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30百済氏考(百済王氏 附:大内氏)
1)はじめに
 50桓武天皇の母親は「高野新笠」である。高野姓は後年贈られた名称で、旧姓は和史(やまとのふみ)姓である。奈良朝廷の低級官吏(または百姓ともいわれている)「和史乙継」の娘である。この和史氏は百済系の渡来人の裔とされている。続日本紀延暦8年(789)記事に「ーーー后の先は百済武寧王の子純陀太子より出ず。ーーー皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生まるところなり、皇太后は即ち其の後なりーーー」と記されてある。また日本書紀では513年26継体天皇紀に「百済太子淳陀」死去とある。続日本紀790年桓武天皇紀に「百済王らは朕の外戚である。云々」と桓武天皇が詔している記事あり。これらを引用した形で平成天皇が2001年「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」との発言がされ話題となった。
 一方日本書紀には、倭国と朝鮮半島の国々(百済国・新羅国・高句麗国・任那国など)との各種交流記事が多数ある。これが我々アマチュア古代史ファンにとっては難物である。
その背景がよく分からないし、地理不案内、人名が読めない、その記事の重要性判断がしづらい、勿論それが史実かどうかになると全く判断出来ないのである。
しかし、日本の古代豪族を理解しようと思えば、渡来人のことを知る必要が不可欠である。彼等が果たした役目は、非常に大きく、政治・経済・文化・芸能・宗教などあらゆる分野に影響を与えてきたことは間違いない史実である。しかし、筆者は勿論だが多くの現在の日本人はその渡来人の故郷である朝鮮半島の古代の歴史について全くといって知識が無いのが現状である。
この実態は、過去も恐らくそうだったのではなかろうか。それと同時に、我々が日本の古代のことが分からないのと同じくらい朝鮮半島の方々も自分らの国土の古代の歴史が分からないのではないだろうか。勿論朝鮮半島の方々が日本の古代の歴史を知っているとは思えない。当たり前である。日本では古くは中国の漢籍を勉強し、古書を研究して多くの知識を得てきた。その歴史も詳しく研究されてきた。(所謂「東洋学」)一方明治以降は欧米の文化吸収の必要性から、その国々の歴史の研究にも非常に多くの人材が投入されてきたことも事実である。小学校から高校の間に教わる歴史教育でもそれが反映され、西洋史は非常に力が入れられた。
残念ながら朝鮮半島史は、少なくとも筆者は「馬韓・弁韓・辰韓」の三韓時代という言葉と、新羅・百済・任那国時代、季氏朝鮮が存在していた事ぐらいしか教わっていないし、記憶にない。勿論詳しいことは、全く知らない。地理にしても「京城(そうる)」「平壌(ぴゃんよん)」「釜山(ぷさん)」「済州島」あと一つ二つしか名前と場所が地図上で一致するとこがない。
これでは駄目だと痛感して、にわか勉強をして、本稿を執筆する参考にした。
主な情報源はフリー百科事典「ウイキペディア(Wikipedia)」のHP版である。色々な本も読んだが難し過ぎて筆者には無理であった。上記HPが最新版の朝鮮半島古代史を勉強するのに非常に便利であり、中立的な姿勢で概略を理解するのに最も適していると判断した。本稿の人物列伝なども大いにこの記事を参考にさせて貰った。但しその出典は主に
「三国史記」である。これは後述するが、朝鮮半島関係の現存する最も古い歴史書(1143−1145頃完成)ではあるが史実性については多くの疑問点が指摘されているようなので、その点を常に考慮して判断する必要があるようである。日本の「記紀」と同じと思えばいいのであろう。
この「三国史記」と「日本書紀」の朝鮮半島関係の記事との整合性が全くと言っていいほど無いことが指摘されている。どちらも現在から考えれば大昔の歴史書である。
これが隣国同士でありながら両国が互いに真の友好関係が築かれなかった種となり、現在もその史実を巡って学者同士でさえ未だ大きな乖離があるとされている。非常に残念なことである。互いの民族感情を煽るような歴史教育は厳に両国とも慎むべきである。
それとは別に史実の解明に中国・朝鮮半島・日本の国々の英知を結集して欲しいものである。発掘考古学の力が必要である。
我々アマチュア古代史ファンから見れば、あらゆる政治的・思想的判断を介入させることなく、我々日本列島の真の歴史が解明出来ることを望んでやまない。大和王権誕生の真相など色々あるが、この問題もその重要な課題の一つである。
 本稿では、百済王族の人物列伝を通じて百済および当時の朝鮮半島の歴史を概観したい。そして、その末裔として日本に渡来してきた、百済王(くだらのこにきし)氏及び百済王族出身とされる各氏族をまとめて「百済氏」と呼ぶことにして、その活躍を記したい。
さらにこの百済氏の末裔だとされている戦国大名の雄「大内氏」についても参考程度に解説しておきたい。この人物列伝も上記フリー百科事典「ウイキペディア(Wikipedia)」のHP版を参考にさせてもらった。
 
2)百済王家人物列伝
百済氏の人物列伝を記す前に百済王家の人物列伝を参考までに記しておきたい。
 
・朱蒙(しゅもう)(?−BC19?)
@父:解慕漱(かいぼそう)又は金蛙王(扶余国王) 母:河伯(水神)娘「柳花」
A子供:瑠璃明王・沸流・温祚王 別名:東明聖王・東明王・鄒牟・衆解・都慕王
B高句麗初代国王(在位:BC37?−BC19?)
C多くの建国神話ある。
・「柳花」の産んだ卵から産まれた。(三国史記)
・朱蒙とは弓の達人という意味。
・扶余国王金蛙王の息子等に追われて扶余国から逃げて「卒本」*に都を造り「高句麗」とした。「高句麗国」発祥の地。BC37年のことである。この建国年には異説あり。(広開土王碑)これだとBC277年となる。
現在では、一般的には高句麗国は、新羅国建国(BC57年頃)よりかなり前から存在していたとされている。馬韓・弁韓・辰韓時代には高句麗国は併存していたと考えられている。
*現在の中華人民共和国遼寧省本渓市桓仁満族自治県に比定されている。
 
2−1)温祚王(おんそ)(?−28)(在位:BC18−AD28)
@父:朱蒙? 母:扶余王娘?
A子供:多婁王 兄弟:高句麗国2代瑠璃明王・沸流、別名:扶余温祚・余温祚
B百済国初代王。父親は高句麗国初代国王朱蒙(都慕王)とされている。異系図多し。
C「三国史記」百済本紀・同別伝 「隋書」百済伝などで始祖の出自は若干異なる。
D元々の出が扶余国*であるとし、氏は「扶余」または「余」と称した。
E高句麗国の2代国王は腹違いの兄である瑠璃明王(類利)がなったとされている。
F同腹の兄弟沸流・温祚は高句麗国(卒本)を離れ南に移った。温祚は京畿道河南市に都を置き百済国を興した。とされる。これは「魏志」「三国志」によれば馬韓54国の一つで、伯済国であろうとされているが、詳細不明。後に馬韓全土を領したと記されている。
即ち暗に既存の馬韓国を滅ぼして、北方の異民族出身の高句麗王族が百済という国を興したと記している。(一般領民と王族とは言葉も異なり、人種も異なるとされている)
 
*扶余族は、中国三国時代(魏・呉・蜀)に満州に住んでいた民族で、万里の長城より北、南は高句麗、東は(ゆう婁)、西は鮮卑に接する狭い範囲に住んでいたとされる。
 
2−2)多婁王(たる)(?−77)(在位:28−77)
@父:温祚王 母:不明
A子供:己婁王
B2代国王
 
2−3)己婁王(こる)(?−128)(在位:77−128)
@父:多婁王 母:不明
A子供:蓋婁王
B3代国王
C新羅へ侵攻したが後に和睦。
 
2−4)蓋婁王(がいる)(?−166)(在位:128−166)
@父:己婁王 母:不明
A子供:肖古王・古尓王・優寿
B4代国王。百済と新羅は敵対関係になる。
 
・古尓王(こに)(?−286)(在位:234−286)
@父:蓋婁王 母:不明
A第2子。子供:責稽王
B8代国王7代沙伴王が幼少のため。
C新羅との交戦続く。
 
・責稽王(せきけい)(?−298)(在位:286−298)
@父:古尓王 母:不明
A子供:汾西王 夫人:帯方郡王女「宝菓」  別名:青稽王・責稽王
B第9代国王。高句麗と緊張関係。
 
・汾西王(ふんせい)(?−304)(在位:298−304)
@父:責稽王 母:不明
A子供:契王
B第10代国王。楽浪太守により殺害。
 
・契王(けい)(?−346)(在位:344−346)
@父:汾西王 母:不明
A子供:不明
B第12代国王
 
2−5)肖古王(しょうこ)(?−214)(在位:166−214)
@父:蓋婁王 母:不明
A子供:仇首王   別名:素古王・尚古王
B5代国王。新羅・靺鞨と交戦。
C古事記では15応神天皇記に照古王が馬ひとつがいと論語献上とある。阿知吉師・和邇吉師を使者として日本に遣わしたとある。これは近肖古王のことではないかと言われている。(時代が合わない)
 
 
2−6)仇首王(きゅうしゅ)(?−234)(在位:214−234)
@父:肖古王 母:不明
A長男、子供:沙伴王・比流王・優福  別名:貴須王
B6代国王。新羅・靺鞨と交戦。
 
・沙伴王(さはん)(?−?)(在位:234)
@父:仇首王 母:不明
A長子。子供:不明   別名:沙沸王・沙伊王
B第7代国王。幼少のため直ぐに古尓王に替わった。
この王は国王としてない系図もある。その場合これ以降の国王の代数が一代少ない。
 
2−7)比流王(ひりゅう)(?−344)(在位:304−344)
@父:仇首王 母:不明
A第2子。子供:近肖古王など
B第11代国王。汾西王の子供幼少のため王位についた。
C弟「優福」反乱。新羅との交戦なし。
 
2−8)近肖古王(きんしょうこ)(?−375)(在位:346−375)
@父:比流王 母:不明
A第2子。子供:近仇首王   別名:速古王
B中国・日本の史書に初めて登場する百済王。
ここまでの歴史は欠けていてはっきりしない。これ以降は「魏志」などにも明瞭に記されている。
C第13代国王。「晋書」では余句。日本書紀:肖古王 古事記:照古王 新撰姓氏録:速古王と記されている。
第5代とは時代が合わない。「近」をつけて区別。
D新羅とは和親。高句麗と抗争。
E372年頃倭国へ七支刀を贈り(紀:神功52記事)、東晋ー百済ー倭ラインで高句麗対策をとった。次代も同一戦略をとった。
F開国以来文字が無かった。この時代になって初めて漢字が伝わったとされる。
G古事記では15応神天皇の時、百済王照古王が馬1つがいと論語などの書物献上。
阿知吉師・和邇吉師を使者として日本に遣わしたとされている。
これは年代から考えて13近肖古王のことであるとされているが、5肖古王であるという説もある。
H紀記事:神功47年木羅斤資・肖古王記事。神功55年肖古王没記事。
Iこの子供の流れより日本に渡来した氏族に錦織氏が派生し、三善宿禰姓となり右京諸蕃
とされ大学頭三善清行の時朝臣姓となり、鎌倉幕府問注所初代執事になった三善康信を輩出。以後多くの武家が派生した。
 
2−9)近仇首王(?−384)(在位:375−384)
@父:近肖古王 母:不明
A子供:枕流王・辰斯王・辰孫   別名:須・貴須王
B第14代国王。高句麗と交戦。
 
・辰斯王(しんし)(?−392)(在位:385−392)
@父:近仇首王 母:不明
A次男。子供:知宗ー大阿良  別名:余暉?
B第16代国王。太子(阿辛王)が幼少のため王位についた。日本書紀(応神2年・391?記事)では王位簒奪とある。
C高句麗に対抗。392年高句麗広開土王が4万の兵で侵略。
Dこの辺りで倭が関与か?王の死には謎が多いとされている。広開土王碑文。
 
・辰孫
 
2−10)枕流王(ちんりゅう)(?−385)(在位:384−385)
@父:近仇首王 母:不明
A嫡子。子供:阿辛王・洪 別名:日本書紀(神功52年記事)「枕流(とむる)」
B第15代国王。東晋に朝貢。高句麗に対抗。
C384年百済に仏教が入る。385年仏寺を開く。
 
2−11)阿辛王(あしん)(?−405)(392−405)
@父:枕流王 母:不明
A長男。子供:腆支王・訓解・セツ礼・信   別名:阿芳王・阿花王(紀)
B17代国王。即位経緯に異説あり。
日本書紀(応神2年・391?年記事):15枕流王の薨去の際に16辰斯王が王位簒奪。後に辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために日本側は紀角宿禰などを遣わせて譴責したところ、百済側で16辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花を百済王に立てた。とある。
C倭国と修好を結び高句麗に対抗。403年新羅へ侵攻。倭国へ人質として、太子(腆支王)を出した。
D百済から献上されたとされる古事記にある「王仁」はこの時代に当たる。これに比定される半島側の史料なし。
 
2−12)腆支王(てんし)(?−420)(在位:405−420)
@父:阿辛王 母:不明
A長子。子供:久尓辛王 別名:余映・直支(紀:とき)王・真支王など
B397年倭国に人質として赴いた。
C即位に関しては兄弟間で争いがあった。第18代国王。
D高句麗に対抗。
 
2−13)久尓辛王(くにしん)(?−−427)(在位:420−427)
@父:腆支王 母:不明
A長男。子供:比有王
B第19代国王。治績記事なし。
C日本書紀:応神25年(414?)に即位。王が若かったので木羅斤資(もくらこんし)の子木満致(もくまんち)が国政を行ったとある。この木満致が蘇我氏の祖先「蘇我満智」とする説あり。定説ではなく謎が多い。
 
2−14)比有王(ひゆう)(?−455)(在位:427−455)
@父:久尓辛王 母:不明
A長男。子供:蓋鹵王(・文周王を入れる系図もある。)
   (正式な漢字の「ひ」の字がないため「比」で代用)
B第20代国王。中国南朝(宋)ー百済ー新羅・倭国協調体制。高句麗対抗。
 
2−15)蓋鹵王(がいろ)(?−475)(在位:455−475)
@父:比有王 母:不明
A長子。子供:文周王・昆支・武寧王を入れる系図あり。
 別名:慶司・近蓋鹵王・加須利君(紀)・余慶
B第21代国王。中国南朝・新羅・倭国同盟で高句麗に対抗。
C475年高句麗の侵攻により首都(ソウル)陥落。王は戦死。
D461年弟「昆伎君」を倭国に人質に出した。
E日本書紀(雄略5年・461年記事):昆伎君が倭国に向かう時、伴った婦人が筑紫で王子が産まれた。これを百済に送り返した。この王子が後の「武寧王」である。記事あり。
F475年でいったん百済国は滅んだとされている。
 
・文周王(ぶんしゅう)(?−477)(在位:475−477)
@父:蓋鹵王? 母:不明
A子供:三斤王 別名:文明王・ぶん洲王(紀)・牟都?
B第22代国王。熊津に遷都した。
C日本書紀:21雄略天皇20年(476)に高句麗が百済を滅ぼした。477年雄略天皇が久麻那利(くまなり:熊津)を百済の「ぶん洲王」に下賜して国の復興をさせた。とある。
D王権は低下。477年暗殺された。この辺りの記録錯綜。
 
・三斤王(さんきん)(464?−479)(在位:477−479)
@父:文周王 母:不明
A長子。子供:不明  別名:壬乞王・三乞王・文斤王(紀)
B第23代国王。治績記事なし。貴族連合体制。
 
2−16)昆支(こんき)
@父:蓋鹵王 母:不明
A子供:東城王    昆支は蓋鹵王の弟説(紀)
B日本書紀記事:雄略朝に人質として日本に来ていた。
 
2−17)東城王(?−501)(在位:479−501)
@父:昆支 母:不明
A子供:武寧王 別名:牟大・摩牟・牟太・未多
B第24代国王。
出自異説:文周王の孫説・文周王の子説・昆支王の第2子「末多王」説(紀)
C日本書紀:雄略23年(479)百済文斤王が急死したため、当時日本に滞在していた昆支王の5人の子供のなかで第2子が幼少ながら聡明だったので天皇は筑紫の軍司500人をつけて末多王を百済に帰国させ、王位につけ東城王とした。と記す。
D新羅と同盟。高句麗に対抗。
Eこの東城王の日本での裔が飛鳥部氏だとされている。
飛鳥部奈止麿という人物が知られている。
・この奈止麿の娘が百済永継である。この娘と藤原北家内麿との間に生まれたのが冬嗣である。即ち摂関家の元祖も渡来人百済氏の血を引いているのである。
・この永継は50桓武天皇の妃となり「良峯安世」を生んでいる。
異系図もある。
 
2−18)武寧王(ぶねい)(462−523)(在位:502−523)
@父:東城王(蓋鹵王説もある) 母:不明
A次男。子供:聖王・純陀太子? 別名:斯摩・隆・余隆・嶋君  斯麻王
B第25代国王。
C日本書紀:21雄略天皇5年(461年)「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として派遣する際、一婦人を与えて、途中で子供がうまれれば送り返せと命じた。一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に返した。これが武寧王である」
・502年即位。東城王が暴虐であったので百済の国人が王を殺し嶋王を立てた。
・513年任那4県を倭国は百済に譲渡。(これの真偽は現在でも確定してない)
D武寧王の墓誌が発見された。生年462年(雄略天皇5年)蓋鹵王7年となる。
E三国史記:501年首都熊津で即位。
 
・純陀太子(?−514)
@父:武寧王 母:不明
A長男?兄弟:明  子供:法師君 異説:斯我君が子供で504年日本に派遣された。その子供が法師君であるという説。斯我君こそ純陀太子の別名であるという説。
B父は若い頃倭国に滞在しており、淳陀は倭国で生まれた。そのまま滞在説あり。
日本書紀:514年26継体天皇の時、百済太子淳陀が倭国で死去。
三国史記にはこの人物の記事なし。
C高野新笠崩御記事(続紀)に百済武寧王の子「純陀太子」より出たとある。
D子供法師君が倭(和)氏祖である。
 
2−19)聖王(?−554)(在位:523−554)
@父:武寧王 母:不明
A子供:威徳王・恵王(・琳聖太子?)  別名:聖明王・明王(紀)・明
B第26代国王。中国南朝・新羅・倭国連合で高句麗に対抗。
C日本書紀記事:後に新羅関係悪化。29欽明天皇の時541年大和王権の介入要請。任那復興会議。倭国と共に新羅と交戦、戦死。
D日本に仏教を伝えた。
 
・威徳王(いとく)(526?−598)(在位:554−598)
@父:聖王 母:不明
A長子。子供:恵王説あり・阿佐太子 別名:昌・高・明・余昌
B第27代国王。
C554年倭国と共に新羅と交戦。倭国軍に助けられ生き延びた。
D日本書紀記事あり。557年即位とある。
E新羅・高句麗と交戦。
F561年29欽明天皇援軍派遣。任那と呼応して新羅を攻めたが敗北。任那滅亡伽耶諸国は完全に新羅に属した。
G581年隋国との関係良化。
 
・阿佐太子
@父:威徳王 母:不明
A子供:不明
B紀記事:推古5年(597年)来朝。
C聖徳太子肖像を描いたといわれている人物。(日本最古の肖像画)
D百済王神社と関係か?
 
2−20)恵王(けい)(?−599)(在位:598−599)
@父:聖王 母:不明
A次男。子供:法王 別名:季・献王
B第28代国王。
C日本書紀では聖王が亡くなったことを知らせる威徳王の使者として「恵」が登場。
 
2−21)法王(?−600)(在位:599−600)
@父:恵王 母:不明
A長男。子供:武王 別名:宣・孝順・余宣
B第29代国王。
C仏教を厚く信仰。600年王興寺建立。
 
2−22)武王(580?−641)(在位:600−641)
@父:法王 母:不明
A子供:義慈王 別名:璋・武康・献丙・余璋
B第30代国王。
C新羅・高句麗と交戦。高句麗と和解。新羅との交戦続く。
 
2−23)義慈王(ぎじ)(599−660)(在位:641−660)
@父:武王 母:不明
A嫡男。子供:豊璋王・演・隆・泰・孝・余禅広・塞城忠勝など 別名:扶余義慈
B第31代国王。最後の王とも言われている。
C高句麗と共同して新羅を攻めた。唐ー新羅同盟をまねいた。
D660年唐に滅ぼされた。日本書紀欽明3年(554)記事。
E632年太子。唐にも朝貢していた。
F655年頃まで新羅には優勢であった。
G660年唐軍13万人。新羅軍5万に大敗。百済滅亡。長安で病死。
 
2−24)豊璋王(ほうしょう)(?−?)
@父:義慈王 母:不明
A妻:多蒋敷妹(多宇気子女)。子供:不明 別名:扶余豊璋・余豊璋
B倭国滞在中に百済本国が滅亡。復興のため帰国。
C日本書紀:631年豊璋来日。百済本紀:653年倭国と通好とある。
650年の難波宮記事に豊璋登場。人質ではあったが、賓客扱い。
皇極2年記事。
D中大兄皇子は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することになった。
E662年帰国。663年鬼室福信を殺害。百済軍弱体化。倭国援軍を待つ。
F唐本国から7,000の援軍が来て、倭国軍と白村江で戦う。大敗。
G高句麗に逃げた。668年高句麗も唐により滅亡。豊璋は、中国に流刑された。
 
・鬼室福信(きしつふくしん)(?−?)
紀記事:660年百済滅亡後も旧臣らを集めて抵抗運動を続け、百済故都の奪還を謀った。義慈王の皇子余豊璋を人質となっていた倭国より帰し復興の旗印とした。また倭国の支援を要請し、中大兄皇子・37斉明天皇はこれに応じて筑紫に遠征した。
663年豊璋王は福信の謀反を疑いこれを討った。白村江の戦いで日本と百済の連合軍は大敗した。
 
・鬼室集斯(きしつしゅうし)(?−688?)
鬼室福信の縁者。669年近江国神前郡に百済出身男女700名程と住んだとされる。
学識頭。
 
3)百済氏人物列伝
百済王氏を中心に記す。どれを嫡流とするかは諸説あるが、百済王神社社家三松氏流を本流として記す。
 
<百済王(くだらのこにきし)氏>
3−1)余禅広(601−687)
@父:義慈王 母:不明
A兄弟:豊璋王・演・隆・泰・孝など 別名:善光・百済王善光
B持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜る。持統7年記事。
C天平神護2年(766)敬福死亡記事:34舒明天皇の時義慈王が豊璋王・禅広王を日本に(人質として)遣わしたとある。
・37斉明天皇の時、義慈王軍が敗れて唐に降る。(豊璋王は帰国したが)禅広王は国に帰らなかった。とある。
D三国史記には禅広の名前はない。
 
3−2)昌成(?−天武3)
@父:余禅広 母:不明
A子供:良虞・遠宝・南典
B幼年に父に随いて来日し、父に先立ち卒っす。
C小紫位追贈。
 
・遠宝(?−天平6)
@父:昌成 母:不明
A子供:慈敬(正五位下)
B文武4年(700年)記事あり。常陸守。
C従四位下、散位。
 
・南典(666−758)
@父:昌成 母:不明
A子供:不明
B備前守・美作国設置。非参議、従三位。
 
3−3)良虞(661−737)
@父:昌成 母:不明
A子供:孝忠・全福(・永継)・敬福
B平城京で従四位下摂津亮。
 
・孝忠
@父:良虞 母:不明
A子供:元忠
B遠江守・太宰大弐・出雲守・従四位下。
 
・元忠(?−宝亀4)
@父:孝忠
A子供:玄風
B散位従四位下。
 
・全福
正五位下・尾張守
 
・永継(百済王家東城王の項参照)
 この人物を「良虞」の男とする系図もある。こちらは一般的ではない。
その場合この人物の娘が藤原内麿室、別の娘が桓武天皇妃となっている。(筆者系図参照)
 
3−4)敬福(698−766)
@父:良虞 母:不明
A第3子。子供:理伯・武鏡・利善・玄鏡
B従三位刑部卿。非参議。
C放縦にして拘らず、すこぶる酒色を好む。45聖武天皇殊に寵遇。
D738年陸奥介歴史上初出。743年陸奥守。749年陸奥国小田郡の黄金を献じて従三位となる。
・聖武天皇は東大寺大仏建立中、黄金が不足。これまで日本国内で黄金産出例なし。
749年敬福から陸奥国から黄金産出が報じられ900両貢上された。これにより敬福は7階級特進。百済系鉱山師が発見か。
E宮内卿。河内守・出雲守・常陸守・伊予守・讃岐守
F橘奈良麻呂の乱裁判官の一人。
G47淳仁天皇の捕縛。
 
・武鏡(764以前−784)
@父:敬福 母:不明
A子供:教仁
B正五位下。出羽守。周防守
 
・教仁
@父:武鏡 母:不明
A夫:桓武天皇
 
・玄鏡
石見守・正少納言・上総守・従四位上。
 
3−5)理伯(754以前ー776)
@父:敬福 母:不明
A子供:明信・恵信(従三位、尚侍)明本
B774年従四位下、右京大夫。摂津大夫・伊勢守。
 
・明信(?−815)
@父:理伯 母:不明
A夫:藤原継縄 子供:乙叡
B従二位・桓武天皇の尚侍。
C50桓武天皇の一生を通じた恋人。
 
・明本
理伯娘・桓武天皇後宮宮人・従五位下
 
3−6)俊哲(?−795)
@父:理伯 母:不明
A子供:教法・聡哲・教徳・貴命・教俊・教雲・教勝・教養・教貞
B陸奥鎮守府将軍征夷副使。
C従四位下。陸奥守。
 
・教法(?−840)
@父:俊哲 母:不明
A夫:桓武天皇 子供:
B従四位下。
C山城国乙訓郡に白田一町下賜。
D坂上田村麻呂と共に東海道に遣わされる。下野守。
 
・聡哲()
@父:俊哲 母:不明
A長男・子供:永哲・永仁
B正五位下、刑部大輔
 
・教徳(?−822)
@父:俊哲 母:不明
A子供:貞香(従四位上・桓武天皇妃)・真徳(従五位下。女孺)
B従四位上、刑部卿。
 
・貴命
@父:俊哲 母:不明
A夫:52嵯峨天皇女御
 
3−7)教俊(?−?)
@父:俊哲 母:不明
A子供:慶命・永慶・豊俊
B従五位上出羽守。
 
・慶命(?−849)
@父:教俊 母:不明
A夫:52嵯峨天皇 子供:源定・源鎮・源善姫・源若姫
B従二位・尚侍。
 
・永慶
@父:教俊 母:不明
A夫:仁明天皇妃
 
3−8)三松豊俊()
@父:教俊 母:不明
A子供:俊房・俊聡(従五位上・和泉守)・女(仁明天皇妃)
B百済王神社社家祖。 三松氏系図が存在する。
 
3−9)俊房
3−10)俊行
3−11)俊兼
3−12)俊嗣
3−13)俊世
3−14)俊景
3−15)興扶
3−16)友実
 
・百済王神社(大阪府枚方市中宮西之町1−68)
祭神:百済王・進雄命(すさのおのみこと)(牛頭天王)
百済王敬福は河内守に任じられ中宮の地を聖武天皇から賜り氏寺「百済寺」氏神「百済王神社」を造営。難波からこの地に居館を移し住み着いたとされている。現在境内に百済寺跡がある。
別伝:(27威徳王長子)「阿佐太子」及びその子孫を合祀した神社。太子の邸宅跡。
阿佐王は33推古天皇時(597年)に来朝。仏像などを聖徳太子に献上。太子はこれを寿して邸宅を交野郡に賜った。(大阪府全志)
百済王寺はその境内にあり、百済王南典が没したのを弔うために敬福が建立。現在は国史跡「百済寺跡」になっている。
 
<船氏・白猪氏・葛井氏・宮原氏・津氏・菅野氏>
延暦9年(790年)の百済王仁貞の連姓を朝臣姓にするべく上表した記事。
百済王「貴須王」の孫「辰孫王」が15応神天皇の代に来朝。その長子「太阿郎王」は16仁徳天皇の近侍となり、その子「玄陽君」、玄陽君の子に「午定君」その長子「味沙」仲子に「辰爾」季子に「麻呂(王牛)」がある。それぞれ葛井・船・津連の祖である。と記されてある。
これに記された各氏が後に分派してそれぞれ 船氏・白猪氏・葛井氏・宮原氏・津氏・菅野氏などを称することになった。
 
・王辰爾
@父:百済午定 母:不明
A子供:那沛故  別名:船史王辰爾
B百済王「近仇首王」の孫「辰孫王」の4世孫。
C30敏達天皇元年(572年)紀:高麗国からの国書を誰一人解読出来なかった中で、王辰爾だけが解読し、天皇から誉められた。この故事は、「烏羽の表」と呼ばれており、懐風藻にも引用されている。
Dこの流れを王爾氏または和爾氏ともいう。
E欽明14年(565)記事:蘇我稲目の記事に王辰爾が登場。船史姓を賜ったとある。
 
・菅野真道(741−814)
@父:津山守 母:不明
A子供:人数(尚侍従三位)・永峯
B従三位、805年参議。
C790年津連から菅野朝臣姓へ。  元は船氏で百済王14近仇首王の末裔である。
D50桓武天皇の信任厚く、平安京遷都にも関与。
E藤原継縄・秋篠安人と共に「続日本紀」編纂。
F806年藤原緒嗣と有名な徳政論争を行った。
 
今来漢人集団の氏寺・氏神
・葛井氏  氏神:辛国神社 氏寺:葛井寺
・船氏   氏神:国分神社 氏寺:野中寺
・津氏   氏神:大津神社 氏寺:善正寺
 
<和氏・高野氏>
・純陀太子
百済王族武寧王の項参照。
和史氏祖。朝鮮側の史料には出てこない。高野新笠の出自とされているが、謎であるという説もある。
 
・和史(やまとのふびと)武助
@父:浄足 母:不明
A子供:赤麿・乙継
 
・和乙継
@父:武助 母:不明
A子供:高野新笠・和国守   別名:弟嗣・高野朝臣乙継
B続日本紀記事:贈正一位。
C墓は奈良県広陵町にあるとされているが真相は不明。
D平城京の低級官僚説・百姓説がある。
 
・和家麻呂(733−804)
@父:和(高野)国守? 母:不明
A子供:文継・文麿
B延暦15(796)年参議。中納言  桓武天皇の母方従兄弟にあたる。
和気氏系図によると和気清麻呂の長子「広世」の子供になっている実高野氏となっており広世の養子となったようになっている。
C「人と為り木訥なるも才学なし」「帝の外戚を以て特に躍進ーー」
「蕃人の相府に入るはこれより始まる」日本後紀(804年)
中納言。贈従二位。
 
・高野新笠(?−790)
@父:和乙継 母:土師真妹
A夫:49光仁天皇 子供:50桓武天皇・早良親王・能登内親王
B桓武天皇即位後は皇太夫人・崩御後は皇太后と称された。
C墳墓は現在の京都市西京区大枝にある。
D京都にある平野神社は、今木神・久度神などを祀ってある。平城京の田村後宮にあった今木大神は高野新笠と桓武天皇が祭祀した。この今木神を平安遷都の時京都に移したものであるとされている。さらに、久度神は百済系渡来人が祭祀していたもので奈良県北葛城郡王寺町にある久度神社の祭神である。この近くに和乙継の墓あり。和氏の本拠地か。
 
(参考)4)大内氏人物列伝
・琳聖太子
@父:聖明王 母:不明
A第3子 子供:琳龍太子
B推古19年(611)周防国多々良浜に上陸。摂津に上り、聖徳太子に謁して周防国吉敷郡大内県(現在の防府市)を賜ったとされている。
C多々良氏・大内氏の伝説的始祖。(非常に疑問視されている)
D任那帰化族説・朝鮮半島から渡来した鉄精錬技術を持った氏族説。などある。
E墓地:山口市「乗福寺}
 
4−1)大内盛房
@父:多々良貞成 母:不明
A子供:弘盛ら多数。兄弟:盛長 別名:多々良盛房
B1178年九条兼実日記「玉葉」記事。流罪が許されて帰国。
C大内周防介
 
・盛長
陶氏祖
 
・陶晴賢(1521−1555)
@父:興房 母:右田隆康女
A次男・妻:内藤興盛孫娘大方、子供:長房  別名:隆房
B大内氏重臣。主君は義隆、義長
C1551年主君に謀反を起こした。義隆自害。嫡男義尊も殺害。
1552年義隆の養子義長を当主として擁立。実権を握った。
D1555年毛利元就との戦争激化。厳島の戦いに敗れ自害。
 
4−2)弘盛
源氏の御家人ではなかったが、平氏追討の功により頼朝から長門国に領地を与えられた。

4−3)満盛
4−4)弘成
4−5)弘貞
1250年頃には鎌倉御家人になっている。

4−6)弘家

・長弘
建武の新政で周防の守護に任じられた。

4−7)重弘
4−8)弘幸
 
4−9)弘世(1325−1380)
@父:弘幸 母:不明
A嫡男。子供:盛見・義弘・弘茂・弘正
B第9代当主
C南朝の周防守護・武将として、満良親王を奉じた。南朝方で1358年防長両国守護。
D1363年室町幕府に帰順。長門・周防の守護。1366年石見守護。1374年安芸の毛利を攻めた。
 
4−10)義弘(1356−1400)
@父:弘世 母:不明
A子供:持世・持盛
B第10代当主
C豊前・周防・石見・長門守護。和泉・紀伊守護。
D明との貿易。勢力拡大。足利義満と対立。畠山満家に討たれる。衰退する。
 
・持盛
@父:義弘 母:不明
A子供:教弘・教幸
 
・教幸
常陸牛久藩主山口氏祖。
 
4−11)持世(1394−1441)
@父:義弘 母:不明
A子供:養子:教弘(持世弟持盛の子)
B第12代当主
C後継者争い。少弐・大友氏を破り勢力拡大。
 
・弘茂(?−1401)
@父:弘世 母:不明
A七男、子供:不明
B幕府に兄義弘とともに交戦。敗北。
C周防・長門のみ安堵。
D盛見により討ちとられた。
 
・盛見(1377−1431)
@父:弘世 母:不明
A六男。子供:?
B第11代当主。
C弟弘茂と後継者争い。1401年弘茂を滅ぼす。
D筑前・豊前守護。少弐・大友氏と敵対。1431年筑前で戦死。
 
4−12)教弘(1420−1465)
@父:持盛 異説あり持世の養嗣子。 母:不明
A子供:政弘
B第13代当主。
C周防・長門・筑前・豊前領主。
D日明貿易・勘合貿易・日朝貿易で細川氏と対立。
E安芸の武田氏と交戦。勢力拡大。
F雪舟を招聘。
 
4−13)政弘(1446−1495)
@父:教弘
A嫡男。子供:義興・隆弘
B第14代当主。
D周防・長門・筑前・豊前領主。
E伊予河野氏後援。応仁の乱では、西軍山名宗全につく。戦国大名となる。
F一条兼良・雪舟・宗祇と交流。
 
・輝弘(1520?−1569)
@父:隆弘 母:不明
A子供:武弘  別名:隆弘
B第18代当主?
C大内義隆と対立関係にあり大友氏の家臣となっていた。
当主としての実権は既になかった。
D毛利元就と交戦。自害。
 
4−14)義興(1477−1529)
@父:政弘 母:不明
A妻:内藤弘矩娘 子供:義隆  女(大友義鑑室)・女(土佐一条房家室)
女(細川持高室)女(足利義冬室)
B第15代当主。
C周防・長門・石見・安芸・筑前・豊前・山城守護職。
D戦国時代前期の事実上のトップとして君臨。
E1512年京都に上った。この隙に尼子氏が勢力を伸ばし、毛利元就が活躍。
F帰国して体制を立て直す。
G山口文化の花を咲かせた。
 
4−15)義隆(1507−1551)
@父:義興 母:内藤弘矩娘
A嫡子。妻:万里小路秀房娘貞子 子供:義尊 養子:晴持・義長
B第16代当主
C大友・大弐氏と対立。武田氏・尼子氏・毛利氏と交戦。
Dフランシスコ・ザビエルと面会。
E重臣「陶隆房」の謀反で自害。実質的な大内氏の滅亡。
F山口を西の京として文化面では貢献大である。
 
・晴持(1524−1543)
@父:土佐一条房冬 養父:義隆 母:義隆姉
A義隆の養子、子供:不明    別名:一条義房
 
・義長(1532−1557)
@父:大友義鑑 養父:義隆 母:義隆姉
A子供:不明
B第17代当主
C陶隆房の傀儡当主。義父義隆からは実子が産まれたため養子を離縁されていた。
D陶隆房は厳島合戦で毛利元就と交戦で敗死。元就に攻められ山口で自害。
 
4−16)義尊(1545−1551)
@父:義隆 母:おさいの方(小槻伊治娘)
A陶氏により7才で殺害。嫡流は断絶。
 
5)百済氏関連系図
・百済氏概略系図
初代百済国王から日本に渡来してきた百済氏の概略系図を公知系図を組み合わせて筆者創作系図として示した。
・百済氏詳細系図
百済国王13代近肖古王以降の詳細系図を公知系図を組み合わせて筆者創作系図として示した。
・参考「大内氏」系図
参考系図として百済氏概略系図以降の大内氏の系図を示した。異系図も多数ある。
6)百済氏系図解説・論考
 「まえがき」で述べたが 、本稿で扱う百済氏というのは一般的に言われている「百済氏」と一寸異なるので最初にこの氏族の定義をしておきたい。
朝鮮半島に古代に存在していた、百済国の王家の血脈から派生し、大凡21雄略天皇の頃以降に日本列島に渡来してきた、色々の出自を有する総ての王族出身氏族の総称として「百済氏」と呼ぶことにする。百済出身の渡来人総てを指すのではない。
例えば、百済王氏・葛井氏・船氏・津氏・和氏・菅野氏・白猪氏などが代表的な氏族である。また多々良氏・大内氏・陶氏・三善氏なども参考までに同族として記述することにする。これ以外にも膨大な数の派生氏族が知られているが、それらについては論及を省略する。よってそれぞれ日本列島に渡来した年代も異なり、本拠地、姓も異なる。新撰姓氏録ではいずれも「蕃別氏族」に分類されている。
本論に入る前に古代朝鮮半島の歴史を概観してみたい。本当は非常に難しく、謎だらけで未だにはっきりしてないといっても過言ではない。また朝鮮半島に現存する古代の歴史を記した文献が「三国史記」(1145年頃完成)「三国遺事」(1280年頃完成)の2種しかないこと、日本書紀に引用されたとされる百済三書(百済記・百済百撰・百済本記 は現存してない)とは色々の点で大きく異なっているとされている。よってその信憑性に関しては疑問が多々あるとされている。中国の朝鮮半島関係の記事を記載している古文献も参考には出来る。それらを参考にして、我々アマチュアレベルでは外観的には或る程度のこの時代のことが分かるので筆者の独断と偏見で下記のように理解した。
@檀君朝鮮(だんくんちょうせん):BC2333年に興ったとされる伝説上の国の名前。「三国遺事(1280年頃成立)」に文献上初出(魏書からの引用としている。但し現在立証出来ない)。
朝鮮半島以外ではこの国の存在は、史実とは判断していない。
その神話によると「檀君王倹」という人物が中国太古伝説上の人物である「堯帝」が即位した50年後に平壌城に遷都して朝鮮と号した。1908才で亡くなったと記されている。朝鮮半島では現在も学校教育として檀君朝鮮を朝鮮民族・朝鮮国家の祖として教えている。
A箕子朝鮮(きしちょうせん)(?−BC194年):殷の箕子が建国したとされる朝鮮の伝説的古代国家。(韓氏朝鮮・奇氏朝鮮とも呼ぶ)首都は王倹城(平壌)
中国古典に記述はあるが、未だ考古学的裏付けなく、実在性乏しいとされている。
40代続いたとも言われている。現在の韓国・北朝鮮では白頭山に降臨した天神の子檀君こそが朝鮮族の始祖であるとされている。
B衛氏朝鮮(えいしちょうせん)(BC195?−BC108年):考古学的に証明出来る朝鮮最初の国家。中国古典によると、燕の亡命者である衛満が今の朝鮮半島北部に建国したとされる。朝鮮は燕の最盛期その配下に入った。燕が秦に滅ぼされた後はその属国となった。前漢高祖の時、衛満が燕から亡命し、朝鮮の非漢人系住民・燕・斉の亡命者らをまとめて平壌を首都として王位についた。その後BC108年に武帝の逆鱗にふれ、滅ぼされた。(3代続いた)その跡に楽浪郡など4郡が置かれ、漢の直轄地になった。
C原三国時代(BC108−AD4世紀中頃)(三韓時代)
楽浪郡他3郡・高句麗・馬韓・弁韓・辰韓が併存していた時代。
諸説あり、真相は未だ不明。
現在の平壌近辺に中国の直轄地である4郡と現在の満州から北朝鮮に扶余系民族が作ったとされる高句麗があった。南朝鮮に 馬韓・弁韓・辰韓の3国があった。という説が有力。「三国史記」ではBC1世紀には既に新羅・百済などが存在していたとしている。この説は日本・中国などの歴史学者の間では一般的には受け入れられていない。高句麗が既に存在していたことは許容されているらしい。
D三国時代(4世紀ー7世紀):韓国ではBC57年に斯廬(後の新羅)が朝鮮半島南東部で前漢から自治権を認められた年に始まったとしている。高句麗は、鴨緑江以北にBC37年に漢から独立。BC18年高句麗の皇子温祚が南西部に百済を建国。AD1世紀に伽耶が百済から独立。220年後漢滅亡。三国発展。三国は文化共有。
4世紀百済繁栄。半島の南半分支配。503年斯廬国は新羅国と改名。528年仏教が新羅の国教となった。伽耶は562年新羅により滅亡。
新羅は唐と同盟し、660年百済を滅ぼし、668年高句麗を滅ぼし、676年統一新羅建国。678年唐は朝鮮半島支配を放棄。
E 統一新羅時代(676−935年):初めての統一政権時代。政権は常に不安定であった。
渤海国(698−926)を高句麗滅亡後遺民らが建国。
F後三国時代(892−936年):新羅・後高句麗・後百済が併存した時代。
G高麗時代(936−1392年)
H朝鮮王朝(季子朝鮮)(1392−1886)
以上である。問題はCDの認識であろう。三国史記には三韓の記述が無い。中国古書などでは中国の魏呉蜀時代と同時代に南朝鮮に三韓が存在していたと記述がある。その中で馬韓の50数カ国の中の一国「伯済国」に百済が興りそれが馬韓全体に及んで百済国となった。辰韓の12国の中の一国「斯廬国」に新羅が興った。それが辰韓全体に勢力を広げて新羅国となったと解されている。
ハッキリした形で高句麗・百済・新羅と分かれるのは4世紀になってからと解されている。ところが朝鮮半島では現在もこの歴史観はとっていないようである。
弁韓は、12国に分かれていた。その後に興った任那伽耶国は、ちょっとややこしいし、本稿とは直接関係がないので詳細な説明は割愛する。我々が学生時代に学んだ「任那国」は日本の領土であったという説は、現在は否定的な見解が日本の学会でも主流である。日本の国が関与した何らかの出先機関みたいなものが任那伽耶国の中にある期間存在していた。という説が主流である。勿論朝鮮半島の歴史専門家の間でも意見は一致していないらしい。
 さて、本稿の百済王の人物列伝は、三国史記に準じた記述になっている。これを史実とは考えない方の意見が強い。特に日本歴史学者の間では。
伝承記録として参考史料として使いたい。
ところで、筆者はしばしば弥生人を2種に分けて記述してきた。即ち大和地方に4世紀以前から住んでいた旧勢力の弥生人出身氏族を新羅系弥生人氏族(銅器文化)としてきた。一方天神系(天孫系)弥生人出身の新勢力氏族(鉄器文化)を百済・伽耶系弥生人出身氏族であるとした。
前者を出雲系と呼ぶ人もいる。神で言えば地祇系氏族である。この場合の新羅とは一体上記朝鮮半島歴史ではどのように解したら良いのであろうか。これは一般的には新羅の前身である辰韓出身の弥生人のことをさすと思えばいい(朝鮮半島南東部域)。天神系と言われる新勢力は朝鮮半島南西部・南部域出身の勢力と考える。異論百出あるところであるが。
はなはだ曖昧であるが、この2者は文化が異なるとされてきた。しかし、色々調べて見ると文化だけでなく王族の血族が異なる。百済王族は扶余族と呼ばれ高句麗王族と同族である。一方国民は倭族・中国出身氏族が多かったようである。国民と王族は言語も異なっていたようだ。一方新羅は、朴・昔・金の3姓の王族がいた。交替で王位についた。
朴氏初代:朴赫居世  昔氏初代:昔脱解 金氏初代:金閼智
民族的には新羅が「韓族」の中心的存在となったようだ。
朝鮮半島の民族は複雑で高句麗出身は扶余族・靺鞨族系、百済出身は倭人・中国系、新羅出身は韓族系と呼ばれている。勿論古代のことである。現在はどうなのかは筆者には分からない。日本と同じように色々な民族が混血したのが韓民族と解しているがどうであろうか。筆者が未だ理解していないのが、朝鮮半島の南部には倭人という部族が多数住んでいたと中国関係の古書には出てくる。この倭人とは、日本の九州付近にいた弥生人と同一種族と考えられる。中国から見た場合、日本の九州地方と朝鮮半島南部の民族の区別がついていたのであろうか。これらの間で交流があったことは容易に推定出来る。史実の解明には、国家的・地理的・民族的・言語学的色々な観点での研究が必要であろう。
言語は、馬韓は弁韓・辰韓とは異なっていた。弁韓・辰韓はほぼ同じ言語であったようだ。朝鮮半島の古代は中国の属国(現在の朝鮮半島国家は、これを史実として認めていない?)であり各々の国々は絶えず戦争していたといっても過言ではあるまい。百済ー高句麗 百済ー新羅 新羅ー高句麗 これに倭国と中国が複雑に絡んでいる。伽耶諸国が562年に新羅に統合され、百済が660年に新羅に滅ぼされ、高句麗が668年新羅に滅ぼされ、676年唐が朝鮮半島から撤退して統一新羅国が誕生したのである。
 本論に入る前に百済王家のことを概観しておきたい。
日本書紀に初出する百済王は神功47年紀・52年紀・55年紀。古事記では応神紀。三国史記でいえば第13代の近肖古王(在位:346−375)からである。三国史記には5代にも肖古王という人物がいる。この人物に比定する説もあるが、時代が合わないとされている。
奈良県にある、石上神社の国宝「七支刀」は、筆者も実物を見たことがある。素晴らしいものである。
この刀には文字が彫られてあり、これが百済から大和王権に友好の品として贈られたものとされている。その時の百済王が近肖古王に相当するとされている。日本では諸説あるが
372年とされている。これが日本と百済の関係を知る一番古くて確実な証拠とされている。中国古典でもこの王が百済建国の初代王であるともされている。中国が認知した最初の百済王である。これが上述した百済は4世紀からであるとする根拠である。
三国史記は人物列伝で示したようにこれ以前にも数百年の百済の王の存在が記されているのである。これを証明する物は今日現在発見されていない。よって筆者もこれ以前のものは伝承記録としたい。
第16代国王「辰斯王」についても応神2年記事があり、高句麗との交戦記事が三国史記にも記されている。392年の「高句麗広開土王」(好太王碑)碑文はこの頃の物とされている。
戦後この碑文の解釈・日本軍による改竄説など諸説出されたが、現在では改竄はなく、少なくとも日本では、当初解釈されたとほぼ同じ解釈に近づいているようだ。
ーーーそもそも新羅・百残(百済のこと)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が391年に■を渡り百残・新羅を破り、臣民としてしまった。ーーー
■は「海」説あり。
勿論この解釈は未だ朝鮮半島の学者に受け入れられていないようである。
中国の学者の解釈が期待される。
いずれにせよ、日本書紀にも三韓征伐と呼ばれた「神功皇后」の記事が多数記載されている。これと時代的に符合していることは間違いない。
但し、百済征伐ではなく、高句麗と交戦していた百済を支援する軍を出したとある。
日本書紀には少なくとも百済国と倭国が交戦したという記録はない。
問題はこの頃倭国が百済国・新羅国・任那国(伽耶諸国)を一種の属国的な扱いにしていたかどうかである。日本の学者もこの辺りはかなりぼかしている。史実はどうであったのかは、重要である。日本の学者の中には、現在の朝鮮半島に住んでいる人の国民感情にだけに配慮したような学説も見受けられるが、これは問題をかえってややこしくするだけだと筆者は考える。
史実はどうであったのか、日本の古代史の学者達・朝鮮半島の古代史の学者達は冷静に史料・考古学的調査のさらなる追求を期待している。それこそ関係諸国の現在内在している
関係改善に繋がる大きな一歩になると信じる。
日本書紀の背景にある対朝鮮半島各国への表現は、当時の百済・新羅・任那国などに対して一種の属国的表現が至る所にあることは否定出来ない事実である。
ところが、日本書紀より数百年後に完成したとされる新羅系の本とされる「三国史記」では、当然かもしれないが、朝鮮半島の国々が日本の属国的存在であったことを臭わす記事
は何処にもないとされている。(日本に朝鮮半島の国から人質を出したことを臭わす表現はあるとの説もあるが)
ヨーロッパでは、古代において、色々な国が興こり、消滅していった。しかも絶え間ない戦乱の歴史であり、絶えずその勢力・民族の移動が行われてきた。そして、現在の国々は大きな意味で歴史は歴史として受け入れてきたのである。
それぞれの民族・国家がそれぞれの歴史・伝承を大切にすることは、互いに認め合う必要がある。その上にたって、史実はどうかということも真の国際関係を友好にし、互いを理解し合う上では不可欠なことである。我々日本列島に住む日本人は、隣国である朝鮮半島と無関係に発展してきたのでないことは、古代史を一寸勉強すれば一目瞭然たる事実である。
百済王族の話に戻す。第21代「蓋鹵王」の時、475年頃百済国は一度滅んだという。
首都であったソウルが高句麗によって陥落したとされた。日本では21雄略天皇の頃とされている。
日本書紀では21雄略天皇の支援により、477年に百済は、復興されたとある。
日本書紀には、第25代百済王「武寧王」も本当は日本で誕生したとある。
勿論三国史記にはそのような記述はない。
この武寧王の子供に「純陀太子」という人物がおり、この人物は日本で生まれ、517年26継体天皇の時に日本で没したとある。この裔に「和史氏」が発生し、50桓武天皇の生母である「高野新笠」が輩出されたとされている。和史氏が百済系渡来人の末裔であることは認めたとしても、その出自が上記「純陀太子」だとするのは疑問であるという説はある。さらに、日本書紀に記事のある斯我君を純陀太子と同一人物とする説と子供であるという説がある。筆者は同一人物説を採用した。
日本書紀に「純陀太子」の記述はある。この時後々の高野新笠の出現は全く予想出来ない。
これらを色々調査し、系譜作成をしたのが既稿の「和気清麻呂」であったのではなかろうか。和気系図に和家麻呂が養子として入っているのが、筆者にはどうも気になる。
この高野新笠の縁で桓武天皇は、790年に「百済王らは朕の外戚である」と言ったのである。百済王氏と高野新笠が繋がるのは、武寧王である。はるか昔である。系図上では9代も前の話である。
歴史家はこの点に何か奇異な感じを持っているのであろう。
武寧王の子供である第26代国王である「聖明王」は有名である。日本に仏教を伝えた人物であるとされている。29欽明天皇の時代である。この頃から百済と新羅の関係が急速に悪化したとされている。欽明天皇の時代の日本書紀の百済関係の記事は異常に多い。
如何に日本と百済の関係が密であったかが窺われる。(これらが史実かどうかは別)
三国史記は、全く記述なしである。日本書紀の編纂には滅亡した百済出身で日本に亡命してきた学者が多く関与したとされている。元々百済国に存在していたとされる百済三書(百済記・百済百撰・百済本記)などを原典として、上記百済国と日本国の交流記事を作成したとされている。勿論現在これらの原典は存在していない。一方日本書紀編纂よりさらに数百年後(425年後)に編纂された三国史記では、上記百済三書とは全く異なる原典が使用されたのではないかとされている。
第31代国王「義慈王」には非常に多くの子供があったとされている。その一部が日本に
34舒明天皇の時(631年、三国史記では653年記事あり)、人質として派遣されていた。その中に「豊璋王」「余禅広」らがいたのである。豊璋王は日本で太安麻呂の親族である多蒋敷の妹(多宇気古女)を妻としていた。660年の百済国滅亡後662年再興のため朝鮮半島に帰国した。
「豊璋王」は、百済軍の将軍であった「鬼室福信」と共同して新羅軍に対抗していたが、これとも合わなくなり殺害した。663年中大兄皇子らが派遣した倭軍と合流して白村江で新羅・唐軍と戦い大敗した。32代百済王であったとの説もある。
豊璋王は高句麗に逃亡。その高句麗も668年唐に滅ぼされた。唐に捉えられ流刑にされたとされている。
古来この豊璋王こそ、「藤原鎌足」であるとの説がある。現在もこの説を支持する学者がいる。筆者はこの説には与せない。(詳しくは別稿で取りあげたい)
一方豊璋王の弟である「余禅広」は日本に残り、41持統天皇の時百済王(くだらこにきし)氏という姓を賜姓された。以後この一族は特別なはからいで貴族として扱われた。禅広の孫「南典」は従三位であった。一大画期は禅広の曾孫である百済王敬福である。
 
この間に多くの渡来人が朝鮮半島から日本列島に渡ってきた。既稿「秦氏考」「東漢氏考」などでも述べてきた。秦氏・東漢氏は5−6世紀始めにかけて渡来したとされるが、それ以降に渡来した氏族も多い。これを総称して今来漢人(いまきのあやひと)ともいう。
主に百済国・高句麗国出身の氏族である。この中で百済王族出身の氏族を総称して百済氏と呼ぶことにする。色々な段階で渡来しているので氏族名は非常に多い。中でも百済滅亡(660年)に伴って日本列島に渡来・留まった百済出身の氏族が特に多い(一説では数万人)とされている。その大多数は本稿の百済氏とは異なる氏族である。
 
<百済王氏>
余禅広を元祖とする百済王氏について概説する。
前述した百済国最後の王第31代「義慈王」の子供である余禅広は三国史記にはその名が記されていない。別名「百済王善光」と言われ、41持統天皇より百済王(くだらこにきし)という姓を賜り、日本の貴族として遇された。本拠地をどこにするかには諸説あるが、筆者は百済王寺・百済王神社があった河内国交野郡中宮村付近だと考える。
新撰姓氏録では右京諸蕃となっている。
百済王敬福の時に彼が河内守となりこの地を賜り一族が難波(天智2年・663年に百済郡として百済王氏に与えられていた)からこの地に移り住んだとされている。
一説では33推古天皇の時、百済阿佐太子(27代威徳王の子供)が来朝し、聖徳太子に教典を献じた。これに対し、聖徳太子は交野郡に館を賜い、45聖武天皇の時百済王南典が死去したとき、百済仏刹を建立したともされている。
この地は後に50桓武天皇が長岡京遷都に際し、延暦4年・延暦6年(787)の2度も百済王氏の支援を受けて「昊天上帝を祭る儀式」所謂「郊祀(こうし)」を行った所でもある。続日本紀に「天神を交野の柏原に祀った」とある。何故交野でこの儀式を行ったのか。後述したい。
百済王氏として歴史上最も有名な人物は、45聖武天皇の大仏建立の時金900両を献じたとされる「敬福」である。我が国最初の金を領地であった陸奥国で産出したとされている。これにより従三位刑部卿にまで昇進した。この子供が「理伯」である。この理伯の娘が桓武天皇の生涯を通じての恋人とも言われた「明信」である。公的には桓武天皇時代に尚侍として多くの女官の長として活躍したのであるが、藤原継縄の室でもあった。
桓武天皇・52嵯峨天皇・54仁明天皇にわたって百済王氏の多くの女性が天皇妃となっている。渡来系の氏族の娘達が天皇妃になったのはこの時代だけである。その意味で日本の歴史上異常な時代だったと言える。その中心が百済王氏である。桓武天皇の生母は百済氏ではあるが百済王氏ではない。高野新笠が一つのきっかけになったことは間違いない。しかし、その後の和史氏の娘は天皇妃にはなっていない。新笠の甥である「和家麻呂」が桓武天皇時代に才能はなかったが政治に直接関わる我が国最初の渡来人出身の参議・中納言になったと記されてある。その後「坂上田村麻呂」「菅野真道」などの有能な渡来人が政治に直接携わった。これも桓武天皇時代だけの特異現象とされている。
話を天皇妃に戻すが、上述したように桓武天皇の生母「高野新笠」と百済王氏とは直接関係にはないのに何故10名近い百済王氏関係の子女が数名の天皇の妃になれたのであろうか。未だこの時代は藤原氏全盛の時代ではなかった。だからといって百済系渡来人が政治面で特別な勢力をもっていたとは思えない。謎である。上記「百済王明信」の桓武天皇への影響力が特に後宮関係では抜群であったため、その影響が54仁明天皇頃まで及んだと考えるのが妥当かもしれない。旧来の古代豪族の力は急速に低下してきた時代である。長岡京・平安京初期はその意味で大きな日本の氏族制度の過渡期だったのである。
この時代を経て藤原北家全盛時代に移っていったのである。藤原京家は滅亡し、式家は没落し、南家はアウトサイダーになっていた時代である。その新時代の始まりに百済王氏の女性達が天皇家の後宮を支えていたとも言える。この辺りの研究が過去余り行われていなくて、詳しい史実がどうであったのか、良く分からないのが残念である。
さてここで前述の「郊祀」について詳述したい。
歴史事典によると「郊祀」について以下のように解説してある。
祭祀の一つ。出典「礼記」。「万物は天に本づく、人は祖に本づく、これ上帝に配する所以なり、郊の祭は大いに本に報い、始に反(か)へるなり」とあるに基づく。古代中国においては、郊野に円丘を築いて天の神を祀り、その祖をとあわせ祀った。ーーーわが国史の初見は、日本書紀神武天皇4年2月条に大和国鳥見山の条 「我が皇祖の霊、天より降臨し、朕が躬を光し助けたまうーーー天神を郊祀(まつ)りて、もって大孝を申べん」とあるのがそれである。(しかしこれは中国流の「郊祀」としての意味ではない。)ーーー中国の「郊祀」の風習をそのまま我が国の祭祀のうちに採用したのは、桓武・文徳両天皇の代の例だけで、永く我が国の祭祀のうちに融合せぬままに終わった。ーーー(延暦6年では、)天神に桓武天皇の父の光仁天皇の霊を配祀せしめている。ーーーとある。
2回目の祭文を読んだ人物は百済王明信の夫である大納言「藤原継縄」である。
これが行われた祭壇場所の比定地として、枚方市片鉾本町杉ケ本神社付近とされている。
百済王神社の直ぐ近くである。
さてここでいう天神とは、日本書紀などに記されている天神ではない。天下宇宙を司る神で宇宙の最高神とされている。(日本流の神ではない)「郊祀」は冬至の日に都の南の郊外に円丘を築いて、天命を帝王に与える儀式とされ、桓武がその天命を嗣ぐ子とした。即ち新王朝の誕生を意味していたのである。
長岡京の大極殿の真南にあたる淀川を挟んだ所が交野である。百済王氏の本拠地である。
勿論桓武天皇が天皇になる以前から百済王一族の地であり、何度も桓武はこの地を訪れていたらしい。明信の家も勿論ここにあった。
この地が桓武の「郊祀」の地に選ばれたのは偶然であろうか。
だいたい「郊祀」という中国流の儀式を天皇が行ったのは桓武が始めてである。
これには記録に残されてない多くの意味があるとする説が最近出ている。
桓武は当初から中国流の都造りを目していた。一種の中華思想の導入もはかっている。
風水・道教の影響も大である。天照大神・出雲神などの影が薄い。仏教の影響も少ない。
長岡京の地を新都として何故選んだか。諸説ある。その一つに真南に百済王氏一族の本拠地があったことを挙げる説もある。非常にマイナーな説かもしれないが、筆者は乙訓長岡京市に住んで向日神社の裏山に登りこの説は表に出せない桓武の心情を穿った説と同意したい。確証がある訳ではない。
@桓武は父49光仁天皇が未だ天皇になる可能性が皆無とされた時代に、身分の低い百済系の渡来人の娘「和新笠」との間に生まれた子供である。当時冷遇されていたとはいえ皇族で皇位継承権がある人物が渡来系の娘と結ばれた例は記録にない。実際にはあったかも知れないが記録上ないのである。ということは、桓武の生い立ちは非常に惨めなものだったと推定できる。事実生母「新笠」の父親とされる「和乙継」なる人物の職業もはっきり記録されていないのである。百姓であった、平城京の下級官吏であったと言い伝えられているが本当は不明である。後に天皇になった生母の父親がこれほど不明確な例は歴史上皆無と言える。どこの馬の骨か分からない母親から生まれた人物として扱われていたのである。しかし、一方光仁天皇は新笠との間に桓武を含め3人の子供をもうけている。これは
単なる一夜妻的関係ではない。真に新笠を愛していたからのことである。
これが桓武の一生を左右した裏の意志である。
A45聖武天皇ー48称徳天皇時代の桓武天皇(山部皇子)の記録は無いといってもよい。
卑母から生まれた王子の宿命であった。
B一説では桓武が皇太子になる以前から生母の縁からだとは思うが、河内国交野にいた百済王明信との交流があったとされている。
C光仁天皇が誕生し、間もなく桓武は皇太子となった。約10年間の皇太子時代に旧天武系王朝時代の色々な勢力からの軋轢を受けたとされている。桓武にとって平城京は苦悩・苦痛以外の何物でもない魅力のない王城になっていた。
D当然自分が皇位についたらどうしたいかはこの間に充分計画していた。
E782年遂に皇位についた。突然の長岡京遷都。と記録にはある。そしてそれを支援したのが、渡来系の秦氏であり、秦氏に縁のある、藤原種継・藤原小黒麻呂・和気清麻呂などであると一般的には言われている。勿論それは事実であるが、ここで忘れてはならないのが百済王氏なのである。いや桓武自身からすれば、百済王氏こそ最大の心の支えになった一族だったと言える。
百済明信をはじめ百済王氏は、一族挙げて桓武の奈良脱出、長岡京遷都を支援したのである。
百済王氏が河内国交野にいたからこそ、長岡京を都にしたとも言える。桓武の守護神が都の南の地にいるからであると考えた。
F何故桓武にとって交野は守護神がいる所なのか。桓武の生母「高野新笠」の出自である
百済国王の嫡流(百済王氏)が住んでいるところであるからである。
高野新笠の出自を明確にし、系譜を作成した人物は、既稿「和気氏考」で記したように「和気清麻呂」だとされている。桓武天皇はこの清麻呂の努力に対し、大変喜んだと記録されている。百済王族の出身であったことは、ある程度伝わっていたのであろうが、明確ではなかったことが窺われる。
百済国王族は滅びたとはいえ、大和国王即ち天皇家と同等又はそれ以上の歴史を有する
朝鮮半島の国王の血筋である。その先祖はさらに古代中国にまで繋がる貴なる一族(扶余族)である。
その血を嗣いだ自分は今までのいかなる天皇とも異なるのである。と考えてもおかしくはない。その自分を護ってくれるのは天神(日本の神ではない)であるとしたのではなかろうか。桓武の心の問題がここに秘められている。
これがその後桓武が詔した「百済王らは朕の外戚である」と「郊祀」を交野で行ったことは、同一線上のことである。
G天皇妃を多く百済王氏から出したのも、参議クラスに異例の渡来人が顔を出したのも同じ思いが両者にあったのであろう。
Hさらに穿った見方をすれば、桓武天皇は日本の天皇家のルーツは、中国ー百済王族ルーツの一族と考えていた(38天智天皇の思想もそうだったのであろうと筆者は推定)のかも知れない。その王家の末裔が住む河内国交野をその仮想故地と見立て、その王家の血脈を嗣いだ自分を護ってくれる天神が降臨する地と考えた。それが長岡京遷都の本当の理由であり、「郊祀」を行った理由である。桓武以後「郊祀」は行われなくなった。この桓武の裏の思想に同意が得られなく、馴染まなかったとも考えられる。従来通り、「大嘗祭」こそ天皇家の世継ぎの祭祀である。とされたのである。
I桓武は諸事情により長岡京を僅か10年で廃都にしたが、決して平城京に戻ることなく
長岡京の真北即ち交野の真北に当たる山背国葛野郡の地に平安京を造営したのである。偶然にそうしたのではないことは明らかである。
以上がアマチュア古代史ファンからみた一考察である。
 
百済王氏については嫡流を誰にするかは意見が分かれるであろうが、筆者は百済王神社の社家となった三松氏の流れを嫡流として記した。三松氏系図なるものが残されているが、信憑性には疑問があるとされている。
いずれにせよこれ以降歴史上特記すべき人物は輩出されていない。
 
<その他百済氏・船・白猪・葛井・菅野氏など>
百済王13代近肖古王の子供から派生したとされる錦宿禰の流れはその後三善朝臣姓となり、その裔に鎌倉幕府の初代執事になった「三善康信」がいる。この流れから多くの武家が派生するが、これらは百済氏の一番古い流れである。詳細省略。
百済王16辰斯王の流れから白猪氏・船氏・津氏などが派生した。「船王辰爾」が有名である。津氏の流れから前述した桓武天皇の時参議となった「菅野真道」が輩出された。
白猪氏の流れから葛井氏が出、更に宮原氏となり、宮原道依の娘藤子は51平城天皇の妃となり、「阿保親王」を産んでいる。阿保親王の子供に「在原業平」が出る。
百済王24代東城王の子供の流れから飛鳥部氏が派生したとされている。飛鳥部奈止麿という人物がおりその娘が「百済永継」であるという説がある。(異説もある)
この百済永継と藤原北家内麿との間に「冬嗣」が生まれている。即ち摂関家の祖である冬嗣も百済系渡来人の血を引いているのである。永継がさらに桓武天皇の妃となり、「良峯安世」を生んでいる。良峯安世の子供が歌人で有名な「僧遍照」である。
百済王25代武寧王の子供に「純陀太子」がおり、この流れから上述した、桓武天皇の生母「高野新笠」が出たとされている。その甥が「和家麻呂」である。
百済王26代聖明王の子供に「琳聖太子」がおりこの流れから多々良氏が派生し、戦国武将の雄「大内氏」が派生したとされている。この大内氏から大内氏を滅ぼした「陶氏」が派生した。「琳聖太子」は朝鮮の史料にも日本の古い史料にもその名が記されていない。
それぞれの氏族の祖先伝承として伝わってきたものであるが、その信憑性を立証することは非常に難しい。祖先を貴なる人物に求める傾向は古来より強く、史実かどうかは特に三善氏・大内氏については疑問視する説多し。
それにしても本稿の「百済氏」がいかに日本の歴史上凄い一族であったかが窺い知れる。桓武天皇以降の天皇家・藤原北家冬嗣以降の摂関家共に百済氏の血脈であることが分かる。
同時に日本と百済王族との関係が非常に長い歴史をもっていることも明白である。ところが新羅との関係ではこのような記録が殆ど残されていない。何故であろうか。
今来漢人(いまきのあやひと)という言葉は、本当は曖昧な言葉のようである。一般的には、秦氏・東漢氏の後21雄略天皇時代以降に渡来した人々を総称する言葉である。西文氏、吉師氏(吉士氏)は勿論、百済・高句麗の滅亡に伴う難民・亡命者なども含めるとする説と百済王族・高句麗王族らは除外する説など諸説ある。筆者は秦氏・東漢氏の後に渡来してきた朝鮮半島から渡来してきた者の総称説を採用したい。桓武天皇の生母「高野新笠」が京都の平野神社に平城京から今来神・久度神などを遷したとされている。これらの神は朝鮮半島の神々である。百済王族もこれらの神々を祀っていたのである。
しかし、何故「漢人」というのであろうか。
 
参考<大内氏>
 大内氏は南北朝・戦国時代周防国の守護大名で、大内義弘(1356−1400)の時第一期隆盛期であった。その後一時衰えたが、義興・義隆の時西国一の戦国大名となった。
中央政治にも参画した。明との貿易・大内文化の興隆など最盛期を迎えた。しかし、家臣団の対立・「陶晴賢」の謀反などで義隆が自害、急速に衰えた。実質的に滅んだ。
最終的には毛利元就との争いに敗れ1569年完全に滅亡した。江戸時代に牛久藩主であった山口氏は大内氏の末裔とされている。
 この大内氏の出自が百済王第26代聖明王の子「 琳聖太子」が、周防国多々良浜に着岸しその子孫が大内村に住み、姓を多々良、氏を大内としたと言われている。一説では、推古19年(611)琳聖太子が周防国多々良浜に上陸、摂津国に上り、聖徳太子に謁し周防国大内県を賜ったとも言われている。これは創作伝説で実態は周防権介を世襲した在庁官人であったとする説が強い。さらに一説では任那の国から来た鉄精錬技術を持った氏族であった。ともいわれている。
歴史上はっきりするのは、平安末期の1152年の「周防国在庁下文」に多々良氏として名前が記されてからである。人名がはっきりするのは1178年の九条兼実の日記「玉葉」に多々良盛房らの名前が記されている。
詳細説明は省略する。
いずれにせよ大内氏は渡来系の氏族であったのであろう。くらいしか言えないが、古来伝承的に百済氏出身であることである。これを尊重したい。
 
以上で百済氏に関係する解説を終わる。
 
7)まとめ(筆者主張)
@朝鮮半島で百済国が歴史上はっきり確認出来るようになったのは4世紀になってからである。百済王族と同族の高句麗国はそれ以前から存在していた。新羅国の建国時期も甚だ曖昧である。
A日本書紀に記載されている日本と朝鮮半島との交流記事と三国史記など朝鮮半島に現存する史料に記載されてある、交流記事とは大きな差がある。これが古代史における日本と朝鮮半島の歴史認識に大きな齟齬が生じている原因の一つである。
B百済王族で言えば13代近肖古王から以降の記事が日本書紀に記事がある。神功紀以降である。
Cこれ以降百済王族出身の渡来人の裔が日本での歴史上活躍の記録が残されている。
D三善氏・白猪氏・葛井氏・船氏・津氏・菅野氏・和氏・大内氏など膨大な氏族が百済王族出身氏族として派生した。
E中でも31代百済王「義慈王」の子供「余禅広」の裔は「百済王氏」の姓を持統天皇より賜り貴族として活躍記事が残されている。
F 義慈王の子供豊璋王は660年百済が新羅・唐連合軍によって滅ぼされたのを再興するべく、日本から朝鮮半島に帰国して活躍したが、663年中大兄皇子らが派遣した倭軍とともに白村江の戦いで敗れ、高句麗に逃亡したが、668年高句麗も新羅により滅亡して、唐により流刑された。
G上記 豊璋王を藤原鎌足に比定する説が現在もあるが、筆者はこれには与さない。
H百済王氏一族は敬福・理伯・俊哲らの活躍により奈良時代貴族として繁栄した。
I百済氏の一つである「和史」氏から49光仁天皇の妃「和新笠」(後の「高野新笠」)が輩出され、その子供が50桓武天皇となった。
J一方桓武天皇は母の縁であったかどうかは不明だが、河内国交野に本拠地があった百済王氏と交流があった。中でも百済王理伯の娘「明信」とは互いに認め合う仲であったとされる。
K50桓武天皇は明信との縁だと推定されるが、多くの百済王氏の娘をその妃として後宮に入れた。そして790年には「百済王らは朕の外戚である」と詔した。勿論これは生母「高野新笠」の関係でそう言ったのであるが、新笠と当時の百済王氏とは直接関係がないほど血脈的には離れていたわけで、自分の多くの妃達の実家が百済王氏であったのでそう表現したとも考えられる。またもっと大きく過去からその時までの百済王一族総てと血脈的に繋がっているということをいいたかったのであろう、とも解せる。
L785年787年の2度にわたって桓武天皇は長岡京遷都に際し、中国の帝が行う 「昊天上帝を祭る儀式」(郊祀)を百済王氏の本拠地河内国交野で百済王氏の支援を受けて実施している。このような儀式を行った天皇は過去もその後もいない。百済王氏にかける思いが並大抵でなかったことが推察される。
M百済王氏からは54仁明天皇まで妃が出された。この背景に「明信」があったと推定する。
N百済王氏ではないが、別の百済氏(飛鳥部氏)の娘(百済永継)が藤原北家内麿と結ばれ、その子供に後の摂関家の祖となった、「藤原冬嗣」が生まれている。即ち藤原氏本流にも百済氏の血脈が入ったのである。
O百済氏からは桓武天皇の時参議となり政治を動かした「菅野真道」が輩出された。
Pこれ以降歴史上有名な人物は百済氏からはいなくなる。ただし、戦国大名の雄である山口県に興った「大内氏」が百済氏出自の系譜を残している。
Q百済氏は、日本の長い歴史の中で最も親しく付き合ってきた朝鮮半島百済国の王族の末裔で、他の渡来系氏族とは異なった処遇・歴史を歩んだ氏族であるといえる。                       (2007−8−18脱稿)
 
8)参考文献
・「古代の日朝関係」 山尾幸久 塙書房(2003年)
・「古代の日本と渡来人」 井上満郎 明石書店(2003年)
・人物叢書「桓武天皇」 村尾次郎 吉川弘文館(h8)
・フリー百科事典「ウイキペディア(Wikipedia)」HP版
http://ja.wikipedia.org/wiki/ (朝鮮の歴史・大内氏など)
・「姓氏家系大辞典」 太田 亮
・「桓武天皇」 井上満郎 ミネルヴァ書房(2006年)
・長岡京市史 長岡京市役所(1996年)
             など多数。