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2.「葛城氏」論考
 葛城氏は、実在が確認出来た日本最古の豪族である。葛城襲津彦は、朝鮮半島でも活躍しその記録が、朝鮮の古書に記されてある。
5世紀前半倭の五王の時代の人物とされている。記紀にも詳しく記されている。
その娘「磐之姫」は、仁徳天皇の皇后となって多くの天皇を産んだ。
「磐之姫」は、万葉集にもその歌があり、奈良時代藤原不比等の娘「光明子」が、聖武天皇の皇后になる時、皇族以外で皇后(単なる妃には過去多くの皇族以外の出身の娘がなったが、皇后になったのは、磐之姫しかなかった。)になった先例にされた女性である。
この一族は、「葛城王朝」(鳥養氏の提案した葛城王朝という意味ではない)と言われる程強大で、天皇家と並び立つ存在であった。
ところが雄略天皇の時(5世紀後半)、一族主流は、完全に滅ぼされた。
しかし、この葛城氏こそ、その後の日本の歴史に陰に陽に影響を及ぼす種を蒔いた豪族であった。先ずその公知にされている系図を下記に記す。

1)系図解説
・武内宿禰:この人物は古来天皇家に仕える大臣の神様的存在であった。
即ち数代の天皇に仕え、朝廷 を支えた大番頭的存在として記紀に記されている。
よって記紀ではこれ以降大臣になれる氏族は、総て武内宿禰の子孫に限られる。とした。
特に神功皇后と一緒になって、応神天皇の即位を助けた功労は大としている。
ところがこの人物は記紀上では、数百年生きたことになっており、現在では、その実在性は全く無理で、架空の人物、記紀の想像上の人物とされている。
よってこれに出自を有する氏族は、総てその出自が本当は、よく分からぬが、以後朝廷内で勢力を得て大臣にまでなった氏族の出自をここに当て込んだに過ぎないとされている。
よって、紀氏、葛城氏、、蘇我氏、巨勢氏、平群氏などの本当の出自は、不明。とされている。勿論これに対する反論も多し。
 いずれにせよ、記紀に記されている系図では、武内宿禰は、紀国造氏(系図上は天神族)の娘と天孫族の男との間に産まれたとされている。
紀国造氏が本当に天神系であったかについては、多くの疑問点があるとされ、出雲系であるのを隠して、天神系もどき系図を作成し、保身をはかったとする説も多し。
系図でも分かるように武内宿禰は、非常に紀国造氏の臭いが強い。
紀氏については、別途検討したいが、この武内宿禰と葛城国造氏の女との間に産まれたのが葛城襲津彦である。という記紀には記されてない、部分を筆者の系図には併記してある。
これは「紀氏家牒」という昔は、秘系図とされたものに記されてあったものを近年、調査されそれなりの信憑性があるとする説に従った。
なお、ここで発生した皇別紀氏の流れから「紀橡(とち)姫」が出現する。天智天皇の子である「志貴皇子」との間に光仁天皇を産み、その子が桓武天皇となる。
よって平安時代以降も、紀氏はある程度の勢力を保った、数少ない古代豪族である。紀貫之は有名。

蘇我氏:武内宿禰に出自を有する後の大豪族である。「馬子」「蝦夷」「入鹿」など多くの実力者を輩出。天皇家と姻戚関係を結び、天皇の外戚となる。
勿論その出自には疑問ありとの説多し。筆者は武光 誠等が主張している、葛城氏庶流説を採用した。(別系譜参照)
勿論実在した豪族である。大化の改新(乙巳の変)の一方の主役である。

巨勢氏:これも上記武光説を採り、葛城氏庶流と考える。
歴史上当初は蘇我氏の子分的存在として登場するが、蘇我氏滅亡後、孝徳天皇朝「徳太古」という人物が左大臣となり、活躍の記録が日本書紀に記されている。

平群氏:この氏族は、葛城氏が滅んだ雄略朝頃から勢力を増し、「真鳥」という人物が、仁賢天皇の時大臣となったが武烈天皇に真鳥の子供の「鮪(しび)」とともに殺され滅んだ。
歴史順に栄えた葛城系?の氏族は、葛城氏ー>平群氏ー>蘇我氏ー>巨勢氏ー>紀氏となる。

天皇家:16代仁徳天皇から葛城氏の記事が多発する。
系図には、明記してないが19代允恭天皇の子供に20安康天皇と21雄略天皇がいる。
17履中天皇の子供に「市辺押磐皇子」という人物がいる。雄略天皇からみれば従兄弟の関係であるが、雄略はこの皇子を殺して自分が天皇になった訳である。
以後雄略は、吉備氏族の関係者を殺し朝廷から排除。葛城氏勢力も殺し排除していった訳である。
このあたりのことから、雄略天皇には葛城氏の血は流れてない。即ち、允恭天皇は「磐之姫」の子ではない。との説が産まれ、かなり有力視されている。
記紀には雄略天皇を「大悪天皇」と記されてある。雄略の子供22清寧天皇には子供がなかった。天皇の後継者が周りにいなくなってしまった。(余りに多く根絶やし的殺しをしたので)
そこで再び葛城氏色の濃い23顕宗天皇以下25武烈天皇までが即位したと記紀では記されているが、このあたりも現在では、創作ではないかと言われている。
その後に応神天皇の5世孫と言われている26継体天皇が北陸から現れる。となっている。

神功皇后:15応神天皇の母親であり、14仲哀天皇の后である。
日本書紀が最も力を入れてその事績を詳述した人物の一人。
実在性大いに疑問とされている。暗に魏志倭人伝に記されている、邪馬台国の女王「卑弥呼」こそ神功皇后であると主張しているとのことである。
現在ではこれは、年代的に無理とされている。応神天皇は存在してたとすると5世紀前後、卑弥呼は、3世紀の人物。
では系図上はどうかといえば、葛城氏の流れを引く葛城高額姫と、彦坐(ひこます)王の流れを引く、息長宿禰王との間に産まれている。
高額姫の母も葛城系である。どこから見ても当時の状況からは、アンチ主流派である。
仲哀天皇は、存在が疑問視されている天皇、母系だけから判断すると、それまでの天皇家からは、違う流れがここで新たに起こったとされている。(現在の主流的説?)
応神天皇からそれまでの王朝とは異なる王朝が始まった。但し、豪族の流れに大きな変化は起こってない。入り婿か?大王墳の築造場所の変化。
その象徴的人物が、神功皇后である。真実は未だ謎。

2)葛城氏元祖人物列伝
  葛城氏は、武内宿禰を元祖とする奈良盆地西南部(葛城郡)に古くから土着していた豪族である。
3世紀末から4世紀にかけ長期間にわたって奈良盆地東南部(三輪山麓)にある「大王家」から独立する体制を築いてきた。
4世紀末葛城地方に古墳が出現した。そのことは、この時期に葛城氏が、「大王」の支配下に入ったことを示している。との説あり。
少なくとも5世紀前半の間は、朝廷は、「大王家」と葛城氏との連合政権ではないかと思われるほど葛城氏の勢力は、強かった。
その時期の葛城氏をまとめたのが「葛城襲津彦」である。
彼は、百済系の史料にも登場するので実在した人物と見て良い。
2−1)葛城襲津彦(???−5世紀前半)
@父;武内宿禰? 母;不明(葛城国造荒田彦娘葛比売説:紀氏家牒)
A娘;磐之媛を16仁徳天皇の后とした。17履中、18反正、19允恭の母となる。
B朝鮮経営に活躍。弓月君を招いた。これ以後渡来系豪族と繋がる。
 
 
2−2)葦田宿禰(???−???)
@父;襲津彦 母;不明
A娘;黒媛は17履中天皇后となり、市辺押磐皇子の母となる。
B息子「蟻」の娘「夷媛」は市辺押磐皇子の室となり、24仁賢、23顕宗の母となる。
 
 
2−3)玉田宿禰(???−???)
@父(又は祖父);襲津彦 母;不明
A襲津彦没後、葛城氏の中心となった。
B19允恭天皇が、18反正天皇の殯(モガリ)宮の有様を家来に見に行かせた時、役目 を怠って自宅で酒宴をしていたという。
その為天皇は、玉田を討った。
 
 
2−4)葛城円大臣(???−???)
@父;玉田宿禰 母;不明
A20安康天皇時大臣になっていた。
B16仁徳の孫眉輪王が、20安康天皇を殺害する事件発生。20安康の弟「稚武皇子」 (21雄略)が眉輪王を討とうとした。
王は、葛城円大臣の自宅に逃げた。
雄略は、円の屋敷を軍勢で包囲した。円は、娘の「韓媛」と領地7区を差し出し許しを 請うた。
しかし、それを許さず二人を焼き殺した。後に「韓媛」は21雄略の后となり 22清寧を産んだ。
Cこの時宅7区が天皇直轄領である葛城県となった。
Dこの後同族の平群氏が、大臣についた。
ーーーーー葛城氏は、5世紀末に衰退した。ーーーー
 
別伝)
・葛城垂見宿禰(???−???)
@父;不明 母;不明
A欠史9開化天皇時の人物(古事記)実在?
B娘;鷲?比売は、9開化の妃となり建豊波豆羅和気王(忍海部造の祖)の母となる。
 
・葛城烏那羅(???−???)
@父;不明 母;不明
A葦田宿禰の子孫 蘇我稲目の養子扱いの系譜あり。
B聖徳太子の側近として活躍。
C蘇我ー物部戦では、蘇我側の将軍として活躍。
D32崇峻時、征新羅軍の大将となる。
 
 
・葛城高額媛
・葛城之高千那昆売
・葛城直磐村 広子
 
 
3)論考
戦後の葛城氏をめぐる論争は、色々なされてきたようだが、筆者は鳥越憲三郎の「大いなる邪馬台国」(講談社1975年)「弥生の王国」(中公新書1994年)などの中で展開されている「葛城王朝説」に非常に共感が持てる者の一人である。
筆者流の解釈は、次のようになる。
記紀では初代神武天皇の事績に記されている事の内、物部氏が関する部分で、物部氏の祖である弥生人が九州から大和地方に後の大和政権を握ることになる勢力(これも九州よりくる)より先行して入り、大和の縄文人と婚姻などを通じて融和して物部王朝なるものを築いていたことを暗に認めている。とし、これが東遷してきた邪馬台国であるとした。
即ち物部氏が邪馬台国であるとしたわけである。
一方欠史八代に記された大王は、邪馬台国に抗した狗奴国である。これが葛城王朝である。との新説を掲げた。
邪馬台国の系譜は残されず、葛城王朝の系譜だけが記紀に記録された。その葛城王朝も実際は、物部氏の物部王朝にずっと実権は取られており実際に実権をとったのは8代と9代だけであった。
その後新たに九州からきた弥生人勢力に取って代わられ、これが崇神天皇として記紀に記された勢力である。
これを記紀の記録に従って記せば、2綏靖天皇ーーー7孝霊天皇までを時代的には物部王朝とする。
8孝元天皇は物部氏の娘を妃にして、物部王朝は新王朝にとって替わられたことを記してある。
9開化天皇も物部氏の娘を妃にした。この2代が葛城王朝と称することにした。
10崇神天皇は、これらとは異質の氏族から出たものである。入り婿の形をとったのかも知れぬが、新王朝がこれから始まっている。との説であると理解した。
いわゆる欠史八代に関しては何故このような記録記事を記紀がわざわざ載せたのか、議論はつきない。
本当は崇神天皇こそ大和統治者(大王 )の初代とする説が今日では主流?ではなかろうか。
現在の天皇家に血筋的に繋がるほぼ間違いない天皇は26継体天皇からとされている。
この崇神天皇から継体天皇までも血統的に繋がっていると記紀は記しているが、これは現在では色々な意味で疑問であるとされている。
さて「葛城氏」の話に戻す。
どこかの文献で見たのだが、ある学者が遺跡発掘の実態などからこの崇神天皇の頃(3世紀末から4世紀初め頃と推定)日本列島に住んでいた人口を推定している。
それによると北海道から九州までで人口は約100万人その約3分の1が弥生人(中国、朝鮮半島から稲作文化をもって入ってきた種族及びその子孫)3分の2は、縄文人系(元々から日本列島に住んでいた種族、およびその子孫)である。
関東以北には当時弥生人は住んでいない。
近畿地区全体で数10万人その約2分の1が弥生人と推定された。
大和地方にはせいぜい数万人の人が居たにすぎないのである。その一つの王国が葛城王国であり、物部王朝だったのであろう。
上記の葛城王朝と邪馬台国の関係は筆者はすっきりしないが、邪馬台国大和存在説(主に京都大学学派)に従うと年代的にも地理的にもすんなり受け入れられるが、これはそう簡単に言える話ではなさそうである。
さらに、上記葛城王朝(孝元天皇ー開化天皇)と大豪族「葛城氏」の関係は、無関係なのか大いに関係するのか?筆者は関係しているのではないかと推測している。(賀茂族考1を参照)
理由@孝元天皇、開化天皇の王宮の場所(記紀に記載あり)と今回発掘された葛城氏王城跡の場所は近い。
A葛城氏の祖と記紀に記されている武内宿禰は孝元天皇の孫または曾孫とされている。
B神功皇后は葛城氏の血を引くとされている。
C系図的に豪族「葛城氏」の系図より古い時代の葛城姓を付した記の記事も散見される。(上記系図参照)葛城王朝の流れを引く一族が葛城姓を名乗ったものと思われる。
D葛城国造の初代とされている剣根命の子孫と言われる葛城国造娘(葛比売)と上記武内宿禰との間に産まれたのが葛城襲津彦であると系譜もある。(紀氏家牒)(何処まで信頼性があるかは疑問とされている)
しかし、一方では襲津彦の実在は認めるが、出自は朝鮮半島であるという説も散見される。
武内宿禰の実在は疑問視されている。
15代応神天皇の擁立に神功皇后と活躍し、後の大臣を産み出した氏族(蘇我氏、巨勢氏、紀氏、平群氏など)の祖は総て武内宿禰というのは余りに出来過ぎで架空の意図的改竄系図である、とも言われている。また年代的にも不合理であるなどである。
神功皇后も、応神天皇も仁徳天皇も実在は怪しいとされている訳だら何をか言わんやである。
しかし、豪族葛城氏の原点的存在である葛城襲津彦の実在は朝鮮の古書などにも記録があり認めざるをえないとされている。
記紀では、襲津彦は、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇に仕えたとある。
正に実存が怪しい3人の天皇家に仕えたのである。
上記葛城氏の系図は記紀に記載されているものである。この中に「円大臣」なる人物(襲津彦の孫又は曾孫)が記されている。記紀ではこの大臣の時雄略天皇から葛城氏は勢力が大王家を脅かす恐れ有りとされ家屋敷一族郎党総て焼き払われ滅ぼされた。但し娘の韓媛だけは雄略天皇の后に差し出されたので助かった。されている。
この時の焼け跡が今回の発掘調査で見つかった可能性が出てきた訳である。襲津彦の娘「磐之媛」は16仁徳天皇の后である。記紀にはこのあたりのことは非常に詳しく記されてある。この発掘結果を学会はどう判断するのであろうか。
現在はっきり認知されているのは21雄略天皇のみといって過言ではない。これは中国の古典にそれと思わしい人物の書簡記事などが記載されてあるからであるらしい。悲しいことである。証拠のないものは記紀の記述は一切信用出来ない。なんて。
記紀では21雄略天皇は磐之媛の子供19允恭天皇の子供とされている。しかし最近では允恭天皇は磐之媛の子供ではなく仁徳天皇の別腹の子ではないかと推論されている。
いずれにせよこの後葛城系の血筋の天皇は23顕宗天皇24仁賢天皇25武烈天皇となっているが、このあたりも実在性は?とされている。
この後応神天皇の血筋を引くとされる26継体天皇が北陸から大和政権の危機を救う形で登場。樟葉の宮ー筒木宮ー弟国宮を経て大和政権を継承したとされている。
一方豪族葛城氏はその後どうなったかについては色々の説が出されている。その一つが上記系図に武光 誠著「古代史を知る事典」に記されているように記紀の記述と異なり後の大豪族蘇我氏が葛城襲津彦の直系の血筋として発生したとしている。
これは記紀に記された色々な記事、その後の蘇我氏の研究から導かれた一つの結論だと思う。
勿論学会が認知したとは思えないが。筆者はこの説を支持したい。
勿論反対意見も多く出されている。蘇我氏渡来人説(門脇禎二ら)。
蘇我氏は物部氏より派生した氏族である。などなど

京都府長岡京市「角宮神社」
 ところで、京都府長岡京市に「角宮神社」なる古い神社がある。
古くは「乙訓神社」と言われたらしい。(記紀にも記事あり)
京都上賀茂神社の祭神「賀茂別雷神」の母親(玉依姫)を祀ってある。
この地は元々葛城地方にいた賀茂族が、大挙して葛城の地を離れ山代岡田を経て久我ー乙訓そして賀茂県主となっていったとされている。
この賀茂族と葛城王朝、豪族「葛城氏」の関係を知ることに興味があるが、今回はこの話は除外した。いずれ詳しく論考したい。
上記鳥越憲三郎は、これぞ狗奴国葛城王朝の主流の姿?と論じているようである。
いずれにせよ、現在の日本史学会では葛城王朝説、物部王朝説など鳥越説は、全く無視されているのである。
 文献史学という分野があるらしい。今この分野の若い古代史分野の研究者が非常に少なくなっているらしい。
何故か。理由は簡単である。中国、朝鮮の古典を漁るしかこの時代の史実を解明出来ないという先例が出来てしまっているからである。
朝鮮にもそんなにこの頃の信頼に足る文献はない。中国だって日本の偉い先人達が明治以後漁るだけ漁った後でこれ以上目新しいものが見つかる可能性は少ない。
日本の唯一とも言えるこの時代のことを事細かく記した歴史書である記紀は眉唾ものであると烙印を押した偉い先人に対抗出来るわけがない。
そこで全く異質のどちらかと言えば理系の研究者が中心となって発掘考古学と言われる分野を切り開いてきた。
文献史学と発掘考古学の研究者は相互に融合をし真実の日本古代史を見極めて欲しい。
その原点はやはり記紀である。色々な発掘による発見が記紀記述内容と照らし合わせられ、年代の狂いなどをただして欲しい。(記紀の古い時代の年代は全く信用出来ないことは筆者も同感である)
発掘考古学だけでは、極端にいえば系図は描けない。人間の絡みこそ面白いのである。
紀元何年頃の柱の跡だとか、勾玉であるとか、植物の種だとかだけでは、駄目である。
そこに歴史的ストーリーがいる。これは、文献史学の分野である。両者頑張って欲しい。 
記紀は筆者流に解釈すれば「系図」の正当性の証拠探しの本である。そこに過っての人間の姿が見えるのである。
 
 
私見のまとめ(全くの素人のたわごと)
・大和政権確立前に葛城王朝と言われるような邪馬台国の後継王国的なものが古墳時代に大和葛城地区に存在していた。(但し筆者は邪馬台国東遷説はとらない)

・葛城王朝に取って代わる新政権が誕生。これが崇神天皇であり、これこそ大和王権初代である。(3世紀末ー4世紀初め頃)

・4世紀末あたりからその葛城王朝の血筋を引く一族が勢力を伸ばし大和王権に匹敵するくらいの力をもった。大和王権との婚姻関係成立。その血筋の天皇出現。

・しかし、葛城氏の血筋を引かない雄略天皇の頃(5世紀中頃?)その葛城氏は 、滅ぼされた。

・その後葛城氏の血筋を引いたと思われる蘇我氏が台頭し、遂には大化の改新を迎える結果となった。しばらく蘇我氏の裔が権力中枢に残ったが、藤原氏の台頭により消滅。

「余談」
・纒向(まきむく)遺跡、箸墓古墳の発掘調査がさらに進展することを期待している。これぞ邪馬台国の中心地、卑弥呼の墓であったとの説がクローズアップされている。
楽しみです。
・物部氏の詳しい系図などは「先代旧事本紀」なる古い本に記録されている。しかし、この本は古より「偽書」扱いを受けている。現在では、充分信頼出来るとする学者と全く信頼出来ないとする学者と全く無視の学者に分かれるらしい。筆者はこれも充分参考にさせてもらっている。
以上が「葛城氏」関連の筆者のメモ帳からの記事である。

(参考文献)
・門脇禎二「葛城と古代国家」講談社学術文庫
・門脇禎二「古代王朝の女性」暁教育図書
・網干善教ら「古代葛城とヤマト政権」学生社(2003)
・井上光貞「帝紀からみた葛城氏」(日本古代国家の研究)
       岩波書店(1965)
・鳥越憲三郎「女王卑弥呼の国」ーーー物部王朝論