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41.久米氏考 (含む:山部氏) 
1)はじめに
   田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける
                         万葉集:山部赤人
 万葉集の中でも特に有名な歌である。戦後教育を受けた者は中学校で習ったはずである。筆者の息子が現在静岡県富士市に在住しているので、筆者は度々田子の浦付近に行く。
この歌の作者である「山部赤人」は、聖武天皇時代の宮廷歌人とされているが、下級官人だったようで、その経歴は、はっきりしていない。この「山部赤人」こそ本稿の主題である古代豪族「久米氏」の末裔の一人である。
 筆者が子供の頃にマンガになって連載されていたような記憶がある人物に「久米の仙人」という、けったいなマンガの主人公がいた。この「久米の仙人」なる人物も伝承上の人物ではあるが、奈良県橿原市久米町にある久米氏の氏寺とされている「久米寺」の創建者として伝承されている。
前稿(安曇氏考)でも触れたが、古代豪族の中で、刺青をしていたことが記紀などの記述ではっきりしている氏族は、安曇氏・胸形氏・久米氏の3氏である。いずれも九州にいた海人族であるとされている。要するに中国サイドの古文献(魏志倭人伝など)に、倭人の習俗の代表的なものとされているのである。
 一方、久米氏は、九州の隼人族(薩摩隼人・球磨隼人など)とも非常に近い豪族だとも云われてきた。隼人族については、謎の部分が多いが、この際その一端を述べてみたい。
新撰姓氏録では、久米氏は、天神系の神別氏族に分類されている。しかし、その祖先神が、高皇産霊尊だという記述と、神皇産霊尊だという2通りの記述がされてるのである。
既稿の倭氏考でも似たような2通りの元祖が有ることを記してきたが、この際この日本の神系譜の謎部分にも言及してみたい。
2)人物列伝
久米氏の発祥地は諸説ある。北九州糸島半島(福岡県糸島郡志摩町大字野北字久米)、熊本県人吉地方(肥前国球磨郡久米郷:熊本県球磨郡多良木町久米)、鹿児島県一帯(例:南さつま市野間岳東 加世田遺跡付近)、大和での本拠地は、大和国高市郡久米邑(奈良県橿原市久米)、などである。久米氏は来目、久味(クミ)とも表記され、クマ、クミ、クメなどと発音されてきた。太田 亮によれば 喜田博士が「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と、久米部は南九州の大種族、肥人にして魏志東夷伝に狗奴国とあるがこの久米部の本拠地なると考えられる。と記している。
新撰姓氏録では高御魂尊(高皇産霊尊)の8世孫「味耳命」の後裔とする記述と、神魂尊(神皇産霊尊)の8世孫「味日命」の後裔とする記述がある。
本稿は神魂尊説に従って記す。
・天御中主神(あめのみなかぬし)
@最初に天の最も高いところに現れた至高神。天地初発の神。造化三神。始源神。
A古事記:天之御中主神
「天地初めて発けし時、高天原に成り座せる神の御名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神。この三柱の神は、並独神に成りまして、身を隠したまいき」(日本の神々の事典より)
B日本書紀:本文には無い。国常立尊 第4一書:天御中主尊 初発の神ではない。
C先代旧事本紀:神代系紀:天御中主神なし。
天祖:天譲日天狭霧国禅日国狭霧尊(あまゆずるひあまさぎりくにゆずるひのさぎりのみこと)この出現の後に天御中主尊と可美葦牙彦舅尊が生まれた。
Dいずれの場合も具体的活動記事なし。信仰の対象外。延喜式神名帳には存在しない。
E後世になって仏教の北極星・北斗七星 妙見菩薩、天始元尊、天皇大帝と同一視
水天宮神 虚空蔵菩薩、密教。
F関連神社:秩父神社・久留米水天宮・高良神社・鹿児島妙見神社
G八代城に入城し妙見宮に参拝した細川忠興は、そこに秘蔵されていた四寅剣(妙見の神体)に家紋と同じ九曜(北斗七星と二つの輔星)の象嵌を見て「不思議な因縁なり」と、八代の妙見菩薩を細川家の守護神とした。
・高皇産霊神(たかみむすび)
@天御中主神に次いで現れた神
A古事記:高御産巣日神(たかみむすびのかみ)高木神(たかぎ):天孫降臨・国譲り神話・神武東征などに登場し司令塔として活躍。
天孫降臨段:「ここに天照大御神、高木神の命以て太子天忍穂耳命に詔りたまわく。ーー中略ーー邇邇芸命に詔科せて、豊葦原水穂国は汝知さむ国なり」など
神武東征段:「ここにまた、高木大神の命以て覚し白したまわく、ーーー今天より八咫烏を遣せむ。ーーー」など
B日本書紀:高皇産霊神(たかみむすびのかみ)高木神:天地初発条一書第4のみ
C古語拾遺:高御魂神(たかみみすびのかみ)多賀美武須比(たかみむすひ)
皇親神留伎命(すめむつかむろきのみこと)
・延喜式祝詞・出雲国神賀詞:神王高御魂命
D先代旧事本紀:神世7代目にイザナギ・イザナミと同一世代の神として高皇産霊尊・
神皇産霊尊・津速魂尊・振魂尊・万魂尊が登場する。
E高皇産霊神は「むすびのかみ」の統括者的役割。:天皇と国家を護る神。 男神
別名:高天彦神(たかまひこのかみ)  天神系の神  父系社会の代表神
参考)天皇家の守護神神祇官八神殿
八神殿:高皇産霊神・神皇産霊神・魂留産霊(たまつむすび)・生産霊(いくむすび)
足産霊(たるむすび)・大宮売神(おおみやつめのかみ)・御食津神(みけつかみ)
事代主神(ことしろぬしのかみ)
F産霊(むすひ):生成力・穀霊の再生  ものを産み出す生成力 農耕生産
むす:苔がむす、米をむす。
ひ:そのような状態をおこすエネルギー
むすび:異なる性質が結ばれて、新たな状態を生成する意味。男女が結ばれる。縄が結ばれる。水が両手に掬ばれる。禊ぎの原理。
G造化三神:天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神 性別なし、人間界から姿を隠した独神(ひとりがみ)
H高皇産霊神: 高天原神話 天孫降臨神話・国譲り神話:高木神
I子供:思兼神・栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)(天忍穂耳尊の皇后・ニニギの尊の母)
J日本書紀:顕宗天皇3年(487年)記事:阿閇臣事代関係記事
日本の金属文化に関与
K祖神:大伴氏・日奉氏・(久米氏)・宇佐氏・忌部氏・猿女氏  など
L関係神社:羽束師神社の話:羽束師坐高御産日神社
・安達太良神社、白髭神社、高天彦神社・高鉾神社など
・神皇産霊神(かみむすび)
@高皇産霊神に次いで現れた神   女神 母系社会の代表神、五穀を分け与える太母神
食物と調理の火の神 火継ぎの神
A古事記:神産巣日神(かみむすびのかみ)神産巣日之命(かみむすびのみこと)
     神産巣日御祖命(かみむすびみおやのみこと)
B日本書紀:神皇産霊尊(かみむすびのみこと)神皇産霊神(かみむすびのかみ)
C出雲国風土記:神魂命(かみむすびのみこと)御祖命
D古語拾遺:皇親神留弥命(すめむつかむろみのみこと)
E造化三神:天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神
・生成力の本源神、出雲の神々の祖神、農耕神
F神皇産霊神:女神    出雲神話 素戔嗚尊神話・大国主神話
            出雲風土記・古事記
G先代旧事本紀:高皇産霊神の子供とされている。別名:神祝尊
H「古事記」:大国主命を蚶貝(さきがい)姫・蛤貝(うむがい)姫の治療により蘇生させた話。
I古事記:少彦名神が子供(手指の間から産まれた穀物神)日本書紀では高皇産霊神の子
J出雲風土記:出雲の宮殿を出雲の神々を集めて建築した。地祇系の神か?
K祖神:度会氏・賀茂県主氏・久米氏・山部氏・県犬養氏・紀国造氏など
L関係神社:安達太良神社、白髭神社、出雲大社、鴨神社
M子供:支佐加比売(きさかいひひめ)その子供:佐太大神
伎比佐加美高日子(きひさかみたかひこ)
参考)・津速産霊神(つはやみむすび)
@古事記・日本書紀には登場しない産霊神
A古語拾遺:天御中主神・高皇産霊神・津速産霊神・神皇産霊神
B先代旧事本紀:高御魂尊・神御魂尊・生魂尊・津速魂尊・振魂尊・萬玉尊  
      結び神が他の神系譜と異なる。物部氏の思想。
C丹生祝氏本系帳:天魂命・高御魂命・血速魂命・安魂命・神魂命の順
D中臣氏の祖神
E藤原氏の祖神は鹿島神宮祭神の武甕槌命とされて春日大社に祀られている。謎である。
F新撰姓氏録:藤原氏・大中臣氏・中臣氏らの祖は津速産霊神の三世孫の天児屋命とした。不比等が春日大社の武甕槌命を祖神だとする主張は退けられた。とされている。
しかし、摂関家藤原氏は春日大社を祖神として祀ったため、津速産霊神は地方の旧中臣氏
に祀られるだけのマイナーな産霊神の扱いになった。
G流通の神
 
2−1)天津久米命
@父:神皇産霊尊 母:不明
A子供:天多祁箇命   別名:天?津大来目
B久米氏(来目氏)の元祖。
C古事記:邇邇芸尊の天孫降臨の記事:大伴氏の祖の天忍日命と共に多くの降臨随伴神として天之石靫・頭椎之太刀・天之波土弓・天之真鹿児矢などをもって、ニニギに随行した。大伴氏と久米氏は対等扱い。
古事記での「天孫降臨」:
 「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。」
D日本書紀:瓊瓊杵尊の天孫降臨の記事:大伴氏の遠祖の天忍日命が来目部の遠祖大来目命を率いて瓊瓊杵尊を先導した。久米氏は大伴氏の配下扱い。
背に靭を負い,腰に頭槌の剣,腕に鞆をつけ,弓を持ち矢を手挟み,さらに鳴鏑の矢を持ちそえるといういでたちで天上界(高天原)から降りてきた。
日本書紀での「天孫降臨」:
 「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」(本文:随伴神の記述なし)
一書:「高皇産霊尊は、真床覆衾で瓊瓊杵尊を包み、天の岩戸をひきあけ、天の八重の雲をおしわけて、降し奉った。この時、大伴連の遠祖である天忍日命は、来目部の遠祖の天?津大来目をひきいて、天の磐靫(いわゆき:頑丈な矢入れ)を背負い、威力のある高鞆を肘につけ、天の梔(はじ)弓、天の羽羽矢を手に取り、穴の多い鳴り鏑を持ちそえ、また頭槌(かぶつち)剣を身に帯び、天孫の前に立ち、移動して降り来て、日向の襲の高千穂の?日の二上峯の天浮き橋について、平地にある浮洲におりたち、膂宍(そしし)の空国(宗像)を目ざし丘つづきから、国土をもとめて通っていき、阿田の長屋の笠狭の御崎についた。ーーー」久米氏は大伴氏の家来扱い。
 
2−2)天多祁箇命
@父:天津久米命 母:不明
A子供:大久米命
B
2−3)大久米命
@父: 天多祁箇命 母:不明
A子供:布理禰  別名:大来目命
B記紀記事:神武東征の記事:大伴氏の祖、道臣(日臣)と共に活躍。
古事記:神武天皇の皇后となる比売多多良伊須気余理比売と神武天皇とを取り持った。この際、大久米命は、鯨利目(目の刺青)をしており、姫はこれに驚いたという記事あり。
古事記訳文:
故、日向に坐しし時、阿多の小椅君の妹、名は阿比良比売を娶して生める子は、多芸志美美命、次に岐須美美命、二柱坐しき。然れども更に大后と為む美人を求ぎたまひし時、大久米命曰しけらく、「此間に媛女有り。是を神の御子と謂ふ。其の神の御子と謂ふ所以は、三島溝咋の女、名は勢夜陀多良比売、其の容姿麗美しかりき。故、美和の大物主神、見感でて、其の美人の大便為れる時、丹塗矢に化りて、其の大便為れる溝より流れ下りて、其の美人の富登を突きき。爾に其の美人驚きて、立ち走り伊須須岐伎。乃ち其の矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ちに麗しき壮夫に成りて、即ち其の美人を娶して生める子、名は富登多多良伊須須岐比売命と謂ひ、亦の名は比売多多良伊須気余理比売、是は其の富登と云ふ事を悪みて、後に名を改めつるぞ。と謂ふ。故、是を以ちて神の御子と謂ふなり。」とまをしき。
是に七媛女、高佐士野に遊行べるに、伊須気余理比売其の中に在りき。爾に大久米命、其の伊須気余理比売を見て、歌を以ちて天皇に白しけらく、
倭の 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰をし枕かむ
とまをしき。爾に伊須気余理比売は、其の媛女等の前に立てりき。乃ち天皇、其の媛女等を見したまひて、御心に伊須気余理比売の最前に立てるを知らして、歌を以ちて答曰へたまひしく、
 かつがつも いや先立てる 兄をし枕かむ
とこたへたまひき。爾に大久米命、天皇の命を以ちて、其の伊須気余理比売に詔りし時、其の大久米命の黥ける利目を見て、奇しと思ひて歌曰ひけらく、
胡?子鶺鴒千鳥ま鵐 など黥ける利目(あめつつ ちどりましとと などさけるとめ)
とうたひき。爾に大久米命、答へて歌曰ひけらく、
媛女に 直に遇はむと 我が黥ける利目(おとめに ただにあはむと わがさけるとめ)
とうたひき。故、其の孃子、「仕へ奉らむ。」と白しき。是に其の伊須気余理比売命の家、狹井河の上に在りき。天皇、其の伊須気余理比売の許に幸行でまして、一宿御寝し坐しき。其の河を佐韋河と謂ふ由は、其の河の辺に山由理草多に在りき。故、其の山由理草の名を取りて、佐韋河と号けき。山由理草の本の名は佐韋と云ひき。後に其の伊須気余理比売、宮の内に参入りし時、天皇御歌よみしたまひけらく、
 葦原の しけしき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝しとよみたまひき。
然して阿礼坐しし御子の名は、日子八井命、次に神八井耳命、次に神沼河耳命、三柱なり。
 
日本書紀ではこの部分なし。
日本書紀:神武東征の時、大伴氏の祖の道臣(日臣)の部下という扱い。日臣が大来目を率い大軍を監督する将となって活躍。この時天皇は日臣の名前をその功により道臣と変えさせた。また天皇は来目歌を何度も歌った。
「ーーーこのとき、大伴氏の遠祖である日臣命が、大来目をひきい、大軍を監督する将となって、山路をふみわけて行ったが、ーーーこのとき天皇は日臣命をほめて、お前は忠誠で勇気もある。それによく先導した功もある。そこでお前の名を改めて道臣とせよ、と命じた。ーーー」    久米歌
C神武2年:道臣に宅地を授けた。築坂邑(橿原市鳥屋町辺)に、併せて大来目にも畝傍山の西の川(久米川)の地におらせ今も来目邑(橿原市久米町)と呼ぶはこれが起源。
D先代旧事本紀:「神武東征」: 道臣命に詔をして「汝は正しく勝つ勇敢である。良く我々を導いた功績が有る。よって先に日臣を改めて道臣とした。加えて大来目の精強な兵を率いて密命を奉じ良く諷歌による謀略を用いて禍を掃蕩した。このごとき功績は良く誠が有る。軍の統率者として、末裔に伝えなさい」と仰った。謀略を用いるのはこの時からである。道臣は大伴連の先祖である。また、道臣の宅地は築坂邑に有り、これを持って報いられた。また、大来目を畝傍山の西川邊の地に住まわせ使われた。今、来目邑と云うのはこれが元である。所謂、久米連の先祖である。
E久米御県神社祭神
 
2−4)布理禰
@父: 大久米命 母:不明
A子供:佐久刀禰
B
2−5)佐久刀禰
@父:布理禰 母:不明
A子供:味耳
B
 
2−6)味耳
@父:佐久刀禰 母:不明
A子供:五十真手
B久米御県神社に関する五郡神社記:綏靖天皇の御世に及び、男味耳命に勅して来目県主と定む。この時にあたり、味耳命、幣倉を来目に造り、先ず御祖の彦神を祭り奉る。ここに到り、先考(道臣をいう)式部の帯ぶる所の頭槌の剣をこれに祭りて神となす。日本書紀・新撰姓氏録・本系帳に載せたり。
 
2−7)五十真手
@父:味耳 母:不明
A子供:彦久米宇志
B
2−8)彦久米宇志
@父:五十真手 母:不明
A子供:押志岐毘古・阿加志毘古(吉備中県国造)
B
2−9)押志岐毘古
@父: 彦久米宇志 母:不明
A子供:味波波(阿武国造)・七掬脛・宇加比売
B久米連。
 
2−10)七掬脛(ななつかはぎ)
@父: 押志岐毘古 母:不明
A子供:爾久良支・八甕   別名:七拳脛
B久米直祖
C倭建命の東征の際、膳手(方)として仕えた。倭建命は死の直前に七掬脛をしてハナフリ(一種の通貨)を全員に分け与える。(ホツマ伝)
D武日(大伴氏祖)につじ歌(一種の連歌)について質問(ホツマ伝)
E古事記景行天皇段:倭建命の東征の際に膳手を努めた。
F日本書紀景行40年記事:天皇は吉備武彦と大伴武日連とに命じて、ヤマトタケル尊に従わせた。また七掬脛を膳夫(かしわで)とした。                
G熱田社寛平縁紀など:尾張国氷上社の祠官久米直氏にて系図は大久米10世孫久米直七拳脛ありて彼祠官の祖なり。その子に久米八甕ありて、稻種公の久米八腹というあるはこの人かとある。
H関連神社:建部神社(滋賀県大津市神領)久佐奈岐神社(静岡市清水区山切字宮平)
 焼津神社(焼津市焼津)  それぞれの神社に倭健命と共に七掬脛が祀られている。
 
・八甕
@この流れから、尾張氷上神社社家来目氏が派生。
A子供:伊牟多乃造から中央で活躍した久米氏が派生。
非常に長世代の系図が残されている。
 
・久米御園
@父:恩地麻呂 母:不明  七掬脛12代孫
A子供:百里
B672年:壬申の乱で天武側につき活躍。宿禰姓を賜った。
この一族の具体的活躍記事発見出来ない。この流れより、松岡氏・秋山氏・阪田氏・
日野氏・黒川氏が発生と系図にはある。
(派生氏族)
久米宿祢(松岡−尾張国山田郡松岡より起り、美濃国不破郡・近江・肥後に遷。秋山−尾張人。阪田、日野−近江人。久米、清渕、黒川−肥後人)、
 
2−11)爾久良支
@父:七掬脛 母:不明
A子供:猪石心足尼・久味国造伊与主足尼・佐紀足尼(大泊国造)・矢口宿禰(淡路国造)
B
 ・猪石心足尼
@父:爾久良支 母:不明
A子供:不明
B久米氏の本流らしいが、系図が伝承されていない。久米氏・門部氏祖
後述の「久米直奈保麻呂」らはこの流れではないだろうか?
 
2−12)伊与主足尼
@父:爾久良支 母:不明
A子供:加志古乃造   別名: 伊興主命
B国造本紀:応神天皇朝神魂尊13世孫伊興主命を国造と定め給う。
C久味国造(後の伊予国久米郡:現松山市高井町、久米窪田町、来住町、鷹子町、南久米町、北久米町、福音寺町、南土居町)
D延喜式:伊予郡伊予神社(名神大)は、天平神護2年紀には久米郡伊予神社と見え、後世また久米郡居合村に鎮座す。伊予豆比子神社は伊予国造の祖霊社。
E久味国の隣は浮穴郡で同族の浮穴氏がいた。さらに隣の喜多郡にも久米郷があった。
 
2−13)加志古乃造
@父:伊与主足尼 母:不明
A子供:忍毘登乃造
B
2−14)忍毘登乃造
@父:加志古乃造 母:不明
A子供:山部小楯・浮穴弟意孫
B
 
・浮穴弟意孫
久味国の隣の浮穴郡に住んだと思われる。
浮穴郡(うけなぐん)は、伊予国中部にかつてあった郡。現西予市・大洲市・内子町
松山市・東温市・伊予市・砥部町など
2−15)山部小楯
@父:忍毘登乃造 母:不明
A子供:歌子
B伊予来目部播磨国司
C日本書紀:清寧天皇紀:伊予来目部小楯を明石に使わし、雄略天皇に殺害された、市辺押磐皇子の子、億計(おけ)弘計(おけ)兄弟を発見、彼等兄弟は、23顕宗天皇、24仁賢天皇となった。
顕宗天皇紀(450−487):伊予来目部小楯はその功により山官の役を賜り、姓を山
部連とした。
・弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主−吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。
・日本書紀顕宗天皇即位前紀:履中天皇の御子市辺押羽皇子が皇統争いから雄略天皇に殺されることになった時、弘計王(23顕宗)と億計王(24仁賢)を連れて丹波国余社郡に避難した日下部連使主と吾田彦(使主の子)の記事。(日下部氏の初見)吾田彦の名から、吾田(隼人)族と日下部氏関係あり。また、『新撰姓氏録』には“日下部“は”阿多御手犬養同祖。火闌降命之後也”とある。
 
2−16)歌子
@父:山部小楯 母:不明
A子供:伊加利子・那爾毛古比売
B
 
・那爾毛古比売
@父:歌子 母:不明
A夫:中臣可多能古
子供:御食子・国子
B中臣鎌足の祖母
 
2−17)伊加利子
@父: 歌子 母:不明
A子供:比治
B
 
2−18)比治
@父:伊加利子 母:不明
A子供:足島
B播磨国風土記:孝徳朝(645−654)に播磨国揖保郡を分割し、穴禾(しさは)郡を造った時、功が認められて、里長に比治が任命された。比治の里といわれるようになった。
 
2−19)足島
@父:比治 母:不明
A子供:赤人
B
 
2−20)赤人(?ー736?)
@父: 足島 母:不明   七掬脛10代孫
A子供:磐麻呂  別名:山辺赤人 明人
B奈良時代の万葉歌人(50首)。聖武朝の宮廷歌人。36歌仙の一人。
歌聖(柿本人麻呂と共に古今集序)歌歴724年作から万葉集長歌13首短歌36首
山部赤人の作歌年代は、724〜736年と推定されている。
C有名な「田子の浦ゆーーー」の歌は736年の作。
D下級官吏。宿禰姓(684年連姓から改姓)。外従6位下上総少目
E伝墓:奈良県宇陀市額井岳麓に五輪塔あり。
F山部神社・赤人寺:東近江市(旧蒲生町)下麻生:没っした所?
 
2−21)磐麻呂
@父:赤人 母:不明
A子供:老
B
派生氏族:山部連(山部−近江国日野大宮人。市川、塩見、吉田−播磨人)、山部宿祢、山宿祢(三木、淡河−播磨国三木郡人)、
 
その他久米氏関連人物
・久米直奈保麻呂
@父:不明 母:不明
A子供:久米連若女 
B続日本紀:神亀元年(724年) 久米連を賜る。正5位上。百川外祖父
 
・久米連若女(?−780)
@父:久米奈保麻呂 母:不明
A夫:藤原宇合 子供:藤原百川    別名:久米若売
B藤原宇合と結婚し732年に百川を生むが、737年に宇合に先立たれた。
B739年石上乙麻呂と関係。和姦の罪で下総に流された。(陰謀説)
C740年大赦。767年従四位下
 
・久米連形名女:続日本紀:宝亀10年(779) 従五位下 
「朝日長者屋敷の女房」=久米連形名女説
久米真上の母説あり。
 
・久米直真上
@父:藤原百川?説 母: 久米連形名女説
A子供:不明
B続日本紀:779年外従五位下  下野介  781年大和介
C久米直真上=猿丸大夫説あり。 猿丸大夫は万葉歌人で出自に関し諸説ある。
D
 
久米朝臣氏:新撰姓氏録:右京皇別 武内宿禰5世孫稲目宿禰の後也。
本稿の久米氏とは直接関係ない氏族である。
 
・(久米朝臣尾張麻呂):続日本紀:和銅元年(708) 伊予守 従五位下
・久米朝臣子虫:宝字8年(777) 従五位下 伊賀守
久米朝臣比良女:勝宝元年(749) 従五位下
 
・久米朝臣広縄
@父:不明 母:不明
A子供:不明
B万葉歌人
C天平17年(745)左馬少允従七位上 越中掾  越中守大伴家持の家臣的存在
D751年正税帳使久米広縄
 
竹田連(録・左京)、竹田宿祢(竹田−山城国紀伊郡人。同州乙訓郡の神足も同族か、称清原朝臣姓。周防国都濃郡中須村八幡宮祠官の神足も一族か、称佐伯姓)、山部連(山部−近江国日野大宮人。市川、塩見、吉田−播磨人)、山部宿祢、山宿祢(三木、淡河−播磨国三木郡人)、門部連(録・大和)、門部直、興道宿祢、三使部直(安芸国高宮郡人で中縣国造末流)、浮穴直(録・左京、河内)、春江宿祢(浮穴−伊予人)、村部、田部直。
 
3)久米氏関係寺社 参考資料
3−1)久米御県神社(橿原市久米町786)
@祭神:高皇産霊尊・大来目命・天櫛根命
A社格:式内社(小)村社  延喜式神名帳:大和国高市郡久米御県神社三座
B創建:日本書紀垂仁27年紀:「是年、来目邑に屯倉を興す」記事
C五郡神社記:祭神:天櫛根大久米命
D大来目命は久米部の祖神。久米部の居留地。旧来目邑 来目邑伝承地碑
E久米氏の衰退により衰微。隣接地に久米寺が出来て鎮守社となった。
江戸時代中期からは、天満宮・天神社、明治になり元の名に戻った。
 
・久米寺(橿原市久米町502)
@真言宗御室派
A本尊:薬師如来
B創建:不明 奈良時代前期
C開基:不明  来目皇子(聖徳太子弟)・久米仙人
D空海が真言宗を開く端緒になった大日経を感得した寺。真言発祥の地
E和州久米寺流記:開基は来目皇子
F扶桑略記・七大寺巡礼私記:久米仙人の話
G久米部の氏寺
H奥山久米寺跡
 
・久米仙人
・久米寺流記:毛堅仙
・七大寺巡礼私記・久米寺流記・元亨釈書・扶桑略記・今昔物語・徒然草・発心集
今昔物語集:「天平年間に大和国吉野郡龍門寺の堀に住んで、飛行の術を行っていたが、久米川の辺で洗濯する若い女性の白い脛に見惚れて、神通力を失い、墜落し、その女を妻とした。高市郡に遷都されたとき、久米仙人もまた俗人として夫役につき材木を運搬していたが、仙人であることを知った役人に揶揄されたことに発憤し、七日七夜の修行の後、ついに神通力を得て、巨材を空運させた。時の天皇がこれを聞き免田30町を賜り、久米仙人はそこに寺を建立した。これが久米寺である。」
 
3−2)伊豫豆比古命神社(愛媛県松山市居相2-2-1 )
@祭神: 伊豫豆比古命・伊豫豆比売命・伊与主命・愛比売命
A社格:式内社 府県社 別表神社   別名: 椿神社
B創建:不詳(社伝:孝霊天皇の御代?)
C伊豫豆比古命(男神・いよずひこのみこと)
伊豫豆比売命(女神・いよずひめのみこと)
伊与主命(男神・いよぬしのみこと)
愛比売命(女神・えひめのみこと)
D『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、伊与主命は初代の久米国造であり、伊豫豆比古命と伊与主命は同一であるとする説と、伊豫豆比古命を祖神、伊与主命をその後継者とする説がある。
E愛媛県の県名は愛比売命から名づけられており、都道府県名で神名を使用しているのは愛媛のみである。
F伊予神社との関係?
G境内社
・勝軍八幡神社(かちいくさはちまんじんじゃ)
・御倉神社(みくらじんじゃ)
・児守神社(こもりじんじゃ)
祭神は天之水分命(あめのみくまりのみこと)、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。
水を司る天之水分命と安産母乳の木花開耶姫命の二柱を祀り、子育て、子授りの神とされる。初宮参りの後に夫婦で参拝し、出産のお礼と子供の成長を祈りよだれ掛けを奉納する習慣がある。
・奏者社(そうじゃしゃ)
祭神は潮鳴栲綱翁神(しおなるたぐつなのおきなのかみ)。
伊豫豆比古命と伊豫豆比売命が舟山に船を寄せた時、厳頭に纜(ともづな)を繋ぎ、先住民の代表である潮鳴栲綱翁神が迎えられた古事により、万事取り次ぎを頂ける神とされる。伊豫豆比古命神社を参拝する際には先立って、まず奏者社に参拝をする習慣がある。
 
3−3)伊予神社(愛媛県伊予郡松前町神崎193 )
@祭神:彦狭島命
配神
愛比売命(えひめのみこと)
伊予津彦命(いよつひこのみこと)
伊予津姫命(いよつひめのみこと)
日本根子彦太瓊命
細姫命
速後上命(はやのちあがりのみこと)
A社格: 式内社(名神大社)  県社   別名 親王宮
B創建:
C伊予神社(いよじんじゃ、伊豫神社)とは愛媛県に鎮座する神社であり、『延喜式神名帳』の伊予国伊予郡にその名が記載され、名神大社とされている。現在「伊予神社」を名乗る神社が愛媛県伊予郡松前町神崎と伊予市上野にそれぞれ鎮座しており、いずれも式内社の論社となっている。
D神階 天平神護2年(766年)従五位下、神戸二烟
貞観4年(862年)従五位伊予村の神に従四位下
貞観8年(866年)正四位下に昇叙
貞観12年(870年)正四位上に昇叙
E彦狭島命
河野氏の系譜を記した『予章記』には孝霊天皇の皇子の彦狭島命が反抗する民を制圧するために伊予国に派遣されたとあり、続けて皇子が現社地にあたる神崎庄に鎮座し、このことから当社を親王宮と呼ぶと記している。
速後上命は『先代旧事本紀』内の「国造本紀」では神八井耳命の子孫とされており、成務天皇の時代に伊予国造に任命されたとある。
F由緒: 社伝によれば、文治年間に伊予守源義経から崇敬され、その寄進により社殿が造営されたが文永年間にその社殿が消失したという。中世には祭神彦狭島命の子孫を称する河野氏から崇敬を受けており、天正年間に河野通信の命で社殿が造営されたという。寛文年間ごろより親王宮大明神という名称になった。
 
3−4)伊予神社(愛媛県伊予市上野2485 )
@祭神 月読尊
A社格等 式内社(名神大社)村社
B創建 伝・延長5年(927年)
C河野氏の崇敬を受け、また大洲藩主の祈願所として藩主の参拝や祭祀料の献上を受けていたという。かつては8町4歩もの社地を有していたとされる。
 
3−5)阿沼美(あぬみ)神社(愛媛県松山市味酒町3-1-1 )
@主祭神:大山積命
・高?神(たかおかみのかみ、?は靈の巫を龍にした字)
・雷神(いかずちのかみ)
・味耳命(うましみみのみこと、高御魂命八世の裔孫だが事蹟不詳。久米氏が末裔にあたる。)
面足神(おもだるのかみ)
惶根神(かしこねのかみ)
神八井耳尊(かみやいみみのみこと)  を合祀
A社格:式内社(名神大)県社
B創建:664年天智年間
C味酒天満神社
D阿沼美神社(あぬみじんじゃ)は、松山市味酒町と平田町に同名の神社があり、それぞれ式内社「阿沼美神社」であることを主張するが、いずれも確証を欠く。
阿沼美神社は延喜式神名帳では名神大社に列する。「阿治美神社」と書かれた写本もあり、「アジミ」と訓がつけられている。「アジミ」は熱水(あつみ)で、温泉の意味という説もある。温泉郡四座の中で唯一の大社であったが、早くに衰微し、その所在はわからなくなっていた。
天保4年(1833年)平田村の三島新宮社前から南北朝時代の「阿沼美宮」の石額が見つかり、翌年、阿沼美神社と改称した。しかし平田村が温泉郡ではなく和気郡に属するところから疑義が出され、温泉郡味酒村の味酒神社との間で論争となった。味酒神社は明治3年(1870年)県社に列格し、社号を阿沼美神社に改めた。
E由緒:社伝によれば、越智守興が天智天皇3年(664年)に創建したとされる。味耳命の後裔である久米氏の氏神でもあったという。
もとは現在松山城がある勝山の頂上にあり、勝山三島大明神とも称していた。慶長7年(1602年)加藤嘉明が松山城を築く際、味酒村に移されたことから味酒神社と称するようになった。
 
3−6)阿沼美神社(松山市平田町宮内983)
@主祭神:大山祇神
月読命
高?命
雷神
A社格:式内社(名神大) 郷社
B創建:不詳
C由緒:社伝によれば、当地は景行天皇の皇子で伊予御村別氏の祖である武国凝別命、日本武尊の子で伊予別君の祖である十城別王が居住した場所で、歴代の伊予別君が阿沼美神を祀っていたとされる。
その後、河野氏が大山祇神を合祀して「阿沼美三島大明神」と改め、後に「阿沼美三島新宮」と称した。しかし、河野氏滅亡後は単に「三島新宮」と呼ばれるようになったという。
天明2年(1782年)本殿より「阿沼美三島新宮」という棟札が見つかった。さらに天保4年(1833年)社前にある神橋の地下から、延文5年(1360年)のものとされる「阿沼美宮」と彫られた石額が掘り出された。そこで、翌天保5年(1834年)吉田家から式内社
・阿沼美神社とする裁許を受け、社号を改めた。
 
3−7)葛木倭文座天羽雷命神社(奈良県葛城市加守1045 )
(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)
@主祭神 天羽雷命(別名:建葉槌命・タケハツチ・天羽槌雄・武羽槌雄・倭文神など)
・摂社:掃守神社(天忍人命)、二上神社(大国魂命)
A社格等 式内社(大)・村社    別名:倭文神社(しずりじんじゃ)加守神社
B創建:不詳。文献の初出は、『日本三代実録』の859年条、当社に従五位上の神階を授けるという記述である。
C天羽雷命は各地に機織や裁縫の技術を伝えた倭文氏の祖神で、当社は日本各地にある倭文神社の根本の神社とされる。
D天忍人命は彦波渚武鵜草葺不合命生誕のときにその胎便(「蟹」と呼ばれる)を掃除したという神で、その子孫は蟹守(かもり)氏(掃部、加守、狩森などとも)と称した。
 
参考)天羽雷命(建葉槌命・天羽槌雄)
●古語拾遺より(布作りの部分)
 古語拾遺のアマテラスが天の岩戸に隠れ、八十万(やそよろづ)の神が相談し、奉げ物を造りアマテラスを岩戸から引き出す段の話。
 天羽槌雄神(あめのはづちをのかみ)は文布(しつ)を織り、 天羽槌雄神の「羽」は衣服のこと。神代紀の「倭文神建葉槌命(しとりがみたけはつちのみこと)」と書いてあるものに基づいている。
この時、天羽槌雄が織り出したのは、倭文(シズ)の綾織りというものだった。
倭文とは、古代の織物の一種の倭文織りのこと。よって天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。
●日本書紀天孫降臨段:
「倭文(しとり)神」とは天孫降臨に先立つ国津神征伐のシリーズで「天香香背男(かかせを)」の征伐にあたった神でもある。
建葉槌命は『日本書紀』に登場した倭文神で、経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされる。
・日本書紀第八段一書:「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に祭主の神を齋之大人(いわいのうし)といった。この神は東国の?取(かとり)の地に鎮座している。
日本書紀第八段本文と似た記述がある。「ーーー服従しないのは、ただ星の香香背男だけであった。で、さらに倭文神建葉槌命を派遣したら、服従した。」 これにより齋之大人=建葉槌命と考えられ、武神でもあるとの説もある。
(本稿 久米氏系図  <姓氏類別大観準拠系図>を参照)
 
3−8)倭文神社
@祭神:倭文神(別名:天羽雷命・建葉槌命・天羽槌雄命・武羽槌雄命・武葉槌命)
A読み:「シズリ」「シドリ」「シズオリ」「シトリ」
B倭文の意味:織物の名
C延喜式神名帳記載倭文神社:14社?18社説のある。
伊勢国鈴鹿郡 倭文神社(現 加佐登神社(三重県鈴鹿市)に合祀)
駿河国富士郡 倭文神社(静岡県富士宮市)
伊豆国田方郡 倭文神社(現 鍬戸神社(静岡県三島市)ほか論社複数)
常陸国久慈郡倭文郷 静神社(茨城県那珂市)
甲斐国巨摩郡 倭文神社(山梨県韮崎市)
上野国那波郡倭文郷 倭文神社(群馬県伊勢崎市)
丹後国加佐郡 倭文神社(京都府舞鶴市)
丹後国与謝郡 倭文神社(京都府与謝郡野田川町)
但馬郡朝来郡 倭文神社(兵庫県朝来市)
因幡国高草郡委文郷 倭文神社(鳥取県鳥取市)
伯耆国河村郡 倭文神社(鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内)伯耆一宮
伯耆国久米郡 倭文神社(鳥取県倉吉市)
他に以下の倭文神社も著名である。
倭文神社(岩手県遠野市)
倭文神社(奈良県奈良市)
美作国久米郡倭文郷 倭文神社(岡山県津山市油木北)
淡路国三原郡倭文郷 倭文神社(兵庫県南あわじ市倭文)
大甕神社(茨城県日立市)別名:大甕倭文神社にも武葉槌命が祀られている。
D『和名抄』記載倭文郷
常陸国父慈郡倭文郷  美作国久米郡倭文郷  上野国那波郡倭文郷
淡路国三原郡倭文郷  因播国高草郡委文郷
「倭文」「委文」ともに、「之土利」「之止里」と訓注されている。
E『倭文』は『文布』とも書かれていた
・『日本国語大辞典』:「倭文」は「しず」とも「しつ」とも読み、古代の織物の一種で、梶の木・麻などで筋や格子を織り出したものをいう。
・『大漢和辞典』:「倭文」は「しづ」「しどり」とあり、「しどり」は「しづおり」の約とある。
・『織物の日本史』:「倭文布(しずおり)」は、五世紀後半から確立される部民制的生産機構に編成された一つの倭文部民(しとりべ)によって生産されたものである。
・『倭文(しづ)』と言う古称: 『倭文織(しづおり)』と『倭文布(しづり)』から来ている。楮(こうぞ) 麻苧(からむし)などの繊維で出来ており赤青の原色で染め 乱れ模様に織ったものの布である。
・倭文は古代の植物の繊維そのものの色合いを生かした縞織り。
 
3−9)倭文氏(委文氏)
@倭文部を統括した古代豪族
A新撰姓氏録:委文連:摂津国神別氏族天神系角凝魂命男伊佐布魂命之後也
B姓氏類別大観:倭文氏:伊佐布魂命の4代孫「天羽雷雄命」の裔
C出自:天孫降臨以前の日本原住民である北九州に住んでいた海人族で倭人と呼ばれていた氏族の一つ。彼等が織った布を「倭文」と呼び、海人族の技巧品であって、古代海人族はこれを支那(中国)朝鮮半島とも通商していた。その布を織る専門の織工集団が『倭文部』だとする説。
D最終的には宿禰姓を賜った。天武朝では貴族扱い?
E詳しい系図が残されていない。
F倭文部可良麻呂 しとりべのからまろ 生没年未詳
万葉歌人:常陸国の人。天平勝宝七歳(755)二月、防人として筑紫に派遣される。
東北の大甕神社付近に住んでいた倭文氏の末裔だと伝承されている。
 
4)参考資料
4−1)天津神(あまつかみ)
@日本神話に登場する神の分類
A高天原から天降った神々の総称  天からきたもの。
B新撰姓氏録:天孫・天神
C延喜式(927年)「大祓詞」:天津神は磐門を押披きて、天の八重雲を伊頭の千別に
千別きて聞食さむ。
D令義解:伊勢、山代鴨、住吉、出雲国造齋神
D神々の例
・別天津神(ことあまつかみ)・神世七代・三貴神(天照大神・素戔嗚尊・月読尊)
古事記:天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・天之常立神・国之常立神など
伊邪那岐神・伊邪那美神
日本書紀:天御中主尊・高皇産霊尊・神皇産霊尊・国常立尊・など
    伊奘諾尊・伊奘冉尊   
先代旧事本紀・古語拾遺:津速産霊尊
     などの神々及びその系列の神々
 
4−2)国津神(くにつかみ)
@日本神話に登場する神の分類
A地に現れた神々の総称  先住の神
B素戔嗚尊は天津神であるが、その子孫である大国主命は国津神
C大和王権によって征服平定された地域の者が既に信仰していた神は国津神
D新撰姓氏録:地祇(地神・国祇)
E延喜式(927年)「大祓詞」:国津神は高山の末短山の末上りまして、高山のいほり
短山のいほりを揆別きて聞食さむ。
F令義解:大神・大倭・葛木鴨・出雲大汝神
F神々の例
・大国主・出雲神族神々
・椎根津彦(大倭国造氏・明石氏)
・磯城彦(磯城氏・十市氏)など
・(大山津見神)・木花開耶姫・足名椎神・稲田比売
・綿積豊玉彦(安曇氏)・豊玉毘売・玉依毘売
・長髄彦・御炊屋姫
・井氷鹿(いひか):吉野首祖
・石押分之子(石押別)(いわおしわくのこ):吉野国巣祖      など
記紀は先住の国津神の子孫達を天津神の子孫が征服する物語を載せている。
記紀は南九州の熊襲・隼人と北の蝦夷などを自分たちとは身体的特徴の違う異族であると
主張している。
続日本紀・日本後紀も蝦夷は言葉も通じない異族であると明記している。
 
4−3)隼人族(はやと)
太田 亮:隼人は主として薩隅日より、西南諸島に住居せし民族にして、我が倭民族と同人種なりや否や詳かならず。(中略)姓氏録では隼人氏を以て天孫族としているが、地祇族とするを至当とす。(中略)この族の古く著はれたるは熊襲也。明白に隼人とある古き物は国造本紀に「大隅国造・景行朝の御世、治平隼人同祖初小(隼人の酋長)、仁徳帝の代は、伏布(初小の裔)を日佐(酋長の意)と為して国造を賜ふ」「薩摩国造・景行朝、薩摩隼人等を伐ちて之を鎮む。仁徳朝の代日佐を改め直と為す。」とあるを初めとす。
@古代日本において薩摩・大隅・日向に居住し狩猟・漁労を中心に農耕生活をしていた人々で、長い間文化的に孤立しており、大和王権からは「夷人雑類」と見なされていた。
A呼称:はやと・はやひと・はいと など
B・古事記:ニニギの尊の皇子「火照命」が隼人阿多君の祖。
・日本書紀:海幸彦(火照命・火蘭降命)が隼人の阿多君の祖神。ーーー隼人舞
オーストロネシア語系文化説
・先代旧事本紀:皇孫本紀:火進命・亦火蘭命・亦火酢芹命は隼人等の祖。
・新撰姓氏録:隼人系の氏族は総て神別氏族で天孫系天神に分類している。
日下部氏も阿多御手犬養同祖 火闌降命之後也 で神別氏族で天孫系天神に分類している。
B風俗習慣を異にして、しばしば大和王権に反抗した。
C大和王権支配下になってからは、律令制の官職である兵部省隼人司に属した。隼人助
5世紀頃ヤマト王権に服属。隼人という記録は平安時代初頭まで多数正式記事あり。
芸能・相撲・竹細工。隼人舞、隼人楯、山城国(現在の京田辺市大住)などに在住。
D熊襲と呼ばれた人々と同一説。
E服属後も度々反乱。大隅隼人などは大隅国設置(713年)後も大規模反乱を起こした。721年の征隼人将軍大伴旅人による征討後完全服従。
F稲作はこの付近はふるわず、班田収授法が800年に初めて施行。
G新唐書:邪古・波邪・多尼の三小王の記事。隼人のことか?「南風(はや)の地の人」説もある。
・仁徳朝に日下部氏がこの地に誕生。  日下部氏の発生。
H考古学的調査
・松下孝幸「南九州における古墳時代人骨の人類学的研究(1990)」
結論:内陸部の人々:縄文人西北九州弥生人に類似
平野部:北部九州弥生人に類似。ーーー隼人には地域差があった。
 
<主な隼人族>
・阿多隼人(薩摩隼人)
@薩摩半島一帯に居住していた隼人族。薩摩国阿多郡阿多郷(和名抄)
・吾田君小橋の話    天曽利命?
古事記神武段:神武は阿多之小橋君妹阿比良比売を娶り多芸志美美命・岐須美美命を生む。
日本書紀:日向国吾田邑吾平津媛を娶り手研耳命を生む。
皇孫本紀:吾平津媛が手研耳・研耳命を生む。
A薩摩国設置(景行朝:国造本紀)以前はアタ(阿多・吾田と表記)または吾田国と呼ばれていた。
・阿多君:阿多隼人の首長。後に薩摩君という。
B日本書紀天武11年(682)記事:大隅隼人と共に大和政権の支配下。
C続日本紀709年記事:薩摩国設置後薩摩隼人の呼称。
D武芸に秀でた種族で警護の任に就いた者多い。
・大隅隼人
@大隅半島北部(大隅郷:鹿児島県志布志市・曽於市大隅町)周辺に居住していた部族
A肝属平野中心説  阿多君吉売
B日本書紀天武11年(682年)記事:この頃大和王権に服属か?
C大隅国造(景行朝:国造本紀)
・多?(たね)隼人
@種子島・屋久島に居住した部族
・甑隼人(こしき)
@甑島に居住した部族
A続日本紀769年記事
・日向隼人
@日向国に居住した部族
A続日本紀710年記事:部族首長「曽君細麻呂」が朝廷に服属外従五位下に叙せられた。
この記事は大隅隼人のことかも知れない。
B宇佐神宮史719年:大隅日向隼人襲来打つ傾日本国
・主な隼人族氏
阿多(吾田)氏・大隅氏・日下部氏・薩摩氏・小橋氏・肝属(きもつき)氏など
 
4−4)熊襲族(くまそ)
@日本の記紀神話・景行・倭建・仲哀などの段、風土記(豊後・肥前・肥後など)に登場する人々。伝説的記録にあるのみとされているが、史実ではないという結論も出ていない。
A古事記:熊曽  日本書紀:熊襲 筑前国風土記:球磨囎唹
B肥後国球磨郡(熊本県人吉市周辺、球磨川上流域)から大隅国贈於郡(鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域が異なる)に居住した部族。
・熊襲の地域がどの範囲なのかは、現在でも諸説あり明確ではない。
C5世紀頃までに大和王権へ臣従し、「隼人」として仕えた説(津田左右吉ら)
D球磨地方と曽於地方は考古学的異質性があり、熊襲の本拠地は都城地方・曽於地方のみで球磨地方は入らない説(中村明蔵)
E魏志倭人伝の狗奴国は熊襲国であるという説(内藤湖南、津田、井上光貞ら)
F古事記:国産神話に「熊曽国、言、建日別」
ヤマトタケル神話:景行天皇段:熊曽建、川上梟帥 征伐
G日本書紀:景行天皇自身による九州征伐神話に登場
H熊襲とは、北九州筑紫地方で大和王権に抵抗した旧倭国政権の残党勢力説(辻直樹ら)
 
4−5)蝦夷族(えみし)
@日本列島の東方、北方に住み大和朝廷によって異族視(夷人雑類 まつろわぬ者 化外の民 と記録され、同一民族とは認識されてなかった。)されていた人々に対する呼称。えみし、えびす、えぞ 毛人ともいう。時代によりその範囲が変化している。  近世ではアイヌ人を指す。
A語源的には、田舎の勇者 説 アイヌ語:エンチュ 説
B倭王武上表文:「東に毛人を征すること55国、西に衆夷を服せしむこと66国」
当初は「毛人」であった。
C659年遣唐使派遣の時初めて蝦夷という字を使用した説。
D鎌倉時代頃までは蝦夷地という言葉は北海道ではなく、東北をであり東北人のことを示す言葉であった。
E日本書紀景行天皇40年紀:「蝦夷は、竪穴住居に男女が生活し、夏の家を持ち、また毛皮を着け、血を飲む。動きは極めて敏捷で、矢を髪の中に差し、刀を衣の中に帯び、農桑の時を伺って人民を略奪している。」
G日本書紀斉明天皇5年紀:「蝦夷は五穀を持たずに肉を食し、深山の樹元を住処としている。」  日本書紀では農耕を知らない未開で野蛮な狩猟民としている。
H砂沢遺跡(青森県弘前市)BC2-3世紀の水田遺構。東北地方でも弥生時代前期頃に既に水田稲作を行っていた集団がいたことは確認されている。
 
参考)・砂沢遺跡
砂沢遺跡は、青森県弘前市に所在する弥生時代前期の本州最北端最古の水田跡遺跡である。
岩木山の北東麓に延びた丘陵の突端部、岩木川の左岸に位置し、現状は藩政時代の灌漑用の溜池の中に水没している。
1950年代の発掘で、縄文晩期終末の貴重な遺跡として認められ、砂沢式土器の名をうんだ。 弘前市教育委員会は、1984年(昭和59)から3カ年計画で発掘調査を行ったが、思いも寄らなかった弥生時代前期の水田遺構の発見の成果を踏まえて、調査を一年延長した。 そして、発見された水田跡はわずか6面であったが、調査範囲を拡げれば増加すると推定される。広さを推計するに75〜200平方メートル強である。
以上『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋。
・垂柳弥生遺跡(青森県南津軽郡田舎館村大字垂柳 )
垂柳遺跡(たれやなぎいせき)は、青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期の遺跡。国の史跡に指定されている。
概要 1981年(昭和56年)の国道102号バイパス化工事の試掘調査に際して弥生時代の水田跡が10面程発見された。
遺跡周辺からは弥生式土器の出土事例があり遺跡の存在が想定されており、地元の中学教諭が出土遺物を収集し調査・研究していた。
1958年(昭和33年)秋に東北大学による発掘調査が行われた。その結果、稲作農業が弥生中期後半の田舎館式土器期には成立していたことが証明された。その後、1982年(昭和57年)から翌83年の2カ年にわたる県教育委員会の発掘調査により畔で区画された656面の水田跡が検出され、それまで東北地方北部における弥生時代の水田稲作は否定的であったが、津軽平野のみであるが稲作をはじめとする弥生文化が受容されていた可能性が濃くなった。
 
4−6)土蜘蛛族
土蜘蛛(土雲)という言葉は、色々な意味で使われる。本稿に関しては、古事記・日本書紀・各地の風土記などに記された古代の土豪に限定して概観してみたい。
@一般的には、神武天皇東征の際にその邪魔をした、亦はその後の大和王権に従わなかった、敵対した、文化的にも野蛮と思われる習俗を有する、土豪などを表す蔑称である。
山岳土着民
(土蜘蛛と同族で神武や大和王権に敵対しなくても、土蜘蛛という場合もある。)
また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた。
A別名:八握脛(やつかはぎ)・大蜘蛛(おおぐも)・都知久母(つちぐも)
国巣(くず)・蝦夷
B身長が低くて手足が長く、小人のような人間で、洞穴で生活していたといわれる。農耕ではなく狩猟や採集を主とする穴居生活者。ーーー縄文人。女酋長
C陸奥、越後、常陸、摂津、豊後、肥前などの風土記にも登場する。
D例:・古事記:八十建(やそたける)神武東征段:尾が生えている人間
国津神「井氷鹿(いひか)」:吉野首祖・国津神「石押分之子(いわおしわくのこ)」:吉野国巣祖
・日本書紀:神武東征記事:新城戸畔(にひきとべ)・居勢祝(こせのはふり)・猪祝(いのはふり)・(長髄彦)・名草戸畔(なぐさとべ)・葛城の土蜘蛛
景行天皇12年紀・18年紀:青・白・神夏磯媛・速津媛・打猴・八田・国摩侶
津頬(つらら)
仲哀天皇9年紀:田油津媛・夏羽・葛築目(くずちめ)
・豊後風土記:青・白・五馬媛・打猴・八田・国摩侶・小竹鹿奥・小竹鹿臣
・肥前国風土記:打猴・頸猴・大山田女・狭山田女・海松橿媛・大身・大耳・垂耳
八十女人・大白・中白・少白・浮穴沫媛・鬱比表麻呂
・肥後国風土記逸文:打猴・頸猴
・日向国風土記逸文:大鉗・小鉗
・丹後国風土記残欠:陸耳御笠・匹女
・常陸国風土記:山の佐伯・野の佐伯・
・越後国風土記逸文:八掬脛
・陸奥国風土記逸文:黒鷲・神衣媛・草野灰・保保吉灰・阿邪尓那媛・栲猪・神石萱
狭磯名
など
4−7)刺青(入墨)
@刺青の風習は日本の場合、縄文時代からあった。縄文時代の土偶
弥生時代古墳時代の鯨面埴輪
Aアイヌ人や蝦夷族には後世まで刺青文化が存在していた。
B弥生時代(3世紀)には倭人には明らかに刺青の風習があった。『魏志倭人伝』「男子皆黥面文身」
この場合黥面とは顔に刺青を施すこと文身とは身体に刺青を施すことである。これが日本の刺青についての最初の記述。
「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」(魏志倭人伝)
「諸国文身各異或左或右或大或小尊卑有差」(後漢書東夷伝)
C中国大陸の揚子江沿岸地域にあった呉越地方の住民習俗との近似性を見出し、『断髪文身以避蛟龍之害』と、他の生物を威嚇する効果を期待した性質のものと記している。
D古代の畿内地方には刺青の習俗が存在せず、刺青の習俗を有する地域の人々は外来の者として認識されていた、との主張も存在する。
・古事記:神武天皇紀:伊波礼彦尊(後の神武天皇)から伊須気余理比売への求婚使者としてやって来た大久米命の“黥利目・さけるとめ”(目の周囲に施された刺青)を見て、伊須気余理比売が驚いた記事。
E・日本書紀履中天皇紀:安曇目の話
・古事記安康天皇条:「かれ山代の苅羽井(かりばい)に至りて御粮(みかれひ)食す時、面黥(めさ)ける老人来て、その粮を奪ひき。(略)汝は誰人ぞ、とのりたまへば答えて曰はく、我は山代の猪甘(いかひ)ぞといひき」粮(乾燥飯)を奪った入墨をした老人は、朝廷の猪甘(豚を飼う部民)であると名乗った。 御子の一人のヲケノ王が後に顕宗天皇となり、この老人を探し出して斬った。
F顔に刺青と思しき線が刻まれた人物埴輪が畿内地方からも出土。縄文時代に造られた土偶にも刺青を施された人面が日本各地で発掘されている。
 
4−8)縄文人と弥生人:
<縄文人>
@「縄文」という名称:1877年(明治10年)エドワード・S・モースが大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。この訳語が変遷して「縄文土器」となり、戦後になって「縄文時代」という言葉が確定した。
A縄文人の定義:
藤尾慎一郎( 国立歴史民俗博物館 考古研究系 助教授 1959(昭和34)年 福岡市生まれ。)らの定義:縄文人(じょうもんじん)とは、日本列島の縄文文化と呼ばれる文化形式を保持していた集団に属する人々のことである。 旧石器時代後の、紀元前145世紀−紀元前10世紀にわたる縄文時代の文化は、概ね現在の日本に分布していた。 そのため、この地域に居住していた縄文土器を作る新石器時代人を縄文人と見ることが出来る。
この縄文人は厳密には同質の集団ではなく、時期によって異なるが4-9の文化圏を持っていた諸集団の集合であったと考えられている。 日本列島(旧石器時代のこの海域は後述のように、現在とは相当に異なった海岸線を持っていた)に居住していた後期旧石器時代の人々が、後に縄文文化と総称される文化形式を生み出し、日本における縄文人諸集団が出現したと推測されている。
・この縄文人の日本列島への渡来ルートは現在も諸説あり確定していない。
B一般的形質
長頭・低顔・広顔・目の上の隆起強い、鼻根陥没、
男子平均身長:158cm四肢がっしり
C<遺伝子型から見た縄文人と現代日本人のつながり> (ウイキペディア)
父系をたどるY染色体は数万年にわたる追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。それに伴い、現代日本人は想像以上に古モンゴロイド的縄文人の血を引き継いでいる事が判明してきた。
崎谷 満( 筆者注:1954年生まれ。京都大学大学院博士課程修了、医学博士。)の分析により、日本人はY染色体のD2系統とO2b系統を主体とする事が明らかになった。D系統はYAP型(YAPハプロタイプ)ともいわれ、現代のアジア人種よりも地中海沿岸や中東に広く分布するE系統の仲間であり、Y染色体の中でも非常に古い系統である。
このD系統はアイヌ人・本土日本人・沖縄人の3集団に固有に見られるタイプであるが、朝鮮半島や中国人にはほとんど見られない。このD系統はアイヌ人の88%に見られる事から、D系統は縄文人(古モンゴロイド)特有の形質だということが明らかになった。
 
アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でもYAPハプロタイプ(D系統)が研究されて、チベット人も沖縄人同様に50%の頻度でこのYAPハプロタイプ(D系統)を持っていることが分かった。このことを根拠にしてハマーは、「縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団で、彼らが東進を続けた結果、約3万年前に北方オホーツクルートで北海道に到着した」とするシナリオを提出した。
現在では世界中でもD系統(古モンゴロイド)は極めて稀になってしまったが、日本人はその希少な血を濃く受け継いでいる。日本人以外の民族では、遠く西に離れたチベット人に強頻度でD系統が存在するだけである。両者を隔てる広大な中央アジアにおいては、後の時代にアジア系O系統(弥生渡来人もO系統である)集団が戦いに勝って広く占有住居するようになり、古モンゴロイドのD系統は駆逐されて島国日本や山岳チベット等の僻地のみに残ったと考えられる。 この研究により、縄文人の系統が色濃く現代日本人につながっているとする説が裏付けられた。
 
<弥生人>
@「弥生」という名称:1884年(明治17年)に東京府本郷向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。 当初は、「弥生式時代」と呼ばれ、その後「式」を省略する呼称が一般的となった。
A弥生時代(やよいじだい)の定義:北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前10世紀中頃(ただしこの年代には異論もある)から3世紀中頃までにあたる時代の名称である。具体的には、稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代である。と定義する説もあるが、現在は、弥生時代のはじまりと定義される稲作開始時期自体が確定できない状態である。(ウイキペディア参考)
B一般的形質
短頭・高顔・面長・鼻筋がとおっている。男子平均身長:163cm
山口県豊浦郡豊北町土井ヶ浜遺跡200体以上人骨発見
成人男:弥生人の特徴。成人女:縄文人の特徴。子供:両方の中間の特徴。
BC300年頃:高床倉庫・支石墓出現
BC200年頃:九州北部銅剣・銅矛・銅戈・銅鏡を副葬した墓出現。青銅製武器生産。
・中国長江下流域浙江省寧波市近郊河姆渡遺跡の発見約7000年前の遺跡高床建築
水田稲作。水田稲作が雲南省から日本列島へという説が長江流域説に変わった。?
C<従来の考古学的年代>
・縄文時代:12500年前ー2300年前
・弥生時代:BC3世紀ーAD3世紀半ば
・古墳時代:AD3世紀半ばー7世紀
D<最新の説>
・縄文時代;16500年前ー3000年前
・弥生時代:BC1000年ーAD3世紀半ば
<弥生人と縄文人の形質人類学的比較>
@馬場悠男説
1945年生まれ。東京大学理学部生物学科卒。医学博士。専門は形態人類学。国立科学博物館人類研究部部長、東大大学院理学系研究科教授。
 
         南方系縄文顔             北方系弥生顔
顔形       四角/長方形              丸/楕円
造作の線構成   直線                  曲線
プロフィル    凹凸                  なめらか
彫りの深さ    立体的                 平坦
眉        太い/濃い/直線            細い/薄い/半円
髭        濃い/多い               薄い/少ない
瞼        二重                  一重
頬骨       小さい                 大きい
耳たぶ      大きい/福耳              小さい/貧乏耳
耳垢       湿る/猫耳               乾く/粉耳
鼻骨       広い/高い               狭い/低い
唇        厚い                  薄い
歯        小さい                 大きい
口元       引き締る                出っぱり気味
           ーいわゆる南方系縄文顔VS北方系弥生顔ー
 
●現代日本人は、平均として、およそ北方弥生系7-8割、南方縄文系2-3割の比率で混血しているというのが、最近の人類学の結論である。だから日本人(和人)は北方系のイメージが強いのである。
 
参考)国営吉野ヶ里公園HPより
渡来弥生人の身体的特徴を在来の縄文人と比較
       縄文人             渡来系弥生人
顔全体   ・幅が広く横長四角い       ・上下に長い
      ・彫りが深い           ・のっぺりしている
鼻     比較的に大きい         鼻幅が細く低い
瞼     二重              一重(厚い)
唇     厚い              薄い
歯のサイズ 現代人より小さい        現代人より大きい
噛み合わせ 上下の歯がぶつかり合う     上の前歯が下の前歯に
                      覆い被さる(現代人と同じ)
身長     男性:158cmぐらい     男性:164cmぐらい
推定平均   女性:148cmぐらい     女性:150cmぐらい
体毛     濃い(眉毛も濃い)       薄い
総合    ・背が低く丸顔で彫りが深く、   ・長身で面長、彫りが浅く一重瞼、
      二重瞼で鼻が大きく、唇が厚い。   鼻は小さく唇も薄い。
 
4−9)山部氏について
@太田 亮説:〔山部〕は太古以来の大民族、否氏族と云ふよりは寧ろ種族と云ふ方、穏当ならんか。されど此の部は早く散乱して、諸豪族私有の民となりて、その名の下に隠れしもの多く、なほ品部として残りし山部も、早く統一を失ひ、加ふるに桓武天皇の御名を避け奉りて、其の称呼中絶せしかば、これを研究する事甚だ難し」 
伴部としての山部は職業部の1つ見るべく主として山猟を業とせしものと考えられ、?部
の漁業を職とするのに対す。神代記紀に大山津見神と大海津見神とあり。津見は積にて原始的カバネに外ならざれば大山津見神とは山部の長の神の意にて大海津見神とは?部の長なる神の意也。即ちこの二部民の崇拝せし神にして二部民を代表し給ふ者と見るべし。
よりて前者には、底津海祇・中津海祇・上津海祇を数へ後者には中山祇・麓山祇・鞍山祇等八山津見神あり、共に族神の多きを伝えるのはこの二つの部民の多かりしを語るものと見るべく殊にこの2神族の活動が我が神代史上にありて特に異彩をはなち、共に皇室の外戚たるは、太古この二つの部が大勢力を有せし反映にあらずして何ぞ。中略
山積族は隼人族と密接なる関係を有せしが如く或いは山積族即ち後の山部の民は、隼人と同種族にあらざるかとも考えられ、或いは隼人とは山積族の一種にして、地方的の称号に
過ぎずとも思はる。 姓氏家系大辞典より
A日本書紀景行天皇18年紀:山部阿珂古と水島(現熊本県八代市)の記事
B日本書紀応神天皇5年条:諸国に令して、海人及び山守部を定む
C古事記応神天皇条:海部、山部、山守部、伊勢部を定め賜ひき
D古事記顕宗天皇段:
E日本書紀顕宗天皇紀:
F谷川健一説
谷川健一著『古代学への招待』日本経済新聞出版社(2010年)より抄録・抜粋
・応神天皇の時代に海部と山部は初めてヤマト政権の傘下に組み入れられ、組織されたのであるが、それ以前は独立の集団であった。海部の場合は、筑前の糟屋、怡土、宗像、那珂の諸郡に置かれた海部、海人部が『魂志倭人伝』に記された倭の水人の後裔であったことはほぼたしかであると思われるが、山部も先史時代までさかのぼることができ、もっぱら山猟によって生業を営んでいたと考えられる。
・縄文時代の大遺跡である上野原遺跡(鹿児島県霧島市)から、深さ二メートルにも達する猪のおとし穴が百基近くも発見されている。これは紀元前四千年も昔の話であるから、それを弥生時代や古代にむすびつけるのは困難であるとしても、そこが大隈国府の中心であり、大隈隼人の根拠地であったことは、一応念頭に置いておいてもよいであろう。とすればこれらの地域は狗奴国とも無縁ではなかったと思われる。
・山部は九州の山地にひろく存在した。『日本書紀』によると、景行帝は巡狩の途次、肥の国の熊県に立ち寄っている。熊県は『和名抄』の肥後国球磨郡である。そこに熊津彦という兄弟がいて、兄は天皇に従ったが、弟は出頭しなかったので殺したとある。それから海路で葦北の小島にとどまって食事をしたが、そのとき山部阿珂古を召してつめたい水を奉らせた。そこが水嶋であると云う。水島は球磨川の河口にあり、今は八代市に含まれ陸つづきとなっている。
・この話に出てくる山部阿弭古はおそらく球磨川上流の球磨地方と関係があった人物と思われる。これは山部が九州の山岳地帯にいたことのたしかな例である。この山人集団について、喜田貞吉は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、久米部は南九州の、肥人であって、『魂志倭人伝』の狗奴国の地域がこの久米部の本拠であろう。ここから太古の山人集団の存在が浮び上がる。太田 亮はこれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造」であると云う。太田 亮は南九州の山岳地帯に住んでいた久米部は、山部の総領的な管理者だったとするのである。   
・久米族の変遷のあとを辿ってみると、『和名抄』に肥後国球磨郡久米郷がある。多良木町やあさぎり町須恵に含まれる地域である。球磨郡久米郷は久米部と関係がある。鹿児島県の薩摩半島にある南さつま市の上加世田遺跡から奈良時代の土師器椀が出土しているが、それに「久米」という墨書のあるものが混じっていた(『加世田市史』)。これはその地方に久米族のいた動かぬ証拠である。そこは南さつま市の北隣にある金峰町阿多から数キロしか離れていない。阿多は知る通り阿多隼人の本拠である。こうして久米族が阿多隼人と同じ地域に居住し、両者が密接な関係をもっていたことはまちがいない。
・久米族はそもそも肥人や隼人に近い関係をもつ南九州の異族であった。
・『魏志倭人伝』に見える「狗奴国」も前述のように「球磨国」のことであろう。KumaとKunaのm音とn音は互いに交換可能であるので、同じ地域とみてよい。ここで狗奴国と表記されているのは明らかに中国人の倭国に対する賎称であって、しかもことさらに狗の字を選んでつけたのは、隼人が犬祖伝説を信奉する卑しい民であることを強調したためと思われる。つまり隼人の先祖の狗奴国は犬の子孫だと蔑視したのである。
・隼人について:    
『日本書紀』によると、隼人の祖は火闌降命である。火闌降命は彦火火出見尊の兄にあたる。この兄弟を産んだのは大山祇神の娘で吾田鹿葦津姫、またの名を木花開耶姫と称した。人名に吾田の名が冠せられていることから隼人系の女性であることが分かる。父は日向の襲の高千穂峰に天降った天孫の瓊瓊杵尊である。
『古事記』では、最初に生まれた子どもは、隼人阿多君の祖の火照命、次に生まれた子は、火須勢理命、第三番目の子が火遠理命となっている。火照命は海幸彦である。火遠理命はまたの名を日子穂穂手見命といい、山幸彦であった。海幸彦山幸彦の葛藤もこの阿多の海岸を舞台に展開されたとするのが最も自然である。大山祇の神の女の木花開耶姫は隼人の女性であり、山幸海幸の神話は山猟と漁撈に明け暮れた隼人の海部と山部の双面性をうかがわせるのである。
・二王子の逃亡経絡: 
『古事記』によると、市辺忍歯王の王子である意祁王、袁祁王は、父の市辺忍歯王(『日本書紀』の市辺押磐皇子)が雄略帝に殺されたと聞いて逃亡し、山代の苅羽井まできたとき、山代の猪甘と称する老人に食糧を奪われたとある。京都府の城陽市には樺井月神社があって、そこが苅羽井とよばれた当時をしのばせる。おなじ城陽市大字市辺は、市辺押磐皇子が居住したといわれ、市辺には大芝という地名もあるが、大芝は押磐(『紀』)または忍歯(『記』)に由来するものであろう。また市辺は古くは櫟野辺と称したというから、皇子の名の市辺も地名にあやかったものではないか。
 
二王子の食糧を奪った猪甘の老人は顔に入墨をしていたと『古事記』は伝える。猪甘は猪飼部で猪(豚)を飼う仕事にあてられた部民である。『古事記』によると、二王子は河内国交野郡葛葉の渡場から淀川を渡って播磨国に入り、身分をかくして縮見(志深)村の首長の家で、馬飼、牛飼の仕事をさせられたという。播磨国山部連の先祖とされている来目部小楯は、あちこちで新嘗祭のための租税や供物をあつめるためにまわっていたが、志深村の首長の家の新室宴に招かれた。それは清寧天皇二年の十一月であり、新嘗祭の頃にあたる。意祁、衰祁の二王子は祝宴の催される室のかまどの傍で「御火焼の小子」のつとめをしていた。灯火が消えないように番する役である。灯火には松の根のアカシが使われたにちがいない。小楯は二王子にも舞ったり歌ったりすることを求めた。それに応じて兄の王子が舞い、弟の王子が歌った。
  倭は そそ茅原 浅茅原 弟日(おとひ) 僕(やつこ)らま
大和はそよそよと茅原の音を立てる国で、私はその浅茅原の弟王である、というのが歌の大意である。ここで歌われる茅原を単なる萱原と解する説もあるが、そうではなく、茅原は葛城地方の地名で、奈良県御所市大字茅原のことである。これは葛城一族の「はえ媛」を母とする二王子の出自が葛城地方にあったことをはっきり示す証跡として重要である。更に注目されるのは、茅原が役小角(役行者)の出生地ともなっていることである。これは役小角の人となりを知る上で大切な手がかりとなる。
ところで「御火焼の小子」の一人から歌の中で市辺押歯王の子であることを知らされた小楯は、おどろき、二王子のことを都に注進した。姨の飯豊皇女はそれを聞いて大変よろこんで、宮に上らせた、と『古事記』は伝える。この宮というのは飯豊王が住んでいた角刺宮にほかならない。『日本書紀』には、二王子発見にかかわった播磨国司小楯がその後も二王子に仕え、小楯は山守部を管掌する山部連の姓を与えられたとある。『古事記』には来目部小楯は播磨国山部連となっている。
 
・伊予の久米部:
さきに播磨国に派遣された官吏の伊予来目部小楯が二王子を発見したということを述べたが、彼は伊予の出身で久米部であり、しかも山部連の先祖ということになっている。これはどうしたことか。久米部の居住地のなかで九州にもっとも近いのは伊予国久米郡である。そこは『和名抄』に記載された古代伊予国十四郡の一つで、松山平野の東部に位置している。『国造本紀』に「久味国造ノ軽島豊明朝(応神朝)神魂尊十三世孫伊予主命定賜国造」とあるから、伊予主命は伊予久米部の先祖であろうと『地名辞書』は云っている。久味(クミ)、クマ、クメはたがいに通音である。松山市南部の農村地帯はかつて旧久米郡に属していた。今日の松山市北久米町及び南久米町は『日本地理志料』によると古代には久米郡久米郷に属し、この付近に久米郡を総括する郡家があったとされている。松山市南久米町の東隣の鷹子町に浄土寺がある。幕末に編纂された『愛媛面影』によると、久米の浄土寺の辺に播磨塚という古墳があったという。昔は石室があったが、今は野原にその残欠があるだけといわれている。伝承によると、この播磨塚は、清寧天皇の御世に伊予国人来目部小楯という人物が、播磨守として任地に赴き、役目をおえて伊予に帰り、館をつくって住んだとされるところで、播磨塚と称したという。久米部が久味国造となってからは、このあたりは国造の治所であったらしいことから、石室は国造家一族の墳墓であったと推定される。久米郡のとなりの浮穴郡も同族の浮穴直の発生した地とされている。またその西の喜多郡にも久米郷があるところを見ると、久米部の一族は広い地域を支配したことがうかがわれる。山部連の先祖であった来目部小楯が山部を管理していたことはたしかであるが、『日本書紀』にいうように大嘗(新嘗)の資金をとり立てる役というのは似つかわしくない。それもわざわざ播磨に派遣される必要があるとも思えない。とすれば、実際は二王子は山部によって播磨にかくまわれたというだけであったのではないか、という推測も成り立つ。
 
・隼人、葛城の山人との関係 :
山部と二王子の逃亡の話は深く絡まっている。市辺忍歯王が殺された悲劇の舞台に登場するのは狭狭城山君の韓(代巾)であり、また韓(代巾)と同族の倭(代巾)の妹の置目老媼であった。そうしてみれば市辺忍歯王の物語に山部が介入するのは偶然とは言いがたい。前述したように、京都府城陽市に市辺という大字があり、その下の小字に大芝がある。これは市辺忍歯王の名を地名として今に伝えたものにほかならなぬ。その市辺と大住とは木津川を隔てているが、直線距離で四キロくらいしか離れていない。
 
 二王子を逃亡の先々で庇護した人物はすべて山部と関係があった。その最たるものが播磨国の御料地を管理する来目部小楯であったことはいうまでもない。来目部は久米部で薩摩半島の阿多隼人とふかい関わりをもつことはすでに述べた。二王子に最後まで奉仕した日下部連使主の子の吾田彦も阿多隼人を想起させる名である。さきの山城国の大住郷の首長であった大住忌寸も山守の名をもっていた。『古事記』の安康天皇の条に意祁・衰祁の二王子は父王が殺されたと聞いて逃げ、「山代の苅羽井に到りまして、御粮食す時、面黥ける老人来て、其の粮を奪ひつ」とある。その老人は山代の猪飼であったという。山代の苅羽井は、隼人の移住地の大住の地であった。そこからこの顔に入墨をした面黥ける老人も異族ではなかったかと想像されるのである。『日本書紀』には、神武帝に従った大久米命が目のふちに入墨をしていた、とあるから、この入墨の老人も隼人族に属していたのではあるまいか。大住郷の大住忌寸山守が山守部の首長であったことから、猪飼の老人も山守部に属していたかも知れない。葛城の山人との関係も見逃しがたい。二王子には母方の葛城氏の血が流れている。二王子の姨の飯豊皇女も、葛城氏を背景とした高巫であった。
 市辺忍歯王と袁祁・意祁の二王子の逃亡の物語はもともと山部の間に伝えられた物語であり、各地の山部の力によって二王子が庇護されたことを強調したものであった。それが後に宮廷側にとり入れられ、都合のよいように潤色、改変をほどこされた公算が大きいと見なければならぬ。
以上 谷川健一著『古代学への招待』日本経済新聞出版社(2010年)より抄録抜粋
 
久米部             原島礼二氏記事
加藤謙吉説「大和の豪族と渡来人」吉川弘文館(2002)
●大伴氏の前身は久米氏である。高橋富雄東北大名誉教授説支持。
根拠)大伴家持万葉集歌に大伴の遠祖が大来目命。
筆者注)万葉集18/4094の大伴家持の歌:長歌の一部:「ーーー嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)のその名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし職(つかさ)海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと異立(ことだ)て大夫(ますらを)の 清きその名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に流さへる 祖(おや)の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は人の祖(おや)の 立つる異立て 人の子は 祖の名絶たず大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)そ梓弓 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩きーーー」
・「大伴」が最初からの族称ではなく多くの軍事的伴(トモ)(佐伯部・久米部)を抱える大伴造に成長した時点で二次的に付与された。
・久米氏は伊予国久米郡から大和に移住。
太田 亮説
・「久米直はーーー高魂尊裔とも、神魂尊ともあれど後説の方、真に近きは、国造本紀、久味国造を神魂尊裔とするにより、容易に知る事を得。其の高魂尊裔といふは、久米部の総領的伴造なる大伴連の系統を冒したるに因るならん。−−−」
・天忍日・天津久米とまた道臣は大来目と、共に各々異名同神。その根拠万葉18「大伴の遠つ神祖、その名をは、大来目主と、おいもちて」ーーー大伴が久米部を帥いた。説
 
・記紀等に見える大伴氏
万葉集18/4094の大伴家持の歌には「大伴の 遠つ神祖の 其名をば 大来目主と おひもちて」とあり、記紀等の伝承と食い違いを見せる。大来目主のヌシはノ・ウシの約まった形。「〜を支配する者・領有する者」の意で、偉大なる久米部の支配者の意となる。喜田貞吉によればクメはクマの転、久米氏は肥(くま)人族であろうという。しかし折口信夫はこの説に対し、クメは「くみ竹」のクミ、またはカベ(壁)と関係ある語とし、大伴・久米氏は宮廷の御垣を衛る役割を担ったとする。また記紀に見える久米歌の狩猟民族的な性格から、久米部を熊襲の山人族だったと見る説もある(上田正昭)。
 
(嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の
   その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし職(つかさ)
   海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
   大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと異立(ことだ)て
   大夫(ますらを)の 清きその名を 古(いにしへ)よ 今の現(をつつ)に
   流さへる 祖(おや)の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は
   人の祖(おや)の 立つる異立て 人の子は 祖の名絶たず
   大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)そ
   梓弓 手に取り持ちて 剣大刀(つるぎたち) 腰に取り佩き)
記によれば、天孫降臨の際、天忍日命・天久米命の二人が、天の石靫を負い、頭椎(くぶつち)の太刀を佩き、天の波士弓(はじゆみ)を持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を手挟み、御前に立って仕え奉る。
 また書紀神代下一書によれば、天忍日命、天クシ津大来目を率い、背には天磐靫を負い、臂には稜威(いつ)の高鞆を著き、手には天ハジ弓・天羽羽矢を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を取り副え、また頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯き、天孫の御前に立って、高千穂の峰に降り来る。
神武即位前紀によれば、カムヤマトイワレビコ命(神武天皇)東征のとき、「大伴氏の遠祖」日臣命(ひのおみのみこと)が、大来目(記では大久米命)を率いて山を踏み分け、宇陀までの道を通す。この功により道臣(みちのおみ)の名を賜わる。
(注)これは大伴・久米氏が大王家初期政権時代から大王家の側近中の側近として征服戦争に従った史実の反映であろう。家持の「喩族歌」(20/4465)にもこの経緯が「大久米の 大夫健男を 先に立て 靫取り負ほせ 山川を 磐根さくみて 踏みとほり 国まぎしつつ…」と描かれている。
同じく神武即位前紀、道臣命(記では大久米命が同行)は天皇の命をうけ、菟田県の首長兄滑(えうかし)を責め殺す。帰順した弟滑(おとうかし)を饗する宴で、来目歌が奏される。
神武即位前紀、天皇は高皇産霊神の顕斎の際、道臣命を斎主とし、「厳媛(いつひめ)」と名付ける。
神武即位前紀、天皇は道臣命に命じ、大来目らを率い、国見丘の八十梟師(やそたける)の残党を討伐させる。道臣命は忍坂に大室を作って酒宴を催し、酒に酔った梟師の残党を来目部に斬殺させる。
記中巻、大久米命は大和の高佐士野で天皇のために歌を以てイスケヨリ姫(三輪の大物主神とセヤダタラ姫との子)を娉いする。姫は返す歌で、大久米命の「黥ける利目」(入れ墨をした裂けた目)を訝る。
同じく記中巻、神武天皇即位のとき、道臣命、大来目を率い、諷歌倒語(そへうたさかしまごと=譬喩歌と暗号風の歌)を以て妖気を払う。
(注)大伴氏が古く大王家の祭祀を司っていたかと思わせる挿話。
記中巻、神武即位の翌年、道臣命は築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わる。
(注)保田與重郎『萬葉集の精神』によれば、築坂社は道臣命の祀られた社の址と言われ、また大伴屋敷とも道臣命墳墓とも言われるものが、天磐靫を蔵めたという靫神社の址と推定されるという。
築坂邑伝承地 奈良県橿原市鳥屋町
 
いわゆる崇神王朝(三輪王朝)でも大伴氏の活躍が見られる。十一代垂仁天皇紀二十五年、阿倍臣の遠祖武渟川別・和迩臣の遠祖彦國葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・物部連の遠祖十千根・大伴連の遠祖武日の五大夫に、厚く神祇を祭祀する旨の詔を垂れる。
景行紀、日本武尊の蝦夷征伐に吉備武彦と大伴武日が従う。日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で武日は靫負部を賜わる。
仲哀紀の四大夫は、中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連(武持とも。武日の子)。伴氏系図によれば武以は初めて大伴の姓を賜わり、大臣に任じられる。
四世紀末のいわゆる応神王朝(河内王朝)樹立の頃、大伴氏の活躍は特に見られない。しかし三代後の允恭のとき室屋(武以の子)が登場し大伴氏は政界に重きを置くようになる。大伴氏において実在がはっきりと信じられるのは室屋以降である。
新沢千塚古墳群(5〜6世紀) 奈良県橿原市川西町
大伴氏の群集墳に有力視される
(注)大伴部(大化前代の私有民)は全国的に分布するが、特に東国・奥羽地方に目立つ。久米部が西国中心なのと対照的で、このことから大伴氏が隆盛を迎えたのは久米氏より遅れるとみる説がある。
(注)一説に、大伴氏の本来の職掌は部の設置にあったという(直木孝次郎)。
 
5)久米氏関連系図
5−1)久米氏系図(姓氏類別大観準拠)
参考)久米氏元祖部別系図(古代豪族系図収攬準拠)
参考系図)大伴氏元祖部系図「古家家家譜」(甲斐一宮浅間神社宮司家)
参考系図)久米氏関連筆者推定系図
参考)神代天皇家神系図(記紀合体)
5−2)日本神系譜(元祖部)
5−2−1)古事記
5−2−2)日本書紀
5−2−3)先代旧事本紀(神代本紀)
5−2−4)古語拾遺
5−2−5)丹生祝氏本系帳
5−2−6)姓氏類別大観
5−2−7)姓氏家系辞書
5−2−8)参考系図
参考)・綿積豊玉彦関連氏族世代数比較
・天皇家・久米氏・大伴氏・中臣氏世代数比較
5−3)日本神ー古代豪族概念図
5−4)清和源氏系諸家概略系図
5−5)小笠原氏・阿波三好氏概略系図(含:宝賀寿男説系図)
5−6)細川氏概略系図
5−7)足利氏概略系図
     
     
     
     
     
     
     
     
 
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7)久米氏系図解説・論考
古代豪族「久米氏」を理解するには、色々な基礎知識が必要である。
7−1)古代豪族と「新撰姓氏録」について
「新撰姓氏録」は、815年に嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族の出自を記した国選の姓氏録である。京及び畿内に住んでいる1182氏の出自を「皇別(335氏)」「神別(404氏)」「諸蕃(326氏)」その他(117氏)に分けて記載されている。
・皇別氏族:神武天皇以降に天皇家から分かれた氏族
・神別氏族:神武天皇以前の神代に、生じた氏族
 天孫系:ニニギの尊から3代の間に別れた氏族(128氏)
 天神系:天孫降臨した際に付き従った神々の子孫(246氏)
 地祇系:天孫降臨以前から土着していた神々の子孫(30氏)
・諸蕃(蕃別)氏族:(主に応神天皇以降に日本列島に渡来してきた)渡来系の氏族
筆者が取り上げた古代豪族は、総てこの 新撰姓氏録に記載されているのである。
古事記・日本書紀に、その原点的根拠が記載されているのである。上記分類の中で、神別氏族の各分類と記紀の記述との整合性を理解することが重要である。
4−1)天津神・4−2)国津神 日本神系譜(元祖部)及び日本神ー古代豪族概念図(筆者制作)を参照。
日本の神々の分類は、非常に複雑であることが分かる。この日本の神々の系譜の意味をある程度理解しないと、古代豪族の出自部分が理解出来ないのである。筆者はアマチュアで調査出来る範囲で古代豪族の系図を示してきた。この系図が総て史実であると主張するつもりでは全くない。しかし、何度も述べてきたように、全面的に価値無しとして無視する一部専門家の主張には、賛同できないのである。新撰姓氏録で神別氏族に分類された氏族は、必ずその祖先神が記されておりその多くは、いずれかの産霊神に属する。しかし、そうでない氏族もある。例えば物部氏である。この場合、祖先神は有名な「饒速日命」である。分類は天神系神別氏族とされたのである。これに異議を唱えた物部氏の裔孫が「先代旧事本紀」を編纂し、物部氏は天孫系天神であることを主張したのである。
筆者の感想であるが、平安時代初期頃の古代豪族諸氏の血筋に関係する価値観としては、皇別氏族が最上位で、天孫系神別、天神系神別、その下が地祇系神別であったような感じがしている。諸蕃は、別格扱いであった。
本稿では、この内の神別氏族に絞って解説したい。
主な課題事項
@記紀神話の骨格は、どの時代に形成されたのか。
A記紀の神系譜は、どの時代に形成されたのか。
B記紀神話・神系譜などに登場する神々と古代豪族の関係は、何を意味するのか。
C天津神・国津神の概念は、どの時代に形成されたのか。
D各古代豪族の祖先神が複数の産霊神に篩い分けられたのは、どの時代なのか。
E各産霊神が何を意味するのか、区別する根拠などが不明瞭。
F中臣氏・藤原氏の祖先神が記紀に明記されていないのは、何故か。
G素戔嗚尊は、天津神なのに、その裔孫とされる大国主神を初め出雲の神々は、何故国津神扱いになったのか。
H伊弉諾尊・伊弉冉尊神話で産まれた神々は、総て天津神扱いなのか国津神も含まれるのかが不明瞭である。例:大山津見神、大綿津見神
I地祇に関する神系譜が不明瞭。
など未だ謎だらけである。今日まで先人達が上記疑問に応えるべく色々な考えを提案してきた。しかし、その多くは、現代人の多くが納得出来る謎解きにはなっていないというのが現状だと理解している。筆者は筆者なりの独断と偏見に基づいた考えに従ってこの問題に対応せざるをえないのである。
7−1−1)天津神・国津神について
 前稿「安曇氏考」で最新の「日本人の起源」について概略を記した。これは人類学的な議論・中国古文献・発掘調査結果などを参考にしたものであった。記紀などを編纂した時代には、縄文人・弥生人・古モンゴロイド・新モンゴロイドなどという概念は全くなかったのである。ところが、記紀には、天津神・国津神、蝦夷・熊襲・隼人・土蜘蛛などの言葉で、日本列島に住んでいた人々を、大和王権サイドから見ての表現ではあるが、人間・集団・氏族などを区別する表現が記されているのである。神武東征伝などはその典型例である。
大和王権を確立したのは、天津神の天照大神系の天孫系氏族である神武天皇及びそれを支えた天神系氏族が中心であったことを記紀は、先ず記しているのである。この王権確立のためには、多くの氏族の抵抗があったことも記紀の継体天皇朝頃までの記事に度々記されている。また各地の「風土記」にも同様の記事が記されている。
熊襲・隼人・土蜘蛛などの大和王権支配に対する抵抗記事が多く、蝦夷についてはむしろ奈良時代以降の文献に多く出てくるのである。4−3)4−4)4−5)4−6)参照。これらの抵抗氏族・集団を一口に国津神系というのには、若干の抵抗があるが、一応そうしておきたい。一般的には大国主系・大山祇系・大綿祇系の氏族を国津神系氏族と考え姓氏録では地祇系神別氏族として分類しているのである。天神・地祇(本来は中国の言葉であるが、日本では異なった意味を有している)という言葉は奈良時代より以前からあったのである。神祇官という律令制度の言葉も上記2種の神々を祀り管理する役所で非常に重要なものとされていたのである。国津神と地祇は同一意味なのであろうか。筆者はほぼ同一背景を有しているものと理解している。当時の大和王権の役人の理解の範囲で、縄文人が信仰していた神々(主に自然神)と初期弥生人(中国揚子江下流域出身系・天孫降臨以前から日本列島に住んでいた渡来系弥生人)が信仰していた祖先神とを区別することは、不可能だったと推定する。よって、この国津神(地祇)の中には現代流には、主に上記2種の神々が混在していたものと理解している。この国津神系の氏族が総て大和王権サイドと敵対した氏族であるという訳ではないのである。記紀神話の根底にあるのは、天津神系と国津神系の神々及びその子孫達が如何に融和してきたかを婚姻関係などの系譜を通じて記しているのである。ところが、上記 熊襲・隼人・土蜘蛛と記された集団とは、長いこと敵対してきたと記されているのである。一見、記紀記事は、国津神系氏族は、土着の神々を信奉する氏族ではあるが、大和王権を支持した氏族に与えられた称号みたいなもので、熊襲・隼人・土蜘蛛などとは、異なるものとされている。しかし、筆者から見れば、結果的ではあるが、これらの異族視された集団も国津神・地祇系氏族と同一血族集団だったと思われるのである。国津神系氏族とは、縄文人及び縄文人との混血が進んだ早期弥生人集団であると考えられるのである。また、大和王権に敵対した勢力は、必ずしも所謂縄文系の氏族だけでなく、渡来系弥生人の氏族の中にも多数いたものと容易に推定出来る。神武東征時、初期に神武に敵対した物部氏などもその一つだったものとも思われる。高地性集落・環濠集落・倭国乱れる、など。魏志倭人伝に記されている邪馬台国と大和王権の関係は未だ謎とされている。
7−1−2)産霊神的概念がどの時代にどんな背景で形成されたのか。
この問題は筆者のようなアマチュアには非常に分かり難いのである。
一つヒントになる例がある。
古事記・日本書紀には中臣氏・藤原氏の祖先神として津速産霊神が記されていないのである。本稿の日本神系譜元祖部参照。
ところが、記紀以外の古文献の神系譜には、先代旧事本紀・古語拾遺・丹生祝氏本系帳
及び新撰姓氏録では、中臣氏・藤原氏の祖先神は津速産霊神だとされているのである。
これは、記紀編纂時には津速産霊神なる概念は無くて、それ以後になって創生されたのである、というべきなのか? 筆者はその反対だったと推定するのである。
中臣氏・藤原氏は記紀編纂時、少なくとも神祇的問題には、非常に強い権限を有していたと考えられる。日本神話の一部についても藤原不比等らの手が入っているとの戦後の学者らの論文も多数ある。この真偽の程は分からない。
しかし、藤原氏の氏神を祀ったとされる奈良の春日大社の祭神に津速産霊神が無いのは史実である。(春日大社主祭神:武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神)
しかし、一般的に公知の中臣氏系図、及び上記記紀を除く古文献の神系譜などでは、津速産霊神こそ祖神で、その裔に「天児屋根命」が記されているのである。
これをどう判断するかである。
@記紀編纂時以前では、中臣氏の祖先神は、津速産霊神だというのが公知であった。
よって、古代豪族であった、忌部氏・物部氏らには、そのように伝承されていた。
A記紀編纂時、日本神話の中で天児屋根命の活躍記事を多数載せた。
B一方、中臣氏の伝承の中に武甕槌命・経津主命こそ中臣氏の祖先神・守護神だという説が
あった。記紀編纂時、日本神話の中で武甕槌命・経津主命の活躍記事を創作導入した。
しかも、これらの神を天津神の神系譜に載せた。
C筆者は、この武甕槌命・経津主命の根源的姿は、縄文神(自然神)だと推定している。
即ち、中臣氏・藤原氏の真の出自は、天津神系ではなく、国津神系であったということを
暗に主張したのでは、ないだろうか。
D従前から、公知になっていた中臣氏の祖先神は、津速産霊神である。という説は、記紀編纂時よりかなり以前に大和王権内部で、当時の各古代豪族毎に伝承・史実なども参考にして、その出自を分類仕分けする類の作業が行われたものと推定する。併せてこの時に高皇産霊神系・神皇産霊神系なども誕生したのである。
E筆者は一般的には次のように考えている。
イ、人類は世界的に見て、「自分らの祖先は、○○○年程前に、○○○からこの地にやって来た、○○○という神(または人物)である」という類の伝承を残し、語り継ぐ本能的とも言える習性がある。ヨーロッパ・中国・朝鮮半島など
ロ、日本列島に関しては、文字記録としての明確な最古の記録は、前稿で述べた中国古文献AD200年頃 「魏略」編纂 倭人の出自は「太伯之後」だと倭人が自称している記事。である。
これは、非常に重要な一文である。
この内容が史実かどうかは別にして、当時の倭人(弥生人)が、自分らの出自(数百年も前のこと)を伝承していたということである。
ハ、神別氏族の場合も、各古代豪族は、完全なものではないが、弥生時代からの伝承系譜的なものを有していたものと判断する。少なくとも大和王権において何らかの形で活躍した豪族と言われた集団では、後年になってより完全なものにするべく多少の創作も挿入したであろうが、である。
原初的には、ばらばらの祖先神または人物名が伝承されていたものと思われる。
これが、大和王権成立後のどこかで、時間をかけて統合整理された形に組み立てられたものと推定される。その統合神名が産霊神である。文字記録の形になるのは、雄略朝以降だと判断している。
ニ、その後、色々な変遷・時代・政治的背景などを経て、新撰姓氏録にまとめられたような神系譜・氏族系図へとなったものと思われる。
どの氏族が、どのような理由で、どのような経過を経て、どの産霊神系に組み入れられたかは、判然としないのである。少なくとも言えることは、各古代豪族の原初的な伝承系譜と、現祖先神とされている産霊神とは、殆ど無関係だったものと判断している。(各古代豪族の氏神神社の主祭神として各産霊神を祀っている例は希有である)
各古代豪族の祖先が渡来系弥生人出身であったか、縄文系弥生人出身であったかは、産霊神系神系譜からは判断できないのである。
ホ、記紀に記された天津神(産霊神系は総て対象)と国津神の分類と、本来的な天津神・国津神とは、異なっていたものと判断する。勿論記紀編纂者らはこれらの史実との遊離があることは分かっていて、政治的判断を入れて、最終的分類がされたものと判断している。
最終的に国津神・地祇の分類に入った氏族は、史実としても間違いなくそうであろう。問題は姓氏録で天神系・天孫系の分類に入った氏族である。
ヘ、一方天皇家から派生した古代豪族(皇別氏族)の系図は、出自が神ではないので、一見分かり易い。しかし、現代では、その一部は、間違いなく仮冒系図だとされている。どこか非常に古い時代に自分らの出自が天皇家であると伝承記録を作り、或る段階で系図の形として文字記録したか、天皇家側、又は大和王権サイドで意図的に、政治的配慮もあり、天皇家の系譜の中に、原初的には天神系、地祇系の有力氏族の一部を天皇家の系譜の中に入れたものがある。現代的手法で色々調査した結果は、史実とは異なると推定される氏族例もある、と言われている。特に欠史八代時代に天皇家から派生したとされる皇別氏族に多い。和邇氏や吉備氏などは、その可能性大だと一般的には言われている。
各氏族に姓(かばね)などが付される遙かに以前のことであろう。氏姓制度が確立するのは、諸説あるが、5世紀頃には既に原始的な形ではあるが、「かばね」は存在していたとされる。国造制度は記紀では神武天皇の時始まり、成務天皇の時にはほぼ確立と記されており、国造本紀がほぼこれを裏付けているとされている。異論も多い。
となると、大王家の系譜の中にこっそりと伝承的に入れ込み、文字記録が可能となった、応神ー雄略朝頃には自分らの氏族系譜を文字記録した可能性は充分ある。武蔵埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘文からも分かるように、既に雄略天皇時代には、地方の豪族でも文字を使用し、自分らの祖先系譜的なものを有しており、非常に重要な伝承記録として鉄剣に記録しているのである。大和王権の中枢部にいた古代豪族達が、文字記録を残したことは容易に推定出来る。その継続的記録の集大成が記紀編纂だったとも言えるのである。
自分らの氏族の祖先の出自を飾り、歴史上有名な人物の系譜・より高貴な氏族の系譜の中に填め込むことは、大昔から行われていたことである。氏姓制度確立後は、この出自問題は豪族にとっては一種の死活問題だったのである。これを正す目的も記紀編纂の大きな目的だったのである。平安時代の新撰姓氏録も基本的には同じである。
以上まとめると、古代豪族の出自を明確に記したとされる新撰姓氏録といえども、個々の豪族別に見れば、史実とは矛盾する出自が記されていることが推定される場合がある。(完全にそれを証明することは、非常に困難ではあるが)ということを充分理解する必要がある。
7−2)縄文人と弥生人と記紀系図について
 前稿で筆者は現代でいう「弥生人」を次ぎの様に考えている。と記した。
A:約3,000年前頃から日本列島(主に九州)に渡ってきた新モンゴロイド系の人々。
B::約30,000年前に北方・南方から日本列島に渡ってきて日本列島に住み着いて、約10,000年前より、より進歩した縄文土器を使用しだした縄文人で、約3,000年ほど前より、新たに水田稲作などの文化技術を渡来してきた新モンゴロイド人から教わり、徐々に弥生文化を醸成していった縄文系の人々。
C::約3,000年前頃から日本列島に渡来した新モンゴロイド系の人々と縄文人との混血によって、日本列島で新たに発生した混血人。
これらABCを併せて「初期の弥生人」と考えるのである。AC分類だけを弥生人と考える説もあるが、筆者はそう考えるには、無理があると判断している。(各種遺跡発掘調査)
AD3−4世紀においても日本列島の中には、弥生文化に馴染めない縄文系の人々が存在していたことは、遺跡発掘や、記紀の各種伝承記事からも容易に推定される。
しかし、これらの氏族もやがて、弥生文化を取り入れ、血族的にも混血を始めた。
最後まで混血を拒絶したのがアイヌ人で北海道の一部に極在化を余儀なくされたのである。
弥生時代も中期あたりになると、A.B分類の割合は非常に少なくなり、C分類の人々が圧倒的になってくると推定した。この現象が近隣諸国と非常に異なる原因だと判断している。
 本稿においては、上記弥生人について、より詳しく筆者の考えを補足して、理解を深めたい。
先ず縄文人については、本稿の4−8)の縄文人の定義で「藤尾慎一郎」が最近している説を支持したい。学者の意見は非常に慎重なので筆者なりに解釈追加すると以下のようになる。縄文人とは、所謂縄文時代に日本列島に住んでいた種族である。但し、その日本列島への渡来ルート、渡来時期などは一様ではない。(北方系・南方系・朝鮮半島・中国経由系など諸説ある)日本列島内でも色々分布していた模様。そして、人類学的には総て古モンゴロイド系である。この縄文時代は約1万年続いたのである。
縄文人の形質学的特色は、はっきりしてきている。その1例を本稿4−8)の表に示した。
縄文人も北方系と南方系で形質学的特色は異なるとも言われている。
問題は弥生人である。
@そもそも「弥生時代」の定義が非常に曖昧になってきた。本稿4−8)参照
従来は弥生式土器を使用していた時代を弥生時代と称していた。BC300年ーAD250年頃。それが、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、狩猟採集社会である縄文時代とは、区別されるべきだとする説が主流になっていった。さらに、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など種々の文化の変化なども指標とするべきだという説も提案された。
結局、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とする説が現在定着している。
最近になって、国立歴史民俗博物館の研究グループによる放射性炭素年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきた。これによると、早期のはじまりが従来説より約600年遡り紀元前1000年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。(前稿参照)
A単純に言えば、弥生時代に日本列島に住んでいた人類は、総て弥生人と呼称するべきである。
B単純に言えば縄文文化は、縄文式土器・狩猟採集生活であり、弥生文化は、弥生式土器・水田稲作生活・青銅器・鉄器文化などが特色である。
C現在専門家の間では、渡来系弥生人(・在来系弥生人)・縄文系弥生人などという弥生人をさらに区別する修飾語が付記されている例が多い。この定義が個人毎に微妙に異なっている。
D一般的には、弥生文化の伝搬は西(九州)から北(関東・東北)へと拡がったとされており、当然西と北では、かなりの時間差(年代差)があったとされ、弥生時代の区分にも年代差を考慮するべきとされている。
E人類学的・血脈的意味での縄文人・弥生人の区別は、定義さえ明確にすれば単純である。
例えば、日本列島に住んでおり古モンゴロイドの遺伝子のみを有する者は縄文人。日本列島に住んでおり新モンゴロイドの遺伝子を少しでも有する者は弥生人。
F実態は、Eのように単純ではないと判断している。
例えば時代区分的には弥生時代(最新説BC1,000年ーAD250年頃)に日本列島に住んでいた集団・氏族などで、
イ)遺伝子的には完全な縄文人であるが、文化的には、縄文文化を継続しながら、弥生文化を習得、実践している集団、氏族、家族など  推測例:砂沢遺跡・記紀に記された蝦夷・土蜘蛛などの祖先達
ロ)遺伝子的には一部新モンゴロイドの血が入っている可能性があるが、文化的には、限りなく縄文的生活を継続・保守している集団・氏族など。 推測例:記紀に記された熊襲・隼人族、蝦夷・土蜘蛛などの祖先達
ハ)遺伝子的には完全な縄文人であるが、新モンゴロイドと女性を通じて姻戚関係を有している集団氏族など。 推測例:土井ヶ浜遺跡の女性(縄文人)の姻族。
ニ)遺伝子的には完全に縄文人であり、生活文化面でも完全に縄文文化を継続していた集団・氏族など。  推測例:弥生時代の早期段階の大多数の日本列島の住民。
ホ)渡来直後の新モンゴロイド。古モンゴロイドとの混血をしていない集団、氏族など
これは渡来後、数世代以上は存在してないと推定される。新モンゴロイドは、基本的に男性中心のボートピープルで、女性の渡来は非常に少なかったと推定されている。
土井ヶ浜遺跡の人骨分析では、男性は総て新モンゴロイド、女性は総て古モンゴロイドであったとの報告もある。
参考)・安田喜憲京大教授説:戦乱を避けて来た渡来人は、当然男性主体。縄文人との混血が不可欠。
ヘ)●渡来してきた新モンゴロイドが数代にわたり、古モンゴロイド、混血モンゴロイドなどと婚姻を繰り返し、縄文文化も取り込みながら弥生文化を習熟・実践している集団・氏族など  推測例:古代豪族
ト)●古モンゴロイド(縄文人)が混血モンゴロイド・古モンゴロイドなどと婚姻を繰り返し縄文文化を継続しながら、弥生文化を習熟・実践している集団・氏族など
推測例:古代豪族
筆者が今後使用する弥生人表記 ・渡来系弥生人:ホ、ヘ
               ・縄文系弥生人(在来系弥生人):イ、ロ、ハ、ニ、ト
G弥生人はFに示したように非常に複雑な経過の過渡的段階の複合体であると考える。古代豪族を形成する段階では、主勢力は、上記ヘ)ト)に集約されていたものと推定される。但し、イ)ロ)ニ )は人口的にどのくらいの比率かは不明であるが、古墳時代でも併存して列島に住んでいたことは間違いないと推定している。
H古代豪族的観点から以上の問題を概観すると、豪族は、血族組織を基本としている。その血族の出自によって記紀では、天津神系か、国津神系かが、分類されている。
イ)父系が渡来人(新モンゴロイド)であって、天孫族及びそれに従って渡来した場合は、上記渡来系弥生人として扱った。本来的には、天津神系氏族がこれに相当するのである。例え2世以降に母親が数代にわたって古モンゴロイド系であってもその男系の子孫は(記紀神系譜・新撰姓氏録などでは)総て天津神系氏族として扱われたのである。
ロ)父系が渡来人(新モンゴロイド)であっても、天孫族よりも明らかに以前に渡来したと思われる渡来系弥生人は、本来、国津神系氏族に分類されたはずである。
ハ)父系が縄文人(古モンゴロイド)の出自である、上記縄文系弥生人であった場合には、本来国津神系氏族に分類されたはずである。
ニ)記紀編纂者らは、勿論弥生人・モンゴロイドなどという概念は全くなかった訳である。これを記紀の記述に準じて天津神系・国津神系氏族に分けると、上記イロハのようになるのであるが、はたして、実際はどうであっただろうか。
 
7−3)久米氏系図解説
 先ず久米氏の祖先神は、一般的には、神皇産霊尊とされている。ところが、新撰姓氏録では、何故か一方では高御魂尊(高皇産霊尊)とし、一方では、神魂尊(神皇産霊尊)だと記されているのである。本稿2)人物列伝に記したように、この2神は、記紀をはじめ古代の古書に色々な表記で示されているが、「天御中主神」と共に造化三神として特別扱いの独立神である。「高皇産霊尊」は、男神、「神皇産霊尊」は女神を表しているとも言われている。また、高皇産霊尊は天神系の神々の守護神で、神皇産霊尊は出雲系の神々(国津神)の守護神だとも言われている。
明らかに別系統の神である。しかし、どちらの産霊尊とも天神系の神の総元締め的神である。神皇産霊尊系の主な古代豪族は、紀国造氏・賀茂県主氏・県犬養氏・度会氏及び久米氏などである。一方高皇産霊尊系の主な古代豪族は、大伴氏・忌部氏・宇佐氏などである。ところが、系図によっては、大伴氏・久米氏が共に高皇産霊尊系になっている。参考系図参照。このことから、古来、久米氏の出自に関しては、色々議論があるのである。後述する。本稿は神皇産霊尊系の系図を採用し、人物列伝を作成した。
 久米氏の初代は、「天津久米命」である。この人物は、古事記・日本書紀共に天孫降臨の段に登場する。但し日本書紀本文ではなく一書の形でである。古事記では大伴氏の祖である、天忍日命とは対等の扱いで軍神として、ニニギの尊に随伴したのである。この時随伴した神々の中で有名な神は、天児屋命(中臣氏祖)・太玉命(忌部氏祖)天鈿目命(女神)などである。そのメンバーは記紀で多少異なる。ところが、日本書紀一書では天津久米命は、天忍日命の家来という位置づけである。
古来、久米氏祖の天津久米命と大伴氏祖の天忍日命は異名同神であるという説も多数ある。後述したい。記紀神話において最も重要な部分の一つである天孫降臨の段の随伴神の一人として、久米氏の祖神が登場するところに非常な意味があると筆者は解釈しているのである。
3代目の「大久米命(大来目命)」も重要な人物である。記紀ともに神武東征の段に登場する人物である。ここでは古事記と日本書紀では、明らかに異なった記述がされている。
古事記では、神武天皇が大和に入った時新たに后を娶ることを欲し、大久米命がその嫁探しをするという内容である。この時の后が有名な「三島溝咋」の娘である「勢夜陀多良比売」である。この時、比売は、大久米命の鯨利目(まさけるとめ)(目の周りに入れ墨をしている)を見て驚いたと記されている。そして、この記事の中で久米歌が紹介されているのである。神武天皇も久米歌を幾つか読んでいるのである。この古事記の記事から、神武天皇と大久米命の関係は非常に親しい関係であり、神武天皇自身が久米氏と非常に深い関係があったのだと推定する説もある。この古事記の記事は、何故か、日本書紀には、全く記されていないのである。  一方日本書紀では、大伴氏の祖「日臣命」が「大久米」を帥いて大軍の将として活躍したと記されているのである。併せて、大和での久米氏の本拠地が来目邑(現橿原市久米町)に定められたと記されている。以上記紀での記事の差が古来色々議論されているのである。
後述したい。次ぎに6代目の「味耳」の事績記事が後年に発行された久米御縣神社に関する五郡神社記に記されているが、一般的にはこの記事は、信用出来ないとされている。次ぎに10代目の「七掬脛」について、記紀に記事がある。
記紀共に12景行天皇の時代の人物とされている。有名な「倭建尊」が東征したときにその膳手(かしはて)をつとめたとある。この時「大伴武日」も東征に従ったとある。
さてここで例によって参考になる中臣氏・大伴氏・天皇家と久米氏系図の世代数比較をしておきたい。
天皇家基準点:ニニギの尊・3代孫:神武天皇・14代孫:景行天皇
大伴氏:   天押日命・4代孫:道臣・10代孫:武日
久米氏:   天津久米命・2代孫:大久米命・9代孫:七掬脛
中臣氏:   天児屋根・2代孫:天種子:10代孫:巨狭山
となり、記紀に記された同時代の人物と思われる世代数が、明らかにずれていることが分かる。特に天皇家の世代数が多いことが顕著である。
この傾向は他の古代豪族と天皇家との間でもほぼ同じ傾向である。一般的には天皇家系図では、兄弟相続的なものが、何代か行われたのではないかといわれている。
景行天皇をAD350年頃と仮定すると、1代20年-25年とすると、天津久米・ニニギの尊世代は、AD100−150年位になり、神武天皇はAD140−200年頃の人物と推定されるのである。この様な推定が史実的に意味があるとは思えないが、記紀に記されていることから、何が読み取れるかの材料の一つにはなると考えるのである。弥生時代の終わり頃であり、魏志倭人伝にある卑弥呼の活躍した時代にかぶさってくるのである。さて次の重要人物は「伊予主足尼」である。国造本紀に15応神天皇朝に「伊興主命」を久味国造に定めたとある。後の伊予国久米郡である。ここで国造本紀に記された久米氏系の国造について述べておきたい。本稿系図と対比した形で記すと以下のようになる。
(久米氏系図参照)
・吉備中県国造:10崇神朝・神祝尊10世孫明石彦:本稿系図七掬脛の叔父・阿加志毘古
・阿武国造:12景行朝・神祝尊10世孫味波々:本稿系図 七掬脛の兄弟・味波々
・久味国造:15応神朝・神祝尊13世孫伊予主足尼:本稿系図 七掬脛の孫・伊予主足尼
・大伯国造:15応神朝・神祝尊7世孫佐紀足尼:本稿系図 七掬脛の孫・佐紀足尼
・淡路国造:16仁徳朝・神祝尊9世孫矢口宿禰:本稿系図 七掬脛の孫・矢口宿禰
・天草国造:13成務朝・神祝尊13世孫建嶋松:本稿系図該当人物なし。
現在全国で久米という地名が残っている所、久米氏と所縁がある地名を一覧表にすると
●地名「久米」の分布
・大和国高市郡久米郷 久米御縣神社
・摂津国難波来目邑遠里小野
・紀伊国紀崗前来目連 和歌山市岡崎 日前国懸神宮
・阿波国名方郡国府 伊予国喜多郡久米庄からの移住者
・淡路国三原郡倭文郷 倭文神社
・伊予国久米郡喜多郡久米郷 伊予国・久味国 伊予豆比古神社
・常陸国久慈郡久米郷・倭文郷(茨城県那珂市)  静神社・倭文神社
・伯耆国久米郡久米郷 倭文神社 建葉槌命
・美作国久米郡久米郷(岡山県久米郡久米町) 倭文(しとり、しずり、しどり)神社
・周防国都濃郡久米郷
・伊勢国員弁郡久米郷
・遠江国磐田郡久米郷
・琉球国久米島
・肥後国球磨郡久米郷(『和名抄』)現在:熊本県球磨郡多良木町久米
・筑前国志麻郡久米郷 (現:福岡県糸島郡志摩町大字野北字久米)    久米遺跡
                             など
上記久米氏が国造に任命された所と所縁の地とを照合すると、
・吉備中県国造:岡山県井原市 (備中国後月郡県主郷)
         美作国久米郡久米郷(岡山県久米郡久米町)
         ?美作国久米郡倭文郷倭文神社(岡山県津山市油木北)
・阿武国造:周防国都濃郡久米郷
・久味国造:伊予国久米郡喜多郡久米郷 伊予国・久味国 伊予豆比古神社
       ・阿波国名方郡国府 伊予国喜多郡久米庄からの移住者
・大伯国造:備前国邑久郷、旧岡山県邑久郡邑久町・吉井川河口周辺 久米の地名なし。
・淡路国造:対応久米地名なし。波多門部氏発生
      ?淡路国三原郡倭文郷 倭文神社(兵庫県南あわじ市倭文)。
・天草国造:対応する地名不明。
以上をまとめて解説すると
@国造本紀では久米氏出身の国造が崇神朝から仁徳朝にかけて6国もある。任命された人物は、天草国造の「建嶋松」を除き総て本稿久米氏系図に掲載されている。
A国造本紀に記されている久米氏の人物の神祝尊(神皇産霊尊)からの世代数と国造に任命した天皇の代数とは、不合理な関係である。本稿系図の人物名と天皇代数の関係は,ほぼ合理的関係にあることが分かる。国造本紀に記載された久米氏の人物の一部の代数表示は誤りだと判断する。
B全国に現在も残されている久米という地名は、古代豪族久米氏と何かの関係があったものと理解している。
C大和国高市郡久米郷 は、久米氏が神武東征に従い大和に進出して後の本拠地。
D伊予国久米郡久米郷 は、応神朝に久米氏が久味国造に任命された所。
E美作国久米郡久米郷は、崇神朝に久米氏が吉備中県国造に任命された所の近隣地である。任命地は備中国後月郡県主郷で現在の井原市付近であり、美作国久米郡久米郷は現在の津山市付近である。この付近には倭文神社があり、この神社がどうも久米氏と密接な関係がある神社である。
F常陸国久慈郡久米郷・伯耆国久米郡久米郷・淡路国三原郡倭文郷などが倭文神社関連地である。
G淡路国三原郡倭文郷は、仁徳朝に久米氏が淡路国造に任命された所の近接地である。
H周防国都濃郡久米郷は、景行朝に久米氏が阿武国造に任命された所である。
I天草国造が、久米氏の出身の人物かどうか確認は出来なかった。対応する地名も不明。
J阿波国名方郡国府は、後年になって伊予国久米郡・喜多郡から久米氏の後裔が移住して
きたとされている所であり、戦国武将「三好長慶」の出身地とされており三好氏は、久米氏の末裔だとの説あり。後述する。
K倭文神社と久米氏の関係については後述する。
さて本論に戻る。
「七掬脛」の子供に「八甕」という人物がいる。この流れから尾張氷上神社社家の来目氏の系図が途切れてはいるが残されている。何らかの形で尾張氏と関係があったようであるが、詳しいことは分からない。また同じ「八甕」の流れとして久米氏がいる。系図参照この久米氏は後に久米宿禰姓を賜ることが、七掬脛の12世孫の「久米御園」の記事に出てくる。久米宿禰姓と久米直姓(後の久米連氏)の久米氏が奈良時代には存在していたようである。さらに久米朝臣姓の久米氏も存在していたが、久米朝臣姓の久米氏は本稿の久米氏とは、全く別系統(皇別氏族)であることが分かっている。久米宿禰姓の久米氏からは、色々の氏族が派生しているが、歴史的にどのような活躍したかは、分からない。
「七掬脛」の孫に「矢口宿禰」という人物がいる。これが仁徳朝に淡路国造に任命されたのである。この流れの系図が波多門部氏系図として残されている。この流れからも多くの氏族が派生している。しかし、歴史的な記事は残されていないので良く分からない。
伝承では、七掬脛の孫である「猪石心足尼」こそ、久米氏の嫡流とされているのであるが、系譜が全く残されていないのである。筆者は、後年になって歴史上に記事が出てくる「久米直奈保麻呂」及びその関連人物が、この流れではないかと推定している。
久米直奈保麻呂は、有名な藤原式家の「藤原宇合」の妻となり、桓武天皇を擁立した「百川」の母親となった「久米連若女」の父親として記録に出てくる人物である。最終的には正5位上という貴族になっているのである。さらに謎めいた人物として「久米連形名女」という女性が従5位下になった記事が続日本紀宝亀10年(779)に記されている。さらに続日本紀779年に外従5位下に任命された「久米直真上」なる人物が記されている。伝承ではこの人物の母親は久米連形名女だとされている。さらにその父親が藤原百川であるとの説がある。以上から筆者は、参考系図 筆者推定系図 を作成した。久米朝臣姓の発生系図も参考系図として示した。
さて次ぎに 「伊予主足尼」の流れについて述べたい。本稿は、この流れを中心に人物列伝を作成した。理由は、久米氏は本来「山祇族」であり、山部(?部に対し)であったという伝承を重要視し、後年山部氏と名乗ることになった伊予主足尼系の久米氏こそ古代豪族久米氏を理解するのに相応しいと判断したからである。
伊予主足尼については記紀には記事は無いが、国造本紀に上述のように、応神朝に久味国造に任じられたと記されている。伊予国には上述したように久米郡久米郷が存在し、延喜式に伊予郡伊予神社が名神大社と記され、久米郡伊予神社のことだとされている。それ以外に伊予豆比古命神社があり、伊予主命が祭神として祀られてある。この2つの神社の関係は現在では不明な点が多いが、久米氏には深い関係があったことが窺える。後述するが後年この一族の末裔が阿波国に移住し、戦国時代の武将「三好長慶」を生んだとも伝承されているのである。
次ぎに記紀に登場する人物は、「山部小楯」である。伊予主足尼の曾孫である。詳しいことは4−9)を参照。伊予来目部播磨国司とも記されている。23顕宗・24仁賢天皇時代の人物で顕宗・仁賢兄弟を播磨国で発見した人物であり、その功により「山部連」の姓を賜った、とされている。
その子供が「歌子」である。歌子は「那爾毛古比売」の父親として、古文書に出てくる。
那爾毛古比売は「中臣可多能古」の妻となり、「中臣御食子・国子」の母親となった女性である。ということは、「中臣鎌足」の祖母である。この頃は未だ中臣氏は中級クラスの貴族であったと思われるが、山部氏がそれなりに認められた氏族になっていたことが窺える。
歌子の孫の「比治」が、36孝徳朝に播磨国穴禾郡の里長に任じられたことが、播磨国風土記に記されている。その比治の孫が、万葉歌人として超有名な「山部赤人」である。歌人としての活躍期間は724−736年頃であるとされている。45聖武天皇時代の人物である。
山部宿禰姓であったが、官位は低く、外従6位下上総少目という記録しか残されていない下級官吏であった。万葉集に50首もの歌を残し、後には36歌仙の一人とされ、歌聖と呼ばれた人物である。これ以降系図は長く残されているが、歴史上特記すべき人物を輩出していないのである。派生主氏族としては、山氏・淡河氏・三木氏があり、播磨国三木郡が本拠地になったようである。
以上が古代豪族久米氏・山部氏の概略的解説である。
7−4)久米氏(含、山部氏)関連論考
7−4−1)諸説
古代豪族久米氏を論じる前に、先人達が久米氏をどのように考えていたのかを述べておきたい。
●大伴氏の伴部説:久米氏は来目部が元々の姿であり、佐伯部と共に大伴氏の伴部であった。後になって、大伴氏から独立して久米氏となったのであると言う説
主な根拠:@日本書紀の天孫降臨の段、神武東征の段などで大伴氏の祖先が久米氏の祖を率いて軍事氏族を統括した記述
A万葉集の大伴家持の長歌18/4094の記述
B大伴氏・久米氏の元祖部は、異名同人である。例:天津久米命=天押人命、
大久米命=道臣など。久米氏系図は大伴連系図を冒したものである。
C新撰姓氏録では大伴氏は高皇産霊尊系と記載されている一方、久米直氏は高皇産霊尊系と神皇産霊尊系との2つの記載があり、暗に大伴氏と同系であることを示している。
など。 太田 亮説など多数
●久米氏は大伴氏の元祖説:久米氏と大伴氏は本来的には同族で元祖は久米氏である。後年になって大伴造に成長し二次的に大伴氏となったのであると言う説
主な根拠:@古事記の天孫降臨の段、神武東征の段。
A万葉集の大伴家持の長歌18/4094の記述
B国造本紀では、久米氏は多くの国造を輩出しているが、大伴氏は国造を輩出していない。C久米氏の所縁のある土地は主に西日本であるのに対し、大伴氏は東日本に偏している。
D久米歌・久米舞を継承したのが大伴氏・佐伯氏などである。
 高橋富雄・加藤謙吉説など  その他色々あるが、主な説は、この相反する2説である。
一般的には大伴氏の伴部説が有力であると判断している。
そもそも久米氏(久米部・来目部)とは、どんな氏族なのであろうか。
太田 亮によれば 『喜田博士が「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、即ち肥人ならん」と、久米部は南九州の大種族、肥人にして魏志東夷伝に狗奴国とあるがこの久米部の本拠地なると考えられる。』と記している。
また「隼人族」について太田 亮は、『隼人は主として薩隅日より、西南諸島に住居せし民族にして、我が倭民族と同人種なりや否や詳かならず。(中略)姓氏録では隼人氏を以て天孫族としているが、地祇族とするを至当とす。(中略)この族の古く著はれたるは熊襲也。明白に隼人とある古き物は国造本紀に「大隅国造・景行朝の御世、治平隼人同祖初小(隼人の酋長)、仁徳帝の代は、伏布(初小の裔)を日佐(酋長の意)と為して国造を賜ふ」「薩摩国造・景行朝、薩摩隼人等を伐ちて之を鎮む。仁徳朝の代日佐を改め直と為す。」とあるを初めとす。』
「熊襲族」は、古代において、肥後国球磨郡(熊本県人吉市周辺、球磨川上流域)から大隅国贈於郡(鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域が異なる)に居住した部族。とされている。(以上本稿の参考資料参照)
 以上から類推されるのは、久米氏は、@久米氏の原点は九州である。A九州の中央山地から南部にかけた山間地に勢力を有していた種族の一つであった。B熊襲・隼人族などとも非常に深い関係があった。C弥生時代において、九州北部沿岸部の所謂倭人・?部族とは異質な種族の集団に属していた。D前述で筆者が定義した、縄文系弥生人に分類される種族だったと思われる。などである。言葉でいえば、山祇族、山積族、山部族である。
記紀・新撰姓氏録などの分類でいえば、本来的には、国津神系氏族、地祇族である。
以上の説にも多くの異説がある。筆者が注目している説。
・久米氏は九州北部に拠点を有していた揚子江下流域出身の倭人・海人族である。
拠点:福岡県糸島郡志摩町大字野北字久米    久米遺跡
古事記記事:神武東征伝 大久米命の鯨目(入れ墨)の話:魏志倭人伝の文身など習俗
国津神系氏族、地祇族系氏族では一致。
・久米氏は大伴氏からの派生氏族であり、大伴氏は、神武天皇より早い時期に紀伊に遷住してきた山祇系氏族。(宝賀寿男説参考)
本拠地:紀伊国紀崗前来目連 和歌山市岡崎 日前国懸神宮
大伴氏拠点:紀伊國名草郡 参考系図:古屋家家譜参照
日本書紀記事:神武東征記事
7−4−2)諸説に対する筆者の考察
 本稿系図久米氏系図において紀国造氏が、高皇産霊尊系・神皇産霊尊系の両方に出てくることに注目。高皇産霊尊系では大伴氏と紀国造氏とが同族である。
筆者は、魏志倭人伝に記事がある「狗奴国」の場所についての言及は現時点では避けたいと思っているのである。理由は、邪馬台国論争は現在でも専門家の間で喧々がくがくの論争がされており、この決着は考古発掘学の分野での結論を待たなければ軽々なことが言えないからである。邪馬台国九州説に立てば、狗奴国は、南九州辺りになり、近畿説に立てば、紀州又は尾張辺りになるといわれているのである。クメとクナが発音が似ているから久米氏は、狗奴国出身だというのは、一寸筆者には受容出来ないことである。
さて、久米(来目)氏に所縁のある地名で一番古そうなのは肥後国球磨郡久米郷(『和名抄』)現在:熊本県球磨郡多良木町久米 である。上記の所縁の名前がある地名は、その多くが崇神天皇以降の国造に任命されてから以降の地名だと思われる。地名は場合によっては文献以上の証拠史料だとも言われている。記紀や、風土記には多くの地名の言われなどが記されている。多くの伝承が、集められたのである。発音だけの記録である。九州中央部の肥後国球磨郡に少なくとも平安時代の和名抄に久米郷という記載が残されていたことは、史実である。これと記紀などに記されている久米氏関係の記事を直接結びつけることには、問題がある。まして、記紀以前の弥生時代にまで延長して類推することは、無謀だといわれてもしようがないことである。しかし、現在では、考古発掘学調査、人類学的調査、民俗学的調査も明治時代に比し、著しく進歩した。前稿でも解説したように、我々現在の日本人の起源についても、遺伝子分析技術の進歩により、かなりはっきりしてきたと判断している。即ち我々は、古モンゴロイドである縄文人と新モンゴロイドである渡来人の混血した世界的にも希有な遺伝子を有する民族であることが分かったのである。その原点は、弥生時代の弥生人である。弥生文化は、九州から始まり、大和・関東・奥州へと伝搬したと考えられている。発掘調査で、はっきりしてきたのである。弥生時代の開始時期を紀元前何世紀にするかは、未だ未だ決着はつかないが、現時点で最新の学説である、一番早い弥生時代の開始をBC1,000年説を採用して本稿の7−2)を記述した。
これと、久米氏との関係を先ず述べたいのである。
@久米氏の原初的(弥生時代)な本拠地は、後の肥後国球磨郡久米郷だとする説を支持する。ここは後に熊襲族がいた土地である。また後の隼人族がいた薩隅日などとも隣接しているのである。異説も沢山ある。
A遺跡調査の結果、熊襲・隼人族の住んでいた地域は、弥生時代の後期になっても水田稲作耕地が非常に少なかったとされている。それに反し、縄文文化を強く反映する遺跡が多く残されている地域である。勿論この地域でも沿岸部と山岳部とで差があるが、弥生時代でも縄文文化が強く継承されていた地域だとされている。
B同じ九州でも北部沿岸部とは相当異なった文化圏だったのが明確になった。これが、
「隼人族」について太田 亮に『隼人は主として薩隅日より、西南諸島に住居せし民族にして、我が倭民族と同人種なりや否や詳かならず。』と言わしめた由縁であろう。
後の熊襲と隼人は、ほぼ同一種族と考えられる。これも異説沢山あり。
C古代豪族久米氏は、弥生時代に上記背景の熊襲・隼人族の祖先と同一種族の一員だったことが、容易に類推可能である。そのことから、筆者は久米氏は、縄文系弥生人だと判断したのである。北九州沿岸部の弥生人は、当時は、渡来系弥生人が中心的勢力を持っていたと判断している。
D 筆者は、記紀・風土記などに記載がある、古墳時代の土蜘蛛・隼人・熊襲・蝦夷などの表記をされた人々は総じて、筆者が定義した縄文系弥生人の末裔達であると判断した。日本列島全体にわたり、相当な数の集団がいたものと推定される。これらの集団がその後総て渡来系弥生人の集団によって、駆逐滅亡したのだとする説(置換説)が従来は主流だったが、史実はそうでなかったのである。
E記紀などは、大和王権の成立、発展を王権サイドの価値観で記述していることは、間違いない。しかし、それは縄文人・弥生人・古モンゴロイド・新モンゴロイド・在来人・渡来人という観点で記されていないことも明らかである。大和王権に従う集団・敵対する集団で分類し、天孫が高天原から日本列島に天孫降臨の際に、この天孫に高天原から従った神々を天津神とし、その時既に日本列島に住んでいた神々の内、最終的にはこの天孫族に従った神々を国津神として、区別し、これらに従わなかった神々を「まつろわぬ神」扱いにして、土蜘蛛・ 蝦夷などと蔑称した。隼人・熊襲は、後年になって大和王権に従ったとされた。特に隼人族は、系図上天孫族扱いにされたのである。本稿7−1)参照
FこのEの概念が、古代豪族の出自の史実を微妙に狂わせたものと判断する。
これが、太田 亮の「 姓氏録では隼人氏を以て天孫族としているが、地祇族とするを至当とす。」などの記事に関係しているのである。
G久米氏についても同じことが言えると判断する。記紀・新撰姓氏録では明らかに天津神系天神族であるが、上記史実的には、国津神系地祇族とするべきであろう。
Hでは何故、記紀神話において、久米氏の元祖である「天津久米命」は天孫ニニギの尊の天孫降臨に際し、その親衛隊の隊長的な役割を演じたのであろうか?大伴氏の元祖である「天押日命」の扱いは、記紀を編纂した頃には、大伴氏は朝廷の中で非常に重要な位置にいたので、ある程度の修飾・脚色がされた可能性はいなめないが、久米氏は当時では、その存在すら忘れられるくらいな地位でしかなかったのである。なのに、記紀共に、久米氏の記事は非常に詳しく記されているのである。また、久米舞、久米歌などの伝承も残っていたのである。これは、大伴氏問題とは異なる、朝廷としても、無視出来ない史実・伝承が裏にあったものと推定されるのである。
Iここで、天皇家の神代系図について、見方を変えて再見してみよう。
天孫ニニギの尊は、渡来系弥生人(仮定)。
その妃である木花開邪姫は、縄文系弥生人の娘?(大山積神は百済から渡来した神であるという伝承もある。これが史実なら渡来系弥生人となる)
子供の彦火火出見尊の妃は、豊玉姫で縄文系又は地祇系弥生人
孫の鵜茅草葺不合尊の妃は、玉依姫で縄文系又は地祇系弥生人
神武天皇の后は、五十鈴姫で地祇系弥生人
ということになる。ということは、現在流に言えば、神武天皇は遺伝子的には、非常に縄文人の血が濃く入っており、新モンゴロイド系とは言えない位になっていたことを、暗に認めていたことになるのである。この記紀神話は、長年月かかって大和王権の中で醸成されたものと思うが、当時は男系の血脈が総ての出自の源という思想なので、女性の遺伝子問題など問題としなかったとは、思うが、現在流に見れば、この系図が正しいとするならば、天皇家は渡来系弥生人ではなく、血液的には、縄文系弥生人と分類されても良いくらいになっていたのである。またさらに、阿多隼人の首長だとされる「阿多君小椅」らの祖がニニギの尊と「木花開邪姫」の間に生まれた「火照命(海幸彦)」であるという記事が、記紀神話に記されている。さらにこの阿多君小椅の妹である「吾平津姫」は、神武が東征する前に娶っていた妃であり、その間に「手研耳命」・「岐須美美命」などを生んでいる。という系図になっている。即ち神武天皇自身が縄文系弥生人と思われる隼人族と非常に近い関係であったことを明記しているのである。
JIに記された記紀神話、神武天皇ー欠史八代に記された天皇の后の記述に関しては、古来色々な学者等が述べてきたことである。世の東西を問わず、征服者(男)は、被征服者の首長の娘と結婚をして、既存勢力との融和をはかり、既存勢力の人民の信頼を勝ち得た、とされる。本件も正にそれに相当し、天孫族(征服者)の長である天皇が、その勢力拡大の過程において、被征服者の首長らの娘と結婚し、その間に生まれた子供が次の世代の王として、両勢力の融和をはかったのである。記紀神話ー欠史八代までは、基本的にそのような系図になっているのである。これが史実かどうかは、別問題である。
K見方を変えれば、古モンゴロイドの世界(日本列島)に新モンゴロイドの氏族が渡来してきた場合、否応なしに、新モンゴロイド氏族の男達は、古モンゴロイドの女性と結婚せざるをえないのである。その逆はないのである。当初は征服・被征服の関係ではないとされている。上述したように新モンゴロイドの日本列島への渡来は、一種のボートピープルとしてであり、女性は非常に少なかったと考えられている。この状態が時間経過を経て、弥生の国々が北九州を中心に多数誕生し、やがて、国と国とが戦争を起こし、征服・被征服の関係が生まれ、最終的には、神武東征により、大和王権の誕生となると、記紀は暗に主張しているのである。その時の天皇家のとった手法が、上記の婚姻作戦だったのであると、記されているのである。
Lさてここで、この天皇家の誕生物語に本稿の久米氏が密接に関係しているのは、何故かである。これは難問である。久米氏の本拠地が福岡県糸島郡志摩町大字野北字久米説を主張している方々は、久米氏の原初は渡来系弥生人で?部族であるとしている。この場合は、天孫族も渡来系弥生人だとすれば、出身地は異なっていたとしてもお互いに助け合って、この新天地に自分らの王国を造ることで、協力しあえる、と考えやすい。ところが、筆者の不確かな情報ではあるが、伝承記録・発掘調査結果などからの判断では、久米氏は、元々縄文人であり、弥生時代は、縄文系弥生人に属した集団であると思わざるをえない。一方天孫族は、仮定ではあるが、朝鮮半島南部から、鉄器文明を持って渡来してきた一族である。その渡来時期は不確かであるが、少なくともBC200年前後には九州北部には住んでいたと推定している。揚子江下流域出身の青銅器文明・水稲稲作文明などを初期的に北部九州辺りにもたらした所謂地祇系の渡来系弥生人とは、異なる氏族である。この一族は、渡来後九州各地を転々としたことが、窺える。魏志倭人伝の邪馬台国との関係は、現在の筆者のレベルでは類推さえ不可能である。全く無関係だとは思えないのであるが。
筆者の推定では、この天皇家のご先祖が九州各地を転々としている間に久米氏のご先祖とどこかで出会い、縄文系ではあるが、先進文化を有していた天孫族に一族を挙げて組する関係が築かれたものと思われる。山間地での生活に優れた知恵を有し、俊敏な動きで獲物を捕獲し、場合によっては、他部族との交渉、通訳的な役割も担ったものと推定される。
また場合によっては、天孫族に敵対する部族とは交戦をしたかも知れない。記紀・風土記などによると、九州の土蜘蛛族とは古墳時代でも、言葉が通じなかったとされている。渡来系弥生人である天孫族にとって、在来の縄文系弥生人との協力関係は必要不可欠の要素であったことは、容易に想像出来る。古事記によると弥生時代の後期だと思われる神武東征記事に大久米命が目の周りに入れ墨をしていたことが記載されている。これをもって久米氏は?部系の渡来系弥生人だと主張している説もある。(魏志倭人伝記事を根拠)
一方発掘調査結果から、縄文人も入れ墨の風習があったことが、土偶・人形埴輪などから推定されている。特に南方海洋系の縄文人で顕著だとされている。(参考資料参照)
この入れ墨の風習は古墳時代にもかなりあったことが、記紀などの記事から推定される。筆者は久米氏の入れ墨伝承は、縄文人系のものであると判断している。
ニニギの尊の天孫降臨神話に久米氏の祖先が随伴したという記紀記事は、史実というよりも天孫族の最も古い段階から在来勢力の一つであった久米氏の祖先が、天孫族一族に絶対服従の形で、身辺警護をした記憶・伝承が後々までの天皇家に継承された結果の表現だと解した。古事記の神武東征伝記事での大久米命が神武天皇の新皇后を見定める記事は、非常にユーニークな記事である。これは神武天皇と大久米命とが波波ならぬ関係であったことを暗示しているのである。神武の九州時代の后は阿多隼人族の族長の娘である。
弥生時代後期の後に隼人族と呼称されるようになった種族は、筆者は元々縄文人でありこの頃は縄文系弥生人に分類できる集団であったと考えている。その意味で久米氏とは、同類である。筆者の推定では、この久米氏の祖先の介在があって、天孫族と縄文系の隼人族
の祖先との間に何らかの関係が発生した。それが、大山津見命娘木花開邪姫とニニギの尊伝承に繋がり、海幸彦(隼人族の祖)伝承を生み、さらに神武と吾平津姫の関係に繋がったと推定している。また前後の関係から思えば大久米命の仲介で神武と吾平津姫が結ばれたと考えるのが妥当ではないだろうか。神武が東征前に何処に住んでいたかは、明らかではないが、記紀記事に神武自身が久米歌を歌ったとあることから、久米氏とは非常に密接した状態で隼人族の領域に住んでいたことを暗示している。即ち天孫族は、限りなく縄文系弥生人の集団の中で彼等の支援を受けて勢力を蓄えた鉄器文明を有する渡来系弥生人の特異な一氏族であったという原像が浮かび上がってくるのである。
 以上から、これらの記紀記事は久米氏側からの働きかけによって創作されたものでは無い、と判断する。久米舞・久米歌なども日本の一番古い歌舞の姿を現在に到るまで残していることは、無視出来ない。これは久米氏の大昔の縄文人の誇りの記録だとも思えるのである。同時に天皇家サイドから見れば、自分らのご先祖は、単なる渡来系弥生人(新モンゴロイド)ではなく、日本列島の在来の血(古モンゴロイド)及び支援を受けた他の古代豪族とは異なった一族である証拠を有していると、したのではないであろうか。
久米舞・久米歌が生きた証拠という位置づけ(三種の神器などとは異なる意味)だったのではないだろうか。
史実はどうであったかは分からないが、記紀神話・神武東征などの久米氏関連の記事の意味は、以上の様な原初的な伝承が、基盤にあり、大伴氏関係の記事は、その後の政治状態を反映した脚色がされたものと類推している。
M縄文時代は約1万年間あったともいわれている。BC1,000年頃に弥生時代の最初があったとしても、弥生文化が、九州全体に普及するのでさえ相当の年月がかかったことは容易に想像出来る。北九州の弥生時代の最盛期はBC200−AD100年頃だとも言われているが、その間でも従来の縄文文化は、営々と続いていたのである。文化というものはそう簡単には、置き換えられないらしい。明治維新となり、総ての面で近代化が国家戦略で進められたが、100年以上経った現在でも日本全国に江戸の文化が未だ未だ残っている。情報化社会になった現在でもそうだったのであるから、紀元前の未開社会では、1万年かかって継がれてきた文化が、ほんの一部の渡来系弥生人である文明人の活動だけで100年や200年でそう簡単に新文化に置き換えることは、無理である。
久米氏の先祖は、縄文文化を受け継いだ弥生人であったと判断している。それを上手く活用し、鉄器文明などの新文明を武器として、在来勢力を次々征服し、従えて遂には大和王権の基盤を大和の地に築いたのが、天孫族であった。この過程で、天孫族に敵対したのは、縄文系弥生人だけでなく、渡来系弥生人の集団も多数いたであろうことも、容易に想像される。記紀では、これらも、土蜘蛛・熊襲などという表現を用いた可能性も否定出来ないことを追記しておきたい。
以上で久米氏の原初的部分に関する筆者の推論を記した。
7−4−3)久米氏と山部氏の関係について
 次ぎに、その後の久米氏について、述べてみたい。
10代に「七掬脛」という人物がいる。記紀ともに倭建尊の東征に従ったとある。
一掬は人の手を握った拳の幅。七掬はだいたい70センチ。
いわゆる土蜘蛛のことを「八掬脛」、神武天皇と戦った有名な人物名が、「長脛彦」と言われ、身長が低くて手足が長い、所謂縄文人の特色とされている人間に用いる呼称に非常に似た人物名である。七掬脛も関連していると思わざるをえないのである。久米氏は、この七掬脛の時代前後に系図上、多くの国造を輩出しているのである。
これが史実かどうか判然としないが、大伴氏出身の国造が一人もいないことと併せみると、上述した久米氏は、大伴氏からの派生氏族であるという説には、疑義が生じるのである。上述したように、久米氏関連地名と久米氏出身国造の場所とは、概ね一致することは、事実である。筆者の調査で、国造本紀に記された天草国造の「建嶋松」のみ、久米氏かどうかが、判然としなかった。他の5カ国は、国造に任じられた年は別として久米氏がこれらの地方に関与したことは、史実だと判断した。この中で久米氏を論じる時に重要なのが四国の久味国造である。国造本紀には、応神天皇朝に神魂尊13世孫伊興主命を久味国造(後の伊予国久米郡)に定めたとある。天平神護2年(766)紀に久米郡伊予神社が記されている。現存のどの神社に相当するのかは、判然としないらしいが、伊興主命を祭神として祀ってあり、伝承としては、間違いなく久米氏が住んでいたのである。またその久米郡の近隣地(浮穴郡・喜多郡など)にも久米氏関連氏族の足跡が伝承されているのである。
この久味国造の流れから、顕宗天皇朝に伊予来目部小楯という人物が、その功績により「山部連」という姓が与えられたと、日本書紀に記されている。山部氏に関しては先人が色々考察を加えている。
本稿の 参考資料として4−9)に幾つか記述した。4−9)参照
太田亮・谷川健一両説が代表的である。谷川健一は、太田説を引用しながら、
『「久米族の山部連は山部の総領的伴造」であると云う。太田 亮は南九州の山岳地帯に住んでいた久米部は、山部の総領的な管理者だったとするのである。』と記している。
以上の記述によると、久米氏は、日本書紀顕宗天皇紀に記されるより遙かに太古より、南九州山岳地帯で山部の総領的な管理者であったのである。即ち久米氏=山部の総領=縄文系弥生人であると主張しているのである。日本書紀顕宗天皇紀の記事と上記両氏の主張との関係を筆者流に解釈すると、以下のようになる。
@久米氏の祖先は、南九州山岳地帯出身の狩猟生活を中心とした山積族で、現在の言葉で云えば、縄文人であった。
A久米氏の祖先は弥生時代に入り、渡来系弥生人との間に婚姻関係が発生したかどうかは不明であるが、南九州の山積族の総領的役割をする集団になっていた。
B古墳時代になり、大和王権が、その支配体制の確立の証として、各地に国造を任命していった。その一環として、この久米氏の末裔の一人である伊興主命が、後の伊予国久米郡の国造として任命されたのである。
Cこの国造氏の裔である「伊予来目部小楯」が、どのような経過であったかは不明だが、中央王権に関与し、日本書紀に記されているような、顕宗天皇・仁賢天皇の擁立に大いに貢献して、その功績により、山部連姓を賜った。
D一方日本書紀応神天皇5年条に「諸国に令して、海人及び山守部を定む。」「古事記応神天皇条に?部・山部・山守部・伊勢部を定め賜ひき」とある。
前稿「安曇氏考」で記した安曇氏の裔である大海宿禰が日本書紀応神3年記事で諸所の海人の騒ぎを命により鎮めて「海人之宰(みこともち)」に任命された。(それ以前から海人を率いていた人物と推定される。)という記事を紹介した。これは応神朝に安曇氏が?部族の管理責任者になったものと理解されていると、解説した。
これと同様なことが山部族にも適用され、それ以前から山積族を率いていた久米氏に公的に山部連姓を授け、当時の山部族出身の者達の管理を委ねたものと理解するのである。
E系図解説でも一部解説したが、久米氏にせよ山部氏にしろ、中央朝廷で重要な役割を演じた人物は一人もいないのである。それなのに、これだけの記紀記事・系譜が残された理由はどこにあるのだろうか。筆者はイ、天皇家にとってその極初期の段階で縄文系の氏族でありながら、渡来してきた天孫族を助け、側近中の側近の役目を担ってその勢力拡大に貢献した一族であった。ロ、山部族として、後の隼人族や、土蜘蛛族と天皇家の仲介役的存在で、古墳時代になってもそれなりの役割を演じていた。ハ、大伴氏との関係ははっきりしないが、佐伯氏も蝦夷族であり、久米氏・佐伯氏共同して、天皇家の軍事部門を担い大伴氏がその総括氏族へと発展していったのではなかろうか。大伴氏も縄文系だという説もあるが、古墳時代に入って、紀伊国辺りに本拠地を持っていた大伴氏の祖が、同じ縄文系の久米・佐伯をも配下に入れてその後の活躍を展開したと思われる。
上記した久米氏関連地に紀伊国紀崗前来目連 (和歌山市岡崎 日前国懸神宮)があるのはそれを窺わせる。大伴氏が、後年になって久米舞・久米歌を伝承したとされるのも頷ける。
7−4−4)久米氏と大伴氏の関係について
この両氏の関係については、既に上述してきたが、ここでまとめて筆者の考えを述べておきたい。
@古来、先人が色々説を出してきているが、筆者は現段階では、久米氏も大伴氏も独立した古代豪族であると考える。、それぞれ別個の系図を現在まで残しているのである。初期段階の異名同人説は、説得力に欠けると判断している。
A久米氏は、弥生時代に九州山岳部に存在し、縄文系弥生人として活躍したであろう痕跡が窺えるが、大伴氏に関して、ニニギの尊の随伴者であったという記紀神話以外に九州に住んでいたであろうことを推定する根拠が乏しい。九州での本拠地も全く不明である。
B古事記の神武東征記事の両氏の祖先の扱いが余りに異なる。日本書紀の記事は、明らかに後の大伴氏と久米氏の政治的立場を反映したもので、本来的な両者の関係とは異なる修飾記事になっていると判断する。通常家来となった者の名前などを、この日本書紀の僅かな記事に載せるはずがないと判断する。
C後年の大伴家持の万葉集の長歌に正逆相反する解釈がされているが、筆者は単純に判断すると、大伴の元祖は「天津久米命」であると詩っていると解釈する方が、分かり易い。しかし、これは奈良時代の大伴宗家の判断であって、史実とするには問題があろう。
D大伴氏が大伴という氏名(うじな)を称するようになるのは、崇神天皇以降だと判断する。久米舞・久米歌という言葉は、それより遙か以前から用いられていたものと判断する。氏名かどうかは判然としないが、「久米(来目)(くめ)」という言葉は、大伴(おおとも)という言葉以前からあったものと判断せざるをえない。
E大伴氏の本拠地を紀国であるという説がある。筆者には興味ある説であるが、その根拠の一つが 甲斐一宮浅間神社宮司家に残された古屋家家譜 (本稿参考系図参照)である。この系図によると、大伴氏の祖であり、ニニギの尊の随伴者とされている天押人命以前の代からこの一族は紀国名草郡に居住していたことになっているのである。しかも神武東征時の道臣命も名草郡となっているのである。しかもこの名草郡には大伴氏の元祖部分の人物を祭る神社が多数ある。
名草郡の式内社
・香都知命(紀国名草郡)香都知神社 天押人の4代前
・天雷命(名草郡)鳴神社  天押人の3代前
・天石門別安国玉主命(名草郡)朝椋神社元九頭神社朝椋神社、九頭神社 天押人の祖父
・刺田比古命(名草郡)元九頭神社 刺田比古神社 天押人の孫
・道臣命(名草郡片岡) 刺田比古神社
正に大伴氏発祥の地といっても不思議ではないのである。古屋家家譜の記事の史実性は立証することは不可能であるが、大伴氏に伝承されてきたことは、間違いない。上記名草郡にある式内社もその創建時代を明確にすることは、不可能である。筆者は記紀神話の内、ニニギの尊の随伴者とする、天押人命だけが、九州にいたとするのは、かなり無理だと判断する。大伴氏が天孫族に関与しだしたのは、神武東征の時、紀伊半島に入ってから、道臣(日臣)が神武軍に加わってからだとするのが、妥当ではないだろうか。日本書紀の久米氏を引き連れてと言う記事は、古事記と異なり、虚飾である。一方久米氏は九州から神武軍に加わっていたと解している。
Fではどの時代から、久米氏と大伴氏は接近したのであろうか。筆者は景行朝の七掬脛
以降だと判断している。七掬脛の孫の「猪石心足尼」が、久米氏本流だとされているが、この流れは、これ以降(応神朝頃)系図が残されていない。他の久米氏の流れは、国造氏として永続したが本流だけが、歴史上消えるのである。これは、中央に進出した久米氏は、著しく衰退したからだとも推定されている。逆に大伴氏はこの頃から中央で活躍が明確になってくるのである。これが、大伴氏が久米氏を配下にした原点ではなかろうかと、または、この辺りまで来目部であり、大伴という氏名も存在してなくて、久米部・佐伯部及び全国の伴部などを併合した形で大伴氏がその総括者としてとなり、大伴連氏を名乗ることになったのではなかろうか。
G久米宿禰姓は、表面には出てないが、連綿と続いていた可能性がある。
また、大伴氏の中の伴部の一つとして、中央にも旧久米氏の流れを継ぐ人物は、系図は残されていないが存在していたと判断している。それが、後世になって、大伴氏から独立して、久米直姓・久米連姓を賜り、久米直奈保麻呂・久米連若女などの歴史上に残る人物を輩出し、新撰姓氏録にも久米宿禰姓として記録されたものと判断する。
この経過は非常に複雑だと推定される。猶子・養子・復姓など色々な形をとり、過去の久米氏の歴史を営々と受け継いだのであろう。
H大伴氏を山積族出身(筆者流にいえば、縄文系弥生人)という説があるが、上記のようにその本拠地が、紀伊国だと仮定すると、大いに可能性がある。紀伊・熊野国は既稿「穂積氏考」でも記してきたが、歴史は非常に古く、縄文時代の遺跡も多数発見されており、弥生時代にも引き続いて古い文化を守りながら、古い神を祀ってきた土地柄である。大和王権誕生後もこの辺りは隔絶した土地であったとされているのである。
7−4−5)倭文神社と倭文氏と久米氏の関係について
現在、「倭文」を「しとり・しずり・しどり、しずおり」と読むことが出来る人がどのくらいいるであろうか。筆者は本稿の調査をするまで全く知らなかったことである。
本稿3−7)3−8)3−9)参照
倭文神社は延喜式神名帳に全国に14社あるとの説がある。いずれも祭神は、「建葉槌命(たけはつち)」となっている。この神は日本神話の天の岩戸の段で倭文織をしたとされている、織物の神とされている。一方天孫降臨の段では、星の神「香香背男(かがせお)」を征服した軍神とされているのである。古来この2つの顔を有する神については、色々議論があった。しかし、倭文神社はいずれも織物に関する神として祀られてきたようである。
系図的には神皇産霊尊の流れに属し、「角凝魂命」の裔に「天羽雷雄命」という別名で出てくる。この天羽雷雄命の流れから倭文氏が派生するのである。同じ流れから古代豪族「県犬養氏 」「度会氏」が派生したのである。既稿参照。
倭文氏については、系図が残されていない。倭文神社があった所には、倭文氏又は倭文部が住んでいたとされている。原初的には中国大陸・朝鮮半島から、天孫降臨以前に北九州付近に渡来してきた渡来系弥生人で国津神系(地祇系)で海人系の氏族だと推定されている。但し新撰姓氏録では、天神系神別氏族とされている。
しかし、倭文神社の分布は、3−8)でも分かるように、九州地方にはないのである。一方前述したように、地名「久米」の関連地付近に倭文神社が存在している所が4カ所もあるのである。これを単なる偶然だとするか、そうでないとするかで、この2者の関係が大きく異なってくるのである。久米氏がこれら「久米」という地名に居住し出した時代を推定することは難しい。少なくとも国造本紀に記載された時期に国造になったと仮定すると、それ以前からその地で勢力を有する氏族になっていたと推定される。一般的に国造は、その地で最も勢力を有していた氏族が、大和王権に服従した証として王権サイドから認定された称号であるとされている。中央の大和王権から、派遣されて国造になった例もあるようだが、一般的ではない。しかし、制度として国造制度が確定したのはもっと後年であるとの説が、一般的である。しかし、各氏族に残されている伝承、記紀、国造本紀などの記事も無視できなくて、現在では「実質的にその国の一種の支配をしたのが、これらの記事の時期とみて大きな間違いはないであろう」とも言われているのである。
そうだとして、久米という地名が現在まで残されているこれらの地域に久米氏または久米部の民が住んでいたことは、史実だと考えても良いと判断している。一方倭文氏は国造になったとの記事が見当たらない。となると、久米氏の勢力範囲の中に倭文氏も併存していたことを暗示しているのである。絹織物が国内で織られ出した時期は、仁徳朝以降であるとの説がある。元々の倭文織は、絹織物ではない。非常に原始的な織物であるとされている。しかし、弥生時代を代表するような、日本独特の素晴らしい織物だったことが推定されている。その原点は中国・朝鮮半島にあったことは推定されているが、倭文氏の祖先達が、自然にある植物繊維を技巧を凝らして組み合わせ独特な織物として、倭国時代から朝鮮・中国大陸とも商売していたらしい。これが最終的に倭文氏の名前に倭の字が用いられた理由だともされている。又「委文氏」とも表記されたようである。これは有名な「漢委奴国王」の金印に記されて「委」と同じだとされ、「倭」と同じであるとされている。
さて、この倭文氏と久米氏は、どんな関係があったのであろうか。倭文氏も久米氏が国造になる前から同じ国に住んでいた可能性は否定できない。久米氏は縄文系弥生人であり倭文氏は渡来系弥生人である。それとも一部にある久米氏は渡来系弥生人で北九州の海人族系であるという説、共に海人族同志で共同して国造りに励んだのであろうか。淡路国などは安曇氏考でも記したように、長い間海人族のメッカみたいな存在であった。ここに久米氏の一派が倭文神社と共に住んでいたのである。
これ以上のことは分からない。今後の発掘調査などの結果を待ちたい。
 
7−4−6)(参考)久米氏と戦国武将阿波三好氏との関係
戦国時代は、応仁の乱(1,467年)に始まり、織田信長の全国統一(1,568年,1,573年)に終わったとされている。豊臣秀吉・徳川家康の時代(1615年)まで続いたという説もある。この経緯の解説は本稿と直接関係ないので省略する。この時代に活躍したのが「阿波三好氏」である。世に言う下克上の時代で、三好氏はその典型例の一つとされているのである。この三好氏が古代豪族「久米氏」の末裔の一つであるという非常に興味有る説が最近になって宝賀寿男の調査研究により、彼のHPなどに詳しく掲載されたので、概略を紹介したい。それに先立ち阿波三好氏の背景について概観したい。清和源氏系諸家概略系図・細川氏概略系図・足利氏概略系図・小笠原氏・阿波三好氏概略系図などを参考系図として掲載したので参照のこと。
@足利将軍家・細川管領家・小笠原氏共に清和源氏の末裔である。(清和源氏系諸家概略系図)
A河内源氏の小笠原氏は、「加賀美遠光」の子供「小笠原長清」から始まる一族で後に信濃小笠原氏・京都小笠原氏・阿波小笠原氏などを輩出する名族である。一般的には、この阿波小笠原氏から阿波三好氏が派生したとされているのである。(小笠原氏・阿波三好氏概略系図)
B小笠原氏は、鎌倉時代に幕府御家人となり、承久の乱後に「長清」の長男「長忠」が阿波国守護に任じられた。その後、弟の「長房」が守護となり、その子孫が阿波国三好郡などを所領として、岩倉城を拠点として、鎌倉幕府滅亡まで守護を継承した。
C足利尊氏の南北朝時代(1336−1392)になったとき、阿波小笠原氏の本流であった「ョ清」は南朝方につき阿波に入ってきた北朝方の「細川ョ春」らと対立し、没落していった。
・(参考)この細川ョ春は、足利尊氏の命により、筆者が住んでいる京都府長岡京市にあった勝竜寺城を1339年に築城した、とされている。(長岡京市史)
D阿波小笠原氏の庶流は、足利幕府の管領職となった細川氏の裔である阿波守護の阿波細川氏の配下に入った。(細川氏概略系図)
E阿波小笠原氏の庶流の流れから三好郡に本拠をもった三好氏という氏族が派生した。
一般的には、その初代は、「三好義長」だとされ、京都小笠原氏「長興」の子供「義長」が阿波小笠原氏「長驕vの養子となり、三好郡に住したのが始まりで、この時始めて三好氏と称されるようになったとされている。 ところがこの人物の出自に関しては古来異系図が沢山存在しており、阿波三好氏は、果たして名家源氏小笠原氏の流れであったかどうかは、未だ確定してないのが現状である。
F文献上、三好氏の名前が登場する初見は、阿波守護「細川成之」の時代(1、465年)の文書である。「三好之長」らは勃発した応仁の乱に、主君「細川成之」に従って管領「細川勝元」を支援するために京都に進出した。これ以降、足利将軍家・三管領家などが複雑に絡んだ戦国時代へと発展。之長の子供「元長」の活躍の後、元長の子供「三好長慶」が登場するのである。
G1552年「細川氏綱」を奉じて京都に入った長慶は「足利義輝」を京都に迎え氏綱を管領職に就けて幕政の実権を自分が掌握したのである。さらに将軍義輝を京都から追放して、三好氏が全盛期に入った。正に下克上であった。
H長慶の死後、「三好三人衆(三好長逸・政康・岩成友通)」らの活躍があったが、1568年に織田信長が「足利義昭」を奉じて上洛し、色々変遷はあったが、三好氏は歴史上から消え去るのである。
I以上概観してきた、阿波三好氏は、一時ではあるが織田信長に先駆けて足利幕府を傀儡的なものにして、天下の実権を握った氏族だったのである。この阿波三好氏の系図が公知で一般的な物と史実とが、異なっていることを、「宝賀寿男」氏が最近色々な古文書を参考に詳細に精査されたのである。従前から阿波三好氏系図には、異常に異系図が多いことは指摘されており所謂公知系図は疑問視されていたのである。
J非常に詳しく、長い論文なので分かり難いが、筆者なりに理解した範囲で紹介しておきたい。勿論これに対する異論・反論もあるようであるが、それは割愛する。
宝賀寿男説抜粋(HPより)小笠原氏・阿波三好氏概略系図参照
Jー@吉田・芥川系図では「小笠原長房」の子供に「義近(義親)」が「長久」の兄弟として記されてある。これが三好氏の流れである。(筆者注:後年ここで伊予出身の古代豪族久米氏の裔である久米氏の一派が小笠原系図に接合した系図が存在したという証拠か)
JーAこの義近の流れから「義範」の子供として「義長」が記されている。これが阿波三好氏系図として公知の「三好義長」であり以後の系図はほぼ通常系図と同じである。
JーB阿波小笠原氏宗流の「ョ清」(−1369)は南北朝後期の人物でありこれと同時代人物として「義房・義隆」が 吉田・芥川系図に記されており義隆の譜註として「久米左京亮と号し予州久米荘に居した」とある。この久米氏も後に阿波国名東郡芝原に移住し、城主「久米安芸守義広」が文献に出てくる。
JーC太田 亮は「三好之長」が伊予国喜多郡久米庄を領すという系図を記している。
JーD以上などから、三好氏の先祖は建武中興(1334年)前後から伊予に片足を置きつつ伊予につながる阿波山間部に進出してきて、南北朝後期になると阿波に本拠を移し阿波守護細川氏の下で勢力を貯え次第に小笠原氏に替わっていったものであろう。その際小笠原氏と称して両系図を接合させたものであろう。(三好氏の三好の初称時期は不明)
JーE三好氏に少し遅れて阿波に来た久米氏は平氏を名乗りそれでも三好同族という初伝は保持した。三好氏本拠地:阿波国三好郡芝生 久米氏本拠地:阿波国名東郡芝原
久米氏が何時伊予から阿波に来てその後の分岐過程がどうだったかは不明。南北朝後期には三好氏と久米氏が分離したという系図所伝はある。
K上記宝賀寿男説は膨大な裏付け史料をもとに検討されたもので、筆者には非常に興味有る説である。
 
参考)「京都府乙訓郡と三好長慶・三好三人衆・勝竜寺城」の関わりについて   
三好長慶及び三好三人衆は、現在筆者が住んでいる山城国乙訓郡地域と深い関係があったことが、長岡京市史に詳しく記されている。その中で主な記事を抜粋すると以下のようである。
@「三好元長」の配下に西岡国人「鶏冠井政益」らがいた。対する「細川高国」側には西岡国人として神足氏・高橋氏・物集女氏らがいた。また「野田弾正忠」も高国側として1533年細川晴国から西岡青龍寺の知行地を安堵された。
A1543年に細川高国の養子氏綱を擁して「三好長慶」が挙兵し1548年には、足利義輝将軍・細川氏綱管領を担いで京都に入洛した、
B1548−1561年の間、三好長慶は実質的な最高権力者として摂津・河内・和泉・山城・大和・阿波・讃岐・淡路を支配した。                   
C1549年には西岡国人は長慶の支配下に入った。現在最古の三好長慶裁許状が、現長岡京市今里に残されている。1554年発行の「今井用水に関する裁許状」である。1553年以降の長慶関与文書もあり、摂津の芥川城に居た長慶が、西岡辺りも支配していた証拠とされている。
D1564年に長慶没。その後は三好三人衆が畿内の実権を握っていた。淀城は「三好義継」が、城主であったが一時「松永久秀」に奪われたが、1566年勝竜寺城は、「石成友通」が淀城は「三好長逸」が奪還した。細川家文書では、1497年に「細川元有」が西岡に3000貫の領地を賜り勝竜寺城を築城。1565年に三好方に奪われたとある。
また別の説では1340年に「細川ョ春」によって勝竜寺城が造られたともある。
勝竜寺城の最初の築城者については諸説ある。小畑川は以前ホウサイ川()と呼ばれていた。
E1568年織田信長が足利義昭を擁して細川藤孝・明智光秀らと上洛。
この時勝竜寺城に籠もっていたのは、「石成友通」・西岡国人衆ら500人であった。
信長は奥海印寺の寂照院に陣を進め、勝竜寺城は完全に信長軍に包囲された。その後和議により石成友通・国人衆らは落ち延びた。遂に三好三人衆の畿内支配が崩壊した。
F「細川藤孝」が勝竜寺城に入城し、西岡地域を支配開始時期は良く分からないが、おそくとも1569年4月頃からである。
G1571年には藤孝により城の外形はほぼ現存の形に大規模改修された。
(参考)1578年明智光秀の次女「お玉(後の細川ガラシャ)」と細川藤孝の長男「忠興」の婚礼の儀が上記勝竜寺城で挙行された。忠興が熊本細川家の初代とされている。
(注目)1600年細川ガラシャ自害の際にその介添え役をし、自らも自害した家老の「小笠原少斉」という人物は、本稿小笠原氏系図の京都小笠原氏の流れとしてその名前が明記されている。
この子孫はこれ以降熊本細川家の重臣として厚遇されたとされている。
 
8)まとめ(筆者主張)
@古代豪族「久米氏」は、記紀・新撰姓氏録では、天津神系の天神系の神別氏族だと記されているが、実体的には縄文系弥生人出身で国津神系の地祇系神別氏族である。
久米氏は記紀上、日本の古代豪族の最も古い伝承記事を残している氏族の一つといえる。
A久米氏の元祖部では、天孫族である天皇家の元祖と非常に親密な関係にあり、久米歌・久米舞は原始的な証拠である。
B久米氏の原初的な本拠地は、肥後国球磨郡久米郷(現在:熊本県球磨郡多良木町久米)
付近であり隼人族・熊襲族とも密接な関係を有していた。
C日本書紀に記されている原初的に古代豪族「大伴氏」の家来だったという説には与せない。むしろ古事記の方が元々の姿を反映しているものと判断する。
D大伴氏の発祥地は、紀国であるとする説は、説得力があり支持したい。
E久米氏からは、大和王権確立後に政治的に有名な人物は輩出されていない。
F久米氏は多くの国造氏を輩出し、西日本中心に久米という地名を残し、その一族を
各地に残したものと推定される。
G久米氏と倭文氏は密接な関係にあったものと推定される。
H中央に進出した久米氏の本流は、大伴氏に吸収された可能性もあり、系図的には消滅している。しかし、系図的には、はっきりしないが、中臣鎌足の父側祖母が久米氏の娘であった記録、桓武天皇擁立の中心人物であった藤原式家百川の母親が久米氏の娘であったことは、史実と思われ、当時中央にいた久米氏が貴族に準じられる地位にいたことが推定出来るのである。
I地方にいた久米氏の中心勢力は、伊予国造氏系だと思われる。この流れから顕宗・仁賢天皇を発見したとされている山部小楯が現れ、その功績により山部連姓を賜り山部氏が派生。万葉歌人である「山部赤人」はその裔である。
Jこの伊予国造の流れから、中世戦国時代の阿波三好氏が派生した可能性があることを示唆した「宝賀寿男」氏説には非常に興味がある。この三好氏から戦国武将「三好長慶」が誕生しているのである。
 
9)参考文献
・谷川健一著『古代学への招待』日本経済新聞出版社(2010年)
・国営吉野ヶ里公園HP  http://www.yoshinogari.jp
・加藤謙吉「大和の豪族と渡来人」吉川弘文館(2002)
・各種関連ウイキペディア(Wikipedia)
・宝賀寿男:http://enjoy.pial.jp/~kokigi/keihu/miyosi/miyosi1.htmなど多数
・日本書紀(上・中・下)山田宗睦訳(株)ニュートンプレス(2004)
・日本の歴史1「縄文の生活誌」改訂版 岡村道雄 講談社(2002)
・日本の歴史2「王権誕生」 寺沢 薫 講談社(2001)
・日本の神々の事典 園田稔・茂木栄 学習研究社(2002)
・「新撰姓氏録の研究」佐伯有清 吉川弘文館(1981年ー)
・「姓氏家系大辞典」 太田 亮  など
・「神武東征」の原像  宝賀寿男 青垣出版(2006)
・http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/soo1104.htm
・http://homepage2.nifty.com/amanokuni/futatunokao.htm
・http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/contents.html
・http://yamatai.cside.com
・http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/index.html   日本学術振興会
・「新日本人の起源ー神話からDNA科学へ」 崎谷 満  勉誠出版(2009)
・藤尾慎一郎「新弥生時代」吉川弘文館(2011)
・「長岡京市史」長岡京市史編纂委員会(中山修一ら)長岡京市(1997年)
・http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-26-1.html  など
・http://www.sysken.or.jp/Ushijima/   など
http://kamnavi.jp/jm/
・「古代国家はいつ成立したか」都出比呂志 岩波新書(2011)
など
10)あとがき
本稿を執筆開始して早1年以上経過した。充分な資料を収集いたつもりでいたが、執筆中に色々疑問点・追加資料も見つかり、当初予定していた執筆期間が大幅に延びてしまった。
謎多き「久米氏」のほんの一部が垣間見えたような気持ちである。我々日本人の祖先の代表例的氏族ともいえるのではないだろうか。以前は全く無視された古代豪族の一つであろう。遺伝子分析で、現在の日本人は古モンゴロイド(縄文人)と新モンゴロイド(渡来系弥生人)の混血種族であるという世界的にも希有な民族であることが明確になりつつある現在、非常に興味ある氏族になっていると判断する。
本稿を執筆するに当たり、多くの先学の諸先輩の方々の文献・HP記事を参考にさせて頂いた。感謝申し上げます。
さらに専門的に詳しい検討・研究がされることを強く期待したい。
                     (脱稿:平成24年4月23日)