠れたが、他の豪族と異なり、強かに生き残った。
その原因は上記のように藤原摂関家と裏で繋がっていたためではなかろうか。橘氏の女性陣の活躍があったのではなかろうかと思わざるをえないのである。
「橘広房」について若干説明しておきたい。
広房は初め「大江匡房」(1041−1111)の養子になっている。匡房は鎌倉幕府を支えた「大江広元」の曾祖父で平安時代を代表する碩学といわれ、1088年には参議になっている公卿である。大江氏の嫡流である。父は大学頭大江成衡で母が「橘孝親女」である。この孝親は橘氏系図に示したように広相・公廉・惟親・雅文・内成・孝親となっている。よって広房と匡房は親戚であったことになる。但し広房は1100年ころには橘姓に復している。何故橘氏嫡流の広房が大江氏嫡流の匡房の養子になったのか、また何故元の橘氏に復姓したのかは分からない。
大江匡房の4−5代前に「大江雅致」がおりその娘が「和泉式部」である。後述するように和泉式部も橘氏と婚姻している。いずれにせよ当時橘氏と大江氏が非常に近しい関係にあったことが窺える。
橘氏が公家社会に花を再度咲かせるのは、鎌倉時代(1185?ー1333)の末14世紀になってからである。
列伝の橘氏最後に公卿の人物を列挙したが、この時代は既に武家中心の社会であり、公卿にどんな価値があったかは、理解出来ぬが、それでもさすが橘氏強かに生き残っていたなと思わせる事項である。ここいらが他の古代豪族とは訳が違うのである。
 
<楠木氏>
「楠木正成」で有名な南北朝時代の南朝の武家楠木氏の出自は古来橘氏であると言われてきたが、釈然としないものがあった。主な出自説。
@太平記・尊卑分脈説。過去の主流説。
橘為政ー熊野国造和田氏正遠ー楠木説。
A伊予橘氏説(系図纂要)現在の多くはこちらか?
橘安麻呂ーーー伊予橘遠保ーーー楠木成氏ー熊野国造和田氏ーーー楠木正遠ー正成
B伊予真鍋氏系図
C古代氏族系譜集成(和田氏系図)
D河内金剛山観心寺領土豪説
E利根川流域武藏七党流武士・南河内北条得宗家領被官武士説
など多数ある。
従前は@が最も信じられていたらしい。筆者の概略系図はこれに基づき記した。しかし、これは楠木正成の生年1294年と橘好古の生年893年との関係から不可能ではないが不合理であることが判明している。
色々総合的にみて筆者はAが一番合理的(これでいくと橘奈良麿から楠木正成まで単純に見ると24代ある。平均で25才ー27才で繋いでおり妥当な年齢と判断できる)と判断して楠木正成出自系図はA説に基づき記した。BCもほぼAと同一である。 DEなど多数の系図を伴わない説は古来からあるが、立証不可能。
いずれにせよ南北朝時代に突如として現れた土豪出身の武将で、謎だらけであることに変わりはない。
 
・楠木正行母の謎
一般的には正行の母は南河内近隣土豪の娘「南江久子」とされている。(太平記)
ところが古来から「藤原万里小路宣房女滋子」説がある。これは96後醍醐天皇(1288−1338)の側近で後には中納言になった公家で「元弘の変」では楠木正成の起用を勧め、鎌倉幕府の倒幕戦争を勝利に導いたとされる人物である「万里小路藤房」(1288−1380)の妹に当たる。万里小路家は藤原北家良門流の一級の名門貴族である。この万里小路家文書がその原典らしいが、それによると、1325年藤房は参議となる。同年妹「滋子」を上田兵庫頭の養女とし、楠木正成(1294−1336)に嫁した。正行の生母である。と記されている。正行の生年は諸説あるが1326年説もある。これだと母滋子説は成立する。例え武力があったとはいえ南河内の一土豪に天下の藤原公家家から嫁に来る訳がない。と言う類の反論もある。正成ー藤房の関係からすればあながち無いとは言えぬ。
藤房は1331年中納言になるが、その年下総国に流され、その後建武の中興でも大活躍する人物である。
万里小路藤房の領地が山城国乙訓郡粟生にあったという記録が残されている。
光明寺の裏手に「子守勝手大明神」が現存している。その天明年間(1781年)に記された由緒書に「万里小路藤房」の御領分御祈願所と記されている。
 
・観世家の発生の謎
楠木氏に関係して興味あるのが「能」の確立者と言われている「観阿弥・世阿弥父子」の出自に関する話をしておきたい。
一部は既稿(秦氏考)でも触れた。従前は観阿弥の出自は謎とされてきた。
1962年三重県上野市(現伊賀市)で発見された「上嶋家文書」(江戸時代末期写本)の発見、播州「永富家文書」の発見で俄然脚光を浴びた。これに鹿島建設創設者「鹿島家」が関係することも分かり神戸湊川神社などでも楠木氏との関係が明確になったとしてそのhpに系図を掲載などした。
筆者も調査した範囲で参考系図を記した。
筆者らアマチュアには上嶋本家文書の系図が一番複雑であるが分かり易い。
世阿弥の「甲楽談義」に記された観阿弥の出自に関する記事にも概ね符合すると判断する。しかし現在ではこの上嶋家文書は偽書の可能性もあるとして専門家筋では受け入れられてない模様である。筆者の友人で能の研究をしている人からもそのような話を聞いた。
観阿弥・世阿弥父子は足利将軍家に支援を受けた。自分の伯父が楠木正成であるなんてとても言える訳がない。どんな証拠も残してはならないとしたとしても不思議ではない。
彼の作とされる「自然居士」・「卒塔婆小町」・「松風」などは素晴らしいものである。
謡曲を永年習ってきた筆者には、これらの作品が単なる芝居知識ぐらいで書けるものではない、非常に奥深い歴史知識、素養、インテリゼンス無くしては書けるものでないと判断している。
これは子供の頃からの並はずれた勉強と修行の賜と思う。だからこそ当時の武士のトップ層からも「能 」が認められ大切にされたのであろう。
正に日本の産んだ世界に誇れる文化遺産である。
以上などからも上嶋家文書の系図の真実性の可能性は高いと思っている。
系図の詳細説明は省略する。
 
<橘氏関連の平安朝の文化分野主要人物>
@喜撰法師(?−?)
平安時代六歌仙の一人とされているが詳細不明。系図としては奈良麿の子供として記載されているものとそうでないものとがある。

A橘逸勢(782?ー842)
入居の息子で空海・嵯峨天皇と並んで三筆と言われた書の名人。この子供が系図で色々異なる。ここに楠木氏に繋がる遠保をもってくる系図もあるが、これは無理と判断している。
B性空(しょうくう)上人(910−1007)
俗名「橘善行」従五位春宮大夫、播磨国書写山円教寺開祖。山岳仏教。
C千観上人(918−984)
橘広相・公頼・敏貞の子供。天台宗僧。901−923年山城国乙訓郡長岡郷に長法寺を建立。勝竜寺の中興の祖でもある。とされている。また智證大師(814−891)の弟子ともあるが、生没年の関係から直接関係はなかったものと考える。
D清少納言(966?−1025?)
清原元輔(既稿清原氏参照)の娘で枕草子の作者陸奥守橘則光と結婚し、則長をもうけたが離婚後摂津守藤原棟世との間に小馬命婦を産んだとされる。一条天皇女御定子に仕えた。源氏物語の作者紫式部がライバルであったとされる。色々な男性と交友があったことでも有名。息子則長の流れは続く。則光には他に息子季道がおりこの流れから矢野氏・備後氏が出る。

E和泉式部(978?−1025以降?)
越前守大江雅致の娘。和泉守橘道貞妻。離婚。子供:小式部内侍。
冷泉天皇皇子為尊親王・敦道親王などと関係。藤原保昌と再婚。
和泉式部日記作者。歌人。子供小式部内侍も歌人として有名。
F能因法師(988−1058?)
本名は橘永ト(ながやす)兄為トの養子になったらしい。子供もありこの系譜は続いている。父親は従四位上近江守である。歌人。
「都をば霞とともにたちしかど秋風ぞふく白河の関」後拾遺集
の作者。
G菅原孝標女(1008−1059以降?)
島田麿・長谷麿・海雄・茂枝ー佐臣・仲遠・道文・為義・義通・俊通となっている系図がある。この俊通の室が菅原孝標女である。菅原道真の流れ孝標(道真・高槻・雅規・資忠・孝標)の娘で、母は藤原倫寧(藤原北家長良流)の娘で母の姉(摂関家兼家の室)が蜻蛉日記の作者藤原道綱母である。更級日記の作者。俊通との間に仲俊を産んだ。
H親鸞上人(1173−1262)
橘仲遠女徳子は参議藤原北家有国室となり日野資業を産む。藤原名家の一つ日野氏の祖。京都山科の日野法界寺の建立者。この4代後に浄土真宗開祖の親鸞上人が出る。即ち親鸞には橘氏の血が入っているのである。
 
以上で橘氏の概要解説。論考を終わる。
古来左近の桜、右近の橘として御所「紫宸殿」の庭にもめでたい花の代表として橘の花がある。平安時代貴族に愛された花とされている。それ程日本人に親しまれてきた名前である。
この橘にちなんで姓を賜った県犬養橘宿禰三千代に端を発した橘氏は、氏族発生と同時に藤原氏との葛藤の嵐の船出であった。
皮肉にもその藤原氏の中でも最後に天下を取った北家の元祖に橘氏の祖橘諸兄の実妹の血が入っているのである。これは主な古代豪族総てに当てはまる宿命なのである。奈良・平安時代までは日本の政治は、常にほんの僅かな氏族が天皇家を利用して動かしていたのである。それも互いに婚姻関係を通じて血族同士がである。
それが平安中期になって完全に藤原氏だけになるのである。天皇家も全く実権はなくなるのである。
橘氏はその意味で古代豪族の中で最後に生き残った藤原氏に対抗した非藤原氏だったと言える。日本中のあちこちに橘氏の痕跡が現在に至るまで残されている。しかし、その後に勃興した「源氏」や「平氏」の国中に残した影響力に較べて余りにその存在感は薄い。何故であろうかと疑問が残るが、一度も天下を取らなかったのだから致し方ないのではなかろうか。古代豪族の中で天下を取ったと言えるのは、蘇我氏、藤原氏だけである。その後通常は、古代豪族には入らぬが平氏であり源氏であると言える。
ちなみに橘氏に関する文献の余りに少ないのに驚かされる。このことからも現在の人にも魅力のない豪族の一つであると言える。しかし、大豪族であったことは間違いない事実である。
 
(参考)
氏寺:井手寺(井堤寺)が過って山城国相楽郡井手庄にあった。諸兄が母三千代の一周忌にちなみ建立したとされていた。現在はなく、発掘調査がされている。
氏神:梅宮大社(京都市右京区梅津フケツ川町)
(由緒)諸兄の母三千代が橘氏一門の氏神として、山城国相楽郡井手庄に初めて祀った。
その後奈良に移され、52嵯峨天皇后「嘉智子」が現在地に遷したとされる。
祭神は大山祇神他3神であるが、橘清友、嘉智子、嵯峨天皇、仁明天皇も祀られてある。
延喜式名神大社。醸造の神様。
 
6)まとめ(筆者の主張)
@橘氏は、県犬養宿禰という非常にマイナーな神別氏族である古族出身の県犬養三千代が女官としての功績として、708年43元明天皇から橘宿禰という姓を賜姓されたことに原点がある。
皇族であった美努王と三千代との間の子供である葛城王らが臣籍降下して、日本で最初にして最後の女性(母親)の個人姓を引き継いだことに始まる豪族である。
ちなみに藤原氏も中臣鎌足が38天智天皇から個人姓として藤原姓が賜姓されたことに始まる。両氏が非常に類似した発生をしているのである。
A 三千代は、一方では藤原不比等との間に45聖武天皇の皇后となった光明子を産み、藤原氏台頭の礎を築いた人物である。
B葛城王(橘諸兄)は、最初から藤原氏との間で葛藤を展開。息子奈良麿は父の死後、局面打開の企てが藤原氏の手により暴かれ、断罪された。
奈良時代末期・長岡京時代は橘氏にとっては冬の時代であった。
C52嵯峨天皇の時代になると、その皇后に奈良麿の孫「橘嘉智子」がなり、橘一族が復権してきた。嘉智子の子供が54仁明天皇となり兄「氏公」は右大臣となった。
これ以降約150年間橘氏は参議クラスの公卿を各世代誰かがなっているような藤原氏に次ぐ政治的立場を堅持した。
Dしかし、平安時代の中期から以降は藤原氏全盛の時代となり、以後は国司クラスの中級貴族だけになって鎌倉時代末期まで続く。その後再び公卿を多数輩出し、源平藤橘と言われるようになった。
古代豪族で藤原氏以外で唯一の生き残り氏族となった。
この生き残れた原因の一つに橘氏出自の仲遠女徳子・好古女清子・澄清女厳子など女性達の影での活躍があったものと判断する。
彼女らが婚姻関係などを通じて藤原摂関家と橘嫡流家との無駄な争いを止めさせ、互いの融和をはかる役割を演じたと判断する。
この関係は後世まで両家で相伝され堅持されたものと判断している。
E奈良麿の母「藤原多比能」は三千代の子供ではない。
F坂東平氏の祖「高望王」の母親は橘氏説を支持する。
G楠木正成は伊予橘氏出自説を支持する。
H楠木正行の母親は藤原万里小路藤房妹滋子説を支持する。
I観阿弥の出自系図として、上嶋家文書が一番分かりやすい。真実に近いと判断する。
J橘氏は平安時代を通じてある一定以上のクラスを維持し、多くの後世にその名を残す
文化人を輩出・関係してきた。(9/10/06脱稿)
7)参考文献
・「藤原不比等」高島正人 吉川弘文館(1997年)
・「桓武天皇」 村尾次郎 吉川弘文館(1996年)
・http://members.edogawa.home.ne.jp/tatibanaya/
              など多数。