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42.清原氏考
1)はじめに
春は曙。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。
秋は夕暮。夕日のさして山端(やまぎわ)いと近くなりたるに、烏の寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入(ひい)りはてて、風の音、蟲の音(ね)など。
冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃(すびつ)・火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。
                             (枕草子 第1段)
これは、誰もが知っている超有名な文章である。筆者も高校時代の古文の時間に何度も何度も或るリズムを持って読まされ、暗唱させられた文章である。
この文の作者こそ、「清少納言」と呼ばれた平安時代を代表する女性の一人である。
「枕草子」と「源氏物語」(作者:紫式部)は平安時代の女流作家による双璧の名文と古来からされてきたのである。この枕草子の作者である清少納言は、古代豪族「清原氏」の出身である。一条天皇の中宮「定子」の女房になった時の呼称である。「清」は清原氏を表したとされている。少納言については何故その名が付されたのかは不明とされている。本名は不明である。父親も曾祖父も歌人として記録に残されてはいるが、位は低く、マイナーな一族出身であったことは間違いないのである。
曾祖父「清原深養父」の歌
・夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづくに 月宿るらむ
小倉百人一首36番 清原深養父(『古今和歌集』夏)
父「清原元輔」の歌
・契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪越さじとは
小倉百人一首42番 清原元輔 (後拾遺集 恋)
清少納言の歌
・夜をこめて 鳥の空音(そらね)は 謀(はか)るともよに逢坂(あふさか)の 関は許(ゆる)さじ
小倉百人一首62番 清少納言 (『後拾遺集』雑)
 
清原氏は奈良時代の天武天皇の息子、舎人親王を元祖とする皇別氏族である。しかし、平安時代初期の新撰姓氏録には記されていないのである。その活躍は殆ど一般の人々には知られていないのである。ただ一人「清少納言」だけが、突出して有名になったのである。藤原氏が中央朝廷では勿論、日本全国の隅々までその主導権を掌握してきた平安時代にあって、このマイナーな古代豪族はどのように生き残ってきたのか、本稿では、色々な角度から見ていきたいと思っているのである。
謎だらけの氏族ではある。筆者が住んでいる京都府長岡京市にある勝竜寺城にもこの清原氏の末裔達が関係してくるのである。また、平安末期の源氏・平氏の台頭にもこの清原氏が密接に関係しており、あの源義経の平泉「衣川の合戦」にも関係していたことを知ったとき、清原氏の拡がりと活躍が非常に多岐にわたっていたことが分かるのである。
どこまでが史実で、どこまでが伝承で、どこまでが虚飾なのは判然としない箇所も多々ある。それがまたアマチュアには非常に興味が、そそられる古代豪族の姿である。
本稿では解説の都合上、古代豪族「奥州安倍氏」「奥州藤原氏」などにも若干の系図・解説を加えたい。
古代豪族の平安時代以降の姿は非常に追跡することが困難である。それにしても、この清原氏は珍しく系図が詳しく残されている数少ない氏族である。しかもその後の歴史上の有名人物と関係してくるので非常に興味があるのである。
 
2)人物列伝
既稿「古代天皇家概論U」の系図及び系図解説を参考として、清原氏の人物列伝を記したい。舎人親王を祖とする皇別氏族である。
舎人親王には沢山の息子があり、その多くの裔達が臣籍降下するとき、清原真人姓が与えられた。後世に系図を残したのは僅かである。それも謎だらけで色々な系図が存在するので、どれを本流とするかは諸説あるのである。筆者は「清原夏野」を本流とした系図を中心に人物列伝を作成した。

●舎人親王(676−735)
@父:天武天皇 母:新田部皇女<天智天皇
A子供:淳仁天皇・御原王・船親王・守部王・貞代王など多数
B718年一品 720年藤原不比等の死後、知太政官事。長屋王とともに皇親政治推進。
720年日本書紀編纂責任者。藤原4兄弟政治に協力。長屋王を自害させた。
C天武天皇皇子の中で最後まで生き残った。
 
○守部王
@父:舎人親王 母:不明
A子供:猪名王
B従四位上
 
・猪名王
@父:守部王 母:不明
A子供:乙村王
B従五位下
 
・乙村王
@父:猪名王 母:不明
A子供:清原岑成  別名:弟村王
B

・清原岑成(?−861)
@父:乙村王 母:不明
A子供:
B参議従四位上・太宰大弐
C833年清原真人姓を賜る。
 
○貞代王
@父:舎人親王? 母:不明
A子供:清原有雄
B大監物従5位下
Cこの流れが清原真人氏の元祖という説もある。
 
・清原有雄(?−857)
@父:貞代王 母:不明
A子供:道雄
B越前・摂津・出雲・849年肥後国守。散位従四位上 ( 857年12月紀)
C父貞代王が舎人親王の息子だと没年?  天武天皇五代の孫と明記されている。
                   本系譜では3代孫である。
D848年に清原真人姓を賜る。
E鈴木眞年著「史略名称訓義」の中で、「清原光頼」に「舎人親王三世少納言小倉王、孫肥後守有雄賜清原真人姓、其八世孫兵部大輔光方、男ナリ」 とある。
 
・道雄
@父:清原有雄 母:不明
A子供:海雄  別名:通雄
B
 
●三原王(?−752)
@父:舎人親王 母:当麻山背(当麻老娘)
A子供:小倉王・和気王・石浦王 他多数。別名:御原王
B749年正三位中務卿
 
・清原長谷(774−834)
@父:石浦王<三原王 母:不明
A子供:
B798年清原真人姓を賜り臣籍降下。日本後紀 公卿補任
C831年参議。従四位上。
 
●小倉王
@父:三原王 母:不明
A子供:清原夏野
B正五位下、少納言790年高野新笠崩御時、山作司。
C804年臣籍降下。清原真人姓を賜る。(804年6月紀:小倉王上表文)
 
清原姓を賜った夏野からの人物列伝

2−1)清原夏野(782−837)
@父:小倉王 母:小野家主(小野縄手娘)
A妻:葛井庭子 子供:滝雄・沢雄・秋雄・春子  
養子:海雄(父:清原道雄)別名:繁野王 双岡大臣
B804年清原真人姓を賜り臣籍降下。       日本後紀837年10月紀
C823年従四位下。参議。830年大納言832年右大臣   833年従二位。
D833年令義解を編纂。
E娘春子は53淳和天皇の妃となり、明子内親王を生んだ。
E一本清原系図では夏野が始めて清原姓を賜ったと記されている。
 
・滝雄(799−863)
@父:夏野 母:不明
A次男
B831年雅楽頭
C最終官位:従四位上中務大輔
 
・秋雄(812−874)
@父:夏野 母:不明
A四男
B最終官位:従四位上豊前守
 
2−2)海雄
@父:清原通雄(貞代王流) 養父:夏野 母:不明
A子供:房則
B筑前守・伊豆守
C養父夏野説には異説あり。
 
2−3)房則
@父:海雄 母:不明
A子供:深養父・養子?:業恒
B豊前介・豊前守・ 出羽守 贈大納言
C夏野の養子説あり。業恒養子説には異説あり。
 
2−4)深養父
@父:房則 母:不明
A子供:顕忠(春光)・童文
B古今和歌集歌人。従五位下内蔵大允、肥後守
C海雄・房則・深養父は、間違い無く舎人親王流清原真人氏であることは間違いないが、通説。
 
2−5)顕忠(春光)
@父:深養父 母:不明
A妻:高向利生女、子供:元輔・元真
B従五位下下総守、長門守
 
2−6)元輔(908−990)
@父:顕忠 母:筑前守高向利生女
A妻:周防命婦説あり。子供:致信(?−1017)・戒秀(?−1015・僧・歌人)・正高(豊後清原氏祖)・清少納言・為成(?−1025)
B歌人:梨壺の5人の一人。周防守。従五位上肥後守36歌仙の一人。
C986年肥後守として肥後国に赴く。現地で没?説あり。熊本の清原神社祭神。
Eこれ以降本流清原氏は歴史上から消えていく。
 
・清少納言(966?−1025?)
@父:元輔 母:周防命婦説?
A夫:摂津守藤原棟世 子供:小馬内侍 夫:陸奥守橘則光 
子供:則長(982−1034)
B枕草子(996−1010頃)の作者。981年頃陸奥守橘則光と結婚。離婚後摂津守藤原棟世と結婚。
C993年頃から一条天皇中宮定子に仕えた。
 
・小馬内侍
@父:摂津守藤原棟世 母:清少納言
A夫:平棟仲 子供:仲子
B清少納言の娘で歌人。
 
・正高(?−1027)
@父:元輔 母:不明
A子供:正道他多数
B少納言、豊後清原氏祖 豊後長野氏祖 豊後国玖珠郡を拠点とした。
Cこの流れは武家として永続した。
D小松女院との恋伝説
 
<奥州清原氏>諸説ある。

2−5ー1)重文
@父:深養父 母:不明
A子供:基貞?        別名:童文・重光
B周防守、出羽清原氏祖? 系図伝承に諸説あり。 
 
2−5−2)基貞
筑前守

2−5−3)基光
左京権大夫
 
2−5−4)光方
@父::基光? 母:不明
A子供:光頼・武則  別名:武頼?
B兵部大輔
 
別流清原氏

・長統王
@父:? 母:不明
A子供:玄瞻王・正文王、清原令望      続日本後記
B851−856臣籍降下 賜姓:清原真人 日本文徳天皇実録記事
C右京亮 従五位下
 
・清原令望
@父:長統王 母:不明
A子供:仲海
B従五位上・894年大宰少弐
C878年秋田城下の乱の時、小野春風に従い、出羽権掾として下向。平定後、秋田城司
となり、城介代行を務め、俘囚の長となった。
D出羽仙北の清原氏始祖との説。
 
・清原仲海
・清原樹蔭
・清原光蔭
 
(参考)前九年の役
@年代:1051−1062
A原因:奥州最大の勢力を有していた地元豪族安倍氏を当時の朝廷の勢力下に組み入れることを安倍氏側が拒否したこと。
B主戦場:奥六郡
C主な対戦指揮者:安倍側:安倍頼時・安倍貞任
         朝廷側:源頼義・清原武則
D結果:安倍氏滅亡。清原氏台頭、奥六郡は清原氏の領地となった。源氏の地位向上
 
・光頼
@父:光方 母:不明
A子供:頼遠   光方の長男  弟:武則
B出羽山北俘囚主
C前九年の役。源頼義より安倍氏との戦に加担してくれるよう強く要請された。
D弟の武則を派遣。勝利に導いた。この流れも後三年の役で滅びた。「陸奥話記」
 
・安倍忠良
@父:忠頼 母:不明
A子供:頼時・為元
B陸奥権守?
C古代豪族安倍比羅夫に繋がる系図がある。
 
・安倍頼時(?−1057)
@父:安倍忠良 母:不明
A子供:貞任、宗任、平永衝室、藤原経清室(清原武貞室))
B前九年の役の一方のリーダー 。俘囚の長。 陸奥大掾
本拠地:奥六郡(岩手県内部)・糠部(青森県東部)・亘理、伊具(宮城県南部)にまで勢力を有していた。
C1057年戦死。
D次男宗任の娘が藤原清衡の子供基衡の室になった。
 
・安倍貞任(1019−1062)
@父:頼時 母:不明
A子供:高星、則任、和任、源義家側室
B1051年父と共に前九年の役に参戦。1057年父が戦死した後安倍氏を継ぐ。
C1062年厨川柵で戦死。奥州安倍氏はこれで滅亡した。
D安東氏後の秋田氏は息子高星の後裔と称した。
 
2−5−5)武則
@父:光方?(平 安忠?清原武頼?) 母:不明
A子供:武貞・岩城武衡・家衡・公清(下野清原氏祖)武道・武忠  兄:光頼
妻:安倍頼清女
B出羽清原氏祖 この流れが出羽清原氏の本流となる。
C出羽仙北の俘囚長の兄光頼の弟・出羽国の在庁官人・俘囚長清原冷望の裔説  ( 陸奥話記)
D前九年の役(1051−1062)で俘囚豪族の安倍氏と陸奥守河内源氏源頼義とが戦い、清原光頼の弟武則が頼義軍につき活躍、その功により、従五位下鎮守府将軍 安倍氏の旧領奥六郡を領す。清原氏の台頭。これにより安倍氏は滅亡。

・光頼
@父:光方?母:不明
A子供:ョ遠
B出羽山北俘囚主
C1051年陸奥守河内源氏源頼義から奥州大豪族安倍氏討伐の援軍の依頼をうけた。
 
・武衡(?−1087)
@父:武則 母:安倍頼清女
A子供:
B陸奥国磐城郡を領す。
C後三年の役(1083−1087)
D家衡軍につく。1087年清衡・義家軍に敗れ、斬首。
 
2−5−6)武貞
@父:武則 母:安倍頼清女?
A子供:真衡・家衡・吉彦秀武妻・養子:清衡(藤原経清と安倍頼時女の子供)
妻:安倍頼時女
B従五位下鎮守府将軍?  押領使
C前九年役に参戦。勝利。
 
・家衡
@父:武貞 母:安倍頼時女
A子供:
B後三年の役                      
C叔父吉彦秀武の要請で仲の悪かった腹違いの兄真衡と戦う。真衡を支援した源義家軍に大敗、降伏。
D義家は真衡の所領6郡のうち3郡を分与。これに不満。1086年義理弟清衡を襲う。
E1087年清衡・義家軍に敗れる。
 
(参考)後三年の役
@年代:1083−1087
A原因:奥州最大の地元勢力を有していた清原氏内部の家督相続に関係した内紛に陸奥守
として奥州に派遣された源義家が介入した。
B初期の対戦指揮者:清原総領家:清原眞衝・源義家 
            不満派:吉彦秀武・清原家衝・(藤原)清衝
C眞衝病死後の戦:清原家衝ー藤原清衝 援軍源義家
D最終結果:清原氏滅亡。藤原氏の台頭。源氏は朝廷からは認められなかったが関東での地位を確かな物にした。これが鎌倉幕府へと繋がった。
 
・吉彦秀武
@父:吉美侯武宗 母:清原武頼女
A子供:    弟:吉美侯武忠 別名:荒川太郎
妻:武則女 真衡から見れば叔父。武則の甥であり娘婿という記事あり。
清原武頼は系図に無い。光方と同一人物か?
B前九年の役・後三年の役に重要関与。
C吉彦(吉美侯)氏は毛野氏の部民化した蝦夷の俘囚の一族と推定されている。
D真衝の郎党となるを不満とし、深い恨みを持ち後三年の役に参戦。
 
・清衡
@父:藤原経清 養父:武貞 母:安倍頼時女
A子供:惟恒・基衡・正衡・家清・清綱・佐竹昌義室・養女徳姫 妻:北方平氏
B後三年の役
C義理の叔父吉彦秀武の要請により仲の悪かった義理兄真衡と戦う。真衡を支援した源義家軍に大敗、降伏。
D真衡が病死したので義家は真衡の所領6郡のうち3郡を清衡に分与。これが原因で1086年義理弟家衡と戦う。源義家これを助けるが、家衡軍に敗れる。
E1087年義理の叔父吉彦秀武に助けられ家衡・武衡連合軍を破る。
F戦後清原氏の旧領総てを手に入れた。そして藤原姓に戻る。奥州藤原氏の祖。
G陸奥押領使。正6位上。
H平泉造営・中尊寺金色堂建立。奥州藤原氏4代の繁栄の基盤を造った。
 
・藤原経清
@父:藤原頼遠 母:平国妙姉妹
A子供:清衡 妻:安倍頼時女  別名:亘理経清
B陸奥国亘理郡(宮城県)豪族。藤原秀郷6世孫。
C陸奥権守従七位下。在庁官人。多賀城勤務。
D前九年の役で当初安倍氏側に属した。陸奥守源頼義就任後は頼義軍に属す。その後身の危険を感じ安倍氏側に復す。清原氏が参戦。安倍氏完敗。戦後斬首。その後妻は子供の清衡を連れて清原武貞と再婚。これが後の後三年の役の遠因になった。
 
・北方平氏
この女性の出自不詳。
説:源義業(源義光の息子)妻の平清幹(桓武平氏国香流大掾氏)女と同一人物であるという説あり。
平清幹女は佐竹昌義(佐竹氏祖)の母として有名。
 
2−5−7)真衡
@父:武貞 母:不明
A子供:養子:海道小太郎成衡 
B鎮守府将軍
C1083年叔父吉彦秀武と養子成衡の婚礼の時、衝突し、吉彦秀武は真衡と仲の悪かった家衡・清衡連合軍を組む。真衡は養子成衡の義理兄の陸奥守源義家と組んで戦った。
しかしこの時真衡は病死した。これが「後三年の役」の始まり。
 
2−5−8)成衡
@父:平安忠(出羽守平泰貞説など諸説あり) 養父:真衡 母:不明
A子供:驪`他 妻:多気権守平宗基孫娘(源頼義と平宗基娘との間の娘:源義家の義妹)
B1083年成衡の婚礼の際吉彦秀武が真衡と衝突した。妻の兄陸奥守源義家と組んでこれと戦った。これが、後三年の役の原因となったとされる。
C後三年の役後の動静不明。生き残った?
ここで本流出羽清原氏は滅亡。
岩城武衡の流れが続く。公清の流れは下野清原氏として続く。
 
業恒流清原氏(海宿禰流清原氏)

・凡海麁鎌(おおあまのあらかま
@父:不明 小浜宿禰の後裔説(小栲梨命の後裔説もある) 母:不明
A子供:足人   別名:大海蒭蒲 大海宿禰菖蒲(おおしあまのすくねあらかま)
B飛鳥時代の人物。凡海・大海は「おほあま」、「おほしあま」、あるいは「おほさま」
姓は連姓。
C日本書紀天武13年(684)紀:凡海連姓から凡海宿禰姓となる。
D大海人皇子(天武天皇)の壬生(養育係)
E大宝元年(701年)に陸奥国の冶金に遣わされた?位階は701年当時で追大肆。
F阿曇氏の系図では、浜子の父となっているものもあるが、時代が会わない。浜子の弟の小浜宿禰が、凡海(おおしあま)宿禰祖とあるので、この子孫か。それとも大海部直祖の多与志を出した尾張氏か、賀陽采女を出した吉備氏か。また、凡海郷のあった大浦半島の付け根の舞鶴市には、息長の転訛である「行永(ゆきなが)」があり、息長氏系の丹波道主命の本拠地であることから、息長氏の可能性もあるともいわれている。
 
2−3−1)業恒
@父:海信恒(麁鎌の7世孫) 養父:房則?  母:不明
A子供:広澄・善澄・近澄 兄弟:海薫仲  別名:業経 業垣
B古代豪族 安曇氏の流れである海氏から養子に入った?または清原姓を仮冒したとされている。この流れが貴族清原氏の本流となる。群書類従記事
C正五位下、左京大夫、勘解由次官
D群書類従系図:1004年海宿禰を改め清原真人と為る。儒業小野吉柯門人也。小野瀧雄二男。
 
2−3−2)広澄(934−1009)
@父:業恒 母:不明
A子供:養子:頼驕i実父:周防守清原近澄)
Bこの人物は儒家石見守小野吉柯(小野篁の従兄弟)の養子説あり。しかし清原姓を小野姓に改姓していない。疑問? ( 群書類従記事)儒家清原氏祖
C正五位下 大外記 大隈守
D通常の小野氏系図にはこの人物名は無い。小野吉柯はある。
 
2−3−3)頼驕i979−1053)
@父:近澄 養父:広澄 母:不明
A子供:定滋(1003−1054)・定驕i?−1072)など
B大外記職を世襲とする。正五位下河内守
 
2−3−4)−2−3−20)略
 
2−3−21)宗賢
@父:大蔵卿業忠 母:不明
A子供:養子:宣賢(実父:吉田兼倶)
B明経博士 正三位 非参議
 
2−3−22)宣賢(1475−1550)
@父:養父:宗賢 実父:神祇大副吉田兼倶 母:不明
A子供:良雄(業賢)・細川藤孝母(智慶院)・等貴・妙佐・吉田兼右
B国学学者・儒学者 歴史上屈指の碩学 正三位少納言 非参議
C1550年越前国一乗谷で没。
Dこの流れから堂上家 舟橋・伏原・沢 3家派生し幕末まで続いた。
 
2−3−23)良雄(業賢)(1499−1566)
@父:宣賢 母:不明
A子供:枝賢・数重
B従三位 非参議 少納言
 
2−3−24)枝賢(1520−1590)
@父:良雄(業賢) 母:不明
A子供:国賢 いと(マリア)
B宮内卿  正三位 非参議
 
・清原いと(マリア)
@父: 枝賢 母:不明
A
B1587年受洗 マリア 細川ガラシャ侍女
C明智たま嫁入り時の侍女とは別人説あり。
 
2−3−25)国賢(1544−1615)
@父:枝賢 母:不明
A子供:秀賢
B少納言・侍講 従三位 非参議
 
2−3−26)秀賢(1552−1591)
@父: 国賢 母:不明
A子供:秀相・伏原賢忠
B蔵人 堂上家 舟橋家となる。
C従四位上少納言・明経博士
 
以後省略
 
 
3)関係寺社
3−1)清原神社(熊本県熊本市春日1)
@祭神:清原元輔
当社の創建時期などは不明となるが、元々、祇園社の境内にあったと推定される。ご祭神の清原元輔は、肥後の国司として、寛和2年(986年)から正暦元年(990年)までの間、当地を治めていたとされる。この地で亡くなったとも言われている。
A創建時期:不明
B由緒:肥後国司になった清原元輔は986−990の間この地を治めた。
三十六歌仙に称される和歌の名人で清少納言の父としても有名な、清原元輔の御霊を御祭神として祀った神社。
C北岡神社の境外摂社
 
4)清原氏系
4−1)清原氏概略系図(姓氏類別大観準拠)
4−2)清原氏詳細系図(筆者創作系図)
参考系図)1)清原氏元祖部異系図(公知系図 原典不詳)
(参考系図)2)異系図(公知系図 原典不詳)
(参考系図)3)安曇氏系図・凡海・海氏系図
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
   
5)清原氏系図解説・論考
 古代豪族清原氏は、はたして古代豪族の範囲に入れるべきかどうか迷う存在である。
新撰姓氏録の左京 皇別氏族として、確かに清原真人氏が記載されている。しかし、この清原氏は本稿の対象としている清原氏ではない。姓氏録記載の清原氏は百済王の後也、と記されている。この百済王とは敏達天皇の子供の押坂彦人大兄皇子の子供の一人である。それ以上のことは全く不明の氏族である。
一方本稿で記してきた清原氏は、天武天皇の皇子である舎人親王の末裔氏族の一つである。よって皇別氏族であることには間違いない。
しかし、815年に編纂された姓氏録には記載がないのである。これには理由があるものと思うが、後述したい。
さて、この清原真人氏の系図解説を行うに当たり、謎・不明な部分が幾つか存在していることを記しておきたい。系図としては主に
@清原真人姓の本流氏族部分。A奥州清原氏部分。B海宿禰流清原氏部分。の3部分に分割解説をしたい。それぞれが一見繋がっているような系図が現存しているが、その実態は別々の系図の繋ぎ合わせが、どの時代かにされた可能性が高いと現在では考えられているからである。清原真人姓は全国的に拡がった氏族名である。しかし、その元祖部分は血脈的に異質なものを、お互いに有している訳である。これを区別して解説しておくことが重要だと判断したのである。
 
5−1)清原真人姓本流系図解説
 前述したように清原真人氏の本流を誰にするかは非常に難しく、今日では判然とは決めがたいのが現実である。その理由の一つは舎人親王には男の子供が多数いたことにある。舎人親王は天武天皇の子供の中で政争に巻き込まれなかった唯一の有力皇子であった。よって、その子供らも政争に巻き込まれなかったとされている。但し、淳仁天皇だけは例外的存在である。筆者の知る範囲では王になった息子は、9名以上いる。その王の子孫の大多数は臣籍降下する際に清原真人姓を賜った。膨大な人数がいたと推定されている。その主な流れが、三原王、守部王、貞代王の各末裔達である。清原真人姓以外の姓では、中原姓などがある。これは舎人親王ー船親王ーーーの流れである。
平安時代に有名になった女流作家の清少納言に繋がる清原氏が主流だったと仮定すれば、舎人親王ー三原王ー小倉王ー清原夏野ーーーの流れを本流とする説がある。筆者もこの説に準じた形で4−1)概略系図、4−2)詳細系図を記した。
しかし、これ以外にも多数の異系図がある。例えば参考系図1)及び参考系図2)などである。歴史記録に、その生没年が知られている人物としては、下記の人物が知られている。
清原岑成(?−861)、清原有雄(?−857)、清原長谷(774−834)、清原夏野(782−837)、滝雄(799−863)、秋雄(812−874)、元輔(908−990)、清少納言(966−1025)など。
歴史上の有名人は、岑成、夏野、元輔、清少納言くらいである。系図上で問題視されているのは、@清原真人姓氏の始祖を三原王とするか、貞代王とするかA夏野には多数の息子がありながら、何故貞代王流の海雄を養子にしなくてはならなかったのかB本流は貞代王ではないのかC貞代王の子供の有雄の没年、舎人親王(676−735)の没年から常識的判断をすると、貞代王の舎人親王子供説に無理が生じる?これが参考系図1のような異系図が存在する理由である。
清原有雄については、経歴が日本文徳天皇実録などに詳しく記されており、828年からの活動記事がある。この時20才なら808年頃の生まれである。没年は正しいとされているのである。50才ぐらいであり妥当。だとするならば、808年に貞代王は生存していた訳である。舎人親王の没年が735年である。一杯一杯の年令計算をすれば、有雄は貞代王の73才の時の子供であったことになり、常識的には無理がある。貞代王を舎人親王の孫だとすれば無理はなくなるのである。また上記日本文徳天皇実録には有雄を天武帝五代孫と記しているのである。(本稿系図1,2では、3代孫)
前述した、鈴木眞年著「史略名称訓義」の中で、「清原光頼」に「舎人親王三世少納言小倉王、孫肥後守有雄賜清原真人姓、其八世孫兵部大輔光方、男ナリ」 の記事は、この非合理を解消する内容が記されている。参考系図1)のようになるのかも知れない。
夏野の養子とされた海雄も無理がある。
筆者はどうであれ、以下のように判断した。清少納言の父親は元輔に間違いない。元輔の祖父が深養父であることも間違いないと判断する。この深養父の父親が房則であることも無難である。この房則には夏野の養子説がある。清原夏野は清原氏きっての実力者であったことは間違い無い。よって、海雄の夏野養子説が史実かどうかは判然としないが、海雄の子供である房則が、夏野の流れになり、清原氏の本流を継いだことは間違いないと判断する。清原本流は夏野の没後、都では、急速にその勢力を失った感は、いなめない。元輔は赴任地熊本で亡くなったとの説もあり、系図的には都での活躍記事はここで消滅するのである。
史実かどうかはっきりしないが、この元輔の後裔の清原氏として、豊後清原氏の系図がこの後、営々と残されている。これについては、解説を省略する。
 
5−2)出羽清原氏系図解説
 清原氏系図上では4−1)のように深養父の子供の重文の流れに清原光頼・武則兄弟がおり、これが出羽清原氏の祖となっている。しかし、これは現在では一般的には、史実では無いとされている。それはさておいて、武則以降の出羽清原氏について解説をしたい。
武則は日本の歴史上の人物として有名人物の一人である。
奥州の俘囚の長であった古代豪族「安倍比羅夫」の末裔である安倍氏(異説あり)と陸奥守河内源氏源頼義との戦いを「前九年の役」という。1051−1062の長期間の戦があった。安倍氏の勢いが極めて強く、国軍である頼義軍は非常にてこづった。この時出羽山北の俘囚主であった、清原真人光頼に頼義より援軍要請が数度にわたって行われた。遂に光頼は実弟の「武則」に援軍に参加することを決定し、武則はその要請に充分応え、安倍氏は滅亡した。この功により、清原氏は、安倍氏の旧領地であった「奥六郡」を貰い、清原氏の台頭に繋がった。
武則の妻は安倍頼清の娘である。この間に多くの子供がいることになっているが、その総てが安倍頼清の娘腹かどうかは不明である。家督は武貞が継ぎ、弟に武衝が、娘は吉彦秀武が婿となった。武貞の妻は、安倍頼時女で藤原秀郷の裔で奥州藤原氏である藤原経清(系図では父親は坂上田村麿の裔で秀郷の孫である千清の娘と坂上氏とが結婚して出来た頼遠が藤原正頼の養子に入った形になっている)の正妻であり、二人の間には既に「清衡」が産まれていた。武貞は清衡を養子にした訳である。武貞と、この女との間に「家衝」が生まれた。武貞には既に別腹の子供として「真衝」があった。この武貞関係の武衝・吉彦秀武・ 清衡・家衝・真衝などが家督を継いだ真衝の後継者問題で内輪もめを起し、それに奥州支配を目論む朝廷勢力(源義家)とが複雑に絡んで「後三年の役」が起こったのである。出羽清原氏の嫡流となった真衝には嫡男が生まれなかった。跡継ぎとして平氏の平安貞の息子「成衝」を養子として迎え、その嫁として、源義家の義妹を貰ったのである。このことが後三年の役の遠因となり、清原氏は完全に滅びることになった。残ったのは、清原清衡だけとなり、清衡は元々の姓である藤原氏に復姓し、これが奥州藤原氏へと繋がって、三代(清衡・基衡・秀衡)の栄華を極めることになったのである。出羽清原氏は、武則の子供公清の流れが後の下野清原氏になったとされている。この系図は史実かどうか不明であるとされている。
 
5−3)海宿禰流清原氏系図解説
 筆者系図4−1)4−2)に記されている清原房則の養子である「業恒」から始まる清原氏を、海宿禰流清原氏と称することにする。この清原氏こそ、中央貴族社会に根を張った堂上清原氏である。この清原氏が舎人親王系清原氏とは、血脈が異なることは明確である。その元祖部分には謎が多いとされている。系図仮冒説が有力である。そもそも清原業恒の父は、海信恒だとされている。海宿禰氏は古代豪族安曇氏の末裔だとされている。(既稿:安曇氏考参照)またこの清原業恒の子供に広澄・近澄がおり、広澄が家督を継いだが、男子が無く、弟の近澄の子供「頼驕vを養子とし、この流れが朝廷の大外記職を世襲して貴族清原氏が継続することになる。ところが、上記清原広澄は、古代豪族小野氏の末裔である「小野吉柯」の養子になったという説がある。しかし、小野系図には、この養子は記録されていないのである。清原広澄が小野姓を称したことは無いらしい。この辺りのことは後述の論考で考えてみたい。以後清原氏は儒家清原氏として永続するのである。後年歴史上に清原氏が登場するのは、「清原宣賢」からである。宣賢の実父は、有名な吉田神社の「吉田兼倶」である。清原宗賢の養子となり、国学者・儒学者として歴史上屈指の碩学と言われた人物である。宣賢の娘(智慶院)は当初、足利義晴将軍の側室となり、義晴の側近であった三淵晴員(細川氏から三淵氏に養子に入った)の側室となり「細川藤孝」を生んだのである。この藤孝こそ、熊本細川藩主家の元祖となるのである。またこの宣賢の曾孫にあたる「いと(マリア)」は、細川藤孝の嫡男忠興の嫁である明智光秀娘お玉(後のガラシャ)の侍女となり、お玉の受洗に関係したとされている。この 清原宣賢の流れから堂上公卿家舟橋家・伏原家・沢家が派生し、幕末まで続いたのである。
 
5−4)清原氏論考
 「日本後紀」によると、清原真人姓の初出は798年の友上王(舎人親王裔だが出自不詳)清原真人長谷の2名である。
続いて繁野王(清原夏野)・山河王の804年の2名である。ここで一寸統計的数字を筆者の調査に基づき記したい。新撰姓氏録への掲載がどのようなものであったかの参考資料になると判断する資料である。
736年以降814年までに臣籍降下した皇族の人数、それによって新たに賜姓された、氏姓の数、その内、姓氏録に記載された、姓氏数を概略的だが記す。
臣籍降下者数:約300名以上 新氏姓数:約50 姓氏録記載姓氏数:約30
清原真人姓に新たになった皇族は、814年以降ー884年までに約200名以上いるのである。833年に30名、846年に114名辺りがピークである。その後も新たに臣籍降下する王が続くのである。いずれも公的文献に記録が残されているのである。
清原真人姓が誕生した前後の主氏族名前と臣籍降下した年度を調査してみた。
751年 淡海真人氏 752年 文室真人氏  755年 岡真人氏
757年 氷上真人氏 787年 広根朝臣氏  787年 長岡朝臣氏
802年 良岑朝臣氏 804年 清原真人氏  814年 源朝臣氏
などである。清原真人姓を賜った最初の人物は一般的には舎人親王の孫にあたる小倉王の子供である清原夏野(782−837)が804年に小倉王と一緒に賜ったとされている。しかし、日本後紀・公卿補任によると同じく舎人親王の孫にあたる石浦王の子供である清原長谷(774−834)が798年に清原真人姓を賜っている。いずれにせよ、新撰姓氏録の完成(815)前に賜姓されていることに間違いはない。そうであれば、姓氏録に記載があってしかるべきである。上記の臣籍降下した皇族の年代で姓氏録に記載が無いのは、清原真人氏だけである。814年に臣籍降下した嵯峨天皇の息子源朝臣信は、ちゃんと姓氏録に掲載されているので年代が不適切であったのではない。源姓も清原姓もこれ以降も多数発生するのである。
不思議である。謎である。清原真人姓は姓氏録にあるが、全く別系統の氏族である。(前述) 筆者の調査では姓氏録不記載氏族は多数ある。特に800年以降に臣籍降下した皇族では数氏しか、姓氏録記載氏族がないである。
しかし、これは珍しいことではないことが、上記統計資料より明らかである。清原真人姓については804年の小倉王上表文が有名である。(太田 亮:姓氏家系大辞典参照)
貞代王を清原眞人氏の祖であると記しているのは、紹運録・清原系図・尊卑分脈などである。これは、上記系図解説で記したように不可解な点があり、筆者は三原王流れ小倉王・夏野が本流と判断している。養子問題があるが、夏野こそ中心人物だったと判断するのである。清原夏野は右大臣まで務めた人物で清原真人一族では、トップの人材であった。しかし、その後継者は国司クラスでパットしなかった。深養父は古今和歌集の歌人であったが、身分は低かった。清少納言の父親である元輔も歌人であった。「清少納言」は女流作家として余りに有名である。子供の「小馬内侍」も歌人である。本流の清原氏の具体的な足跡はここまでしか残されていないのである。あくまで系図上に記録があるのが、以上であるが、舎人親王系の清原真人姓の氏族が非常に沢山存在していたことは、上記統計数字より明白である。これらの新たに派生した清原真人姓の人物の系図が存在してないのである。歴史上特記すべき人材がいなかったと推定されるのである。
清原氏系図・尊卑分脈・紹運録などでは 、貞代王が本流清原氏の祖としており、夏野を経ないで元輔まで継いでいるとしているが、これは現在では、一般的ではないとされている。但し、血脈的には貞代王が祖であるとする理由はある。理由は、三原王の男子和気王・細川王は755年に臣籍降下して、岡真人氏を賜っているのである。よって三原王を清原氏本流の直接祖というのには、無理もあると考えられるのである。むしろ小倉王とするのが無難かも知れない。参考系図1)参照
房則を夏野の養子とし、房則の嫡男を深養父とすることに筆者は違和感はない。問題は
房則の養子として、海宿禰信恒の息子「業恒」が清原真人姓として入ったことである。
これが史実なのか、系図の仮冒なのかである。後述したい。
余談)皇族が臣籍降下して賜姓される制度は、815年の新撰姓氏録編纂以後も継続されたが、諸般の情勢の変化により、賜姓名の付け方に変化が生じたのでそれを記しておきたい。
@嵯峨天皇の子供の時から、第1世王から、臣籍降下・賜姓が通常的に行われるようになった。(以前も皆無ではないが、例外的であった。)
Aその賜姓名は、源朝臣・平朝臣の2氏名しかないのである。天皇が替わっても、その皇族・皇孫が臣籍降下する場合は、この2氏名以外は基本的にないのである。区別は、○○源氏、□□平氏と通称するようになるのである。例:桓武平氏、清和源氏)一人の天皇で2氏名(うじな)が存在した場合もある。(例:仁明平氏、仁明源氏)
B嵯峨天皇以前の天皇の皇孫が、それ以後、臣籍降下する場合は従来通りの異なった賜姓名が付与されたのである。例えば、清原眞人、文室眞人などである。
Cよって嵯峨天皇以降の天皇の皇孫の臣籍降下者は、源氏か平氏しかなくなり、都の政治を司る貴族達の主な名前は源氏・平氏・藤原氏・橘氏の4氏、いわゆる「源平藤橘」の時代になるのである。
 
5−4−1)出羽清原氏論考
 深養父の子供に重文(光)がおり、この流れが出羽清原氏に繋がるという系図が公知系図である。太田 亮は姓氏家系大辞典の中で、この部分に対し「ーーーこれも後世の作なり」と断じている。さらに清原眞人光頼について太田は、「ーーー果たして天武帝裔なるや、否やを疑う人多しと雖、これより先、元慶二年(878)五月紀に「藤原朝臣保則を出羽権守に拝す、右中弁故の如し。左衛門権少尉正六位上清原眞人令望を権掾と為す、ーーー」とあるを見れば、武則は恐らくこの令望の後にて、権掾止まり、蝦夷の土豪となりたるものと考えられ、強いてその系を疑うの要あらざるが如し。ーーー」と述べている。
一方、参考系図2)異系図の古代豪族小野氏の系図に記載がある小野春風と清原真人長統の子供令望が東北の方で関係があったとの記事がある。
令望は878年秋田城の乱で小野春風に従い、出羽権掾となり、秋田城司、従五位下となったとある。出羽清原氏の祖とも言われているのである。
一方春風は787年秋田城に向かい功績を残したとある。小野氏と清原氏は当時深い関係があったらしいことが、窺える。5−4−2)参照。詳しいことは推測の域を出ないが、何かあったと推測している。
上記清原眞人令望は、長統王の子供と記されている。長統王は851年頃臣籍降下して清原眞人姓を賜ったと「日本文徳天皇実録」に記されている。長統王は従五位下の貴族であるが、清原眞人姓を賜姓されたので、舎人親王流であることは、間違いないが、具体的にどの王の流れなのかは、不明である。清原令望は878年少尉の時、秋田城下の乱で小野春風に従い出羽権掾として下向。乱の平定後俘囚の長として残ったらしい。
子供・孫・曾孫として、仲海・樹蔭・光蔭の名が記録されている。
前九年の役(1051−1062)の始まりである1051年には光ョ・武則兄弟は存在していた。
令望の秋田にいた時代880年代とは約170年の隔たりがある。これがどのように繋がったかは不明である。要するに出羽の秋田付近には880年頃に既に俘囚の長である清原眞人姓の一族がいた。1051年頃には、出羽山北付近に清原眞人姓の出身だと主張する俘囚の長がいた。これは当たらずとも遠からず関係者であろうとして問題ないという考えが、現在は定説化されていると判断する。
清原本系図の重文・基貞・基光・光方の経歴からは、出羽の地に根を張る根拠みたいなものが全くないのである。その裔である光頼のような俘囚主が突如発生することは無理であると判断されているのである。
要約すると、前述の清原有雄とほぼ同時代の長統王なる人物が851年頃に清原眞人姓を賜姓され、その子供清原令望が小野春風に従って秋田城に蝦夷平定に下向した。
その子孫が奥羽辺りに俘囚の長として勢力を持ってきた。その一族又は派生氏族が出羽山北辺り(秋田県)にその地方の俘囚の長として、大きな勢力を持ち、自分らは清原眞人姓であることを名乗っていた。これが、清原光頼・武則兄弟であった。
この一族が奥州の蝦夷討伐に朝廷軍を率いてやってきた陸奥守源頼義の要請を受けて、当時の奥州の俘囚豪族の長であり、権勢を誇り、朝廷の支配を拒んでいた安倍氏と長期間の戦を行ったのが、前九年の役である。
この安倍氏は古代豪族安倍氏の末裔だとされている。既稿「安倍氏・膳氏考」参照
この安倍氏の軍人として有名な比羅夫の流れの一つが、奥州奥六郡に勢力をはって、中央政府のいうことを聞かなくなっていたのである。参考系図参照。
(参考)「俘囚」:陸奥・出羽の蝦夷(えみし)のうち、朝廷の支配に属するようになったもの。(ウイキペディア参考)
「蝦夷」:大和朝廷から続く歴代の中央政権からみて、日本列島の東方(現在の関東地方ー東北地方の一部)や北方(現在の北海道)に住む人々を異端視・異族視した呼称。近世以降は、北海道などの先住民族でアイヌ語を母語とするアイヌを指す。(ウイキペディア参考)
この時の安倍氏の大将が「安倍頼時」であった。その父親は「忠良」だとされているが、有名な「安倍比羅夫」に繋がる詳しい系図も知られているが、忠良から比羅夫に繋がる部分は不詳というのが現在の通説である。この頼時の娘の一人が安倍軍に属した藤原秀郷の流れを引く「藤原経清」に嫁ぎ、「清衡」を生んだ後に経清が安倍軍に属し、敗死した後、「清原武貞」の嫁となったのである。武貞の母親は安倍頼清女だという説もあるが、筆者が調査した範囲では安倍系図に頼清なる人物がいないのである。
安倍忠良の妹か娘かも知れない。いずれにせよ、当時安倍氏は奥州一の勢力を有していた
地方豪族であった。清原氏もこれと縁組みをしていたのである。よってこれと戦をすることは清原氏としても迷いがあったものと推察される。
清原氏は、この戦で勝利した行賞として、安倍氏が有していた奥六郡(岩手県)を拝領したのである。この辺りの記事は「陸奥話記」に詳しく記されているが、史実かどうかは、充分検証が必要だとされている文献である。1062年に戦は終わった。
この後展開された、清原氏、藤原氏、源氏などが複雑に絡んだ部分の論考は、本稿では省略する。最終的には、1083−1087の後三年の役で奥州清原氏は完全に滅び、清原武貞の養子であった藤原清衡による奥州藤原氏の繁栄の始まりになったのである。
 一方清原氏が日本の歴史上最も花を咲かせたのは、奥州の地ではあったが、1051−1087の僅か30年ほどではあるが、この時だけであったと言えるのではなかろうか。
11世紀後期に成立とされる、「陸奥話記」・「奥州後三年記」、12世紀末作の「後三年合戦絵」、室町時代の中原康富による「康富記」などの記事が、どれほど信憑性があるかにつては、意見が色々あるようだが、系図などについては、かなり真実性があるともされている。さらに源氏の台頭という観点からみれば、その後の源氏にとっては、非常に有効なPR効果があったものと思われる。後三年の役で活躍した「源義家」こそ、後の源頼朝に繋がる武門の棟梁の鏡として描かれているのである。「将門記」についで、地方の武士の活躍が描かれた、史料価値としても高い戦記物である。奥州藤原氏の台頭についても詳細が記されているので、後の源義経伝承を理解する史料とも言える。平安時代の後期においても、日本政府は奥州を完全に掌握していなかったことが、これらの史料によって明白になったのである。そこで清原眞人氏の末裔が果たした役割は、大きなものがあったと、推論されるのである。この清原氏が本流だったかどうかは、歴史的に見れば枝葉の問題と考えられる。清原眞人姓の末裔だったことには間違いないのである。
出羽清原氏の血脈は、下野清原氏となったとされているのである。これについての論考は省略する。
 
5−4−2)海宿禰流清原(堂上清原)氏論考
 古代豪族「安曇氏」は日本最古の豪族の一つである。既稿「安曇氏考」で詳しく記した。この既稿の最後で、その末裔である神別氏族凡海宿禰麁鎌の流れから平安時代に天武天皇系の舎人親王から臣籍降下した皇別氏族である清原氏に養子に入った人物がおり、この流れが、その後清原氏の本流と見られる活動を展開し、遂には堂上貴族に列っせられた派生氏族があることを述べた。これを筆者は、海宿禰流清原(堂上清原)氏と表現し、他の清原氏と区別したいのである。
飛鳥時代に古代豪族安曇氏の末裔とされる凡海宿禰麁鎌(おおあまのあらかま)と言う人物の記事が日本書紀686年紀、続日本紀701年紀に記されている。
天武天皇の元々の名前は大海皇子(おおあまのおうじ)と呼ばれており、この凡海宿禰麁鎌らの一族が大海皇子の壬生(養育係)をしていたことを伺わせる記事である。
安曇氏系図によれば、凡海宿禰麁鎌の後、凡海氏と海氏に分派したことが分かる。麁鎌の8世孫に海業恒と海薫仲が記されており、薫仲の子孫は海姓をついでいることが明白である。海業恒だけが、理由は判然としないが、清原眞人に変わり、以後子孫は清原姓になっているのである。群書類従(1779年編纂)に記された清原氏系図には、業恒は1004年に海宿禰姓を改め清原眞人姓となったと記されているのである。また非常に不可解な記事が記されているのである。業恒は儒業小野吉柯の門人也とし、小野瀧雄二男と記されているのである。尊卑分脈では業恒の子供は広澄であり、広澄は小野吉柯の養子と記されている。分かり難い。しかし小野氏の系図には広澄なる人物はいないし、広澄が小野姓を称したことはないとされている。広澄の弟に近澄がおりこの息子ョ驍ェ広澄の養子に入り清原姓を継いだとされているのである。この辺りの関係を太田 亮は姓氏家系大辞典の中で海宿禰氏による清原姓の仮冒であると断言している。
筆者はこれに疑問を持っているのである。
系図の「仮冒」(系図を偽作・偽証する行為)は一般的には、仮冒しようという意志を持った人物と先祖の仮冒した人物(一般的には架空の人物)との間に100年以上(それ以上前の例が多いが)離れており、仮冒した人物と同時代の人がいない場合に成立する行為である。ところが、本稿の清原眞人氏の場合、どうもこの条件を満足していないのではなかろうか。
@海業恒は正五位の貴族と記されているが、確かに存在していたかどうかは不鮮明である。
Aその子供である、広澄は生没年もはっきりしている(934−1009)。正五位の貴族である。清原眞人姓を使用している。大外記職を世襲的に確定した人物とされている。
よって海宿禰氏が清原眞人姓に仮冒したとするなら、この広澄しかない。
これは余りに早すぎて同時代人が多すぎて、即座に社会的制裁の対象にされるであろう。
客観的に見て、清原氏でないことが分かっているのに、急に清原姓を名乗り、貴族としての扱いを受けるのであるから、そう簡単に受け入れられない行為といえる。
B群書類従に従えば1004年に改姓とある。これは清少納言が生きていた時代である。
もし、自分らとは無関係な人物が、自分らと同一氏姓を有する貴族として突然発生することは全く認められない行為である。又分かることでもある。
C海宿禰氏は、当時位は低かったかも知れないが、新撰姓氏録にも記載があったれっきとした古代豪族であり、わざわざ清原氏に仮冒しなくてはならない理由が薄弱。それとも自分らは天武天皇の末裔だと証明したかったのであろうか。この当時の清原眞人氏は実勢力があった氏族ではなかった。海氏が清原氏に仮冒する御利益がない?
D海宿禰氏は当時多数いたことが、安曇氏系図より明らかである。この一族総てが清原氏になったならば話は別である。清原姓になったのは、海宿禰業恒だけである。
これ以降他の海氏の一部が根拠もなく清原姓を名乗ったとする説があるが、もしそうなら、それらの海宿禰氏らは、明らかに姓を仮冒といえる。
E確かに当時、男の養子の場合、血族を越えて行われることは少なかったと思われる。
F清原眞人姓は、その後も臣籍降下で多数発生している。よって、房則への業恒の養子縁組は清原姓を護るための養子縁組だったとは思えない。
G当時は勝手に自分の姓を変えることは許されない。ましてや、貴族は改姓する場合朝廷の許可が必要であった。
などを総合的に考えて、同時代の同一氏族の人物が存在している状況下で、勝手に他氏族の者が、氏族名を偽って名乗ることは不可能だったと判断するのである。
結論は海宿禰業恒が清原眞人業恒に改姓したのは、100年後の子孫が仕組んだ偽証行為ではなく、正規の手続きを踏んだ改姓行為であったと考える方が、分かり易い。理にかなっていると判断する。但し、広澄の小野氏養子説は疑問である。儒家であった小野吉柯の
弟子であった可能性は、その後の広澄の経歴からも史実だと推定できる。
長々と仮冒問題を記したが、系図を扱う場合この問題は、常に注意しなくてはならない問題である。有名な例では、徳川家康の源氏出自説、織田信長の平氏出自説などである。中世以後の武士、豪農、地主らの系図には、得てしてこの種の仮冒、偽系図、、が氾濫していたのである。その系図を作成した人物または作成を依頼した人物(大抵は当時勢力を有した人物)から100年ほど前までは正しい系図である。しかし、それ以前は余程しっかりした出自を有する者以外は分からないのが普通であったとの説多い。但し、寺社など第3者に残された伝承は、史実に近いものと認めなければならないとされている。立証は困難であるが。
話を元に戻したい。
清原氏と古代豪族小野氏とは親しい関係があったことが、窺える。清原氏系図で、小倉王の妃に小野縄手娘家主がなっている。前述のように小野春風の秋田城侵攻時清原令望が従っている。そして、清原広澄が小野氏から儒家としての教育を受けたこと。などである。
清原氏が明経道・儒道などの専門家となり学者の家として平安時代以降、朝廷内で独自の世襲一族になれたのは、この小野氏との交流が契機になった模様である。室町時代にはいって吉田神社詞官神道家吉田兼倶の3男だった吉田宣賢が清原氏に養子にはいり、明経道・国学・儒学の学者となり歴史上屈指の碩学と呼ばれるようになった。この宣賢の娘が12代足利将軍義晴の側室に入り、その後、三淵晴員の側室となり、生まれたのが、肥後藩主細川氏の元祖となった「細川藤孝」であった。この細川藤孝は筆者の住んでいる長岡京市にあった勝竜寺城の城主であったのである。本稿ではその詳しい説明は省略する。
藤孝の嫡男忠興の正室に明智光秀娘お玉(後の細川ガラシャ)が入り、その侍女になったとされる「清原いと(マリア)」が宣賢の曾孫にいる。このマリアが、お玉が受洗するきっかけを作ったとされているのである。マリアは堂上公家の娘である。これが当時一武士に過ぎなかった細川家の嫁の侍女になったであろうかと疑問視されている。
清原氏はその後、幕末まで堂上(どうしょう)公家家として続いた。
 
6)まとめ(筆者主張)
@舎人親王流れで臣籍降下して清原眞人姓を798年に最初に賜った人物は清原長谷だと考えて良い。
A清原姓を賜った王は884年位のあいだに男女併せて数百人いた模様である。しかし、歴史上記録・系図が残されているのは、本流を含めた僅かである。
B清原眞人姓の本流は幾つかの説があるが、筆者は三原王ー小倉王ー清原夏野ー海雄ー房則ー深養父ー春光ー元輔の流れであるという説を支持したい。
C平安時代に清原氏は政治的にそんなに重要な役割は演じていない。
D前九年の役・後三年の役では重要な役割を演じたが、これは系図上では本流清原氏の流れになっているが、これは無理系図であると言う説に与する。大きな意味で清原氏であったことは認めざるをえない。
E豊後清原氏も奥州清原氏と似たような発生かも知れない。
F堂上清原氏は海宿禰姓から清原氏に正規の手続きを経た(例えば養子縁組)清原眞人姓であり、従来からある系図仮冒説は支持しない。但し、血脈的には、舎人親王の裔ではないことは、明白である。
G平安時代以降の中央での清原氏の活動は主に、この堂上清原氏の活動であると考えて良い。この清原氏は幕末まで学者の家として、その存在価値を保ったのである。
H下世話な結論ではあるが、清少納言と細川藤孝とは、血脈的には繋がっていないことは明白である。
                                               (2013-6-6 脱稿)
7)参考文献
・日本書紀(上・中・下)山田宗睦訳(株)ニュートンプレス(2004)
・日本の歴史5 律令国家の転換と「日本」坂上康俊 講談社(2001)
・日本の歴史6「道長と宮廷社会」 大津 透 講談社(2001)
・日本の歴史7「武士の成長と院政」下向井 龍彦 講談社(2001)
・日本の歴史8「頼朝の天下草創」 山本幸司 講談社(2001)
・「新撰姓氏録の研究」佐伯有清 吉川弘文館(1981年ー)
・「姓氏家系大辞典」 太田 亮
・「東国の兵乱ともののふたち」福田豊彦 吉川弘文館(1995)
・「武家の棟梁源氏はなぜ滅んだのか」 野口 実 新人物往来社(1998)
その他:関連ウイキペディア多数 関連各種HP
 
追記
この1年間執筆活動が出来なかった。これからは以前のように執筆を継続できる環境になった。古代豪族シリーズのまとめ的な稿を考えている。