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  39.倭・大倭(やまと)氏考(大和国造氏)  
 
1)はじめに
倭(やまと)は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるわし
有名なヤマトタケル尊の歌(古事記)とされている。(日本書紀では景行天皇の歌とされている)
「まほろば」は「真秀らば」とも記され、すぐれたよい所・国、素晴らしい場所・住みやすい所と解されている。さらに転じて山や丘に囲まれた所という意味である。 
この歌の冒頭にある倭(やまと)が本稿の古代豪族「倭(ヤマト)氏」に冠せられた名前である。
 筆者が子供の頃、戦後直後であったが「ヤマト」と言えば戦艦ヤマト・不沈艦ヤマトを表す言葉であった。それ以上でもなく、それ以下でもなかった。その後、宇宙戦艦ヤマトという言葉が日本中の子供たちに知れ渡った。勿論子供にとって、このヤマトという言葉が何を意味するのかは不可解なものであったが。
大和魂・大和撫子・大和言葉・大和民族・大和朝廷・大和王権・大和政権などいずれもヤマト○○と称した。
古事記では夜麻登(ヤマト)と表記されており日本書紀には倭・日本(ヤマト)と表記されている。国号としては、古事記は「倭(夜麻登)」日本書紀では「日本(訓:耶麻騰)」に統一されている。
倭(ヤマト)から「大倭(ヤマトまたはオオヤマト)」一時「大養徳(ヤマト)」とも表記されたが、さらに「大和(ヤマト)」(続日本紀)になり、さらに「日本(ヤマト)」と表記されるようになるのである。詳しいことは後述することにするが、非常に難解な問題を裏に秘めているのである。
古事記では、初代天皇神武天皇の和風名を神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)日本書紀では神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)と表記している。
人名にヤマトという言葉が出現するのはこれが最初とされている。これ以降多くの人名にヤマトという言葉が冠せられているのである。4代懿徳天皇:大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとも)6代孝安天皇:日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひと)7代孝霊天皇:大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとに)8代孝元天皇:大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくる) 孝霊天皇子供:倭国香媛・倭迹迹日百襲媛・倭迹迹稚屋姫 9代開化天皇:稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこおおひひ)孝元天皇子供:倭迹迹姫 10崇神天皇子供:千千衝倭姫・倭彦 11垂仁天皇子供:倭姫12景行天皇子供:倭武(ヤマトタケル) などである。
41持統天皇:大倭根子天之廣野目女尊(おおやまとねこあめのひろのひめ)
50桓武天皇:日本根子皇統弥照尊(やまとねこあまつひつぎいやてらす)などなど多数。
ヤマトという冠称が付く人物は天皇家周辺にしかいないのである。よってこれらは総て個人名であり豪族名、一族を表する言葉ではないのである。
このヤマトという言葉は、何を意味する言葉なのであろうか。いつ頃から使われ出した言葉なのであろうか。これがまた難問である。
ヤマトを言い表す漢字としては、表音文字は別として、訓文字では、倭が最初である。この「倭(わ)」という漢字が何故ヤマトを表記する漢字になったのか?
倭・大倭・和・大和・日本いずれもヤマトと発音される漢字である。いずれも通常にはヤマトとは読めない漢字である。これも難解な問題である。
筆者は昔、司馬遼太郎の本の中で「倭人(わじん)」というのは、古代に中国・朝鮮半島の国々の人が日本列島に住む人を倭人と称した。その意味は「ふんどしをして、顔に入れ墨をした背の低い野蛮な種族」ということで一種の蔑称だったと思われる、と。倭寇というのもその名残の言葉であるとされている。
これらの問題についても筆者の調査した結果を後述したい。
この「倭」という名前を有した古代豪族が存在していたことは、史実だと考えるのである。しかし、その元祖部分は謎に満ちている。「尾張氏考」で一部紹介した国宝 海部氏系図(勘注系図)も関係してくるのである。深く考えれば日本古代の縄文人・弥生人の問題まで波及する話になる。文献・系図だけでは理解し難い問題を孕んでいると考えている。
倭氏を理解することは、筆者のようなアマチュアには到底無理である。しかし、その一端だけでも知ることが出来ればと思い、本稿に取り組んだのである。
 
2)倭氏人物列伝
倭氏の祖を国神・地祇とする説。天神とする説。天孫とする説が併存している。筆者は新撰姓氏録に基づく地祇説で列伝を記すことにした。異説も併記したい。
本拠地は大和国山辺郡大和郷とされている。

・伊弉諾尊・伊弉冉尊
 
・綿積豊玉彦
@父:伊弉諾尊 母:伊弉冉尊
A子供:豊玉毘売(彦火火出見尊妃)玉依毘売(鵜草葺不合尊妃)宇都志日金折命(別名:穂高見命:安曇氏祖)振魂命
 
・振魂命
@父:綿積豊玉彦 母:不明
A子供:武位起命・天前玉命(尾張氏祖)・大鐸比売(オオヌテひめ)
 
・武位起命(たけいたて・たけくらたつ・たけくらき)
@父:振魂命(異説あり) A母:不明
A子供:椎根津彦・八玉彦(八木氏祖)  別名:建位起
異説1(海部氏勘注系図)天孫系
父:彦火火出見 母:不明
父:彦火明 母:不明
異説2(先代旧事本紀・皇孫本紀)天孫系
父:彦火火出見 母:玉依姫?
異説3天神系
父:天神振魂尊(高皇産霊尊と同格の神) 母:不明
 
2−1)椎根津彦(しいつねひこ)
@父:武位起命(異説あり) A母:不明(異説あり)
異説:海部氏勘注系図
父:天村雲  母:丹波伊加里姫
A子供:志麻津見 妻:不明 
異説(海部氏勘注系図)子供:笠水彦 妻:豊水富(井比鹿)
別名:珍彦・宇豆彦・倭宿禰(勘注系図)・槁根津彦・神知津彦
B出自:皇孫本紀:彦火々出見尊の御子武位起命は大和国造等の祖。椎根津彦は武位起の子または孫、とある。
新撰姓氏録:地祇
C古事記神武段:東征伝で備前国高嶋宮で神武に会い道案内する。
亀の甲に乗りて釣りしつつ打ち羽ふり来る人、速吸門に遇ひき。爾れ喚びよせて汝は誰ぞと問はしければ、僕は国神と答え申しきーーー名を賜いて槁根津彦と号す。
D日本書紀神武紀:珍彦は、豊予海峡とされる速水乃門で東征中の神武を迎える。ーーー因って問ひて宣す、汝は誰ぞやと、応えて申さく、臣は是国神なり、名を珍彦と白ふ。ーー水先案内人になる。神武から椎根津彦の名を賜る。倭直部の始祖。
また、倭(ヤマト)での兄磯城との戦いでも功を挙げた。
この功により神武天皇が即位後に初めて倭国造に任じられた。
E国造本紀:橿原朝の御世、椎根津彦を以て初めて大倭国造と為す。
 
2−2)志麻津見
2−3)武速持
・民磯媛
@父:武速持 母:不明
A夫:三輪氏大御気主 子供:阿田賀田須(太田田禰古の父)
B先代旧事本紀記事
 
2−4)邇友倍
2−5)飯手宿禰
2−6)御物宿禰
 
2−7)市磯長尾市宿禰(いちしのながおち)
@父:御物宿禰 母:不明
A子供:五十野宿禰・矢代宿禰(明石国造・吉備海部氏ら祖)
(宇豆毘古(椎根津彦)の7世孫)
B崇神紀6年7年記事:大和大国魂神を渟名城入姫命に託して祀らせた。髪が抜け体が痩せて祀ることが出来なくなった。その後夢占いによって、太田田禰古を大物主の祭主とし、市磯の長尾市を倭大国魂神の祭主にしたら必ず天下太平となる、となった。
C垂仁紀7年記事:倭直祖長尾市を出雲に派遣した記事。
D垂仁紀25年記事:一書にいうで、上記崇神紀6年記事と同一の記事あり。
垂仁朝に倭大国魂神を大和神社(大和坐大国魂神社)に祀って創始。
10代崇神天皇と尾張大海媛の間の皇女である渟名城入姫命は、疫病が流行した原因が天照大神と倭大国魂神を宮中に合祀していることにあるとして二神が別けられた時、倭大国魂神を託されたが、髪が抜け身体が痩せて祀ることが出来なかった。そこで、神託により新たに祭祀を任されたのが、この長尾市宿禰である。
 
・吉備海部乙日根
@父:矢代宿禰 母:不明
A子供:阿加日子・黒日売
B
(参考)
・吉備海部直赤尾
雄略7年(463?)紀:
・吉備海部直難波
敏達2年(573)紀:
・吉備海部直羽嶋
敏達12年(583)紀:
 
・黒日売
@父:吉備海部乙日根 母:不明
A夫:仁徳天皇 子供:不明   別名:吉備兄媛?
B古事記仁徳天皇段:「天皇、吉備の海部直の娘、名は黒比売、その容姿端正しと聞こしめして、喚し上げて使いたまいき」とある。それが仇となって、皇后の石之日売命(磐之媛 葛城襲津彦娘)の嫉妬をかい、実家の吉備に逃げ帰る。
天皇は黒日売が忘れられず、皇后に嘘までついて黒日売の実家まで会いに行くが、その時、黒日売側は天皇に「大御飯(おほみけ)」を献じている。
C黒日売が天皇に贈った歌「倭方に 西風吹き上げて雲離れ 退き居りとも 我忘れめや」これは「丹後国風土記」の浦島子伝説の中に見える、「大和べに風吹き上げて 雲ばなれ 退き居りともよ 吾を忘らすな」の類歌か?もとは瀬戸内海の港の遊女の歌であったろうと言われている(藤田徳太郎著「日本歌謡の研究」)。海人部に伝わった歌を、傀儡女が伝承したものであろう。とされている。
 
(参考) 吉備氏考より
・吉備兄媛
@父;吉備武彦 母;不明
A15応神天皇妃
B日本書紀のみに記事有り。倭氏黒媛の記述が古事記のみにある。このことから黒比売と
兄媛は同一人物であり、応神天皇と仁徳天皇も同一人物であるとする説あり。
 
・黒比売
@父;吉備海部直 母;不明
A仁徳天皇の側室
B后「磐之媛」の嫉妬を怖れ故郷へ帰ってしまった。天皇は吉備まで追って行った話有名
 
2−8)五十野宿禰
2−9)蚊手宿禰
 
2−10)鳴子宿禰
@父:蚊手宿禰 母:不明
A子供:倭直祖麻呂・倭吾子籠・日之媛
 
・倭直吾子籠(あごこ)
@父:鳴子宿禰 母:不明
A子供:不明  妹:日之媛
B仁徳天皇即位前紀記事:吾子籠は、韓国に派遣され未だ戻っていなかった。云々記事。
C仁徳62年紀:倭屯田は垂仁の世、大足彦命に定められたのであってこれは御宇帝皇の屯田で帝皇の子であっても御宇でなければ掌ることは出来ない山守地であるとするのは誤りであると答えた。
D履中天皇即位前紀記事:履中の同母弟、住吉仲皇子の叛乱に関係した記事。親戚の淡路の野島の海人阿曇浜子(一書:安曇連黒友)も住吉仲皇子に荷担して捕らわれた。吾子籠も仲皇子に荷担し捕らわれた。急遽妹の日之媛を履中の采女に差し出して死罪を免れた。倭直が宮中に采女を奉るのは、この時に始まった?(上記黒日女の方が先である)とある。
E允恭7年紀:倭直吾子籠の家に衣通姫をあずかった記事。
F雄略2年紀:狭穂子鳥別を貢り、宍人部とした。大倭国造吾子籠宿禰とある。
G直姓はいつ頃からかは不明である。応神朝頃か?(太田 亮説)
H仁徳朝ー雄略朝ころまで倭国造との説あり。
 
2−11)倭麻呂
@父:鳴子宿禰 母:不明
A子供:名杭   別名: 倭直祖麻呂 これを祖麻呂と解する説もある。
B仁徳天皇即位前紀記事:仁徳は倭直祖麻呂に問うた「倭の屯田は、もともと山守の地というのはどういうことだ」答えて「臣は知りませんが、弟の吾子籠が知っております」
 
2−12)名杭
2−13)由岐庭
 
2−14)手彦
@父:由岐庭 母:不明
A子供:邑智
B欽明23年(532)紀:古墳時代の将軍。対新羅戦で活躍記事。
C欽明朝の国造。
 
2−15)邑智
 
2−16)大倭龍麻呂
@父:邑智 母:不明
A子供:五百足
B天武朝記事:681年連姓を賜る
C683年に一族が連姓となる。
D685年に忌寸姓
 
2−17)五百足(いおたり)
@父:龍麻呂  母:不明
A子供:小東人(長岡) 水守
B和銅7年(714)記事:従5位下大倭忌寸五百足を以て氏上と為し神祭を主らしむ。
C文武元年(697)紀:迎新羅使となり筑紫に赴いた。
D神護景雲3年(769)記事:刑部少輔従五位上の記事
E大倭国造
 
2−18)長岡(?−769)           
@父:五百足 母:不明
A子供:    別名:小東人
B716年遣唐使  奈良時代の明法家
C天平9年(737)記事:散位正6位上大倭忌寸小東人・大外記従6位下大倭忌寸水守に宿禰姓をそれ以外の同族に連姓を賜る。
D738年刑部少輔   三河守・河内守など歴任。
E養老律令(757年)選定
F768年正四位下に叙せられる。
G神護景雲3年(769)記事:大和国造正四位下大倭宿禰長岡卒す。
H延暦10年(791)記事:律令24条を制定の記事。
 
・水守
@父:五百足 母:不明
A子供:
B天平9年(737)記事:大外記従6位下大倭忌寸水守に宿禰姓
C天平19年(747)記事:大倭神主正6位下大倭宿禰水守従五位下を授く。
 
その他人物記事
・天孫本紀 倭国造祖・比香賀君玉彦媛:物部伊呂弗妃・子供:物部目?
・和銅7年(714)記事:大倭国添下郡大倭忌寸果安
・天平15年(743)記事:倭武助が典薬頭従五位下に叙せられた。
・天平20年(748)記事:大和連深田・魚名 宿禰姓になる。
・天平勝宝3年(751)記事:大和連田長・古人が宿禰姓となる。
・天平宝字2年(758)記事:大和宿禰弟守従五位下。大和宿禰斐大麻呂が外従五位下に叙せられた。 
・宝亀8年(777)記事:大和宿禰西麻呂従五位下。 
・延暦2年(783)記事:大倭伊美生羽が伊勢少目になる。
・貞観5年(863)記事:大和国城上郡人正6位上大和宿禰水胤・典兵外従五位下大和宿禰継子など本拠を改め右京職となった。
・大和連虫麻呂:造東大寺司人
・仁安二年(1167)記事:大倭歳繁による「大倭神社注進状」発行。
 
3)関連神社
3−1)大和(おおやまと)神社(奈良県天理市新泉町星山306 )
@祭神: 日本大国魂大神・八千戈大神・御年大神
A社格:式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・別表神社
B創建:崇神天皇12年 (社伝)
C祖神:宇豆毘古(珍彦命、椎根津彦)
D由緒:日本書紀:元々倭(日本)大国魂神は天照大神とともに大殿に祀られていたが、世の中が乱れ、両神の勢いを畏れ、崇神天皇6年、倭大国魂神を皇女「渟名城入姫」を斎主として祀らせた。しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神7年、「倭迹迹日百襲媛」が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。大倭直の祖・市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主として、創建された。
E当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓大市の長岡崎(旧穴磯邑大市長岡の崎)(現在の桜井市穴師および箸中の付近:垂仁紀)であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。一説には現在の長岳寺の位置であるという。
F692年持統天皇は藤原京の造営にあたって、伊勢・住吉・紀伊の神とともに当社に奉幣し伺いを立てた。
G897年正一位の神階が授けられた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」は、名神大社に。
H平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。
I1871年官幣大社。
 
3−2)大和大国魂神社(兵庫県南あわじ市榎列上幡多857 ) 
@主祭神: 大和大国魂神 
・ 配祀 : 八千戈命、御年命、素盞嗚尊、大己貴命、土御祖神
A社格: 式内社(名神大)・淡路国二宮・県社
B創建:不詳(5世紀?)
C創建理由: ・大和神社の最初の祭主であった市磯長尾市の出自が九州の海人族であった関係により、大和神社を海人族の住む淡路島へ特別に勧請したと言う説。
・淡路の海人の槁根津彦が倭直の祖と言われることから三原郡の国魂神を大和大国魂神と称したとする説。
・淡路が大和政権樹立の最初の寄留地であったからとする説。などある。
『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、大和朝廷の支配と係わって勧請の時期を5世紀とする説があることを紹介している。
D 由緒: 当神社は大和朝廷の勢力が淡路に及んだとき、その支配の安泰を願って大和国山辺郡の大和坐大国魂神社(現在の大和神社)を勧請した、と考えられているのだと言う。さらに同書では創建理由に異説があることに触れ、
『日本文徳天皇実録』 851年:詔によって当神社が官社に列せられている。
『日本三代実録』 859年:神階が従二位勳三等から従一位に叙された。
『延喜式神名帳』927年:式内社、名神大とされた。
『神祇官諸社年貢注文』1165年:「淡路国二宮〈炭五十籠薪百束〉」の記述(淡路二の宮初見)。
 
3−3)椎根津彦神社(大分県北海部郡佐賀関町神山)
@祭神:椎根津彦、武位起神、稲飯神、祥持姫命(さかもつひめのみこと)………椎根津彦命の御姉で稲飯命の御妃。稚草根命(わかかやねのみこと)…………祥持姫命の御子(早吸日女神社考)。 他
A社格:
B創建:不詳 椎根津彦命が倭国造に任ぜられた時?
C由緒:日本書紀:神武天皇東遷の時当地、速吸之門(現在の古宮)にて珍彦の奉迎を受けられる。珍彦は神武天皇より「椎根津彦」と御名を賜わった後、水先案内として付従い、しばしば、勲功をたてた。天皇は大和国橿原宮に於いて、初代の天皇として即位され、天皇は論功行賞を行い、椎根津彦命が倭国造に任ぜられた。これを伝え聞いた里人らがその後、小祠を建ててお祭りしたのが創祀と伝えられている。
 
3−4)早吸日女神社(大分県北海部郡佐賀関町)
祭神:八十枉津日神、大直日神、三筒男神、大地海原諸神
社格:式内小社
現在この神社が上記椎根津彦神社をも祀っている。
 
3−5)籠神社(京都府宮津市字大垣)
@主祭神:彦火明命(籠守大明神)、豊受大神、天照大神、海神、天水分神
A祖神:彦火明命
B社家:海部氏
C社格:式内社(名神大)・丹後国一宮・国幣中社・別表神社      
D創建:719年 その前身は神代
E由緒: 神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮眞名井原に豊受大神をお祭りして来ましたが、 その御縁故によって人皇十代崇神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑からおうつりになって、 之を與謝宮(吉佐宮)と申して一緒にお祭り致しました。その後天照皇大神は11代垂仁天皇の御代に、 また豊受大神は21代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢におうつりになりました。それに依って当社は元伊勢と云われております。 両大神が伊勢にお遷りの後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮(このみや)と改め、元伊勢の社として、 又丹後国の一之宮として朝野の崇敬を集めて来ました。
≪平成祭データより≫
F海部氏系図は国宝指定されている。
 
3−6)出石神社 (兵庫県豊岡市出石町宮内99 )
@主祭神: 天日槍命・出石八前大神(天日槍が新羅から持ってきたとされる八種の神宝)A社格: 式内社(名神大)、但馬国一宮、国幣中社、別表神社
B創建: 奈良時代  『一宮縁起』なる社伝によれば、谿羽道命と多遅麻比那良岐命が祖神天日槍を祀ったのが始まりと云う。説あり。
C由緒:天日槍は、『日本書紀』によると、もと新羅の王子であったが、国を弟に譲り、垂仁天皇のとき八種の神宝を持って日本に来り、但馬国に定着したという。神宝は『古事記』に、珠二貫、比礼(領布)四枚、鏡二枚とされ、これを伊豆志八前大神と称している。しかし、その創建の年代は詳らかではない。
日本記略(859年):但馬第一の大社
『続日本紀』:868年従五位上874年正五位上
『延喜式神名帳』927年:式内社、名神大社へ列格された。
但馬一宮として栄えたが、1504年社殿焼失1524年再建、豊臣秀吉により社領を没収され、以降勢いを失う。
当初は天日鉾の裔である出石君氏が社家であったが、その後大倭姓長尾氏が社家となり世襲した。
4)倭氏関連系図・表
・倭氏(椎根津彦)出自系図<姓氏類別大観準拠>
・「倭氏」「大倭氏」関連系譜<姓氏類別大観準拠>
・系図纂要
・海部氏勘注系図1
・海部氏勘注系図2
・先代旧事本紀 皇孫本紀
・先代旧事本紀
・倭宿禰関係図(諸説)
・海部氏勘注系図詳細
・椎根津彦神社伝承など参考 椎根津彦出自系図
・表1:倭・倭人・倭国関連文献中国歴史年表(関連日本・朝鮮年表)
・表2:「倭」表記の変遷
 
 
 
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
      
     
     
     
     
     
     
     
     
     
     
   
(表1)倭・倭人・倭国関連文献中国歴史年表(関連日本・朝鮮年表)
西暦 時代 文献記事:倭・倭人・倭国関係
BC 殷を倒し西周建国。(BC1134?−BC256)
1100 ・成王(BC1115−BC1079)
     ・「論衡」倭人記事:「周時天下太平 倭人來獻鬯草」  
     「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」  ・日本は縄文時代晩期
770  春秋時代   (BC770−BC476)  
     ・孔子(BC551−BC479)  
    ・論語 子罕第九    
      「欲居九夷」「子曰、道不行、乗桴浮于海」公治長第五  
403   戦国時代  (BC403−BC221)または(BC475−BC221)  
     ・「山海経」倭記事:「蓋國在鉅燕南 屬燕」  
・日本は弥生時代極初期か
 
221     始皇帝が6国を滅ぼし中華統一  
     ・BC210年始皇帝没  ・日本は青銅器文明の初期(BC2c頃説もある)(製銅も可?)
 207      
   前漢(東漢)    劉邦建国  
     ・BC141年武帝(BC156−BC87)即位  
    ・BC108年武帝が朝鮮半島に楽浪郡など漢四郡設置    
     ・「山海経」完成 伯益・劉?(?−23)?成立時期秦ー漢時代?  
       
 AD 8   新    ・日本は鉄器の使用普及初め(AD1−2c)(製鉄は6c頃?)
  25 後漢(西漢)   光武帝(BC6−AD57)漢を再興  
     ・「漢書」地理志完成  班固(32−?)AD82年完成  
    倭人記事:「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、     設浮於海、欲居九夷、有以也夫。楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」   ・日本(北部九州)は、王が出現し、楽浪を通じて交渉開始。  
    ・「後漢書」東夷伝記事 
「建武中元二年(AD57倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫         倭國之極南界也 光武賜以印綬」(委奴国王金印
「安帝永初元年(AD107年倭國王帥升等獻生口百六十 人願請見」 「會稽海外有東?人 分爲二十餘國」
 
     
     
・「北史」倭国伝記事
           「後漢書」東夷伝記事と同一記事あり。
 
     
・隋書倭国伝記事
   安帝時(106−125)、又遣使朝貢、謂之倭奴國
 
     ・184年黄巾の乱  
    ・「倭国乱れ相攻伐すること歴年」(後漢書記事)高地性集落    
     
・(参考)184年頃 東大寺山古墳鉄刀銘文
 「中平□□ 五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿□□□□」
 
 
     ・「論衡」完成 王充(27−97)2c末頃出版?  
     
「後漢書」檀石槐伝記事
 「光和元年(AD197年)冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 ーーーー           ー 其中有魚不能得之 聞倭人善網捕 於是東?倭人國 得千            餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」
 
 
    ・204年帶方郡設置    
     ・210年(189年説有り)卑弥呼が王に立てられる。魏志倭人伝  ●弥生時代後期が終わり、古墳時代前期になる。
 220  三国時代  魏呉蜀併存時代(220−280)  
    ・魏志倭人伝記事239年に卑弥呼に親魏倭王の金印授与。    
     ・245年魏から倭の難升米に黄幢を賜う。  
     ・247年、女王は太守王に載斯烏越を使者として派遣して狗奴国           との戦いを報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。  
     ・248年卑弥呼没。台与が立てられる。  
    ・255年倭使が何度も魏に至る。    ・260年頃巻向型前方後円墳が各地で築造され始める。
       
 265      
   西晋   (265−316)  
     ・266年倭の女王の使いが晋に至る。「晋書」四夷伝・帝紀  ●270年頃ヤマトに箸墓古墳築造。
       
    ・289年「東夷絶遠三十餘國 西南二十餘國來獻」「晋書」四夷伝    
   
・「魏略」完成 魚豢(ぎょかん)270−280年頃
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」
 「三国志・魏志倭人伝、梁書諸夷伝東夷条などもこの文献を参考にしたともいわれている。邪馬台国・倭などについても記述があったとされている。」
 
   
 
     
・「三国志」魏志倭人伝完成 陳寿 280年完成
 「去女王四千餘里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可」
倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國漢時有朝見者 今使譯所通三十國」
邪馬台国卑弥呼記事: 景初3年6月(239年)に女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣した。女王を親魏倭王と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。     などの記事
 
・300−320年頃奈良盆地東南部に大王墓・大型前方後円墳  
       ・318年頃三輪山祭祀が成立
  東晋  (317−420)  
     ・345年頃百済・新羅国建国記事(中国文献上)  
    ・367年百済が倭国に使いを遣わす。(朝鮮半島文献)    
     ・369年倭国の使いが百済に至り同盟する。(七支刀)  
    (参考)・七支刀  百済王近肖王 369年百済で鋳造
 表「泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供           侯王永年大吉祥」
 裏「先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王         旨造傳示後世」
           ・
 
     ・391年倭が海を渡り百済新羅などを破る。高句麗好太王碑文  
    ・392年倭が阿花を立てて百済王とする。(三国史記)    
    ・397年倭軍が百済・新羅に入る。(三国史記)    
    ・404年倭軍が高句麗を攻め帯方の界に侵入高句麗好太王碑文    
     ・407年高句麗軍が百済・倭を破る。高句麗好太王碑文  
    (参考)・高句麗好太王碑文完成 長寿王  414年建立
 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民
 日本学者の解釈(異論あり)
 百殘新羅舊是屬民由來朝貢而以耒卯年(391年)來渡海破百殘加羅新羅以為臣民
 
     ・「晋書」安帝紀記事・413年:倭王「讃」(履中天皇?)記事  
  五胡十六国時代   (304−439)  
     ・「後漢書」東夷伝完成 范曄(398−445)432年完成  
     ・「後漢書」檀石槐伝
 「光和元年(AD197年)冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚不能得之 聞倭人善網捕 於是東?倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」
 
 439 南北朝時代   (439−589)  
  北朝   (420−589)  
  南朝   劉宋・南斎・梁・陳(420−589)  
   
・「宋書」倭国伝完成 沈約 439−502完成(488年説)
倭の五王の記事
「自昔祖禰 躬?甲冑 跋渉山川 不遑寧處 東征毛人五十國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國」「詔除使持節、都督新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王
 
 
     ・438年:倭王「珍」(反正天皇?)記事  
     ・443年:倭王「済」(允恭天皇?)記事  
    ・462年:倭王「興」(安康天皇?)記事    
    ・478年:倭王「武」(雄略天皇?)記事    
    ・479年倭が東城王を立てて百済王とする。(朝鮮半島文献)   
    5C初頭百済から書籍・学者が正式に日本列島に渡来し文書や記録などが創られたと見られる。音を漢字で表す(漢字本来の意味は無視)ことは5Cに始まった。(初期万葉仮名?)
 
 
     (参考)・471年 稲荷山古墳鉄剣銘文(雄略天皇記事)
 辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比?其児多加利足尼其児名弖     已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比(表)
 
 其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多    支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也(裏)
 
 
     (参考)江田船山古墳出土の鉄刀銘文(雄略天皇記事)
 治天下獲加多支鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四    尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也    不失其所統作刀者名伊太和書者張安也
           
 
     ・「南斎書」東南夷伝完成  537年頃完成
・479年倭国遣使、倭王武の記事:倭王武を使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍 称号などが書かれている。
 
 
     「梁書」諸夷伝東夷条 倭記事:
           ・502年:倭王「武」記事
507年継体天皇即位  
     ・562年新羅が大加羅を滅ぼす(任那滅亡)(朝鮮半島文献)  
 581     (581−618)  
     ・文帝(541−604)即位  ●593年推古天皇(554−628)即位628年まで在位
     ・608年裴世清の日本訪問  
   
・610年倭王が遣いを隋に遣わす
聖徳太子自筆とされる墨書「法華義疏」が日本最古の紙に記録された文字。
 
 
 
 618    (618−907)  
     ・626年太宗即位  ・629年舒明天皇即位(紀)
     ・「梁書」諸夷伝東夷条 倭完成  姚思廉 636年完成
「其南有侏儒國 人長三四尺 又南K齒國 裸國 去四千餘里 船行可一年至 」
             倭五王記事
・倭人の出自に関してはどの文献も一致して「太伯之後」
(注:翰苑・魏略・梁書など。断髪・刺青・素潜りの風習呉地方
 太伯:周王朝文王の伯父で春秋時代の句呉国の始祖)
・卑弥呼の朝貢を景初3年としている。
・台与の後に男王が立つ。
          
 
     ・「晋書」四夷伝・帝紀完成 房玄齢ら 648年完成
  邪馬台国の記述。前方後円墳の記事  
  倭人は、帯方東南大海中にあり。
           
 
     ・「隋書」東夷 ?国伝完成 魏徴(ぎちょう)656年頃完成
  第1回目遣隋使記事:(日本書紀に記事なし)
 「開皇二十年(600年?王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩?彌            遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言?王以天爲兄 以日爲弟 天           未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義           理 於是訓令改之」
 
 「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」
 「新羅 百濟皆以?爲大國 多珎物 並敬仰之 恒通使往來」
 第2回 小野妹子の遣隋使記事:
 「大業三年(607年) 其王多利思北孤遣使朝貢  使者曰
  聞海西菩薩天子重興佛法 故遣朝拜 兼沙門數十人來學佛法」
 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
           
・7Cには漢字を使って日本語の語順で書くことが始まった。
 
 
     ・「北史」「南史」倭国伝完成 季延寿 659年完成  
     ・660年唐新羅が百済を滅ぼす。(日本書紀)  
     ・663年百済・倭が白村江で唐新羅に敗れる。(日本書紀)  
       ・668年天智天皇即位・近江令制定(日本書紀)
     ・670年倭国が名を更め日本と号す。(新羅国の記録)  (参考)・689年飛鳥浄御原令制定(日本書紀)
     ・690年則天武后即位  
     (参考)698年対新羅外交で「日本」という国号使用(三国史記)  
      (参考)●701年大宝律令制定(日本書紀)  
     
(参考)「武后、倭国を改めて日本国と為す」(736年完成「史記正義」記事)
 
 
     (参考)唐書「唐暦」記事:日本という国号を唐に正式に名乗ったのは、「702年に日本国からの第7次遣唐使(粟田真人)があった。」               
 
 
     ・710年玄宗皇帝即位  ●710年平城京遷都
     ・「唐暦」完成 柳芳 762−779頃完成 ●720年日本書紀編纂 
      ●794年平安京遷都 
     
・907年唐の滅亡
 
 
 907 五代十国時代    (907−960)  
     ・「旧唐書」東夷伝 倭国・日本国伝完成劉?945年完成
「倭國者古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中
 依山島而居 東西五月行 南北三月行 世與中國 〜   」
日本國倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰
 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」
 
960       
   北宋  (960−1127)  
     ・「新唐書」完成 1060年  
    南宋   (1127−1279)  
       
       
 
     
     
   
    
   
  
 
  
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   
5)倭氏関連系図解説・論考
 氏族の名称をヤマトと発音する氏族には幾つかあることが知られている。本稿の「倭氏」の他に「和氏」「東漢氏」が有名である。その他に「東文(ヤマトのフミ)氏」もある。「和(ヤマト)氏」は(「百済王氏考」参照)、百済王族百済王「武寧王」の裔であるとされる渡来人氏族で桓武天皇の実母「高野新笠」の元の名前が「和 新笠」であり、その父親の名前が「和 乙継」とされている。また東漢氏については本シリーズで既に取り上げてきた(「東漢氏考」参照)代表的渡来系の氏族である「ヤマトのアヤ氏」と呼称する。平安時代の武将である坂上田村麻呂を輩出した氏族である。
 さて、本稿で取り上げる「倭(ヤマト)」氏こそ日本の国名を冠した古代豪族である。
ただの古代豪族でないことは名前からして想像できる。
そもそも「倭」という漢字は一般的には「Wa,またはWi」と発音される。倭の元の意味は「ゆだね従う」、「従順な」という意味らしいが、実際の用例は紀元前の大昔より中国の各王朝の編纂した文献などには、日本列島そのもの・そこにあった政治勢力・そこの住民などを「倭(わ)」・「倭国」・「倭人」などと記し、他の地域、政治勢力、族と区別してきた文字でその本来の由来は不明だとされている。
またこれを受けた形で日本列島の政治勢力も自国のことを倭国と称し、記していた。この場合「倭」は「わ」と発音されていたと思われる。決してヤマトと発音してはいなかった。
以上簡単に記したが、日本の古代史を理解する上で非常に難解な問題を秘めているので倭氏の系図解説に入る前に幾つかの言葉の解説をしておきたい。
5−1)「倭(わ)」について 
(「倭・倭人関連中国古文献」「倭・倭人・倭国関連文献中国歴史年表」参照)
本件に関しては筆者のようなアマチュアが解説するような簡単な事柄ではない。古来日本国内は勿論、朝鮮半島、中国の歴史学者などが喧々がくがくの議論を展開している問題である。未だに統一見解なんて全く見込まれない分野の問題である。参考文献を挙げておいたが、日本の学者間でも、それも戦後の学者の間でも、同一史料の解釈が大幅に異なり、考古学的発掘の進展にもより、さらに複雑化して、未だ未だ我々アマチュアが理解し、納得できる段階にはないと判断している。これが、朝鮮半島・中国の学者がはいると、まさに卍がらみの三つ巴の様相を呈している。根っこに一種の民族主義的感情問題も根強くあるので、史実はどうかというレベルの話が専門家同士でもなかなか進展しないようだ。
以下に筆者なりに理解した範囲で箇条書き的に「倭」について記す。
@中国の歴史年表上「倭」という文字記録が登場するのが、紀元前11c−12cに相当する「周」という時代初期に「倭人」の記事がある。日本でいえば縄文時代晩期である。この記事はAD2c末出版された「論衡」という書物に掲載されている。
日本では一般的には「倭人」は弥生時代の種族になると考えられており、史実としては余り重要視されていない記事である。
A春秋時代(紀元前8c−5c)に「孔子」が記した有名な「論語」の中に「九夷」という言葉があるが、この九夷というのは中国から見て東の方向に9つの夷の国があるとされ、その国々の中の一つに後の「倭」が含まれているというのである。これも日本では余り重要視されていない。
B前漢時代(紀元前1c−AD2c)に成立されたと推定されている「山海経」という書物の記事として紀元前4c−3c頃に「倭」が記録されている。これも史実としては疑問があり日本では重要視されていない。
CAD1cの後漢時代に成立した公的書物である「漢書」地理志の記事が日本の学者の多くが重要視する最古の「倭」に関する物である。有名な 「楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云」がある。一般的には紀元1世紀前後には日本列島の住民が中国・朝鮮半島と交流があったという証拠史料とされている。
DAD432年に成立した公的書物である「後漢書」東夷伝の記事としてAD57年の記録として
「倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」があり、これが我が国として最古の文字記録として九州博多湾にある志賀島で江戸時代に発見され現在も残されている金印(漢委奴国王印)に対応する証拠文献とされているのである。
またAD107年の記事として「倭國王帥升等 獻生口百六十人願請見」があり、中国と倭との交流があったことの証拠とされているが、この文章には色々異議があるらしい。
EAD280年に有名な「魏志倭人伝」が完成している。この記事は詳しく倭国・倭人の風俗習慣などが記されており邪馬台国の位置まで記されている。しかし、この女王卑弥呼が治めたとされる邪馬台国の位置が解釈を巡って現在も九州説・近畿ヤマト説など日本古代史最大の論争が繰り広げられている。189年ー255年頃までの邪馬台国と魏国との交流記録が記されている。日本古代史上最重要の文献である。
F369年百済で鋳造されたとされる「七支刀」には重要な銘文が記されている。この中に「倭王」とある。この刀は現在石上神社にある。国宝である。この銘文の解釈も諸論がある。
G414年に建立されたとされる「高句麗好太王碑文」には391年ー407年の「倭」・「倭軍」と朝鮮半島の国々との関係が記されている。古来記紀に記されている神功皇后の活躍記事を裏付ける証拠と目され、碑文改竄説・解釈の違いなど中国・朝鮮半島・日本で統一見解が未だ出されていない重要遺跡文である。
H488年頃完成したとされる公的書物である「宋書」倭国伝で「倭の五王」のことが記されている。記紀に記されている応神(仁徳)大王から雄略大王くらいまでの記事である。一説では365年ー478年頃までの時代に相当するらしい。この間の倭王は日本列島の統治者として中国も認知したと考えられている。倭王は、倭国王を自称している。
I471年に造られたとされる「稲荷山古墳鉄剣銘文」は、我が国に現存する最古の日本人による文字記録史料とされているものである。漢字による表音・漢文文字で雄略天皇が統治者として記録されている。この銘文中には「倭」の文字はない。
J537年に完成した「南齋書」東南夷伝にも479年に倭国の倭王武(雄略天皇)より中国に遣使があり称号を与えたとある。
K636年に完成した「梁書」諸夷伝東夷条倭の502年の記事に、倭王武が出てくる。この文献の中に倭人の出自は「太伯之後」と記されていた。これは中国では一般的にそのように伝わってきたとされているのである。これが後に我が国の国号を倭から日本へと変える引き金になった可能性あり。(後述)
L656年に有名な「隋書」倭国伝(正確には?国伝)が完成した。この中で600年の第1回遣隋使、607年の第2回の遣隋使の記事がある。有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」もこの中に記されている。この隋書の記事もその解釈で議論がある。
656年の段階で少なくとも当時の国際的な我が国の国号は「倭国」であったことが分かる。
M762−779年頃に完成した「唐暦」という書物の記事に「702年に日本国から第7次遣唐使があったこと」が記されてあり、これが日本という国号を唐に正式に名乗った最初であるとの説あり。その他の中国・朝鮮の文献に、この頃(690年代)倭国の国号が日本に改められたとの記事が残されている。古来諸説あり確定的ではない。
N945年に完成した「旧唐書」東夷伝倭国・日本国伝の中で「倭國者古倭奴國也 ーーー日本國者倭國之別種也ーーーー倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」と記している。日本の平安時代における中国の我が国への認識の一端が伺える。公式文書として日本の国号が示された最初の文献だとの説もある。
   以上が我が国を表す国際的な名称が「倭」から「日本」に変遷した中国・朝鮮側からの判断基準である。
 
5−2)「ヤマト」について
 ところで我が国では、対外的には「倭(わ)」と称してきたことは、上記の解説で明確である。しかし、自国内での自国を表現する言葉として「ヤマト」という言葉を使用してきた。我が国に未だ文字が無い時代から「ヤマト」という言葉が存在していたことは、史実と考えて間違いないであろうとされている。全国的に現在も残る「ヤマト」と発音する古地名がその名残である。後に大和国と呼ばれたヤマトについて調べたところ下記のようなことが分かったのである。
・日本歴史地名辞典 藤岡謙二郎 東京堂出版(S56)
・日本地名語源事典 吉田茂樹 新人物往来社(S56)
・国史地名辞典 藤岡継平編 村田書店(S51)
・地名語源辞典 山中襄太 校倉書房(S48)
・その他関連ウイペディアなど参考
@耶麻謄・邪馬台・大養徳・倭・大倭・和・大和・於保夜萬止(和名抄)山跡・夜麻登(古事記)野麻登・夜麻苔(日本書紀)山常・也麻等・夜末等・夜万登(万葉集)などと記される。「ト」は所の義、山所の義。ヤマオホトの縮まったもの:山多き所。
他に山都・山門・山戸・山処・山跡など日本中にある地名である。
A奈良県の古名が大和国であるが、「記紀・万葉」などは、いずれも「登・止・等」などの「ヤマ(山)ト(乙類)」で用いる地名。したがって「和訓栞」のいう「ヤマト(山処)」
が音韻上正しいものである。山に囲まれた土地、山のある国、山多き所という程度の意味。
Bヤマト(山門)「神功紀」に筑紫国の山門県がみえ、福岡県南部の郡名となる。この場合は「ヤマ(山)ト(甲類)」で大和国のヤマトとは音韻が異なる。
C邪馬台(ヤマト)国の「ト」は「ト(乙類)」であるから山門国より大和国の「ト」に通ずるものとして注目される。
D山門は、山の入り口、山のふもと、山の門 という意味。
E磯城郡(桜井市・天理市・橿原市・宇多町、旧十市郡・城下郡・城上郡など)、山辺郡(天理市・奈良市)高市郡(橿原市)などで囲まれた地域の地名
F旧磯城郡大和郷(邑)
G各種の語源説がある。アイヌ語説・南洋語源説・海神名説・マレー語説などなど
H「大和」の国名は大宝令では未だ「大倭」であり、757年の養老令で初めて「大和」と表記された。天平9年(737)大倭国を大養徳国と改め、同19年(747)また大倭国になった。
I語源:山のふもと・山に囲まれた地域である説
・この地域を拠点としたヤマト王権が元々「やまと」と言う地域に発祥したためとする説
・「やまと」は元は「山門」であり山に神が宿ると見なす自然信仰の拠点であった地名が国名に転じたとする説
・三輪山から山東(やまとう)を中心に発展したためとする説
・邪馬台国の「やまたい」が「やまと」に変化したとする説
J狭義のヤマトの地域比定:大和国造本拠地ともされている。
・大和国城下郡大和郷(天理市佐保庄町大和一帯)佐伯有清
・大和国穴磯邑大市長岡の崎
・大和国山辺郡大和郷 「和名抄」   太田亮
・奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が最狭義の「ヤマト」
 
 次ぎに、このヤマトの表記について述べたい。(上記「倭・倭人・倭国関連文献中国歴史年表」参照)一般的には、5C初頭百済から書籍・学者が正式に日本列島に渡来し、文書や記録などが創られたと見られる。音を漢字で表す(漢字本来の意味は無視)ことは5Cに始まった。(初期万葉仮名?)稲荷山鉄剣銘文がその代表例である(漢文体であるが人名などは万葉仮名的表音表示)。これにより「ヤマト」の語に対して「倭」の字が当てられるようになったと言う説があるが、筆者はいきなり「倭」の字は当てられたとは思わない。上記@に記されたように当初は、万葉仮名的な表記がされたものと推定している。次いでいつ頃かは、はっきりしないが「倭」の字が当てられるようになったのである。これは中国で古くから我が国の人々・政治勢力を総称して「倭」と呼んできたことが原因していることは間違いないであろう。上記「ヤマト」の地に我が国を統治する規模の政治勢力が4c(多くの異論あり)頃より発生し、この勢力が徐々に大きくなり日本列島を代表する政治勢力となり(ヤマト王権)、これに従前から国際的に認められた「倭」という字をあてがい「ヤマト」と読むようになったと考えるのが妥当である。その後地名などには好字で2字にすることが決まり701年の大宝律令で「倭国」は「大倭国」と記されるようになった。と思われる。この場合の「大」は単なる美称で読みは「ヤマト」であった。737年「大倭国」から「大養徳国」と改定されるが、747年再び「大倭国」に戻った。さらに752年ー757年頃「大倭国」から「大和国」になった。これは倭と和は同義語として扱われていたもので「和(ヤマト)」と発音されていたからである。
(参考)
磯城::石城:石で固めた堅固な城のあった所。
磐余(イワレ)
@十市・式下二郡の南部の称。
Aイワフレ(石村)イワムレ(岩群)
B神武即位前紀:賊が駐屯していたので屯聚(イワレ)と称した。
磐余(いわれ) [ 日本大百科全書(小学館) ] 奈良県中部、桜井市阿部地区付近の古地名。天香久山(あめのかぐやま)北東麓(ほくとうろく)にあたり、大和(やまと)朝廷の政治的要地であった。『日本書紀』によれば、履中(りちゅう)天皇の磐余稚桜宮(わかさくらのみや)のほか、清寧(せいねい)天皇、継体(けいたい)天皇などの皇居があったといわれる。大津皇子(おおつのみこ)の「百(もも)伝ふ磐余の池に鳴く鴨(かも)を今日(きょう)のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ」の歌が残されている。
 
橿原(カシハラ)
@神武即位前紀:大和の橿原の地
A単に橿が生えている原というより、聖なる天に通ずる沃地として佳名で用いたもの
B語源:諸説あり。朝鮮語説・サンスクリット語説などどれも説得性に欠ける。
 
5−3)国号「日本」について
 我が国の国号は現在「日本(にほん・にっぽん)」である。この国号は何年に決まったのであろうか。この問題も未だ定説化されていない。(上記「倭・倭人・倭国関連文献中国歴史年表」参照)
古代中国・朝鮮は紀元前から日本列島・そこにあった政治勢力及びそこの住人を・倭(わ)・倭国・倭人と呼んできた。
日本列島の政治勢力も紀元前後頃から7世紀頃にかけて対外的に「倭」または「倭国」と称するようになった。倭の五王も「倭王」を自称いたことを上述してきた。
600年我が国最初の遣隋使が「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となす。云々」と言ったことが、隋書倭国伝に記載されてる。対外的には未だ「倭」であった証拠である。
 日本という国号を唐に対して正式に名乗ったのは、第7次遣唐使(702年)であったことを8世紀前半の唐で成立した「唐暦」という書物に記録している。「この歳、日本国その大臣朝臣真人を遣わし、方物を貢ぐ。日本国は倭国の別名なり。」
このときの記録が945年完成した「旧唐書」倭国・日本伝、1060年の「新唐書」日本伝にある。
736年の唐書、「史記正義」の中に「武后、倭国を改めて日本国と為す」という記事があり日本国の国号は中国が認めないと変えられないということの証拠文献?だともされている。(注:則天武后は690年に即位している。)また朝鮮の「三国史記」698年紀に我が国が新羅外交の文書で「日本」という国号を使用したとの記事がある。などから689年に制定された飛鳥浄御原令で国号が日本となったという説もあるが、701年大宝律令で初めて日本の国号が定められたという説が一般的か?
「旧唐書」の記事:「日本國者倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地」
この文面から「日本国」という国号は、日本列島が中国や朝鮮半島から見て東側、つまり
「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。この変更理由については古来色々議論されている。
@倭という文字には蔑称的な意味はない。A「梁書」諸夷伝などに記載がある倭人の出自
は「太伯之後」というのが遠因である。(太伯:周王朝文王の伯父で春秋時代の句呉国の始祖である。呉人は断髪・刺青・素潜りで魚を採るの風習があり一種の野蛮人であるということを意味した。)
B隋書倭国伝などに記された倭人の習俗が、その後の蔑称的背景を築いた。(隋書倭国伝:「男女多黥臂點面文身 没水捕魚」)
C「卑弥呼」や「邪馬台国」と同様に、非佳字をあてることにより、中華世界から見た夷狄であることを表現している。などなど
 
 この日本という文字を国内では「ヤマト」と呼称するようになる。例えば日本書紀の場合は「ニホンショキ」と読み、神日本磐余彦尊は「カムヤマトイワレヒコのミコト」と読んだのである。古事記では国号:「倭(ヤマト)」に統一 日本書紀は 国号:「日本(ヤマト)」に統一          
 
5−4)海人族について
 古代豪族の分類は一般的には、新撰姓氏録の分類に従うのが分かり易い。しかし、それとは全く異なる分類の一つに海人族に属するかどうかというのが、古来からあったらしい。
縄文人であれ、弥生人であれ、その生活の基盤を海においていた者を「海人」
と呼び、山においていた者を「山人(定着狩猟・農耕民)」と呼んだらしい。神話に出てくる「海幸彦」「山幸彦」もその一つである。「古代海人の謎」という本が出版されて以来、海洋民族とも呼ばれてきた日本人の海人の歴史的背景を科学的・類型的に再考しようという動きがあるように思える。色々な情報を基に筆者なりに理解した範囲で、海人について解説したい。
日本の古代海人を概略的に分類すると@北太平洋系海人:サケ・マス・海藻圏で北海道・東北地方が中心で縄文時代から存在していた。A南島系(沖縄・奄美・南方島々)海人で
その特色は、はっきりしていない。
B江南系(揚子江下流南地域出身)海人:弥生時代の主に九州・西日本沿岸部に存在した
所謂「倭人」の代表的な種族といえる。特色は入れ墨(文身)をして潜水漁撈の海女、海士が多く九州だけでなく海部として紀伊・隠岐・豊後・尾張、などにも住み、場合によっては、海上交通・航海・交易をも行っていた種族。東シナ海・朝鮮半島での活躍が中国の古文献記事にある。「後漢書」東夷伝に記されているAD57年の漢の国王より金印を賜った倭奴国は、北九州博多湾にあり、江南系海人族の代表例だとされている。この種族の原点的な祖先神は「綿津見神」だとされている。3世紀末頃に成立したとされる中国の魏略という文献の中で
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」
という記事が倭人の項に記されている。
倭人は、自らを「太伯の後裔」だと称していた。この記事の源は上記九州の「奴国」の使者が漢の都で漢の役人に自分らは太伯の後裔だと称したことに始まるのだという説がある。倭人の生活は入れ墨(文身)をして潜水漁撈を得意とし、断髪で、まさに中国の呉越地方の民と同じ習俗であることが記されている。(漢人からみれば非常に異様な習俗である。蛮族扱い。)その呉国の源を造った人物が、周時代の王族で偉人である「太伯」であるとし、倭人は、この太伯の後裔氏族だという伝承が中国の中心貴族連中にも伝承され、同時に倭人自身もそれを語り継いできたのだとされている。これが江南系海人と云われる由縁である。
一方、弥生文化の代表は稲作文化である。これも日本への渡来ルートは色々あるが、原点は江南地方であるという説が濃厚にある。
魏志倭人伝は、邪馬台国について詳しく記述があるが、この女王「卑弥呼」を海人に分類して良いのかどうかは、筆者は分からない。しかし、その邪馬台国の習俗から判断すれば、明らかに太伯の後裔氏族とあるといえる。少なくとも、弥生人、倭人には違いないと思っている。邪馬台国が北九州にあったのか、ヤマトにあったのか、未だ議論百出で決着がついたとは云えない状態である。しかし、ここでとりあげる古代海人族の内、少なくとも自称太伯後裔氏族という概念に属する海人達が活躍した時代と邪馬台国時代はオーバーラップしているものと思われる。
古事記・日本書紀の神話などに記された、竺紫日向橘小門 伊邪那岐神話・住吉神(上・中・底筒之男)・安曇神(上津・中津・底津綿津見)志賀海神社・宗像氏(出雲系?新羅系?)・住吉氏・安曇水軍・松浦水軍・浦島太郎伝承・宗像三女神、安曇氏、、出雲
海神・綿津見神(龍・蛇・鰐?)などは総て上記海人が関係する記事だと判断している。
しかし、現在では倭人=江南系(揚子江下流南地域出身)海人という解釈はしないのが一般的である。それ以外にも上記@Aの海人も、山で狩猟、農業、稲作をする民もその出身を問わず倭人だという概念に入っているものと判断している。言語学、民俗学的視点にたっても所謂日本人のルーツは単純ではないことが証明されつつある、と判断している。
上記北九州の倭奴国を構成した氏族は、江南系海人族の宗族で古代豪族の安曇氏の祖だとされている。本稿の系図(倭氏出自系図)によれば、海神「綿積豊玉彦」の子供に「宇都志日金折命」が安曇連祖として記されている。地祇系氏族である。この兄弟として「椎根津彦」の祖父にあたる「振魂命」が記されているのである。この同族として尾張氏・津守氏・海部氏などがあるとされている。各氏族とも異系図があることは既に述べた。
これ以外に江南系海人族と目される古代豪族としては、吉備氏・越智氏・和邇氏・息長氏などを挙げる説もある。
海人族ではあるが、どれに属するのか筆者には未だ判然としない氏族としては、阿部氏・膳氏・宗像氏・宇佐氏・紀氏・卜部氏・穂積氏などが挙げられる。
いずれも後世にその系図は、欠史八代の皇別氏族、天神系神別氏族などに組み込まれている。これは後世の氏族を護るための方便だとの説もあるが、それを乗り越えた伝承という形で海人族としての痕跡が残されているものと思われる。神社伝承が主なものである。
史実かどうかを証明するものは何もないが、伝承は無視できないと筆者は思っている。
 
 
 
 
5−5)倭氏出自系図解説(倭氏出自系図・倭宿禰関係図など参照)
 倭氏の元祖は一般的には「椎根津彦」だとされている。人物列伝の項で示したように色々の別名がある。大和国造祖とされている人物である。新撰姓氏録では大和国造氏は大和国神別地祇氏族に分類されている。これは記紀の神武東征伝に書かれている記事で椎根津彦自身が「我は国神である」と名乗ったことに基づいているのである。これを系図で表した1例が「姓氏類別大観」の綿積豊玉彦ー振魂命ー武位起命ー椎根津彦である。この場合椎根津彦の祖父である振魂命の姉妹に天孫ニニギ尊の子供である彦火火出見尊、孫である鵜葺草葺不合尊の后となった豊玉姫・玉依姫がおり、玉依姫の子供が神武天皇であることを考えると、武位起と神武は従兄弟の関係にあることが分かる。よって神武と椎根津彦は非常に近い血族関係にあるのである。
この系図で興味を引くことは、古代豪族「尾張氏」も同じく振魂命の流れになっていることである。即ち地祇系とされているのである。一般的には尾張氏は天神系それも天孫系に分類されている。
一方先代旧事本紀では、天孫「ニニギ尊」ー彦火火出見尊ー建位起ー椎根津彦と記されているのである。(注:皇孫本紀には建位起を彦火火出見尊の子供と記し、大和国造祖とし、国造本紀には椎根津彦を彦火火出見尊の孫と記し大和国造祖としている。これを合体すると筆者系図のようになる)しかもこの記事に記されていることを筆者なりに理解すると、神武天皇の父親である鵜葺草葺不合尊と椎根津彦の父建位起命とは腹違いの兄弟であり、神武と椎根津彦は従兄弟同士であることを示しているのである。即ち椎根津彦は天神系でしかも天孫系である。
上記の地祇系椎根津彦系図と天孫系椎根津彦の系図をよく見れば神武と椎根津彦は、どちらの系図であれ、非常に近い血脈関係にあったことは明白である。これが海部氏の勘注系図になるとさらに微妙に変化していることが分かる。
勘注系図では「倭宿禰」という人物が記されている。(他の記録・古文献にこの名前を記しているのを筆者は知らない)これを椎根津彦であるとしている。一方建位起ー宇豆彦ー倭宿禰という系図も記されている。一般的には宇豆彦=珍彦=椎根津彦とされている。となると倭宿禰は椎根津彦の子供説も存在していたのか?
勘注系図は迷いに迷って? 最終的には、彦火明ー天香語山ー天村雲ー倭宿禰(=椎根津彦)という系図になったものと推定される。しかし、その伏線として彦火明ー彦火火出見ー建位起ー倭宿禰という系図も見え隠れしている。
この系図は、背景に先代旧事本紀と同類の種史料(または、先代旧事紀そのもの)があったものと推定される。理由は、古代の史料の中で建位起命について記したものは先代旧事本紀しかないとされている(少なくとも記紀にはない)。
そこには建位起命はニニギの子供の彦火火出見尊の子供であることを記して、その子供が椎根津彦であるということが推定出来るように記しているのである。(皇孫本紀と国造本紀をあわせるとである。)
海部氏系図には、さらに倭宿禰の母親は(丹波)伊加里姫であり、妻は(吉野の)白雲別神の娘「井比鹿・別名:豊水富」であることが記され、子供が笠水彦である、となっている。椎根津彦の公知の一般系図では、母親の名前は不詳である。子供は「志麻津見」となっている。
国宝海部氏勘注系図については別途稿を改めて筆者の見解を述べたいと思っているが、実に興味深い系図であることは間違いない。
詳細に言えば、日本書紀では椎根津彦を倭(ヤマト)国造に任命したとある。一方の古事記では倭(ヤマト)国造祖と記されている。神武朝に国造制度など存在するはずもないので正確には古事記の記事の方が正確だとの説もある。もっと言えば、現在では神武東征とか、神武天皇などは、史実として存在したと思えないというのが通説である。とすれば、
倭氏祖であるとされる椎根津彦なる人物の実在性は限りなく怪しいということになる。
しかし、少なくとも奈良時代に古代豪族の一つとして大和国造である大倭氏が実在していたことは史実として間違いないこととされているのである。どの時代に完成したのかは定かではないが、「倭氏」「大倭氏」系図が存在していることも事実である。
大和国造氏の末裔が、自分らの祖先をその氏族の祖先伝承として椎根津彦なる人物を元祖としていたと考えざるをえない。丹波の海部氏は、丹波国造祖が「倭宿禰」であるというスタンスにあると解釈した。いずれもその史実性を証明することは不可能である。これは古代豪族総てに共通のことである。筆者はそれで良いとする立場である。
 
5−6)(参考)古代豪族の系図についての私見
 古代豪族の元祖出自部分は総じて謎に満ちている。神代の話だと割り切れば、それまでであるが、文字の無い時代のことであり、それぞれの氏族に伝承されたことを、後の世の子孫がそれぞれの思いを乗せて意味のある漢字に置き換えて、祖先系図を作成したものと推定される。その過程で祖先を飾ること、他の氏族の、よりはっきりしている系図に自分らの祖先を結びつけることによる一種の権威付けなどが行われたのも、事実だとされている。よって系図による史実解析はナンセンスというのが現在の古代史分野の通説である。
 筆者は、日本人の底流に流れている「価値観」の一端でも把握したいという目的を持って本シリーズを執筆しているのである。古代豪族にとって、系図こそ、その氏族の宝物であったと信じている。その氏族の継続・繁栄をはかることこそ、その氏族の氏上(族長)に課せられた至上命令みたいな役割だったのである。これは現代人では理解不可能な価値観であるかもしれない。「種の保存」こそ動物の本能であるとされている。これと相通じる本能的活動であったと思うのである。文字のない時代から個々の血族は自分らの氏神を祀り、祖先を敬い自分らの守護神とし、自分らの生活がより豊かに安定したものにするべく営々と日々の生活を営んできたのである。縄文時代であれ弥生時代であれ、その基本は同じであっただろう。生活圏を同じくする多種の血族集団社会の形成が、やがてリーダーとなる人物・血族を必要とするようになり、この地位が世襲化し、これが古代豪族の原点になったものと思われる。日本列島では紀元前後に、既に「国」と呼ばれるような現在流にいえば「村」規模の集団社会があったことが中国の古文献に記されている。これらの「国」は、お互いに一種の競争社会を形作り、有る時にはお互いに戦争状態にあったとも記されている。神武天皇東征伝もその過去の日本列島であったことの伝承記録を集めたものであるとも言われている。それぞれの氏族で最も記憶に残されたものは、戦争記憶であろう。出雲の国譲り神話もある種のその記憶伝承であろう。その過程で力を蓄えた氏族の長は、語り部的役割の集団を育成し、その氏族の歴史を語り継がせてきたともいわれている。勿論長い年月の間に滅んでしまった氏族も多数あったのである。古事記にも日本書紀にも現在では全く話題にも載らない数百もの古代氏族の名前が挙げられ、その祖が誰々であることをわざわざ示した記録が記されている。記紀の目的の一つとして、8世紀当時世の中に存在していた多くの氏族の出自を国家として認定し、世の乱れを正すことにあったともされているのである。これは現在では理解不可能である。氏姓制度は国家の運営の根本問題だったのである。
この問題は、平安時代の「新撰姓氏録」の編纂目的とも合致しているのである。
少なくとも、この時代頃までは地方の下級役人クラスに至るまで自分の出自は誰で、祖先はどのようなものであったかを明らかにすることこそが、そのステイタスを維持・発展させる基本的事項だったのである。
文字が日本に渡来したのは5世紀頃だとされている。当初は漢字の音読みの音だけを、当時の日本語の音に併せた記録方法で、今で言う万葉仮名的なものであったとされている。漢字の本来の意味は全く無視した記録方法だったとされている。471年(雄略天皇時代)に造られたとされる「稲荷山古墳鉄剣銘文」が、現存する日本人が書いたと思われる最古の日本語の文字記録だとされている。(筆者歴史年表参照)これは関東地方で発見されたもので、既にこの頃、大和地方から遙か離れた地方でも漢字が使われていた証拠とされている。しかもこの内容は、一種の系図を記録しているのである。しかも細かくみれば年・月・大王・杖・刀・人など漢字の本来の意味と日本語の意味がほぼ一致する部分もあることが分かる。単なる万葉仮名的記録ではないのである。要するに5世紀末頃には既に地方の豪族クラスの者が、この様な文字記録文化を有していたことを意味するのである。これから推定されることは、政治勢力の中枢があった大和地方の豪族・貴族達の間では、当然この種の文化は普及していたはずであるということが、容易に推定できるのである。彼らが何に記録したかは定かではないが、(紙はこの時代ない。木簡・竹簡などか)彼らにとって重要な記録して残さなければならないものは5世紀中頃から文字記録されていたものと推定されるのである。
政治的組織体は別にして、古代豪族のような民間・個人集団にとって、その重要記録の最大のものが、その氏族の系譜記録だったのではないだろうかと筆者は推定している。
それまで営々と伝承口承されてきた記憶を、文字記録する価値は何物にも代え難い意味があったのではなかろうかと判断している。以上から古代豪族の系図の初期的記録は5C中頃から6c中頃にかけて活発に行われたと推定出来る。7cには漢字を使って日本語の語順で書くまでに進歩したらしい。勿論政治的組織体では、渡来人らの助けも借りてさらに複雑な事象記事も記録に残した形跡は、日本書紀などが参考にしたとされる文献などから推定はされる。残念ながら現在まで伝わってはいないが。6cに伝来したとされる仏教文化の普及により、さらにこの動きは加速されたのである。筆者は以上の背景から個々の主な古代豪族は、7c頃には各々の祖先系図みたいなものを記録していたものと推定している。その後の末裔達は、その系図を一代毎に継ぎ足していったのである。その過程で修正、架上、他氏族系図の簒奪なども行われたことであろう。しかし、その氏族としてこれだけは間違いないと思っている部分は、どこかに残されているものだ、ともされている。
先代旧事本紀・古語拾遺集などは、民間人が編纂した祖先伝承記録である。古来偽書説も多数あるが、これらに記された記事を総て嘘八百的戯言とすること、また記紀に記されている多くのことを史実として認識するには問題あり、とするのも筆者は現段階では是としない立場である。勿論鵜呑みにせよとは思っていない。解析は必要である。
シュリーマンとトロイの遺跡発見の話を、筆者は単なるロマン話とは思っていない。世の東西を問わず、専門家と言われる学者達こそが、真実の目を摘んだ事例は数多くある。
神社伝承の類を全く馬鹿扱いする歴史家の多いのに驚いている。真実に迫る種は、どこにあるか分からない。史実を証明することは、どんなに考古学的発掘を深めても無理な点がある。それを納得有る形にするには、何らかの記録であり、伝承の類との整合性を図ることが重要である。系図は生きた人間の記録である。総てが虚偽である系図なんて存在しないのである。何故ならそんな系図なんて何の意味もなければ、存在価値すらないのである。前述の稲荷山古墳鉄剣銘文に記された系図をどう考えるかで、その総てが理解出来ると筆者は判断している。
 
5−7)倭氏・大倭氏関連系図解説
元祖「椎根津彦」から5代孫の御物宿禰に関しては、その実在性は疑問とする説が多い。ところが3代孫に「民磯媛」という女性がいる。先代旧事本紀に三輪氏系図が記されているがその中にこの女性が、有名な太田田禰古の父方祖母として記載されているのである。これは一寸無視できないことである。椎根津彦の6代孫に日本書紀崇神紀・垂仁紀に登場する市磯長尾市という有名人物がいる。太田田禰古と市磯長尾市は、それぞれ大和王権(三輪王権)の中心にある三輪神社・大和坐大国魂神社の祭祀者となった謂われが記載されているのである。この辺りの日本書紀の記事は実に難解である。天照大神・大物主神・倭大国魂神が複雑に絡んで、それを祀る人物を誤ると国がうまく治まらなかったことが、記されている。
結果として三輪神社の祭神「大物主神」は出雲系の血脈を引く太田田禰古が祀り、大和坐大国魂神社の祭神である倭大国魂神は、椎根津彦の裔である市磯長尾市が祀ることでうまく収まったという内容である。この市磯長尾市が椎根津彦の嫡流であったかどうかについては議論があるようである。しかし、公知系図上では倭氏の嫡流は市磯長尾市の流れだと
考えざるをえない。日本書紀では倭直祖としている。次ぎに日本書紀に登場する倭氏嫡流としては市磯長尾市の4代孫である倭麻呂・倭吾子籠・日之媛の3名である。仁徳紀・履中紀・允恭紀などに記事がある。この時系図上で初めて「倭」の氏名が記されている。注目することは日之媛が倭直氏として初めて天皇の采女となったと記されていることである。その氏族から采女を天皇に差し出すということは古代では、その氏族が完全に天皇の配下に入ったと言うことを表すものであるとされた。
市磯長尾市から派生した氏族に明石国造氏と吉備海部氏があることが知られている。市磯長尾市の2代孫に吉備海部乙日根がいる。その娘に黒日売がいる。古事記仁徳段にしか記事がないのであるが、この黒日売が仁徳天皇に大変愛されたが仁徳の皇后の石之日売の大変な嫉妬をかい、吉備に逃げ帰った云々の有名な記事がある。ところが日本書紀だけにしかない記事で吉備武彦の娘として吉備兄媛という応神天皇妃となった人物の記事がある。(吉備氏考参照)
古来この二人の女性は同一人物ではないかとの説があり、このことより、応神天皇と仁徳天皇は同一人物であるという説の証拠の一つになっているのである。
さて、次ぎに日本書紀に登場するのは「手彦」である。欽明朝の倭国造であり、新羅で戦った武人でもある。その孫「大倭龍麻呂」の時、681年に倭直氏は大倭連姓を賜った。続いて685年に忌寸姓となった。次ぎの五百足の記事には、従五位下で氏上で神祭主と記されており、大倭氏が貴族であり大和神社の宮司であったことが明確である。その子供の「大和長岡」こそ倭氏の歴代で最高位に就いた人物である。唯一没年が分かる人物である。716年の遣唐使となり、757年の養老律令に明法家として関与し、769年に大和国造正四位下大倭宿禰として没している。この人物から市磯長尾市までの代数を推定すると1−2代この系図で欠落している人物がいるのではと思われる。これ以後の系図は定かではない。但し、それ以後の公文書に残されている大倭氏と思われる人物は多数あり、平安時代に至るまでこの豪族はそれなりの地位を保っていたものと推定される。氏神である「大和神社」の記録から推定すると、897年には正一位の神階を賜っており、隆盛であったことが推定されるが、中世には全社領を失い衰微したとある。
一方何時の時代かは定かではないが、丹波の出石神社の社家として一族の者が入り、系図は定かではないが長尾氏として続いたという記録がある。
 
5−8)倭氏・大倭氏関連論考
 そもそも古代豪族「倭(ヤマト)氏」は、何故ヤマトという氏名(うじな)を賜ったのであろうか。
筆者は先ずヤマトという日本語の語源・歴史みたいなものを調べた。5−2)に解説したように元々は、日本国中に同様な発音をする地名が沢山あり、一種の普通名詞的なものだったと理解した。ところがある時代からこのヤマトと発音する地名が特定の地域の特定の場所を示す特別な意味を持つようになったのである。最も狭義の場所を表す「ヤマト」は文献によって多少表現は異なるが、現在の奈良県桜井市・天理市・橿原市付近(三輪山東南・西麓一帯)である。現在の箸墓古墳・橿原神宮・三輪神社・大和神社・多坐志理都比古神社などが含まれる。
ピンポイント的には、・大和国城下郡大和郷(天理市佐保庄町大和一帯)・大和国穴磯邑大市長岡の崎(元々の大和神社のあった所)・大和国山辺郡大和郷  と言われている。筆者は何度もこの付近には行ったことがある。三輪神社の展望台から眼下に見渡せる範囲である。
これは律令制で決められたとされる大和国とは遙かに小さい区域である。ここが後世になってヤマト王権とかヤマト政権とかヤマト朝廷とか呼ばれるようになった日本国の発祥の地とされているのである。よってこの地名のヤマトは、他のヤマトと発音される地名とは訳が違うのである。では、恐らく弥生時代あるいはそれ以前からヤマトと呼ばれていたであろう普通のヤマトという地名の一つであった、ここのヤマトが特定の意味のあるヤマトにどの時代からなったのか?である。記紀では神武天皇が東征され、この地で即位され「カムヤマトイワレビコノミコト」と呼ばれた時からであると記している。記紀流に年代をいれれば紀元前660年である。現在一部の人を除けば、これを信用する人はいないのである。
現在では、この時期を3世紀末から4世紀初期とする説が通説になっており、筆者もこの説に従って本シリーズを執筆している。今後の古墳などの発掘調査の進展により数十年単位の変動はあるかも知れないとされている。これが一部学者が提案している三輪王権の誕生である。これを持ってヤマト王権の誕生といっているのである。
 本シリーズの磯城氏考でも述べたが、この区域には元来「磯城氏」と呼ばれた古代豪族がいたともされている。記紀では欠史八代に相当する時代にである。また古代豪族 十市氏・春日氏・多氏などもこの付近に存在していたことになっている。(多氏考・磯城氏考参照)勿論記紀では、天皇家もその中心にいた訳である。さらに話が複雑なのは、箸墓古墳のある巻向遺跡こそ「邪馬台国」に違いないとする邪馬台国ヤマト存在説が勢いを増してきているのが現状である。
 このヤマトの地の初代国造氏こそ倭氏の元祖であるというのが倭氏の氏族伝承・記紀・先代旧事本紀(国造本紀)などの日本の古文献の記事に残されているのである。
この国造(くにのみやつこ)というのは、実は非常に分かりにくいヤマト王権の地方支配体制の1つである。勿論ヤマト王権が誕生して以降に出来た一種の国の支配組織を担うヤマト王権が任命した役人の一種である。ヤマト王権が支配する範囲は徐々に拡がったと推定されているので、国造も一時に全国に誕生したとは思われていない。最終的には135国とも144国ともいわれているが、一番詳しく記事が掲載されているのは先代旧事本紀の国造本紀だとされている。どの天皇の時に何処の国の国造が誰になったかを記録している。記紀には成務天皇の時に国造制度が作られたとある。一般的には、元々からその地域に勢力を有していた豪族がヤマト王権に服した時、その地域の国造に任命されたとされている。そして、その地方の軍事・裁判・祭祀権などを有し、任されたとされている。それぞれの国々には、後世にその国の「一宮」という制度が成立するが、その世襲的社家に国造氏がなっているケースが多いのは、その名残であるとされているのである。
よく似た地方官制度の一つに県主(あがたぬし)というのが記紀には記されている。これも非常に分かりにくい。磯城県主・十市県主・賀茂県主などが有名である。これは一般的には、国造より下位の官職で一国の中のさらに狭い範囲の領主的存在とも考えられるとの説、天皇家とより服従関係は強く天皇家の直轄地の領主だとの説もある。
ヤマト王権誕生の極初期段階で「倭氏」がヤマト国造(または、それに匹敵する権限を有していたこと)に任命されていたことは、記紀や旧事紀の記事より推定される。要するにヤマト王権任命の国造第1号という扱いなのである。この時のヤマトの範囲は上述の最狭義のヤマトであったであろう。ヤマトの範囲は王権の進展とともに徐々に拡がって行き、律令制の時の大和国は現在の奈良県の範囲にほぼ一致していたようである。本稿の倭氏が実質的な国造としての権限を有していたのが、どの時代までなのかは、はっきりしない。大和神社の祭祀は間違いなく相当後年(平安時代)まで行われていたと推定される。
一般的には大化の改新頃には国造の称号は残されたが、上記権限の多くは「郡司」という新たな地方官制度に移行されたとされ、それを兼務した国造氏もいたが、神社の社家に専念する国造が一般的になっていったとされている。
新撰姓氏録では倭氏は「大和宿禰」として記されている。
参考までに倭氏の氏姓制度での姓の変遷記録を下記に記したい。
@椎根津彦:神武朝(神武紀) ヤマト国造
A倭麻呂・吾子籠ら:応神朝?(仁徳紀) 倭直姓
B大倭龍麻呂:681年(天武紀)倭連姓  685年倭忌寸姓
C大倭長岡:737年(聖武紀)大倭宿禰姓
勿論上述したように@は不確か記事といえる。一般的に国造氏の姓(かばね)は畿内では直(あたい)姓国造となったとされている。吉備氏のように臣姓国造、毛野氏のように君姓国造などもあった。
直姓は応神朝頃に誕生したとの説が通説のようだが、倭氏の場合の記事でも、ほぼその頃直姓になっている。ということはそれより以前から国造であったことは間違いないであろう。
ヤマト王権が誕生して最初の国造だと仮定すると、崇神・垂仁朝頃にヤマト国の国造に任命されたことになる。
ヤマトという漢字の変遷も一寸調べた。最初は恐らく万葉仮名的表示で例えば「夜麻登」と記された時代があり、次いで「倭」となり「大倭」となり「大和」となっていったものと思われる。途中一時「大養徳」などと表示されたこともある。日本の国号となった「日本」をヤマトと発音する場合もあるが、倭氏を日本氏と表記した文献は筆者は見たことはない。
律令制(757年)になって大和国(現在の奈良県)が誕生したが、これも日本国とは表示しないのである。ところが「ヤマトタケルの尊」を「日本武尊」と表示したり、天皇の和風諡号にヤマトとして日本という漢字を用いることもあったのは史実である。要するに局地的ヤマト国を表示する場合には、日本という文字は用いられなかったと考えるべきである。倭氏の倭(ヤマト)はこの局地的ヤマト国に基づく名前なので、日本という文字は用いられなかったのである。あくまでヤマト国造から派生した氏族名である。
系図から判断すると、崇神朝の市磯長尾市宿禰より4世孫の倭直祖麻呂・倭直吾子籠から倭姓が冠されているのである。応神・仁徳朝頃からである。言い方を変えればこの頃からこの氏族が歴史の表舞台に登場したともいえるのである。
さて、ここまで記すと「倭(ヤマト)」という文字表記についての解説が必要になってくる。5−1)で解説したように通常は「倭」は「Waまたは Wi」と発音される漢字である。中国の古文献では他の意味で用いられる例は殆どなく、現在の九州を含む日本列島を表す漢字だとされてきた。即ち古代中国人が現在の日本列島を倭と呼び、そこに居る人を倭人といい、そこに存在する政治勢力みたいなものを倭国と呼んだと、一般的に古来からの日本人は考えてきた。同時に日本の古代の政治勢力は、自分らのことを倭国と自称してきた。少なくとも日本の国号が大宝律令前後で「日本(にほん・にっぽん)」と自称するまでは。
これは史実として間違いない。国号の日本の解説は5−3)を参照のこと。
ところが最近になって一部の日本の学者らが「倭人は日本人ではない」という新説を展開し、今やこの分野では通説とまで云われるようになった。この説に真っ向から反対しているのが中国の日本古代史の第一人者である沈 仁安である。
沈仁安(ちん じんあん)著「中国からみた日本の古代」ミネルヴァ書房(2003年)
第20章「倭人は日本人ではない」を批評する 抜粋引用
「倭」「倭人」が、日本、日本人の古代の呼び方であることには、中国の学界では、疑問はない。日本の学界において、1970年代以前も論争はなかったが、1970年代以降、解釈を拡大する傾向が現れた。ある学者は、倭人は日本に存在するだけでなく、朝鮮半島南部・中国の江南・東北部・内蒙古にも倭人がいたと考えている。私はこの見方を「広義の倭人論」と呼んだ。ーーー
著者はこの中でこの「広義の倭人論」を展開した井上秀雄・網野善彦らの日本人学者の説に反論している。
ーーー「倭」についての意味は、最も早くに「倭」に言及した中国の古い文献の数種の地名・種族名・国家名以外のものはない。ここで「倭」が指しているのは、疑いなく一致しており、後の日本である。ーーー
ーーー弁韓は鉄を産出し、列島の倭人は鉄が不足していたので、倭人はたえず弁韓を侵犯するか、あるいは弁韓と交流するなかで鉄を獲得した。したがって弁韓には倭人がいるのは、疑問の余地はない。但し、この倭人は、列島の倭人が移住していたにすぎず、「日本人」と同一視してよい。もし朝鮮半島南部、とりわけ弁韓の種族が韓人でなく、「倭人」の人びとと呼ばれるなら、それは、我々が先にとりあげた「広義の倭人論」である。ーーー   と明確に記している。この「広義の倭人論」を説明出来る証拠はないとしているのである。
 
一方朝鮮半島の学者らは戦後、新たな民族運動の影響もあるとは思われるが、一種の極端な歴史観を展開してきている。中国に対しては、楽浪郡などの半島支配の史実はなかったと主張し、日本に対しては、倭国が半島に侵入してきた史実はなかったし、(注:記紀に記されているような)任那問題は存在しなかったと主張している。
その1例を韓国の比較言語学者で、日本古代史についても非常に詳しい姜 吉云の最近の著作からその一端を紹介したい。
・姜 吉云(カン ギルウン)著「倭の正体」(株)三五館(2010年)P52より抜粋
 「倭」は今では日本を指す語であるが、6世紀半ば以前すなわち駕洛国(伽耶諸国)が滅びるまでは南韓にあった加羅諸国、とくに首都であった金官伽耶が倭の本拠であった。ところが、3世紀以後から駕洛国が漸次衰退するに従って日本列島にさらに多くの加羅族が移動してきて、邪馬壹国(筑紫倭)・多羅国・狗奴国や大和倭を建て、後に大和倭を中心として今に至る日本国を造った。
・同書p19より抜粋
 日本列島の「倭」は南朝梁の沈約が487年に編纂した「宋書」「倭国伝」によって初めて海外に知らされた。そこには「倭国在高麗東南大海中」と書かれている。ということは、5世紀までの「倭」とは日本列島内の「倭」を指すのではなく、伽耶(駕洛国、「日本書紀」では加羅)を指す。    と記している。この背景には高句麗好太王碑碑文に記されている総ての倭は日本列島の倭とは無関係であるとしているのである。
さらに、あくまで言語学の見方であると断っているが、中国のどの古文献にも記事が無く、朝鮮半島で現存する最古の歴史書である「三国史記」にも記述がない下記のようなことを記しているのである。筆者が理解した範囲であるが、
@ヤマトの倭国の大王は継体天皇以降欽明・舒明・皇極・孝徳・天智・天武など各天皇それぞれ各時代の百済の王または王族が日本に渡来して名前を変えて日本の天皇になったのだと推定しているのである。
A要するに継体天皇以降日本列島の統治者は、百済から直接派遣された人物で、日本は百済の完全な傀儡政権であったということを主張。
さすがに日本の学者もこの説には同意していないようだが、現在の朝鮮半島の真面目な?学者の一部には、このような歴史観を持っている人がいることは事実であることを筆者は知った。
 
さて、本稿の目的はこの「倭」という文字が、どの時代から「ヤマト」と読まれるようになったかを推定することにある。色々調べたが、実に釈然としないのである。
上述してきたように、狭義のヤマトの原点は三輪山東南ー西麓周辺である。有名な「ヤマトは国のまほらばーーー」と記紀に記されているヤマトは、恐らくこの狭義のヤマトだと判断する。
これが所謂「ヤマト王権」の誕生・発展に伴い、現在の奈良県規模のヤマト国となり、さらに日本列島の全体を表す言葉(一種の自称国名)になったことは間違いないのである。
対外的には「倭(わ)」を国名として用い、対内的には「ヤマト」と呼称した時代があったことは間違いないと判断している。ではその時代はいつかと云われれば判然としないのである。記紀には我が国を表す言葉が幾つも記されている。瑞穂国・大八洲・葦原中国・豊葦原・秋津島・大倭豊秋津島・磯城島      などなど
我が国の国号を「日本」と国際的に我が国の統治者が公言したのは、諸説あるが大宝律令
(701年)制定前後であることは間違いないであろう。対外的には「ニッポン・にほん・ジッポン」などと漢音読みされた。しかし、国内的には「ヤマト」と発音された模様である。少なくとも「隋書倭国伝」に記された時代では、我が国は対外文書では公的には倭(わ)国と自称しているのである。即ちヤマト王権が拡大して、その王権が支配する我が国の範囲について、その王権が認めた国名は、漢字表記で倭(わ)であったことは間違いないのである。
中国の古文献である「宋書倭国伝」でも、我が国の統治者として、所謂「倭の五王」などが記されている。
現在でも、その五王が記紀に記されているどの天皇に相当するのかに関しては、諸説がある。但し、倭王「武」だけは一致して、雄略天皇だとされている。
稲荷山古墳鉄剣銘文に漢字で記された大王は、雄略天皇に比定されている。この史実からも、この頃(471年)になると、日本列島の相当な広範囲に、所謂狭義のヤマト国に誕生したヤマト王権の支配範囲が拡がっていたことは間違いないことと判断出来るとされている。
さて、4世紀前後に狭義のヤマトの地に誕生したヤマト王権は、所謂「河内王権」と云われる時代を経て、再び5世紀中頃に、この狭義のヤマトの地を本拠地とする雄略天皇時代になった。この時代には、その支配範囲は日本列島のかなりの広範囲に拡大したことは間違いない。この新たな支配範囲をヤマト国と呼称していた可能性は、充分あると筆者は考える。雄略天皇は宋への上表文の中で自分の国を倭国と表現し、自分のことを倭国王と称している。結果として宋より倭王の称号を貰っている。
よって、この時倭(わ)=ヤマトという概念が誕生した可能性は非常に高いと判断する。
勿論それ以前の履中天皇あたりでも同一理屈が生じるかもしれないが、遅くとも雄略朝には、倭国=ヤマト国(広義)が成立していたと考えることに大きな間違いはない。
 そもそも我が国に漢字が渡来したのは、応神・仁徳朝頃だと推定されており、5世紀中頃の雄略朝には、前述の関東の稲荷山古墳鉄剣銘文に地方豪族が、漢字を用いた記録を残す程に普及していたと考えられている。漢文表記・万葉仮名表記・訓読み可能な日本語表記などが、どのように進歩していったのかは、未だ判然としていない。しかし、漢字の種類によって遅い早いがあったことは容易に推測される。当初はヤマトも万葉表記されて、前述のような「耶麻謄」など色々な表記がされたことであろう。雄略朝ころからは当時としての国号である「倭」をヤマトと呼称するようなことになっていた可能性は充分ある。しかし、直接証明することは不可能。
一般的には、漢字の訓読みが普及してくるのは、欽明天皇時代以降だとされている。筆者は、「ヤマト」は特別な名前であり、「倭」も特別な漢字であるので、5世紀代には訓読みされていたと推定したのである。
701年の大宝律令で、所謂「好字令」が出され、日本全国の国名・郡名・地名などは2字の漢字で好ましい漢字を用いることになったとされる。この時国名(奈良県に相当する国)の倭国の倭(ヤマト)は大倭(やまと・おおやまと)と記すようになったされている。即ち大倭国となったのである。記録として残されているのはこの段階からである。
 
倭国の国造であった倭氏も倭国造から大倭国造と表記され倭直氏から大倭直氏となったことは明らかである。次ぎに養老律令の時、大倭国が大和(やまと)国と表示され、大倭氏も大和氏と表示されたのである。
 
以上のことを概略的にまとめたのが表1である。
これからいえること。
@倭(ヤマト)氏の表示は、読みは同じで、大倭・大和とは記すが、日本という表示はない。
A日本国の表示は、倭(ヤマト)・大倭はあるが、大和(やまと)の表示はない。
B日本国の地方組織である大和国(ヤマトのくに)の表示は、倭国・大倭国はあるが、日本国という表示はない。
C皇族の人名でヤマトと発音する言葉をその人名の中に有するひとは、倭・大倭・日本・大日本などはあるが、大和という文字を使用した人名はない。
Dヤマトと発音してもどの文字が使用されるのかは、厳然と峻別されていたと考えられる。
( 表2) 「倭」表記の変遷  ( 筆者推定)
  ー4世紀頃 4−5c初め 5c中ー6c 7c  8c  9cー 
列島表記        中国  倭(わ) 倭(わ)
我が国        対外   各地方国名 (例:奴国)  
(わ)
 
    倭(わ)   日本
(ニッポン)
 日本 (ニッポン)
対内       文字なし音      ヤマト音      耶麻謄−>倭 
(ヤマト)
   
  (ヤマト)      日本
  大倭・ 大和 
ヤマト 
  日本・ 大和・ 大日本 
ヤマト−>
 ニホンなど
 狭義ヤマト国−>
律令地方ヤマト国
   
  ヤマト音   ヤマト音  耶麻謄−>倭ヤマト   倭ヤマト   大倭・大和ヤマト   大和
ヤマト
 ヤマト国造氏             ヤマトのくにのみやつこ音?       耶麻謄直氏?−>  倭(ヤマト)直氏       大倭直氏・ 大和直氏 大倭連氏・大倭忌寸氏  大倭宿禰氏  大和宿禰氏 大和国造氏   
 (参考)皇族人名        音のみ     万葉仮名的 
例 獲加多支鹵
(わかたける)
神倭伊波礼毘古命(記)
  
幼武尊(わかたける)
 神日本磐余彦尊(紀)
大倭根子天之広野目女尊
日本武尊(日本書紀)
倭建命(古事記)
 
大日本根子彦太瓊天皇
 
  
 
本稿の倭氏は、狭義のヤマト国の国造であることから派生した氏名であり、日本国を表す「ヤマト」から生まれた氏名ではないのである。非常に難解ではあったが以上ではっきり区別出来ることになった。倭(ヤマト)氏と表示されるようになった時期は雄略朝頃と考えて大きな間違いはないと判断する。本稿で使用した系図の原型みたいなものは恐らく「大倭宿禰長岡」の出現活躍の後頃ではなかろうかと推定している。769年前後か。
勿論既に応神・仁徳朝くらいからの文字化した古記録伝承はあったものと推定される。それ以前の人物については甚だ現実味は薄れる。最も重要なのは椎根津彦と市磯長尾市宿禰であるが、この人物を記紀に組み込ませた人物が前述の大倭宿禰長岡またはその周辺の働きかけがあったものと考えるが、どうであろうか。
 そもそも何故にヤマト王権の発祥の原点である狭義のヤマト国の最初の国造として倭氏が任命されたのかが最大の謎である。記紀には、椎根津彦と市磯長尾市宿禰の逸話を掲載しているが、どうも釈然としないのが筆者の感想である。
@大和国の一宮は大神神社である。主祭神は大物主神である。国の守護神とされ、出雲の大国主と同一神ともされている。出雲系の神社ということは非常にはっきりしている。
A大和神社の主祭神は大和大国魂神だとされており、元々ヤマト王権の宮中に天照大神と共に祀られていた神とされている。それが崇神または垂仁天皇の時に宮中から出て狭義のヤマト国の中心である市磯邑の地に市磯長尾市宿禰によって祀られることになった。と記紀には記されている。出雲系ではない。しかし、地祇系である。社家は市磯長尾市宿禰から始まる倭氏である。
B上記@Aの関係がまことに分かり難いのである。
C大和大国魂神は椎根津彦であるとの説もある。不可解な神さんなのである。
D大神神社の社家は古代豪族である三輪氏である。しかし、国造氏ではないのである。
即ち氏族としては明らかに倭氏の方が上位の氏族である。欠史八代の記紀記事を見ても倭氏は、天皇家に后を出した記録はない。むしろ磯城氏・十市氏のような県主系の氏族が天皇妃を出した形跡がある。同じヤマト国内の氏族でありながら、何故倭氏が上位の待遇が与えられたのであろうか?神武東征の時に椎根津彦が非常に活躍したからである。これはそのまま信じられないのである。
系図上では三輪氏と倭氏は親族である。倭氏の女が太田田禰古の祖母にあたる関係であるから、この2氏がヤマトの地で親しい関係であったことは、推定される。
三輪氏は元々ヤマトの地にいた氏族ではないことは、はっきりしている。問題は倭氏である。記紀伝承では、椎根津彦は明石・吉備または豊前辺りの国人ということになっている。
大和大国魂神社(淡路島)椎根津彦神社(大分県)など所縁の神社がある。
一方最近脚光を浴びてきているのが丹後半島にある籠神社である。ここは、海部氏勘注系図が国宝に認定され、この中で海部氏の元祖として、倭宿禰即ち椎根津彦が、記録されているのである。生まれたのも丹後の地であることが明記されているのである。これも無視出来ない伝承である。
大和大国魂神と天照大神は元々ヤマト王権の宮廷内に天皇家の守護神として祀られてあったと記紀には記されている。大物主神と天照大神とが祀られていたのではないのである。
これが何故か崇神紀によれば大和大国魂神・大物主神・天照大神の3体の神を誰が祀るかについて詳しく記してある。この謎が筆者は未だ解けないでいる。
古代王権の大王の権威の象徴は、神を祀る祭主権者であったことでもある。
@天照大神が崇神朝頃に史実として存在していたかどうかは、議論が分かれるところである。記紀を編纂する頃(8世紀)に所謂記紀神話が宮廷内で創作されたものなので、崇神朝頃に例えヤマト王権なるものが誕生したことを認めたとしても、天照大神なる神は存在していなかった、よって記紀の崇神紀のこの部分の記述は、検討する価値無し。という説が現在の妥当な考えかも知れない。(度会氏考・古代前期天皇家概論参照)
A筆者は、@的立場を支持しない。少なくとも倭氏を理解する上で、この記紀の崇神・垂仁紀に記された内容は、大きなヒントを提供していると判断している。少なくとも記紀編纂時のヤマト朝廷では、どのように考えていたかは推定できる。それが史実であるかどうか別にしてである。
B初期ヤマト王権内で王権の祖先神「天照大神」と狭義のヤマトの地の神である「大和大国魂神」こそ王権の守護神だったと記されている。それを出雲神であり王権が祀っていなかった三輪神が怒って色々災いを招いたのだという記事を書いた目的・理由は何だったのであろうか。しかも「大和大国魂神」の記事は、ほんの僅かである。
C椎根津彦の出自は、海神(地祇)であるとの伝承系図がある。この海神はヤマト王権の大王の姻族である(記紀系図によると)。よって当初王宮内に祀られていた王権の守護神2柱は王権の主の母方及び父方のご先祖だったとも言えるのではなかろうか。
王宮には天神と地祇が王権の守護神として祀られていた。それに別系統の地祇である出雲神が異を唱えた。という構成である。その結果天神は伊勢神宮となり、出雲神は三輪神社となり、後世まで大切にされたが、何故か地祇の大和大国魂神だけが後世には粗末に扱われる結果となった。しかし、それは、はるか後世のことで、少なくとも奈良時代頃までは大和神社も重要な神として扱われていたと考えるべきである。
Dこの大和大国魂神とは、一体どんな神なのであろうかが謎である。一般的には、その土地の元々からの守護神が大国魂神であり、日本各地方毎にある地祇であるとされている。
大和大国魂神といえば、狭義のヤマトの地の原住民を守護する地祇と解されるべきである。
これを奉祭する氏族は、ヤマトに原住民的に住んでいた氏族の中で一番勢力を有していた氏族が担ったと考えるのが常識的である。
E三輪神社の大物主神と大和神社の大和大国魂神とは、明らかに別の神である。場所はほぼ同一地域(狭義のヤマト国)に祀られてある。大物主神も地祇であり、三輪山信仰は少なくとも弥生時代から存在していたもの(縄文時代まで遡るとの説もある)と考えられている。となると、この狭義のヤマトには、大物主神を守護神とする原住民と、大和大国魂神を守護神とする原住民が存在していたことになる。そこへヤマト王権を誕生させた別の新勢力が侵入してきて、天照大神を自分らの守護神としたのである。ということであろうか。記紀の崇神天皇紀に記されたこの部分の記述は、この3つの勢力が折り合いが悪く災いが絶えず統治者のヤマト王権の大王を悩ませ、これを解決する手段として、それぞれの神の血脈・関係者がそれぞれの神を祀るようにしたら、いざこざが解消してヤマト王権の統治が旨くいったという解釈を暗示しているのだという説が出されている。勿論そんな議論は一切無意味であるという説が現在の通説だと思う。
F日本書紀では崇神7年紀・垂仁25年紀一書に類似の長尾市宿禰が、大和大国魂神を祀るようになった経緯みたいな内容の記事があるが、筆者には理解出来ない内容である。
参考までにその訳文の一つを記す。
日本書紀垂仁天皇25年紀(山田宗睦 訳)
一書ーーー倭大神が、穂積臣の遠祖大水口宿禰にのりうつって、教えるには、「太初のとき、『約して、天照大神は、あまねく高天原を治めよ。皇御孫尊は、もっぱら葦原中国の八十魂神を治めよ。我はみずから大地官をおさめよう』といった。言葉はまったく成就している。しかし、先皇ミマキ天皇は神祇を祭祀したけれども、ことこまかにその根源を探ることをせず、おおざっぱに枝葉にとどまった。それで、その天皇の命は短かった。こういうわけで、今お前御孫命が、先皇のいたらぬところを悔いてつつしみ祭るなら、お前尊の寿命は長く延び、また天下も太平である」といった。天皇は、この言葉を聞き、すぐに中臣連の祖探湯主に命じて、誰に大倭大神を祭らせるかを、占った。渟名城稚姫命が占いに合った。よって渟名城稚姫命に命じて、神地を穴磯邑に定め、大市(桜井市)の長岡のアに祠った。しかしこの渟名城稚姫命は、身体がまったく痩せて弱まり、祭ることができなかった。そこで、大倭直の祖長尾市宿禰に命じて、祭らせたのである。
 
この記事の解釈は諸説ある。筆者はアマチュア的に次のように理解した。
イ、これは日本書紀編纂時の大和朝廷の王権祭祀の原点的な考え方、歴史観みたいなものを記したものである。史実とは無関係。ヤマト王権の誕生以来こうだったと主張しているのである。
ロ、「天地人」的思想が背景にある。
ハ、この記事の「我(倭大神)はみずから大地官をおさめよう」 が何を意味するかが諸説ある箇所である。筆者は倭大神は、狭義のヤマトの地(ヤマト王権誕生の地)の土着の神々(それを信仰する土着の民衆、彼らが所有する土地など)を護る神である。と解釈するべきだと判断している。この段階では決して律令制の大和国、その後の日本列島全土(ヤマト王権の発展した規模の)などの地祇の守護神的解釈は無理がある。
当然、日本書紀編纂者は、後者の意味でこの記事を記したのであるとの説がある。
また大和神社の祭神の「倭大国魂神」の名前を「日本大国魂神」と表示する場合があるようであるが、この表示法がいつ頃からかは筆者は知らない。筆者流に判断すれば、これは原点的な表示法ではないのである。倭・大倭・大和までは問題ないが「日本」は根本的に違う概念であると思っている。
記紀には日本大国魂神という表示は無かったものと記憶している。
仁安二年(1167)、「大倭歳繁」が国衙の命で注進した「大倭神社注進状」なる古文書が知られている。これによると、倭大国魂神は、出雲神である「大国主」と同一神であるとし、狭義のヤマト国だけでなく日本列島全土の地主神だと記されているのである。
勿論この説には古来から異論もある。
筆者もこの説は、後世の大倭神社サイドの架上がされていると判断している。
ニ、両記事に登場する神が乗り移ったとされる大水口宿禰と倭氏・長尾市宿禰・椎根津彦との関係が謎である。
一方、大物主神ーヤマトトトヒモモソヒメー太田田禰古ー三輪氏の関係は前後の色々な記事により理解できる。(説明省略)
ホ、ヤマト王権誕生時(崇神天皇時とする)、大王は守護神として天の神、地の神を祭る祭主であったであろうことは理解出来る。この時の天の神が天照大神と断定しているこの記事を史実とするには難を感じる。(度会氏考参照)
ヘ、ヤマト王権誕生時、大王の守護神の地の神が倭大神(大和大国魂神)としていることは、どうであろうか?伝承としてあったのであろうか。筆者は古代豪族「倭氏」の氏族伝承としてあったものと推定している。
ト、大和神社の創建伝承は、史実であるかどうかは別にして、少なくともその社家である
倭氏にはあった。これが何らかの形で、どこかの段階で、ヤマト王権の記録に残され、日本書紀編纂時に上記のような形で記されたと考えることは妥当であると考える。
チ、この一連の神々と大王との関係を記した記紀記事は一体何を意味するのか。古来色々議論されてきた所である。アマチュアファンには興味あるところであるが、戦後の歴史学者も一時は色々研究され、論文も出されたようだが、咋今では、無視されている感がある。
しかし、筆者は日本の古代史を理解する上で非常に重要な史実をも秘めている伝承と認識しているのである。
リ、崇神・垂仁紀には大物主神・三輪氏・大神神社関係の記事が出てくる。これと上記倭大国魂神・倭氏・大和神社の関係が上述したように現代人である我々には理解し難いのである。
 
G古代豪族「倭氏」を理解する上で重要な文献は新撰姓氏録である。この中で平安時代初頭での倭氏の先祖のことが記されている。大和宿禰(大和国造)の祖は地祇である神知津彦(かむしりつひこ)命であり、別名「椎根津彦」であることが明記されている。
これとは別に新撰姓氏録右京神別下 倭太氏(やまとのおほ・わた):神知津彦(かむしりつひこ)命の後なり。という記事がある。これに対して佐伯有清は
 『倭太の氏名を「やまとのおほ」と訓むならば後の大和国十市郡飫富郷(奈良県磯城郡田原本町多)の地名を負い、また「わた」と訓めば、和泉国大鳥郡和田郷(大阪府堺市久世・美移・北上神一帯)の地名にもとづくことになる。倭太を「わた」と訓ずる方が妥当か。
参河国八名郡・渥美郡に和太郷があり、相模国大住郡にも和田郷があり、ともに倭太を「わた」と訓むのが参考になる。栗田寛は「倭太」は海(わた)にて海神に由ありて負えるか、椎根津彦の海神に由縁あること、青梅首の条にも云へり」と指摘している。倭太氏の一族の人名は、他の史料にみえない。』と解説している。
 
佐伯有清「新撰姓氏録の研究」吉川弘文館(1981年ー)解説記事より引用
一方
・神知津彦は「みしりつひこ」とも読めることから古代豪族「多氏」の氏神とされている
多坐弥志理都比古神社(奈良県磯城郡田原本町多に現存)の弥志理都比古と同一読みであり多氏の祖である神八井耳命(神武天皇の子供で2綏靖天皇の兄)と同一と解され、椎根津彦=神知津彦=弥志理都比古=神八井耳命だという説も古来からある。(多氏考参照)
 
倭太氏を「やまとのおほ」と読み、神知津彦を「みしりつひこ」と読めば、倭氏の祖椎根津彦は、古代豪族「多氏」の祖ともなる。しかし、多氏の方からの調査では、椎根津彦なる人物は出てこなかった。今後の検討事項としておきたい。
H椎根津彦は海神の末裔で、海人族である。という伝承がある。本稿の5−4)参照
これは倭氏を理解する上で非常に重要な伝承である。
一方最近の考古学の成果として3世紀の初めー中頃突如としてヤマトの巻向の地に前方後円墳という新型の古墳が発生したことが分かった。(巻向遺跡:ヤマト王権の最初の王都説)寺沢 薫は、発掘物の分類・解析などにより、この王権は連合新政府みたいなものと主張している。この連合体は筑紫・吉備・播磨・讃岐の国々の連合体としている。その中心勢力は、吉備勢力であったとしている。
この地こそ邪馬台国であり箸墓古墳こそ卑弥呼の墓である的な議論は、本稿ではしないこととする。筆者は、この巻向の地に3世紀中頃には日本列島のどこにもない都市が出現したことは間違いないと判断する。これを原初的なヤマト王権の地だと仮定し、それの誕生には、筑紫・吉備・播磨などの諸勢力が関与したとの説に従って椎根津彦伝承を考えると以下のようなことが推測される。
・北九州の倭奴国に原点を有する倭人・海人族の裔達も原初的なヤマト王権都市の誕生に関与した。その代表的な人物名が椎根津彦であった。
・吉備族も同じ海人族だったことが推測される。播磨國の勢力も海人族と考えてもおかしくない。
・出雲族の流れは、倭人・海人族ではあろうが、上記2者とは異なり、新羅系の文化を有する氏族であり、近畿・ヤマト地方には弥生時代から銅鐸文明をもって既に入っていた勢力だと考える。銅鐸文化は巻向都市の誕生と共に近畿地方からは消滅したとされている。
これは出雲族が近畿地方からいなくなったのではなく、銅鐸を用いた祭祀が禁じられたまたは、別の祭祀方法に置き換えられたと考えられる。祭祀主導権が出雲族から他の氏族に
移ったことをしめしているとされている。
・これらの諸勢力が、3世紀初ー中頃にかけて狭義のヤマトの巻向の地に連合国家みたいなものを誕生させた。その象徴が前方後円墳である。
・その後、筑紫系なのか、吉備系なのかは判然としないが、世襲的な王族政権へと発展していった。これが三輪王権であった。記紀には欠史八代として系譜が記されているが、これは別氏族の伝承系図または創作系図とされている。謎である。
・この世襲王権の誕生の過程で諸々のトラブルが発生した。それが、記紀の崇神・垂仁紀に記された謎めいた祭祀関連記事である。
・大物主神関係は上記出雲族関連で理解できる。
・天照大神関係は後年に大王家を守護する祖先神として恐らく創作された神をここえ登場させて格好をつけた感じがする。(当時も何かはあったと推定されるが、それが天照大神とは限らない)
・問題は倭大国魂神である。一連の考察でも分かるように椎根津彦はヤマト土着の氏族ではない。また出雲族でもない。
恐らく大王家に非常に近いが家来でもない海人族系の吉備・播磨国に関係した人物であることを臭わせている。この一族は、巻向という新たな土地に都を建設したとき、非常に活躍した功績が認められ、その巻向という限られた土地付近にある種の利権が与えられたものと推定される。これは明らかに弥生時代から信仰の対象であった三輪山とは異なる土地守護的役割を担っていたものと考えられる。
・これが崇神天皇という世襲的王権の誕生の際に、その利権の一部または全部が剥奪されたために王権サイドとトラブルが発生したことを上記の垂仁紀の記事は暗示しているのである。よって椎根津彦の裔とされる長尾市宿禰に巻向の箸中の地に倭大国魂神を祀る神社を建てさせ以後ヤマト国造りとして処遇したと記されているものと推定した。
・倭大国魂神と大物主・大国主とは、少なくとも初期段階では異なる神と考える。勿論これを日本大国魂神と表示するのも原初的には間違いだといわざるをえない。
 
 
・浦島伝説に見る古代日本人の信仰 増田早苗 知泉書館(2006)
・古代海人の謎 田村圓澄・荒木博之 編 海鳥社(1994)
 
上記Hは、筆者の独断的推定が含まれているが、このように考えると、上述してきた色々な謎が自分なりに納得できるようになるのである。
さらに倭氏系図で市磯長尾市の孫の代に明石国造・吉備海部氏が派生した裏付けがとれたのではなかろうか。
記紀では、ヤマト王権誕生のキー氏族であったはずの倭氏のことを詳しく記述することを意図的に避けた感じがする。理由は、天皇家の本当の成立時期、万世一系の天皇家問題に支障をきたす何かが秘められているからではないだろうか。邪馬台国問題も意図的に記述していないのだと思わざるをえない。3世紀中頃から4世紀中頃にかけて狭義のヤマトの地に最初の王権が誕生したことは、考古学的にも間違いないとされている。この時に倭氏が重要な役割を演じたことは、充分推論可能である。
倭氏に関してさらに別史料を基にした検討が必要である。その一つは、海部氏勘注系図であると思っている。本稿では、これ以上は述べないこととする。
 
6)まとめ(筆者主張)
@弥生時代の紀元前後には、日本列島の住民の一部は既に中国大陸と交易していた。中国の文献では、日本列島を倭(わ)と呼び、その住民を倭人といい、そこの政治勢力を倭国と称していた。
A中国と交易した倭人は、自分らのことを「太伯之後」だと称し、中国の文献でも長らくこの記述が続いた。現在ではこの倭人は、江南系の海人族だと推定されている。現在では倭人は色々な方面からの血族の集合体なので単純ではない、海人族にも色々な出自があるとされている。この江南系海人族の代表的な勢力が金印で有名な北九州にあった「倭奴国」である。
B奴国の祖先神は「綿積神」である。宗族は古代豪族「安曇氏」である。
C倭(やまと)氏系図は色々あるが、新撰姓氏録では、倭氏は、地祇系であり、祖先神は綿積神である。これに従えば、安曇氏と同じ奴国と関係した海人族系氏族と考えるのが妥当である。即ち太伯の後裔氏族ということになる。稲作文化を日本に伝えた主力種族でもある。
D記紀の神武東征伝に記事のある椎根津彦が、倭氏の祖とされている。
Eヤマト王権(三輪王権)の誕生時期は、現在では諸説あるが、筆者は4世紀前後説を採用している。最近の考古学的発掘調査の結果を踏まえた寺沢 薫の原初的ヤマト王権は、狭義のヤマトより西国の主な勢力の連合政権であった、という説は、筆者の疑問を解く好材料である。即ち、筆者流に解釈すれば、三輪王権が確立するまでは、世襲的王権氏族はいなかったと解釈する。巻向の地(狭義のヤマト)に連合政権みたいなものが、突如として誕生し、それに前後して、銅鐸文明を有していた出雲族の政治的地位が失墜した。そして前方後円墳文化時代が到来したのである。3世紀初めー中頃か。
Fこの巻向連合政権誕生に活躍したのが、元々から狭義のヤマトの地にはいなかった瀬戸内沿岸部出身の海人族勢力だった。その代表的名前が「椎根津彦」である。
G椎根津彦勢力は、この狭義ヤマトの地で特権的な利権をこの間に獲得していた。
Hところが、三輪王権を確立した崇神天皇勢力が、3世紀末頃から4世紀初頃にかけて、上記連合政権的支配体制を打破して世襲的王権体制を確立した。これにより上記椎根津彦らが巻向の地(狭義のヤマト)に有していた特権的利権が剥奪された。同時に元来この地方一帯に住んでいた、出雲族とも多くの軋轢がヤマト王権の間に発生した。
Iこのような背景を記紀の崇神紀・垂仁紀の神の祭祀に関する謎に満ちた記述が暗示していると判断した。
J崇神天皇が、どのような系譜を有する人物かは、判然としない。しかし、海人族である
椎根津彦とは血族的に非常に近い関係にあったものと推定出来る。恐らく祖先的意味で母系は一緒なのではなかろうか。(海人族)
K「市磯長尾市」なる人物が史実として存在したかどうかは不明であるが、この崇神・垂仁時代に狭義のヤマトの地の利権の一部を王権サイドより認められ、その地の地主神を祀る祭祀権が認められたものと推定される。(大和(おおやまと)神社のおこり:社が創建された訳ではない。)
L大和神社の主祭神である「倭大国魂神」は出雲神である大国主と同一神であるという説もあるが、筆者はそれに与しない。少なくとも創建当初はそうではなかったと考えるのが妥当。
M最狭義のヤマトは、現在の奈良県桜井市・天理市・橿原市(三輪山東南・西麓一帯)付近である。この最狭義のヤマト国の初代国造(我が国国造の第1号とされている)に任命されたのが椎根津彦一族である。と記紀などに記されているが、これは上記EFG的な意味だと解する。
Nこの最狭義のヤマト国は、ヤマト王権の進展にともない、現在の奈良県全体を表する所謂律令制度ヤマト国となる。4世紀初めに誕生したヤマト王権の時代は、呼称「ヤマト」は存在していたが、漢字表記はなかった。さらにヤマト王権の拡大進展が進み、遅くとも雄略大王時代には、対外的には当時の日本列島を倭(わ)国と呼び、体内的には「ヤマト国」と呼称するようになった、と推定した。
5c中頃以降、万葉文字方式の耶麻謄・夜麻登(ヤマト)などの表記が誕生。6cには倭(ヤマト)表記になり、7cにも倭となり、大宝律令の時には「大倭」表記となった。757年には、大和と表示するようになる。古代豪族「倭国造氏」の表記もヤマト国の表記と連動した。
O一方日本列島全体を表記する言葉は、色々あったものと思われているが、「倭(わ)」が原点的国際的言葉である。この言葉は少なくとも推古朝までは対外的に正式に用いられていた。701年の大宝律令前後で「日本」という国号が決まったとされる。対外的には「にほん・ニッポン」と呼称し、体内的には「ヤマト」と呼称していたようである。
Pこの時、基本的には大和国や倭国造氏を表記する漢字に、「日本」という字は用いない。発音はヤマトである。一方日本国を表す漢字は倭・大倭・大和・日本を用いヤマトと発音した。非常にややこしいが一定の表記区別があったものと判断した。
Q倭氏は史実として少なくとも応神・仁徳時代以降は、存在していたことは間違いないと判断している。それ以前は謎部分であるが、4世紀前後に誕生したヤマト王権の系譜にも関係した重要な一族であったと推定する。記紀は詳細な部分を意図的に記載しなかった可能性が大である。理由は、後世の天皇家の血脈・万世一系問題・ヤマト王権誕生時期などに抵触する何かがあったものと推定している。古来から海人族系といわれている、吉備氏・和邇氏・息長氏・多氏・尾張氏などの系譜が欠史八代の天皇家系譜に組み込まれていることも同じような意味合いがあるのではと判断している。
R日本古代史を解明する上で、倭氏をはじめ所謂海人族系の氏族のさらなる検討探求が必要である。
S倭氏の基本的な系図は、記紀が成立した8世紀初ー中頃に活躍した「大和国造正四位下大倭宿禰長岡」時代に確立したものと推定出来る。それ以後の倭氏の動向は、はっきりしないが、平安時代中頃までは、色々な人物が活躍した形跡が残されている。(位は高くないが貴族クラスだったと推定)
                     (2010−8−31脱稿)      
 
7)参考文献
(1)日本の歴史 02「王権誕生」寺沢 薫 講談社(2001年)
(2)「倭国」 岡田英弘 中公新書 中央公論新社(2007年)
(3)「倭の正体」姜 吉云 (株)三五館(2010年)
(4)「邪馬台国から大和政権へ」福永伸哉 大阪大学出版会(2007年)
(5)「古代の日朝関係」山尾幸久 塙選書  塙書房(2003年)
(6)「古代海人の謎」田村圓澄・荒木博之編 海鳥社(1994年)
(7)「日本古代国家の成立」直木孝次郎 講談社(1999年)
(8)「中国からみた日本の古代」沈 仁安 ミネルヴァ書房(2003年)
(9)「浦島伝説に見る古代日本人の信仰」 増田早苗 知泉書館(2006年)
(10)「新撰姓氏録の研究」佐伯有清 吉川弘文館(1981年ー)
(11)「日本歴史地名辞典」 藤岡謙二郎 東京堂出版(1981年)
(12)「日本地名語源事典」 吉田茂樹 新人物往来社(1981年)
(13)「国史地名辞典」 藤岡継平編 村田書店(1976年)
(14)「地名語源辞典」 山中襄太 校倉書房(1973年)
(15)「日本書紀(上中下)」山田宗睦 ニュウトンプレス(2004年)
(16)「日本人はどこからきたか」 埴原和カ 小学館(1984年)
(17)「日本人はどこから来たか」樋口骰N 講談社(1973年)
(18)「姓氏家系大辞典」 太田 亮
(19)日本の歴史 03「大王から天皇へ」 熊谷公男 講談社(2001年)
・その他関連ウイペディアなど参考
・主な参考HP @http://www9.plala.or.jp/juraku/csokil-1.html  など