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6.継体天皇出自考
1)はじめに
 古代豪族を語る時避けて通れない天皇がいる。26継体天皇である。現在の日本史学界では実在が間違いないとされる最古の天皇(大王)である,とされている。
これ以降の天皇系譜は一部不確かな点はあるが、ほぼ間違いなく一系の血筋を保って現天皇家まで繋がっているとされている。
継体天皇は、古事記では、応神天皇5世の孫と記され、日本書紀では、応神天皇5世孫の子とされている。
紀では、父:応神天皇5世孫彦主人 母:垂仁天皇7世孫振姫と書かれているだけで応神天皇までの総ての系譜が記されてない。
一方「釈日本紀」(1274−1301)という「卜部兼方」が編纂した,現存する最古の日本書紀の注釈書の中に,推古天皇時編纂されたと思われる上宮記(「上宮聖徳法王帝説」という類似の名前の本も知られているが内容的に似てはいるが別の本である)という聖徳太子関係の史書を引用した箇所がある。
そこに継体天皇の詳しい系図が記されてある(上宮記逸文)。
この上宮記なるものは現存してない。
母親「振姫」の垂仁天皇までの系図も記されてある。
これと記紀に記された系図を結びつけ、さらに息長氏系図、天日矛など彦坐王関連の系図を結びつけたのが下記筆者創作系図である。
本稿では継体天皇自身の事績等は出来るだけ省略する。
それらは別稿で詳しく記す。
本シリーズの「4.古代初期天皇家概論」の中で25武烈天皇までの人物列伝を記した。
継体天皇の出現に関しては、一般的には、記紀に基づくと、それぞれ表現は若干異なるが、次ぎのように理解されている。
 10崇神天皇から15応神天皇を経て21雄略天皇頃まで王統は保たれてきた。雄略天皇は、武力で葛城氏、吉備氏を初めとし多くの有力豪族(天皇家の地位を脅かす恐れのある)を滅ぼし、かつ大王になる資格を有する多くの皇族を殺した。
そのため子供22清寧天皇に子供が無く、次ぎの天皇の資格を有する人物がいなくなった。
そこで播磨国に身分を隠して住んでいた23顕宗天皇、24仁賢天皇兄弟を見つけてやっと皇統を継ぎ、仁賢天皇の子供25武烈天皇まできたが、この武烈帝にもまた子供がいなかった。
ここで困ったのは、大王家を支えていた豪族達である。雄略朝の時めぼしい皇統は断絶又は地方に逃げて行方も分からない状態になっていた。庶流の庶流みたいな人物はいたかもしれぬが、それでは大王として人心を得ることは出来ない。
この当時の大王家を支えていた豪族は、葛城氏でもなく、平群氏でもない。新たに大伴氏が台頭してきていた。
大伴氏は元々軍事を司る氏族であったが、21雄略天皇の親任を得て物部氏、葛城系氏族の他として「大伴室屋」なる人物が「大連」になって歴史上に登場する。
これ以降25武烈天皇までに葛城氏、平群氏は滅ぼされる訳である。それに貢献したのが大伴氏、物部氏である(本シリーズ5.物部氏考の「歴代天皇朝重役リスト」参照)。25武烈天皇の後継大王選びに活躍するのが大伴室屋の子供「金村」である。金村は当時朝廷内の最高実力者とされている。
後継大王として最初に選んだのは、14仲哀天皇の5世孫とされる丹波にいた「倭彦王」であった。ところが金村等がお迎えに多くの軍勢を引き連れて行った時、倭彦王は自分を殺しにきたものと思い恐れをなして、逃げてしまった(このことからも雄略朝の皇族狩りの凄まじさが窺える)。
次ぎに越前の三国に行き、彦主人王の子である応神天皇の5世孫「男大迹王(おおとのみこと)」に会い、大王になることを要請した。
しかし、彼は初め拒否をしたとされる。金村は「物部麁鹿火」らの協力もとりつけ改めて大王に着かれることを懇請したとされる。
その後507年に河内国の樟葉宮(大阪市枚方市)で即位し継体天皇となった。その後511年に山背国筒城宮(京都府綴喜郡)、518年に山背国弟国宮(京都府長岡京市)に移り、526年大和国磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に遷都した、と言われている。
ところがこの記紀の記述には多くの謎と疑問がある、とされてきた。
その中の幾つかを列挙すると
@継体天皇の出自に関する事項
・記紀で微妙に異なる。応神天皇の5世孫、5世孫の子
・そもそも記紀に応神天皇から継体天皇までの系図が記されてない。神世ー神武ー武烈帝まであれほど詳しい系図が記されているのに、何故、肝心の記紀編纂時の天皇家に直結している、継体天皇の出自がぼかされているのか。僅か200年前のことではないか。
・古事記では近江国の豪族出身としてある。日本書紀では、近江国で生まれ越前で育てられ越前から招請されて皇位についた。
・後世に釈日本紀なる本に引用された、上宮記記事の継体天皇関係系図の信憑性。
・前天皇家への入り婿説。婿入り前の子供(27安閑、28仁賢天皇)の皇位継承の正当性。
・新羅からの渡来王族の末裔説。
などなど
A継体天皇の大和入り問題に関する事項
・何故即位後大和に入るのに20年も要したか。大和の有力豪族の賛意を得られない理由は何か。血脈?
・磐余玉穂宮不存在説。
・樟葉宮跡、筒城宮跡は現在比定地あり。弟国宮跡は今日まで確実に比定地は決定されてない。どこか?長岡京市乙訓寺近辺か?
など
B継体天皇の後継天皇問題に関する事項。
・27安閑天皇、28宣化天皇、29欽明天皇の2朝併存説。血脈問題?
・継体天皇の死亡年の不確定さ。
など
C継体天皇の墓に関する事項
・大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳(宮内庁認定)
・高槻市にある今城塚古墳説
など
新王朝説、征服王朝説も盛んである。
神武天皇東征話も継体天皇の大和入りまでの苦労の言い伝えを記紀編纂者等が創作を加え神武天皇紀として書き残したものである。なんて説も幾つかあるらしい。
筆者は、発掘調査の進展で事実は徐々に解明されるとは思うが、現時点での情報を基に本稿では、継体天皇の出自に的を絞り論考を試みたい。
2)継体天皇出自関連系図(筆者創作系図) 
 ・併せて神世から50桓武天皇までの直系系図を記紀記述および上宮記を基に作成したので記す。
 
 
3)系図解説・論考
 ここに記された系図は、部分的には総て公知のものである。但しこのようにつなぎ併せると、見たことも無い系図と言える。
よって筆者創作系図とした。
@「山背大国淵」という人物は山背国宇治郡大国郷にいた人物で2人の娘を11垂仁天皇の妃とした。
綺戸辺から倭建の妃となり仲哀天皇を産んだ両道入姫と三尾君の始祖といわれる磐衝別(イワツワケ)が生まれた。この流れが北陸、能登などに勢力を張り、26継体天皇の母「振姫」へと繋がった訳である。
但し石城別以降の系図は一般的でなく、上宮記逸文に記されて分かったことである。記紀には記載無い。
A一方姉の苅幡戸辺は、垂仁天皇の妃であるが、どちらが先かは分からぬ、9開化天皇の子供「彦坐王」の妃ともなっている。この彦坐王の別腹の子「丹波道主命」の娘「日葉酢媛」は、垂仁天皇の妃となり、12景行天皇を産んでいる。この景行天皇の子供が倭建であると記紀ともに記してある。これには過去色々な疑問が発せられている。
この倭建と前述の両道入媛との間に生まれたのが14仲哀天皇である。
B上記丹波道主命は彦坐王の子供にあらず、という説も根強くある。彦坐王の詳細系図は、またいつか示すが、非常に複雑怪奇で大和・近江・丹波を股に掛けた広域出身の娘を妃としており、20名近い子供をもうけそれぞれがその地の有力者となり後の歴史に関与してくる。
どうも2人位の人物の系図を一人に併せたのではないかとの説も多い。
C彦坐王のさらに別腹の子「山代大筒城真稚」の流れから息長宿禰が出て、これと「天日矛」の流れを引く(葛城氏の流れも入っている。本シリーズ「2.葛城氏論考」参照)葛城高額媛との間に生まれたのが息長帯媛、所謂「神功皇后」である。と記紀は記してある。
これは全くの創作であるとの説、濃厚。勿論この神功皇后と前述の仲哀天皇が結ばれ15応神天皇が生まれるのである。
この神功皇后には実妹「虚空津比売」がおりこれが子供の応神天皇の妃となり生まれたのが、「若野毛二俣王」である。
とする系図が残されている。
より一般的には倭建の曾孫である「息長真若中媛」と応神天皇との子供が若野毛二俣王でありその妃は真若中媛の妹「真若弟姫」である。とする系図がある。
しかし、この系図も怪しげであり余り信用するのもどうかとされている。
Dこの若野毛二俣王の子供に「意富富等王(太郎子)」、19允恭天皇の后となった「忍坂大中津媛」がいる。この媛は大物である。21雄略天皇・20安康天皇等の母である。
兄:意富富等王は、一般的に豪族「息長氏」の始祖とされている。
E意富富等王以降継体天皇までの系図が記紀に記されてないのである。現在は上宮記逸文を信頼して「乎非王」・「彦主人」・継体天皇と繋がっている(さらに汗斯王なる人物も出てくるが彦主人と同一人物と見なされている)。
彦主人王(ヒコウシ王)のことは日本書紀には継体天皇の父として記されている。
何故、意富富等王・乎非王の2代を省略したのか?
謎である。同じ系図に記されている継体天皇の2人の妃、及び敏達天皇の妃の父親である「息長真手王」なる人物の系図も記紀には記されてなかったらしい。
息長真手王なる人物は、記紀に記されているし、新制度の姓で最も高貴な真人姓を賜った人物である。
この稿としては余談になるが、この息長真手王娘「広媛」と敏達天皇の間に生まれたのが「押坂彦人大兄皇子」でこの流れが蘇我氏の血が全く入ってない数少ない貴種として、蘇我氏滅亡後の政権大王家として、活躍することになるのである。
継体天皇と息長真手王は、同じ祖から発生しているのである。
F継体天皇の母親は、三尾君の流れを引く越国三国の坂中井の高向(現在の福井県丸岡町)にいた豪族であったとされる。
継体天皇の父彦主人は近江国高嶋郡三尾(滋賀県高島郡)の別業にいた息長氏系の豪族であったとされる。
G記紀で若干記述は異なるが「紀」に従うと、彦主人王は美人として名高かった越前の振媛を嫁としてもらい、近江の地で継体天皇を産んだ。しかし、父は若くして死んだので、母は自分の出所である越前三国に帰ってそこで継体天皇を育てた。
成長すると父親の勢力息長氏と母親側の北陸に築いた勢力を基に尾張・琵琶湖・越前・能登にまで及ぶ大豪族になってきた。
これを大和の豪族大伴氏等に認められ、大王に推戴された訳で、越前から琵琶湖淀川水系に進出、樟葉で即位した。
という説。これが、一般的であろう。
H息長氏とはどんな豪族か。これは非常に謎が多い。
稿を改めて記したい。
I以上で継体天皇の出自に関する現在オーソドックスに解明されている系図解説を終わる。

4)総合的論考
 ここまで述べてきたことからも分かるように、崇神天皇から連綿と皇統を維持してきたと主張している記紀の編纂者等は、継体天皇の擁立に関しては、包み隠さずに応神天皇の5世孫、とりように見れば6世孫を時の朝廷の最大実力者「大伴金村」が擁立せざるをえない程の窮地に追い込まれたことを詳しく記している。
しかも容易には大和の旧宮城の地に入れなかったことも。
記紀編纂を命じた天武天皇に直結する祖先大王である。いくらでもカモフラージュは出来たはずなのに。最も重要な祖先である。しかも掛け値なしの実在大王である。
これは一体何を意味するのか。
古来その出自問題と共に記紀の編纂意図について色々議論されてきた。
・記紀編纂者等は、継体天皇から以降については、天皇家の系譜には絶対なる自信があった。周りの豪族も皆その事実を否定出来ない。
継体天皇の出自に関しては詳しく知る者はいない(当時皇族は、6世から先は臣籍降下するのが通例か?)。よって崇神天皇以降色々な形で語り継がれていた王統系譜と継体天皇とを記紀のような形で繋いでも何ら問題ないとしたもので、事実とは関係ないし、受容可能なこととした。天皇には血筋が繋がって無い者がなれる訳がない。としたのだとの説。
・これは暗に記紀が王朝交替がここであったのだと認めている。
との説。
・記紀は当時のエリートが練りに練った物である。敢えて一番大事な人物のありのままをさらけ出すことにより、それ以前のもっともっとややこしい事実を隠し、その正当性を主張する根拠とした。
・天皇族は他の氏族とは全く異なる天孫族であり、これ以外の氏族は、どんなに実力があろうともこれに替わることは出来ないのである。
事実、25武烈天皇が亡くなった時、誰もが直ぐ分かる形では有力皇族がいなかった。
時の実力豪族としては、物部氏、大伴氏などがいた。彼等が自分がこれからは大王であると言うか、前の天皇家に入り婿すれば実力的にはなれるはずである。
しかし、事実はそうではなかった。血が薄くなったとはいえ(5世孫)天孫の血を引く皇族人物であったからこそ継体天皇が擁立されたのである。王朝交替なんてとんでもない。王朝を護るために継体天皇が生まれたのである。とする説。
・天皇家が万世一系の血筋であるとしたのは記紀記述によって、藤原不比等の仕組んだ作り話である。
これから以降に蘇我氏のように天皇家を脅かす存在が出ては国の安泰ははかれない。とする政治哲学から編み出された思想である。
絶対間違いのない継体天皇以降の体制を盤石なものにする国家体制造りの根本理念の一環で行われたものである。との説。
・記紀編纂者らは勿論それ以前に編纂されていた上宮記の内容は知っていた。
なのに何故、応神天皇から数代の系譜を省略したのか。
これは省略されたのではない。元々存在していた系図ばかりの巻の一部が途中で遺失したため伝わらなかったのである。との説。
・意富富等王の妃「中斯知命」だけその出自が全く不明である。
これは現在の我々には理解できない、記紀編纂時では充分理解出来るどうしても隠さなければならない不都合事項があったため、その辺りの記述を敢えてぼかしたのである。との説。
などなど挙げればきりがないほどの諸説が継体天皇出自に関してはある。それもこれも記紀編纂者の仕組んだ罠かもしれませんがね。
 現在のこの分野の専門家の間では、色々な観点から解析されて、継体天皇は血脈としては薄いが、前王朝である応神ー仁徳王朝に繋がっているとの説が主流。
もう一つの疑問は、何故大和に即位後20年もかかってから入ったのかである。
これにも諸説ある。
結論的には、大和の継体天皇への最大抵抗勢力と目された葛城氏の影響が、同じ葛城系の蘇我氏の台頭により削がれるまでに時間がかかった。本当に20年もかかったかは疑問あり。
蘇我氏が(巨勢氏らと組んで)継体天皇に接近したからだとする説が主流だと思う。この功大により、蘇我氏は稲目の時代に急成長し、大伴氏をけ落とし、ついには継体天皇の子供欽明天皇に2人の娘を妃として送り込み蘇我王国を築くことになった。とする説。
 さて、筆者はどう判断しているかである。主に心証的判断事項が多いが以下のようなものである。
継体天皇のお墓論争が賑やかである。宮内庁認定の「茶臼山古墳」と学者等の発掘調査が進んでいる「今城塚古墳」である。
大勢は後者の方に傾いているやに見える。いずれにせよ淀川水系の摂津国にあり、他の古代天皇とは全く独立してある。
一説によると大きい方の古墳、茶臼山古墳は継体天皇の祖先であり息長氏の祖と言われている意富富等王の墓である。
後継天皇の墓は、その祖先の墓の側に築造されたのだとの説。
息長氏は琵琶湖沿岸だけでなく淀川水系にも木津川水系にも一部和邇氏と重なり合うがその勢力を張っていたとされている。
山背国弟国付近もその勢力下に有ったと見て良い。(中村 修)
長岡京市にあるこの地方最大規模(全長120m)の前方後円墳である「恵解山古墳」は5世紀前半頃に築造されたこの地方の首長の墓とされている。これも息長氏に関連した人物のものではなかろうか。
継体天皇は記紀によれば518年にこの恵解山古墳の数Km北にあたる乙訓寺付近に弟国宮を造られたとされている(確実な比定地は未だ不明)樟葉宮、筒城宮、弟国宮いずれも息長氏の勢力圏内と考えて良い。
参考事項だが恵解山古墳の主は琵琶湖湖西にある雄琴神社の祭神「今雄宿禰命」の祖先と思われる祖別命(おおじわけ)であるとする説があるそうである。
この人物は上記系図の垂仁天皇と苅幡戸辺の子供である。彦坐王とも関係している。息長氏や、三尾君と関係ありそうにも思える。
ただ年代が合わぬのでは。しかし、このような言い伝えが湖西地方に残っていることは無視出来ないし、興味深い。
<筆者の主張>
@継体天皇は征服王朝ではない。新王朝でもない。交替王朝でもない。ましてや渡来人による王朝でもない。少なくとも15応神天皇から継がれてきた皇統の延長線にある血族による天皇家継承である。
A記紀と上宮記は、その編纂時期、目的などが全く異なる。にもかかわらず話の辻褄は合っている。併せて息長真手王についてもはっきりその後の役割が理解出来る。どちらも信憑性はある。と言えるのではないか。
B血の薄いことを仁賢天皇の娘「手白香媛」を娶り補おうとしたことは事実であろう。欽明天皇を産み、彼こそ正統なる大王後継者と考えても良い。継体天皇の元々からの妃「尾張目子媛」との間に生まれた27安閑天皇28宣化天皇の正当性が当時から問題にされたことは、記紀記事にも匂わせていることであり、理解できる。
C崇神天皇以降この手の天皇擁立は他でも有ったのでは無かろうかと思っている。
継体天皇の記事は、逆にそのことを暗示している。
継体天皇は絶対に間違いない天皇であるのでその存在を誰も疑わない。これを応神天皇とか、雄略天皇などにこの種の記述をすると天皇家の万世一系なんて誰も信じなくなる(継体天皇の本当のことを記すことにより、過去の正当化を図っている)。
Dこの大和という非常に狭い地域で有力豪族は限られている。その間での婚姻は通常行われていた。
男系で血が繋がるか、女系で繋がるかの違いはあったかも知れぬが一応崇神天皇から継体天皇までは、DNA的には濃くなったり、薄くなったりを繰り返しながら繋がっていることは認めざるをえない(一部存在そのものが怪しい天皇もいるが)。
少なくとも15応神天皇以降では天皇家は他の血族とは異なる存在であり、この一族に繋がる人物だけが大王になれる。という不文律みたいなものが出来上がっていたのではなかろうか。
最大の根拠は古代豪族の動きからそう判断した。
E物部氏、葛城氏、平群氏、大伴氏、そして蘇我氏など天皇家と並ぶ、いやそれ以上の力を持った時があったと、想像可能な氏族である。
しかし、ある一線だけは越えなかった。
物部氏の系譜を最も詳しく記した「旧事本紀」は、記紀とは別の視点で記されたものであり、記紀以降に記されたものであるが、記紀との整合が取れている。
意識的にそうした可能性大との説もあるが、筆者はこの旧事紀もある真実を反映していると判断する。(本シリーズ:5.物部氏考「歴代天皇朝重役表」及び「系図」参照)
F息長氏は豪族であるが系図からも分かるように皇族である。この氏族は葛城氏、蘇我氏等と一緒には扱えないように思える(系図上はこれらも皇別氏族)。
継体天皇は明らかに息長氏である。しかし、記紀で見る限り、未だ姓はなく王を名乗っている。継体天皇を影で支えた氏族である。
G古代豪族である物部氏も大伴氏(この氏族は皇別氏族ではない)も継体天皇前後でその系図に大変化がない。
この前後で大きく変化したと思われるのが蘇我氏である。
記紀では、葛城氏にその基がある言われているが真の出自は色々疑問があるらしい。平群、巨勢氏らと同族扱いである。
いずれも継体天皇の出現により大和から消えた訳ではない。
大伴氏は、蘇我氏との勢力争いで暫く表舞台から消えるが。蘇我氏が継体天皇大和入りの際の最大貢献者とされた。
H崇神以降徐々に大王家的血族の集約化が行われ、継体で少し薄れたがこれ以降さらに急激に濃厚化が進み、記紀の成立で確固たる天皇家体制が確立したものと考える。
継体がそのきっかけを作る引き金的役割を結果的に演じたと考える。
 
 
<余談>
 さて上記筆者系図に50桓武天皇直系系譜(神世ー50桓武)を載せた。
これは記紀記述に「上宮記」を参考にして記したものである。
神世は斜体で示した。
なんと天照大神以外は総てその配偶者の記録が残されている。
神武天皇ー9開化天皇までは別として、10崇神天皇が3世紀末ー4世紀初頭に即位したとして考えてみよう。
桓武天皇まで19代である。確かに26継体天皇だけ突出して前天皇からの血脈が薄くなっている。
桓武天皇は737年生まれである。10崇神天皇が50才で紀元300年に即位したと仮定すると250年生まれである。487年間で19代目が生まれたことになる。平均で27才で後継者が生まれたことになる。これは合理的範囲である。
 戦後天皇家の万世一系の問題に色々の角度より疑義が生じた。
やみくもの思想至上主義的な議論は別として、10崇神天皇ー26継体天皇までが論議の対象とされている。
いずれも現段階では立証不可能な議論である。
後は天皇の墳墓とされている宮内庁管轄の諸古墳を発掘し検証するしか真実に迫る良い方法は無いと言える。
これは言うほど簡単ではない。
主な天皇家系譜断絶説
イ)イリ王朝:10崇神、11垂仁
ロ)タラシ王朝:12景行、など
ハ)河内王朝:15応神など
ニ)継体王朝:26継体以降現在まで
上記系図の派生天皇部分での実在性に関してはさらに多くあるがこれは除外。
●イ)とロ)の間は完全に切れているという説。
●ロ)とハ)の間は完全に切れていると言う説と、九州で成立したタラシ王朝の景行天皇の流れが九州から大和に入り、河内王朝と呼ばれるようになったのだとする説など。
●ハ)とニ)は切れているという説と、切れてはいないと言う説。
これらが組み合わさって複雑多岐である。
ところが、最近では、専門の学者はこの問題について、余り多くを語らない。
「継体天皇以前に初代大王はいたことは間違いない。
その後何人か大王と呼ばれた人物はいたであろう。
これを特定、比定することは困難。血脈云々を語ることはさらに無理。それを解明するのにそんなに歴史意味があるとは思えない。」との姿勢である。
本当にそうであろうか。筆者は天皇家が万世一系かどうかは、一昔前までは、何よりにも勝る重大事項であったことは理解できる。
体制維持の死守ライン的事項であると考えたのであろうから。
しかし、現在ではそのことよりも、真実はどうであったか、本当にそうだったのか、史実では無かったとすれば、どの時代に誰がどんな目的のためにそうねじ曲げたのか、記紀で初めてそのように仕組まれたのか?(戦後一部学者によりそういわれ現在では漠然とそうかいなと思わされている)。
日本の曙時代はどんな人物がどんな活躍をし、日本の歴史はどう造られたのか、そのためにどんな工夫努力がされたのかを知ることである。
ヨーロッパでも、中国でも、色々の角度から、人類の活躍を探り、解明しようと大変な努力がされている。
この瓦はどこどこの窯でいつ頃造られたもので、どこどこの寺の瓦とこの紋様が一寸異なる、てな類の研究も必要だが、筆者は、この4世紀から6世紀初めまでの謎の時代にメスを入れることこそ、我々日本国家の曙を解明する最重大事項の一つだと思っている。
誰が使命感をもってこの問題に取り組んでいるのでしょうかね。若い研究者の奮起を期待している。
 筆者は、発掘考古学だけがこの間の歴史を解明してくれるとは思ってない。
得てして発掘考古学を専門にしている学者は、「物」の年代鑑定みたいなものに興味の対象が偏り過ぎる。
歴史は人物によって造られたものでもある。その具体的人物名、事象などは記紀を中心とした立派な文献があるではないか。
これとの照合が非常に重要である。
勿論蔭では色々勉強し照合をしながらやっていることはある程度分かる。しかし、表だって堂々と上記謎の部分に迫る発表をする歴史学者の少ないことを憂う。
発表すると権威ある?老先生方から強い反発があり、それに対抗出来るほど基礎勉強が出来てないのでしょうかね??? 
戦後直ぐの方が過去の考えに果敢に挑戦する論文の類は多かったのではなかろうか。
しかし、もう戦後の唯物史観の亡霊に怯えることも、戦前の皇国史観に惑わされる心配もない。自分の思うことをどんどんオープンにして欲しい。
アマチュア・セミプロの眉唾古代史(書店に氾濫している本の多くはそうであるのでは?)ばかりが氾濫するのも、自由で一面良いが、本当の古代史解明の進歩になってないような気がしている。活力にはなっているかも知れないが。
考古学的史料に基づき、歴史的過去の諸文献にも通じた新たな歴史認識を切り開く研究がどんどん出されることを切に望む。

<参考文献>
・「日本の歴史」王権誕生 寺沢薫 講談社(2001年)
・「日本の歴史」大王から天皇へ 熊谷公男 講談社(2001年)
・「乙訓の原像」中村修 (株)ビレッジプレス (2004年)
・「日本古代国家の成立と息長氏」大橋信弥 吉川弘文館(1987年)
など