3)光明寺関連資料
(1)熊谷直実(1141−1208)1138生説もある。
(蓮生山熊谷寺縁起参考)
@父;直貞 母;久下直光妻の妹(成木大夫久下権守の妹)丹治重直女?秩父女?
A妻;不明 子供;直家、実家など 次男;次郎。幼名;弓矢丸 三男説あり。
熊谷氏の紋;「鳩に寓生(ほや)」(頼朝よりもらったとされる。)
B祖父平盛方が天皇の怒りに触れて罰を受けた。その子直貞(直実の父)と母は、都を逃れ縁をたよりに武蔵国小沢大夫(武蔵七党)の元に身を寄せた。父直貞は、剛力の持ち主で素手で熊を倒した。
これが縁となり領地を貰い熊谷と名乗ったとの説あり。直実も父に劣らず剛力。父は2才の時没。母方?叔父久下直光*のもとで母子暮らした。
*久下直光の子孫は鎌倉幕府に仕え丹波に地頭職として来る。丹波国粟作郷。久下城は現;兵庫県氷上郡山南町玉巻にあった。丹波久下氏の興り。
C生誕地は、武蔵国大里郡熊谷郷説(熊谷直実伝関係)、京都錦小路烏丸東説(蓮生法師伝関係)あり。
D平忠盛が三十三間堂の建立(得長寿院のなかの三十三間堂で現存のものとは異なる。鳥羽上皇に1132年に造進したものである。これは史実)をし、千体仏を安置した恩賞として、内昇殿を許された時、人々はこれを羨んで闇討ちを図る。
これがばれて捕らえられた中に直貞の父盛方がいた。忠盛は、熊谷直貞及びその子直実の殺害を命じた。(この時未だ直実は生まれていない。???)しかし、忠盛の子経盛とその妻は、直実の助命を乞うた。これにより幼い直実だけは助かった。(これが2才の時の話か?本件は疑問多し))
E保元(1156)の乱では源義朝方に属し、平治の乱(1159)では源義平(義朝の子)に属したが、平重盛に敗れた。後に京都大番勤務中(叔父久下直光の代役)に平知盛(清盛の子)に仕えたので直光と対立直光は怒って熊谷郷の一部を奪い取る。
F1180年頼朝挙兵、石橋山の戦では、平氏方大庭景親に属したが、この時逃げる頼朝を救ったとして、その後頼朝に付いた。この時熊谷氏の紋を頼朝から貰ったとされる。 常陸の佐竹秀義討伐で軍功をあげる。これにより1182年頼朝より熊谷郷地頭職を安堵された。直光の押領を止めた。
G1184年木曽義仲追討時、直実、直家親子は源範頼に従う。富士川の戦では義経に従い武功を挙げる。一ノ谷合戦時義経に従い、平山季重と先陣争い。平敦盛を討った。その首に遺品と書状を添えて敦盛父経盛に送る。経盛は感謝の返状を直実に送る。
H1185年聖覚法印(澄憲の子)の先達で、吉水禅房の法然上人を訪ねる。
I伝説;1186年天台僧顕真が法然を大原勝林院に招き専修念仏に関する論議を行った(大原問答)これは史実。法然が敗れた場合、直実はその法敵を討ち果たそうと、袖に鉈を隠し持っていたが、法然に諭され投げ捨てたと伝える。これを記す石碑が大原勝林院に残されている。後日法然は、鉈の代わりにと「利剣即是弥陀号一声称念罪皆除」と記された名号を賜れた。この「利剣名号」が熊谷寺に残されている。
J1187年頼朝の命に背き所領の一部を没収される。
K1188年直実娘玉鶴姫善光寺参詣(姫塚伝説)
L1189年藤原泰衡征伐に出陣。
M1190年敦盛7回忌で直実は、高野山に供養塔を建てる。
N1191年息子直家に熊谷郷の20町歩を与える。
O1192年久下直光との境相論に対する頼朝の裁定に不満を抱き、剃髪、逐電、京都に上った。(熊谷に帰った、伊豆国走湯山へ入ったなどの説もある) P1193年京都 安居院の「澄憲」(藤原通憲の子)を訪ねる。澄憲の薦めにより京都東山吉水の安養寺**に法然(源空)を訪ねた時、法然より「どんなに罪が深かろうと念仏さえ一心に申せば必ず救われる」とのみ教え受け、その専修念仏に帰依し、「法力房蓮生」と名付けられた。 (法然の正式な弟子になったのはこの年。但し前半部は1185年記事と混乱あり。)
Q1193年法然の命により、法然の誕生地(美作国)(現;岡山県久米郡久米南町誕生寺里方)に「誕生寺」を創建した。現存。
R1195年京都から熊谷に帰る。「逆さ馬」伝説。
・東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺建立 (念仏質入れ、十念質入れ伝説)
・源頼朝と対面。
S1196年帰洛する。
S@1197年法然のお供で九条兼実邸を訪ねる。
SA1198年吉水の地は人馬の往来も激しいので、もっと静かなところで念仏修行がしたいと思い法然上人にゆかりのある粟生広谷の地*に庵を建てた。
滋賀県の堅田にある浮御堂千体仏の中尊仏である阿弥陀如来像(恵心僧都作)を迎え、法然上人を招いて落慶法要を行い法然上人を開山第1世とし、自分を第2世とした。
この時上人より「念仏三昧院」の寺号をもらった。これが光明寺の始まりである。
SB1204年京都鳥羽一念寺で上品上生の誓願状記す。
SC1205年熊谷へ下向。光明寺は、法然の門弟幸阿上人(光明寺三世)に後を託し、法然に別れを告げた。中山道を通り、美濃国横蔵寺に立ち寄り念仏を修めた。信濃善光寺にも寄ったとされる。熊谷着後、下野国領主宇都宮頼綱*へ浄土を勧め、後に「実信房蓮生」と名乗らせた。 この他法然、証空(第4世)との交流手紙が残されている。
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