乙訓の歴史

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粟生光明寺

 粟生光明寺は、京都府長岡京市粟生西条内26−1にある 西山浄土宗の総本山である。寺伝によれば1198年「源平合戦」で有名な熊谷直実により建立された寺とされている。「おとくに」地方の名刹である。筆者は、その関係人物に興味を覚え、調査した結果の一部を下記にしるす

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1)光明寺の歴史(主に寺伝による)
@1156年法然上人24才時、粟生の里庄屋高橋茂右衛門宅に宿泊。
A1175年法然上人43才で「浄土宗」開く。粟生の庄屋高橋宅で初めて念仏の産声をあげたとされる。
B1198年法然上人の縁により蓮生法師(熊谷直実)が西山粟生野の地に「念仏三昧院」が創建された。
C1212年第3世幸阿上人の時法然は入滅。
D法然は晩年叡山の仏教集団からの迫害を受けたが、入滅後も続き1227年大谷の法然の墳墓をあばき遺骸を鴨川に流そうと企てた。弟子たちは石棺を太秦広隆寺へ移した。
1228年上人の石棺より数条の光明が放たれ、南西方向にある粟生野を照らすという不思議なことがあったので広隆寺から粟生「念仏三昧院」に石棺を移し、荼毘に付した。
寺の裏山に御芳骨を納め廟堂を建てた
E1234年知恩院が法然の弟子勢観房源智上人によって「吉水の草庵」隣に建立。後に四条天皇より、「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を賜る。
F1242年この時の光明の奇瑞にちなんで四条天皇から「光明寺」の寺額を賜った。これ以後寺号は、光明寺と改められた。
G1563年正親町天皇から「法然上人の遺廟光明寺は浄土門根本之地と謂っ可し」との綸旨を賜った。光明寺が「浄土一宗の御本廟」と定められ、浄土門根本之地といわれるのはこのためである。
・末寺:58ケ寺関連8ヶ寺計66寺
参考)浄土宗
鎮西派 総本山 知恩院
西山派 禅林寺派 本山 東山永観堂禅林寺
    光明寺派 本山 光明寺     西山浄土宗 総本山 報国山光明寺
    深草派  本山 誓願寺

2)光明寺案内

信楽庭(しんぎょうてい);勅使門内の前大小18個の岩を配し、弥陀三尊をはるかに仰ぎつつ、一人の行者が生死の大海を渡る姿を表現。
勅使門;1860年創建。
参道;女人坂 江戸時代末に信者の手で小畑川の石を集めて作った。年寄り、着物の女性でもお参りしやすいようにした。
総門;光明寺入り口の門。
御影堂張り子の御影。法然が1207年讃岐に流されたとき、後世のかたみにと母君からの手紙をもとに船中で自ら張って作ったもの。貞明皇后下賜品の法服。1753年再建
    脇壇;善導大師*、西山国師**、蓮生法師、浄音上人***
*(613−681)中国隋国の僧。南無阿弥陀仏の一つで往生することを説いた。
**(1177−1247)第4世 浄土宗西山派の祖證空
法然上人第1の弟子。
浄土教の根本精神を宣揚し西山教旨を大成した。
・実父;加賀権守源親季(秀)。養父;源(久我、土御門)通親。義兄弟に「道元
金原寺建立の源在子(土御門天皇母)とも義兄弟。
慈円より「良峯寺」を譲られる。「三鈷寺」に住み、ここに葬られた。
***浄土宗西山派の高僧。各地に寺を建立。
 
薬医門紅葉参道側の入り口の門。江戸後期。
本廟円光大師(法然上人)の墓。1855年再建。
阿弥陀堂阿弥陀如来像、直実が背中に負って堅田浮御堂から持ってきたもので 1799年再建。
釈迦堂享保19年(1734)全山焼失。1741年再建。
3)光明寺関連資料       
(1)熊谷直実(1141−1208)1138生説もある。
(蓮生山熊谷寺縁起参考)
@父;直貞 母;久下直光妻の妹(成木大夫久下権守の妹)丹治重直女?秩父女?
A妻;不明 子供;直家、実家など  次男;次郎。幼名;弓矢丸 三男説あり。
        熊谷氏の紋;「鳩に寓生(ほや)」(頼朝よりもらったとされる。)

B祖父平盛方が天皇の怒りに触れて罰を受けた。その子直貞(直実の父)と母は、都を逃れ縁をたよりに武蔵国小沢大夫(武蔵七党)の元に身を寄せた。父直貞は、剛力の持ち主で素手で熊を倒した。
これが縁となり領地を貰い熊谷と名乗ったとの説あり。直実も父に劣らず剛力。父は2才の時没。母方?叔父久下直光*のもとで母子暮らした。
久下直光の子孫は鎌倉幕府に仕え丹波に地頭職として来る。丹波国粟作郷。久下城は現;兵庫県氷上郡山南町玉巻にあった。丹波久下氏の興り。
C生誕地は、武蔵国大里郡熊谷郷説(熊谷直実伝関係)、京都錦小路烏丸東説(蓮生法師伝関係)あり。
D平忠盛が三十三間堂の建立(得長寿院のなかの三十三間堂で現存のものとは異なる。鳥羽上皇に1132年に造進したものである。これは史実)をし、千体仏を安置した恩賞として、内昇殿を許された時、人々はこれを羨んで闇討ちを図る。
これがばれて捕らえられた中に直貞の父盛方がいた。忠盛は、熊谷直貞及びその子直実の殺害を命じた。(この時未だ直実は生まれていない。???)しかし、忠盛の子
経盛とその妻は、直実の助命を乞うた。これにより幼い直実だけは助かった。(これが2才の時の話か?本件は疑問多し))
E保元(1156)の乱では
源義朝方に属し、平治の乱(1159)では源義平(義朝の子)に属したが、平重盛に敗れた。後に京都大番勤務中(叔父久下直光の代役)に平知盛(清盛の子)に仕えたので直光と対立直光は怒って熊谷郷の一部を奪い取る。
F1180年頼朝挙兵、石橋山の戦では、平氏方大庭景親に属したが、この時逃げる頼朝を救ったとして、その後頼朝に付いた。この時熊谷氏の紋を頼朝から貰ったとされる。 常陸の佐竹秀義討伐で軍功をあげる。これにより1182年頼朝より熊谷郷地頭職を安堵された。直光の押領を止めた。
G1184年木曽義仲追討時、直実、直家親子は源範頼に従う。富士川の戦では義経に従い武功を挙げる。一ノ谷合戦時義経に従い、平山季重と先陣争い。平敦盛を討った。その首に遺品と書状を添えて敦盛父経盛に送る。経盛は感謝の返状を直実に送る。
H1185年聖覚法印(澄憲の子)の先達で、吉水禅房の法然上人を訪ねる
I伝説;1186年天台僧顕真が法然を大原勝林院に招き専修念仏に関する論議を行った(大原問答)これは史実。法然が敗れた場合、直実はその法敵を討ち果たそうと、袖に鉈を隠し持っていたが、法然に諭され投げ捨てたと伝える。これを記す石碑が大原勝林院に残されている。後日法然は、鉈の代わりにと「利剣即是弥陀号一声称念罪皆除」と記された名号を賜れた。この「利剣名号」が熊谷寺に残されている。
J1187年頼朝の命に背き所領の一部を没収される。
K1188年直実娘玉鶴姫善光寺参詣(姫塚伝説)
L1189年藤原泰衡征伐に出陣。                        
M1190年敦盛7回忌で直実は、高野山に供養塔を建てる。
N1191年息子直家に熊谷郷の20町歩を与える。
O1192年久下直光との境相論に対する頼朝の裁定に不満を抱き、剃髪、逐電、京都に上った。(熊谷に帰った、伊豆国走湯山へ入ったなどの説もある)
P1193年京都 安居院の「澄憲」(藤原通憲の子)を訪ねる。澄憲の薦めにより京都
東山吉水の安養寺**に法然(源空)を訪ねた時、法然より「どんなに罪が深かろうと念仏さえ一心に申せば必ず救われる」とのみ教え受け、その専修念仏に帰依し、「法力房蓮生」と名付けられた。   (法然の正式な弟子になったのはこの年。但し前半部は1185年記事と混乱あり。)
Q1193年法然の命により、法然の誕生地(美作国)(現;岡山県久米郡久米南町誕生寺里方)に「誕生寺」を創建した。現存。
R1195年京都から熊谷に帰る。「逆さ馬」伝説。
・東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺建立 (念仏質入れ、十念質入れ伝説)
・源頼朝と対面。
S1196年帰洛する。
S@1197年法然のお供で九条兼実邸を訪ねる。
SA1198年吉水の地は人馬の往来も激しいので、もっと静かなところで念仏修行がしたいと思い法然上人にゆかりのある粟生広谷の地*に庵を建てた。
滋賀県の堅田にある浮御堂千体仏の中尊仏である阿弥陀如来像(恵心僧都作)を迎え、法然上人を招いて落慶法要を行い法然上人を開山第1世とし、自分を第2世とした。
この時上人より「
念仏三昧院」の寺号をもらった。これが光明寺の始まりである。
SB1204年京都鳥羽一念寺で上品上生の誓願状記す。
SC1205年熊谷へ下向。光明寺は、法然の門弟幸阿上人(光明寺三世)に後を託し、法然に別れを告げた。中山道を通り、美濃国横蔵寺に立ち寄り念仏を修めた。信濃善光寺にも寄ったとされる。熊谷着後、下野国領主宇都宮頼綱*へ浄土を勧め、後に「実信房蓮生」と名乗らせた。  この他法然、証空(第4世)との交流手紙が残されている。
宇都宮頼綱(1172−1259)
・正室は北条時政八女であり、他に側室として、稲毛重成女、梶原景時女あり。
・北条義時から謀反の嫌疑を受けて1205年頃出家。「証空」に師事
・歌人でもあり藤原定家との交流もあった。頼綱娘は定家の子為家の嫁である。
・財政的にも恵まれていたため、「証空」らのパトロン的存在であった。
・法名が熊谷直実と同じ「蓮生」であるので一部文献に混乱あり。要注意。
SD1207年没。没地、墓所は諸説ある。京都東山山麓説。熊谷市熊谷寺入寂説。岐阜県揖斐郡谷汲村横蔵寺説。
・熊谷郷に帰り草庵を建て念仏三昧の生活を送り上品上生を予告したと伝える。
SE直実の子孫は全国に広がっているが、安芸国へ移住した一族が主流か?
SF謡曲「敦盛」で蓮生法師登場
*法然上人24才の時、叡山を下り求法の為に、嵯峨清涼寺に一週間参籠。そこから奈良へ行く途中、粟生の里の庄屋高橋茂右衛門宅に一夜の宿をとった。
その時宿の夫婦は上人の真剣な求法の志と、広く凡夫の救われる道を求めんが為の旅であることを聞いて「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私どもにその尊いみ教えをお説き下さいませ」とお願いした。
1175年ついに法然は浄土宗を開かれた。広く説法に回られるに先立ち20年前の庄屋夫婦との約束を思い出されて、先ず粟生の地に来られ、初めて
念仏の産声をあげられたのである。
**現在の円山公園の東北角にあり、知恩院の隣にあたる。
この寺は最澄が創建したもので、法然(1133−1212)は30数年間この寺を本拠として称名念仏活動をした。
親鸞もここに通い浄土真実の教えを聞いた。法然はこの後四国に流されることになり寺は荒れたが、その後復興されて現在に到る。
慈円もこの寺で活躍した。
 

参考系図

1)法然上人・証空上人 2)熊谷直実 3)久下氏 
4)宇都宮氏 
 

4)系図解説
法然上人系図
@法然上人は、美作国(現岡山県)の出身。
A父漆間(うるま)時国,母秦氏女「清刀自」の長男として産まれた。(幼名:勢至丸)
B漆間氏は、元々宇佐八幡宮の神官の系統である辛島氏の流れである漆島氏の出である。
C漆島元邦の時(延喜年間)美作に来住。その長男が「立石氏」を名乗り、美作立石氏となり武士として室町時代までこの地で地頭的存在であった。
D元邦の二男が漆間氏を称し、やはり武士であった。法然の父時国は、国司の役人であり法然が9才の時管轄地域の荘園の所有者である明石定明によって殺された。その臨終の際に、「決して復讐をしてはならない」という言葉を残し、これが仏道にはいるきっかけとなったとされている。
E宇留島、漆島、漆間は同じ一族の呼び名と思われる。
F宇佐八幡宮の神官としては、宇佐氏(天孫系?一番古い?)辛島氏(新羅系渡来人?)大神氏(出雲系・大三輪氏系?)の3家があり、複雑に絡み合ってきた歴史がある。
 
証空上人系図
@証空は、村上天皇に始まる村上源氏の本流,内大臣源雅通の息子「土御門通親」(源通親、久我通親)の養子である。通親は、後鳥羽天皇の乳母であった藤原範子を側室として迎え、その連れ娘である「在子」を後鳥羽天皇の妃とし、土御門天皇の外戚となった。後鳥羽院の内大臣となり、関白九条兼実との権力争いに勝ち、朝廷内の実力ナンバーワンになり、息子「通光」は、後嵯峨院の太政大臣になった。源頼朝も通親と手を組まざるをえなくなったと言われている。
A実の父は、源親季である。親季も村上源氏であり、加賀権守であった。
B通親の実子、曹洞宗の祖・道元とは義理の兄弟。
C後鳥羽天皇の妃、土御門天皇の母「在子」も通親の養女である。よって証空とは、
義理義理の姉弟である。また土御門天皇の子供である後嵯峨天皇とも非常に近い関係である。
D土御門家は、久我家であり、乙訓郡久我郷が本拠地である。
以上より、証空ー道元(誕生寺:久我)ー在子(金原寺ー土御門御陵)総て乙訓の地が関係している。お互いに年齢も近く深く関わったと筆者は睨んでいる。

熊谷氏系図
@熊谷直実の出自に関しては諸説あり、どれが本当か筆者には分からぬ。但し父方についてはどの説も一致している。即ち桓武平氏高望王流国香流れの平盛方の孫である。
A即ち坂東平氏である。平国香流は嫡流とされこの流れから平清盛が出る。
B平盛方は、平直方の流れで後の北条時政らと同じ庶流になる。
C父直貞が、古族武蔵七党の一つ丹党熊谷氏の養子になったので熊谷姓になったとの説。
D父直貞が、私市党熊谷氏の養子になった説。
E叔父久下直光との領地争い。これが直実の出家の原因だったとの説
F直実の子孫は、安芸国、奥州、近江などに転出し武家として存続した。

久下氏系図
@久下直光の出自についても諸説ある。平盛方の子説。武蔵七党私市党久下氏説。
丹波久下系図では、清和源氏久下氏説もあり、複雑。
A直光と熊谷直実は、叔父甥の関係であることは間違いなさそうである。それが父方の関係か母方の関係かで微妙に歴史認識が変わってくる。
B熊谷直実は、幼い時には、直光に養われていたらしい。直光も熊谷の地に領地を持っていた。
直実は若いとき直光の代理として京都警護役に出てきたおり、平家との繋がりが生じた。
源頼朝挙兵時は、平家方についた。直光は当初より源氏方についており、直実と争いとなる。
その後直実は、源氏方に変わるが、叔父甥の間柄は、同じ熊谷の領地の境界問題で争いが続いた。
直実は源平合戦で功を挙げたが、直光は、たいした功を挙げなかった。
戦後、直実は叔父との領地争いの調停を頼朝に頼んだが、結果は、直光側の勝ちとなった。
直実としてみれば、合戦の功がある自分に有利に調停が下りると思っていた。
これにより鎌倉を出奔し、京都に上り、法然の基で出家したとのこと。
C久下氏も武家として存続した。

宇都宮氏系図
@宇都宮氏は、藤原北家兼家流の関東武家である。(異説も多い)
A頼綱が有名。頼綱は、武士としての活躍と、文化人としての側面を有する。
B坂東武士と、京都公家との接点的役割を演じた氏族である。
C頼綱は、鎌倉武士 北条時政や梶原景時らの娘を嫁とし、その間に産まれた娘を藤原定家の息子為家に嫁がせ、和歌の道のパトロン的役割も演じた。
古今伝授にも関わっていたらしい。また別の娘を三条実房(藤原北家閑院流嫡流三条実行の嫡孫)の室にもして、公家との関係強化した。
D頼綱は、熊谷直実との交流により「証空」に師事。直実と同じ「蓮生」の法名を受けた。証空の経済的なパトロンと言われた。
E武家宇都宮氏は、その後も豊臣時代まで存続する。