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26.出雲氏考U(土師氏・菅原氏・大江氏)
1)はじめに
前稿「出雲氏考T」に引き続き出雲氏から派生したとされる「土師(はじ)氏」、土師氏から派生したとされる「菅原氏」「大江(大枝)氏」および「秋篠氏」などについて述べたい。歴史上有名な人物はこの流れから多く輩出されている。これが出雲氏であるという
感覚は非常に薄い。
土師氏は天穂日命の裔「韓日狭命(からひさ・うましからひさ)」の子供で埴輪の発明者、
日本の相撲の元祖とも言われている「野見宿禰」を元祖とする一族である。勿論「神別氏族」である。殉死の代わりに埴輪を制作した功により、11垂仁天皇から「土師職」を仁徳天皇朝には土師連姓が与えられたとされている。古墳の造成、葬送儀礼にも代々携わった。とされている。
河内国志紀郡土師里が本貫地とされ、土師神社がある。
古墳の造成が盛んだった時代は、栄えたが、古墳時代が終わると活躍の場が縮小され、古い氏族ではあるが、朝廷での立場は目立つことはなかった。
ところが、50桓武天皇の誕生により、立場が一変した。桓武天皇の母親の母親(祖母)が山城国乙訓郡大枝郷を本拠とする土師氏の出身であった。この縁により土師氏総てに対し朝臣姓が賜姓されることになった。大枝郷の土師氏には「大枝氏」が、大和国添下郡菅原庄を本拠としていた土師氏には、「菅原氏」が、最後に平城京郊外の大和国添下郡秋篠郷に本拠を有していた土師氏には「秋篠氏」が与えられた。これ以降それぞれ中央政界で活躍の場が与えられたのである。特に「菅原氏」は、天神さんで有名な「菅原道真」の出現で藤原氏と肩を並べる氏族になった。しかし、道真の左遷により一時政界から遠ざかるが、間もなくカムバックし、「源平藤橘」に次ぐ6家の堂上貴族を発生させたのである。以後幕末まで続いた。
一方武士の一派も多数派生した。はっきりしないところもあるが、加賀の前田氏、伊予の
久松氏、各地の松平氏(徳川家康も関係してくる)、柳生氏など多くの大名家を輩出した。
また、「更級日記」で有名な「菅原孝標娘」もこの流れから出た。
「大江氏」は、当初「大枝氏」を称したが後に大江と改称した。菅原氏と同様に文章博士を歴代出した文章道の家として朝廷に仕えた。歴史上有名なのは「大江匡房」と鎌倉幕府の確立に貢献(公文所別当)した「大江広元」である。この流れから大名家「毛利氏」、「永井氏」などを輩出した。堂上貴族としては「北小路家」がある。女流歌人作家として有名な「和泉式部」も大江氏の出身である。
筆者の住む京都府長岡京市にあった「勝竜寺城」の江戸時代の城主で後に高槻藩の藩主になった「永井直清」が大江氏の出身であることはあまり知られていないことであるが、事実である。大江氏は山城国乙訓郡で発生した唯一の古代豪族であり、その末裔の一人が「細川ガラシャ」で有名な「勝竜寺城」(乙訓郡で最後まであった城)の最後の城主となったのも何かの因縁を感じる。
「秋篠氏」は、秋篠寺で有名な奈良にある土師氏の一派の一つであった。初代「秋篠安人」は参議にもなり娘を嵯峨天皇の妃にもしたが、その後の裔の動向がよく分からない氏族である。本稿では菅原氏・大江氏を中心に記述することにする。
 
2)土師氏人物列伝
・韓日狭命(からひさ・うましからひさ)
@父:阿多(諸説あり) 母:不明
A子供:野見宿禰 別名:甘美韓日狭命 ・可美乾飯根  
B日本書紀記事:崇神60年 「振根」の項参照
 
2−1)野見宿禰
@父:韓日狭命(諸説あり) 母:不明
A子供:阿多勝 ・高車氏祖三熊    
天穂日の14世孫と伝えられる。(続日本紀など)
13成務天皇の一人息子(和訶奴気王)を養子にしたという説あり。
・前稿「出雲国造氏」14)襲髄命を野見宿禰と同一人物という説もある。(出雲国造伝統略)これは一般的ではない。
B土師・菅原・大枝(大江)・秋篠氏らの祖。
C河内国志紀郡土師里が本拠地。
D紀記事:垂仁朝に埴輪を制作して殉死に替えた功により土師職に任じられた。
E11垂仁朝「当麻蹴速」と角力をとり、勝利。大和当麻の土地を与えられ朝廷に仕えた。
河内国を与えられたとの説もある。
F相撲の神 相撲神社、野見宿禰神社など。
G子孫である公家「五条家」は相撲司家となった。
 
2−2)阿多勝
2−3)磐毘
 
2−4)土師身臣
@父:磐毘
A子供:意富祖婆 石津氏祖布須古
B16仁徳朝に土師連姓を賜る。
 
2−5)意富祖婆
@父:土師身臣 母:不明
A子供:小鳥・凡河内氏祖水鶏
 
2−6)小鳥
・日本書紀記事:21雄略9年新羅軍将軍「紀小弓宿禰」現地で病没。大伴室屋が小鳥に命じて墓所を造った。
 
2−7)咋子
2−8)大保度
 
2−9)首
@父:大保度 母:不明
A子供:菅原氏祖八嶋・秋篠氏祖兄国・大枝氏祖菟・土師娑婆氏祖磐村
 
・猪手
@父:磐村 母:不明
A子供:不明
B蘇我三代に仕えた。皇族の葬礼に関与。山背大兄皇子事件で蘇我軍につき戦死。
 
2−10)八嶋
 
2−11)身
@父:八嶋 母:不明
A子供:根麿  馬手
B大化5年(649年)記事:蘇我倉山田麿自害を大伴狛に告げた。
 
・馬手
A子供:豊麿
B壬申の乱で天武側についた。38天智天皇陵墓造営、持統天皇葬送、文武天皇陵墓造営。
 
・豊麿
養老7年(723年)記事:従五位上、新羅大使。
 
2−12)根麿
・持統3年(689年)、文武3年(699年)記事あり。直広参。
 
2−13)甥
@父:根麿 母:不明
A子供:宇庭 大枝牛勝
B42文武天皇の大唐派遣の学問生となり、後に大宝律令制定に関与。
C従五位下。
 
・牛勝
上総介、大仏開眼供養奉仕。従五位下。
 
2−14)宇庭
@父:甥 母:不明
A子供:古人、道長、 (秋篠安人)
B阿波守、勘解由長官、従四位下。
 
・大枝道長
延暦10年(791年)従五位下。
 
・秋篠安人(752−821)
@父:首の5世孫土師千村(公卿補任では宇庭) 母:不明
A子供:高子(嵯峨天皇妃:子供:源清)京子・康子(嵯峨天皇妃)
B782年朝臣姓賜る。桓武天皇の母方の祖母の関係。
本拠地:大和国添下郡秋篠。土師氏関係地。秋篠寺。
C続日本紀の編纂に携わる。
D伊予親王事件関与。失脚。復活後815年従三位。参議。
E52嵯峨天皇時「弘仁格式」を手がけた。
Fこの流れは、この後詳細不明である。
 
3)菅原氏人物列伝
3−1)菅原古人(?−784?)
@父:土師宇庭 母:不明
A子供:清公 ら多数。
B781年朝廷より菅原姓を賜る。
C文人、文章博士、大学頭。従五位下、遠江介。
 
3−2)清公(770−842)
@父:古人 母:不明
A子供:是善・善主ら多数。第4子。
B文章博士、大学頭、式部大輔。
C従三位。
D804年遣唐使として、空海らと渡唐。
E818年以降、各種唐風の儀式などを導入。
女性の名前に「子」の字をつけることも建言。
F「菅家集」。「令義解」を清原夏野らと編纂。
 
・康子(覚寿尼)
@父:清公 母:不明
A道明寺住持。道真の叔母。
B道明寺は藤井寺市道明寺一丁目にある寺で、寺伝によれば6世紀末「土師連八嶋」が自宅の一角に土師寺を建てたことに始まる。これが後に菅原道真にちなんで道明寺と改称され、道真の叔母にあたる覚寿尼がこれを管理した。
道真と覚寿尼は非常に親交があり、道真は度々この寺を訪ねたとされている。
この寺の近くに道明寺天満宮もあり、元々の土師神社であったともされている。
 
・善主(803−852)
838年の遣唐使。
 
3−3)是善(812−880)
@父:清公 母:不明
A妻(ー872)伴氏女。子供:類子(光孝天皇妃:子供:源順子)道真・道仲・道善
B文人、文章博士、国司、
C872年参議。勘解由長官。55文徳天皇・56清和天皇侍読。従三位。
D文徳実録撰す。
 
3−4)道真(845−903)
@父:是善 母:道真母(伴氏女)少納言「伴善續(ばんよしずみ)」女
A正室:島田宣来子(島田忠臣女)。子供:高規他23名
B学者・漢詩人・政治家、文章博士、
C862年18才で文章生。867年文章得業生正6位下、下野権少掾。
D870年正6位下。874年従五位下民部少輔。877年式部少輔、文章博士。
E886年讃岐守、任国下向。888年阿衡の紛議に関与。890年帰京。
F59宇多天皇の信任を得る。891年蔵人頭。892年従四位下。893年参議式部大輔
G894年遣唐大使。建議して遣唐使制度廃止。(907年唐滅亡)
H895年従三位権中納言。長女衍子を宇多天皇の女御とした。
I897年娘清子を宇多天皇の子斎正親王の妻にした。
J897年宇多天皇譲位、60醍醐天皇即位、道真を重用することを薦めた。藤原時平と道真にのみ内覧を許した。正三位権大納言。中宮大夫。
K899年右大臣。
L900年三善清行が引退を勧める。道真拒否。
M901年従二位。斎正親王を皇位につけ醍醐天皇を退けることを謀ったと誣告され、罪を得て太宰権帥に左遷。宇多上皇は醍醐天皇に面会しようとしたがかなわなかった。
長男高視他子供4名流罪(昌泰の変)
N903年太宰府で没。安楽寺に葬られた。
O913年右大臣に復位。贈正二位。993年追贈正一位左大臣追贈太政大臣。
P類聚国史、日本三代実録など編。
 
・清子
59宇多天皇3男「斎世親王」妻。子供:源英明
 
(参考)斎世親王(886−927)
@父:宇多天皇 母:橘義子
A3男。妻:菅原道真女清子。別名:真寂法親王
B901年菅原道真が太宰府に左遷された原因となった人物。(昌泰の変)その後仁和寺に入り真寂法親王と名乗って僧となった。
 
・衍子
59宇多天皇妃。
 
・輔正(952−1009)
道真ー淳茂ー在躬の流れ。在躬の子供で後の戦国武将大名家前田家の祖とされている。異説も多い。
 
3−5)高規(たかみ)(875−913)
@父:道真 母:島田宣来子
A子供:文時・雅規    別名:高視
B893年文章得業生。その後大学頭。
C昌泰の変で父に連座。901年土佐介に左遷。5年後帰京。
D大学頭、従五位上となったが以後振るわず、38才で病没。
 
・文時(899−981)
@父:高規 母:不明
A子供:雅熙
B文章博士、式部大輔など歴任
C981年従三位。
D和漢朗詠集
 
 
3−6)雅現
3−7)資忠
 
・薫宜
@父:雅現(高規子説あり)母:不明
A美作官家・柳生氏・前田氏ら武家菅家祖。(諸説あり)
Bこの子孫は、岡山県勝央町付近に美作菅家7流発生。後醍醐天皇の隠岐島脱出にも関与。
 
3−8)孝標
@父:資忠 母:不明
A子供:定義   妻:藤原倫寧女
B上総・常陸国受領。
 
・孝標女(1008−1059以降?)
@父:孝標 母:藤原倫寧女
A子供:仲俊 夫;橘俊通
B「更級日記」作者。「浜松中納言物語」作者。
C母の伯母は「蜻蛉日記」の作者藤原道綱母である。
 
3−9)定義
@父:孝標 母:藤原倫寧女
A子供:高辻是綱・唐橋在良・輔方(これが本当の嫡流か)
 
3−10)是綱
正四位下、大学頭。堂上家「高辻家」の祖。この流れから堂上公家五条家・清岡家・東坊城家が発生。
 
・唐橋在良(1041−1121)
従四位上式部大輔。堂上家「唐橋家」の祖。
妻:源長親女
子供:清能(妻:高階為信女)唐橋家
為恒ーーー北野社別当家
 
・輔方
安楽寺別当家
 
3−11)宣忠
 
3−12)長守
高辻長守、従四位上大学頭。
 
3−13)為長(1158−1246)
@父:長守 母:不明
A子供:高辻長成 五条高長・公良・豊後長野氏祖泰親など   別名:高辻為長
B九条家の家司。1204年文章博士。土御門天皇読。
C順徳・後堀河・四条・後嵯峨天皇侍読。
D1211年従三位。200年ぶりの菅原氏からの公卿。
E1215年大蔵卿。
F1221年正三位1235年参議。1240年正二位。
G明治維新まで堂上家6家(高辻・五条・清岡・桑原・東坊城家など)を発生存続させた菅原氏中興の祖である。
さらに大名家、松平氏・久松氏派生、徳川家康にも関係してくる。
 
・高辻長成(1205−1281)
正二位参議。
 
・五条高長(1210−1284)
従二位式部大輔。堂上家「五条家」の祖。五条家からさらに東坊城家・清岡家・桑原家が派生した。明治まで続いた。
相撲の横綱免許の司家となった。
 
4)大江氏人物列伝
土師氏9代首
2−10)菟
2−11)土徳
 
2−12)富杼
@父:土徳 母:不明
A子供:祖麿 真妹
B百済救援軍に従ったが、唐軍の捕虜となった。その後唐軍の計画を帰国して朝廷に告げた。(紀)
 
2−13)祖麿
@父:富杼 母:不明
A子供:犬養・和麿
B天平8年(736年)外従五位下。
 
・真妹(?−?)
@父:富杼 母:不明
A夫:和乙継 子供:高野新笠(49光仁天皇妃:子供:50桓武天皇)
B延暦9年(790年)正一位追贈。大枝朝臣となった。(続紀)
 
・高野新笠(?−789)
@父:和乙継 母:土師真妹
A夫:49光仁天皇 子供:50桓武天皇・早良親王
B出自は、父の和乙継は、百済系渡来人。続日本紀延暦8年(789年)記事
「ーーー百済武寧王の子純陀太子より出ずーーー」とある。日本書紀には513年百済太子淳陀死去とある。天智天皇以降に日本に渡来した所謂「百済氏」とは異なる。
C高野は現在の奈良市高の原に比定されている。この近傍に土師氏の根拠地である、菅原伏見、秋篠がある。
D山城国乙訓郡大枝郷が母の土師氏の出身地である。この縁で新笠の御陵は大枝にある。
E京都「平野神社」奈良県北葛城郡王寺町「久度神社」(この近くに乙継の墓がある。)
などが関係している。
 
2−14)和麿
@父:祖麿 母:不明
A子供:諸上   この人物がない系図もある。
B宝亀5年(774年)記事:外従五位下、大和介。
C道鏡の由義宮塔造営。47淳仁天皇を淡路島に改葬。
 
<大江(大枝)氏>
4−1)大枝諸上(?−?)
@父:土師和麿 母:不明
A子供:本主・乙主・乙枝  別名:諸士
B790年?桓武天皇から土師姓から大枝朝臣姓を賜った。
C本拠地は山背国乙訓郡大枝郷の土師氏の領地。
D宝亀3年(772年)造東大寺司史生。正6位上。
 
4−2)本主
@父:諸上 母:不明
A子供:音人 音峰
B備中守
C父が阿保親王である。との説あり。
年齢的に無理があると思う。
 
4−3)大江音人(811−877)
@父:阿保親王(諸説あり)  母:中臣氏女?(諸説あり)
A子供:千里・千古・玉淵ら多数。
B大枝本主の養子となる。本主の嫡男説(公卿補任)もある。この時代に大枝姓から大江姓に変更。
・本主が阿保親王の子供であるという説。(尊卑分脈)
・音人は本主に嫁いできた中臣氏女が阿保親王の側室であり、そこに産まれた子供であり
実は阿保親王の子供説。(皇胤紹運録)
・上記総て作り話。本主も音人も土師氏の出。(太田 亮)
など。
C菅原清公から文章学を学ぶ。菅原是善と「貞観格式」撰上。文徳実録・郡籍要覧・弘帝範などの編纂。
D864年参議。874年従三位。
 
・千里(?−?)
@父:音人 母:不明
A長男、子供:維繁
B学者・歌人。中古36歌仙。小倉百人一首。
C菅原是善らと「貞観格式」撰上。
 
(参考)阿保親王(792−842)
@父:51平城天皇 母:葛井道依女藤子
A第1皇子。妃:伊都内親王<桓武天皇 子供:在原業平・業平ら
B810年「薬子の乱」に連座。太宰権帥に左遷。その後許され上総国、上野国太守。
C840年橘逸勢らの「承和の変」には与せず橘嘉智子に密書を送った。
 
・玉淵
丹後守
 
・朝綱(866−958)
@父:玉淵 母:不明
A子供:清胤・澄江
B公卿、学者、書家。
C938年正五位下文章博士。
D953年参議。 正四位下、備前守。小野道風と並ぶ技量をもった書家。
 
・清胤(943−995)
天台宗僧侶・歌人。
 
4−4)千古(ちふる)(866−924)
@父:音人 母:不明
A次男、子供:維時・維明
B漢学で醍醐天皇侍読。 歌人。
 
・維明
・以言(955−1010)
 
4−5)維時(888−963)
@父:千古 母:不明
A三男。子供:重光・斎光
B学者、60醍醐天皇・61朱雀天皇・62村上天皇の侍読。文章博士。大学頭。
C遣唐使。
D950年参議。
E960年中納言参議。
 
・斎光(934−987)
 
・為基
妻:高階成忠女
 
・寂照(962?ー1034)
@父:斎光 母:不明
A俗名:定基、別名:三河入道、三河聖、円通大師。
B図書頭、三河守歴任後、988年出家。源信に天台教学を学び、1003年に渡り、円通大師の号を賜った。帰国することなく、杭州で没した。
 
4−6)重光(ー1010)
 
・雅致
越前守
 
・和泉式部(978?−?)
@父:雅致 母:不明
A夫:和泉守橘道貞、為尊親王<冷泉天皇>敦道親王 藤原保昌、子供:小式部内侍(歌人)永覚
B夫の任国と父の官名から「和泉式部」という女房名がついた。王朝歌人。
C1008年一条天皇中宮藤原影子女房。
D恋愛遍歴多い。「浮かれた女」
E「和泉式部日記」作者?
F岐阜県可児郡御嵩町に廟所とされる碑あり。墓は兵庫県伊丹市および京都府木津町にある。
 
4−7)匡衡(まさひら)(952−1012)
@父:重光 母:不明
A妻:赤染衛門 子供:挙周・江侍従ら
B儒者・歌人。中古36歌仙の一人。東宮学士。文章博士。
C正四位下。尾張守。藤原道長、行成、公任とも交流あり。
 
(参考)赤染衛門(956?−1041)
@父:赤染時用(実は平兼盛)母:不明
A子供:挙周・江侍従
B女流歌人・中古36歌仙
C藤原道長の正妻「源倫子」とその娘「上東門院影子」に仕え、和泉式部と並び称された
歌人。
D栄華物語作者。
 
4−8)挙周(たかちか)(−1046)
@父:匡衡 母:赤染衛門(歌人)
A子供:成衡
B文章博士。
C母の力により道長を動かし、和泉国司となった。今昔物語集、十訓抄などに記事。
 
4−9)成衡(?−?)
@父:挙周 母:不明
A妻:橘孝親女 子供:匡房・能高
B大学頭
 
4−10)匡房(まさふさ)(1041−1111)
@父:成衡 母:橘孝親女
A子供:隆兼・雅致・維順・有元
B東宮学士・勘解由使長官 平安時代有数の碩学。歌人。
C1088年参議。
D71後三条天皇、72白河上皇の信任。関白二条師通の信任。
E1094年従二位権中納言。
F1098年太宰府に赴任。
G1011年正二位大蔵卿。
H古今著聞集に八幡太郎源義家の話あり。「器量は賢き武者なれども、なお軍の道知らず」と匡房がいった。これに義家いたく感じ弟子となった。云々。
 
 
4−11)維順
 
4−12)維光(これみつ)(?−?)
@父:維順  母:不明
A子供:匡範(北小路家)・時房ら
B平安時代貴族。学問の大家。官位:式部大輔。
 
・匡範(1140−1203)
@父:維光 母:不明
A子供:周房
B堂上家「北小路家」の祖。大江氏としての本流か?
 
4−13)広元(1148−1225)
@父:維光(藤原光能説)? 母:不明
A子供:親広・長井時広・那波宗光・毛利季光・海東忠成など
B鎌倉幕府初代別当。
C実の父は維光ではないらしく藤原長家流光能(右京大夫)の子供説強い。母が再婚して中原広季のもとで養育された。中原広元と称した。大江維光の養子となった。
D異母兄に中原親能がいた。親能は源頼朝と親交があり、その縁で1184年頼朝の家臣となった。公文所別当となった。1185年の守護・地頭制度も広元の策である。
E1199年頼朝死後以降北条義時・政子と協調。承久の乱の時、長男大江親広が官軍についたが、広元は幕府軍につき活躍。
F1214年正四位下。陸奥守。
G1247年宝治の合戦で四男毛利季光(妻が三浦義村女)が三浦泰村側につき、一族ほとんど誅殺。この時生き残った一族が各地の大名になったとされる。
H「広島」の名は、子孫である毛利輝元が1589年広島城築城の時広元にちなんで命名したとの説あり。
 
・長井時広(ー1241)
 
・毛利季光(1202−1247)
@父:広元 母:不明
A妻:三浦義村女、子供:大名「毛利氏」の祖。
B相模国毛利荘の領主。妻の縁で1247年の北条と三浦氏の最後の決戦となった「宝治の合戦」で三浦泰村側に付き敗北。誅殺された。この時越後にいた息子経光のみ生き残りこの流れから戦国武将「毛利元就」が出る。
 
・海東忠成
尾張熱田神宮の養子となる。この末裔から武家、三河酒井氏が出る。
 
・大江宗光
この流れから江戸時代の勝竜寺城城主「永井直清」が出る。後の高槻藩主。
 
4−14)親広(ー1242)
@父:広元 母:源仁綱女
A妻:北条義時女  別名:親房
B源通親の猶子となったが1216年大江氏に復姓。
C源実朝に寺社奉行として重用された。1219年実朝が暗殺され、出家。1221年承久の乱では、官軍に与し、近江国で幕府軍と戦い敗れ、京都に戻り行方不明。出羽国隠棲。
D武家大江氏の本流として子孫繁栄。
 
(参考)中原親能(1143−1208)
@父:藤原光能 母:不明
A子供:養子:大友能直  妻:大友経家女説あり。
B鎌倉幕府文官御家人。公文所寄人、公事奉行人。京都守護・明法博士。
C正五位下。
D出自は非常に謎多い。広元と異母兄弟説強い。中原氏に養子に入った。
Eどの段階で源頼朝と親交が出来たかは不明であるが頼朝挙兵直後から頼朝に従い重用されていたらしい。この縁で学問のある大江広元が幕府の重要な役所になったと言われている。 親能自身はあまり学はなかった模様。広元の幕府参加には欠かせない人物である。
F波多野経家の関係で大友能直を養子に迎えこれが守護大名大友氏の祖となった。
 
5)土師氏・菅原氏・大江氏系図
・土師氏概略系図
・菅原氏詳細系図
・(参考系図)宇多天皇関連詳細系図
・大江氏詳細系図
・大江広元詳細系図
・(参考系図)大名家永井氏系図
いずれも公知系図の組み合わせであるが、筆者創作系図である。異系図も多数ある。
6)出雲氏U(土師氏・菅原氏・大江氏)系図解説・論考
 前稿(出雲氏考T)で出雲氏の嫡流である出雲臣氏関連について述べた。本稿では出雲氏から派生した土師氏および土師氏から分派した菅原氏・大江氏などについて解説したい。
 
6−1)<土師氏>  (土師氏概略系図参照)
元来土師氏は出雲氏元祖の「天穂日命」の14世孫である野見宿禰を元祖としてきた連姓氏族である(当初は土師臣姓で臣姓氏族であったという説もある)。勿論神別氏族である。これが出雲氏本流のどこから分かれたかに関しては、諸説ある。
筆者は「飯入根」の兄弟である「甘美狭」の子供であるとする系図を採用したが、飯入根の子供である「氏祖」の子供「襲髄」を野見宿禰と同一人物とする説などもありはっきりしない。いずれにせよ記紀でいう11垂仁天皇時代の人物とされている。埴輪を古墳に置くことを垂仁天皇に提案し、殉死の風習を無くしたとされ、また相撲の最初の記述がある伝説上の人物である。この縁でこの一族は、古墳を築造する専門の氏族と認定されたのである。
16仁徳天皇の時に土師連姓を賜ったとされている。この件に関し、古来土師氏は出雲氏と血族関係があったことに疑問視する専門家も多い。本来は、古墳築造、土師器生産などの新技術を有する渡来系の氏族ではないかとする説がその中心である。新羅臭の強い氏族とされてきた。これがどこかの段階で出雲氏系図に組み込まれたのである。と主張されている。記紀にも突如として野見宿禰が登場するのである。それ以後もこの氏族は出雲の地に存在していた形跡が全くない。野見宿禰の墓は播磨国にあるともされている。勿論政治的な事績記事も殆どないが、記紀にはちょくちょく顔を出す氏族であった。
古墳時代にはそれなりに活躍の場があったものと推定されるが、墳墓が簡素化された時代になり、その活躍の場は限られたものになった。672年「壬申の乱」では40天武天皇側に属したようである。(近江側に属した者もいたらしいが)本拠地は、河内国志紀郡土師里であったようだ。
筆者列伝13代「土師甥」が大宝律令制定に関与し従五位下に叙せられたという記事がある。筆者の調べた範囲で土師氏として最高の官位についたのは、奈良時代の人物で筆者列伝では14代「土師宇庭」で阿波守、勘解由長官従四位下である。宇庭は「甥」の子供で後の菅原氏の祖である。
土師氏は筆者列伝9代「土師首」の子供の時4流(腹)に分かれた。とされている。(諸説あり)
・大和国添下郡菅原庄の土師氏
・大和国添下郡秋篠の土師氏
・山城国乙訓郡大枝郷の土師氏(毛受腹)和泉国百舌鳥から移った。
・河内国志紀郡土師里の土師氏?
これらの土師氏は、奈良時代には「土師」という姓を他の姓に替えてくれるよう朝廷に申し出ていた。
ところが49代光仁天皇が没し、50桓武天皇が即位した781年に先ず菅原姓が、782年には秋篠姓、790年には大枝姓が上記4腹のそれぞれの土師氏にその住んでいた土地の名前にちなんで与えられた。さらに朝臣姓が賜姓されたのである。河内国の土師氏だけはよく分からない。土師娑婆氏かもしれない。
この最大の理由は、桓武天皇の母親の出自が土師氏に関係していたからだとされている。桓武天皇の母親「高野新笠」は、父親が渡来系百済氏の末裔である「和乙継」であり、母親は山城国乙訓郡大枝郷に住んでいた、土師氏の娘「土師真妹」であった。
桓武天皇の父は49光仁天皇である。光仁天皇は天智天皇系の人物で本来なら天武天皇系が朝廷を牛耳っていた奈良時代において、天皇になる可能性は殆どなかった。
これが藤原氏内部の権力闘争・天皇家内部の世継ぎ争いなど複雑に絡んだ結果、突如として60才を過ぎた白壁王に天皇の座が廻ってきたのである。この間の詳しい事情については、既稿「古代天皇家概論U」に記したのでそれを参考にして頂きたい。
この白壁王(後の49光仁天皇)の妃の一人に「和新笠」がいた訳である。いたって卑な女性として扱われていたのである。
光仁天皇の皇后は井上内親王という申し分のない女性がいた。その間には他戸親王という男児もおり、新笠の子供「山部皇子」に天皇になる目は無かったのである。それが突如として朝廷内の大変動が起こり山部皇子が皇太子となり、ついに50桓武天皇になったのである。
これは土師氏にとっても思ってもいなかった幸運が廻ってきたのである。781年から790年にかけて土師一族に次々に朝臣姓と新姓が与えられたのである。同時に朝廷内の立場もがらりと変わったのである。高野新笠ー土師真妹の女性の威力である。
815年秋篠安人従三位・参議。
818年以降に菅原清公従三位・参議。
864年大江音人参議874年従三位
といった具合に以前の土師氏では夢の又夢の位に次々とのぼり、かつ天皇妃を出す氏族になったのである。歴史上このような例は他にない。極論すれば一人の女性の力により古代豪族ではあったが、下級官吏がせいぜいであった氏族が、一族こぞって公卿の地位にまで達したのであるから、それも単に一人だけではない。秋篠氏は安人しか記録にない。しかも系図によっては安人を土師宇庭の子供であるとの説もある。筆者は「千村」子供説を採用した。菅原・大枝(大江)氏はこれ以降日本の歴史を作る氏族になったのである。
 
6−2)<菅原氏> (菅原氏詳細系図参照)
  東風吹かば 臭いおこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ  (諸説あり)
                        菅原道真
菅原氏の初代は何人もいる。しかし「菅原古人」の流れが後の菅原氏の本流となった。
この時から菅原氏は学問・文章を得意とする一族である。元来の本拠地は上述したように
大和国添下郡菅原庄である。現在の奈良市菅原町である。
菅原道真はあまりに有名であるので詳しくは述べないが、突如として藤原氏中心の朝廷に頭角を現し、右大臣にまでなった人物である。という印象を一般的に持たれているが、実は筆者人物列伝でも明らかなように、父「是善」祖父「清公」も既に朝廷内で従三位の公卿の地位を得ていたのである。そのお陰で29才には公家である従五位下となっている。ただ単に学問に優れ頭脳明晰だったから偉くなったのではない。当時の朝廷は、一に血筋、二に父親の位、三・四・色々有った上に本人の人物・能力が問題にされるのである。
道真に関しては、その生まれに関し諸説ある。それらは余り根拠もないので省略する。
59宇多天皇に大変信頼され、宇多の子供60醍醐天皇の時右大臣にまでなった。藤原氏以外で大臣になることは当時希有であった。その後左大臣「藤原時平」との政争に敗れ太宰府に左遷された話は余りに有名である。この背景およびその後を参考系図を基に解説したい。(宇多天皇関連詳細系図参照)
@宇多天皇は、系図からも分かるように、当時では珍しく藤原氏の血脈を直接受けていない天皇である。
A当時、藤原氏の本流は、北家冬嗣流であり、「良房」は既に56清和天皇外戚となり摂政として、「基経」は57陽成天皇の摂政・58光孝天皇の関白(日本で最初)になり政治を直接牛耳ることを開始していた。
B天皇の外戚になることが、政治の実権を握る最大の手段となっていた。
C宇多天皇は、その点比較的に藤原氏からの直接的圧迫はなかった。但し自分を天皇にしてくれたのは藤原基経だったので、その恩義はあった。
Dそこで有能であった非藤原氏である「菅原道真」を重用出来たのである。
E宇多天皇の妃の一人に道真の娘「衍子」を入れ、橘氏娘義子との間に出来た斎世親王の妃に同じく道真の娘「清子」を入れたのもその表れである。
Fそして宇多天皇は譲位して息子の60醍醐天皇が誕生した。宇多天皇からの進言もあり899年右大臣に道真は就いた。道真54才の時である。この時左大臣になったのが、北家主流基経の息子である「時平」である。時平28才である。
G醍醐天皇には1才年下の異母弟である「斎世親王」がいた。この親王の妃が道真の娘清子である。
H平安時代に入って藤原氏は、次々と藤原氏に対抗する古代豪族出身の氏族を色々な名目で潰してきた。「823年承和の変」「866年応天門の乱」「887年阿衡の変」など。
Iここにきて、菅原氏の台頭は、藤原氏から見れば許されない事態である。菅原氏がこれ以上天皇家に近づくことは、絶対に食い止めなければならない。と考えたのは当たり前である。それほど菅原氏は勢力を伸ばしたと思われる。
Jそこで藤原氏側(左大臣時平)のとった作戦が、醍醐天皇に対し菅原道真が、譲位をせまり娘婿である斎世親王を次ぎの天皇にしようとしている趣旨の讒言をしたのである。
K 醍醐天皇はこれを真に受けて、901年正月に道真の左遷を命じたのである。宇多上皇がそれを止めさせるべく動いたが時既に遅かったとされる。
L901年に時平は自分の妹である「穏子」を醍醐天皇の女御として入内させた。
M斎世親王は、無実の証明として仁和寺に入り「真寂法親王」と名前を変えて僧になった。
N穏子の子供は61朱雀天皇・62村上天皇となり、藤原氏独走態勢に入っていくのである。
O時平は909年に他界し、藤原氏本流は弟「忠平」の流れに移る。そして摂関政治の最盛期である藤原道長へと繋がった。
Pこの間に朝廷近辺で各種異変(時平の突然死も含め)が起こり、これが道真の怨霊だとされ、道真の名誉復権と怨霊を鎮めるための神社が建立された。これが「北野天満宮」である。
Q北野天満宮の祭神は「菅原道真」である。その神名は「天満大自在天神」である。ここから道真のこと及び天満宮を「天神さん」と呼ぶようになったのである。
R元々は無実の罪・恨みを晴らして下さる神であったが江戸時代頃から、学問の神様になったとの説あり。
 以上が道真関係の話である。この後菅原氏は間もなく復権し、道真の孫の「文時」は従三位の公卿になっている。本流では歌人である藤原倫寧女を妻とした「菅原孝標」、その娘で「更級日記」の著者「孝標女」などが輩出される。
その後しばらく歴史上からは消えるが、鎌倉時代になって筆者列伝13代「菅原為長」の時、約200年ぶりに従三位の公卿の位についた。この人物が菅原氏中興の祖となり、これ以降「高辻家」など6家が堂上家として永続し、「源平藤橘」に次ぐ名家として栄えたのである。この中に野見宿禰の言い伝えを引いて相撲の横綱免許の元締めとなる「五条家」がある。
これら総てが「高野新笠」の遺徳といえよう。ここで菅原氏から分派した人物についても簡単に記したい。
清公の子供「善主」の流れに「正好」という人物がいる。これが前述した「武藏氏」のなかの氷川神社の「武藏武芝」の娘と結婚して「正範」を産み、以後この神社の社務家となった。ここに古い出雲氏の縁が繋がっていたのである。
菅原道真には23名もの子供が記録されている。実際はもっといたとされる。この中の本流については上述したが、本流から戦国大名久松家が発生した。これが松平家となり「徳川家康」に繋がる系図がある。ここらあたりになると一寸怪しくなる。
本流ではなく支流から大名「柳生家」が発生。また加賀百万石前田家も菅原氏の末裔とされているが、これには諸説ある。また南北朝時代に後醍醐天皇方について活躍した、美作菅家党という一族も道真の末裔とされている。
以上が菅原氏の概略である。
 
6−3)<大江(大枝)氏>    (大江氏詳細系図参照)
 大江氏は元々「土師諸上」が790年「大枝」の姓を賜ったことに始まる。本拠地は山背国乙訓郡大枝郷である。現在の京都市西京区大枝である。大枝柿の名産地である。筆者の住む長岡京市の隣である。昔は長岡京市も大枝も共に乙訓郡であったので同じ郡内である。
ここに住んでいた土師氏は元々和泉国の百舌鳥にいたものの一部がこちらに移ったものとされている。乙訓郡出身の唯一の古代豪族といえる。これが3代「音人」の時「大江」に改姓されたのである。
本論に入る前にもう少し「大枝」について述べておきたい。
前述したように、この地こそ、50桓武天皇の祖母「土師真妹」の住んでいた所である。真妹は「土師富杼」の娘とされている。この人物は、天智朝に百済救援軍に従ったと日本書紀に記されている。それ以外にはよく分からない。その娘が川向こうの河内国交野付近にいた(諸説あり)渡来系の和乙継(後の高野乙継)と結ばれ「新笠」が生まれた。兄に「祖麿」がいた。
その頃の女姓は、結婚後も自分の家にいたので、新笠は大枝で生まれた可能性が高い。さらに新笠は若い頃の「白壁王」に何かの縁でこの大枝の地で出会いがあったとされる。よって桓武天皇もこの大枝の地で生まれ育った可能性があるともされている。
桓武天皇が何故、奈良の都を捨て、山背国乙訓郡長岡の地に新都「長岡京」を造ったのかの理由の一つに、この生まれ故郷説がある。ちなみに高野新笠の御陵はこの大枝の「沓掛」と言う所にある。
この辺りの推論を村尾次郎が「桓武天皇」吉川弘文館(1996年)で詳しく記しており、現在もこの説は無視出来ないとする支持者がある。勿論桓武天皇は奈良付近で誕生したとする説もある。かほどにこの大枝という土地は筆者にとって身近な存在である。京都の西の端の集落である。真妹の兄もその子供も外従五位下という位を有し、奈良の朝廷に仕えていた形跡がある。大枝氏の初代諸上も奈良にいたらしく正6位上になっている。しかし、まともな貴族とは言えない位である。これが3代大枝音人改姓「大江音人」になってから歴史上にはっきりと登場する。平安時代に入ってからである。
大江音人の父は、大枝本主であるが、この人物はよく分からない。一説では阿保親王の落胤であるという。また別の説では阿保親王の側室であった中臣氏女が本主の嫁となり生まれた子供が音人で、これが阿保親王の落胤だという説もある。筆者人物列伝は、これに従ったが、史実かどうかはっきりしない。太田 亮はいずれの説も作り事である。としている。音人は811年生まれである。土師氏初代野見宿禰から直系で17代になる。野見宿禰を垂仁天皇朝の人物とすると320年頃と仮定すると一代約29才で継いで来たことになる。これは不合理ではないが一寸長すぎる感はある。
大江氏も菅原氏と同じく学問・文章を得意とする一族となった。菅原氏とは非常に密な関係があった。音人も864年には参議、874年には従三位の公卿となり、道真の父是善より早く公卿になったのである。
それ以降大江氏からは多くの政治家・歌人・文化人が輩出された。女流作家として有名な「和泉式部」もその一人である。赤染衛門も関係者の一人である。
平安中期平安時代有数の碩学と言われた大江匡房という人物が現れる。この人物は八幡太郎源義家にも師と思われた程の人物である。大江氏としては最高位の正二位大蔵卿となりその後の大江氏の繁栄の祖となった。その曾孫に相当する人物が鎌倉幕府の基礎を造った大江広元である。父「維光」の嫡男として匡範がおり朝廷に仕えこの流れから堂上家「北小路家」が発生している。大江氏としては唯一の堂上家であり、こちらが本来の大江氏の本流であろう。菅原氏とはかなり見劣りがする扱いである。
一方武家大江氏祖呼ばれる大江広元 について、述べたい。
「広元」の出自に関しては古来諸説ある。
・大江維光の実の子供で中原広季の養子となったが後に大江姓に復姓した。
・実の父は藤原長家流の光能の子供であり、母が中原広季と再婚したので広季の養子となり、さらに藤原光能の別の妻が大江維光の娘であった関係で維光の養子となり大江姓を名乗った。(筆者参考系図大江広元詳細系図参照)
・大江維光の娘と藤原光能との間に生まれ子供である。この母が中原広季と再婚したので中原広元と名乗ったが後に大江維光の養子になり大江氏となった。
など謎である。いずれにせよ腹違いの義兄弟に中原親能がいたのである。
この人物が源頼朝の挙兵以来頼朝に従っており、この人物の紹介により京都の公家出身の文筆才能ある人物として、鎌倉幕府の主に事務方の幕僚として、幕府に迎え入れられたとされている。鎌倉幕府の礎を築いた人物である。これ以降この流れは武士として発展していくのである。
子供に「毛利時広」という人物がいる。相模国毛利庄を領地としたのでこの姓がついた初代である。その妻が三浦一族の首長であり、鎌倉幕府の重臣であった「三浦義村」の娘である。北条氏が幕府の実権を握り目障りのなった三浦氏を滅ぼすために行った「宝治の合戦」(1247年)では、三浦氏に関係する一族は皆三浦氏に付き戦った。毛利時広もその一人であった。この戦に敗れ「時広」の子供も越後に赴任していた「経光」を除いて総て自害したとされる。この経光だけは助かりその子孫から戦国大名「毛利元就」が出たのである。この流れから戦国大名吉川氏・小早川氏が生まれた。
余談ではあるが、筆者のご先祖もこの宝治の合戦で三浦軍についた武人であったと旦那寺(三浦氏一族の寺)にある古い過去帳に記されてあったのには驚いた。
この戦に敗れた三浦軍の武将は約五百数十名同時自害するという壮絶なものであったとされている。(上記寺にはこの500名余りの武人の名前と戒名、三浦氏との関係が記された古文書も残されている)
大江広元の子供に「宗光」という人物がいる。(参考系図:大名家永井氏系図参照)これは那波氏の養子となるが、大江姓に復姓してその末裔の娘が、源頼朝の父「義朝」を殺害した長田忠致(主君暗殺者とされている)の兄弟「親致」の末裔「広常」と結婚し、その子供の流れに「徳川家康」の幕臣であった「長田直勝」という人物がいた。家康は主君暗殺につながる「長田」という姓を嫌い、長田直勝を元々は女方の姓である大江姓に戻した。そして永井姓を名乗らせた。即ち大江氏・永井直勝としたのである。これが長岡京市にあった勝竜寺城の城主となった「永井直清」の父である。
直勝は、勝竜寺城の元城主「細川幽斎」とも親交があったようである。
勝竜寺城は、細川ガラシャとして有名な明智光秀の娘「お玉」が細川幽斎の嫡男「忠興」とが結婚したした場所でもある。
息子「直清」は1633年勝竜寺城城主(2万石)となり1649年高槻藩主(3.6万石)となり、幕末まで高槻藩は永井氏であった。
一方勝竜寺城は直清が高槻に移ってから後は、廃城となった。乙訓郡にあった最後の城であった。現在勝竜寺城公園として残されている。
古代豪族大江氏が発生したのが「山城国乙訓郡大枝郷」である。そしてその約800年後に、その末裔の大名である大江氏「永井直清」が最初に城主になったのが「山城国乙訓郡勝竜寺村」にあった勝竜寺城だったのである。乙訓郡内にもかなりの知行地を持ったとされる。
その間の距離は数Kmである。
何かの縁を感じざるをえない。
大江広元の嫡男「親広」の流れが武家大江氏の本流と思われるが、子孫は繁栄したようだが特記すべき事項がないので省略する。
 
以上で出雲氏の派生氏族である土師氏・菅原氏・大江氏について概観した。
再度述べるが、これだけ記すべき内容のある大氏族となりえたのも「高野新笠」という全くの偶然の女性の縁があったればこそと思わざるをえない。その原点は山城国乙訓郡なのである。菅原道真の領地が乙訓郡開田村にあったとも言い伝えられている。
その縁で長岡天満宮が現在の長岡京市にあるのである。
 
7)まとめ
@土師氏は、出雲氏本流出雲臣氏と後に呼ばれるようになる氏族からの派生氏族といわれているが、史実として血脈的に出雲臣氏と繋がっているかどうかには疑問も残されている。
A野見宿禰を元祖とし、記紀には時々土師氏に関連するものもあるが、奈良時代末期までこれといった事績はない。
B50代桓武天皇の時代に入り、急激に一族の活躍が始まる。これは桓武天皇の母親「高野新笠」が山城国乙訓郡大枝郷に本拠をおいた土師氏に関係していたことに端を発したものである。
C桓武天皇が、この「大枝郷」あたりで幼年期を過ごした可能性があることが指摘されている。
長岡京遷都の一つの理由とされている。筆者もこの可能性は十分あると判断している。
C土師氏から、秋篠氏・菅原氏・大江氏が分派した。これらの中の有能な人材が主に学問・文章を得意として朝廷内で認められそれぞれ公卿を出す氏族になった。
D特に菅原道真は、59宇多天皇に寵愛され60醍醐天皇の時、右大臣にまでなった。娘は天皇妃・親王妃となり、藤原氏の勢力に迫る勢いになった。
E遂に藤原氏の逆鱗にふれ、「道真」は太宰府に左遷された。これにより一時菅原氏の勢力は低下するが、間もなく復権し、鎌倉時代以降「源平藤橘」に次ぐ公家社会の地位を保った。
F一方、大江氏は、菅原氏とは一寸遅れるが朝廷内でその実力が認められ、匡衡・匡房などの学者を輩出、和泉式部のような女流作家も輩出した。
Gさらに鎌倉幕府の創立に公家として貢献した大江広元は、その後「毛利氏・永井氏」などの大名家を輩出する祖となった。
H鎌倉時代以降では、菅原氏も大江氏も武家に転じる者も多く日本の各地で活躍した。
I山城国乙訓郡出身の古代豪族は、大江氏だけである。乙訓郡最後の城である勝竜寺城の最後の城主である「永井直清」が、この大江氏の末裔の一人であることは、余り知られていない。               (2007-3-15 脱稿)
 
8)参考文献
・桓武天皇 村尾次郎 吉川弘文館(1996年)
・桓武天皇 井上満郎 ミネルヴァ書房(2006年)
・大江匡房 川口久雄 吉川弘文館(1995年)
・菅原道真 坂本太郎 吉川弘文館 (1989年)
・大江広元 上杉和彦 吉川弘文館(2005年)
・「姓氏家系大辞典」太田 亮 角川書店
 
         その他多数。