TOPへ       戻る
10.息長氏考
1)はじめに
 「息長 」を一般的には、イキナガ、オキナガと読む。
キナガ、シナガとも呼ぶらしい。「気長」「磯長」「科長」「級長」「師長」などとも記される。
その意味も色々言われており、「息が長い」「風を吹く」などがあり、息長氏は潜水を専門とする海人、いや風の神で製鉄の民である、などと言われている。
息長氏はその始祖を誰にするべきか、謎である。
一般的には(古事記)応神天皇の孫である意富富杼王(オオオド)(別名:大郎子)が息長氏祖とされている。
しかし、息長真手王説もありよく分からない。
というのも、歴史的に「息長」という文字をその名前につけている人物が上記2人以前にも多数記紀に記されてあるからである。
一番古いと思われるのは、天御影神娘「息長水依比売」(淡海御上神社)で、9開化天皇の子供「日子坐王」の妃となった女性である。
これは天津彦根神の流れで明らかに神別氏族である。
次ぎは日子坐王の曾孫として息長宿禰王、その娘が「息長帯日売」こと「神功皇后」である。
なんと言ってもこの人物が一番の有名人である。
また別系統である日本武尊の子供に「息長田別王」なる人物が古事記には記されており、その流れから15応神天皇妃「息長真若中比売」がいる。この二人の間の子供が、上記息長氏祖と言われている大郎子の父若沼毛二俣王が産まれているのである。
彦坐王にしろ日本武尊にしろ皇族なのでこの流れは皇別氏族である。
息長氏は新撰姓氏録では皇別氏族に分類されている。
さらに舒明天皇の名前は「息長足日広額天皇」である。
これは、息長氏出身の天皇ということを表しているとのこと。
天武天皇の時、新たな氏族分類制度が導入された「八色の姓」。
この時最も高貴な姓である「真人」姓の筆頭に息長氏が位置付けられた。理由は、時の天皇家の祖26継体天皇は、息長氏であり、蘇我氏の血が入ってない「押坂忍人大兄皇子」の母親は、息長真手王の娘で「息長氏」である。
天智天皇も天武天皇もこの流れであり、天皇家にとって最も大切な氏族は、息長氏であると認定されたのだという説が強い。
他の「真人」姓はその息長氏の近い親族、及び継体天皇以降の天皇家から分かれた皇別氏族であった。と言われている。
ところが筆者の調査した範囲では、歴史上記録に残っている息長氏らしい人物は、継体天皇以降では、息長山田公なる人物唯一人である。
系譜らしきものも残されていない。不思議である。
 一般的には息長氏は、和邇氏等と同じく天皇家をその皇族などに妃を供給する形で蔭で支えてきた氏族で、政治的には決して表に表れなかった氏族であったとされている。
即ち天皇家の血筋を(天孫族として)常に綺麗?真っ当な状態に保つための氏族という役割に徹した特殊な存在であった。とも言われている。しかし、謎だらけの氏族である。
記紀だけの記述では、一番天皇家にとって大切な氏族のはずなのに、その系図がすっきりしてない。その出自もよく分からない。
何故であろうか。
一方「和邇氏」の系図はしっかり残されており、平安時代の小野氏(小野道風、小野小町など)までかなりはっきりしている。
日本の古代史上謎とされている重要人物の多くが、息長氏と絡んでいる。
「彦坐王」「天日矛」「日本武尊」「神功皇后」「応神天皇」などである。
これらの人物の存在を正当化するために、記紀編集者らが、息長氏なる架空の人物群を導入したのである。とか、天武朝で「真人」姓に認定された息長氏関係者がその先祖を飾りたくて編集者らに圧力をかけ、記紀系図を改竄したのである、など諸説紛々である。
最近「大阪府全志」に採録されている「北村某家記」記載の息長氏の記録の裏付け調査、琵琶湖周辺の息長氏関係地域の発掘調査などが進んでいるようである。
新たな解釈も出ているようであるが、これらも参考にして筆者なりの謎解きに挑戦してみたい。
前稿の「継体天皇出自考」と非常に関連が深い。京都府京田辺市、琵琶湖周辺、旧摂津国界隈、我が「乙訓郡」地域も色々関連してくる非常に面白い謎解きである。

2)息長氏人物列伝
2−1)日子坐王(???−???)
@父;9開化天皇 母;意祁都比売命、姉オケツ媛(日子国意祁都命妹;姥津命妹)
A母は、和迩氏出身。
 妻;息長水依比売、近江御影神社の娘(天之御影神の娘)子供;丹波道主命
  ;山代之荏名津比売 山城国 子供;大俣王、小俣王(当麻勾君祖)
  ;沙本之大闇戸売 春日建国勝戸売の娘(春日)子;狭穂彦王、狭穂姫(11垂仁后)
  ;袁祁都比売命(妹オケツ媛)子供;山代大筒城真稚王、伊理泥王
 兄弟;10崇神天皇(母;伊香色謎命)
B三輪王朝(10崇神天皇)に追われて亡命。近江王朝を立てたと言われている。
C狭穂彦王の王権奪回の試みが、狭穂姫と一緒に行われたが失敗。
D近江の三上の「息長水依比売」を妻とし、近江を統一していき、大きい力を持っていっ た。 日子坐王こそ15応神、26継体を生み出した天皇家の始祖である、とも言われ ている。  ***
 
2−2)山代大筒城真稚王(???−???)
@父;日子坐王 母;妹オケツ媛(和迩氏)
A妻;阿治佐波媛(伊理泥王娘;日子坐孫)
 子供;加邇米雷王
 
・丹波道主命(丹波比古多多須美知能宇斯王)(???−???)
@父;日子坐王 母;息長水依比売
A妻;丹波之河上之摩須郎女
 子供;日葉酢媛(11垂仁后、12景行天皇の母、倭姫命の母)
B「四道将軍」の一人として丹波に派遣された。(崇神10年)
 
 
2−3)加邇米雷王(???−???)
@父;大筒城真稚王 母;阿治佐波媛
A妻;高材比売(丹波遠津臣女)子供;息長宿禰王  名;カニメイカズチ王
B山城国綴喜郡筒城郷の普賢寺の裏山は、「息長山」と呼ばれており、朱智神社(天王社) があり、加邇米雷王が祀られている。この木津川流域筒木の地には、早くから半島の渡来人が住み着き蚕を飼い絹織物を織り、また鋳銅も行っていた。これを配下にしたの が「和迩氏」である。 この付近もその勢力下。彼も和迩氏の一族であり南山城地方を支配していた王。
C「カニ」の由来は、「綺(かにはた)」綺麗のキ。模様を浮かせて織った透けるように薄い美しい絹織物。という意味。
 
 
2−4)息長宿禰王(???−???)
@父;加邇米雷王 母;高材比売
A妻;葛城高額比売命(天日矛ー田島間守ー当麻羊悲流れ)**
 子供;息長帯日売命(神功皇后;14仲哀天皇后)
 
2−5)神功皇后(???−???)
@父;息長宿禰王 母;葛城高額比売命
A夫;14仲哀天皇  子供;15応神天皇 
兄弟;息長日子王(吉備品遅君、播磨阿 宗君の祖先)、虚空津比売命別名;息長帯日売命
B実在性???
C朝鮮半島関係の記紀記事。女性としては最も詳しい事績が記されている。
D日本書紀では暗に卑弥呼に比定している。
 
 
2−6)15応神天皇(200?−310?)
@父;14仲哀天皇 母;神功皇后(息長帯日売命)
A皇后;仲姫命
 妃;高城入姫命、弟姫命、宮主宅媛、
息長真若中比売(杭俣長日子王女、倭建曾孫)
 子供;16仁徳天皇、若沼毛二俣王、八田皇女、雌鳥皇女、など
 
 
2−7)若沼毛二俣王(???−???)
@父;15応神天皇 母;息長真若中比売(倭建曾孫)
A妻;弟日売真若比売命(百師木伊呂弁;母の妹)
子供;大郎子(意富富杼王)
忍坂大中津比売命
(忍坂大中姫、19恭允天皇后、20安康天皇母、21雄略母)
 別名;稚淳毛二俣王、若野毛二俣王。  兄弟;16仁徳天皇、八田皇女ら
 
2−8)意富富杼王(???−???)
@父;若沼毛二俣王 母;弟日売真若比売命
A妻;中斯知命     呼称:オオオド 別名:大郎子
 子供;乎非王
 兄弟;忍坂大中姫、田中之中比売、田宮之中比売、沙祢王
B息長氏祖と言われている。
C三国君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫米多君、布勢君らの祖
 
・忍坂大中姫(???−???)
@父;若沼毛二俣王 母;弟日売麻若比売
A夫;19允恭天皇
 子供;20安康天皇、21雄略天皇、橘大郎女、衣通郎女、木梨軽皇子、など
B押坂部(刑部)は、押坂宮を主体に領有され、息長氏の管理のもと、大中姫から押坂彦人大兄皇子、やがては天智天皇へと伝領されていったと考えられる。
この系統には、蘇我氏の血が殆ど入り込んでないことから、この系統を反蘇我の皇統と見なし、蘇我氏を倒した天智天皇の財力の基盤となったのが、この坂部ではないかとされ、また蘇我氏の血を入れないために皇統を純化する役割をも息長氏が担っていたのではないかとも推論されている。
皇室内部の「皇族氏族」
 
2−9)乎非王(???−???)
@父;意富富杼王 母;中斯知命
A妻;久留比売命。子供;彦主人王
 
2−10)彦主人王(???−???)
@父;乎非王 母;久留比売命
A妻;振姫(11垂仁天皇7代孫)
 子供;26継体天皇。
 
2−11)26継体天皇(???−???)天皇家系譜参照
@父;彦主人王 母;振姫
(参考)26継体は、琵琶湖北東部の息長(滋賀県近江町)を拠点とする息長氏の出身と考えられる(岡田精司氏)育ったのは、母「振媛」の郷里である「越」であった。
后妃は、9人おり近江出身5人、尾張、大和、河内各一人と「手白香皇女」である。
息長氏は、26継体以前に大王家と姻戚関係あり(忍坂大中姫など)息長氏は、忍坂宮と刑部を通じて王権と密接な関わりを持ち続けるだけではなく、大王家内に「敏達ーー彦人大兄王ー舒明ー中大兄皇子」と続く息長氏系の王統が形づくられていく。
しかし、息長氏の在地の権力基盤は、さして強固ではなかったし、刑部にしても基本的には、息長氏系の王妃、王子女のためのもので大王家に属した。
そして何よりも「外戚氏族」として権力を振るうことが一度もなかったことは、息長氏の「皇族氏族」としての性格を如実に物語っている。常に黒子のように陰で大王家を支え続けたのである。滋賀県近江町一帯に息長氏の古墳群がある。しかし、小さいものばかりで大王家を打倒するような勢力を保有していたとは、考えられない。
26継体は、既存の大王家への入り婿と見るべきで、継体以降の王家は、母系を通じて15応神王朝の血統を引き継ぐことになったのである。
26継体は、単独で既存の王権に取り込まれたと考えるべきである。
<刑部>中央豪族である刑部造が管理し、忍坂宮に居住した王族たち(押坂彦人大兄皇子田村皇子、舒明天皇)の所領として代々伝領されたが、その経営には、その王家の母系姻族として多くの妃を嫁がせていた中小豪族の息長氏も深く関わっていたらしい。
・「息長真手王」
記事;29敏達天皇后「広姫」の父。この間の子;押坂彦人大兄皇子
    26継体天皇妃として娘「麻績娘子」を出した。
・「息長山田公」
記事;35皇極元年舒明天皇の喪事で、日嗣を誅び奉る。舒明天皇の養育係(湯人)だった可能性も考えられる。
舒明天皇のおくり名は「息長足日広額天皇」となった。
 
(参考)
◎天之日矛(???−???)
@父;不明 母;不明
A別名;天日槍、天之槍、天日鉾、
 妻;阿加流比売***
  ;前津美(前津耳女;俣尾娘、麻多烏娘) 子供;母呂須玖、孫;悲泥 
   曾孫;比那良岐 
B11垂仁天皇3年に来朝したとされる新羅王子
C金属製祭器(銅製)を人格化したものと言われている。播磨、近江、若狭、但馬などはいずれも金属に関係ある土地である。
これらの地に勢力を張ったとされている。
D伽耶王子、ツヌガアラシトと同一人物扱いされている。(日本書紀)
E末裔氏族;田島間守氏(比那良岐の子)**
F出雲神と戦った(風土記)
G「垂仁記」には、近江国吾名邑にしばらく住んでいたと記載されている。
 「倭名抄」にも、近江国坂田郡に阿那という地名があったことが記されている。後に「息長村」と呼ばれ、葛城之高額比売命と息長宿禰の婚姻も、この繋がりと無縁ではないと考えられる。
息長村は、息長一族の本拠地であり、天日槍の従人達が住んだという
「鏡谷」の近くの三上山麓の「御上神社」は、天之御影命を祀るが、日本の鍛冶の祖神 と称せられる。
この天之御影命の娘は、「息長水依比売」であり、日子坐の妻となった。***
難波比売碁曽神社、豊前国国前郡比売語曽神社、大分県姫島「比売語曽神祠」
大阪市西淀川区姫島町「姫島神社」などある。
**田島間守、但馬毛理
垂仁天皇90年に常世国に非時香実(ときじくのみ;橘のこと?)を求めて派遣され、それを持ち帰ったが、既に天皇はこの世に亡く、泣く泣く殉死したため、人々は、天皇の陵墓近くに田島間守の塚を築いたという記事あり。ーーー橘諸兄もこの話しと関係ありと言われている。
即ち天皇の忠臣を志した。ーーー

・田島間守の弟?比多訶の娘が葛城高額姫だと言われている。
・田島間守の弟?「清日子(スガ)」と葛城氏の流れを引く「当麻羊悲」との間の娘「菅竈由良度美」と上記「比多訶」との間に産まれたのが「葛城高額姫」である。
 これと息長氏の「息長宿禰」との間の娘が「神功皇后(息長足媛)」といわれている。
・15応神天皇は、14仲哀天皇と神功皇后との間に産まれた天皇とされており、この
妃「息長真若中比売」は、「倭建 」と和迩氏娘との間に産まれた「息長田別王」の子「咋俣長日子王」の娘で息長氏流れである。
・15応神と「息長真若中比売」との間の子が「若野毛二俣王」であり、その妃が母の妹「弟日売真若比売命」である。
この間の子「意富富杼王」「忍坂大中姫」らは、
まさに「彦坐王」+「天日矛」+「葛城氏」+「日本武尊」の母系の血統と「10崇神」+「彦坐王」+「吉備氏(日本武尊)」の父系血統の融和したものであり、 今後天皇家は、この二人の系統が、主流となったと言える。
この意味で、「彦坐王」
息長氏こそ天皇家の始祖ともいわれる由縁である。
但し母系の息長氏が、歴史の表舞台 に出ることはなかった。
これが「葛城氏」「蘇我氏」「藤原氏」らとは明らかに異なる
氏族である。
と言える。
 
◎倭建命(???−???)
@父;12景行天皇 母;稲日大郎姫(伊那毘大郎女;若建吉備津日子娘)
A妻;両道入姫(11垂仁娘)、吉備穴戸武媛、弟橘比売、一妻(和迩氏女?)
 子供;14仲哀天皇、息長田別王(母;一妻)
 叔母;倭比売命(伊勢神宮の神話上の初代斉宮、12景行天皇同母姉)
 別名;「小碓命」「倭男具那」
 兄弟;大碓命、倭根子命、神櫛王、櫛角別王、以上同母
B実在が疑わしい。とされている。
C父12景行天皇の命により西征し、「熊曽建」「出雲建」らを討伐した後、東征して「荒ぶる神、伏まつろわぬ人ども」を悉く平定した。
帰途、伊吹山で病を得、伊勢の能煩野で崩じた。この地に陵を造ったが、八尋の白鳥となって、天翔り、河内国の志幾に留まったので、再び陵を造り「白鳥の御陵」と名付けた。
「倭は、国のまほらば、たたなづく青垣、山隠れる倭しうるわし」
 
3)息長氏関連系図
基本的には記紀記述に準拠して(一部上宮記仕様)
・息長氏概略系図
・息長氏詳細系図を作成した。   どちらも筆者創作系図である。
さらに参考系図として河内「北村某家系図」を載せた。
大阪府全志(大正11年刊行)について記述解説されている諸種記事を基にした筆者創作系図である。
 
 
4)系図解説・論考
 息長氏という氏族としての息長氏がいつ頃から誰の時から発生したのかと言われると、はっきりしないのが現状である。
記紀記録上名前に息長と付けられた最初は、日子坐王妃の天御影神女「息長水依姫」である。
近淡海御上神社神官の娘を妃として「彦坐王」が近江国を支配下においたとも言われている。
これは時代的には、10崇神天皇の頃であるから3世紀末から4世紀初め頃であろう。
3)神別息長氏として水依比売までの系図を示したが記紀に記された天御影神は水依比売の父ではなく、その流れを引く御上神社祝家の娘と考えた方が良さそうである。
この系図は公知の系図であり、神世と現世の間を表している
しかし、記紀の神世と神武以降の現世系譜との辻褄を合わせた感じがする。
よって天御影神と水依姫の間の人物には嵩上げがされているのではなかろうかとも思える。
天津彦根神は現在も多くの神社に祭神として祀られている。
天御影神は凡河内氏、山背国造氏の祖として播磨、但馬、丹波、近江などに祀られている。
これが前稿(尾張氏考)で述べた海部氏の倭宿禰だとすると年代的には合ってくるから不思議である。(神武天皇の頃)何かしら関係していたのであろうか。
京都府舞鶴市に彌加宜神社があり、祭神は天御影命である。これは息長氏と関係する「行永」という地名の近くである。
海部氏の籠神社の近くでもある。
天御影は天目一箇神と同一であるとの説もあり、鉄に関係した氏族の匂いがしてくる。前述したように息長とは、風、製鉄に関係した名前であるとの説からすると彦坐王が製鉄に関係する権利を取得したと解するべきか。
それが「息長」という名跡として表現されたとは考えられないだろうか。即ち天津彦根神ー天御影神の系統が有していた製鉄関係の技術・人間などを引っくるめて皇別氏族である彦坐王が婚姻を通じて奪取したと考えるのである。
これが息長という名の原点である。未だ氏族ではない。
この権利を継いだ者が息長なる名前を付されて記紀に記録されたのではなかろうか。と考える。
さて「息長氏概略系図」「1)彦坐王詳細系図」「2)日本武尊系息長氏詳細系図」を概観すると
@彦坐王は、5孝昭天皇の子供天足彦国彦の流れ即ち「和邇氏」の娘腹であり自分の妃の一人にも同じ和邇氏の娘を貰っている。
和邇氏については別稿で詳しく論考する予定であるが、琵琶湖湖西に「和邇」という地名が現在も残されているように、琵琶湖、山代南部奈良方面にかけて勢力を有していた古代豪族である。
古くから和邇氏と息長氏は非常に密なる関係がある氏族同士であるとされている。
A彦坐王と上記和邇氏娘との間に産まれた「山代大筒城真稚王」の流れから息長宿禰、息長帯日売即ち神功皇后が出て、15応神天皇に繋がっていく。
この系図については、古来異論多い。
本来息長と名乗れるのは息長水依姫の子供であるはず。即ち、丹波道主、水穂真若王などではないのか。
それが何故和邇氏腹の子供に息長の名跡が嗣がれたのか、これは系図がどこかで錯綜したためで、本来は水穂真若の子供が迦邇米雷であると主張する説もある。
しかし、迦邇米雷は、山城国綴喜郡にある息長山普賢寺に隣接してある朱智神社の祭神として現在も祀られてあり、山代筒城真若の存在が現在の京都府京田辺市付近であることを示唆している。
またこの地は真偽は別にしても「神功伝説」の多い所でもある。
26継体天皇の筒城の宮跡もこの付近と比定されている。
B神功皇后の母親の系譜がまた謎に包まれている。
新羅から渡来してきたとされる、天日矛伝説は西日本の多くの土地に現在も残されている。
但馬の出石神社の祭神であり、ここが没したところとされている。
この流れの系図も記紀で一部異なるが記されている。
田島間守なる人物は記紀に垂仁天皇紀に記されており、有名人である。これの兄弟の妃及び娘等は何かしら但馬ではなく葛城の匂いが濃い出身らしい。
そこに産まれたのが葛城高額媛である。
これと上記息長宿禰との間に神功皇后が産まれたとなっている。
古事記には神功皇后と同腹の子として息長日子王と虚空津媛なる人物が記されている。
どちらも事績がよく分からないが、虚空津媛はこれまた謎の人物武内宿禰の妃となり、葛城襲津彦を産んだとの伝承もあるとか。
(賀茂氏考参照)
日本書記では暗に神功皇后を魏志倭人伝に登場してくる「邪馬台国女王・卑弥呼」に比定している。
これが意図的にそうしたのか、そう信じられていたのかは意見が分かれるであろうが、現在では時代が異なると断は下されている。
卑弥呼は2世紀ー3世紀中の人物。
応神天皇は実在していたと仮定すれば4世紀末ー5世紀初めの人物。その母親なら4世紀中以降の人物である。
卑弥呼は勿論、台与より後になる人物である。
よって応神天皇は実在したとしても、神功皇后は創作された人物ではないかという説が主流?
となると「息長氏」はどうなっているのか疑問が生じる訳である。
C12景行天皇と吉備氏の娘との間に産まれた日本武尊の子供は非常に多い。
その中に息長田別王なる人物がいる。
母親は「一妻」とだけ記されており定かでない。
この流れの娘に息長真若中姫がおり、これが神功皇后が産んだ15応神天皇の妃となり産まれたのが「若野毛二俣王」である。
日本書記ではこの辺りの系図は不明瞭であるが、古事記では明記してある。
この二俣王と真若中姫の妹「弟日売真若比売」亦名:百師木伊呂弁との間に産まれたのが息長氏祖と言われている「意富富杼王」亦名:大郎子である。
この妹に19允恭天皇の后となった「忍坂大中姫」がいる。
記紀記述では、大物女性である。
この末弟に「沙禰王」なる人物がいる。古事記に記録はあるが誠に蔭の薄い人物である。この人物は後述するが、実は息長氏にとって重要人物のようである。
上記咋俣王にはもう一人娘がいる。
飯野真黒媛である。これが長女とされている。古事記に記されたこの媛の系譜が間違っている(余りに不合理な箇所あり)と判断し、ここでは載せなかった。
D記紀では26継体天皇の出自が15応神天皇5世孫と、父が彦主人母が垂仁天皇7世孫振姫とだけしか記述がないことは、「継体天皇出自考」の稿で述べた。
これを若野毛二俣王から彦主人までをはっきりさせたのが上宮記である。大郎子と意富富杼王と同一人物であることを示唆したのも上宮記である。
この辺りについては現在も異論百出のところである。
E古事記には意富富杼王を息長氏祖と記してあるらしい。
記紀には忍坂大中姫妹、衣通姫が近江国坂田郡に住んでいたことを記してある。
ということは、若野毛二俣王又は百師木伊呂弁が近江坂田郡にいたことを示唆したことになる。
F息長真手王なる人物が記紀に登場する。娘「広姫」が敏達天皇の妃となり「押坂彦人大兄皇子」を産みその後の非蘇我勢力の元祖となり、天智、天武へと皇統を保った原点的人物として描かれている。
出自は謎めいている。
何処に拠点を持っていたのかもはっきりしてない。
どうもこの流れが最終的には息長真人姓を賜ったように思えるが、筆者の調査した範囲ではすっきりしない。
全くこれ以降の系譜が公知にされてないらしい。不思議である。天皇家に最も近い母系氏族であるのにである。
継体天皇の子供は沢山いるが、これが息長氏を称した形跡がない。
坂田大跨王なる人物の流れから坂田真人が出たことは間違いなかろう。問題は「広姫」の方である。
Gさて話を15応神天皇の所まで戻そう。
応神の母「神功皇后」は明らかに彦坐王系からの息長の名跡が伝わっている。
一方応神の妃である息長真若中姫には日本武尊系の息長の名跡が伝わっている。
その子「若野毛二俣王」はどちらから見ても「息長」の名跡がある。
その子の母も日本武尊系息長である。
即ち大郎子も忍坂大中姫も沙禰王も間違いない息長系である。
ということは20安康天皇21雄略天皇も息長腹である。
これから以降は25武烈天皇まで男系には一部息長のDNAは残るものの息長の血が薄れた状態が続いたことになる。
葛城系ではない息長系に戻そうという勢力の影が見えてくる。
26継体天皇は、本当に息長腹だったのか定かではない面もある。
しかし、記紀編纂時、息長氏が特別な存在価値があったことは窺える。記紀での彦坐王・神功皇后・日本武尊・応神天皇及び天日矛の記述には何か異様なものを感じる。
その裏に息長の名が見え隠れしている。
これら総てが虚構である、とする学者も多い。現在では主流かも知れない。果たしてそうであろうか。
大正11年刊行された「大阪府全志」なる本に採録された「河内北村某家記」の中に、非常に興味ある記述がされている。
色々な先人が解説記事を発表されているが、筆者なりに解釈し、系図化したものを参考系図として記した。
筆者なりの解釈は下記の通りである。
現在の大阪市平野区喜連町:旧東成郡喜連村付近の伝承記事である。
この辺りは、元々大々杼(オオド)国 大々杼郷と称した。
「楯原神社」の祭神建御雷男の子孫 大々杼命にちなんで付けられた。
神武天皇時功あって 大々杼の姓を賜り、国造に任じられた。
14仲哀天皇時「大々杼黒城」に嗣子がなかった。
天皇(神功皇后)は弟の息長田別王を黒城の娘黒媛に婿養子として出した。
その時息長の名を与えた。その子供が杭俣長日子であり、この姉娘が息長真若中比売で15応神天皇の妃となり若沼毛二俣王を産んだ。
この杭俣に嗣子がないため応神8年に妹娘の弟女真若伊呂弁の婿養子として若沼毛を迎えた。
この間に産まれた子供らは大郎子ら7名である。
長子大郎子は仁徳天皇の勅命により淡海の息長君として分家した。
その子供が彦主人である。
一方息長氏の本家を嗣いだのは末子の沙禰王であった。
その娘真若郎女が近江の彦主人に嫁ぎ、産まれたのが大々杼王(後の26継体天皇)である。
産まれたのは母の里である河内である。8年後雄略元年に母子を淡海に帰したが、間もなく実母は亡くなり異母福井振媛に従い越前三国の
君を号した。
大々杼郷は継体天皇にはばかり杭俣郷に変わり現在は「抗全(クマタ)」と呼ばれている。
息長の姓はこの村を流れている息長川(現在は今川)に由来する。即ち神功皇后に冠せられた「息長帯足日売」とは無関係との記述ともとれる。
また、沙禰王の後を嗣いだのが長子息長真手王である。
その男「真戸王」に継体天皇の娘都夫良郎女が嫁いだがこの二人に子供が出来ない内に二人とも事故死した。
そこで真手王の娘「黒郎女」に都夫良郎女と同腹の阿豆王を継体天皇は婿養子として出した。
その間に産まれた娘が敏達天皇妃となり、忍坂彦人太子を産んだ「比呂姫」である。
これを信じるか無視するかは意見が分かれるところである。
筆者は記紀に記述のものよりこちらの方が真実臭いと感じている。
記紀には何処にも河内国に息長氏が居たなどの記述はない。
その後の情報によると讃野皇山には伝忍坂大中姫御陵があり。
中筋塚という伝沙禰王墓、広住塚という伝息長真若中姫墓、浮山にある伝杭俣長日子王埋葬地、ツブレ池は継体天皇皇女都夫良郎女溺死伝承地など息長氏関連人物の伝承遺跡が多数この喜連町周辺にある。
まんざら嘘ばかりとは思えないのである。
以上の新たな伝承情報と記紀記録、上宮記など古くからの記録を比較すると息長氏に関する多くの疑問が解けるような気がする。
イ)天御影神から伝わった製鉄技術が、息長水依姫を通じ彦坐王に嗣がれ、息長宿禰らの山代南部の息長氏に渡され、神功皇后を通じて河内中部の大々杼氏に神功皇后の義理弟「田別王」を婿養子に入れる形で継がれた。
そして息長氏を名乗り、その流れの娘等が応神天皇の妃となりその子が再び息長氏に婿入りした。
そこで産まれた長子が琵琶湖坂田郡に分家息長氏を興した。
本家息長氏を継いだのは末子「沙禰王」でその子が息長真手王である。この真手王の娘とされた「広姫」は実は分家息長氏出身の26継体天皇の実子「阿豆王」(記紀にも記録あり)と真手王の娘との間に出来た娘である。
これなら敏達天皇の后扱いだったことも頷けるし、その子「押坂彦人大兄」が本来の世継ぎの御子だったことも分かる。
また息長氏がその後真人になったのも充分理解できる。
但し、この一族は河内の豪族家を嗣いでいったので、中央にはその後も出なくて、系図も公知にならなかった訳である。この流れが息長真若麻呂、北村治良麻呂らに繋がる系図を「北村某家記」として残したものと判断する。
即ち息長氏が一本の糸に繋がったのである。分かる。
ロ)分家息長氏の息子彦主人に嫁いだ26継体天皇の実母は、本家息長氏の娘であった。
よって26継体天皇は、子供の頃河内にいたことになり、記紀に記事のある河内馬飼首荒籠と26継体天皇の交流記録も納得がいくことになる。
この辺りのことは「聖徳太子信仰の成立」田中嗣人 吉川弘文館という本に詳しく記されている。
ハ)記紀は何故河内息長氏のことを記録しなかったのか。
真手王の出自についても伏せたのか。謎は残るが。
ニ)26継体天皇の出現に、影で一番貢献したのは、福井振姫の里である三尾君の力は無視できない。
三尾君から2人も継体天皇の妃が出ている。
この関係からも実母の里のことを記録に残すことが憚れたのであろうか。何しろ日本武尊系の息長氏の系図は古事記にはあるが、日本書紀では全く触れられてないのである。
この辺りには何かがあると思わざるを得ない。
ホ)もっと憶測をすれば、息長氏の血族的繋がりからみれば、神功皇后と応神天皇がキーマンである。
彦坐王系と日本武尊系の交差点に応神天皇が存在している。
この人物が多くの学者が言っているように、九州方面から新たに出現した新王朝の王だとすると、この息長氏の存在は、おかしくなる。
勿論神功皇后の存在も???
26継体天皇の正当性を主張するために創作された氏族、息長氏ということも考えられないことはない。
応神天皇も神功皇后も彦坐王もか?それほどこの氏族の素性は謎に包まれている。
従来は滋賀県坂田郡が息長氏の本貫地と目されてきたが、ここにある息長氏の古墳は、発掘調査の結果6世紀以降のものであることが明らかになった。
息長氏の本貫地でないことは間違いない。
即ち26継体天皇出現後に勢力を得た氏族のものである。
現在は山城南部、京田辺市近辺が元々の息長氏の本拠地として本命視されている。
そこから河内中部に移りさらに滋賀県坂田郡にも勢力を持ったものと考えられる。
遺跡の発掘調査の結果が待たれる。これにより、神功皇后の実在性、応神天皇の実在性も確認の糸口が見つかる。
息長氏はいずれにせよ、大豪族ではない。実在したのも間違いない。
これからが謎解きがさらに面白くなるであろう。

まとめ)筆者の主張
・息長氏は他の古代豪族とは異なった成立過程を経て氏族として確立された。
・初期においては「息長」という一種の特殊な技術(例えば製鉄技術)を有する集団みたいなもののリーダーみたいなものに与えられた名跡みたいなものだった。
・この名跡を婚姻、血族内の色々な関係を活用しながら、山城南部に息長の名跡を世襲する氏族が現れた。
・しかし、その山城息長氏族も跡が続かず、河内中部にその名跡が移った。この流れの血脈と神功皇后からの山城南部息長氏の血脈が応神天皇を介して合流され、これから幾つかの血族関係のある息長氏なるものが確立されその一つから26継体天皇が輩出された。
・息長氏は天皇家を支える氏族で表舞台に出ることは26継体天皇以降もなかった。
・全体的には謎の多い氏族である。記紀は敢えてその実態をあからさまにしなかったようである。
彦坐王、神功皇后、応神天皇、天日矛、日本武尊など記紀記述で最も力を入れた人物の影に常に息長が見え隠れする。
何かあると思うがすっきりしない。
・息長氏の実態を解明すれば、応神天皇・神功皇后などの実存性の解明に繋がる。
5)参考文献
・「日本古代国家の成立と息長氏」大橋信弥 吉川弘文館(1987年)
・「日本古代国家の成立」直木孝次郎  講談社(2002年)