TOPへ   戻る
9.尾張氏考
1)はじめに
 古代豪族で最も長く続いた豪族は何氏かと聞かれたら、天皇家を別にすれば、系図がはっきりしているのは、尾張氏であると答えざるをえない。
前記した物部氏は、奈良時代までは歴史上色々出てくるが、尾張氏は平安末期の源頼朝まで絡んでくるさらに長い系図と歴史的活躍が記録に残されている。
勿論物部氏も尾張氏もさらにその累孫は現在まで続いていることであろうが、あくまで公知にされている系図文献などでの世界の話である。
1992年京都府宮津市にある籠(こも)神社に伝わる「籠名神神社祝部氏系図」と「籠名神宮祝部丹波国造海部直等之氏系図」なるものが、国宝指定され、全文が公開された。
籠神社の社家は、現在も海部(あまべ)氏である。
そこで、前者を「海部氏本系図」後者を「海部氏勘注系図」と呼ばれている。
系図が国宝に指定されたのは、初めてのことである。
「勘注系図」は平安時代の885年ー889年に海部直稲雄によって収録され、江戸時代初期海部直千代によって書写されたものとされている。
これが国宝指定されたのは、現存する系図の中で日本最古のものであることが証明されたからである。
しかも公的機関により認定された一種の公認系図であることが分かっている。
但し、公開することは諸事情により堅く禁じられていたようで誰にもその存在は分からなかったものである。
これが、尾張氏の系図とその元祖から10数代に亘って一部重なることがはっきりした。
尾張氏の系図は、従来は記紀に一部があるが、大部分は平安時代に造られたとされる「先代旧事本紀」が知られている。
これとは全く異なる目的で、ほぼ同じ頃に旧事本紀そのものではない資料に基づき造られた系図である。
記紀にも旧事本紀にも含まれていない多くの情報が記されているとのことである。
既に「物部氏考」の項で述べてきたように、現在では一般的には、物部氏と尾張氏は天孫族である「天火明(あめのほあかり)命」即ち「饒速日(にぎはやひ)命」を始祖とした、同族とされている。
尾張氏は物部氏に比し歴史上影が薄い存在であることはいなめない。
しかし、欠史八代から記紀にも登場する天皇家への后妃供給氏族であった。
その最期が26継体天皇の妃尾張目子媛であった。
27安閑天皇、28宣化天皇の母である。
この後天武天皇の壬申の乱の時、天武天皇が一番頼りにしたのが尾張氏であったとされている。
これ以降平安時代を通して、熱田神宮大宮司家として都での公家暮らしをしていたものと思われるが、はっきりしない。
平安末期尾張氏はどんな理由かは、はっきりしないが、夢のお告げとされているが、娘婿であった藤原南家流の貴族に大宮司職を譲ってしまった。
尾張氏としての嫡子はあったのにである。
ここで正式には尾張氏は歴史の舞台から退いたとされる。
前述の籠神社の現神主は、初代から海部氏としての血脈を嗣ぎ、82代目だそうである。物部氏系にも似たような神主家が東北の方にあるようだが、正に天皇家並の血脈である。
こちらの方は、海部氏から分家したのが尾張氏である。と主張されているとか。(一般的には尾張氏から分かれたのが海部氏であるとされている。)
少なくとも1700年近く脈々と続いた訳である。
驚くべきエネルギーである。
鳥取県に因幡一宮宇倍神社がある。ここの社家は伊福部(いおきべ)氏であった。
ここに「因幡伊福部臣吉志」という古系図が残されている。
これも過ってより、歴史家の研究対象であったが、伊福部氏も饒速日命から流れた物部系の一族とされている。
しかし、これも複雑で五百木部(いおきべ)氏は本来、尾張氏の流れとされ、同族ではないかとの議論が古来からある。
この因幡伊福部氏系図では、ニギハヤヒは出雲系の大己貴神の子孫であると明記されている。
これは意図的改竄が行われているとの説もある。
尾張氏の元祖に関しては、@天孫系火明命の流れでニギハヤヒとは関係ない。
A火明命とニギハヤヒは同一人物で物部氏、尾張氏は同族である。
Bニギハヤヒは出雲系の人物で尾張氏とは関係ない。など、非常に謎に包まれている。
本稿は、基本的には先代旧事本紀に基づき述べることにする。
それに記紀、勘注系図などの情報、最近の各種情報も考慮して、尾張氏の全貌解明の糸口を論考したい。

2)尾張氏人物列伝
 先代旧事本紀に準拠して記す。併せて国宝「海部氏系図」及び記紀その他各種情報に基づく記事をも載せた。
2−1)天火明命(?−?)神世
@父:天忍穂耳命 母:栲幡千千姫(高皇産霊尊娘)
A妃:天道日女(屋乎止女・高光日女:大己貴神娘)子供:天香語山 
佐手依姫(市杵嶋姫・息津嶋姫・日子女神:素戔嗚尊娘)子供:穂屋姫
三炊姫(御炊屋姫:長髓彦妹)            子供:可美真手(宇麻志麻治)兄弟:邇邇芸尊
B呼称:あめのほあかりのみこと     別称:ニギハヤヒ
古事記:「天火明命」 日本書紀:「火明命」
別名:天照国照彦火明命(日本書紀)ーーー天照御魂神
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(日本書紀:神武天皇東征以前に大和で王として君臨
「物部氏」祖と明記。但し天火明と同一神とは明記されてない)
饒速日命(にぎはやひ)と天火明命は同一神と明記してあるのは「旧事本紀」である。
但し、「海部氏本紀」には「饒速日尊亦名天火明命」の記述がない。ところが子供には
饒速日の子供とされている可美眞手命(宇麻志麻治)の名が明記されている。
C尾張氏の始祖。同時に物部氏の始祖(旧事本紀)となっている。
古来尾張氏は、天孫と記紀にも明記されているが物部氏はその辺りがぼかされており、新撰姓氏録にも物部氏は、天神の項に入れられた。現在もこの辺りの議論はつきないようである。
D古事記では天忍穂耳命の子供となっているが、日本書紀ではニニギ尊の子供となっており、一書の記述の中に上記の記述あり。子供「天香語山」となっている。
記紀の記述的には殆ど登場しない人物である。
E各地の天照御魂神社で祭神として祀られている。太陽神

2−2)天香語山命(?−?) 神世ー現世
@父:天火明 母:天道日女
A妃:穂屋姫 子供:天村雲
大屋津姫 子供:熊野高倉下(海部氏系図)
B別名:高倉下(旧事本紀)
C高倉下の神武東征時の熊野の段で登場。神剣「布都御魂」を用いて活躍する話。吉野へ先導した話。など
尾張氏遠祖。
この時に葛木高尾張から愛知県の尾張に移り中部地方に勢力を張ったという説もあるが、実際は「建稲種」の頃からではと言われている。
D新潟県「弥彦神社」祭神。

2−3)天村雲命(?−?)
@父:天香語山 母:穂屋姫
A妃:日向阿俾良依姫 子供:天忍人、天忍男
丹波伊加里姫 子供:倭宿禰(椎根津彦、天御蔭命:海部氏系図)
子供:葛木出石姫(母:伊加里姫?)忍日女(母不明)
B籠神社奥の宮「真名井神社」の創始者。
Cニニギ尊ー火明命ーニギハヤヒ命ー天香具山命と記す系図もあるようだ。

2−4)天忍人命(?−?)
@父:天村雲 母:阿俾良依姫
A妃:葛木出石姫 子供:天戸目
B 結果的に尾張氏本流となる。
C豊玉姫の弟「振魂命」の子供「天前玉命」と同一神とも。
 
・天忍男命(?−?)
@父:天村雲 母:阿俾良依姫
A妃:葛木劔根娘「賀奈良知姫」子供:瀛津世襲(葛木彦)世襲足姫(日置姫)建額赤
・瀛津世襲(?−?)
@父:天忍男 母:賀奈良知姫
A5孝昭天皇の后に妹「世襲足姫」がなり6孝安天皇の外戚的存在となり、孝昭天皇朝大連との記録もある。尾張氏として初めて記紀記述ある。別名「葛木彦」尾張氏祖とされている。

・世襲足姫(?−?)
@父:天忍男 母:賀奈良知姫
A夫:5孝昭天皇 子供:天足彦国押人(和邇氏祖)6孝安天皇
B尾張氏として初めて天皇妃となった。(記紀)

・建額赤
@津守氏(住吉神社神主)始祖。
A妻:葛木尾治置姫

2−5)天戸目(?−?)
@父:天忍人 母:葛木出石姫
A妻:葛木避姫 子供:建斗米 妙斗米(六人部氏祖)  別名:天登米(海部氏系図)

2−6)建斗米(?−?)
@父:天戸目 母:葛木避姫
A妻:中名草姫(紀伊国造智名曽妹)
 子供:建田勢(丹波国造・但馬国造祖) 建宇那比
子供:建彌阿久良(大分国造家)建手和邇(身人部氏祖)建多乎利
    宇那比姫(大倭姫・日女・竹野姫・大海靈姫:海部氏系図)など
・宇那比姫こそ卑弥呼であるとの説あり。
別名:建登米(海部氏系図)

2−7)建宇那比(?−?)
@父:建斗米 母:中名草姫
A妻:節(草)名草姫(城嶋連祖) 子供:建諸隅 
大海姫(葛木高名姫、大倭姫:海部氏系図)
B建宇那比と建田勢は同一人物説あり。
C7孝霊天皇時代の人物か。

2−8)建諸隅(?−?)
@父:建宇那比 母:節名草姫
A妻:諸見己姫(葛植祖大諸見足尼娘)子供:倭得玉彦 
B別名:由碁理(海部氏系図)
C記紀にも記述ある人物。10崇神天皇の命により、出雲の神宝を献上させるため、出雲につかわされた矢田部造遠祖として登場。

・大海姫
@父:建宇那比 母:節名草姫
A夫:10崇神天皇 子供:八坂入彦、淳名城入姫、十市瓊入姫、大入杵など
   この流れから12景行天皇、13成務天皇、15応神天皇、16仁徳天皇に繋がる。B記紀にも記述ある人物。

2−9)倭得玉彦(?−?)
@父:建諸隅 母:諸見己姫
A妻:谷上刀婢(淡海国)大伊賀姫(伊賀臣祖大伊賀彦娘)
子供:弟彦、日女、玉勝山代根古、彦与曽、置部与曽、など
B崇神の御世日子坐王に従い陸耳御笠を討つ。(丹後風土記残欠)

2−10)弟彦(?−?)
@父:倭得玉彦 母:不明
A妻:不明 子供:淡夜別?
2−11)淡夜別(?−?)
@父:弟彦 母:不明
・ここは彦与曽の子供小縫が嗣いだとの系図もある。

2−12)乎止与(?−?)
@父:小縫? 母:不明  父は「建斗米」の子供「建多乎利」とする系図あり。
A妻:真敷刀婢(尾張大印岐娘) 子供:建稲種
子供:美夜受比売(倭建妃:多くの物語伝承あり)
Bこの代から尾張国造家となる。

2−13)建稲種(?−?)                  
@父:乎止与 母:真敷刀婢
A妻:玉姫(邇波県君祖大荒田娘)
子供:尾綱根、真若刀婢(志理都紀斗売)、金田屋野姫
B娘を天皇家に妃として嫁がせ、15応神天皇、16仁徳天皇に繋げる
C丹羽氏は、尾張氏以前に尾張地方を治めていた豪族。この婚姻により、尾張氏がこの地方の実権を握ったと考えられている。
D尾張国熱田太神宮縁起に稲種の出生地は、愛知郡氷上邑とある。死んだのは駿河の海
である。としている。日本武尊の東征に従った。

2−14)尾綱根(?−?)
@父:建稲種 母:玉姫
A妻:不明 子供:尾張弟彦
B別名:尻綱根 応神大臣

2−15)尾張弟彦(?−?)
@父:尾綱根 母:不明
A子供:金、岐閇など
B応神天皇の時、尾治連姓を賜り、大臣大連となった。
・岐閇の子供「草香」の娘「目子姫」が26継体天皇の妃となり、27安閑天皇、28宣化天皇を産んだ。

16)金 17)坂合 18)佐迷 19)栗原 20)多々見
 
2−21)尾張大隅(?−?)
@父:多々見 母:不明
A妻:不明 子供:稲置
B壬申の乱で天武天皇方に味方し功臣となった。尾張宿禰姓を賜り、熱田大神宮宮司。

2−22)稲置(?−?)
@父:大隅 母:不明
A妻:不明 子供:稲興
Bこの代から熱田神宮大宮司家となる。
C別名:稲公。

2−32)員職(?−?)
@父:員信 母:不明
A子供:季宗、季員、職子ら多数。
B夢のお告げによりこれ以降は、熱田神宮の大宮司家は娘職子の婿である藤原南家流れの藤原実範の息子「季兼」(1044−1101)に嗣がすことが決まった。これより以降は熱田神宮大宮司家は、藤原姓を名乗ることになった。この流れから、女性経由で、将軍源頼朝、摂関家九条道家など多数の歴史上重要人物が輩出されることになる。
C元々の尾張氏の血脈は絶えることなく続く。但しこれ以降歴史上有名人物はこちらからは出なかった模様。
D大宮司家を最終的に嗣いだのは藤原季範の息子「範信」の流れの「千秋氏」であるとされる。
 
3)尾張氏系図
尾張氏系図を先代旧事本紀に準拠して記す。平安時代以降は尊卑分脈、熱田神宮系図などを参考にして繋いだものである。総て公知である。参考として海部氏勘注系図の一部も載せた。系図の形での公知のものは少なく、本系図は、色々な文章記事を参考に筆者が作成したものであり、誤解、間違いがあるかも知れない。その段は、ご容赦願いたい。異説も多数あるので本系図に関しては、筆者創作系図とする。
4)系図解説・論考
 尾張氏の出自に関しては、記紀の神武紀で登場する「高倉下(たかくらじ)」であるであるとされ、系図的には「ニニギ尊」の兄「天火明命(あめのほあかりのみこと)」、又はニニギ尊の子供天火明命が、その父親とされており天孫族であることは明記されている。
これに対し物部氏については、記紀で「ニギハヤヒ」の存在は認めたものの、ニギハヤヒと天火明が同一人物とは記してない。
但し、日本書紀には、「天照国照彦天火明櫛玉饒速火尊」の名前は記されている。
天火明命は、「天照国照彦火明命」と日本書紀に記されている。
確かにそっくりである。
神武紀などの記述などからも、ニギハヤヒは天孫族であると物部氏側は思っていたが、平安時代初期「新撰姓氏録」に、普通の「天神族」として記録されてしまった。
落ちぶれたとはいえ名家を誇っている物部氏一族は反発し、「先代旧事本紀」なる本を出しニギハヤヒと天火明とは同一人物で、そこから発生した「尾張氏」と「物部氏」は同族であると主張した。
「物部氏考」の中でも述べたように、現在ではこの本はそれなりに信憑性ありと評価されており、通常は尾張氏と物部氏を同族として考えている。
ところがここに「海部氏勘注系図」なるものが国宝指定され公開された。
元来この系図は秘系図とされてきたものである。
その理由は色々議論されているが、記紀に記された正規の日本の歴史を、場合によっては否定しかねない事項が記載されてあった、からだと言う説。
記紀編纂時多くの豪族・神社の系図提出が求められが、海部氏は、それを免れた(余りに大和の地から離れていたから?)か、無視されたか、写しをとったのかは判然としない。
旧事本紀が参考にしたであろうと思われる尾張氏元祖付近の古系図か、その写しの類を有していた模様である。
この系図は、物部氏については何ら記載がないので、海部氏(尾張氏)だけのものである。
旧事本紀は、この原典と、物部氏側に伝わっていた物部氏系図を併せて記録したものであろう。と考えられている。
それ程この2者の系図は似ているのである。細かくは色々異なる。これは後述する。
旧事本紀の方は、神世、天皇家、も含め体系的に記されているので、筆者は基本はこれに従うものとする。
但し尾張氏側に立つ人は、現在も物部氏との関係を否定するとのことである。
神社関係者の間では色々利害が関係するのだろうか。
いずれにせよ「天照御魂神社」は本式には、ニギハヤヒを祀っていないらしい。
「2天香語山」は一般的には、「高倉下」と同一人物と考えられている。
ところが「海部氏勘注系図」では、高倉下は、天香語山の子供とされている。
高倉下は神武紀に登場する人物であり、色々年代などを推察する上で興味ある事項らしい。
「3天村雲」辺りから神世を離れたと考えれば良いと思うが、勘注系図でも旧事本紀でも登場する各人物の妃が、出雲神話の世界の人物ばかりである。
一人「三炊媛」だけが大和の媛である。
これは一体何を暗示しているのか。
天村雲の妃に日向出身の人がいるが未だ神世の名残なのか。
この後数代が、旧事紀と勘注系図は異なる。筆者の調査したところでは、尾張氏系図としては、一般的には旧事紀の方が認知されているようである。
海部氏系図では、急に倭宿禰(椎根津彦)が登場することに違和感がある。前述したように、倭宿禰は記紀にも登場する人物であり、一般的には「倭氏又は大倭氏」と呼ばれている。神武紀に登場するし、系図も公知のものがある。
さらなる検討がいるであろう。
次ぎに記紀に登場するのは「瀛津世襲」と「世襲足姫」兄妹である。
欠史八代5孝昭天皇の后として、突如尾張氏の娘が登場するのである。
それまでは磯城氏系の妃が沢山名を連ねていたのに、何故ここで尾張氏なのか。
この時兄瀛津彦は「葛木彦」と呼ばれ5孝昭天皇の大連となったと旧事紀には記されている。
この媛の流れから「和邇氏」が発生し「彦坐王」が出ることになる。
明らかに王朝の女系統の流れがここで変わったとされている。
ということは王朝のパトロンが替わったことを意味しないか。
又別稿でこの辺りは触れることにするが、尾張氏はこの時はこちら(天忍男流)が本流であったと思う。
事実葛木彦のことを尾張氏祖と記紀では記している。
参考であるが葛木彦の弟とされる「建額赤」の流れから住吉大社宮司家「津守氏」が産まれる。
この系図も詳しいものがある。
その意味では物部氏は石上神宮、尾張氏は熱田神宮、津守氏は住吉大社、海部氏は籠神社と現存する大きなお宮こそ超長寿命血脈が残されたと考えられる。
政治権力を握った者は、どこかで必ず滅ぼされた。そこから一寸はずれたところで血脈が保たれているようである。
尾張氏は、この時代「葛木高尾張邑」付近にいたものと思われる。いつ頃までいたかは意見が分かれるらしい。(海部氏は、丹後半島に拠点があった)
この系図で天忍男の妃とされているのは劔根娘であるが、「劔根」は、本シリーズ「葛城氏考」でも記したが、記紀神武紀で「葛城国造」とされた人物である。
同じく神武紀で「倭国造」とされたのが前述の「倭宿禰」である。何故この2人だけが国造に任命されたかは定かでない。
海部氏勘注系図のように、この倭宿禰がもし尾張氏(海部氏)だとすると、記紀系図はかなり変わったものになるのではないか。
「椎根津彦」と「宇豆毘古」は古来同一人物とされている。
宇豆毘古は、大倭氏祖であり、吉備海部直祖となっており、記紀に登場する「市磯長尾市宿禰」(崇神天皇により「倭大国魂神」を「大和神社」に祀ったとされる人物)の祖に位置づけられてきた。
「豊玉毘売」の弟「振魂命」の息子に「武位起命」がおり、その子が「宇豆毘古」とする系図が公知である。
武位起の兄に「天前玉」という神がおり、これが「天火明」と同一人物とされている。
非常に近い関係が見えてくるが、一寸合わない。
しかし、吉備海部直祖となっており、何かしら海部氏と倭氏が関係していたことは窺える。ここいらも今後の検討が進められることを期待したい。
旧事紀と海部氏系図はこの数代が異なる。
「建田勢」と「7建宇那美」は同一人物とも言われているようなので、次ぎの「8建諸隅」では両者は合致する。
その妹に「大海姫」という記紀にも登場する女性がいる。
この媛はその後の天皇家では非常に重要な位置にいることが分かる。
記紀にも登場する「13建稲種」娘らと大海姫の血脈を引く皇族が複雑に絡んで15応神天皇の子供「16仁徳天皇」を産んでいる。
この系図を信じれば、仁徳天皇の半分は尾張氏の血である。
ところが、この時尾張氏が政治の表舞台に出た形跡はない。
仁徳天皇の時、前述葛城氏が政治の表舞台に急遽登場するのと対照的である。
「12乎止与」の時、尾張氏は「尾張国造」となったとされる。
この子供が「ヤマトタケル尊」と結ばれる「美夜受比売」である。
この時「草薙劔」が登場する。この草薙劔を神宝として美夜受媛が祀ったのが熱田神宮の始まりとされている(景行天皇の時代)。
「13建稲種」の時には、尾張国を手中におさめている。
但し尾張国へ居住してたかどうかは不明。
少なくとも建稲種の娘等は皇族と婚姻関係にあり大和にいたと考える方が妥当。
「熱田神宮宮司」とはっきり記されたのは、ぐっと下って「21尾張大隅」辺りからである。(熱田神宮系図でもそれ以前不明)
建稲種以降は海部氏系図と尾張氏系図は大きく異なってくる。
恐らくこの辺りで海部氏と尾張氏が分離したものと思われる。
ここまでを海部氏とするか尾張氏とするかは、見解が分かれるところだが、常識的には尾張氏で良いと判断する。
さてこれ以降は、尾張氏が歴史上登場するのは、「尾張草香」の娘「目子媛」である。
26継体天皇の妃として急に現れる。
尾張本流では18佐迷・19栗原辺りである。
「15尾張弟彦」が応神天皇時の大臣だったとの旧事紀の記述は、時代的にはほぼ整合性ありである。
「壬申の乱」に尾張氏は天武天皇方に味方し、その功により「尾張宿禰姓」を賜り、この頃から熱田神宮の宮司、大宮司職に就いた模様である。
それまでは何氏がやっていたのだろうか。
以後平安時代も延々と宮司を続けるが、「32員職」の時、娘婿である藤原南家の「季兼」に大宮司職を譲り以降は大宮司家は、藤原氏を名乗った。
この流れは日本の歴史を替えることになる。
系図に示したのは、ほんの一部である。
歴史上の重要人物が、関連系譜に次々登場してくるのである。
その筆頭が「源頼朝」である。この熱田神宮大宮司の娘なくして頼朝の出世も鎌倉幕府の成立も無かったとされている。
それ程この藤原氏の威力があった訳で、これは従前の尾張氏では、望むべくもなかったこととされている。
尾張氏嫡系もその後も存続したことは事実。
熱田神宮大宮司家は、「藤原範信」の流れが「千秋氏」と名乗り、存続した。
ここまではオーソドックスな解説である。
何しろこれだけの人物が記録されているが、公式記録上で、その生没年が分かる人物が一人もいないのである。
それほどこの氏族は、マイナーな氏族だったのでしょうか。
最近、丹波王国説、邪馬台国丹波説、などが提案され、色々な発掘調査の成果も出てきて、丹波、丹後、若狭、但馬付近が賑やかになっている。
丹後半島には大型の前方後円墳が発掘され、この付近が並のレベルでない文化、経済の中心があったものと推定され始めている。
ここに登場する人物が、卑弥呼、壹与、由碁理、彦坐王、丹波道主、日葉酢媛、天御蔭命彦湯産隅命、豊受大神、素戔嗚尊、大国主など古代史を賑わかす、面々である。
これが、前述の国宝「海部氏勘注系図」の公開を契機に、過去に推定された人間模様を書き直さざるをえないような、展開が始まっている。
例えば、尾張氏系図に「6建斗米 」の子供として記されている「宇那比姫」こそ「卑弥呼」であり、崇神天皇妃「大海姫」又は開化天皇妃「竹野姫」は卑弥呼宗女「台与(とよ)」であり、「8建諸隅 」が「由碁理」である。
など籠神社の系図に付されている説明が匂わせている日本古代史の秘部(これがあるから秘系図とされたらしい)が、大きな波紋を投げかけているのである。
これら文献と各種の発掘調査の照合が楽しみである。
ひょっとすれば「卑弥呼の墓」が丹波・丹後で見つかるかも知れないと期待しているマニアもいる。
専門家は未だ正式見解を出していない。
筆者はこれらの新説に関しては、未だ勉強不足でコメント出来るレベルにないのであるが、
敢えて海部氏系図に準拠した筆者創作系図を参考系図3)として載せた。
理解不足があることはご容赦願いたい。
これについて解説したい。
@旧事紀と先ず異なるのが、天村雲の子供で「伊加理姫」との間に出来た「倭宿禰」を海部氏の3代目にしていることである。
倭氏と海部氏が関係ありそうなことは記紀からも想像出来るが、余りに直接的なのに驚いている。
これが数代後から旧事紀の尾張氏と同一人物に繋がる訳だから、難解である。
「建田勢」と「建宇那比」は同一人物との説もあるので、この辺りでどちらかが猶子相続したのではなかろうか。
「伊加里姫」は、日本書紀神武紀に登場する吉野首祖「井氷鹿」と関係していることは間違いない。
井光、伊伽利、猪刈など色々な記述であるが、皆同一。
舞鶴市「笠水神社」が丹後にある、その本拠地のようである。
吉野にも「井光神社」があり、どうもこの両地は、水銀採掘の関係で結ばれているようである。
笠水神社は、倭宿禰の子供「笠水彦」を祀ってある。(この辺りの筆者の調査不十分)
伊加里姫の娘が葛木出石姫(角屋姫)であり、天忍人の妃であり、以後の旧事紀でいう尾張氏となっている。
また倭宿禰の亦名を「天御影命」としている。
これは理解出来ない。「天御影神」は古来その出自がよく分からないが、これでは神武紀辺りになり参考系図4)に示した息長水依比売の父と余りに時代が離れ過ぎている。
何を意味するのであろうか。
尾張氏の本当の本流は、倭宿禰・天忍人どちらか不明。
少なくとも海部氏は、倭氏本流と主張するであろう。
海部氏と尾張氏は同祖であるが一緒になったり離れたりしているのかもしれない。
尾綱根以降は間違いなく別々。
A「笠津彦」の子供か、建斗米の子供かは、分からぬが建田勢(建宇那比)の妹に「宇那比姫」がいる。
この姫が「卑弥呼」に比定されるとの説がある。
旧事紀には、名前だけしか記されてないのでよく分からぬが、海部氏系図では多くの亦名が記されており、これが邪馬台国女王「卑弥呼」を匂わせているわけである。
B「建諸隅」は亦名「由碁理」と記されており、この名は記紀共に記述あり。
開化天皇妃竹野姫の父としてである。
となると2)系図のような流れが考えられるが、4)一般記紀系図に示したように「丹波道主」は彦坐王の流れであるとの説もある。
C由碁理の妹又は従妹と思われる「大倭久邇阿禮姫」が記されている。
記紀とはこの姫の出自は異なるが、孝霊天皇の妃となり、「倭迹迹日百襲姫」を産んでいる。
この姫も「卑弥呼」に比定されている人物の一人である。
D前述の「竹野姫」にも多くの亦名が記されており、魏志倭人伝の「台与」であることを匂わせている。
E「丹波道主」は記紀では有名人である。
その妃として記紀では「丹波川上摩須郎女」と記されている。
海部氏系図では、倭得魂の亦名を「川上麻須」と記してある。
よってこの人物の妹又は娘が「麻須郎女」である。
この間に産まれたのが有名な「日葉酢姫」であり、垂仁天皇の后となり12景行天皇を産んだとなる。
F記紀及び旧事紀には、「建諸隅」妹とされる崇神天皇妃「大海姫」は海部氏系図では分かりにくいが、倭得魂の子供と判断して本系図を作成した。
建諸隅の子供かも知れぬ。妹ではなさそうである。
建諸隅は記紀登場人物である。
G「川上麻須」の流れに「建振熊」なる人物が登場する。
この人物は「難波根子建振熊」と同一人物ではないのか。
記紀では「和邇氏」の大人物として活躍している人物である。
どうもこれと重なる。
勿論この人物は尾張氏系図には登場しない。難解である。
以上のようなことが記された系図が、国宝として認定されたのである。
これをそのまま見ると邪馬台国丹波説または大和説になる。
いずれにせよ、この頃大和と丹波は非常に密な関係があったことが窺える。
記紀が隠したとされる、「魏志倭人伝」記載の邪馬台国・卑弥呼・台与などの記事。
倭氏の本当の出自。それに「彦火明」に関する事項(記紀ではほとんど記述なし)など、持統天皇・不比等などには都合の悪いことが書かれてあったのであろうか。それとも海部氏が公開することを憚った、もっと日本の歴史を覆すような事項が記録されていたのであろうか。未だ筆者などにはその本当の真相は理解出来ない。
 最後に、古代氏族である、尾張氏・津守氏・海部氏・伊福部氏・掃部氏・安曇氏・倭氏・大倭氏・吉備氏・賀茂氏・葛城氏などは、古い時代血脈が繋がっていると考えていることを付け加えたい。
それが後の歴史上で微妙に影響していると思わざるをえない。
逆にあれ程同族を主張している物部氏が、尾張氏と婚姻も含めた具体的な、明確な関係を何故持たなかったのか、が不思議である。
・筆者の主張
@尾張氏は、天皇家・物部氏と変わらぬ歴史・系譜を有する古代豪族である。
A尾張氏は、天皇家を除けば最も長い系図を残している古代豪族である。
B尾張氏は、天皇家と婚姻関係(天皇妃などの供給)を通してその時代毎に重要な役割を演じてきたことが窺えるが、尾張氏自身が歴史の表舞台に出ることは決してなかった。
C尾張氏と海部氏は同祖ではあるが、その居住地の関係がはっきりしない。尾張氏は、葛木高尾張邑出身で乎止与・建稲種時代には尾張国を掌握していたと思われるが、そこに居住していたかどうかは不明。
D尾張氏(海部氏)の祖が「魏志倭人伝」の「邪馬台国」に関係していたかどうかは不明。未だ史料不足。今後の発掘調査との整合必要。
E国宝「海部氏勘注系図」が、従来からの日本史に何等かの変更を迫るインパクトを与えていることは間違いない。

参考文献
・「古代物部氏と先代旧事本紀の謎」 安本美典 勉誠出版(2002年)
など