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24.忌部氏考
1)はじめに
忌部(いんべ)氏は、斎部氏とも記す。前稿の中臣氏と共に古来祭祀氏族として天皇家に仕えてきたとされる神別氏族である。祭具の製造・神殿宮殿造営に関わってきた。玉造が得意とされたが、古墳時代以後それは重要度が減り、忌部氏不振の原因ともなったとの説もある。その元祖は、記紀によると、布刀玉命(ふとだま)(太玉命・天太玉命)とされている。天磐戸(あまのいわと)神話・天孫降臨神話に、天児屋根命とコンビの形で登場する神である。忌部氏の本拠地は、大和国高市郡金橋村忌部(現在:奈良県橿原市忌部町)辺りとされており、現在天太玉命神社がある。延喜式神名帳では、名神大社になっていた。その後衰退し、明治時代には村社になった。 一方忌部氏系の地方の豪族は多数いた。中心は阿波忌部氏である。現在の徳島市二軒屋町にある忌部神社がその証拠である。鳴門市には「大麻比古神社」もある。その故地は、阿波国麻殖郡忌部郷(現在:麻殖郡山川町忌部)とされている。この流れが関東の安房国に移り安房忌部氏となったともいわれている。千葉県館山市大神宮にある安房神社がその中心とされている。(洲宮神社神主家も同じ流れである)これ以外にも出雲忌部氏・讃岐忌部氏・筑紫忌部氏・伊勢忌部氏・紀伊忌部氏など多数存在する。
ところが、歴史上名前が残った人物は非常に少なく、中臣氏とは較べようもない。平安時代初期807年に忌部氏の累孫である「斎部広成」という人物が「古語拾遺」なる本を著し、51平城天皇に奏上している。この本は祭祀氏族として古来中臣氏と忌部氏は共に同等の扱いをされてきたのに、当時の忌部氏の扱いが余りに低いものになったことを、歴史的に不当であるとして、忌部氏の正統性を主張したものとされている。
現在この文献は歴史書として、それなりの価値があるとされているが、その内容が史実かどうかは疑問であるとされている。忌部氏の神代からの国家への貢献を記してある。
忌部氏は、地方の神社の神官として永続したことは間違いないが、中央豪族としての活躍は記紀に僅かに記されているのみである。
忌部氏と麻の生産は密接な関係がある。一方岡山県備前市伊部(いんべ)の備前焼(伊部焼)も阿波忌部氏が関与しているとされる。出雲の蹈鞴製鉄の技術も阿波忌部の影響があるとか。
「織田信長」は、忌部氏の末裔である説が濃厚である。一般的には、織田氏は平重盛流の平家の出とされているが、系図的には、忌部系織田氏に重盛流の人物が養子に入ったとする。日本の神社を牛耳った中臣氏と対比する形で見ると、また異なった日本の歴史が見えてくることを期待して、本稿を記した。
 
2)人物列伝
最終的にどの流れを嫡流とするのかは、意見が分かれると思うが、筆者は「下御霊社社家」につながる流れを嫡流と判断して、人物列伝を記した。
 
・高皇産霊命
 
2−1)天太玉命(あめのふとたま)(天照大神時代)
@父:高皇産霊命(古語拾遺説) 母:千々姫?
A妻:天比理乃刀i神魂流天背男命娘) 子供:天櫛耳・天鈿女命(猿女君祖)
別名:太玉命(紀)、布刀玉命(記)、天太玉命(古語拾遺)日本書紀では高皇産霊命 と同一神ともしている。
B忌部首祖。出自は記紀には記されていない。
C記紀神話に登場。天照大神の磐戸隠れ神話。天児屋根命と一緒に神事を行った。岩戸から出てきた天照大神を岩戸の入り口に注連縄を張って戻れなくした。
さらに、天孫降臨神話で五伴緒(いつとものお)の一人として邇邇芸尊の降臨に随伴した。
日本書紀一書には、天児屋根命と共に天照大神を祀る神殿の守護神になるよう命じられたとも記されている。
記されている文献により、天児屋根命と天太玉命の上下関係が異なる。
記紀:天児屋根の方が上。
古語拾遺:天太玉命の方が上。
先代旧事本紀:天児屋根命が上?
Dこの一族は日本各地で朝廷の祭祀の場合使用する木綿、麻布などを作ったとされる。
E天太玉命に従った五神。
天日鷲命:阿波忌部氏
手置帆負命:讃岐忌部氏
彦狭知命:紀伊忌部氏
櫛明玉命:出雲国玉作氏
天目一箇命:筑紫・伊勢国忌部氏
 
2−2)天櫛耳
@父:天太玉 母:天比理乃
A兄弟:天鈿女命  (彦狭知命・手置帆負命)
B米・麻・穀を植えた。
 
・天鈿女(あめのうずめ)命
@父:天太玉 母:不明
A夫:猿田彦命  別名:大宮売命(はっきりしない)
B猿女氏祖
伊勢出身の氏族と言われている。「君姓」宮廷祭祀氏。大和国添上郡稗田(大和郡山市)に定着。稗田氏を称した。
C五伴緒の一人。
D大宮売命は天皇を守護する八神の一人である。
E天岩戸神話の女神として有名。
 
・彦狭知(ひこさしり)命
@出自不明(父:天太玉説あり)
A天太玉に従った五神の一人。紀伊忌部氏祖。
 
・手置帆負(たおきほおい)命
@出自不明(父:天太玉説あり)
A天太玉に従った五神の一人。讃岐忌部氏祖。
B傘屋の神様とされている。
 
・天目一箇(あめのまひとつ)命
@父:天津彦根命<天照大神 母:不明   (古語拾遺)
A別名:麻比止都命、明立天御蔭命、天目一命、天御影命、天久斯麻比止都命、天津麻羅
B山代国造祖。筑紫・伊勢忌部氏祖。
C製鉄・鍛冶に関係した神。
D神武朝の人物。天太玉に従った五神の一人。
E天照大神の岩戸隠れ神話・国譲り神話(紀)
F播磨国風土記に記事。道主日女の夫。
 
(参考)
・天津彦根命
@天照大神と素戔嗚尊の誓約で産まれた神。
A五柱の神の一柱。3番目。  別名:天津子命(出雲風土記)?
B記紀神話には登場しない。
C古事記:河内国造・山城国造・周防国造など多くの氏族の祖。
 
・櫛明玉(くしあかるたま)命
@父:天背男 母:不明
A出雲忌部氏祖。天太玉命に従った五神の一人。
 
2−3)天富命(神武天皇時代)
@父:天櫛命 母:不明
A子供:飯長媛・弥麻爾支
B古語拾遺によると、天富命が天日鷲命の孫を率いて阿波国に移り、穀、麻を植えさせた。
大嘗祭に木綿、麻などを朝廷に献上する。阿波の郡名を麻植という。と記されている。阿波忌部の始まりである。
C神武天皇に天種子命(中臣氏遠祖)らと仕え、祭祀を担当。橿原宮の造営にも携わった。
これらの功により大夫に列せられた、との記事あり。
D現在の橿原市忌部町がその本拠地である。忌部氏宗家が在住した。
E阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、安房国に安房社を建てた。
 
(参考)
・「天太玉命神社」(橿原市忌部町 旧名:大和国高市郡金橋村忌部)
祭神:天太玉命・大宮売命(天鈿女命のこと)・豊石窓命・櫛石窓命(手力雄命:天太玉の子供説あり)
859年従五位上。名神大社。その後衰える。
 
・阿波国「忌部神社」(別名:天日鷲神社:故地:麻殖郡山崎村、現在:徳島市二軒屋町)
祭神:天日鷲命
 
・「大麻比古神社」(鳴門市大麻町)
祭神:大麻比古命(天日鷲の子供津咋見命別名、天富命の父親とする系図もある)猿田彦説もある。
849年天日鷲神に従五位下叙位。865年大麻比古神と共に従四位下まで昇叙。
 
・安房国「安房神社」(千葉県館山市大神宮)
祭神:天太玉命 天比理乃当ス
神武天皇時代に天富命がこの地に太玉命社を建て後に安房社となった。
859年には正三位に昇叙。名神大社。安房国一宮。
 
・安房国「洲宮神社」(館山市洲宮)
祭神:天比理乃当ス
安房国二之宮
 
・飯長媛
@父:天富命 母:不明
A夫:由布津主命、子供:訶多々主命(阿波・安房忌部祖)
B斎主
 
・由布津主命
@父:大麻比古命 母:礒根御気比売(出自不明)
A妻:飯長媛    別名:阿八和気比古
B神武朝の人物。
                                          ・訶多々(かたた)主命
@父:由布津主命 母:飯長媛
A子供:伊那左可雄 別名:堅田主命
 
・大麻比古命
@父:天日鷲 母:言笞比売(出自不明)
A妻:礒根御気比売 子供:由布津主・千鹿江比売    別名:津咋見命
B鳴門市「大麻比古神社」祭神。
 
・天日鷲(あめのひわし)命
@父:天背男命 母:不明
A妻:言笞比売 子供:大麻比古・天白羽鳥・天羽雷雄 別名:天日別命、日鷲命
B天太玉に従った五神の一人。阿波・安房忌部氏の祖。
C古語拾遺に「天日鷲をして津咋見神を以て殻木(かぢのき)を植えしめ、以て白和幣(にぎて)を作らしむ」とある。麻植(おえ)神の所以。
D天富命は、この神裔を率いて安房の国に至り、殻麻の種を植え云々とある。
 
2−4)弥麻爾支
2−5)和謌富奴
2−6)佐久耳
 
2−7)阿加佐古(?−?)
@父:佐久耳 母:不明
A子供:玉久志古・古佐麻豆知(和泉穴師神社神主家)・葉耳(日置部祖)
 
2−8)玉久志古(?−?)
@父:阿加佐古 母:不明
A子供:多良斯富・意保熊(白堤首祖)
B10崇神天皇朝に供奉。(安房国洲宮小野氏所伝斎部宿禰本系帳)
C「崇神25年倭毘売命を御杖代として天照大神を佐久久志呂五十鈴川上に斎き奉る時、大幣を執持ちて供奉」の記事。
 
2−9)多良斯富(?−?)
@父:玉久志古 母:不明
A子供:麻豆奴美足尼
B12景行天皇朝に供奉。(同上)
C「景行53年伊勢に行幸し、転じて東海に入る。冬10月上総国安房浮島宮に至ります時供奉。安房の大神を御食都神云々」の記事。
 
2−10)麻豆奴美足尼(?−?)
@父:多良斯富   母:不明
A子供:佐岐大人足尼 多比古足尼
B神功皇后時代の人(同上)
C「息長帯姫皇后新羅を征し給う時、伊伎島に天神国神を斎ひ奉り、云々」の記事。
 
・佐岐大人足尼(?−?)
@父:麻豆奴美足尼
A子供:不明 多比古足尼?
B 15応神天皇ー16仁徳天皇朝に供奉。(同上)
 
2−11)多比古足尼(?−?)
@父:麻豆奴美足尼 母:不明
A子供:那美古・古止禰(小山連祖)
B17履中天皇朝に供奉。
 
2−12)那美古(?−?)
@父:多比古足尼  母:不明
A子供:達奈弖
B21雄略天皇朝に供奉。
 
2−13)達奈弖(?−?)
@父:那美古  母:不明
A子供:豊止美 別名:達撫古
 
2−14)忌部首豊止美(?−?)
@父:達奈弖  母:不明
A子供:宇都庭麿
B29欽明天皇朝より忌部首姓を賜る。
 
2−15)宇都庭麿(?−?)
@父:豊止美 母:不明
A子供:佐賀斯・右麻呂(子孫在阿波国麻殖郡)・加米古(子孫在阿波国名方郡)
B33推古天皇朝に供奉。大礼冠を授け賜る。
 
・忌部首子麻呂(?−?)
正史における忍部氏初見「日本書紀」645年神幣を賦課するため美濃国に遣わされている。出自不明。
 
2−16)佐賀斯(さかし)(?−?) 
@父:宇都庭麿 母:不明
A子供:子麿・色弗
B36孝徳朝で神官の頭(神祇伯相当)。王族・宮内・礼儀・婚姻・占いの事を司った。
(古語拾遺)
 
・色弗(しこふち)(?−701)
@父:佐賀斯 母:不明
A妻:乙名美刀i安房忌部久米麻呂娘) 子供:名代・夫岐麿・栄麿・加奈万呂・衣屋
別名:色夫知
B680年連姓となる。684年宿禰姓。
C690年41持統天皇即位式で中臣大嶋の天神寿詞の奏上に続き、神璽の剣・鏡を天皇に奉る使となった。
D正五位上。神祇大副。
E系図では安房忌部氏久米麿の娘乙名美唐妻としてその子供「夫岐麿」が安房忌部氏本流を継いだことになっている。(安房神社系図)
 
2−17)子麿(?−719)
@父:佐賀斯   母:不明
A子供:狛麻呂・馬麻呂・菟
別名:子首(こびと)子人。
B672年壬申の乱の時、大伴吹負に従い、天武天皇側として古京を護ることに貢献。
C681年連姓を賜り、さらに684年に宿禰姓となった。
D682年40天武天皇は川島皇子、忍部皇子らに詔して「帝紀及び上古の諸事を定めしめ」た。子首は中臣大嶋らとこれに選ばれた。中心執筆者の一人といわれている。
これが日本書紀編纂の元になったとも言われている。
E704年伊勢神宮奉幣使となった。              
F708年正五位下出雲守。718年従四位上に叙位。
記紀編纂での出雲神話・出雲国造神賀詞にも関与ありとされる人物。
G子孫は京にあり、神祇官に仕える。
 
2−18)狛麻呂(?−?)
@父:子麿 母:不明
A子供:虫名・鳥麻呂・比良夫
 
・鳥麻呂(?−?)
@父:狛麻呂 母:不明
A子供:不明
B749年従五位下。伊勢神宮奉幣使。神祇少副。
C信濃守。764年従五位上。
 
2−19)虫名(?−?)
@父:狛麻呂 母:不明
A子供:斎部浜成・島足
B721年斎王「井上内親王」の時斎宮の忌部となった。従八位上。
C735年弟鳥麻呂と忌部氏が伊勢神宮奉幣使になることを太政官に訴え、認められた。
しかし、757年以降同奉幣使は中臣氏以外任じられなくなり忌部氏は完全に退けられた。
 
・忌部宿禰人成(?−?)
8世紀前半官人。
伊勢神宮奉幣使。
・忌部宿禰呰麻呂(あざまろ)(?−?)
出自不明
8世紀前半官人。721年伊勢神宮奉幣使。
757年従五位下、759年奉幣使、765年斎宮頭。
 
2−20)斎部浜成(?−?)
@父:虫名 母:不明
A子供:広成・雲梯・益成
B803年申請して、忌部を斎部と改姓した。正六位上。
C遣新羅使に任じられる。
 
2−21)広成(?−?)
@父:浜成 母:不明
A子供:明成
B806年忌部氏・中臣氏双方が提訴して争い激化。朝廷は祈祷・臨時祭の奉幣使に両氏が並んで任につくべきであると裁定を下した。
C807年51平城天皇の召問に応えて「古語拾遺」一巻を撰進して、斎部氏の祭祀氏族としての過去の貢献を主張し、中臣氏の独占体制を批判した。
D808年平城天皇の大嘗祭に貢献したことが認められ、808年従五位下に叙位された。
 
2−22)明成(?−?)
・子供「伴主」の流れから織田神社神主家発生。この末裔が織田信長であるという説あり。
2−23)木上(?−?)
2−24)木工(?−?)
2−25)親広(?−?)
・京都下御霊神社社家祖。
 
3)忌部氏系図
・忌部氏概略系図
公知系図の組み合わせ。筆者創作系図。
・忌部氏神代詳細系図
公知系図(諸説多数あり)のポピュラーと思われる系図の組み合わせ。筆者創作系図。
4)忌部氏系図解説・論考
 忌部氏の「忌」は斎戒の意である。神事に携わることから起こったと伝えられている。斎戒とは「心の不浄を浄め、身の過を戒め飲食・動作を慎んで清浄・謹慎を守ること」(広辞苑)とある。これが後に仏教の伝来により「忌」が別の意味に解されることになり50桓武天皇の時803年に「斎」という字をあてることになり「斎部」と記して「インベ」と読むことになった。
忌部氏を考察する時、避けて通れない古書がある。807年に51平城天皇の下問により「斎部広成」という人物が撰した「古語拾遺」である。古来これは、祭祀氏族として中臣氏と忌部氏は対等であったのに藤原氏の台頭に併せ忌部氏の扱いが著しく低くなった、ということに対する朝廷への改善を訴える文書であるとされてきた。 しかし、最近では平城天皇からの正式の調査依頼に対する報告書である、という説が主流である。また歴史的史料としての価値も意見が分かれている。しかし、歴史的には多くの文献に参考にされており、記紀とは異なる観点での日本の歴史を知る史料として、記されている内容の真偽は別として、重要文献と考えられる。例えば天皇の神器について忌部氏は「鏡剣二種説」を主張している。一方中臣氏は「鏡剣玉の三種説」である。古語拾遺は勿論二種説である。記紀の最終的主導権を握った藤原氏は当然中臣氏説を採用したのである。また古語拾遺の内容の多くは、「忌部氏」が神代の昔から朝廷に祭祀氏族としていかに深く関わってきたかを説明し、なのに正規の歴史書である記紀では多くの忌部氏関係の貢献記事が、忌部氏に伝わっていることと対比して欠落していると指摘しているのである。
忌部氏の系図に関しては、筆者は最もポピュラーなものを若干脚色して筆者創作系図として記した。原典は、「古語拾遺」「安房洲宮神社小野氏斎部氏本系帳」「忌部神社系図」「安房神社系図」などが用いられたものと思う。神社系図の詳しい後半部は省略した。
先ず特色的なのは「古語拾遺」でもそうであるが、神代の忌部氏元祖「天太玉命」近辺の系図が非常に詳しいことである。反面その後の人物系譜が著しく薄弱でその事績は殆ど分からない。古語拾遺では途中具体的人物の記事は何もなく、36孝徳天皇朝の「忌部首佐賀斯」から以降の記事しかない。
どこまで信用出来るか分からないが安房洲宮神社小野氏斎部氏本系帳にある記事を人物列伝に記した。
この辺りの事を太田 亮は、その著書「姓氏家系大辞典」の中で概略次ぎのように考察している。
@忌部氏は、中臣氏と対抗する大部族であるが如く古語拾遺などには記されているが、比較的確実と見るべき10崇神朝・11垂仁朝以後帝紀に全く見えず。またその首領は永く「首姓」で40天武朝に連姓となった。到底中臣氏に匹敵することは出来ない氏族である。
A中臣氏は物部氏と共に、蘇我氏と仏教導入問題で争い、これに敗れ、一時衰退した。(本稿「中臣氏考」参照)この頃逆に蘇我氏についていた忌部氏が台頭してきて、忌部首佐賀斯が神宮頭などの地位を得た頃から中臣氏と対抗可能な氏族になったと見るべき。
B古語拾遺が神代以降自家の事を挙げられなかったのは、自家に何も史料が無かったからである。
C忌部氏は蘇我氏が朝廷の三蔵(大蔵・内蔵・斎蔵)の管理の実権を握り国家の財政権を握って発展してきたのに連動して発展してきた。この時、その斎蔵の管理を忌部氏が任されたと推察、これを基にして神祇界を動かし、中臣氏に対抗する力をもってきたと推察。
D記紀神話は上記の反映のみ。各地の忌部を神祇官隷属の品部として祭祀の用具調達などをやらせた。このことが、姓は首姓で低かったが実際上の勢力は甚だ大きかったことは認めざるをえない。
E各地の忌部が総て忌部氏と同じ「天太玉命」より出たというのは間違いで天太玉命は伴造家忌部氏の祖先を記したものである。
F古語拾遺などに記されている天富命の東征記事も疑義あり。元々安房国にあった出雲系の神社をはるか後年になって中央にいた忌部氏が乗っ取った結果 である。
 と断じている。
さて、筆者系図に基づいて解説をする。
先ず「忌部氏神代詳細系図」を解説したい。記紀系図では「天太玉命」の出自は不明である。ところが「古語拾遺」では、天太玉命は、「高皇産霊尊」の子供となっている。母は「千々姫」と記しているものもある。これは筆者は疑問有り。この系図から見ると、中臣氏祖である「天児屋根命」とも非常に近い関係にあることが分かる。天太玉も天児屋根も共に天岩戸神話の中心神様である。天太玉の 子供に同じく天岩戸神話で有名な「天鈿女命」がいる系図もあったので載せた。この神と「大宮売命」とが同神という説と別神という説があるようである。「猿女君」の祖とされており、元々伊勢出身の氏族で宮廷祭祀に関与、大和国添上郡稗田(大和郡山市)に定着して「稗田氏」を称した。
これらの神々はいずれも「邇々芸尊」の天孫降臨神話にも「五伴緒」として登場。大宮売命は天皇家の守護神として高皇産霊神らとともに八神殿に祀られている。
天太玉命に従った五神がこの系図に記されている。いずれも各地の忌部氏の祖となった神々である。阿波忌部の祖「天日鷲命」は天太玉の妻の兄弟である。その子供が「大麻比古」でこの2神の妻の名も記されているがその出自は残念ながら筆者の調査で見つからなかった。
この「大麻比古」の兄弟に県犬養氏の祖「天羽雷雄」がいる。(本稿橘氏考参照)
この大麻比古の子供「由布津主」と天太玉の孫「天富命」の娘「飯長姫」が夫婦となり産まれた子供が阿波・安房忌部氏の祖である「訶多々主命」である。
同じく天太玉の妻の兄弟に出雲忌部氏祖の「櫛明玉命」がいる。これ以外の五神は天太玉と直接関係が不明である。系図によっては天太玉の子供として紀伊忌部祖「彦狭知」讃岐忌部祖「手置帆負」を記しているものもある。
筑紫・伊勢忌部祖とされる「天目一箇命」は、有名な神である。出自には諸説あるようだが天照大神と素戔嗚尊との誓約で産まれたとされる「天津彦根」の子供という説を採用した。
「天御影命」とも同一神との説もある。何故この神が忌部に関係したのかは不明である。
天太玉の孫天富命が神武天皇朝の人物となっている。中臣氏の天種子命と同一扱いである。
この天富が天日鷲らを引き連れて阿波国に移動し麻などの栽培を開始したとのことである。またこの阿波忌部の一部を引き連れ東征して安房国に移り安房神社を建てて天太玉を祀ったとある。以上が古語拾遺に基づく神代ー神武天皇あたりの忌部氏の物語である。
(一部は姓氏家系辞書・古代豪族系図集覧などを参考にした)
ーー古語拾遺によると、「神武天皇の時、神物・宮物を分別せず宮の内に斎蔵を立て忌部氏をしてこれを管掌せしめることとしたが、履中天皇の代となり、三韓の貢献が相ついだので斎蔵の傍にさらに内蔵を造り、雄略朝に諸国の貢調が増加したので大蔵を立て、蘇我麻智をして三蔵を検校せしめ、秦氏を出納、東西文氏を帳簿の勘録を命じた。」とある。
三蔵が出来た時代は大化前代には既に東漢氏の基に内蔵直、大蔵直が存在し、確実に存在していたらしいが、斎蔵に関しては不明な点もある。しかし、諸情報から判断してこの古語拾遺の斎蔵の存在の記述は信用しても良かろう。−−−(黛 弘道)
となっており、時代は大化前としか言えないかも知れないが忌部氏が蘇我氏の基で斎蔵を管理していたことが窺える。
古語拾遺では忌部氏の具体的な名前が出てくるのは36孝徳天皇朝に神官の頭となったとされる2−16)佐賀斯からである。これを安房国洲宮小野氏所蔵伝斎部宿禰本系帳の系譜と較べてみたい。(筆者人物列伝参照。)2−3)天富が神武天皇の「大夫」である。この嫡流として記事が出てくるのが、2−8)玉久志古からである。10崇神天皇朝に供奉とある。その子2−9)多良斯富が12景行天皇朝に供奉。その子2−10)麻豆奴美足尼が神功皇后に供奉。次ぎに筆者系図に無い人物「佐岐大人足尼」が15応神ー16仁徳朝に供奉。2−11)多比古足尼が17履中天皇朝に供奉、その子2−12)那美古が21雄略天皇朝に供奉。2−14)豊止美が29欽明朝より忌部首姓を賜ったと記事がある。(注:当時首姓は連姓に比し相当低位の姓であった)2−15)宇都庭麿は33推古天皇朝に供奉。そして上記2−16) 佐賀斯の記事がある。これ以降は記紀などにも記事が出てくる。この本系帳の記事がどれほど信憑性があるのかは不明である。記紀での忌部氏の初見は出自が分からないが645年の日本書紀記事がある「忌部首子麻呂」である。佐賀斯とは同時代又は前の世代の人物と思われる。
佐賀斯の子供2人が忌部氏としては最も高位についた人物であろう。兄が2−17)子首で弟が「色弗」である。
子首は従四位上出雲守である。これは、壬申の乱での天武側として貢献大とされたのである。伊勢神宮奉幣使にもなっている。この辺りが忌部氏としての最盛期だと思う。姓も「首姓」から「連姓」続いて「宿禰姓」を賜っている。この子首が出雲守になったのは708年である。716年に有名な「出雲国造果安」の「出雲国造神賀詞」が朝廷で行われている。(記録上初めて)それ以前からあったかも知れない(これが最初であるとの説もある)が、明らかに出雲国が大和朝廷に服従したことを示すものであり、大和の勢力がやっと出雲国の神にまで及んだとも解され重大な記録として残されたものと思われる。この行事は平安時代初期までつづいている。これに祭祀氏族忌部氏の首長でもあった忌部子首が単に国司としての役目だけでなく何らかの形で神祇関係で関係している可能性を示唆する説もある。
一方弟「色弗」も神祇大副となっている。また安房忌部の女を妻として、その子供「夫岐麿」の流れが安房忌部の本流を継いだことになった。(太田文献ではこれは子首の子供とされているが、筆者は色弗説を採用)子首の子孫は京にあった。孫の2−19)虫名・鳥麿の時(735年)忌部氏を伊勢神宮奉幣使とするよう太政官に訴えた。中臣氏の専横が目立ちはじたのである。757年ついに中臣氏以外は公式には伊勢奉幣使には任じられなくなった。しかし、実際には忌部宿禰人成・呰麿らは759年に奉幣使になっている。
ところが、これ以降忌部氏固有の職掌につけない傾向が著しくなった。803年虫名の子供2−20)浜成が「忌部」を「斎部」と改姓することを申請して認められた。その子供2−21)浜成の時、806年中臣氏・斎部氏双方から提訴があったが、朝廷は『祈祷や臨時祭の奉幣使は両氏が並んで任につくべき』との裁定があり、表向き斎部氏の主張が認められた。その翌年に古語拾遺が広成から51平城天皇に撰進されたのである。この古語拾遺に対する歴史的価値判断は現在も色々議論があるところである。
しかし、結果的にはこれ以降も斎部氏が朝廷内で勢力を得た証拠はない。これ以降歴史的に残る人物はいなくなるのである。
系図上では京都の下御霊神社社家が斎部氏の末裔とされている。
また有名な「織田信長」が斎部氏の末裔とされる織田神社神主家(福井県丹生郡織田町、現:劔神社、延喜式内社「織田神社」)の流れであるとされている。(諸説ある)
この場合織田神社神主家に「平清盛」の子供「重盛」の孫が養子に入った関係から、織田信長は平氏の出身であるという説が主流である。この他に同じ織田神社から滋賀県犬上郡多賀町多賀にある「多賀大社」の宮司家も出たとされている。
以上が忌部氏の概略である。
忌部氏の人物で現在没年がはっきりしているのは2−17)子麿(子首)の719年没とその弟とされる「色弗」の701年没だけである。勿論生年は両者とも不明である。
要するに公的な記録に残るような歴史上有名な人物がいなかったのである。しかし、日本各地にその痕跡を多く残している氏族であったことは間違いない。先ず残されている系図から考察してみよう。「安房洲宮神社小野氏斎部氏本系帳」に記されていることを頼りにすると、2−8)玉久志古なる人物が10崇神天皇の頃の人物とされている。
崇神天皇を300年頃の人物と仮定し、2−17)子麿を700年の人物とすると、400年に10代の直系忌部氏がいたことになる。40年/一代となる。これは一般的には不合理な数字である。通常なら約20代近くの人物で継いでくるものである。ちなみに阿波・安房忌部系図の方を色弗から遡ってこの間の世代を推察するとこちらの方は15代ほどはいる。これでも少ないと思われるが未だましである。即ち忌部氏嫡流系図は非常に不完全なものであるといえる。又は10崇神天皇以降でも天皇家系図との整合性はとれていないといえる。よって上記本系帳は信憑性は低いと思わざるをえない。しかし、何らかの氏族伝承はあったものと思う。それが本系帳に記事があるような断片的な記事になったのかも知れない。これが平安時代初期の古語拾遺には記されてないのは不思議である。案外安房忌部の方が本流だったのではないかとも思われる。
確かな人物は2−16)忌部首 佐賀斯からなのである。これと上記黛 弘道の見解・太田 亮などの推定とを併せると、天太玉命なる祖神を仰いでいた一族が17履中天皇ー21雄略天皇の時代に、その頃勃興してきた蘇我氏の配下として朝廷の祭祀の道具などの管理に関与して少しづつ世代を世襲する(出来る)氏族となり、蘇我氏が勢力を増すと共に祭祀の道具に関係する「伴部」となり、部曲(かきべ)品部(ともべ)としての忌部を日本各地に率いるようになった。これが、阿波忌部・出雲忌部・讃岐忌部・紀伊忌部・筑紫・伊勢忌部であったであろう。血脈が繋がっていたかどうかは甚だ怪しい。そして蘇我・物部氏の仏教導入に関する争いに従来からの祭祀氏族であった中臣氏が巻き込まれ、敗者となり没落を余儀なくされた隙間をついて、朝廷の祭祀に関するある一定のレベルを確保(忌部首姓となる)してきた。そしてついに36孝徳天皇朝(645−654)2−16)佐賀斯が神官の頭になったことにより中臣氏と実質的に互角になったのであろう。この後蘇我氏は滅んだとはいえ、未だ藤原氏は台頭してなくて、中臣氏と忌部氏はほぼ拮抗した勢力を朝廷内で保っていたものと思われる。子首・色弗の日本書紀での活躍記事がそれを証明している。色弗が安房忌部の娘と結婚してその子供が安房忌部を継ぐ形の系図があるが、これも実際は安房神社の前身である出雲系の神社?をこのような形で忌部系の神社に変え安房忌部氏なる流れを造ったと考える方がよさそうである。2−3)天富命が阿波忌部を率いて安房国に東征したとの安房神社系の伝承はそそまま信じられない。(太田 亮説参考)ところが子麿(子首)の子供の時代になると、藤原氏の勢力が著しく強くなり比例して中臣氏・大中臣氏の地位が向上して忌部氏の祭祀氏族としての地位は急降下したのである。これが中臣・忌部争論になり伊勢神宮奉幣使に忌部氏も入る入らないという形になったのである。これを以前の状態に戻そうとしたのが「古語拾遺」であるとの説が有力であったが、現在は必ずしもそうではないとされている。
 
さて、これ以降の記述は筆者の記紀神話誕生に関する考察である。
先ず記紀神話に登場する神々と古代豪族として神別氏族に分類された主な豪族の祖先神との関係を整理してみたい。
  豪族名         祖先神        登場神話
・物部氏(尾張氏・海部氏)饒速日命(天火明命)神武東征・天孫降臨
・大伴氏         天忍日・日臣命   天孫降臨・神武東征
・紀(国造)氏      (手力雄)天道根命 (天岩戸 )天孫降臨・神武東征
・中臣氏(藤原氏)     天児屋根命(天種子) 天岩戸・天孫降臨・(神武東征)
(藤原氏守護神)     経津主・武甕槌命   国譲り
・忌部氏          天太玉命      天岩戸・天孫降臨
・鴨県主氏         建角身命(八咫烏) 神武東征
・三輪氏          大国主命      国譲り
・出雲臣氏         天穂日命      国譲り
などである。
これを鳥瞰的に見ると神別氏族と後に呼ばれるようになった主要古代豪族の 祖先神は揃って記紀神話の登場人物である。これは偶然そうなったのであろうか。記紀神話の詳しい記述は省略するが、その中心思想は天皇家の特異性・超優位性を主張するものであったことは間違いない。即ち日本の神の嫡流中の嫡流として1神武天皇が誕生する物語になっているのである。それを支える神々の中に古代豪族の有力なメンバーの祖先神が総ており、それぞれ色々な神話の活躍記事を載せているのである。記紀には出雲系神話がらみの神話もあるが、これには三輪氏以外の祖先神は登場しない。
・この神話が先にあり、各豪族がそれぞれ自分らの祖先神をそこから選択した。
これは違う。
・各豪族には元々伝承として自分らの祖先神がいた。それをまとめて見るとこのような神話になった。これも違う。
・元々大王家に骨格となる神話が伝承されていた。それに徐々に古代豪族の祖先神が追加されていって記紀神話のようになった。そうのようだが、これも違う。
◎大王家の正統性を主張する神話の骨格をどこかの時点で意図的に創作する。次いで各有力豪族に伝わっている祖先神の役割を割り振って大王家との関係を明確化する神話を創作習合する。さらに実際に既に存在していた出雲神話を変形させ上記神話と整合させて体系化する。このようにして出来たものをさらに当時の政治状況、豪族の力関係、役割、後代への影響力の効果、過去の歴史の反映と消去など総合的に考慮して出来上がったのが記紀神話である。これが史実に近いと推定。
 ではいつ頃このような神話が出来たのであろうか。この問題は古来色々議論されてきた。江戸時代から記紀神話創作説はあったとされる。明治以降終戦までの皇国史観は別として、戦後も諸説ある。筆者は浅学なので詳しくは分からない。
古代豪族のことを色々漁っていると天皇家中心の系図・神話・歴史に関して戦後有力説となっているものとは少し異なったものが見えてくる。その観点からこの記紀神話誕生について概括的な考察をしてみたい。細部についての整合は未だとれていないいないが、ここでは、忌部氏関連の資料を主に参考にした考察をしておきたい。
先ず最初に記紀編纂に先立った年代別関連諸事象の整理をしておこう。
・29欽明天皇朝(539−571)最初の「帝紀」「旧辞」が造られた(諸説あり)。この時代に忌部氏に首姓賜姓。
・31用明朝ー33推古朝頃(585−628)出雲国王が大和朝廷の出雲国造となった。(門脇禎二説)(諸説あり)
・608年隋国外交書に天皇号初出。
・620年33推古天皇朝の時、聖徳太子らが中心となって「天皇記」「国記」を編纂した。併せて「臣連伴造国造180部並びに公民等の本記」を録す。
・645年「乙巳の変」で上記「天皇記」「国記」は焼失。
・645年36孝徳天皇朝(645−654)に忌部首佐賀斯が神宮頭となる。
・659年日本書紀で初めて出雲国造記事。
・672年「壬申の乱」
・673年40天武天皇朝(673ー686)
・681年忌部首姓が忌部連姓となった。
・682年天武天皇は川島皇子・忌部子麿(子首)らに「帝紀及び上古の諸事」の見直しを命じた。(日本書紀編纂事業の開始の年とも言われている)
・685年伊勢神宮公認化。
・687年41持統天皇朝(687ー697)
・689年藤原不比等31才で判事として初めて任官。
・691年18氏に墓記の提出を命じる。(物部氏考参照)
・692年持統天皇伊勢神宮参拝。(三輪氏考参照)
・694年藤原京遷都。
・697年42文武天皇朝(697ー707)
・701年大宝律令制定。国名「日本」正式化。不比等大納言となる。
・702年持統上皇没す。
・707年43元明天皇朝(707−715)
・708年忌部子麿(子首)は出雲守として出雲に赴任。不比等右大臣となる。
・710年平城京遷都。
・712年古事記編纂。
・715年44元正天皇朝(715−724)
・716年出雲臣果安が「出雲国造神賀詞」を朝廷に行った。
・719年忌部子首没。
・720年日本書紀編纂。不比等没す(63才)
・735年忌部・中臣氏争論記事。
・782年50桓武天皇朝(781−806)
・807年「古語拾遺」編纂。
・815年「新撰姓氏録」編纂
・827年頃?「先代旧事本紀」編纂
<記紀神話誕生に関する考察>
従来からの諸説でハッキリしていない事項整理
イ)古事記に記された神代神話は、29欽明天皇の時に編纂されたとされる「帝記」「旧辞」に記されていたであろう神話をそのまま踏襲したものであったのか。
ロ)出雲神話は、どの段階で記紀神話に入ってきたのか。
ハ)天照大神は、どの段階で記紀神話に入ってきたのか。
ニ)神武東征神話(筆者はこれも神話として扱う)、どの段階で記紀神話に入ったのか。
ホ)各豪族の始祖神が記紀神話に入ったのは、どの段階であるか。
へ)記紀神話の最終骨格が出来たのはいつ頃であるか。
などである。
@日本が、はっきりとした独立した国家観を持つようになったのは33推古天皇朝である聖徳太子の時代以降であろう。
少なくとも21雄略天皇頃(倭の五王時代)までは中国と対等という概念は薄かったと思う。よってこの頃には、日本独自の体系化された国家神話は存在しなかったのではないか。
断片的な天皇家始祖伝承みたいなものは以前から既に有った可能性は否定出来ないし、出雲国の国引き神話の類みたいなものは、日本のそれぞれの地方にあったとは思うが。
A中国・朝鮮半島などからの文字、書物が輸入され、仏教経典類もどんどん入り出し、遣隋使なども派遣され、日本のエリート達がこれに触れ、日本の本当の姿を認識し出したのもこの推古朝時代以降であろう。対外的にも独立した国家である体制を築く必要性に迫られた。
B宗教的な意味で、それまでの日本人が信じてきた日本の神々と仏教との対比が行われたのもこの頃である。29欽明天皇ー33推古天皇の時代に日本で信じられていた神々は、原始的自然神以外にどんな神々がいたのであろうか。出雲の神々は存在していたことは間違いないようである。問題は記紀でいう天神・天孫系の神々である。
C例えば記紀神話の主役である天照大神でさえ29欽明朝ー33推古朝の時代に本当に実態として各豪族・国民は認知するレベルであったのかよく分からないとの説が多い。伊勢神宮の存在も位置づけも怪しげである(記紀では崇神天皇ー垂仁天皇時代の記事に登場する)。伊勢神宮・天照大神が公認されたのは685年であり、これも記紀神話創作に関係があるであろう。即ち天照大神が神話に組み込まれたのは、この頃であろう。勿論天皇家がそれ以前から祖先神(これが天照大神とする説には多くの疑問有りとの説有力)・守護神的なものを有し、伝統的にそれを祀っていたことは間違いないであろう(三輪氏考参照)。またそれにまつわる断片的な伝承を有していたであろうことは、他の古代豪族にも断片的伝承があったことから容易に推定できる。これが即、記紀神話ではないであろう。
Dこの頃各豪族も自分らの独自の伝承に基づく祖先神、守護神を祀っていたことも間違いないであろう。また新興の豪族等は氏姓制度の上からも自分らの祖先神・系図などを整え
なければならない背景があった。
問題は、天皇家、各豪族がそれぞれ独立して有していたであろう祖先神、守護神の類及び伝承が記紀に記載されているような形の概念で認識されていたかどうかである。同じ事は出雲の神々にもいえる。
E出雲国が大和朝廷に完全に服したのは、門脇説によると6世紀末から7世紀初めである。
よって記紀神話の出雲国譲神話・出雲神話が挿入されたのはこれ以降であろう。但し原初的なこの種の伝承的なことは天皇家に残されていた可能性は否定しない。忌部子首が出雲国司として赴任したのが708年であり、これ以降712年までにさらなる調整がされた可能性あり。
F古代豪族が氏姓制度の進展に伴い必然的に系図的要素を文字が無くても伝承してきたことは頷ける。勿論天皇家はさらに強力にその概念があったことも理解出来る。よって各豪族が祖先神と断片的にではあろうが出自を明らかにしようと試みたことであろう。
どの段階からこのようなことの必要性がある豪族的立場になったかは、各豪族毎にその時期は異なるであろう。通常はその祖先神は、はるか昔で系譜を辿ることなんて到底無理である。だから神なのである。発音だけでしか伝承不可能な神なのである。何の神か位は伝わったかもしれない。しかし、その神がどの神の子供でどの神と兄弟なんて個々の豪族は
知っていたかは、甚だ疑問である。そのそれぞれ始祖神から当時の各豪族に繋がる連続した系譜が史実であったと信じる豪族が幾つあったであろうか。どこかで必要に迫られ断片的祖先伝承の辻褄合わせが行われた事ぐらい認識していたと判断する。
聖徳太子が官位12階を定めたのには、それなりの背景があった訳である。それでも永年培われてきた氏姓制度を切り崩すことは至難なことであったらしい。
この対策として出自が本当は、はっきりしない新興豪族の類に一種の「たが」をはめる方策が必要となった。これが記紀神話みたいな物語を創作せざるをえなかった背景の一つにあったとは考えられないだろうか。原初的創作神話は、天皇家誕生神話及びその系譜であろう。これに重要な古代豪族の類の始祖神を付随的に配置していったものと思われる。この神話に登場しない神を祖とするような豪族又はその系図に記されていない氏族は、新たには氏姓制度の恩恵が得られないようにしたのである。
ところがそれ以降それに漏れた氏族も次々とこの神話系図の中に入り込んできた。これが徐々に整備され、他の要素が盛り込まれたのが712−720年完成した記紀神話及び系図の類であると考える。
G古代豪族の中で一番はっきり系図的に記録が残されているのは、物部氏(尾張氏)である。勿論これも信じる信じないの世界である。しかも記紀が出来て以降これとの整合を図っているので信憑性に疑義ありとする説多し。神話時代は「先代旧事本紀」独自の部分もあるが大勢は記紀と同じである。
H記紀に記載がある出雲系神話と「出雲風土記」(733年完成説有力)に記載のある出雲神話とはかなりその内容が異なる。当たり前であろうが、風土記神話の方が国家的視野を考慮に入れてないだけ、原初的神話に近いのではと考える人が多い。
I日本書紀は、本文と異なる説もかなり併記している。色々な説が当時存在していたことは容易に想像される。しかし、そのような形式をとることによって本論の正統性をより強調しているようにも思える。本論と全く異なる「その一書」の類が、皆無であると筆者は判断した。この事実が逆の裏付け証拠である。即ち、本文と全く異なる異説は、完全に排除されたか、10崇神天皇以降の大和政権のもとで完全に駆逐されていたかである。
J古代豪族が、天皇家も含め、その真の祖先を辿れば(実際は辿れぬが)それぞれ東南アジア、中国大陸各地、朝鮮半島各地、シベリア各地、などバラバラな血族の血を受け継いだ混血氏族で、それぞれバラバラに日本列島に渡来し、さらに混血を繰り返し弥生人となった氏族の末裔である (勿論日本古来からいた縄文人とも混血しながら)ことは、現代からみれば明らかである。よって当時としても、豪族毎に異なった祖先伝承を持っていたとしても決しておかしくはない。その発展の過程でより強い豪族に習合してきたことも容易に想像出来る。それらは祖先神を統合の象徴として祀ってきたであろう。これは記紀神話とは全く異なっていても不思議ではない。記紀神話の各豪族の祖先神の有りようは逆に異常である。
K即ち記紀神話は完全に意図的に創作されたものであると言わざるをえないのである。但し神々の名前・系図的なものが創作であっても、そこに記された事象はその総てが全くの創作とは言い切れないもの、伝承記録みたいなもの、伝説的なものも含まれていると考える。
L記紀神話は、天皇家は勿論、神話に登場した神々を祖として仰ぐ古代豪族にとっては非常に好都合な原典・お墨付きが与えられたもので、その後の氏族維持に大いに活用したことであろう。その典型例が藤原氏・中臣氏である。天皇家にとっては盤石な国家統治の礎が出来たことになったのである。その意義は非常に大きい。
Mこの記紀神話の構築には相当の年数がかかったものと推定する。29欽明天皇朝くらいから始まり推古天皇から数代の天皇朝を経て、最終調整は、天武朝・持統朝までかかり、藤原不比等、持統天皇も関係したであろう。
 一部の学者の間で主張され多くの賛同者がいるとされる、「記紀神話は、藤原不比等こそ創作・改竄の中心人物・張本人である」という説(主に上山春平:本稿参考文献参照)がある。この説は非常に魅力的な説に思えるが、この説には多くの反論も出されている(主に井上光貞ら)。筆者はそれらの反論も参考にはしているが、古代豪族サイドからの諸々の系図調査及びアマチュア感覚ではあるが、上記説には組みせない。
各豪族には、伝承的とはいえ神話部分と切り離せない系図的な過去の記録が記紀編纂時までに既に存在しており、多くの氏族・系図がこれに絡んでくるので短期間での創作だけでは各古代豪族までの調整は、不可能と判断するからである。特に系図は複雑怪奇である。それぞれの主立った豪族の末裔(例えば物部氏・大伴氏。)も未だ勢力をそれなりに維持していた時、不比等が独占的地位を確立する前にその骨格ができていたものと推定する。
忌部氏などは逆にやっと力を得て、神話の中で活躍の舞台を造るチャンスに遭遇した氏族だった観が拭えない。子麿(子首)が681年に帝紀・上古の諸事を定める中心執筆者に選ばれたことはそれを暗示している。
N古事記と日本書紀とで神話部分は多少凸凹はあるが、マクロに見れば一致している。古事記偽書説も古来から根強くあるのもこのせいかも知れぬ。しかし、古事記は僅か2年程で完成したのである(712年)。「稗田阿礼」が何かの元になる情報を暗記していたとされる。この元情報は29欽明天皇朝6世紀中頃に元々編纂され、その後色々改竄が加えられ諸家に伝えられたとされる「帝紀」「旧辞」(編纂時期諸説ある)が主なものであったという説有力。天皇家に伝わっていたものと、各豪族に伝わっていたものは、古事記編纂の頃になるとかなり違ってきており、その整合を太安麻呂がはかったのであろう。ともいわれている。しかし、その作業は余り多方面にわたったものではないことがこの短期間に編纂されたことから窺える。
一方、620年33推古天皇朝に聖徳太子らが中心となって「天皇記」「国記」を編纂した。しかしこれらは645年「乙巳の変」の時蘇我蝦夷宅と共に焼失されたとされる。天皇記・国記の中にも神話の原型みたいなものがあったのではなかろうか。帝紀・旧辞の中にもさらに古い形の神話的なものがあったことは間違いなかろう。併せて氏族系図の類と思うが「臣連伴造国造180部並びに公民等の本記」なるものも推古朝には録されている。記紀はこれらも下地にしたと考える。いずれも現存してないので確かめようがない。勿論どの段階の神話も天皇家中心のものであったことは容易に想像される。
O記紀には天太玉命が「忌部首」の祖と記されている。忌部氏が首姓から連姓になったのは681年である。これは少なくとも神話のこの辺りの記述の骨子は、681年以前に出来ていたことを傍証している。即ち忌部氏始祖神である天太玉命が登場しない原初的神話はさらにそれ以前に既に存在していたことが推論される。
ちなみに忌部氏本系帳によると忌部氏が首姓になったのは29欽明天皇朝(539?−571)とされている。大雑把にいえば570−680年の間に神話の天太玉命の記述が入ったと考える。
記紀神話は、幾つかの別々の話を繋ぎ合わせ、時系列的に整合をとった物語になっている。
この中で重要な位置づけがされている天岩戸神話・天孫降臨神話において中心的役割が記事として残されているのが、後に祭祀氏族となる中臣氏の祖神「天児屋根命」と忌部氏の祖神「天太玉命」である。神話全体の流れから見ればこの2神は異常な扱いがされている。
これこそこの部分の神話を創作した時点の朝廷内での中臣氏・忌部氏両氏の立場の反映と思うべきである。忌部氏が朝廷内で祭祀を司る長官となったのは孝徳朝(645−654)のことである。これから44元正朝の719年頃までが最盛期であったと判断するが、忌部首姓は681年までである。よって新興豪族である忌部氏が中堅豪族であった中臣氏とほぼ同格の扱いで天太玉命を忌部首祖として神話に登場させえたのは、680年以前と考えられる。
一方、「古語拾遺」の中で忌部氏側の伝承を日本書紀編纂後約90年後に記した内容は、記紀の内容とマクロに見れば同一である。
ということは、忌部氏が関与したであろう創作された天岩戸神話・天孫降臨神話と記紀神話はほぼ一致していたことを意味する。但しそれでも古語拾遺の中で忌部氏伝承と記紀神話の内容が一部異なることを指摘している。例えば天孫降臨の際の神器の件などである。
(忌部説:神器は鏡・剣の2種、に対し、記紀は鏡・剣・玉の3種とされている)よって記紀神話の重要部分である天岩戸神話・天孫降臨神話などは不比等がその国家思想を盛り込むために改竄出来たとしてもその余地は僅かであったと推定する。
古事記には当時存在したと思われる氏族に関連する始祖伝承記事の類が204氏族も記載されている。一方日本書紀には111氏族である。この中で首姓に関しては古事記4氏族日本書紀7氏族と僅かである。その中の1つが忌部首氏である。古事記の方がより古い伝承、豪族の記録の類を記載しているものと思われる。欽明朝以降各豪族が競って旧辞の中に自分らの始祖をはめ込んできたことが窺える。これを691年18氏族の家記を提出させ当時の各豪族の勢力・政治状況も考慮して調整・整合した結果が日本書紀になったのであろう。但しこの段階では、記紀神話の主要骨格の変化があったとは思わない。
筆者が未だスッキリしないのは、神代に繋がる古代豪族(後の神別氏族)の始祖神の出自系図の類がいつ頃形成されたかである。
記紀では天孫系についてはスッキリ記されているが、各豪族の始祖神の出自は、ハッキリ記されていない。ところが「新撰姓氏録」編纂時には、それも詳しく記されるようになっている。古語拾遺・先代旧事本紀でもしかりである。これは何を意味するのであろうか。
1.記紀編纂後各氏族がそれと整合した形で神代についても系図創作をした。
2.欽明朝ー推古朝には既に各豪族も神代系図を有していた。例えば「臣連伴造国造180部並びに公民等の本記」には既に始祖神及び各神代系図が記録されていた。
3.日本書紀の系図1巻が現存していないが、その中には主な氏族の神代系図も天皇家系図とともに記載があった。
などが考えられる。筆者は2.に近いと判断している。
現在公知になっているような各氏族整合がとれていたかどうかは分からぬが氏姓制度の因子は現在の我々の想像を超えるものであったろう。出自のはっきりしない氏族の朝廷内での地位は全く不安定であったであろうことは容易に想像される。長年月かけて各豪族間の調整が進んでいたのではなかろうか。天皇家の存在は、他の氏族とは異なっていた。後に
皇別氏族と言われた天皇家から別れたと伝わる氏族は、それなりにハッキリしていたのであろう。ところが後の神別氏族とよばれた氏族の出自問題は、当事者には非常に深刻な重大な事柄だったと判断している。よって、各豪族は天孫系図とは異なる天神系図みたいなものをどこかの段階(その時期は豪族毎に異なるであろうが、欽明ー天武の間)で創作していたものと考える。その一部は推古朝の「臣連伴造国造180部」に記されていたものと推定する。
筆者は記紀の神武東征の記事も記紀神話の一つとしてとらえている。この記事の中にも多くの古代豪族の始祖達が登場し、活躍している。
この記事も古来色々な議論がされており、現在も続いている。これも記紀神話誕生とほぼ同時期に創作されたものと判断している。それがいつ頃かはよく分からない。649年に大伴長徳が36孝徳朝の右大臣になっている。また壬申の乱で功を挙げた大伴吹負・馬来田らが没したのが683年である。よってこの頃までには神武東征の功臣の一人として大伴氏の祖とされる「日臣」が神話に導入されたであろうと推定される。天武朝までには、この神話も骨格は出来ていた。
筆者は記紀神話は、練りに練った記紀としての根幹部分の一部と理解する。
国家としての思想が神話という形で象徴的ではあるが、キチット整理して記されてある。
この時代の朝廷・古代豪族・政治状況などから判断して、現代人である我々がどう思うかは個人個人異なるであろう。筆者は少なくとも学校教育の中でその内容を殆ど教えてもらえなかった。今となってはそれが幸いしてクールにこれらに接しられる。
筆者は、この時代にこれだけ練りに練った記紀神話を創作したご先祖さんにある種の敬意を表したい。世界に誇れる国家創作神話である。こんなのは神話ではないと主張する学者もいる。しかし、これ以降これ以上の神話が日本に残されていない。先代旧事本紀・古語拾遺に記された神話も記紀神話の範囲を逸脱するものではない。
勿論単なる神話ではない。これが根本となって世界に類を見ない「天皇制」が現在まで続いたことは間違いないと筆者は考える。それほどの威力が後年出てきたと考える。
今から、あれは間違いであった、嘘であった、全くの作り話であった、と言ってもどうすることも出来ない。我々は過去の歴史の真実を知り将来に備える必要がある。
蘇我氏が当時の天皇家の地位を脅かしたことから、より安定な国家を願った戦略的神話だったとも判断する。そうなら蘇我氏滅亡後に現存に近い形になったとも思える。
記紀神話の基本骨格の誕生は、645−686年の間となるがいかがであろうか。勿論藤原不比等(659−720)の影響が全くなかった時代である。(不比等が政治の場に顔を出すのは689年以降である)
一方記紀編纂に先立ち691年に当時の有力氏族18氏(忌部氏は含まれていない。本稿
物部氏考参照)の家記墓記の類の朝廷への提出が求められた。これらの資料も参考にして
さらなる追加・削除が繰り返されたのである。この際家記などの廃棄を求められた氏族も
あったらしい。(朝廷の方からみて余りに不都合な家記の類は後世に残らぬようにした)
P以上を要約すると、天皇家・古代豪族各氏らが営々と語り継いできたであろうそれぞれの祖先伝承・伝説の類を国家意識の高揚に伴い、欽明朝・推古天皇朝以降徐々に朝廷サイドに集約習合する活動が潜在的に進んでいった。その過程でバラバラであったこれらの伝承の類が天皇家を中心とした国家統合の象徴として、神の中の神(天照大神)、天孫族、神武天皇、などの創造(それまでに既に、はっきりはしてなかったものの天皇家が他の豪族とは異なる特別な一族であることは、広く国内に認知されていたことだと、筆者は認める。)及び天皇家とは異なる天神族の創造をはかり、日本という国名(これもいつからかは、諸説ある。聖徳太子以降であることは間違いない。701年「大宝律令」以降正式に対外的にそうなっていたとの説主流)の誕生、伊勢神宮という国家神を祀る中心のお宮の公認化(創建の時期は、謎である。諸説ある。筆者は公認化は、天武朝685年と判断する。)、「天皇」号の一般化(初出は608年の「隋」外交文書とされている)への準備が着々と進んだ。
原初的な神話は、欽明ー推古朝頃に出来たであろうが、それは記紀神話ほど完全ではなかった。そして紆余曲折はあったであろうが、「中大兄皇子」から天武天皇の時代には、その天神族も含めた基本骨格が出来たのである。
但し、天智天皇本人はこれら修史事業には熱心でなかったとされている。最後まですっきりしなかった出雲国の神々問題もこの辺りで統合された。
この間に各豪族毎に著しく改竄がされ当時の天皇家にとっても許容の限度を越えた豪族も幾つかあったであろう。彼等は競ってこの古い帝紀・旧辞の類の神話の中に自分らの始祖神を勝手に組み込んでその氏族の出自を明確化するのに利用したことが想像出来る。日本人の横並び思考の原点みたいな行為をやったのである。生きるための知恵だったのである。と推定する。
しかし、この帝紀・旧辞の改竄が朝廷の許容を超えてきたものも発生したので、40天武天皇は国としての正式な歴史書の編纂を勅した。681年以降朝廷内で見直しが始まり、追加・削除が繰り返され、天武天皇朝(673−686)では詳細部分は別にすれば確定していたと推定される。そして古事記(712年)日本書紀(720年)の記紀神話の形になったのである。
この686年から712年の間に神話の根幹部分が大幅改変されたとは思わない。
以上が記紀神話誕生に関する筆者の現段階の見解である。
<この部分のまとめ>
・記紀神話の原初部分(記紀神話のように整ってはいない)
ーーー欽明朝「帝紀」「旧辞」ー推古朝「天皇記」「国記」(539−620)
◎記紀神話の基本骨格(天照大神・主要豪族始祖神・出雲神話・神武東征神話などでの役割なども決まる)ーーー645−686年
・記紀神話の調整(出雲神話・国譲り神話部などの調整・整合)ーーー686−712年
・記紀神話最終調整(始祖伝承などの一部割愛など)ーーー712−720年
 上記記紀神話誕生の筆者の推論は、忌部氏だけでなく他の古代豪族の検討も参考にした結果である。日本書紀編纂後各古代豪族の末裔達が自分らの伝承された系図の類との整合性をとる細工をしたことは容易に想像される。しかし、譲れない基本部分はどこかに残されているはずである。それを類推することが日本古代史の謎を解く道の一つに繋がると筆者は確信している。
 
5)まとめ(筆者主張)
@忌部氏(斎部氏)は天太玉命を祖神とする神別氏族であり、古来中臣氏とともに祭祀氏族として朝廷を支えてきたとされる。しかし、その真の姿は中臣氏とは歴史的にも実力的にもかなり見劣りのする古代豪族であった。
A蘇我氏の勃興、台頭とともに、朝廷の三蔵の内の斎蔵を管理する氏族として発展してきて、全国の忌部を配下にもって、祭祀用具を調達し、勢力を伸ばし、36孝徳天皇朝(7世紀中頃)になってやっと中臣氏に対抗出来るレベルの祭祀氏族となった。しかし、その姓は首姓であり連姓ではなかった。
B忌部子首(?−719)の時が忌部氏として最盛期であった。従四位上出雲守である。このことからも忌部氏の朝廷内の位置は明確である。大臣まで出した中臣氏とは較べようもない。
C忌部氏系図は神代「天太玉命」から残されている。しかし、筆者判断では、残されている系図は、不完全であり、かつ祖神「天太玉命」のみ異常に詳しい神話的事象記事が記紀「古語拾遺」などに残されているが、その後の忌部氏関連の公的記事は非常に乏しい。
これは推古天皇頃から天武天皇朝くらいまでの忌部氏の祭祀氏族としての活躍を記紀神話・祖先伝承の形に反映させた結果であり、史実とは全く関係ないと考える「太田 亮説」に組する。
D全国に分布する忌部氏は、古代豪族忌部氏と血族であるとは思えない。一種の習合が行われた結果であるとする方が妥当であろう。
E807年に斎部広成が撰した「古語拾遺」は、歴史的に価値ある文献である。史実として価値あるというよりも、当時の豪族の末裔が自分等の祖先をどのように考えていたか、氏族伝承というものがどんなものであったかを知る上で重要である。
F忌部氏は、藤原氏の台頭、それに伴う中臣氏の祭祀部門の独占支配のもと、歴史上からその姿を消した。平安時代初期までである。
G本件とは直接関係ではないが、忌部氏の記事などからも推定して、記紀神話誕生の時期を聖徳太子ー天武天皇までの間であるとした。
徐々に国家観の形成につれて発展させ、645年−686年の間に基本骨格が出来たものと推定する。
藤原不比等・持統天皇が記紀神話創作の張本人説には組せない。最後の調整的創作には関与したとは思うが。
即ち、『天皇家は他の豪族とは異なり、神の中の神「天照大神」の嫡流中の嫡流「神武天皇」の嫡流で万世一系の血脈を有し、姓も無く、いかなる他の氏族もこれを犯すことは許されない』という「天皇」思想を、日本国誕生神話と、他の有力古代豪族は総て神代の昔からその随臣の出身であるとした物語を併せた神話の基本骨格を天武天皇時代末頃までに永年にわたって朝廷内のエリート達が醸成・創作したのである。と推論する。
41持統天皇ー文武天皇時代は、それに磨きをかけた最終調整の時代(これも大変だったことは想像される)だったと判断する。
 
6)参考文献
・「日本神話の英雄たち」林道義 文芸春秋(2003年)
・「埋もれた巨像」上山春平 岩波書店(1997年)
・「天皇制の深層」上山春平 朝日選書 朝日新聞(1995年)
・「神々の体系」上山春平 中公新書 中央公論社(1994年)
・「続・神々の体系」上山春平 中公新書 中央公論社(1994年)
・「日本の神々」松前 健 中公新書 中央公論社(2001年)
・「藤原不比等」高島正人 吉川弘文館(1997年)
・「聖徳太子」坂本太郎 吉川弘文館(2000年)
・「聖徳太子」田村圓澄 中公新書 中央公論社(1999年)
・「日本の神々の辞典」薗田稔ら 学習研究社(1997年)
・「古代史の秘密を握る人たち」関 祐二 PHP研究所(2001年)
・「日本神話と古代国家」直木孝次郎 講談社(2001年)
・「古代豪族の研究」別冊歴史読本 新人物往来社(2002年)
・「姓氏家系大辞典」太田 亮 角川書店
・「古代出雲」門脇禎二 講談社(2005年)
・「神話の二元構造とヤマト王権」溝口睦子 古代史の海(2006年)
         など
                         (2006−12−6脱稿)