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長岡天満宮
 長岡天満宮は、京都府長岡京市2丁目15−13にある。
阪急「長岡天神」駅西口より徒歩10分程の距離にある。
全国に10,000社以上あると言われる「天神さん」のなかでも特に由緒のある
天神さんとして多くの人々に親しまれている。
 その歴史、関係人物について調査した結果を記す。写真クリックでアルバムへ
祭神;菅原道真
・この地(山城国乙訓郡開田村)は元々道真の所領だった。
在原業平との交流の場でもあったとの言い伝え。
・別名:見返り天神。
・道真が太宰府に下向するとき,この地に立ち寄り名残を惜しんだ所。
「我が魂長くこの地にとどまるべし」
乙訓郡開田村の中小路宗則、西小路祐仲、東小路祐房の三人がお供した。
別れの時自分の姿を自分で彫った6センチ余りの木像を3人に贈り名残を惜しんだ。
この木像をご神体として祀ったのが創建のきっかけであるとされる。(社伝)
記録に残された長岡天満宮関係記事。
元々、「開田天満天神社」は、開田村の氏神として、乙訓郡開田村西小路集落内
(限定は困難)にあった。(長岡京市教育委員会 百地氏談)
・1498年開田天満宮造立棟札に中小路氏の名が見える(市史)
   ーーーこの時には間違いなく天神社がこの地にあった。ーーー
・1619年板倉勝重が開田村の八条宮領栗林への立ち入り禁止札発行。(市史)
  ーーーこの頃既に八条宮領が開田村にあった。
・1623年この頃天神山に開田天神遷座(市史)
・八条の宮家別荘;1617年頃長岡天満宮境内にあったとされる?。これが「長岡茶屋」
・1637年八条宮家領天神山記事。(市史)
・1638年八条宮智忠親王(妻は前田利家の孫;石の太鼓橋の寄進は
前田候と伝えられるは、この縁か?)により八条が池
(この名称は明治以降につけられた)造る。
・1676年開田天神の本社・末社が八条宮家により造営。(市史)
・現在の本殿;1941年平安神宮本殿移設
<質問事項>
・開田天神はいつ頃祀られたのか?
  901年説もあるがこれは疑問。
ーーー鎌倉時代の文書には開田天満天神の名前あり。
・6センチばかりの木像は現存してるのか?ーーー不明
・八条宮が開田村を領地にしたのは何時か?


霊元上皇による元禄の再興。
 祝詞師:石原氏 宮仲間:中小路氏 システム構築。

関係人物
八条宮智仁親王(1579−1629)
@父;誠仁親王(正親町天皇皇子)母;勧修寺晴子
A第6子。兄;後陽成天皇 豊臣秀吉の養子。淀君に秀吉の実子秀頼誕生により、
養子解消し八条宮家創立(1590年)この時3,000石の領地をもらう。この中に乙訓郡
開田村(天神山)の旧細川氏の領地も含まれたのか?(この時ではなさそうである)
B徳川和子の後水尾天皇入内に朝廷側の推進者となる。
C1600年細川幽斎から古今伝授を受け後水尾天皇に進講し、宮中伝授の初めとなる。
D1596−1615桂離宮を営んだ。
E八条宮、桂宮家の祖。
古今伝授の間>現存地;熊本市水前寺公園内 熊本県指定重要文化財
由来(ガイド資料;勝龍寺城の項参照)
・1572年ころから数年かかって三条西実枝(さねき)から幽斎は古今伝授を受ける
(勝竜寺城で)
・1590年八条宮家創建。
・1600年3月京都今出川八条宮邸内学問所で細川幽斎から古今伝授開始。
巻20以下を残して中断。
・6月細川忠興らは徳川家康に従い上杉景勝攻めに京都を出発。幽斎は丹後に帰った。
・7月細川ガラシャ自害。幽斎は丹後田辺城に籠城し、西軍15,000人と戦う。
八条宮智仁は、幽斎が死ねば古今伝授が絶えることを心配し、和睦開城の使者を派遣、
幽斎は、これを謝絶。古今伝授の箱、相伝証明状を使者に託す。
・9月後陽成天皇からの勅使。幽斎は城を明け渡し高野山へ登った。
関ヶ原合戦の2日前。
・八条宮家2代智忠親王の時細川家の旧領地であった長岡天満宮境内に
上記学問所は移築され、長岡茶室と呼ばれた。
年代不明であるが1661年に八条邸は焼失しているので、それ以前である。
・その後上記茶室は幕末まで境内にあり、八条宮は桂宮となり、明治維新にあたり、
桂宮家は細川家ゆかりの茶室を細川家に下賜した。
細川家は、建物を解体し、大坂の蔵屋敷に保存。その後出入りの商人に給与。
明治44年その商人から細川家に寄付があり大正元年(1912)に熊本水前寺公園内
に移築復元された。
・古今伝授の間と呼ばれその杉戸の「雲龍」は狩野永徳。
襖の「竹林七賢」は海北友松作と伝えられている。
菅原道真(845−903)
@父;是善(ー880) 母;少納言伴氏女
A菅原氏は野見宿禰に始まる土師氏の流れを引く古族である。
桓武天皇の母高野新笠が土師氏の出であり、その関係で大枝氏とともに曾祖父の時、
新たに菅原姓を賜った。
B872年父是善は、参議となった。
C宇多天皇(867−931)にその実力が認められた。893年参議となる。
C899年醍醐天皇(885−930)の時、遂に右大臣に就任
D901年菅原氏の台頭を快く思わなかった左大臣藤原時平(871−909)の
「道真は娘婿斎世親王を天皇にしようと企んでいる」という讒言により、
太宰府に左遷された。
E903年太宰府で悲しみの中没。
Fその後都で起こった数々の、凶事、事象に対し「道真怨霊説」が生まれ、
その生前での事績、人徳を朝廷自身も認め正一位太政大臣まで追贈した。
また北野天満宮をはじめ、全国に道真を祀る天満宮が建立された。
(参考)
天満宮の社号の由来 (藤井較一氏記 など参考)
・菅原道真の死後朝廷から道真に神号が贈られた。それが「天満大自在天神」である。
即ち道真の別名であり、固有名詞である。よって正式には天満宮は、
祭神「天満大自在天神」を祀ったお宮である。
・この神号の起源は「菅家御伝記」(道真5代の孫・陳経の著)にみえるのが
最も早いとされている。
ーーー延喜五年(905年)八月十九日、味酒安行依神託、立神殿称日天満大自在天ーー
味酒安行(うまさけのやすゆき)が神託により、神殿を建て、称していわく、
「天満大自在天」ーーー
・「天満」とは「天満宮託宣記」にある、道真の「瞋恚(しんに)の焔
ーーーはげしいいかりーーー天に満ちたり」という託宣に由来するといわれ、
天神とは人々に災禍を与える荒ぶる神の総称で、道真の怨霊を畏怖した神号として
敷衍(ふえん)されたといわれている。
・大自在天とは、仏教の方の神様(仏様)の名前、弁財天、聖天様などと同類。
白牛に乗った神様らしい。バラモン教の天地創造の最高神シバ神が仏教に帰依して
天部の神となったと言われている。創造と破壊を司る。
邪悪な存在には、憤怒の形相で破壊してしまう。
道真は、死後天にのぼって天満大自在天となり、宇宙全体に充満し(天に満ちて)
16万余の部下を率いて、その怨みを報ずるために、風水害・疫病などのあらゆる災害
を行うものであると思われた。
・よって菅原道真公の神号は、神仏習合の名前である。
・北野は古くから平安京の聖地で雷神を祀っていたところ。
そこに天満大自在天となった道真を祀った。当初は、道真の霊をなぐさめるため。
次ぎに人々に災厄からの守神として信仰されるようになったのは平安末期から。
無実の罪から救ってくれる神。学問の神となるのは江戸時代からのようである。
・現在では「天の神の徳を自在に示す神」と解釈されているようである。
・「天神」とは、元々は地祇(土着の神:出雲系の神々)に対し
天の神即ち天孫族に随行して高天原から大和の国にやって来た神々をさす言葉。(記紀)
・「天神」は、さらに雷神をさす言葉となり、農業神を表す言葉に転じた。
さらに天神信仰が広まるにつれ菅原道真公を指す言葉となり、学問の神様、
など色々な現世御利益の神と思われるようになったようである。
・天満天神・北野天神、などの表現は、通称である。
菅原道真年表(主に太宰府天満宮資料)
西暦 道真関連記事                一般記事
845 道真誕生
858                        清和天皇即位
859 元服
865                        応天門の変
866                        藤原良房摂政となる。
867 正六位下に叙。下野権少掾
872 父是善参議。                 良房没。基経摂政。
876 長男高視誕生。                陽成天皇即位。
880 父没。                    在原業平没。
884                        光孝天皇即位
886 讃岐守 赴任。
887                        宇多天皇即位。基経関白。
890 国司任終え帰京。
891 蔵人頭                    基経没。
892 三代実録の撰集開始。
893 参議
894 遣唐大使に任じられたがその廃止を提言受理。
895 従三位中納言。
896 娘衍子宇多天皇の女御となる。
897 正三位権大納言                時平大納言。醍醐天皇即位。
899 右大臣                     時平左大臣
900 三善清行道真に辞職勧告。
901 従二位。太宰権帥に左遷。女婿斎世親王出家。   「三代実録」完成
902 正妻没。
903 太宰府で没
904 防府天満宮創建(日本初)(防)
905 味酒安行*、安楽寺に道真の祠廟建立
908 疫病旱魃続く。
909                         藤原時平没 (39才)
919 藤原仲平奉行太宰府天満宮造営(湯)
923 道真本官復す。左遷宣明破棄。         
930                        清涼殿に落雷 朱雀天皇即位
942 道真怨霊多治比文子(道真の乳母説、童女説)                          に宣託。文子天満宮祀る。
946                         村上天皇即位
947 京都北野に道真の祠建つ。孫僧平忠安楽寺別当。
987 北野社祭祀初めて官幣。
993 道真正一位太政大臣追贈。
1004 一条天皇北野社行幸。
 
 *味酒安行(うまさけやすゆき)道真の高弟。道真の墓の上に祠を建て道真を祀った。
 
 下記に菅原道真・八条宮智仁親王関係系図を示す。
 
 
<系図解説>
1)菅原氏関係
@菅原氏は、野見宿禰を元祖とする出雲氏系の流れである。土師氏も同流。
A桓武天皇の時代に、桓武天皇の母「高野新笠」が山城国大枝にいた土師氏の
娘「土師真妹」の娘であった関係から、この流れの一族に賜姓がされた。
「大枝氏、大江氏、菅原氏」などである。
B最初の菅原氏は、菅原古人である。
C古人の孫が是善でありその子が「菅原道真」である。
D道真の娘衍子が宇多天皇の妃となった。
E宇多天皇の子供が醍醐天皇である。
F醍醐天皇の弟に斎世親王がいる。この親王の妃に道真の娘清子がなった。
Gこの天皇家と菅原氏との密な関係を藤原時平が、藤原氏の基盤を揺るがすゆゆしき
ことと思い、醍醐天皇に讒言し、道真が太宰府に流される原因となった訳である。
H道真の子供は沢山おり、その流れから「更級日記」の著者「菅原孝標女」がいる。
この孝標女の伯母にあたるのが「蜻蛉日記」の作者藤原道綱女(道綱母が正しい)である。
本系図には示さなかったが、孝標の妻藤原倫寧女(藤原北家長良流)の姉が
藤原道綱母である。
また江戸時代活躍する「柳生氏」も道真の後裔とされている。
2)八条宮智仁親王関係
@子供智忠親王の室が前田利家の孫富子でこの縁で長岡天神の池の立派な石の橋
が前田家から寄贈された。
Aこの後八条宮家は桂宮家、京極宮家と名前が変わっていく。
Bその宮家の主も後水尾天皇、後西天皇、霊元天皇、光格天皇、仁孝天皇らの子供に
引き継がれて明治を迎える。

<参考文献>
・「長岡京市の史跡を訪ねて」 長岡京市ふるさとガイドの会(2004年)
・「長岡京市史」 長岡京市市史編纂室編(1991年)
など