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7.蘇我氏考
1)はじめに
 蘇我氏は、古代豪族の中で、第一番の大豪族である(藤原氏は別扱いとする)。しかし、物部氏、大伴氏など神話、伝説時代から歴史の舞台に登場した氏族ではなく、随分時代が下ってから、飛鳥の大豪族として突然登場する。
これ以前では、天皇家(大王家)と婚姻関係があった大豪族は、天皇家以外では、葛城氏、吉備氏であった。
16仁徳ーーー21雄略、24顕宗、25仁賢付近までは、上記2氏の娘が、天皇家に嫁いでいた。
ところが、29欽明天皇から急に蘇我氏の娘が、天皇の妃となり、31用明、32崇峻、33推古などと関わり、38天智、40天武、41持統、43元明、付近までその影響を、及ぼした。
次の藤原鎌足ー不比等系にその地位が移るまで、飛鳥ー平城の中心的存在でもあった。
 この氏族の出自は、記紀では武内宿禰を祖とするとなっているが、実ははっきりしてないらしい。
イ)それまで目立たなかった日本在来の一族が、次第に力を蓄え、飛鳥時代の直前になって、政治の表舞台に躍り出た。
ロ)朝鮮半島から日本にやって来た渡来人が、新知識、技術を武器として、経済的な基盤を固め、権力の中枢に座を占めるようになった。
などの説がある。
河内の石川流域(大和国高市郡蘇我邑)を本拠とする在地豪族の流れの「日本人」か、又は、百済から新たに渡来した一族である、のどちらかである、とのこと。
どうであれ、蘇我氏は、蘇我満智の頃から朝廷の財政権を握り(朝廷の蔵の管理)、渡来系の人々(新羅系の秦氏は、出納、東文氏、西文氏は、帳簿を扱わせた。百済系の漢氏は、蔵の管理。対立していた2系統の渡来人が蘇我氏のもとにまとめられた。ーーー日本書紀)に支えられて権力を得てきたらしい。**
葛城氏が南朝鮮攻略の時、多くの捕虜を連れ帰ったとされる、「四邑漢人」漢氏らは、6世紀末以降は、蘇我氏の配下に入っている。
中大兄皇子が「入鹿」を暗殺した後、漢氏は、「蘇我蝦夷」に中大兄皇子を討って子の仇をとるよう勧めている。
 記紀上では、日本書紀、宣化元年(536年)に「蘇我稲目宿弥をもって、大臣とす」として、初登上する。
この氏族の重要人物の列伝を下記に示す。
***<蘇我氏出自に関する諸説>  古代史の謎の一つ
イ、蘇我氏は、出雲系物部氏、葛城氏、などの流れと同一出自とする説。(関 祐二氏ら)
 ・出雲大社に「素鵞社」がある。素戔鳴尊を祀る神社。物部、葛城、蘇我は、いずれも出雲系(古事記)平群氏もその分派。
ロ、蘇我氏は、渡来系氏族の流れとする説。(門脇禎二氏、黒岩重吾氏ら)
 ・百済の権臣「木満致」が来日して、蘇我満智宿弥となり、470年代後半、雄略によって葛城氏「円大臣」の領地を与えられた。
これが蘇我氏元祖。(門脇)
 ・百済蓋歯?(カフロ)王の弟昆支王の子供の一人(461年来日;武寧王墓誌)。これが雄略から円大臣の領地を与えられた。
馬子が推古に「葛城の地は、私の本貫なので賜りたいーー」(この記事は、日本書紀にある。)などがこれを裏付ける?(黒岩)
ハ、著しいのは、継体天皇は、蘇我氏であった。崇峻天皇は、蘇我馬子説もある。
など。
**武光 誠著「古代史を知る事典」では、この当たりの日本書紀の記述に疑問をだしている。後世での造り話と疑っている。彼は、蘇我氏は、葛城氏から別れた氏族で21雄略朝の頃、葛城円大臣が滅んだ後、葛城蟻の孫として、「蘇我馬背」が出て、その子が蘇我稲目であるとしている。
・参考系図2に示したように、昆支王の娘と満智の子が韓子であるとしている説。
いずれにせよ、記紀にはっきり記述されたのは、稲目からである。
その娘が2人29欽明天皇の妃に入り、詳細系図に示したように蘇我王朝と言われても言い過ぎでないような栄華を極めた。
下記に示した諸系図は、記紀の記述に基本を置いているが、一部「旧事紀」の系図も参考にした筆者創作系図である。
記紀の蘇我氏に関する記事の多くは虚構である、との説も根強くある。これらのことも考慮して、論考したい。
 
2)蘇我氏人物列伝
・蘇我石川(?−?)
@父:武内宿禰 母:不明
A兄弟:葛城襲津彦、紀弓、許勢小柄、平群木莵ら6人。
B蘇我石川宿禰 子供:満智
C大和国高市郡蘇我邑(河内の石川流域)出身。又は葛城県蘇我里(現橿原市曽我町)出とも言われている。
D蘇我氏の祖。
 
・満致(?−?)
@父:蘇我石川宿禰 母:不明
A妻:百済王昆支王娘(武寧王妹)説あり。子供:韓子
B一説では百済から渡来した百済の高級官僚「木満致(きまち)」と同一人物であるとされる。この人物名は記紀にも記録あり。これが蘇我氏渡来人説の元である。
C記紀には具体的記述はないが、「古語拾遺」に雄略天皇の時代に武内宿禰の孫にあたる蘇我満智宿禰が秦氏や漢氏を使って内蔵、大蔵等の管理をした。との記述あり。
これが検校三蔵と言われた基ではなかろうか。
 
・韓子(?−?)
@父:満智 母:不明(百済王昆支王の娘説あり)
A子供:高麗  弟名子媛(穂積押山室)
B記紀の記事に465年(雄略9年)に征新羅将軍の一人として紀小弓、大伴談等とともに朝鮮に派遣されたが、紀大磐と仲違いして、殺されたとある。
C上記「穂積臣押山」は、継体天皇朝で任那四県割譲に大伴金村に同調して賛成した人物として記紀に記録あり。
 
・高麗(?−?)
@父:韓子 母:不明
A子供:稲目 高向臣塩古、田口臣鳥、川辺臣瓊缶
 これ以降は、主流を2−X)で記す。
他の関係人物は斜字ゴチックで記す。
 
2−1)蘇我稲目(?−569)
@父;蘇我高麗?(馬背説あり) 母;不明
A536年28宣化帝の大臣となったことで記紀では蘇我氏として、歴史上に初めて登上する。
B29欽明天皇に娘、藍塩媛、小姉君を嫁がせ、石寸名を31用明天皇に嫁がせた。
 子;馬子、境部臣摩理勢らがあり。
C552年29欽明帝の時、百済の聖明王が仏教を日本に伝えた。(538年説もある)29欽明は、稲目にこれを試すことを命じた。以後蘇我氏は、崇仏派の中心となる。池辺皇子(31用明)大大王(33推古)に仏を信仰するよう言い残して死ぬ。
D皇室領である屯倉の整備に力を入れることによって天皇の信頼をえた。
 
・境部臣摩理勢(?−628)
@父:稲目 母:不明
A子供:雄摩侶、毛津、阿椰
B聖徳太子の側近。
B推古天皇の崩御後、皇位継承者の選定に当たり、蘇我蝦夷らは推古天皇の遺勅として田村皇子を舒明天皇として即位させた。
当時有力な皇位継承者として、聖徳太子の子「山背大兄皇子」がいた。これを推薦したのが、巨勢大麻呂、佐伯東人、紀塩手及び境部臣摩理勢であった。
蝦夷にとって摩理勢は叔父であるが、激しく対立。
ついに蝦夷はこれを次男阿椰と共に殺した。長男毛津は畝傍山で自害。
山背大兄皇子は、蝦夷の子入鹿によって殺されることになる。
 
・堅塩媛(?−?)
@父:蘇我稲目 母:不明
A小姉君と同母姉妹。(姉) その他兄弟姉妹:馬子(兄)、石寸名 
呼称:きたしひめ
B夫:欽明天皇 七男六女 用明天皇・推古天皇ら。
C欽明天皇の后は、石姫(父:宣化天皇)で他に5人の妃があった。その一人。
子供は全部で16男9女であった。その中から3名の天皇が出た。
30敏達天皇以外は蘇我系。541年に欽明の妃となった。
D存命中の記事は記紀になし。
620年欽明天皇陵に改葬。この儀礼により、馬子は、天皇の外戚としての地位を明瞭ににし、7世紀前半の蘇我氏繁栄の起点となった人物である。
 
・小姉君(?−?)
@父:蘇我稲目 母:不明
A堅塩媛と同母姉妹。(妹)その他兄弟姉妹:馬子、石寸名   
呼称:おあねのきみ
B夫:欽明天皇 4男一女:茨城皇子、葛城皇子、穴穂部間人皇女(用明天皇后)、穴穂部皇子(推古天皇を犯そうとして未遂、クーデター発覚馬子に殺害される)、32崇峻天皇
C小姉君の子供は反蘇我氏となり、総て滅亡。
 
・石寸名(?−?)
@父:稲目 母:不明
A夫:用明天皇 子供:田目皇子
 
2−2)馬子(?−626)
@父;蘇我稲目 母;不明
A稲目死後、572年29欽明没す。30敏達天皇が即位。馬子を大臣にした。
B妻;物部守屋妹との説あり。(別伝では、守屋ではなく、守屋弟「石上贄古」の娘「鎌姫」とある) 通称;嶋大臣 子;蝦夷、倉麻呂、娘;刀自古郎女(厩戸皇 子、後の聖徳太子の妃) 法提郎媛(物部惣領家、尾興の娘鎌足姫と馬子の間の子との説もある)をもうけ、34舒明の妃とす。                                
C585年30敏達天皇(蘇我氏と直接の姻戚関係なし)より、仏法破却を命じられる。 疫病がはやったことにより、排仏派の物部守屋、中臣勝海らが、仏法破却を敏達天皇に勧めた。蘇我ー物部の対立激化。
D582年飛鳥寺建立発願。法興寺は飛鳥仏教の中心地。そのあと「飛鳥寺」となった。
E585年30敏達天皇崩御。31用明天皇(蘇我氏系)即位。
馬子は、元通り大臣になる。
F587年物部氏についた穴穂部皇子を殺させる。併せて、物部守屋を滅ぼす。妻の縁で 守屋の領地を引き継いだ。これがその後の勢力拡大に役だったとの説あり。厩戸皇子(蘇我氏系)も馬子についた。
聖徳太子となり馬子と共に、寺塔建立を広める ことになる。
G587年32崇峻天皇(蘇我氏系)即位。馬子大臣になる。
H592年32崇峻と対立。殺されると察知。
先手を打ち、先に32崇峻を殺す。
I594年33推古天皇は、馬子に聖徳太子と「三宝の興降」を命じる。
J605年聖徳太子と共に、「冠位12階」「17条憲法」を定める。
K620年「天皇記」「国記」「本記」作成。
L626年33推古天皇に最後まで仕え、没す。その2年後推古没す。
 
・善徳(?−?)
@父:馬子 母:不明
A馬子の長男。僧となる。596年法興寺寺司となる。
 
・倉麻呂(?−?)
@父:馬子 母:不明
A子供:倉山田石川麻呂、日向、果安、赤兄、連子  別称:雄当(おまさ)
B宗家滅亡後もしぶとく生き残った分家の祖。
日本書紀でも殆ど記述無し。推古天皇没後の時期天皇問題では、蘇我氏の中で中立の立場を通し一族の安泰に繋がった。
実に目立たない人物。しかし、結果的にはこの流れがそれ以後の蘇我氏ー石川氏へと繋がったわけである。
 
 ・日向(?−?)
@父:倉麻呂 母:不明
A石川麻呂の異母弟。 妻:石川麻呂長女 別名:身狭臣
B644年中大兄皇子が中臣鎌足の仲人で石川麻呂の娘と婚約した夜、その娘を盗んで
邪魔した男。
C649年右大臣石川麻呂に皇太子中大兄皇子殺害の逆心ありと讒言。石川麻呂討伐に加わり石川麻呂を自殺させた。その後石川麻呂の潔白が証明され、筑紫太宰帥になる。
この人事は穏流とされた。総てが中大兄皇子ー鎌足の策略の匂いあり?とされている。
 
 ・果安(?−672)
@父:倉麻呂 母:不明
A671年巨勢人、紀大人らと共に御史大夫となる。
天智天皇の重臣の一人。
天智天皇の病が重くなった時、大友皇子、左大臣蘇我赤兄、右大臣中臣金等と共に天皇の詔に違わないことを誓った。
B672年「壬申の乱」勃発。大津京で自殺。子供は流罪。

 ・連子(611−664)
@父:倉麻呂 母:不明
A石川麻呂、日向の弟、赤兄の兄、子供:安麻呂、娼子ら
B662年天智朝右大臣。
C蘇我氏の本流を最終的に「石川姓」として継ぐのはこの流れである。安麻呂ー石川石足
 
・刀自古郎女(?−?)
@父:馬子 母:物部尾興女説
A蝦夷は同母姉弟 他の兄弟姉妹:河上娘、法堤郎媛、倉麻呂
B夫:聖徳太子 子供:山背大兄皇子、財王、日置王、片岡女王 
呼称:とじこのいらつめ
 
・法堤郎媛(?−?)
@父:馬子 母:不明
A夫:舒明天皇 子供:古人大兄皇子(皇位継承資格者の一人、吉野で殺される)
 呼称:ほていのいらつめ
 
 
 
・河上娘(?−?)
@父:馬子 母:不明
A夫:崇峻天皇 子供:なし。
B馬子は、崇峻天皇の妃となっていた大伴糠手娘小手子媛から、崇峻天皇が馬子を殺害しようとしている密告を馬子にした。
馬子は東漢直駒に命じて崇峻天皇を殺害させた。
この時崇峻天皇の妃となっていた河上姫を駒に与える密約があったともいわれている。
しかし、駒は河上姫を駒が奪ったということで、馬子に殺されたとされる。
 
 
2−3)蝦夷(?−645)
@父;蘇我馬子 母;不明 (石上贄古女 鎌姫?)
A馬子の後継ぎ、本名;蘇我毛人 通称;豊浦大臣     
子;入鹿 手杯媛
B610年25才の時大夫として、新羅使引見の際大伴連咋らとともに、記録として歴史上登上する。
C628年33推古の皇位継承にからみ、聖徳太子の子、山背大兄皇子を推す叔父「境部臣摩理勢」を殺し、田村皇子(後の34舒明)を擁立する。この皇位継承問題の処理は、大変な難問であった。
叔父境部臣との本家争いの整理、田村皇子、山背皇子のどちらにするか。これを処理して名実共に大臣となったと言われている。
D634年豊浦寺建立。
E642年35皇極天皇即位。蝦夷元どうり大臣になる。
F643年入鹿に私的に紫冠を授け大臣に擬した。入鹿が「山背大兄皇子」を殺した時、蝦夷はこれを聞き嘆いた。とされる。
G644年甘檮岡に邸宅を建てる。
H645年「天皇記」「国記」珍宝に火を放ち自殺する。(大化の改新)
 
・手杯媛(?−?)
@父:蝦夷 母:不明
A夫:舒明天皇 子供:箭田皇女
 
2−4)入鹿(?−645)
@父;蘇我蝦夷 母;不明 (物部鎌姫大刀自連公?尾輿孫?)
A642年国政の実権を握り、父蝦夷以上の勢いを持つ。
本名;蘇我鞍作
B643年山背大兄皇子を廃し、古人大兄皇子(34舒明長子)を次期天皇に立てようと謀る。どちらも蘇我氏の血を引く皇子である。ついに山背大兄王を殺す。
父蝦夷は、これを聞き怒る。ーーー聖徳太子系の血筋が総て絶たれた。ーーー
日本書紀では、入鹿は皇位を狙ったと匂わせているとされる。
C645年中大兄皇子(34舒明ー35皇極の子)中臣鎌足と共に宮中で入鹿を殺害。
ーーー「乙巳の変」ーー大化の改新ーーーー>蘇我氏本流滅亡、−−−>中臣鎌足の台頭。
参考)山背大兄王の存在そのものが、日本書紀の創作である。
との説あり。
・中臣鎌足の活躍を正当化、入鹿ら蘇我氏を極悪人扱いするために、歴史を完全に改ざんしたものである(藤原不比等の陰謀)。蘇我氏こそ大和朝廷を建て直した、大功労者である。これを歴史上抹殺するために仕組まれた人物が、山背王の創作であった。(関 祐二)
 
2−5)倉山田石川麻呂(?−649)
@父;蘇我倉麻呂 母;不明
A父倉麻呂は、馬子の4男、蝦夷の弟。兄弟;日向、連子、赤兄ら
 子;尾興、法師、赤猪、娘;乳娘(妃36孝徳)
遠智媛(妃38天智)姪娘(38天智ら
B中臣鎌足は、石川麻呂を仲間に引き込むため、その娘を中大兄皇子の妃に迎えることを皇子に提案。遠智媛(41持統の母)姪姫(43元明の母)を38天智に嫁がせた。
C皇極朝に宗家の入鹿と対立。
石川麻呂と中大兄皇子と鎌足が謀って蘇我入鹿を斬殺。
D645年36孝徳の時、蘇我氏族長となり、右大臣になる。
E649年異母弟蘇我日向の讒言(中大兄皇子への)「異母兄石川麻呂が、あなたを殺害する機会を狙っている。」36孝徳は、これを信じた。これにより自殺。これは、中大兄皇子が 仕組んだものと言われている。
 
・興志(?−649)
@父:石川麻呂 母:不明
A長男。
B641年飛鳥山田寺建立開始。その造営責任者。
C649年蘇我日向の讒言で父石川麻呂の討伐隊が差し向けられる。石川麻呂は、子供、法師、赤猪らを連れて興志が造営中の飛鳥山田寺に入った。興志は、徹底抗戦を主張するが、父は、無実の罪で殺されようとも天智天皇(当時は中大兄皇子)に対する忠義の心は失っていない。山田寺で心安らかに最期を迎えたい。との言葉に興志も同意し、共に自害した。
 
・姪娘(?−?)
@父:倉山田石川麻呂 母:不明
A遠智媛の妹、興志の妹
B夫:中大兄皇子 子供:御名部皇女(高市皇子妃)、阿閑皇女(草壁皇子妃:元明天皇)
 
・遠智媛(?−649)
@父:倉山田石川麻呂 母:不明
A夫:中大兄皇子 妹:姪媛  呼称:おちのいらつめ
B644年中臣鎌足は蘇我本宗家を倒す為に蘇我庶流の石川麻呂の長女を中大兄皇子の妃にしようとした。しかし、これを石川麻呂の異母弟日向が奪い邪魔した。この時困っていた父石川麻呂を進んで助けて自分が中大兄皇子の妃となったのが、遠智媛だと紀に記されている。
C1男2女:大田皇女、持統天皇、建皇子。
D649年父は、日向の讒言により自殺。一族自害。遠智媛もそれが原因で病死。
 
・乳媛(?−?)
@父:石川麻呂 母:不明
A4人姉妹の末か
B夫:孝徳天皇 子供:なし 
 
2−6)赤兄(623−672)
@父;蘇我倉麻呂 母;不明
A兄弟;石川麻呂ら。 娘;常陸娘(妃38天智) 大ヌ(妃39天武、石川夫人)
B658年37斉明天皇が、都を留守にした時、有馬皇子を訪ね「斉明には、3つの失政がある」と批判をした。味方を得たと思った皇子は、挙兵を決意する(有馬皇子の変)。有馬皇子は、37斉明、中大兄皇子母子には、父36孝徳を死においやった恨みを持っていた。
有馬皇子は、この赤兄の謀略(中大兄皇子の案?)にかかり、絞首刑となった。
C671年38天智朝で、左大臣となった。大友皇子の後見役的役割。
D「壬申の乱」で叔父蘇我臣果安は、自殺。左大臣赤兄は、流罪となった。但し、軽い刑であったといわれている。
ーーーーこの付近で蘇我氏は、歴史上姿を消し、勢力を失ったものと思われる。ーーー
 
 以降は、蘇我連子ー安麻呂流れ石川氏(石足、年足、宮麻呂)が蘇我本流となり、土佐阿波、津軽、九州に分布していった。
 
・常陸娘(?−?)
@父:赤兄 母:不明
A夫:天智天皇 子供:山辺皇女(大津皇子妃)
・大ヌ(?−?)
@父:赤兄 母:不明
A夫:天武天皇 子供:穂積皇子、紀皇女、田形皇女
 
2−7)安麻呂(?−?)
@父:連子 母:不明
A天智朝少納言 子供:石川石足
B671年病重くなった天智天皇は安麻呂を遣わして大海人皇子を召し、皇位を授けようと言った。皇子はこれを固辞、出家、吉野に逃げた。かねて皇子に心を寄せていた安麻呂が、もし皇子が天智天皇の申し出を受諾すると、即座に皇子を殺害する企てがあることを皇子に知らせていたからという。「壬申の乱」に関する有名な話
 
2−8)石川石足(667−726)
@父:安麻呂 母:不明
A子供:中納言豊成、民部大輔人成、年足
B従三位権参議、蘇我氏本流はこれ以降この石川氏が継いだことになる。
 
2−9)年足(688−762)
@父:石足 母:不明
A子供:名足、永年
B御史大夫
 
2−10)名足(728−788)
@父:年足 母:不明
A子供:真守
B中納言左京大夫
 
2−11)真守(730−799)
@父:名足 母:不明
A刑部卿
 
文献上ここまでしか蘇我氏ー石川氏の系譜はたどれなかった。
 
3)蘇我氏系図
 蘇我氏に関連する系図は、記紀記述が基本である。異説も幾つかあるが、記紀に記述のなかった物部氏との婚姻関係を示してある「旧事本紀」の記事も参考にして、筆者創作系図を下記に示す。
併せて参考系図を載せた。
 
 
 
 
 
 
 
 
4)系図解説・論考
 本シリーズ「2.葛城氏論考」の項でも触れたが、豪族には「連(むらじ)」系と「臣(おみ)」系とがある。
元々の意味は「連」は天皇家に仕える氏族で天皇家と婚姻関係は結べない(物部氏、大伴氏など)。
「臣」は、天皇家と直接的主従関係はなく、ある意味では対等関係の氏族とされ、天皇家との婚姻関係があった(葛城氏、吉備氏、蘇我氏など)。(但し、非常に卑な側室的存在の女性は、この不文律みたいなものとは、無関係だったらしい)。 
「連」「臣」どちらもが王権を維持するのには大切なものとの認識にあった。それぞれの長が「大連(おおむらじ)」「大臣(おおおみ)」と呼ばれた。
但しこのような呼称が何時から始まったかについては、はっきりしてない。旧事本紀には、欠史八代中には既に「大連」があっとと記述されている。
一説によると、記紀編纂の時かそれ以前に、元来「大臣」につける家柄豪族は総て武内宿禰を出自とする者だけであった、と系図改竄がされた。武内宿禰自身が、実在が極めて疑わしい想像上の人物であるとする。よって本概略系図の武内宿禰を祖とする、蘇我氏ら7氏族の出自は極めて疑わしいとされている訳である。
特に葛城氏、平群氏、蘇我氏、紀氏は有力豪族となり、大臣を輩出したのは事実である(少なくとも記紀上では)。
中でも葛城氏、蘇我氏、紀氏に関しては、記紀記述では、朝鮮半島との各種交流記事の中で活躍している。
よって古来渡来人説が非常に濃厚な氏族とされている。
 そもそも何をもって渡来人とするかは、日本古代史を研究する上で、非常に難しい。帰化人とするか、渡来人とするかでも学者のなかで見解が分かれているらしい。筆者は渡来人という呼称に統一して述べる。
紀元前5世紀から3世紀頃にかけて、稲作文化を中心とした、弥生文化が中国、朝鮮半島などから日本列島特に北九州方面から日本に入って来たとされる。
文化だけがくる訳がなく、その文化をもった人間が、小集団、大集団で渡ってきたとされる。
ある集団は、元々の祖地を追われた流民集団、ある集団は、新天地を求めた開拓民的渡来人であったろう。
これらの集団は、日本に上陸後、元々日本にいた縄文系の種族と争いもし、婚姻関係などを重ねて、融和もしながら、徐々にその文化の優位性が力を発揮し、一種の小国家的組織に成長した。
その一つが邪馬台国である。弥生人である。
私流に言えば、渡来人の末裔達で造った国である。
構成員総てが渡来人と言うわけではない。リーダー的存在の人物達はそうであろう。
邪馬台国とそれに続いて大和の地に誕生したとされる大和王権も邪馬台国と血族的関係があったかどうかは、意見が分かれているが、やはり弥生人である。
即ち渡来人の末裔である。一説によると「天孫族」の「天」とは朝鮮半島それも南鮮の百済、任那付近のことを指す言葉であるとしている。
即ち天皇家の元祖(神武天皇よりもっと前)は、朝鮮半島から渡来した、他の氏族とは異なる貴なる一族(王族)で、これに多くの従臣が従い、これがその後の「神別氏族」となった。
即ち大和王権は渡来人の末裔が確立したのである。と思って間違いない。
弥生人の系統にもめったやたらと人種、祖先の違いがあるのは当たり前である。入ってきた年代もまちまちである。元来の日本人との血の混ざり具合も千差万別である。
初期(紀元前5世紀頃)に日本に渡来人とした来た者から葛城氏が歴史上登場する15応神天皇頃(紀元5世紀)まで約1,000年である。
大和に王権が誕生してからは、僅か100年である。北九州を中心として住んでいた、元々渡来人出身の弥生人が大和に多く入ってきてからでも200年くらいではなかろうか。
色々の文献から筆者が皮算用すると、以上のようになる。
 葛城氏らが大和の地で活躍し出したのは、紀元5世紀前後であり、蘇我氏が記紀上で活躍記録が出てくるのはその約100年後である。
物部氏や、大伴氏、或いは大三輪氏、賀茂氏、穂積氏、和邇氏、などは記紀の記述から見れば、崇神朝(4世紀)には既に存在していたと見るべきである。
いずれも広い意味では渡来人の末裔である。
なのに敢えて葛城氏・蘇我氏らを渡来人にその出自がある、という説には、葛城襲津彦がその娘を仁徳天皇の妃にしたり、稲目らが時の王権で大臣になった近い過去に朝鮮半島から渡来した氏族であって、前述の豪族とは異なる渡来人と解する(以後これを新渡来人と記す)。
その前は不明だから、武内宿禰という創作人物にその出自を求めたという説が1)まえがきに記したようにかなり強い。葛城氏そのものも新渡来人とするなら、別系図1,の説でも蘇我氏は新渡来人となる。
ところが別系図2.のようなものもある。この系図の出典は不明であるので余り深入りは出来ぬ。
筆者は葛城氏論考のなかでも主張したように、この新渡来人説は取れないというスタンスである。
理由は色々あるが主なものを記すと下記のようになる。
@蘇我氏は、葛城氏と非常に深い関係にある。武光 誠の葛城庶流説を支持する。
A葛城氏考でも主張したように、新渡来系の氏族を統括する勢力はあったと認める。
また、朝鮮半島などで活躍したことも一部正しいであろう。しかし、蘇我氏自身が新渡来人で、僅か100年もかからない間に王権のトップになれ、天皇家に自分の娘を入れる力を得られるとは、考えられない。
渡来人系の氏族は、「秦氏」「東漢氏」「西漢氏」など沢山存在する。しかも技術力、財力もあったとされている。しかし、彼等は誇り高く
自分等の氏族の出自を中国、朝鮮などに求め、決して王権の中枢には入っていない。
B非常に優秀な豪族であった葛城氏系だけが新渡来人なのに、自分等の出自を捨て、誇りを捨てて、日本のそれもはっきりしない武内宿禰の子供らとなることを、彼等の血を引く数代後の裔達は納得したのだろうか。しかも大臣となったような家柄のものがである。
以後の色々の系図研究などからもこれは、非常に考えにくいことであるといえる。心証であるが。
C既存の豪族が、新渡来人の王権中枢への参画をそう簡単に許す環境にはなかったとみる。
物部氏も大伴氏も武力においては、葛城氏や、蘇我氏に勝っていたと思われる。
勿論記紀も彼等が新渡来人の出身とは記してない。

 さて、蘇我氏として、歴史上その存在が間違いないとされている人物は、蘇我稲目以降の人物である。
稲目ー馬子ー蝦夷ー入鹿、この本流4代が蘇我王朝説が産まれるほど、天皇家を凌駕する規模、勢力を築いた訳である。
蘇我氏が急激に勢力を伸ばした最大の戦略は、娘を天皇家に嫁がせ、次ぎの天皇の外戚となり、孫の天皇を思い通りにあやつることにより、王権の総ての権力を掌握したことにある。
具体的には、31用明、32崇峻、33推古などである。
本系図にはそのほんの一部しか記せなかったが、当時の皇族の主な人物の妃に蘇我氏一族挙げて娘を出して、誰が天皇となろうと大丈夫だというがんじがらめの体制を引いた。
聖徳太子といえど例外ではない。
ところが、これに仏教の日本への導入問題と絡んで、もう一方の大豪族「物部守屋」と激しい政争がくり広がった。遂に多くの皇族を抱き込んだ一種の宗教戦争にまで発展し、蘇我氏の勝利となった。
その後、「入鹿」らの横暴が目立ちだした。
この状態に危機感を感じ手を下したのが、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)を中心とした反蘇我勢力であった。
遂に入鹿は殺され、父「蝦夷」は自害して、ここに蘇我本流家は滅亡する。いわゆる「乙巳の変」、「大化の改新」といわれている。
蘇我氏の時代は、536年に稲目が28宣化天皇の大臣となったことに始まり、645年入鹿・蝦夷父子の死亡までの約100年間であった。とされる。
記紀のこの辺りの記述には、多くの疑問が指摘されている。
天智天皇の子供である「持統天皇」と、藤原鎌足の子供である「不比等」が自分等の親の功績を過大に美化し、蘇我氏を史実と異なる悪行家として、後世に蘇我氏の影響が残らぬよう記事を改竄した形跡あり、とする説が主流。
現実的には、大化の改新後、蘇我氏の血が入ってない36孝徳天皇、
37斉明天皇(35皇極天皇) 等を経て38天智40天武へと皇統譜は繋がっていくことになる。
蘇我本流は入鹿で滅んだが、蝦夷の弟「倉麿」の流れである倉山田石川麿が蘇我氏を継ぎ、その娘3人が天皇に嫁ぎ、「遠智媛」は天智天皇の子41持統天皇を産み、「姪媛」は同じく天智天皇の子で43元明天皇を産んだ。どちらも女帝である。ただし、父石川麻呂は、36孝徳天皇(実際は天智天皇?)によって、滅ぼされた。
 系図からも明らかなように、藤原不比等の正妻は蘇我連子の娘「娼子」である。この間の子供こそ、その後の藤原氏繁栄の礎となった、南家「武智麿」北家「房前」式家「宇合」の3兄弟である。
蘇我氏の血脈は、藤原氏に間違いなく繋がったのである。
そして時代は異なるが藤原氏は蘇我氏とほぼ同じ手法で天皇家の外戚となり、その後の日本の政治をほしいままにしたのである。
蘇我氏出身の最後の大臣は「赤兄」であった。これ以降蘇我氏の本流を継いだとされているのは「連子」の子供「安麿 」で石川姓を名乗ることになり、平安時代初期までは石川氏はそれなりの政治的立場にいたようである。
しかし、歴史上蘇我氏が表舞台に再登場することはなかった。
 なお江戸時代大名となった「牧野氏」は蘇我氏出身とされ、高麗の子「鳥」の子「田口川掘」いわゆる、蘇我田口氏が祖であるとの系譜が残されている。

 日本の歴史上、天皇家と外戚関係を結び 、時の政治の中枢を数代以上握ったのは葛城氏と蘇我氏と藤原氏の3豪族しかない。その3豪族が血族関係であったことは、あまり知られてないが、どうも可能性は、高いと思われる。
補足であるが、蘇我韓子の娘「弟名子媛」が物部氏の流れを引く穂積氏に嫁いでいる系譜が残されていることは、注目すべきことである。

 筆者の理解出来ないことは、馬子の娘「刀自古郎女」と聖徳太子との間に産まれた「山背大兄皇子」が何故蘇我氏の手により滅ぼされたかである。結果的に見ればこれが蘇我氏滅亡の主因のように思える。(勿論、崇峻天皇を殺したのも蘇我氏であり、歴史上現役の天皇を臣下の者が殺すと言うことは、初めてのことである)。
聖徳太子には子供、孫一族膨大な人数の血族がいた。しかし、この山背大兄皇子の死に伴い全員自害したと言われ、よって聖徳太子の血脈は完全に絶えたとされている。
日本書紀による「山背大兄皇子」創作説は、現在もある(蘇我氏悪行話を盛り上げる為に必要な演出)。勿論「聖徳太子不存在説」「蘇我馬子天皇説」もあるのだから、なんでもありの世界が、現在この辺りの古代史でも横行している。
 
いずれにせよ藤原不比等が歴史上登場するのは、687年持統天皇の即位からである。大化の改新後約40年である。藤原時代の幕開けである。上述したように、その妻は蘇我氏の娘である。
その後の藤原氏繁栄の原点は不比等ー蘇我氏娘の間に産まれた3人の子供らによって築かれたのである。歴史は繰り返す。蘇我氏が失敗したことは充分彼等は知っている。
その繰り返しは絶対にしてはならない。不比等は万感の思いを込めて記紀を編纂したのである。それが「蘇我氏悪行」説であろう。史実以上に極悪人に蝦夷・入鹿を仕立てた。
名前も蔑称であろう。と言われている。
現在も、本当の真実は分からない。謎多き蘇我氏である。
 
 
 
5)まとめ(筆者の主張)
@蘇我氏は、葛城氏と血族的に深い関係であり、新渡来人出身ではない。
A葛城氏、蘇我氏、藤原氏は血脈的に繋がっている。
B蘇我蝦夷、入鹿には、物部氏の血脈が入っている。
C日本書紀は、蘇我氏の本当の姿、事績を客観的に記述したとは思えない部分がある。
D蘇我氏が台頭したきっかけは、継体天皇の時期だと思われるが記紀ともにはっきり記述してない。蘇我韓子、高麗の果たした史実が不明。
 一部で言われている継体天皇が大和に入るのに20年も要したのは、旧葛城勢力の反対に合い、これら勢力を説得したのが同じ葛城出身で新渡来人等の力を利用して力をつけてきた蘇我氏である。
蘇我氏は、続いて大伴金村の失脚をはかり、継体天皇の子供ら、特に欽明天皇の後見役、舅となり大いに勢力を伸ばしたのだとの説に組したい。
E聖徳太子は明らかに蘇我氏系である。しかし、何故天皇になれなかったのか。実質的な天皇であったとの説もあるが、理解し難い。
さらに太子と蘇我氏娘との子「山背大兄皇子」は次期天皇候補であったことは間違いなかろうが、何故蘇我氏によって滅亡されたのか筆者は、未だ理解出来ない。
蘇我氏滅亡の最大の原因と日本書紀には匂わせているのに、その理由が分からない。
F記紀は二度と蘇我氏のような天皇家の地位を脅かす者の出現を防ぐのをその主目的の一つとして天皇家の絶対性を立証した記録である。
それを強く指導したのが藤原不比等とされている。
不比等の理想とした天皇家の姿は何んなものだったのか。
その後の藤原氏のとった戦略は、蘇我氏とどこが違うのか。
ここに戦後歴史家の記紀記事の信憑性に疑問を抱く原因の1つがある。

参考)関係年表 (日本の歴史3講談社年表参考)
(雄略朝)蘇我満致「検校三蔵」(古語捨遺)
(465年)蘇我韓子が征新羅将軍として派遣され、
      紀大磐に殺害される。
507年継体天皇樟葉宮で即位
511年山背筒城宮遷都
512年任那四県を百済に割譲
518年弟国宮遷都
526年磐余玉穂宮遷都
527年磐井の乱で物部麁鹿火大連が磐井軍を討伐、九州に領地を獲得
531年継体天皇没
534年安閑天皇即位
535年安閑天皇没
536年宣化天皇即位 物部麁鹿火没。物部尾興が大連を継ぐ。
    蘇我稲目大臣となる。
538年百済聖明王により仏教伝わる(552年説もある)
539年宣化天皇没欽明天皇即位
540年物部尾興ら大伴金村を失脚させる
552年蘇我稲目ら崇仏派と物部尾興ら排仏派対立。
562年新羅任那を滅ぼす。新羅へ派兵、敗退。
570年蘇我稲目没(569年説もある)
571年欽明天皇没。
572年敏達天皇即位
585年敏達天皇没。用明天皇即位。蘇我馬子と物部守屋対立。
587年用明天皇没。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす。崇峻天皇即位。
592年蘇我馬子が崇峻天皇を殺害する。推古天皇即位。
593年聖徳太子摂政となる。
596年飛鳥寺完成。
600年遣隋使をおくる
603年冠位12階制定
604年憲法17条制定
607年小野妹子遣隋使国書(日出る処の天子ーーー)持参
620年太子・馬子が天皇記・国記などつくる。
622年聖徳太子没。
624年馬子が葛城県を推古天皇に要求、拒絶される。
626年蘇我馬子没。
628年推古天皇没。蘇我蝦夷が叔父境部摩理勢を殺す。
629年舒明天皇即位。
640年南淵請安遣隋使帰朝。
641年舒明天皇没。
642年皇極天皇即位。蘇我蝦夷・入鹿権勢をふるう。
643年入鹿、「古人大兄皇子」即位を謀り山背大兄皇子を自殺させる
644年蘇我日向、蘇我蔵山田石川麻呂長女を強奪。
645年中大兄皇子、中臣鎌足ら蘇我入鹿を殺害。蝦夷自害。
    皇極天皇譲位。孝徳天皇即位 蘇我倉山田石川麻呂右大臣に
646年大化の改新。
649年蘇我日向の讒言、右大臣蘇我倉山田石川麻呂山田寺で自害。
654年孝徳天皇没。
655年斉明天皇重祚。
658年有馬皇子が蘇我赤兄の計略にかかり処刑される。
661年斉明天皇没。中大兄皇子称制開始。
662年蘇我連子右大臣になる。
663年白村江で新羅・唐軍に大敗。
668年天智天皇即位。
669年中臣鎌足に大臣位を授け藤原姓を与える。鎌足没。
671年天智天皇没。蘇我赤兄左大臣となる。蘇我果安御史大夫になる
672年壬申の乱
673年天武天皇即位。
687年持統天皇即位。藤原不比等の活躍始まる。
 
 
 
 
 
 
6)参考文献
・日本の歴史「大王から天皇へ」熊谷公男 講談社(2001年)
・古代史を知る事典 武光 誠 東京堂出版(1996年)
・聖徳太子 坂本太郎 吉川弘文館(2000年)
・蘇我蝦夷・入鹿 門脇禎二 吉川弘文館(1991年)
・藤原不比等 高島正人 吉川弘文館(1997年)
・持統天皇 直木孝次郎 吉川弘文館(1994年)
・葛城と古代国家 門脇禎二 講談社(2001年)
・古代豪族の研究 新人物往来社(2002年)
など多数。