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36.高麗(こま)氏・狛(こま)氏考 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1)はじめに
百済・新羅系の渡来人氏族については既に本稿でも幾つか紹介してきた(秦氏・百済王氏・東漢氏など)。これらの渡来系大氏族に隠れているが、日本の文化に多大の影響を与えた高句麗国系の氏族があることを忘れてはならない。高麗(こま)氏・狛(こま)氏・大狛氏などがその代表である。これらの氏族は好太王碑で有名な、今でいう北朝鮮部から日本列島に渡来してきた氏族である。いつ頃日本列島に来たかについては未だその全容は分かっていない。しかし、その主な氏族は高句麗国が滅亡した668年以降に日本列島に来たとされている。
この高句麗のことを中国や日本では別名としてまた「高麗(こま)」と表記する場合があった。また「渤海」という国が満州付近に7世紀から10世紀に存在していたがこれも「高麗」と記した場合がある。
一方朝鮮半島には「高麗」と記して「こうらい」呼ぶ国名があった。これは高句麗国とは直接関係なく918年に「王建」という人物によって建国され、936年には朝鮮半島全体がこの国により統一されたのである。この国は1391年まで、即ち季氏朝鮮が成立するまで続いたのである。この「こうらい」が朝鮮を表す「KOREA(コリア)」の 原語であるとされている。
同じ朝鮮半島に「高麗」と表記した全く別の国が存在していたのである。古来日本でも多くの混乱記事があるとされている。幸いなことに日本には高麗(こうらい)氏という一族はいなかったらしい。太田 亮によれば皆無ではなかったらしいが。
「こうらい」と呼称する有名な言葉としては、高麗人参、高麗茶碗、高麗青磁、高麗縁(畳の縁)などがある。「とうもろこし 」のことを関西では「こうらい」と呼ぶ、これも高麗からきた言葉か?「狛犬(こまいぬ)」という寺社にある一対の像については、矢張り高麗と関係しておりそうだが、どうもこの文化は元々朝鮮半島にあった文化ではなく遠く
インドあたりの風習が朝鮮半島を経由して日本列島に渡ってきた文化らしい。
朝鮮半島自体を「高麗」と呼ぶ場合もあるらしく、実にややこしいのである。日本での表記も「高麗・巨麻・巨摩・狛」など色々ある。
本稿では高麗(こま)氏・狛(こま)氏及びその関連に限って話をしたい。
筆者の住む京都府長岡京市の川向こう10Km程の所(京都府木津市山城町大字上狛小字高麗寺)に「高麗寺跡」という国史跡に認定されている場所がある。国道24号線と国道163号線に挟まれた小高い丘にある。この寺は非常に古く聖徳太子時代から白鳳期辺りに創建されたものと推定されている。勿論土地の名前が上狛(かみこま)であり、寺の名前が高麗(こま)寺であるから間違いなく本稿で取り上げる高麗氏または狛氏と関係していると考えられている。
7世紀には間違いなく高句麗からの渡来人の集落がこの付近にあったのである。
高句麗国が滅亡する前から日本にきていた狛一族だと筆者は推定しているが山背国南部にはこれ以外にも狛族に関係していると思われる地名などが沢山ある。
高句麗出身と思われる氏族名は新撰姓氏録に記されているだけでも数10はある。その分布は日本全国に渡っている。中でも多いのは関西では河内、山背、・関東では武蔵、相模などである。山背国では出水氏・黄文氏・桑原氏・後部氏・狛氏・嶋氏・高井氏・田村氏東部氏・長背氏・広宗氏・福富氏・八坂氏など 、河内国では大狛氏・狛染部氏・狛人氏・嶋木氏・嶋野氏・上部氏・高向氏・高安氏・直道氏・難波氏 などである。
武蔵国高麗郡には高麗氏・背奈氏が集中している。中央官庁にいたのが高麗氏流れの高倉氏である。
これ以外にも日置氏のように全国規模に展開した大族もいた。
これら高句麗系の渡来人の中で本稿では、ある程度系図などが残されている高麗氏と狛氏系について述べたい。
2)人物列伝
古代朝鮮半島の歴史は我々戦後教育を受けた者は、非常に疎い。馬韓・弁韓・辰韓、新羅・百済・任那・高句麗という言葉は習った記憶がある。それ以外としては高句麗好太王碑という古代朝鮮及び古代日本(倭国)のことを記した石碑が現存している事などで、非常に曖昧模糊とした内容しか教育を受けなかったようである。高句麗出身の渡来人なんて
全く教わった記憶がない。この際先ず高句麗王の系譜から記しておきたい。
既稿「百済氏考」で百済王族系譜は記したのでそれを参照のこと。
(参考)2−s)高句麗王の歴代王人物列伝(主に三国史記に準じる)
2−s−1)東明聖王(?−BC19?)
@父:解慕漱(かいぼそう)又は金蛙王(扶余王)? 母:柳花(河伯娘)?
A子供:瑠璃明王・沸流・温祚王 別名:東明王・朱蒙・衆解
B扶余国の王子らと対立し卒本(中国遼寧省本渓市桓仁)に亡命し高句麗国を建国。初代王(在位:BC37−BC19)
C三国史記・後漢書・魏書・広開土王碑などに建国神話あり。
2−s−2)瑠璃明王(?−18)
@父:東明聖王 母:礼氏女
A子供:都切・解明・大武神王・閔中王・再思 、別名:類利・儒留王・如栗?
B2代国王(在位:BC19−18)異説あり。
・大武神王(4−44)
3代国王(在位:18−44)別名:大解朱留王 異説あり。
・慕本王(?−53)
5代国王(在位:48−53)別名:解憂
・閔中王(?−48)
4代国王(在位:44−48)別名:解色朱
2−s−3)再思()
@父:瑠璃明王 母:不明
A子供:太祖大王・次大王・新大王
B高句麗の単なる役人で王位にはついていない。
・太祖大王(47?−165?)
6代王(在位:53?−146?)別名:国祖王 異説あり。
・次大王(71−165)
7代王(在位:146−165)別名:遂成
2−s−4)新大王(89−176)
@父:再思 母:不明 異説あり。
A子供:抜奇・故国川王・山上王 別名:伯固
B8代王(在位:165−179)
・故国川王(?−197)
9代王(在位:179−197)別名:男武・国襄王・伊夷謨
2−s−5)山上王(?−227)
@父:新大王 母:不明
A子供:東川王 別名:延優・位宮
B10代王(在位:197−227)
2−s−6)東川王(209−248)
@父:山上王 母:不明
A子供:中川王・預物・奢句、別名:憂位居・東襄王
B11代王(在位:227−248)
C247年に都を平壌に遷都した。異説あり。
2−s−7)中川王(224−270)
@父:東川王 母:不明
A子供:西川王・達賈・逸友・素勃 別名:然弗・中壌王
B12代王(在位:248−270)
2−s−8)西川王(?−292)
@父:中川王 母:不明
A子供:烽上王・咄固、別名:薬廬・西壌王
B13代王(在位:270−292)
・烽上王(ほうじょう)(?−300)
14代王(在位:292−300)別名:相夫・雉葛王
2−s−9)咄固()
@父:西川王 母:不明
A子供:美川王
B烽上王により殺された。
参考)楽浪郡(帯方郡)
BC108−AD313まで朝鮮半島北部に存在していた中国所領の郡。中心は現在の平壌にあった。中国文化の拠点。卑弥呼らもこことの交流記事が魏志倭人伝にある。
BC108年に前漢の「武帝」が衛氏朝鮮を滅ぼして設置した。
AD313年楽浪郡・314年には帯方郡が高句麗(美川王)によって滅ぼされた。
2−s−10)美川王(?−331)
@父:咄固 母:不明
A子供:故国原王 別名:乙弗・憂弗・好壌王
B15代王(在位:300−331)
C313年から314年にかけて中国領であった楽浪郡・帯方郡を滅ぼした。
2−s−11)故国原王(?−371)
@父:美川王 母:不明
A子供:小獣林王・故国壌王 別名:斯由・剣・国岡上王・国原王
B16代王(在位:331−371)
・小獣林王(?−384)
17代王(在位:371−384)別名:丘夫・小解朱留王
2−s−12)故国壌王(?−392)
@父:故国原王 母:不明
A子供:広開土王 別名:伊連・伊速・国壌王
B18代王(在位:384−392)
2−s−13)広開土王(374−412)
@父:故国壌王 母:不明
A子供:長寿王 別名:談徳・好太王・永楽大王・句麗王安
B19代王(在位:391−412)
C広開土王碑(中国吉林省通化地級市集安市)文が有名。
D400年倭と対戦しこれを破った。404年倭の水軍も破った。
E高句麗中興の王とされている。
参考)広開土王碑(好太王碑)
@414年に高句麗20代長寿王が父「広開土王」の功績を称える為に、現:中華民国吉林省集安市に建立したものである。
A付近には将軍塚・大王陵もある。 現在はこれらを併せて世界遺産に登録されている。
B1880年農民によって発見された。高さ:6.3m 幅:1.5mの四角柱。
C1802文字の漢字が記されてあり、4世紀末から5世紀初の朝鮮半島・倭国との関係が記されてあり、日本の古代史を知る上で七枝刀(石上神社蔵)と並んで非常に重要視されてきた。
D1884年日本軍の「酒匂景信」大尉が拓本を採った。この拓本を巡っていわゆる日本軍による「碑文改竄説・捏造説」が戦後出されたが、2005年これらの説は誤りであるという証拠が中国側から示され酒匂本は正しいとなった。しかし、碑文改竄・捏造説の中心人物の一人である「季 進熙」氏は2006年の時点でも自説は正しいとして上記証拠を認めてないのである。参考文献参照
Eしかし、今度はその文章の解釈を巡って日韓の学者間で論争が現在も続いている。
問題の箇所の日本側の通説は「ーーーそもそも新羅・百済は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡り百済・任那・新羅を破り、臣民となした。ーーー」である。
2−s−14)長寿王(394−491)
@父:広開土王 母:不明
A子供:助多 別名:巨連
B20代王(在位:413−491)
C414年広開土王碑建立。
2−s−15)助多
@父:長寿王 母:不明
A子供:文咎明王
B早世した。
2−s−16)文咎明王(ぶんしめい)(?−519)
@父:助多 母:不明
A子供:安臧王・安原王、別名:羅雲・明理好・明治好王・雲
B21代王(在位:496−519)
・安臧王(?−531)
22代王(在位:519−531)別名:興安・安
2−s−17)安原王(?−545)
@父:文咎明王 母:不明
A子供:陽原王、別名:宝延・宝迎
B23代王(在位:531−545)
2−s−18)陽原王(?−559)
@父:安原王 母:不明
A子供:平原王、別名:平成・陽崗上好王・陽崗王
B24代王(在位:545−559)
C日本書紀記事
2−s−19)平原王(?−590)
@父:陽原王 母:不明
A子供:嬰陽王・栄留王・太陽王、別名:陽成・陽城・平崗上好王
B25代王(在位:559−590)
・嬰陽王(?−618)
26代王(在位:590−618)別名:元・大元・平陽王
・栄留王(?−642)
27代王(在位:618−642)別名:建武・成
唐との関係が緊張し新羅とも戦ったが敗戦が続いた。
642年に臣下の淵蓋蘇文によりクーデターを起こされ殺害された。
参考)・淵蓋蘇文(?−665)
高句麗末期の宰相・将軍。伊梨柯須弥(いりかすみ)(642年日本書紀記事あり)
642年栄留王らを殺害し政権を握った。宝蔵王を即位させた。新羅の金春秋(後の武烈王)を監禁。
644年唐の「太宗」が新羅との和解を勧告してきたがこれを拒否。645年唐は高句麗に進軍、これを4回も阻止した。
2−s−20)太陽王
2−s−21)宝臧王(?−682?)
@父:太陽王 母:不明
A子供:男福・任武・徳武・安勝、別名:臧
B28代王(在位:642−668)
C淵蓋蘇文により王位に擁立された。高句麗国最後の王。
D668年唐の高宗に滅ぼされた。
E実質的責任はなかったとされ、処刑されなかった。その後遼東州都督に任じられた。
高句麗から亡命してきたとされる王族氏族高麗氏には、主に2流あるようである。その一つが背奈王流でありもう一つが高麗王若光流である。
2−1)高麗氏人物列伝(背奈王系)
・高句麗広開土王
・延興王
広開土王7世孫とも5世孫ともいわれている。
2−1−1)背奈王福徳(?−?)
@父:不明 母:不明
A子供:福光・行文
B高句麗広開土王の後裔。
C660年高句麗の平壌城陥落し日本に亡命。武蔵国に居住。(続日本紀の福信の薨去の条に記されている。)
D朝廷より背奈公の姓を賜る。後に王(こにきし)姓となる。
E狛烏賊麻呂は遠縁にあたる。
・背奈行文(?−?)
@父:福徳 母:不明
A子供:高麗大山 別名:背奈公・背奈王(懐風藻)・背奈朝臣
B武蔵国高麗郡の人。
C奈良時代万葉歌人、明経第2博士、正6位下大学助。
D45聖武天皇の功臣で上洛後貴族となった。
・高麗大山(?−762)
@父:背奈行文 母:不明
A子供:高倉殿守・高倉殿継 別名:背奈公・巨萬朝臣・高麗朝臣
B天平19年(747)背奈王姓を賜る。
C奈良時代官人、造東大寺司次官。武蔵介。正四位下。
D761年遣渤海使に任命され、渤海使の王新福を伴い派遣された。(続紀)
・高倉殿継()
@父:高麗大山 母:不明
A子供: 別名:高麗朝臣殿嗣
B奈良末から平安初めの官人。従五位上。804年駿河守。肥後守。
C777年49光仁天皇より遣渤海使に任命され、渤海使張仙寿を伴い派遣された。(日本後紀)
2−1−2)福光
@父:背奈王福徳 母:不明
A子供:福信・福延・福主
2−1−3)高麗福信(709−789)
@父:福光 母:不明
A子供:高倉石麻呂・山岳 別名:背奈公
B若い時に武蔵国高麗郡から伯父行文が連れて上京した。(続紀)
相撲の名人で45聖武天皇からその武勇を称えられた。橘奈良麻呂の変で活躍。
C奈良時代の官人。765年従三位、造宮卿兼武蔵守。
D当初背奈公姓で747年背奈王姓を賜る。750年朝廷より高麗朝臣姓を賜る。聖武天皇に重用され756年武蔵守。武蔵国分寺を築く。758年武蔵国に新羅郡設置。
E779年高倉朝臣姓を賜った。
2−1−4)高倉石麻呂(高麗石麻呂)
773年従五位下(続紀)
789年美作介。
2−1−5)宗人
2−1−6)道根
2−1−7)道永
2−1−8)安永
2−1−9)是世
2−1−10)照和
2−1−11)貞正
2−1−12)勝 純豊
2−1−13)純安
2−1−14)井上純長
2−1−15)勝 季純
2−1−16)麗純
2−2)高麗氏人物列伝(高麗王若光系)
本列伝は高麗神社発行の「高麗神社と高麗郷」(平成14年)を主に参考にした。
2−2−1)高麗王若光(?−748?)
@父:不明 母:不明
A子供:家重・聖雲
B奈良時代の豪族、在庁官人。
C高句麗から派遣された副使「二位・玄武若光」(紀に記事有り)と同一人物か?
高句麗王族出身説に疑問もありとされている。
D「二位・玄武若光」は、666年高句麗の使者として来日。668年唐新羅軍により高句麗滅亡し、若光は帰国出来なくなった。(紀)
E高麗若光は、703年42文武天皇より高麗王(こまのこにきし)姓を賜る。従五位下(続日本紀)
F716年武蔵国に高麗郡設置。東国七国(駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野)に住む高句麗人1799名をここに移した(続日本紀)。都より若光が大領(郡司)として任命されて高麗郡の開拓実施。晩年は白髪となり白髭様と言われ慕われた。その地で没した。(高麗神社社伝) 748年没説もある。(高麗大宮社伝所引:新編武蔵風土記稿:1830年編)
G嫡男家重が高麗氏を継いだ。
H白髭明神 高麗明神
I高麗氏菩提寺は聖天院勝楽寺でここが若光の墓所。
J高麗福徳と若光は同一人物という説もある。
K高麗神社伝承:「若光の故国を去って我が国に投化するや一路東海を指し遠江灘より更に東して伊豆の海を過ぎ、相模湾に入って大磯に上陸した。邸宅を化粧坂から花水橋に至る大磯村高麗の地に営んだ。そこに留まり住んだが間もなく朝廷より従五位下に叙せられた。次いで703年王姓を賜った。14年後の716年に7国在住の高句麗人に対して武蔵野の一部を賜る詔が降りた。同時に若光は高麗郡の大領(郡長)に任じられたので大磯を去って高麗郡に赴いたが、その後も大磯の国人等はその徳を慕い「高来神社」を造って高麗王の霊を祀った」
・聖雲(?−?)
@父:高麗王若光 母:不明
A子供:
B奈良時代の僧。寺念僧(高麗出身)勝楽上人の弟子。
C勝楽上人が若光を弔うために高句麗から携えてきたとされる念持仏「聖天歓喜仏」を本尊にした寺を建立しようとしたが751年死去。この遺志を継ぎ法相宗の高麗山聖天院(勝楽寺)を建立。勝楽上人を埋葬した。
2−2−2)家重(?−748)
@父:高麗王若光 母:不明
A子供:弘仁
B高麗社創建 730年?以降748年の間?。 社伝には記事なし。
2−2−3)高麗弘仁(?−760)
@父:家重 母:不明
A妻:新民女、子供:清仁
2−2−4)清仁(?−797)
@父:弘仁 母:新民女
A妻:神田風戸女、子供:高照
2−2−5)高照(?−810)
@父:清仁 母:神田風戸女
A妻:新井谷広女、子供:高照
2−2−6)高徳(?−823)
@父:高照 母:新井谷広女
A妻:丘登常女・本所古足女、子供:弘清(?−833)・弘道
2−2−7)弘道(?−873)
@父:高徳 母:本所古足女
A妻:和田初茂女、子供:道勝
2−2−8)道勝(?−871)
@父:弘道 母:和田初茂女
A妻:吉川志津路女、子供:高章
2−2−9)高章(?−893)
@父:道勝 母:吉川志津路女
A妻:大野氏岡女、子供:照和
2−2−10)照和(?−933)
@父:高章 母:大野氏岡女
A妻:加藤正菊女、子供:貞正
2−2−11)貞正(?−958)
@父:照和 母:加藤正菊女
A妻:福泉平佳女、子供:惟正
2−2−12)惟正(?−960)
@父:貞正 母:福泉平佳女
A妻:神田興坂女、子供:一豊
2−2−13)一豊(?−996)
@父:惟正 母:神田興坂女
A妻:昌元女、子供:元豊・元友(?−1012)
B高麗大宮司、免許高麗大宮明神号
C高麗神社は大社の扱いになった。22代純丸まで大宮司を冠称することになる。
2−2−14)元豊(?−984)
@父:一豊 母:昌元女
A妻:和田音人女、子供:元丸
B大宮司
2−2−15)元丸(?−1049)
@父:元豊 母:和田音人女
A妻:新井次仲女、子供:菊丸
B大宮司
2−2−16)菊丸(?−1070)
@父:元丸 母:新井次仲女
A妻:小谷野一覚・阿部道仙女、子供:吉豊(?−1083)・豊丸・雪丸
B大宮司
2−2−17)豊丸(?−1089)
@父:菊丸 母:阿部道仙女
A妻:高麗吉高女、子供:純長
B大宮司
2−2−18)純長(?−1129)
@父:豊丸 母:高麗吉高女
A妻:金子学女、子供:純丸
B大宮司
2−2−19)純丸(?−1146)
@父:純長 母:金子学女
A妻:中山仲治女、子供:麗純
B大宮司
2−2−20)麗純(1118−1199)
@父:純丸 母:中山仲治女
A妻:高麗金貞女、子供:高純・禅阿・慶弁 別名:純秀
B園城寺の行尊が諸国行脚の途中、高麗明神に杖を止めた際にその勧めにより修験道に入ったとされている。役行者を信仰。大峯修行、山伏・修験者になり名前を麗純と改称。大宮寺麗純と称する。以降56代大記まで修験者の一族となる。
C高麗寺
・慶弁
足利鶏足寺
・禅阿
下野国足利「鶏足寺」*政所
*東大寺定恵和尚が勅命により建立した関東では最も格式の高い寺の一つ。
2−2−21)高純(?−1192)
@父:麗純 母:高麗金貞女
A妻:道仙女、子供:天純・高長
B通称:大宮寺
2−2−22)天純(?−1226)
@父:高純 母:道仙女
A妻:武藤高行女、子供:宗純
B大宮寺
2−2−23)宗純(?−1243)
@父:天純 母:武藤高行女
A妻:新次郎女、子供:豊純・慈光寺照了
B大宮寺
C初代からここまでは高麗氏の配偶者は高句麗人の子孫の娘だけであったとされている。
2−2−24)豊純(?−1242)
@父:宗純 母:新次郎女
A妻:岩木僧都道暁女、子供:永純・純円・金子元正室
B大宮寺
Cこの代になって初めて高句麗人系子孫以外の娘が配偶者に入った。岩木僧都道暁は源氏の縁者としか分からなかった。近年の調査によりこの人物は源頼朝の異母弟である全成の息子であることが判明した。(高麗神社と高麗郷:高麗神社社務所発行)これにより鎌倉幕府の御家人となった。
2−2−25)永純(1228−1292)
@父:豊純 母:岩木僧都道暁女
A妻:小峯左女、子供:観純・宗丹・純宗
B大宮寺
Cこの時1259年に高麗神社は火災となり、歴代系図及び多くの宝物焼失。
高麗一族が集まり高麗氏系図を再編した。これが現存している高麗氏系図*である。
高麗井、新井、本所、新、神田、中山、福泉、吉川、丘登、大野、加藤、芝木らの各氏が
これに協力した。
*この系図はその後入間郡勝呂郷の勝呂氏に預けられた。明治になって「高麗大記」に返却された。
2−2−26)観純(1246−1308)
@父:永純 母:小峯左女
A妻:発智太郎義行女、子供:行仙・行持・行勝
B大宮寺
・行持
新田義貞勢として討死。
2−2−27)行仙(1276−1331)
@父:観純 母:発智太郎義行女
A妻:高麗井入道女、子供:行純・児玉成行室
B多門房
2−2−28)行純(?−1339)
@父:行仙 母:高麗井入道女
A妻:井上次郎女、子供:行高・高広(1322−1352)則長(1325−1352)
B多門房
・高広・則長
共に討死。
2−2−29)行高(1319−1388)
@父:行純 母:井上次郎女
A妻:宮沢内蔵女、子供:行阿・行光・新井矩長室
B多門房
C1337年新田義興の鎌倉足利氏攻めに参加。勝利。
1351年足利尊氏・直義兄弟の戦いで直義側につき、敗戦。
1352年足利ー新田戦では新田側につき敗戦。上野国藤岡に隠れた。所領没収された。
一族廃絶の危機にあった。足利氏から許され帰国。臨終に際し、「我が家は修験であるから今後戦に参加してはならない」と堅く戒めた。これ以降高麗氏はいかなる戦にも参戦することはなかったとされている。
2−2−30)行阿(1341−1398)
@父:行高 母:宮沢内蔵女
A妻:青木右京女、子供:永山・永眞・岩沢純清室
B多門房
2−2−31)永山(1362−1406)
@父:行阿 母:青木右京女
A妻:横田七郎女、子供:大眞(1381−1411)・大圓・則秀・勝住右京室
B多門房
2−2−32)大圓(1383−1446)
@父:永山 母:横田七郎女
A妻:大野甚四郎女、子供:良多・秀清・喜賓坊室
B多門房
2−2−33)良多(1413−1483)
@父:大圓 母:大野甚四郎女
A妻:関根内記女、子供:良悟・川越大覚寺室・斉藤源太室
B多門房・清乗院
2−2−34)良悟(1437−1473)
@父:良多 母:関根内記女
A妻:多武峯法印女、子供:良阿(1453−1508)・高麗左膳・豊丸
B呼称:清乗院
これ以降省略。呼称は下記のように複雑に変化して現在まで続いている。
ーーー本宮院ー大宮寺ー大宮寺梅本坊ー正覚院梅本坊ー大宮寺多門院ーーー大宮寺正覚院
ー大宮寺清乗院ー大宮司梅本坊ー法印大宮寺清乗院ー大宮寺清乗院ー大宮寺梅本坊ー
権大僧都法印ー高麗神社社掌ーー高麗神社宮司(現在)
2−3)狛氏人物列伝(南都方楽人系)
2種の系図を参考にした。元祖部は狛宿禰系狛系図を参考にし、国叶以降は楽人狛氏「上家」系図を主とし、派生氏族は前記狛宿禰系狛系図を参考にして人物列伝を上家を主流として作成した。
・安臧王(?−531)
@父:文咎明王 母:不明
A子供:
B22代王(在位:519−531)別名:興安・安
C523年・529年百済に侵攻。
・福貴君(王)
これを祖とする大狛連氏が河内国大県郡巨麻郷(柏原市)・若江郡を本拠地としていた。
これも元々は狛造氏である。大狛連には高句麗人伊利斯沙礼斯の後裔氏族もいる。
参考)大狛百枝(?−696?)
飛鳥時代の人物。683年大狛造に連姓が与えられた。
・夫連(王)
・加武良
元々は狛造氏と称され、高句麗夫連王の後裔とされ新撰姓氏録では、山城国蕃別氏族に分類された。この流れから南都方楽人が派生した。山城国相楽郡(現:京都府木津川市山城町上狛・相楽精華町下狛・相楽郡精華町狛田付近)を本拠地とした狛造氏の一派と思われる。その祖を夫連王としている。山城国相楽郡には狛人氏・狛部宿禰などもいた。
高麗国安岡上王を祖とする狛首氏も山城国を本拠地としているがこれは本系譜の狛氏とは異なる氏族と判断する。同じ狛造氏出身でも陸奥国を本拠地とする陸奥氏などもあるがこれは祖は別流か。
2−3−1狛烏賊麻呂
@父:加武良 母:不明
A子供:久邇麻呂
B681年記事:山背狛烏賊麻呂ら14人に連姓を賜った。(紀)
2−3−2)久邇麻呂
2−3−3)浄足
2−3−4)総継
2−3−5)滋井
一説では滋井国叶ともされている。高麗国人。
2−3−6)国叶
@父:滋井?総継?母:不明
A子供:好行・衆行?
2−3−7)好行(960?−1048?)
@父:国叶 母:不明
A子供:葛古
B太宰府庁舞師の首。左近将監 白河天皇時代(1073−1087)の人?
C一の者31年間
D大友成道の弟子
系譜に記された年号は全く合わない。
2−3−8)葛古
2−3−9)衆古
雅楽亮
2−3−10)衆行
@父:衆古?国叶? 母:不明
A子供:斯高
B雅楽狛師。この時始めて興福寺に置く。
2−3−11)斯高
2−3−12)眞高
2−3−13)真行
左近府生
ーーー2−3−7)〜2−13)までの系図は疑問点多い。ーーー
2−3−14)光高(996−1048)
@父:真行? 母:不明
A子供:則高?
B一の者25年。金百得笛を始める。
C一説では高麗人に非ず。本小野氏である。山城狛に住んでいたので姓とした。大友信留
の第2たり。始めて舞を習う。
D1001年一条天皇より左方舞奉行を命じられた。南都楽所の楽祖となった。
参考)
「南都楽所」は一条天皇の長保3年(1001年)に左方の舞と楽の奉行を命ぜられた狛光高(995-1048)を祖として始まった。その後、南都雅楽は郷土の社寺や関係の人々に支えられ、また、幾度かの戦乱をくぐり抜け、連綿と受け継がれ伝えられてきた。
1870年南都の楽人も上京し、伶人として雅楽局の職員となった。しかし、郷土の社寺への雅楽奉仕のため、一部の楽家が奈良にとどまり、春日大社やその他の社寺に奉仕をすると共に、後進の指導とその保存に努力した。
1932年春日大社を中心として、雅楽のみならず、田楽、細男などの古楽もあわせて伝承し、保存をすることを目的として「春日神社古楽保存会」が発足し、「春日古楽保存会」雅楽部門を経て、1968年「社団法人南都楽所」が結成された。
(社団法人南都楽所HPより)
(雅楽の歴史年表)
592:四天王寺創建。聖徳太子、雅楽・伎楽を奨励。四天王寺に秦姓の楽人が誕生する
612:百済から味摩之来朝して帰化。伎楽を伝え、大和の桜井で少年を集め伎楽舞を教える。
684: 正月の賀宴で小墾田の舞等を高麗・百済・新羅の楽人が大極殿の前で奏する。
686: 勅により楽事に専念する家系ができる。
701:治部省に雅楽寮を設置される。
702:正月の賀宴で 「五常太平楽」が奏される。唐楽の曲名が初めて記録に出る。遣唐使粟田真人たち唐へ出立。
704:粟田真人、唐より「皇帝破陣楽」を伝える。
710:平城京に遷都。 厩坂(うまさか)寺を奈良に移し、興福寺と改称。
726: 相撲節会始まる。勝方に「乱声」を奏す。 興福寺の西金堂できる。
727:渤海の音楽が初めて来朝。
728:歌舞所が置かれ、雅楽寮から日本古来の歌舞(神楽歌・東遊・久米歌等)は歌舞所の管轄に移る。
731:雅楽寮で「唐楽・百済楽・高麗楽・新羅楽」等の歌舞を習う人の人数を定める。734:吉備真備、唐より『楽書要録』と銅律管を持ち帰り、翌年聖武天皇に献上する。
736:天竺の僧、菩提倦那と、林邑の僧、仏哲等が太宰府に着き、仏哲が林邑八楽を伝える。
740:渤海の巳珍蒙等によって渤海楽が中宮閣門で初めて演奏される。
743:五節舞を天皇(聖武帝)が作り、皇后が舞ったといわれる。
749:天皇、太上天皇、皇太后、東大寺行幸。唐・渤海・呉の楽、五節・久米舞を奏す
752:東大寺大仏開眼。国風歌舞の五節舞、久米舞等と共に、外来音楽の唐楽、渤海楽、呉楽等が盛大に演奏された。
756:聖武天皇崩御。正倉院に御遺愛の雅楽器の他東洋諸国の楽器・舞面が納められる
759:「内教房」の記述が初めて出る。「内教房」とは婦女子専門の雅楽に携わっていた部署の名称で平安時代に盛期を迎え、その後は衰退した。
781:大嘗祭に雅楽寮の楽及び大歌を奏す。
809:雅楽寮に林邑楽師、度羅楽師を置く。
810:この時代よりしばらくの間日本人演奏家の中に雅楽の名人が輩出する。
813:嵯峨天皇は新曲の製作を奨励して、正月の内宴に新作「最涼州」を演奏させ、又南池院に行幸のときは、御自身が作られたといわれる「鳥向楽」が船楽で奏された。
821:内裏式が選進され、朝廷行事に於ける雅楽の使いかたが決められる。
834−:秋風楽・十天楽・賀王恩・承和楽・北庭楽・央宮楽・海青楽・拾翠楽等、現在も伝承されている名曲が続々と作られる。
840: この頃(仁明天皇)より約一世紀の歳月をかけ、雅楽の日本化が始まる。楽制改革と呼ばれる。
859:『三大実録』に「催馬楽」という語が出てくる。
861: 北殿の東庭で左右近衛府の楽人の演楽あり。このころから楽人は近衛の官職を賜る。
889: 賀茂神社の臨時の祭に初めて「東遊」が奏される。
908:「延喜楽」「胡蝶」が作られる。
927:藤原忠平等により、「延喜式」が撰上され治部省に雅楽寮が置かれる。
942:石清水八幡の臨時の祭に「東遊」が奏される。
948:雅楽寮は「楽所」と名を改め、歌舞所も「大歌所」となる。
990:この時代に、長い歳月をかけた楽制改革が完成し、楽器の編成が現在の形に統一された。
1002:これより内侍所の御神楽、隔年に行われる。
1023:この年の踏歌節会で「舞人の数が不足する」という事態がおこり、雅楽頭藤原為成に「もっと舞人を増やせ」との命令が下る。
1074:白河天皇のこの時代より、内侍所の御神楽が毎年恒例になったといわれる。
1097:春日大社で盛大な舞楽があったが、その時の楽人の記述に「京都楽人と南都官人」とあり、初めて「南都」という名前が出てくる。
10世紀〜11世紀: この時代、雅楽は貴族の財力と趣味、教養などに培われ、宮廷生活に密着して発展し全盛期をむかえた。
11〇〇: この頃から宮中に於ける大饗や大臣、貴族の饗宴がしばしば行われ、雅楽寮の楽人の演奏活動が盛んになる。
1100: 初めて「四天王寺楽人」という記述が現れ、所謂「三方楽人」という形はこの頃確立したらしいが、この呼び名は後世のものである。
1107:この頃から1123年迄の間に、宮中における雅楽の演奏制度が完成した。
1118:宇治平等院で京都楽人と天王寺楽人合同の舞楽が行われた。
1167:この頃平清盛、厳島神社舞楽を興す。
1192: 源頼朝、鎌倉に幕府を開く。家臣らに京都より下った楽人に雅楽を習わせ、鶴岡八幡で雅楽を演奏させる。
1233:狛近真の 『教訓抄』全十巻完成。 この頃猿楽の金春流起こる。後の能楽。
1270:狛朝葛の『続教訓抄』完成。
2−3−15)則高(1006−1083)
@父:光高? 母:不明
A子供:光季・高季・則季
B将監。吹田判官。猶子説あり。。
・高季
南都楽所の辻家を興した。この流れから楽家「奥家・芝家」派生。
・則季
この流れから楽家「西家」派生。
2−3−16)野田光季(1025−1112)
@父:則高 母:不明
A子供:光貞?光則?
B一の者38年間。左近将監。従五位下。
C南都楽所の上家を興した。
・光則
この流れから楽家「須波家」派生。
2−3−17)光貞
@父:光季? 母:不明
A子供:光時
B左近将監。実は外孫女の子諸説あり。
2−3−18)光時(1087ー1159)
@父:光貞 母:不明
A子供:光近
B一の者25年間。従五位下。初めて舞譜作成。
2−3−19)光近(1114−1182)
@父:母:不明
A子供:光朝?光眞?近真?
B一の者23年間。従五位下。
・光朝(1153−1177)
兵庫允、左将曹、多忠節の子。
・光眞(1165−1240)
@父:光近? 母:不明
A子供:近真?
一の者28年間。従五位下。実は外孫。興福寺五師聖願の子。
2−3−20)近真(ちかざね)(1177−1242)
@父:光眞? 母:不明
A子供:光葛・光機・眞葛
鎌倉時代の南都方楽人・舞人。雅楽寮で一の者2年間。実は光眞の弟。
三大楽書の一つ教訓抄(1233)の著者。従五位上左近衛将監。
養父の狛則房(奥家の祖:系図参照)より笛を学んだ。
「近真の夢伝説」あり。
・光機(文永1207−1269 )
・眞葛
この流れから楽家「窪家・久保家」派生。
2−3−21)光葛(1210−1275)
@父:近真 母:不明
A子供:朝葛
B将曹。
2−3−22)朝葛(あさかつ)(1249−1333)
@父:光葛 母:不明
A子供:朝季・朝近・光栄?葛栄
鎌倉時代の楽人・舞人。雅楽寮で一の者38年間。本名近葛。
続教訓抄(1270−1322)・掌中要録・掌中要録秘録などを著した。
正四位上・因幡守。
・朝季
・葛栄
この流れから楽家「東家」派生。
2−3−23)光栄(1284−1351)
一の者9年筑前守。猶子。
ーーー現在まで続く一族である。
(参考)高句麗関連渡来人その他関連人物
・曇徴(どんちょう)
610年高句麗王から貢上されて僧法定とともに来朝した。(紀)
聖徳太子から信頼された。法隆寺にいた。聖徳太子伝暦にも記事あり。
絵具・墨・紙の製造法などを日本に伝えた。この時紙漉きの方法と紙の原料である麻クズの繊維を叩解する石臼が伝えられたとある。(日本での紙に関する最古の記述)
・慧慈(えじ)(?−623)
595年に高句麗より来朝。聖徳太子の仏教の師。
596年法興寺完成すると百済僧慧聡と住し、三宝の棟梁と称された。
615年高句麗へ帰国。
・恵便(えびん)別名:高麗恵便
高句麗の平原王(在位:559−590)の命を受けて565年?に来朝した僧。
目的は、崇仏派の蘇我馬子に接近して、高句麗との関係を強化するためだった、とされている。しかし、当時は廃仏派の物部守屋らの力も強く、その迫害から逃れるため、恵便は、同行してきた尼僧・法明と共に、やむを得ず還俗して、播磨(現:加古川市)に身を隠したという。この間に聖徳太子が播磨までわざわざその教えを受けに来られ、その縁で四天王寺聖霊院(後の鶴林寺:加古川市)随願寺(姫路市白国)の前身の増位寺を聖徳太子が建立したという伝承もある。
584年鹿深臣(かふかのおみ)は、百済から弥勒菩薩の石像一体をもたらし、また、佐伯連も、仏像一体を持ち帰った。 蘇我馬子は、この2体の仏像を請い受け、これを祀る僧を探し出すよう、鞍作村主(くらつくりのすぐり)の司馬達等と池辺直氷田(いけべのあたいひた)の二人に命じた(紀)。
二人は、播磨国にいた還俗僧・恵便を見つけ出して、明日香に連れて行った。
それ以来、恵便は、馬子の仏法の師となった。恵便は、当時11歳だった司馬達等の娘・嶋を得度して尼にした。出家した嶋は、善信尼(我が国最初の尼)と呼ばれた。
また、漢人夜菩(あやひとやぼ)の娘・豊女と、錦織壺(にしごりのつぼ)の娘・石女の二人も得度して、善信尼の弟子となり、それぞれ禅蔵尼と恵善尼となった。
善信尼は、585年物部守屋らの廃仏運動のため迫害された。また588年百済へ渡り仏教を勉強に行き、590年帰国している。(紀)
(元興寺縁起にも恵便、法明のことが記されている。)
・高麗使「安定」
継体朝の517年百済が将軍と日本の斯那奴阿比多(しなのあひた)を遣わして、高麗使「安定(あんてい)」に副え来朝して好を結ぶ。(紀)(高句麗使に関する最初の記事)
・狛造千金(こまのみやつこちかね)
517年授刀の舎人・狛造千金の姓を改めて、大狛連とした。(続日本紀)
・高麗朝臣広山
777年 外従五位下。
・武家狛氏
中世に山城国一揆を率いた国人。狛下司・狛山城守父子の名が記録にある。
系図上ではこの狛氏は嵯峨源氏の流れとなっているが、狛宿禰・高麗氏の流れだとの説もあり不明である。狛氏は狛野荘を本拠地とした。この辺りは興福寺の荘園であった。
・伊利須使主(伊利之)
別名:伊和須・伊理和須使主・伊利須?意弥
高句麗人。八坂造・日置造氏らの祖。(新撰姓氏録)
鳥井宿禰・栄井宿禰・吉井宿禰・日置倉人・島本氏らの祖。
656年高麗の調度副使として来朝(八坂神社社伝)
新羅の牛頭山に坐す素戔嗚尊を祀ったとある。
・安慧(794−868)
河内国大県郡出身、大狛氏、天台宗の僧。864年天台座主。
3)関係寺社
3−1)高麗寺跡(旧地名:京都府相楽郡山城町大字上狛小字高麗寺森の前)
現木津川市教育委員会による高麗寺跡第8次発掘調査現地説明会資料などによると
@1938年第T期調査。
A金堂・塔などの土壇・礎石発見。飛鳥寺に使われた瓦と同一瓦使用。法起寺式伽藍配置。
B1940年国史跡に指定。
C1984−1988年第U期調査。
D高麗寺は7世紀初め頃(610年頃)に創建された我が国最古の寺の一つ。
E白鳳期に整備され平安時代末頃(12世紀)まで存続。
F狛氏の氏寺。
G平成17ー18年第V期調査。
などである。
H一説では開基は高句麗僧「恵便」だともある。
3−2)高麗神社(埼玉県日高市大字新掘833)
祭神:高麗王若光(主)・猿田彦命・武内宿禰
別名:出世明神
由緒:武蔵国高麗郡の大領であった高句麗国から渡来してきた高麗王若光はこの神社のある地に住んでいた。郡民に慕われていたが、その没後遺骸を城外に葬り、神国の例に従い霊廟を御殿の後に建て、高麗明神と崇め郡中に凶事あればこれに祈る。
初めは若光だけを祀っていた。後になって後の2柱を合祀したと推定されている。
社家:代々若光の子孫が社家を務めた。神仏習合の修験道の寺にもなった。
高麗神社と称するようになったのは明治になってからである。
3−3)大狛神社(大阪府柏原市本堂388)旧:河内国大県郡巨麻郷
祭 神 : 大狛連祖神・大山咋神・木花開耶姫神
社格:式内社
由緒:大狛連氏は高句麗系渡来氏族で皮革染めの技術を持った集団
・許麻神社(八尾市久宝寺5丁目)旧: 河内国渋川郡巨麻郷
祭神: 高麗王霊神 牛頭天王 素盞鳴命 許麻大神
社格:式内社
歴史:現在の東大阪市若江から八尾市久宝寺にかけての一帯は古代、高句麗系渡来人が広く居住したところである。高麗人の祖を祀って許麻神社が造られた。
若江郡にも巨麻郷があった
3−4)法観寺(京都市東山区清水八坂上町388)
@山号:霊応山
A宗派:臨済宗建仁寺派
B別名:八坂の塔
C創建:寺伝:592年
D開基:寺伝:聖徳太子
E高麗系渡来人 八坂造氏の氏寺説有力。
F京都市内では最も古い寺の一つ。現在の五重塔は足利義教の時に再建されたもので重要文化財である。
3−5)八坂神社(京都市東山区祇園町北側625番地 )
祭神: 素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神・牛頭天王など
社格: 旧官幣大社、別表神社
創建: 社伝:656年
由緒:社伝によれば、656年高句麗より来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)が、新羅の牛頭山に祀られる素戔嗚尊(牛頭天王)を山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜った。876年に僧・円如が播磨国広峯の牛頭天王の分霊を遷し、その後、藤原基経が精舎を建立して観慶寺(別名 祇園寺)と称した。 934年に祇園感神院を建てた。などの伝承があるが創建については諸説ある。祭神は古くから牛頭天王であったことは確実である。延喜式神名帳には記されていない。当初は寺とみなされたようである。
祇園祭は、869年に各地で疫病が流行した際に神泉苑で行われた御霊会を起源とするもので、970年ごろから祇園社の祭礼として毎年行われるようになった。
3−6)鶴林寺(兵庫県加古川市加古川町北在家424 )
・刀田山鶴林寺
・創建:589年高句麗僧恵便が播磨国へ廃仏派から逃れて身を隠しておられたとき、聖徳太子がその教えを受けるために播磨国を訪れた。後に秦川勝に命じて3間四面の精舎を建立し「刀田山四天王聖霊院」と名付けられたのが始まりとされている。(鶴林寺縁起)
3−7)高麗聖天院(埼玉県日高市新掘:高麗神社の近く)
高麗僧「勝楽上人」が若光を弔うために高句麗から携えてきたとされる念持仏「聖天歓喜仏」を本尊にした寺を建立しようとしたが751年死去。この遺志を継ぎ上人の弟子である高麗王若光の3男「聖雲」が法相宗の高麗山聖天院(勝楽寺)を建立。勝楽上人を埋葬した。この境内に「若光」の墓地がある。
3−8)随願寺(増位寺)(姫路市白国5)
・増位山随願寺
・創建:聖徳太子の命により高麗僧・恵便が用明天皇時代(6世紀後半)に開山し、735年に行基が中興したもので、播磨六山の一つとして、姫路市内では最古の寺の一つ。
随願寺の寺伝のよれば、はじめは法相宗であったが834年(承和元年)に天台宗になった。平安時代に諸堂が整備されたが1573年別所長治に攻められ全山を焼失した。1585年に秀吉によって再興。本格的な再興は江戸時代に行われ、姫路城城主・榊原忠次が随願寺を菩提寺とし、再建、整備。薬師如来坐像・毘沙門天立像・千手観音立像は国指定重要文化財になっている。
4)高麗氏・狛氏関連系図
・高句麗王系図
三国史記記事に準じた公知系図一部筆者追加部分あり。
・高麗氏系図(背奈王系高麗朝臣系図)
公知系図
・高麗氏系図(高麗王若光系:高麗神社社家系図)
高麗神社発行「高麗神社と高麗郷」記載系譜に準拠して筆者が図示及び最近情報追加筆者創作系図
・狛氏系図(狛宿禰、南都方楽人系)
公知系図
・楽人狛氏別系図
太田亮「姓氏家系大辞典」記事参考筆者創作系図
・(参考)八坂造氏系図
八坂神社社家系図参考。
5)日本ー高句麗-高麗氏・狛氏関連年表
日本と高句麗(高麗)とに関係する記事を筆者判断で年表にしたものである。
青字は主に高句麗と日本との関係を示す記事。
赤字は日本の天皇の即位記事を示し、大凡の時代背景を示した。
6)主な高句麗系氏族一覧表
新撰姓氏録には番別氏族として多くの渡来系の氏族が記録されている。その中から高句麗出身と思われる氏族を抽出し諸情報をもとにその主な拠点を表にした。これ以外にも参考となる氏族名も一部追加した。筆者独自判断をしているので一部誤りがあるかもしれないことご容赦願いたい。青字で表記したのが本稿に取り上げた氏族である。
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7)高麗氏・狛氏関連系図解説・論考
古代朝鮮半島諸国と倭国(日本列島)との交流の歴史は有史以前から営々と続けられてきたものである。日本人のルーツは何処か?アマチュア古代史ファンには非常に魅力的な課題が未だ解明されないまま今日に至っていることは衆知のことである。
そこまで遡らなくても弥生文化は何処から日本列島に伝わってきたのか?についても、はっきりしないのが現状である。
筆者の住んでいる長岡京市でも多くの縄文式土器・弥生式土器が発掘されている。この地にも2,000年、3,000年前から多くの人々が暮らしていた痕跡が残されているのである。埋蔵文化財センターの先生方のお話では、2万年前までも遡れる人間の存在を推定可能な痕跡が見つかっている、とのことである。
日本列島で弥生時代を紀元前何年頃とするかの議論が再燃している。筆者はBC500年頃九州に上陸した、という最近の説を仮に採用して以後の話を進めたい。
7−1)高句麗王系図概説
紀元前後の日本列島周辺で最も文化の進んでいたのは、勿論中国である。古代朝鮮半島は絶えずこの中国の影響を強く受けていたことは間違いない史実であろう。
平安時代(1145年)に編纂された現存する古代朝鮮に関する最古の史書「三国史記」では非常に古い朝鮮半島の歴史も記録されているが、その記録の史実性については、日本の専門家・中国の歴史学者の間でも疑問視されている。本稿に関連する高句麗国関連でも日本の専門家は中国の古書に基づいた歴史認識であるし、朝鮮半島の歴史専門家は三国史記に基づいた歴史認識で議論が行われているのが現状である。
ここで本論とは直接関係ないが、中国の古代史を概観しておきたい。中国は4千年の歴史を有する国である。しかも漢字という文字記録を有する国である。ある程度の史実が記録で残されたことは間違いないとされている。我が国に弥生文化が入ってきたBC500年前後以降の中国はどんな歴史を歩み、我々アマチュア古代史ファンの基礎知識的範囲の人物にどんな人がいたかなどを紹介しておきたい。それぞれの時代の名称、年代は文献により一部異なる。
@春秋時代(BC770−BC468)
・孔子(BC552−BC479)「論語」儒教
A戦国時代(BC453−BC222)
・孟子(BC372−BC289)
B秦時代(BC221−BC207)
・始皇帝(BC259−BC210)初代皇帝
C前漢(BC206−AD23)
・劉邦(BC256−BC195)初代漢国皇帝
・項羽・張良
・司馬遷(BC145?−AD86?)「史書」:武帝までの中国2千数百年の歴史書
D後漢(AD25−208)
・光武帝:初代後漢皇帝 57年の金印「漢倭奴国王印」。
E三国時代(220−263)「三国志」を歴史家陳寿(233 - 297)が書いた時代。
・劉備(161−223):蜀国の初代皇帝
・関羽(?−219)
・諸葛孔明(?−234)
・魏国(220 - 265):邪馬台国卑弥呼が「親魏倭王印」をもらった。
F晋時代(263−316)
G南北朝時代(317−587)
・東晋(317−416)
・宋(420−477):倭五王時代
・斎(479−495)
・梁(502−556)
・陳(557−587)
H隋時代(589−618):遣隋使
I唐時代(618−907):遣唐使
・玄奘三蔵(602−664)
・玄宗皇帝(685−762)
・李白(701−762)
・杜甫(712−770)
・楊貴妃(719−756)
・白楽天(772−842)
さてここで本稿の「日本ー高句麗ー高麗氏・狛氏関連年表」に話を戻したい。
中国の前漢「武帝」が朝鮮半島に拠点を造ったのがBC108年となっている。所謂楽浪郡など4郡(楽浪・玄莵・臨屯・眞番)を設置したのである。これがその後の朝鮮半島の政治・文化に与えた影響は多大なものであった。ここで三国史記ではBC57年に新羅が建国し次いでBC37年に高句麗が建国し、BC18年に百済が建国したとなっている。この部分が中国の史書と三国史記と一番食い違いがあり現在も議論されているところである。
我が国史学者は中国の史書に基づき、高句麗の建国年は三国史記と一致するが、新羅・百済の建国年は数百年後の346年百済、356年新羅建国説を採用しているのである。
この食い違いの原因は、我々が中学校時代に習った「馬韓・弁韓・辰韓」時代、所謂三韓時代を三国史記は記していない(その存在を認めていない?)ことから起こっているとされている(既稿「百済氏考」参照)。筆者のようなアマチュアがこの議論に口出すことは控えたいが今後の解説に一部影響もあるので取りあえずは日本史学会の見解に従って346年百済建国、356年新羅建国説を採用したい。
歴代高句麗王の系譜は三国史記に詳しく記されているのでそれを参考にして列伝・系図を作成した。
@高句麗国の初代「朱蒙王」は扶余国の出身となっている。三国史記のいう百済王初代の「温祚王」とは兄弟ということになっている。これは百済と高句麗の王家は血脈が同じであることを伝承しているのである。北方騎馬民族出身である。首都は「卒本」で、現在の中国遼寧省本渓市桓仁だとされている。所謂満州である。BC37年建国の裏付け史料としてはBC32年に高句麗が後漢に朝貢してきた記事が中国古書に残されている。
A2代瑠璃明王の時本拠地が丸都城(現:吉林省集安市)に遷され、さらに3世紀に国内城(場所はほぼ同じ所)に遷ったとある。別説もあるようだ。
B6代太祖大王時代頃に倭国の北九州にあった奴国に漢の王から「金印」が贈られたことになる。
C10代山上王、11代東川王の時代(239年前後)に倭国の卑弥呼が魏国と楽浪郡を通じて交流があったことになる。東川王の時代に高句麗は平壌(現在の平壌ではない)に都を移したとされている。
D15代美川王の時代に400年以上続いた中国の朝鮮半島の拠点となっていた楽浪郡帯方郡などを高句麗が滅ぼした。(314年)
E372年17代小獣林王の頃、高句麗に仏教が伝えられた。国力は低下していた。
F19代広開土王(好太王)は391年に即位している。日本で一番有名な高句麗の王である。「高句麗好太王碑」が発見されたのは1880年のことである。1884年には日本軍の軍人がその碑に記されてある1802文字の拓本を採取したのである。(酒匂拓本)
この碑には4世紀末から5世紀初めの朝鮮半島・倭国の関係がかなり詳しく記されていたのである。
日本には古来「記紀」以外に、この時代のことを知る史料としては、石上神社にある百済からの献物とされる「七支刀」銘文しか文字記録が残されていなかったのである。日本書紀には本稿年表に筆者が調査した範囲でも朝鮮半島と倭国の交流記事がかなり多く残されていることが分かる。仲哀紀・神功摂政紀に集中的に倭国が朝鮮半島に軍を派遣した記事がある。これと高句麗好太王碑の碑文の内容がある面で一致すると解されて、この碑文が1884年当時の軍国主義的朝鮮半島支配、満州支配の裏付け的意味合いに利用したとされているのである。
戦後この問題が脚光を浴びた。その一つが前述の酒匂拓本は改竄・捏造されたものである。いや拓本ではなく碑文そのものが日本の領土になった時に改竄されたものである、などの諸説が出された。また一方では記紀批判の一環として、仲哀紀・神功摂政紀などは全く史実ではないので伝承記事としても参考にするべきではない、これらの朝鮮半島関係の記事は倭国の朝鮮半島諸国への優位性誇示、大王家の威力誇示、日本書紀に携わった百済出身の帰化人らの日本への媚びへつらいが見え見えである、8世紀の日本を取り巻く国際情勢の中で歴史的に日本の優位性をPRしたもので史実とは全く異なる記事である。などの論評が国内の史学者の間でも多数出されてきた経過がある。その意味でもこの高句麗好太王碑の位置づけは非常に重要視されたのである。
2005年になって上記酒匂拓本は改竄も捏造もされてないことが中国側の史料により証明されたのである。(但し、碑文改竄・捏造説の中心人物である日本在住の朝鮮史の学者の季 進熙氏は、その後も上記中国側の証明を承認していない。)
残る問題は書かれてある碑文の内容解釈である。これに関しては朝鮮半島の歴史学者と我が国の歴史学者、中国の歴史学者の間で未だ論争が続いているようだが、問題の箇所の現
在の日本・中国の学者らの通説的解釈は前述したように「ーーーそもそも新羅・百済は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が391年に海を渡り百済・任那・新羅を破り、臣民となした。ーーー」である。その後に好太王の活躍記事が記されているのである。即ち400年には、王は5万の大軍を新羅に送り倭国軍を破り、404年には海上で倭と戦ったとある。この碑は好太王の子供で20代長寿王が、414年に建立したとされている。現在この碑及びこの近くにある将軍塚・大王陵も含めて世界遺産に指定され現:中華民国吉林省集安市に大切に保存されている。日本と朝鮮半島、高句麗との交流の一級史料であることに間違いないのである。
さて、この碑文が総て史実であるとするには問題があろうが、少なくとも391年以前から倭国が海を渡って朝鮮半島に軍を送っていたことは史実らしいと筆者は推定出来る。
問題は、この倭国が4世紀前後に大和の地で誕生した所謂大和王権のことかどうかである。一説ではこれぞ「九州王朝」が存在していた証拠であるともされている。筆者は九州王朝説なるものを全く理解していないので上記説にはコメントは出来ない。
日本書紀には、仲哀紀から神功皇后摂政紀付近に集中的に半島への出兵記事がある。これを総て上記のように史実にあらずと捨て去っていいのであろうか。日本史学会は未だこの辺りの日本書紀記事を西暦表示が出来ないでいる。謎はかなり解けてきている。400年前後のものと思われる超大型の大王墓と推定される古墳も幾つか見つかっている。朝鮮半島から多くの渡来人が来るのも、この後くらいからである。秦氏・東漢氏などもその例である。
高麗人の表記で日本書紀に初登場するのは応神紀7年記事である。これが好太王の時代とどのように対応するのか判然としない。筆者はこれは400年以降のことと判断している。
高句麗の国力はこの好太王・長寿王時代が最盛期であり427年に首都を平壌に遷した。
Eところが5世紀末21代文咎王時代になると配下であった新羅の力が増し、高句麗は逆に百済に接近した。日本書紀では517年に高麗使「安定」が来朝したとある。これが高句麗が日本に使いを出した初記事とされているが、それ以前にも日本書紀では高句麗から倭国に友好的な使節が来た記事がある(応神紀28,仁徳紀12、仁徳紀58など)。565年25代平原王の時、高麗人が筑紫に来たと日本書紀にある。同王の570年には高句麗の使人が越国に漂着ともある。以上からみると、高句麗は5世紀末頃から明らかにそれまでの方針を変更し、百済・倭と親交を深める関係の構築に力を入れたことが窺われる。これは新羅及び中国情勢の変化に対応せざるをえなくなったと考えられる。これ以降も25代・26代・27代各王とも日本に僧を中心に多くの技術者などを送り込んできたことは間違いない。日本も彼等を歓迎しその先進的な文化の吸収に国を挙げて取り組んだ形跡が多く残されている。
589年隋が建国し中国を統一した。高句麗はこれに対抗した。そして618年27代栄留王の時、隋は滅んだ。次ぎの唐からも侵略を受けることになった。また新羅とも戦い敗戦が続いた。642年に臣下の「淵蓋蘇文」のクーデターにより27代栄留王は殺された。傀儡政権である28代宝蔵王が擁立された。そして660年には新羅・唐連合軍に百済が滅亡し、同年高句麗の首都平壌が唐軍によって陥落したのである。668年遂に唐の「高宗」に高句麗国は滅ぼされ約700年間も続いた王朝は滅亡したのである。
7−2)高麗氏系図解説
渡来系の古代豪族は沢山あり、歴史上有名な人物も沢山輩出してきた。しかし、高句麗出身の渡来人で歴史上有名な人物、氏族は知られていない。だからといって実在しなかった訳ではない。その代表的氏族が高麗氏である。
一般的に高麗氏系図を述べる場合、高句麗広開土王系延興王の累孫であるといわれている「背奈福徳」を祖とする高麗王族出身の高麗朝臣系系図と、「高麗王若光」を祖とする高麗神社社家系図の2種が存在する。それぞれを分けて解説したい。
7−2−1)高麗朝臣系図解説
@新撰姓氏録には多くの高麗系の氏族が記録されている(高句麗系渡来人一覧表参照)。その幾つかは高句麗王族の出自が記録されている。しかし、実際に王族出身だと推定されるのはこの高麗朝臣氏くらいだとされている。
A系図に登場する延興王(延典王と表記したものもある)という人物は筆者の調査では確認出来なかった。
B日本での初代「背奈福徳」という人物は、孫に相当する「背奈福信」に関する続日本紀の薨伝に記されているだけで、他にその実在を証明する資料はないらしい。
それによると、660年に高句麗の首都平壌が唐の侵略により陥落した時に日本に亡命したとある。高句麗が滅亡するのは668年であるからその滅亡前に日本に来たことになる。その後「背奈公」の姓を賜り、武蔵国の豪族となっているが、武蔵国に高麗郡が新設されるのは716年のことである。それ以前に関東地方に入っていたのかどうかは不明である。
背奈氏が初めに賜ったとされる「公姓」は一般的には氏姓制のもとでは皇族の末裔氏族に与えられた姓とされている。即ち高貴な姓であるとされている。ちなみに高句麗出身とされる多くの氏族で公姓を与えられたのは背奈氏だけである。さらに後に与えられる朝臣姓も背奈氏の流れにだけ与えられていることは高句麗出身渡来人の中でもナンバーワン的高貴な血筋の一族と朝廷が認めていたことが推定される。
さて、福徳の息子であり45聖武天皇の功臣である「背奈公行文」が武蔵国高麗郡の人と記録に残されているので福徳が高麗郡に縁があったことは推定出来るが、716年まで生存していたか謎である。
C福徳のもう一人の子供の「福光」についての事績は不明である。
D福光の息子である「背奈公福信」は公卿になった人物である。続日本紀などに事績は詳しく記されている。若い時に高麗郡から伯父行文に連れられて上京したとある。
以上から背奈公が少なくとも福徳の子供の時代からは武蔵国高麗郡を本拠地としていたことは確認出来る。
747年に背奈公一族は背奈王(せなこにきし)姓を賜った。続いて750年には高麗朝臣姓を賜った。渡来人として朝臣姓を賜ることは異例である。一体どのような功績があったのであろうか。これがよく分からないのである。45聖武天皇に重用されたとはある。
伯父行文の息子大山が761年に遣渤海使に任命され、その子供殿継が777年にやはり遣渤海使に任命されていることなどから類推して、福信が当時の北朝鮮諸国との外交に深く関係し他に代え難い人物となっていたのかも知れない。
756年には武蔵守となり758年には武蔵国に新羅郡を設置している。
765年には従三位造宮卿兼武蔵守となり779年には、一族は高倉朝臣姓を賜ったのである。聖武天皇から49光仁天皇・50桓武天皇初期まで朝廷で活躍した人物である。
ここで参考までに渡来人出身で従三位以上の位に就いた人物を紹介したい。
・百済王南典(666−758)
・百済王敬福(698−766)黄金の発見献上。非参議。
・坂上苅田麻呂(727−786)坂上田村麻呂の父
・和 家麻呂 ( 734ー804) 中納言
・菅野真道(741−814)参議
・坂上田村麻呂(758−811)正三位大納言
以上6名だけである。
百済王南典以外は特上の有名人ばかりである。
これら有名人と並んで高麗朝臣福信(709−789)が公卿として列せられたのである。
渡来人優遇策が採られていた時代背景を考慮しても異例のことと思わざるをえない。
E福信の子供である高倉石麻呂は789年美作介に任じられたという記録しかない。
この流れのこれ以降の人物の事績は不明である。
しかし、後述する高麗神社社家系図に登場する人物と本系図に登場する人物が多数重複されているように思える。これは無視できないことである。これに関しては高麗若光系高麗氏のところで併せて考察したい。(高麗神社社家系図参照)
7−2−2)高麗王若光系系図(高麗神社社家系図)
上記高麗朝臣系系図とは別に現在埼玉県日高市に現存する「高麗神社」に営々と残されてきた高麗神社社家系図なるものが公知にされている。現存するものは1259年に高麗神社が火災に遇い、それまで存在していた歴代系図が焼失したので高麗一族が集まって系図を再編したものであると明記されている。筆者が主に参考にしたのは平成14年(初版は昭和6年)に高麗神社が発行した「高麗神社と高麗郷」という本である。これ以外にも高麗神社発行の関連パンフレットなども参考にさせてもらった。
@人物列伝に示したように初代高麗若光という人物が高句麗のどの王族からの出自なのかは全く不明である。日本書紀に記事がある玄武若光という人物と同一人物であるという説もあるようだが特定出来る史料はない。しかし、703年の続日本紀の記事により高麗若光が実在したことは間違いない。しかも王(こにきし)姓を賜っている。これは異例のことと言わねばならない。この時代までに王族かどうか朝廷も確かめられない人物に王(こにきし)姓が授けられた例はない。筆者の知る限りでは百済王氏・背奈王氏・高麗王氏しかいないのであるから。その中で高麗王氏だけがその祖であるはずの高句麗の王族の名前が伝わっていないのである。これはどうしたことであろうか。
高麗神社伝承:「若光の故国を去って我が国に投化するや一路東海を指し遠江灘より更に東して伊豆の海を過ぎ、相模湾に入って大磯に上陸した。邸宅を化粧坂から花水橋に至る大磯村高麗の地に営んだ。そこに留まり住んだが間もなく朝廷より従五位下に叙せられた。次いで703年王姓を賜った。14年後の716年に7国在住の高句麗人に対して武蔵野の一部を賜る詔が降りた。同時に若光は高麗郡の大領(郡長)に任じられたので大磯を去って高麗郡に赴いたが、その後も大磯の国人等はその徳を慕い「高来神社」を造って高麗王の霊を祀った。ーーー高麗郡に着くや居を今社殿のあるところ(現:日高市大字新掘字大宮)に卜して、全郡を統べられたが、その後某年某月高麗に逝った。首長高麗王の訃を聞き伝えた高麗郡民は、貴賤老若悉く来たってその卒去を悲しみ、泣いて尊骸を葬り又霊廟を建てて高麗明神と崇めた事は、高麗系図に詳かである。(一部省略:「高麗神社と高麗郷」より引用)」
これをどう評価するかである。
A続日本紀には716年に武蔵国に高麗郡設置、東国七国に住む高句麗人1799人をそこに移したとある。高麗神社伝承ではさらにこの新設の武蔵国高麗郡の大領に高麗王若光が任命されたとなっている。そして高麗郡の開拓をして皆から尊敬され没した後は白髭明神・高麗明神として祀られたとある。そして現在までこの若光を祭神とする高麗神社の社家の祖とされてきたのである。現在の高麗神社伝承記事では若光の没年は記されていない。
しかし、1830年発行の新編武蔵風土記稿では高麗大宮社伝所引として748年没と記されている。また一説では730年没ともある。
公的記録に高麗王若光の名前が登場するのは上記続日本紀の703年の記事だけである。
また新撰姓氏録にも高麗王氏の記録は無いのである。
B若光の子供は二人いるが、いずれも高麗王姓では無く、一人は後を継いだ高麗家重でありもう一人は僧聖雲である。聖雲については父の遺体を埋葬したとされる高麗山聖天院(勝楽寺)を建立したとされる。家重については系図では没年が748年と記されている以外事績が記されていない。伝承ではこの人物が高麗明神を創建したとの説がある。
C4代目の清仁以降は総てその母親と父親が系図に明記されている。その母親達は23代の宗純まで総て高句麗出身氏族の娘であったことが記されている。
D13代一豊の時に高麗社は高麗大宮明神号が認められ、神主は高麗大宮司と名乗ることになった。19代純丸まで大宮司と称された。(これ以降の代数表示は筆者人物列伝に従うものとする。高麗神社表示の代数表示とは異なる)
E純丸の子供純秀の時、縁あって修験道の道に入った。名前も「麗純」と改め、高麗寺とも称するようになった。通称は大宮寺となった。以来明治になり神仏分離が行われ高麗神社と称するまで修験道の寺院として高麗明神と大宮寺は一体のものだったようである。
F24代の豊純の時に妻を初めて高麗系と異なる源氏の縁者だとされる者の娘を娶った。近年の調査ではっきりしたのがこの人物は源頼朝の異母兄弟である源全成の息子であることが分かった。これにより高麗神社社家は鎌倉御家人となった。この豊純の子供永純の時1259年にそれまでの高麗氏の系図が焼失したとされているのである。
G豊純以降武士としての側面を持つことになり、遂に29代行高の時に戦に敗れ所領没収一族廃絶の危機に見舞われた。この時豊純は臨終に際し「我が家は修験であるから今後戦に参加してはならい」と遺言し、それ以降高麗氏は明治になるまで不戦の誓いを護ってきたと伝えられている。
Hこの一族は現在も高麗神社社家として営々と裔を繋いできている非常に珍しい一族である。
7−2−3)高麗朝臣氏・高麗王氏論考
高句麗出身の渡来人は前述してきたように668年の高句麗滅亡より遙かに以前から色々な形で色々な文化・技術を持って我が国に渡来してきたことが分かる。その中で高句麗の王族出身と推定される高麗朝臣氏と高麗王氏について考察をしてみたい。先ずこの2氏に関連する日本書紀・続日本紀などの公的記事が残されているものを纏めた。
660年:背奈福徳が日本に亡命(続日本紀)
666年:高句麗使節「二位 玄武若光」来日(紀)
668年:高句麗滅亡。
685年:大唐人・百済人・高麗人、計147人に爵位を授けた(紀)
703年:従五位下「高麗若光」高麗王姓を賜る(続日本紀)
709年:高麗福信が産まれる。(続紀)
716年:武蔵国高麗郡新設(続日本紀)
738年:武蔵国高麗郡出身の背奈公福信外従五位下。(続日本紀)
747年:背奈公福信らが背奈王姓を賜る。(続日本紀)
750年:背奈王福信らが高麗朝臣姓を賜る。(続日本紀)
756年:高麗福信が武蔵守に任命される。(続紀)
779年:高麗朝臣福信らが高倉朝臣姓を賜る。(続日本紀)
789年:高麗福信没(続紀)
<高麗神社伝承>
716年:武蔵国高麗郡新設に伴い大領として若光が任命され相模国大磯から赴任。
730年?(748年?):若光没?
???:家重が若光を祀る高麗社を創建。
748年:若光の長男家重没。
760年:若光の孫高麗弘仁没。
797年:若光の曾孫清仁没。
この2つの年表及び関連系図、諸情報から次ぎのようなことが推測される。
@背奈公福徳・玄武若光・高麗王若光らは高句麗国滅亡前後に日本列島に渡来した人物である。それぞれの日本列島に来た時の年齢は不明であるが、ほぼ同世代の人物で共に高句麗では高貴な氏族の出身だと思われる。王族だった可能性は充分ある。
A玄武若光と高麗王若光が同一人物かどうかは謎である。
B前述の高麗神社伝承:「若光の故国を去って我が国に投化するや一路東海を指し遠江灘より更に東して伊豆の海を過ぎ、相模湾に入って大磯に上陸した。邸宅を化粧坂から花水橋に至る大磯村高麗の地に営んだ。そこに留まり住んだが間もなく朝廷より従五位下に叙せられた。次いで703年王姓を賜った。ーーー」の文意からすれば、筆者は玄武若光と高麗王若光は別人だと推定する。理由は666年の高句麗の正式使節が相模国大磯に帰化後直行するとは思えないし、未だこの時は高句麗は滅んでいないので、「若光の故国を去って我が国に投化するやーーー」という表現も不適当。
次ぎに高麗王若光は「そこに留まり住んだが間もなく朝廷より従五位下に叙せられたーー」となっている。これは凄い事である。貴族の位を授与されたのである。これは続日本紀に703年の記事として「従五位下であった高麗若光に王姓を賜った」という記事と付合するものである。即ち従五位下になった時と王姓を賜った時が違うということである。高麗神社伝承は史実を伝えているものと推定する。筆者はこの時期を685年と703年の間だと推定する。となると高麗若光が日本へ亡命してきたのは早くて685年と推定せざるをえない。高句麗滅亡後10年以上経ってからである。何か釈然としないものを感じるが一応ここではそうしておくことにする。
C一方背奈氏の方はどうであろうか。これは背奈福信の関係でしか資料がない。福信は渡来人としては異例の公卿にまでなった人物である。その薨伝の中に祖父福徳のことが記されてある。福徳は660年に日本に帰化し武蔵国に住んだとある。息子の行文・孫の福信ともに続日本紀には武蔵国高麗郡の人となっている。高麗郡が新設されたのは716年である。福信が産まれたのは709年である。伯父行文が産まれたのは仮に689年(福信の父はどうも行文の弟だったようである)だったとするとその父福徳が日本に来てからの子供であると推定出来る。福徳が何歳の時渡来したかは不明だが仮に25才だったとすると行文は54才頃の子供ということになる。716年の高麗郡新設に伴い背奈氏もここに移動したと思われる。716年での年齢を推定すると、
背奈福徳:80才前後 背奈行文:28才前後 背奈福信:8才と推定される。
D高麗若光の渡来年をBで685年と推定仮定した。この時の年齢は従五位下に叙せられたことを考慮に入れると35才と仮定する。(650年生まれ)
716年高麗郡大領に任命された時66才前後と推定される。高麗神社伝承でも高麗郡に来たときは既に高齢であったと記されている。問題はその没年である。730年説、748年説色々あるが、730年説の場合80才、748年説の場合98才である。白髭明神とも呼ばれて祀られたので相当高齢で亡くなったことは予想出来るが、748年説は無理だと推定する。現在の高麗神社系図にはここらあたりのことは記されていないが、以前の系図、伝承には記されてあったものと推測される。
E新編武蔵風土記稿や太田 亮などは高麗若光と背奈福徳が同一人物視しているように筆者は解したが、以上推定年齢などからこれは一寸無理だと判断せざるをえない。
理由は背奈福徳の場合高麗郡設置の時80才前後で果たして生存していたかどうかも不明である。高麗王若光は716年時66才と筆者推定年齢だがもっと若かった可能性は高い。よってこの二人は同一人物ではありえないのである。
筆者は神社伝承は非常に重要なものと考えている。これを軽々に扱うべきではない。
勿論中には荒唐無稽なもの、全く不合理なもの、時代の波の中で色々抽象化されて何を意味するのかさえも分からないものもあることは事実である。しかし、その多くは何らかの史実事象を後の世に言い伝えたものであると考える。
この高麗神社伝承のように自分らの祖先、それも神世でない現実世界の祖先伝承を間違えたり、意図的に他の人物に置き換えるなんて非常識だと判断する。
F背奈氏・高麗王氏が高麗郡に入植した時は若光が高句麗王族としての実力ナンバーワン的存在であったことは予測出来る。しかし、その後背奈氏は中央に出て活躍することになる。このことから王族としての血脈的上位だったのはむしろ背奈氏だったとも思える。そして747年(この頃には高麗王若光は没している?)背奈王姓を賜りさらに750年には高麗朝臣姓となり、高麗の名跡を継いだ形となっている。一方高麗王氏の2代目家重は単なる高麗だけで王姓を付していないのである。朝廷としては高句麗国の王族として遇する氏族を高麗王氏は、高麗王若光一代限りとし、次ぎは背奈公氏を背奈王氏とし、さらに高麗朝臣氏としたと解するのが妥当だと判断する。
その背景には朝廷から見れば高麗王氏も背奈公氏も共に高句麗の王族で血族である。
中央から見れば同じであり、福信の流れを高麗氏として中央貴族の仲間入れをして遇することにして、家重以降の高麗社を継いだ一族は一地方豪族で貴族としては遇さなくなった。と解すればいいのではないか。
Gさて問題は2つの系図問題である。高麗氏系図(背奈王系高麗朝臣系図)これが一般公知系図である(姓氏類別大観参考)。但し、本当の出典は筆者は知らない。もう一つの系図は高麗氏系図(高麗王若光系高麗神社社家系図)で、これも今は公知になっているが高麗神社発行の「高麗神社と高麗郷」という冊子を参考にして筆者が作成したものである。本稿の系図を参考にすると、背奈氏系で福信と麗純の間の平均一代は約31才である。高麗王氏系の家重と麗純の間の平均一代は約23才である。但し麗純の生没年は高麗神社系図記事を参考にした。これから言えることは両系図ともとんでもない不合理はない。強いて言えば背奈系図は数代少なく高麗王系図は数代多過ぎる観があるだけである。
ところでこの両系図は異なる様で実は非常に似ているのである。筆者が青字で示した人物は両方の系図に登場する人物である。偶然の一致にしては人数が多いし、前後の関係が余りに似すぎているのである。この両系図とも猶子・養子の関係が全く記述がない。一般的には一夫一婦制ではこれだけの代数男子が産まれ続けることは不可能である。どこかで猶子・養子で繋げていくものである。クールに見ると高麗神社系図は出来すぎているのである。高麗神社系図に母親として登場する色々な氏族名は少なくとも麗純あたりまでは高句麗出身の渡来人氏族の娘であることは系図に記されている。ところが背奈系図では新井氏
吉川氏、井上氏、新氏、勝氏などと背奈氏からの派生氏族名が記されている。これらの氏族は総て高麗神社系図では親族として掲載されているのである。
以上から判断すると背奈氏と高麗王氏は非常に近い血族であることが窺われる。即ち同族であるといえる。よって高麗神社社家を同族の女、男共にやったりとったりしながら血脈を絶やすことなく嗣いできたことをこの両系図は示しているものと判断する。その中の核となる王族がこの2氏でそれ以外にその王族を護った一族も加わって高麗郡の中でリーダー的高麗氏族を形成していたことが窺える。よってもっと詳細な系図が存在していたらこの2つの系図は一枚の系図になると判断する。
高麗神社系図は1259年に一度焼失している。この時一族集まって古い記録を付き合わせて再編したのが現存系図の基になったものである。この時に何等かの整理統合がされたものと推定する。
H筆者はこの2通りの高句麗王族一族を纏めて「高麗氏」と称しても良いと思っている。高麗神社系図には、背奈氏についての言及がされていないのも事実である。あくまで祖「高麗王若光」の末裔であることを強く主張しているのである。しかし、実態は上述したようなことではないかと判断する。
I栄光あった自分らの祖国高句麗が滅び 、異国日本の地で頑なにその民族、血脈の誇りと文化を護り、営々と逞しくその子孫を拡大してきた高麗氏の生き様は凄いものであったであろうことを我々は知ることが出来るのである。
J高麗氏に関しては中世に武蔵七党、秩父氏の系図にも登場するが本稿ではその部分は省略する。また相模国高倉郡・同高麗寺・高来神社など関連事項があるが、これらも省略する。
7−3)狛氏系図解説
日本書記では高麗人が日本列島に来た記事として、応神紀7年の記事が最も古いと筆者は思っている(本稿日本ー高句麗ー高麗氏・狛氏関連年表参照)。5世紀前後のことと思われるが、以後次々と渡来記事が載せられている。これが史実かどうかは判然としない。一方新撰姓氏録には多数の高句麗渡来人出自の豪族が載せられている(本稿高句麗系渡来人表参照)。
これらの中で668年の高句麗滅亡前後に日本に渡来した氏族の代表的氏族として前述の高麗氏を解説した。一方この高句麗滅亡以前に日本に渡来した高麗人も多数いたことが知られている。筆者は上記表で氏族毎にこれを分類出来ないが、その本拠地が関西地区、狭く言えば山背国、河内国、大和国、摂津国などにある氏族の多くはこの分類に入るものと判断している。その代表例が狛氏である。氏族の名前に「狛」が付いている例を挙げると、狛首氏・狛造氏・狛人氏・狛染部氏・大狛造氏・大狛連氏などがある。さらにそれから派生した氏族としては古衆連氏・直道宿禰氏・長背連氏などがいる。本稿ではこの中の新撰姓氏録では山城国諸蕃に分類されている狛造氏に的を絞って解説したい。
参考までに新撰姓氏録で山城国諸蕃に分類されたり本拠地が山背国である高句麗系渡来人の主な氏族を紹介する。
出水連氏(相楽郡)・黄文連氏(久世郡)・後部氏・狛造氏(相楽郡)・田村臣氏(葛野郡)
長背連氏(相楽郡)・福當連氏(相楽郡)・八坂造氏(愛宕郡)などである。
山背国でも特に相楽郡に高句麗系渡来人が多いことが分かる。その中でも重要な氏族が狛氏である。
旧京都府相楽郡内には現在も「狛」「高麗」の字が付く地名が多く残されている。
狛(精華町狛)・上狛(山城町上狛)・下狛(精華町下狛)・狛田(旧狛田村)・大狛(旧相楽郡大狛村)・狛山・狛野荘および旧相楽郡高麗村(山城町)高麗寺(山城町高麗寺)などである。
高麗人と山背国相楽郡に関しては日本書紀にも関連記事が幾つか残されている。
(517年:高麗使「安定」が来朝して好を結ぶ。)
565年:高麗人が筑紫に来て、山背国に配された。畝原、奈羅、山村の高麗人の祖。
570年:高句麗使人が越国に漂着。山背国相楽郡に相楽館を建ててこれを迎えた。
681年:山背狛烏賊麻呂ら14人に連姓を賜った。
などである。
さらに現在の相楽郡山城町上狛に高麗寺跡という国史跡がある。何度か発掘調査が行われた結果610年頃創建された我が国最古の寺(最古の寺「法興寺」は596−605年頃とされている)の一つだとされ狛氏の氏寺だと推定された。平安時代末頃まで存続していたと推定。
以上からこの旧山背国相楽郡には668年の高句麗国滅亡のかなり以前から高麗人が住み着いていたことが明確である。種々の高麗氏族がいたであろうことは容易に推定出来るが
そのリーダー的存在が狛造氏(後になり狛宿禰氏となる)である。本稿ではこれを「狛氏」と称することにする。
@ 狛氏としては、南都方楽人家系図というものが伝わっている。これを中心として太田亮著「姓氏家系大辞典」記載の楽人狛氏「上家」系図を参考に解説したい。
A狛造氏系図では高句麗の22代国王安蔵王(在位519−531)がその出自となっている。その孫夫連王が狛造氏の新撰姓氏録上の出自である。大狛氏はその父福貴王が出自であるから狛造氏と大狛氏は近しい親族ということになる。
B日本書紀に登場するのは狛烏賊麻呂である。681年の記事にである。この時何歳であったか定かではない。565年日本書紀の記事に記されている高麗人にこの狛氏の祖先が含まれていたかどうかは不明である。安蔵王出自説が正しいならその可能性は無きにしもあらずである。仮に夫連王が565年に20才で渡来したと仮定すると、産まれは約545くらいである。父親は更に20年繰り上げて525年頃の産まれとなり、安蔵王の在位中の産まれとなる。さらに565年の20才の時に子供加武良が日本で生まれたとすると585年には狛烏賊麻呂が産まれる可能性がある。681年の日本書紀の記事は年齢的に無理。
しかしこの仮定は最短年齢で次世代計算をしているので681年記事の合理性は充分ある訳である。即ち狛氏の565年来日は可能ということである。この系図の信憑性がどのくらいあるかは別。
C次ぎに本稿に示した2種の系図について概略検証する。仮定1:狛烏賊麻呂の誕生年を631年とする。(681年に50才と仮定)仮定2:滋井と国叶は別人とする。
狛 光高の誕生年は995年である。
このことから一般狛系図と楽人狛氏「上家」系図を比較すると前者は約36才/一代となり後者は約27才/一代となり後者の方が現実性の高い系図と判断出来る。よって本稿の人物列伝は、狛烏賊麻呂を初代とし、国叶以降は上家系図に従った。
但し、後者系図は「上家」のみの系図なので楽人狛氏系図としては前者の方が分かりやすいので筆者は両者を併用して解説する。
D誰の時代から楽人として活躍し始めたかは不明だが7代好行の系譜には舞師の首と記されてありその片鱗が窺える。白河天皇時代(在位:1073−1087)とか好行の生没年は全く合理的でない。
E10代目衆行の記事に雅楽狛師とある。この時始めて興福寺に置くとある。筆者推定では9世紀末頃の人物である。この頃狛氏の本拠地山城国相楽郡辺りが興福寺の寺領になったかどうかは不明である。平安時代末頃には興福寺寺領になった可能性はある。後に狛野荘と呼ばれる興福寺の荘園がこの辺り一帯にあったことは史実である。
F日本の雅楽の年表を前述したがこれによると、592年頃に四天王寺で秦氏の楽人が誕生したとある。(秦氏考参照)これが記録に残る雅楽の楽人の初めであろう。
684年記事に高麗の楽人が大極殿の前で舞等を奏したとある。これに「狛烏賊麻呂」が関与したかどうかは不明である。701年には治部省に雅楽寮が設置されている。731年には雅楽寮で高麗舞などの歌舞を習う人の人数を定めたとある。1001年狛光高が一条天皇より左方舞奉行を命じられた。南都楽所の楽祖となった。と系譜に残されている。1097年記事に春日大社で舞楽が奏され、その楽人に京都楽人と南都官人という名称が初出する。これ以降は間違いなく狛楽人一族が雅楽などに関与したと思われる。筆者はこれ以前からも上記雅楽の歴史に狛氏が関与してきたものと推定している。
14代の光高の生没年だけは史実のようである。そしてこの人物が南都楽所の楽祖と一般的に言われている。一条天皇(在位:986−1011)の時代である。この記事は光高の生没年と付合する。ところがこの人物は高麗人に非ず、小野氏で山城狛に住んでいたので狛姓とした、という説もあるらしい。
G16代光季が南都楽所の上家の祖とされている。
H狛氏の本流である上家といえどもこれ以降も多くの猶子・養子で名跡を護っていることがよく分かる。
I上家より多くの楽家が派生している。(系図参照)。
日本には雅楽・舞などの古典芸能が宮内庁式部職楽部を中心に残されている。江戸時代に制度化された三方楽所(さんぽうがくそ)がその基本である。南都方(興福寺)の楽家は上、辻、東、奥、窪、久保、芝が狛氏系でそれ以外に中、喜多、乾、西京、井上、新らが大神氏系で藤井、後藤が玉手氏系として現在まで続いている。楽所としては現在あるのは秦氏系を中心とした天王寺方(四天王寺)、多氏らの京都方(宮廷)が残されている。
J20代近真・22代朝葛らの雅楽分野での活躍は有名。
Kいずれにせよ山背国相楽郡上狛郷辺りに勢力をもった狛氏は興福寺というパトロンを得て雅楽・高麗舞などの分野で世襲的陣地を築きその名跡を今日まで繋いでいるのである。山城国相楽郡の狛氏も色々分派しどの氏族が本流かは今となっては全く分からないが、本稿で取り上げた楽人家狛氏こそ、血脈こそ複雑であるが、高句麗の誇りと文化を護った一族であることは間違いないであろう。
7−4)参考系図「八坂造氏系図」解説
本稿に参考系図として高句麗系渡来人八坂氏系図を八坂神社に伝わっているものを掲載した。筆者が若干理解し易いように加筆しているが、基本的には同じである。
この系図から言えることは
@新撰姓氏録に記されている八坂造氏の祖とされる「伊利須使主」の位置づけがはっきりすることである。高句麗系とされる日置造氏もこの流れであることが良く分かる。
A京都の祇園祭で有名な八坂神社は、旧山背国愛宕郡八坂郷にあり、社伝では656年に高麗の調度副使伊利之使主が来朝にあたり、新羅の牛頭山に坐す素戔嗚尊を祀ったことに始まるとある。(異説多い) (八坂郷鎮座大神記)
B一方八坂神社の隣に現在もある法観寺(八坂の塔)の寺伝では、592年(異説:589年)聖徳太子によって創建となっているが、八坂造氏が氏寺として創建したというのが有力。発掘調査では白鳳期(7世紀後半)と推定されている。これだと八坂神社伝の八坂造氏祖の渡来時期とほぼ一致する。
C以上の八坂造氏に関連する寺社の伝承の史実性をどう判断するかは意見の分かれるところであろうが、どうも八坂氏も668年の高句麗滅亡前に渡来した高麗人ではあろうと推定出来る。八坂氏と上記狛氏がどのような関係にあったのかは不明である。
この八坂氏の末裔が11世紀末頃に貴族紀氏の娘と婚姻した関係で祇園社の執行に任じられ以後中世に比叡山の支配に入るまで世襲したと伝えられている。(詳細系図は省略した)
7−5)高麗氏・狛氏関連総合論考
新撰姓氏録に収録された氏族数は、1182氏である。これは平安時代初期に畿内に存在していた古代豪族である。これを分類すると、皇別氏族:335氏、神別氏族:404氏蕃別氏族:326氏、未定雑姓氏族:117氏である。
この中で朝鮮半島系であることが明確なのは193氏であるとし百済系:118氏、高句麗系:48氏、新羅系:17氏 伽耶(任那)系:10氏という数字を挙げている説もある。これはその出自をどのように判断するかにもよる数字なので参考程度である。例えば秦氏を新羅系にするのか、中国系にするのかでも意見は分かれる。筆者が調査した範囲では高句麗系は42氏前後であった。
以前にも述べたことであるが、この数字は所謂当時の庶民のレベルの氏族数ではないのである。当時の支配者階級の出自別分類なのである。
蕃別氏族とは渡来系の氏族のことである。しかも中国系といえどもその多くは朝鮮半島経由で我が国に渡来したことを考慮に入れると、新撰姓氏録記載の豪族(日本の支配者階級)の約1/3は朝鮮半島系の渡来人だったとも言えるのである。
彼等は当時としては先端的文化・技術・工芸・芸能・医術・農業といった国民生活に欠かせぬ分野の伝達者として日本に渡来した者達の末裔達だったのである。
今回本稿で取り上げたのは高句麗出身の渡来人の代表2氏であるが、日本史の上では非常にマイナーな存在だったと言える。
筆者のように戦後教育を受けた者は幸か不幸か朝鮮半島・満州・中国の地理・歴史に非常に疎い。ざっくばらんに言えば何も知らないと言っても過言ではない。日本列島に一番近い隣国についてである。ましてや、高句麗国が古代朝鮮半島に約700年間も存在し、我が日本列島にも多大の影響を与え、交流の歴史があったなんてことは大多数の現在の日本人は知らないのである。エジプト文明・ギリシャ文明・ローマ帝国・ゲルマン・ナポレオン・アメリカ大陸の発見・コロンブス・マゼラン・マルコポーロ・ギリシャ神話・アレキサンダー大王・ロシア革命・キリスト・シーザー・フランス革命・ダンテ・ゲーテ・ベートーベンなどなどのお勉強は微に入り細に渡って勉強させられた。これらの大多数の西洋の地理・歴史は主に、明治以降の我々の文明・技術・知識に使われたものである。
日本書紀に微に入り細に渡って記されている朝鮮半島との交流記事は、いつ頃から抹殺されたのであろうか。本稿では高句麗との交流記事に絞って集めてみたが、結構な数が掲載されているのに驚かされた。仏教伝来より遙かに以前から両国は交流していたことが窺われる。よって当然渡来人があっても何等不思議ではないのである。
高句麗から日本に渡来した文化人を古い順に挙げると僧「恵便」が565年頃来朝し聖徳太子の仏教思想に影響を与えたとある。次いで595年僧「慧慈」が聖徳太子の仏教の師として来日している。610年には僧「曇徴」が来日し聖徳太子に信頼され法隆寺にいたとされ、この人物は日本への紙製造法・墨製造法の伝達者とされている。
仏教の伝達は百済・新羅からも多くの僧が次々渡来して色々な文化を伝えたであろう。
しかし、日本の文字文化の元になる紙と墨の技法を日本に最初に伝えたのが高句麗の僧であったことは筆者は残念ながら知らなかった。筆者は某大手製紙会社の技術者として就職し、定年まで勤めた。恥ずかしい話である。紙の製造の歴史は非常に古く中国で発明されたものである、ということは教えられていた。
後漢時代(25年〜220年)に蔡倫(さいりん)という技術者が皇帝の命令で“かさばらず費用のかからない”書写材料の研究に着手し、105年、現在に繋がる紙を完成させた。これが情報を書きこめる機能をもつ、歴史上初めての紙「蔡侯紙(さいこうし)」である。 と今日では通説化されている。
この技術が朝鮮半島を経て610年に高句麗僧によって我が国に伝えられた訳である。
また高句麗僧達及びその下部集団は寺院建築技術にも優れていたと伝わっている。
我が国に高麗人らが多数渡来したことは565年の日本書紀記事がその証拠であろう。
筆者は山背国相楽郡の狛一族の原点はこの記事にあると推定したが、勿論日本書紀には記録のない渡来人がそれ以前からあったことは517年の高麗使「安定」の記事からも推定はされる。しかし、565年の記事は狛氏以外も多くいたことを暗示している。
570年に高句麗の使人が来日した折りに山背国相楽郡に相楽館を建ててこれを持てなしたという記事があるが、この相楽館のことを高(木威)の館(こまひのやかた)とも称す。
要するに570年には既に相楽郡には高麗人の集団がいたこと、また迎賓館を短期に建てる技術集団もいたことが推定出来る。さらに高麗寺の創建が発掘調査の結果として610年頃と推定されているが、全体の完成にはさらに数十年を要しているようである。
一般的にお寺の創建時期を特定するのは非常に難しいとされている。建設に取りかかって
完成するまでに多年月を要するからである。筆者年表でも創建年に?を付しているのはこのためである。歴史上有名な寺院(法隆寺・四天王寺・飛鳥寺など)でさえそうであるのでマイナーな寺院については大凡の年又は寺伝を参考にするしかないのである。
さて話を高麗寺のことに戻す。この寺院建築には、経験豊かな高麗僧らの綿密な企画設計が関与していることは間違いなかろう。日本への仏教伝来には諸説あるが、530年説を採用してもその100年も経たない間に山背国相楽郡付近には高麗人による一大仏教文化圏が構築されていたことの証拠である。この高麗文化の中心氏族が狛氏であったと推定されている。元々、狛氏は高麗氏とも表記、称していたと思われる。事実氏寺の名前は「高麗寺」である。諸説あるが、筆者は高句麗滅亡にともなって日本に亡命してきたと言われる高句麗王族が高麗氏を称したので、それ以前に日本に渡来して、高麗氏を称していた氏族は遠慮して狛氏、大狛氏などと氏族名を変更したという説を採用したい。
この山背国相楽郡の狛一族とは若干遅れて山背国愛宕郡に八坂氏が入植し、八坂社、法観寺などを創建したものと思われる。彼等も高句麗滅亡前高麗人の拠点氏族と考えられる。
さて次ぎに668年前後に日本列島に渡来した高句麗王族を中心とした高麗人たちの集団がいたことは間違いない史実である。
彼等は相模国、駿河国など主に東国地方に入植したものと思われる、それが716年に武蔵国に高麗郡という特別な郡が新設され東国7ケ国に分散していた高麗人1799人をまとめて、この高麗郡に入植させたのである。その意義についても諸説あるようだが、彼等は当時としては先進文化・技術を有する集団であり、日本の僻地開拓という意味合いもあり、既存住民との軋轢を防止する意味でも集団として移住させたものと思われる。
後に武蔵国に新羅郡が新設されるが同じ目的であろう。この種の集団は日本全国に散見される。百済・高句麗滅亡後多数の渡来人が日本列島に来たことは文献上からも明らかである。彼等の多くは関東・東北地方に集団で配置されたようである。
この高麗郡の初代郡長が高麗王若光であったと現存する高麗神社伝承では明記されている。前記した1799名の高麗人というのは各家の主の数で家族を加えるとその数倍の人数の高麗人が高麗郡に入植したはずであるという説もある。
いずれにせよこの高麗郡が関東における高麗文化の拠点になったことは間違いないであろう。そして関東一円の各地の有力者としてその裔が拡がったとされている。本稿では説明を省略したが、武蔵七党、秩父氏系の系図の中にも高麗氏を称する武士氏族が幾つかあるのもその影響と推定されている。
以上述べてきたように関西圏では現在の京都府相楽郡を本拠地とした高句麗滅亡前の高麗人の勢力範囲が出来、東国では現在の埼玉県日高市を拠点とした高句麗滅亡後の王族及びその従属者達の勢力範囲が出来たものと判断される。今から1300年前頃にである。
彼等の末裔達は営々として日本の発展、文化の向上に寄与しながら日本人として同化したのである。その裔の数は半端なものではない。既稿「秦氏考」でも述べてきたが渡来人の代表である秦氏ほどではないが、政治の表舞台で渡来人が活躍することは平安時代以降は全くなくなるが、地方での殖産・農業・工業・諸々の文化の面での彼等の地道な活動があったればこそ今日の日本の礎が築かれたことを忘れてはならない。勿論彼等渡来人出身の氏族の多くは日本全国規模でその地方の有力者となったとされている。
中世の有名な山城国の国一揆を指導した土豪武士「狛氏」も其の出自はよく分からないが前述の相楽郡の狛氏の出身であるという説も濃厚にある。
50桓武天皇時代頃までは広い意味で渡来人優遇策が図られたとされている。しかしそれ以降その反動もあってと思われるがこの施策は廃され、830年には遂に日本への新たな帰化を認めなくなったとされている。即ちこれ以降は正式な形での中国・朝鮮半島から日本へ帰化することが禁じられたことを意味する。例外を除いて(豊臣秀吉の朝鮮出兵時など)江戸時代末まではこれらの国々から日本に渡り住む人はいなくなったのである。
最後に朝鮮半島では高句麗国滅亡後どのようになったかを概観しておきたい。
668年の高句麗国滅亡の30年後に高句麗遣民(高句麗王族とは異なるが高句麗出身の「大祚栄(だいそえい)」という人物)の手により698年に旧高句麗国付近に「渤海国」が建国され我が国は即座に軍事同盟を結んだ。この渤海国と我が国の交渉役として高麗朝臣大山・高倉朝臣殿継らが派遣された。
さらに918年には高麗(こうらい)国が「王建(出自は新羅系説、高句麗系説あり謎)」により建国された。そして936−1392年まで朝鮮半島を統一していたのである。
本稿と取り上げた高麗(こま)とこの高麗(こうらい)は全く別のことであることを改めて認識する必要がある。
以上で高麗氏・狛氏関連論考を終わる。
8)まとめ(筆者主張)
@高麗氏(高麗朝臣氏・高麗王氏)狛氏(狛造氏・南都方楽家)は共に高句麗国出身の渡来人氏族である。
A高句麗国はBC37年に建国され、391−404年頃にかけて19代好太王が倭国と交戦した記録が「高句麗好太王碑」として現在も世界遺産として残されている。この碑文解釈などで現在も一種の民族主義的論争が続いているが、筆者は2005年の中国側が示した見解が日本・中国の通説になったと理解している。しかし、これに対し、韓国、北朝鮮の学者達は激しく反論しているのが現実である。それぞれの国の一般国民がそれぞれの民族主義を持つことは当然であり、大切なことである。これは互いに認め合う必要がある。しかし、歴史を専門とする真の学者は一般国民とは異なる。「史実は何か」という観点で、それぞれの国、所属する国の民族主義を離れ、あらゆる情報、科学的手段を駆使して感情に溺れずクールに検討して史実を国民の前に提示する義務があると筆者は思う。いたずらに国民を扇動するような言動は、お互いに厳に慎むべきである。互いに史実は何かを研究し、議論しその結果を謙虚に認め合うことから国同士の真の友好関係が産まれるものである。ヨーロッパ諸国の歴史は、もともっと複雑である。しかし、現在の体制はどうであれ歴史的史実は、互いに検討し現時点で技術的に確認出来る範囲で認め合うという伝統が古くから根付いていると聞く。
この碑文に関する論争は過去の問題ではなく、中国・北朝鮮・韓国・日本・ロシアが絡んだ一種の政治問題化している観がある。悲しいことである。
B5世紀後半になると高句麗と倭国の関係は良化し、6世紀初めには高句麗の正使が来朝した。
C565年には多数の高麗人が筑紫に渡来し、これを山背国に配した。これが相楽郡狛氏らの祖となった可能性が大であると筆者は推定している。日本書紀にある570年の高句麗正使の相楽館での迎賓記事は、この時には既に相楽郡に高麗人の一大勢力がいたことを裏付けるものである。
D高句麗僧「恵便」「慧慈」「曇徴」らの渡来は日本の仏教文化に先鞭をつけるもので、僧だけでなくそれに随行したであろう多くの工人、絵師、仏師などがそのまま日本に居住した可能性をも暗示している。
E610年頃には飛鳥寺に匹敵する規模の高句麗仏教の殿堂である高麗寺が上記狛氏の氏寺として山背国相楽郡上狛郷に創建された。この寺は平安末期までは存在したようだがその後、廃寺となっている。現在高麗寺跡として国史跡にされている。
Fこの高麗寺付近は中世には興福寺の荘園となった。この付近を本拠地とした狛氏は興福寺に保護された形で雅楽・高麗舞・高麗楽などの世襲的氏族集団を形成し南都方楽所として活躍し、現在まで続いている。この一派の系図が残されたのである。
G一方668年の高句麗国滅亡の時期に前後して新たに亡命高麗人が、多く日本列島にやってきた。この中に高句麗王族出身の氏族と推定される一団がいた。
その一つが高麗王若光を祖とする一団であり、さらに背奈王福徳を祖とする一団もあった。
いずれもその渡来時期は特定し難いが、背奈福徳は660年頃と推定される。
筆者は、高麗神社伝承などから高麗王若光は、さらに後で685年前後に渡来したものと推定した。666年に渡来したと日本書紀に記されている玄武若光と高麗王若光は同一人物であるという説では、年齢的に合わない。また若光と福徳が同一人物であるという説も年齢的に合わない。それぞれ別人と考えるのが妥当と判断した。
H703年に高麗若光は「王(こにきし)」姓を賜っている。これはどうも一代限りの姓だったようである。716年に武蔵国に高麗郡が新設された。このリーダーが若光で東国
7ケ国にいた高麗人1799人を高麗郡に集結させたと社伝にある。
I若光の没後に彼を祭神・祖神とした高麗社(後の高麗神社)が創建された。現在の高麗神社系図には若光の没年は記されていない。しかし、以前には記されていた痕跡がある。それによると748年没である。これはかなり年齢的に無理があり、730年没説も出されたようだが現在は不明となっている。
J高麗神社は現存し、若光の子供「家重」から現在に至るまでの高麗氏系図が残されている。
K前述の高麗王族出身氏族の1つと思われる背奈氏も716年の高麗郡新設の時若光らと一緒に高麗郡に入植したと推定される。その背奈氏から中央に出て従三位の公卿にまで昇った人物がいる。高麗朝臣福信である。この人物の事績は詳しく記録されているのでそれから推定すると、750年に背奈王姓から高麗朝臣姓に改姓されている。この時点で背奈氏が既に没していた高麗王若光の名跡を継いだものと推定する。即ち高麗王若光も背奈王福信も共に高句麗の同一王族で親しい血族であったと推定する。よって朝廷から見れば実績を挙げた背奈氏に高麗朝臣姓を与え高麗一族の代表氏族にしたものと思われる。
L高麗朝臣系系図も残されている。これと上記高麗神社系図は多数の人物が重複している。
高麗神社系譜には、背奈氏、福信などの記述はない。しかし、筆者は高麗朝臣氏、高麗王氏は古代においては非常に近い関係にあり、高麗王族の血脈を護るために猶子・養子婚姻関係を通じて非常に強く結ばれていたものと判断した。併せて高麗氏とした。
L古代豪族としては非常にマイナーな氏族であったが、高麗氏・狛氏両氏の日本列島へ渡来以降の営々とした記録が今に繋がっていることに驚き、その凄まじいエネルギーを感じる。さらに日本の各分野への影響力の大きさを改めて我々は知る必要があると強く思うのである。 (2008−10−20 脱稿)
9)参考文献
・「高麗神社と高麗郷」 高麗澄雄 高麗神社社務所(2002)
・「ある武蔵武士の生活」 新井孝重 高麗神社社務所(2007)
・「高麗神社と高麗郷」(御鎮座1300年用パンフレット) 高麗澄雄 高麗神社社務所
・「姓氏家系大辞典」 太田 亮
・「渡来文化のうねり」 季 進熙 青丘文化社(2006)
・日本の歴史「王権誕生」寺沢薫 講談社(2001)
・日本の歴史「大王から天皇へ」熊谷公男 講談社(2001)
・日本の歴史「平壌京と木簡の世紀」 渡辺晃宏 講談社(2001)
・フリー百科事典ウイキペディアの各種関連hp
・その他関連の多数のhp など
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