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18.秦氏考
1)はじめに
 京都の北西(京都市右京区)に太秦(うずまさ)という所がある。
現在では「東映太秦映画村」として全国的に有名になっている。
ここに国宝第1号指定であまりにも有名な「弥勒菩薩半跏思惟像」がある「広隆寺」がある。
仁和寺、竜安寺、等持院などもこの付近にある。
一寸足を伸ばせば、嵯峨野であり、嵐山渡月橋があり、さらに桂川を渡って足を伸ばせば、お酒の神として、全国の総元締め的存在の「松尾大社」に至る。
京都観光の一大メッカと言える地区である。
この太秦こそ、古代豪族「秦氏」の本拠地であったのである。
古代には、山背国葛野郡と称されたところである。
広隆寺は氏寺であり、松尾神社は氏神として秦氏が創建したとされている。
一方、京都の南東、東山の一角に全国稲荷信仰の総本山(末社数約35,000−50,000社)である「伏見稲荷神社」がある。
古代には、山背国紀伊郡深草郷と呼ばれていた所で、ここも秦氏の一族が氏神として創建し祀ったとされている。
いずれの氏神・氏寺も50桓武天皇が794年に都を京都に遷都する遙かに前から存在していたのである。
平安京建設の最大のパトロンは、秦氏であったとされている。
それ程の経済的に裕福な大豪族だった秦氏とは一体どんな氏族だったのであろうか。
政治的に表舞台で活躍した記事は,記紀などに僅かしかない。
秦氏は、新撰姓氏禄では蕃別氏族とされている。即ち渡来人・帰化人の分類に入っているのである。
古来秦氏は日本全国に分布し、氏族構成人数では、古代豪族中最大の氏族とされてきた。
「秦」をハタと読むかハダと読むか諸説ある。
筆者の遠縁に秦姓の家があるが、確かハダと呼ばれていたようである。
そもそも「秦」の姓は、中国の秦国の始皇帝の末裔であることを主張したものであると言われている。
この氏族は全国に機織りの技術を広めたので機(ハタ)と呼ばれた。
いや絹織物は肌に感触の良いもので肌(ハダ)と呼ばれた。など
あるが、現在では、元々の出身地が旧新羅国、現在の韓国慶尚北道蔚珍(うるじん)郡波旦(ぱたん)であるらしいことが分かってきて、この波旦(ハタ・ハダ)にちなんでつけられたのである。という説が強い。
 
太秦についても何故これをウズマサと読むようになったか諸説あるようだが、上記蔚珍に由来しているという説が有力。詳しくは後述する。

50桓武天皇の平城京から長岡京・平安京への遷都に裏から経済的に支援した最大のパトロンが山背国葛野郡で勢力を張っていた秦氏であったことは間違いない。
この氏族に出自を有するとされる後代の有名氏族としては、薩摩の島津氏 対馬の宗氏、四国の長曽我部氏、伏見稲荷社家、松尾神社社家、雅楽の東儀、林、岡、薗家らの楽家と称される氏族などである。
一般的には、日本各地の富裕な土豪として各地の殖産事業に貢献したとされている。
秦氏に関する郷土史を含めた文献は膨大量あると推定している。
秦氏は、謎だらけの氏族である。まともな信憑性のある系図もない。人物も断片的にしか記録が残されていない。
本稿ではその本流的な所関連のみを概説し、謎の部分に対して、若干の考察を記することにしたい。
 
 
2)人物列伝
 秦氏は秦の始皇帝の末裔であるとして、変な系図が残されているが、功満君以降は別にして、余りに不合理な系図なので人物列伝としては、日本に渡来した一番の祖としてある弓月君を秦氏の初代として、列伝を作成した。
但しどの流れを本流にすべきかは意見が分かれるとこであるが、筆者の独断で太秦嶋麻呂までの流れを嫡流として列伝を作成。
それ以降は、惟宗氏流を中心として、主な人物のみ記すことに留めた。
 
・秦始皇帝(在位:BC247−BC210)
 
・故亥皇帝(在位:BC210−BC207)
 
・孝武皇帝(在位:BC207)
 
・功満君
@父:不明  母:不明
A14仲哀朝8年(356年?)に来朝。(姓氏録)
B始皇帝14世孫説あり。
 
2−1)弓月君(融通王)(ゆづきのきみ)
@父:功満君? 母:不明
A記紀記事
・15応神天皇14年(387年?ー396年?)百済から120県(1県10人としても1200人である。18、670人説もある)の民を率いて渡来した。
新羅人が邪魔しているのでみな加羅国に留まっている。と言った。
そこで葛城襲津彦を遣わして、民を率いて還ってきた。
・(百済建国346年)
B新撰姓氏録
・功智王、弓月王応神14年、来朝上表し、更に国へ帰り、127県の伯姓を率いて帰化し、ーーーとある。
 
2−2)浦東君
 
2−3)秦酒公(はだのさけのきみ)
@父:浦東君 母:不明
A紀記事
21雄略天皇は、雄略朝15年(485年?)秦の民が分散して諸豪族の配下になっていたのを集めて酒公に与えた。
彼はその礼として大量の絹織物を宮廷にうずたかく積み上げて献上した。天皇は彼に「うずまさ」の姓を与えた。太秦と書いて「うずまさ」(禹豆麻佐・埋益とも記す。)と読むのもこのためであると言われている。(秦氏の元締めという意味らしい)
B21雄略在位470−499年?
C大酒神社・牛祭
 
2−4)意美
2−5)宇志
 
・大津父(おおつち)
@父:志勝 母:不明
A紀記事
29欽明天皇元年(539年)山城国深草の出身で天皇の側近にあって寵愛を受け、大蔵のことを司っていた「大津父」に全国の秦氏の者達を管理させた。
この頃の秦氏の族長だった模様。
参考:全国の秦氏の戸数7053戸と記されている。
人数にすれば7万人に推定可能。(筆者)
Bこれ以降秦氏は、大蔵の財政官人になったという伝承あり。
 
・秦伊侶具
@父:賀茂県主久治良? 母:不明
A711年深草居住の伊侶具(伊侶巨とも記す)により稲荷社創建。その子孫が社家。
B和銅年間(708年頃)に活躍。大津父の玄孫(やしゃご)説あり。
C稲荷大社祠官家大西家系図によると、伊侶具は鴨県主久治良の子であり、秦都理は鴨禰宜板持と兄弟とある。(諸説あり)
D稲荷社創建に関しては多くの創建伝承あり。秦氏がいかに裕福であったかを述べている。 

・秦都理
@父:賀茂県主久治良? 母:不明
A兄弟:秦伊侶具?、上賀茂神社禰宜板持?など
B秦氏に養子に入る?
C701年松尾社建立。
D秦氏本系帳には718年秦忌寸都駕布が初めて祝となって以来、秦氏が歴代神主となって奉仕したとある。しかし実権は、摂社「月読宮」長官の中臣系伊岐氏が握り、松尾祠官を兼任していたようである。
・都理の養女に入った秦智麿女(知麻留女)も神亀年間(724−729)に祝となっている。上記都駕布は知麻留女の子供。
 
 
2−6)丹照     
 
2−7)川勝(河勝)(推定565?−645?)
@父:丹照 母:不明
A紀記事
・33推古天皇から大化頃にかけて朝廷に仕えた。特に聖徳太子に重用され、京都太秦広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は聖徳太子から賜ったものとされている。(推古11年601年?603年記事)
蜂岡寺:太秦寺;葛野秦寺:桂林寺:三槻寺:秦公寺:現在の広隆寺より東5kmの辺り
上記各寺は同一寺であるとする説が主流であるが、別寺説もある。
B610年新羅使節導者に任命される。
C644年東国富士川付近で大生部多が常世神と称して民を惑わしていた。河勝は、これを討つ。この頃80歳以上の高齢であったらしい。
D物部守屋討伐軍に加わり太子を助けた。(聖徳太子伝歴など)
E墓は寝屋川市川勝町にある。この付近には秦氏に関する古跡が多くある。
F6世紀後半から7世紀半ばにかけて朝廷内で活躍した秦氏随一の有名人。
G日本における舞楽(猿楽・能)の始まりに関係していた人物とされている。(風姿花伝)
室町時代の能役者「金春禅竹」の書「明宿集」に聖徳太子が「川勝」に命じて猿楽の技を行わせた。とある。その他多くの川勝に関する伝承が記されている。
大和猿楽は
元祖秦川勝ーーー氏安(村上天皇時代946−967年)ーーー金春権守ー弥三郎ー禅竹ー七郎元氏ー禅鳳ーーーと繋がったらしい。
H大酒神社(京都市太秦蜂岡町)・大避神社(赤穂市)に関係している。
I蘇我氏との関係は良くなかった模様。
J秦楽寺建立。金春禅竹(川勝の子孫とされている)ら能楽家の氏寺。
 
・弁正
@父:牛麿 母:不明
A妻:唐人女 子供は唐で生まれた。朝慶・朝元
B702年30年ぶり(618年に唐建国、630年最初の遣唐使派遣)の遣唐使として大安寺の僧となった道慈らと渡唐。小野妹子も一緒。
C懐風藻に略歴が記されている。
D唐在住時代に「季隆基(後の玄宗皇帝)」とよく囲碁をした。弁正は、日本への囲碁の伝達者ともいわれている
E唐で没した。
 
・朝元(推定704?ー750?)
@父:弁正 母:唐人女
A兄弟:兄朝慶(唐で没)
B子供:真成
女:藤原清成(?−777)妻この子供が藤原種継である。
女:藤原綱手(?−740)妻
C703−4年頃に唐で唐人女の子供として生まれ718年帰国。(この時の遣唐副使が藤原式家の宇合であった。この縁で後年朝元の娘と宇合の息子清成が結ばれ、種継を生むことになると、言われている。)
D719年忌寸姓を賜る。
E721年その医術を師範にふさわしいとして朝廷から顕彰された。
F730年通訳養成の任につく。
G733年第9次遣唐使として渡唐。玄宗皇帝から可愛がれる。735年帰国。
H746年の記録まである没年不明。山背国葛野郡を本拠地とした。
I従五位下。
 
・藤原種継(737−785)
@父:藤原清成 母:秦朝元女
A妻:粟田道麻呂女
B子供:仲成(764−810)母:粟田道麻呂女
東子(?−807)桓武天皇妃
薬子(?−810)藤原縄主の妻。その娘が平城天皇妃。薬子も平城天皇の妾となる。
薬子の変の当事者。
正子;桓武天皇妃
山人(母:山口中宗女)、
縵麻呂(母:雁高宿禰佐美麻呂女)
世嗣(母:不詳)
藤生(母:不詳)
湯守 井手宿禰賜姓
C藤原式家。叔父の百川死後は実質的に式家の代表。
D768年美作守。771年紀伊守・山背守 774年従五位上左京大夫
777年正五位下。781年従四位上近江守 782年参議。783年従三位 式部卿
D784年山背国乙訓郡長岡の地への遷都を桓武天皇に唱えた。
中納言・長岡京造営使長官。中納言藤原小黒麻呂と長岡村視察。正三位
E大伴氏、佐伯氏、丹治比氏らの反感をかって、785年天皇行幸の際長岡京留守司の時、長岡京で暗殺される。(朝堂の西側嶋町)大伴継人らは既に死んでいた家持を暗殺の首謀者とし、早良親王の関与を証言した。
F809年太政大臣を追贈された。
 
2−8)石勝
2−8−1)物主
2−9)牛麿
2−9−1)百足
 
2−10)太秦嶋麿
@父:牛麿 母:不明
A娘は藤原北家小黒麿(長岡京造営使:平安京造営使初代長官:大納言:731−794)の室となった。その子供が葛野麿(造京使長官、もう一人の長官が菅野真道)でありその室が和気清麿(平安京造営使2代長官)女である。
B続日本紀記事:聖武天皇朝主計頭 恭仁京造営功労者
C天平14年(742年)森宮緑正八位下秦嶋麻呂なる人物が、恭仁宮の大宮垣を築いたことで従四位下へと異例の昇進を遂げ、太秦公の姓を賜ったとある。葛野郡嵯峨野の秦氏。
参考:・長岡京の太政官院の垣を築いたのは、太秦公宅守(嶋麿の子供か?)とされている。
・平安京の都造りの大工の棟梁・造営職・少工:秦都岐麻呂
・秦氏の首長の邸宅(秦川勝?)の跡に内裏ができた。とされている。(村上天皇記)
・平安京役夫30,000人提供者:近江国 勝益麻呂 (秦氏一族)
D従四位下
Eこの後裔として、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家などが生まれた。現在の宮内庁楽部にもその子孫がいる。国家「君が代」林広守 軍歌「海ゆかば」東儀季芳 作曲。
 
その他秦氏
・秦久麻:聖徳太子時代の人。天寿国繍帳の製作者。

・大蔵秦公魚主 広告
・秦足長
@父:石竹 母:不明
A子供:智奈里
B784年山背国葛野郡秦足長ら宮(長岡京)を造る功労者に叙位(外五位下)
長岡京造営の主計局長的存在だったらしい。
秦氏出自とされている歴史上の人物。

・泰澄(682−767)
@父:三神氏(秦氏流)母:伊野氏(渡来系)
A越前国麻生津産まれ。
B717年既に創建されていた白山神社の社殿を修復のために白山にやってきた修験道の僧である。白山神社中興の祖とされている。

・島津忠久(1165以前ー1227)
@父:源頼朝?母:丹後局?
A実の父:惟宗忠康説有力。広言説など諸説あるが惟宗氏出でには間違いないらしい。
B母は比企能員の妹「丹後局」と伝えられているがこれも創作か?丹後局が惟宗広言に嫁いだのは史実。
いずれにせよ忠久は惟宗氏の出身で若い頃は京都にいたというのが現在の通説。
C大名家「島津氏」の祖。妻:畠山重忠六女?
子供:忠時(2代目)
   忠綱;越前島津氏祖。
   忠直;甲斐国居住。
D惟宗広言の主筋である近衛家の島津庄の荘官として九州に下り、その子(養子?)の忠久が島津を称したのが始まりとされている。宮崎県都城市が島津氏の発祥の地とされている。その後源頼朝により、薩摩、大隅、日向の守護に補任された。これが大名島津氏の始まりである。

・対馬宗氏
惟宗氏は平安時代から太宰府の官人であった。鎌倉時代初期その一人が対馬に来て、対馬国の「掾」に就いた(1195年)。1310年大掾に就いた。盛国の時に宗姓と惟宗姓と両方を名乗っていた。少弐氏に付いていたようである。宗氏の確実な始祖は資国で、元寇のとき討ち死にしている。15世紀頃対馬国の支配権をほぼ握ったとされている。
以後幕末まで対馬国の実質的な領主であった。一時宗氏は平姓を名乗っていた。これは惟宗信国の養子として平資国が入りその流れが宗氏の本流となったためである。
 
・金春禅竹(1405?−1470頃)
@父:金春弥三郎 母:不明
A金春権守(この時金春を名乗る)の孫。実名:氏信(貫氏)。
出家後:禅竹、世阿弥の女婿。
B秦川勝を祖とし、秦氏安を中興とする大和猿楽四座の本家円満井座(竹田座)の30代棟梁(金春式部大夫)
C実父は早世したらしく世阿弥が実質的な芸の師であったとされる。
D金春流能の中興の祖。一休宗純・一条兼良などとの交流有名。
E世阿弥の妻「寿椿」を扶養し、世阿弥の晩年を看取ったとも言われている。
F能「賀茂」「定家」「芭蕉」「玉損」「楊貴妃」「雨月」「小塩」「小督」などの作者。

・長曽我部元親(ー1599)
@父:国親 母:不明
A子供:盛親ら
B長曽我部氏は秦川勝の後裔と称していた。
川勝の子供「広国」が川勝の聖徳太子への功績により、信濃国更級郡桑原郷に領地を与えられたのに始まるとなっている。その後諸説あるが、秦能俊の時(鎌倉初期頃)土佐国に移った。この子孫が戦国大名長曽我部氏である。という説。
秦川勝は任を土佐に受け、辞任後土佐国長岡郡宗我郷におり、その子孫がその村の名を取り、長曽我部氏と称した。「能俊」をその始祖とする。説。
古代豪族蘇我氏の部民宗我部の出であるという説もある。真実は謎である。
長曽我部氏の系図は秦川勝から記されてある。
出身地は長岡郡宗部郷とされている。その後「信能」の時足利尊氏に従い軍功を揚げる。これ以降拠点の城は、高知の岡豊城であった。元親はこの城で産まれた。その後色々の経過を経て1574年頃父国親が病死し元親が家督を継ぎ、1575年には土佐国を平定し戦国大名になった。
その後豊臣秀吉と戦ったが降伏。1599年京都で死去。家督を盛親に譲った。
家康の時代となり、1614年大坂冬の陣で秀頼方につき敗戦。六条河原で斬首。嫡流は
断絶した。
C「長曽我部元親百箇条」
 
3)秦氏関連系図
1.秦氏概略系図(筆者創作系図) 付属系図:伏見稲荷社家系図(日本神社総覧など)
                     松尾稲荷社家系図(同上)
2.惟宗氏・島津氏・宗氏系図
3.秦氏関連詳細系図(筆者創作系図)
4.「能」各流派関連系図(筆者創作系図)
5.参考系図「葛野県主系図」(中村修「乙訓の原像」より)
6.松尾・稲荷神社元祖系図(筆者推定系図)
基本的には公知にされている系図を参考にして筆者創作系図とした。
4)秦氏系図解説・論考
 現在、世界無形文化遺産として、日本では「能楽」及び「人形浄瑠璃文楽」が認定されており、さらに「歌舞伎」が認定されることになった。
「能」は、室町時代初期に観阿弥・世阿弥父子によって確立された日本を代表する芸能とされており、猿楽・散楽・雅楽・伎楽などのそれまでの日本の伝統芸能を「謡曲」と言われる台本と併せて極限にまで芸術性を高めた舞曲として集大成したものである。
筆者は、観世流の謡曲を20年来習ってきたが、未だかけだしの域を出ないまま楽しんでいる。

さて、この能の確立者である観阿弥・世阿弥父子の出自は古来謎であった。
ところが最近(昭和37年)になって伊賀の上嶋家系図なるものが発見されて、関係者の関心を引いた。
系図4に「能」各流派関連系図を筆者の創作系図として載せた。これはこの上嶋家系図と従来の公知系図を筆者の判断で結びつけたものである。
南朝の武将「楠木正成」は、余りにも有名である。勿論ここまでの橘氏・楠木氏系図にも諸説あることは既稿「越智氏考」の中でものべてきた。ここには最もポピュラーな系図で示した。
上嶋家系図で、観阿弥清次が楠木正成の姉妹と伊賀の豪族である上嶋景盛の息子で服部氏の養子になった服部元成(一説では、服部氏は秦氏の流れを引くとされ、江戸時代の忍者服部半蔵にもつながる。)との間の子供(3男)であるとなっている。この清次が猿楽師である山田氏に養子となり「観世」を名乗る。義兄に「能楽」宝生家を興した「宝生」がいる。
清次の妻は上嶋家の血を引く永富氏の娘である。この娘の兄弟の裔が現在の鹿島建設の創始者「鹿島家」である。
清次との間に世阿弥元清が生まれる。この娘(美和)と結ばれたのが「金春(こんぱる)禅竹」である。
金春家は大和猿楽の元祖的存在である円満井(えまい)座亦名竹田座を取り仕切っていた。諸説あるが、能の最古の流派であるとされている。
この金春家こそ秦氏の末裔であり、秦川勝の直系の子孫として系図が残されている。
筆者系図とは別に太田亮「姓氏家系大辞典」では次のような系譜を記載している。
秦大津父ー広隆ー河勝ー萬里ー猛出ー文室ー百勝ー水城ー大氏ー広梯ー葛目ー羽島ー高向ー広足ー嗣人ー樽麻呂ー真守ー安人ー広庭ー五百名ー氏安ー元重ー喜信ー元勝ー安清ー
氏重ー延勝ー元照ー広喜ー則氏ー安勝ー清氏ー安重ー喜照ー実元ー安正ー重信ー安則ー守氏ー勝則ー元正ー照重ー信守ー氏正ー喜則ー正勝ー安世ー元忠ー安実ー輝信ー重守ー実勝
ー正信ー氏忠ー忠浄ー喜氏ー清実(金春八郎)ー勝清(弥三郎)ー弥次郎元清(氏清)ー
七郎氏信(禅竹)ー六郎元氏ー八郎元安(禅風?禅鳳か)ーーーとなっている。
しかしこれが親子の縦系図かどうかは筆者は疑問である。竹田座を継いだ者で兄弟も混合しているのではなかろうか。また大津父の孫が河勝というのも珍しい異系図である。
いずれにせよ秦川勝を能の元祖であるという説もあるが、この系図からきているらしい。
この禅竹と義父元清は師弟の関係であり、元清が佐渡に流された後はその妻寿椿の面倒をみたとされている。(一説によると氏信の娘が元清の妻であるとされている。(坊目考)これに従うと、寿椿は金春氏信の娘となるが)
観世流は元清の子供ではなく、甥である音阿弥元重の流れが継ぎ、現在に至っている。金春流は禅竹の孫である禅鳳が優れており、非常に栄えたとされる。
以上簡単に能の起源あたりの人間系譜を記したが、観阿弥が足利幕府に対抗した楠木正成の姉妹の子供であることは、意図的に隠された事実だったのではないかとされた。
しかし、現在の専門家筋ではこの上嶋家系図なるものも、その信憑性に疑義があるとされており、本当のとこは未だ謎であるらしい。
橘氏・楠木流との関係は謎としても金春家と観世家と宝生家の関係は、能関係の古本「花伝書」(世阿弥著)「風姿花伝」(世阿弥著)「明宿集」(禅竹著 )などの記述から間違いなさそうである。
但し金春家が中興の祖としている「秦氏安」経由で「川勝」に繋がっているかどうかについては疑問があるともされている。
筆者は禅竹作とされている「賀茂」「定家」「小塩」「小督」などの曲は馴染みである。これ以外に「芭蕉」「玉損」「楊貴妃」「雨月」などの名曲がある。
現在では金春流の能はめったに見られない。観世流・金剛流・宝生流が多い。
 
さて、太田 亮 はその著書「姓氏家系大辞典」のなかで秦氏について「天下の大姓にして、その氏人の多き事、殆ど他に比なく、その分支の氏族もまた少なからず。そして上代より今に至る迄各時代共、常に相当の勢力を有する事も、他に類例なかるべし。ーーー」と冒頭に記している。我が国最大の蕃別氏族である。
即ち渡来人にその出自を有する氏族である。
 
古来「渡来人」と「帰化人」の違いが議論されてきたらしい。詳しいことは上田正昭著
「帰化人」(中央公論社)を参照のこと。
古代の場合は、海外から日本列島に入ってきて住み着いた人々は、渡来人と称する方が正しいらしい。
古代の渡来の波(諸説ある。上田説に準拠すると)
第1波:弥生時代前期(紀元前3世紀頃)
第2波:5世紀前後 秦氏らが渡来。
第3波:5世紀後半ー6世紀初め     高句麗氏・漢氏
第4波:38天智天皇時代663年百済滅亡頃  百済氏
 
筆者は諸説から判断して以下のように考えている。
上記第1波に前後して日本列島に渡ってきた諸々の種族(南方、中国、朝鮮半島などから)の人々が列島の土着の縄文人種(日本列島の形成は約1万年前だといわれている。この頃からこの列島に住んでいたのが、原日本人と言われ、縄文人又は山祇族と呼ばれる中国古代の苗族、クメール族系と言われている。)と混血を繰り返し、弥生人と称され弥生文化を日本列島に広めた。
この中に邪馬台国を作った弥生人。出雲国?を作った弥生人(大国主系は、主体は縄文人系だとする説もある)、大和王権を作った弥生人などの祖先が発生した。古代豪族で言えば、神別氏族・皇別氏族に分類されている氏族に多い。
これ以降も徐々に渡来人は日本列島に入ってはきたであろう。しかし、半島の情勢が安定であったためか、歴史的に画期を期すほどは来てないらしい。新たな画期は新羅国との関係で発生した。(辰韓国が新羅国になったのは諸説あるが、356年頃とされている。)これの中心が秦氏である。
 15応神天皇以降に渡来した新文化を有した主に朝鮮半島から入った氏族が渡来人として他と区別され、蕃別氏族として新撰姓氏録に記されたわけである。あくまで大雑把な話である。
広義には、現在の日本人は総て渡来人系である。決して単一血族ではない。色々の血族・氏族が混血して日本人なる民族が出来たことは、間違いない史実である。遣唐使の時代にも優秀なる渡来人はあったようではあるが、基本的には平安時代以降江戸末期まで日本には所謂集団的な渡来人は来ていない。明治以降は、はっきりと帰化人という扱いになる。

ところで本稿の「秦氏」は、諸説あるが、主流は単一血族・氏族ではなさそうである。
古事記には僅かしか記述がないので日本書紀に従えば、15応神天皇14年に「弓月君」が百済から来る。しかし、多くの民が新羅の抵抗にあって未だ来れないでいる。とし、葛城襲津彦(既稿「葛城考」参照)が残りの民を引き取りに新羅国に赴き120県(一説では、127県)の民を引き連れて倭国に帰ってきたとされている。
また21雄略天皇紀には、全国に散らばっている秦氏一族の統括を「秦酒公」に委ねたとある。その数が半端な人数でない。諸説あるが数万人から10万人規模の集団が秦氏として束ねられたとある。
奈良時代で日本の人口は約600万人くらいであったと推定された記事を見たことがあるが、それより300年程前に一氏族の人口が10万人とは、驚くべき数字である。しかし、まんざら嘘八でもなさそうである。
上記上田氏の文章によると、平安京に住んでいた有力氏族は、皇別氏族184氏、神別氏族149氏 諸蕃氏族174氏(秦氏が最も多い)。天長(824年頃)年間京都の田地を耕作していた人間114名中84名が秦氏であった。とある。
秦氏は日本全国に勢力をはって殖産事業中心に蚕、絹織物、など日本の文化向上・財政向上に貢献した氏族であったことは間違いない。それが上述の太田亮の表現になる裏付けである。
一方中央政治の面では、秦氏の記録記事は非常に少ない。もう一方の有力渡来人である「東漢氏(坂上田村麻呂らを輩出)」と対照的である。

そもそも秦氏はいつ頃何処から日本列島に渡来したのであろうか。
上述したように日本書紀によると15応神天皇14年に百済から弓月君が多くの人民を率いて渡来した。となっている。
この応神14年は西暦でいうと諸説ある。387年ー396年頃と見ると4世紀末から5世紀初め頃と見て良かろう。一度来て新羅に留められていた多くの人民を葛城襲津彦らが連れにいっている経過があるし、弓月君の父親とされている功満君が14仲哀天皇朝に渡来したとの姓氏録の記事もあるようなので相当巾があると思われる。
その後弓月君は秦始皇帝の末裔であるという系図が作成されたようだが、これは現在では、信憑性が乏しいとされている。秦氏は秦国に基づいた氏族名とされてきたが、現在では、朝鮮半島の旧新羅国にあった地名に基づく名前との説が強い。それ以外にも諸説ある。
同じく「うづまさ」という姓についても諸説あるが、半島にある地名に由来するという説が強い。
また引き連れてきた人民の数についても120県というのをどう判断するのかで諸説ある。日本書紀の29欽明天皇朝の秦大津父の記事の中に全国の秦氏の戸数として、7053戸という数字が記されている。これから筆者は約7万人以上の人口に相当すると推定した。これは日本の全人口が約350万人だと仮定すると約2%になり凄い勢力であったことになる。日本全国に散らばった秦氏が同一血族とは考えない方がよいらしい。
しかし、それらを束ねたのが秦氏本流の系図に載った人物達だったようである。
その本拠地は元々は、葛城襲津彦との関係もあり、大和国葛城郡朝津間腋上に土地を与えられたとされている。後に河内国・摂津国経由で山背国葛野郡に本拠地が移った模様だが、朝津間の地についても、途中の経過などもはっきりしない。

京都の嵯峨野周辺に古墳が発生するのは5世紀後半からでそれまではない。天塚古墳・蛇塚古墳など。このことから、井上満郎は古代豪族の研究(新人物往来社)の中で秦氏の京都渡来を5世紀後半と判断している。
日本書紀では21雄略15年(485年?)秦酒公に太秦の姓を与え秦氏の総元締めにしている。この時には山背国葛野郡太秦は既に秦氏の本拠地になっていたものと考えると、上記古墳の発生とも一致する。
また日本書紀29欽明天皇(539年)記事に秦大津父が、山城国深草の出身と記されている。
これらから秦氏の本流が5世紀後半から6世紀初めにかけて山城国葛野郡、紀伊郡辺りで勢力を張ったことは間違いなかろう。

ここで一寸気になるのが、葛野県主となった賀茂氏との関係である。既稿「賀茂族考1」の中で記したように賀茂県主氏は21雄略朝以降に葛城国を離れ山背国に移っている。
中村修は「賀茂県主氏は、5世紀中頃山背国乙訓郡へ入り以降葛野郡、愛宕郡へと移った」上田正昭は「6世紀ころ 葛城系の葛野鴨県主が葛野郡に進出ーーー」
などの見解がある。
上記秦氏の葛野郡への進出は、賀茂県主氏とほぼ同じ頃である。秦氏の方が若干早いかも知れない。勿論勢力的には秦氏の方が賀茂氏に勝っていたことは間違いない。
しかし、県主になったのは賀茂氏である。渡来人にはそのような立場は認められなかったのであろうか。
中村修也はその著「秦氏とカモ氏」の中で賀茂氏が葛野県主となったのは(記紀記述)虚偽・創作であろうと推定している。
中村修也も少なくとも山背国葛野郡への秦氏の入植は賀茂氏より早かったと判断している。
 一方、中村修は、宝賀寿男の「古代氏族系譜集成」の葛野県主系図(5参考系図参照)を引用して、物部押甲連の子孫が26継体天皇と共に6世紀に山背国乙訓地域に入り、葛野県主となりカモ族の女と結婚し、乙訓のカモ社の祝を勤めた。としている。
この場合この地域を支配したという意味は少ないと判断する。上記系図については後述する。

秦氏の中で歴史上その実在性が確実視されている有名人物は、聖徳太子に仕えて太秦の地に氏寺として広隆寺を建立した秦川勝である。
生没年は不詳であるが、筆者はそのおおよその推定を565年ー645年とした。
秦氏の本流の元祖みたいな存在である。
弓月君が渡来したのを400年と仮定すると165年間に系図1によると5人の人物がいたことになる。これは一寸少ないようにも思える(渡来時期をもっと後にするのが正しいか?)が許容範囲であろう。
次に秦氏で有名な秦朝元の正確な生没年は不明ではあるが筆者推定では、704年ー750年である。これを筆者系図での川勝弟和賀の流れだとするとその間に2人しかいない。約130年で和賀を入れて3人は余りに少ない。
となると異系図として公知の川勝ー石勝ー牛麿ー弁正ー朝元とした方が正しいかもしれない。いずれにせよ秦氏本流系図には謎が多いようである。生没年がはっきりしている人物は一人もいないのである。
 秦氏の宗家は太秦氏であると昔からいわれている。但し太秦という姓は、一つの血族が代々続いたのではなくその時代で多くの秦氏の中で最も有力な秦氏に与えられたとする説もある。山背国葛野郡にいた一族が本宗家だとすると、酒公、川勝、朝元、嶋麻呂などが太秦の地にいたらしい記事から、いずれも本宗家近辺の人物には違いない。
50桓武天皇の長岡京遷都・平安京遷都に重要な役割を果たしたのは、朝元、嶋麻呂である。この件は後述する。

秦氏を年代的に概観すると下記のようになる。西暦表示は筆者の推定である。
1弓月君(400年頃)ー2浦東君ー3秦酒公(485年頃)ー4意美ー5宇志(26継体天皇朝?)ー6丹照(6)大津父(539年頃)ー7川勝(601年頃)ー8石勝ー9牛麿ー10太秦嶋麿(745年頃)推定年代は活躍記事から推定したものである。一般的にはこの頃は一代が20年として計算する。となると上記したように300年で9代とか10代というのは一寸合理的でない系図であると言える。弓月君が渡来した時期をもっと後にする方が合理的、弓月君と秦川勝は元々別の流れである、など諸説ある。勿論何人か系図上で欠落した人物がいれば別である。その可能性も否定できない。
筆者は、川勝らの秦氏に直接つながる渡来人の来日は第2波の後期で弓月君とは何らかの関係があるかもしれないが、直接血族ではないのではと思う。
秦氏が上記第2波渡来人の雄として日本全国で新文化・殖産事業の普及に貢献したことは史実である。
 
 京都伏見にある稲荷神社は、全国に現在5万社以上は存在するとされる、神社の中で最も多いお稲荷さんの総元締めである。
この創建は711年とされている。これに関しては色々の言い伝えが残されている。
創建者は、「秦伊侶具」といい、秦大津父の玄孫説もあるが、現在は賀茂県主久治良の子供が当時紀伊郡で富裕を誇っていた秦氏に養子に入って秦氏として活躍したとする稲荷神社祠官家の一つである大西家系図が信じられている。この系図は現在まで続くものである。(筆者は省略した)
この説には異論がある。主なものは、711年に創建したのは、秦伊侶具ではなく、その累孫である秦忌寸中家であるという説(上述中村修也著「秦氏とカモ氏」)である。しかしこれは年代的に合わない。賀茂県主久治良は、33推古朝から36孝徳朝の人物とされている。となるとその子供であるとされる伊侶具はそれ以降の人物であるから711年頃存在したことは可能である。ところが稲荷神社社家系図によれば、秦忌寸中家は、伊侶具の9代孫である。約200年の差がある。よって中家が711年に創建したとは思えない。また山城風土記にも秦中家が忌寸姓を賜ったのが嘉祥3年(850年)と記されている。
よって、この説には組みせない。
社殿が現在の地になったのは、816年空海の奏請によって建立。空海は稲荷神を教王護国寺(東寺)の鎮守とした。伏見稲荷神社が「空海」と非常に強い結びつきがあったことは間違いない。
 
 京都嵐山の近くに松尾神社がある。全国の酒の神様の総元締め的存在である。
この創建は、701年とされ創建者は、秦都理とされている。この秦氏も上記大津父の流れらしいが、よく分からない。川辺腹男都理と記された古文書があるが、そうだととすると葛野郡川辺郷という地名があり、川辺秦氏と記された文献もあるので、ここの出身の秦氏と考えるのが妥当か。大津父は、紀伊郡深草に居住していたとあるが、葛野郡は隣の郡でしかも秦氏の本拠地なのでその庶流がこの辺りにいても不思議ではない。一方、都理は伊侶具と兄弟でやはり賀茂氏の出身であるとした説も根強くある。
ところで松尾神社には不思議な神婚伝説がある。松尾明神と阿礼手止女との間に「都駕布」が生まれ、これが718年に最初の祝となり以後秦氏が代々祝となって松尾明神を祀ったとするものである。ところが一方では知麿女(別説では知麻留女)の子供である秦都駕布が最初の祝となった。とある。秦氏本系帳では秦都理の養女として知麿女が724年に祝になったとある。「理成」と都駕布が同一人物なら秦氏松尾神社社家系図と一致するのだが、諸説が混乱しているようである。一般的には阿礼とは斎王みたいなもので巫女を表す言葉らしい。知麿女と阿礼手止女は同一人物と思われる。
一般的には、松尾神社は太秦秦氏の氏神であった。ところが上述の中村修也は松尾の秦氏と嵯峨野(太秦:筆者注)の秦氏は異なり互いに競い合う仲であったと、従来からの説に異説を展開している。筆者はこの説には組しない。

一説によれば700年代では秦氏は賀茂神社をも実質的に掌握していた模様である。
賀茂氏と秦氏は互いに婚姻関係がもたれ、これが稲荷神社・松尾神社の社家への賀茂氏の婿入り的なことが行われたのではなかろうか。(血族的に両氏は濃密な関係にあった証拠)葛野郡「松尾神社」愛宕郡「賀茂神社」紀伊郡「稲荷神社」と京都盆地の総ての地で秦氏は氏神を有していたことになる。(これには諸説あり)
参考であるが賀茂神社の創建は、諸説あるが、松尾神社より少し古く678年である(22社註式)。
 
 ここで前述の宝賀寿男の「古代氏族系譜集成」にある「葛野県主系図」について考察してみたい。
5)参考系図に示したように従来からの公知系図を重ねてみると、非常に興味深い系図が出来上がる。この青字部・赤字部がそれである。この系図の出典が分からないが、一般に公知のものではない(葛野県主羽衛までの直列男系図は他にもある)。
筆者も上記中村修の著書で初めてお目にかかったものである。
これによると、前述した公知系図・太田亮の「姓氏家系大辞典」などで謎とされてきた事項が真偽の程は筆者には不明であるが、実に詳しく記されている。
@田口腹知麻留女は、物部押甲(歴史上有名な「物部麁鹿火」:継体天皇に仕えた。の兄弟)の流れで葛野県主鴨祝と田口朝臣(皇別氏族?)の娘と記されている。しかも秦氏の血が流れている。
A伝説でこの知麻留女は松尾神社の巫女である。そして松尾明神との間に都駕布を生んだことになっている。ところがこの系図ではなんとあの稲荷神社の創建者である秦伊侶具の妻となり、その子が都駕布となっている。
B松尾神社の創建者川辺腹秦都理は、秦志勝女と物部押甲の息子との間に生まれ秦姓を継いだ秦形名の曾孫である。この秦氏が川辺秦なら上記系図の欠落が解ける。川辺腹というのは母親が川辺秦氏である可能性もある。その場合父親が賀茂氏であって、母親の姓を継いだ可能性も残されている。即ち秦伊侶具との兄弟説の可能性はある。
Cこの都理は、鴨県主の娘と結ばれている。ところが子供は松尾神社社家系図にはいない
人物である。ということは都理の血族が松尾神社の社家になったのではない。
但し松尾神社と鴨氏は非常に強い関係があったことは理解できる。
D稲荷神社系図によると、秦伊侶具は鴨久治良の末子となっている。その子供は山守である。ところがこの系図によれば子供は松尾神社の初代祝とされる都駕布である。これをどう判断したらよいのであろうか。
Eこの系図に従うと伊侶具と都理・知麻留女は、ほぼ同時代の人物と判断される。これは稲荷神社・松尾神社の創建の時期とも整合性がある。
F一説にある伊侶具と都理が兄弟であるという説は、この系図からは判断出来ない。Bの
可能性はのこされている。
G物部氏・鴨県主氏・秦氏が婚姻を通じて複雑に絡み合って養子相続もしているようなので後年その系図が混乱して諸説が生まれたのであろう。
H松尾神社は以前松尾稲荷神社とも呼ばれていたようである。これは上記秦伊侶具が両社に関与していたことの表れではないだろうか。
I松尾神社の神主家と祝家とが別々の流れであったら系図は分かり易いのであるが、未だ
筆者の謎は解けていない。
Jこの系図は既稿「賀茂族考1」で記した上田説を裏付ける意味もあり、(葛野県主は賀茂氏が葛野郡に来るまで既にあり、その後賀茂氏がそれを継いだ可能性もある)非常に意義のある系図である。この系図が公表された意義は大きいと思う。
但し、元々の出典がはっきりしないのが残念である。
 
 さてここで,この謎の多い稲荷神社・松尾神社創建元祖部分の関連人物の関係について、アマチュアの特権を許して頂き、筆者の推定系図を作成してみた。(系図6参照)
古代氏族系譜集成を基本として使わせてもらった。これに上記してきた稲荷神社伝承・松尾神社伝承・賀茂神社伝承・公知系図及び僅かに残された年代的背景を合理的に考慮したものである。この場合系図5と異なるのは、松尾神社創建者秦都理が秦国麿の子供ではなく養子であり、知麻留女が都理の養女であることである。さらに仮定として、物部押甲の子供奈西の子供で秦姓を嗣いだ形名を川辺秦氏の祖としたことである。
いかがであろうか。
@秦忌寸都理は、秦大津父と同一秦氏の女系血族である。同時に賀茂県主の血族でもあり
賀茂氏の女と結ばれることにより益々賀茂色が強くなった形で松尾神社と関係しながら川辺秦氏を嗣いでいったものと思われる。
A都理は田口腹の知麻留女を松尾神社の巫女として養女に迎え、その娘婿がなんと稲荷神社の創始者となる同腹弟の伊侶具である。稲荷神社を創建する前に子供都駕布を産み松尾神社の祝としたことになる。この部分が古来秘密にされてきた部分であろう。
稲荷神社も松尾神社も同じ人物の子供の子孫が社家になったのを隠した。???
上下賀茂神社社家は同一人物の血脈であるので、何故松尾と稲荷が隠す関係だったかは不明である。共に賀茂氏の出であり、秦大津父系である。
B元々の物部氏葛野県主氏の陰が薄い。
松尾神社の創建前には賀茂系の神社がほぼ同一場所にあって、この神社の祝が物部氏で鴨祝を名乗っていたのではなかろうか。これが葛野県主の実体であり、その娘である知麻留女を経由して秦氏に名跡が移ったのではなかろうか。実質は、賀茂県主系。
物部氏系は中臣葛野連として残った。
古来賀茂神社と松尾神社は非常に親しい関係が続いたとされている。この辺りにその原点があると推定する。稲荷神社は、これとは異なった発展の仕方をした模様である。
このように考えると、桓武天皇が長岡京遷都に先立ち、乙訓神社・松尾神社・賀茂神社に特別の待遇を与えた理由も理解できる。
 
 ところで、太秦の秦氏には多くの謎がある。最大の謎は桓武天皇が平安遷都するまでは、秦氏は総力を挙げて財政的な支援をした。しかし、遷都後の秦氏に関する際だった記事が全く残っていない。何故か。秦氏の流れはこれ以降は惟宗氏系と三上氏・長曽我部氏系と朝原氏系、金春家系及び伏見稲荷神社と松尾神社社家流れが系譜として残されているが本流である太秦氏がどうなったかが分からない。ただ天王寺楽家(薗・林・東儀・岡の四家)がここから出たとしか分からない。実質的には惟宗氏が秦氏の家督を継いだのであろうか。
883年秦氏19氏が惟宗朝臣に改姓されたと記録に残っている。
しかし、これ以降も秦姓は、日本各地に残った。
この惟宗氏は、代々明法家、典薬として京都で活躍した。この流れから島津氏・対馬宗氏などの大名家が発生したとされている。
島津氏の祖とされている島津忠久は島津氏正統系図では源頼朝と丹後局の間に生まれたとされているが(系図2参照)、現在では諸資料から忠久は実在の人物であり、源頼朝の子供ではなく、惟宗氏の子供としてされているが、広言の子供かどうかは疑問とされているようである。一方対馬宗氏は平姓宗氏と言われるように平清盛に関係しているが、養子として宗氏の家督を継いでいるのでそう言われている。元は秦氏である。
四国の戦国大名「長曽我部元親」が秦氏の流れであることを主張したことは間違いない。系図もそうなっている(系図1参照、更に詳しい系図も残されているが省略した)。しかし、これの真偽は疑わしいとされている。
 
ところで山背国乙訓郡物集郷(物集女とも記す)現在の向日市物集女に物集女城址がある。戦国時代この地方にいた物集女氏がこの城を造ったとされている。この物集女氏も秦氏の流れを引く氏族とされている。筆者系図1で宇志の子国勝の子大牟良を祖としている。物集連となり、広永、豊守らが秦忌寸姓を賜ってこの地に勢力をもったとされている。
この流れは戦国時代に長岡郷にあった勝竜寺城の細川幽斎らに滅ぼされて、断絶した模様である。但し、現在も近くの京都市大原野(旧乙訓郡)近辺には、秦氏の末裔と思われる人々が現存しており、これが物集女氏と関係あったかどうかは不明である。
この付近にいた秦氏も桓武天皇の長岡京遷都・平安遷都に関係していたであろうことは容易に推定される。
 
さて、上述してきたように秦氏と言えば、桓武天皇の長岡京遷都・平安京遷都の蔭の立役者とされている。それを系図の上から俯瞰してみよう。
 先ず秦朝元である。父弁正が702年の遣唐使として唐にいる時に唐人の女との間に生まれた子供である。兄朝慶は弁正とともに日本に帰ることはなかった。朝元は718年に帰国。この時の遣唐副使が、藤原式家の宇合でこの縁で宇合の息子である清成が実質的には養子的な扱いで朝元の娘と結ばれた。
朝元は帰国後医師と通訳とで大いに活躍。山背国葛野郡を本拠地として大いに富んだようである。朝元も系図的にはよく分からない人物である。
筆者系図と異系図とを示したが。また藤原清成も正確にはよく分からない謎の人物である。
この娘婿との間に生まれたのが桓武天皇の長岡京造営長官となる藤原種継である。
式家では百川が策略をめぐらし、天皇家を天武系から天智系の49光仁天皇を擁立することに成功しさらにその子供山部皇子を桓武天皇として即位させた。ところが百川は、急死したので
実質的には式家の代表的立場に立ったのが、種継であった。
北家小黒麿らと一緒になって脱平城京派で新都「長岡京」建設を断行したのである。
種継の娘2人が桓武天皇の妃になっていることからも天皇の信頼がいかにあったかが窺われる。ところがこの背景に秦氏がいたことは明らかである。但し朝元は既にこの時は没していたと推定している。
 
長岡京建設では秦氏が財政面でバックアップしていた。長岡京太政官院の垣を築いたのは太秦公宅守と記録されている。(上記中村修也は宅守を後述の太秦島麿の息子と推定している。)
ところが種継は、大伴氏ら平城京派の手で暗殺(785年)された。
ところが前述の藤原北家の小黒麿も実は秦島麿の娘と結ばれ秦氏の支援を受けていたのである。この島麿は45聖武天皇の恭仁京建設に財政的に大いに貢献し、従四位下という秦氏としては破格の高位の扱いを受けた人物である。
この娘婿である小黒麿は、長岡京造営使・平安京造営使初代長官・大納言となった人物である。これも秦氏の応援が当然あったとされる。
その子供が葛野麿で父の死後(794年)の造京使長官である。この妻がその次の造京使長官となった和気清麿である。
秦氏が長岡京遷都・平安京建設 にその富を総てかけて協力したのは、このような背景があったのである。
山背の秦氏だけでなく近江その他全国の秦氏がこれを後押ししたようである。秦川勝の邸宅跡が内裏になったとの記録もある。
ところが、これだけ貢献した秦氏の記事が平安遷都建設以降歴史上全く出てこなくなるのである。謎である。
前述の中村修也は、桓武天皇の平安遷都に伴う造営事業には、秦氏は意図的に協力をしなかったとの新説を展開している。筆者はこの説には組みせない。
諸説あるようだが、筆者は、藤原氏がその総ての権益を奪ったとする説に組みする。伏見稲荷・松尾神社だけは秦氏が継ぐことは認められたが、それ以外の秦氏が山背国に有していた主な財産・土地などの富の源も総て藤原氏の管轄下に移ったものと思われる。
しかし、秦氏が元々有していた殖産事業的な分野(治水事業・酒造・養蚕・絹織物・機織り、など)ではその後も全国的に活躍したものと思う。
 
ここで秦氏が関係した寺社について若干触れておきたい。
広隆寺(秦公寺、蜂岡寺、太秦寺、桂林寺、三槻寺など):603年川勝建立
秦楽寺(奈良県田原本町);647年川勝建立。金春氏氏寺。
木島神社(京都市太秦森が東町):木島坐天照御魂神社、蚕の社
大酒神社(京都市太秦蜂岡町):大辟神社 赤穂の大避神社も川勝を祀ってある。
白山神社:8世紀に修験僧である三神氏(秦氏流)出身の泰澄が活躍。
平野神社:平安遷都直後に秦氏が建立したとの説あるが謎である。諸説あり、疑問あり。
宇佐八幡宮:新羅神八幡神説。これが秦氏と関係あるという説もある。
 
 次に秦氏と「行基」との関係について若干触れておきたい。
行基(668−749)は、奈良時代の僧侶で百済系渡来人の家系に生まれその生涯に49の寺院を建立したとされる。
行基は山背国葛野郡・紀伊郡・乙訓郡などにも多くの寺院を建立し、秦氏とも関係が深かったとされている。山崎院(725年)は有名である。
葛野郡の秦氏が築いていた葛野大堰(470−499?にかけて現在の嵐山渡月橋付近に造られた秦氏富の源泉みたいな治水技術とされている)の修築にも関与したらしい。行基の十弟子の一人「延豊」は秦氏の出身とされこの人物が秦氏との縁をとりもったようである。
行基が力を入れた「山崎橋」の維持・管理にも秦氏の関与が窺える。
秦氏は、庶民派の高僧「行基」にもパトロンとして良き関係にあったものと思われる。
 
 26継体天皇が摂津国樟葉宮で即位したのが508年とされている。山背国弟国宮に入られたのが518年頃である。この頃には、秦氏は既に摂津・山背国辺りにきている。ところが筆者の調査した範囲では、この継体天皇と秦氏の直接的接点が見つからないのである。
何故であろうか。いずれにせよ敵対する関係でなかったことは間違いない。
上記中村修也の著書の中で秦氏と継体天皇について若干触れている。上記秦大津父と継体天皇の子供29欽明天皇に関する日本書紀の記述を信用すれば当時既に山背国紀伊郡深草に勢力を有していた秦氏勢力と継体天皇の淀川水系進軍とは友好的な接点があったと推定している。但し、この辺りの日本書紀の記事の信憑性には疑義もあるので注意を要する。
 
 次に秦氏とは直接関係はないと思っているが所謂「秦王国」について概説したい。
秦王国という言葉は、「隋書倭国伝」に出てくる。これは607年の聖徳太子による遣隋使「小野妹子」らの随の答礼使である「裴清(裴世清) 」が608年日本に来た時の記録を隋書に残したものとされている。
「百済を度り行きて竹島に至り、南に耽羅国を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中にあり。また東して、一支国に至り、また竹斯国に至り、また東して秦王国に至る。その人華夏に同じ、以て夷洲となすも疑うらくは明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な倭に附庸す。」ここに登場する秦王国が初出とされ、山陽道西部にあった秦氏の居住地というのが通説か。具体的に周防国という学者もいる。事実周防地方には秦氏の末裔とされる人が多いらしい。
一方秦氏とは関係なく遙か以前より中国より渡来した秦始皇帝の末裔を主張する住民の集団があった、さらに素戔嗚尊の子供である新羅系の五十猛命の後裔とする辛島氏が盤踞した豊国宇佐神宮の後背地付近(豊前国)が秦王国である、播磨説など諸説ある。いずれにせよ秦氏本拠地山背国の秦氏とは直接関係は非常に薄いと思われるので詳しくは述べないことにする。
 
日本全国にある「勝(すぐり)姓」は、秦氏の流れとされている。
また京都府・丹波地方に多い「部」のつく地名、姓も秦氏と強い関係があるとされている。
例えば「綾部」「園部」「六人部」「余部」「物部」「六万部」「土師部」など。
 
最後に秦氏クリスチャン説が明治41年「佐伯好郎」博士・幕末国文学者
「太田錦城」らによって論じられた。現在も信じる向きもあるようだが、もしそうなら、日本で一番古いキリスト教(中国では景教)信者だったことになる。但し主流の説ではない。
 
以上で大族秦氏の論考を終わりたい。
日本全国に現在もその末裔とされる人々が多数おられるが、その古代豪族的な因子の所のみに的を絞って記したので、平安時代以降の秦系氏族の動向についてはほんの一部しか述べられなかった、島津氏などについては、また別の機会に述べてみたい。
 
 
5)まとめ(筆者の主張)
@秦氏は、5世紀から6世紀初めにかけて朝鮮半島の新羅国から断続的に渡来してきた渡来系氏族であり、古代豪族の中で人数的に最大規模の勢力を日本全国に誇ってきた殖産事業集団である。中央政界での活躍は、非常に限られていた。その中心的存在が「秦酒公」の流れであるとされる。
A日本書紀に記された15応神14年に日本に渡来したとされる「弓月君」と山背国に本拠を築いた秦氏が同一血族であるとする説には色々問題あり。ましてや、秦始皇帝の末裔説は、現在では、否定的である。
B秦酒公(21雄略天皇)辺りからは、山背国秦氏と繋がりがありそうであるが、秦氏の系図は、後世の創作的な因子が強く、信憑性に乏しい。
秦酒公が秦氏の入植地であるとされる葛城の「朝津間腋上」から山背に移動したかどうかは不明である。一方賀茂県主氏が葛城から21雄略天皇の圧力により山背に流浪の旅に出たのも同じ頃である。
C5世紀中頃には、秦氏は、賀茂県主氏に先立って、山背国葛野郡に進出し、葛野大堰などを築き、富を築いた。
秦氏と賀茂族と26継体天皇はほぼ同じ頃(6世紀初め)山背国乙訓郡・葛野郡・愛宕郡
・紀伊郡界隈に進出してきている。これらはお互いに敵対関係ではなく、友好的関係をもっていたようである。但しはっきりした記録が残されてない。
D秦氏本流は、大きく分けて秦川勝の流れと秦大津父の流れがあり、川勝の流れが山背国葛野郡太秦に本拠地があり、大津父の流れが山背国紀伊郡深草に本拠地があった。
E実在が間違いないとされる「秦川勝」は、33推古天皇の時、聖徳太子に仕え、603年ー623年に太秦に広隆寺を建立し、聖徳太子より拝領した新羅仏である弥勒菩薩像を安置し、氏寺とした。
F701年に葛野郡松尾に大津父の血脈と思われる秦都理が松尾神社を創建し、秦氏の氏神とした。この神社の社家は代々秦氏が継いだ。
G718年には、紀伊郡深草に大津父の血脈を引く秦伊侶具が伏見稲荷神社を創建した。この社家も代々秦氏が継いだ。
H松尾神社も稲荷神社も山背国愛宕郡にある賀茂県主氏の賀茂神社とは、婚姻関係を通じて非常に近しい関係にあり、ある時期はその総ての神社の財政的なパトロンは秦氏であったものと思われる。諸資料から、松尾神社は、その創建前は、葛野郡にある賀茂社であった可能性もある。それを秦氏が受け継いで秦氏の氏神「松尾神社」にしたとも考えられる。
I8世紀になり川勝の流れと思われる秦朝元が表れ、その娘が藤原式家清成との間に藤原種継を産んだ。式家は50桓武天皇を誕生させ、その最大のパトロンとなっていた。桓武天皇の平城京脱出・長岡京遷都の中心人物が種継である。これを裏面から支援したのが秦氏である。
J同じく川勝流れから太秦島麿が、秦氏としては異例の従四位下の位をもらいその娘が、藤原北家の小黒麿に嫁いで葛野麿を産んだ。この小黒麿も種継と同じく桓武天皇の長岡京遷都の中心人物であり、葛野麿は、平安遷都の中心人物ともなった。これらを陰で支援したのが秦氏であったことは間違いない。
K平安遷都(794年)以降秦氏に関する記事が公的文書から全く姿を消す。但し883年秦氏19氏が惟宗朝臣の賜姓された記事がある。よって主流の秦氏は惟宗氏として後世に繋がったと考えるのが妥当。
しかし、歴史上有名な人物は、出現しなくなる。
筆者はこの理由を、これ以降藤原氏が古代豪族の中央への進出を徹底的に抑制にかかるので、これの対象氏族となったか、敢えて殖産専門家集団の中に埋没したかである、と考える。
しかし、日本全国で秦氏がこれ以降もある一定レベルの勢力を持ち続けたことは事実である。これは、渡来以来の地道な殖産事業に優れた氏族であった証拠であろうとされている。
L秦氏のその後の関係氏族としては、惟宗氏から大名家「島津氏」「対馬宗氏」など、
宮中楽家である薗・林・東儀・岡 家など。
能楽家「金春家」、戦国武将「物集女氏」「長曽我部氏」などが挙げられる。
但しこれらの系図は、色々問題があり、そのまま信じる訳にはいかない。
なんといっても秦氏の系譜を護ってきた最大の氏族は「松尾神社社家」「稲荷神社社家」である。しかし、その元祖部分は謎につつまれている。この両神社社家の祖は、賀茂神社と秦氏の合体血族で、共に稲荷神社の創設者である「秦忌寸伊侶具」であった可能性もある。
 
6)参考文献
・「秦氏とカモ氏」 中村修也 臨川書店(1994)
・「乙訓の原像」 中村修 (株)ビレッジプレス(2004)
・「古代豪族の研究」 新人物往来社(2002)
・「桓武天皇」 村尾次郎 吉川弘文館(1996)    など