TOPへ 古代豪族へ 前へ 次へ
5.物部氏考
1)はじめに
 物部氏は、皇祖神を除いて、「天孫降臨」「国見」の逸話をもつ唯一の氏族である。
その遠祖は、伊弉諾命、伊弉冉命の子「天照大神」系「邇邇芸命」の兄「饒速日命」であるとされている(日本書紀)。
神武天皇東征時以前に既に河内国河上哮峰(いかるがのみね)に「天磐船」に乗って天降りたとされている。
更に大和の鳥見白庭山に遷ったとされている。九州遠賀川流域から、四国の北岸を通って堺に上陸し、生駒の西の日下(草香)から大和川流域に展開したともある。
「日本」の名は、この日下から来ているとの説あり。 
大和にいた在地豪族「長髄彦」の妹「御炊屋姫」を妻にして、「宇麻志摩治命」などを産み、大和の地に地盤を築いていた。
そこに神武天皇が東征してきて、「長髄彦」と「神武」の間で争いが起こった。ニギハヤヒ又はウマシマチは、解決策として、「長髄彦」を殺害して、神武を迎えいれた。
神武もニギハヤヒを天孫族と認めた。この後大和朝廷と共に融和して、大和の地で朝廷に仕えてきた。
天皇の后も多くこの一族(含 事代主命、磯城県主)から出してきた。1神武后、2綏靖后、3安寧后
7孝霊后、8孝元 9開化后 12景行妃、32崇峻妃など。
11垂仁天皇の時ウマシマチの累孫「十市根命」(十千根命とも記す)が初めて「物部」の姓を賜ったことになっている。本拠地は、生駒山脈の西側、河内潟平野部とされている。
東大阪市石切の辺り、もしくは、物部守屋が、最後の砦とした八尾市渋川付近とも言われている。
17履中天皇の時物部伊筥弗が初めて「大連」になったとされる。
      
元来呪術を行うのが物部氏の職掌であった。
物部氏と大王家とは、3世紀半ば大和朝廷発生時から祭祀を通じて密接に繋がっていた。
5世紀になると、物部氏は、大伴氏と並ぶ武門として朝廷に仕えることになる。
地方豪族に対する征服活動の場で物部氏は、大きな役割を果たした。各地に物部と呼ばれる領有民が置かれることになった。
26継体天皇の元で活躍した「物部麁鹿火 」(実在がはっきりしている)は、九州の「磐井の乱」を平定した。
その後「大連」を次々出し尾興の子守屋の時蘇我氏と対立し、物部ー蘇我戦争に敗れ主家は、滅んだ。
    
しかし、「壬申の乱」後に石上氏の名で物部氏の系譜を継ぐ大臣が現れ、この流れは、奈良時代末頃まで活躍する。
しかし、藤原氏の進出により、物部、石上氏は、これ以降歴史から消える。
(参考)<物部氏諸説>
 物部氏こそ日本古代史の中でも最も謎の多い大氏族である。
曖昧模糊の典型的氏族である。その原因は、天武朝「古事記」「日本書記」編纂時に藤原不比等らがその時の天皇家、藤原氏にとって都合のよいものに取捨選択、改ざん、創作、挿入をしたからだといわれている。物部氏の過去は、出来るだけ抹殺すべき事項であったらしい。よって葛城氏と共に過去を消された大和の大豪族であった。という説多し。(関祐二氏、黒岩重吾氏、その他多数)
大王家こそ神の出自であり、常に他の氏族とは異なる唯一無二の血筋を保ってきたものとして「記紀」上で明確にする必要があった。
大王家にとって都合のよいもののみを選択的に記事にし、不都合なものは、削除、抹殺したものと思われる。
また文字の無かった時代(3世紀?以前)のものは、色々な創作が加えられ、各氏族に伝わる系譜、家記の類も編纂者の手により、改ざんが加えられたようである。
691年下記18氏の先祖の家記を上進させた。
 大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀、平群、羽田、阿倍、佐伯、采女、穂積、阿曇。
「記紀」で色々細工はしたが、それでも記さざるをえなかった、又は記しても害がない?と思われた物部氏関連の記事(諸説あり)
@大和朝廷成立以前に既に物部氏の先祖一族が、大和地方に地盤を築いていたこと。
A物部氏の力を借りて大王家は、大和に政権を確立出来たこと。
B大王家の后は、物部氏(含 磯城県主の娘)の女がなり大王家は、大和の地に融合して いったらしいこと。
C大王家は、大和の神、即ち物部氏の神を祀らなければならなかったこと。
D物部氏と出雲は、繋がっているらしいいこと。 
 などなど「欠史八代」「神武東征」「各種神話」など後世の創作的な事項を削り取ったとしても、「記紀」が示した大和朝廷成立にまつわる時点で、物部氏が非常に深く関わったらしいことが、うかがえる。
大王家と完全に肩を並べる力を有していた氏族であったらしい。
その力は、あなどれなくて単なる主従の関係ではなく、協力関係であったらしい。
その後も大王家皇祖神「天照大神」とは異なった意味で物部氏の神「大物主神」を怖れ、崇めたものらしい。
この大物主命=大事主神=ニギハヤヒ命ーーー>出雲神と繋がると言う説あり(関祐二ら)。物部氏の先祖を歴史上抹殺したので、その祟りを怖れこれを祀ったとの説もある。
物部氏は、この世の表舞台からは抹殺された(持統天皇時代)が、日本人の血の中に脈々と流れている天皇家に負けず劣らずの古く日本全域にその子孫を残した大氏族といえる。
 これを「縄文系日本氏族」(古い時代の自然神(出雲神?)を信仰する系統の日本人)(縄文人という意味ではない)
一方大王家は「弥生系日本氏族」ともいえる。
別の言い方では、出雲、物部、葛城、蘇我、加羅、新羅系ーー鬼の流れ
        藤原、天皇家、百済系  と区別される。
天皇家も歴史的には、この二つの流れを行ったり来たりしてきたようだ。
26継体天皇以後は、血筋としては、現在に至るまで一つであり、藤原ー天智流れであるといわれて、いる。
「邪馬台国」と天皇家の関係が未だはっきりしてない。これも古代史の謎であり発掘調査の進展を見るしか、結論の出ない部分である。
これも物部氏と関係してくる。
<別の主張>
@ニギハヤヒ伝承は、畿内に渡来してきた半島系倭人集団の国造りの営みの中から、それぞれの集団毎の始祖神話が統合され、さらに海神族の海を渡り来る祖神伝承が、習合してニギハヤヒ神話が整えられた。(畑井 弘氏)
A畿内に限定する必要はなく、九州遠賀川流域、石見、丹波丹後からも始祖伝承が、大和に持ち込まれて、形成されていった。
巻向遺跡から各地の土器が出ているが、大和は、古来より各地から人々が集まる所であったようだ。
ニギハヤヒはいろいろの霊を集めたものとも言われている。
B石上の伝承を物部神話に取り込み、フツノミタマーー銅刀の霊光ーー>ニギハヤヒーー ーー>集団の鍛冶神
Cニギハヤヒは、北方系の「天降る始祖」南方系の「船に乗って海の彼方から寄り来る神」 という日本の古代信仰を特徴づける「海」の海神族と「天」の天孫族の習合神である。 
神武天皇の由緒もまさしくこれを真似て創作されている。
D・葛城ー紀伊ー難波ー吉備ー筑紫ー百済 系列
 ・磯城ー山城ー近江ー越、若狭ー出雲ー新羅 系列
 の主に2系列の氏族、天皇に分ける考えがある。
 持統天皇は、天智天皇の娘として、皇統を「葛城系」とするべく女帝として君臨し、自らを天照皇大神とし、大神の託宣として天譲無窮の理を神話にいれた。
 百済、新羅の対立関係が、日本覇権闘争に持ち込まれ、百済側が、最終勝利し、「天孫族」を名乗り新羅側を蔑むことになった。
E銅鐸祭祀は、物部系。一部の物部氏は、蝦夷と共に東国へ落ち延び「外物部」となり蝦夷と共に大和政権に抵抗するのである。
長髓彦の兄の「安日彦」が、東北の安東氏。後の安倍氏となり、秋田氏に繋がるという説あり。
F8孝元天皇は、物部系「鬱色謎命」を皇后とし、「伊香色謎命」を妃とした。これは物部一族の屈服であり、外戚化である。
葛城系の男王に磯城系の大妃という調和が、「記紀」の言いたい皇統の姿である。
Gしかし、高句麗系の侵入者ともされる10崇神天皇の三輪王朝に追われ、9開化天皇の皇子「日子坐王」が、亡命近江王朝を立てた(林屋辰三郎)
H9開化天皇までを葛城系、10崇神、11垂仁を磯城系(畑井 弘)
I日子坐王は、近江の三上の息長水依比売を妻とし、近江を統一して大きい力を持った。日子坐王こそ15応神天皇、26継体天皇を生み出した天皇家の始祖である。との説。
J10崇神天皇は、物部伊香色雄を神斑物者(かみのものあつかいひと)とした。物部連の祖である。
K11垂仁天皇の時、物部十千根大連に出雲の神宝を調べさせた。物部氏は、既に軍事を司ると共に「石上神宮」を治める立場であった。
物部氏は、石上氏の十種端宝などの伝承を受け継いだとの説ある。
L「記紀」では、10崇神王家のシンボルを「五十」とし、新羅系の天日鉾の苗裔としてイリ王家とし本来の大和王権と区別している様である。ところが、大和平野には、本格 的政権を樹立した崇神王家の伝承は、根強く残っていたので、崇神天皇の前半の英雄物語を神武天皇を創作して肇国の名誉を葛城系に横取りしたのであろう。との説。
M近江王朝が、三輪王朝を追い抜き近江の景行天皇と倭建命が、国内統合して神功皇后ー応神天皇となり、九州から東遷し、近江王朝、三輪王朝を組み入れ河内王朝を設立。物部、蘇我氏が政治を担当することになった。
N雄略天皇以後この王朝の血が絶え、播磨に近江の流れを引く王朝ができたが、武烈天皇で一族滅亡した。
物部、蘇我、大伴氏は、越前の王(26継体天皇)を日本の支配者に選んだ。 
外物部である物部麁鹿火、巨勢男人らの活躍により、狗奴国後裔「磐井君」を滅ぼした。 
この時物部氏は、自らの発祥の地である九州の統治権を得た。ここに一度は九州勢に屈服した日子坐王を祖とする王権が復活した。
O26継体、27安閑、28宣化、29欽明の間に大伴氏が没落し、ついに29欽明朝で物部尾興が、大連となり政権を握った。石上神宮の祭祀権も確保し、弓削物部として、九州物部の支持も得た。
しかし、子供守屋の時、新興勢力「蘇我氏」と仏教をめぐる対立が激化し、物部氏、中臣氏<−−−>蘇我氏、紀氏、巨勢氏、葛城氏、大伴氏、阿倍氏、平群氏、春日氏、天皇家の戦いで敗れ物部本宗家は滅んだとされる。
P「大化の改新」で蘇我入鹿、蝦夷ら蘇我本宗家が、中臣鎌足、中大兄皇子らに滅ぼされた。
これは、物部本家を滅ぼされた中臣氏(旧事本紀には、ニギハヤヒ降臨の際、中臣 氏の祖「天児屋命」が防衛の神々のなかに入っている。家来扱い?)の復讐戦との見方もある。
Q梅原猛氏は、藤原不比等を日本歴史上の最大の政治家とする。物部、中臣、藤原と連綿 と続く自らの氏族を、天皇家とともに永久にこの国の支配者とする企てを行い、古来からのその他の豪族の力を、律令制の導入で削ぎ、日本書紀の編集、普及により天譲無窮の神話で天皇家を不倒のものとした。としている。
 
2)物部氏人物列伝
2−1)饒速日命(神話)
@父;天之忍穂耳命 母;満幡豊秋津師比売命
A天孫族(天照大神一族) 妻;御炊屋姫(長髓彦の妹)、天道日女
 正式名;天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(別名;贍杵磯丹杵穂命)略称;ニギハヤヒ
B子供;宇麻志摩治命、天香語山命(別名;高倉下命)(尾張氏祖)兄である。
 兄弟;弟 禰禰芸命(神武天皇曾祖父)
C物部氏の遠祖とされている。伝説、神話上の人物。実態不明。「日本書紀」に記載あり。
 色々な氏族の始祖伝説を習合した創造上の人物?「書紀」では物部氏の祖であることを
 ボカシながら認めている。(古事記には記事なし)旧事本紀(物部氏の系譜8−9世紀 に出来た?)には、詳しく出ている。
D大和国三輪山にある「大神神社」の主神は、大物主命=事代主命=ニギハヤヒであると の説もある。ここから「出雲」との関係があるとされる。
E九州遠賀川流域より東遷したとの説。
F神武天皇東征(大和政権樹立)以前に河内国河上哮峰に「天磐船」で天降ったという話。G大和在地豪族長髓彦を従え、その妹「御炊屋姫」を妻とした話し。
H神武東征時、息子「ウマシマジ」が外祖父長髓彦を殺して、神武を迎え入れた話し。
Iニギハヤヒは、「出雲系」であるとの話し。
J物部氏が実権を握った26継体、ー29欽明朝あたりで祖先が神武東征時に活躍したよ うにこの部分を創作導入したのでは? との説。
K天下った所が、「日下」という地名でそこから、後年「日本」という名前が発生したの だという説。    など諸説あるが、立証すること困難。謎謎謎ーーーー
 
2−2)宇麻志摩治命(神話)
@父;ニギハヤヒ 母;御炊屋姫
A兄弟;兄 天香語山命(母:天道日女命)(尾張氏祖)妃;活目邑五十呉桃娘「師長姫」
 子供;彦湯支命    
B神武東征を助け、以後大王家を助けた。物部氏の元祖。
 
 
2−3)彦湯支命(?−?)   注)3)−4)の間に「大禰命」が入る系譜あり。
@父;ウマシマジ 母;師長姫?                
A「ヒコユキのみこと」
兄弟;味饒田命(ウマシニギタ)
(神日子命ー麻佐良命ー久尼牟古命ー大由支命ー小阿斗足尼命ーー
    ーー熊野国造、阿刀連祖と続く)
 
2−4)出石心大臣命(?−?)
@父;彦湯支命 母;不明
A「イヅシゴコロのみこと」
妃;新河小楯姫  兄弟;出雲醜大臣命(イヅモのシコ)
 
2−5)大矢口(知?)宿禰命(?−?)
@父;出石心大臣命 母;新河小楯姫?
A妃;坂戸田良都姫 子供;欝色雄命、
欝色謎命(8孝元后、9開化、大彦命の母)
 大綜杵命など
 
2−6)大綜杵命(?−?)
@父;大矢口宿禰命 母;坂戸田良都姫?    
A「オホヘソキのみこと」
妃;高屋阿波良姫 子供;伊香色雄命、
伊香色謎命*(8孝元妃、9開化后、10崇神母)
*−1
伊香色謎命(?−?)
・伊香色雄命の姉
・物部氏の強大な勢力は、彼女によって築かれたと言われている。
・伯母「欝色謎命」と共に8孝元天皇の妃となり、孝元亡き後9開化天皇の妃となり
 10崇神天皇を産む。物部氏の繁栄はここに始まる。
・北河内茨田郡で産まれた。その名は伊加賀村(現枚方市伊加賀)の名を負うものである。
 イカとは、「後ろに山を負う山麓の土地」という。背後に香里丘陵の突端である万年寺 山の上、現在の意賀美神社境内にあった「万年寺山古墳」は、4世紀中頃の前期古墳
 である。彼女又は伊香色雄命の墓と推定されている。
・初期物部氏の根拠地は、交野郡、茨田郡ではないかとも言われている。
 
2−7)伊香色雄命(?−?)
@父;大綜杵命 母;高屋阿波良姫?
A「イカガシコオのみこと」
子供;物部大新河命、物部十市根命  大水口宿禰(子供;建忍山宿禰)
Bこの頃「欠史8代」ではあるが物部氏系の皇后、妃が多数出て、天皇の外戚関係が出来ていたらしい。(この時期のみである)
 
2−8)物部十市根命(?−?)
@父;伊香色雄命 母;不明
A「トヲチネのみこと」妃;物部武諸隅(大新河の子)娘「時姫」  別名;十千根命。
B11垂仁の時物部連姓を賜る。(先代旧事本紀)
C垂仁26年出雲の神宝の献上を督促。
 垂仁88年但馬、出石の「清彦」から「天日槍」が将来した八種の神宝を取り上げた。
 
・物部武諸隅(???−???)
@父;大新河命 母;紀伊荒川戸俾娘中日女?
A「タケモロズミ」妻;贍咋娘清姫 
子供;多遅麻?(兄弟との系譜もある)
B崇神60年出雲国に赴いた。「武日照命」が将来した出雲の神宝を検校し、出雲「飯入根」から献上させた。
 
2−9)贍咋宿禰(?−?)
@父;十市根命 母;時姫
A「イグイ」
子供;五十琴姫(12景行妃)、五十琴宿禰
B神功皇后東征時に「大夫」であった(書紀)
 
・物部夏花(???−???)
記事;景行12年熊曽を討つ。
 
2−10)五十琴宿禰(?−?)
@父;贍咋 母;不明
A「イゴト」妃;多遅麻(武諸隅の子?)娘「香見媛」
 子供;伊筥弗、麦入(子供;大前、小前)、石持(子供;菟代)
 
 
2−11)伊筥?弗(?−?)
@父;五十琴 母;香見媛
A「イコフツ」
妃;岡随媛、倭国造比香賀君娘「玉彦媛」子供;布都久留(麁鹿火大連の曾祖父)
兄弟:麦入宿禰、石持
B17履中時「大連」となりこれ以降物部氏は、守屋まで政権の中心に出る。
参考)18反正時;伊筥弗。19允恭時;麦入。20安康時;大前。
   21雄略時;布都久留 22清寧時;目。23顕宗時;小前。
   24仁賢時;木蓮子 が「大連」となった。(旧事本紀)

・物部大前(???−???)
@父;麦入 母;不明
A兄弟;小前宿禰、御辞、石持
B20安康天皇時の「大連」
C17履中天皇の即位前に「住吉仲皇子の反乱」を未然に察知して、皇太子を避難させた。「木梨軽皇子」の助命嘆願をした。(日本書紀)
 
2−12)目(?−?)
@父;伊筥?弗 母;玉彦媛?岡随媛?
A兄弟:真椋、布都久留、鍛冶師、竺志、雄略天皇朝の「大連」である。
B雄略18年物部菟代、大斧手らと一緒に伊勢「朝日郎」を討つ(紀)

2−13)荒山(?−?)
@父;目 母;不明
A兄弟:麻作
B宣化天皇朝の大連(旧事紀)
 
2−14)尾興(?−?)
@父;荒山 母;不明
A「オコシ」妻;阿佐姫(物部倭古連女)加波流姫(倭古連女)
 子供;守屋、布都姫(32崇峻后)石上贄古、大市御狩ら
 兄弟:奈洗
B29欽明朝「大連」となる。(旧事紀では、安閑、宣化朝でも大連)蘇我稲目が大臣となり上位者であった。
C540年(欽明元)に天皇が、難波祝津宮に行幸し、新羅征伐について下問したところ 「大連」の尾興らは、512年(継体6)に大伴大連金村が、「任那国の四県」の百済 への割譲を認めたことを持ち出し、その責任を追求した。
このため大伴金村は、失脚した。とある。(日本書紀)これは本当は、台頭してきた蘇我稲目が、それまでの朝廷を握っていた金村(大伴氏)を追い出したもの(金村は、27安閑、28宣化を支援、稲目が、29欽明を支援してきた関係)。尾興も欽明派だった模様。
D538年(又は552年)欽明朝の時百済の「聖明王」が、我が国に仏教を伝えた。
 朝廷内で論争が起こった。天皇は、群臣にその受容の可否を問うた。
 蘇我稲目は「朝鮮諸国は、こぞって礼拝しております。倭国だけが拒絶する訳にはいきません」崇仏派。
 物部尾興と中臣鎌子(鎌足とは別人)は、「我が国の王が、蕃神(外国の神)を礼拝されれば、きっと国神(我が国古来の神)の怒りを受けるでありましょう」といって反対した。排仏派。
 29欽明は、受け入れを熱望していた稲目にのみ個人的に仏教を信仰することを許した。
E569年疫病が流行し、多数の死者がでた。尾興らは、国神の怒りとみなし、天皇の許しを得て、仏像を難波の堀江に投棄し、伽藍に火を放った。この時稲目は、既に死んでいた。ーーー第1次「破仏」
F尾興は、物具生産に携わる「鍛冶王」であった。
G弓削連の祖で、石上坐布留御魂神社の本来の奉仕者であった倭古連の娘「阿佐姫」、剣の神春神に仕える巫女「加波流姫」を妻とした。ここに物部諸族が、石上神宮の祭祀権を入手し、九州の物部の支持を得て、新たな物部氏の統率者となった。
H娘「布都姫」(石上夫人)は、32崇峻の后となった。
彼女は、次に義兄の贄古と結婚しその間に鎌姫大刀自を産み、蘇我蝦夷に嫁がせ入鹿を産んだとされる。(これは、記紀に記事なし。旧事本紀にある。)
ーーー尾興から物部氏の記事がハッキリする。ーーー
(参考)物部麁鹿火(?−?)
@父;物部麻佐良 母;須羽娘妹古?
A「アラカヒ」兄弟:押甲、老古
武烈朝、継体朝、安閑、宣化朝での大連。(記紀、旧事紀)
506年子供のいない25武烈天皇が亡くなり王位に就ける人物がいなくなった。
大伴大連金村は、翌年物部大連麁鹿火らと計って応神天皇の五世孫の男大迹王を「越」 の三国から迎えた。これが26継体天皇である。
B527年九州の地方豪族であった「筑紫君磐井」が反乱を起こした。「磐井の乱」
 528年麁鹿火が、大将軍として派遣され、(巨勢男人も参画?)筑紫の御井郡(久留 米市付近)で磐井と戦いこれを鎮圧した。
Cこの時物部氏は、自らの発祥の地である九州の統治権を手に入れた。本貫地が、遠賀川 流域か、筑後川流域かを分かり難くしているのは、この為である。(この両方に多くの物部関連の神社が残されている。)
D信濃諏訪氏の女を母とする伝え(旧事本紀?)がある。
E男大迹王の軍事的中核の東国となった物部兵団の将帥である。外物部の中央復帰であった。
F子供;影媛、*−2)毛等若子、石弓若子   
この流れから後の「石上氏」が出たとの説もある。
ーーーー尾興より早く歴史に登場実在が確認される物部氏第1号である
*−2
影媛;平群真鳥(24仁賢の大臣)の子「鮪(しび)」の恋人又は妻であった。横恋慕した25武烈によって、「鮪」は殺された。という話が残されている。
 
・物部莫奇武(???−???)
記事;554年欽明朝に新羅の函山城を攻めた。
 
2−15)守屋(???−587)
@父;尾興 母;物部倭古女阿佐姫
A子供;雄君、那加世。  別名;弓削大連守屋
B物部ー蘇我戦争の中心人物
C585年(敏達14)物部大連守屋、大三輪逆、中臣磐余の3人が、寺塔を焼き仏像を捨てようとして馬子と争った。
馬子は、その頃堂塔を各地に建て大々的な法要を行い本格的に仏教を広めようとしていた。
しかし、馬子が病気となり占うと、仏の祟りとでた。
 この時国中に疫病がはやって、多くの人々が死んだ。
守屋と中臣勝海は、疫病の流行は 馬子が仏教を信仰しているせいだと30敏達天皇に訴えた。
天皇もこれに同意して、仏教の禁止を命じた。
守屋自ら寺に行き塔を切り倒し、仏像、仏殿を焼かせ仏像を難波の堀江に捨ててしまう。
僧尼にも弾圧を加えた。敏達天皇は、蘇我氏の血を引いてない大王であった。ーーーこれが第2回目の「破仏」である。ーーー
D585年30敏達死亡。馬子ー守屋の対立激化。
 後継天皇として、稲目の娘「堅塩媛」の子大兄皇子(31用明天皇)が馬子の後ろ盾で即位した。
守屋は、危機意識を深め「小姉君」の三男「穴穂部皇子」の擁立を画策した。
E587年31用明天皇は、病気となり仏教帰依を表明した。
その可否を重臣に協議させた。天皇自らの崇仏の意志表示は、これが初めてであった。
この会議で崇仏派と、排仏派の対立再燃。
守屋は、身の危険を知らされ、会議の最中に、阿都(八尾市跡部)のヤケに引き上げ手勢を集めた。
F31用明天皇死亡。馬子は、穴穂部皇子を殺害。守屋討滅を決意。
 32崇峻天皇、竹田皇子ら諸皇子と紀男麻呂、巨勢比良夫を引いて兵を挙げる。
厩戸皇子(聖徳太子)も参画したとあるが当時14才なので疑問視されている。
この時蘇我軍は、紀、巨勢、葛城、大伴、阿倍、平群、春日の諸豪族。
物部軍は、中臣、大三輪ぐらいしかいなかった。
しかし、物部軍は、強大で一時は、断然優勢であり、その威力を見せつけたが、守屋が討たれ滅んだ。
G守屋一族の財産は、四天王寺の建立に使われた。(寺内に守屋祠がある)
 守屋の妹が蘇我馬古に嫁ぎ、蝦夷を産み、さらに別の妹布都媛の子供「鎌媛」が、蝦夷に嫁いでいるが(旧事紀)、この媛が物部守屋の財産の一部を相続し、これが子供の入鹿の権勢の基礎になったとの説あり。
Hこれにより、物部本宗家が滅ぼされたとされているが、守屋が本宗家にはなってない(旧事本紀)。との説もある(関祐二氏ら)。これから後、形を変えて物部氏が活躍する。
 
2−16)物部雄君(???−676)
@父;守屋 母;不明   異説:物部尾興の子麻伊古の子真古の子供である。との説
A妻;物部目娘(大市御狩の孫)「豊媛」 子供;金弓、忍勝 朴井連となる。又以後榎井氏を名のる。
B「壬申の乱」の時大海人皇子舎人として、吉野で決起。舎人筆頭として活躍。
C大紫位氏上を賜った。
ーーーーこの流れはここまでしか歴史上出てこない。ーーー
 
別流れ(石上氏系)
・大市御狩(???−???)
@父;物部尾興 母;倭古女如波流姫
A妻;石上贄古女「宮古郎女」
B敏達朝の大連(旧事紀)
 
・物部目(???−???)
@父;大市御狩 母;宮古郎女
A子供;馬古(宇麻子)、豊媛(物部雄君室)
B欽明朝の大連(旧事紀)
 
・物部宇麻子(???−???)
@父;目 母;不明
A別名;馬古、宇麻乃?
B645年大化の改新で蘇我氏本家没落したとき、衛部という宮廷警護の責任者となった。
 という記事あり。
 
・石上麻呂(639−717)
@父;物部馬古 母;不明
A子供;乙麻呂、東人  注)物部麻呂とは異なる人物との記事もあるが、ここでは、同一人物として記す。
B初め物部連、天武13年八色の姓の制定により物部朝臣となりのち「石上」に改姓した。
C「壬申の乱」では最後まで近江方につき、大友皇子の首を吉野方に引き渡した。
 天武朝でも重用され、676年遣新羅大使、690年持統天皇即位の際、大楯を立てる大役を果たした。(ここまで物部麻呂)
D701年藤原不比等、紀麻呂とともに大納言となる。
E703年42文武朝で刑部親王が最初の「知太政官事」に任じられた。この時右大臣;阿倍御主人(69才) 大納言;石上麻呂(64才)藤原不比等(46才)紀麻呂(45才)となり、石上氏浮上。
F704年右大臣になる。708年正二位 左大臣 710年平城京遷都の際、藤原京留守役となる。
G715年43元正天皇朝 左大臣;石上麻呂(76才)
右大臣;不比等(57才)中納言;粟田真人(55才)
阿倍宿奈麻呂(50才)巨勢麻呂(50才)
H天武天皇崩御の際誄をした。(大役である)
 
 ・石上乙麻呂(???−750)
@父;麻呂 母;不明
A子供;宅嗣、息継(この流れは、石上神宮宮司となる)
B732年従五位上 丹波守 738年従四位下 左大弁
C739年藤原宇合の室で「百川」の母であった「久米若売」と左大弁石上乙麻呂とが、通じたという事件発覚。
乙麻呂;土佐へ流罪 久米;下総へ流罪。
D744年西海道巡察使に任じられた。
E746年遣唐使派遣計画があり、大使に任じられたが、この計画は見送られた。常陸守
F748年従三位、多治比広足、石川年足、藤原八束らと参議となる。
G749年聖武朝、中務卿乙麻呂に、陸奥国で金が発見されたことを国民に知らす様指示 あり。 同年孝謙天皇即位。藤原仲麻呂が、大納言となった。参議、石上乙麻呂、
 紀麻路、多治比広足、らは中納言になった。 左大臣;橘諸兄(命運は落ちていた)
H750年中納言従三位中務卿として没した。
 
 ・石上宅嗣(729−781)
@父;乙麻呂 母;不明
A息子;継足
B763年恵美押勝の専制に反発する勢力は、暗殺計画を企てた。
藤原宿奈麻呂(良継) 石上宅嗣、佐伯今毛人など。
密告により未然に防がれた。宅嗣は、大宰府に左遷された。
C766年称徳朝大納言藤原永手が右大臣に、中納言白壁王、藤原真楯が大納言に参議吉備真備が、中納言に、新たに石上宅嗣が、参議になった。太政大臣禅師;「道鏡」
D770年称徳天皇が崩御(53才)その時の議政官組織
 左大臣;永手 右大臣;真備 大納言;白壁王 
参議;宿奈麻呂、藤原縄麻呂、宅嗣
 近衛大将;藤原蔵下麻呂らであった。道鏡の失脚を謀り、白壁王の立太子を推進擁立に尽力した。
  後継天皇の人選で吉備真備は、文室浄三(智努王78才)文室大市(大市王67才)を推した。藤原永手らは百川の策により白壁王を推して勝つ。
 この後真備は、引退する。白壁王は、直ちに立太子、49光仁天皇として即位。
 771年の光仁天皇大嘗祭に神楯鉾を立て、物部氏の面目を果たした。
 775年物部朝臣となる。
E779年天皇が唐の使者に対面する儀に関し宅嗣大納言は、「天皇の降座やむなし」の記録あり。使者を迎えるにあたり天皇が、玉座を降りるということ。物議をかもしたことらしい。
 779年石上大朝臣を下賜され以後ふたたび石上氏となる。
F文化人でもあったらしい。「経国集」。
781年正三位大納言石上宅嗣死去。
G最古の図書館「芸亭」(うんてい)を阿しゅく寺に作った。
ーーーーこれで物部系の人物が歴史上消える。ーーーー
 
・物部息嗣(???−???)
@父;乙麻呂 母;不明
A子供;振麻呂、 兄弟;宅嗣
B物部朝臣姓となり、石上神宮の祭主となり、以後この流れが、石上神宮を嗣ぐことになった。
 
・物部麻伊古(???−???)
@父:尾興 母:物部倭古女如波流姫
A兄弟:守屋、大市御狩、今木金弓若子、布都姫、石上贄古、多和髪ら
 
 
・恵佐古(???−???)
@父:麻伊古 母:不明
A兄弟
B推古朝、舒明朝、皇極朝の大連(旧事紀)
 
・多津彦(???−???)
@父:恵佐古 母:不明
A兄弟:荒猪、弓梓、加佐夫
B天智朝大連(旧事紀)
3)物部氏系図 (諸説あるが筆者創作系図である)
4)物部氏系図解説・物部氏考
 物部氏の系図を云々する場合避けて通れない文献がある。
「先代旧事本紀」(略して旧事紀くじき)である。この古文献は、古くから記紀と対比して色々取りざたされてきた。
偽書扱いもされてきた。しかし現在ではそれなりの史料的価値ありと判断されているようである。
安本美典著:古代物部氏と「先代旧事本紀」の謎 勉誠出版(2003)に詳しく解説されている。
その中で著者は、下記のように推定判断を述べている。
・編纂者:興原敏久(おきはらのみくに)物部氏に出自を有する明法博士
・成立年代:827−829年 (新撰姓氏録の後)
物部氏の家記で、記紀以前の日本の古記録が確かに記されている。記紀に記されてない信憑性の高い古史料(例えば国造本紀など)もあると著者は判断している。
著者安本氏は、現在古代史ファンに人気のある古代史学者の一人である。邪馬台国九州説の中心人物の一人。
但し歴史学会での評価は筆者は分からない。アウトサイダー???
非常に多くの著書がある。本稿はそれらも参考にした。
 物部氏の元祖は一般的には「ニギハヤヒのみこと」と呼ばれている。古事記では、「邇芸速日命」日本書紀では「櫛玉饒速日命」先代旧事本紀では「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と記されている。
古事記では、神武天皇の後を追って天下っている。
日本書紀では神武天皇東征前に大和の地に天下っている。
どちらも高天原系の神と認めている。
旧事紀では、記紀に記されている天孫「ニニギのみこと」の兄「天火明命」と「ニギハヤヒのみこと」は同一人物とし、天孫であることを主張している。
ちなみに「新撰姓氏録」では物部氏の元祖「ニギハヤヒのみこと」は天神扱いで天孫に入れてない。
一方記紀では上記「天火明命」の子供である「天香語山命(高倉下命)」は尾張氏の元祖と明記されており、これは天孫族扱いである。
旧事紀は、この辺りの扱いに不満があり物部氏に伝えられてきた「家記」の類をまとめて編纂したのだ、との説あり。
偽書だとされる火種もここらにある。
しかし、日本書紀の神武紀にわざわざニギハヤヒが神武に先立って畿内に存在いたことが明記されてあることは、この種の歴史書としては異常なことであり、旧事紀の方に歩があるとの説が昔から有力。
天皇家としては消したい過去であるが物部氏のことは無視できなかった。精一杯の記述が記紀の記述。と考える。
ニギハヤヒは天にいた時「天道日女」との間に天香語山命を産みこれが天下って高倉下命と名乗り神武天皇を助けたとされる。
この流れが尾張氏である。
一方ニギハヤヒは、河内国哮峰(いかるがみね)に天下ってから、現地の首長長髄彦(ながすねひこ)の妹御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って宇麻志摩治命を産んだ。
これが神武天皇に従し、物部氏の元祖となったと旧事紀は記してある。旧事紀ではさらに神武天皇以降各代の天皇の大臣(大連)などとして物部氏の首長が歴代なったと記されている。
欠史八代は勿論のこと26継体天皇までそれは連綿と続いている。
記紀ではそこまで記されてないが、それでも古代豪族のなかでは最多の11名の名前が大臣クラスとして記されている(次ぎは武内宿禰系で、全部で7名)。
筆者の系図では主な人物しか記さなかったが、記紀、旧事紀では天皇家を除けば古代豪族中最多の人物が記載された系図である。
新撰姓氏録によると、磯城氏(十市、春日氏も含む)、穂積氏なども物部氏の流れとされており、それも加えると欠史8代の天皇の后妃の大多数が物部氏となる(これに関しては異説も多い)。
本系図からはこれは除外した。
いずれにせよ欠史8代の複雑な系図は、諸説あり、ここで物部氏と関係して述べるのはさしひかえたい。
上記安本氏の本では、氏独特の観点に立った欠史8代の関係系図も記されてある。(氏は神武天皇の実在及び欠史8代も認め、神武の活躍年代を紀元278−298年とし、以降総ての記紀記載の天皇の活躍年代を推定して、継体天皇以降まで記してある。)
ちなみに10崇神天皇の活躍年代は、342−357年としてある。
物部氏の系図もそれに併せて推定している。記紀で引き伸ばされた年代を天皇家・豪族共にぐっと縮めた感じである。
これが現在の学会でそのまま認知されるとは思えないが、一つの仮説としては面白い試みと思う。
筆者の系図は従前通り、年代は無視して記紀及び旧事紀を参考にして記したものである(ゴシック字で各天皇朝で要職にいた人物で、記紀及び旧事紀に記されたもの総てを載せた)。
物部系図は、古来諸説あるので重要と思われるとこのみ詳細系図を載せた。
特色は、主立った人物の夫人の名が詳細に記されていることである。これによると、物部氏族の中での婚姻が中心でそれ以外からの、それ以外への女性の出入りが余り無かったように思える。
 
上記安本美典の本に記載の表を参考にして、各天皇時の大臣、大連などの要職者の名前を記紀(旧事紀にも記載ありを含む)記事と旧事紀のみの記事とを分けて記すと下図のようになる。
旧事紀では、神武以降継体までほぼ総ての天皇の大連または大臣などの要職は、物部氏から出ていることになる。かくほど、物部氏は古代豪族のなかでは、並ぶ者なき氏族であったらしい。
これを総て信頼しないまでも、記紀に記されているだけでも他氏族の追随を許さないものがある。
用明天皇の時に、蘇我ー物部の宗教戦争により物部氏本流は滅んだとされているが、旧事紀では天智朝まで「大連」職を物部氏が司ったことになっている。
旧事紀をどこまで信用出来るのか意見は分かれるであろう。
この本はいずれにせよ、記紀「新撰姓氏録」などには精通した人物が、ある面ではそれらと整合を図り、他面では物部氏に恐らく伝わっていた、家譜の類を主張して記したものと思われる。(文字の無かった時代の系譜はどの様に伝承されたのであろうか?)その区別は非常に難しい。筆者は現代流に10崇神天皇以前と以後とは区別して判断したいと思っている。
注目点は、記紀では11垂仁天皇時初めて物部氏が記事に表れることである。
以後実在性が疑われている武内宿禰の時代となり、雄略朝辺りから再び物部氏の名が表れ、武烈、継体天皇朝で「麁鹿火」の出現で史実として現在認められる人物の登場である。
尾興、守屋時代で物部氏の活躍の最盛期を迎える。
崇神天皇以降王朝交替があったかどうかは旧事紀からもはっきりしない。むしろ記紀の記述を容認している。
しかし、旧事紀は記紀を参考にもしているので、これと整合をとったのであるとも言える。
本稿では触れなかったが、この間もう一つの「ニギハヤヒ」系の豪族「尾張氏」と天皇家との関係も複雑に絡んでいる。旧事紀も詳しく系図を記している。継体天皇が尾張氏と密な関係があったこと、天武天皇も壬申の乱のおり尾張氏の助けを得た。これらに関しては尾張氏の項で詳しく述べたい。
14仲哀天皇、16仁徳天皇の時のみ物部氏から大臣・大連クラスの人物が出てないのが気になる。単なる偶然なのか?この辺りに王権交替があったのか?
欠史8代あたりに関しては、また別稿で述べる予定であるが、物部氏が邪馬台国であり九州から東遷し、大和王権の前に大和地方の支配者であったとの説、も根強くある。
物部氏が、天皇家とほぼ同一時代に大和の地で共同して国を興し、日本国家の成立に重要な役割を演じ、常に天皇家をバックアップする、大番頭的役割であったと考えて大きな過ちはなさそうである(記紀はこのことをあまり記したくなかった様子)。
但し後の藤原氏のような天皇の外戚的関係として、時の政治の実権を握ったことはなかったようである。その点で葛城氏、蘇我氏とも異なる。

 蘇我氏と物部氏婚姻関係を通じて非常に密な関係が筆者の系図上では窺える。この辺りの情報は主に旧事紀からで、記紀には記されてない。最も重要な情報だと思う。
蘇我蝦夷、入鹿が共に物部氏の嫡流系の女の腹から産まれているのである。
記紀に記されているように、物部氏と蘇我氏とは本当に犬猿の仲のような関係だったのであろうか。ここいら総ての事件・日本国家の一大転換期は、天皇家が仕組んだ戦略だったのではなかろうか。
僅か100年足らずの間に旧勢力の代表物部氏が滅び、新勢力の代表
蘇我氏も滅んでしまった。
これで天皇家の地位に脅威を与える勢力は壊滅したのである。
天皇家にとっては実にすっきりしたわけである。
記紀はこのあたりの真実を封印した可能性は充分ある。

物部氏は、天武天皇以降数名の要職が壬申の乱がらみで功績が認められ出現している。
弓削道鏡は、諸説あるが、筆者系図では物部氏系に入れた。近年ではこれが真実であろうという説強い。
物部氏は内物部、外物部として、日本全国にその勢力を伸ばした。
旧事紀の初期国造家に関する記述(他のこれに匹敵する古史料はない)からも、その多くが物部氏出身であったことが窺える。
また、各地の神社などの社家として、その痕跡を後代に残した(例えば物部守屋の子供「那加世」の後裔とされる奥州物部氏の流れが秋田県仙北郡の唐松神社神職として現在も物部氏を名乗っている。また石見物部神社宮司家金子氏も現在に繋がっている。江戸時代の学者荻生徂来も物部氏の子孫として有名)が、その大多数の末裔などは、判然としなくなっている。
筆者の調査では、武家として物部氏の系譜を残しているのが、蜷川氏、平岩氏、厚東氏で、穂積氏の系譜を残しているのが、鈴木氏、亀井氏、土居氏などである。
最終的に現在まで最もはっきりして残っているのは、石上神社社家であるが、実質上の政治上の地位は、光仁天皇朝の大納言石上宅嗣を最後として、奈良時代以降歴史上からは、全く姿を消してしまう。
以後は完全に藤原氏の時代を迎えるのである。




歴代天皇朝重役(大臣・大連・大夫など)リスト                         (安本美典著書参考)
天皇 記紀+(旧事紀 )    旧事紀のみ
              (物部系)   (その他氏族系)
1神武          宇摩志麻治 天日方奇日方(事代主子供)
2綏靖          彦湯支
3安寧          出雲色
4懿徳          出雲色
5孝昭          出石心大臣  (尾張氏)瀛世襲・武諸隅
6孝安          大矢口 出雲色
7孝霊          大矢口 出雲色
8孝元          欝色雄
9開化          大綜杵 伊香色雄
10崇神         伊香色雄 武諸隅
11垂仁  物部十千根   大新河
12景行  武内宿禰    物部多遅麻      
13成務  武内宿禰    物部胆咋
14仲哀  武内宿禰                (中臣氏遠祖)
神功皇后  武内宿禰    物部五十琴 物部多遅麻   雷大臣
15応神  武内宿禰    物部印葉         尾張尾綱根
16仁徳  武内宿禰                 尾張意乎巳
17履中  物部伊呂弗 
      円大使主
      平群木莵 
      蘇我満智
18反正             物部伊呂弗
19允恭  物部大前        物部麦入
20安康  葛城円大臣、      物部大前、物部木蓮子
21雄略  物部目、大伴室屋、   物部布都久留
      平群真鳥、葛城円
22清寧  大伴室屋、平群真鳥   物部目
23顕宗  大伴室屋、平群真鳥   物部小前
24仁賢  物部木蓮子、平群真鳥
25武烈  物部麁鹿火、大伴金村  物部麻佐良
      大伴室屋、許勢男人
      平群真鳥
26継体  物部麁鹿火、大伴金村  物部目
      許勢男人
27安閑  物部尾興・麁鹿火
      大伴金村
28宣化  物部尾興・麁鹿火    物部荒山、
      大伴金村、蘇我稲目
29欽明  大伴金村、蘇我稲目   物部尾興・目
30敏達  物部守屋、蘇我馬子   物部大市御狩
31用明  物部守屋、蘇我馬子     ーーー物部本流滅亡ーーー
32崇峻  蘇我馬子
33推古  蘇我馬子・蝦夷     物部恵佐古、石上贄古
34舒明  蘇我蝦夷
35皇極  蘇我蝦夷        物部恵佐古ーーー蘇我氏本流滅亡
36孝徳  中臣鎌足、阿部内麻呂
      大伴長徳、巨勢徳陀古
      蘇我倉山田石川麻呂
37斉明  巨勢徳陀古、                 蘇我連子(続日本紀のみ)
38天智  中臣金・鎌足、     物部多津彦
      蘇我赤兄、蘇我連子
39弘文(物部氏系要職者)  (藤原氏の台頭の一部参考例)
40天武  物部雄君(内大紫位)
41持統               藤原不比等(天皇側近)
42文武               藤原不比等(大納言)
43元明  石上麻呂(左大臣)     藤原不比等(右大臣)
44元正               藤原房前(内臣)
45聖武               藤原武智麻呂(左大臣)
46孝謙  石上乙麻呂(中納言)    藤原仲麻呂(右大臣)
47淳仁               藤原仲麻呂(右大臣)
48称徳  (道鏡:太政大臣扱い)   藤原永手(左大臣)
49光仁  石上宅嗣(大納言)     藤原良継(内大臣)
50桓武  これ以降重要職の記録なし。 藤原内麻呂(右大臣)
                   藤原氏独占体制に入る。
 
 
5)まとめ
物部氏は古代豪族の中でも最も永くかつ詳細な系図を有する氏族である。神武天皇の実在云々は別として、記紀編纂時において、初期天皇家と祖を同じくする、所謂天孫系一族であったと認めざるをえなかった。
10崇神天皇朝成立時(3世紀末ー4世紀初)以降づっと天皇家の軍事、祭祀を中心とした要職におり、天皇家を支えてきた氏族である。
その初期においては、いつでも天皇家とその地位を交替してもおかしくない程の勢力と血筋を持った氏族であったとも考えられる。
天皇家の体制が確立し、盤石になった時、即ち物部氏の勢力が天皇家と対抗不可能になり、蘇我氏という最大の対抗勢力も滅び、約200年前継体天皇が物部氏等の旧勢力に擁立されて以来やっと天皇家親政政権が確立した時、それが天武天皇の時である。
この時記紀編纂を命じ、天皇家を名実共に唯一無比絶対的な存在としようとした。
その中で物部氏の存在、大和王権確立時でのその貢献など過去の物部氏の実績の一部も書き記しても何等悪影響は無いと判断した訳である。
しかし、男系による物部氏系の天皇の出現は、入り婿的なものも含め、無かったものとした。女系では、欠史8代の末期で一部あったことは認めている。事実は不明である。あったかもしれない。
とはいうものの物部氏はそれ程勢力を持った氏族であり、記紀編纂者等は天皇家とほぼ同格のこの氏族の歴史上の取り扱いに頭を悩ませた感はいなめない。
筆者の主張
@物部氏を考察する時、「先代旧事本紀」は無視できない文献である。しかしその史料的価値は限定的と判断する。(当時天皇家の根幹に触れるようなことは、例え事実として伝承されていたとしても、記すことは不可能であったことは、容易に想像される)
A物部氏は、初期天皇家出現に重大な役割を演じた氏族であることは間違いない。
B26継体天皇出現にも物部氏が関与していることは間違いない。
C記紀編纂者らは、意図的に物部氏と天皇家との関係を消した可能性あり。
D物部氏と蘇我氏は、婚姻関係も含め非常に密な関係があった形跡があるが、記紀はこれも意図的に重要部分に触れていない可能性あり。
E物部氏と出雲系の旧大和勢力との関係は、旧事紀に一部記されてあるが、記紀では全く触れられていない。
蘇我氏との宗教戦争の本当の真相がぼかされている。
この時何故全国に勢力をはっていた物部氏勢力は、守屋を支援しなかったのかも明記してない。
F物部氏が桓武天皇朝以降何故急激に中央政界から姿を消したのか、未だに分からない。
6)参考文献など  
非常に沢山ある。筆者が面白かったものの一部。
・安本美典著「古代物部氏と先代旧事本紀の謎」勉誠出版(2003年)
・安本美典著「倭王卑弥呼と天照大御神伝承」勉誠出版など
・直木孝次郎「古代国家の成立」講談社学術文庫(2002年)
・直木孝次郎「日本神話と古代国家」講談社学術文庫(2001年)
・武光 誠「古代史を知る事典」東京堂出版(1996年)
・関 祐二「消された王権・物部氏の謎」PHP文庫(2002年)
など。
物部氏関係HPは非常に多数ある。代表的なもの。
http://www.h4.dion.ne.jp/~munyu/
  これに色々リンクが張られている。