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19.東漢氏考(含 西漢氏・西文氏)
1)はじめに
 『思ひ給はば我が行く方を見よやとて。地主権現の御前より。下るかと見えしが。下りはせで坂の上乃田村堂の軒洩るや。月のむら戸を押し開けて内に入らせ給ひけり内陣に入らせ給ひけり。』               
作者「世阿弥元清」の有名な謡曲「田村」の一節である。場所は京都東山の清水寺である。
清水寺は、京都観光のメッカである。この由緒ある寺の創建者は「延鎮」という奈良仏教系ではあるが観音信仰の僧である。そのパトロンが平安時代初期の日本で最初の征夷大将軍として50桓武天皇の信任厚かった「坂上田村麻呂」である。その坂上氏の氏寺が清水寺なのである。
この坂上氏こそ、渡来系氏族として「秦氏」と双璧の「東漢(やまとのあや)氏」の本流末裔である。坂上田村麻呂の名前を知らぬ人はいないであろう。しかし、この偉人の出自が渡来人系の東漢氏であることを知っている人は少ない。
記紀では秦氏と同じく15応神天皇から21雄略天皇の時代にかけて朝鮮半島の百済方面から新しい色々な文化・技術をもって渡来して来たとされている。
この頃相前後して、「東文(やまとのふみ)氏」「西文(かわちのふみ)氏」「西漢(かわちのあや)氏」が渡来してきている。筆者はこれら東西文氏・東西漢氏が互いにどのような関係があるのか、系図的にどうなっているのか、色々調査したが、実に分かり難い。
一番後々まで勢力を持ち系図的にも真偽は別にしてはっきりしているのは、東漢氏だけであることが分かった。
はじめに大雑把な従来から言われてきた東西文漢氏の関係を述べておきたい。
@15応神天皇の頃から21雄略天皇時代にかけて、朝鮮半島から日本列島に次々と渡来してきた中国漢国の末裔だとする漢人(あやびと)一派を総称して漢氏(あやうじ)と言った。
A朝鮮半島にはBC108年ーAD313年まで中国王朝の直接支配地が存在した。
履歴は色々あるが、最終的には、楽浪郡(現在の平壌辺り)・帯方郡(現在のソウル辺り?)の2郡があった。ここに旧漢民族の多くが本土を追われて住んでいたとされる。
B上記2郡も高句麗国の勃興、進展によりついにAD313年に滅び漢系の多くの民がさらに南のその後の百済国などに流民となってやってきた。
C楽浪郡には前漢高祖の子孫であるとされる「王氏」がいた。帯方郡には後漢霊帝・献帝の子孫である一族がいたとされる。漢から魏への政権交代の時に朝鮮における漢の領地であった帯方郡に逃れた。とされている。
D応神天皇の頃(4世紀末ー5世紀初め?)帯方郡出身の阿智王らが日本列島に渡来する。大和国飛鳥地方を本拠とする。
E同じく応神天皇の頃阿智王に続いて楽浪郡出身の王仁らが日本列島に渡来する。河内国を本拠地とした。
F阿智王系も王仁系も共に漢系とされ総称して「漢氏」と称された。
G上記2流の漢系氏族を区別するために大和国に住する阿智王系の氏族を「東漢(やまとのあや)氏」と称し「直」姓が与えられた。河内に住する王仁系の氏族を「西文(かわちのふみ)氏」と称し「首」姓が与えられた。これが更に西漢(かわちのあや)氏と呼ばれるようになった。
H両漢氏は当時としては最先端の文化・技術を有していた。その中で特に文字・文書
関係の仕事を朝廷から引き受けてやっていた氏族に文(書)(ふみ)氏の姓が与えられる
これは東西の漢氏にそれぞれ、そのような専門集団ができたので、東文(やまとのふみ)
氏、西文(かわちのふみ)氏と称するようになった。
I当初は東西漢文氏はほぼ拮抗した勢力であったようだが、時代と共に東漢氏のみが歴史上重要な位置づけとなった。
 
さて、東西漢氏は、秦氏と異なり、中央政治と密着した活動記事が記紀にも多く残されている。15応神天皇以降の中国との外交文書作成(倭の五王関係)にも関与してきたらしい。17履中・21雄略天皇朝から始まり勃興してきた蘇我氏の配下として活躍し、6世紀末から7世紀末までが東漢氏の最盛期とされている。
本稿では「東漢氏」を中心に上記関連文漢氏についても考察を加えたい。日本に漢字の文化を持ち込んだのも「論語」を持ち込んだのも彼等一派らしい。また東漢氏の流れから
大蔵氏が発生し、九州の戦国大名の多くを輩出した。また平安時代以降宮中・公家関係の典薬関係のトップ(典薬頭)は丹波氏という坂上氏流の公家が興り錦小路家という堂上家となり明治まで続いた。秦氏と異なりそれぞれ詳しい系図が残されている。
 
2)東漢氏関連人物列伝
東漢氏の嫡流とされる坂上氏系図なるものが知られている。これに沿って坂上氏流を本流として列伝を記す。坂上田村麻呂流を嫡流とする。但し阿智王を初代として記す。
姓が「直」系の氏族で西漢氏と区別されてきた。「直」が付く西漢氏はいない、とされてきた。
・後漢霊帝
・献帝
・石秋王
・康王(別系図)
 
2−1)阿智王(阿智使主)
@父:石秋王? 母:不明
A倭漢直の祖。阿知吉師・阿知直とも記す。阿知使主(あちのおみ)
Bその子都加使主(つかのおみ)と共に17県の人夫をあげて渡来。併せて七姓の氏*をも率いてきた。(日本書紀応神紀20年)漢直の祖ーーー参ひ渡り来つ(記応神天皇段)
Cまた応神37年には、縫工女を求めて朝鮮に渡り、工女を16仁徳天皇に献上。
呉に派遣された。応神41年女性数名を連れて帰った。その一人を宗像大神に奉った。
D住吉仲皇子が殺そうとした去来穂別(いざほわけ)(後の17履中天皇)を助けて河内から大和へ逃した。この功績により政治の中枢部に進出したとされる。蔵官に任じられる。
E本拠地:大和国高市郡檜前郷。続日本紀:詔により桧隈の地を賜った。現在の奈良県明日香村。
F履中天皇の頃、王仁とともに内蔵の出納を扱った。(古語拾遺集)
G倭の五王時代413−475年に12回にわたって中国王朝に貢物をしている。この時の文書の作成に関与した可能性大とされている。
 
*七姓の氏
・段姓ーーー高向・評・郡・民氏など
 
高向玄理(黒麿)(ー654)
@父:古足 母:不明
A河内国錦部郡高向邑が本拠地の高向村主姓。高向史姓。魏国武帝の後裔とされている。
B608年遣隋使小野妹子に従って我が国最初の留学生として派遣された。
この時は二度目の遣隋使で来日していた裴世清らを送り届けるためであった。
留学生:倭漢福因、奈羅訳語恵明、新漢人大圀、新漢人日文(後の僧旻)、志賀漢人慧隠、新漢人広済、南淵請安ら渡来系の人物が中心であった。
618年に隋国滅亡。唐となった。
640年南淵漢人請安らとともに新羅を経て帰国。大化の改新に際し旻(みん)法師とともに国博士(政治顧問)となって活躍。渡来人としては最高の四位の位に相当する地位が
秦河勝とともに、聖徳太子によって与えられた。
645年蘇我入鹿暗殺。
C646年任那問題打開のため新羅に派遣される。
D647年新羅の金春秋(後の新羅29代王「武烈王」(604−661))を連れて帰国。
E649年僧旻と共に八省百官を置く。
親唐・親新羅派であった。中大兄皇子ら親百済派とは相容れない関係であった、とされる。
F654年遣唐押使として新羅経由で入唐。唐で没す。
 
・季姓ーーー刑部氏
・皀敦姓ーーー坂合部・佐太氏
・朱姓ーーー小市・佐奈宜・佐奈木氏など
・多姓ーーー桧前氏
・皀姓ーーー佐波多・長幡部氏
・高姓ーーー桧前氏
 
2−2)高尊王
2−3)都賀直            
 
2−4)阿多倍王
@父:都賀直(阿智王説あり)母:不明
A妻:斉明天皇皇女
B内大臣。播磨国に宮造りをする。
 
2−5)東漢掬(やまとのあやのつか)
@父:阿多倍王?(阿智王?) 母:不明
A系図によっては都賀直と同一人物としているものもある。
正式名:東漢直掬(ヤマトノアヤノアタヒヘノツカ)
B(紀)雄略23年記事(478年?)
大伴室屋の命により星川皇子の乱の鎮圧に貢献。
C(紀)雄略7年記事(463年?):新漢人「陶部高貴(すえつくりのこうくい)」らを上桃原・下桃原・真桃原の3ケ所に住まわす手配をした。
 
・山木
@父:東漢掬 母:不明
A兄腹と言われ民氏・谷氏ら25姓の祖。
 
・爾波伎(にわき)
@父:東漢掬 母:不明
A弟腹と言われ調氏・大蔵氏・文氏・書氏・山口氏ら8姓の祖。
 
・大蔵広隈
@父:古閑  母:不明
A大蔵氏祖。
B壬申の乱の時、赤染徳足、坂上国麻呂、古市黒麻呂、等と共に大津京にいた高市皇子に従っており、共に天武天皇側に合流。
大蔵氏は、阿智王が播磨国大蔵谷に館を構えたことに由来する。という説。三蔵(忌蔵、内蔵、大蔵)の一つで国庫に当たるのが大蔵。この管理を秦氏・東西漢氏が行った。ここから大蔵と呼ばれるようになったとの説。
古語拾遺「履中天皇朝に大蔵を立て秦氏はその物を出納し、東西文氏はその簿を勘録す」
大蔵直となり、後に忌寸、宿禰姓となる。最後は朝臣となった。
 
・大蔵春実
@父:常直   母:右兵衛督藤原敏行娘
A妻:参議小野好古娘*
B平安時代中期の上級貴族。939年藤原純友の乱で朝廷側として活躍。従五位下、対馬守、太宰府府官(太宰大監)となる。
C960年太宰府次官であった源経基の子満仲とともに武士団を率いて都を警備。官職によらず武士団を用いた最初。
C扶桑略記によると、子孫は九州に土着し、太宰府府官を世襲し、この一族を大蔵党という。
原田氏(鎮西屈指の大族。筑前国御笠郡原田邑より起こる)を嫡流とし、秋月・江上・田尻・三原・高橋・天草などの武家諸氏を出した。
この中で江戸時代まで生き残ったのは、高鍋藩27,000石秋月氏だけであった。
 
*小野好古(884−968)
平安中期の公卿、参議。(本稿シリーズ「和邇氏考」参照)
太宰府の次官である太宰大弐の一族。藤原純友の乱鎮圧の追捕山陽南海両道凶族使長官として九州下向。藤原慶幸、大蔵春実等と共に純友軍を博多津で撃退。
 
<内蔵(くら)氏>
東漢氏の大蔵広隈流の一派で、皇室の財物を扱った内蔵の職に携わった氏族。
最後は宿禰姓となった。
・内蔵縄麻呂
746年大蔵省正六位上、746−751大伴家持が越中守の間越中介であった。
753年造東大寺司判官。万葉歌人。
 
<調(つき)氏>
租税の徴収をしていた一族に付けられた名前。九州薩摩で繁茂。その後黒木氏となり戦国大名となっていった。
・調老人
正五位下大学頭。(懐風藻記事)
・調能高
 
・黒木助能(祐能)
@父:調能永 母:不明
A筑後国上妻郡黒木庄と山門郡瀬高庄を領して黒木氏となる。筑後国上妻郡猫尾城を本拠とし、調党三家(黒木・星野・河崎)の中心となる。戦国大名。
B妻:惟宗基言(秦氏考参照)女。側室:待宵小侍従(後鳥羽上皇側女)
C調氏嫡系。大蔵大輔。吾妻鏡にも記事あり。
Dこの流れから戦国大名河崎氏・星野氏・樋口氏らが輩出される。南北時代は黒木氏は菊池氏につき南朝方。
E猫尾城初代城主。
 
・武家星野氏・樋口氏・河崎氏
調助能から分かれた九州で南朝方についた武家。
 
<文・書氏>
東文氏で政治・外交・財務の文書事項を取り扱った。
一般的には五位以上の貴族の子供しか大学には入れなかったが、文氏の子弟は優先的に大学教育が受けられたらしい。
 
2−6)坂上志努
@父:東漢掬 母:不明
A中腹と言われた。成努・真努費直とも記す。坂上氏祖。
B丹波生まれ。
 
2−7)駒子(ー592?)
@父:志努  母:不明
A東漢駒・漢駒・倭駒子直と同一人物とされている。
B592年に蘇我馬子の命により32崇峻天皇を殺す。現役の天皇を家臣が殺すということは歴史上初めてであり、これ以後もないとされている。その上その妃であった蘇我馬子の娘河上娘を奪った。
その罪により馬子によって殺される。
 
・高向臣国神
大化の改新の時蘇我蝦夷の部下であった。入鹿暗殺の報を受け巨勢徳陀の説得があったとはいえ蘇我蝦夷を捨てて他の多くの漢直等と共に武器をすてて逃げた。

・荒田井直比羅夫
難波の都造営工事を司った。
・山口直大口
仏像を造った。
・倭漢直県
船を造った。
 
2−8)弓束
@父:駒子 母:不明
A職掌として弓造りをしていたものと思われる。
坂上とは、大和国添上郡坂上里(奈良県法華寺町西北付近)とされる。
 
2−9)首名(系図によってはない人物)
 
2−10)孝子(老)(ー699)
@父:首名? 母:不明
A別名:老、老連
B699年の死に際して文武天皇の詔が続日本紀に載せられてある。
壬申の乱の時の功が正四位下に相当するとしている。
 
2−11)大国
@父:老 母:不明
A外従五位した、外衛士大尉
未だ貴族の扱いを受けてない。
 
<丹波氏>
坂上大国の流れとされている。系図によっては大国の子供として丹波康頼が記されているものもあるがこれは時代的に全くかけはなれていて間違いである。
 
・丹波康頼(912−995)
@父:不明 母:不明   大国以降康頼までの系譜不詳。
A日本における針灸などの東洋医学の祖。平安中期の人。円融天皇の頃の人。
和気氏と並ぶ医家である。丹波天田郡の人。従五位上、針博士。左衛門佐。
丹波宿禰姓を賜る。?
B我が国最古の医学書「医心方」30巻を著した。
C俳優丹波哲郎はこの末裔らしい。明治時代は男爵家。
Dこの流れから、堂上家錦小路家、が出る。代々典薬頭を司る。
また、施薬院氏、多岐氏などの漢方薬に関わる氏族が出る。
 
・錦小路家・小森氏
丹波氏の流れで典薬頭を世襲した堂上家。後の小森氏を派生する。江戸時代まで続いた名家である。
頼豊:典薬頭。従三位。宮内卿。越前国小森保地頭職。
頼秀:頼豊の子供。典薬頭。従三位。宮内卿。越前国小森保地頭職。初めて錦小路と号す。
頼季:頼秀の裔。典薬頭。初めて小森を号す。
 
2−12)犬養(682−765)
@父:大国 母:不明
A武をもって聖武天皇朝に仕えた。大和守正四位上。造東大寺長官。播磨守。
 ここで初めて坂上氏が武をもって貴族の仲間入りをした。
 
・坂上熊毛
@父:子麿(甲由ともある) 母:不明   駒子の孫
A壬申の乱の時大伴吹負は大和に残り留守司であった熊毛と通じて倭京を占領した。ここでも38天智天皇の信任深い留守司の職である身の者が賊軍に寝返ったわけである。東漢氏の部隊が大伴氏を支援した。
677年40天武天皇の東漢直等に出された詔「七つの不可」の話。
これは東漢氏は過去に7件の天皇からみて許されない裏切り行為をやってきた。今後このようなことは二度とあってはならない。と戒めた上で東漢氏を登用したという話。
藤原不比等は東漢氏を好ましく思わなかった。少なくとも政治面では排除した。とされる。
 
2−13)苅田麻呂(727−786)
@父:犬養 母:不明
A764年藤原仲麻呂の乱で孝謙上皇に付き功をあげ従四位下。大忌寸姓を賜る。甲斐守
B770年弓削道鏡の排斥に貢献。正四位下。陸奥鎮守将軍。
C781年正四位上。右衛士督。
D782年氷上川継の乱に連座。解職。復職後伊予守、備前守、歴任。
E785年従三位。宿禰姓となる。(東漢氏系11姓が賜った。これでこの一族は大伴氏らの名族と完全に肩を並べたとされる。少し遅れて西漢氏にも宿禰姓が与えられたらしい。)左京大夫。下総守。非参議。
F子供:石津麻呂ーーー従五位下陸奥守
広人ーーー従五位下甲斐守
鷹主ーーー従四位下武蔵守
直(真)弓ーーー従五位下和泉守
鷹養ーーー従四位下大和守
雄弓ーーー出羽国村山郡大領
又子(全子)(−790)ーーー桓武天皇妃 高津内親王母
登子ーーー北家藤原内麻呂側室  福当麻呂母 
 
2−14)田村麻呂(758−811)
@父:苅田麻呂 母:不明
A苅田麻呂の次男又は3男
妻:三善清継娘高子。
娘:春子(ー835)は桓武妃、葛井親王母。
娘:南家藤原三守(785−840)室、子供:有方。
B780年近衛将監となった。
C785年従五位下。
D787年近衛少将。
E788年越後介790年越後守791年東海道に遣わされる。
征東副使(大伴弟麻呂補佐)。
F792年従五位上。征夷副使。793年征討に向かう。
G794年蝦夷を征した。大伴弟麻呂が戦勝報告。
H795年従四位下。木工頭。
I796年陸奥出羽按察使。陸奥守。鎮守将軍。
J797年日本最初の征夷大将軍になった。
K798年清水寺建立。
L801年従三位。近衛中将。遠征に出て成功。
802年胆沢城を築き、蝦夷の首領、阿弖利為(あるてい)と母礼(もれ)など500人の降伏を容認した。しかし、田村麻呂の反対にもかかわらず朝廷は彼等を河内国杜山で打ち首にした。枚方市宇山に二人の塚がある。
M803年刑部卿。
N804年再度征夷大将軍となるが、藤原緒嗣が軍事と造作が民の負担大と論じ、50桓武天皇はこれを認め、遠征は中止となった。
O805年参議。清水寺の地を賜った。
P806年中納言。809年正三位。
Q810年大納言。薬子の乱鎮圧。
R811年没。山城国宇治郡栗栖村に葬られた。贈従二位。
S田村麻呂は英雄伝説が多数ある。また東北には、寺の建立伝説多数あり。
いずれも史実としては疑わしい。
(参考)田村麿の子供(男)
・大野
@父:田村麻呂 母:不明
A808年従五位下陸奥鎮守副将軍・陸奥権介。家督を継いだが早世した。
 
・広野(787−828)
@父:田村麻呂 母:不明
A次男、広野麿とも記す。52嵯峨天皇・53淳和天皇に仕え右兵衛佐となった。
兄大野に替わって実質的家督を継いだらしい。
B810年薬子の乱で活躍。823年従四位下。伊勢守、陸奥守(820−824)歴任。
C摂津国住吉郡杭全郷に住んだ。朝廷より杭全郷を所領として賜った。現在の大阪市平野区本町付近。ここには現在坂上広野麿屋敷跡、広野麿墓、坂上春子姫墓などがある。
この平野領を継いだのは曾孫行松である。この行松を祖として平野氏をはじめとする平野七名家が生まれた。
D桓武天皇妃春子が創建した長宝寺(この一角に明治末頃まで坂上家の住宅があった。)もある。
E平野という地名は広野が転じたとの説もある。
F平野七名家「井上、末吉、成安、三上、土橋、辻葩、西村」の祖。
  江戸時代大坂道頓堀を切削した成安(安井)道頓は、この末裔。
G一方この流れから陸奥権大掾有行が出てこの妻が藤原秀郷孫千清の娘その間に産まれた
五男頼遠が千清の養子となり藤原性となる。この子供経清が奥州藤原氏の祖であり以後
有名な清衡ー基衡ー秀衡の三代を輩出したとの説あり。
 
・正野(−863?)
@父:田村麻呂 母:不明
A四男、従四位下右兵衛督蔵人治部大輔典薬頭、文官、清水寺別当
・安達滋野
@父:田村麻呂? 母:不明
A五男、正史に記録なし。陸奥国安達郡住。
・継野
@父:田村麻呂? 母:不明
A六男、正史になし。大舎人正六位上、常陸国石河郡住。
・継雄
@父:田村麻呂? 母:不明
A七男、正史になし。上総国武射郡住。
・広雄
@父:田村麻呂? 母:不明
A八男、従五位下、右近将監。正史記録あり。
・匝瑳高雄
@父:田村麻呂? 母:不明
A九男、下総国住。
・沼垂高岡
@父:田村麻呂?母:不明
A十男、越後国住。
・高道
@父:田村麻呂?母:不明
A十一男、従五位上、大和介、鎮守将軍。正史あり。
 
2−15)浄野(789−850)
@父:田村麻呂 母:不明
A清野とも記す。四男?。陸奥出羽按察使など歴任後、
正四位下右兵衛督(850年)相模守。兄広野早世により平野及び坂上氏の家督を継いだ。
 
・当道(813−867)
@父:浄野(又は広野) 母:不明
A陸奥守従五位上。武人。

・好蔭
武人
・是則(ー930)
@父:好蔭 母:不明
A古今和歌集の撰者。百人一首に歌あり。

・望城
@父:是則 母:不明
A後撰集の撰者。これ以降のこの流れからは明法博士を出す家になる。
 
2−16)内野
@父:浄野 母:不明
2−17)顕麿
@父:内野 母:不明
2−18)古哲
@父:顕麿 母:不明
A田村姓の始祖。
田村氏系図・各種伝承により諸説あるが、江戸時代も一関藩主として田村氏は存続し、この田村氏こそ坂上田村麻呂の末裔だとしている。
・三春田村氏
・藤原姓田村氏
・平姓田村氏
 
 
(参考)「西漢氏」 姓が「首」系の漢人氏族(太田亮)
5世紀ー6世紀にかけて朝鮮半島から渡来してきた「漢人」と呼ばれる集団の一つに後に
西漢氏と呼ばれるようになる集団がある。主に河内国に本拠をおいた漢人集団で大和に本拠をおいた阿智王の流れと区別して「西漢氏」と呼ばれた。
 
上記「はじめに」で記したように「東漢氏」とは元々の出自が異なる。西漢氏の祖は阿直岐(あちき)であるという説もある。阿知岐なる人物もいる。同一人物なのか違うのか不明。漢の献帝の後裔といわれている。
5世紀末から6世紀前半に渡来。河内氏(河内寺跡)・山代氏・台氏らがその中心氏族。
東漢氏よりは渡来時期が後であるとされている。本格的な活躍は今来漢人が渡来してきた5世紀末以降船氏が勃興するまでの短い期間であったとされる。王仁を祖とする西文氏との関係がはっきりしていないが筆者は西文氏とは別として分けて解説する。
 
・河内馬飼首荒籠(あらこ)
渡来系氏族西漢氏系の支族で河内馬飼首がいた。6世紀初頃河内国樟葉地方に住む馬飼を生業とする部族の首長で、26継体天皇の誕生に非常に重要な役割を演じたとされる人物がその荒籠という人物で記紀にも記事がある。
大伴金村らが男大迹王を越前から天皇に擁立しようとした時、そん真意を確かめるために
男大迹王が使ったのが昔から知己のあった河内馬飼首荒籠であるとされている。彼から大和の色々の情報を得た上で彼の要請も受けた形で、樟葉の地で、即位したと言われている。

(参考)馬飼関係記紀記事
@応神15年百済から良馬二匹を贈られる。阿直吉師飼育。
A5世紀頃から乗馬が普及。
B河内馬飼首御狩の継体天皇23年記事。欽明22年の河内馬飼首押勝の記事。
欽明天皇23年の馬飼首歌依・守石・中瀬氷の記事。  など。
 
・最澄(767−822)
@父:三津首百枝 母:妙徳夫人
A俗名:三津首広野。近江国志賀郡古市郷生まれ。
三津首氏は東漢氏系の渡来人の流れとされてきた(太田亮)。最近加藤は西漢氏系であると断定した。
B780年近江国国分寺の行表を師として出家。783年東大寺で受戒。
C804年空海等と唐へ留学。805年帰国。
D806年天台宗を開く。比叡山延暦寺建立。
E866年没後44年後に伝教大師号を賜る。
 
・阿直岐(あちき)
(記紀)5世紀応神天皇(応神15年)の時、百済系渡来人として百済の肖古(照古)王の使として渡来牝馬・牡馬各一頭貢上。学者、帰化人。漢学を伝えた。阿自岐神社祭神。
太子兎道稚郎子(後に自殺した悲劇の皇子)の師。
王仁を応神天皇に推薦した。とされる。阿直岐史の祖。
一説ではこの人物こそ西漢氏の祖と言われている。
 
<西文氏>
15応神天皇の頃百済から論語・千字本など伝えた「王仁」という人物を祖とする一族。
河内国古市郡を本拠とし、代々朝廷の中で文筆・出納の仕事をした。
西漢氏とともに記紀での記事が殆どない。系譜も残されてない。
 
・王仁
@父:王旬?   母:不明
A古事記では「倭邇吉師」と記す。実在したかどうかは現在も謎。
B(記)百済にもし賢人がいるなら献上せよと応神天皇が命令され、百済が献上した人物が倭邇吉師である。論語10巻と千字本1巻併せて11巻をつけて献上した。この人物が
文首等の祖である。
C(紀)阿直岐(あちき)という学者の推薦を受けて王仁は、応神天皇の招待に従って渡来(応神16年)、後に日本に帰化した学者。論語・千字本がもたらされ、日本に儒教と漢字が伝えられた。(但し千字本は応神朝には未だ編纂されてなく、上田によると梁の武帝の時(502−549年)であり、この記述は他の学者と混同されているとの説あり。一方千字本は372年にはあった言う説もある。)
太子兎道稚郎子(後に自殺した悲劇の皇子)の師となった。
・17履中天皇の出納係。
D続日本紀:王仁の子孫である左大史・正六位上「文忌寸最弟(もおと)」らが先祖の王仁は漢の項羽の末裔と桓武天皇に奏上した記事あり。ーーー楽浪郡の漢人、漢高帝の末裔
E韓国の歴史書三国史記、三国遺事、などには王仁の記述はない。最近韓国全羅南道霊岩郡で王仁に関係する遺跡と思われるものが発見され文化財保護区域に指定されたようである。
F新撰姓氏録など:王仁の後孫・文宿禰、武生宿禰(河内馬飼首後裔)、文忌寸、古志連、栗栖首、桜野首、蔵氏(川原・河内・高安・葦屋蔵人)など
 
参考・王仁伝説
百済14代近仇首王(375−384)代に全羅南道霊岩郡西面位東鳩林里聖基洞で誕生。
18才で五経博士に登用。百済17代阿王の時(405年頃?)、32才の時、日本の応神天皇の招請を受け日本へ行ったとの口伝がある。論語10巻・千字本1巻と多くの技術者を連れて日本に渡った。
伝説系譜:王弥ー王旬(韓国海南湾竹城に一時居住)ー王仁
 
参考「行基」(668−749)
@父:高志才智(西文氏系支族)母:蜂田首虎身娘古爾比売(河内国大鳥郡の蜂田首)
A俗姓:高志氏、越史、史首、など。父は高志赤猪ともある。母名を権智子売ともある。
蜂田首氏は蜂田薬師氏とも記す。この蜂田氏は後に深根宿禰姓となる渡来系の氏族である。
三国志で有名な呉王孫権の後裔氏族とされている。
B河内国大鳥郡蜂田郷家原(堺市家原)生まれ。高志氏の居住地は大鳥郡高石でありその本貫は河内国古市の書首氏(西文氏)であった。太田亮氏は越史氏(王仁の末裔)の本貫地は霊異記の記事を引用し、あくまで越後であり、行基は越後の人としている。
C681年出家。薬師寺で道昭(船氏の出身?)から瑜伽唯識を学び、竜門寺・大官大寺で義淵から法相宗などを学び、貧民救済、治水、架橋など社会事活動をし
一時は国から弾圧を受けたが、745年には、日本で最初の大僧正の位を贈られた。
D743年東大寺大仏造立。
E749年菅原寺で没。墓(国史跡)は生駒市有里にある。
F生涯に49ケ寺を建立したと言われている。大山崎の山崎院・宝積寺もその一つ。
その他にも多くの池(昆陽池など)温泉(草津温泉など)橋(724年山崎橋架橋など)などに関与したとされている。(本稿「秦氏考」参照)
 
3)東漢氏関連系図
坂上系図を基本にした公知系図を中心に記した。但し全体では筆者創作系図である。
・東漢氏概略系図(坂上・調・大蔵・丹波氏)
T)坂上氏田村流系図
U)大蔵氏系図
V)丹波氏系図
W)調氏系図
参考系図)行基関連系図
参考系図)高向氏系図
4)東漢氏関連系図解説・論考
東漢(やまとのあや)氏は渡来系古代豪族である。秦氏と同じく新撰姓氏録では諸蕃氏族に分類されている。派生氏族が非常に多く、古代においては日本の政治・経済・外交・文化のあらゆる分野で活躍した氏族である。秦氏と異なり、大和朝廷の中枢部門での活躍が記紀にも記録され、また古代武家として最大の誉れを勝ち取った坂上田村麻呂を輩出した。
東漢氏という豪族は、他の多くの豪族と異なり一つの血族の集団とは言えないというのが現在の通説のようである。系図的には阿智使主(阿知王)を祖とした血族として示されている。元々は、4世紀末頃から5世紀末にかけて朝鮮半島の百済国から渡来してきた色々な専門技術を有する集団が大和国飛鳥檜前あたりにまとまって拠点を置き、大伴氏や蘇我氏などの豪族と結びつき朝廷関係の色々な職掌に携わり、それぞれ勢力を伸ばしてきて、一般的な意味で漢氏と呼ばれる集団があったのは史実である。これを8世紀になって、坂上苅田麻呂の時(785年)に上表文の形で系図とともに自分らは後漢の献帝の後裔で15応神天皇の時、日本に渡来した阿智王を祖とする一族であるとしたのである。この系図が今に伝わる坂上系図というものである(これにも色々あるようだが)。筆者系図の高尊王、阿多倍王は無くて都賀直と東漢掬を同一人物とする説が多い。即ち阿智王の子供が東漢掬でありこの二人は同時に渡来してきたというのである。そしてその子供であるとされる三腹(山上・志努・爾波伎)は、実際の血族ではないが、同じ集団(漢氏)の中で渡来後、坂上苅田麻呂の時頃までに活躍したきた氏族をこれらの中にはめ込んだと言う訳である。
即ち坂上氏は「志努」の流れ、民氏・谷氏らは「山木」の流れ、文・書・大蔵・内蔵・調 氏らは「爾波伎」の流れにである。元々はそれぞれ独立した氏族であるがまとめて東漢氏という共通の氏族名を名乗っていたのであろう。という説が現在有力である。よってどれが嫡流とするかということは本来なかったのである。たまたま坂上苅田麻呂が従三位にのぼり宿禰姓(この時同族11姓16人が同時に宿禰姓となった)を賜るなどの大躍進をしたのでその一族共々その出自を飾り立ててはっきりさせたのであろう。
よって後漢・献帝とかを祖とするというのは、史実とは異なるであろう、阿智王も?で東漢掬辺りからは、史実的に後の東漢氏と何らかの関係があるのであろうとされている。また漢(あや)というのも実際は朝鮮半島にあった加羅諸国の一つである安羅国に出自があり、これにちなんだ読みとして「あや」としたのであり、この辺り出身の集団であろうという説有力。
いずれにせよこの東漢氏としてまとまった集団からはその後の日本の歴史に大きく貢献する氏族・人物が輩出されたことは事実である。これらについては後に詳述する。
さて「はじめに」でも紹介したように東漢氏に対し西漢(かわちのあや)氏・西文(かわちのふみ)氏という豪族がほぼ同時期に発生している。これについても若干触れておきたい。
実はこの西漢氏も西文氏も存在していたことは間違いない。しかし、その実態は非常に分かりにくい豪族である。記紀での記事・その後の文献史料にもまとまったものがなく公知の系図も筆者の調査した範囲では無かった。共に百済系の漢系を主張した渡来人の一族である。
西文氏に対し東文氏もある。これは上述した東漢氏系図に爾波伎の流れとして文氏・書氏大蔵氏として明確に記されている。主な職掌は朝廷の外交関係の文書、蔵の出納簿などの管理などに従事したものと思われる。
一方西文氏については15応神天皇の時、百済から五経博士として王仁なる人物が渡来して日本に「千字本」「論語」などを伝来させた。とされている。この王仁が西文氏の祖であると記紀に記されている。この西文氏の流れである文忌寸最弟・武生連真象らが791年に、自分らの祖「王仁」は前漢の高祖の後裔だと奏言した。
西文氏は元々首姓である。一方東漢氏は直姓である。西漢人が複雑で直姓と首姓がある。(太田亮著「姓氏家系大辞典」)太田は直姓のものは総て東漢氏系であり、首姓が西漢氏であるとしているように思える(はっきりしない)。過去には西漢氏も、東漢氏の中に東文氏があったと同様に、その中に西文氏がいたという説が有力であった。西文氏が発展して西漢氏と言われるようになったという説もあったようである。
即ち「はじめに」で記したような考えがあったようである。西漢氏の祖は前漢の高祖であり、即ち王仁と同じ、とするのである。よって日本での祖は王仁を日本に来るよう天皇に推薦した(記紀記事)、阿直岐こそ西漢氏の祖であるとした説も出た。いずれにせよ筆者はどうも釈然としない感じを持っていた。つい最近まで西漢氏はそれほど分かり難い氏族であった。最近になって加藤謙吉が「吉士と西漢氏」白水社(2001年)という本の中でこの問題に新たな説を提案した。この説が学会やプロの学者にも受容出来ているのかどうかは筆者には分からぬが、筆者には分かり易いし、既存の色々な疑問点をかなり取り除くものであると判断した。筆者の誤解もあるかもしれないが、大凡下記のようものである。
@東漢氏・西漢氏・西文氏は別々の氏族である。
A東漢氏も西漢氏も直姓であり西文氏は首姓である。
B東漢氏も西漢氏も百済から渡来した漢氏を主張した氏族である。東漢氏が始めに大和国で組織され、それより遅れて河内国に組織されたほぼ同様の職掌を有する氏族が西漢氏である。
C坂本系図には出てこない漢の献帝の流れを主張している氏族で河内国・志賀国にその本拠を置いた集団が、元々は西漢氏としてまとまった氏族を形成していた。
D東漢氏に比して早い段階にそれぞれの元々の血族?氏族の単位となり集合体の関係が薄くなった。但し、その果たした役割貢献は大きかったので東漢氏系とほぼ同様の扱いを受けた。直姓から連姓そして忌寸姓さらに宿禰姓などへの氏族としての格上げ時期はほぼ一緒であった。
Eところが朝廷内での相対的な位置づけでは(例えば五位以上の官職につく人数 )圧倒的に東漢氏系の方が勝っていた。これは坂上氏らの活躍によりさらに拡大していった。
F東漢氏は大伴氏・蘇我氏と手を結び、西漢氏は物部氏と手を結んでいたようだ。よって物部氏の没落とともに徐々に西漢氏は、勢力を減じ、一方東漢氏は蘇我氏の滅亡後も壬申の乱では40天武天皇方につき功を上げ、勢力を伸ばした。
G献帝・白竜王後裔氏族などを主張した氏族 (阿智王を祖としていない)
山代(河内国石川郡)・当宗(河内国志紀郡)・台(河内国交野郡)・河内(河内国)・広原(河内国)・凡人中家(和泉国)・三津首(近江国志賀郡)・志賀(近江国志賀郡)などが坂上系図に載ってない漢系氏族であり、これが西漢氏系氏族である。
などとした。
加藤の埋もれた文献などの長年月にわたる調査により西漢氏が浮き彫りにされたと言えよう。
前漢の高祖を祖とすることを主張した王仁系とされる西文氏はこれとは別としている。
参考までに太田氏の「河内漢直(西漢)」の記事の一部を下記に示す。
ーーーこの氏の出自分明ならず。或いは西文氏即ち王仁の後かと思えど彼の氏は首姓にしてこの氏は直姓なれば別系なるべし。その直姓なるより考ふれば倭漢氏と同族ならんか。
何となれば帰化族にして直姓なるは倭漢氏の外に見るを得ざればなり。ーーー
要するに加藤の調査は太田が疑問としてきたことを解明したことになる。筆者流に解釈すると下記のようになる。
・東漢氏・西漢氏共に漢の献帝を始祖として主張した氏族である。その意味では同族である。しかし、その後の流れが異なり、東漢氏は日本に渡来してきたとされる阿知王を祖としている一族であり、西漢氏は白竜王などそれ以外の献帝系の王を祖とした氏族の集団である。また日本に渡来してきた時期が異なり、東漢氏の方が早く、その組織化も早かった。一方西漢氏系は渡来時期が遅れその組織化は東漢氏を見習った形にして、本拠地も大和ではなく、河内になった。とする。氏はどちらも直姓である。
東漢氏
後漢霊帝・献帝・石秋王ーー>朝鮮帯方郡ーー>百済(安羅)ーー>大和国(阿知使主)
西漢氏
後漢霊帝・献帝・白竜王他ーー>朝鮮帯方郡ーー>百済(安羅)ーー>河内国
 
・西文氏は上記2者とは異なり、漢の高祖の末裔を主張した氏族で日本に渡来してきたとされる「王仁」の後裔氏族でこちらは首姓である。
前漢高祖ーーー>朝鮮半島楽浪郡ーーー>百済(安羅?)ーーー>河内国(王仁)
と解される。筆者はこの加藤氏の説には説得性があり、これを支持したい。
 
しかし、現在ではこれらの渡来系氏族がその祖を中国大陸にしたのは、根拠もなく、証明も出来ない。坂上苅田麻呂が上表文を提出した785年当時(長岡京時代)及び西文氏の末裔とされる文最弟らが791年(長岡京時代)に同じく自分等の祖を王仁の出自を漢の高祖にしたのも、本当は別の因子(単に百済系とすると、後に渡来してきた百済王家出身とされる百済氏、又は高句麗国王家出身とされる高麗氏などに比較し出自が見劣りする。また朝鮮半島出身の渡来人は、中国出身のそれと比し、一段低く見られる風潮があったため)が大きく働いて、自分らの祖先をこのような形で飾り、互いにその血脈卑しからずを競ったものである。とされている。秦氏が秦の始皇帝を祖とするとした話も東漢氏らの上記思想と同類の思想にもとずくとされている。
勿論その技術・技能などが漢国に端を発するものも多く、祖先が漢国出自であることを全面否定するのもどうかとの説も多し。
 日本書紀には東漢氏の祖「阿知使主」は17県の人夫と共に七姓の漢氏も率いてきた。と記している。前述の人物列伝の項でその七姓について簡単に記したが、これらの氏族は、東漢氏と同じ飛鳥檜前の地に住んでいたと考えられているが、東漢氏そのものに組み入れられた氏族ではなく、別姓として東漢氏と協同的に活躍したものと考えられている。これらの渡来人の故郷が朝鮮半島の百済国安羅付近であることは事実であろうとされている。
 これらの漢氏にさらに遅れて渡来した漢人と言われる一団がある。これを総称して今来漢人(いまきのあやひと)と呼ぶ。これも百済から渡来した有能な技能技術を有する集団である。既存の東西漢氏らはこれらの今来漢人を自分らの集団に取り込みその勢力を伸ばしたと言われている。
 参考であるが、この今来漢人よりさらに遅れて7・8・9世紀にわたり多くの渡来人が日本列島に来た。これは百済国・高句麗国の滅亡にともなったものと考えられている。百済氏・高麗氏などの有力氏族もこの中に含まれてている。これらについてはまた別稿で論考する予定である。
ところで前述の首姓と直姓について簡単に解説しておく。
大和朝廷が中央集権国家を目指す過程で中央・地方の諸豪族をその支配体制下に組み入れるために朝廷は色々工夫したが、その一つが氏姓制度である。時代時代で変化しているので非常に分かり難いが、この中で姓(かばね)について簡単に記す。
姓は大和朝廷から諸豪族に与えられた政治的地位・家柄を表す称号である。これは世襲であった。
臣(おみ):天皇家から分かれた皇別氏族の姓。
連(むらじ):天皇家とは祖先が異なる神別氏族。
君(きみ):天皇家から分かれた地方有力豪族。
造(みやつこ):国造や中央の伴造や品部、子代、名代などの首長に与えられた姓
直(あたえ):5−6世紀に服属した国造(郡司)に対して統一的に与えられた姓。
       渡来人としては東漢氏系の氏族のみ(太田氏*)に与えられた姓。
首(おびと):地方の伴造、県主、など地方村落の首長や渡来人の子孫に与えられた姓。
村主(すぐり):下級氏族や渡来人の子孫に与えられた姓。
史(ふひと):渡来人の子孫で文筆の職能に優れた氏族に与えられた姓。
*注)加藤氏説を入れると西漢氏も直姓である。
これで分かるように直姓は首姓の上位にある姓である。直姓の一族の中に首姓はいてもおかしくないが、氏上(うじのかみ)氏が首姓なのにその支族のなかに直姓はいないということである。
時代とともに直姓も首姓も共に連姓となりさらに**忌寸姓、宿禰姓、朝臣姓と上位の姓に替わっていったようである。
**684年40天武朝の時新姓制度「八色の姓」が生まれた。
上より真人・朝臣・宿禰・忌寸までは実施。それ以下の道師、臣、連、稲置は実在なし。
八色の姓制度で渡来系の氏族の最高位は忌寸姓であった。この姓までは令制で五位以上の官人(貴族)を出す氏族に対応していた。これに東西漢氏、西文氏は入った名族である。
但しこれらの氏族の支族総てが忌寸姓になった訳ではない。
記録上では東漢氏系の氏族はさらに宿禰、朝臣姓まで上ったものもあるが、西文氏、西漢氏は忌寸姓止まり(五位まで)であったようである。西漢氏系にも宿禰姓の者もいたようだが正式か?
 
さて話を東西漢氏及び西文氏に戻そう。先ず西文氏の祖とされた「王仁」について考えたい。現在はこの人物は実在したかどうかは疑問ありというのが通説である。
記紀に15応神天皇の時代(5世紀中頃までと推定)に渡来したとの記事があることは事実である。一般的には、「千字本」「論語」を日本に伝来させ漢字文字の日本への普及の元祖だと言われている人物である。ところが最近では千字本が中国で完成したのはもっともっと後(梁の武帝の時代で6世紀前半)で年代が合わない。さらに記紀には王仁の記事が出ているが朝鮮半島の当時のことを記録した三国史記、三国遺事などの文書のどこにも王仁に比定される人物のことが記されてない。などの理由により、西文氏系の後裔氏族が後年創作して記紀にこの記事をはめ込ましたのであろう、という説も有力。但し、千字本とか論語の話は別としてこの頃に西文氏の祖先となる人物が渡来してきたことは確実と言えるとしている。
ところが最近千字本らしきものが4世紀末には既に存在していたという説、朝鮮半島側での色々の調査により、王仁と思われる人物の伝承及び出身地が発見されたとの情報もある。誕生地は、韓国全羅南道霊岩郡郡西面位東鳩林理聖基洞(現光州市)である。現在史跡指定もされたとのことである。
日本での漢字文字の使用がいつ頃からか?この問題は未だはっきりしてないのが本当である。倭の五王時代には間違いなく中国本土に対して日本で書かれた大和朝廷からの正式な漢文文書が中国の皇帝に上奏されたことは間違いないとされている。これを作成したのが
阿知使主・王仁らまたはその一族である渡来人であろうという説もある。この辺りに東西文氏の活躍の原点があるのは認めてもよいのではなかろうか。21雄略天皇の頃(471年説有力)またはその少し後年に記された思われる「稲荷山古墳鉄剣文字」は関東の地で既に漢字文字が使われていたことを立証している。よって千字本云々は別として5世紀中頃以降文字記録が一部ではあろうが渡来人の力を借りながら日本列島に普及していったのではなかろうか。東西文氏の果たした役割は、非常に大きかったものと判断する。
ここで西文氏出身と確実視されている人物(西文氏として歴史上有名なただ一人の人物)として僧「行基」について触れておきたい。7世紀末から8世紀中頃までの人物である。
西文氏支流の高志氏(越史氏とも記す)の出身とされており、身分は低かったが当時は書首、文直関係の渡来人は大学教育または僧となる教育を特別扱いで受けられたようである。
7世紀初めの遣隋使の留学生などもその多くは渡来人・今来漢人らの子弟であったことからも分かる。既稿「秦氏考」の中でも一部触れたが、行基が日本列島各地にわたって仏教文化、社会事業の普及に果たした貢献は、その伝承の多さだけでも凄いものがある。乙訓地方でも山崎大橋の築造・山崎院・宝寺など多くの足跡を残している。これは日本古来の古代豪族出身者であったら不可能であったであろうとされている。
これと同じとは言えないかもしれないが、西漢氏系渡来人(加藤氏断定)出身の平安時代の僧「最澄」にも言えるのではなかろうか。最澄は近江国志賀郡にいた渡来系氏族「三津首」氏の出身とされている(太田亮は三津首氏は倭漢氏としている)。自分が渡来系の出自を有する者であることを充分意識し、その特典も活かして若くして遣唐使の留学生として渡唐して、勉学に励み平安朝の後ろ盾も得て比叡山に延暦寺を建立し奈良仏教に対抗して、天台宗を興しその後の日本仏教の始祖的礎を築いたのである。
日本古来の豪族(大伴氏・佐伯氏)の末裔である空海(最澄のよきライバル)とは、異なった道を歩んだとされている。
西漢氏・西文氏からは以上のように後の日本人の文字文化・精神文化に非常に影響を与えた人物が出たのである。これは、点としてたまたまそのような人物が出たのだとする説には筆者は感心しない。歴史上、表には残されていない、それぞれの氏族の生き延びる、人間としての価値観みたいなものが底にあったようでならない。これだけ立派な人物を輩出した西文氏・西漢氏なのに系図の類が残されていないのである。参考系図として示したのは蜂田氏の系図でこれに行基の関係が残されていたので参考として記した。蜂田氏も渡来人の氏族であり、当時は渡来人同士の婚姻が普通だったのだろうか。
後述する東漢氏の生きた価値観は、上記西漢氏・西文氏とはかなり異なるものを感じる。
参考系図として上記七姓の氏の一つである「段」姓の末裔とされる高向氏の系図を載せた。
高向氏は大化の改新で活躍した「高向玄理」を輩出したことで有名である。我が国最初の留学生として、608年の遣隋使小野妹子に随行して640年帰国して、国博士として活躍した人物である。しかし親新羅・唐派の傾向があり親百済派の中大兄皇子らとは次第に合わなくなり、大和朝廷の中枢からは外され、654年唐の地で没している。
この人物も渡来人係累の有名人として忘れてはならない重要人物である。
この高向氏ら七姓の漢人は、東漢氏とともに大和国飛鳥付近で活躍した。そしていわゆる飛鳥文化の中心的役割を演じたのである。後述の「山尾幸久」はその著書の中で「北山茂雄」の論文(「飛鳥朝」文英堂1968年)を引用して次ぎのように記している。
ーーー「飛鳥文化の創造主体は、蘇我氏ではない。蘇我氏的仏教圏ではぐくまれた聖徳太子でもない。6世紀の渡来知識人である。」この渡来知識人の主体こそ東漢氏である。ー
 
さて東漢氏といえば坂上氏と言われるほど坂上氏がその代表のように扱われている。ところが歴史的には、系図でも明らかなように必ずしも坂上氏だけが東漢氏ではない。
東漢掬の次の世代で3系統に分かれる。
兄腹山木より約25氏派生しており主な氏族は、民、谷、檜前氏らである。
中腹志努から坂上、丹波氏である。
弟腹爾波伎から、山口、調、大蔵、内蔵、文氏など8姓である。
現在では一般的には少なくともこの3系統は、血統的には別々の氏族と考えられている。
さらにこの各系統の中でも血統的に同一かどうかは疑わしいとされている。
これらの中で主な氏族のみ概説したい。
<大蔵氏>
大蔵氏の祖は大蔵広隅だとされている。ここから以降は同一血統であろう。大蔵という呼称の言われは諸説あるようである。主なものは、イ)東漢氏の元祖「阿知王」が播磨国大蔵谷に館を構えていたからだ。
ロ)17履中天皇の時三蔵(忌蔵、内蔵、大蔵)を造り、その管理を秦氏と東西文氏に分担させた。この時大蔵を担当したのが直姓を賜り大蔵直となった。
などである。この大蔵氏から内蔵氏が派生している。この大蔵氏の本流は、平安中期くらいまで平安貴族として京都にいた模様である。大蔵春実(母は三十六歌仙の一人南家藤原敏行の娘でこれからもかなりの位にいたことが予想される)の時春実の妻が参議小野好古の娘であった関係と思われるが、小野好古が藤原純友の乱の鎮圧の総大将になった縁で九州太宰府に随行、ここで功績を挙げた。以後太宰府の役人となり、世襲することになり、九州に大蔵党と言われる一大武士集団をつくるきっかけとなった。
この一派は後に多くの戦国大名(原田氏が嫡流)、江戸時代にも高鍋藩主家秋月氏を輩出した。非常に多くの系図が残されている。 ーーー北九州の武家名族ーーー
<調つき)氏>
調氏の祖は調老人とされている。元々租税の徴収をする役人であったらしい。調老人は懐風藻に記事が一寸記されている程度で詳しくは分からない。この後の系図は不詳であるが調能高なる人物が九州薩摩国の豪族として登場する。その累孫として筑後国上妻郡黒木郷の領主として猫尾城を本拠とした黒木助能なる武将が調氏嫡系として現れる。これが調党三家(黒木・星野・河崎)の中心となり、南北朝で南朝方につき活躍することになる。
さらに戦国大名に発展する。
この助能の妻が秦氏考で登場した島津氏の祖ともされる「惟宗基言(秦氏末裔)」娘とされている。
島津氏との関係が窺える。   ーーー北九州の武家名族ーーー
<丹波氏>
丹波氏の祖は「丹波康頼」とされている。筆者概略系図では坂上大国の子供として犬養の兄弟のように記されている。(多くの系図はこのようになっている)
しかし、これは間違いである。坂上犬養は7世紀後半の人物である。一方丹波康頼は10世紀の平安中期の人物である。日本の針灸など東洋医学の祖と言われる人物である。
この一族は代々典薬頭を勤め、堂上貴族「錦小路」家となり、明治まで続く名家となった。俳優の丹波哲郎氏がその末裔だというから面白い。この丹波氏からの派生氏族として小森氏、施薬院氏などが有名である。  ーーー堂上貴族ーーー
<坂上氏>
坂上氏の祖は中腹と言われた「志努 」だと言われている。「志努 」から日本で生まれた(丹波国)という説有力。これより前の世代は、百済生まれというのである。坂上という呼称の言われは諸説ある。一つは志努が生まれた丹波国の土地の名前(その場所は比定されてないが)にちなんだという説。有力な説は大和国添上郡坂上里(奈良県法華寺町西北付近)とされている。
志努の子供とされる駒子こそ日本書紀に登場する東漢駒であるとされている。この人物は、蘇我馬子の命により32崇峻天皇を暗殺したことで古代史上、有名人物である。現役の天皇を家臣が殺した例は日本の歴史上前にも後にもこの一例だけである。崇峻天皇は蘇我馬子と対立の姿勢を取り始めた矢先のこの事件は、その後の日本の歴史を変えたとされる。即ち、完全に蘇我氏傀儡政権の確立である。33推古天皇、聖徳太子、大化の改新へとなるきっかけとなったのである。ところが馬子はこの忠臣?を崇峻天皇の后である馬子の娘河上姫に駒子が横恋慕して起こした暗殺事件として、駒子を殺してしまった。
しかし、これによっても東漢氏が蘇我氏から離反していない。東漢氏は入鹿が暗殺され蝦夷が自害するまで蘇我氏の忠実な護衛兵の役目をしていた。しかし、ことここにいたり、蘇我氏を捨てて逃亡したとされている。
駒子の孫の代に壬申の乱が勃発。この時本来38天智天皇方についていたはずの坂上熊毛・老などの東漢氏系の武士が賊軍である40天武天皇方に寝返った。そして大伴氏らとともに大和で活躍し功をあげて天武天皇派の勝利に導いたとされる。しかし、老の子供である大国の時代でも未だ貴族の扱いは受けていない。坂上氏が歴史上急浮上するのは大国の子供犬養からである。犬養は45聖武天皇に寵愛され信頼を得た。これにより正四位上という渡来系の氏族出身としては破格の地位(一般的には現在もこのように評価されている*)を得た。貴族の仲間入りをしたのである。その「武」の力が認められたのである。その子供「苅田麻呂」は父親の遺徳の上にさらに藤原仲麻呂の乱、弓削道鏡排斥などで貢献し、785年(長岡京時代)には父親の位を超えて従三位となり、姓も宿禰姓を賜り、他の豪族と完全に肩を並べた。また娘を50桓武天皇妃とし、北家藤原氏嫡男内麻呂の側室にも入れた。これは渡来系氏族の雄秦氏もなしえなかったことである。秦氏はせいぜい四位の位までであった。苅田麻呂の子供は、多くいたが、次男とも三男とも言われていたのが田村麻呂である。父親が従三位になった年785年には従五位下(27才)となり武士の道を歩んでいた。797年には日本で初めて(そうでないとの説もある)征夷大将軍となりそれ以後数々の武功をあげた。805年遂に渡来人系では考えられないとされた参議に就いた。(一般的には現在でもこのように評価されている。*)これは父苅田麻呂も到達出来なかった地位(苅田麻呂は非参議であった)である。即ち国政の中枢に入ったのである。806年に桓武天皇は没したが、810年には大納言(嵯峨天皇朝)となりその翌年没した。これは桓武天皇という特異な天皇に寵愛されたという事情があるにしても東漢氏系全氏族にとっても画期であった。
ところがである、この田村麻呂の子供らは何故か正四位下以上にはなっていないのである。本人の器量がそこまでだったと言えばそれまでであるが、時代が既に藤原氏単独政治体制に突入していたこともいなめない。他の古代豪族もことごとく政治の中心から排除されていったのである。これを渡来人の出身だからとするのは当たらないと思う。
さて坂上田村麻呂の家族及びその累孫について若干触れておきたい。
妻は三善清継娘高子とされている(「清水寺縁起」にだけ記録が残されている)が、この三善氏がよく分からない。一般に三善氏といえば百済近肖古王の後裔とされる渡来系の氏族である。三善清行(847−918)なる参議にまでなった人物がいる。この人物は菅原道真の弟子にあたるが、道真とは馬が合わない仲だったことで有名。この流れから鎌倉幕府問注所初代執事となった三善康信が出る。清継がこの三善氏と関係あるのかどうか不明である。田村麻呂には12人または13人の子供があったとされている。母親は総て不明である。娘春子は桓武天皇妃となり、葛井親王を産んでいる。もう一人の娘は南家藤原三守の側室となったようである。
夫人が何人いたかは不明である。奥州各地に夫人がおりその子供が田村を名乗ったという伝承が各地にあるようであるが、信憑性に乏しい。伝承ではその一人である四男?浄野の流れに古哲という人物がいるがこれが初代田村姓を賜ったとの説あり。この流れが奥州田村氏となり最終的には一関藩主となり明治まで続いたとなっているが、史実は解明出来ていないし、諸説ある。
次男広野の流れは摂津国住吉に住んだとされ、平野七名家の祖である。有名な大阪の道頓堀川を江戸時代に切り開いたのはこの七家の出身の成安道頓という人物とされている。
この広野の別流れで陸奥権大掾「坂上有行」なる人物がおりこの末裔に奥州藤原氏として有名な藤原清衡ー基衡ー秀衡らが輩出されるという系図がある。(筆者系図参照)
筆者の調査によると、有行の五男に頼遠という人物がおり、この母が歴史上有名な藤原秀郷の嫡流である千清(秀郷の孫)の娘とされている。この関係と思われるが頼遠は千清の養子となり藤原氏を名乗った。一般系図では頼遠は千清の子供である正頼の子供とされている。血脈と姻脈、名跡相続など系図なるものは複雑である。これが正しいとすると、有名な奥州藤原氏の本当の血脈上での祖先は、坂上田村麻呂である。本当であろうか。
さて、田村麻呂と京都清水寺は関係が深い。
清水寺の建立年代には諸説ある。780年説、798年説が主である。
780年説清水寺縁起・今昔物語など。
行叡・賢心(延鎮)・田村麻呂の出会い清水寺建立。
798年説扶桑略記。行叡・延鎮の出会い、延鎮・田村麻呂の出会い清水寺建立
780年は平城京時代である。798年は平安京時代である。未だにどちらが正しいか不明である。ある意味ではどちらも正しいとも思える。長岡京市に西の清水寺と呼ばれた楊谷寺(柳谷観音)がある。この寺も延鎮が806年に建立したと寺伝に記されている。延鎮は821年に没している。桓武天皇は寺院の建設を非常に抑制した(正式に京都で認められた寺は空海の東寺と西寺だけである)。清水寺は52嵯峨天皇から810年に正式に坂上氏の私寺として認められている。(田村麻呂は811年没)田村麻呂の子供正野が清水寺別当となっており、その後も坂上氏から別当が出ている。などから筆者は、清水寺は間違いなく坂上田村麻呂と延鎮との出会いが縁となりその元となる寺(清水寺と称したかは不明)が平安京遷都前後に山城国愛宕郡東山の地に田村麻呂の支援のもとに坂上氏の私寺として建立され、最終的には鎮護国家をも祈る寺、「清水寺」として、天下に認められた。と解する。
以上で東漢氏の概観を終わりたい。
*井上満郎はその著「古代の日本と渡来人」井上満郎 明石書店(1995年)のなかで次のような記述をしている。
・聖徳太子の冠位12階制定で徳冠レベル(後世の四位)を授けられた(渡来系の人)のは秦河勝・高向玄理の2人だけでこれ以上の位には渡来系はいなかった。皇別・神別(氏族)が国政を担い、諸蕃がそこから排除されるという原則がこの頃に成立したものであろう。
・日本国家は中国を隣国とし(日本と対等)、朝鮮(新羅)を蕃国(一段卑な国)とした。
738年成立の「古記」では隣国とは大唐、蕃国とは新羅とすると記してある。
・諸蕃系出身の豪族・貴族が国政から排除されていたことはまぎれもない事実であった。
諸蕃系氏族で国政に参与した(参議以上の位についた)のは坂上田村麻呂らわずかに3人(筆者注:百済肖古王系渡来人流<和家麻呂>中納言従三位ーーー桓武天皇の母親高野新笠の兄弟の子供即ち桓武天皇とは従兄弟の関係ーーー百済貴須王系渡来人流<菅野真道>参議ーーーこの人物はかなりの実力者ーーーこれ以外に上記の三善清行も参議になっているが?)でそれもすべて50桓武天皇の時代にかぎられる。(筆者注:三善清行は、60醍醐天皇の時の参議)
 
 
5)まとめ(筆者主張)
@東漢氏は15応神天皇の時、朝鮮半島百済国から渡来してきた中国後漢系献帝の後裔阿知王を祖とする一族であると、主張した一族で、大和国飛鳥近辺に勢力をはった一族である。
A西漢氏は東漢氏と同族ではあるが、阿知王以外の献帝の王孫の一族が東漢氏より若干遅れて渡来し、河内国を中心に勢力を伸ばした一族である。
B西文氏は応神天皇の時、朝鮮半島百済国から渡来してきた前漢系高祖の末裔とされる王仁なる人物を祖とし、主に文書による管理を得意とした氏族で、河内国を中心に勢力をはったとされる。
C以上@ABの区別は加藤謙吉氏の説に組したものである。
D東漢氏は系図が存在する。しかし一般的な血脈系図ではないという説、が現在の主流。
即ち主に3系統の血脈を一つにまとめ東漢氏として称して勢力を伸ばした、渡来系古代豪族で、秦氏と2分される大勢力をはった氏族である。秦氏と異なり、古代日本政治の中枢部で活躍した氏族である。
E西漢氏・西文氏は系図がない。相当早い段階でその氏族として中心を失った模様である。しかし、その末裔は日本の文字文化・仏教文化・その他多くの分野で地に着いた形で貢献したとされる。
F東漢氏からは坂上氏という中心的に活躍する氏族が輩出された。活躍の中心は武人としてである。それぞれの時の政府にしぶとく食い下がり、政府から見れば、気にくわない所も多々あるが、あなどりがたい力を持っており、常に無視出来ない存在感を発揮してきた。
これを渡来人の特質であるという説もある。
奈良時代以前から、渡来系の人材は政治の中枢には就かせないという掟みたいなものが存在していたようである。これを打ち破って三位の位まで昇進したのが坂上苅田麻呂である。しかし、参議にはなれなかった。
G坂上田村麻呂は征夷大将軍という当時の軍人としては最高の称号をもらい、参議となり最後は大納言となった。即ち遂に渡来系氏族としての壁を突破したのである(上記、井上満郎著書参考)。そして清水寺を建立したのも彼である。
ところがこれ以降、歴史上に登場するような人物は坂上氏からはいなくなった。
これは坂上氏が渡来人で、田村麻呂だけは50桓武天皇の時だけの特異な現象であったという説もあるが、藤原氏の政治独占体制化の中で古代豪族の多くが参議から排除されていったことを考えると、坂上氏だけの問題ではないと判断する。
一方、系図調査の結果、歴史上有名な奥州藤原氏(清衡・基衡。秀衡ら)は、血脈上、坂上田村麻呂の末裔である可能性が高い事が分かった。奥州の地で坂上氏から秀郷流藤原氏への養子縁組がされている。このことがあまり世に知られてないのは何故だろうか。
H東漢氏出身の大蔵氏・調氏系統の氏族は、九州で勢力を張り戦国大名へと発展していった。
I坂上氏系で一番すっきりしているのは丹波氏の流れで針灸などの専門家として堂上貴族となり、明治時代まで永続した。
J東漢氏・西漢氏・西文氏らの渡来人は、秦氏らとも同じく、日本全国にわたり新しい文化・技術などを普及させた。現在にまで繋がる日本の伝統文化・仏教文化と言われる多くの原点みたいなところにこれら渡来人がもたらしたものが多い、とされている。
勿論そのさらなる原点は、中国大陸にあったものとする考えに異論はない。
さらに付け加えれば、新撰姓氏録ではこれに記された氏族の約1/3が渡来系とされる諸蕃氏族であった(これは史実)。学者によってはこれを更に拡大して日本全国の約1/3が渡来系の氏族系統であったとまで言っている。その大半が秦氏系と漢氏系だとされている。この影響力は我々の想像を遙かに越えるものだったのであろう。この辺りのところが我々の教育ではすっきりしてない。
Kところで、渡来人関係を論考する場合避けて通れない問題がある。即ち、日本人はいつ頃から、何故、朝鮮半島及びその出身者である渡来人に対して特別な感情を抱くようになったか、その歴史的背景はどこにあるかの問題である。その一部は上述した。
この難問に対し真正面に真面目に取り組んだ本がある。  山尾幸久著「古代の日朝関係」塙書房(1989年)である。
非常に綿密な調査に基づくクールタッチな論考がされている。その根幹は、『政治的な理由により史実をねじ曲げて、記紀に朝鮮半島の一部を日本の属国(または領土的扱い)として記録したことにある』としている。と筆者は理解した。
日本書紀・古事記批判から奈良時代頃までの朝鮮半島側からの歴史資料と日本側からの歴史資料とを対比しながら記されている。
筆者には手におえない難解な500頁にも及ぶ大論考であるが、我々現在の日本人の多くが全く知らない多くの示唆に富んだ内容がある論文である。
これが日本の歴史学会でどう評価されているのか筆者は分からない。
勿論現在の日本と朝鮮半島の国々との問題とは直接関係はない。しかし、倭国の時代から外国として最も深く付き合ってきたのは朝鮮半島の国々である。勿論中国もあるが、これは朝鮮半島の国々と対比すれば比較にならない程影響力は小さい。記紀に記された記事の多さを見れば一目瞭然たるものである。
L日本の明治時代から始まる(その根はもっと昔からあったとされる)皇国史観は、常軌を逸していた。その原点は色々あるが、前述したように記紀の記述にあったともされている。一方、最近の朝鮮半島側の歴史認識にも常軌を逸した類が多い。残念である。
戦後でも我々は、記紀にこの朝鮮半島との関係についてどんな記事が記されていたのか、教育されていない。
史実に照り合わせて、これは正しい。これは史実ではない。と冷静な史観に基づき、はっきりさせるべきではなかろうか。
勿論現在でさえ、日本側の専門家の歴史認識と朝鮮半島側の歴史認識が学問的にも一致してないことが多々あるようである。さらに日本国内の専門家の意見も一致してない点も多いのが現実である。
1,000年以上も前のことだから、どうでもいいではないか、というのが多くの人々の感想かもしれない。
しかし、上記の山尾論文を読むと、筆者の想像を絶する大昔から、日本人と朝鮮半島の国々との間には認識の違いが存在していたようである。これが両方でそれぞれその認識の違いのまま、子々孫々に伝承され醸成されてきたのである。
これは大変不幸なことである。
少なくとも歴史的事実と政治的にどう判断してきたかは別物である。記紀が非常に政治的判断が入った歴史書であることは古来から言われてきたことである。
これ自体を今更どうこう出来るものではない。
M朝鮮・日本両方の古代史の歴史学者は、もっと交流を深めて欲しい。そして、真実の歴史をクールに確認し合うことこそが、この問題の解決の一つの糸口を掴む原点となろう。我々は、1,000年以上も前の我々の祖先の政治的判断(これを非難しても始まらない)のつけを日本も朝鮮半島側も共に、今に引きずっているようでならない。
七支刀・高句麗広開土王碑・宋書倭国伝・百済記、百済新撰、百済本記(百済三書)などの歴史的遺物に記された記事の両者の統一的解釈が未だ出来ていないのは残念である。
N何故に、4世紀末から5世紀末にかけて、秦氏・漢氏など朝鮮半島からの膨大量の渡来人が日本列島に来たのか、筆者には納得のいく理由が見つかっていない。
当時朝鮮半島で国が乱れ、その対立関係に破れた一派が新天地を求めて、一種のボートピープルになったのである。どう飾り立てても難民だったのである、と言う説。
元々中国系の氏族だから、元々からの朝鮮半島の氏族にはしょせん受け入れられなかったのである、という説。
などあるが、彼等の中には当時としては新技術・新文化を持った優秀な知識人も多数含まれている。それが何故自分らの祖国・土地を捨てたのか、余程の理由があったはずである。
その後の日本文化の真の基礎作りに貢献した渡来人発生の真の理由が解明されてないように思える。
当時の大和朝廷は決して彼等を排除はしていない。むしろ歓迎しているように感じる。
しかし、記紀に記された理由(日本には非常に優れた指導者・天皇がいるからそれを慕ってやってきたのである。的な記事)は、そのままでは、筆者には受け入れ難い。
後の百済国・高句麗国が新羅国に滅ぼされ、その王族中心の亡命的渡来人の発生は非常に分かり易い。これと同類の理由であったとも思えない。
O渡来人出身の豪族では、さらに百済氏、高麗氏などあるが、また別稿で取り上げたい。
P筆者は残念ながら中国、朝鮮半島の地理、歴史には全く疎く、上記記述の中にもこれに基づく誤解、理解不足、過ちがあるものと思うが、ご容赦願いたい。
 
 
6)参考文献
・「坂上田村麻呂」高橋 崇  吉川弘文館(1986年)
・「古代の日朝関係」山尾幸久 塙書房(1989年)
・「古代の日本と渡来人」井上満郎 明石書店(1995年)
・「吉士と西漢氏」加藤謙吉 白水社(2001年)
・「古代豪族の研究」 別冊歴史読本12 新人物往来社(2002年)
2006-4-30掲載