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45.「松野連氏」考(付:日本人のルーツ論2)
1.はじめに
 古代豪族「松野連氏」を知っている人は相当な古代史通である。通常の古代史の書物には先ず記載がない一族である。勿論記紀にも先代旧事本紀・古語拾遺などの古文献にもその名は記載されていないのである。ところが新撰姓氏録には右京諸蕃として記載されているのである。 「出自呉王夫差也」とだけ記事がある一族である。
筆者は本古代豪族シリーズで色々な古代豪族を調査・執筆してきた。併せて「日本人のルーツ」についても、現在筆者が理解した範囲で述べてきた。記紀及び新撰姓氏録に記載されている皇別氏族、神別氏族は総てその出自を辿れば、神話の世界の人物になっているのである。ところが諸蕃氏族(蕃別氏族)の出自は渡来人なので神ではなく中国や朝鮮半島などの王族の名前などに辿り着くのである。例えば太秦氏なら秦始皇帝、百済王氏なら百済国都慕王、坂上氏なら後漢霊帝というようにである。
ところが蕃別氏族の場合、日本列島への渡来時期がその殆ど総てが古墳時代以降だと認識されている氏族ばかりである。紀元前または弥生時代に多くの渡来人が日本列島に渡来したこと、弥生文化をもたらしたのは中国・朝鮮半島から渡来人がもたらしたものであることは古代の日本人も知っていたはずである。勿論弥生とか縄文という言葉は当時無かったものである。
一方神別氏族は天神系と天孫系に区別され、さらに天神系は天神と地祇に区別されていたのである。一般的には地祇系氏族はニニギの尊が天孫降臨する以前からこの日本列島に住んでいた神々にその先祖を有する氏族であり、天神系氏族はニニギ尊に従って日本列島に天降った神々の子孫ということになっているのである。
これを言葉通りに現代流に解釈すると「地祇系神々」は、①縄文人を祖先に持って約1万年以上前からこの日本列島に住んでいた氏族の末裔の神。②中国大陸・朝鮮半島からニニギの尊が降臨する以前に日本列島に渡来して列島に住んでいる弥生文化を有している氏族の末裔の神。③①②が混血して誕生した新氏族の末裔の神のいずれかであるはずである。「天神系神々」はニニギの尊に従って天降った神々。これにはこの神々の子孫と上記①②③などとの混血した氏族が新たに祀ったであろう神々も含まれるであろう。
とすると、新撰姓氏録上では、この理屈通りではない分類がされているのではないかと思われるのである。地祇系氏族が著しく少ないのである。
一方筆者は、本シリーズの中で既に「倭」「倭人」「倭国」「日本」「ヤマト」などについて論述してきた。
しかし魏志倭人伝に記されている「邪馬台国」「卑弥呼」などという言葉についてはアマチュアである筆者が云々する範疇を越えて難解な歴史事項なので敢えて論考を避けてきたのである。
ところが本稿の古代豪族「松野連氏」を述べる場合、以上のことが総て関係してくるのである。日本古代史の謎部分をどう考えるかが問われる内容を含んでいるのである。
さらに最近は、遺伝子分野での日本人のDNA解析も進んでいるので、それも大いに参考にして新たに日本人のルーツ論2を作成し本稿を執筆したのである。
 
 
2.人物列伝
古代豪族「松野連氏」を理解するには、先ず中国の周王朝の祖先から知る必要がある。

2-1)周王家人物概伝   4-1-1) 4-1-4) 4-1-4-4) 参照
・后稷(こうしょく)(中国神話時代bc2,000年以上前)
①父:帝俊(五帝の一人) 母:姜原(キョウゲン:帝こくの元妃)
②子供:不?(みつ)    諱:弃
③ 農業神
④周王家の元祖 姓:姫氏元祖
⑤神話時代の聖帝「舜」に仕えた。
⑥出身民族:北狄出身モンゴロイド系遊牧民?はっきりしていない。非漢民族
⑦『史記』周本紀
 
・古公亶父(ここうたんぽ)
①父:公叔祖類 母:姜族の娘?
②子供:太伯(たいはく)・虞仲(ぐちゅう)・季歴
③后稷の12世孫
③史記・詩経記事
④周は歴代姜族の娘を妻として、姜族と連合を計った。
⑤岐山の麓に定住。
⑥古公が「私の世継ぎで興隆するものがあるとすれば昌(文王の諱:3男季歴の子供)であろうか」と予言したので、弟の季歴に位を継がせるために太伯と虞仲は出奔した。よって周を継いだのは3男季歴となった。
 
・太伯(たいはく)(bc12-11c頃)
①父:古公亶父 母:姜族の娘?
②子供:なし  弟:虞仲・季歴  別名:泰伯
③姓:姫
④「私の世継ぎで興隆するものがあるとすれば昌(文王の諱:3男季歴の子供)であろうか」という父の意を知った太伯と弟の虞仲は季歴 に周家の家督を継がすために荊蛮の地へ共に出奔した。後年周国の者が二人を迎えに来たが、髪を切り、前身に刺青を彫って、中華には帰ることを拒んだ。
⑤荊蛮(長江の中流域の原住民への蔑称。南の野蛮人。)の地に句呉(こうご)という君国を興した。中国江蘇省のうち長江以南の地域辺り。子供がいなかったので弟の虞仲に跡を譲った。
⑥史記:世家の第一として「呉太伯世家」を挙げている。
⑦論語:泰伯篇:泰伯はそれ至徳と謂う可きなり
⑧魏略:倭人は「自謂太伯之後」との記事初出。以後多数の中国古典に同一記事あり。
⑨伝承:宮崎県諸塚山には、太伯が生前住み、死後葬られた。
⑩鹿児島神宮:太伯は祭神説あり。
⑪新撰姓氏録:松野連氏が出自呉王夫差とある。
 
・虞仲(ぐちゅう)(bc12-11c頃)
①父:古公亶父 母:姜族の娘?
②子供:季簡 兄:太伯 弟:季歴 別名:仲雍・呉仲
③姓:姫
④「私の世継ぎで興隆するものがあるとすれば昌(文王の諱:3男季歴の子供)であろうか」という父の意を知った太伯と弟の虞仲は季歴 に周家の家督を継がすために荊蛮の地
へ共に出奔した。後年周国の者が二人を迎えに来たが、髪を切り、前身に刺青を彫って、中華には帰ることを拒んだ。
⑤この虞仲の流れが句呉を継いだ。
 
・季歴(殷の時代後期ー)
① 父:古公亶父 母:姜族の娘?
②子供:文王・?仲・?叔 妻:太任  別名:王季
③中国殷の時代の周の首長
④殷の文武丁に監禁され餓死した
 
・文王(bc1152-bc1056)
①父:季歴 母:太任 
②子供:伯邑考・管叔鮮・周公旦・蔡叔度・霍叔処・康叔封など多数  
兄:?仲(かくちゅう)・?叔(かくしゅ)) 妻:太?(たいじ)・帝乙の妹 別名:西伯昌・寧王
③周朝の始祖。姓:姫 諱:昌
④商(殷)帝辛 (紂王)に仕えた。周の地を受け継ぎ、岐山のふもとより本拠地を?河(ほうが:渭河の支流)の西岸の豊邑(後の長安の近く)に移した。
⑤長男の伯邑考は帝辛の人質となり辛に煮殺された。その煮汁を飲まされた昌は財宝と領地を辛に献上して釈放され、西伯(西の統括をする諸侯の事)に任じられた。
⑥呂尚を軍師に迎えた。
 
・武王(?-bc1021)
①父:文王 母:太?(たいじ)
②子供:成王・唐叔(普開祖)・?叔・応叔・韓叔
③周朝の創始者:呂尚(太公望)や周公旦の助けを得て殷を滅ぼし、周を立て首都は鎬京。
④殷の紂王を「牧野の戦い」で破り、紂王は自殺。
⑤古代の聖王達の子孫を探し出し、次のように封じた。
神農の子孫を焦に
黄帝の子孫を祝に
堯の子孫を薊に
舜の子孫を陳に
禹の子孫を杞に
呂尚(太公望)を斉に
周公旦を魯に
⑥成王の補佐役:呂尚と同母弟の周公旦
⑦兄弟の多くに君国を与えた。
叔鮮:管 叔度:蔡 叔処:霍 康叔封:衛 など
 
・寿夢(じゅぼう)(?-bc561)
①父:去斉 母:
②子供:諸樊・余祭・余昧・季札 別名:乗
③句呉国初代太伯より18世王「去斉」の子供で、ここで国名を「呉」と改称した。
初代呉王。首都:現在の蘇州周辺
④子供は兄弟が順次王となった。
 
・夫差(ふさ)(?-bc473)
①父:闔閭 母:不明
②子供:不明   兄:波
③中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓:姫
④越王勾践(こうせん:?-465)によって討たれた父・闔閭(こうりょ)の仇を討つため、伍子胥(ごししょ)の尽力を得て国力を充実させ、一時は覇者となったが、勾践の反撃により敗北して自決した。
⑤『史記』:「臥薪嘗胆」の話
闔閭は死に際して夫差を呼んで、自分の後継者に任命し「勾践がお前の父を殺したことを忘れるな」と遺言した。この言葉を忘れないように夫差は寝室に入る時は部下に闔閭の遺言を繰り返させ、寝る時は薪の上に寝て復讐を忘れないようにした仇を報(むく)いるために辛い思いをすること。目的を成し遂げるために、艱難辛苦をすること。の故事
 
 その後も越による激しい攻勢は続き、とくに紀元前475年に呉の公子慶忌が夫差に「王は行いを改めないと、いずれは滅びるでしょう」と諫言したが、聞き入れられず、公子慶忌は領地の艾に戻り、ついでに楚に向かった。同年冬に、越が呉を討伐すると慶忌は呉に戻り「今こそ不忠者を除いて、越と結ぶべきです」と進言したところ、激怒した夫差は大夫たちとはかって、ついに慶忌を誅殺した(『春秋左氏伝』)。
 紀元前473年、ついに首都姑蘇(江蘇省蘇州市)が陥落した。夫差は付近にある姑蘇山に逃亡し、大夫の公孫雄(呉の公族?)を派遣して和睦を乞わせた。公孫雄は勾践の前で裸となり、「夫差は越王勾践さまに対して一度命を助けたのですから、あなたも一度夫差の命を助けていただけないでしょうか?」と夫差の命乞いをした。だが、范蠡(はんれい)は「天から授かった機会を逃したから今の呉があるのです。22年間の苦しみを忘れたのですか?」と激しく諌めた。憐れに思った勾践は「ならば、夫差を甬東(ようとう:浙江省の東シナ海海上に浮かぶ群島)の辺境に流せば再起出来まい」と決めた。こうして公孫雄は引き返して、夫差にその旨を伝えた。
だが、夫差は「私は年老いました。とても君主にお仕えすることはできません」と言い、「子胥に合わせる顔が無い」と顔に布をかけると、自ら首を刎ねて死んだ。勾践は夫差の死に憐れんで丁重に厚葬した。そして、呉の亡国の元凶となった伯?を処刑した。こうして呉は滅亡した。
⑥『新撰姓氏録』:右京諸蕃 松野連(まつののむらじ)の出自は夫差と記されている。
⑦ 資治通鑑前編(中国元朝頃出版か)呉亡条記事:「日本又云、呉太伯之后 、盖呉亡、其支庶入海為倭」
参考)・越滅亡:bc334 首都:会稽 楚により滅亡される。
・楚滅亡:bc223 首都:丹陽(湖北・湖南省)秦により滅亡される。
・江南地方:もともと「江」は中国の長江を指し、「江南」はその南岸地域全体を表わす。特に蘇州、無錫、嘉興など、下流域の南岸地域を指す。古代には呉や楚などが興り、文明の中心地である黄河流域から遠い、後進地域と考えられていた
 
2-2)倭国姫氏人物列伝  4-2-1)参照
 上記 資治通鑑前編(中国元時代完成)に記されているように中国春秋時代の呉国最後の王「夫差」の裔孫がBC473年頃に倭国に渡来して来たことになっているのである。これは上記「魏略」(270-280年頃完成)の記事を裏付けるものとされているのである。日本では上記「新撰姓氏録」の右京諸蕃の松野連氏の出自は呉王夫差と記されているのである。公的に知られた史料は以上であるが、明治時代に古代豪族の系図を私的に蒐集研究してきた系図研究の第一人者である鈴木真年氏が蒐集した系図の中に松野連(倭王)系図なるものが発見されたのである。この系図は現在、国会図書館及び静嘉堂文庫所蔵系図として残されているのである。この系図は2種存在していたようで2系列の人物の記載があるので分けて列伝とした。
姓氏類別大観ではその1系列のみ記載されている。松野連姓を賜って以降戦国時代の武将松野正重までの系図が記載されているのである。以上の史料を元に各種インターネット情報も参考にして列伝を作成した。
 
・呉王夫差(?-bc473)
①父:闔閭 母:不明
②子供:不明   兄:波
③中国春秋時代の呉の第7代、最後の王。姓:姫
④越王勾践(こうせん:?-465)によって討たれた父・闔閭(こうりょ)の仇を討つため、伍子胥(ごししょ)の尽力を得て国力を充実させ、一時は覇者となったが、勾践の反撃により敗北して自決した。
⑤『史記』:「臥薪嘗胆」の話
⑥『新撰姓氏録』:右京諸蕃 
松野連(まつののむらじ)の出自は呉王夫差と記されている。
⑦ 資治通鑑前編(中国元朝頃出版か)呉亡条記事:「日本又云、呉太伯之后 、盖呉亡、其支庶入海為倭」
 
これ以降は松野連氏系図に記された添書を忠実に記した。
・太字は次ぎの世代への直系人物 青字太字は傍系人物
・忌
字ハ慶父
(孝昭天皇三年来朝住火国山門)(孝昭天皇三年来朝住火国山門菊池郡)国会図書館所蔵
筆者注)BC473年倭国へ渡来し国会図書館所蔵系図では火国菊池郡山門に住んだ。
 
・順
字ハ去漫
(居于委奴)(推定)
筆者注)委奴(伊都?)に居す。
怡土・伊都:現在の福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)
姓氏類別大観ではこの人物は無い。
<第1系図>参考)この系図が筑紫に居住した分家説あり。

・阿弓
(怡土郡大野住)
筆者注)怡土郡大野に住む。筑前国怡土郡大野郷は古代伊都国と呼ばれ現在の前原市曽根・香力付近とされている。
 
・宇閇
(後漢光武帝中元二年正月貢献使人自称大夫賜以印綬)
筆者注)AD57年後漢の光武帝に自称大夫という人物を派遣して金印を賜った。
 
・己婁伊加也
 
・玖志加也
(加志古)
(永初元年十月貢漢)
筆者注)AD107年漢に貢ぐ。後漢書記事倭国王帥升のことか?
 
・鷲
①父:玖志加也? 母:不明
②子供:刀良?
 
・刀良
(卑弥呼姫氏也)
(宣帝時遣使礼漢本朝崇神帝時)
①父:鷲? 母:不明
②子供:花鹿文?・卑弥鹿文?・宇麻鹿文?
筆者注)卑弥呼のこと。漢の宣帝に遣使した。日本では崇神の時である。前漢の宣帝は
BC73-BC49まで在位していた。卑弥呼姫氏と卑弥呼の関係?
 
参考)卑弥呼(?-248)
①父:不明 母:不明
②子供:不明
③光和年間(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』
④魏志倭人伝:卑弥呼は邪馬台国に居住し、鬼道で衆を惑わしていたという。中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。
既に年長大であったが夫を持たず、弟がいて彼女を助けていたとの伝承がある。王となってから後は、彼女を見た者は少なく、ただ一人の男子だけが飲食を給仕するとともに、彼女のもとに出入りをしていた。宮室は楼観や城柵を厳しく設けていた。
卑弥呼が死亡したときには、倭人は直径百余歩(この時代の中国の百歩は日本の二百歩に相当する)もある大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬したとされている。
⑤景初三年(239年) - 卑弥呼、初めて難升米らを中国の魏に派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられる(『三国志』では同二年(238年))。
⑥正始元年(240年) - 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。
⑦正始四年(243年) - 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。
⑧正始六年(245年) - 難升米に黄旗を仮授与(帯方郡に付託)。
⑨正始八年(247年) - 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、援を請う。難升米に詔書、黄旗を授与。
⑩正始九年(248年)頃あるいはその前後 日本列島で皆既日食。(247年3月24日日没)
卑弥呼が死に、墓が作られた。(『梁書』では正始年間(240年 - 249年)に卑弥呼死亡)
男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
日本列島で皆既日食。(248年9月5日日出)
⑪卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。
⑫人物比定:神功皇后説・倭迹迹日百襲媛命説・天照大神説・倭姫命説・熊襲の女酋説
甕依姫説・宇那比姫説など多数。
⑬邪馬台国比定地:古来多数あり。九州説・近畿説が中心。
 
 花鹿文  
①父:不明 母:刀良?
②子供:取石鹿文?・弟鹿文?
 
 取石鹿文:川上梟帥 
①父:花鹿文? 母:不明
②子供:不明 兄弟:弟鹿文?
筆者注)川上梟帥(たける)とも称する。日本書紀:景行天皇の時代の九州熊襲の首長。小碓尊(おうすのみこと)に殺されたときに、その強さをたたえて尊に日本武(やまとたける)の名を奉ったという。古事記:熊曽建(くまそたける)の名を用いる。第2系図取石鹿文の項参照
 
 弟鹿文
①父:花鹿文? 母:不明
②子供:不明 兄弟:取石鹿文?
 
 宇麻鹿文
①父:不明 母:刀良?
②子供:熊津彦? 
 
 熊津彦
①父:宇麻鹿文?母:不明
②子供:難升米?掖邪狗?
 
参考)熊津彦
①父:不明 母:不明
②子供:不明
③ホツマ伝:クマノガタ(熊の県) の県主。
景行天皇のクマソ討伐の帰路、クマの県に立ち寄る。
兄クマツヒコは天皇に従うが、弟クマツヒコは拒んだため殺される。 
④『熊の県  長 クマツヒコ 兄弟を召す 兄ヒコは来れど 弟は来ず 臣と兄とに 諭さしむ  然れど拒む 故 殺す』
 
 弟熊(誅)
 
 難升米(兄夷守大夫)(卒善中郞為)
筆者注)兄夷守大夫 卒善中郞は238年卑弥呼が魏国に大夫として派遣をした時
魏の皇帝から賜った役職名。
 
参考)難升米(なしめ)
①父:不明 母:不明
②子供:不明 別名:
③魏志倭人伝:景初2年(238年)、卑弥呼は帯方郡に大夫の難升米と次使の都市牛利を遣わし、太守の劉夏に皇帝への拝謁を願い出た。劉夏はこれを許し、役人と兵士をつけて彼らを都まで送った。難升米は皇帝に謁見して、男の生口4人と女の生口6人などを献じた。さらに皇帝は詔書を発し、遠い土地から海を越えて倭人が朝貢に来た事を悦び、卑弥呼を親魏倭王と為し、金印紫綬を仮授した。皇帝は難升米を率善中郎将に牛利を率善校尉に為して銀印青綬を授けた。
④正始6年(246年)、皇帝は詔して、帯方郡を通じて難升米に黄幢(黄色い旗さし)を仮授した(帯方郡に保管された)。正始8年(248年)に邪馬台国と狗奴国の和平を仲介するために帯方郡の塞曹掾史張政が倭国に渡り、その際に難升米に黄幢と詔書を手渡している。
 
 掖邪狗(弟夷守)(卒善中郞為)
①父:熊津彦?母:不明
②子供:不明 兄弟:難升米?
筆者注)同上

参考)掖邪狗 (えきやく)
①父:不明 母:不明 
②子供:不明
③魏志倭人伝:邪馬台国の大夫。卑弥呼の使者として魏の正始4年(243)魏に派遣され,率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう)の印綬をうける。卑弥呼死後の壱与(台与(とよ)政権下でも,帰国する魏の使者をおくるため派遣された。
④魏志倭人伝:240年(正始元年)齊王芳の命令により、太守の弓遵等は、天子からの手紙(漢文字)と金・帛(絹)・鏡などを持参のうえ邪馬臺國女王俾彌呼まで挨拶に来る。
243年(正始4年)伊馨耆(イホキ)と共に掖邪狗(イサガ)等8人は正始元年に天子から受賜した手紙と金・帛(絹)・鏡など、お礼の為に魏朝へ上献(生口・倭錦・他)する。
 
・卑弥鹿文
①父:不明 母:刀良?
②子供:厚鹿文??鹿文? 兄弟:花鹿文?・宇麻鹿文?
参考)この人物を卑弥呼に比定する説あり。
 
<第2系図>参考)この系図が肥後に居住した宗家説あり。
・恵弓
・阿岐
・布怒之
・玖賀
・支致古 別名:志致古
・宇閇
(漢宣帝時遣使地節二年)
筆者注)BC68年漢の宣帝に遣使された。
 
・阿米
 
・熊鹿文
①父:阿米? 母:不明
②子供:厚鹿文??鹿文?
姓姫氏 称卑弥子熊津彦  (後漢光武中元二年正月私通漢土受印綬?称委奴国王)
筆者注)AD57年後漢光武帝委奴国王印を受ける。卑弥子熊津彦と呼ばれた。
<以後系図統一>
 ?鹿文(新羅阿達羅尼師今廿年遣使景行十二年熊襲梟帥也)
①父:熊鹿文?又は卑弥鹿文? 母:不明
②子供:取石鹿文?弟石鹿文? 兄弟:厚鹿文?
 
筆者注)新羅阿達羅尼師今廿年は新羅8代王の20年で174年景行12年に熊襲梟帥が
新羅に遣使
・173年5月、倭の女王卑彌乎が使者を送ってきたとする(三国史記:1145年完成からか?)。しかしこれは、『三国志』東夷伝倭人条の景初2年(238年)記事からの造作であり、且つ干支を一運遡らせたもの、と考えられている。
 
参考)?鹿文(せかや・さやか)
①父:不明 母:不明
②子供:取石鹿文(とりいしかや) 別名:
③ホツマ伝: 景行のクマソ征伐におけるクマソの頭の一人。 
④日本書紀景行天皇紀:
『十二月五日 クマソを議り 御言宣 "我 聞く クマソ 兄アツカヤ 弟セカヤとて 人の頭 諸を集めて 長とす 矛前 当たる 者 あらず 少々 人と数 多なれば 民の痛みぞ 矛 駆らず 平けん"』
『皇 姉が シム 絶つを 憎み 殺して 妹 ヘカヤ 襲の国造と 叔父の子の トリイシカヤと 因ませて』
 
 取石鹿文 号川上梟帥
①父:?鹿文? 母:不明
②子供:不明 兄弟:厚鹿文?
筆者注)別名:川上梟帥 (たける)
 
参考)取石鹿文(とりいしかや)
①父:セカヤ 母:不明
②子供:不明   別名:川上梟帥・熊曽建? 妻:市鹿文<厚鹿文
③ホツマ伝:クマソの頭・アツカヤが殺された後、景行天皇によりアツカヤの娘ヘカヤを娶り、襲の国造とされる。
④後にまた背いて熊襲タケルとなり、オウスによって征伐されるが、この時に『ヤマトタケ』という名をオウス(倭建尊)に奉る。
⑤日本書紀景行天皇紀:『皇 姉が シム 絶つを 憎み 殺して 妹 ヘカヤ 襲の国造と 叔父の子の トリイシカヤと 因ませて』
『コウス御子 十二月に行きて クマソ等が 国の盛衰 覗えば トリイシカヤが 川上に 長けるの族 群れ寄りて 安座なせば』
『夜 更け 酔えれば コウス君 肌の剣を 抜き持ちて 長が胸を 刺し徹す』
『長が曰く "今 しばし  剣 止めよ 言あり" と 待てば "汝は 誰人ぞ" "皇の子の コウスなり"』
『長 また言ふ "我はこれ 国の強者 諸人も 我には過ぎず 従えり 君の如くの 者 あらず 奴が捧ぐ 名を召すや" 君 聞きませば "今よりは ヤマトタケとぞ 名乗らせ"と』

参考)川上梟帥(かわかみのたける)
③日本書紀景行天皇紀:九州熊襲の首長。小碓尊に殺されたときに、その強さをたたえて尊に日本武(やまとたける)の名を奉ったという。古事記では、熊曽建(くまそたける)の名を用いる。
熊襲は頭を渠師者(イサオ)と呼び、2人おり、その下に多くの小集団の頭たる梟師(タケル)がいたと記している。大和王権は武力では押さえられないので、イサオの娘に多くの贈り物をして手なずけ、その娘に、父に酒を飲ませて酔わせ、弓の弦を切り、殺害した。
 
 弟石鹿文
 
・厚鹿文
①父:熊鹿文?又は卑弥鹿文? 母:不明
②子供:市乾鹿文?市鹿文?宇也鹿文? 兄弟:?鹿文?
 
参考)厚鹿文(あつかや)
①父:不明 母:不明
②子供:市乾鹿文(いちふかや)・市鹿文(へかや)弟:セカヤ 別名:熊襲梟帥
③ホツマ伝:12代景行天皇が討ったクマソの頭のひとり。娘フカヤの寝返りによって討たれる。 
④『十二月五日 クマソを議り 御言宣 "我 聞く クマソ 兄アツカヤ 弟セカヤとて 人の頭 諸を集めて 長とす 矛前 当たる 者 あらず 少々 人と数 多なれば 民の痛みぞ 矛 駆らず 平けん"』
『兵 連れて 屋に帰り 酒をあただに 飲ましむる 父 飲み酔ひて 臥す時に 父が弓弦 切り置きて 父 アツカヤを 殺さしむ』
⑤日本書紀景行天皇紀:熊襲(くまそ)の首長のひとり。景行天皇12年天皇の和解策に応じ,ふたりの娘を天皇と結婚させたが,姉娘の市乾鹿文(いちふかや)にうらぎられ,殺された。熊襲梟帥(くまそたける)とよばれた。   
 
 市乾鹿文
(景行天皇賜龍之殺父則悪 其不孝之甚而誅之)
筆者注)景行天皇により父親への不幸を誅された。
 
参考)市乾鹿文 (いちふかや)
①父:厚鹿文 母:不明
②子供:不明 夫:景行天皇  妹:市鹿文
③日本書紀景行天皇紀:日本書紀」にみえる女性。
熊襲梟帥(熊曾建)の娘。市鹿文の姉。熊襲征討のため日向にきた景行天皇の偽りの寵愛をうけ,父を酒によわせて殺すのを手助けする。のち不孝の罪で天皇に殺されたという
 
 市鹿文 (同時賜火国造魏正始八年 立為王景初二年貢奉被称壱欺)
筆者注)247年火国造を賜る。238年壱欺と称する王となる。
 
参考)台与(臺與:とよ)
①父:不明 母:不明
②子供:不明 別名:壹與(壱与:魏志倭人伝)・臺與(梁書・北史)
③魏志倭人伝:邪馬台国の女王卑弥呼の宗女にして、卑弥呼の跡を13歳で継いだとされる女性・壹與のことである。
④魏志倭人伝:女王卑弥呼が死ぬと男王が立てられた。しかし人々はこれに服さず、内乱状態になり1000人が死んだ。このため再び女王が立てられることになり、卑弥呼の親族の13歳の少女の壹與が王となり、国は治まった。247年。
⑤魏志倭人伝:正始8年(248)に邪馬壹國と狗奴国間の紛争の報告を受け、同年倭に派遣された帯方郡の張政は、檄文をもって「壹與」を諭した。ただし張政の派遣は、正始4年の朝貢の返しとして6年に出された詔によるものである。
壹與は掖邪狗(前述)ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らは魏の都に上り、男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
⑥『日本書紀』神功紀に引用される『晋書』起居註:秦始2年(266)に、倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。卑弥呼#神功皇后説にもあるように、近年ではこの倭国女王は台与のことであると考えられている。
⑦この朝貢の記録を最後に中国の史書から邪馬台国や倭に関する記録が途絶え、次に現れるのは150年の後の義熙9年(413年)の倭王讃の朝貢(倭の五王)である
⑧比定人物:豊鍬入姫命説・豊姫説*・万幡豊秋津師比売説・天豊姫命説・
*神功皇后の妹の豊姫に比定する説:肥前国風土記の神名帳頭注に「人皇卅代欽明天皇の廾五年(564年)甲申、肥前國佐嘉郡、與止姫神鎭座。一名豐姫。」とあり、與止日女神社の祭神。
 
参考)市鹿文(いちかや)
①父:熊襲梟帥 母:不明
②子供:不明 姉:市乾鹿文  別名:ヘカヤ
③日本書紀景行天皇紀:熊襲梟帥(くまそたける)の娘・市鹿文(いちかや)を火国造に与えたとも記される。
④ホツマ伝:夫は取石鹿文
⑤熊襲梟帥(熊曾建)の娘。市乾鹿文(いちふかや)の妹。熊襲征討のため日向にきた景行天皇のもとに,姉とともにめされる。天皇の寵愛をうけて父をだまし討ちにした姉が天皇に殺されたのち,火国造をあたえられたという
⑥日本書紀景行天皇紀:『クマソには フカヤとヘカヤ 二娘 煌々しくも 勇めるを 重き引手に 召し入れて 隙を窺ひ 虜にす』
『皇 姉が シム 絶つを 憎み 殺して 妹 ヘカヤ 襲の国造と 叔父の子の トリイシカヤと 因ませて』
 
・宇也鹿文
①父:厚鹿文? 母:不明
②子供:茁子?伊馨耆? 兄弟:市乾鹿文?市鹿文?
(鬼毛理)(火国菊池評山門里住永初元年十月通漢)ーーー静嘉堂文庫所蔵系図
筆者注)AD107年漢に行く。火国菊池評山門里に住む。
参考)後漢書永初元年(107)記事の倭国王帥升と同一人物説あり。第1系図の玖志加也も同一人物か?
 
伊馨耆 大夫)
①父:宇也鹿文? 母:不明
②子供:不明 兄弟:茁子?
 
参考)伊馨耆(イホキ)
①父:不明 母:不明
②子供;不明
③魏志倭人伝:240年(正始元年)齊王芳の命令により、太守の弓遵等は、天子からの手紙(漢文字)と金・帛(絹)・鏡などを持参のうえ邪馬臺國女王俾彌呼まで挨拶に来る。
243年(正始4年)伊馨耆(イホキ)と共に掖邪狗(イサガ)等8人は正始元年に天子から受賜した手紙と金・帛(絹)・鏡など、お礼の為に魏朝へ上献(生口・倭錦・他)する。
 
・茁子(安志垂)
①父:宇也鹿文? 母:不明
②子供:謄? 兄弟:伊馨耆?
 
・謄
①父:茁子? 母:不明
②子供: 讃?珍?
 
  倭王  ( 普安帝時遣使 仁徳85年)
①父:謄? 母:不明
②子供:嘉? 兄弟:珍?
筆者注)東普10安帝の時(404-418)遣使 した。これは仁徳85年である。
 
参考)17履中天皇(369?-432?)
①父:16仁徳天皇 母:磐之媛
②子供:市辺押磐皇子など 皇后:草香幡梭皇女<15応神天皇 
兄弟:反正・允恭・住吉仲皇子ら・
③倭五王 讃に比定 応神天皇・仁徳天皇説もある。
④宋書夷蛮伝:421年 安東将軍倭国王
 
 
①父: 讃? 母:不明
②子供:不明
 
・珍
①父:謄? 母:不明
②子供:済? 兄弟: 讃?
(立為王、使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王宋文帝元嘉二年遣使)
筆者注)AD425年南宋文帝の時遣使 安東大将軍倭国王となる。
 
参考)18反正天皇(378?-437?)
①父:16仁徳天皇 母:磐之媛 皇夫人:津野媛<和珥木事
②子供:
③同母兄住吉仲皇子を誅殺
④倭五王 珍に比定
⑤宋書文帝紀:弟立つ438年 安東将軍倭国王
 
・済
①父:珍? 母:不明
②子供:興?武?
(同二十年遣使為安東将軍倭国王)
筆者注)AD443年南宋文帝の時遣使。安東将軍倭国王となる。
 
参考)19允恭天皇(-454?)
①父:16仁徳天皇 母:磐之媛
②子供:木梨軽皇子・安康・雄略 皇后:忍坂大中媛<稚渟毛二派皇子
③玉田宿禰<葛城襲津彦孫 を誅殺
④皇太子木梨軽皇子を廃太子
⑤倭五王 済に比定 
⑥宋書夷蛮伝:443年 安東将軍倭国王 451年 安東大将軍
 
 
①父:済? 母:不明
②子供:不明 兄弟:武?
 (孝武大明六年授、安東将軍倭国王)
筆者注)AD462年に安東将軍倭国王を授かる。
 
参考)20安康天皇(?-?)
①父:19允恭天皇 母:忍坂大中媛
②子供:なし   皇后:中磯皇女<履中天皇
③大草香皇子<仁徳天皇を誅殺
④眉輪王<大草香皇子 に暗殺される。
⑤倭五王 興に比定
⑥宋書倭国伝:済の世子 462年 安東将軍倭国王
 
・武
①父:済? 母:不明
②子供:哲? 兄弟: 興?
(立為倭王自称使持節都督七国諸軍事昇明二年梁武帝授征東大将軍)
筆者注)478年使持節都督七国諸軍事と自称して倭王となった。梁の武帝が征東大将軍を授けた。 昇明二年(478)は南宋の順帝である。梁武帝在位は502-549である。征東大将軍を授けたのは梁武帝である。
 
参考)21雄略天皇(ー489?)
①父:19允恭天皇 母:忍坂大中媛
②子供:清寧天皇
③八釣白彦皇子<  市辺押磐皇子<17履中天皇 坂合黒彦皇子<らを謀殺
④平群真鳥を大臣 大伴室屋・物部目を大連に任命
⑤倭五王 武に比定
⑥宋書順帝紀・南斉書倭国伝・梁書武帝紀:弟の武立つ。478年 安東将軍倭国王 
502年以降に征東大将軍
⑦筑紫君磐井を武王に比定する説あり。
 
・哲   倭国王
①父:武? 母:不明
②子供:満?
筆者注)倭国の王であった。
参考)筑紫君磐井の子供「葛井」説あり。
 
・満
①父:哲? 母:不明
②子供:牛慈?
参考)筑紫君磐井に比定する説あり。
 
・牛慈(金刺宮御宇服降為夜須評督)
①父:満? 母:不明
②子供:長提?
筆者注)29欽明天皇(在位:509?-571?)の時ヤマト王権に降伏し夜須評督となった。  評督:郡の長官   
夜須評:旧筑前国夜須郡 現福岡県朝倉市 邪馬台国比定地の一つ
参考)筑紫君磐井の息子「葛井」に比定する説あり。
 
・松野長提(小治田朝評督筑紫国夜須郡松峡野住)
①父:牛慈? 母:不明
②子供:大野?
筆者注)33推古天皇(在位:593-628)の時、評督として筑紫国夜須郡松峡野に住む。現在の福岡県朝倉郡筑前町栗田付近か
 
・大野
①父:長提? 母:不明
②子供:廣石?
 
・廣石
①父:大野? 母:不明
②子供:津萬侶?
 
・津萬侶(甲午籍負松野連姓)
①父:廣石? 母:不明
②子供:大田満呂?
筆者注)甲午籍で松野連姓を賜る。但し甲午年は694年であるが、甲午籍という言葉は知られていない。庚午年籍なら670年である。
 
・大田満呂
①父:津萬侶? 母:不明
②子供:猪足?
 
・猪足
①父:大田満呂? 母:不明
②子供:鷹主?弟嗣
 
 弟嗣 従七位下
①父:猪足? 母:不明
②子供:不明 兄弟:鷹主?
 
・鷹主 園池少令史
①父:猪足? 母:不明
②子供:楓麿?小倉?瀧人?
筆者注)宮内省管轄の御料地の管理、庭園の管理をつかさどった。令史は園池司の主典。定員は一人。相当官位は大初位上
 
 小倉 右史生
①父:鷹主? 母:不明
②子供:浄足? 兄弟:楓麿?・瀧人?
筆者注)史:上級者の命令を受けて公文書の記録・作成を掌り、公文書の内容を吟味して上級者の判断を仰ぎ、読申することを職掌とした
史生:7位以下の下級官吏

 瀧人

・楓麿  左史生従七位上(延暦十四年八月貫右京)
①父:鷹主? 母:不明
②子供:岑成? 兄弟:小倉?瀧人?
筆者注)795年平安京の右京に移った。
 
・岑成
①父:楓麿 母:不明
②子供:千豊・千秋・千直
 
・千豊
①父:岑成 母:不明
②子供:真棟・沢棟・親棟 兄弟:千秋・千直
 
・真棟
①父:千豊 母:不明
②子供:広人・広主・広本
③広主の流れが永続する。
 
・松野正重(-1655)
①父:松野重定 母:不明
②子供:良成?    別名:重元・道円  松野主馬・松野道円入道・平八
妻:一柳直末次女
③ 主君:豊臣秀吉→小早川秀秋→田中吉政→忠政→徳川忠長
④戦国時代の武将。通称は平八。正確な官名は主馬首
⑤父は土岐氏に仕えた松野重定  古代豪族「松野連氏」の末裔とされている。
⑥はじめ豊臣秀吉に仕え、丹波国に300石の領地を得る
⑦1595年小早川隆景の養子となった木下家定の五男・秀俊(のちの小早川秀秋)が丹波亀山から筑前名島へと移封になった際、秀吉より特に小早川氏に付けられて鉄砲頭を務めた。また、転封の際、豊臣姓を賜っている。
⑧1600年の関ヶ原の戦いでは、東軍へ寝返った秀秋に反発して不参戦。のち戦線を離脱する。しかし、このことが主家(豊臣家)を裏切らなかった忠義者としての評価を受け、戦後は秀秋の下を去って田中吉政に仕官し、1万2,000石で松延城城番家老として仕えた。吉政の下、治水工事や堤防工事などに才を発揮し、重元が改修した川は「主馬殿川」と呼ばれた。
ところが、1620年に田中氏が無嗣断絶により改易となると、同年9月に徳川忠長に仕えたが、忠長も1633年に改易され自害に追い込まれた。主君に恵まれなかった重元はその後は仕官せず、1655年に陸奥国白河で死去したという。
 
3)関係寺社
・鹿児島神宮(鹿児島県霧島市隼人町内)
①祭神:天津日高彦穂々出見尊(山幸彦)・豊玉比売命 - 天津日高彦穂々出見尊の后神
    相殿神帯中比子尊(仲哀天皇)息長帯比売命(神功皇后)品陀和気尊(応神天皇)
    中比売尊(仲姫命)太伯 - 句呉の祖。国内では唯一当社でのみ祀られる
②社格:式内社(大社)大隅国一宮 旧社格は官幣大社 別表神社別名:大隅正八幡宮
③創建:和銅元年(697)(社伝)
④由緒:当社は北東300mの石体宮に鎮座していたと言う。日子穗穗出見尊の高千穂宮の跡と伝わる。石を神体としており、石体は秘物であって藁薦を以て覆ってあり、毎年薦を替える儀式があるそうだ。
 欽明天皇の代に八幡神が垂迹したのもこの場所とされる。当社を正八幡と呼ぶのは『八幡愚童訓』に、「震旦国隣大王(陳大王とも言う)の娘の大比留女(おおひるめ)は七歳の時に朝日の光が胸の間にさし入り、懐妊して王子を生んだ。王臣たちがこれを怪しんで空船に乗せて、船のついた所を所領としたまうようにと大海に浮かべたところ、船はやがて日本国鎮西大隅の磯に着いた。その太子を八幡と名付けたので船の着いたところを八幡崎と言う。継体天皇の代のことであると言う。」との記載がある。外来神との見方。
 八幡神は大隅国に現れ、次に宇佐に遷り、ついに石清水に跡を垂れたと『今昔物語集』にも記載されている。
⑤祭神に太伯が祀られている説があるが、その根拠不明。少なくとも現在は祀られていない。
 
 4)関係系図
4-1)中国古代王朝系譜
4-1-1)中国神話 五帝系図(「史記」五帝本紀 参考)
4-1-2)夏王朝系図(「史記」参考)
4-1-3)殷(商)王朝系図 (「史記」参考)
4-1-4)周王朝系図 (「史記」参考)
4-1-4-1)部落「周」時代系図 (「史記」参考)
4-1-4-2)西周王朝系図  (「史記」参考)
4-1-4-3)東周王朝系図  (「史記」参考)
4-1-4-4)呉(春秋)王国系図 (「史記」参考)
4-2)倭国姫氏松野連氏系図(姓氏類別大観 「埋もれた古代氏族系図」 松野連系図(国会図書館、静嘉堂文庫所蔵)など参考)
4-2-1)松野連氏基本系図
4-2-2)松野連氏系図(添書付き:現保存系図)
4-2-3)参考系図)松野連氏系図(筆者代数推定系図)
4-2-4)参考)系図修正1
4-2-5)参考)修正系図2

5)関連 古代中国ー日本比較年表
 
 
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6)松野連氏関連系図解説・論考
6-1)中国古代王朝関連系図解説
 本稿を執筆するにあたり通常の古代豪族の系図解説とは異なった解説が必要と判断した。松野連氏は、その出自の関係で中国の周時代からの人物を理解する必要があるからである。幸いにも中国は、4000年の歴史が文字記録として残されており、重要氏族については、司馬遷の「史記」を代表とした中国古典にその系譜が残されているのである。
筆者は中国歴史については、全く知識が無く、その古典の一部で日本でも公知にされている範囲での公知史料を参考にして、筆者が理解した範囲で系図解説をしたい。

6-1-1)三皇五帝時代の系図概略解説  4-1)4-1-1)参照
 この時代は、日本の神話時代と同じく、実在した人物とは考えられていないのである。
三皇とは、伏義(ふくぎ)・神農(しんのう)・燧人(すいじん)とするのが通説であるが他説としては、天皇・人皇・地皇の3人とする説もあるのである。
次が五帝である。初代の黄帝から5代舜帝までの系図が知られている。本系図は「史記(bc97完成)」に記されている記事を参考にし、さらにその後の末裔王朝について、筆者が追加して系図にしたものである。
初代「黄帝」は漢民族の祖と云われているのである。その実在は確認されていない。
実在したとすれば、bc2500年頃と推定されているのである。姓は姫氏。
この時代は、世界4大文明のメソポタミア(bc3500年頃)エジプト(bc3000年頃)インダス(bc2600年頃)黄河(bc4800年頃)の一つで、現在の河南省付近の黄河中流域がその中心地であったと、発掘調査などで確認されているのである。
BC2500年頃から以降の伝承である。bc2100年頃には存在していたと確認された中国最初の王朝である「夏」の誕生までが、一応五帝時代といわれているのである。
初代「黄帝」には多数の子供(1説:22名)がいたが、その誰も帝位を継がず、孫の?? (せんぎょく)が2代帝となり、3代は別腹の流れの曾孫である帝?(ていこく)が帝になった。別名「帝俊」とも云われている。この子供が後年、孔子などが中国の3聖王(堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う))と呼ぶことになる堯で4代帝になった。彼は自分の子供、兄弟ではない②??(せんぎょく)の6代孫とされる既に庶民であった「舜」に帝位を禅譲したのである。この5代帝の「舜」も三聖王の一人である。彼も自分の子供を帝にしないで、②??の子供である 鯀(こん)の息子「禹」に帝位を禅譲したのである。この禹は実在が確認されている人物で中国の最初の王朝である夏の初代王となったのである。彼も三聖王と呼ばれたのである。系図に示した禹・契・后稷らはいずれも④堯の旧臣で⑤舜帝にも仕えたとされているのである。同時代の人物と推定されるのである。
この5帝の流れから、中国の古代王朝の多くが派生してくるのである。
1.夏王朝:上述禹王
2.殷王朝: ③帝?と簡狄(かんてき)との間の息子「契」が殷王朝の始祖(姓:子)
3.周王朝:③ 帝?と姜原(きょうげん)との間の息子「后稷」が周王朝姫氏の元祖。
4.秦王朝:③ 帝?の息子「摯(し)」の流れから秦始皇帝(姓:?(えい))が出現説。
5.漢王朝:④堯の流れから祁姓劉氏が派生し劉邦が前漢初代王となった。
6.楚王朝:④堯の流れの劉邦の兄「劉交」が前漢時代の楚王
7.南宋王朝:同上劉交の流れから南宋の初代王「劉裕」誕生。
などなど。中国の古代王朝はこの「黄帝」の子孫で占められているのである。

6-1-2)夏王朝系図概説  4-1-2)参照
 中国最古の王朝として最近その史実が確認されたのが、夏王朝の存在である。「史記」には、既にその存在の記述があったが、史実かどうかが長いこと不明であった。1959年河南省偃師(えんし)二里頭村(現:洛陽市)から二里頭遺跡が発見されたのである。首都は陽成(現:河南省鄭州市東封市)であった。
bc2070-bc1600頃の王朝で五帝時代の黄帝の4代孫である禹が初代王となった。姓は?(じ)氏である。禹は舜帝に黄河の治水事業の功が認められ帝の座を禅譲されたのである。中国三聖王と称された人物である。
中国では、この禹からが神代から現世への境目だとされているのである。
第17代の桀(けつ)王は中国3暴君(殷の肘(ちゅう)王・周の厲(れい)王)の一人として有名。酒池肉林という言葉を産んだ人物とされているのである。471年間続いた夏王朝はこの桀王の時、殷の天乙(てんいつ)(湯)に殺されて滅亡したのである。系図は史記に記されているのである。

6-1-3)殷(商)王朝系図概説  4-1-3)参照
 以前からその存在が知られており、その時は中国最古の王朝と思われていたのが、「商」即ち殷王朝の存在である。勿論史記にも記されており、亀甲文字など漢字の起源の王朝とされてきたのである。
この王朝が成立するまでの系図も存在するのである。
部落「商」時代系図がそれである。始祖は5帝の一人である③帝?(又は帝俊)と簡狄夫人との間に産まれたとされる「契」である。姓は子氏である。この13世孫が「湯」である。湯は別名「天乙」ともいい、夏王朝の桀王を倒して商王朝を亳(はく)(現:河南省商丘市・偃師市付近)に興した。bc1600年頃とされているのである。この王朝は30代肘王の時まで約550年も続いたのである。19代の盤庚(ばんこう)王の時、都を殷墟(いんきょ)(現:河南省安陽市)に遷した。bc1300年頃だとされている。これ以降は殷王朝と呼ばれるようになった。しかし、現在でも中国では「商」と呼称するのが一般的なようである。
30代肘王こそ中国3暴君の一人で周の武王にbc1046年滅ばされたのである。この肘王の庶兄に微子啓(びしけい)がいるが、この人物が春秋宋王朝の初代王になったのである。春秋宋王朝はbc1100-bc286の間存在していたのである。姓は殷の国姓である子氏である。

6-1-4)周王朝系図概説  4-1-4)4-1-4-1)4-1-4-2)4-1-4-3)4-1-4-4)参照
 周王朝が建国されるまでは部落「周」時代と呼ばれているのである。bc2000年以上前の人物とされている后稷(こうしょく)は、五帝の時代の③帝?(又は帝俊)と姜原夫人との間に産まれた人物だと伝承されているのである。この后稷が「姫氏」を姓として賜り、姫姓周王朝の元祖とされているのである。神と人との境目の時代の人物である。
この11代孫に公叔祖類がいる。夫人である姜族女との間に有名な古公亶父(ここうたんぽ)がいる。古公亶父夫人である姜族女との間に3人の息子が産まれた。長男が太伯(たいはく)、次男が虞仲(ぐちゅう)、3男が季歴である。この太伯こそ本稿の主人公の一人である。この太伯・虞仲兄弟が親元である黄河流域を捨てて、揚子江下流域に移って句呉国を興したのである。bc12c頃とされている。日本で云えば縄文時代である。
この太伯の末裔が日本列島に渡り、倭人となったという伝承記事がAD270年頃に発行された「魏略」という古文献に初出されたのである。
一方古公亶父の3男季歴の息子文王の長男である武王が殷王朝の30代肘王を打ち破りbc1046年周王朝を建国したのである。都は鎬京(こうけい)(現:陝西省西安市)であった。この武王の兄弟及びその流れは周の君国の君主としてその後の中国の歴史に多大な影響を与えたのである。魯・燕・普・魏・管・蔡・衛などである。10代厲(れい)王が3暴君の一人である。12代幽王は女性問題などで失政を繰り返し、廃太子となっていた息子の宜臼(後の平王)の実母の父の甲侯らにより殺されて西周は滅びた。
12代幽王までが西周王朝(bc1046-bc771)と呼ばれているのである。
12代幽王の子供平王からは東周王朝と呼ばれ、鎬京は破壊されてしまっていたので新都を河南省洛陽に移したのである。
この時代は春秋時代・戦国時代に別れ、各地の小領主が群雄割拠した時代で周王家の権威は失墜してしまったのである。bc256年25代赧王(たんおう)の時 秦により滅ぼされるまで周王朝は790年続いたのである。
一方周王朝の本宗家を離れた太伯・虞仲兄弟は、bc12c頃に句呉国を建国し、太伯には子供がいなかったので、虞仲の流れが18代去斉まで続いた。bc585年に去斉の子供である寿夢が国名を「呉国」と改名したのである。一般的には春秋呉王朝と呼ばれ、三国時代の呉国と区別しているのである。首都は蘇州付近(現:江蘇省蘇州市)に置いた。去斉の7代孫の「夫差(bc495-bc473)」は、「臥薪嘗胆」という有名な故事を残した人物である。この時、越国王勾践(こうせん)によって殺された。bc473年に呉国は滅亡したのである。この夫差の子供等がbc473年に「倭」に逃げたとの記事が中国の文献に残されているが、何故か、筆者の調査した限り、室町時代に発行された「資治通鑑前編」という書物が初出の記事である。
中国での太伯から末裔の夫差まで約600年の系図は、ほぼ史実に近いと判断されるのである。文字記録が残されているのである。さらに太伯から元祖后稷まで約900年の系譜もほぼ史実だとすると、併せて約1500年の歴史が日本の弥生時代以前の記録として残されていた氏族がbc473年に倭国に渡来したとのことである。

6-2)倭国姫氏松野連氏系図解説 4-2)4-2-1)4-2-2)4-2-3)
4-2-4)4-2-5)参照
 姫氏は、上述したように本来中国の古代の周王朝の一族が使用していた姓である。ところが、その一族の末裔が日本の弥生時代に日本列島に渡来して来て、7cになって当時の朝廷から松野連姓を賜り、古代豪族の仲間入りをはたし、平安時代初期に編纂された新撰姓氏録の右京諸蕃に松野連氏は「出自呉王夫差也」との記事が掲載されたのである。
ところが、この一族の活躍記録は日本の公的な記録として新撰姓氏録以外には全く無いのである。
ところが、明治時代に鈴木真年(1831-1894)という系譜研究家(紀伊藩の武士・東京帝大教師など)が蒐集した系図の中に松野連氏系図があったのである。彼が蒐集した系譜類は膨大であったと推定されているが、彼の没後その多くは散逸した可能性が高いとされているのである。しかし、特に重要だと判断できるものは、幸いにも当時の三菱財閥の岩崎家が創設した静嘉堂文庫(岩崎弥之助の雅号が静嘉堂:現在は東京都世田谷区岡本にあり、三菱グループ経営の私設図書館)に買い取られた。その中に松野連氏系図が含まれていたのである。よって現在まで保存されており、我々が読むことも可能なのである。もう一つは国会図書館に所蔵されているのである。松野氏の江戸時代前半までの系図であり、その一部はインターネットの姓氏類別大観で視ることが可能である。
また「埋もれた古代氏族系図」(尾池 誠著 晩稲社 1984  私家本)の中にも上記国会図書館所蔵・静嘉堂文庫所蔵の松野連氏系図が取り上げられているのである。
筆者は以上のような公知資料を参考にして系図を作成したので、これに基づいて解説を試みたいのである。
先ずこの系図は、非常に難解である。第1系図と第2系図と2種類あるが、途中から合体しているのである。
呉王夫差の子供と思われる「忌」という一字名の人物がある。次ぎは「順」であるが、これが忌の子供かどうかが分からない。というのが忌をbc473年頃に実在していた人物と仮定して次ぎに年代がはっきりする人物は倭五王の「讃」までの人物の数が非常に少ないのである。
人物の数が多い第2系図でも14代目に讃が記されているのである。讃は「普書」安帝紀の記事によると、ad413年に初出してくるのである。この間は約890年である。とすると平均64年/1代 となるのである。これは全く不合理な数字である。一般的には25年/1代と仮定できるので、35名以上の人物がいてもおかしくないのである。
とすると、この間で約20名程の人物が省略されているのである。よって、親子かどうかは全く不明なのである。順番がこの系図の様だったぐらいの確度しか表していないのである。2番目の順の次ぎから系図は1・2に分かれているのである。第1の「阿弓」と第2の「恵弓」が兄弟かどうかも全く分からないのである。この系図には添え書きが何人かに人物毎に記されているのである。()付きの添書と()の無い添書の2種類がある。この添書は、この系図が最初に作成された時には存在しなかったようであるが、そもそも何年頃に作成されたのであろうか?論考の中で筆者の意見も述べてみたいが、通常の日本の歴史書・中国の歴史書に出て来る名前も散在しているのである。添書も参考にして、解説を試みたい。

順番1「忌」はbc473年に渡来し、火国菊池郡山門(現熊本県菊池市付近?)に住んだとある。
順番2「順」は添書に委奴に居すとあるが、委奴という地名が良く分からない。伊都を表すのであれば、伊都国という魏志倭人伝に出て来る国名で福岡県糸島市付近に比定されているのであるが。
第1系図
順番3「阿弓」は添書に怡土郡大野に住むとある。これは明らかに筑前国怡土郡大野郷に相当し、現在の前原市曽根・香力付近と思われるのである。
順番4「宇閇」の添書にはAD57年後漢の光武帝から金印を賜ったという内容が付されているのである。これが史実なら、江戸時代に志賀島で発見され、現在国宝ななっている「漢委奴国王」と刻印された印である。bc473年からAD57年まで僅か4名の人物しかいないことになるので、ここまでに多数の人物が省略又は伝承記録から忘れられてしまったと考えられるのである。
順番5「己婁伊加也」添書なし。
順番6「玖志加也」添書には「加志古」と別名あり。さらに永初元年に漢に貢ぐとある。
これは後漢書東夷伝の「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」に相当するものであろう。だとすると、AD107年である。この人物が倭國王帥升と同一人物か従者であるかは不明。宇閇と玖志加也の間は約50年である。間に1名いるので、ほぼ繋がった系図だと判断するのである。
順番7「鷲」添書なし
順番8「刀良」この添書に「卑弥呼姫氏也」とある。さらに宣帝の時、漢にお礼の遣使を出したとある。日本では崇神天皇の時と。後漢には宣帝は存在しないが、前漢には宣帝がいるが(在位:bc73-bc49)で年代が合わないのである。ところが魏の後に建国した「普」には司馬懿(しばい)(179-251)という人物がおり死後に宣帝という称号が与えられたとされているのである。年代的にはこちらが正しいのではなかろうか。だとするとこの刀良が魏志倭人伝に出て来る邪馬台国の女王である卑弥呼であろうか?ならば(?-248)頃と推定されるのである。だとすると、約130年間に2人いたことになり65年/1代となりこれは一寸不合理。卑弥呼は長生きをした。梁書によると、卑弥呼は178年頃既に王位についたとある。だとすればAD107年に活躍記録のある玖志加也の子供が鷲で、孫が刀良であり178年には13才-15才であった可能性があり、後の壱与の例のように13才で女王になった記録があることから、無理な話ではないのである。よって玖志加也ー鷲ー刀良は可能性ありと判断するのである。
順番9「卑弥鹿文」この人物には添書なし。卑弥呼の子供という位置づけであるが、魏志倭人伝では卑弥呼は結婚してなく、本来なら子供はいないはずである。女酋だとして、跡継ぎは養子を迎えて氏族の維持をはかったとの考えも排除は出来ないが。
順番9「花鹿文」添書なし。
順番9「宇麻鹿文」添書なし。
順番9「卑弥鹿文」添書なし。この人物の流れが永続世代につながっているのである。
刀良とこれらの人物との親子関係を示す他の文献等は無いのである。
以上3名は中国文献・日本の文献で裏付けする記述は無いのである。
順番10「取石鹿文」は「花鹿文」の子供の位置づけである。添書に別名川上梟帥(たける)と記されているのである。この人物は日本書紀景行天皇紀に熊襲の首長として記され、景行天皇の子供である小碓尊に殺された人物である。古事記では熊曽建と記されている人物と同一である。花鹿文と親子関係を示す文献等はないのである。但し、日本書紀景行天皇紀・ホツマ伝では取石鹿文の父親は?鹿文と言うことになっているのである。だとすると?鹿文と花鹿文が同一人物ということになるのである。本件は後述したい。
順番10「弟鹿文」添書なし。取石鹿文の弟という位置づけである。
順番10「熊津彦」宇麻鹿文の子供という位置づけ。添書なし。 
ホツマ伝によると、景行天皇の熊曽討伐の帰路に熊の県の県主であった熊津彦は天皇に従った。とあるのである。
順番10「弟熊」添書に誅とあることから、殺された人物で熊津彦の弟という位置づけである。ホツマ伝では、兄熊津彦は景行天皇に従ったが弟は従わず殺されたとある。
熊津彦・弟熊 は、景行天皇の熊曽討伐時に存在し、取石鹿文は倭建の熊曽征伐時代に存在していたことになる。これを史実とするかどうかは後述することにして、本系図と同一人物が記紀などに記されているのである。ところが宇麻鹿文との親子関係は不明である。
順番11「難升米」は熊津彦の子供という位置づけである。添書には兄夷守大夫・卒善中郞になったとある。この人物は魏志倭人伝に登場する人物である。238年卑弥呼の使節として魏に派遣された時に魏王から卒善中郞の称号を賜ったとされているのである。238年246年・248年の記事に登場する人物で邪馬台国の要人の一人である。系図上では卑弥呼の曾孫にあたるのである。不合理ではないのである。
順番11「掖邪狗」も熊津彦の子供という位置づけである。添書には弟夷守大夫・卒善中郞になったとある。これから難升米の弟であろう。彼も魏志倭人伝に卑弥呼の使節として難升米と共に魏に派遣された人物である。243年まで記事があるのである。
難升米と掖邪狗とが兄弟であることは魏志倭人伝記事と本系図で理解できるが、この兄弟と熊津彦の子供であることははっきりしないのである。卑弥呼と難升米と掖邪狗兄弟が同時に生存していたことは、魏志倭人伝の記事より明白である。しかし、この系図を確証する証拠にはなっていないのである。
順番10「厚鹿文」は卑弥鹿文の子供という位置づけである。添書はない。
日本書紀景行天皇紀に登場する人物である。別名熊襲梟帥(たける)と呼ばれた人物である。ホツマ伝にも記事が残されているのである。順番10「熊津彦」と同時代人となるのである。
順番10「?鹿文」は卑弥鹿文の子供という位置づけ。添書あり。景行12年に熊襲梟帥が新羅に遣使。これは174年である。この三国史記の記事は誤りで238年の三国史記の卑弥呼の記事を造作したものとされている。
日本書紀景行天皇紀・ホツマ伝にも記事あり。厚鹿文は兄弟で、子供に取石鹿文となっている。上記花鹿文の子供と同一である。1代分のズレがあるのである。
順番11「取石鹿文」「弟石鹿文」は?鹿文の子供という位置づけ。しかも兄弟 省略
順番11「市乾鹿文」は厚鹿文の子供という位置づけ。添書あり。景行天皇により父親への不幸を誅された。日本書紀景行天皇紀・ホツマ伝に記事あり。景行天皇の妃となって、父熊襲梟帥を殺し、それが不幸の罪となり、誅殺されたとあるのである。
順番11「市鹿文」は厚鹿文の子供という位置づけ。添書あり。238年壱欺と称する王となった。247年火国造を賜る。
日本書紀景行天皇紀記事:熊襲梟帥が父で姉が市乾鹿文で姉妹は共に景行天皇の妃になった。火国造となったとある。ホツマ伝では夫は取石鹿文となって襲国造になったとある。
魏志倭人伝の壱与と同一人物だと添書は主張しているのである。系図上では卑弥呼の曾孫である。これは合理的範囲であるが史実か?
順番11「宇也鹿文」は厚鹿文の子供という位置づけ。添書あり。AD107年に漢に行ったとあるが、これは時代が合わない。火国菊池評山門里に住むとあるのである。この人物は他の文献類には全く記事がないのである。厚鹿文との親子関係も全く不明。
順番12「伊馨耆」は宇也鹿文の子供という位置づけ。添書は大夫だけある。この人物は魏志倭人伝の243年条に記事有り。上記の掖邪狗と同時に登場するのである。とすると、243年時には成人していたと考えられる。卑弥呼は未だ生きている時である。
約220年頃誕生したとすると、卑弥呼の4代孫という系図上の位置は一寸無理筋のような気がするのである。卑弥呼は約165年頃の産まれと推定される。1代は185年2代は205年3代は225年4代は245年誕生が最短だと推定すると、243年は20才はおろか、未だうまれていないことになるのである。一寸おかい。1代ほど前の人物と推定されるのである。1代前にすると、年令は異なるにしても、難升米と掖邪狗と同時代人となり、魏志倭人伝の記事と整合性がとれるのだが。
順番12「茁子」は宇也鹿文の子供・伊馨耆の兄弟という位置づけである。添書は別名「安志垂」とあるだけ。全く他に関連記事ないので、宇也鹿文との親子・伊馨耆の兄弟関係を確認することが不可能な人物である。
順番13「謄」は茁子の子供という位置づけ。添書なし。この人物もこの系図でしか記事が全く無い一字名の人物である。茁子との親子関係も不明である。
順番14「讃」は謄の子供という位置づけ。添書あり。倭王とあり、404-418年に東普に遣使したとあり、これは仁徳85年だと記してある。
宋書倭国伝では413年に倭国王に宋が決めたとの記事がある。これに対応するものと考えると、243年の伊馨耆の記事とこの人物の413年まで約150年の間に2人の人物しかこの系図には記されていないことになるのである。通常の25年/1代を適用すると6人は必要である。4代程欠落しているのである。
順番14「珍」は謄の子供・讃とは兄弟という位置づけである。添書あり。宋書倭国伝の438年の記事があるのである。倭国王である。
順番15「嘉」は讃の子供という位置づけ。添書なし。不明である。
順番15「済」は珍の子供という位置づけ。添書あり。宋書倭国伝の443年の記事。倭国王である。
順番16「興」は済の子供という位置づけ。添書あり。宋書倭国伝の462年の記事・
倭国王である。
順番16「武」は済の子供・興の兄弟と位置づけである。添書あり。宋書倭国伝の478年の記事あり。倭国王である。
以上が倭の五王と言われている人物名である。
日本書紀などには、倭の五王と云われる人物名はないのである。しかし、現在の日本歴史学会ではそれぞれに比定する大王名が知られているのである。
一般的には讃は17履中天皇・珍は18反正天皇・済は19允恭天皇・興は20安康天皇
・武は21雄略天皇とされているのである。一部異論はあるが。
このヤマト王権の王と本稿本系図の倭の五王との関係については論考で述べる予定である。
順番17「哲」は武の子供という位置づけ。添書には倭国王とあるのである。他に関連文献等はないのである。よって武の子供かどうかも不明である。
順番18「満」は哲の子供という位置づけ。添書はない。
順番19「牛慈」は満の子供という位置づけ。添書あり。29欽明天皇の時(540年頃)ヤマト王権に降伏し筑前国夜須郡(現在の福岡県朝倉市付近)の評督になったとある。
武の478年と牛慈の540年との間は約60年であり、3名の人物が記録されているので、合理的範囲と判断する。即ち系図上では武ー哲ー満ー牛慈は親子関係として繋がっていると考えても合理的だということである。
順番20「長提」は牛慈の子供という位置づけである。添書あり。33推古天皇朝に評督として筑紫国夜須郡松峡野(現福岡県朝倉郡筑前町栗田付近)に住んだとある。
順番21「大野」は長提の子供という位置づけである。添書なし。
順番22「廣石」は大野の子供という位置づけ。添書無し。
順番23「津萬侶」は廣石の子供という位置づけ。添書あり。670-694年に朝廷から松野連姓を賜ったとあるのである。
順番24「大田満呂」は 津萬侶の子供という位置づけ。添書無し。
順番25「猪足」は大田満呂の子供という位置づけ。添書なし。
順番26「鷹主」は猪足の子供という位置づけ。添書には園池少令史とあり朝廷勤務についたらしい。
順番26「弟嗣」は猪足の子供・鷹主の兄弟という位置づけ。添書あり。従七位下下級官吏である。
順番27「楓麿」は鷹主の子供という位置づけ。添書あり。左史生従七位上で795年に平安京の右京に移ったとある。
牛慈の540年と楓麿の795年の間約250年の間に8代の人物がいる。約24年/1代で合理的と判断できるのである。即ち順番19「牛慈」から順番27「楓麿」までは親子兄弟関係系図であることが窺えるのである。
初代bc473年と順番27「楓麿」795年である。この間は、1270年間で必要代数は約50代である。本系図では26代である。24代欠落していると推定できるのである。
忌から宇閇の間で約18代欠落。壱与と讃の間で4代欠落と推定した。合わせて22代欠落である。2代不足であるが、これくらいなら誤差範囲と判断した。
以後の系図人名紹介および系図解説は省略する。
第2系図関係
順番3「恵弓」順番2の順の子供という位置づけである。第1系図の阿弓の兄弟という位置づけでもある。添書なし。親子関係・兄弟関係不明。
順番4「阿岐」は恵弓の子供という位置づけである。添書なし。親子関係不明。
順番5「布怒之」は阿岐の子供という位置づけである。添書なし。親子関係不明
順番6「玖賀」は布怒之の子供という位置づけである。添書なし。親子関係不明
順番7「支致古」は玖賀の子供という位置づけである。添書なし。親子関係不明
順番8「宇閇」は 支致古の子供という位置づけ。添書あり。bc68年漢の宣帝に遣使
したとある。親子関係不明
順番9「阿米」は宇閇の子供という位置づけ。添書なし。親子関係不明
順番10「熊鹿文」は阿米の子供という位置づけ。添書あり。姓は姫氏。卑弥子熊津彦と称すとある。AD57年に後漢光武帝から印綬され、委奴国王と称す。とある。親子関係不明。
添書によると順番8「宇閇」bc68年と順番10「熊鹿文」ad57の間は125年で5代に相当するが系図は2代しかないので約3代欠落と判断するのである。
上記第1系図の順番4「宇閇」の添書も同種の内容が記されているのである。
第1系図の宇閇と第2系図の熊鹿文は同一人物と思われるが、系図の混乱の1つである。
bc473の夫差とAD57の熊鹿文の間は約530年である。この間に9代の人名が記されている。約60年/1代となり全く不合理である。通常なら21代ほど必要である。
約12人ほど欠落していると推定されるのである。順番8の添書から判断すると順番8-順番10の間でも3名ほど欠落していると推定できる。よって順番2-順番8までに9名程欠落していると推定できるのである。
第2系図の順番11は 第1系図の順番10「厚鹿文」と同一であるのでこれ以降は一緒である。第1系図と第2系図は全く独立した系図と考えられるので順番が最終的に1番しか異ならないのは、全くの偶然か意図的なことなのかは、論考のところで考えてみたい。第1系図順番11「市鹿文」の添書によると237年に壱与として王になり、247年火国造となったと記されている。第2系図の順番10「熊鹿文」はAD57年の記事あり。
この間は180年である。通常は7代ほどかかる。ところが、第2系図では2代しかいない。5代ほど欠落が推定されるのである。一方第1系図では卑弥呼の248年と市鹿文の237年は僅か10年でほぼ同時代人である。但し魏志倭人伝などの記事によると、卑弥呼83才と壱与13才が249年に相当なので、年齢差は70才あり、通常ならこの間に3代あっても不思議ではないことになるのである。よって系図1の方はこの付近は合理的と判断したのである。

6-3)中国古代王朝関連論考 4-1)4-1-1~4)4-1-4-1~4)参照
 筆者は中国の古代史については、全くといってよい程知識が無いので、これを論考するなんてことはとんでもないことである。しかし、そこはアマチュアの強みで、にわか仕込みであれ、思いつくまま、気の向くままに系図中心ではあるが記してみたいのである。
筆者は昨秋、友人等と中国河南省の旅をしてきた。鄭州市(殷)・洛陽市(東周・後漢・魏・北魏・隋・後唐)・安陽市(殷墟)・登封市(夏)・開封市(北宋)など黄河文明の中心地を駆け足であったが、見物してきた。()内は古代の王朝の首都であったことを示す。正に中国4千年の歴史の宝庫を目の当たりに観て、日本列島の文化の源を感じたのである。この辺りは漢民族の発祥の地といっても間違いないであろう。
漢民族の定義は非常に難しいのである。一般的には黄河中流域の所謂黄河文明発祥の地である、「中原」に発生した王朝である夏(夏族)・周(華族)を中心とした「華夏族」を中核にして、周辺の色々な民族と、その混血民族を指し、漢王朝の時ほぼ母体が確定したとされる民族で、現在では世界最大の民族と云われているのである。後述する遺伝子面でいうと、Y染色体の分類でO2系統(新モンゴロイド族の典型)が主流を占める民族だとされているのである。
 本稿系図のトップの中国神話5帝系図が、中国の歴史を語る基本系図である。
前漢時代の司馬遷(bc145-bc87)が書き残した「史記」が、この系図の根拠について文字記録された最古の文献だとされているのである。
司馬遷は当時各地に語り継がれている神話・伝承なども含め、彼が当時として蒐集可能な情報を整理して、この様な系図を作成したのである。これを総て史実と認める現代の学者はいないらしいが、勿論異系図も多数あるらしいが、これに置き替えられる根拠のあるしっかりした系図は無いのである。この系図の⑤舜までは所謂神話だとされているのである。しかし、青字で示した歴史時代の各氏族の源であるとされているのである。何故か日本神話と良く似ている思想が底流にあるように思われるのである。但し、この系図の終わりはbc2000年頃だとされているのである。日本の神話時代の終わりはad0年前後と合理的には考えられるとの説もあることを考えると凄いのである。一方、司馬遷の時代には既に漢字は実用化されており、布記録・木簡・竹簡・金文字・甲骨文字記録・石刻文字記録など殷の時代からの記録が残っていた可能性があったとされているのである。特に日本との違いを感じるのは、各氏族の系譜記録の習慣が墳墓の墓誌などの形で残されていることである。
 筆者も昨秋の旅で殷墟・後漢・魏時代の石に文字が彫られた墓誌が現在も沢山残されているのに驚いたのである。本稿の5帝系図は筆者が理解した範囲で作成したものであるが、夏・殷・周・秦・漢などの古代王朝の元祖が総てこの5帝の末裔だというのは、後代の創作も加わっているとの説も多数ある(擬制的血縁関係と呼ぶらしい)が、これが漢民族の心のよりどころとされているのである。
ヨーロッパ王家・古代エジプト・イスラム諸国・朝鮮・日本・アフリカ諸国にしろ、古くから人類はこの種のなんらかの系譜作成は非常に重要事項とされてきたのである。
人間の本能みたいな事項であると理解せざるをえないのである。
次ぎに5帝系図にもある漢民族の「姓」について簡単に述べてみたいのである。
①漢民族の姓は「漢姓」と呼ばれ、漢字一文字の単姓が基本である。現在は単姓が主流。但し、二字以上の複姓も存在する。例えば「司馬」「公孫」など。
②現在人口が多い姓は王・季・張・劉・陳・楊・黄など。
③名は古くは一字が普通。現在は殆どが二字。
④周王朝以前には「姓」は貴族だけが有していた。
⑤官位・領地名が「氏」で、貴族は姓も氏も有していた。
⑥姓が同じ男女は結婚が出来なかった。歴史的には姓は母系を表し、文字の中に女の文字が含まれていた。姫(周王)・姜・姚・?(えい)(秦王)など。近親通婚防止
 
夏王朝系図は歴代の王の名前しか記していないが、これはほぼ史実だとされているのである。有名人物は最後の王である「桀」である。儒教的評価で歴史的に暴君とされてきたが、史実的には必ずしもそうではないと言う説が最近の説である。
河南省登封市には「禹王台」があり、禹が現在も黄河治水の神として祭られている。筆者も見学してきた。
殷(商)王朝時代は30代500年以上続いた王朝である。この時代に漢字が誕生したとされているのである。殷墟の発掘調査が戦前から戦後にかけて行われ、中国の歴史の見直し、確定がされたとも云われているのである。当初は「商」と呼ばれた土地の領主であった。よって国名も「商」であった。中国では現在でも「殷」よりも「商」の方が普通に使われているのである。銅文化もこの時代に誕生したのである。
この王朝も最後の肘王が暴君だとされている。この系図も史実だとされているのである。
基本的には史記に記事があり、殷墟の発掘調査で見つかった亀甲文字などの解読がされた結果、史記の記録は殆ど再確認され、人名の確認もされたらしい。史記は凄い。
各王毎の事績も記されているのである。
 次ぎに本稿の主テーマである倭国姫氏に直接関係する、周王朝について述べたい。
系図に示したように、周王朝の元祖はBC2000年頃に存在していたとされる「后稷」が5帝時代の③帝俊の子供として産まれ、姫氏を賜ったことから始まるとされているのである。この氏族の結婚相手は代々姜(きょう)族の女性だったとされている。元祖が姜(きょう)族腹だったからだとも云われているのである。12代目の古公亶父と姜族女の間に3人の息子が産まれた。その長男が「太伯」である。本来なら彼が嫡男であり、周の氏族を継ぐ運命であった。ところが、父古公亶父は3男の季歴に跡を継がしたい態度を示した。これを察知した太伯は次男虞仲と示し合わせて、揚子江の下流域に出奔したのである。その後句呉国を興し王となった。全身に刺青をし、蛮族となり、二度と中原に帰らぬことを態度で示したのである。この一連の行動が論語・史記などで偉人という人物評価を受けたのである。
季歴の孫である武王が殷の肘王を倒して周王朝を建国した時、太伯に帰国するよう使いを出したが応じることなく、また自分には子供もなかったので虞仲の子供に国を継がせ、その子孫により国名を「呉」と改名して25代約700年間王朝を江南の蘇州付近で続けたのである。この呉国が、呉越同舟・臥薪嘗胆の故事を産んだのである。
bc473年に最後の王である「夫差」が越国に敗れ、この王国は滅んだのである。
その後、その裔が渡海して倭国に来たということになっているのである。
この間本宗の西周王朝は長安の都でbc771年まで約300年間12代まで続いた。その後勢力は著しく低下したが、bc771-bc256まで都を洛陽に遷して東周として25代続いたのである。この時代は春秋・戦国時代と呼ばれている。日本で云えば、縄文時代から弥生時代に変わる時代である。
 
6-3-1)「倭(わ)」について   5)古代中国ー日本比較年表 参照
 既稿「倭氏考」の中で筆者は倭について下記記事を掲載した。
本件に関しては筆者のようなアマチュアが解説するような簡単な事柄ではない。古来日本国内は勿論、朝鮮半島、中国の歴史学者などが喧々がくがくの議論を展開している問題である。未だに統一見解なんて全く見込まれない分野の問題である。参考文献を挙げておいたが、日本の学者間でも、それも戦後の学者の間でも、同一史料の解釈が大幅に異なり、考古学的発掘の進展にもより、さらに複雑化して、未だ未だ我々アマチュアが理解し、納得できる段階にはないと判断している。これが、朝鮮半島・中国の学者がはいると、まさに卍がらみの三つ巴の様相を呈している。根っこに一種の民族主義的感情問題も根強くあるので、史実はどうかというレベルの話が専門家同士でもなかなか進展しないようだ。
以下に筆者なりに理解した範囲で箇条書き的に「倭」について記す。
 
①中国の歴史年表上「倭」という文字記録が登場するのが、紀元前11c-12cに相当する「周」という時代初期に「倭人」の記事がある。日本でいえば縄文時代晩期である。この記事はAD2c末出版された「論衡」という書物に掲載されている。
日本では一般的には「倭人」は弥生時代の種族になると考えられており、史実としては余り重要視されていない記事である。
②春秋時代(bc8c-5c)に「孔子」が記した有名な「論語」の中に「九夷」という言葉があるが、この九夷というのは中国から見て東の方向に9つの夷の国があるとされ、その国々の中の一つに後の「倭」が含まれているというのである。これも日本では余り重要視されていない。
③前漢時代(bc1c-AD2c)に成立されたと推定されている「山海経」という書物の記事としてbc4c-3c頃に「倭」が記録されている。これも史実としては疑問があり日本では重要視されていない。
④AD1cの後漢時代に成立した公的書物である「漢書」地理志の記事が日本の学者の多くが重要視する最古の「倭」に関する物である。有名な 「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」がある。一般的には紀元1世紀前後には日本列島の住民が中国・朝鮮半島と交流があったという証拠史料とされている。
⑤AD432年に成立した公的書物である「後漢書」東夷伝の記事としてAD57年の記録として「倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」があり、これが我が国として最古の文字記録として九州博多湾にある志賀島で江戸時代に発見され現在も残されている金印(漢委奴国王印)に対応する証拠文献とされているのである。
またAD107年の記事として「倭國王帥升等 獻生口百六十人願請見」があり、中国と倭との交流があったことの証拠とされているが、この文章には色々異議があるらしい。
⑥AD280年に有名な「魏志倭人伝」が完成している。この記事は詳しく倭国・倭人の風俗習慣などが記されており邪馬台国の位置まで記されている。しかし、この女王卑弥呼が治めたとされる邪馬台国の位置が解釈を巡って現在も九州説・近畿ヤマト説など日本古代史最大の論争が繰り広げられている。189年ー255年頃までの邪馬台国と魏国との交流記録が記されている。日本古代史上最重要の文献である。
⑦369年百済で鋳造されたとされる「七支刀」には重要な銘文が記されている。この中に「倭王」とある。この刀は現在石上神社にある。国宝である。この銘文の解釈も諸論がある。
⑧414年に建立されたとされる「高句麗好太王碑文」には391年ー407年の「倭」・「倭軍」と朝鮮半島の国々との関係が記されている。古来記紀に記されている神功皇后の活躍記事を裏付ける証拠と目され、碑文改竄説・解釈の違いなど中国・朝鮮半島・日本で統一見解が未だ出されていない重要遺跡文である。
⑨488年頃完成したとされる公的書物である「宋書」倭国伝で「倭の五王」のことが記されている。記紀に記されている応神(仁徳)大王から雄略大王くらいまでの記事である。一説では365年ー478年頃までの時代に相当するらしい。この間の倭王は日本列島の統治者として中国も認知したと考えられている。倭王は、倭国王を自称している。
⑩471年に造られたとされる「稲荷山古墳鉄剣銘文」は、我が国に現存する最古の日本人による文字記録史料とされているものである。漢字による表音・漢文文字で雄略天皇が統治者として記録されている。この銘文中には「倭」の文字はない。
⑪537年に完成した「南齋書」東南夷伝にも479年に倭国の倭王武(雄略天皇)より中国に遣使があり称号を与えたとある。
⑫636年に完成した「梁書」諸夷伝東夷条倭の502年の記事に、倭王武が出てくる。この文献の中に倭人の出自は「太伯之後」と記されていた。これは中国では一般的にそのように伝わってきたとされているのである。これが後に我が国の国号を倭から日本へと変える引き金になった可能性あり。(後述)
⑬656年に有名な「隋書」倭国伝(正確には?国伝)が完成した。この中で600年の第1回遣隋使、607年の第2回の遣隋使の記事がある。有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」もこの中に記されている。この隋書の記事もその解釈で議論がある。
656年の段階で少なくとも当時の国際的な我が国の国号は「倭国」であったことが分かる。
⑭762-779年頃に完成した「唐暦」という書物の記事に「702年に日本国から第7次遣唐使があったこと」が記されてあり、これが日本という国号を唐に正式に名乗った最初であるとの説あり。その他の中国・朝鮮の文献に、この頃(690年代)倭国の国号が日本に改められたとの記事が残されている。古来諸説あり確定的ではない。
⑮945年に完成した「旧唐書」東夷伝倭国・日本国伝の中で「倭國者古倭奴國也 ーーー日本國者倭國之別種也ーーーー倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」と記している。日本の平安時代における中国の我が国への認識の一端が伺える。公式文書として日本の国号が示された最初の文献だとの説もある。
 
以上が我が国を表す国際的な名称が「倭」から「日本」に変遷した中国・朝鮮側からの判断基準である。   との記事を今回も利用することにするのである。
本稿では、さらに次ぎの中国古典を追加したいのである。上記の④と⑤の間に完成されたと推定されている「魏略」という書物である。
・270-280年頃「魏略」完成 魚豢(ぎょかん)
 「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」
三国志・魏志倭人伝、梁書諸夷伝東夷条などもこの文献を参考にしたともいわれている。邪馬台国・倭などについても記述があったとされている。
この古典は殆どが散逸したらしく、その内容の一部が660年頃に完成とされる「翰苑(かんえん)張楚金著 という書物に引用されており、その第30巻蕃夷部(含む倭国)だけが、日本の太宰府天満宮にだけ現存されているのである。国宝である。
上記「」内の一文がその倭国の部の一部である。ここに「聞其旧語 自謂太伯之後」 が中国文献として初出するのである。
・636年:「梁書」諸夷伝東夷条 倭完成  姚思廉     
「其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭千餘里 船行可一年至 」
「倭者、自云太伯之後。俗皆文身。去帶方萬二千餘里、大抵在會稽之東、相去絶遠。」
などがあるのである。
上記①ー③に出て来る倭及び倭人という表現及び⑤の「倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」の記事などから、5世紀頃までの中国王朝の朝廷の人々は倭人が住んでいた範囲は、現在の日本列島・九州とは限定されてなく、東中国・朝鮮半島の西南沿岸部にも居たと認識していたと推定されるという説も日本の学者の中にもいるのである。5c以降の中国文献では現在の日本列島に限定されたようである。
さらに日本の室町時代に発行されたとされる資治通鑑前編という書物が重要である。
・「資治通鑑前編」呉亡条記事:「日本又云、呉太伯之后 、盖呉亡、其支庶入海為倭」
これの補足資料として2010年に日中の歴史学者で見解をまとめた「日中歴史共同研究報告書(2010年)」の抜粋を下記に示した。
『第二部第二章 第一節 大陸移民の東渡 王勇
大陸移民の東への移動の始まりについては、年代が古く史伝は詳らかではなく、今日となってはほとんど考察する手がかりがない。しかし日本列島の早期文明の幾度かの躍進は、まさに外来移民が持ち込んだ進んだ金属器や生産道具、紡織技術などとの関係が密接である。たとえば、紀元前後の弥生文化の遺跡に出土した炭化した籾そして貨泉や漢鏡など、5 世紀前後の古墳遺跡で発見された三角縁神獣鏡や銅鐸そして馬具などは、すべて日本列島に原生した物ではなく、大陸と半島から伝わった「舶来品」か、もしくは外来文明の刺激のもとで変異してきたものである。
2.「呉の泰伯の後裔説」
呉と越はともに江南にあったが、古くより戦争がやむことはなかった。紀元前473 年、越王勾践は呉王夫差を打ち負かした。『資治通鑑前編』に「呉は太伯から夫差に至るまで二十五世あった。今日本国はまた呉の太伯の後だというのは、つまり呉が亡んだ後に、その子孫支庶が海に入って倭となったのである」とある記述が意味するところは、呉人が亡国の後四散して、一部が海を跨いで東進し日本にたどり着いたということである。
倭人が自ら呉の泰伯の後裔だと称するのは、最も早くは魚豢『魏略』の「倭人自ら太伯の後と謂う」という記述に見え、この説は唐宋時代に『翰苑』、『梁書』、『通典』、『北史』、『晋書』、『太平御覧』、『諸蕃志』など様々な史書に採録されることとなり、かなり広く流伝していたことがわかる。(中略)
紀元前473 年、越王勾践は臥薪嘗胆し、兵を興して呉の地に攻め入り、句?は遂に夫差の代で亡ぶ。「呉の泰伯の後裔説」が形成された下限は、『魏略』が成立した3 世紀の後期にあたり、その時日本は中国と「使訳通ずる所三十国」であり、その中で女王が統率する邪馬台国が最も強勢であった。
「呉の泰伯の後裔説」は日本民族の起源に関係すると同時に、大陸移民の東渡にも関わるので、学界で注目を浴び、激烈な論戦が交わされた。たとえば村尾次郎氏は中国人の「曲筆空想」だと指摘し、大森志朗氏はこれは「漢民族の中華思想の産物だ」とみなす。また千々和実氏は綿密な考証を経て、3 世紀の倭人の部落が対内的には王権を強化するために、対外的には威望を挙げる需要のために、自分たち民族の始祖を賢人泰伯に結びつけたと指摘(中略)
『魏略』の載せる「自ら太伯の後と謂う」倭人は、『資治通鑑前編』によれば「海に入って倭となった」呉人の支庶にあたる。この説はさまざまな中国史書に記録されているので、その来源はこまごまとした個人の伝聞などではなく、ある部落の始祖伝説によるものに違いない。もし上述の推断が間違っていなければ、これは3 世紀後期以前に、日本に東渡した呉人がある部落国家(或いは連盟)を建立し統治したことを意味する。この部落国家(或いは連盟)は親魏的な女王に背馳して、呉国の創始者泰伯を尊奉して始祖とし、邪馬台国の統治する30 国に属さなかったと推察される。 以下省略』
 

6-3-2)中国古文献類から窺える倭・倭人・倭国のイメージ論考
 中国ではbc1600年頃、殷の時代に漢字が誕生し、何らかの手段を用いて文字記録がされたのである。漢字は、人間が発音した音を表すと共に、その意味をも表す表意表音文字である。周の時代(bc1046-bc256)には王朝の役人・貴族らは漢字を通常に用いていたと考えられている。ad2cに完成したとされる「論衡」では、周の成王時代(bc1021-bc1002)の記録として「倭人」という文字が初出するのである。「周時天下太平 倭人來獻鬯草」「成王時(bc1021-bc1002) 越裳獻雉 倭人貢鬯」著者の時代より1000年も前の記事である。伝承も含め何らかの記録があったものと推定されるのである。史実かどうかは全く確かめようがないが、周の時代に倭人という言葉があったことぐらいは、窺えるのである。一般的には○○人という場合、○○に相当する言葉は、地名又は国名が多い。例えば、周人、越人、漢人、唐人、日本人、ドイツ人、などなどである。だとすると、倭人とは、倭という地名又は国などに住んでいる人を表す言葉である。この周という時代に倭という地名・国名が存在したのであろうか?存在したとすれば何処なのか?少なくともこの記事の内容からは、この倭人の住んでいる場所は、日本列島でもなく、朝鮮半島でもない。華南地方だと推定されているのである。
一方、bc200年頃に完成したとされる「山海経」という書物の中に戦国時代の記事として、「蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕」という文言が記されている。
「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属する」と読むのが、ほぼ定説化している。 燕とは戦国時代(bc403~bc221)今の北京付近に王都をおいた諸侯国の一つである。この解釈は諸説あるようなので省略するが、この場合の「倭」は明らかに地名を表していると判断する。筆者は通常は倭という地名の所に住んでいる人々を倭人というと考えるのである。ところが、この時代は倭に関しては反対だったのでは、と考えるのである。即ち倭人又は倭種と呼ばれた人種が住んでいる所を倭と称したのではなかろうか。
よって、古い時代には、倭人は色々な場所に住んでいたものと、思われる。一種の流浪の民で決まった領地、居住地は無かったものと考えた方が理解し易いのである。
一説によると、倭人・倭種と呼ばれる人種を、他の種族の人達、中国王朝関係者は、見間違えることはなかったとされているのである。江南地方出身で水田稲作技術を有し、漁撈も行い、外見は断髪文身し顔にも刺青をしている中原の人達からは明らかに野蛮人に見える人種であったとされているのである。中原の中国人から見れば「夷」なのである。後漢時代ad82年に発行された「漢書」地理志には「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔 子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献」という有名な記事がある。日本では弥生時代の状態である。この倭人が住んでいたところが、日本列島で、当時既に百以上の小国があり、朝鮮半島にあった漢の出先機関であった楽浪郡と交流があったとされている。よって、ad1世紀より前には日本列島に倭人が渡来してきたことが窺える。
ad270年頃完成の「魏略」は、280年頃完成の「魏志倭人伝」などの元本だとされている書物でad3世紀頃の帯方郡から日本列島の倭人の地に行く行程が示されており、その習俗も記されているのである。
『倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国 皆倭種
従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国、至拘邪韓国七千里 始度千余里 至対馬国。其大官曰卑狗 副曰卑奴 無良田 南北市糴。南度海 至一支国 置官 与対同 地方三百里。又度海千余里 至末盧国 人善捕魚 能浮没水取之。東南五百里 至伊都国 戸万余 置曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚。其国王皆属女王也。女王之南又有狗奴国 以男子為王 其官曰拘右智卑狗。不属女王也。女王不属也。自帯方至女国万二千余里 其俗男子皆点而文 聞其旧語、自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽、断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也。倭南有侏儒国 其人長三四尺 去女王国四千里』
 
さらにad432年に完成した「後漢書」東夷伝記事:「建武中元二年(AD57)倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」(漢委奴国王金印)
 安帝永初元年(AD107年) 倭國王帥升等獻生口百六十 人願請見」「會稽海外有東?人 分爲二十餘國」
 さらに「後漢書」檀石槐伝記事:「光和元年(AD197年)冬 又寇酒泉 縁邊莫不被 毒 ーーーーー 其中有魚不能得之 聞倭人善網捕 於是東?倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」とあるのである。
 ad5c頃の中国では、日本列島の北九州辺りが、倭国の最南端だという認識だったらしい。ということは、倭国は、朝鮮半島にもあったということを暗示しているのである。
即ち倭人は朝鮮半島の西海岸・南部一帯にも住んでいたと推定可能である。
さらに倭国は倭人国であると同義語であり、倭人が住んでいる国であるという認識だったことが分かるのである。そして一方では、その倭人は自分らのことを周・呉の王家である太伯の裔だと云っていたのである。だとすれば、倭人が自謂太伯之後だという倭人は朝鮮半島と日本列島(九州)の両方に住んでいたわけだから、日本にだけ太伯之後が渡来したと考えるのは、一見無理があるのである。ところが、この「魏略」の記事は、明らかに日本列島にある倭及び倭人の記事のなかで彼等が自分らの祖先は太伯であると云っているので、日本列島での伝承を記録したものと推定されるのである。
この辺りの倭についての解釈は、古来から朝鮮半島の学者・日本の学者・中国の学者で見解が非常に異なるところである。既稿「倭氏考」の論考で筆者は最近の倭・倭人論みたいなことを記した。これの主な所を下記に述べたい。
 現在の中国の日本古代史の第1人者 沈仁安著「中国からみた日本の古代」(2003)の『第20章「倭人は日本人ではない」を批評する』の中で、沈仁安が主張していることの主旨を筆者が理解した範囲で箇条書きした。
①「倭」「倭人」が、日本、日本人の古代の呼び方であることには、中国の学界では、疑問はない。日本の学界において、1970年代以前も論争はなかったが、1970年代以降、解釈を拡大する傾向が現れた。ある学者は、倭人は日本に存在するだけでなく、朝鮮半島南部・中国の江南・東北部・内蒙古にも倭人がいたと考えている。私はこの見方を「広義の倭人論」と呼んだ。
ーーー著者はこの中でこの「広義の倭人論」を展開した井上秀雄・網野善彦らの日本人学者の説に反論している。ーーー
②「倭」についての意味は、最も早くに「倭」に言及した中国の古い文献の数種の地名・種族名・国家名以外のものはない。ここで「倭」が指しているのは、疑いなく一致しており、後の日本である。(筆者注:朝鮮半島には倭は存在しないと主張)
③弁韓は鉄を産出し、列島の倭人は鉄が不足していたので、倭人はたえず弁韓を侵犯するか、あるいは弁韓と交流するなかで鉄を獲得した。したがって弁韓には倭人がいるのは、疑問の余地はない。但し、この倭人は、列島の倭人が移住していたにすぎず、「日本人」と同一視してよい。もし朝鮮半島南部、とりわけ弁韓の種族が韓人でなく、「倭人」の人びとと呼ばれるなら、それは、「広義の倭人論」である。
④この「広義の倭人論」を説明出来る証拠はない。
ーーー と明確に記している。
韓国の比較言語学者で、日本古代史についても非常に詳しい姜 吉云の最近の著作からその一端を紹介したい。
・姜 吉云(カン ギルウン)著「倭の正体」(株)三五館(2010年)より
①「倭」は今では日本を指す語であるが、6世紀半ば以前すなわち駕洛国(伽耶諸国)が滅びるまでは南韓にあった加羅諸国、とくに首都であった金官伽耶が倭の本拠であった。ところが、3世紀以後から駕洛国が漸次衰退するに従って日本列島にさらに多くの加羅族が移動してきて、邪馬壹国(筑紫倭)・多羅国・狗奴国や大和倭を建て、後に大和倭を中心として今に至る日本国を造った。
②日本列島の「倭」は南朝梁の沈約が487年に編纂した「宋書」「倭国伝」によって初めて海外に知らされた。そこには「倭国在高麗東南大海中」と書かれている。ということは、5世紀までの「倭」とは日本列島内の「倭」を指すのではなく、伽耶(駕洛国、「日本書紀」では加羅)を指す。   
ーーーこの背景には高句麗好太王碑碑文に記されている総ての倭は日本列島の倭とは無関係であるとしているのである。ーーー
以下省略
 勿論現在の日本の学者の間でもこの「倭」についての統一見解みたいなものは無いのである。さらにこの問題を複雑にしているのが、倭国・倭王論である。倭人論と共に、本稿の主目的である松野連氏の系図論考後に纏めて論考を試みたい。
 
6-4)松野連氏系図論考  4-2)4-2-1~5)参照
 上述したように松野連氏系図は、難解である。
①この系図は明治の系図研究者の鈴木真年によって蒐集された江戸時代の系図の中から発見され、「鈴木真年伝」の中に掲載されている「古代来朝人考」に記載された松野連氏系図を同じく明治時代の系図研究者の中田憲信が筆写し、それを元に尾池 誠が論評したのが、「埋もれた古代氏族系図 新見の倭王系図の紹介」という本で、これが1984年に一般公開され、これ以降多くの古代史ファンが目にすることが可能になったのである。未だ30年ほどしか経ていないのである。専門家の詳しい系図批判がされていないのである。
一般的にはこの系図は全幅の信憑性・信頼性は置き難いが、一考の価値があるのではないか、という評価である。或いは全く無視されているのである。
②この系図は記紀などで知られている古代豪族系図とは全く異なっており、bc443年からの周の姫氏の太伯の子孫である呉王夫差の裔である「忌」からの系図が記されており、ad1600年頃までの約2000年の系図なのである。天皇家系図に匹敵、実質的にはそれより遙かに長期間の系図になっているのである。系図と言えるかどうか疑問との評価もあるようだが。
③漢委奴国王・邪馬台国女王卑弥呼・魏志倭人伝に記された人物・女王の後継者台与・日本書紀に一部記されている九州の熊襲の首長の名前・さらに宋書倭国伝に記されている「倭五王」などが系図上に記されているのである。
④筆者が直感的に感じた疑問点・違和感
イ、この系図の古代部分特に倭五王以前は誰がいつ頃作成したのであろうか?
ロ、系図上に記された主に2種類(()付き、()無し)の添書は誰がいつ頃記したのであろうか?
ハ、第1系図と第2系図の意味?
ニ、本稿系図解説で記した、筆者推定で第1系図での22代もの系図欠落部分が存在しているのは何故か?
ホ、倭五王がこの系図に記されているのは何故か?
⑤筆者はad540年頃(添書:金刺宮御宇服降為夜須評督)の「牛慈」辺り以降の系図は、ほぼ史実に近いものと判断している。
⑥系図以外では、915年の新撰姓氏録の右京諸蕃 松野連氏の記事として「出自呉王夫差也」が掲載された根拠は何にあったのか? 915年までに中国側の古典史料に太伯之後が倭人の祖であるとの記事はあるが、その太伯之後が具体的に呉王夫差との具体的記述は無いのである。
この内容を記した中国側の初出文献は前述したように、日本の室町時代に相当する時代に出版された「資治通鑑前編」呉亡条記事:「日本又云、呉太伯之后 、盖呉亡、其支庶入海為倭」である。これをどう考えるべきか?
 
上記④に記した疑問点・違和感の源は系図本体と添書にあるのである。
先ず添書について論考してみたい。
この添書は非常にハイレベルな内容が含まれているのである。
イ)松野連氏しか分からない様な記述
ロ)日本書紀・魏志倭人伝・後漢書・宋書倭国伝などの中国古典にも精通した知見がないと理解出来ない内容の記述。と分けられるのである。具体的に記したい。
呉王夫差:呉王 イロ 系図作成時に記されたと推定
忌:「字ハ慶父」 「ハ」の字は平安以降 内容はイ
(孝昭天皇三年来朝住火国山門) 孝昭天皇三年は日本書紀暦これがBC473年に相当することが理解出来る知識は並ではない。少なくとも720年以降の添書。
「来朝住火国山門」は松野氏の伝承か?イ                       
順: 「字ハ去漫」 「ハ」は平安以降 内容はイ
(居于委奴)推定 は相当怪しい記事。委奴という地名はどこをさすのか?次ぎの阿弓の添書にある(怡土郡大野住)との関連からすると、魏志倭人伝に出て来る伊都国に関連した地名であるか?又は江戸時代に発見された金印に記された「漢委奴国王」の委奴に関連する地名か?もし後者なら、この添書は江戸時代以降なのか?それとも委奴という地名が奈良時代頃に伊都とは無関係な場所にあったのか?この添書の年代ともからみ、怪しげな添書であるといえる。
第1系図
阿弓:(怡土郡大野住)内容はイ
宇閇:(後漢光武帝中元二年正月貢献使人自称大夫賜以印綬)後漢書記事 ロ
玖志加也:(永初元年十月貢漢)後漢書記事 ロ
刀良:(卑弥呼姫氏也) 内容はイ.ロであるが、魏志倭人伝の女王卑弥呼がこの人物に比定した理由が不明であり、この添書の時期が不明。
(宣帝時遣使礼漢 本朝崇神帝時)内容的にはロである。添書時期は720年以降。
取石鹿文:川上梟帥 内容的にはイであるが、日本書紀にも同名があり、ロともいえる。
添書時期不明。ロなら720年以降
難升米:(兄夷守大夫)(卒善中郞為)魏志倭人伝記事 ロ
掖邪狗:(弟夷守)(卒善中郞為)魏志倭人伝記事 ロ
第2系図
宇閇:(漢宣帝時遣使地節二年)出典不明ロ
熊鹿文:姓姫氏 称卑弥子熊津彦 イ
(後漢光武中元二年正月私通漢土受印綬?称委奴国王)後漢書記事よってロと判断しているが、後漢書は倭奴国と明記してあるのに対し、本添書は何故か委奴国王という文字が使われているのである。意図的に倭奴国を委奴国と替えて記したかどうかで、この系図添書の価値が大幅に変わると判断しているのである。
江戸時代に金印が発見された。この金印には漢委奴国王と彫られているが、この時初めて委奴国という名前があることに日本人は知ったのである。委奴とは魏志倭人伝に出てくる北九州にある奴国と同義語とすれば、意味は余り変わらないが、例えば伊都国という意味とか全く奴国とは関係ない地名を意図的に記したのであれば、後漢書に出て来る倭奴国とは別物になり、金印の話とは異なった場所を示すことになるのである。後漢書に記されている光武帝中元二年印綬などの文字も一致しているので、同義語と解して問題無い。
しかし、第1系図の「順」の箇所の「委奴」といい、上記「委奴王」といい、何か意図的にこの文字を用いているようでならない。そうなら、この添書は江戸時代以降のものと判断せざるをえないのである。
第1第2系図合体後
?鹿文:(新羅阿達羅尼師今廿年遣使景行十二年熊襲梟帥也)ロ720年以降
市乾鹿文 :(景行天皇賜龍之殺父則悪 其不孝之甚而誅之)ロ720年以降
市鹿文:(同時賜火国造魏正始八年立為王景初二年貢奉被称壱欺)
魏志倭人伝と日本書紀参考ロ720年以降
宇也鹿文:(鬼毛理)イ  (火国菊池評山門里住永初元年十月通漢)火国菊池評山門里住部分はイ 永初元年十月通漢は後漢書記事であるが、年代が合わない誤記と思われる。
添書時期不明。菊池評という標示が気になる
茁子:(安志垂)イ添書時期不明
伊馨耆:大夫 魏志倭人伝ロ
讃 : 倭王 イロ不明 
( 普安帝時遣使仁徳85年)宋書倭国伝 日本書紀ロ720年以降 
珍:立為王、使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王宋文帝元嘉二年遣使 宋書倭国伝 ロ
済:同二十年遣使為安東将軍倭国王  宋書倭国伝 ロ
興:孝武大明六年授、安東将軍倭国王ロ
武:立為倭王自称使持節都督七国諸軍事昇明二年梁武帝授征東大将軍ロ
倭5王の添書は720年以降に添書を付したと推定できる。
哲:倭国王 イ添書時期不明
牛慈 :(金刺宮御宇服降為夜須評督)イ
松野長提:(小治田朝評督筑紫国夜須郡松峡野住)イ
津萬侶:(甲午籍負松野連姓)イ
鷹主: 園池少令史イ
楓麿:左史生従七位上イ (延暦十四年八月貫右京)イ
以上大雑把に添書部分を分類してみた。
ここから窺えるのは、a.本系図の元の姿は、添書は全くなかったか、せいぜいイ)系統の
添書(全てというのではないが)しかなかったのではなかろうか。b.第1系図と第2系図は元は1本の系図だったものが、どこかの段階で2系統に分かれて伝承されたものと思われ、それを「津萬侶」 が松野連姓を朝廷から賜った時点辺りで本系図の様な系図に纏めたのではなかろうか。
欽明朝の「牛慈」 以降の添書は、ほぼ史実を反映しており、桓武朝の「楓麿」辺りの人物の手で欽明朝の牛慈以降の系図及び添書が完成したものと推定できる。
この時には、元祖である呉王夫差が系図に明記されていたのではなかろうか。
元々九州の地で太伯之後であること、呉王夫差の裔であることを伝承し続けた一族があり、それなりに、その地方でのリーダー的存在であったことを当時の朝廷は認識し、松野連姓を与えたものと推定されるのである。地方の名もない一氏族に連姓を付与するということは一般的には考えられないことである。その際に松野氏に伝承されていたであろう家譜の類の提出を求めた可能性は充分考えられるのである。これには恐らく上記の呉王夫差の裔であることは記載されていたものと推察できる。よって平安時代に朝廷が新撰姓氏録を編纂するにあたり、当時既に平安京に居を移し、朝廷に仕える身分であり、古代豪族の仲間入りを果たしていた松野連氏を姓氏録に掲載することになり、この松野氏家譜およびこの松野連氏系図が参考にされ、「出自呉王夫差也」の記事が新撰姓氏録に掲載されたものと推定する。
c.問題はad57年に金印を拝受した奴国王熊鹿文、邪馬台国の女王卑弥呼・女王壱与・倭五王が本系図に出ていることをどう評価するかである。
筆者は既稿「安曇氏考」「倭氏考」「久米氏考」など九州にその原点がある古代豪族の論考の中でこれらの豪族がなんらかの形で「奴国」に関連しているのではないかと述べてきたのである。古代弥生時代ではっきり年代が確定しているのがAD57年の金印の事だけである。そして、奴国は後のヤマト王権とは異なる氏族の臭いが強かった。倭氏の祖である「椎根津彦」は地祇系であり、久米氏は顔に刺青をしており、安曇氏の出自は志賀島付近とされているのである。魏志倭人伝にも奴国は邪馬台国の連合国の一つとして記されている。
さらに「魏略」を初め多くの中国古典に「倭人が自謂太伯之後」と記してある。魏略は出版されたのは270年頃であり、「漢書地理志」の「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」を受けた形で倭人が楽浪郡などを訪れ、自分らの出自は太伯之後だと自己宣伝していることを中国人は魏略の様な形で書き残したのである。この記事の後に出るのが後漢書の建武中元二年(AD57) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」(漢委奴国王金印)である。その後に「魏志倭人伝」の卑弥呼関係の記事(239年)と続くのである。女王壱与までは連続記事があるのである。
これが総て史実かどうかに関しては議論があるであろうが、一般的には現在の日本では受容されていると判断している。問題は「魏略」の倭人が自謂太伯之後の記事と本系図の呉王夫差の裔「忌」が結びつくかどうかである。呉王夫差がbc473年に越国に敗れ、この呉王国は滅んだのである。これは中国の史記を初め多くの歴史書により史実とされているのである。しかもこの夫差は周の太伯の裔であることは、これも史記で明白にされているのである。倭に渡来してきた夫差の裔達は、この史実をある程度認識していたと考えるのである。よって自分らは太伯の子孫だと周囲に語り、かつ中国の出先である楽浪郡の役人等に話したことは容易に推定可能である。代々語り継がれたのであろう。
 第2系図の「熊鹿文」を添書はad57年に後漢光武帝から金印を拝受した倭奴国王だと比定しているが、第1系図の宇閇を、その時後漢に奴国から派遣された大夫だと記している。ところが第2系図にも宇閇という人物が記されている。これはどちらかが伝承間違いをしていると云わざるをえない。筆者は第2系図の方が史実に近い伝承だと判断した。
即ち呉王夫差の後裔に奴国王が存在したとしても不思議ではないと判断したからである。
系図解説の項で第2系図で熊鹿文から市鹿文の間が5-6代欠落していることを指摘した。これはあくまで添書が正しいという前提である。一方第1系図の宇閇が熊鹿文と同時代または、同一人物だと仮定すればこの系図は修正系図1の様になるのである。
このように仮定すれば、奴国王の裔に卑弥呼である「刀良」が出たことになるのである。
嫡系かどうかは別として、いずれにせよ、この系図は奴国王および卑弥呼が呉王夫差 の裔として誕生したことを主張しているのである。これはハイそうですか、とは言えない系図である。修正系図のようにすれば、年代的には合理的範囲に入るのである。魏志倭人伝に登場する卑弥呼以外の人物もほぼ合理的年代に入ってくるのである。
この状態で本系図を筆者なりに判断したいのである。「熊鹿文ー謄」の間の人物について
①刀良を魏志倭人伝の卑弥呼に比定した根拠が不明確。
②卑弥呼は魏志倭人伝では、女王であり、結婚はしていない。よって子供はいないのである。しかし、本系図は3名の子供がいることになっている。卑弥呼は女酋だとして養子を貰いそれが記載されているとも考えられるが、すっきりしないのである。
③日本書紀の景行天皇紀に出て来る九州熊襲のリーダークラスの人物及び景行天皇妃の名前と魏志倭人伝記載の人物が混在している。これは何を意味するか?
日本書紀が本系図を盗用したか、本系図が日本書紀成立後にこの部分を盗用したか、
熊襲の伝承として、この部分があったのか?時代的には、200年代で、景行天皇・倭建の存在していたであろうことが、現在の歴史家が推定している年代とは約100年前の事である。
③系図上次世代に繋がる人物に限り、日本書紀に記載がない。どういうことか?
④本系図の添書で魏志倭人伝の壱与に比定されている「市鹿文」は、景行天皇妃であり、従兄弟にあたる取石鹿文の妻であったとの伝承もある。(ホツマ伝)これが247年に火国造を賜ったと添書されている。勿論景行天皇からだと解するが、この添書を記した人物の歴史感はいかなるものだったのであろうか?
⑤前述の奴国王である熊鹿文の添書に称卑弥子熊津彦とある。一方第1系図の難升米の父親として熊津彦という人物が記載されている。この関係が不可解。時代は異なると判断できるが、熊津彦はホツマ伝には、景行天皇に従った熊の県主となっている。難升米などのことはホツマ伝、日本書紀などには記載がないのである。
⑥以上から、熊鹿文ー謄間の系図は過去に知られているいかなる系図にも記されていない系図であることは間違いないのである。しかし、これが史実を反映しているかと云えば、筆者は違和感を覚えるのである。元々の松野連氏の系図に、この部分が存在していたのであろうか?後年になって何か別の目的で添書とともに追加されたのではなかろうか?
次ぎに倭の五王関連の系図部分について
①倭王「讃」から「武」まで宋書倭国伝に基づく添書とともに記されているのであるが、これ以外の人物表記が無いのは不可解である。少なくとも倭王である。それぞれ多数の子供が男女存在していたであろうことは、容易に推定できるのである。
②前述の壱与と讃までの間で4代欠落(約100年間分)していると推定できるのである。
これは何を意味するのであろうか?一般的には、魏志倭人伝と宋書倭国伝の間に日本古代史の欠落部分があるともいわれているのである。しかしこれは国レベルの話であり、各氏族レベルでは関係ない話である。ちなみに、既稿の各古代豪族の系図は、この間でも史実かどうかは別にして、人物名は連続的に記載されているのが、普通である。物部氏・中臣氏・大伴氏などなど。
ましてや、本系図は当時の倭王の系図であることを主張している系図である。何をか況んやである。当時の倭王一族はヤマト王権によって滅ぼされたので、一切の詳しい系図は残されていないのである。と主張する方々もおられるかもしれないが、とんでもない主張であると判断するのである。筆者のようなアマチュアでも、当時の倭王の有していた力は、日本の歴史上でも際だった強大なものだったと理解している。
国宝である「七支刀」に記された内容。「高句麗好太王碑」に刻まれた内容。「三国史記」に記された内容。「普書安帝紀」に記された内容。宋書倭国伝の記事などを解読すると、一目瞭然としているのである。この100-150年間に倭王として日本列島で活躍した一族は系図もまともに残せないほど落ちぶれた一族では決してなかったと判断しているのである。
③日本書紀や古事記の記事は全く信用出来ないと主張される古代史研究家も多数おられるようなので最近発行された前述の「日中歴史共同研究報告書」の中国サイドの学者の見解を下記に抜粋記事として紹介したいのである。
『第一部 第一章 7 世紀の東アジア国際秩序の創成
王小甫
歴史上における東アジア(ここでは特に東北アジア)は地理的には中国大陸、日本列島、朝鮮半島およびその間の海洋を指しており、こうした自然環境がこの地域の特殊な国際関係の舞台となった。7 世紀前後の東アジア国際秩序はこの舞台で展開された歴史から生まれたものである。
第1 節 早期の東アジア国際関係
日本は古称を倭といった。遅くとも中国の両漢時代(前3~3 世紀)には、倭は中国との往来を始めていた。『漢書』地理志には「楽浪海中有倭人,分為百余国,以歳時来献見云(楽浪海中に倭人がいて、百余国に分かれている。定期的に来朝して見えると云う)」とあり、『後漢書』倭伝には「建武中元二(57)年,倭奴国奉貢朝賀,使人自称大夫,倭国之極南界也。光武賜以印?(建武中元二(57)年、倭奴国は貢物をもって朝賀に参加した。使者は自分を大夫と自称している。倭国の極南に位置している。光武帝は印綬を下賜した)」とある。光武帝が倭奴国王に印綬を下賜した事は、日本の江戸時代天明四(1784)年に福岡県志賀島で出土した「漢委奴国王」金印によって証明されている。下って魏晋南北朝時代(3~6 世紀)には、「邪馬台国の時代、倭の五王の時代と、倭人の自主性は強まったが、しかし倭の女王、倭の五王は中国王朝の冊封を受けるばかりでなく自ら要請してもいた)1」。7 世紀までの倭の中国への遣使には重要な特徴がある。すなわち政治色が濃厚であることである。文献に記載の見える倭の中国に対する遣使は大多数が冊封の要請かその授受と関係しており、地域政治に積極的に介入しようとする姿勢が明らかに見て取れる。こうした進取的態度の発展は次の3 段階に分けられる。
1.倭人諸国から邪馬台国に至る時期。この時期、倭は主として地域社会に積極的に参入しようという願望を見せ、「漢委奴国王」、「親魏倭王」といった藩属関係とその名号に満足していた。
2.統一後の倭の五王の時期、すなわち中国の南北朝時代(紀元5、6 世紀)に相当する。
 
1沈仁安「『漢書』、『後漢書』倭人記事考釈」(同氏『日本史研究序説』、香港社会科学出版社、2001 年)68頁および同氏「倭五王遣使除授考」(同氏前掲書)180 頁以下
 
この時期、倭王は引き続き中国王朝の冊封を受けることを求め、それによって自らの国内的権威や国際的地位を高めようとした。
3.遣隋使。国際的地位や文明程度の高まりに伴い、倭国はもはや冊封を求めず、中国との対等な関係を勝ち取ろうとした。倭の対中関係におけるこうした変化は日本列島の社会的発展と地域社会におけるその活動からの影響と密接に関係している。3 世紀初頭から、邪馬台国周辺地域に勢力の拮抗する強国が相次いで出現した。南部には狗奴国、北部には海を隔てて向かい合う朝鮮半島東南部、即ち新羅国の前身である辰韓の勢力が台頭してきた1。両者の勢力拡大は邪馬台国にとって直接的な脅威となり、狗奴国とは恒常的に武力衝突もあった。こうした挟み撃ちの情勢のもと、邪馬台国は「遠交近攻」の政策をとり、積極的に中国との関係を持ち、それによって辰韓の脅威を阻止し2、南部の狗奴国への対応に専念しようとした。史料の記録によると、239 年から247 年までに、曹魏中国との間に相互に7 度ほど使者を派遣している。266 年に邪馬台国が中国の晋朝に使者を派遣した後、中国と倭の間では147 年間往来が途絶える。一方この期間、朝鮮半島における倭人の活動は相当に活発だった。朝鮮半島には紀元前108 年に漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし四郡を設置してより、漢末および魏晋時代までなお楽浪、帯方の二郡が存在していた。313 年、高句麗(前37~668)が朝鮮半島の楽浪、帯方両郡を攻め取り、朝鮮半島の「三国時代」が始まった。すなわち、高句麗が半島北部を領有し、百済が半島の西南に、新羅が半島東南にあった。こうした状況の下、倭人は半島情勢に積極的に介入し、様々な政治、外交手段を用いて利益を収めていた。「好太王碑」の記載によれば、4 世紀末から5 世紀初にかけて、朝鮮半島における倭人の活動はおおよそ以下のようである。391 年、倭軍は海を渡り、百済と新羅に進攻する。393 年5月、倭軍は新羅の金城を攻め包囲した。
 
1[高麗]金富軾『三国史記』巻1 新羅本紀は、前漢宣帝の五鳳元年(前57)4 月における赫居世の即位から記載を始めている。503 年に国号を制定するまで新羅の国名で『三国史記』に見えるものには、「徐那伐」「辰韓六部」、「鶏林」、「新羅」などがあり、『三国志』韓伝ではこれを「辰韓」(十二の小国を含む)といっている。
2『三国志』韓伝によれば、「景初(237-239)中、明帝密遣帶方太守劉昕?楽浪太守鮮于嗣越海定二郡……。
部従事?林以楽浪本統韓国分割辰韓八国以与楽浪、吏訳転有異同、臣智激韓忿攻帯方郡崎離営。時太守弓遵、楽浪太守劉茂興兵伐之、遵戦死二郡遂滅韓(景初中(237-239)明帝は密かに帯方太守の劉昕と楽浪太守の鮮于嗣を派遣して海を渡り二郡を平定させた。……部従事の呉林はもともと楽浪郡が韓国を統治していたので、辰韓の八国を分割して楽浪郡に与えたしかし、吏の通訳に次第に異同が存在するようになったため、臣智は韓側の怒りを増長させ帯方郡の崎離宮を攻撃した。このとき(帯方)太守の弓遵と楽浪太守の劉茂が起兵して討伐し遵は戦死したが、二郡はついに韓を滅ぼした)」とあり「弁?辰韓合二十四国、大国四五千家、小国六七百家総四五万?。其十二国属辰王。辰王常用馬韓人作之、世世相継。辰王不得自立為王(弁・辰韓は合わせて二十四国大国は四五千家、小国は六七百家であり、合計で四五万戸が存在した。そのうち十二国は辰王に属しており辰王には常に馬韓の人がなり、代々世襲されていた。辰王は自立して王となることができなかった)」とある。同書倭人伝によれば、曹魏が楽浪帯方両郡をとった後、倭の女王はすぐに使者を派遣して朝貢を求めてきた注目すべきは、これ以前の辰韓と倭の争いにおいて、依拠していたのが馬韓及び遼東の公孫氏の勢力であったことである。その間における関係の変遷は、深く究明する価値がある。p2
 
時を同じくして、半島北部の高句麗は新羅と盟を結び、百済に進攻する。397 年、百済は倭と盟を結び、太子腆支を人質とする。399 年、倭は新羅に進攻し、「倭人満其国境,潰破城池,以奴客為民(倭人はその国境に満ち、城池を壊滅させ、奴客を民とした)」。
400 年、高句麗は歩騎五万の援軍を新羅に派遣し、倭の軍兵を撤退させた。402 年、新羅王は倭との通好を望み、勿奈王子の未斯欣を人質としたが、倭は依然として度々新羅国境を侵擾した。倭が国内で統一と発展をなしとげ、同時に朝鮮半島で不断に勢力を拡大していった頃、中国は「五胡十六国」の混乱を経て、南北朝時代に入る。413 年、倭は中国との通交を再開した。420 年、中国南方で劉裕が普に代わって宋朝を建国し、439 年には北魏が中国北方を統一する。この期間に相継いで中国の南朝と友好関係を築いた倭国の讃、珍、済、興、武の五人の大王は、『日本書紀』所載の仁徳、反正、允恭、安康、雄略の五王であると多くの研究者がみなしている。倭の五王が中国と交誼を結ぶ政策をとったのは、中国の支持を頼みとして、東アジア世界における自らの地位向上を図ったものである。中国の史書の記載によると、421 年に倭王讃が劉宋に使者を派遣してから、502 年に梁武帝が倭王武を征東大将軍に昇官させるまでの81 年間に、倭の使者は合計10 回を数え、そのうち劉宋で8 回を数える1。
倭王による中国南朝への遣使の重要な使命は、朝鮮半島における倭国の権利を中国に承認させることだった。劉宋王朝は国内での南北対立状況に直面し、東アジアの国際状況においては倭国との関係を発展させようという積極的な意向を建国早々に見せていた。『宋書』倭国伝には「倭国在高驪東南大海中、世修貢職。高祖永初二年(421)詔曰:‘倭讚万里修貢,遠誠宜甄,可賜除授’(倭国は高句麗の東南の海中にあり、代々朝貢している。
高祖永初2(421)年の詔に「倭の讃は万里朝貢してきた。遠き誠は宜しく甄すべきである。賜いて除授すべし」とある)」と記されている。高驪とは高句麗のことで、当時の中国の南北朝のいずれとも旧来の関係を保っていた。しかし倭国は南朝一辺倒であった。後に、宋帝は倭王の要請に応じて詔を下し正式な名号を二度授与している。一度は438 年、倭王珍が宋に使者を遣わし、「使持節、都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」の名号を承認することを求めた。当時の宋の文帝は「安東将軍、倭国王」の名号のみを承認したが、451年には、倭王済に「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓、慕韓六国諸軍事」の名号を加授し、かつ「安東将軍」の名号は従来のままと、かつ「安東将軍」の名号は従来のままとした。
1 『南史』倭国伝に、「斉建元中,除武持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍。梁武帝即位,進武号征東大将軍(南斉の建元中、(倭王)武を持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍に任命した。梁の武帝が即位して武の将軍号を征東大将軍に進めた)」とあるそのことは『南斉書』倭国伝及び『梁書』倭伝にも見受けられる『隋書』倭国伝には「自魏至于齊、梁代與中國相通(魏から斉・梁まで、代々中国に通交している)」とあり、冊授については言及していない。史料を比較、検討すると、斉・梁が倭王の官号を進授したというのは倭国が中国に使者を派遣して通交
 
もう一度は478 年、倭王武は宋帝に上表して「開府儀同三司」および安東大将軍の爵号を授け、朝鮮半島に覇を唱える「遠交近攻」政策を支持するよう要請した。宋の順帝は詔して「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」という爵号を授けた。
倭王が百済を都督しようとする要求を幾度提出しても許可されなかったとはいえ、朝鮮半島における勢力を包含する名号が中国の皇帝の認可を得たことは、東アジア国際関係における倭国の地位を相当程度に引き上げ、倭王の国際的声望を高めた1。
 
第2 節 「白江口の戦い」と東アジア国際関係
中国と倭との往来には「空白の6 世紀」が存在するが、6 世紀中期以後は、東アジアの各地域の政治は大きく発展した。朝鮮半島南部の伽耶(任那)連盟は解体し、562 年には新羅に大部分が併呑されている2。高句麗は大陸東北部から朝鮮半島北部に跨る大国となり、北方の突厥および中原王朝とともに鼎立していた。589 年、隋朝(581~618 年)は長期にわたる中国の南北対立の局面を終わらせ、統一を実現した。ほどなく、倭国内部でも貴族の政治的衝突が一段落し、593 年に推古天皇が即位し、聖徳太子が摂政した。
倭国の聖徳太子は対内的には王権の強化、官吏による行政事務の整備をすすめ、礼制を重視し実行に努め、仏教を尊ぶといった改革を実施し、対外的には積極的な外交を行い、中国と対等な地域大国の地位を獲得しようとした。『隋書』倭国伝には「新羅、百済皆以倭為大国、多珍物、並敬仰之、恒通使往来(新羅と百済はいずれも倭を大国とみなし、珍しい産物が多いとして、尊敬している。常々使者の往来がある)」とある。前述のように、倭の五王の時期、倭王は望んで中国王朝の臣下であることを自任し、積極的に中国の冊封を求めていた。しかし、隋朝が中国を統一したにもかかわらず、倭王はさらに冊封を求めることも受けることもしなかった。そればかりでなく、国際的地位と文明程度の向上に伴って、対中関係の上でもますます主体意識を強め、中国と同等の地位を得ようとする態度を露わにしていった。第二回遣隋使の国書では「日出処天子致書日没処天子(日が昇る場所の天子から日が没する場所の天子に書を差し出す)」と記し、第三回遣隋使の国書では「東天皇敬白西皇帝(東の天皇が西の皇帝におうかがいする)」と記したことにこうした態度が明らかに表れている。
 
1 沈仁安「倭五王遣使除授考」、189-90 頁。同氏「四、五世紀日朝関係の若干問題」および「早期日朝関係初探」(ともに前掲書『日本史研究序説』)192-217 頁
2 朝鮮科学院歴史研究所著、延辺州翻訳組訳『朝鮮通史』上巻(第一分冊)第三章第二節「百済と新羅国の成立および六伽?」(吉林人民出版社、1975 年)106-9 頁。[韓]千寛宇『伽耶史研究』第1 篇「復元加耶史」IV「百済、新羅による加耶争奪と加耶の滅亡」(ソウル一潮閣、1997 年)37-54 頁。
 
唐代初期に至るまで、中国に遣わされる倭の使者のこうした政治姿勢はまったく変化しなかった。
倭のこうした態度を、中国の皇帝は決して容認しなかった。『隋書』倭国伝には「其国書曰:‘日出処天子致書日没処天子無恙’云云。(隋煬)帝覧之不悦、?鴻臚卿曰:‘蛮夷書有無礼者、勿復以聞。’明年,上遣文林郎裴(世)清使於倭国(その国書には「日が昇る場所の天子から日が没する場所の天子に書を差し出す。つつがないでしょうか」などとあった。隋の煬帝はこれを不快に思い鴻臚卿に「蛮夷の国の書に無礼なものがあれば、二度と知らせるな」と言った。翌年、文林郎裴世清を使者として倭国に派遣した)」とある。
これは隋の煬帝が倭王の国書を受け取っておらず、裴世清が倭に赴いたのも対等な国交の答礼使としてではなく、単に遠くから使者を派遣し朝貢にやってきた蛮夷の国に対して褒賞の意を表し勅諭を伝えるためだったに過ぎないと一般的に考えられている1。
その後、中国では隋、唐王朝の交替が起こった。舒明2(630)年秋8 月、倭国は大仁犬上君三田耜(一説には犬上御田鍬とされる)や大仁薬師恵日らを中心とする第一回遣唐使を任命して中国に遣わした。翌年、「使者入朝、帝矜其遠、詔有司毋拘歳貢2。遣新州刺史高仁表3往諭,与王争礼不平,不肯宣天子命而還(使者が朝貢すると、皇帝は使者が遠路やってくることを矜み、有司に詔して歳貢にこだわらなくてもよいとした。新州刺史の高仁表を派遣し諭そうとしたが倭王と争礼が生じたため、天子の命を宣べることなく帰朝した)4」。研究によれば、いわゆる‘争礼’とは、「天皇下御座、面北接受唐使国書(天皇、御座を下り、北面して唐使の国書を受く)」という礼儀上の争いであった可能性が高い5。「不平」とは礼儀問題が解決していないことを表し、これによって唐の使者は「不肯宣天子命而還(皇帝の勅諭を伝えることなく帰り)」、中国と倭の国交は断絶することになった。後に大化の改新が起こり(645)、また朝鮮半島における新羅の斡旋もあり6、倭国は20年の国交断絶の後、653 年に第二回遣唐使を派遣する。随行人員の構成から見ると、第二回遣唐使は多くの学問僧と留学生を含んでおり1、これは「大化新政権が構想する国家建設のために唐の仏教、制度などを学ぶという文化の導入の任務を帯びていた」と一般に考えられ、史書の記載に「奉対唐国天子、多得文書、宝物(唐の皇帝を奉じ、多くの文書や宝物を得た)」とあるのもこの時の遣使が文化的色彩を帯びていたことを感じさせる。しかし、この時の倭国内部での唐朝中国に対する認識には依然として大きな隔たりがあった。
 
1倭国の第三回遣隋使のいわゆる「東天皇敬白西皇帝」国書は後の『日本書紀』の編者による偽造だとする
研究者さえいる。徐先堯『二王尺牘と日本書紀所載国書の研究――隋唐期中日関係史之一章』第三-五章
(台北:芸軒図書出版社、2003 年)143 頁以下を参照のこと。
2 「歳貢」とは本来国内の地方と中央の関係制度であるがここでは一種の比喩でしかなく、実際には『漢書』地理志の記述
に倭人諸国が「歳時来献見(定期的に来朝して見えると云う)」とあるように、中国人が倭人の活動規律に対して抱いていた認識と予想を表したものにすぎず
また拘束力のある制度でもない。言い換えると唐太宗の意図は倭人が遠路はるばるやってきたことから便宜を図ってやりその都度応接するというものだった。
3 『旧唐書』東夷伝倭国条には「高表仁」に作る。
4 『新唐書』東夷伝日本条。
5 沈仁安「唐日関係の若干の問題」(前掲『日本史研究序説』)231 頁。
6 『旧唐書』東夷伝倭国条に「至(貞観)二十二年(648)、又附新羅奉表、以通起居。(貞観22(648)年
になると、また新羅の使者に附して上表を奉じ、通交を行った)」とある。日本の歴史書によれば、第二
回遣唐使は653 年に出発しているが貞観22 年は648 年であり、それは新羅が斡旋仲介したと考えるこ
 
例えば、これより2 年前の651年、新羅の使者が日本へ赴いた際に「著唐国服、泊于筑紫。(倭)朝廷悪恣移俗、訶責追還(唐の衣服を着て筑紫に停泊した。倭の朝廷は勝手に服装を改めたことを悪み、とがめて追い返した)2」ということがあり、こうした傲慢な態度はかつて遣隋使が携えていった国書に「日出処天子」と称していたことに一致する。この時期の倭国では高向漢人玄理ら帰国留学生が積極的に活動していたとはいえ、自国を尊崇する王権側の保守的勢力が依然として強い影響力を保っていたことがうかがえる。
第二回遣唐使を派遣した翌年の654 年、前回の使者がまだ帰国しないままに、倭国は慌ただしく第三回遣唐使を派遣する。この時の使節と随員の官位はその他の時期の使者よりも明らかに高位であり、留学生や学問僧も伴っておらず、派遣も急であった。明らかにある種の政治的使命のためであった。この遣唐使が長安に到着すると、唐朝の役人が日本国の地理等の情報を詳細に聞き取り、帰国の際には「高宗降書慰撫之、仍云:‘王国与新羅近、新羅素為高麗、百済所侵、若有危急、王宜遣兵救之。’(高宗は書を与えて慰撫して云った。「王の国は新羅に近く、新羅は常々高麗や百済に侵攻されている。もしも危急のことがあれば、王は兵を派遣して新羅を救うように」と)3」。こうしたことから、この時期に倭が使者を中国に派遣したことは、当時の緊迫した東アジア地域の国際情勢と密接に関連していることがうかがえる。
しかし、その後659 年に派遣された第四回遣唐使では、当時の倭国が自負心を強めていたことが再び露わになる。『日本書紀』斉明5(659)年秋7 月丙子朔戊寅の条に「遣小錦下坂合部連石布、大仙下津守連吉祥、使於唐国。仍以道奥蝦夷男女二人、示唐天子(小錦下坂合部連石布と大仙下津守連吉祥を使者として唐に派遣した。道奥の蝦夷の男女二人を帯同し、唐の天子に見せた)」とある。倭国は唐と新羅が百済を滅ぼす(660 年)直前に唐へ使者を派遣し、唐の皇帝に対して蝦夷国が「毎歳入貢本国之朝(毎年我が国に朝貢にやってきます)」と述べ、依然として自分たちは中国と同様に夷狄を臣服させている大国であると誇示しようとした。「これは中国から輸入された華夷観念という大国ショーヴィニズムにより、権威付けを図ろうとしたためだ)」と考える者もある4。
だが、ここまでの両国関係史から見て、より重要な理由はやはり倭人の自負心と、それによる中国文化の先進性や国力の強大さ対する認識不足であると考える。そうでなければ、唐と新羅が百済を滅ぼした後に倭が百済の復国のために敢然と出兵し、白江口の戦い(663 年)で徹底的な敗北を喫するようなことにはならなかったはずだ。
こうしたことから、白江口の戦い以前に両国間には多年にわたる往来があったにもかかわらず、隋唐中国の国際的地位やその力について倭が正確な認識を持たず、あるべきはずの重要視もしていなかったことが分かる。白江口の戦いは倭人の目の曇りを晴らし、倭人はそれによって唐朝中国の発達した政治文化と真剣に向き合い、学び、さらに自らの国家を建設し、自国の問題を適切に処理するようになった1。もちろん倭国(日本)の律令制国家建設にもそれなりのプロセスがあった。白江口の戦いに敗れて後、天武元(672)年の壬申の乱等の曲折を経て、大宝元(701)年になって大宝律令を制定し、ようやく完成に至る。東アジアの国際関係にもこの時期に大きな変化が起こった。
ーーーーー』
 
現在の日本の古代史のこの分野の専門家の主流(例:岡田英弘・山尾幸久ら)は上記中国の学者とほぼ同じ見解を支持していると判断している。
④記紀には邪馬台国の記事も倭の五王の記事も無いのである。
これは我が国は過去いかなる国にも属したことはない、という国家観を表したものと考えられている。しかし史実は、上記報告書のような状態だったことは、現在の歴史学者は良く知っていることである。この視点にたって本系図を考えると、多くの疑問点を持たざるをえないのである。
⑤松野連氏自身が、自分らの祖先が倭の五王であったと認識していたのであろうか?
筆者はそうだとは、思えないのである。
彼等が松野連氏を賜った時に朝廷に提出したであろう家譜または系図には、この五王の部分は無かったものと推察するのである。 670-700年に賜姓されたと仮定すると、日本という国号に替わる頃である。倭の五王と云われる日本の対外的代表者を輩出していた直系嫡流だった一族が九州の一地方の評督になっていたのだという系図をそのまま受け入れるとは常識的にありえない事だと判断するのである。
以上などからこの松野連氏系図は、それ以降に書き換えられたものと判断せざるをえないのである。
⑥それでは、邪馬台国卑弥呼の一族はその後どうなったのか?という新たな疑問が発生する。これが現在も喧喧諤々の議論がされている問題である。本系図で解答が出る問題ではないと判断するのである。
⑦795年に平安京に移住した「楓麿」以降の松野連氏系図は極く普通の系図である。戦国時代末期に松野主馬首重元(?-1655)という武将を輩出し、江戸時代まで続いた一族であることまでは知られているのである。この松野連氏自身が本系図みたいな、かなりハイレベルの古代史の知識が必要な改変、添書を行ったとは思えないのである。
筆者は一度に、この系図・添書になったとは思えないが、最終的には江戸時代に邪馬台国九州説(本居宣長)・大和説(新井白石)などとも関係して本系図のような改変が松野連氏家とは無関係に行われた可能性があるのではなかろうかと推定するのである。
一部に明治時代に鈴木真年らが添書したのではないかとの説もあるようだが、筆者はありえないことと判断しているのである。鈴木真年は明治以降の系図研究者としては第1人者である。その彼が蒐集した系図本体に筆を加え、それをあたかも伝承された系図として保存史料としたなどということはあり得ないことと判断するからである。
⑧元々の松野連氏系図を推定して参考系図として記した。

6-5)「自謂太伯之後」の日本での評価
 さて、本系図とは無関係に 中国の古典・『翰苑』(唐時代)の『魏略』逸文・『梁書』東夷伝などに記された、倭人の出自は「自謂太伯之後」、の記事が日本のその記事を読んだであろう歴史家などに与えた影響はどうだったのであろうか?
筆者が注目した記事を幾つか列挙しておきたい。
・「日本書紀私記」(日本書紀の平安時代の講義録)
・釈日本紀(鎌倉末期):東海姫氏國の記述あり。
・中厳円月(1300-1375)著「日本書」:天皇の祖先(国常立尊)を中国の呉太伯の後裔とし、天皇中国人説を唱えた。
・神皇正統記(北畠親房):天皇の呉太伯後裔説反対
・一条兼良著「日本書紀纂疏」1455-57)成立:天皇は「日神の後裔」説を主張し、中厳説批判。 
・林羅山(1583-1657):中厳説支持
・徳川光圀(1628-1701):北畠親房説支持。
●日中歴史共同研究*
呉の太伯の後裔説についての中国学者報告書記述内容
・村尾次郎(筆者注:1914-2006日本史学者):中国人の「曲筆空想」
・大森志朗(筆者注:1906-1992日本史・民族学者):「漢民族の中華思想の産物」
・千々和実(筆者注:1903-1985日本史学者):3世紀の倭人の部落が体内的には王権を強化するために、対外的には威望を挙げる需要のために、自分たち民族の始祖を賢人泰伯と結びつけたと指摘。倭人自称説を肯定。
・中国学者:ある程度の人数の大陸移民が呉王夫差を始祖として奉り、彼等は日本で「松野連」と改姓したけれども、なお祖先を忘れてはいなかったということである。
ーーーこの説はさまざまな中国史書に記録されているので、その来源はこまごまとした個人の伝聞などではなく、ある部落の始祖伝説によるものに違いない。ーーー
3世紀後期以前に、日本に東渡した呉人がある部落国家(或いは連盟)を建立し統治したことを意味する。この部落国家(或いは連盟)は親魏的な女王に背馳して、呉国の創始者泰伯を尊奉して始祖とし、邪馬台国の統治する30国に属さなかったと推察される。ーー
*2005年日中外相会談で日本側が提案
2006年日中首脳会談で日中有識者による本研究を立ち上げること合意
2006-2010研究実施。2010年報告書発表
 
6-6)日本人のルーツ論(2)
既稿40「安曇氏考」で日本人のルーツについて記述した。これをルーツ論(1)として
本稿でその続編を記したいのである。
先ず最近日進月歩の進歩をしているY染色体で判明してくる日本人のルーツを﨑谷 満の論文を中心に抜粋して、筆者の理解した範囲で解説したい。

6-6-1)Y染色体と日本人のルーツ論  6-6-1)関連参考資料 参照
①Y染色体は男性にしかない遺伝子で、長期間(1万年でも)その原型を残し続ける。
②2002年頃このY染色体の分析・解析により、人類・種族の変化遍歴を知る事が出来るとの提案がされ、現在の世界中の人間のルーツの探索手段として、日進月歩の最先端技術の一つになった。日本人のルーツもこの手法により、従来法より一段と高精度に推定可能となった、とされている。
③現日本人はD1b型遺伝子を有する男性が約40%O型遺伝子を有する男性が約50%その他10%である。D:古モンゴロイド・縄文人特有の遺伝子 O:新モンゴロイド・中国大陸特有の遺伝子(弥生人特有*)。よって現日本人はDとOの混血民族と言える。これは数10年前までは信じられていない説である。大雑把に言えば「日本人は弥生人が縄文人を駆逐して誕生した単一民族である」と考えられていたからである。
④*現在では弥生人という表現は厳密ではないとされている。弥生人とは弥生文化(水田稲作・金属使用技術など)を有する種族。これには、イ、男が中国・朝鮮半島渡来人系弥生人と、ロ、日本列島に古来から住んでいた縄文人系弥生人が含まれる。アイヌ人は別。
⑤上記イの男系子孫は総てY染色体はO型、ロはD型である。(現在まで続いている)
⑥女性はミトコンドリア遺伝子が長期間変動しない遺伝子として全世界の女性の遺伝子が調査されてきた。東アジア地区では中国・朝鮮半島・日本列島もこの遺伝子はほぼ同じで、はっきりした区別が困難(微細部分では異なる)とされている。
⑦D型を有する民族は世界中で今日では殆ど存在しないのである。中国・朝鮮半島にもいないと云って過言ではない。マクロに云えば、日本人と中国人・朝鮮人とは全く異なる人種である。一方中国人と朝鮮人は非常に近い種族であるとされているのである。
⑧日本全体では、個人的にD系であるかO系であるかは大きな問題ではない。DとO及びその他の型の存在・分布確率で全体の遺伝DNAが決まるのである。遺伝因子に基づく総合的な体型・血液型・病気などなどは、あくまで男性と女性の両性が混血して有する総ての遺伝子DNAを考慮した上で日本人としての種族が形成されているのである。混血民族
⑨よってY染色体の違いは遠い祖先のマークに過ぎないのである。
⑩では一体何故日本だけ、古モンゴロイド系のD遺伝子を有する人が現在も多数存在するのであろうか?日本でのY染色体の研究の先駆者である崎谷 満氏は、大凡次ぎのような見解を記している。「元来中国大陸朝鮮半島などにもD型古モンゴロイド系の人類が多数存在していたことは間違いない。ところが、その後突然変異によってO型の新モンゴロイド族が誕生し、D型モンゴロイドの地域に侵攻し、これを駆逐し、絶滅に追いやった。日本列島は島国で、このO型モンゴロイドの侵攻は無かった。約3千年前頃から大陸・朝鮮半島の戦乱などの影響でボートピープルの形で新技術(稲作・金属技術など)を持ってO型人種が渡来してきた。主に男性。列島のD型モンゴロイドはこれと戦う必要は無く、受け入れた。混血の始まり。共存。 世界的に非常に珍しい現象。世界で唯一の民族」
⑪天皇家のY遺伝子は何型か?  諸説あるが公的には不明。
﨑谷満によれば、O1b1/O1b2系統は長江文明の担い手だと考えている。/O1b2系統が移動を開始したのは、約2800年前で、長江文明の衰退に伴い、南下し、百越と呼ばれ、残りの/O1b2は西方及び北方へと移り、日本列島、山東省、日本から朝鮮半島へ渡ったと主張。O1b2系統は中国江南から水稲栽培を持ち込んだと考えられ、中国の歴史書の記述にある倭人との関連が想定される。さらにO2系統は、漢民族に最多の系統で、弥生時代以降の中国大陸からの流入が多かったであろうと推測(ウイキペヂアより抜粋)
 
一方、他地域では維持できなかった高いDNAの多様性や旧石器時代の古い型のY染色体を、この日本列島が何故保持出来たのか。
 崎谷 満は、次のように説明する。
1.ユーラシア大陸東部では、民族の存亡を賭けた凄まじい戦争の歴史が、DNA地図を大幅に塗り替えたが、日本列島ではそのような事態は現出しなかった。
2.日本列島の温暖で湿潤な気候が、豊かな植物相を提供し、大量の堅果類を栄養源として列島に居住する集団に供給した。
3.列島を囲む暖流や寒流の混交が、豊かな海を提供し、安定的なタンパク源としての海産資源を供給した。
 この2.や3.が、豊かな生活環境を提供し、この列島に住む人たちの系統を絶やすことがなかった。
4.大陸の混乱で難民化した人々が、日本列島に渡来したことでDNAの多様化が進む一方、渡来人も先住の人々も共に平和共存の道を選んだため、多様なDNA集団が列島に残ることになった。
すなわち我々が住むこの日本列島は、本来食料資源が豊かで、住んでいる人々も平和を愛する、世界に誇り得る地域であり、そこには古い系統の多様な人々が現在も隆々と息づいていることを再認識したいと思う。
 
6-6-2)中国古代江南人と日本弥生時代人のルーツについて
1)日中歴史共同研究報告書巻1 北岡伸一ら編 勉誠出版(2014)
『序章蒋立峰 厳紹? 張雅軍 丁莉
一 日中の人種的起源に関する分析
ーーー
可能地域その二:中国長江流域と江淮地域。
日本の弥生時代人が発達した稲作文明を持っていたことから、人々はたやすく、弥生人の祖先を、稲作文明の発祥地の一つである中国南方と結び付ける。中国江西省万年県仙人洞遺跡と湖南省道県玉蟾宮遺跡では、既に12000 年前と10000 年前のもみが発見されている。特に浙江省余姚県の河姆渡新石器?代遺跡(7000-5000 年前)では、既に大規模面積の稲作跡があり、河姆渡人は高床式の家屋に住み、船を操り、陶器を製作・使用し、陶器を作る時には、釜型陶器の腹底部に縄模様をジクザクに押印することが盛んに行われた。
海洋の潮流と季節風から考えれば、中国の江南人が直接海を渡って日本に到達した可能性はある。言い換えれば、中国南方人(「越人」あるいは「百越人」と言われる)が、紀元前3 世紀前後の政治的動乱のため、一部は海を越えて日本に移動し、「倭人」、即ち弥生人となり、さらに別の一部は雲南に移動し、少数民族となって増加し、今に至ったのである。1994 年から、日中の人類学者は、「江南人骨日中聯合調査団」を組織し、中国江蘇省で発掘された紀元前6 世紀から紀元後1 世紀までの古代人骨と、おおよそ同時期の西日本の縄文・弥生人骨について、多方面での共同の比較研究を進めた。頭蓋骨の比較やその他多くの研究を経て、その結論は以下のようになった。
新石器時代における中国の江南人と日本の縄文人の形態的違いは非常に大きいが、江蘇(江南から淮北までの広範な地域を含む)の春秋時代から前漢時代までの人と、日本の渡来系弥生人との間には、強い類似性があり、このことから、弥生人との類似性を持った古人骨集団の分布地域は、わずかに朝鮮半島があるだけでなく、さらに山東半島から江南に至るまでの広大な地域もその中に含まれると考えることができる。これにより、弥生時代とその直前における大陸移民の故郷の探求は、今後はただ朝鮮半島と華北にだけ注意することはできず、また淮河や長江下流も視野に入れ、とりわけ淮河流域、即ち江蘇北部を重視すべきである。もし江南を起点とする稲作文化とその継承者の拡散という視点から離れたならば日本人の形成を論ずることはできないが、今後はさらに華南ないし東南アジア地域にまで視野を広げなければならない1。
 

もし、弥生人が稲作を日本列島に持ち込んだ民族(従来の歴史ではそのようにしてある)であるとするのなら、弥生人の故郷は、朝鮮半島ではなく、中国の南部であるという。
これは最近の科学的ミトコンドリアDNA鑑定によって、稲および弥生人のDNAが中国南部のそれと一致するからである。
しかし稲作は、所謂縄文時代に、すでに開始されていたという説もあるから、稲作を持ってこの2つの時代を分ける従来の手法は見直すべきであるのかもしれない。
 
2)江南人骨日中聯合調査団の報告
 『弥生人の出自は、中国南部であり、朝鮮半島を経由して日本列島に渡来したのではないという可能性があるということ。』を示唆した発表があった。
中国江南・江淮の古代人ー渡来系弥生人の原郷をたずねてー
山口敏・中橋孝博編 人間科学全書 てらぺいあ(2007)
1999年(平成11年)3月23日、 「弥生人」の起源は江南地方か
共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、中日共同調査団の調査で分かった。
 渡来系弥生人は、朝鮮半島や華北地方から来たという説が有力と考えられていたが、稲作の起源地とされる長江下流域を含む江南地方からも渡来した可能性が高くなり、弥生人の起源を探る上で注目されそうだ。
同日、東京で記者会見した日本側山口団長らによると、調査団は1996年から3年計画で、江蘇省で出土した新石器時代から前漢時代(紀元前202-紀元後3年)にかけての人骨と、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人や縄文人の人骨を比較した。
 その結果、弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8―同5世紀)から前漢時代にかけての江蘇省の人骨と、渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に共通点が多かった。
また日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があったが、江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。
江蘇省の人骨三十六体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の三体でDNAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致したという。
中国側団長の鄒厚本南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が極めて似ていることが分かり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えられた。今後も多方面から研究を進め、弥生人渡来の実態を解明したい」と話している。
江蘇省ではこれまで春秋戦国時代から前漢時代までの人骨がほとんど出土せず、渡来系弥生人との関連を探る研究は進んでいなかった。
・「文化的にも江南から影響有」という記事。
吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かった。当時の中国は蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州であり、考古学的に証明された。
ーーー
・中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸
『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12~18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。
 
同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?~紀元前473)と越(?~紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』2006年3月7日付の朝日新聞
・その他
現在の日本文化の特色となっている神社の原初的形態、しめ縄、鳥居なども中国江南の文化・風俗・風習そのものだと言える事が、考古学的に明らかになっている。
 
そのほか「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。
 
ただし中国南部とは、地図上でそういうのであって、その民族は中国人(漢民族)ではない。今も残る中国の少数民族と、すでに消えてしまった民族が混血して出来たものであろう。
春秋戦国時代の呉越の時代の中国、東南アジア、東インド諸島まで視野に入れるべきであろう。

6-6-3)弥生時代・弥生人とは  6-6-1)関連参考資料 参照
 現在「弥生時代」をどのように定義するべきかは揺れ動いているように感じているのである。筆者らが学生時代には、縄文土器を使用していた縄文時代に続いて弥生土器を使用した時代を弥生時代と定義していた。しかし、日本列島にそれまでになかった水田稲作技術が列島以外からもたらされ、新たな文化(弥生文化)が形成された時代で、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代という考えが定着し、BC3c中以降ad3c中の古墳時代の開始までの時代を指す時代区分に変わった。ところが、この概念がさらに動いているのである。それとともに、弥生人という概念も動いていると判断するのである。
筆者が理解した範囲で箇条書きにすると以下のようになる。
①2003年に国立歴史民俗博物館の研究者らが、放射性炭素を用いた年代測定法で水耕栽培の稲作技術の列島への伝来時期をbc1000年頃と推定した。これを弥生時代の開始時期とする説が登場。
②国立歴史民俗博物館の「春成秀爾」らは弥生時代の始まりを、従来は中国の戦国時代のことと想定してきたが、殷の滅亡、西周の成立の頃(筆者注:bc1027年頃)であったと認識を根本的に改めなければならない、弥生前期の始まりも西周の滅亡、春秋の初め頃(筆者注:BC770年頃)となる。という説を発表。
③水田稲作技術も従来は朝鮮半島経由で日本列島に伝搬された、とされていたが、中国長江流域の江南地方から直接日本列島に渡来したものと、山東半島ー朝鮮半島南部経由の2ルートがあると考えねばならない。と変わった。
1995年頃佐藤洋一郎(当時静岡大学助教授・現京都産業大教授)が日本列島には中国には存在しているが、朝鮮半島には存在してない遺伝子を有する稲が存在することを発見した。「これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になる」とした。
中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種しかない。
「DNAが語る稲作文明ー起源と展開 佐藤洋一郎(NHKブックス 1996)
④「﨑谷 満」らのY染色体の解析調査により、O1b2グループが日本列島に稲作技術をもたらした種族だと断定した。これは漢民族(O2)とは区別され江南人である。移動を開始したのは約2800年前で長江文明の衰退に伴い日本列島・山東省・朝鮮半島へ渡ったと主張。
⑤1999年の江南人骨日中聯合調査団報告によると、もし、弥生人が稲作を日本列島に持ち込んだ民族(従来の歴史ではそのようにしてある)であるとするのなら、弥生人の故郷は、朝鮮半島ではなく、中国の南部(筆者注:江南)であるという。(前述資料参考)
これは最近の科学的ミトコンドリアDNA鑑定によって、稲および弥生人のDNAが中国南部のそれと一致するからである。としているのである。
 
などなどで、日進月歩の学術的には発展の過程にあるといえるのである。
筆者は若い頃遺伝子工学のほんの初歩を学んでいた関係上この分野のデータを過剰に信用する傾向があるが、今後この分野の活躍を期待しているのである。
 
さてここで本稿で前述した事項と本項の事項を摺り合わせて考えてみたいのである。
a.日本人のルーツは、概略的にはY染色体の解析でほぼ理解出来る。
イ、現在の日本人は古モンゴロイド(YDと略す)と新モンゴロイド(YOと略す)の混血民族である。世界的に見て非常に珍しい民族で他に例をみないのである。
ロ、現在の中国人は新モンゴロイド(O2)を中心とした漢民族で多くの亜族との混血民族だといえる。
ハ、現在の朝鮮民族は新モンゴロイド(O2・O1b2)を中心とした混血民族である。
ニ、日本人の新モンゴロイドの亜種はO1b2系のO-47zという日本独特の亜種とO2系である。一方朝鮮民族の新モンゴロイドの亜種はO1b2系のxO-47zとO2である。
O2は華北の漢民族に特色的なものである。O1b2のxO-47zという亜種は朝鮮民族に特色的で現在の日本人の中にも10%くらい存在しているのである。
この日本と朝鮮半島にいるO1b2系が長江文明の担い手である江南出身種族だとされているのである。漢民族にはいないのである。
O1b系統の中に現在の中国華南地方の主力Y染色体であるOーM95が存在している(華北には殆ど存在しない)が日本・朝鮮の主力Y染色体のO1b2が存在していないことをどう理解すればよいのであろうか。O1bには亜種が3種あるのである。
b.中国古文献に出て来る「倭・倭人」という文字が意味する所、人種を江南地方の稲作技術などを有した人種および住み着いた所と考えれば、少なくともY染色体では、日本列島及び朝鮮半島にその痕跡が残っているといえるのである。
c.最近の科学的調査の結果では、長江下流域江南と云われる地域から、日本列島に直接海を渡って、稲作技術を有した人々が来たことが証明されてきた。ひと昔前までは、全ての弥生文化及び弥生人の原点は朝鮮半島であるとされてきたのである。
d.それでは日本列島に弥生文化を最初に持ち込んだのは、長江下流の江南人だとしてもこれが弥生時代の始めだといえるのであろうか?これはそう簡単に結論できることではなさそうである。少なくとも中国の春秋時代(紀元前8c)には長江下流域から日本列島(九州)に人々が移動したと云えるだけである。水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代という考えが現在の主流である。これはbc200年以降である。と主張しているのである。
e.本稿の中心テーマである「倭人の自謂太伯之後」という話と上記江南人が海を渡って直接日本列島に来た可能性が証明された話は偶然の一致なのであろうか?
bc473年に呉滅亡 bc334年越滅亡  BC223年楚滅亡 といずれも江南地方の国々が滅んで多くの避難民が発生しているのである。いずれも夷の国々で漢民族ではなかった。
Y染色体でいえば、O1b系だったのではなかろうか。ここまでを合わせ考慮に入れると所謂倭族=江南人と言えるのではなかろうか。その一部族に自謂太伯之後と称する部族も存在していたと考えれば、近年の一連の調査結果との整合性がとれていると考えることは不合理ではないと判断するのである。
f.弥生人という言葉も以前とは異なった定義が必要となっていると判断している。
筆者は既稿の中でも色々述べてきたが、改めて記したい。
イ、中国大陸・朝鮮半島などより日本列島にbc1,000年以降に渡来してきた人々及びその子孫(渡来人系弥生人)
ロ、イと婚姻した縄文人出身の人々、家族、子孫(縄文人系弥生人)
ハ、イロ等がもたらした新文化(稲作など)を自分らの生活に取り入れた縄文人およびその家族・子孫(縄文人系弥生人)
ニ、イロの家族および子孫らと婚姻した縄文人およびその家族、子孫(縄文人系弥生人)
と一般的に記してきたが、もう少し詳しく記す必要を感じているのである。
・当初倭人(Y染色体O1b2系)と呼ばれた長江下流域の江南に住んでいた種族の一部が日本列島に渡来した。彼等は稲作技術を有し魏志倭人伝に記されているような特有の習俗を有していた。彼等は海を渡り直接日本列島に渡ってきた者がいたことは証明されたと理解している。稲も朝鮮半島を経由することなく直接江南地方から入ってきたきたものがあることも証明されたと判断している。これが渡来系弥生人の最初の集団であろう。
・併せて長江下流域から朝鮮半島経由で稲作技術などを持って日本列島に渡来した弥生人がいたことも間違いない。(Y染色体O1b2系)
・bc500年頃になるとやはり江南地方より明らかに漢民族系(Y染色体O2系)の人種が稲作技術に銅文化を有して日本列島に渡来してきた。
・次ぎに中国大陸の漢民族系の人々が、朝鮮半島経由で日本列島に渡来してきた。この起源は、はっきりしていないが、銅文化・鉄文化などを列島にもたらしたものと思われる。
彼等が渡来した頃には、倭国と呼ばれる状態になっていた。主にこの数種類の渡来人が弥生文化の導入の中心集団で、この時代を弥生時代・弥生人と称すべき段階だと判断するのである。
・この最後の朝鮮半島から渡来してきた中国大陸の漢民族系の氏族(Y染色体はO2)の中に天皇家の先祖がいたと推論するのが、戦後の天皇家論の基底にあるものと筆者は感じているのであるが、いかがであろうか。
天皇は神である。「神国日本」という概念からは、日本の歴史は一歩も進歩しないのである。万世一系の天皇家であったかどうかは、別として、記紀を発行して以降の日本では天皇は現在に至るまでY染色体は変わることなく継続していることは史実である。
よって天皇家のY染色体を調査すれば、上記の戦後の天皇家論の真偽が明確になるのである。影響が大き過ぎるので公的にはっきりさせることは、無いであろう。
 
6-6-4)弥生時代・弥生人の「まとめ」と今後の課題事項
①BC1000年頃から水田稲作が日本列島で開始されていたという説に従った場合。
イ、稲作技術は揚子江下流の江南地方から直接海を渡って九州に伝来したのであろうか。勿論それを伝えた渡来人もである。この場合、倭人=江南人=魏志倭人伝記載の習俗(刺青など)・顔・背格好をした越人系の種族だと推定されるのであるが。Y染色体はO1b2系統だと思われる。
ロ、中国古典で最古の倭人という文字が記載されているのは、「論衡」で約bc1000年頃の記事となっている。この頃「倭」という地名と「倭人」という人種が中国の人間には認識されていたということである。この文献は従来は日本には直接関係ないとして、無視されていた文献であるが、再考が必要になってくるのではないだろうか。
ハ、中国と日本にはあり、朝鮮半島には存在しない遺伝子を有する米の種類が佐藤らによって発見されている。これは、江南付近から直接日本列島に水田稲作技術が伝来した証拠の一つにされている。だとすると、この縄文晩期とされるこの時代に朝鮮半島経由で日本列島に伝来した他の種類の稲の伝来はあったのであろうか。その頃朝鮮半島では、稲作技術はどの程度発展していたのであろうか。すっきりしないのである。
むしろ、日本列島に直接伝来した稲の一部が逆に日本列島から朝鮮半島に移入されたという説もある。
②極初期の段階の「倭人」は、江南地方から日本列島に渡来した人種だけであって、朝鮮半島から日本列島に渡来した人種はいなかったのであろうか。
イ、日本列島には元々縄文人という人種が1万年も前から住んでいた。そこへ新文化を持った渡来人がやってきた。縄文人の歴史は複雑で未だ未だ謎が多い。しかし、独特の言語を有していたことは、多くの学者が認めるところである。その言語はその後の新しい渡来人の流入によっても、その基本骨格は変化していないというのが、現在の通説である。
これが現在の日本語の源である。中国語とも朝鮮語とも異なり、世界的に見て、独立した唯一の言語体型だとのことである。これは、他の人種によってこの縄文時代に築かれた文化・人種構造が根本から破壊、解体、崩壊されたことが歴史的になかった証拠だとされているのである。
ロ、bc1000年頃から、新渡来人が日本列島に入って来たことは史実だとすると、一種のボートピープルだったことが、推測される。bc1000年頃は中国本土は政治的には安定期であった。bc700年頃である春秋時代からは不安定期に入る。BC473年に「呉」が滅んで最後の王「夫差」の子孫が海を渡って倭にやってきた。これが中国古典に登場する「倭人の自謂太伯之後」という記事と一致するものと判断するのである。この子孫が新撰姓氏録に記された「松野連氏」である、という説は合理性があると判断する。弥生時代にその出自が明確に分かる唯一の古代豪族だと判断する。
そうだとすると、この一族は漢民族姫氏流なのでY染色体はO2系統だと判断する。実質的には江南人の基本的Y染色体であるO1b2系統との混血だと推定できるが、これも倭人だという範疇に入るものと判断するが、どうであろうか。文献上では彼等は倭人だと記録されているのである。発掘考古学の学者達がこれらの文献記録を無視しているように感じるが残念である。1999年の江南人骨日中聯合調査団の報告は一つの画期である。
従来の倭人=江南人=魏志倭人伝記載の習俗(刺青など)・顔・背格好などから想像出来る人種像とは明らかに異なった江南人の人骨が春秋時代末期あたりの江南地方の遺跡から発見発掘調査確認されたのである。この人骨は日本での弥生人の典型とされた、北部九州(三津永田遺跡)・山口(土井ヶ浜遺跡)で発掘された人骨の特色である面長・平面顔・背高・貴族顔とそっくりだったのである。従来日本では、弥生人の主流は朝鮮半島から渡来してきた中国北方系(漢民族・扶余族など)出身種族の面長・平面顔・背高・貴族顔だと決めつけ、華南系・越系の骨格を有する人種とは区別してきたのである。
即ち魏志倭人伝記載の習俗(刺青など)・顔・背格好の人種は前期弥生人、中国北方系顔の弥生人は後期弥生人(主流)と考えてきた様に思える。その考えがこの調査で覆された感があるのである。
さらにこの結果から想像たくましく考えると、先ずbc1000年-bc500年頃に日本列島に水田稲作の技術を持って渡来してきた人種は、中国本土人が最初に自分らと区別した倭という江南地方出身の人種である。これは魏志倭人伝記載の習俗(刺青など)・顔・背格好の人種である。
この後に同じ江南出身ではあるが、呉王家などの漢民族出身の種族およびそれと従来の江南系の種族との混血系種族がbc473年頃から渡来してきて、日本列島に新文化(製銅技術・水田稲作技術など)を導入したのである。(直接、朝鮮半島経由共にあったであろう)
ハ、bc1000ーbc473年の間が謎である。稲の種類・倭・倭人という言葉の発生起源から判断すると、間違い無くこの間に相当数の江南人(越人)が、直接または朝鮮半島経由で九州に渡って来たはずである。O1b2系統であったはずである。この数百年の記録が無いのである。この明らかに原初倭人と思われる人骨は発見発掘されているのであろうか。
③bc473年以降江南地方では、越の滅亡、楚の滅亡などにより多くのボートピープルが発生し、直接、間接的(朝鮮半島経由)に日本列島に江南系の種族が渡来してきたことは、容易に推定できるのである。これらは、O1b2系のY染色体を有するものが主で一部O2系もいたことであろう。この時代のO1b2系に相当する人骨はどこで発掘されたのであろうか。
④③の後に又は並行的に所謂北東アジア系(漢民族・扶余族などとも云う)の面長・平面顔・背高・貴族顔の人種が中国東北部ー朝鮮半島北部ー朝鮮半島南部を経由して九州北部に渡来してきたと考えるべきであろうか。この人種は製銅製鉄技術を有していたと考えられる。Y染色体は当然O2系である。②ロ倭人の自謂太伯之後関係のO2系江南人とは似て非なる種族である。今後日本ではどのように区別するのであろうか?
⑤魏志倭人伝が完成したのはAD280年だとされている。この時の著者である陳寿(及び中国中心部の支配者層)の倭人の認識の中に北東アジア系の人種又は江南出身の漢民族系の骨格を有する人種が北九州および日本列島に存在していたことが含まれていたのであろうか。彼が認識していた、邪馬台国・卑弥呼などが存在していた倭国はどのような人々が住み、支配している所だと認識していたのであろうか。AD280年といえば弥生時代末期である。古墳時代に入っているのである。どうも我々の歴史認識とは相当ズレがあるように思えるのだが、どうであろうか。
⑥既稿の「久米氏考」の中で古事記の神武東征伝で神武に随行していた久米氏の元祖大久米命が顔に刺青をしており、神武天皇のお后候補がびっくりする場面がある。少なくとも当時(筆者推定:紀元1世紀頃?)には近畿ヤマト地方には刺青の風習は無かったことが窺える。この久米氏の出自は筆者の調査した範囲では縄文系弥生人と記したが、場合によっては江南出身の渡来系弥生人であった可能性も否定できないのである。顔や身体に刺青をする風習は北九州でも珍しい状態になっていたものと推定できるのである。
⑦ところで現在の日本人になるまでには、上記弥生人の時代からさらに1000年近く要したというのが通説である。AD3世紀以降古墳時代にも渡来人は主に朝鮮半島から徐々にやってきたとされている。中国大陸での政変の影響は直ぐに朝鮮半島に及び、玉突きのように日本列島にボートピープルがやってきたのである。古事記日本書紀にも関連氏族の記事が多発するのである。どこまでが史実かは分からないが、秦氏・東漢氏などが代表的でさらに白村江の戦い以後は百済国滅亡により百済王族を始め多数の文明人が列島にやってきた。新撰姓氏録では、諸蕃氏族は全体の1/3も記録されており、さらに皇別・神別氏族として記録された氏族のなかでも、実際はその元祖は弥生時代に渡来してきた氏族であることが予測される古代豪族も多数含まれていると予測されているのである。よって古代豪族になった氏族の1/2以上が渡来系氏族だと考えても過言ではないと、筆者は考えるのである。
平安時代に入り、実質的に渡来人の流入を禁止したため、日本列島に新たなY染色体の異なる人種の流入はなくなったのである。これまでに日本列島に流入してきた人々は累積的には膨大な数である。これらの子孫が周りの色々な氏族と混血を繰り返して、さらに東北、北海道の民族とも文化的・人類学的混血が繰り返されて、現在の日本人に近い日本民族が形成されたのである。この間朝鮮半島でも日本の弥生時代とは全く異なる人種構成になったと言われているのである。現在の朝鮮民族と弥生時代の朝鮮民族は全く異なっているといわれているのである。お互いに、変なナショナリズムに偏執することなく、お互いの長い長い民族・文化の交流の歴史を理解しあい、お互いの祖先を尊敬し合うことこそ大切なことだと思うのである。
 
⑧筆者が最も興味があるのは、天皇家男子のY染色体はどのタイプか?である。現在の技術では簡単に調べることは可能である。
現在の日本人のY染色体がD1b系が30%以上40%近くあることは、驚くべき事実である。筆者の勝手な推定であるが、天皇家は少なくとも26継体天皇以降はY染色体の変更は無いのである。天皇家出身の男子からは膨大な数の子孫が日本中に現存することは間違いない。例えば、各種源氏、各種平氏出身の氏族だけでも計り知れないほどいるはずである。
もし天皇家がD1b系統ならば、これが30%以上現在存在する主要原因だと判断するのである。逆に天皇家がO2系統だとすると、20%未満というのは、少な過ぎると云わざるをえないのである。O1b2タイプでも同じことが云えるのである。⑦で記した様に実質的に渡来系古代豪族は平安時代で50%以上いたのであるから、D1b系がこんなに現在存在することと矛盾するのである。一般庶民の子孫存続率に比し、古代豪族、貴族、武士層の子孫存続率が高いことは、容易に推定できる。だとすると、真の皇別氏族・天皇家のY染色体がD1b系で平安時代以降に渡来系のO2,系などの子孫存在確率より優って現在のようになったとは考えられないだろうか。
そうだとすると、天皇家朝鮮半島出身説、中国大陸出身説は、遺伝子解析で消え去るのである。別に天皇墓を暴いて調査する必要はない。江戸時代の天皇家出身(宮家)の男子が続いている家の男子の唾液を一寸頂いて調べるだけで済む話である。いかがであろうか。筆者の妄想であるが。
 
7)まとめ
①最近の中国・朝鮮半島・日本列島での発掘調査などの結果、遺伝子解析結果などを充分考慮して日本列島を含む東アジアのbc1000年以降の人々・文化の交流の歴史は見直すべき時期にきていると判断する。
②中国古典に文字記録された東アジアのbc1000年以降の事項も見直すべき時期に来ていると判断するのである。
③本稿の主テーマである「松野連氏」の出自は新撰姓氏録に記録されたように、「呉王夫差」とあり、史実に限りなく近い記述だと判断する。
これは併せて、中国古典である「魏略」「翰苑」「梁書」「普書」などに記された「自謂太伯之后」の記事も史実を反映したものと判断できるのである。より具体的に述べればbc473年に呉王夫差の裔が倭(日本列島)に渡来して来たと判断すべきであると考えるのである。
④江戸時代に発見されたとされる「松野連氏」系図だとされる史料は、本来の古代豪族「松野連氏」に伝承・作成されたであろう元系図からは、その後何回かにわたり、大幅に改変されたものと判断するのである。よって現存する系図をそのまま史実を反映しているものと判断することは、不可能である。特に筆者が違和感を感じる部分は、邪馬台国・卑弥呼に関連する部分と、倭の五王に関連する部分である。
奴国王の部分は、従来のいかなる系図にも記されていないが、さらなる解析が必要だとは判断するが、史実を反映している可能性はあると判断した。
欽明天皇以降の記録はほぼ史実を反映しているものと判断した。
⑤日本古代史において、弥生時代は発掘考古学が主流の学問分野であるが、新分析技術(放射性炭素分析・分子生物学遺伝子分析など)もどんどん導入して世界史レベルでの日本の古代史・人類史・言語史・文化史を構築して貰えることを期待したい。
⑥出自「呉王夫差」を偏に活用して、直接的に天皇家の祖先説・九州王朝説・邪馬台国論などに結び付けることは、筆者は避けるべきだと判断しているのである。
⑦古代史において倭・倭人・倭国・ヤマト・日本などの言葉は、その定義が非常に難しい。また縄文時代・弥生時代・古墳時代という言葉もアマチュアには、非常に分かり難い。本稿の中では筆者が理解した範囲で使い分けてきたが、専門家の皆さんが、学会として纏めて頂きたい。時代とともに変化することを恐れないでやって貰いたい。同時に中国・韓国などの学者・有識者との交流を深めて貰いたい。
 
8)参考文献
・日本の歴史02「王権誕生」寺沢 薫 講談社(2001)
・日本の歴史03「大王から天皇へ」熊谷公男 講談社(2001)
・「古代の日朝関係」山尾幸久 塙書房(1989年)
・倭国 岡田英弘 中公新書(2001)
・紀氏は大王だった 消された邪馬台国東遷と紀氏東征 日根輝己 燃焼社(1995)
・日本書紀(上中下)
・「姓氏家系大辞典」 太田 亮
・中国古代再発見  貝塚茂樹 岩波新書(1979)
・沈 仁安著「中国からみた日本の古代」ミネルヴァ書房(2003)
・姜 吉云著「倭の正体」(株)三五館(2010年)
・邪馬台国から大和政権 福永伸哉 大阪大学出版会(2007)
・新弥生時代 500年早かった水田稲作 藤尾慎一郎 吉川弘文館(2011)
・「神武東征」の原像 宝賀寿男 青垣出版(2006)
・神功皇后と天日矛の伝承  宝賀寿男 法令出版(2008)
・越と出雲の夜明け 日本海沿岸地域の創生史  宝賀寿男 法令出版(2009)
・古代の日本と渡来人 古代史にみる国際関係 井上満郞 明石書店(2003)
・吉田 孝『日本の誕生』岩波新書(1997)
・日中歴史共同研究報告書巻1 北岡伸一ら編 勉誠出版(2014)
・崎谷 満 DNAでたどる日本人10万年の旅, 昭和堂 (2008),
・崎谷 満『新日本人の起源』勉誠出版、(2009)
・崎谷 満「新日本列島史」勉誠出版、(2009)
・新人物文庫 ここまでわかった 卑弥呼の正体 歴史読本編集部 中経出版(2014)
・尾池 誠著「埋もれた古代氏族系図:新見の倭王系図の紹介」 晩稲社(1984)
・「DNAが語る稲作文明ー起源と展開 佐藤洋一郎  NHKブックス(1996)
 ーーーインターネット情報
 その他関連インターネット情報。ウイキペディアなど。参考。
 
 9)あとがき
久し振りのHP更新である。この間中国河南省の旅行をして、中国4000年の歴史の跡、漢字の誕生の地を訪れ、本稿の執筆にも多大な背景知識を得た。このチャンスを与えて下さった多くの皆様に感謝申し上げます。ありがとうございました。
(脱稿:2016-5-2)