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乙訓寺
 乙訓寺は長岡京市今里3−14−7にある。乙訓地方に現存する最古の寺である。
阪急「長岡天神」駅より北へ徒歩で約20分程である。
「おとくに」という地名発祥の地とされる井ノ内の角宮神社から徒歩で
約10分程南にあり、継体天皇の「弟国宮」跡もこの付近だと言われている。
郡名寺院として格式の高い寺であった。     写真をクリックするとアルバムへ
<概要>
・推古天皇の勅願により聖徳太子が創建。(寺伝)推古朝;592−628年
長岡京市史では672年天武天皇頃創建?
・瓦窯跡。
●記録上の初見;785年早良親王の幽閉の記事。(藤原種継の暗殺事件)
●811年嵯峨天皇の命により空海が別当に任命されて存住した。
この頃の境内:東西3町、南北2町
・本尊:合体大師(秘仏、33年に1回開帳)
・毘沙門天像(重文:平安時代後期)
・十一面観音菩薩立像(鎌倉時代)
・別名:今里の弘法さん  「牡丹の寺」昭和初期より長谷寺との縁により現在30種
2,000株
・密柑の言い伝え:弘法大師が嵯峨天皇に献上(性霊集)
・洛西観音霊場第6番札所。
宇多天皇(867−931)の行宮として乙訓寺は「法皇寺」と呼ばれることになる
(899年以降)その後法皇寺は、今熊野日吉町付近に移り足利義満が
南禅寺僧伯英(?−1403)に命じて禅宗寺院として南禅寺に付属させた。
乙訓寺が何時まで法皇寺と称されたか?1614年には未だ今里村法皇寺と呼ばれていたらしい。
1694年時は乙訓寺となっている。(長岡京市史) 899−1693年の間は
法皇寺と呼称されてたと思われる。
(私見)即ち真言宗乙訓寺ではなかった。
・応仁の乱(1467−1477)永禄年間(1558−70)の兵火や織田信長(1534−1582)の戦火などによる 焼失により衰退。
●1693年徳川綱吉(1646−1709)と母桂昌院による支援再興。 綱吉:500両、桂昌院:300両側用人牧野成貞:100両
真言宗「乙訓寺」に戻った。
・宗派;創建時?ー> 真言宗ー> 禅宗(臨済宗)ー> 現在;真言宗長谷寺末寺。
 
 
<関係人物>
 
<空海>(774−835)年表参照。
・父;佐伯直田公 母;阿刀氏阿古屋姫 讃岐国多度郡弘田郷生まれ。
・弟;真雅(弟子) 甥;智泉(弟子) 真然(金剛峰寺2世)              
智証大師円珍(天台座主;長法寺の項参照)。
・別名;弘法大師、遍照金剛
・遣唐使。
・真言宗宗祖。密教の金剛界、胎蔵界両方の秘法を日本に伝える。
・十大弟子;真済 真雅(弟) 実恵(一族) 道雄(一族)* 円明 真如 杲隣  
泰範 智泉(甥) 忠延
*海印寺開祖。(寂照院の項参照)
・811年乙訓寺別当に任命される。この寺に約2年弱存住。
最澄とも初めてこの寺で会う。
・高野山金剛峰寺、東寺 開基。
・天台宗開祖最澄と並び平安初期の最大の宗教家。
 
 
桂昌院お玉(1627−1706)
・父京都堀川の八百屋仁右衛門の次女。幼名お玉。
・父は二条関白の家司である本庄家と交流があった。
善峯寺の観音様、薬師様を信仰し頻繁にお参りしていた。
・父の死後、母とお玉は善峰寺に約2年半奉仕
母は、本庄太郎兵衛宗正(宗利とも言われる)のもとへお玉を連れて奉公、
母は宗正の後妻となった。宗正はお玉の義父となった。
・その後お玉は徳川家光の愛妾「お万の方」(公家六条家の出)と二条家につながりがあったため、お万の方の侍女となるため江戸へ下った。
・18才の時家光の側室に加わった。20才の時徳松(後の五代将軍綱吉)を産んだ。
・1661年(26才)家光没。尼となり、桂昌院と称し、綱吉と一緒に江戸藩邸住む。
・1680年(54才)綱吉将軍となる。江戸城三の丸居。
・大奥での力絶大となる。1702年(76才)従一位に叙せられた。
・1706年79才で没。芝増上寺に葬られた。
●桂昌院は、善峰寺をはじめ応仁の乱で焼き払われ、再建不可能と云われた
数々の大寺院の復興事業や寺院建立など、後世に多くの仏教遺産を残した。
乙訓寺も同時期(1694年;市史)に桂昌院の支援により徳川家の祈祷寺として再建された。
この時の乙訓寺住職が「隆光」*である。あの有名な「生類憐れみの法」の元となった人物である。
<隆光>(1649−1724)
@大和国添上郡二条(奈良)出身。
A父;河辺氏。蘇我氏一族川辺朝臣の子孫?
B徳川綱吉近侍の僧侶。幼くして母を亡くし、1659年唐招提寺入門。
高野山、法隆寺、醍醐寺などで修行。顕密奥義習得。
C1686年桂昌院が帰依する僧亮賢の紹介で湯島知足院に入る。
D1688年知足院を江戸城鬼門に当たる神田橋門外に移転。
護持院と改称しその開山となる。
E1692年京都文殊院屋敷(自分が将軍家から拝領した寺)を
乙訓寺替え地として南禅寺に寄付。乙訓寺建立を願い出る
(市史)
F1694年乙訓寺再建。真言宗に戻った。
G1695年真言宗新義派初の大僧正となる。
H1696年隆光大僧正が乙訓寺縁起を執筆(市史)
I1705年乙訓寺法度制定。(市史)
I1707年神田駿河台に成満院創建。
●綱吉の世継誕生の加持祈祷に関わり、動物の殺生禁断を提案したとされる。
これが悪名高い「生類憐れみの令」につながったとされる
1709年綱吉死後、江戸城への出入り禁止される。大和国超昇寺に隠退。
1724年75才で没。墓所;乙訓寺(要確認)?筆者調査したがそれらしき物無し。

 
(参考事項)
継体天皇の弟国の宮(518年;長岡京市史。)跡について。
 日本書紀では継体天皇が507年樟葉宮で即位し、筒城宮に遷りそこから
518年弟国の宮に遷ると記述あり
前2者はその宮跡比定地があるが、弟国宮の宮跡比定地は未だ確定されてない。
その推定場所については諸説あるが現在一番可能性の高い場所とされているのが、
乙訓寺付近とされている。
特に現在の第3小学校グランドー赤根神社付近ではないかとされている。
(例;中村 修著「乙訓の原像」に諸説記述あり)
この井ノ内、今里地域は乙訓郡の中でも最も古くから人が住み、
かつ乙訓寺付近は古くから聖なる所とされていた模様。
そこに大王の宮を造り、またその跡に聖なるお寺を造ったと推定するのは、理にかなっている。
また、確定は未だ出来ないが、今までの遺跡発掘調査でも普通サイズよりはるかに大きい掘っ立て柱跡が幾つか見つかっているようである。
さらなる調査でこれらが乙訓寺の講堂など寺に由来するものより年代が古く、
かつ弥生時代のものではないとされれば、それこそ継体天皇宮跡と確定され、
日本書紀の記述の裏付けがとれたことになるであろう。となると、現在、史実的に存在確認出来る日本の大王の最初が継体天皇とされている訳であるから、
その初代大王の都があった証拠場所となる。
当然歴史的に非常に重要な発見と確認がされる訳である。
これは長岡京跡発見に優るとも劣らぬ快挙となろう。
関係する発掘考古学者にとっては、たまらない喜びとなろう。しかし、責任のある諸先生方は軽々にそうだとは認定しないだろう。慎重の上にも慎重さがいる。
長岡京市埋蔵文化センターの研究者はじめ関係者の今後の活躍を期待すると共に、
我々アマチュア古代史ファンにとっては楽しみである。
参考)樟葉宮跡比定地;枚方市交野天神末社貴船神社付近
   筒城宮跡比定地;京田辺市多々羅都谷(現同志社大学田辺キャンパス内)
<継体天皇>(450−534)
@父;彦主人王(応神天皇4世孫)母;振媛(垂仁天皇7世孫)
A袁本杼命、男大迹(おおおど)后;手白香皇女(仁賢天皇女) 妃;尾張目子媛
B父は滋賀県高島郡付近に居住。母は福井県坂井郡三国町に居住。
継体誕生後間もなく父がなくなり母は三国に継体を連れて帰ったとされる。
三国町三国神社が育成地。
C系図は上宮記逸文でたどれるが、疑問も多いとされている。
息長氏との関係が強かった模様。
大和政権内部で大王に相応しい後継者がいなくなり、大伴金村らの豪族の後ろ盾
のもと大王に擁立されたとされるが、これにも諸説ある。
D507年河内の樟葉宮で即位。山城筒城宮、さらに518年に山城弟国宮を経て
526年磐余玉穂宮に入ったとされる。
E現在の天皇家へと繋がる実存がほぼ確認出来る最初の天皇とされている。
これ以前の大王は実存性、血統の繋がりなどの点で記紀の記述に色々問題がある
とされている。
皇后手白香媛は仁賢天皇の娘であり入り婿として、それ以前の大王家と血は繋がっているとされているが、これより前は現在の日本史ではどの本もぼかしている。
記紀でははっきり記されているが、今後の研究がいるところであろう。
古代史として面白いのは、むしろ継体天皇以前である。
F子供 安閑天皇、宣化天皇は天皇在位に疑問ありとされている。間違いない次ぎの天皇は欽明天皇である。これ以降万世一系の天皇家が保たれたと言われている。
G陵墓;宮内庁「太田茶臼山古墳」茨木市太田3丁目
    最近学者説「今城塚古墳」高槻市
 
空海(774−835)年表
西暦   空海関連記事                       一般記事
774 讃岐国多度郡(現在の善通寺付近)で誕生。
    父、多度郡郡司佐伯直田公、母、阿刀氏。
778                                 最澄12才で出家。
780                                 最澄得度。
781                                 桓武天皇即位。
784                                 長岡京遷都。
785                                 最澄比叡山に草庵を構える
                                    早良親王廃太子。
788 長岡京に出てきて母方叔父阿刀大足について論語
    などを学ぶ。叔父は桓武皇子伊予親王の家庭教師。
791 大学入学。
793 この頃虚空蔵求聞持法に出会い、大学を去り、                   
    私度僧として山林修行に入る。
    吉野金峰山、四国石鎚山など。
794                                 平安遷都
797 「 三教指帰」著す。                     最澄内供。
803 遣唐大使「藤原葛野麿」嵐で帰還。空海名前なし。
804 得度。東大寺戒壇院で具足戒を受ける。
    留学僧として葛野麿大使の遣唐使に選任される。  最澄も遣唐使となる。
805 西明寺。青龍寺に恵果和尚を訪ねる。         最澄帰途。
    免許皆伝となり「遍照金剛」名を授かる。
    恵果和尚没(60才)
806 帰朝。九州太宰府に一年間以上滞在。         天台宗公認。
                                    桓武天皇没。
                                    平城天皇即位。
 
807 千手千眼観音像信仰。 観世音寺。和泉国へ     伊予親王の変。
809 京都に入り高雄山寺に居。最澄との交流始め。    嵯峨天皇即位。
810 公的修法初例。                       薬子の変鎮圧。
811 乙訓寺の別当に任命され、修理造営。早良親王の
    怨霊鎮魂の為との説あり。
812 最澄が乙訓寺の空海訪問
    乙訓寺の柑橘を自ら摘んで嵯峨天皇に献上
    京都高雄山寺(神護寺)に帰る。最澄に胎蔵界伝授。
813 この頃から最澄との関係悪化。とされる。
816 修禅道場として高野山の下賜上表文。
    (この年を金剛峰寺開創とする)
819 高野山伽藍建立。
822                                   最澄没
823 東寺下賜される。                       淳和天皇即位。
824 真言宗公認。
827 綜芸種智院開設(藤原三守の九条第譲渡)
833 高野山金剛峰寺を弟子真然(甥)にまかせる。     仁明天皇即位。
835 金剛峰寺が定額寺として認められた。
    高野山で没
866                                 最澄に「伝教大師」号を賜る
907 「弘法大師」名を賜る。(921年説もある)
空海関係系図 早良親王関係系図 徳川綱吉関係系図
 継体天皇関係系図 聖徳太子関係系図
  を下記に示す。
 
 
 
<系図解説>
1)空海関係
@空海は、古代豪族「大伴氏」から分流した佐伯氏の末裔で讃岐国多度津の郡司
をしていた佐伯田公の子供で「真魚」と呼ばれていた。
A貴族大伴氏の流れに有名な「大伴旅人・家持」父子などがいる。
また武人として歴史に登場する「佐伯毛人」などは佐伯氏でも別流である。
B空海の妹の子(空海の姪の子説もある)とされている円珍こそ智証大師である。
天台座主であり、長法寺創建者。
弟「真稚」甥「智泉」などは空海の高弟として空海の布教活動などを助けた。
空海が真言密教を全国的に順調に展開出来たのは、活動の重要ポジションを
これら身内で固めた信頼関係が裏にあったからだとも言われている。
奥海寺の創建者と言われている「道雄僧都」も空海の十大弟子の一人で
空海一族の出身者とのことである。
C空海の母「阿古屋御前」は、古代豪族物部氏の分流とされる、阿刀氏の末裔
阿刀真足の娘である。
この兄又は弟に伊予親王(桓武天皇の皇子)の家庭教師をしたとされる
阿刀大足という人物がいる。
桓武天皇が長岡京に遷都した時、阿刀大足も長岡京に移っている。
空海は、この叔父を頼って讃岐から上京したとの説あり(空海年表参照)。
となると空海と乙訓郡、乙訓寺、との関係は若い頃からあったものと推定される。
2)早良親王関係
@早良親王と桓武天皇は同腹兄弟である。
A父光仁天皇は、天智天皇の血を引く天皇で皇后は、天武天皇系の聖武天皇の娘
井上内親王であった。
この間には他戸親王(皇太子)という本来ならば桓武天皇より格上の親王が既にあった。
しかし、当時朝廷を牛耳っていた藤原式家を中心とした勢力は、
再び天皇が天武系に戻ることを嫌い(恐れ)謀により、皇后、皇太子共に
自害させた(一説には殺した)。
これにより、天皇は桓武天皇となった。
B藤原種継の系図も併せ記したが、種継は、式家で秦氏の娘を母としている。
長岡京建設の中心人物であった。その娘が「薬子の乱」で有名な薬子である。
C桓武天皇擁立の中心人物、式家の藤原百川の娘旅子が桓武天皇の妃
となっている。この間に生まれたのが淳和天皇である。
D桓武天皇の皇后は同じく式家出身の「乙牟漏」である。
この間に平城天皇と嵯峨天皇が生まれている。
E早良親王は皇太弟になって、本来なら桓武天皇の次ぎの天皇になる位置にいた。
しかし、藤原式家にとっては、これはまずい訳である。なんとしても式家の血を引く
桓武天皇の皇子に天皇になってもらいたかった訳である。
F種継暗殺は、政権から離された大伴氏側の反乱行為とされているが、
それに早良親王が荷担したとして流罪にしたのは、藤原式家側の策略
であったであろうとされている。
G藤原式家は間もなく没落し、北家が台頭し、摂関政治を思うがままにする時代になる。
3)徳川綱吉関係
@綱吉は3代将軍家光と京都八百屋仁左衛門の娘桂昌院お玉の方の間に
4男として生まれた。
A家光は織田信長の妹「お市」と浅井長政との間に生まれた「お江」と2代将軍秀忠との間に次男として生まれた嫡子である。
B家光には側室として、京都公家六条家の娘永光院満子(元は伊勢山田尼寺慶光院の住持)がいた。(通称お万の方である)。
お玉は京都の六条家との関係があり、(義父本庄宗利は二条家の臣であった。二条家と六条家は親族)その縁で満子の侍女として江戸城に上った。
これを家光に認められ側室となり、綱吉を生んだ。
家光の正室は、鷹司関白信房女孝子であり、側室がお玉を入れ9名いたとされる。
C綱吉の別腹の長兄4代将軍家綱には世継ぎが無く、綱吉が5代将軍となった。
D綱吉の娘「鶴姫」(唯一人の実子)が細川忠興の流れを引く織田家に養子に入った織田信教に嫁いでいる。細川家の作戦であろう。
E綱吉には残念ながら世継ぎが生まれず、
6代将軍は、綱吉の別腹の次兄甲府の「綱重」の長男家宣がなり、
その3男家継が7代将軍となったが、8才で亡くなり、(ここで嫡流は絶える)
8代将軍は紀伊徳川家から、4男、吉宗が登場して以後この流れが将軍となった。

4)継体天皇関係
@継体天皇の系図は謎である。
この系図は、記紀系図に上宮記逸文に残されていた系図をつなぎ合わせたものである。
現在これが通説となっている。
A継体天皇は記紀の正規王朝24仁賢天皇の娘手白香皇女に入り婿した形
なので27安閑天皇28宣化天皇は継体天皇と尾張目子媛との子供であり、
血筋的に問題有り。とされよって29欽明天皇こそ正統であるとして、この辺りの
世継ぎ問題は現在でも不明な点多し。
Bいずれにせよ継体天皇以前は、大王といわれる人物は、存在してたことは
間違いないが、記紀の記述には信憑性に欠ける点多しとして、現在の史学会では、
はっきりしたことは言わない事になっているらしい。
多くの古墳などの発掘調査が進めばすっきりするかもしれない。
欽明天皇以降は大筋では、記紀の記述通りの系図らしい。
現在の天皇家は間違いなく継体天皇の末裔である。
5)聖徳太子ー推古天皇関係
@聖徳太子は、31用明天皇と29欽明天皇と蘇我稲目娘小姉君との間に生まれた
穴穂部間人皇女との間に生まれた。
A推古天皇は、29欽明天皇と蘇我稲目娘堅塩姫との間に生まれ31用明天皇とは
同腹兄妹である。
Bよって、聖徳太子は推古天皇とは、叔母ー甥の関係であった。
父母共に蘇我氏の血が濃厚に流れている。
C聖徳太子には多くの妃がおり、多数の子供があった。
その中でも蘇我馬古娘との間に生まれた山背大兄王は、次期天皇候補の一人
であったが、蘇我氏により討ち滅ぼされた。
この時一族総てが自害して果てて、聖徳太子の血筋が絶たれたと言われている。
D33推古天皇は、腹違いの兄30敏達天皇の皇后となった。
この敏達天皇は、蘇我氏の血が入ってなく、蘇我氏の血の入らない34舒明天皇、
蘇我氏の血が薄い35皇極天皇(37斉明天皇)、その同腹弟の36孝徳天皇、
と続き遂に天智天皇、天武天皇に繋がった。
E聖徳太子・推古天皇時代は正に蘇我氏全盛の時であり、
朝廷政治は総て蘇我氏の意のままになっていた。
聖徳太子はその蘇我氏と一歩距離を置こうとした。
しかし、太子没後その蘇我氏により一族壊滅された訳である。
Fその栄華を極めた蘇我氏も、蘇我氏の血筋の入っていない
中大兄皇子(天智天皇)・藤原鎌足らの手によって滅ぼされる訳である。
ここに、藤原氏台頭の芽があったのである。

<参考文献>
・「長岡京市の史跡を訪ねて」 長岡京市ふるさとガイドの会(2004年)
・「長岡京市史」 長岡京市市史編纂室編(1991年)
など