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4.古代初期天皇家概論
1)はじめに
 大和王権の成立(天皇家の成立)に関しては、古くより「古事記」「日本書紀」の記述に疑義があるとされ、古代史研究家の間では、「邪馬台国」問題と共に結論の出ない議論がされてきた謎、謎、謎 の連続する課題である。
よって現在も延々とそれは続いている。
これからは、考古学、古墳発掘などでしか、これ以上の歴史的事実を深めることは、無理と思われる。
しかし、だから面白いのだとも言われている分野である。文献的に記紀以上に古いものは日本には残されてない。
中国、朝鮮の文献が一部補うものがあるが、それとて、日本(倭国)に関する記述は、ほんの僅かであり、記紀と対比して、諸説、類推、独断、頭の体操的新説が、次々出されているのが、現状らしい。
それもこれも、原因は、記紀編纂時(天武朝ー元明朝)当時の朝廷のエリートが、その当時集められるだけ集めた、国内外の文献(例;魏志倭人伝、宋書倭国伝など)、各有力氏族に残されていた、系譜、墓誌、の類、各地の伝説、言い伝え、神話、語り部の記憶、などなどの整理、解析組立、構想、企画化の段階で、多くの真実を歪曲、改竄、脚色したことにある。と言われている。
8世紀(記紀編纂時)の朝廷は、3世紀末(大和王権成立時)頃からは、当時文字は無かったにしても、正確ではなくとも、大和の地で何が起こり、誰が統治していたか位は、ハッキリと把握していたはずである。
それを意図的に隠し、ぼかし、改竄した訳である。
3世紀後半から5世紀初め頃まで日本と中国、朝鮮との交流がなく、そのため、中国、朝鮮に日本に関する記事を載せた文献が無い。
この間に大和王権が成立していることは、間違いないと言うのが、現在の通説である。何故「記紀」編纂者は、最も大切な歴史的事実を隠したのか、改竄したのか。
1)天孫降臨;禰禰芸尊(ニニギのみこと) ;天照大御神;神武天皇;神の子
天皇家は、他の氏族と異なり、神の命を受けてこの日本を治める一族であり,
初代神武天皇より、万世一系の血の繋がりのある者のみがこの国を治めてきた。
それを記したのが、古事記、日本書紀である。
この理に合わないものは、例えそれが歴史的事実であれ、総て排除され、消され、後顧の憂いを残さないように徹底的に工夫が凝らされている。
      ーーー「天皇家の神格化」ーーー
2)天皇家の歴史は、中国の王朝の歴史に決して見劣りしないほど古く(紀元前660年に始まるとした。)また、過去一度も他国の領土、臣下、配下になったことはないこ とを証拠として、残す目的があった。
よって、「漢委奴国王」や、「親魏倭王印」「倭五王」などの記事は、意図的に排除したものと思われる。「卑弥呼」も抹殺された。  邪馬台国も消された。
      ーーー「日本国の独立性」ーーー
などが、その背景に厳然とあったとされている。
よって「神話」の部も完全に脚色されたもので、天皇家を特別な「天孫族」の子孫とし、正当化の手段として練りに練って創作されているとのこと。
 それでは、「記紀」は根も葉もない嘘八百の全くの天皇家正当化のための作り話しばかりなのか?そうではない。
「神話」「天皇家」「歴史記述」「系譜」などその多くは、多くの真実を含んでいる。とされている。
だから古代史研究は、記紀に始まり記紀に終わると言われている訳である。
 26継体天皇以降は、少なくとも、実在性、系譜的にはほぼ間違いないとされている。
神代ーーー1神武天皇ーーー9開化天皇ーー10崇神天皇ーーー15応神天皇ーーー
ーーー25武烈天皇までは、ロマンの時代、謎の時代である。
日本の曙の時代
である。
現在では、1神武天皇から25武烈天皇までのうち、欠史八代9開化天皇までは架空の創作天皇説が、主流である。
それ以後の天皇も10崇神天皇、15応神天皇、16仁徳天皇、25雄略天皇等も含め総てその実在性さえ疑問ありとされている。
モデルはあったかも知れぬが、厳密な意味での特定化は、困難らしい。
その生年、没年、系譜の類はつじつま合わせが多く、現実性の乏しいものも多い。
よってこの間の各天皇毎に記されている記事は、その天皇の時ととても特定出来ないものとされている。
この付近の古代史は、最近発行された「日本の歴史」全書(講談社)にもほんの僅かしか記されてなく、むしろ考古学的発掘調査の解析を中心にしたものしか記されてなく、堅い学者、研究者は、この辺りの解説、自己主張は、避けている感じがする。
面白くない。
例外的に遠山美都男氏は、いたってクールに概略次の様な視点で解説している。
ー「記紀」は、基本的に神武天皇ー応神天皇、仁徳天皇ー武烈天皇でそれぞれ完結するフィクションである。
何らかの実在大王がいたことは事実であるが、記紀に記された各大王と実在大王は、具体的に対比出来ない。これが出来るのは、継体天皇以降である。
歴史上の事実もあるが、適当に各大王の項に律令的感覚で、対中国(唐)に対抗する姿勢で日本は、こんなに古くから万世一系の大王を戴き、こんなに色々の政治を行っていた、ということを相手(唐)に知らす目的で記されている。
史実、時代は、確実性に乏しいもの多い。「倭の五王」についても比定することは、無意味である。と主張している。ー
よって、アマチュアマニア、民間研究者の出番があるのかも知れない。
 一方、巷では「邪馬台国論争」「大和王権成立論争」などで自由闊達に諸説が発表されている。
言語学、中国史、神話、民族学、地名解読、渡来人研究、日本古語発音研究などなど色々の角度からの突っ込みと、発掘調査の成果との自由な組み合わせによる類推、推理、の類は膨大量出版されている。
しかし、どうであれこの付近の「人物列伝」は、難しい。「記紀」中心にせざるを得ない。
これが原点であることは間違いない。事実とは異なる、異論ありだが、これ以外はさらに訳の分からぬ迷路となる。これが古代史である。
 記紀について、筆者は、今を去る千数百年も前にこれだけ厳密に調査され、約40年間も国家を挙げて取り組まれた歴史書が、日本に残されていたことに驚きと、同時にその英知、と先見性、責任感、実力に感服している。
この後も色々歴史書は、官製、私製あるが古事記、日本書紀を凌駕 するレベルのものがあるのだろうか。
世界的レベルでも決して劣るものではない。と思っている。
これからの考古学、発掘調査などの科学的調査と記紀記述内容との対比が楽しみである。
 古代豪族を理解するには、記紀の中心人物である古代天皇のことを概略的にでも理解しておく必要がある。
欠史8代は後回しにしても、10崇神天皇以降については、諸豪族の系図が天皇家と関係してくる。
また諸豪族の記事も真偽は別として各天皇の記事に表れてくる。
実際は、3世紀末頃崇神天皇と記されている天皇の頃大和王権が誕生し、6世紀初めに継体天皇が誕生したのだと、推定して以下の記紀記述と対比をすることの意味はある。
2)古代天皇家人物列伝 (1神武ー25武烈)
 記紀に記されたものを筆者の独断と偏見とで整理編集したものである。
各天皇の生没年及び在位期間は、公知の各種文献を参考にして、記紀の記事を西暦に換算したものである。
2-1)神武天皇(生ー711年−没ー585年)(在位;ー660年ーー585年)
@父;鵜葺草葺不合命(天孫瓊瓊杵尊の子彦火火出見尊と豊玉姫の子)    母;玉依毘売命(海神娘豊玉姫の妹)
A兄弟;五瀬命、稲氷命、御毛沼命、
 子供: 綏靖天皇、手研耳命(母;吾平津媛)、神八井耳命、
      岐須美美命(母;五十鈴媛)
 皇后;媛蹈韃五十鈴媛命(事代主命女)
 妃;吾平津媛(阿多の小椅君娘、日向吾田邑)
B本名;神日本磐余彦尊 ハツクニシラス、ヒコホホデミ、若御毛沼命、4男
C日本書紀;甲寅の年に兄「五瀬命」らとともに日向高千穂宮を出発し、瀬戸内海を経て河内に上陸。大和に向かうものの地元の豪族「長髓彦」の抵抗にあい、紀伊熊野を迂回してようやく大和地方を制圧。辛酉の年の元旦(太陽暦の2月11日)橿原宮で即位を宣して初代天皇になったとされる。(神武東征)
ーーー関連キーワードーーー
 高倉下、八咫烏、道臣命(大伴連の祖)、井光(吉野首祖)、八十梟帥(ヤソタケル)
 兄磯城、饒速日命(物部氏祖;紀)、土蜘蛛、新城戸畔、          和珥坂下の居勢祝(コセのハフリ)
D戦前までこの「神武東征」伝承は、史実とされていたが、戦後は神武天皇の存在そのも のが疑われている。
E日本書紀天武紀の記事
 壬申の乱(672年)に際し、高市の県主「許梅」が神懸かりにあい、大海人(天武) 軍が神武陵に馬や兵器の類を奉った。ーーー神武陵の存在を示唆。

2-2)綏靖天皇(ー632−ー549)(在位;ー585−ー549)
@父;神武天皇 母;五十鈴媛命
A子供;安寧天皇
 皇后;五十鈴依媛(事代主命女;五十鈴媛妹)河俣毘売(師木県主娘;記)
 妃;糸織媛(春日県主女;紀)、河俣毘売(紀)
B本名;神渟名川耳尊;カムヌナカワミミ   神武ー五十鈴媛の第3皇子
C神武天皇没後、綏靖は、長兄の手研耳命(タキシミミ;母は吾平津媛、妃は神武の后五 十鈴媛)が、 異母弟の自分たちを殺害しようとしていることを知り、同母兄らと共同して逆にこれ を討って即位。
葛城高丘に皇居を定め、母の妹である五十鈴依媛命を 娶って皇后とした。
D欠史八代
E兄神八井耳命は、神を祀り仕える身となった。とされる。

2-3)安寧天皇(ー577ーー511)(在位;ー549ーー511)
@父;綏靖天皇 母;五十鈴依媛命  (記;河俣毘売)
A子供;懿徳天皇、息石耳命、磯城津彦命
 皇后;渟名底仲媛命(事代主神の孫、鴨王娘)(記;師木県主波延娘阿久斗比売)
 妃;川津媛(磯城県主女)、イトイヒメ(オオマノスクネ娘)
B本名;磯城津彦玉手看尊
C欠史八代

2-4)懿徳天皇(ー553−ー477)(在位;ー511−ー477)
@父;安寧天皇 母;渟名底仲媛命
A子供;孝昭天皇、武石彦奇友背命
 皇后;天豊津媛(息石耳命女)(記;師木県主娘賦登麻和訶比売命;飯日媛)
 妃;泉媛(磯城県主弟女)、イトイ媛(オオマノ宿禰娘)
B本名;大日本彦耜友尊      (イトク天皇)安寧第2子
C欠史八代
D綏靖天皇に倣い第2子に統治権を委ね、第1子には祭祀権が与えられる慣行があった。

2-5)孝昭天皇(ー506−ー393)(在位;ー477−ー393)
@父;懿徳天皇 母;天豊津媛命
A子供;孝安天皇、天足彦国押人命
 皇后;世襲足媛(尾張連遠祖オキツ世襲の妹)
    (記;尾張祖奥津余曽の妹余曽多本毘売)
 妃;渟名城津媛(磯城県主女)、大井媛(豊秋狭太媛娘)
B本名;観松彦香殖稲尊
C欠史八代

2-6)孝安天皇(ー427−ー291)(在位;ー393−ー291)
@父;孝昭天皇 母;世襲足媛
A子供;孝霊天皇、大吉備諸進命
 皇后;押媛命(天足彦国押人命女)(記;忍鹿比売;姪)
 妃;長媛(磯城県主女)、五十坂媛(十市県主女)
B本名;日本足彦国押人尊  孝昭の第2子(第1子は神に仕えた)
C欠史八代

2-7)孝霊天皇(ー342−ー215)(在位;ー291−ー215)
@父;孝安天皇 母;押媛命(天足彦国押人命女)
A子供;孝元天皇、倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭芹彦命、倭迹迹稚屋姫命
    日子刺肩別命、彦狭嶋命、稚武彦命、弟稚武彦命、千千速比売命
 皇后;細媛命(磯城県主女)(記;十市県主大目の娘)
 妃; 倭国香媛(別名;ハエイロド)、春日之千千速真若比売、真舌媛(十市県主女)
B本名;大日本根子彦太瓊尊(ネコヒコフトニ)  孝安第2子
C欠史八代
参考;
@彦五十狭芹彦は、吉備津彦といわれている。
A倭迹迹日百襲姫は、邪馬台国近畿説を主張する多くの学者から「卑弥呼」だとされている。
孝元天皇が卑弥呼の側近くにいた弟君であり、卑弥呼死後男王になり、国が乱れた
とされる。箸墓古墳は、百襲姫の墓説  
紀では、百襲姫は、大物主の神妻となった。彼女の墓を箸墓と呼ぶ。とある。

2-8)孝元天皇(ー273−ー158)(在位;ー243ーー158)
@父;孝霊天皇 母;細媛命
A子供;開化天皇、大彦命、倭迹迹姫命、少彦男心命、彦太忍信命、武埴安彦命
 皇后;鬱色謎命 (穂積臣祖鬱色雄命の妹)
 妃; 伊香色謎命、(物部氏遠祖大綜麻杵娘)埴安媛(河内青玉娘)
B本名;大日本根子彦国牽尊
C欠史八代

2-9)開化天皇(ー208ーー98)(在位;ー158−ー98)
@父;孝元天皇 母;鬱色謎命(記;内色許売命)
A子供;崇神天皇、彦湯産隅命、御真津比売、彦坐王、建豊波豆羅和気王
 皇后;伊香色謎命
 妃;竹野媛(丸爾氏、和珥氏)、姥津媛、(旦波大県主女)鷲比売(葛城垂水宿禰女)
B本名;稚日本根子彦大日日尊
C欠史八代

(参考)
欠史八代の特色
・父子直系
・長寿
・第2皇子が王権を継ぐ。長子は神に仕えた。
・県主の娘と結婚(大和国六県;曽布、山辺、磯城、十市、高市、葛城)
欠史八代系図
2-10)崇神天皇(ー148−ー30)(在位;ー97−30)
@父;開化天皇 母;伊香色謎命
A子供;垂仁天皇、彦五十狭茅命、伊邪能真若命、倭彦命、豊城入彦命、
     八坂入彦命、豊鍬入姫命、渟名城入姫命
 皇后;御間城姫(大彦命女)
 妃;遠津年魚眼眼妙媛、大海媛
B本名;御間城入彦五十瓊殖尊、御肇国天皇(ハツクニシラス)
C「大田田根子」に大物主神を祀らせるなど祭祀を充実させた。
D北陸、東海、西海、丹波に四道将軍を派遣し、国内の統治基盤を整えたことから神武と同じ「ハツクニシラススメラミコト」と称された。
Eこれこそ初代天皇とする説多い。
 神武東征+崇神統治で一人の人物を現す。との説。
F天皇が神祇祭祀を統括。天皇家祖先神;天照大神 大和国土地霊;倭大国魂
 を宮中で祀っていた。
 その後天照神は、倭豊鍬入姫が笠縫邑で祭り、倭大国は、渟名 城入姫 に祭らせた。
しかし、ヌナキイリヒメの方は、痩せ衰え神を祭るどころではなくなった。
 神意により大物主の子「大田田根子」に大物主を祭らせとなりこれを探し、神主にした。一方倭大国魂の方は、市磯長尾市に祭らせることにした。
G百襲姫が、「武埴安彦」「吾田姫」の謀反を予言。

参考
@豊鍬入姫が、魏志倭人伝の邪馬台国「卑弥呼」後継者「壱与」だという説あり。
A三輪王朝説、葛城王朝説、河内王朝説、近江王朝説、
B騎馬民族征服王朝説。
C王朝交替説 呪教王朝(崇神、成務、仲哀)、征服王朝、統一王朝

2-11)垂仁天皇(ー69−70)(在位;ー29−70)
@父;崇神天皇 母;御間城姫
A子供;景行天皇、両道入姫命、鐸石別命(和気氏祖)
     五十瓊敷入彦命(母;日葉酢媛)
     誉津別命(母;狭穂姫)、大中姫  倭姫命
 皇后;狭穂姫命(彦坐王女ー沙本之大闇見戸売の子)
 皇后;日葉酢媛命 (丹波道主命女)
 妃;多数
B本名;活目入彦五十狭茅尊 崇神3男
C崇神の夢占いにより皇太子に立てられた。
D初め「狭穂姫」を后に立てたが、「狭穂彦」の反乱鎮定の際に兄を追って姫は、自殺。 次いで「日葉酢媛」を后に立てた。
E父帝に倣って祭祀を充実させ、伊勢神宮を創始した。倭姫命が天照大神を奉じ祭るべき場所をもとめて美濃、近江、伊勢をめぐりついに伊勢五十鈴川のほとりに適所を見つけそこえ降臨した。
F葬儀の際の殉死を禁じ、替わりに人馬をかたどった「埴輪」を陵墓に立てるようにした、と伝えられている。
G出雲神宝、物部十千根大連が「石上神宮」でこれを管理することになった。以後石上神 宮は、物部氏が管理することになる。
 五十瓊敷命、大中姫の話。
H野見宿禰の話。 倭彦命、日葉酢媛の死。野見宿禰が埴輪を作らせた。土師連祖。
I田道間守、常世国、非時香菓(ときじくのかくのみ)、自殺の話し。

2-12)景行天皇(ー13−130)(在位;71−130)
@父;垂仁天皇 母;日葉酢媛命
A子供;櫛角別王、大碓皇子、日本武尊、成務天皇、五百城入彦など
 皇后;播磨稲日大郎姫、八坂入媛命(八坂入彦女)
 妃;高田媛、日向髪長大田根媛、水歯郎媛、五十河媛、襲武媛
B本名;大足彦忍代別尊 垂仁第3皇子
C父帝に望むものを聞かれた際、兄の「五十瓊敷入彦命」が、弓矢を望んだのに対し皇位を望んでそれを許され即位した。
D77人の皇子女を諸国に分封し、勢力を広げた。
 「播磨稲目大郎姫」との間に産まれた「日本武尊」に九州熊襲、東国の蝦夷を
 鎮定させた。

2-13)成務天皇(83−190)(在位;131−190)
@父;景行天皇 母;八坂入媛
A子供;和訶奴気王
 妃;弟財郎女(建忍山垂根娘)
B本名;稚足彦尊   景行第4子
C武内宿禰を大臣として、国造、県主を設置。国と国との境目を画定。
D実在性の乏しい天皇の一人である。

2-14)仲哀天皇(148−200)(在位;192−200)
@父;日本武尊 母;両道入姫命(垂仁女)
A子供;カゴ坂皇子、忍熊皇子、誉屋別皇子、応神天皇
 皇后;気長足姫(神功皇后)
 妃;大中姫命、弟媛
B本名;足仲彦尊 武尊の第2皇子
C成務天皇の皇太子(成務に男子なし)
D筑紫橿日宮に入った後、群臣を集めて熊襲を討つことを計っていると、神懸かりした皇后から新羅を討つことを勧められたが、その神託を疑ったために、病死した。

2-15)応神天皇(200−310)(在位;270−310)
@父;仲哀天皇 母;神功皇后
A子供;額田大中彦、(母;高城入姫)大山守(母;同左)、仁徳天皇、       菟道稚郎子、(母;宮主宅姫)八田皇女、(母;同左)雌鳥皇女(母;同左)、稚野毛二俣王、(母;息長真若中比売) 忍坂大中比売?
皇后;仲姫命(五百城入彦の子「品陀真若王」女)
妃;高城入姫(皇后姉)、弟姫(皇后妹)、宮主宅媛(和迩氏、日蝕使主女)、小ナベ媛、息長真若中比売(日本武尊孫、咋俣長日子王娘)、糸媛 日向泉長媛、兄媛
B本名;誉田別尊(胎中天皇)異伝;元々、「去来紗別尊」といっていたが、角鹿の笥飯(ケヒ)大神と名を交換し、「誉田別尊」となった。 仲哀第4皇子
C神功皇后胎中で、新羅遠征したことから「胎中天皇」と言われた。
新羅からの帰途、筑紫で産まれた。
神功皇后が異母兄達を討って、皇太子となった。
母の没後即位した。
D秦氏の祖「弓月君」、菟道稚郎子の師「阿直岐(百済学者)」、「王仁(論語、千字文伝 来)」など多数の渡来人がきた。これにからむ「葛城襲津彦」の活躍。平群木菟宿禰、的戸田宿禰の話。
E宇佐八幡宮は、応神天皇と神功皇后を祀ってある。奈良時代最も天皇家が頼りにしたのが、宇佐八幡宮であり、これぞ天皇家の元祖とされた天皇ではないか
と言われている。
これ以前の天皇とは、血の繋がり?とも言われる由縁。
F武内宿禰の活躍の話。カゴ坂皇子、忍熊皇子の乱
G蘇我氏祖「満致」の話し。百済臣「木満致」と同一人物を臭わせている。
 一方「百済記」には、木満致の父「木羅斤資」の功績により満致は、任那統治をし、百済でもその勢力を伸ばしたが、その悪政のため応神天皇が我が国にび寄せたとある。
H「宋書倭国伝」にある倭王「讃」に当たると言う説。別説;「讃」は仁徳天皇である。

2-16)仁徳天皇(257−399)(在位;313−399)
@父;応神天皇 母;仲姫命
A子供;履中天皇、住吉仲皇子、反正天皇、允恭天皇(以上母;磐之媛)、  大草香皇子、(母;日向髪長媛)    草香幡梭姫皇女(母;同左?)
 皇后;磐之媛、八田皇女
 妃;髪長媛、菟道稚郎姫皇女
B本名;大鷦鷯尊 応神第4皇子
C異母弟「菟道稚郎子」が応神の皇太子となった際、その補佐を命じられた。
 父帝没後皇太子と皇位の譲り合いを繰り返した。異母兄「大山守皇子」の反乱で、皇太子が自害し、即位した。
Dかまどの煙を見て民衆の生活を気遣う、3年課税を止める、質素倹約実行、各種治水、 土木工事実施など、仁政を行った。
E河内王朝説。仁徳陵(大山陵)
F嫉妬深い皇后「磐之媛」の話。八田皇女との話。雌鳥皇女ー隼別皇子ー仁徳天皇の話。

2-17)履中天皇(???−405)(在位;400−405)
@父;仁徳天皇 母;磐之媛
A子供;磐坂市辺押磐皇子、(母;黒媛)御馬皇子(母;同左)、青海皇女、(母;同左)  中蒂姫 別名;中磯皇女(母;幡梭皇女)又の名「長田大郎女」
 皇后;草香幡梭皇女(仁徳女)
 妃 ;黒媛 (葦田宿禰女)
B本名;大兄去来穂別尊
C仁徳崩御後、異母弟の住吉仲皇子と皇位争い。(羽田八代宿禰女黒媛との三角関係がらみ)後の反正天皇にこれを討たせ即位。平群木菟宿禰、物部大前宿禰の話。
D政治上の記録を残すために国史を、財政を整えるために蔵部を諸国に置いた。
E平群木菟、蘇我満智、物部大前、葛城葦田の各氏族に国事を執らせた。

参考<市辺押磐皇子>(???−???)
@父;履中天皇 母;黒媛
A子供;顕宗天皇、仁賢天皇、飯豊青皇女、
 妃;ハエ媛(葛城蟻臣女)
B安康天皇の後継者とされていた。雄略天皇に殺された。

2-18)反正天皇(???−410)(在位;406−410)
@父;仁徳天皇 母;磐之媛
A子供;香火姫(母;津野媛)、円皇女(母;同左)、                   財皇女(母;弟媛)、高部皇子(母;同左)
 皇后;津野媛(和迩木事女)、弟姫(津野媛妹)
B本名;多遅比端歯別  仁徳第3皇子
C履中同母弟。住吉仲皇子を討った功績により皇太子となった。
D五穀豊穣で太平の世だった。
E「宋書倭国伝」倭王「珍」説有望。

2-19)允恭天皇(???−453)(在位;412−453)
@父;仁徳天皇 母;磐之媛
A子供;木梨軽皇子、安康天皇、雄略天皇、軽大娘、                境黒彦皇子、八釣白彦皇子 (母は総て皇后大中姫)
 皇后;忍坂大中姫 (若沼毛二俣王女)
 妃;藤原之琴節郎女 衣通郎姫(皇后妹)
B本名;雄朝津間稚子宿禰尊
C反正崩御後、群臣の推挙を受けたが辞退。しかし妃の「忍坂大中姫」の熱心な請いを受けて即位。
D氏姓を偽るもの多く混乱していたため、盟神探湯(クガタチ)実施。
E皇后ー允恭ー弟姫(衣通郎姫)の話。藤原部設定。
F木梨軽皇子ー軽大娘皇女の悲恋話。同母兄弟で禁忌。伊予国流罪。
G「宋書倭国伝」倭王「済」説。

2-20)安康天皇(401−456)(在位;453−456)
@父;允恭天皇 母;忍坂大中姫
A子供;なし。
 皇后;中蒂姫(履中女;大草香皇子妻)
B本名;穴穂尊  允恭第3皇子
C同母兄「木梨軽皇子」が皇太子に立てられたが、同母妹と近親相姦の罪を犯したため、これを討って即位。  (物部大前宿禰の話。)
D大日下王を殺害し、その妻を奪って自らの皇后としたが、大日下王の遺児「眉輪王」に寝首をかかれて没した。
E「宋書倭国伝」倭王「興」に比定説。
F安康ー雄略ー幡梭皇女ー根使主ー大草香皇子の話。

2-21)雄略天皇(418−479)(在位;456−479)
@父;允恭天皇 母;忍坂大中姫
A子供;清寧天皇、稚足姫(以上母;韓媛)、磐城皇子、星川稚宮皇子、(以上母;稚媛)    春日大娘皇女 (母:童女君)
 皇后;草香幡梭姫皇女?(履中后)ーーー一寸疑問「安康の后の母親を弟雄略の后に勧めたことになる。」
妃;葛城韓媛(円大臣女)、吉備上道稚媛、春日和迩童女君(深目女)
B本名;大泊瀬幼武尊  允恭第5皇子 安康同母弟
C安康天皇が、「眉輪王」に殺害された後、眉輪王を唆し、黒幕ではないかと疑って兄の「境黒彦皇子」「八釣白彦皇子」を殺害。 (円大臣の話)
D後継として指名されていた従兄弟の「市辺押磐皇子」を狩りに連れだし射殺するなどその激し易い性格から「大悪天皇」と誹謗された。
E一事主神との出会いの話。
F東漢掬直、大伴室屋大連の話。
G新羅討伐百済再興の話。
H「宋書倭国伝」倭王「武」478年上表文記事に比定。埼玉県稲荷山古墳鉄剣銘「獲加多支鹵大王」(ワカタケル)熊本船山古墳、大刀銘などから、この大和政権が、九州から関東に及んでいたこと窺える。

2-22)清寧天皇(444−484)(在位;480−484)
@父;雄略天皇 母;葛城韓媛
A子供;なし
 皇后;なし
B本名;白髪武広国押稚日本根子尊 雄略の第3皇子
C御名代として、諸国に白髪部を定め、「億計(仁賢天皇)」「弘計(顕宗天皇)」を伊予来目部小楯が明石で見つけこの二王を迎え入れ、後継者とした。
D雄略没後、皇位を簒奪しようとする異母兄弟の星川皇子を倒して皇位についた。
 (星川皇子の乱)吉備稚媛ー星川皇子ー磐城皇子ー大伴室屋大連、東漢氏の話。
E大伴室屋大連、平群真鳥大臣の話。
F顕宗へ皇位が継承されるまでに「飯豊青皇女」(顕宗姉又は叔母)が中継をしたとの説 あり。

2-23)顕宗天皇(450−487)(在位;485−487)
@父;磐坂市辺押磐皇子 母;ハエ媛 (葛城蟻臣女)
A子供;なし
 皇后;難波小野王(雄略子磐城皇子の孫)                    B本名;弘計 来目稚子尊
C父「市辺押磐」が雄略に殺害された後、同母兄「億計」とともに播磨縮見屯倉に身を寄せていたが、清寧天皇に遣わされた「久米部小楯」に発見された。
D清寧没後、兄の億計と皇位を譲り合ったが、二人を発見した「小楯」に履中の後裔であることを明かしたのが弟弘計だったので、その功を兄に説得されて即位。


2-24)仁賢天皇(449−498)(在位;488−498)
@父;磐坂市辺押磐皇子  母;ハエ媛
A子供;手白香皇女、橘仲皇女、武烈天皇(以上母;皇后)、                春日山田皇女 (母;糠君娘)
 皇后;春日大郎皇女(雄略女)
 妃;和迩糠君娘
B本名;億計尊
C清寧の皇太子となったが、弟弘計に皇位を譲り、その没後顕宗に後継ぎがなかったので即位。

2-25.武烈天皇(489−506)(在位;498−506)
@父;仁賢天皇 母;春日大郎皇女
A子供;なし
 皇后;春日郎子
B本名;小泊瀬稚鷦鷯尊
C物部麁鹿火大連の娘「影姫」をめぐって当時国政を牛耳っていた大臣「平群真鳥」「鮪  (シビ)」親子と争い大連の「大伴金村」と謀ってこれを討ち即位。
D刑理を好み厳格にこれを適用。自らは諸悪の限りを尽くし人々に怖がられた。
E後継者がなく、継体天皇の即位を正当化するため、極悪人に仕立てられた。という説あり。
3)古代天皇家系図(10崇神天皇-25武烈天皇)
 
4)系図解説と概説
4−1)欠史八代
@古事記と日本書紀では、天皇妃の名前、その出自など一部異なる。筆者系図では混合して記述している。
この辺りのことに拘泥し出すと泥沼に入る恐れあるので、大勢に影響無いと判断した。旧事本紀もこの辺りに詳しいが、一部参考するに留めた。天皇名は総て同じである。
A1神武天皇妃五十鈴媛は、古事記は大物主神の娘であり、日本書紀は、事代主神の娘となっており、どちらにしろ出雲系の神様の娘という位置づけである。
即ち神武に征服された既存の大和在住の勢力の首長の娘。
それぞれ背景があろうがここでは余り気にしないことにする。
B欠史八代に関しては、神武天皇以外各天皇の事績は示されず、系図に関する記述が中心である。
これは、後述するように、古代豪族の出自に関する重要な伏線が記されたものと思われる。
古代豪族の皇別氏族に属する主な氏族の出自がこの欠史八代に集中している。
Cこの間の天皇は総て親子相続である。兄弟相続、親族相続なしである。
Dここに登場する天皇家以外からの天皇の后妃の出自が詳しくはないが記録されている。
例えば磯城県主、春日県主、大間宿禰、十市県主、尾張氏、物部氏、などなどである。
これが後世の古代豪族に関係してくる訳である。
E筆者系図には記さなかったが、非常に多くの氏族の祖とされる人物がこの八代の記述中に記されている。
Fその一部を本編1.入門 の稿に示した表に従って下記に示す。
1.蘇我氏      祖:武内宿禰ーーー8孝元天皇
7.紀氏        同上
8.葛城氏       同上
9.巨勢氏       同上
10.平群氏      同上
 
6.吉備氏      祖:稚武彦ーーー7孝霊天皇
18.越智氏     祖:彦狭嶋ーーー同上
 
11.太、多、大氏  祖:神八井耳ーーー1神武天皇
 
13.阿部氏     祖:武淳川別ー大彦ーーー8孝元天皇
16.膳氏      祖:大彦ーーーーーーーー同上
 
14.和邇氏     祖:天足彦国押人ーーーー5孝昭天皇
15.春日氏      同上   
以上皇別氏族
神別氏族の中でも物部氏、穂積氏、尾張氏は同根らしいが、別々に后妃を出した氏族として登場。
その他分類にした磯城氏、十市氏も后妃を出した氏族として登場。
G7孝霊天皇の娘として記載されている倭迹迹日百襲媛が、邪馬台国女王「卑弥呼」であるとの説は古くからある。また「箸墓古墳」の主ともされている。
その弟「吉備津彦」こそ魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」に仕えたただ一人の男であるともされている。
H9開化天皇の子として記されている「彦坐王」こそ古代史の裏面史の中心人物の一人に思える。注目必要。記紀で抹殺したい人物の一人か。
I欠史八代は、現在のプロの歴史家の研究対象からは完全に除外された神話の世界と同じ扱い。論外とされ、その系図の類も無視されている。
ところがアマチュア古代史ファンにとっては、推理物を解くパズルの世界みたいに、百花争論である。
神世と欠史八代は、日本の弥生時代の何かを記憶として、非常に大切なこととして留めてきたのではないかと筆者は思っている。(文字は勿論無かった時代のことである。)
系図は後世の者が辻褄がある程度あるように整えたのであろうが、実に良く出来ている。
ここに色々な古代豪族の系図が、複雑に絡んで来るわけで、正に系図の原点なのである。
記紀編纂の目的の一つとされた、各氏族の出自及び系譜のオーソライズの基本原本である。
記紀編纂時朝廷にいた各氏族の子孫は色々画策して、自分等の祖先を飾り立て、宣伝し、この基本原本の何処かに紛れ込ました。との説もある。
いわゆる政治的系図であり、真実とは関係ない。という説である。
総てがそうなら、40年もかけて当時のエリートが人生賭けてやっただろうか。違う。
これは譲れないという真実を記録してあるはずであると筆者は、信じているが(心情的なものであり、何らの証拠にはならぬが)いかがであろうか。
神武天皇即位を紀元前660年まで引き伸ばす為には、現実の天皇だけでは、足りないので、架空の天皇を10人造り、事績も無しにここに放り込んだだけのこと、詮索に値しない。単純で分かりやすい。でも??? 現代流に換算すれば1代20年として約200年の記録である。
10崇神天皇即位を紀元300年とすると紀元100年以降の記録である。
古墳時代に入る直前くらいであろう。日本には、弥生時代の小さな国々があちこちに乱立していた頃のこと。魏志倭人伝頃の話。
J日本書紀編纂の最大の目的は、天皇家は、天孫であり、他の豪族氏族とは全く異なり、万世一系であり、神格化された存在である、よって他のいかなる勢力もこれに置き換わることは出来ないということを、天下万民に知らしむるもとであった。
その立証手段の一つが、天皇家の系図作成であった。
26継体天皇以降は、蘇我氏という時の天皇家を凌駕するような勢力が表れたが、くしくも「大化の改新」によりこの天皇家を堅持出来た。
二度とこんな事が起こらぬように天武天皇は、詔を発して正規の国家事業として日本の歴史を明確にするよう命じた。
藤原不比等らは、盤石な国家体制を築くにはどうしたらよいか、練りに練った訳である。そこで得られた結論は、「天皇の神格化」と「万世一系の天皇家」の創作・演出であった。
日本書紀編纂は、このために最大の効果を発揮したのである。
我々後世の者にとってこれが幸福だったか不幸だったかは、意見が分かれるが、結果的に継体天皇からでも約1500年間この日本は、世界に類のない一系という血脈で繋がった天皇という存在を仰いで来たことは事実である。
この根本思想を造り、それを日本で最初に記録しているのが日本書記であり、古事記である。
K天皇家神格化の原点は、記紀の神世系図と欠史八代の系図部分である。
記紀には膨大な数の神様の名前が記述されている。
その神様に出自を有する豪族氏族も多く記録されている。(神別氏族)
しかし、その多くの神の中で「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」の間に産まれたとされる「天照大御神」こそ神の中の神と位置づけ、その孫「ニニギの尊」を天孫としてこの世(高天原)に送られた(天孫降臨)。
この「ニニギ」の直系子孫である神武天皇が、九州から東征して幾多の戦いをしながら大和に入って、新たな国を造ったのが天皇家の始まりである。とした。
この神武天皇は、大和の既存勢力の長であった出雲系の神様「大物主神(又は事代主神)」の娘「五十鈴媛」を娶り2綏靖天皇を産み以後連綿とこの血筋が続いてている。とした。
多くの神々は総て「天照大御神」に従う従神として位置づけられている。
よってその神々に出自を有する氏族(例えば、中臣氏、大伴氏、忌部氏などなど)は、初めから天皇家の直接の従臣という扱いである。
その頃は、直接の従臣の娘は天皇の后妃にはなれなかったとのことであるから、五十鈴媛など天皇家以外からの天皇后妃の出自、例えば、磯城氏、十市氏、物部氏、尾張氏、穂積氏など欠史八代に登場する氏族は、新たに天皇家に服した氏族であるという説もある。
これら欠史八代までの系図を明確化したことは、記紀編纂時でさえ、その年代の虚構性は想像出来たにしても、多くの有識者でさえ驚きであったものと思われる。
その前、各氏族から提供された各氏族の系譜の類も色々工夫されて、この欠史八代の中に組み込まれたに違いない。
例えば吉備氏、物部氏、尾張氏、大氏など。彼等も数百年も前のことになると自分の氏族の系譜でさえ判然とはしない。ましてや天皇家という彼等にとっては他人様のこと、「へえ、そうなの。でも俺の氏族のことも記録に載せてくれたんだからそれで良いわな」くらいな気持ち?でもこの時点で天皇家が天孫の血筋、今日まで一系であると本当に信じたか疑問である。
継体天皇からは本当であろう。でもその前色々大王がいたらしいが、血脈までは?って感じたのではないだろうか。(継体天皇が200年前、崇神天皇が400年前、それよりさらに200年位前のこと)でもこれだけ系図にはっきり記されると、それに反駁が出来る材料は無く、自分等の氏族さえ不利に記されてなければそれで良しとした。のではないか。
ところが時代を経ていく内にこの記紀に記された系図は、その威力を発揮し出し、天皇家の地位は盤石なものとなった。
藤原不比等らの思惑は、物の見事に的中したわけである。
明治以降一部の勢力がこれを悪用したことは記憶に新しい。
戦後その反動が来た。一種の記紀抹殺論である。
現在は冷静に日本の本当の歴史はどうだったかを、発掘考古学などの新たな手段をも用いて解き明かそうと地道な努力が続けられている。
その場合記紀は、有力な史料であることには間違いない。
しかし、この欠史八代の部分だけは、取り残されるのではなかろうか。各天皇の宮の場所は、記載がある。墓の場所もある程度分かる。だが、墓を発掘しても(現在は出来ない)この天皇のものであると比定することは、困難を極めるのではないか。
L欠史八代は、全くの虚構であるすると10崇神天皇に相当する人物は、どこから大和に来て、その父母は誰でどういう素性の持ち主なのか?またまた新たな底なしの疑問が生まれてくる。
そこから先は、記紀流に言えば神世の世界としますか。
 
4−2)10崇神天皇ー25武烈天皇
 日本の天皇の名前で「神」がついているのは、1神武天皇、10崇神天皇、15応神天皇の3人だけである。
天皇の名前は和風と漢風とある。現在一般的に用いているのは、漢風諡号と呼ばれているものである。(神武、崇神など)
これは奈良時代746年に淳仁天皇の命令により淡海三船が、歴代の天皇につけたものであるとされている。
よって記紀では本来和風諡号で記されてある。我々は、現在ではこちらは馴染まないので一般的には、用いない。
では奈良時代に何故上記3人の天皇にだけ神に字を付けたか。
古来色々議論されてきたらしい。いずれもこれぞ大和王権の最初の大王である。と言われた大王である。
ちなみに神武天皇と崇神天皇の和名は共に「ハツクニシラススメラミコト」である。
なお、天皇という呼称は正式には天武天皇以降でそれまでは、大王と呼んでいたらしい。(諸説あり)
@10崇神天皇から色々な記事が記紀に記されている。崇神天皇は開化天皇の子供と系図上なっているが、現在ではこの時九州からの新弥生勢力が大和の地に入り初めて大和王権と言われるものが誕生したとされている。
三輪王朝、イリ王朝とも言われている。
A12景行天皇までは、同一血族か?13成務天皇は、存在極めて疑わしい。らしい。
B10,11,12,13代付近から系図は極めて複雑、詳細になってくる。
各古代豪族の系図も詳細になり、天皇家とも絡んでくる。(筆者系図では省略してある)
C12景行天皇の子供とされている日本武尊(ヤマトタケル)は、記紀記述は非常に詳しくあるが、一人の人物ではなく複数の人物の事績を一人に集約して記したものと考えられている。
よって系図もあてにならないらしい。ヤマトタケル関係の系図は矛盾だらけであることは、筆者も確認した。
D14仲哀天皇、神功皇后あたりは創作くさいらしい。
E15応神天皇は、実在説、架空説現在も別れている。
この辺りで王朝は替わったとする説多し。河内王朝説、新九州勢力説。
F彦坐王は崇神天皇とは異質の系統とする説多し。この彦坐王の流れから神功皇后が出現し応神天皇が産まれこの応神の庶流、若野毛二俣王の流れから26継体天皇が出現24仁賢天皇の娘手白香皇女と結ばれて皇統を繋いだとするには、無理があるという説多し。
・応神の5世孫というのは、例え真実であれ、余りに皇統から離れている。
・19允恭天皇后忍坂大中姫(若野毛二俣王の娘)が20安康天皇21雄略天皇を出たので、それの関係から見れば天皇家と3代離れただけで何ら問題無いとの説もある。
・26継体天皇の出自については、記紀には明記されてない。
手白香皇女の入り婿とするなら、継体天皇は認めても、手白香媛との間に産まれた29欽明天皇は分かるが、継体天皇の連れ子である、27安閑天皇、28宣化天皇はおかしい。
よって継体天皇は、新王朝である。征服王朝と考えるべき。との説。などなど。
彦坐王ー神功皇后ー応神天皇ー継体天皇の流れは何かを暗示しているように筆者は思っている。総てが虚構とは思えない。
G16仁徳天皇ー21雄略天皇の間にいわゆる「倭の五王」が存在する。最後が21雄略であることは、間違いないとされている。
H仁徳天皇の后磐之媛は葛城襲津彦の娘とされ多くの天皇を産んだ。
しかし、允恭天皇だけは磐之媛の子供では無いのではとする説多し。
I23顕宗天皇、24仁賢天皇、25武烈天皇に関しては存在疑問説多し。
J22清寧天皇も存在感に乏しい。となると10崇神天皇から25武烈天皇までせいぜい9−10名の天皇しかいなかったことになる。
K約200年で10名それも兄弟天皇が複数いるとすれば一寸足りない気がする。
L仁徳天皇陵(大仙陵)を初めこの時代は、超大型古墳の時代である。
いずれはっきりする時が来るものと思っている。
Mこの時代に出自を有する古代豪族
(皇別氏族)
・3息長氏    祖:意富富杼王ーーー15応神天皇
・12毛野氏   祖:豊城入彦 ーーー10崇神天皇
・17和気氏   祖:鐸石別ーーー11垂仁天皇
記紀に初出する神別氏族
・2大伴氏   21雄略天皇の時大伴室屋大連となり活躍。
・8倭・大倭氏  10崇神天皇の記事に倭氏子孫とされる市磯長尾市宿禰登場
・13三輪氏    10崇神天皇の記事に三輪氏子孫の大田田根子登場
・11土師氏    11垂仁天皇の記事に土師氏祖とされる野見宿禰登場。
など 多くの豪族がこの時代に初登場する。勿論祖は神なので神代で名前だけは出ている。
 
4−3)概説
 この時代こそ古代史研究の中心部分である。
古代豪族入門で述べたように、日本の歴史は縄文時代、弥生時代、古墳時代、となり継体天皇以降は天皇毎に歴史が記述されることに現在はなっている。
古い分類では、平安時代末までが古代の分類にはいる。
さて、古代初期天皇家とは、筆者が便宜上用いた表現である。
継体天皇までの天皇家をそう呼ぶことにした。初代神武天皇ー9開化天皇までは、この稿では、参考までに留める。
10崇神天皇から25武烈天皇までをどう捉えるかで、今後の議論に関係するので筆者のスタンスを事前に述べておきたい。
3世紀末頃崇神天皇と称された大王が日本国大和国の中心付近に誕生した。
未だ日本国全体を治めるなんてレベルではないが、九州から瀬戸内、近畿、尾張付近までくらいの或程度主立った国々を緩やかに統治し始めたというレベルの王の中の王、大王と認知される人物が現れたと解している。
これから約200年間に幾つかの王朝交替があった可能性大である。
しかし、その交替にあたって、源平合戦のような争いがあって、前の王朝とは縁もゆかりもない形で王朝交替が行われたとは、思い難い幾つかの記紀上の記述がある。
小規模な争いの形跡はある。前王権への婿入り、猶子、母系的繋がり、など系図的には、繋いだのではなかろうか。男側の血脈が繋がったかどうかははなはだ怪しい。
例えば景行天皇から応神天皇の間???雄略天皇から継体天皇???この間を古代豪族の側から見ると、物部氏、大伴氏、葛城氏、蘇我氏、阿部氏、中臣氏、紀氏など主立った氏族では大きな変化の記録が残されてない。
即ち天皇家を支えた豪族側に変化が余り無くて、天皇家だけが大変化したとは考え難いのである。
それとも記紀上抹殺したこれ以外の氏族があったのか。
天皇家は崇神天皇以降ずっと特異な存在として他の豪族と区別されていたのか?
筆者は、独断と偏見で次ぎのように考えている。
当時大和付近には精々数万人くらいしか弥生人はいなかった。その中で親分的な存在は精々百人未満いやもっと少なく十人ほどの豪族の長でしかなかった。
となると、この間での婚姻関係は相互に頻繁に行われていたと解している。
それがお互いの争いを防ぐ最大の方策であった。以後のはっきり歴史が分かってからの事情を解析すれば、極々当たり前自然の成り行きと判断出来る。
この時代だけは別であるとする方が、はるかに考えにくいことである。
 即ち、この時代には、後の天皇家(天孫族、特別な存在)という概念は、未だ無かったと見る。
より強い、より多くの氏族の合意がとりやすい人物が、後に大王と呼ばれるようなまとめ役的立場に血脈とは関係なしになったのではなかろうか。
勿論雄略天皇のように、武力一本でその立場を勝ち取った大王もいたであろう。
大和のまとめ役「大王」は常にいたであろう。中国、朝鮮など対外的にもそれは、必要とされていた。
特殊な氏族(天皇家)だけがそれを引き継ぐ形になるまでには時間が、かかったとみる。
大型前方後円墳の構築ははたして何を意味しているのか。
勿論総てが天皇(大王)のものではないことは、分かっている。天皇、后妃、皇子など何等かの形で天皇家に血族的に繋がりのある者の墓であることも間違いないらしい。しかし、天皇家と直接関係にない豪族(例えば吉備氏、葛城氏など)のものと言われる物も幾つか判明されている。
未だ超大型古墳でさえこれが誰の物か比定は非常に困難らしい。
今後さらに時間がかかるであろう。記紀に全く記録が残されてない人物の墓である可能性も否定出来ない。
筆者は、記紀は一部創作、改竄はあるかも知れないが崇神ー武烈までは、ほぼ総て天皇として記録に残したものと思っている。
200年で15名程の天皇は、合理的である。むしろもう少し多く存在してもおかしくないと思っている。
この間にその後に力を得てくる各豪族の実質的な「祖」が発生したものと判断している。
古来、文字・漢字の日本への伝来は、「王仁」が千字本として応神天皇の頃に持ってきたものであるという説が強いが、これも本当は古代史の謎の一つである。
文字が記録された遺物としては「漢倭奴国王」印が一番古いものとされている。
しかし、北九州を中心に弥生時代初期から中国、朝鮮半島とは人的交流はあったことが確認されている。
その時一部の人は、漢字でやりとりしたことは、容易に想像出来る。
勿論漢字を解する人もいたわけである。各種の銅鏡に残された文字、4世紀に持ち込まれたとされる「七支刀(現存)」に刻まれた文字、埼玉稲荷山古墳の発掘調査で見つかった鉄剣文字(諸説あるが471年頃のもの)、などなど。
では系図の類は何で各氏族伝承してきたのであろうか。文字を含む何等かの形で残された可能性は大である。
前述の稲荷山鉄剣には一種の系図らしきものが刻まれている。雄略天皇の頃には地方でも文字が使われていた証拠である。
筆者は崇神ー武烈までの間の各種氏族の系図は、記紀に記されたものを大略において信用することにした。
勿論天皇家系図なるものも大略信用に値すると判断した。
この複雑な系図を単なる創作だけで造れる訳がない。信用して理解した上で、どこに矛盾があるかを探った方が理にかなっている。
記紀の目的の一つが、8世紀時点で各氏族がバラバラに主張していたその氏族の出自、系図、系譜の類を公的に点検、整備することにあったわけであるから、各氏族間で余りに現実(彼等の氏族に伝わっていること)と遊離した系図なら、彼等が記紀そのものを支持しなかっただろうと思う。
当時の氏族にとって系図は何よりも大切なものであったと判断する。
(その価値の大切さは、現在の我々では想像を絶するものであったと推測)記紀がその後も大切に扱われたのも多くの天皇家以外の氏族にもそれなりに支持されたからと、判断。
後世平安時代(815年)に公的に編纂された「新撰姓氏録」でも記紀の記述が基になっていることは言うまでもない事実である。
よって現在の我々が、物的証拠がないから継体天皇以前の天皇家、古代豪族の系図の類は、全く信用出来ない嘘八百の作り事、日本の本当の歴史を探究する上では価値のないものである。よってそのようなものを現代の若者、日本人に知って貰う必要はない。とする一部歴史学者の態度には筆者は組しない。
過去1、000年以上に亘って日本人の有識者が自分等の祖先がどうであったかを知るよりどころとした原点は「記紀」である。
現在の我々も先ずこれに何が記載されているかを良く知ることが、日本の歴史探究の源点である。
その上に立って、論理的に矛盾することの解明、発掘調査の結果との照合、中国、朝鮮半島の歴史との整合など色々な観点でしていくことこそ重要である。
そこから初めて現在の日本人の価値観、道徳観、民族性、習性、などの源が伺い知れることになるきっかけ的因子の把握が可能になるものと信じる。
単純ではない。しかし、奈良時代で日本の人口はせいぜい700万人程度であったであろうとの説もあり、我々日本人は、この血族であることに間違いない。
遺伝子は、個人では如何ともし難い支配因子の一つである。好むと好まざるを越えて我々の行動の根幹を支配している因子の一つではなかろうか。
その源流の一端を「古代豪族」の生き様を知ることにより探ろうとするのが筆者の試みである。
従来の天皇家中心の歴史だけではよく理解出来なかった古代人の姿が見えてくる。また歴史的有名人個人だけ知るのでは駄目である。
その背景にいる祖先、子孫、兄弟、母親の祖先、兄弟、その子孫をたぐれるだけたぐって初めて理解出来ることが多い。本シリーズはその試みである。その意味で、この謎の崇神天皇ー武烈天皇時代の200年間は、興味深い日本の曙時代である。

5)まとめ
1)大和政権、日本のまとまった国としての体制の誕生の頃の真実の姿は未だはっきりしてない。少なくとも記紀に記述された年代表示は論理的に、常識的に誤りである。(意図的虚構であるとする説多し)
2)大和政権の誕生を3世紀末から4世紀初めだと仮定し、最初の天皇(大王)を記紀に記された崇神天皇に相当する人物だとすると、それ以降の各天皇の実在性を完全に否定しなくても年代的には、実在性の確実な継体天皇(6世紀初め)に繋げられる。
3)崇神天皇から継体天皇まで血統的に一系の天皇家体制が続いたかどうかは色々の点で怪しい。幾つかの王朝が交替したものと考える方が妥当、との説が現在の主流的考え。
但し、系譜的に完全に切れた王朝が次々に誕生したとは言えない。男系統では血は切れた大王が誕生したかも知れぬが、女系では前王朝と連続性が保たれたかも知れぬ。歴史的には征服者が被征服者の女性を娶り、前政権勢力との融和をはかることは、世界的に行われてきたことである。また単なる婿養子的継続は当たり前的に行われたと考える。
4)初めから天皇家だけが特別な氏族(天孫族)と考えられていたとは思えない。幾つかの有力豪族(お互いに婚姻関係はあったと思われる)の間の中で実力ある人物を大王として仰ぎ、徐々に一つの氏族にその権力体制が収斂していったものと思われる。
5)古代豪族と言われる氏族も、この間に徐々にその形がはっきりしてきた。
後に皇別氏族、神別氏族と分類されるようになるが、これは記紀に記述されたことに基づいたもので真実の実態とは無関係ではなかろうか。
6)記紀は8世紀の時点で、過去のもやもやしていた各氏族の出自問題を当時の天皇家と峻別し、天皇家は他のいかなる氏族とも異なり(天孫族)、これを犯してはならないと主張。何故ならば、ここに記された神代からの系図がその証拠である。それぞれの主な氏族の系図も併記されて、天皇家との関係も明確化された訳である。とするのがその編纂の主目的であった。    
当然この主張には何処かに無理、虚偽がある。これを歴史的事実に照り合わせ、真実の部分と、虚偽の部分を選り分ける作業が現在色々な専門家の手で行われている。
前方後円墳の発掘調査こそ最後の決め手となろうが、特定の個人の比定は墓誌でも存在しない限り無理である、記紀が最後の拠り所である。
7)筆者は以上の観点も考慮しながら「古代豪族」に中心をおいて今後の検討を進める。
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