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31.多(おお)氏考(付:阿蘇氏・金刺氏)
1)はじめに
「高砂や。この浦舟に帆をあげて。この浦舟に帆をあげて。月もろともに出汐の。波の淡路の島影や。遠く鳴尾の沖過ぎてはや住江に。着きにけりはや住江に着きにけり」
謡曲の中でも最も有名な「高砂」の一節である。
これを謡うのは、「ワキ」として登場する神主である。本稿で扱う阿蘇神社の宮司「阿蘇友成」である。室町時代には阿蘇神社は広く知られていたのである。
 さて、多氏は日本最古の皇別氏族とされている。新撰姓氏録では右京皇別氏族とされている。
1神武天皇の子供である神八井耳命が元祖とされている。「多」は、おお・おほ・おぶ、などと称され「多・大・太・於保・意富・飯富・飫富」など多くの漢字が宛われているがいずれも「多氏」と同じである。
神武天皇自体が、その実在が信じられないのにその子供云々はナンセンス。そうである。
神武天皇も欠史八代の各天皇も、現在その実在は甚だ疑問であるとするのが日本の史学会の常識である。ところがである、各氏族に残され語り継がれた系図ではそうではないのである。勿論これらも総て後の世の創作・偽作である、というのが現在の通り相場である。しかし、記紀は勿論、先代旧事本紀、新撰姓氏録などにも天皇家だけでなく各氏族の出自、系図の類の片鱗は記されてある。また古い神社の由緒、言い伝え、祭神などによる伝承も残されている。総ては信憑性はないかもしれない。しかし、互いに複雑に絡み合う系図の類をも総て過去の日本の歴史を知る助けにはならないものとして捨て去っていいものであろうか。
筆者は、古代豪族を知ることが日本の歴史・日本人の価値観・魂の源・他の国との違い、一致点などを知る手だての一手段になると信じている。
これは日本人はどこからきたのか、どのようにして現在の日本人のような骨格・言葉・顔つきになったのかを知ろうとしている人類学者も多くいるが、この方々とも相通じるものを感じる。
また猿の生態研究を通じて人類の進化を研究している者もいる、彼等は一緒にするなと笑われるかもしれないが、筆者は彼等の気持ちは実によくわかる。
発掘考古学から日本の歴史を解明しようとしている学者もいる。皆同じである。
筆者は日本人の祖先が一生懸命になって、自分らの祖先を追っかけた一つの成果が系図であると思っている。偽造・インチキ・他氏系図の簒奪・系譜架上・勘違い・写し間違い・意図的創作などあらゆることが考えられるのが系図である。でもその時代時代で必ず幾つかの史実を反映するものが残されたことも事実であろう。記紀も新撰姓氏録も多くのその時代の有識者に、ある程度は信じられてきたものである。それをそれから1200年も後の時代の者が総て否定してどんな利点があるのであろうか。
これらの史料を無批判に信じることは少なくとも現代の心ある歴史ファンは、していない。しかし、一部の学者のなかには、この類の史料を総て無視するが如き発言を堂々としておられることに筆者は情けない気持ちを味わっている。
世界の先進諸国で、自国の貴重な歴史史料をこの様に軽々に扱っているところがあるだろうか。少なくともそのような物が全く存在しない場合と比べて、はるかに古い時代の日本を知る手段になることは間違いない。と筆者は考えている。
世界中のどこに出しても恥ずかしくない1級の歴史資料だと思っている。
 「太 安麻呂」という人物が「多氏」の中では最も有名な人物である。例の「古事記」を編纂したとされている人物である。ところが「古事記」は偽書である、という説が古来からある。現在も厳然とそれを主張している学者もある。よって古事記を編纂したという「太安麻呂」なる人物も実在性が疑われてきた。ところが全くの偶然であったが1979年(昭和54年)に奈良市の茶畑の中から「太安麻呂」の墓誌が出てきた。歴史ファンは興奮した。ところが今度はその墓碑が偽造ではないかとの説も新たに出された。
「総てを疑うところから歴史の真実が見えてくる」、と何方かが言ったそうだが、1,000年以上も前のことを史実と認定するのにどれだけの証拠が必要なのか。
話は横道にずれたが、多氏を論じるとき非常に難しい問題が背景にあることだけは理解しているつもりである。
多氏の派生氏族として有名なのは、九州の「阿蘇氏」と信州の「金刺氏」である。前者は阿蘇神社に関係し、後者は諏訪神社に関係する氏族で共に、後年多くの戦国武将 を生み出した親氏族である。また四国、奥州、房総半島付近にも一族が繁茂したとされている。多くの国造家を輩出したのでその流れがそれぞれの地域で勢力を持ったものと思われる。
中央で活躍をしたのが「多神社」で有名な大和に拠点をおいた多氏である。その嫡流が前述の太安麻呂とされており、その末裔は楽家多氏として栄えた。
本稿では多氏本流を中心に阿蘇氏・金刺氏についても論究したい。但し関連する資料が少ないので十分な検討が出来なかったことは残念である。
 
2)多氏本流人物列伝
多氏の本流をどれにするかは、意見の分かれるところであろう。筆者は太安麻呂に繋がり
楽家として平安時代以降も栄えたとされる多氏を本流と考え、その他の派生氏族と区別して列伝を作成した。但し史料として全くはっきりしない人物も多数いる。
またその元祖部分は非常に難解なので姓氏古代氏族事典・古代豪族系図収覧・姓氏類別大観・姓氏家系大辞典、古代氏族系譜集成などを参考にして筆者が創作した系図(これが正しいというつもり全くない)を基準に作成した。
 
・神武天皇
 省略
 
2−1)神八井耳命(かむやいみみ)
@父:神武天皇 母:媛蹈鞴五十鈴媛
A子供:武宇都彦・(彦八井)・(健磐龍)       
同母兄弟:彦八井(弟)・2綏靖天皇(弟) 異母兄弟:手研耳(兄)
B記紀神武記:神武が崩じた後、庶兄「手研耳(たぎしみみ)」が皇位に就こうとして弟達を殺害しようとした。この陰謀を母媛蹈鞴五十鈴媛が歌に託して綏靖・神八井耳らに伝えた。兄弟は片丘(現北葛城郡王寺町)にいた手研耳を襲いこれを討った。この時兄である神八井耳は恐怖で手足が震え矢を射ることが出来ず、弟である綏靖が射殺した。
この失態に恥じ兄は皇位には就かず、弟が即位することになった。
その3年後に薨じた。畝傍山に葬られたと伝えられている。橿原市本町八幡神社が伝承地。
C古事記神武段:意富臣・小子部連・坂合部連・火(肥)君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・小長谷造・都祁直・伊予国造・科野国造・石城国造・仲国造・長狭国造・尾張丹羽臣・伊勢船木直・島田臣などの始祖とされている。
D日本書紀綏靖紀:多臣の始祖。畝傍山北に葬るとある。
E多坐弥志理都比古神社(奈良県磯城郡田原本町)祭神。
F多神宮注進状
 
・彦八井命(ひこやい)
@父:神武天皇 母:媛蹈鞴五十鈴媛(伊須気余理比売)
A子供:(武宇都彦?)
別名:彦八井耳・日子八井・武国竜・高知保神
B古事記では神武天皇の皇子、母は伊須気余理比売。となっている。
日本書紀には日子八井の名はない。
新選姓氏録・阿蘇氏略系図では神八井耳の子供となっている。
C阿蘇神社・草部吉見神社(熊本県阿蘇郡高森町)では国龍神・草部吉見神として祀られている。
D古事記・新選姓氏録では茨田連(まむたむらじ)らの祖。堤根神社(門真市)祭神。
 
2−2)武宇都彦
@父:神八井耳命(彦八井命説もある)母:不明
A子供:武速前・武稲富
 
・武稲富
この孫が火国造祖「建緒組」であるという系図もある。
 
2−3)武速前
 
2−4)敷桁彦(しきたなひこ)
@父:武速前 母:不明
A子供:武五百建・健磐龍・武恵賀前     別名:志貴多奈彦
B大分国造と同祖。
C国造本紀:崇神朝にその子「遅男江」が火国造に任じられた。
「建緒組」と「遅男江」は同一人物か肥前風土記などは「建緒組」を火国造祖としている。
D速瓶玉の子供とされる「敷桁波」と同一人物か?このあたり系図上混乱あり。
 
・武五百建
@父:敷桁彦 母:不明
A妻:会知速比売 別名:会津比売* 子供:健稲背     
別名:武五百建 健磐龍と同一人物説。
B国造本紀:崇神朝科野国造に任じられた。子供「遅男江」が火国造となった。
*会津比売:大物主の子供会地比古命の娘とも言われ信濃国妻女山にある会津比売神社の
祭神。諏訪大神の後裔とも言われている。
 
・健磐龍(たけいわたつ)
@父:敷桁彦(異説あり)母:不明
A子供:速瓶玉・健稲背    妻:阿蘇都媛(日子八井耳の娘)・会津比売?
B阿蘇神社主祭神
阿蘇大明神・一宮主神。
阿蘇系図では神八井耳の子供(神武の孫)とされている。阿蘇氏の元祖。
C伝説:神武天皇の命を受けて阿蘇山へ来た。鎮西鎮護の任。
D阿蘇山の神で皇統譜にどこかの段階で組み込まれたと考えられている。
E武五百建とは同一人物説あり。
F阿蘇神社・宮崎神社創建伝承あり。
G元々山城国宇治から阿蘇に来たとの伝承あり。
叔父の2綏靖天皇の支配する宇治の地を避けて祖父神武の故郷である九州に行き、祖父の兄ミケヌノミコトが支配している高千穂を避け、阿蘇の地に新天地をつくった。草部の豪族「国龍吉見」の助力により阿蘇開拓。立石信仰・火山信仰・自然神信仰の具象化。
H系図によっては神八井耳の子供。神武の孫となっている。(阿蘇神社系図)
 系図によっては科野国造となっている。この子供が速瓶玉で阿蘇国造である。
I系図によってはこの子供の一人に健稲背がおりこの流れから金刺氏が発生している。
J伝承では科野国造祖ともある。
K景行天皇紀:18年条に「天皇阿蘇国に到るや其国郊原の広遠人の居るを見ず。天皇曰く是の国人ある乎。時に2神ある。阿蘇都彦・阿蘇都媛と曰う。忽ち人に化し、以て遊詣て曰く吾二人在、何ぞ人無けんや故に其の国を号けて阿蘇と曰う」の記事あり。この夫婦こそ健磐龍夫婦だとされている。
 
2−5)武恵賀前
@父:敷桁彦(異説:別彦恵賀別)母:不明
A子供:武諸木・建借馬・建黒坂
B多神社注進状:崇神朝記事あり。彦恵賀別の子とある。社地を太郷といい天社を定め神地を封じた。旧名「春日宮」今「多神社」。大和国十市郡飫富郷(現在:奈良県磯城郡田原本町多)。
C新撰姓氏録:神八井耳の五世孫。崇神朝の人。
 
・建黒坂
石城国造祖
 
・建借馬(たけかしま)
@父:武恵賀前 母:不明
A子供:武沼田・伊都許利   別名:建借間
B常陸風土記:那河国造祖。崇神朝記事。
国造本紀:成務朝に仲国造に任じられた。
この流れから長狭国造・印旛国造派生。
鹿島神宮と関係あり。要調査
 
・武沼田
長狭国造
 
・伊都許利(いつこり)
@父:武水別 母:不明
A妻:伊波多比売(13景行天皇曾孫)子供:毛呂須美・武熊乃君妻
B印旛国造。麻賀多神社祭神。
C船影麻賀多神社神官家(太田氏)系図より
15応神20年斎祭稚日女尊稚産霊尊。16仁徳16年崩
D旧事紀国造本紀:応神12年神八井耳8世孫伊都許利を印波国造に定める。とある。
E麻賀多神社(千葉県成田市台方1番地)付近(奥宮)に公津ケ原39号墳があり、これが伊都許利の墳墓と推定されている。
 
2−6)武諸木
@父:武恵賀前 母:不明
A子供:武敷美
B日本書紀景行天皇紀:13景行天皇が筑紫に行幸したときの記事に登場。
C多臣の祖。
 
 
2−7)武敷美
2−8)武忍凝
2−9)武裳裾見宿禰(臣)
2−10)多 稲見(臣)
2−11)毛建(臣)
2−12)石持(臣)                        
2−13)豊忍(臣)
 
2−14)宇気古(臣)
@父:豊忍 母:不明
A子供:品治・真椋・和母古・豊璋王妻:妹説多し   別名:蒋敷
B38天智天皇(668−672)の命により妹を百済王子豊璋王に嫁がせた。豊璋王を本国に送り返した。(紀)
 
2−15)品治(ほんじ)(?−696?)
@父:宇気古? 母:不明
A子供:道麻呂・宅成・遠建治・太安麻呂
B紀記事:672年の壬申の乱で天武天皇方につき武功を挙げた武将である。
壬申の乱の時美濃国におり、命により不破の関を固めた。3,000人の兵を率いた。
C683年伊勢王らと諸国を巡行し境界を定めた。
D684年朝臣姓を賜った。
E696年直広壱の位を賜った。
F多神社注進状:蒋敷の子供。清目11世孫とある。
 
・道麻呂
大蔵少丞従6位上
 
・宅成
正6位上
 
・遠建治
少初位下
 
2−16)太 安麻呂(?−723)
@父:品治? 母:不明
A子供:多飲鹿         別名:安万侶・安萬侶(古事記・墓誌銘)
B安麻呂の父が「品治」であると記されているのは、阿蘇家略系譜などであるが、本当ははっきりしていないらしい。
C704年従5位下。(続紀)
天武13年朝臣姓を賜る。
711年正5位上。元明天皇の命により稗田阿礼と古事記編纂開始(古事記序)。
712年「古事記」3巻完成、元明天皇に献上。
715年従4位下。(続紀)
716年多氏の氏長になる(続日本紀記事)。舎人親王と日本書紀編纂にも関与との説あり。(多人長*の「弘仁私記序」)*日本後紀に多人長が貴族に日本書紀の講義をしたとある。しかし、他の古文献に太安麿が日本書紀の編纂に関与した記録なし。
723年民部卿で没。
D40天武天皇は稗田阿礼に古記録を暗唱させた。711年元明天皇は太安麿にこの阿礼の暗唱した古記録を文字記録することを命じたとされる。但し日本書紀にはこのことの記事がない。続日本紀にも古事記の記事がない。
E1979年奈良市此瀬町の茶畑より太安万侶の墓が発見され、墓誌が出土。
723年没。従四位下勲五等などの記事あり。
F多神社注進状記事:品治子供。古事記についても記してある。
 
2−17)多 飲鹿
権中納言
 
2−18)入鹿(757−816)
@父:飲鹿 母:不明
A子供:藤野麿
B809年山陽道観察使に任じられた。日本後紀延暦24年(805)記事。
C従四位下・参議。
右大弁宰相。
 
2−19)藤野麿
明経道
 
2−20)自然麿(じぜまろ)(?−886)
@父:藤野麿 母:不明
A子供:春野
B雅楽の大家。神楽と右舞(朝鮮系の舞)とを併せ日本風に確立創始。39年間雅楽の一者の地位にいた。外従五位下。多氏中興の祖。
C843年右近衛将監
D863年宿禰姓を賜る。
E宮内庁雅楽の楽家多氏の祖。
甲斐守。上総介。
 
2−21)春野(?−905)
従五位下。将監
 
2−22)良常(?−941)
右近将監
 
2−23)脩文
将監
 
2−24)脩正(?−950)
2−25)公用
伯耆介
 
2−26)好用
兵衛尉
 
2−27)政方(?−1045)
周防守
朝臣姓。
雅楽寮で一の者26年間。
 
・時資(1014−1084)
右兵衛尉。楽人。父:政方
一の者7年間。
 
2−28)政資(1004−1077)
右近将監  政方の長男。
33年間一の者。
 
2−29)資忠(1046−1100)
@父:節(説?)資 養父:政資 母:不明
A子供:節方・近忠(近方)・忠方        別名:節忠
B右近将監 雅楽一の者13年間。
C女婿の山村政連により殺されたとされる。
 
・近忠(1090−1154)
忠方の弟。楽人。 別名:近方?
この裔も存続する。
 
・好方
鎌倉時代の楽人。近方の3男。
 
2−30)忠方(1085−1135)
@父:資忠 母:不明
A子供:忠節         別名:忠有?
B3男。父と長男が殺害されたので、この家は断絶しかけた。それを父の弟子であった73堀河天皇から神楽歌・右舞を伝授され遂に一者に33年ついて、楽家多氏を再興した。
C1131年従五位下。
 
・多忠宗(1506−1588)
多忠時の子
1546年正五位下。讃岐守
宮中御神楽の再興者。
 
・忠盛(1710−1787)
正四位上。江戸時代楽人。
 
<関係人物>
・太徳足
続日本紀:天平17年(745)外従五位下。天平18年記事。
万葉集歌。
 
・多犬養
太安麻呂の孫?
続日本紀:従五位上刑部大輔。征夷副使。
 
・豊人
続日本紀:宝亀7年(776)記事。
 
・鷹養
造東大寺司主典。
 
・人長
平安時代初期の人物。812年「弘仁私記」を著し、この序で古事記について記している。
古事記については、これ以前の記録がない。
散位従五位下。日本書紀の講義を貴族にした人物。日本後紀記事。
 
・清継
続日本後紀記事。
以後現在まで楽家多氏は続いているいるが、省略する。
 
参考)多神社(奈良県磯城郡田原本町大字多)
@神社正式名:多坐弥志理都比古神社(おほにますみしりつひこじんじゃ)
A式内社  古名:春日宮
B祭神:現在の祭神:神武天皇・神八井耳命・綏靖天皇・姫御神(玉依姫)
延喜式神名帳・多神宮注進状:珍子賢津日霊神尊(うつのみこさかつひこみこと)
天祖賢津日女?神尊(あまつおやさかつひめのみこと)又は
水火知男女神(みしりひこひめ)
C多神宮注進状:1149年多神宮禰宜従五位下多朝臣常麻呂が国司に提出した多神社の
由緒書みたいな書状。五郡神社記
 
3)阿蘇氏人物列伝
人物列伝は阿蘇氏大系図に基づき世代順に嫡流と思われる人物中心に行う。
・健磐龍(たけいわたつ)
既述参照。
 
3−1)速瓶玉(はやみかたま)
@父:健磐龍 母:阿蘇都媛(彦八井耳娘)?
A子供:建渟美・火宮神・高橋神・敷桁波 妻:*雨宮媛・**蒲池媛 別名:速甕玉
B初代阿蘇国造。阿蘇神社11の宮祭神(水の神)
C7孝霊天皇の時、勅により阿蘇神社を創建したと阿蘇神社由緒略記にある。
D国造本紀:10崇神朝阿蘇国造となったと記事あり。神八井耳の孫とある。
E古事記には国造ではなく阿蘇君となっている。
F国造神社(阿蘇市一宮町手野)祭神一ノ宮阿蘇国造大神。
G景行天皇以降に阿蘇神社に合祀伝承。
*雨宮媛 小国生まれ。国造神社祭神
**蒲池媛 神功皇后の三韓征伐に参加(宇土郡三角町郡浦神社祭神)満珠千珠伝説
 
・建緒組(たけおぐみ)
@父:敷桁波又は敷桁彦 母:不明
A子供:彦恵賀前   別名:遅男江?
B火国造祖・肥君祖
C肥前風土記・釈紀所引肥後風土記:崇神朝(景行天皇説もある)勅により肥後国益城郡朝来名の峰の土蜘蛛を誅滅。この功により火君建緒組の姓名を賜った。
D健軍神社(熊本市)祭神
 
3−2)建渟美
@父:速瓶玉 母:雨宮媛
A子供:美穂主 建都志?   妻:若比刀@  別名:惟人・彦御子・八井耳玉
Bこの人物を初代国造とする説もある。
C神功皇后が三韓征伐の時従軍。軍功により南部管領を賜った。
甲佐神社の祭神(神社伝承)
D国造神社創建伝承。
 
3−3)美穂主
@父:建渟美 建都志とする系図もある。母:不明
A子供:武凝人
B国造
 
3−4)武凝人
@父:美穂主 母:不明
A子供:倉主 石金に飛ぶ系図もある。別名:宇治部武凝人 武凝人乃君
B宇治部君となる。阿蘇君ともある。
 
3−5)倉主
3−6)小国
3−7)石金
3−8)赤目子
3−9)鳥見
3−10)小枝(小杖?)
3−11)真理子
 
3−12)角足
@父:真理子 母:不明
A子供:平田麿・安伎良・魚足  別名:宇治角足
B天武朝(673−686)に宇治宿禰姓。以後宇治氏と称したらし。
 
3−13)平田麿
@父:角足 母:不明
A子供:武男
B阿蘇神社宮司・阿蘇郡擬大領
 
3−14)武男
@父:平田麿 母:不明
A子供:定足・玉男?(この裔が越智氏になる系図あり)
B阿蘇神主
 
3−15)定足
@父:武男 母:不明
A子供:田村・継村
B阿蘇宮祝神主。
 
3−16)継村
@父:定足 母:不明
A子供:道村・建人・磯人・道人
B阿蘇宮権祝権神主
C兄田村を本流とする説もある。
 
3−17)建人
@父:継村 母:不明
A子供:路直・共直
B祝神主
 
3−18)共直
@父:建人 母:不明
A子供:友佐・友利・友成・友夏・友公
B阿蘇宮司。
 
3−19)友成
@父:共直 母:不明
A子供:友仲・友助
B延喜(901−922)の人。阿蘇大宮司の始め。系図によっては宇治氏である。
C謡曲「高砂」の「ワキ」として登場。
 
3−20)友仲
@父:友成 母:不明
A子供:惟行・則真・是貞・友孝
B大宮司
C是貞の流れから大宮司「忠国」が出て、その娘白縫姫が鎮西八郎源為朝の妻になったとされている。
 
(参考)源為朝(1139−1170?)
@父:源為義 母:摂津国江口遊女
A兄弟:同腹 為仲 異腹:義朝(頼朝の父)義賢(木曽義仲の父)
 為義8男 妻:阿蘇忠国女 その他 子供:?  別名:鎮西八郎
B弓の名手。保元の乱で父とともに崇徳上皇方につき敗戦。伊豆大島に配流。
C13才の時父に勘当され九州に追放される。ここで阿蘇神社大宮司阿蘇忠国の娘
の婿となり、自称鎮西総追捕使となり九州地方を自己のものにする勢いになった。
D1155年朝廷は父の役を解いた。これにより帰参した。
E1156年保元の乱勃発。大活躍したが敗れた。
F色々な伝説が残っている有名武将。
 
・惟行
1096第38代宮司の記事。
 
3−21)友孝
@父:友仲 母:不明
A子供:友実・友扶
B大宮司
 
3−22)友実
@父:友孝 母:不明
A子供:友房・惟元・友恒・基実
B大宮司
 
3−23)友房
@父:友実 母:不明
A子供:惟平・惟俊
B大宮司
 
2−24)惟俊
@父:友房 母:不明
A子供:惟宣
B大宮司
 
2−25)惟宣
@父:惟俊 母:不明
A子供:資永・惟理
B1137年大宮司
 
2−26)資永
@父:惟宣 母:不明
A子供:惟泰
B大宮司
 
2−27)惟泰
@父:資永 母:不明
A子供:惟保・惟次・惟氏・惟文
B治承4年文書あり。阿蘇・建軍両社大宮司
C吾妻鏡に「南郷大宮司」と記されている。阿蘇氏となっている。
平安時代から宇治氏を名乗っていたようである。
D1180年領家源定房の荘官兼務。1181年菊池氏とともに反平氏の挙兵。
 
2−28)惟次
@父:惟泰 母:不明
A子供:惟義・惟盛・惟光
B慶長?7年記事。大宮司
Cこの時から大宮司職が惣領に世襲化された。
 
2−29)惟義
@父:惟次 母:不明
A子供:惟忠・惟景
B安貞2年文書。大宮司
 
2−30)惟景
@父:惟義 母:不明
A子供:惟資・惟国・惟春
B大宮司
 
2−31)惟国
@父:惟景 母:不明
A子供:惟長・惟時
B大宮司。
 
3−32)惟時(?−1353)
@父:惟国 母:不明
A子供:惟直・惟成・惟有・孫熊丸・女(惟澄妻)・惟定
別名:宇治惟時
B大宮司・建軍大宮司・薩摩国守護(延元元年)本拠地:矢部郷浜館。
C1333年後醍醐天皇軍にはいる。尊氏と戦う。
D1336年家督を譲った惟直が多々良浜の戦いに敗れ自殺したため、また復帰。尊氏は
孫熊王を大宮司に選んだので内紛発生、やむなく北朝軍に入った。しかし一族が収まらず
再度1349年に南朝軍に復帰。
E1351年家督を養嗣子惟村に譲った。実権はその父惟澄が握った。
 
・惟直(?−1336)
@父:惟時 母:不明
A子供:
B惟時の嫡男で当主であったが九州に落ちてきた足利尊氏と戦い敗れ1336年弟「惟成」と共に自害。
C大宮司。
 
・孫熊丸
北朝大宮司。庶子。興国3年敗死。
 
3−33)惟澄(1309?−1364)
@実父:惟資?惟種? 養父:惟時 母:不明
A妻:惟時女 子供:惟村・惟武(1337)・惟里  別名:恵良惟澄
B筑前守・肥後国守護・南朝大宮司 北朝大宮司は孫熊丸。
C惟直の後の当主。父親が確認出来ない。阿蘇氏の支流恵良氏の出身で惟時の婿養子となった。1333年幕府軍についていたが護良親王の令旨に従うことになった。
1336年足利尊氏と多々良浜で戦った。北朝についた義父とも対立。しかし、勢力は拡大した。
 
・惟武(?−1377)
南朝大宮司・日向国守護。天授3年筑前で敗死。
 
・惟政(?−)
大宮司
 
3−34)惟村(?−1406)
@父:惟澄 母:惟時女?
A子供:惟郷
B肥後守護・北朝大宮司・従三位。 南朝大宮司は惟武。
C惟澄の後当主。惟時に従い父惟澄と対立。
D北朝方に疎まれた。
 
3−35)惟郷
@父:惟村 母:不明
A子供:惟忠
B大宮司。惟村の後当主。内紛は続いた。
 
3−36)惟忠
@父:惟郷 母:不明
A子供:惟憲 養子:惟歳(惟武の曾孫)
B大宮司
 
3−37)惟憲
@父:惟忠 母:不明
A子供:惟長(菊池武経)・惟豊
B大宮司。当主。
C惟歳・惟家父子と対立。この父子を合戦で破り分裂解消。
 
・惟長(1480−1537)
@父:惟憲 母:不明
A子供:惟前        別名:菊池武経
B惟憲の後当主。大宮司。菊池氏の当主を追い払い自分が当主になる。肥後守護。
大宮司職を弟の惟豊に譲った。
C惟豊を追っ払い嫡男惟前を大宮司職につけた。自分も阿蘇氏に復した。
1517年甲斐氏の支援で惟豊が巻き返し、父子は薩摩へ逃亡。
 
・惟前
@父:惟長 母:不明
A子供:惟賢
B大宮司。1513年惟豊を攻め大宮司となる。1517年惟豊の反撃にあい薩摩へ逃亡。
1560年阿蘇を攻め失敗。
 
・惟賢
 
3−38)惟豊(1493−1559)
@父:惟憲 母:不明
A子供:惟将・惟種
B大宮司。惟長の後当主。
C甲斐氏の支援を受け最盛期を迎えた。従二位。
 
・惟将(1520−1583)
@父:惟豊 母:不明
A子供:
B大宮司、惟豊の後当主。甲斐氏の支援でなんとか勢力維持。
 
3−40)惟種(1540−1584)
@父:惟豊 母:不明
A子供:惟光・惟善
B大宮司。惟将の後当主となったが直後に没。
 
・惟光(1582−1593)
@父:惟種又は惟将 母:不明
A子供:
B2才で当主。甲斐氏没。島津氏の侵攻。逃亡。1593年豊臣秀吉九州征伐の時殺された。ここで一旦阿蘇氏は滅びた。
 
3−41)惟善
@父:惟種又は惟将 母:不明
A子供:友貞・惟真
B阿蘇神主・大宮司  1593年加藤清正に支援されて、大宮司につく。
 
3−42)友貞
@父:惟善 母:不明
A子供:友隆・友歳・友名
 
3−43)友隆
@父:友貞 母:不明
A子供:善麿・養子:友名(友貞子)
 
3−44)友名
@父:友貞 養父:友隆 母:不明
A子供:
 
・阿蘇惟馨(1773−1820)
1817年従三位。非参議、阿蘇宮大宮司。
 
参考)・阿蘇神社(熊本県阿蘇市一宮町宮地字宮園3083)
@肥後国一宮。名神大社。官幣大社。
A祭神:12神祀ってある。
一の宮:健磐龍命 阿蘇大神 神八井耳命の御子   主神。
二の宮:阿蘇都媛命 阿蘇大神の妃(草部吉見神「日子八井耳命」の娘)
三の宮:国龍神 吉見神「日子八井耳命」本宮は吉見社
四の宮:比東芬q神 「日子八井耳命」の妃
五の宮:彦御子神 惟人、又は八井耳玉命。速瓶玉命の御子 甲佐宮に住む。
六の宮:若比盗_ 彦御子神の妃
七の宮:新彦神  「日子八井耳命」の第1子
八の宮:新比盗_ 新彦神の娘
九の宮:若彦神  新彦神の御子
十の宮:弥比盗_ 新彦神の妃
十一の宮:国造速瓶玉命 阿蘇大神の第1子。本宮は国造神社。
十二の宮:金凝社 綏靖天皇
B創建:神社由緒:孝霊天皇の御代9年、勅命により神武天皇の御子神八井耳命のまた御子である健磐龍命と阿蘇都媛命を祀る神社として子供である速瓶玉命が創建した。
肥後国誌などによると、12景行天皇は国造速瓶玉命の子惟人に命じて神社を創建とある。
 
・国造神社(阿蘇市一宮町手野2110)
@式内社・県社
A祭神:速瓶玉命・雨宮媛・高橋神・火宮神
B創建:崇神天皇18年速瓶玉命の御子惟人命に勅せられて阿蘇国造神として現在地に鎮祭せられた。
 
4)金刺氏人物列伝
・健磐龍(建五百建)
前述
 
4−1)健稲背
@父:健磐龍(又は建五百建)母: 会知速比売(会津比売)
A子供:健甕富
B科野国造
 
4−2)健甕富
科野国造
 
4−3)諸日子
科野国造
 
4−4)健呂止理
科野国造
 
4−5)伊努古君
4−6)世襲彦
 
4−7)金弓
@父:世襲彦 母:不明
A子供:麻背・目子
B29欽明天皇(金刺宮)の時(539−571)、金弓君が金刺舎人直姓を賜った。
C伊那郡大領。
 
・目子
他田直姓を賜り伊那郡司家の祖となる。
 
4−8)麻背
@父:金弓 母:不明
A子供:倉足・乙穎(おつえい)
B科野国造に復帰。
 
・乙穎(おつえい)
@父:麻背 母:不明
A子供:弟兄子・赤兄  別名:熊子・神子
B伝承:8才の時夢に建御名方が現れ、これが御衣木式の元となる。後に諏訪神社大祝になる。
C31用明2年(587)、諏訪湖南山麓に上社を建てた。という伝承もある。
 
4−9)倉足
@父:麻背 母:不明
A子供:狭野・狭虫
B諏訪評督。館は諏訪湖の北にあり、春宮・秋宮がこれに相当(下社)
 
4−10)狭野
諏訪評督
 
4−11)百枝
諏訪大領
 
4−12)魚目
4−13)鋤麿
4−14)子虫
4−15)大気万呂
 
4−16)男継
諏訪大領
 
4−17)金福
 
4−18)広前
@父:金福 母:不明
A子供:貞麿・大貞長・貞継
 
・貞長(貞永)
貞観5年(863)に大朝臣姓を賜るとある。
諏訪郡人、右近衛将監正6位上金刺舎人。
 
4−19)貞継
金刺系図ではこの時下社大祝となったとされている。
 
4−20)益成
4−21)有久
4−22)武久
 
4−23)有範
@父:武久 母:不明
A子供:為範・有信
B下宮別当
 
・有信
この流れから盛澄(源頼朝ご家人)光盛(木曽義仲の家来)が輩出され武士化する。
 
4−24)為範
下諏訪大祝
 
4−25)為賢
諏訪大夫大祝
 
4−26)為員
4−27)為信
4−28)為継
 
4−29)盛澄
@父:為継又は為信 母:不明
A子供:盛重・盛次
B下社大祝
 
4−30)盛次
 
4−31)蓮仲
4−32)盛基
 
4−33)盛久
大祝
 
4−34)時澄
大祝
 
4−35)豊久
大祝・信濃守
 
4−36)基久
大祝
 
4−37)基澄
大祝・信濃守
 
4−38)基春(?−1484)
@父:基澄 母:不明
A子供:盛昌  別名:興春?
B大祝・信濃守
C1483年上社大祝継満に味方し、惣領家を襲撃、戦死。
 
4−39)盛昌
大祝
 
4−40)昌春
@父:盛昌又は興春? 母:不明
A子供:
B大祝。1518年上社諏訪頼満に攻められ下社金刺氏は滅亡、断絶したとされている。
社殿焼失。萩倉城落城。昌春は武田信虎のところへ逃亡。これが武田氏が諏訪を攻める口実を与えることになった。その後1528年、昌春は諏訪攻撃、この際戦死したとされる。
この後は支族の今井氏が下社を継いだ形になったとされている。
 
4−41)晴長
大祝
 
4−42)善政
武居大祝
 
4−29−1)盛重
@父:盛澄 母:不明
A子供:盛経
B右兵衛尉。
 
4−29−2)盛経
4−29−3)宗経
信濃守
 
4−29−4)弘重
左衛門尉 元弘3年北条高時没に殉じる。
 
4−29−5)盛時
宗良親王に仕える。
 
4−29−6)盛時
 
4−29−7)時重
尹良親王に仕える。
 
4−29−8)時信
丹波守・尹良親王に仕える。
 
4−29−9)忠満
 
(参考)5)諏訪氏人物列伝
・素戔嗚尊
・大国主
・健御名方
 
・神人部乙穎
前述
 
・弟兄子
・国積
・猪麿
・狭田野
・鷹取
 
5−1)繁魚
@父:神人部鷹取 母:不明
A子供:清主
Bこの時、上社の系図の中に金刺系人物とされる繁魚が養子として入ったとされる。
(異論多数あり)
 
5−2)清主
 
5−3)有員
@父:清主  母:不明
A子供:武方・武員・乙武
B平安初期に御衣木有員が諏訪上社大祝となり大祝を世襲することになったとされている。大同年間(806−810)の人とされている。神氏初代であるとの説もある。
C敏達天皇裔。桓武天皇裔。嵯峨天皇皇子説など異説多い。
 
5−4)武方
5−5)為員
5−6)有盛
5−7)盛長
5−8)員頼
5−9)頼平
 
5−10)有信(頼信?)
大祝・美濃権守。
 
5−11)為信
大祝。
 
5−12)為貞
大祝
 
5−13)敦貞
大祝
 
5−14)貞方
大祝・安芸権守。
 
5−15)貞光
大祝・安芸権守。
 
5−16)敦光
大祝
 
5−17)敦忠
大祝・信濃権守。
 
5−18)盛信
大祝
 
5−19)盛重
大祝
源頼朝に従う。「諏訪太郎」と称し、諏訪氏の名乗り始めとされている。
大祝諏訪家を宗家として武家集団諏訪神家党形成。
 
5−20)頼重(?−1335)
@父:盛重 母:不明
A子供:時継
B大祝?信濃守護小笠原氏と対立。北条時行を奉じ中先代の乱を起こし、敗北。
 
5−21)時継(?−1335)
@父:頼重 母:不明
A子供:信嗣(継)・頼継・継宗
B諏訪大社大祝。
C足利尊氏の追討軍に敗れ、父と共に自害。武家諏訪氏は没落。
 
・頼継
大祝職継承。
 
5−22)信嗣
大祝・安芸守・宗良親王に仕える。
 
5−23)直頼
大祝・尹良親王に仕える。応永2年没。
 
5−24)信有
安芸守
 
5−25)有継
@父:信有 母:不明
A子供:信満・頼満
B刑部大輔
 
・頼満
子供:継満
大祝
 
・継満
大祝家(この時代に惣領家と大祝家とに分離する。惣領家は従兄弟の政満の流れである)
1479年高遠継宗とともに小笠原政秀を支援。1484年惣領家と好戦。政満・頼満らに敗れる。大祝職は惣領家に取られる。
 
5−26)信満
安芸守
 
5−27)政満
惣領家・刑部大輔
 
5−28)頼満(1473−1540)
@父:政満 母:不明
A子供:頼隆・満隣
B大祝・安芸守、文明15年に諏訪継満(大祝家)金刺興春(下社)高遠継宗の反乱により父と兄を失い家督をついだ。後年諏訪地方を統一し、武田信虎をも撃破最盛期を築いた。
C戦国大名化。下社金刺氏を滅ぼし、武田信虎とも争う。
 
・頼隆(1499−1530)
@父:頼満 母:不明
A子供:頼高・頼重
B大祝。刑部大輔、武田信虎と対立。1530年父より先に没。
 
・頼重(1516−1542
@父:頼隆 母:不明
A妻:武田信虎女禰々 子供:武田信玄側室(諏訪御料人)
B刑部大輔。上原城城主。大祝。戦国大名。諏訪氏19代当主と言われた。
C1539年家督を継いだ。後に大祝職は頼高に譲る。
D1541年信玄は父信虎を追放、1542年信玄は上原城を攻め、頼重・頼高兄弟は自害。諏訪惣領家は滅亡した。大祝職は叔父満隣家が継承。
E武田信玄室になった娘の子供が武田勝頼である。
 
5−29)満隣(?−1582)
@父:頼満 母:不明
A子供:頼豊・頼忠
B伊豆守、1542年頼重が信玄により攻められ抗戦、降伏。出家。高遠頼継の反乱には
武田軍側として従軍。1582年武田氏が滅亡、次男頼忠を擁立し、諏訪氏再興を計る。
 
5−30)頼忠(1536−1606)
@父:満隣 母:不明
A妻:本多康重女?子供:頼水・頼広
B1542年諏訪氏の当主であった従兄弟の頼重が武田信玄により、自害。惣領家断絶。
C父が信玄に降伏。兄頼豊が信玄に仕えた。頼忠は諏訪大社大祝となった。安芸守。
D1582年武田氏滅亡。兄戦死。信長没。頼忠は、信濃高島城に入り諏訪氏家督を継ぐ。
E徳川家康の信濃平定軍に敗れ、家康に臣従、諏訪郡を安堵される。
 
5−31)頼水(1571−1641)
@父:頼忠 母:向山氏女
A妻:本多康重女。子供:忠恒・頼郷・頼長・頼孚・娘(三枝守昌室)
娘(大久保長重室)娘(徳永昌成室)娘(土岐定義室)娘(鳥居忠勝室)
娘(茅野頼良室)娘(諏訪盛政室)娘(諏訪頼寛室)
B徳川前期大名。信濃国諏訪藩初代藩主。因幡守。
C頼忠。頼水父子は徳川氏につき、諏訪を離れ武蔵国奈良梨に所領を得た。
D関ヶ原の功績により、1601年信濃国高島27,000石へ復帰。初代藩主。
これ以降徳川時代大名家として諏訪氏は存続した。
 
6)多氏関係系図
・多氏概略系図T
日本古代氏族事典・古代豪族系図集覧 など参考
・多氏概略系図U
姓氏類別大観 参考
・多氏概略系図V
姓氏家系辞書 参考
・多氏概略系図W
諸種多氏関連公知系図を参考にして筆者が創作した系図
1)阿蘇氏系図
阿蘇大系図 参考
2)金刺氏・諏訪氏系図
姓氏類別大観 参考
(参考)多氏ー伊都許利命系図
古代氏族系譜集成 参考
(参考)阿蘇神社12神系図
阿蘇神話に基づき筆者が作成した神系図。
7)多氏関連系図解説・論考
 ある本で「日本で古くから馬肉を食べる習慣があったのは現在の熊本県と長野県だけであった。」という記事を読んだことがある。この話と本稿の多(おお)氏とが関係あるのではと直感したのであるが、いかがであろうか。
太田 亮は「多氏の本貫は肥後にして、大和十市の飫富(おう)は一族の上京して久しく住みしより起こし地とも考えられる。なほ大和十市郡の多神社の祝部が「肥直」なる事も多氏の根拠が肥の国なりしを語るにあらざるか」と述べている。
記紀・先代旧事本紀の国造本紀・新撰姓氏録では総て、多氏の元祖は1神武天皇の子供である「神八井耳命」としている。
神八井耳以降の系図は概略系図T、U、Vで示したように色々存在する。共通するのは阿蘇国造と科野国造が建磐龍(武五百建)から出ていることである。筆者が多氏本流と考えたのはこの系図の「武恵賀前」からの流れである。
系図TとVは武恵賀前は阿蘇国造とは異なる流れである。系図Uだけは阿蘇国造の流れの中に多氏本流が入っている。
筆者は色々な情報に基づき確信はないが、一応筆者系図のように元祖は「神八井耳」で共通であるが、多氏本流と阿蘇国造・科野国造とは異なった流れであるとした。ここで多氏本流とは、大和国十市郡飫富郷に本拠地をもった中央王権に関与してきた多氏を本流と定義した。
文献によれば、阿蘇国造・科野国造・大分国造・伊余国造・火国造・石城国造・長狭国造・印旛国造及び多氏本流総てを多氏だとする説も多い。本稿では説明の都合上それぞれを分けて表現することにする。
先ず最初に「神八井耳」について述べたい。記紀の神武紀に登場する人物である。記紀が編纂される以前からこの人物は、多氏を初め多くの関連氏族には自分らの祖として知られていたのであろうか。それとも多氏の末裔である「太 安麻呂」が古事記を編纂する時に創作した架空の祖先なのか。筆者はそうは思わない。古代豪族の系図は非常に多くの豪族系図とも複雑に絡み合っているので個人で簡単にいじくれるものではない。8世紀には既に多氏に関連する多くの氏族が日本全国に存在していたと考えられる。阿蘇氏・金刺氏など地方の豪族もそれなりに系図を有していたと考える(当時大和朝廷の中でその氏族の出自・系譜の類を有しない者がそれなりの姓・官位・職を確保することは不可能であった)。伝承も含めてこれらは絡み合っている。記紀編纂後にこれらは徐々に整合性をとり現在のようになったのであるとの説もある。筆者は神八井耳だけは動かない共通祖先であるとの認識は記紀以前から存在していたものと判断している。
理由:@38天智天皇時代の人物である「多宇気古」は既に臣姓を有し、その子の品治は天武朝の「八色の姓」の時には朝臣姓を賜っている。これは他の氏族との関係からみて、明らかにこの一族は皇別氏族と認知されていたことを意味する。
A国造本紀などの記事からも10崇神天皇時代には阿蘇国造・科野国造など多くの国造氏がこの一族から派生した記述がある。(史実はもっと後年になってしか国造制度は出来ていないが)
B常陸風土記の記事に登場する「那珂国造」なども多氏の存在・神八井耳の存在を示唆している。これは本流多氏とは関係ない記事であり、独立した情報に基づくものと判断できる。
C阿蘇神話と言われる阿蘇神社に伝承され、祀られている神々も神八井耳を元祖としている。これが記紀編纂後に創られた神話とすることには違和感を持つ。現在のような形が確立するには相当の時代経過が必要であろうが基本部分の神話は非常に古いものと推定した。
D金刺氏に関する伝承は(金刺系図・阿蘇系図など)、29欽明天皇の時代のものがある。即ち欽明天皇の時代には既に科野国造の祖が神八井耳と伝承されていたことになる。
などが考えられる。
但し「神八井耳」が1神武天皇の子供、或いは神武天皇の存在を多氏一族が認知していたかどうかは不明である。しかし、「神八井耳」が大和王権と同一血族の出身(天孫族)であったことと信じられていたようだ。
 ここで多氏概略系図に話を戻そう。TーWまであるが、Vまでは所謂公知系図である。
系図毎に色々違いがある。Wは最近の情報なども参考にして筆者が創作したもので、これが正しいと主張するつもりはない。こうすれば人物列伝などを記するのに分かりやすいと判断したものである。
ところで、多氏を概観すると、重要なポイントは10崇神朝頃に何人かの人物が国造になったという諸古文献の記事である。ここで阿蘇国造の祖である健磐龍と科野国造の祖である武五百建は同一人物であると仮定することにした。系図により混乱があるようである。伝承でも別人説・同一人物説両方ある。
多氏本流:武恵賀前 諸文献より崇神朝の人物。
阿蘇氏:速瓶玉 崇神朝の人物。
金刺氏:武五百建(健磐龍)崇神朝の人物。
これを仮に信用するとする。
それぞれの氏族で歴史上年代がほぼ推定可能な人物を下記の人物とする。
多氏本流:多朝臣品治(?−696)太安麻呂(?−723)
阿蘇氏:阿蘇角足(天武朝の人物)阿蘇友成(延喜年代の人物)阿蘇惟泰(治承年代)
金刺氏:金刺金弓(29欽明朝の人物) 乙穎(31用明朝の人物)
各氏族とも異系図が多数ある、親子相続だけでなく兄弟相続・親族相続・養子など複雑である。それを筆者創作系図に従って親子(世代)相続だけ(養子は含む)に代数表示をして上記人物が崇神朝の祖先からそれぞれ何代になるかを算出した。
多氏本流:品治は10代目。安麻呂は11代目。
阿蘇氏:角足は11代目 友成は18代目 惟泰は26代目。
金刺氏:金弓は7代目  乙穎は9代目。
ここで各氏族一代当たり何年で継いでいたかを概算する。(家督相続という意味ではない)
仮定:10崇神朝をAD300年とする。
品治:650年 安麻呂:680年
角足:680年   友成:900年    惟泰:1170年
金弓:550年   乙穎:585年
結果:
多氏本流:35才前後/一代
阿蘇氏:33−35才/一代
金刺氏:32−34才/一代
と単純計算ではなる。これは当時としては若干一代当たりの年数が長い感じがするが合理的な範囲であるといえる。しかもそれぞれ異なる氏族でありながらほぼ同一である。
これらの系図がどの時代に出来たのかは不明である。例えば平安時代にそれぞれほぼご先祖さんの系図が出来たと仮定すると、この時代に10崇神天皇がAD300年頃の人物だと分かっていたのであろうか、記紀に従えばそれより数百年前の人物と考えてもおかしくはない。記紀の年数に整合性をとって人物を創作し、はめ込んでいったら、一代当たりの年数が異常に長くなることは、間違いない。そうではなく、各時代の天皇の世代(親子世代という意味で)に合わせた形で系図を創作・人物を配置したのである。ともいえる。しかし、各氏族が同じ手法を用いたとは思えない。この一致は史実に近いことを逆に言っているのではないか。
参考系図として挙げた「多氏ー伊都許利系図」でも分かるように、多氏のように古い氏族には非常に多くの派生氏族が存在する。それらもそれぞれ独自の系図を有しているのが当時の通例である。それらとの間の何らかの整合性が成立していることが必要である。
阿蘇氏・金刺氏にも膨大な派生氏族がいる(他氏族との婚姻も含め)。これらを意図的に整合することは物理的にも不可能である。よって上記多氏本流・阿蘇氏・金刺氏がほぼAD300年頃には、その祖らしいものが発生していたことは間違いなかろうと判断する。
但し、それらが血族的意味で同一氏族であったかどうかは、これだけでは不明である。
次に「神八井耳」と崇神朝とのギャップ問題である。一部の系図ではその間に数代の人物が記されている。これは記紀の欠史八代に意図的に整合させたものであるという説が多い。
阿蘇神社神話・伝承、記紀の神八井耳の記事など「神八井耳」については何らかの事績的伝承がある。それ以外の数名は全くない。健磐龍は創作の臭いがする神的扱いの人物である。「山背国宇治」の出身の伝承がひっかかる。後に阿蘇氏は宇治の名が与えられたと記録にある。「宇治角足」など。このあたりからの逆の伝承造りかも。
一部の説では、九州阿蘇地方に勢力を有していた健磐龍を神として祀る一族が或段階で大和王権の勢力下に入った。(例えば13景行天皇時代) その時その系譜を王権系譜の中に繋いだのである。とするものがある。多氏本流と言われる一族は神八井耳なる王権に関わる系譜をもった一族であった。これが阿蘇地方に派遣されていたかどうかは意見の分かれるところ。太田らは大和国にある多神社付近が九州から移ってきた多氏の本拠地としている。九州地方にある、阿蘇国造は勿論、火国造・大分国造 及び伊余国造などは阿蘇国造の派生氏族と考えられる。これらも後には総て多氏派生氏族の中に入っている。
さて問題は科野国造の流れである。これを多氏本流からの派生とするか、阿蘇国造と同一流れとするかについては古来色々議論されてきたようである。これについては現在ではほぼ統一見解に達しているように筆者は判断した。阿蘇国造即ち阿蘇氏と科野国造即ち金刺氏は同一祖(武五百建又は健磐龍)から発生した氏族である。最初に九州にいたのか、科野国辺りにいた氏族なのか未だ議論が分かれるらしいが、原点はやはり九州阿蘇地方説が有力か。金刺氏が多氏一族である認識はどの辺りからあったかは不明であるが、29欽明天皇の時には君姓であったのが金刺舎人直姓を賜ったとある。そしてその子供「麻背」が科野国造に復帰、と記録されている。直姓は国造出身氏族に多く与えられた姓とされている。新しくは863年に金刺貞長なる人物が「大朝臣姓」を賜るとある。などから見て、記紀に記された多君・火君・金刺舎人などは同族という概念は伝承記録として相当前からあったと考えて良い。多氏が臣姓となったのは、はっきりしないが筆者系図の「武裳裾見宿禰」からでその子供の稲見は「多稲見臣」と記されている系図がある。時代ははっきりしないが26継体天皇の前辺りかも。古代では君姓・臣姓は天皇家出身者しか与えられ無かった姓とされている。(一部例外もあるが)
多氏本流系図もどれが本物かはっきりしない。むしろ阿蘇氏系図・金刺系図の方が信頼し易い。というのも多氏本流といっても中央での活躍記事が出てくるのが38天智天皇時代の多宇気古(蒋敷)からである。それ以前は阿蘇系図を頼りにせざるをえない。
崇神朝の「武恵賀前」は、新撰姓氏録・多神宮注進状などに記事がある。新撰姓氏録にはその子供「武諸木」が多氏として記されている。「阿蘇家略系図」にもそうなっている。筆者はこちらの方を採用した。ちなみに多神宮注進状の系図はこれとは異なる。この武恵賀前の子供に常陸の仲国造となった「建借馬(たけかしま)」がいる。この流れに長狭国造・印波国造が出たとされている。
一方同じく武恵賀前の子供に東北の石城国造がいる。即ちこの多氏本流から東日本各地の国造が派生したことが窺える。この中で興味があるのが、建借馬で鹿島神宮と関係ありとされている。常陸風土記に登場する人物である。鹿島神宮は現在では豪族「中臣氏ー藤原氏」の守護神を祀ってあるとされている。藤原鎌足の出身地であるともされている。ところがである。この鹿島神宮の原点は多氏の氏神であったという説が濃厚である。
現在茨城県潮来町大生にある「大生(おお)神社」が鹿島神宮の元宮だとされている。
現在の祭神は「建御雷之男神(たけみかづちのお:武甕槌神)」である。由緒では大和国の飫富族の常陸移住の際氏神として奉遷し祀ったことに始まるとされている。筆者推定では4世紀中頃になる。この神は鹿島神宮の神と同一である。当初より多氏がこの神を祀っていたかどうかは判然とはしない。参考までに鹿島中臣氏の祖「神聞勝」は常陸風土記によると10崇神天皇の時鹿島に留まり祭祀に奉仕したとの記事あり。これとどう関係するのであろうか?
これが本当だとすると、多氏が祀っていた神を後からこの地に入ってきた中臣氏の流れが
引き継いだ又は簒奪したのが今の鹿島神宮ということにならないだろうか。
武甕槌神は春日4神の一つで藤原氏の重要な守護神である。さらなる調査がいりそうである。
また水戸市にある大井神社には祭神として「建借馬命」が祀られている。建借馬命の墓も近くに比定地があるようだ。
その他にも房総半島一帯には多氏の勢力が多数いた模様である。一説によれば、鎌倉時代から武士族として台頭してきた千葉氏一族とされている氏族の中にも本当は多氏をその祖とする氏族も幾つかあるとのことである。極論は、千葉氏そのものが本当は多氏であるという説もある。筆者は現段階ではこの説には同意しない。千葉氏は桓武平氏であると思っている。
多氏本流・阿蘇氏・金刺氏の間でどのような交流があったのかは筆者の調査した範囲では全く分からない。多氏本流は大和地方で朝廷の仕事に関与し、太安麻呂は一族の長に任じられている。四位の官位を得て多氏としては最高の位に達した人物である。その後裔は楽家として栄え現在まで続いている。
阿蘇氏は阿蘇神社を奉祭しながら中世には武士集団となり、戦国時代に一時主家は、断絶するがその後、阿蘇神社大宮司家として明治まで存続。
金刺氏は、諏訪神社下社の大祝家として勢力を伸ばしたが、中世には武士集団となり、生き残りを計るが、1518年に本家は滅亡したとされる。これ以降の下社の祝家は親族の手で維持したとされる。一方諏訪神社の上社の方は系図が非常に複雑で判然としないが
本稿では、金刺氏の流れが上社に養子に入り諏訪氏となったとする説に従い系図・人物列伝を参考までに記した。こちらも中世には武士集団化が余儀なくされ、惣領家は1542年断絶したが、その後血脈は維持された形で大名家諏訪氏として江戸幕末まで続いた。

 多氏派生氏族は非常に多い。これは大和王権の勢力拡大に伴い元々独立して各地に勢力を有していた地方の豪族がその先祖を天孫系の多氏の系譜の中に組み入れた、天皇家も自分
らの勢力拡大に繋がるものとしてこれを認めてきた結果で、多氏本流と血族的直接関係はなかったと考える方が合理的だとする説が有力。
 以上が多氏に関する概略である。以下にそれぞれの氏族に分けて解説する。
 
<多氏本流>
 神八井耳が元祖である。神八井耳が1神武天皇の子供かどうかは、現在では不明。実在したかどうかも謎である。参考までに太田 亮は、「神武天皇東征の後、神八井耳は嫡長子なるが故に九州北部を賜り、手研耳は庶長子にして九州南部を賜ひにあらざるか」と記している。新撰姓氏録では古事記で神武天皇の子供としている彦八井(ひこやい)を神八井耳の子供としている。阿蘇神話では彦八井は吉見神として阿蘇大神(建磐龍)の妃(阿蘇都媛)の父親という関係が記録されている。どうであれ崇神朝の人物であるとされる武恵賀前までの人物は系図にはあるが、ここでは論評はしないこととする。
「多神宮注進状」なる古文書がある。1149年多神宮禰宜従五位下多朝臣常麻呂が国司に提出したとされる有名な文書である。太田 亮らは信憑性なしと断じているが、他の文献にない色々な多氏に関係する情報が含まれている。
既稿である「磯城氏考」でも引用したが、非常に古い時代の多氏を知る貴重な文献である。この中で武恵賀前が崇神朝に多神社を創建したことが記されている。新撰姓氏録には神八井耳の五世孫崇神朝の人物と記録されている。日本書紀景行紀にその子供である「武諸木」の記事がある。
それ以後文献類には天智朝の「宇気古」まで記事なし。日本書紀に宇気古の妹が「百済王豊璋王」の妻に勅命でなったとある。次の「品治」は日本書紀の記事が多数ある。壬申の乱で武将として活躍し684年には朝臣姓を賜っている。その子供とされる「太 安麻呂」こそ多氏の中で歴史上最も有名な人物である。712年「古事記」を「稗田阿礼」の暗誦していた帝紀などを文章として編纂した人物とされている。715年には従四位下となり、716年には氏上になったと続日本紀などに記事がある。そして723年に民部卿として没している。
ところがこの古事記を太安麻呂が編纂したという記録が712年より後の続日本紀などに載っていないのである。平安時代になって多氏の裔であり日本紀講の先生であった「多 人長」(系譜は不明)なる人物が814年に「日本紀弘仁私記」なる書物の序に古事記を編纂したのは712年で太安麻呂がその編纂者であると記したのである。これが後年古事記偽書説の原因とされている。現在も偽書であると主張している専門家もいるが、大勢は古事記序を記したのは太安麻呂であり、真書であるとされている。
即ち、古事記編纂の詔を出したのは40天武天皇でそれに基づき稗田阿礼が帝紀・旧辞の暗誦を行い43元明天皇が711年に太安麻呂に古事記の撰進を命じ712年に完成した。前述の多人長の本の中に記されている安麻呂は舎人親王とともに日本書紀の編纂にも携わったという話も真実と見て良いのではとされている。
そもそも漢文で書かれ、中国人も読解出来る日本書紀こそ日本の正式な歴史書という位置づけが日本書紀発行直後からされていた。貴族らの勉強の教科書であった。平安時代中期まで日本紀講という正式な講義が行われていた。一方古事記は、漢字で書いてあるが倭文である。
712年成立・神代ー31推古天皇までの歴史書ではあるが、正式なものとしては扱われていなかったようである。(日本書紀の副読本的存在?)
当初からその目的が異なっていたようである。
参考までに日本の正式な古代歴史書(六国史)について触れておきたい。
日本書紀:720年成立・神代ー41持統天皇まで。
続日本紀:797年成立・42文武天皇ー50桓武天皇まで。
日本後紀:840年成立・50桓武天皇ー53淳和天皇まで。
続日本後紀:869年成立・54仁明天皇だけ。
日本文徳天皇実録:878年成立・55文徳天皇だけ。
日本三代実録:901年成立・56清和天皇ー58光孝天皇まで。
本論に戻ろう。
多氏本流で生没年が最初にはっきりする人物は、安麻呂の孫である「入鹿」(757−816)である。参議にもなった人物である。長岡京時代にもいたのである。その孫の「自然麻呂」こそ朝廷の雅楽の第一人者であり、神楽と朝鮮系の舞である右舞とを併せ日本風の雅楽の創始者と言われている。これ以降多氏本流は雅楽の家となる。明治まで続くが以降は省略する。
参考までに「楽家」につて簡単に記しておく。
「三方楽所(さんぽうがくそ)」といわれる「楽家」があり、その多くは現在まで宮内庁式部職雅楽部などで活躍している。
・奈良方楽家(興福寺):高句麗安蔵王を祖とし、狛氏から派生した@野田・上・窪氏 流 A西氏 流B芝・辻・奥氏 流などがある。
・天王寺方楽家(四天王寺):秦酒公?を祖とし、太秦嶋麿から派生したとされる。
薗・林・東儀・岡氏 などがある。
・京都方楽家(宮廷);@中原氏から派生した多くの氏族
A40天武天皇を祖とする豊氏流
B戸部氏流 C多氏流 などである。
 
<阿蘇氏>
 神八井耳が始祖である。肥後国阿蘇郡に興った氏族である。阿蘇系図では神八井耳の子供として「健磐龍」を記しているものもある。伝承的にはこの方が正しいのかも知れない。健磐龍こそ阿蘇山の神である。
13景行天皇紀18年条に阿蘇都媛と共に登場する人物とされている。その子供である「速瓶玉」の国造本紀などの記事などとは時代的にも整合性に欠けるものがある。阿蘇神話なるものがある。筆者の参考系図にその伝承上の人間関係を示した。また伝承としてある速瓶玉の妻である「蒲池媛」が神功皇后の三韓征伐に参加記事、その子供の「惟人(建渟美)」の三韓征伐従軍伝承など色々の伝承が複雑に混ざっていることは間違いない。
参考であるがこの蒲池媛の裔として戦国武家「蒲池氏」が輩出されたという伝承あり。
阿蘇系図に関しては色々の専門家が検証してきたようだ。何しろ阿蘇神社(神名式では阿蘇郡健磐龍神社とある。現在は阿蘇神宮である)という滅法古い神社を奉斎してきた氏族の系図である。諸論あるのは当たり前である。
しかし、現在の人間がいくら論証しようとしても無理がある。日本の中で最もしっかり管理伝承されたはずの天皇家の系譜だって信じる人もあれば、嘘八百だと信じない人もいる。いや天皇家だからこそ政治的改竄・創作が行われたという人も多数いる。ただの田舎豪族に伝承された系譜の方が政治的因子が少ないだけ真実が反映されていると主張する方々もいる。文字記録が無かった少なくとも15応神天皇以前の系譜なんて所詮作り物である。いや、人間の伝承は400年位は充分信用出来るものである。語り部的存在があるような組織的な集団の場合は、重要な事項は語り継がれて残されてきた。そして文字文化の普及により、29欽明天皇朝頃以降に文字記録され繰り返し改訂されながらその集団の財産として残されてきたのである。という説も根強くある。
阿蘇神話・阿蘇系図も一種の民間伝承であるといえる。中央政権から見れば阿蘇氏なんて採るに足らない地方豪族に過ぎない存在だったのではなかろうか。しかし、古事記では阿蘇君とあるし、阿蘇公とも称され全く無視された存在ではなかった。
既稿の「出雲氏」は出雲大社という地祇系の神々の総元締めであり、阿蘇神社とは訳が違う。同じ九州でも宇佐八幡宮とも違う。阿蘇氏は、少なくとも6世紀以前は政治的には全く影響のない存在だったと判断する。立証する文献なんてあろうはずがない。
筆者は現在ある阿蘇大系図を基に人物列伝を作成した。阿蘇神社の神主を並べた系図的なものもあるが、神主は必ずしも世代毎の形で継承されているのではなく、親子・兄弟・親族の間で継承されているので、筆者の人物列伝は、上記大系図をもとに世代毎の繋がりを明確にして神主代数ではなく、世代代数で表示したものである。上記したようにこれで一代当たりの平均継承年数が推定出来るのである。
阿蘇氏の場合諸文献・伝承から「速瓶玉」が大凡崇神朝の人物だと推定したのである。この人物の実在性も立証することは不可能である。だからといって実在性を否定するのは問題である。というのが筆者の主張である。
実在していたと仮定して、どんな矛盾・不合理な点があるのかである。我々アマチュア古代史ファンに納得する矛盾・不合理な点を専門家の皆様に教えて頂きたいのである。
阿蘇神社付近に存在する古墳類の発掘調査などについては筆者は全く知見をもっていない。現在となってはこれらの遺物調査で類推するしかない。
一般的には考古学的調査では人物の名前が特定出来ない。AD何年頃にこの規模・文化を有した勢力者がいた。程度のことしか分からない。これと各種の伝承とを考証して、この人物・氏族に相当する古墳ではないかと判断するのが歴史学者の使命の一つだと思う。
ところが傾向としては、発掘考古学の専門家は、古墳発掘などには異常なほどの熱意をもってやるが、人物比定には何故か非常に億劫である。これが非常に難しいことは誰でも分かる。そこを勇気と充分なる背景調査をして極力人物又は氏族比定をして貰いたいものである。
筆者は前述したように、紀元4世紀初頭頃に阿蘇氏の原点が生まれたことは妥当と判断している。但し神八井耳とか1神武天皇云々までは不明である。これは出雲氏の原点が崇神天皇朝くらいまではたどれるがそれ以前は謎であるのとほぼ一致する。
多氏本流と阿蘇氏の関係は非常に謎めいている。一部の説である阿蘇氏と多氏は元々別の氏族である、九州の阿蘇地方で勢力を持っていた阿蘇氏が大和王権が勢力を拡大するある段階で王権側に与した。その段階で多氏の系譜に入り込んだのではという説は、かなり真実性が感じられる。出雲臣氏の場合と良く類似している。吉備臣氏の場合もケースは異なるが似たような経過を感じる。毛野臣氏の場合も考えようによっては似ている。
ひょっとすると多臣氏そのものも同じような経過を辿ったとは考えられないであろうか。即ち地方に拠点を有し、後に臣姓氏族となった古代豪族は、中央にいた連姓氏族・臣姓氏族とは異なる経過を経て大和王権と関係が出来たのではなかろうか。
筆者は地方の臣姓氏族は江戸時代の外様大名みたいな感じがする。
阿蘇氏自身は君姓であったようである。これは国造出身ということで直姓なら普通であるが(阿蘇直姓もあるらし)。後述する金刺氏は直姓である。多氏だけが臣姓である。これは何か秘められていると筆者は思う。通常は一族の長氏が臣姓を賜ったら併せて同一血族も臣姓を賜る場合が多い。
阿蘇氏の人物で歴史的にはっきりするのは「角足」あたりからである。天武朝に宇治宿禰姓を賜ったとある。その息子の「平田麿」は阿蘇神社宮司・阿蘇郡擬大領と記録されている。何故宇治宿禰姓なのであろうか。
多氏一族を調査していて気付いたのであるが、この一族には何故か「宇治」とか「宇治部」という名前がつきまとう。これは調査する必要あり。阿蘇氏元祖である「健磐龍」が山代国宇治の出身であったという伝承があるらしいが、釈然としない。
阿蘇大系図によると速瓶玉の曾孫に当たる武凝人に宇治部という姓が付されている。
「宇治部」は一般的には15応神天皇の皇子「宇治若郎子」の「御名代」である。全国に出来たこの御名代の一つが阿蘇氏の勢力圏内にも出来てそれを阿蘇氏が管理したのであろうか。これも一般的であるが、宇治部を統括したのは「宇治連」といい、ニギハヤヒの6世孫伊香我色雄の裔である物部氏だとされている。これが天武13年宇治宿禰姓を賜っている。山城宇治郡に本拠地を有していたとされている。
角足に付された宇治宿禰とこの物部氏に属するとされる宇治宿禰は関係するのか、無関係なのか。太田亮は「(角足の宿禰姓については)正史並びに中央の記録にはない」とした上でその理由について考察している。「(色々の説があるが)阿蘇大宮司家は阿蘇国造家にあらずして国造家断絶して宇治姓の人これに替わる。よって宇治姓を称す。−−−後の
阿蘇家は物部姓宇治宿禰にして山城宇治郡より起こると云うも捨て難かるべし」としている。
筆者はこの説には与しない。理由は@天武朝以降のことであるとするなら、これ程重要なことなら、しかるべき記録が阿蘇神社などに残されていてもおかしくない。A養子または嗣子の形で物部氏が阿蘇氏に入ったのなら物部氏側の系譜に何らかの記録があってしかるべきである。多氏・金刺氏系の記録にも阿蘇氏が物部氏に替わった記述がどこかにあってもおかしくない。B鎌倉時代の惟泰からは「阿蘇」氏を称している。C国造阿蘇氏の庶流は膨大量派生している。これが阿蘇本流が何かの理由で断絶したとしても全く血脈の異なる物部氏に祖先神である阿蘇神社を祀る立場を譲る訳がない。当時の氏神を祀るということがどんなことであるか他の氏族の例からも推定可能である。などなどの理由により
宇治連系の氏族が阿蘇氏を簒奪・替わったという説には与せ無いのである。
しかし、史実はどうかについては、現段階謎である。
次に平田麿の子供「武男」の流れから伊予国の越智氏に繋がる系図もあるらしいが、これは怪しい。越智氏から阿蘇氏に養子が入ったとするなら可能性があるが。
延喜時代(901−922)の人物である「宇治友成」が初めて阿蘇大宮司職となったと記録がある。
「大宮司職」は、一般の神社には存在しない特別な扱いを受けた国家的権威をもった地位である。伊勢神宮・熱田神宮・宇佐神宮・宗像神社・阿蘇神社など一部の神社にしか存在しなかったとされている。神祇官を経て太政官符が発せられ、国司によって執行された。
一般の宮司とか神主とは異なる扱いである。それを阿蘇神社は「友成」の時初めてその対象神社になったのである。阿蘇神社が何故そのような特別の待遇を受ける神社となったのか筆者は分からない。単に古いだけならそれ以外にも多数ある。
これ以降大宮司職が阿蘇氏(宇治氏)の世襲となった。この初代阿蘇神社大宮司「友成」なる人物が、謡曲「高砂」に登場している。室町時代には、阿蘇神社は都では良く知られており、この友成なる約400年以上も前の人物が公知だったことが窺える。
この友成の子供である「友仲」の子供に「是貞」という人物がいる。この流れに系図で示したように大宮司「忠国」がおり、その娘が歴史上有名な「鎮西八郎源為朝」が九州に流された時の現地妻となったとされている。
阿蘇氏はその後、阿蘇神社の大宮司をやりながら勢力を蓄えた。ところが南北朝時代になり武士団としての傾向が強まりその戦乱に否応なく巻き込まれた。一族の内紛が絶え間なく遂に1593年の豊臣秀吉の九州征伐 の時一旦滅びた。その後血族が阿蘇大宮司職として復活し明治まで続いた。
 
<金刺氏>
 神八井耳が始祖である。崇神朝に「武五百建」が科野国造に任命された(国造本紀)ことに始まるとされている。系図によっては健磐龍が科野国造に任命され子供に「速瓶玉」と「健稲背」がおり前者が阿蘇国造祖 後者が科野国造祖とあるもの、武五百建の子供に阿蘇国造速瓶玉とあるものなどあり、現在では健磐龍と武五百建は同一人物とする説多し。勿論別人であるとの説もある。筆者が調べた範囲では阿蘇神社は健磐龍、信濃側は武五百建説が多い。筆者は同一人物として記す。いずれにせよ阿蘇国が原点のようである。武五百建の妻は「会知速比売(会津比売)」であり、信州の妻女山の会津比売神社の祭神であり、健磐龍の妻は「阿蘇都媛」と伝承され阿蘇神社の祭神とされている。阿蘇都媛から生まれたのが速瓶玉で、会知速比売から生まれたのが健稲背だと考えればそれぞれ現地妻から生まれた者がその地の国造になったと思えば良い。
或る説に、多氏は貴なる一族(神八井耳で代表される)で、その男達は、日本各地の土着の勢力者の家の娘に入り婿してその地の国造となってそれぞれの地の名前を付け土着した、よって多くの国造氏を出したのだ。ともいわれている。
現在では、阿蘇国造氏と科野国造は同一血族の臭いがするとされている。但し多氏本流とどうかといわれると同一血族には疑問もあるらしい。太安麻呂が716年に一族の氏上に任命されたとの続日本紀の記事の頃には間違いなく、阿蘇氏も金刺氏も多臣氏の派生氏族として認知されていたと筆者は判断している。
さて、科野国造は29欽明天皇(金刺宮)の時、「金弓」という人物が朝廷で舎人の役に任じられた。それにちなんで金刺舎人直姓を賜ったと伝えられている。そして科野国伊那郡大領に任じられている。それまでの姓は君姓であったらしい。このあたりから歴史に登場するのである。以後この一族を金刺氏と称する。
金刺金弓の子供に「麻背」という人物がおり、この時科野国造に復帰とある。麻背の兄弟に「目子」という人物がいるがこの流れは他田直姓を賜り一方の勢力(伊那地方)を築くことになる。こちらについては解説を省略する。
麻背の子供に「乙穎(おつえい)」がいる。この人物は子供の頃から神懸かりするということで諏訪神社の御衣木式の元祖となり後年諏訪神社の大祝職に就いたとされている。31用明天皇の時代に諏訪湖南山麓に上社を建てたと伝えられている。諏訪神社は古来出雲神である建御名方(大国主の子供)を祭神として祀ってあり、建御名方の子孫が祝として代々祀ってきたとされている。ところがこの頃になるとその勢力も衰え色々な氏族がその名跡を継いだらしく、系図が諸種あって、どれが本流やら分からなくなってきた。神氏というのが当時の姓らしいが、中身が不明である。筆者はその一説である金刺乙穎の流れがそれを継いで諏訪氏となった。という系図を参考として諏訪氏について簡単に概略だけ後述する。この乙穎がその祖である。
金刺氏の嫡流は麻背の子である「倉足」であり、諏訪評督となり、諏訪湖北に館を構えこれが諏訪神社下社(春宮・秋宮)となった。その10代後の「貞継」の時下社大祝職に就いたとされる。この頃傍系に「貞長」という人物がおり、太朝臣姓を賜ったという記事が残されている。この一族が多一族である証みたいな賜姓である。
金刺氏も武家集団となっていく。庶流である「金刺盛澄」は源頼朝のご家人となり、「光盛」は木曽義仲の家来になった。時代が下ると諏訪神社上社との内紛が起こり、1518年には上社「諏訪頼満」に攻められて下社嫡流金刺氏は滅亡した。この時の当主が「昌春」で「武田信虎(信玄の父)」を頼って甲斐に逃亡した。そして1528年戦死した。これが武田氏が諏訪氏を攻撃する口実となり諏訪氏滅亡(諏訪氏参照)のきっかけとなったのである。
 
(参考) <諏訪氏>
 本当の諏訪氏の系譜は謎である。諏訪神社が出雲神「大国主」の子供で、出雲国譲り神話に出てくる「建御名方」を祭神としていることは事実である。伝承ではこの祭神の末裔が祀ってきたとされている。信濃一宮であり日本有数の古社である。ところがこの神社の神主の系譜は阿蘇神社のように単純ではない。神(みわ)直姓が元々の姓らしいがはっきりしない。筆者は異論は多数あることは承知の上で、この諏訪神社上社の神主を科野国造の裔である金刺氏が継いだという系図に従って解説をしたい。
上述したように金刺金弓の孫である乙穎(おつえい)が上社の大祝になり、その6代孫である「繁魚」が上社本流の「豊麿」の養子に入った。その孫である「有員」は大同年間(806−810)の人物とされている。神氏の初代とも言われる人物である。この人物は、
敏達天皇裔・桓武天皇裔・嵯峨天皇皇子説など諸説入り乱れている。
この人物が諏訪神社上社の大祝となり以後この流れが大祝職を世襲することになる。
この辺りから系図ははっきりしてくる。
その裔である「盛重」が諏訪太郎と呼ばれ源頼朝に従う。この頃より諏訪氏と呼ばれるようになり武家集団諏訪神家党を形成したとされる。その後南北朝・室町時代と武家と大祝職を兼務するが、「有継」の子供の時代になると、大祝家と惣領家の分裂が起こる。1484年再び惣領家に一本化される。ところが「頼重」の時、1542年「武田信玄」により惣領家は滅ぼされた。そして上社大祝家は叔父の「満隣」によって継がれたのである。頼重の娘は信玄の側室となり、子供「武田勝頼」が武田氏を継いだのである。この辺りの事が現在NHKの大河ドラマ「風林火山」で放映されている。そして諏訪氏は満隣の孫である「頼水」が諏訪初代藩主となり江戸幕末まで大名家として存続したのである。
 
 以上が多氏及び主関連氏族の概観である。余りに古く余りに長く続いた氏族なので平安時代以降はそれぞれ詳細は割愛した。
どの氏族も細く永くを絵で描いたような一族である。だから永続したのだとも言える。
通常の歴史上に登場する人物は「太安麻呂」唯一人であるといっても過言ではない。
しかし、細かく見ればこれぞ日本の地方豪族の典型みたいな一族であり、その足跡が曲がりなりにも追跡可能な希有な一族といえる。その他多くの地方豪族はどこかの段階で埋没し、断絶したのである。多氏本流は楽家・阿蘇氏は阿蘇神社・金刺氏(諏訪氏)は諏訪神社という中央政治とは直結しない所にいたために生き残れたともいえる。
 
8)まとめ(筆者の主張)
@多氏は最古の皇別氏族であり、1神武天皇の子供「神八井耳」を始祖とする古代豪族である。派生氏族が多く日本全国に関連氏族がいる。代表的なのは「阿蘇氏」と「金刺氏」(諏訪氏)である。
A系図・伝承・文献などの諸情報で現段階で辿れるのは崇神朝即ち3世紀末から4世紀始め頃までで、それ以前に遡ることは無理がある。神八井耳はこれら多氏一族共通の伝説上の氏神様みたいな存在と見るべきである。
B現在残されている各氏族の系図がいつ頃その元祖部が確定したのかは全く不明である。しかし、記紀編纂以前にはほぼ固まったものになっていたものと推論する。
C多氏の本貫地を肥後国阿蘇地方に推定した太田 亮説に与する。
D多氏本流と阿蘇神社宮司家、それと血脈を同じくするとされる諏訪神社下社大祝家「金刺氏」とが同一血脈という説には未だ釈然としないものが残っている。むしろ大和王権の全国支配の段階で多氏本流の系譜の中に組み込まれたとする説の方が理解し易い。
E多氏本流といえども歴史的に日本の政治に直接関与するほどの氏族ではなかった。唯一「太 安麻呂」が712年「古事記」を編纂したことが確認出来るくらいである。
F古事記偽書説には与せ無い。太 安麻呂が古事記編纂時に自分の氏族の出自などを改竄したとの説にも与せ無い。多氏は既に臣姓氏族であり、その出自についても或一定の評価がそれまでに確立出来ていた。と考える。
G阿蘇神社・諏訪神社がいつ頃創建されたかは判然としない。各神社の由緒書は、滅法古い創建が記されている。そのままは信じる訳にはいかない。少なくとも記紀編纂時には健磐龍・建御名方を祭神として祀ることは行われていたものと判断する。
H多氏本流は雅楽を中心とした「楽家」として永続した。
I阿蘇氏は阿蘇神社大宮司職を世襲することになるが、それ以前に宇治宿禰姓を称している。この理由は現在も不明である。阿蘇国造氏が断絶し、物部系の宇治宿禰氏に替わったとの説には与せ無い。中世はその勢力維持のため武士集団化するが、内紛も起こり一旦滅亡するが阿蘇神社大宮司職として復活し、永続した。
J金刺氏は諏訪神社下社大祝家として栄えたが中世は武士集団化し、同族と思われる諏訪神社上社によって滅ぼされた。諏訪神社上社を継いだと思われる金刺氏出身の諏訪氏も
武田信玄により一旦嫡流家は滅ぼされた。やがて庶流が大名家「諏訪家」として復活して、命脈を保った。
K生き残るために七転八倒した一族である。地方古代豪族の典型的生き方をして非常に希有な形で曲がりなりにもその長い系譜を残した氏族である。残念なのは、その各人物の生没年がはっきりするほどの人物が少ないことである。それほどパットしなかった一族である。だかこそこれだけ永続出来た最大の因子であったといえる。
                             (2007−11−14脱稿)
 
9)参考文献
・「姓氏家系大辞典」 太田 亮
・「古事記」学習研究社(2000)
・「氏姓」 阿部武彦 至文堂(1960)
・「天孫降臨の謎」関祐二 PHP文庫(2007)
・「古代豪族」青木和夫 講談社(2007)
・フリー百科事典「ウイキペディア(Wikipedia)」HP版
http://ja.wikipedia.org/wiki/ (阿蘇氏など)
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/
「阿蘇氏系図の古代部分の検討」「多氏族概観」
・「新撰姓氏録の研究」 佐伯有清 吉川弘文館(1981〜)
                など